史上最大の作戦

2014-1030818先日、中四国・近畿地方にひきつづき、東海地方も梅雨入りしたとの気象庁発表がありました。

えっ!?もう?という向きもあるでしょうが、例年だと8日ぐらいが梅雨入りになるようですから、それより数日早い程度で、想定内といえば想定内です。

この「想定内」というのは、2005年の流行語大賞にもなりました。この年の2月、ホリエモンこと、堀江貴文氏が社長を務めるライブドアが、ニッポン放送の株を大量に取得して同社最大株主となり、すわ乗っ取りかと騒がれました。

このため、堀江氏は株取得が報道された直後から当時ニッポン放送の子会社だったフジテレビジョンを出入り禁止になり、出演していた同局の人気番組「平成教育委員会」などからも降板させられましたが、直後の記者会見でこのとき彼が放った言葉が「想定の範囲内」であり、その後、これを略した「想定内」が大流行するようになりました。

この想定内とは、わざわざ説明するまでもありませんが、物事が、事前に予想した範囲の内に収まっていることを指します。無論、反対用語は「想定外」です。

何をもって想定内とするかは、それを予想する時間スパンの要素に加え、その時の状況やその状況に至った経緯、そして想定であるか想定外であるかを判断するための知識量に大きく左右されるわけですが、なんでもかんでも想定内、というような超人はいないはずで、たいていの予想ははずれるものです。

第二次世界大戦中の1944年6月6日に、連合軍によって行われたナチス・ドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦である、ノルマンディー上陸作戦においても、侵攻される側のドイツ軍は、連合軍がどこに上陸するかについての予想を極めることができずに緒戦で敗れ、その後の継戦能力を大きく削がれる事となってしまいました。

この「史上最大の作戦」が決行される前、ドイツは北欧からスペインに至るほとんどの国を占領し、その次の矛先をソ連に向け、ヨーロッパ東部にその主力を置いていました。ところが、このヨーロッパ占領前には、イギリスにも進行しようとした矢先にこれに失敗しており、このためイギリスだけはドイツの魔の手から逃れる形になっていました。

東欧に侵攻しようとするドイツにとっては、イギリスはその背後を脅かす脅威となったわけであり、万一大西洋側からイギリスとアメリカが共同で攻めてくるようなことになると、東部におけるソ連との戦線とともに、二面戦争となり、せっかく手にいれたヨーロッパを失いかねません。

そこで、ドイツはノルウェーから、フランスを通って、スペインに至る長大な海岸線沿いをすべて要塞化しようとし、「大西洋の壁(Atlantic Wall)」と呼ばれる厳重なる防衛体制を構築しようとしました。

「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設の連続で、「ドイツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と、ヒトラーは内外にプロパガンダを発していました

これを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいもので、膨大な量のコンクリート、セメントが集められ、徴用された何万人もの労働者たちが、狂人のヒトラー自身すら「狂信的」と表現するほどの突貫工事を進めました。

しかし、あまりにも膨大な建設資材の必要性に対して、特に鉄鋼材は少量しか入手できなかったため、大規模な大砲陣地などの強力な施設の数は少数にならざるを得ず、フランス軍が独仏国境に構築した要塞などから、設備を取り外して建設を進めることなどを余儀なくされました。

そもそもノルウェー沿岸からスペインにまで達する、5000キロ近い大西洋沿岸すべてを要塞化することが不可能なのは明白だった上に、東部戦線でのソ連軍はなかなか手ごわく、この時期のドイツは明らかに、西部戦線よりも東部戦線の方に力を注がなければならない状況でした。

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にもかかわらず、二面戦争に突入せざるを得ない状況を作ったのは、緒戦でイギリス手痛い敗北を喫したということもありますが、明らかにヒトラーの驕りであるとともに戦略ミスであり、この点、中国大陸以外にも、太平洋南部にまで部隊を次々に展開して兵站を伸ばしすぎ、自滅していった日本とよく似ています。

