昨日、デンマークで起きた「テロ事件」とされる銃撃戦は世界中を震撼とさせました。
世界中を敵に回している、イスラム国との関連なども取沙汰されているようですが、デンマークといえば世界的にみても最も平和な国のひとつと目されています。そんなところでもテロが起きたとすれば、平和ボケの我が国にも何かあるかもしれず、とても他人事とはいえません。
それにしても、このデンマークという国、いったいどこにあったかな~と思いだそうとするのですが、はっきりとわかりません。
改めて地図を見てみると、ありましたありました、ヨーロッパ大陸の北のほうに。といってもスカンジナビア半島側ではなく、ドイツの真上、北海側に突き出ている大きなでっぱりがこの国の大半を占める「ユラン半島」です。
おそらく日本人の大半はそんな半島の名前すら知らず(無論私もですが)、また、首都であるコペンハーゲンの位置すらわからないでしょう。更に調べてみると、このコペンハーゲンは、このユラン半島の東側にある、「シェラン島」の東の海岸にあり、ここから隣国のスウェーデンまでは幅約10数キロのエーレ海峡をまたいですぐ、という位置関係です。
しかも、このエーレ海峡には現在、「エーレスンド橋」という橋が架かっていて、陸続きでスカンジナビア半島方面へ行くことができます。
このように首都が島にあることからわかるように、デンマークは日本と同じく島国で、ユラン半島以外に443の島があり、このうち76が有人島です。
その総面積は、日本のおよそ11%ほど。ここに、およそ960万人の人々が暮らしていますが、その人口密度126人/ km²は、日本の343人/km²の半分以下であり、いかにもゆったりとしていそうです。
ヴァイキングとして知られるノルマン人がその祖先のようです。8世紀から11世紀にかけて他のヨーロッパ諸国を侵略し、11世紀初頭ころにはイギリスをも支配しており、これは「北海帝国」とも呼ばれました。
14世紀後半にはマルグレーテ1世の手により、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーを支配下にした大国として君臨しました。しかし、17世紀初頭にスウェーデン・ロシア帝国間で発生した「大北方戦争」において破れ、没落。
近代に至って、ナポレオン戦争においても、フランスと同盟を結んでいたため、敗北。1814年長年支配してきたノルウェーをもスウェーデンに奪われ、現在のような位置に押し込まれました。
第二次世界大戦ではナチス・ドイツの占領下に置かれましたが、1944年に駐デンマークのドイツ軍が降伏し、解放されると、戦後は北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、1973年にはヨーロッパ共同体(EU)にも加盟しました。
国内経済、教育水準共に世界トップクラスの先進国の1つであり、国連の非常任理事国も担当しています。北海油田による石油・天然ガスの供給があり、輸出も行われているなどエネルギー資源には恵まれています。このほか、風力発電が盛んであり、1980年代より組合が設立され個人の共同所有方式により多数が建設されています。
すぐ北側の領海には、北海油田に由来する油田を持っており、石油自給率は100%を超えています。また、デンマークの輸出額のうち10.7%を原油、精製燃料、天然ガスが占めており、同じ島国ながら天然資源の大半を輸入に頼っている日本とはココが違います。
また、高福祉国家として知られており、高齢者福祉や児童福祉が充実していて、国民の所得格差が世界で最も小さい世界最高水準の社会福祉国家です。国民の教育水準も高く、「医療制度と健康」「教育」「環境」「経済的な 豊かさ」など100件以上のデータを基に表された「世界幸福地図」でのランキングでは世界178ヵ国の中で、世界一です。
結婚・葬式、医療費・介護サービスが無料であり、失業手当は所得の90%相当が最長4年間支給されるほか、教育に関しては、大学までの学費は無料であり、出産・育児休暇は男女で56週間とれるだけでなく、給料も支払われます。
しかしながら、この高福祉国家はまた「高負担国家」でもあり、デンマークの最高税率は、所得税・地方税をあわせて51・5%です。国民の平均月収は、48万円ですが、手取りは27万円程度となるとのことで、このほか「付加価値税」なるものもあってその税率は25%におよびます。
