ネロの亡霊

2014-0054梅雨に入ったとはいえ、陽射しがないわけではなく、昨日に引き続き今日も朝から陽光に恵まれ、これなら洗濯物も乾きそうです。が、湿気はそれなりにあります。

雨の季節だからと暗くなりがちなのですが、このあと真夏に入れば、我慢しがたい暑さに見舞われるわけで、それを考えると、この少し湿った空気の中で緑を楽しむ気分もまた貴重な時間のような気がしてきます。

いやだいやだと思っているものでも、見方を少し変えてみると、あぁこんなにいいものだったのかと目からウロコ的にその評価が変わるもので、例えばどちらかといえば毛嫌いしていた隣人と、ある時深い話をしたのがきっかけで、見方が180度変わる、と言ったことはよくあることです。

人や物事の評価をひとつの側面ばかりだけからしてはいけない、ということはよく言われることですが、何かと評判の悪い歴史上の人物も、よくよくその生涯を見直してみると、評価すべき点が多かったりします。

有名な生類憐れみの令をはじめとし、後世に「悪政」といわれる政治を次々と行ったとされる5代将軍徳川綱吉なども、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、没落した将軍権威の向上に努めるとともに幕府の財政を建て直し、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した名君という評価があります。

また、2000年ほど前のローマ皇帝としてかのヨーロッパの地に君臨したネロも、多くの近親者や側近を粛清した「暴君」として知られていますが、死後その墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかったといい、災害時の被災者の救済や芸術活動の普及などその生前の功績を称えるものも少なくなかったそうです。

ところで、今日6月9日というのは、このネロにとっては、かなり因縁のある日のようで、最初の妻オクタウィアと結婚したのがこの日であるとともに、その9年後の同じ日にこの妻を殺し、さらに6年後、自らの命を絶ったのもこの日のようです。

意図としてそう仕向けたのか、と思えるほど、ドラマチックな筋書きですが、こうしたコインシデンスはままあることで、私の父は幼いころに母親を亡くしているのですが、父もまたその母親の命日に身罷っています。

そんなことってあるんだ、とその当時も驚いたものですが、長らくリハビリ病院で寝たきり生活だった父を祖母が憐れんで、呼んだのではないかと今も私は思っており、ネロの死もまた、殺害したこの最初の妻があの世から意図として仕組んだのではないかと、考えてしまいます。

このネロというのは、ローマ帝国の第5代皇帝で、本名は、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスという長ったらしい名前です。その晩年、民衆の反感を買い、元老院が「国家の敵」と断罪したため、逃亡した先のローマ郊外で自らの喉を剣で貫き自殺しました。

しかし、自分では死にきれず最後は奴隷に切らせて果てたといい、わずか31歳という若さでした。

さらに死後もネロは元老院によってダムナティオ・メモリアエという刑を課されたといいます。これは、「記録抹殺刑」の意味であり、生前の功績をすべて抹殺するという、暴君とはいえ、行った数々の善政をも否定するものでした。

ところが、このネロを自死に至らしめた元老院に加担し、その後に第6代の皇帝になった
セルウィウス・スルピキウス・ガルバは、わずか1年の在位で、ルシタニア(イベリア半島西部)総督であったマルクス・サルウィウス・オトに暗殺されて死んでいます

ガルバが失脚した原因は、ネロの放蕩によって破綻していた帝国の財政の再建を図ったものの、潔癖すぎた人だったがために、軍部内での賄賂などを一切認めず、このため、軍隊の支持を得ることができなかったためです。

また、民衆の反乱をしばしば許すなどネロの死後もその治世を安定させることができず、オトに殺害されましたが、その後皇帝の座についたこのオトもまた、軍部の支持を得ることができず、わずか3ヶ月の在位で自殺しています。

古代ローマ帝国は、初代皇帝アウグストゥスに始まる5人の皇帝、すなわちアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの治世の代には安定した繁栄を築き、この時代は「ユリウス・クラウディウス朝」と呼ばれましたが、ネロの死によってこの王朝は5代94年の歴史にいったん幕を下ろし、断絶することになります。