ドイツ側は、連合国の進行に対して、智将・名将として名高いロンメル将軍をこの西部戦線に投入しましたが、ロンメルは北アフリカで米英と闘った経験から、連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」であり、水際で徹底的に殲滅することしかない、と確信していました。

このため、ロンメルは機甲部隊の海岸近辺への配置を望んでいましたが、ドイツの西部方面軍総司令官ルントシュテットは、内陸部に連合軍をあえて引き込み、連合軍の橋頭堡がまだ固まりきらないうちを狙って撃滅する作戦を支持し、どちらが正しい作戦かを巡って二人は対立しました。

この両者の論争を解決するために、ヒトラーはフランス北部で運用可能な機甲師団6個のうち、3個をロンメルに与え、残りの3個は海岸から離れた位置に温存配備し、ヒトラー直接の承認無しでは運用出来なようにする事で、この作戦の方向性を折衷案のような形をもって決着させました。

この判断は後になって問題になりました。上陸が行われた後、ヒトラーが残りの3個師団の運用許可を出すのに時間がかかり、このため残りの3個師団を有効に活用できなくなったためです。

また、後方に温存されていたため沿岸部に向かって移動する最中に連合軍の戦闘爆撃機などに襲われ移動速度は低下し、移動中に多くの戦車を喪失する結果となりました。

さらに、ドイツ側は、連合国側の陽動作戦に惑わされてしまいました。この上陸作戦にあたっては、イギリス本土基地からフランス側へ飛ばす連合軍戦闘機の航続距離には限りがあり、地理学的にみてもその上陸地点にはあまり選択肢がありませんでした。

このため、上陸地点はギリス本土から距離的に最短であるドーバー海峡の向こうにある、パ・ド・カレー(カレー港)か、これより西方のノルマンディーの2地点に絞り込まれていきました。連合国側としては、ドーバー海峡を挟んで最も短距離のパ・ド・カレーが最適と考えていましたが、当然の事ながらドイツ側もここへの上陸を警戒していました。

このため、色々な議論が戦わされましたが、結局、連合国側は上陸地点としてノルマンディーを選択しました。

ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄かったこともありましたが、ここはフランス国内各地やドイツ本国方面で繰り広げられていた戦闘地からやや離れており、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であるからでした。

しかし、ノルマンディーが最終的に選択されたことをドイツ側に悟られることを恐れた連合軍は、侵攻作戦の目標がパ・ド・カレーであり、また隙あらばドイツ占領下のノルウェーに侵攻する準備が整っているとドイツ軍に思い込ませることにしました。

このため、連合軍は「ボディガード作戦」という大規模な欺瞞作戦を展開しており、この中で、架空のアメリカ軍師団を偽の建物と装備と共に作り、いかにもこの軍隊が、カレーやノルウェー方面に展開し始めているかのような、偽のラジオメッセージをイギリス各地に流し始めました。

更にこの作戦により現実味を持たせるため、その架空軍団の指揮官には当時謹慎中だったパットン将軍が指名されました。

パットン将軍といえば、映画「パットン大戦車軍団」で有名なアメリカの猛将ですが、この当時イタリアのシチリア島での作戦の最中、野戦病院を見舞った際に、まったく外傷のない兵士を見つけ、臆病であるとしてその兵を殴打するという事件を起こしていました。

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実は、この兵士は砲弾神経症(シェル・ショックという)によって精神状態が不安定になっていたために入院していたのですが、一見健康そうな者が重傷者達と一緒に病院のベッドに寝ていることがパットンには我慢がならなかったのです。

運の悪いことに、このとき現場の医師がこの件をアイゼンハワーに報告したため、かねてより癇の強いパットンを疎んじていた司令部は、この事件を報道に流してしまい、「兵士殴打事件」として世に広く知られるようになってしまいました。

