ドローンと行ってみよう!

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先日、首相官邸の屋根の上にドローンが見つかって大騒ぎになっています。

空からやってくる無人機への対処など完全に想定外だった、というわけですが、これまでにもホワイトハウスの敷地内にドローンが落ちたこともあるというのに、いったい日本政府の危機管理意識はどうなってるんだ、ということで、今後とも色々論議を呼びそうです。

しかしまぁ、我々にしても普段歩いているときに空から何かが襲ってっ来るのを心配しているかといわれれば、そんな懸念はまったく持っていないわけであり、公安にそこまでの対処を求めることはできません。空から降ってくる隕石の心配まで警察にしてもらう、というのはどう考えても行き過ぎです。

しかしそこは世界に名立たる大国なのですから、今後はもっとしっかりと空からの脅威を見張るよう、セキュリティの強化を図っていくべきなのでしょう。何ごとも失敗は成功の元です。

この、「ドローン」の語源を調べてみると、これは英語の“drone”で「雄のハチ」を指すようです。

しかも、いつも巣にいてあまり活動しないハチを意味するとのことで、オス蜂といえばせっせせっせと花から花へと蜜を探して飛び回る働きバチの印象がありますが、こちらは常に巣にいて、自分たちの家であるその巣を大きくする働きバチのことを指します。

転じて不活発な活動体の事を指すようになり、その後自律制御で飛んで、空中に静止することもできるような無人の飛行体を指すにようになりました。こうした飛行物体はハチの発するような音などを出すことも、こうした呼び名はぴったりだったのでしょう。

「スタートレック」や「スターウォーズ」といったSFに登場するサイボーグのことも、ドローンといいますが、こちらも上と同じ“drone”から来ています。しかし、この場合は集合体における末端レベルでの各種作業に従事する「システム端末」といった意味合いで使われるようになったものです。

生体と機械とが融合したものであり、また一体のサイボーグが周囲の生命体を同化する事でも仲間を増やす事が出来る、といったふうに、こちらのドローンの意味はその後色々脚色されてその形態が変化していきました。

無人の飛行体のドローンのほうの嚆矢は、第一次世界大戦中に航空機を遠隔操縦するという発想のもとに行われた「飛行爆弾」の開発にあるようです。アメリカで行われた研究であり、これは第一次世界大戦のころに行われました。

第一次大戦といえば、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて戦われた世界大戦であり、いまから100年も前のころです。そんな時期にそうした自律飛行ができる飛行機があったのか、と俄かには信じがたいところですが、これがあったのです。

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その最初の製造は1916年に試みられ、これは当初「空中魚雷(aerial torpedo)」と呼ばれました。これは、エルマー・アンブローズ・スペリーという科学者が自ら発明した船舶用ジャイロスタビライザーとジャイロコンパスを中心として運用される飛行体で、スペリーはこうした一連の技術で特許を取得していました。

その名も「スペリー」という航法装置を製造する会社を立ち上げましたが、この会社は、第一次世界大戦の際には、航空機用の爆撃照準器や射撃管制装置なども手がけるようになり、第二次世界大戦においても軍需によって大きく成長しました。

戦後も特に高い技術を要求される装置、例えばアナログコンピュータ制御の爆撃照準器、空挺レーダーシステム、自動離着陸システムなどを開発製造して成長しました。が、1986年、に計算機・コンピュータを生産するバロースという会社に敵対的買収をしかけられ、これが成功して両社が合併してできたのが、現在のIT企業の雄、ユニシスになります。

このユニシスの前身となるスペリー社に目を付けたのがアメリカが海軍で、海軍はスペリーにこの空中魚雷の開発を依頼しました。彼はその得意とする自動制御システムを使って、「ヒューイット・スペリー自動飛行機(Hewitt-Sperry Automatic Airplane)」と呼ぶシステムを完成させ、これをカーチス社製のN-9という改造水上機に搭載しました。

最終的には「カーチス・スペリー飛行爆弾」として完成させる予定だったようですが、うまく自動制御することができず、この最初のアメリカ海軍の目論見は失敗に終わりました。

次にこの飛行爆弾に目をつけたのは、アメリカ陸軍でした。陸軍航空局はオハイオ州に住む、チャールズ・ケタリングという技術者に対して、50マイル (80km) の範囲にある目標を攻撃できる無人の「飛行爆弾」が設計できるかを尋ねました。

