まだ梅雨の走りだというのに、雨がどしゃどしゃ降っているところが多いようで、6月の降雨量は過去最大になるのではないか、と予想される地域が早くも出てきているようです。
ここ伊豆ではまだそれほどでもないのですが、去年大島に土砂災害をもたらした大雨のことを考えると、その可能性もないとは言い切れず、ちょっと警戒してしまいます。今年の1月には大雪で我が家も屋根の一部が破損したのですが、これに引き続いての被災とならないよう願いたいものです。
さて、過去にあった今日の出来事の一覧表をみていたら、1962年の今日、アメリカのアルカトラズ連邦刑務所から二人の囚人が、脱獄に成功した、とありました。
首謀者は、フランク・リー・モリスという男で、このほかにも仲間2人が脱獄。この脱獄劇は、後にクリント・イーストウッド主演の映画「アルカトラズからの脱出」に描かれました。
このアルカトラズというのは、カリフォルニア州のサンフランシスコ湾内にあり、市内から2.4kmのところに浮かぶ小島で、私も上陸こそ経験はありませんが、サンフランシスコに観光に行った際、遠目に視認したことがあります。
少々赤茶けた黄土色の建物が立ち並んでいて緑は多くなく、さながら洋上要塞のようでしたが、あぁこれがかの有名なアルカトラズかと、感心すると同時に、海が平穏ならば、泳いでいけそうな距離にあり、なぜ、脱出不能といわれたのだろう、と不思議に思ったものです。
これは、後で知ったことですが、この島のある周囲は、カリフォルニア海流と言う寒流が湾内に流れ込むため水温が極端に低く、また、サンフランシスコ湾の狭い湾口から大量の海水が出入りするため、海流がかなり早くなります。さらに、太平洋から大陸に当たった下層水が湧き上がる湧昇流が起こっており、表層ではかなり海流が乱されています。
栄養価の高い下層水が湧き上がるため、プランクトンが集まりやすく、このためこれを餌とする魚類も多く、その中には危険なサメも多く含まれていて、遊泳は危険です。
海流や深層水におる表層水の乱れは波浪にも影響を与え、一カ所に多方向からの波が集中することで波高が高くなる現象、俗にいう「三角波」も発生しやすく、このため航行船舶にとっても難所とされ、その昔は、アルカトラズにも灯台が建設されていました。
この灯台はその後拡張され、軍事要塞として活用されるようになりましたが、太平洋戦争後は軍事監獄となり、1963年まで連邦刑務所として使用されていました。このころから「ザ・ロック」の名で親しまれるようになり、これは、ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが共演し、ここを舞台とした映画のタイトルにもなりました(1996年)。
監獄島とも呼ばれ、連邦刑務所時代には凶悪犯ばかりが収容されており、14回の脱獄事件が起きています。脱獄した受刑者数は36人にのぼりましたが、このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死しました。5人は行方不明となりましたが、溺死したものと推測されています。
1946年3月に起きた脱獄事件は「アルカトラズの戦闘」として知られています。6人の受刑者が看守を襲って武器と監房の鍵を手に入れましたが、運動場への鍵を見付けることができず脱出に失敗し、当局との銃撃戦の末、2日後に制圧されました。6人のうち3人は死体で発見され、残り3人は裁判にかけられてうち2人はガス室に送られました。
フランク・リー・モリスたちが、この島から脱出しようとした1962年ころにも、まだ凶悪犯が多く、著名なギャング、アル・カポネや、ジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されていました。
このほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、暴力的行為を行った者、脱走の危険があると考えられた者などがここに送られましたが、立地上、島内への水と食糧の供給にコストがかかったため、連邦刑務所としての運用が終了されることになりました。
モリスたちが脱獄するのはその閉鎖のほぼ1年ほど前のことでした。ワシントンD.C.で生まれたモリスは、幼い頃から里親に育てられましたが、13歳の頃に犯罪に手を染め、10代の後半に麻薬所持や強盗の罪などで逮捕されました。IQは133だったと言われ、その知能を生かした巧妙な手口の犯罪が多かったようです。
収容されたのは脱獄を実施に移す2年ほど前の1月のことですが、モリスはアルカトラズに着いてすぐにその盲点に気付き、脱獄を計画し始めたといいます。この計画には、アレン・ウェストと、ジョン&クラレンス・エングリンという兄弟が加わりましたが、ウェストだけは計画の立案には加担したものの、脱獄そのものには加わりませんでした。
