旅・放浪・カメラ……

2014-04578月も下旬に入ってきました。

子供のころのこの時分の気分としては、あ~もうすぐ夏休みが終わってしまう、学校行きたくないな~、であり、できることならもう一ヶ月でも二ヶ月でも夏休みが続いてくれないものか、と切に願ったものですが、やがて容赦なく新学期は始まりました。

社会人になってからは、この気分は盆明けのときのものであり、帰省やら何やらでひとときの休みを取り、ゆっくりしたあとの出社はやはり嫌なものでした。とはいえ、学校にせよ会社にせよ、休日という切り替えの時間を使ってリフレッシュしたあとは、何か新しいものにチャレンジしようかという気分になるものです。

季節もまた、ちょうど夏から秋へと向かうころであり、日もまた短くなって、生活サイクルも少し変わってきます。着るものが少しずつ増え、食べ物も冷たいものばかりだったのが、少し暖かいものを欲するようにもなり、入浴時間も少し長くなったりします。

秋はまだまだ先かもしれないけれども、これから訪れる本格的な季節変化に備えると同時に、残る四半期を有効に使うべく、夏バテした体を愛おしみながらも何か新しいことをやろうという気分に一番させてくれる、これからはそんな季節のような気がしています。

それにしても何をやるかですが、これは人それぞれでしょう。また、どう始めるかについても、「心機一転」というふうに、覚悟を決めて新たな気持ちになって始める場合もありますが、何がやりたいかもわからず、ともかく何等かのスタートを切ろう、といったあいまいな始まりもあるでしょう。

新しい生活を始めることを「門出」といいます。この「門(かど)」は「家の出入り口」のことであり、「出」は「新しく生じる」「出発する」という意味ですから、「門出」というと「わが家を出発して旅立つこと」です。新しく何かを始めたいのだけれども、はっきりとやりたいことが分からない、といったとき、何かと人は「旅」に出たがるものです。

この「旅」というものの歴史を遡って概観してみると、人類は狩猟採集時代から食糧を得るために旅をしており、農耕が行われる時代になった後も、全ての人々が定住していたわけではなく、猟人、山人、漁師などは食糧採集のための旅先で毎日を送る生活を送っていました。

その後、宗教的な目的の旅がさかんに行われるようになり、ヨーロッパでは4世紀ころには巡礼が始まり、この風習は今でも続いています。また、近世のイギリスでは、裕福市民層の子が学業仕上げのグランドツアーや家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学などを行っていましたが、その名残で海外留学はヨーロッパを中心として今もさかんです。

日本でも仏教の伝来から平安時代末ころには巡礼が行われるようになりました。また、江戸時代にいくつもの街道が整備され、馬や駕籠も整備され、治安も改善されたので、さらに旅がさかんになり、明治維新以後は、西洋から鉄道や汽船などの交通手段が導入され、ますます旅は身近なものとなっていきました。

旅には目的地のある旅と無い旅があります。一般的に言えば、旅は何等かの目的地を決めて行われており、その目的地に行って何かを楽しむものです。例えば、温泉が目的地の場合、ここで身体を癒したり、ゆっくりと宿で滞在したり、観光を楽しんだりします。

一方では、この“目的地”が形式的に設定されているだけであまり重要でない場合もあり、電車のような乗り物に乗る行為そのものが目的の旅もあり、その移動中にさまざまな風景を見ていくことこそが主たる愉しみである旅もあります。

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さらには、目的地を定めず期間だけを決めて旅に出る、つまり行き先は成行きにまかせ、旅先での偶然や必然に身をゆだねる、という旅をする人おり、目的地だけでなく期間も定めずあてどもなく長期の旅に出る人もいます。

「放浪の旅」がそれであり、放浪とは、さすらうこと、あてもなくさまよい歩くことを指します。流浪、彷徨ともいい、英語では一般には“wandering”です。

ただ、同じ英語でもローム(roam)、ノマド(nomad)、バガボンド(vagabond)、ストロール(stroll)、ドリフター(drifter)などの表現がありそれぞれニュアンスは異なります。

例えばロームとは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ストロールとは、散歩などのことで、ぶらつくというような意味合いです。ドリフター、バガボンドなどはそれぞれ漂泊者、来訪者・異邦人の意味で使われます。

