HIROSHIMA

かねがね疑問だと思っていたのですが、出身地の定義ってなんなのでしょうか。子供のころ、親の都合などで住処があちこち変わった人たちって、出身地をどこだと思われているのでしょうか。

ネットで調べてみると同じような疑問を持っている人は多いらしく、その問いに対する模範解答の多くは、「義務教育期間+高校など成長過程を過ごした場所」としているようです。けれど、法律的なしばりがあるわけでもないようなので、出身地はと聞かれたら、単純に生まれた場所でも本籍地でもとくに問題はないようです。

私は、といえば、生まれたのは愛媛県の大洲市というところですが、父の仕事の関係で、3歳のときに広島市に移り住みました。広島に住んでいたのは、18歳で高校を卒業するまでなので、上記の模範解答通りだとすると、出身地は広島ということになります。広島に住んだ通算年数は15年。幼少期から多感な少年期を過ごしたわけであり、その風土の臭いのようなものを身にまとうには十分な時間です。

しかし、だからといって広島出身・・・というのもちょっと違うなーという感じるのは、その風土に対する親近感でしょうか。子供のころから、どちらかというと母方の郷里である山口のほうが好きで、夏休みや冬休みの大部分は母の実家である山口市内の家で過ごしたものです。母も実家にいるほうが食費もかからないし・・・ということで、父を広島に置いて山口に来ることが多かったらしい。

過ごした時間のトータルで言えば広島のほうが当然長いのですが、過ごした時間の密度の濃さという点では山口に軍配が上がると思う。田舎で何もないといえば何もないところなのですが、小京都といわれるぐらい景色や歴史的には見るべきものが多く、子供ながらにその風情を楽しんでいたようです。自然が多く、その自然の中のいたるところに歴史が埋もれているかんじの山口が大好きで、ひとりでもバスや電車に乗り、よくそうした史跡を見に行ったものです。大学卒業後、両親が広島から山口に移住したこともあり、その後も盆正月に限らず何かにつけ山口に帰ることが多く、おそらく山口で行ったことがない場所はないのではないでしょうか。

なので、「出身地」は、と聞かれたときには、広島、といってみたり、山口と言ってみたりで脈略がないのです。しかし、最近では、ようするに両方のハイブリッドだな、と思うようにしています。

とはいえ、子供のころの生活基盤があったのは紛れもなく広島。学校で習う社会科の授業には広島で落とされた原爆の話題が出てきましたし、原爆で町が消滅に近い打撃を被ったにも関わらず、奇跡的な復興をとげ、マツダに代表される工業の町、中四国地方の商業の中心地として高度成長期には著しい変化を遂げた町でもあります。

そんな町、広島で我々夫婦、ムシャ&タエが出会ったのは、高校二年のとき。厳密には高校入学と同時に出会っているはずなのですが、クラスが違っていたので、お互いを認識したのは同じクラスになった二年生というわけです。その学校、広島国泰寺高校は、その昔広島一中と呼ばれていた100年以上の歴史を誇る伝統校。それだけに人気は高く、競争倍率はその当時割と高かったのですが、二人とも中学時代の成績はよく、無事入試をパス。晴れて伝統校の一員になったのです。

私が、愛媛県大洲市生まれであるのに対し、タエさんのほうは、島根の松江の生まれ。お互いの両親が公務員だったというのは偶然でしょうが、転勤の多い公務員のこと。その転勤先が同じ広島だったことが、二人がめぐりあうための下地になったわけです。今思えば、そういう両親を選んで生まれてくることが、二人して広島で出会うために必要な必然だったのでしょう。

国泰寺高校はいわゆる進学校で、卒業生のほとんどは大学へ進学。そのせいもあって、受験に専念させるためか、高校三年のクラス替えはなし。従って、二年から三年の二年間、をタエさんと同じクラスで過ごすことになりました。三年になると大学受験のための課外授業などもあり、正規の授業と課外授業、そして来るべき受験に備えての受験勉強でかなり忙しく、今振り返ってみても楽しかった、といえるような時代ではありませんでした。

そんな中にあっては、恋愛なんてやっている暇なんかねーよ、というわけで私も好きな女の子の一人や二人はいましたが、恋愛関係に発展する間もなく受験体制に突入し、あれよあれよと高校三年間が終了。県外の大学を受験したクラスメートも多く、高校卒業とともに、クラスの面々の半分は広島に居残ったものの、残るは全国にバラバラに散っていきました。