脱出に先立ち、モリスとエングリン兄弟はほぼ2年をかけていかだと自分たちに似せた人形を作りました。このいかだは、長細い浮き袋を三角形に組み合わせ、並べてその上にシートを貼り付けたものでした。また、人形は、紙くずと、粘土や穴の削りくずを合わせて作ったもので、首から上の部分だけでしたが、遠目には本物と見えるほど巧妙なものでした。
三人はまた、仕事場から穴を掘る道具を盗み取り、交替で穴を掘りつづけ、そして、1962年3月になってようやく独房の裏手へと続く穴を掘ることに成功しました。
1962年6月11日の夜、計画は実行に移されました。3人はベッドに用意しておいた人形を配置し、掘った穴から煙突を登って屋根伝いに脱出し、かねてから用意しておいたいかだで闇の中へと消えていきました。
看守たちがモリスらの脱獄に気づいたのは翌朝のことでした。直ちに連邦捜査局(FBI) は大勢の捜査員を動員して、捜査を開始しましたが、その結果、彼等が使ったと思われるいかだの一部やエングリン兄弟の物であった防水バッグなどが発見されました。
しかし、モリスらの遺体は見つからなかったため、FBIはモリスらがサンフランシスコ湾で溺死したと断定しました。彼らは強盗などの常習犯であったにもかかわらず、脱獄後もそうした犯罪で捕まったという報告はなされることはなく、サンフランシスコ湾の荒波を乗り切れなかったのではないか、という観測がなされたためでした。
しかし、筏まで周到に用意した脱出であったことや、主犯格のモリスは頭の良い男として知られており、はたして失敗するような未熟な計画を実施に移しただろうかといったことが取沙汰されました。
また、後年、アメリカのバラエティー番組でモリスらと同じ材料同じ道具で作ったイカダでサンフランシスコ湾を横断したところ、見事に渡れる事が証明されたといい、こうしたことから、彼等は脱獄に成功し、今もどこかで生きているのではないか、という伝説が生まれました。
この伝説から生まれたのがクリント・イーストウッドがモリスを演じた。映画「アルカトラズからの脱出」ですが、この映画もまた結局は彼等の生死は不明、という終わり方をしています。
現在、この島は、アメリカ合衆国国立公園局が運営するゴールデンゲート国立レクリエーション地域の歴史地区となっており、一般観光客に公開されています。観光客は、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ近くのピア33からフェリーで島に渡ることができます。
毎日午前9時から30分ごとに出発しているそうで、島そのものへの入場は無料です。島内では、オーディオガイドの案内に従って回ることもできるそうで、このオーディオガイドの使用料金はフェリー料金に含まれていてリーズナブルなうえに、臨場感ある説明もあいまって大変人気があるようです。
また、アルカトラズ島にはこうした歴史的建造物の見学だけなく、自然保護区となっているがゆえの豊富な野鳥を見ることができるという魅力があります。カモメや鵜、ウミバトのような海鳥や、ユキコサギ、ゴイサギのような水鳥がいるほか、島では花々を楽しむこともできるといいます。
人間が入るまでは、島には薄い土壌にまばらな草と灌木が生えているだけだったといいますが、軍事要塞ができると軍当局が島外から土壌を持ち込み、1865年には頂上の砦のそばにビクトリア様式の庭園ができました。1920年代、全島的な美化計画が行われ、受刑者らの手によって多くの木々、灌木、種子が植えられていきました。
しかし、1963年に連邦刑務所が閉鎖され、島が打ち捨てられていた約40年間、島の厳しい環境に耐えられずに枯れてしまった花もあったようです。しかし、そうした中でも咲き続けた花もあり、2003年からは非営利団体が、国立公園局と提携して、庭園の修復・保存に取り組むようになったといいます。
私がサンフランシスコを訪問したのは、20年ほど前ですから、この取組が始まる前です。このためかつて遠目には殺風景だったこの島も、今は緑に覆われているのかもしれませんが、再度アメリカへ行く機会があったら、ぜひ島にも渡り、どうなっているのかを確認してみたいところです。
ところで、日本にもこのアルカトラズと似たような島があります。
長崎の天草灘に浮かぶ端島(はしま)という島で、この名よりも「軍艦島」という名称のほうがポピュラーでしょう。同じく天草灘にある「高島」という島と同じく、かつては海底炭鉱によって栄えました。