以後、軍が武力を背景に皇帝を擁立するようになり、上述のようにガルバやオトといった短命の皇帝が相次ぐなど、ローマは内戦といもいえる状態に突入しました。

従って、ネロは暴君だとネガティブな面ばかりで批判されがちですが、ローマの安定を図るために周囲の粛清などによってタガが緩み始めた帝国を引き締めようとしたのではないかとみる向きもあるようです。

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ネロの生前の評価が高かった証拠に、死後にネロを神格化する向きもあったようで、ガルバから離反し皇帝になったオトはネロ派の復職を認め、ネロの銅像やドムス・アウレアの建設再開を許可し、ネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑し、民衆の人気を買いました。

また、オトの次の皇帝アウルス・ウィテッリウスはネロの立派な葬儀を行い、慰霊祭を催して民衆を喜ばせたといいます

さらに後年に11代皇帝となるティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスは、この人も暴虐な君主として恐れられた人ですが、その暴君ぶりはネロが乗り移ったためだという伝説や、このほかにもネロがよみがえったとする伝説は多々あります。ローマ周辺の属国などでも、ネロが蘇ったとする「偽ネロ」の出現が相次いだといいます。

ネロは、皇帝に即位したのち、その治世の初期には名君の誉れが高かったといいます。家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐を受け、このころローマを襲った大火後にもネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策が実行されました。

このローマ市の再建は非常に市民に受けがよかったといい、ネロに批判的だった勢力も、「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と評価しています。

また、ネロは建築技術の革新にも大きな足跡を残しました。当時のローマ市内は木造建築がメインでしたが、大火以降にネロが建築したドムス・アウレア(黄金宮殿)は、現在でもその高い耐久性が評価されているローマン・コンクリートを生み出しました。

さらに、ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれており、たびたび起こった住民間での争いなどにも公平な対処をしたといわれます。南イタリアのポンペイの円形闘技場起こった住民間の争いでは、ネロはこの後10年間、闘技会の開催を禁止しており、これは、市民の秩序と安全のためだったといわれています。

このほか、この当時「パルティア」と呼ばれ、現在のアルメニアやイラク、グルジア、トルコ東部、シリア東部、トルクメニスタン、アフガニスタン、タジキスタン、パキスタン、クウェート、サウジアラビアなどにまたがる帝国との外交政策も成功させ、その後こうしたオリエント諸国とは50年以上平和を保つことができました。

ネロの死後、パルティア国王は元老院に対して、「ネロは東方諸国にとって大恩ある人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」申し出て受理されています。

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これほど善政を敷いてローマ市民からの受けもよかったネロが、何故暴君と呼ばれるようになったかですが、これは、ネロが皇帝になるために第4代ローマ皇帝であった伯父のクラウディウスの後継者と目されていた、息子のブリタンニクスを毒殺したのに引き続き、数多くの近親や側近を殺しているためです。

その4年後には実母のアグリッピナを殺し、3年後には妻オクタウィアを自死に追い込み、さらに3年後には家庭教師のセネカを殺害しており、加えて64年に発生したローマ大火の犯人として多数のキリスト教徒を迫害したことから、後世からは暴君として知られるようになったものです。

ただ、ネロの後半生の悪行は、ネロの二番目の妻、ポッパエア・サビナによるものとする説も多く、ネロを牛耳り政治に介入しようとした母親のアグリッピナの暗殺を画策し、ネロの最初の妻のオクタウィアが不倫をしているとネロに告げ口したのもこのポッパエアだといわれています。

母親のアグリッピナや、妻のオクタウィアが本当にそういう悪いことをしていたのかどうかについては諸説あるようですが、いかんせん、こうした近親者を死に至らしめるという行為は、国家元首の振る舞いとしては明らかに問題でした。

ネロの幼少期の家庭教師だった、セネカは、ネロが皇帝になったその初期にはブレーンとして彼を支え、哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、この時代の代表的な文学者としても有名な人でした。

ところが、その晩年には横領の罪を着せられ、セネカはこれを機に、ローマ帝国から得た財産の全てをネロへ返還し、今後は研究のために生涯を捧げたい旨をネロに伝えたといいます。が、64年のローマ大火に際しては今度は放火犯の一味として告発されます。