この報道ではまた、砲弾神経症がどのようなものについての説明はなされておらず、このためパットンは何もしていない兵士を殴ったという認識が世間では持たれました。

アイゼンハワーはこれを機会にパットンを本国に送還するつもりでしたが、結果的には思いとどまり、前線指揮官の地位を剥奪するにとどめました。パットンはその後自主的に被害にあった兵と現場にいた兵士達に謝罪しましたが、第7軍の指揮を外され、その後カイロで10ヶ月近く待機することとなっていたのです。

しかし、ドイツは側としてはそんな事情はつゆしらず、この架空の部隊の存在にかき回されるようになりました。ドイツはこの当時、イギリス南部の広範囲にスパイ網を持っていたため、実際の上陸地点を知るため盛んに諜報活動を行っており、さかんにこうした情報が本当に正しいかどうかを探ろうとしました。

ところが、不運なことに連合国側に寝返った諜報員が多く、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものでした。さらに連合国側はカレーやノルウェーへの侵攻をドイツ側に信じさせるため、これらの地域のドイツ軍のレーダー施設や軍事施設への攻撃をとくに集中させるようにしました。

ノルマンディーに1トンの爆弾を落とした場合はパ・ド・カレーに2トンの爆弾を落とすと言う具合で、あくまでノルマンディー方面はフェイントであり、パ・ド・カレーが連合軍の主目標であることを印象付けるようにしました。

さらには、北欧により近い、イギリス北部のスコットランドから無線交信を流し、この交信の中で、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としているといった偽の情報を流し、これをドイツのアナリストに認識させるようしむける、と言ったことも行われました。

この作戦は功を奏し、ドイツ軍はこの架空の脅威のため、この地域の部隊をフランスに移動させることができませんでした。

ところが、智将として知られるロンメルはやはりバカではありませんでした。彼は連合軍が上陸するのはノルマンディーに間違いないと考え、着任の後、全力でノルマンディー沿岸の防御施設の構築を推し進めました。

手に入る限りの資材・人員・武器・兵器を全て投入し、その中でも地雷は最も多く投入され、ノルマンディー沿岸の全体に埋められたその数は約600万個以上であったといい、その他にも波打ち際の海中に立てられた杭には機雷をくくりつけ、砂浜に障害物を置き、空挺部隊が降下しそうな地域を増水させ罠を設置するなど出来る限りの備えを施しました。

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このロンメルが施した防衛設備は、のちに実施に移された上陸作戦において連合国側に大きな被害を与えました。とくにもっとも激戦地といわれたオマハ・ビーチでは、2500名とも、4000名とも言われる、多数の死傷者が出ました。

死傷率が一番高かったので「ブラッディ(血まみれの)・オマハ」と呼ばれましたが、その他の上陸地点もこれほどの被害は出なかったとはいえ、大きな人的損傷を受けました。

カナダ軍が上陸した、ジュノー・ビーチではドイツ軍が据えていた20基もの重砲台に直面し、機関銃の巣とトーチカや他のコンクリート堡塁、そしてオマハ・ビーチの二倍の高さの護岸堤に阻まれて、その第一波は、オマハ以外の5つの上陸拠点のうちで最高の50パーセントの死傷者を出しました。

この上陸作戦の決行の日にちを、連合国側は、Dデイ(D-Day)と呼んでいました。このDの由来については諸説ありますが、欧米ではこの当時から漠然とした日付をDayの頭文字をとって“D”とする習慣があったようです。

上陸作戦のDデイは当初1944年6月5日に設定されていましたが、悪天候により延期され、6月6日になりました。のちにノルマンディー上陸作成の実施によって「Dデイ」が一般に広く知れ渡ったため、その後は、各国の軍事作戦立案担当者は作戦開始の日付として「Dデイ」と呼称するのを避けるようになりました。