このチャールズ・フランクリン・ケタリングという人は、オハイオ州ラウドンビル生まれの元教員でしたが、その後エンジニアに転向し、主として自動車に関する数々の発明をしました。晩年は社会哲学家としても名を馳せ、アメリカでは結構名が知られている人物です。

ケタリングのほうは、ライト兄弟の弟、オービル・ライトとともに、デイトン=ライト・カンパニーという会社を立ち上げていました。彼はこの要請を受け、正式にこの仕事をこの会社で請け負いました。このときケタリングの設計した機体は海軍側ではケタリング空中魚雷 (Kettering Aerial Torpedo) と呼ばれました。

後には「ケタリング・バグ」として知られるようになるこの機体は、オービル・ライトが計画に対して航空学のコンサルタントとなり、スペリーが誘導操縦装置を設計しました。

このため、ケタリングら請負側の間では、「デイトン=ライト・バグ」と呼ばれており、これと上述の海軍の名称が合わさって、のちにケタリング・バグと呼ばれるようになったものです。

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ケタリング・バグは無人の小型複葉機であり、翼幅は15フィート (4.5m) 、全長12.5フィート (3.8m) 、高さ7.7フィート (2.3m) という小さなものでした。これに「バグ(bug)」と名付けたのは、これは「小さな昆虫」を示すことばだったからでしょう。現在は、コンピュータープログラミングにおける欠陥のことを示します。

エンジンは40馬力の4気筒フォード・モーターの大量生産品で、これはデ・パルマエンジンと呼ばれ、価格は約40ドルでした。これは現在の円に換算すると12~13万円という安さであり、また胴体にも木材と紙が多用され、ほとんど張りボテのような飛行機でした。

このため、総重量もわずか530ポンド (240kg) でした。主脚には鉄道の車輪と同じものが使われ、離陸にはこれと噛みあわせる金属のレールが用いられていました。1903年にライト兄弟が人類で最初に飛行機を飛ばした際にも、こうした金属レールが用いられました。無論、滑走を滑らかにするためであり、離陸の際の負荷を少なくするためです。

離陸後は搭載された小型のジャイロスコープによって機体が制御され、約120mph (193km/h) の速度で目的地へ飛行させる予定でした。制御システムにはケタリングが開発した、空気/真空システム、電気システム、アネロイド型気圧計、高度計といった、この当時の最新式の機器が採用されました。

Kettering_Bug

バグは、無人の飛行爆弾として開発されたものであり、このためが目標に命中したかを確認するため、その航路を追跡するシステムを考案する必要がありました。しかし、この当時はまだコンピュータのようなものは開発されておらず、自律飛行する飛行体を目的地に到達させるためには、かなりアナログな方法が用いられました。

すなわち、バグの離陸前に、これを飛ばす技術員は、まず飛行経路に沿った風速および方向を考慮し、目的地までのおおよその「距離」を決定します。次に、この距離からバグが目標に到達するために必要なエンジンの回転数を計算します。片やエンジンのほうには、この回転数を自動記録する「積算回転計」という装置が取り付けられました。

積算回転計が、目的地に達する回転数に達したとき、エンジンは停止するようになっており、その時点で飛行機は目的地に落下します。しかしさらに確実に落下させるため、エンジンが止まると同時に翼を固定したボルトも外れるようにしてあり、これでバグは爆弾もろとも目標物に向かって落下していく、というわけです。

その爆弾としては180ポンド (81kg) のものが搭載されましたが、これはこの当時としてはかなり大型の爆弾だったようです。

バグの試作機は第一次世界大戦終盤の1918年に完成し10月2日にその初飛行が行われましたが、このフライトでは機体が離陸後急上昇し、その後墜落、大破し、失敗に終わりました。しかし、その後の陸軍航空局のあるデイトンでの6度の飛行のうち、2回が成功しました。

ただ、その後も4度行われたうちの成功はわずか1回、また14度のうちの4回が成功と言った具合に何度か飛行には成功したものの、性能は安定しませんでした。結局約45機のバグが生産されましたが、バグの実戦投入が行われる前に戦争は終結しました。

