山口~ゴア~パンプローナ

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今日は私の実家のある「山口市」の誕生日のようです。

戦前の1929年(昭和4年)4月10日、旧山口町と吉敷郡吉敷村が合併、市制が施行されました。

「郷里」と書きたいところなのですが、実際には生まれたのは愛媛県の大洲市なので語弊があります。が、育った広島以上にここで過ごした時間は濃く、小さな町でもあるので街の隅から隅まで知っています。

とはいえ、言ってはなんなんですが、ヘンな町です。

というのも、県庁所在地のある町としての人口の最下位を、同じく人口の少ない松江市と毎年のように争っており、20万人に届きません。そのくせ、国の中央機関と地方の中央機関の両方が置かれている行政都市でもあり、県内の文化の中心でもあります。

やたらに文化施設の多い市であり、県立図書館・県立博物館・県立美術館が整備され、その他大小の博物館や資料館などの箱モノがあちこちに点在し、周辺一帯は県内随一の文化・教育の一大拠点をなしています。さらに意外にも産業も活発で、山口市の年間商品販売額は山口県内第1位です。

しかも、山口県のほぼ中央に位置しており、山しかないのかと思いきや南端は瀬戸内海に面しており、北端は島根県と接しています。また立地的に不便なところかと思えば、山口県は道路網が整備されていることから、県内のほぼ全域から1時間30分以内で到達することが出来ます。

加えて、旧小郡町との合併により、山陽新幹線のルートもこの市域に取り込まれるようになり、「新幹線が止まる街」として最近は内外にアピールしているようです。

政令指定都市でもないのに、何から何までこれだけ集中している市というのは他に例はなく、強いていえば京都市がこれに近いのですが、こちらは人口150万に迫る大都市であり、比べようがありません。

ただ、歴史の町という点では共通点があり、盆地である点も京都と似ています。山口はよく「小京都」と言われます。応仁の乱以後には乱を逃れてきた文化人を歓迎したので大内文化が花開き、「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めました。

室町幕府10代・12代将軍の足利義尹(義稙)がこの地にいたこともあり、幕末には京都から追放されてきた7人の公家が在留したり、画聖ともいわれた雪舟もここで長期に渡り創作活動を行っているなど、この町に縁のある京都人はたくさんいます。

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ヘンな町、といいつつもそこらあたりが誇らしくもあるわけですが、さらにはこの地から維新の原動力となる数々の志士が排出されていったのは、それだけここには何でも揃っており、彼等を養う経済的な下地と土地柄があったことに他なりません。

確かに何からなんでもあって便利であり、住みやすいか?と聞かれれば、まぁYESと答えるべきでしょうか。県庁や市役所、警察や病院などほぼすべての公的機関が、わずか半径5kmほどの土地に網羅され、しかもこの中にデパートや中央商店街、都市銀行などがあり、大企業の支店も数多く存在します。

かといって、他の県庁所在地ほどごみごみはしておらず、歴史遺産が多いので散歩する場所には事欠きません。少しクルマを走らせればのどかな田園風景が広がり、30分ほどで海にも行くことができます。市内に中国自動車道のインターチェンジがある点もポイントが高いでしょう。

が、盆地であるがゆえに夏の暑さはハンパではなく、これが暑いのが苦手な私がここへ戻らない理由でもあります。が、ちょっとした文化的な生活もできる田舎町、といった場所をIターンでお探しの方には良いのではないでしょうか。おすすめします。

広島と福岡の中間地点にもあたり、ちょっとした買い物などはこちらへ行けばよく、またコンサートやスポーツ観戦を楽しみたい場合にもこれらの大都市圏が近いというところは大いにアピールするように思います。

……とこの街の事を書きながら、ウィキペディアで改めてこの市のプロフィールをおさらいしていたのですが、ふと目にとまったのが「姉妹都市」の項。中国の済南市や鄒平県、韓国の公州市などがそれなのですが、これは、戦前から山口市民もこれらの町に渡り、商取引をしていたためだと思います。

が、もうひとつ、スペインの「パンプローナ市」とあるのは何故なのでしょうか。

しばらく考えてみてすぐに思いあったのは、フランシスコ・ザビエルのこと。早速調べてみたところ大当たりで、ザビエルは、その昔スペイン北部にあった「ナバラ王国」の一都市であったこのパンプローナ郊外の「ハビエル城」で生まれていました。