その当時私は写真部に所属しており、いつもカメラを持ち歩いていて、そうした校内の催しやクラス内での様子などを毎日のように写真に撮って記録していました。今もその当時のネガが大量に残っているのですが、その一枚一枚をみると、その当時のクラスメートどうしの親密さがうかがわれます。

我々のクラスはわりと結束力が強く、校内のバレーボール大会でもスクラムを組んで優勝。合唱祭でも賞をもらうなど、なんというか、クラス全員でいつも何かやっているというような一体感がありました。そして、その一体感から生まれたこのクラスの結束こそが、その30年後の我々の結婚につながっていくのです。そのことは、またこのあと書いていきます。

高校時代のわたしとタエさんの接触はどうだったのでしょうか。正直なところあまり覚えていないのですが、クラスには「班」というものがあり、それぞれの班単位で掃除やらクラスの行事などを担当するしくみになっており、同じ班に所属したことが一度あったかと思います。

それが縁で親しく話をする機会もあり、どんな会話だったのか全く覚えていませんが、修学旅行のとき、飴をくれるといったのにくれなかった、と私が愚痴を言ったとか言わなかったとかいう出来事があったようです。そのお詫びを兼ねて、彼女が私に書いて寄こした年賀状が手元に残っています。お詫びといいながら、かなりちゃかした表現で、飴玉の絵が添えてあり、そのとき、なかなか面白いヤツ、と思ったことは覚えています。

しかし、それがその後、恋愛感情に発展するとはそのときまったく思っていませんでした。彼女のほうも、とくに私にそんな感情を抱いているそぶりもなく、それもそのはず、その当時の私といえば、結構小太りで赤ら顔の写真好きオタク少年といったかんじ。おそらくは眼中にはないわよ、といったところだったでしょうが、とはいえ、そんな年賀状が残っているくらいですから、同級生同士としては話は合うほうだったのでしょう。

その程度のご縁しかなく、どちらかというとすれ違い、といってもいい二人でしたが、高校を卒業し、私は静岡の私立大学へ、彼女は広島の公立の女子大学の大学生になり、ますますその距離は遠ざかります。

その二人が再び出会うことになったのは、高校卒業後の最初の夏だったと思います。誰が言い出したかわかりませんが、結束力の高かったクラスでもあり、同窓会をやろうという声があがったのです。しかもただの同窓会では面白くないので、キャンプをしようという話になり、卒業後はじめての野外同窓会が実現します。

同窓会が行われたのは、広島県北にある「県民の森」というところ。野外で炊飯できる施設があり、コテージのほか、テントの貸し出しもあったかと思います。ここで一泊二日のキャンプ同窓会を開くことになったのは遅い夏だったと記憶しています。集まった総勢は、全部で十数人だったでしょうか。男子女子ほぼ半々の割合で久々に集まった面々。男性陣の仲にはすでに麻雀を覚えたりタバコを覚えたヤツもいたかと思う。学生服に変わり、私服で過ごすようになった女性陣はといえば、さすがにまだお化粧している子はいなかったと思いますが、高校時代にくらべてずいぶん変わったなーと思ったのを覚えています。

このキャンプ。息苦しい受験戦争を終え、大学へ入学して自由になった面々のこと、かなり大騒ぎをしたのを覚えています。みんなはしゃいでいましたが、そのときタエさんは少し疲れたようなかんじでした。どうしても出なければいけない同窓会というわけではなく、ちょうどスケジュールが空いていたので来たというところだったでしょうか。妙に物静かで口数が少なかったように思う。

大学入学後、女学生らしく少し髪の毛を伸ばして帽子をかぶり、黒いパンツにベージュのトレーナーといったシンプルな服装のタエさん。ほかの子同様、けっしておしゃれには見えませんでしたが、高校時代に見た学生服のタエさんと違ってずいぶん大人びてみえました。

今にして思えば、その再会が運命のときだったわけです。少しものうげで大人びたそぶりの彼女にビビッと来たのが運のツキ。気恥しいのであまり書きたくはありませんが、いわゆるひとつの恋心なるものを覚えたわけです。その後静岡へ帰り、彼女のことを思い返すにつけ、どうしても我慢ができなくなりました。

私は、恋愛に関してはかなり奥手のほうでしたが、思いつめると自分でもあれっと思うような行動に走ることがあります。その夏のことだったか、その次の冬休みのことだったかもう忘れてしまいましたが、どうしてもタエさんにまた会いたくなり、とうとう彼女がアルバイトをしていた市内の本屋さんに彼女に会いに行くという大胆な行動に出るのです。