放火犯として処断されたキリスト教指導者と手紙をやり取りしていたと断罪されましたが、後世、この書簡自体が全くのでっちあげだったことがわかっており、この告発からセネカは、ネロに「ローマから離れて地方で暮らしたい」と要望しました。しかし叶えられず、以後は病気と称して部屋から出ることを避けるようになりました。

その後、ネロを退位させて新たな皇帝を擁立しようとする陰謀計画が露見した際、その共犯者とされる人物がセネカこの陰謀に関与していると名指ししため、ネロはセネカを尋問するべく役人を送りました。

しかし、セネカは曖昧な対応に終始したため、ついにネロはセネカに自殺を命じました。このときネロはまた、セネカの甥で詩人のマルクス・アンナエウス・ルカヌスがこの陰謀に関与したとして、同じく自害を命じています。

セネカは始めにドクニンジンを飲みましたが、死に切れなかったため、風呂場で静脈を切って死に至ったとされています。このとき、セネカは最期に以下のように語ったそうです。

「ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない」

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こうしてセネカもまた自死とはいえ、ネロに殺害されましたが、このときセネカの妻パウリナも夫と共に自殺を図りました。しかし、これ以上の評判下落を恐れたネロによって阻止されたといいます。

こうした周囲の人間の粛清のほかにも、ネロは暴君といわれるようになる数々のエピソードを残しています。

例えばネロは自分のことを「芸術家」と思い込んでいたようで、歌が好きだっために、数千人に及ぶ観衆を集めコンサートと称してワンマンショーを開くのが趣味だったといい、さらに「青年祭」という私的祭典まで興し、ここで自ら竪琴を演奏したといいます。

4年に1度開かれるオリンピア祭(現オリンピック競技)に対抗し、5年に1度開かれる「ネロ祭」なるものも創設したといい、これは音楽、体育、戦車の三部門からなる大会で、この内、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場したそうです。

元老院は皇帝がまるで庶民のような行動をするのを阻止しようと、出場の有無を問わず優勝の栄誉を授けようとしたといいますが、ネロは「おーきなお世話だ、ワシは堂々と出場して勝利する」とこれを拒否したそうです。

さらにはオリンピア競技にも出場し、優勝によって獲得した栄冠は1800にも及んだといいます。もっともこれは主催者側が画策した大胆な出来レースであり、その多くの勝利は明らかに不正であり、戦車競技などでは戦車から落下して競争から脱落しながらも優勝扱いになったこともあったといいます。

また、ネロは「詩人」としても舞台に立ちたがったといいます。住民を集めて独唱会も開いてたといいますが、そのあまりのへたくそ加減に退屈して逃げる者が続出。しかしネロはこれを見越して出入り口が使えないようにしていたといい、このため、塀をよじ登って脱出する住民が続出し、死んだ振りをして棺桶で外に運び出された者まで出たといいます。

更にはネロの独唱中に外に出ることを禁じられていたがため、産気づき出産した女性も数人いたと伝えられており、ネロの親友の一人はネロの演奏中に退屈のあまり眠ってしまい、これが原因でその後ネロから絶交を申し伝えられたそうです。

こうした歌手の真似事のほかにも、部下や親族の中に美人を見つけると皇帝の権限で搾取をしたそうで、この当時は男色も普通だったため、見目麗しい男性をみつけるとつまみ食いをしていたそうです。また、あるときには、スポルスという美少年を去勢させ妻に迎えて歴代の皇后の装身具で着飾らせたともいいます。

皇帝暗殺の陰謀に関連して、有能な将軍を確たる証拠もなく謀殺したこともあり、やがてこうした振る舞いは、皇帝としてふさわしくないと側近や元老院だけでなく多くの市民にも見放されるようになり、最後には軍からも反感を買うようになっていきます。

こうした憤懣が高まり、68年3月には、ローマの属州で、現在のフランス東部にあったガリア・ルグドゥネンシスというところで、反乱が勃発。ここの総督で、こののちネロに続いて皇帝になるガルバや親友だったオトまでもがこれに同調しました。