生家は、地方貴族の家だったようで、19歳で名門パリ大学に留学後、23歳のとき学んでいた哲学コースの先生から強い影響を受け、聖職者を志すようになり、イエズス会に入会しました。

当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することを決めており、このときザビエルはこれに志願。30台後半はインド各地で宣教し、39歳のときマレーシアの港湾都市、マラッカにその宣教活動の場を広げました。

ここで、多くの人々をキリスト教に導きましたが、その活動がちょうど2年経ったころ出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人でした。これが縁で、ザビエルは翌1549年、自ら洗礼を与えたヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指しました。このとき42歳。

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一行は明を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後現在の鹿児島市祇園之洲町に来着しました。薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得たところ、これを許されます。が、その後この貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去ります。

ザビエル一行は肥前平戸に入り、ここで宣教活動を数か月行いましたが、さらに京を目指しここを出立。1550年には関門海峡を渡り、このとき始めて周防山口の地を踏みました。

周防の守護大名・大内義隆にも謁見しましたが、このときは男色を罪とするキリスト教の教えを大内氏がよく思わなかったため不調に終わり、いったんは宣教を断念。同年12月に周防を立ち、改めて京を目指しました。

ザビエルが京を目指した理由は、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るためでした。この当時の日本の統治をしていたのは、天皇家及び足利幕府であったため、ザビエルは後奈良天皇および足利義輝へ親書を送って拝謁を請願。しかし、これは実現しませんでした。

その理由としては、献上の品がなかったためといわれていますが、この当時の京都は室町幕府の権威失墜により荒れに荒れており、御所や幕府も異国人による布教?そんな奴らと会っている場合じゃない、といった状況だったようです。

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こうして京での滞在をあきらめたザビエルは、再び山口を経て、1551年、平戸に戻ります。本来は山口で改めて大内氏に布教を願う予定でしたが、京での経験から、何かを権力者に依頼するときは、賄賂が必要、ということを学んだからでした。

平戸に戻ったのも、ここに置き残していた献上品を取りに戻ったからであり、これを携え、三度山口に入ります。このときザビエルは既に45歳でした。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観も重視されることを学習していたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上したといいます。

このときの献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであったと伝えられており、またザビエルは、初めて日本にメガネを持ち込んだといわれます。

これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めました。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えました。この大道寺というのがどこにあったのかを調べてみたのですが、これは、現在の山口市内東部にある自衛隊の駐屯地敷地のすぐ南側にありました。

もうすでに廃寺となり、この当時の遺跡等は何も残っていませんが、記念碑が建てられて「ザビエル公園」と呼ばれる小さな小さな公園になっているようです。無論、私も今初めて知った事実であり、この界隈にはよく行くのですが、気が付きませんでした。

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ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったといい、この山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師もいました。

彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会でも名説教家として知られ、精力的な布教活動を行うようになる「ロレンソ了斎」となりました。ロレンソはその後九州を中心に宣教活動を行い、その後織田信長から布教の許可を得ると畿内を中心に宣教活動を行いました。

琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かったロレンソは、その知識を生かしてキリスト教を布教し、戦乱の世にあって救いを求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えました。

当時の畿内や九州で多くの洗礼者が出たことはロレンソの布教活動に負うところが大きいといわれます。しかし、豊臣秀吉によるバテレン追放令を受けて九州へ戻り、長崎で亡くなっています。

そのロレンソを弟子としたザビエルは、その後、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をスペイン人の弟子たちに託し、この地へ赴きました。

ここでも守護大名・大友義鎮(後の宗麟)の保護を受けることができ、宣教を行いましたが、日本滞在が2年を過ぎるこのころから、インドからの情報が来なくなったことを気にしていました。

このころのポルトガル領インドの首府はゴアであり、アジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王が駐在しており、ゴアとリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれていました。多くのポルトガル人をアジアに送り出し、アジアの富をポルトガルに持ち帰っており、ローマ教会の大司教座も設置されていました。

ローマ教会において全アジアを管轄する中心となり、これを機にサンタ・カタリナ大聖堂という大伽藍が建設されたのもこのころです。ゴアはモザンビークから長崎に広がるポルトガル海上帝国の首府として「東洋のローマ」と呼ばれる黄金時代を迎えており、当時のゴアの人口は20万人に達していました。奇しくも現在の山口市と同じ規模です。