高島のほうは、石炭から石油へのエネルギー転換のあおりを受けて採掘が減少し、1985年の粉塵爆発事故という追い討ちもあり、1986年をもって閉山しました。が、端島のほうはこれよりもさらに早く、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)に閉山しています。
一時期は、東京以上の人口密度を有していましたが、閉山とともに島民が島を離れたため、現在は無人島となり、アルカトラズのように緑はほとんどないため、文字通り殺伐とした「廃墟」となっています。
長崎港からは、南西の海上約17.5キロメートルの位置にあるため、とても泳いで渡れる島ではありません。またサンフランシスコから最短で2キロしかないアルカトラズのように陸上から詳細に視認する、というのは天候にもよりますが、難しいようです。
この島と高島の間にはもうひとつ、「中ノ島」という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されていましたが、ここは開鉱後わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が火葬場や墓地として使用していたそうです。
この端島ですが、元々は、南北約320メートル、東西約120メートルほどの小さな瀬だったそうです。ところがここの海底で炭鉱が発見されたことから、その周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から埋め立て始め、1931年(昭和6年)までにはその大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルまで拡張されました。
島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設があり、後年、かなり高層のアパートなども建てられるようになりました。このため、遠目にはこの建物群がまるで戦艦の艦橋のように見え、端島の名前よりも「軍艦島」で親しまれるようになりました。
戦時中の1945年(昭和20年)6月11日(奇しくも今日)には、アメリカの潜水艦「ティランテ」が、端島近くに停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈させる、という事件がありましたが、この事件は「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になり、広まりました。
この話は、かなりまことしやかに伝えられたため、未だ信じている人が多いようですが、しかしアメリカ軍もアホではなく、実際に軍艦と間違えて砲撃を加えられるようなことは一度もしていません。
「端島」と呼ばれるようになったのが、いつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明です。が、江戸初期の元禄時代にはもう既にこう呼ばれていたようで、「元禄国絵図」という古地図には既に「端島」と記されています。
しかし、石炭の発見は江戸末期のことで、一般に1810年(文化7年)のこととされます。発見者は不明ですが、1760年(宝暦10年)の記録には、佐賀藩の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)がここの石炭の掘削権をめぐって争いになったという記述がみられるということです。
とはいえ、実際の採炭のほうはまだこのころには小規模なものであり、江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度でした。
明治になって長崎の業者がやや本腰を入れて採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続く会社が3社ほどもありましたが、いずれも大風による被害のために1年から3年ほどで、廃業に追い込まれています。
さらに本格的な採炭が始まったのは、1886年(明治19年)のことで、1890年(明治23年)には36メートルもの大きな竪坑が完成し、本格的な採掘が始まりました。この事業を手掛けたのは三菱財閥で、端島炭鉱の所有者であった旧鍋島藩深堀領主の鍋島孫太郎から、島を10万円で譲り受けました。これは現在換算でおよそ40億円になります。
こうして、端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となり、譲渡後の出炭量は、すぐ隣の高島炭鉱を抜くまでに成長しました。三菱は、明治の中ごろまでには、社船「夕顔丸」を就航させ、蒸留水機設置にともなう飲料水の供給も開始(明治24年1891年)。