バグの存在とその技術は第二次世界大戦まで秘密とされ、1920年代に予算が削減されるまで、陸軍航空部は実験を継続しました。現在では秘密開示が行われ、その技術はもとより実験に使われた部品なども公開されており、オハイオ州デイトンのアメリカ空軍博物館には原寸大の再現機が展示されています。

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ケタリングの開発したこれらの技術が、そのまま流用されたかどうかは不明ですが、こうした自律飛行する飛行体の開発は、その後ドイツでも行われ、第二次世界大戦時には、V-1ロケットというミサイル兵器が実用化されました。

パルスジェットエンジンという高性能エンジンを搭載した、現在の巡航ミサイルの始祖とも言える兵器です。宣伝相ゲッベルスはこれを「報復兵器第1号」と命名して、ドイツ本土を空襲するイギリスへの対抗兵器と位置付けました。

しかし兵器としての完成度は低く、発射に失敗したものも多かったようです。が、実際に発射されたV-1は21,770発にのぼり、イギリスの被害は死者および重傷者24,165人にも上ったという記録があります。

次いでドイツが開発したV-2ロケットは、さらに威力を増し、特徴的な唸り音を発するV1飛行爆弾と違い、超音速で前触れもなく飛来し、既存の兵器では迎撃不可能な V2 によって、ロンドン市民は不安に晒され、実際、市街地への被害も甚大であったようです。

ちなみに、二次大戦後は、このV1、V2ロケットを開発したドイツ人技術者たちが大量にアメリカやロシアへ渡り、その一人であるフォン・ブラウンはその後のアメリカのロケット開発における生みの親となりました。

ソ連もまた多数のV2ロケットと250人余りの技術者を捕らえることに成功し、彼らをソ連国内の孤島に隔離収容して、V2ロケットをもとに多くの新しいミサイルの開発を行なわせました。

こうした両国のロケット開発は、のちに両国が大量の核爆弾を所有するという事態に発展し、「冷戦」と呼ばれる時代を築くきっかけともなりました。

この現在のロケット技術開発の先駆けとも目される、ケタリングは、その後はこうした軍事技術の開発に関与することなく、1958年に82歳で没しています。

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彼は、若いころから目が悪かったといいますが、努力してオハイオ州立大学で電気工学を専攻。学校の教員などを掛け持ちしながら、28歳という年齢でようやく大学を卒業しましたが、卒業後は、新しいアイデアというものはチームであればこそ進化させることができる、というポリシーの元、誰かと組んで仕事をすることが多かったといいます。

20世紀初頭、オハイオ州西部の都市デイトンは米国の工業都市のなかでもリーダー格となっていましたが、そうした理念のもと、33歳のときには、自動車関連の研究のため、エドワード・A・ディーズとともに、デイトン・エンジニアリング・ラボラトリーズ・カンパニー(デルコ)を創設しています。

ケタリングとディーズとは事業においても、専門家としても、また、個人としても生涯の友でしたが、このころデイトンには高い能力をもったエンジニア、科学者が集って働いており、彼はまた38歳のとき、彼等を集めて、「エンジニアズ・クラブ・オブ・デイトン」という研究者クラブも結成しています。

彼自身は、その後自動車業界に転身し、第一次世界大戦中には、まだ自動車だけの技術者団体であったSAE (Society of Automotive Engineers)で会長職にも就いています。

彼が創設したデルコは、その後1920年にゼネラル・モーターズ (GM) に売却され、ゼネラル・モーターズ・リサーチ・コーポレーション(General Motors Research Corporation )、およびデルコ・エレクトロニクスに発展しています。

ケタリング自身も、このゼネラル・モーターズ・リサーチ・コーポレーションの副社長となり、その後27年間、GMの研究所を率いました。

この間、彼が発明し、特許を得た物件は、300以上もあり、その中にはモーターを動力とした。電動レジスターといったもののほか、バッテリーを利用したイグニッション・システム(高圧点火システム)、電気式のセルフスターター(セルモーター)、電気式ヘッドライトなどがあります。

この「高圧点火システム」は現在では一般に「ポイント式」と呼ばれているもので、点火プラグとともに、その後のモータリゼーションの時代には、自動車エンジンを簡単にスタートさせるためには不可欠のものとなりました。アメリカでは、「ケタリング式点火装置」とも呼ばれています。