これは、日本の消費税と異なり、税率が対象となる物品・サービスによって異なるという制度であり、高級品には高い税率、食品には低い税率という具合に、文字通り「付加価値」の加減によって税率が決められている、というものです。
日本との関係としては、1873年(明治6年)に岩倉使節団がデンマークを訪問したのがその交流のはじまりであり、無論、国交はあります。ただ、現在、デンマーク在住の日本人は1300人超、日本在住のデンマーク人は500名弱ということで、それほど交流が活発というほどではありません。
このほか、1957年に和歌山県沖でに日本の貨物船が遭難したとき、この船の船長以下をたまたま通りがかったデンマークの船が命がけで救助し、その船員のひとりがそのために命を落とす、といったことがありました。
そして、この日本の船員を救おうとして殉難した「ヨハネス・クヌッセン」という人の名が新聞で取り上げられ、当時の日本で大きな話題となりました。
その勇敢な行動は称えられ、事故の翌1958年には、事故現場を望む紀伊日ノ御埼灯台付近の日の岬パーク内に「クヌッセン機関長顕彰碑」が建てられたほか、遺体が打ち上げられた日高町阿尾田杭には「クヌッセン機関長遺骸発見の地」と記された供養塔が建てられています。
この事件は、日本とデンマークの友好と交流の象徴として語りつがれるところとなり、両国の関係が現在も良好なのは、この一事によるところが大きいようです。
デンマークは、サッカーが盛んで代表は1992年欧州選手権で優勝していますが、日本の川口能活選手は一時期、デンマークのサッカークラブノアシェランに所属していたこともあり、この面でもデンマークは日本人にとって著名な国です。
プラスチック製の組み立てブロックの玩具、レゴ(LEGO)が生まれた国としても日本人には馴染があります。この「LEGO」というのは、”Leg Godt” からとったもので、これは「よく遊べ」を意味するデンマーク語です。
このレゴに限らず、なにかデンマークといえばおとぎの国、という印象がありますが、これはやはり、「アンデルセン童話」でおなじみのハンス・クリスチャン・アンデルセンの母国だからでしょう。
コペンハーゲンの有名な遊園地チボリ公園も、それを模したものが岡山県の倉敷市に作られ、「倉敷チボリ公園」として存在していましたが、惜しくも2008年に閉園になっています。
このアンデルセンという人は、生涯独身だったそうですが、死去するまでの間に多くの童話を発表しつづけた背景には、自らがそうであったように死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧しい人々への思いやりがあった、といわれているようです。
また、こうした貧困層に対して無関心を装い続ける社会への嘆きが、優れた作品を生み出す原動力になったともいわれます。
とはいえ、その作風はどちらかといえば暗いものが多いようです。初期の作品では主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくありません。
が、年を重ねるにつけ、若死以外にも幸せになる術がある、一生懸命努力していればいいことがある、といった人生訓のようなものを作中に書き出していくようになっていきました。おそらくは自身の成功に照らし合わせての心境変化だったでしょう。
世界中で愛読されていたにもかかわらず、自身は常に失恋の連続だったといい、その要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったことなどがあるようです。また、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を恋した相手に送るといった、変な癖があったことを指摘する人もいるようです。
極度の心配性だったそうで、外出時は非常時に建物の窓からすぐに逃げ出せるように必ずロープを持ち歩いたといいます。また、眠っている間に死んだと勘違いされて埋葬されてしまった、というある男の噂話を聞いてからは、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していたといいます。