さらに、社立の尋常小学校の設立(明治26年、1893年)など基本的な居住環境を整備するとともに、島の周囲を段階的に埋め立て、居住面積を増やしていきました。
1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設され、このとき大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいます。
このころから、「軍艦島」の通称はさらに定着するようになったとみられますが、ただし、この頃はまだ軍艦は軍艦でも戦艦ほど重厚ではなく、鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく、30号棟以外は、木造の平屋か2階建ての日給社宅が大半であり、巡洋艦程度だったようです。
大正期に入ってからは、朝鮮人労働力を導入するようになり、第二次世界大戦中までには三菱が徴用した員数と、朝鮮人自身の経営する飯場を合わせて500~600人ほどの朝鮮人がいたといい、これと併せて自由渡航でやって来た所帯持ちの朝鮮人労働者80人ほどを合わせて700人ほどがこの狭い島にひしめいていました。が、それでもまだ序の口でした。
さらに、1944年(昭和19年)には200人ほどの中国人労働者が徴用されてきたため、島の人口は1000人に迫りました。しかし、これらの外国人労働者は、豊富な給料や食事や休日も与えられるなどの虚偽の好条件で騙されてやってきた者が多く、実際には満足な食事や休息も与えられず酷使されました。
過密な人口に加えてこういう劣悪な環境に耐えられず、島抜けする(泳いで島を脱出する)者も多く、自殺を図る者も多数出ました。労働者の大多数は朝鮮人や中国人でしたが、彼等の場合は島抜けを試みるものが多かったのに対し、自殺者には日本人が多かったといい、このあたりのことにも、文化の違いが見て取れます。
ただ、こうした労働者の「島抜け」が成功した例は少なく、大半は溺死するか、警察や監視する職員に捕まって連れ戻され、見せしめに拷問されました。対岸の野母半島(長崎半島)の住民たちは、端島や高島から労働者たちが命懸けで逃げ出してくるのを見て、この島のことを軍艦島ではなく、「監獄島」と呼んだといいます。
また、三菱側は朝鮮人と中国人が手を組んで日本人に抵抗しないよう、朝鮮人は端島の北端、中国人は端島の南端の寮にそれぞれ収容し、作業現場も交代時間も重ならないようにしたといい、作業員管理を徹底していました。
これほどこの島での採掘に力が注がれたのは、無論、太平洋戦争に突入していくにあたって豊富に必要となる船舶などの運用エネルギーをまかなうためでした。端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。
石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭したといい、その後突入する太平洋戦争を支えたと言っても過言でないほどの存在感がありました。
終戦後の復興期にもまだ良質な石炭は取れ続け、これに対応するため、いなくなってしまった中国人や朝鮮人に代わって日本人労働力が主力となりました。が、食えない時代とあってその労働力が衰えることはなく、終戦後15年を経た1960年(昭和35年)には島内人口は最盛期を迎え、5,267もの人がこの狭い島に居住するようになりました。
その人口密度はなんと83600人/km²となり、これは10m四方におよそ8人が居住していたことになります。これはこの当時世界一の人口密集度を誇り、東京の9倍以上の過密度でした。島内には、炭鉱施設とこれに付随する住宅のほか、小中学校・店舗が作られ、常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていました。
病院も整備され、外科・内科といった基本医療施設以外に分娩設備もあったといい、さらには「泉福寺」という寺院まであり、禅寺だったそうですが、すべての宗派を扱っていました。また、映画館やパチンコ屋・雀荘、スナックなどの遊戯施設もあり、このほか理髪店・美容院まであり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していました。
ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これは前述のとおり、端島と高島の間にある中ノ島に建設されました。
ところが、1960年以、高度成長時代にさしかかると、日本の経済において必要とされるエネルギーは、次第に石炭から石油へとシフトしていきました。これにより高島や端島における採炭は衰退し始めます。