また、ノマドは牧歌的放浪であり、「遊牧民」の意味もあります。家畜などを連れ、その餌となる植物を求めて放浪を繰り返す人々であり、その放浪の旅は生活のためです。一方ではただ、単に生活のためではなく、人生の意味を求めて放浪をする場合もあり、近年ではとくに若者にそうした傾向が見られます。

何らかの意図を持たずに放浪を繰り返すものも多く、放浪の体験やそこから得た印象を芸術活動に反映させることのできる能力のある人もおり、古来より放浪の旅を続ける行為そのものを文学や絵画などの芸術の肥やしにしてきた人は多数存在します。

放浪をした有名な日本の芸術家といえば、松尾芭蕉や種田山頭火といった、俳人が真っ先に思い浮かびます。このほか、あまり知られてはいませんが、井上井月という人がおり、この人は幕末から明治初めにかけて活躍した俳人です。信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けました。

また、尾崎放哉(ほうさい)は井月と入れ替わるように世に登場し、明治大正に活躍した俳人で、種田山頭火らと並び、自由律俳句の最も著名な俳人の一人です。この人は、東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険に就職し、大阪支店次長を務めるなど、元は出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでした。

ところが、ある日突然、それまでの生活を捨て、「一燈園」という特殊な団体に加わり、俳句三昧の生活に入ります。この一燈園というのは、京都市山科区に本部を置き、明治末期に設立された団体です。宗教法人ではなく、法人格としての正式名称は一般財団法人懺悔奉仕光泉林といいます。

争いの無い生活を実践することを「道」と考えており、ひとつの宗教とも考えることもできますが、仏教のように特定の本尊があるわけではなく、また所属者する者それぞれは自身の信仰を持つことを否定されません。修行者は生活そのものを祈りとする、いわば原始宗教的な毎日を送るだけで、その信条は、「大自然に許されて生きる」というものです。

人は生まれると大自然からその生活の糧を与えられるのであり、様々な競い合いや争いごとをせずとも、裸一貫、無所有であっても、我執を捨てて、生きることに感謝し、それを奉仕という形で社会に還元すれば人はおのずと活かされるというのが、この信条の意味です。

尾崎放哉は、ここで小間使い(寺男)としてで糊口をしのぎつつ、日本各地を放浪して回り、最後は小豆島の庵寺に移り住みました。そしてここで極貧の生活を送りながら、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちつつ、俳句を作る人生を送りました。

そんなダイナミックな人生を送るような人ですから、当然クセのある性格の持ち主であり、そのためもあって何かあと周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりとも合わせて「今一休」と称されました。しかし、その自由で力強い句は高い評価を得るところとなり、その代表的な句、「咳をしても一人」は有名です。

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こうした俳人以外では、山下清もまた、日本中を旅して回ったことで知られ、放浪の画家として有名です。

1922年(大正11年)3月、東京市浅草に生を受けましたが、生まれた翌年に関東大震災がおこり、生家のあった田中町一帯が焼失すると、両親の郷里である新潟県の新潟市白山に転居しました。しかもさらに悪いことに、3歳の頃には重い消化不良で命の危険に陥り、一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患ってしまいます。

清が4歳のとき、一家は元の浅草に戻りましたが、今度はここで父が死去し、生活は困窮を極めました。このため、母子は杉並区方南町(現: 杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。この頃に母ふじの旧姓である山下姓を名乗るようになります。

清はここから尋常小学校へ通い始めましたが、しかし知的障害のために学校では勉強についていくことができず、次いで、千葉県東葛飾郡八幡(現:千葉県市川市八幡)の知的障害児施設「八幡学園」へ預けられました。

この学園での生活でようやく生活の落ち着きを取り戻した清は、ここで生涯続けていくことになる「ちぎり紙細工」に出会います。これに没頭していく中で磨かれた才能は、1936年(昭和11年)から学園の顧問医を勤めていた精神病理学者「式場隆三郎」の目に止まり、式場の指導を受けることで清の才能は一層開花していきました。

やがて1938年(昭和13年)には、銀座の画廊で初個展を開催するほどにもなり、1939年(昭和14年)には、大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びました。このとき、日本画の大家、梅原龍三郎もここを訪れており、清を高く評価した一人でした。

このように八幡学園での生活は充実したものであり、その在籍期間は13年にもおよびましたが、18歳になったとき、清は突如学園を「脱走」し、放浪の旅へと出ます。1940年(昭和15年)のことであり、この旅はその後さらに1954年(昭和29年)まで14年も続きました。