70歳の時に、肝臓癌のため死去しましたが、アンデルセンが亡くなった時は、のちのデンマーク王となるフレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並び大騒ぎになったそうです。
彼の肖像は、デンマークの旧10クローネ紙幣に描かれていたこともあり、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家が一般公開されており、このほか「アンデルセン博物館」もオープンしています。
首都コペンハーゲンには、その代表作「人魚姫の像」があり、世界的にも有名です。この話を小さいころに絵本などで読んで覚えている人も多いでしょうが、これは人魚の王の6人娘の末っ子だった主人公が、嵐に遭い難破した船から溺死寸前の王子を救い出し、この王子に恋心を抱いてしまう、という話です。
この王子とどうしても結ばれたかった人魚姫は、海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰いますが、その時に、「もし王子が他の娘と結婚すれば、姫は海の泡となって消えてしまう」と警告を受けます。
こうして王子と一緒に御殿で暮らせるようになった人魚姫でしたが、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話せず、王子は人魚姫があのときの命の恩人だと気付きません。
しかも王子は偶然浜を通りかかった娘を、かつての難破の際に自分を救ってくれた命の恩人に違いない、と勘違いしてしまい、この娘との結婚を決めます。
悲嘆に暮れる人魚姫。しかしその前に上の5人の姉妹たちが現れます。そして姉たちは、海の魔女に貰った短剣を差し出し、これでもって王子を刺し、彼の流した血を浴びれば人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝えます。
しかし、人魚姫は愛する王子を殺せずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えました。そして、人魚姫は空気の精となり天国へ昇っていきましたが、王子や他の人々はけっしてその事に気づくことはありませんでした……
といったふうになんとも後味の悪い話なのですが、この人魚姫に限らず、アンデルセンの話の結末には暗~いものが多いようです。このほか赤い靴を履いたまま踊り狂う少女の話を綴った「赤い靴」とか、ツバメに目や体の一部を差し出して自分はみすぼらしい姿になった王子の像の話「幸福の王子」とか、「マッチ売りの少女」とかとか、です。
こうした話の中でもとくに地元デンマークで人気が高いのが「人魚姫」だったようで、首都、コペンハーゲンにある「人魚姫の像」もそれゆえに設置されたのでしょう。デンマークは日本と同じ海洋国であり、海が好な人が多いということもあったでしょう。日本人も何かと言えば芸術対象として海に関するものを選びたがるクセがあります。
ところが、この人魚姫の像は、その日本人観光客をがっかりさせる「世界三大がっかり」のひとつとして選ばれているそうです。世界的に有名で見に来る観光客が多い割には、ちゃちくて過剰な期待を裏切るためだということで、後の二つは、シンガポールのマーライオン、ブリュッセルの小便小僧だそうです。
岩の上に腰掛けた格好をした像であり、コペンハーゲン港北東部ランゲルニエ地区にあります。いくらちゃちいとはいえ、世界に名立たるコペンハーゲンのシンボルです。私は見に行ったことがないのですが、行った人の話によれば、通常は岸から数m先の海上にありますが、干潮時には歩いて像までいくことができるそうです。
人魚姫の物語を演じたバレエに感銘を受けた、デンマークビールの有名ブランド「カールスバーグ」の醸造所の創立者の息子が1909年、この人魚姫の像の制作を要請し、有名彫刻家に依頼して製作されたものだそうで、当初、そのバレエの主役を演じた王立劇場のプリマドンナの肉体美がモデルになる予定でした。
ところが、彼女が裸体モデルを拒否したため頭部のみのモデルとなり、この彫刻家の妻で、E・H・エリックさんと岡田眞澄さん兄弟の伯母にあたるエリーネ・エリクセンという人が首から下のモデルとなったといいます。
アンデルセンの原作では、腰から下は魚だったはずですが、この人魚像は二本足の足首の辺りまで人間で、それ以下が魚のひれになっているという違いがあります。これは、肢体のモデルになったこのエリーネ嬢の脚があまりに美しく、鱗で覆うのがしのびなかったためともいわれています。