高島における採炭事業はその後1986年まで続き、また端島のほうも1965年(昭和40年)に新坑が開発されて一時期は持ち直しましたが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1974年(昭和49年)1月、ついに閉山に追い込まれました。
このころまでには、島内住民も約2000人まで減っていましたが、閉山後は徐々に島を離れ、この年の4月20日までに全て島を離れ、端島は完全な無人島となりました。ただ、その後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続きました。
しかし、その後30年近い歳月を経る間、島の施設に手を入れる人はいなくなり、その多くは劣化し、廃墟となりました。島は三菱本社からその子会社の三菱マテリアルが管理するようになっていましたが、2001年(平成13年)、旧高島町に無償譲渡され、その後の平成の大合併により長崎市に継承されるようになりました。
ただ、建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、市は島内への立ち入りを長らく禁止していました。ところが、近年になって近代化遺産としての評価が高まってきたのと同時に、大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されるようになり、廃墟ブームもあいまって、この端島もまた話題に上るようになってきました。
このため、2005年(平成17年)、長崎市は、報道関係者限定で特別に上陸を許可し、長らく放置され、荒廃が進んでいた島内各所の様子が各メディアで紹介されるようになりました。
こうして長らく無人だった島に徐々に人が入りこむようになったことから、市としても危険個所の補修などを行うようになり、島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決されるようになりました。
その後、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことから、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月からは観光客が上陸・見学できるようになりました。
ただし、島内にはヘリの発着場などはなく、島への交通は昔ながらの船のみです。かつて三菱が保有していた社船「夕顔丸」は既に昭和37年に廃船になっており、「野母商船」が長崎港より運行していたフェリーも廃止されています。
このフェリーは1970年の時点では1日12往復しており、長崎までの所要時間は50分だったそうですが、以後こうした定期便は就航していません。ただ、廃墟や近代化遺産として端島が注目されるようになると、禁止されていたにもかかわらず、上陸を試みる無法者が出るようになり、海上白タクなどが利用されていました。
一方では、合法的に島へ運行する船の就航を望む声が高くなり、これを受け、長崎市は地元の海運会社に島の周囲を巡る遊覧船の運用を許可しました。
現在、長崎港などから運航するようになったこれらの会社が運営する渡船では、種々の「端島上陸ツアー」を行っており、軍艦島コンシェルジュ、 やまさ海運や、高島海上交通の上陸ツアーの場合、長崎市に払う施設使用料込み(市への負担金は300円)で大人4000円何がしかの費用となっています。
ただし悪天候の場合は、桟橋が利用できないため上陸できません。やまさ海運の2009年度の統計によると、欠航便や上陸中止の割合は数割だということで、台風などで海の荒れやすい7月の「上陸率」はわずか34%にとどまるといいます。しかし、海が穏やかな季節は上陸が可能なことが多く、例えば2月と9月はほぼ9割方上陸が可能だそうです。
軍艦島上陸ツアーは、最近の廃墟ブームを受け、年間約6万人もの利用者があるといい、長崎市によれば、ツアー開始後の経済波及効果は65億円に上るといいます。
さらに、経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を世界遺産への登録することを決定したため、端島の人気は更に高まりそうです。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されたもので、ユネスコによる2015年の審議の結果が待たれます。
ちなみに、端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった東京の同潤会アパートより古いものがいくつか含まれており、7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートです。