この反乱はいったん鎮圧され、ガルバは元老院から「国家の敵」決議を受け逃亡しますが、その後、穀物の価格が高騰しているローマで、エジプトからの穀物輸送船が食料ではなく宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬してきたという事件が報じられ、ネロはさらに市民の反感を買うようになります。

こうして元首の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを逆に「国家の敵」と断じ、前年に国家の敵としていたガルバを皇帝に擁立します。これによって、ネロは国外逃亡を図り、ローマ郊外で妾の解放奴隷の別荘に隠れましたが、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺しました。

その死ぬ直前にネロは、「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」という有名な言葉は吐いたというのですが、これが本当かどうかの真偽は定かではないようです。

また、ネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長が、すでに息絶えていたネロに危害を加えるのはさすがに人の道に反すると考え、遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとしとき、突如ネロが目を見開き「遅かったな。しかし、大儀である」と言い残し、目を見開いたまま絶命した、という話も残っています。

百人隊長はこれを見て仰天し、恐怖したといいます。が、これはあまりにも出来すぎた話なので、これも後年の創作であるという説が強いようです。

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このように、この皇帝ネロの短い生涯には光と陰がありますが、14年という比較的短い在位中に造られた数々の「ローマ建築」は、現在にも受け継がれ、高い評価を得ています。

ドムス・アウレア(黄金宮殿)は、その代表的なものであり、ローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設されました。

ネロはローマ芸術の保護者を自認しており、当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池とこの宮殿を建設しました。

その後この宮殿はほとんど壊され、その代りに現在まで残るコロッセオが建設されましたが、今も残るこの当時の浴場の地下には、その宮殿の一部が残っています。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、これはローマン・コンクリートによって構築されたドームでできた八角型の部屋です。

ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、この時代から使われるようになったローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅にこうした革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となりました。

ネロの死後、104年に宮殿は火災に遭い、その敷地は次々と公共建築用地に転用され、宮殿の庭園にあった人工池の跡地にはコロッセウムが建設されました。

このコロッセウムは、当初の正式名称は「フラウィウス闘技場」だったそうですが、建設開始当時にはまだネロの巨大な像、「コロッスス」が傍らに立っていたため、コロッセウムと呼ばれるようになったといわれています。

このほか、ネロが手がけた建築事業のうち、その最大規模のものが「コリントス運河」だといわれています。アテネの約100キロ西にあるこの運河の開削をネロは67年に開始。

ギリシャの本土とペロポネソス半島とをつなぐ幅約6kmのコリントス地峡は、イオニア海につながるコリンティアコス湾とエーゲ海のサロニコス湾を隔てており、船による両海の航行を妨げていましたが、この運河の開削によって、エーゲ海からイタリア側への航路はかなり短縮される予定でした。

この運河を掘る構想は古代ギリシアの時代からあり、古代ローマ時代にもカエサルやカリグラも関心をもっていましたが、ネロの時代についにこれに着手。6000人の奴隷を動員して3.3kmあまりを掘りましたが、その途中にローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺してしまいました。

死後、帝位についたガルバによって工事は中断され、その後長きにわたって放置されていましたが、その後1815年ぶりの1882年に工事が再開されました。

途中、出資元のフランスの企業が倒産する災難などもありましたが、ギリシアの会社に引き継がれて工事は継続され、1893年に完成にこぎつけました。現在もネロが計画した運河は、この完成した現在のコリントス運河の一部となっており、ネロの時代の土木建設技術の高さがうかがわれます。

このように、暴君といわれつつも数多くの偉業をなしとげたネロですが、その評判がかんばしくないのは、やはり多数のキリスト教徒を迫害したことによるものが大きいようです。

人類史上初めてのキリスト教徒迫害を実施したといわれており、当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教を否定するキリスト教を嫌悪している者が圧倒的に多数派であったといい、ネロもその一人でした。このため、ネロはローマ大火にかこつけて、多数のキリスト教徒を殺害しました。