ところが、このおみ足の美しい人魚姫の像は、過去には幾度かにわたって損壊されるなどひどい目に遭っています。
1961年に、髪の部分を赤く塗られ、ブラジャーとパンツを描かれたのを皮切りに、1964年には挽き切られた頭部が持ち去られたこともあり、このときはこの切り取られた像の一部はとうとう取り戻すことは出来ず、新たに頭部が制作されたといいます。
その後も、1984年には右腕が切断、1990年には頭部が切断されかけましたが、この時は難を逃れました。しかし、1998年には再び頭部を失い、約1ヶ月後、覆面をした男がある日突然テレビ局に現れ、切断され人魚の首を差し出したといいます。
さらには、2003年、ダイナマイトと思われる爆発物で像の台座にあたる岩石が爆破されましたが、本体は無事でした。その後もこうした悪戯は後を絶たず、2004年には、イスラム教徒の女性が用いる黒いブルカがかぶせられたほか、2006年には緑色のペンキが全身にかけられ、翌年には二度に渡って全身をピンクや赤で塗られました。
一番最近は、2007年5月であり、このときは全身を覆う黒いイスラム装束がかけられ、頭部にスカーフが巻かれたといいます。
今回、コペンハーゲンで起こったテロ事件との関係が想像されます。このころから既にデンマーク国内では反イスラムvs擁護派が争う兆候が既にあったのではないか、と思われるわけですが、このとき人魚の像にイスラム装束をかけたのが、はたしてデンマーク国民だったのかどうかまではわかっていないようです。
しかし、人魚姫の像には何の罪もありません。こういった自分は何も悪いことをしていない、芸術作品さんに危害を加えることを、「芸術テロ」と呼ぶこともあるようです。
が、これは本来、その芸術作品を創作した芸術家自身が、社会一般的に受け入れられない方法で、自らの作品を発表することを指します。
時に非合法手段に頼ることもあり、最も一般的な芸術テロといわれるものは、何のことはない、壁などへの落書きです。街中を歩いているときにふと見かけることも少なくないわけですが、しかし、これらの大半は意味のない文字の羅列か、罵倒語などで、お世辞にも芸術作品とはいえません。
人目につきやすい所に設置する場合が殆どで、作業は人目をはばかるため夜間や人の少ない時間帯に行われ、日本ではあきらかに犯罪であり、罪状としては器物損壊などにあたるでしょうか。
こうした行為を行う輩は、「芸術テロリスト」と呼ばれる場合もあるようですが、テロリストと言われる人々の中には、卑劣な行為とはいえ、命をかけてその行為に及んでいるわけで、それに比べれば、こうした落書き小僧たちはその名に値するほどのものではありません。
ところが、この「芸術テロリスト」と呼ばれる人の中には、本物の芸術家もときにいるようです。イギリスでは、これをあだ名として呼ばれている芸術家がおり、この人物の作品の芸術的評価はかなり高いようです。
イギリスでは、「バンクシー」と呼ばれており、ニューヨークのMoMAこと、メトロポリタン美術館やロンドンの大英博物館などの館内に、自らの作品を無許可で展示したことで有名になりました。
このほかにも、ブルックリン美術館、アメリカ自然史博物館などでも同じ手口で展示を行っており、他の展示物とは全く趣旨の異なる物でしたが、作品は場に溶け込み、発見されるまでに数日かかったこともある、といわれています。
街中の壁にステンシル(型紙)を使って反資本主義・反権力など政治色の強いグラフィティを残したり、美術館や博物館などの館内に、自らの作品を無許可で展示するなどの派手なパフォーマンスにより、いつのまにやらそのあだ名は「芸術テロリスト」となっていったようです。
さらに2005年には、大英博物館に「街外れに狩りにいく古代人」という題名の壁画の一部を勝手に展示。遺跡にはショッピングカートを押す古代人と、カートに槍が刺さった獣が入っている絵が描かれていたそうです。
その後、バンクシーはロンドン市内のギャラリーで開催されていた自分の個展のためにこの作品を大英博物館から一旦引き取りました。その際、作品横のキャプションに「大英博物館より貸与」の一文をつけたといい、後に、大英博物館はこのバンクシーの作品を正式なコレクションに追加したともいわれています。