30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような、1918年(大正7年)に建設された日給社宅(16号棟から20号棟)などもあり、第二次世界大戦前の真っ最中で、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったころにも、この島では例外的に建設が続けられており、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅です。
なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためです。つまり、コンクリート製の高層住宅には作業員が住み、鉱長や幹部職員などのための住家は木造の高級住宅でした。
高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあり、また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われました。
ただ、木造で内装作りが進められた建物も多く、これらはひどいときには、島全体を覆う波に飲み込まれて腐敗し、塩水の浸透から主構造の鉄筋コンクリートも急速に劣化しており、1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものも多数あります。
また、建設当初のものはその建築技術が未熟なものも多く、建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり、これはさらに劣化を促進しました。ただ、古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊されること無く手付かずのまま放棄されているため、これは建築工学の観点からみると、経年劣化を研究する上でも貴重な資料であり、研究者からは注目されています。
近年、廃墟ブームはさらに広がりを見せ、この端島のような文化遺産的な性格も持つ廃墟は人気観光スポットとなり、観光ツアーが企画されて多くの人々が廃墟を訪れる現象が起きています。
この廃墟ブームのはしりと言われるのは、1988年(昭和63年)に写真家の、宮本隆司氏が廃墟や取り壊し中の建造物を撮影した「建築の黙示録」だと言われます。宮本氏はこのほかにも香港九龍の九龍城地区に造られた城塞と、その跡地に建てられていた巨大なスラム街を撮影した「九龍城砦」を発表し、廃墟写真ブームの火付け役となりました。
1989年にはまた、同じく写真家の滝本淳助と漫画家の久住昌之が、「東京トワイライトゾーン(タモリ倶楽部)」を発刊しており、その後も1993年に、写真家丸田祥三が「棄景 廃墟への旅」を出版して、これらはさらに廃墟ブームに火をつけました。
ブームの始まりは、バブルの崩壊とも一致しており、バブル時期に何らかの計画が立ち上がったものの、経済の破たんとともに消滅したものなど、都市開発の計画が頓挫した場所などの建物などが廃墟状態になり、とくにこれらに人気が出るようになりました。
また、北海道など地価が安価で土地に余裕のある地域などでは、撤去費用がかさむのを回避し、古い建屋を撤去せず近くに新たに建てるなどすることが多く、これらの廃屋、廃墟も人気が高いようです。
さらに鉄道ファンの一部には、廃線跡をたどる廃線マニアと呼ばれる者がおり、廃線巡りを熱心に行うマニアは、昨今の鉄道ブームにより「廃鉄」とも呼ばれています。廃線後のみならず廃車体等にも目が向けられ、鉄道廃墟への関心が一気に高まっています。
1990年代以降、廃墟となった施設、学校、病院、鉱山などの跡を訪ねて回る廃墟めぐりツアーも増えてきており、廃墟マニア向けに「廃墟の歩き方」(2002年)といったマニュアル本が発行され、Webサイト、DVDなども、人気を得ています。
その興味の対象としては、廃墟化した建物が持つ特有の雰囲気でしょうが、廃墟となった施設が使われていた頃の様子を想像し、愛着を感じる者もおり、また廃墟の「探検」が楽しいという人もいるようです。
さらには、勝手に人の土地に入込み、旧式のドアの取っ手や、水道の蛇口、照明器具などを無断で持ち帰る人もいます。崩れかけたものを壊して回る輩もいて、このように廃墟には破壊や搾取の対象となり得るものが多く取り残されており、侵入・破壊のターゲットとなりやすい傾向があります。