また、レジスターの電動化をヒントとしてアイデアを得たといわれる、「セルフスターター」はそれまでの標準であったクランク始動にとって変わることになります。

内燃式の自動車エンジンというものは、内部にピストンとクランクがあり、これによって気化したガソリンを圧縮し、これに点火してエンジンをスタートさせます。

その点火を自動で行えるようにしたのが、上述の高圧点火システムですが、一方では、この重いピストンとクランクを最初に動作させるためには、当初、「クランク」というハンドルを手で回す装置を使って、手動でエンジンをスタートさせるのが普通でした。

ケタリングは、この装置をも蓄電池によって給電されたモーターで行うことができるように改良しましたが、これが「セルフスターター」です。1911年に高級車、キャデラックに始めて搭載されましたが、同時に先のイグニッション・システム、ヘッドライトもこのクルマに搭載されました。

以後、電気を利用したイグニッション・システム、セルフスターター、ヘッドランプというケタリングの発明の3点セットは米国の自動車業界で広く使われるようになり、ひいては現在の日本製自動車も含めたすべてのメーカーに採用される技術となって現在に至っています。

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そのほかに携帯型ライト、性病の治癒法、未熟児保育器、速乾ペイント、エンジン使用の発電機など、現在に至るまで使われている技術の多くは彼によって発明されたものです。

性病の治療法というのはよくわかりせんが、彼の業績を讃えてニューヨーク市にメモリアル・スローン=ケタリング・がんセンターというのが作られており、その前身の研究機関で開発された何等かの医療技術なのかもしれません。

一方では、彼の発明の中には、後年の時代、大禍を招いたものもあります。彼が開発した高オクタン価の「有鉛ガソリン」などがそれで、その後人体に対する有害性が露呈し、多数の死者を出すなどの社会問題を起こしました。

その後有鉛ガソリンは、世界的にも販売が禁止されるようになっていますが、このほかにも彼が開発したフロンガスは、現在では地球温暖化のための有害物質とみなされるに至っています。

ガスによる冷却システムに応用するために開発されたものですが、ご存知のとおり、その後このフロンガスは、冷蔵庫やエアコンなどありとあらゆる冷却装置に使われるようになりました。

ちなみに、オハイオ州のデイトン郊外にある「ケタリング」は、彼の業績にちなんで命名された最高級住宅地ですが、1914年、ここにケタリング自身によって建てられた家は、米国で最初にエアコンが使われた家として歴史的建造物の指定を受けています。

ケタリングの息子の奥さんが、改修して長らく住んでいたものですが、その後地元ではリッジレー・テラス (Ridgeleigh Terrace) と呼ばれるようになり、現在でも会議場として使われています。

上述の通り、彼は「チームを組んでアイデアを進化させる」ということを若いころからポリシーとしていましたが、晩年には、個人としての才能を開花させるための秘訣に関しても多く名言を残しています。

たくさんあるのですが、例えば私が好きなのは、「問題を手際よく表現すれば、問題は半ば解決されている。」というもので、これは問題をきちんと整理して表現できれば、その問題の半分は解決したようなものだ、という意味です。

「人が欲しいと思うものを作ればビジネスは自然と立ち直る。」というのも、なかなかの格言であり、また「我々の行く手、未来に招く希望をさえぎっているのは、実は我々の想像力なのである。我々が明日花開くのにただひとつ足かせとなるのは今日の疑念だろう。」というのも考えさせられる言葉です。

さらに、「失敗は、うまくいくための練習だ。」「座ったままで、偶然にチャンスを見つけたという話は聞いたことがない。」「成功へと至る道では、失敗、それも度重なる失敗が道しるべとなる」「失敗するという事はこの世で重要な教育科目の一つなのだ」といった言葉の数々は、「失敗は成功の元」を人生訓として生きてきた彼の生きざまをよく表すものです。

こういうのもあります。

「過去に興味はない。未来に興味がある。なぜなら、そこで残りの人生を過ごすことになるからだ。」

試行錯誤を重ねながら、成功を目指して一歩一歩進み続ければ、必ず地平線は開ける、心を開いていれば、そこは常にフロンティアだ、という言葉の数々は、時代を超えて現在も心に響きます。

あなたも、自分自身を信じ、自分の考えを信じつつ、人生を歩んでいきましょう。

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