例えば、ダグラス・マッカーサー元帥指揮によるレイテ島への侵攻作戦は「Aデイ」と呼称され、沖縄侵攻作戦は「Lデイ」と呼ばれました。マッカーサーは九州における日本本土侵攻作戦の開始日を「Xデイ」としていたそうで、そのあと実施する予定であった関東への上陸は「Yデイ」と提案していたそうです。

上述のとおり、当初このDデイは6月5日になる予定でした。ところが、この日ドーバー海峡付近は激しい暴風雨に見舞われていたためアイゼンハワーは作戦期日の1日延期を決定し、Dデイは6日になりました。

このため、6月5日のノルマンディー沖での集結のため4日からすでに出航していた輸送船団は中止の命令を受けて引き返すなどの混乱がありましたが、ドイツ側でもこの悪天候によって判断を狂わされる結果が生み出されました。

ドイツ側は、この天候は9日ころまで回復しないであろうと予想していましたが、これはこのころ既にドイツ軍は大西洋方面の気象観測基地を多く失っていたためだといわれています。

このため、ドイツ軍上層部は、当分連合軍の上陸はないと判定したため幹部の休暇要請の許可まで出しており、ロンメル将軍のほか、海軍総司令官カール・デーニッツをはじめ、西方軍集団情報主任参謀マイヤデトリング大佐、諜報を担当する国家保安本部軍事部長ハンセン大佐も休暇をとっていました。

このように、予報にかけては連合軍が有利であり、6日に既に天候が回復すると観測し、開戦前日の6月5日、ドイツ時間午後9時15分、「秋の歌」第一節の後半「身にしみて ひたぶるに うら悲し」という暗号放送を流しました。

これは「放送された日の夜半から48時間以内に上陸は開始される」との暗号でしたが、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が指揮するドイツの諜報機関、国防軍情報部、通称、アプヴェールはこれを傍受し、直ちに関係する各部隊へ警報を発しました。

実は、連合軍は徹底的に上陸作戦についての情報を秘匿していたにもかかわらず、アプヴェールは、作戦が開始される前兆として、BBC放送がヴェルレーヌの「秋の歌」第一節の前半分が暗号として放送されるという情報をつかんでいました。

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ところが、のちに製作された映画「史上最大の作戦」の原作者であるコーネリアス・ライアンも「謎」と評しているように、不思議なことにドイツの各部隊はこの情報を得ても何も表立った対応をとりませんでした。

西方軍集団司令部参謀長ブルーメントリットなどは「商業ラジオで作戦を予告する軍司令部など、この世にあるはずがない」と、この情報を無視し、他の幹部たちもこの情報を重視しませんでした。ドイツ軍が最も侵攻を恐れていたカレー方面に展開した部隊のみは、すわ侵攻かと備えましたが、ここからも上級司令部に通報は行われませんでした。

かくして「史上最大の作戦」が開始されました。実際には、ノルマンディーへの上陸に先立ち、その前日の6月5日の夜から上陸位置の側面を制圧し、ドイツ軍の反攻を阻止する目的で、ノルマンディー東部においてイギリス・カナダ陸軍空挺部隊の強行着陸・空挺降下による制圧・占領・破壊作戦が実施され、これはトンガ作戦と呼ばれました。

実際に海岸から上陸が開始されたのは、6月6日の午前0時を回ってからで、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始しました。

その規模はまさに、「史上最大」であり、海空からを合わせて47個師団が投入され、その内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団でした。

この「師団」というものの編制については、国や時期、兵科によってかなり異なりますが、21世紀初頭現代の各国陸軍の師団は、2~4個連隊または旅団を基幹として、歩兵、砲兵、工兵等の戦闘兵科及び輜重兵等の後方支援部隊などの諸兵科を連合した6千人から2万人程度の兵員規模になります。

従って、平均して1万3千人が一師団だとすると、全体では60万人規模の作戦であったことになります。また、用意された上陸用舟艇4,000隻といわれ、艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6,000を超える艦艇が投入されました。