こうした行為は現役の建造物に対するそれと比べて比較的低いリスクで行える破壊行為であることから、快楽的・愉快犯的な破壊行為ともいえます。いたずら目的ともいえ、こうした行為のことを「ヴァンダリズム」というそうです。
西ローマ帝国を侵略し、ローマ市を略奪したゲルマン系のヴァンダル族にちなんで名づけられたもので、芸術品・公共物・私有財産を含む、美しいものや尊ぶべきものを、破壊もしくは汚染する行為のことであり、平たく言えば「文化破壊運動」です。当然、器物損壊や迷惑行為として取り締まりの対象となります。
廃墟への侵入そのものも、建造物侵入罪による摘発の危険性が非常に高いものであり、写真を撮るだけなら大丈夫と思っている場合でも非難されることがあるため注意が必要です。
ところが、特に廃業したホテルやテーマパークは、廃墟か否かはひとめでわかりますし、入口や窓が壊れている(壊されている)ため侵入しやすくなります。また廃墟として目立ちやすい割には、中に入ってしまえば人の目が行き届かないため、興味も手伝ってこうしたところに抵抗なく立ち入る人が多いのも確かです。
このため、「廃墟愛好家」を自称して違法行為を行う人は後を絶たないようです。が、やはりその立ち入りには許可を得てから行うのが妥当であり、写真家と言われるような有名な人達は、たいていその撮影には許可を得ているようです。
我々も写真を撮っただけなら大丈夫などとタカをくくらず、お縄になる可能性も含めて馬鹿げたリスクは冒さないよう、最大限の注意をもって廃墟に立ち入るようにしたいものです。
しかし、こうして放置されたままの廃墟の中には文化的な価値の高いものも多く、被写体としても魅力的なものがた多いのも確かです。
現在公に公開されていないこうした廃墟の中で有名なものの中には、犬島精錬所跡(岡山市東区)、松尾鉱山(岩手県八幡平市)、摩耶観光ホテル(神戸市灘区)、鳥島気象観測所跡地(東京都八丈支庁・鳥島)、平沼駅跡〈京浜急行電鉄〉(横浜市西区)といったものがあります。
一方では、こうした廃墟を観光や町おこしなどのために積極的に利用しようという動きもあります。原爆ドーム(広島県広島市)の整備は観光のためではなく、戦争の悲惨さを伝えるという目的のために行われたものですが、廃墟といえば廃墟であり、1996年に世界遺産に登録されました。
このほかにも、行川アイランド(千葉県勝浦市)、カッパピア(群馬県高崎市)、ムーラン乙女(現・御殿場美華ガーデン)、丸山変電所跡地(群馬県安中市)、ホテルエンパイア (神奈川県横浜市)などがあり、現在は廃墟であるもののいずれも何等かの利用が計画されています。
このうち、ホテルエンパイアは、横浜ドリームランド内にあったホテルが廃墟同然となっていたもので、最近大がかりな改装が施され、横浜薬科大学の図書館棟として活用されるようになりました。また、丸山変電所なども、重要文化財に指定され、補修工事が施工され建設当時の姿に復元されています。
このほか、岡山水道南東部にある犬島には、犬島精錬所跡があり、ここではベネッセコーポレーション(岡山市)の会長が美術館財団を設立し、精錬所付近を使った恒久的なアートワークの設置を展開しています。
10年前から「犬島アートプロジェクト」として計画され、2008年(平成20年)「犬島アートプロジェクト“精錬所”」としてオープンしたそうで、以前は予約者のみ見学可能だったものが、2010年度以降は事前予約が不要になり、自由鑑賞制を導入しています。
ここ伊豆もバブルの時代には多くの観光施設が建設されましたが、廃墟同然になったものも多く、実は私が住んでいる別荘地にも、かつて廃墟となったホテルがあったそうです。
「ホテル修善寺ニューッキャッスル」という名前のホテルで、その昔はある議員さんの御用達でずいぶん羽振りの良い時代もあったようですが、バブル後に閉鎖されてからは廃墟同然に荒れ果てていったということです。
あそこにだけは行ってはいけない、必ず憑いてくるから、と地元の人はささやかれる「心霊スポット」でもあり、外部からは怖いものみたさに入り込む人が多かったといいます。
今は解体されて、跡地には瀟洒なスペイン料理店が立っていますが、もしまだ残っていたらもしかして、私も行ってみたかもしれません。
無論、こうした放置施設への無断立ち入りはご法度ですが、ほかにもたくさんあるに違いない伊豆の廃墟を探しに行くというのも案外と楽しいかもしれません。とくに最近凋落の激しい熱海や下田などでは、探せばかなりの廃墟がありそうです。
古いモノ、妖しい雰囲気のある場所になにかと人は惹かれやすいもの。かくゆう私も同じであり、廃墟写真家にまでなるつもりはありませんが、それでもって新たな境地を切り開けるのなら、チャレンジしてみるのもまた楽しいかもしれません。