この間、日本は太平洋戦争に突入しており、出奔した翌々年に20歳になるため、徴兵検査を受ける必要がありましたが、清はこれを受けたくないために人の目を逃れ、更に放浪を続けました。

この時代、こうした「徴兵逃れ」は重罪であり、21歳になり、とある食堂で手伝いをしていたところにやって来た八幡学園の職員によって、取り押さえられてしまいます。そして、無理やり徴兵検査を受けさせられましたが、知的障害や言語障害があり、また幼いころの病気のためもあって体格が貧弱だったため、兵役免除となりました。

こうした放浪の旅の記録は、その後山下本人の手によって「放浪日記」として取りまとめられ、戦後の1956年(昭和31年)に出版されました。この本はすぐにテレビドラマなどにも取り上げられて評判になり、その影響もあって、この放浪時代のいでたちである、ランニングシャツにリュックサックを背負った姿は彼のトレードマークのようになりました。

しかし、実際にリュックサックを使っていた期間は短く、当初は茶箱を抱えての旅であり、その後風呂敷と変わり、リュックサックになったのは2年ほどの間だけでした。短かったとはいえ、そのいでたちは耳目を集めるものであり、加えて、その絵の才能は大いに評価され、戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれ、親しまれるようになりました。

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1956年(昭和31年)東京大丸で開催された「山下清展」を始め、その後全国巡回展が約130回も開かれ、観客総動員数は500万人を超えました。この大丸の展覧会には当時の皇太子も訪れたといい、1961年(昭和36年)には、こうした展覧会から得られた収入で、恩師である式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行に出発しました。

このヨーロッパ旅行における各地の名所を絵に残したものの中には、現在でも彼の代表作とされるものも多いのですが、その後は、国内のあちこちを旅し、国内各地の絵も多数残しました。晩年には東京都練馬区谷原に住み、「東海道五十三次」の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行にも出掛けています。

この創作活動にはあしかけ5年の歳月をかけており、結果として55枚の作品を遺しています。ただ、その作業中に高血圧による眼底出血に見舞われており、その完成が危ぶまれての制作でした。

1971年(昭和46年)7月12日、脳出血のため49歳の若さで死去。ちょうどその死の直前、常磐線我孫子駅で販売される駅弁の包装紙のデザインを依頼されていましたが、この依頼は四季をテーマに4種類あり、そのうちの3種類だけしか完成していなかったため、四服一式が揃うことはありませんでした。

驚異的な映像記憶力の持ち主だったといわれ、「花火」「桜島」など行く先々の風景を多くの貼絵に残していますが、それは現地で作成したものではなく、すべて自宅のアトリエに帰ってからの記憶の再現によってのみ制作されたものです。写真やスケッチといった補助道具は一切もたず、記憶だけで細部を再現するというのは、通常人では不可能なことです。

とりわけ、花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げていますが、この刹那刹那に一瞬にして消え去る花火すら、彼は鮮明に記憶していたようです。

花火を手掛けた作品としては、「長岡の花火」が著名であり、ちょっと前に「なんでも鑑定団」でその一つが出ていましたが、数百万の値段がついていたと思います。

旅先ではほとんど絵を描くことがなく、八幡学園や実家のアトリエに帰ってから記憶だけを基に描くことができたことから、清はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれています。知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って、優れた能力を発揮する人が発する症状です。

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清のように、航空写真を少し見ただけで、細部にわたるまで描き起こすことができる「映像記憶」に優れた人のほか、ランダムな年月日の曜日を言える、書籍や電話帳、円周率、周期表などを暗唱できるといった人もおり、膨大な量の書籍を一回読んだだけですべて記憶し、さらにそれをすべて逆から読み上げることができた、といった例もあります。

一応、病気の一種とされているわけですが、別の見方をすれば、ある種の天才です。知的障害や発達障害、言語障害がある人たちは、その障害を補うために特殊能力を授かるのだ、ということを言う人もいます。まさに天賦の才です。

山下清は、その生まれつきの不遇のゆえに放浪生活をするようになったと考えられますが、上述の尾崎放哉をはじめとする芸術家たちの多くは、むしろ金銭や仕事には恵まれた生活を送っていました。にもかかわらず、それを捨ててまでして放浪の旅に出たのは、やはり気ままな旅先において、その才能を生かすインスピレーションを得たかったためでしょう。