さらに1,000機の空挺部隊を運ぶ輸送機を含む12,000機の航空機が上陸を支援し、ドイツ軍に対して投下するために合計5,000トンの爆弾が準備されました。

これに対し、Dデイ当時のフランスには約200個大隊ものドイツ軍兵士が駐留していたといわれており、1大隊の編制は平均的には5~600人ぐらいですから、全体では10万人規模の兵士がいたことになります。

ただ、こうしたドイツ国防軍所属の正規兵以外にも、武装親衛隊が編成した志願兵である「義勇兵」などもおり、その正確な数字はわかりませんが、これを合わせると15万人とも20万人ともいわれるドイツ兵がいたことになります。

もっとも、こうした義勇兵はドイツ語も喋る事が出来ず、訓練の水準も低く武器も古いものしか支給されなかったようで、一部の部隊を除いて士気は総じて低く、連合軍の部隊が近付いただけですぐに降伏してしまう者が多かったといいます。

また、ドイツ軍は、カレー方面への侵攻を連合国側に信じ込ませられていたため、この方面には、4万近くの空軍や海軍兵が駐屯していたものの、残る兵士たちは、長々と続く「大西洋の壁」に分散させられ、拠点毎にはかなり手薄の場所もありました。

しかし、ドイツ人というのは、要塞を作るのが得意な人種で、上述のとおり、ロンメルが連合軍の攻撃をはじき返すために建設した強力な防御施設は実に頑強なものでした。その多くは地下式でコンクリートと鉄骨鉄筋を用いた砲爆撃に耐えられるものであり、襲来してきた敵に対して有利に防衛戦を展開するため、徹底的な設備の隠蔽が行われました。

カムフラージュは厳重を極め、砲台・観測所等は植物・網・擬装民家などで隠蔽され、上陸してきた連合国側は、当初どこから弾が飛んでくるかを判断できず、初戦において大きな被害を出しました。

しかし、この地域のドイツの空軍力は貧弱でした。この時フランス北部沿岸全体に183機しか戦闘機を保有しておらず、しかもそのうち使用可能機はたった160機でした。

これはドイツ本土への空爆に対応させるためと、残り少ない戦闘機を、とりわけ爆撃の激しいフランス北部沿岸で損耗させることを避けるための措置でしたが、ドイツの国防軍最高司令部が海の荒れる6月には連合軍は上陸しないと見ていたのも大きな要因でした。

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このため、6月6日の当初の上陸作戦に対しては、カレーにほど近いリールという場所にあった飛行場から、2機の戦闘機が出撃し、上陸中の連合軍に一回の機銃掃射を加えたのが、ドイツ空軍戦闘機が唯一行った上陸作戦に対する攻撃でした。

それでも、Dデイの翌日には15個以上の飛行隊が可及的速やかに異動され、その結果約300機ほどの戦闘機が西部戦線に配備されました。しかし、それにしても連合軍空軍に比べると明らかに劣勢でした。

その後、戦線が膠着するにつれ、ドイツ空軍は壊滅的状態に陥り、7月に入る頃には170機ほど失い、このため、制空権はドイツ空軍の手に入ることはほとんどありませんでした。この結果、ノルマンディーで散々連合軍の戦闘爆撃機に悩まされる事となったドイツ兵達は「我々の空軍は何処だ?」と嘆く事となりました。

また、ドイツ海軍もこの事態に対処するために動きましたが、圧倒的な連合国の海軍力によって制海権をほとんど得ることができませんでした。この海域にはおよそ50隻のUボートが敵上陸に備え配備されていましたが、いたずらな損耗を避けるため、実戦には投入されませんでした。

しかしもともとドイツ海軍には開戦以前から大型艦は乏しく、しかも1942年にフランスにおいて激しい英軍の空襲からの損耗を避けるため北海へと移動していたため、この侵攻作戦時には、フランスには小艦艇のみが残存するだけでした。