ちょうど彼女はレジで会計をしていましたが、私を見ると驚いた様子でした。が、顔をあげ笑顔であいさつをしてくれました。これに対して軽く会釈で応じ、本を見るふりをして書店の中をぐるぐる回ります。そして、さあて、どうしたものか、と考えました。まさか、レジの前で告白するわけにもいかんしなー、誘うにしてもきっかけが思い浮かばんし・・・

といろいろ思案していましたが、ふと一計を思いつきました。そして、大学で必要な本なんだから、と自分で自分を言い聞かし、海洋学関係の本を一冊手にとってレジへ。その本、とくに必要な本でもなかったのですが、タエさんと話をするためのダシに使おうと思ったわけです。結構高価な本だったと思うのですが、そんな難しい本を買いに来たんだ~とタエさんが思うかもしれない、という下心も。そしてレジにいたタエさんに手渡すと、彼女は「まぁ、こんな高い本を」とか言ったかと思います。

それがきっかけで少し会話ができ、その会話の終わりに、今日はちょうどクルマで来ているんだけど、もしバイトが終わるのがもうすぐならば、ウチまで送って行ってあげるよ、と私としてはさらに大胆な発言をしたのです。

断られるかな、と思いきやOKの返事をもらった時には、天にも昇るような気持ちだったのを覚えています。そして、口実とはいいながら、彼女の自宅までの車での初デートが実現。無論、彼女はデートとは思っていなかったでしょうが。クルマの中での会話の内容はよく覚えていませんが、お互いの大学生活のことだったでしょうか。お互い多少意識しつつも会話のキャッチボールは途切れなかったように思う。私としては、しめた!と思ったもんです。

そうしたこともあって、静岡へ帰ったあと、広島にいる彼女との手紙のやりとりが始まりました。実際には「やりとり」というほどではなく、どちらかといえば私からの手紙の数のほうが多い、一方的な文通。彼女から私のほうへ来た手紙は2~3通ほどだったかと思います。私はせっかちな性格なので、彼女の手紙が来ないうちに次を出してしまうのですが、奥手の性格なのでかんじんなことが書けず、くだらないことばかりを書いたような気がします。とはいえ、私なりに趣向を凝らして彼女を楽しませるような内容を書いたと思うのですが、それに対しての彼女の返事は待てども待てどもなかなか来ません。

そして、最後に意を決し、とうとう告白めいたことを書いて送った手紙に対し、彼女から帰ってきた手紙は・・・ やっと返事をもらえたと思ったその内容は・・・ご期待どおり、NOでした。

その当時、お互い19歳。お互い、大人の恋愛をするには少々早すぎました。私自身はかなり奥手のほうなのですが、彼女もかなり奥手のほう。あとで聞いた話ですが、彼女もその後大学を卒業するまで、彼氏はできず、私も同様。今思えば似たものどうし、だったわけですが、私自身まだ精神的に幼すぎたし、タエさんもそれを補えるほどの母性はまだ持ち合わせていなかったのでしょう。お互いその時期ではなかった。今思えばそのとおりなのです。

そして、そのまま大学を卒業・・・彼女は広島にいたまま職業としてコピーライターを選び、私は東京へ出て建設コンサルタント会社に就職。技師のたまごとしての人生をスタートします。お互い全く違った場所で全く違う社会を経験していくことに。お互い、その後の人生は時に過酷なものでもありましたが、しかし、お互いその後の別々の人生の積み重ねがなければ今の二人はなかったのです。

そして、そんな二人が再会するまでに30年の月日が流れていきました。その再会を果たした場所もやはり広島。ふたりにとって実に縁の深い土地です・・・

今月は結婚記念日を間近に控えているので、「ブライダル月間」ということで、二人のなれそめの話を書いていきたい、というのは先日も公表したとおりです。とはいえ、結構、この手のことを書くには、「リキ」がいるので、この続きは、明日以降、気が向いたら、ということにさせてもらえればと思います。

結婚している人も、もうすぐ結婚する方もそれぞれの特別のストーリーがあると思います。わたしたち二人の場合、結婚に至るまでの二人の人生が一度は交わりながらも、それていき、そしてふたたび交じり合って結ばれたという、ありそうでわりとないストーリーです。

そんなお話にご興味があればまた当ページへお越しください。