街頭などへのディスプレイにこだわって芸術活動を行っており、企業の商品とのコラボレートやミュージシャンのアルバムジャケットの依頼等はほとんど全て断っているといいます。
その例外としては、2002年に日本のファッションブランドモンタージュのティーシャツを2種類、 2003年にはイギリスの人気ロックバンド、ブラーのアルバム「シンク・タンク」のジャケットを描いたものなどがあるそうです。
しかし、たとえば、世界のトップ企業であるソニー、ナイキ、マイクロソフトや、トップミュージシャンのデヴィッド・ボウイ、オービタル、マッシヴ・アタックなどのオファーがあったにもかかわらず、これをすべて断っているといいます。
彼の作品の多くは街頭の壁面などに描かれており、ただの落書きだと考える市当局による清掃などの際に消えてしまう例も頻発しているといい、あとで気がついて、ムンクの「叫び」のようになってしまう職員もいるということです。
2006年には、イギリス西部の港湾都市、ブリストルに裸の男がバスルームの窓からぶら下がっている壁画を制作。この作品は取り除かれるべきか、そのままにしておくべきかで論争を巻き起こしたそうです。が、インターネット上でのディスカッションでは97%の人々が取り除くべきでないという立場を支持したため、今もそのままになっているといいます。
以上は彼が行ってきた芸術テロのほんの一部ですが、こうしたことからみても、ただの町のチンピラ芸術家とはその腕が違うことがわかってきます。
2007年2月に行われたサザビーズ主催のオークションではバンクシーの作品計6点が落札予想価格を大幅に上回る総額37万2千ポンド(日本円で約8500万円以上)で落札されたそうです。
その芸術性は次第に認められ続け、2009年にはついに、6月13日から8月31日の期間で地元ブリストルの美術館(市営)において大規模展「Banksy versus Bristol Museum」を開催しています。
さらに、2010年、バンクシーを追いかける男の映像をもとに、いつの間にかその男がバンクシーらによってグラフィティーアーティストにしたてあげられていく、という一風変わったドキュメンタリー映画も造られました。
「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」という作品で、自らが監督を務めたといい、同年度のアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にもノミネートされました。
英国のガーディアン紙によると、本名はロバート・バンクス(Robert Banks)といい、1974年にブリストルで生まれた人物だとされています。一方、BBCは彼の本名をロビン・バンクス(Robin Banks)としています。
バンクシーと顔を合わせてインタビューしたのはこれまでにたった一人しかいないとされ、この取材を行った記者によれば、バンクシーは28歳、ジーンズにTシャツ姿で、片耳に銀のイヤリングをしていたといいます。
2008年3月6日にオンエアされた「奇跡体験!アンビリバボー」で、バンクシーの友人と思われる人物が登場し、このときうっかり「ロビン」という名を口にしたそうで、これが事実だとすると、BBCの報道が正しいのかもしれません。
そしてその4か月後の7月には、ついにバンクシーの身元が判明したとの報道がなされ、その報道によると、バンクシーの本名はロバート・カニンガム、ブリストル出身で1973年生まれだといいます。
この報道が正しいとすれば、彼は現在42歳。油の乗った年齢です。これからさらにどんな芸術テロを見せてくれるか楽しみではあります。
ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーには、バンクシー自身のポートレートが収蔵されているといいます。
が、このポートレート自体にも覆面がかけられているといい、いったいどこまで人を食った芸術家なのかと、笑ってしまいます。
仮に今後日本でもテロ事件が起こるとして、同じテロでも、こうした楽しいテロなら受け入れられるかもしれません。少しずつ景気の上向いている昨今、こうしたテロリストだらけになればさらに日本の運気も上がろうというもの。
芸術の腕前に覚えがある方々は、ぜひこうしたテロリストになっていただきたいものです。