実はここ、伊豆にも放浪の有名人がおり、この人は「間宮純一」といいます。1908年(明治41年)に現伊豆の国市で生まれ、1981年(昭和56年)に73歳で亡くなりました。

将棋の棋士です。かつて、カメラメーカーとして有名だった、マミヤ光機製作所の創業者間宮精一の甥で、明治時代に、我が家からもほど近い、伊豆「大仁」で間宮家が営んでいた呉服屋、「木屋」を継いだ間宮徳次郎の長男がこの間宮純一になります。

幕末から明治にかけて、活躍した教育家に、谷口藍田(らんでん)という人がいますが、間宮純一はこの人の外孫になります。儒学や漢学、洋学など内外の学問を学んだ人で、佐久間象山や伊東玄朴といった科学者・医者とも交流があり、江藤新平・副島種臣らとも面識があり、大隈重信らと王政復古の運動にも関与していました。

元々は九州の生まれですが、伊豆で暮らしていた一時期があり、このとき網元の娘との間に産まれた娘の長男が、間宮純一であり、外孫はつまり、私生児の子ということです。明治になってからは、鹿島藩に招聘され、藩校弘文館教授を務めたほか、沖縄・熊本・大阪などの各地で経書の講義を行ない、また宮家子弟の教育を行ないました。

70歳を過ぎてからも、東京に私塾・藍田書院を開いて若手の育成にあたり、明治35年(1902年)に80歳で亡くなるまでも、何等かの教育携わっていた人で、近代教育の父と呼ばれた人でした。

その外孫の間宮純一は、戦後すぐの1946年、四段で順位戦C級に参加し、その後もC級に在籍し続けるなどの実力を持っていた人です。順位戦というのは、毎日・朝日の両新聞社主催の将棋の棋戦であり、A級・B級2組・C級2組の5つのクラスからなり、A級の優勝者が名人戦の挑戦者となります。

従って、C級はさほど高い位ではなく、また間宮勝ち越す事はついにありませんでした。しかし、その名が有名なのは、放浪の棋士として知られていたためであり、放浪時代は、「間宮久夢斎」と称していました。借金の無心を繰り返していたといい、しまいには将棋連盟から退会勧告を受け1957年に退会するという、不名誉な出来事も彼の名が残る理由です。

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その後生家を継いだ弟の間宮登也が生活の面倒を見ていたそうですが、この弟もまた、アマチュアながら有段将棋棋士だったということです。ちなみに、伊豆国というのは昔から有名棋士が多く、江戸時代の安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つの本因坊家の第十四世「本因坊秀和」も現在の伊豆市の出身です。

この当時、小下田村と呼ばれていた場所に生まれ、9歳の時に本因坊丈和に入門。これは父と沼津に行った際に万屋某という12歳の少年に四手で負け、その結果に腹を立てた父親が江戸に上り、丈和のところに俊平を預けて帰ったためでした。

ところが、伊豆に帰ったあとに家族に猛反対されたため、再び江戸に戻って息子を連れ帰る旅中、前の少年に再び出会い、このときは互角で打ち分けました。これに気を良くした父親は家族を説得し、今度こそ正式に門下生にしたのだといい、その後本因坊家の家督を継いで十四世本因坊秀和を名乗るまでになりました。

その後、秀和ほどの名人が伊豆から出たという話は聞きませんが、東伊豆町出身の「八代弥(わたる)」という、20歳で四段を持つプロ棋士もおり、今後が楽しみです。伊豆にこうした優れた棋士が多いのは、のんびりとした気候ゆえに、棋風もまたのんびりしていて、相手には捉えどころのないためかもしれません。

話しが脇に逸れてしまいましたが、この放浪の棋士、間宮純一の叔父が「間宮精一」であり、先述のとおり、カメラメーカーのマミヤ光機の創業者です。1899年(明治32年)に伊豆の国市大仁で生まれ、1989年(昭和64年)に90歳の大往生を遂げましたが、その生涯を発明家、実業家として過ごし、カメラ設計者としても有名な人です。

間宮家は近江源氏佐々木氏の佐々木神社神主家系で、戦国時代は武田や北条、後には徳川の旗本の家柄でした。地元では秀吉の小田原攻めの際、山中城で奮戦した間宮康俊が知られています。幕末明治には学校教育などにも力を注いだ一族であり、これには上述の谷口藍田が深くかかわっていたようです。