上陸作戦開始当初、ルントシュテットとロンメル両司令官やその他の主要幹部、そして最高司令官のヒトラーは就寝中でした。このとき、不覚にもロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っており、このため直属の装甲師団を指揮することが出来ず、全体としても軍団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来ませんでした。

ヒトラーのいる総統大本営にもノルマンディに連合軍の上陸行動ありと連絡されましたが、これはカレーへの本格上陸のための陽動であると判定され、このため寝起きが強烈に不機嫌なヒトラーは起こされませんでした。

連合軍の作戦範囲があまりに広かったこともあり、どこが実際の上陸地点かを把握するにも手間取り、これを本格上陸と断定できたのは日の出の後であり、ロンメルが連合軍上陸開始の連絡を受けたのはイギリスやアメリカの空挺師団が降下作戦を開始し始めてから、10時間以上も経った、午前10時15分に至ってのことでした。

さらにヒトラーが起床し、作戦会議が開始されたのは正午になってからであり、しかもヒトラーはなおも上陸作戦を主作戦ではないと見ており、第二の上陸作戦を警戒していました。

もしノルマンディーへの上陸が陽動だったとしても今のうちに叩いておかなければ主攻撃が来た時に十分に対応できない、とロンメルやルントシュテットが説明してもヒトラーは耳を貸さず、このため、ドイツ側はノルマンディーへの対処に全力を注ぐことはできませんでした。

上陸後は、連合国も大きな被害を出しましたが、一旦上陸拠点が確保されると、大量の物資や弾丸が毎日陸揚げされ、日に日に連合国側有利の情勢に変わっていきました。その反対に海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は次第に弱体化していきました。

ところが、連合国のうち、米軍空挺部隊は最初から分散して降下するはずではなかったものの、予想を上回る対空砲火のせいで輸送機が分散してしまい、その結果広範囲にわたって降下する羽目になってしまいました。しかし、そのせいでドイツ軍は降下してきた米軍空挺部隊の実数が掴めず対応に苦慮することになってしまいました。

また、上陸が始まった後も連合軍の仕掛けた欺瞞作戦は機能し続け、ドイツ軍上層部はかなり長い間、ノルマンディーへの上陸はカレー上陸を容易にするための陽動作戦ではないかと疑い、カレー方面の兵力を動かすタイミングを逃してしまいました。

ノルマンディーへの上陸作戦を主攻撃だと断定してカレー方面の部隊に移動命令が下った頃にはすでに状況は手遅れでした。ドイツは、6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えましたが、この間に各管区の海岸は全て制圧されていきました。

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連合軍はドイツ軍より急速に前線を強化しつつ内陸部に侵攻し、制空権を握るとともにドイツが利用していたフランスの鉄道網の破壊作戦を展開し、ドイツ軍の移送を停滞させました。

また、ノルマンディーのすぐ西側にはシェルブールという重要軍港がありましたが、ヒトラーはここを連合軍に奪われないよう、死守するよう命じました。しかし、ここの指揮官は6月26日には早々と降伏してしまい、シェルブール港は連合国側の手に落ちました。

これにヒトラーは激怒し、この方面の作戦を指揮していた第7軍司令官フリードリヒ・ドルマン上級大将を叱責。軍法会議を恐れた彼は、心労から心臓発作を起こして死亡しました。が、実際には服毒自殺ではなかったかといわれています。

その後も、ノルマンディーより内陸では激戦が続きましたが、連合軍はさらに内陸へと進撃し、上陸から80日後の、8月25日、ついにパリの解放に成功しました。

全体的に見た場合、この作戦は大成功といえました。連合軍はフランス上陸に成功し、第二戦線を構築した結果ドイツ軍は二正面作戦を展開することを余儀なくされ、東部戦線でもソ連に満足に対応することができなくなりました。