市内には壮麗な教会や修道院、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとされています。ゴアから何の連絡もなかったのは、日本以外のアジア諸国との商活動と布教が忙しく、船便を出す予定がなかったからにすぎませんが、そんなことは知らないザビエルは一旦インドに戻ることを決意します。

1551年11月、日本人青年4人を選んで同行させ、出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指しました。この日本人青年のうちの一人であるベルナルドは、その後ゴアで学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となりました。

ゴアに戻ったザビエルは、この地に特に異変のないことを知ると安堵し、再度の日本渡航を考えます。しかし、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、部下の神父を自分の代わりに日本へ派遣。

ザビエル自らは中国を目指し、同年1554年9月上川島(じょうせんとう)に到着しました。これは現在の香港・マカオの西50kmほどの洋上にある島です。

ここで中国政府からの入国許可を待ちますが、その入境は思うようにいかず、精神的にも消耗しており、やがて病を発症。12月3日、上川島でこの世を去りました。46歳でした。

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遺骸はゴアにあった聖パウロ聖堂で納棺されました。この棺は一般拝観が許されていましたが、このとき参観者の一人の婦人がザビエルの右足の指2本を噛み切って逃走しました。

この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がパンプローナザビエル城に移されました。遺骸は現在もゴアのボン・ジェズ教会に安置されており、10年に一度ご開帳が行われているそうです。

その後、1614年には、ローマのイエズス会総長の命令で、この遺体の右腕が切断され、この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしったそうで、これをもって「奇跡」とされました。

切ったのはポルトガルへ持ち帰ろうとしたためと思われますが、右手の肘から下の部分は、今もローマ・ジェズ教会に安置されています。そしてこの右腕は1949年の「ザビエル来朝400年記念」の際には、日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示されました。また、1999年の同450年記念の折りにも日本で展示されています。

一方切り取られた腕の上腕部分はその後マカオに移され、さらに耳・毛はリスボンに、歯はリスボンに次ぐポルトガル第二の都市ポルトに、胸骨の一部は東京に、などと分散して保存されているといいます。

また、1952年には山口市に初代山口サビエル記念聖堂が建設されました。これはザビエルの生誕の地とされる、パンプローナ市近郊にあるハビエル城を模して建てられた聖堂です。しかし、初代聖堂は1991年に焼失し、現在は異なる新しい近代的なデザインの第2代聖堂が建っています(2枚上の写真)。

このパンプローナという町は、あまり日本人には馴染がないようですが、「牛追い祭り」が行われる町といわれれば、あぁあれか、と思い当たる人も多いでしょう。正式名は、「サン・フェルミン祭」といい、毎年7月6日から14日まで開催され、その様子がテレビや雑誌のニュースで紹介されたのをご覧になったのだと思います。

スペイン北東部、ほとんどフランス国境にも近いところにある街ですが、その歴史は古く、紀元前75年から74年にかけて、この一帯は共和制ローマの将軍ポンペイウスが外国との争いの中で駐屯地としたことに起源を発します。

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その後も城塞都市として発展しましたが、現在世界遺産にもなっている、スペイン北部のサンティアゴの巡礼路の通過拠点として重視され、ピレネー山脈を越えてやってくるヨーロッパのキリスト教徒と商業・文化のやりとりの中継地としても多大な貢献をしました。

スペイン独立戦争あたりまではまだまだ要塞都市としての機能を遺憾なく発揮しており、この戦争ではこの街を占拠したフランス軍の軍事拠点となり、独立を勝ち取ろうとするスペイン人たちを悩ませました。

しかし、第一次大戦以後、急速に発達する軍事兵器の前には古代に造られた城壁などは役に立たず、その後急速に城塞都市としての機能を失いました。二次大戦後は工業とサービス業が発達し、地方からの流入者だけでなく、海外からの移住者も増えました。

最重要のものが自動車産業関連で、フォルクスワーゲンはここでフォルクスワーゲン・ポロを生産しており、同社や他会社のため稼働する補助工場を多く持ちます。その他の顕著な産業は、建築材料、金属加工、食品加工であり、中規模な都市ではありますが、その生活水準とクオリティ・オブ・ライフはスペインの中でも高い都市の一つとされます。