この精一の父の間宮勝三郎もまた、事業家兼発明家であり、上述の伊豆大仁の呉服屋「木屋」を創業したのはこの人です。暗算が得意だったといい、呉服だけでなく、様々なビジネスを営んでいたそうで、生来発明好きで、楠から樟脳を採ったり、三宅島で芋焼酎やイチゴ酒、椿油を製造したかと思うと、北海道に渡ってリンゴ酒を製造したりしていました。

1919年(大正8年)には「間宮式金庫」を発明し、同年株式会「間宮堂」を創業。大仁に本社社屋を建設し、金庫を製造しました。長男の間宮精一もまた、父のDNAを受け継いで発明が得意で、その後「間宮式加減算機」を開発、さらにはそれをベースに1926年日本初のキャッシュレジスター「間宮式金銭登録機」を生みだし、間宮堂で製造販売しました。

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1928年12月に間宮堂は、事業家でその後外相も務めた、藤山愛一郎の支援を受け「日本金銭登録機」と社名を変更。間宮精一は技術部門の責任者となりますが、路線の相違などからカメラ事業へと転身することを決め、同社がアメリカNCRと提携したのを機に退社してマミヤ光機を創業しました。

NCRというのは、アメリカの総合情報システム企業で、流通システムや金融システムに強く、こちらもPOSシステム、現金自動預け払い機、小切手処理システム、バーコードリーダー、オフィスの消耗品、などを販売しており、1935年(昭和10年)に上の「日本金銭登録機」と提携し、同社の日本法人、日本NCR株式会社になりました。

ところが、戦前の1940年(昭和15年)、アメリカ他の欧米諸国との関係が悪化したのを機に、日本国内では外資排除が行われ、このため日本NCR株式会社は、東京芝浦電気株式会社(現東芝)が買収し、同社の大仁工場となりました。

現在でもこの工場は、「東芝テック」の名で操業しており、戦後すぐには、照明器具ではランタン・誘蛾燈、事務機では和文タイプライタを製造していたといいますが、現在は東芝のグループ企業として、POSシステムやデジタル複合機、レジスター、自動認識装置(バーコードなど)、インクジェットプリンターヘッドなどを製造しています。

その後、大仁にあったという、木屋呉服店は間宮純一の父の登也が継承しましたが、その後は縁戚関係にあった元総理の「鈴木貫太郎」家の縁戚者により営業が続いているといいます。現在も駿豆線大仁駅近くにあり、ここは宝くじ店をやっていたこともあり、良く当たる店として有名だったといいます。

マミヤ光機を創業した間宮純一の叔父、間宮精一は、生まれは大仁だったようですが、育てられたのは東京のようです。中学生の頃より写真機や撮影に深く興味を持ち、写真雑誌のコンテストに頻繁に投稿していたそうです。

浅草にあったヤマト商会という写真機店の店主がアマチュアの面倒見が良く「ヤマト写真倶楽部」という同好会を作っており、精一もここに所属していましたが、ここには木村伊兵衛などその後写真界の巨匠といわれるような人や、新派劇俳優、映画監督で名を馳せた井上正夫といった人も所属しており、芸術家の巣窟のような組織だったようです。

「懸賞荒し」の異名を取るほど非常に入選が多く、特徴的な作画は審査員に覚えられてしまい、ある時などは「いつも賞金賞品を独占するのはまずい」と考え友人の名前を借りて応募しました。が、これも入賞してしまい、出版社から電話があり「この作品は間宮さんのではないか、それを認めるなら入選させる」と白状させられたこともあったほどでした。

幼いころからカメラの機構に深い興味があり、「いつかは舶来品を凌駕する立派な国産カメラを作ろう」と考え写真機の考案をしていたといい、また、あるときのコンテストで一等賞品としてライカを得たことから、その後「ライカ倶楽部」という写真家集団を結成して作家活動をも行いました。

しかし、長じてからは大仁の父の事業を手伝うようになります。上述の「間宮式加減算機」の発明は、1923年の関東大震災によって高価な金庫の需要が減り、また進歩した海外製品が輸入されるようになって父の事業は窮地に立たされため、父を助けるために輸入品に対抗できるキャッシュレジスターを製造しようと考え末に生み出されたものでした。

この発明の際には、大仁に帰り、鉄道人夫の空き家を借りて食事は家族より握り飯を差し入れてもらって研究する日々を送ったといい、この当時、「間宮の坊やは頭が変になった」と言われつつ「間宮式加減算機」を完成、さらにはそれをベースに1926年日本初のキャッシュレジスター「間宮式金銭登録機」を発明し、1927年には試作に成功しました。