この東部戦線では、ドイツ中央軍集団は壊滅的な打撃を受け占領していた地域のかなりの部分を失い、ドイツは継戦能力を大きく削がれる事となり、ノルマンディー上陸作戦はその後のドイツ敗戦への序章となりました。

ただ、連合国側は、作戦でもかなり重要なポイントとされていた大規模な港湾の確保に手間取ってしまい、作戦の初期段階で奪取するはずだったシェルブール港の侵攻にも時間がかかり、占領時点でも主要な港湾施設はドイツ軍守備隊により完全に破壊されていた結果、この港は8月末まで機能しませんでした。

同じく作戦の初期段階で奪取するはずだったノルマンディー内陸の拠点、カーンも占領に手間取り、連合軍が同市及びその周辺地区を完全占領下に置いたのは7月27日になってからでした。

ドイツ軍の守備の妙もあり連合軍はどの方面でも予定通りに進撃することができず、ノルマンディー以外のフランス解放はかなり遅れ、フランス全土の解放は、1945年1月、イタリア戦線で連合軍がドイツを撃破し、イタリア北部からフランスへの進撃が始まるのを待つこととなりました。

ドイツ側ではこの間、対米英和平に傾いたルントシュテットが7月2日に更迭され、西部方面軍司令官にはギュンター・フォン・クルーゲが就任しました。このクルーゲとロンメルは元々不仲であり、西部方面軍の結束はさらに乱れました。

また、反ヒトラーグループに参加していたシュパイデル参謀長もロンメルに対して対米英和平とヒトラー排除を進言するようになり、ロンメルも対米英和平を唱えるようになっていきましたが、これは後にロンメルが粛清される原因ともなりました。

ロンメルはヒトラーの大のお気に入りでした。ノルマンディー上陸作戦の行われる2年前、ヒトラーは彼のそれまでの戦いを賞賛して元帥に昇進させており、ロンメルは史上最年少のドイツ陸軍元帥となりました。戦争が始まる前は少将に過ぎなかったロンメルでしたが、戦争が始まって3年足らずで4階級も昇進するという前例のない出世をしていました。

ノルマンディー上陸作戦が敢行されたのち、フランス国内では連合国側とドイツは激しい攻防戦を繰り広げていましたが、そんな最中の7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車がイギリス空軍のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院しました。

そのわずか3日後の7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が発生。暗殺は偶然が重なって失敗に終わったものの、首謀者の一人が、自決を図って失敗した際にうわ言のようにロンメルの名を口にしたため、ロンメルのこの計画への関与が疑われました。

そのおよそ3ヶ月後の10月14日、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れたヴィルヘルム・ブルクドルフ中将とエルンスト・マイゼル少将は、ロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自殺するか」の選択を迫りました。

裁判を受けても死刑は免れず粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルはこのとき、「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」とだけ言い、家族の安全を保証させた上で1人自宅の森の中へ入り、2人から与えられた毒をあおり自ら命を絶ちました。

圧倒的な戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄として盛大な国葬が営まれました。しかし、ヒトラーはこの葬儀には参列せず、このときロンメル夫人はこの葬儀でヒットラーの後継ともいわれたゲーリングの敬礼を無視し、「夫を殺した」マイゼル将軍の握手を拒んだといいます。

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生前のロンメルはヒトラー暗殺計画について一切明言しなかったため、関与の有無は不明ですが、戦後、夫人は「エルヴィン(ロンメルのファーストネーム)はヒトラー暗殺計画に反対していた」と主張しました。

実は、ロンメルはその晩年には、反ナチ的な言動を繰り返しており、こうした態度を特に隠そうともせず、この戦争を引き起こしたナチの台頭を苦々しく思っていた節があり、ヒトラーの暗殺計画が失敗したあとに、取り乱したヒトラーの言動や行動を見て「どうやら本当に気が狂ったようだ」と漏らしたりしています。