挙句のはて、この迫害は「人類(ローマ国民)全体に対する罪」によるものだとキリスト教徒を一方的に断罪しており、このためもあって、現在でもキリスト教文化圏を中心にネロに対する評価はことさら低いようです。

また、初代のローマ教皇・ペテロはネロの迫害下で逆さ十字架にかけられ殉教したともいわれており、このため、キリスト教信者の間では、ネロは悪魔や堕落した女性(大淫婦)で暗喩される人物となっています。

男性なのに、なぜ大淫婦とされるかについては、上述のとおり、ネロには男色の趣味もあり、花嫁衣裳を着て解放奴隷との結婚式をあげたという話が残っているほか、宝石趣味があったとされ、おびただしい宝石で身の回りを飾り立てる嗜好があったためのようです。

宝石の中でもとくに蛍石が大好きだったといい、気に入った蛍石はどんな手段を使っても手に入れていたそうで、このためある執政官は、ネロに取られたくないばかりに蛍石製の柄杓を死の直前に叩き壊してしまったと伝えられています。

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また、キリスト教では、「666」を「獣の数字」つまり、悪魔の数字として忌み嫌いますが、「皇帝ネロ(Nero Caesar)」をギリシア語で表記し、その頭文字を「数秘術」で読み解くと、それぞれ50,200,6,50,100,60,200になるそうで、その和が666になるということです。

もっともこれはネロの死後のこじつけだと思われ、キリスト教徒を迫害したネロのことを、暴君転じて、悪魔としてみなし、その象徴としてこの数字の持つ意味を悪魔主義的なものとしてみなすようになったものです。

映画「オーメン」で有名になりましたが、欧米では「666恐怖症」と呼ばれるほど忌み嫌われており、有名な話としては、ナンシー・レーガンとロナルド・レーガン夫妻が1979年にロサンゼルスに転居した際、666 St. Cloud Roadという住所を668 St. Cloud Roadに変えさせたという事例があるそうです。

また、2003年には米ケンタッキー州にある神学校の電話の局番号が666であったため変更したという例や、2006年6月6日に子供が生まれることを懸念する女性が多数いたといい、2007年にも、オランダのあるキリスト教系財団が発行していた歌集が666号に達した時、彼らはその番号を飛ばしてこれを発刊しました。

日本でも、干支の丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信がありますが、これは、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処された八百屋お七が丙午生まれだとされたことに由来します。

以後、丙午の年には火災が多いといわれるようになり、丙午の年にはお産をためらう人が増えました。ちなみに偶然ですが、このお七が生まれたとされたという丙午の年は、西暦に直すと1666年になります。まさかキリスト教の666とは関係ないでしょうが、案外と数字の持つ意味というのは霊的なものを含んでいるのかもしれません。

さて、今日は暴君といわれたネロについて長々と書いてきましたが、このネロによって一時代が形成されたローマ帝国はその後400年もの間続き、その後東ローマ帝国、西ローマ帝国に分裂しました。その後476年に西ローマ帝国は滅亡し、東ローマ帝国を継承したといわれるオスマン帝国もまた、1461年までには滅亡しました。

もっとも、オスマン帝国を東ローマ帝国の継承者とみなすことには反対意見も多く、その滅亡をもって「ローマ帝国の滅亡」と認識されることはむしろ少なく、ローマ帝国全史を取り上げたい場合を除いては「西ローマ帝国」の滅亡をもってローマ帝国の滅亡とすることが一般的のようです。

その継承国家としての資格は、西ローマ帝国滅亡後にとくに勃興したゲルマン系諸王国にあるといわれますが、現在、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会と関係の深いヨーロッパの国々はそのほとんどが継承者といっても間違いなく、またオスマン帝国滅亡後に興ったトルコやかつてのロシア帝国もその後継者を称していました。

現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しませんが、ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味であり、またイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分があるそうです。

そんな、ヨーロッパ各国の強豪が名前を連ねるサッカーワールドカップがもうすぐはじまります。

日本はローマ帝国とは縁もゆかりもなく、逆にこれらの皇帝ネロの亡霊が守る国々と対決していくことになりますが、ネロの亡霊に負けることなく、頑張って欲しいと願う次第です。

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