驚くなかれ、人口は約20万人と山口とほぼ同様であり、「意外に豊かな町」という点でも何か共通点があるようです。姉妹都市の提携を結んだのは、ザビエルつながりでしょうが、それを超えた何かの縁があるような気もします。

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また、山口市は詩人の中原中也や、芥川賞作家の斯波四郎(1989年没)を生み、また種田山頭火のゆかりの地であるなど何かと文士にも縁がある街ですが、パンプローナもアメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイゆかりの町です。

長編小説「日はまた昇る」の舞台になったのがこのパンプローナであり、ヘミングウェイは3度もこの街を訪れてこの作品の構想を練っています。1923年7月に初めてここを訪れ、サン・フェルミン祭の牛追いと闘牛に魅了されたといい、当初はこの体験を短編の題材に、闘牛士の話を書く予定だったといいます。

この牛追いは、スペイン語では、エンシエロ(encierro)といい、祭礼などで牡牛の群れの前を人間が走る行為で、前を走るのは人間ですが、日本語では牛追いと表記されます。エンシエロは祝祭における伝統的な闘牛の慣習のひとつでもあります。

この闘牛に魅せられたヘミングウェイは、当時闘牛士として有名だった人物をモデルとした物語を書き始めましたが、マドリード、バレンシア、再びマドリード、サン・セバスティアンと、闘牛の興行を追ってスペインを転々とする間に内容が変化していき、最終的には長編小説にすることに決めました。

フランスの首都パリからおよそ南西80kmほど離れた都市シャルトルには、フランス国内において最も美しいゴシック建築のひとつといわれる「シャルトル大聖堂」がありますが、ここを1925年に訪れた際に「日はまた昇る」というタイトルを思いついたといいます。

小説は1926年3月頃にほぼ完成し、同年10月、「The Sun Also Rises」という英名で5090部の初版が刊行され、1冊2ドルで発売されました。アメリカ国内ですぐにセンセーションを巻き起こし、「タイムリーなテーマ、簡潔な文体、生き生きとした会話、個性的な登場人物、エキゾチックな舞台背景」などが若い世代を熱中させました。

刊行から2カ月で7,000部を売り上げ、処女長編作としては大成功をおさめ、その後もアメリカで一番といわれるほどの人気作家になりました。ヘミングウェイはそのほとんどの作品を、この「日はまた昇る」が書かれた1920年代中期から1950年代中期に書き上げており、その集大成として1954年にはノーベル文学賞を受賞しています。

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1961年7月2日に満61歳で亡くなりましたが、ライフル自殺でした。晩年の1954年にはその代表作とされる「老人と海」が大ヒット作品となり、その評価がノーベル文学賞を受賞につながったわけですが、同年、二度も航空機事故に遭っており、この二度とも奇跡的に生還しました。

しかし、この事故で重傷を負ったためノーベル賞の授賞式には出ることができず、以後は事故の後遺症による躁鬱に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていきました。人気作家にはありがちなことですが、思うように書けないという心の葛藤が自殺の原因だったのでしょう。

この「日はまた昇る」という作品は、私もまだ読んだことがありません。

が、このタイトルは、「復活をかける」というような意味でつけられたのではないようです。毎日毎日同じように昇る太陽に、主人公の日々変わらない平凡な生活をかけたもので、日々昇る太陽のように退屈な毎日続く、という鬱々とかわらないそのやるせなさを表した作品です。

読んでもいないのにそのあらすじを書くのはさすがにはばかれるのでやめておきますが、必ずしもハッピーエンドではなく、戦争で傷ついた「失われた世代」の自暴自棄な気持ちをテーマとして描かれた小説であるわけです。

しかし、読んだことがある人の書評によれば、そうした物語の「哲学性」以上に、闘牛の場面などの描写は読者をスゴイ、と唸らせるような内容だということであり、そう言われると一度は読んでみたい気はします。

さて、今日から明日にかけてはお天気が悪く、どうやら明日の朝、伊豆で「日が昇る」可能性は薄そうです。が、山口では今日中に雨がやみ、明日の早朝から晴れるようです。

市内中心部にそびえる標高338mの「鴻ノ峰」からは、その朝日に染まった美しい街並みもよく見えるに違いありません。桜は終わりましたが、新緑の良いころです。妙に山口に帰りたくなってきました。

次はいつのことになるでしょうか。

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