あるナチス高官は、ロンメルが常々ナチスの犯罪や無能さを批判していたとゲシュタポに証言しており、暗殺には反対していたもののヒトラーを逮捕する事には賛成だったとする説もあるようです。

ロンメルは、連合軍のフランス侵攻に備えるために編成されたドイツ西方総軍を率いるルントシュテット元帥の指揮下に入ったとき、着任早々難攻不落だと大々的に宣伝されていた「大西洋の壁」を視察しています。

しかし、現物を見て、この宣伝が本当に宣伝だけであった現実を見て愕然としたといい、連合軍の上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、自分の部隊が展開していたノルマンディー地方では20%と言う悲惨な状況を見て、とても難攻不落とは言いがたいことを知ります。

その日よりロンメルは精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注しましたが、ロンメルは北アフリカでの経験から連合軍が圧倒的な航空優勢のもとで攻撃を仕掛けてくるという事を理解しており、その圧倒的航空優勢下では反撃のために大規模な部隊展開を行う事が事実上不可能であることを知っていました。

このためロンメルはもし連合軍が攻撃を仕掛けてきた場合は上陸時に水際で徹底的に迎撃する事を主張したのですが、ルントシュテットとの対立により、彼の主張に基づく防衛体制は結局とられませんでした。

ロンメルは、もし上陸がおこなわれたら、その第一日目はドイツ防衛軍にとって「最も長い一日(Der längste Tag)になる」と訴えたそうですが、その一日はドイツにとって果たして長い長いものになりました。

ロンメルは、騎士道溢れる軍人だったそうで、火力で敵を押し込むハード・キルより相手を撹乱する事で降伏に追い込むソフト・キルを好み、捕虜には国際法を遵守して非常に丁重に扱ったといいます。

ロンメル暗殺を企図してイギリスのコマンド部隊がドイツ軍施設を奇襲攻撃するという事件がありましたが、この時にも、イギリス側で出た死者を丁重に扱っており、このコマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたヒトラーの命令を無視したそうです。

また、ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部からは全員を虐殺せよとの命令が下りましたが、ロンメルはその命令書を焼き捨てたといいます。

彼は最後までナチス党に入党する事はなく、あくまで1人の軍人として戦い続けた数少ないドイツ軍人であり、また大隊長であった第一次世界大戦の頃から自ら進んで前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解する事に努めた人でもありました。

本来、高級将校は前線に出ず後方で全般的な指揮を行うものですが、ロンメルはとくに瞬時に変遷する電撃戦などでは「前線で何が起きているか、兵士にさえわからない」と陣頭指揮を旨としました。規律に厳しく兵員を直接に叱責することもありましたが、兵士からは「Unser Vater(我らが親父)」と慕われていたそうです。

ユダヤ人の虐殺などの戦中の残虐な行為や、また敗戦国である事からナチス指導者やほかの多くのドイツ軍人が非難される中、ロンメルだけはドイツのみならず敵国だったイギリスやフランスでも智将として、あるいは人格者として肯定的に評価される事が多かったようです。

北アフリカ戦線でロンメルに苦しめられたイギリスのチャーチルでさえ「ロンメルは神に愛されている」と皮肉にも似た賞賛を残しています。

こうした立派な人物がドイツの指揮を執っていたら、第二次世界大戦は起きなかったかもしれませんが、いつの世にも言われるとおり、歴史には「たられば」はありません。かくしてナチスドイツは、歴史の中に消えていきましたが、ロンメルに代表されるようなドイツ人の良心は、その後のドイツの復興の中で大いに生かされました。

そんなドイツやノルマンディーのあるフランスにも私は行ったことがありません。いつの日かお金を貯めて、ぜひとも彼の地に行ってみたいと思っていますが、いつのことになるでしょうか……

お金持ちのあなたも、ヨーロッパへ旅行する機会があれば、ぜひかつてのこの激戦地へも行ってみてください。

さて、今日も長くなりました。終りにしましょう。

夕暮れの湘南海岸