舶来品より国産は低く見られた時代で当初この製品はなかなか売れませんでしたが、1928年に国産振興博覧会に出品し優良国産賞を受け、表彰式の場で役員だった藤山雷太に事業化を訴えました。この藤山雷太こそ、藤山愛一郎の父であり、上述のとおり、雷太の紹介によりこの息子の愛一郎から資金の提供を仰ぐことができるようになります。

その後、藤山愛一郎との関係はさらに深まり、1928年には、間宮堂を改組し藤山愛一郎を社長とする日本金銭登録機株式会社が設立されました。この会社は、この当時世界でも2番目のレジスターメーカーであり、間宮精一はこの会社の技師長でした。

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しかし、1935年にNCRの日本法人となった際、レジスターの国産化を目標としていた間宮精一とは路線が異なるところとなり、精一は1937年に退社、カメラ開発に転身しました。

国産レジスターの量産からカメラ開発に転身した1939年には「寫眞器ニ於ケル焦點調整装置」を実用新案登録しましたが、これはいわゆるバックフォーカシング機構のことです。現在のカメラの主流である、レンズを動かしてピントを合わせる方式ではなく、フィルム面を前後に動かしてピントを合わせる機構でした。

こうした斬新な機構をもってカメラ開発を始めるに当たり、写真の弟子であった菅原恒二郎が銀行家であった父を紹介して資金調達し、菅原恒二郎が社長、間宮精一が技師長となり1940年マミヤ光機製作所を設立、最初のカメラとして、「マミヤシックス」を発売しました。

このカメラでは、前述のフィルム面を前後に動かすバックフォーカス方式を採用することで、不安定になりがちで光軸がずれる危険のあるレンズ部での手動式の焦点調節をする必要がなくなり、光学系の精度を格段に向上させることに成功しました。日本のカメラ史上でも名機といわれています。

軍隊などの機関にこれを予約販売する方法を新しく取ったところ意外に反響が大きく申込者250人、予約金は6万円(約1億円)にも達しましたが、精一は「納得いかない機械は出さない」が信条で改良を重ねて納期が遅れ、始末書を取られたこともあったといいます。

その後さらに改良を重ねたマミヤシックスは売れ続け、マミヤの屋台を大きくするのに大きく貢献しました。戦争激化に伴い一時製造中止されましたが戦後復活し、1959年まで製造されるという、ロングセラーになりました。

その後、マミヤ光機は、日本光学(現ニコン)やキャノンとともに、日本を代表するカメラメーカーに成長しましが、間宮精一は1955年顧問に退き、1966年にマーシャル光学を設立、マーシャルプレスというカメラを設計発売しました。フィルムを半自動装てんできるというちょっと特殊なカメラでしたが、あまり売れなかったようです。

間宮精一は、昭和天皇崩御の前日である1989年(昭和64年)1月6日に90歳で亡くなりました。その後マミヤ光機は、1992年(平成4年)にオリムピック(旧オリムピック釣具)と合併し、現在はマミヤ・オーピー株式会社となりました。なお、現在釣り具を扱っているオリムピックは事業継承を受けた別会社であり、組織的な繋がりはありません。

しかし、マミヤ光機から継承した光学器械製造部門は、主力商品の中判フィルムカメラ・デジタルカメラの売り上げが不振であったことから、その後コスモ・デジタル・イメージング株式会社に移譲され、これは現在はマミヤ・デジタル・イメージングという会社になっています。

現在もデジタルカメラ、Mamiya645AFDなどの中判機を生産していますが、かつては、2000万画級の一眼であるMamiya-ZDも製造していたこともあり、これは100万円以上もする高級機でした。

素人はなかなか手が出せない高額なカメラですが、これには及ばないながらも、私もニコンの名機といわれるカメラを持っていて、日々撮影にいそしんでいます。

放浪の旅は芸術のインスピレーションを高めてくれるようですから、私もこのカメラでも持って放浪の旅に出たいところですが、果たして、タエさんが許してくれるでしょうか。

いつかどこかで、リュックをしょったヒゲオヤジを見かけたら、私だと思ってください。「怪しいヒゲオヤジ」として、後世では有名な写真家としてもてやはされているかもしれません。

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