アバディーンシャーの3人

2015-01454月初めの悪天候がウソのように、最近良いお天気が続いています。

長期予報によれば連休中もこのお天気は大きく崩れる予定はないようであり、さぞかし行楽地は賑わうことでしょう。

ここ伊豆も一大観光地であるため、今週は他県ナンバーでごったがえすに違いありません。昨年もこの時期に修善寺駅前を通ったときには、すれ違うクルマの7~8割は他地域のものでした。多いのはやはり東京や神奈川のものですが、中京方面からのクルマも結構あります。

時には九州や東北のナンバーを見ることもあり、そんな遠くからここまで来る人がいるというのは、それだけ人気がある場所なのでしょう。住んでいると麻痺してしまいますが、そういういいところに住んでいるというのは、ありがたいことだと思わなければいけないのかもしれません。

しかし、人気が高いといっても全国一位というわけでもないようで、季節にもよりますが、伊豆の観光地人気ランキングはだいたい、10位前後を行き来する程度のようです。上位は、というとやはり京都が断トツ一位で、次いで北海道や沖縄、長野や出雲などがいつも順位の上のほうを賑わすようです。

ただ、個別の観光地となると、やはり人気が高いのはこの時期だと奥入瀬や白神山地、屋久島など新緑を満喫できるところであり、このほか摩周湖などに代表される北海道の湖沼であったり、風光明媚な海岸などの場所を訪れる人が多いようです。

この海における個別観光スポットの中でも最近人気急上昇中といわれるのが、私の郷里の山口県の長門にある「角島(つのしま)」です。位置的には、山口県の北西端にあたり、元は島でしたが、2000年に1780mの長さを誇る「角島大橋」が竣工したことで陸続きになりました。

周囲の浜は、花崗岩が劣化してできた砂で構成されているため真っ白であり、かつこのあたりの海はまさに「マリンブルー」といわれるようなコバルト色です。そこへ架かる角島大橋はまるで映画の一シーンに出てくるようで、本土側からみると天国への架け橋のようでもあり、見るものを惹きつけます。

最近、テレビドラマや映画のロケ地として使われたり、コマーシャルにも登場したりしたため、さらによく知られるようになり、これからの海水浴シーズンともなろうものなら、大勢の観光客でごったがえす一大観光地になってしまいました。

橋が完成してすぐのころにはまだ認知度が低く、この角島大橋の本土側のたもとにある小さなビーチもほとんど地元の人しか利用していない隠れた名所でした。

が、最近は他県からの利用者が増え、結構イモ洗いになっている、と聞きました。角島に渡った側にもビーチがあり、こちらには飲食施設なども整備されたことから、さらに大勢の観光客が訪れているようです。

せっかくの秘境の地が……と残念ではあるのですが、地元にとってはまた大きな収入源が増えたわけであり、この地は、2005年の平成の大合併で下関市の一部となっていることから、市のお役人さんはここからあがってくる税金でホクホク顔でしょう。

この島は周囲17kmほどであり、道は細いものの一応一周できます。が、生活道路がほとんどなので、地元の方への配慮からあまり不用意な立ち入りはやめておいたほうがいいと思います。

もっとも観光地として綺麗な場所は、こうした集落がある場所ではなく、上述のビーチが整備された箇所とともに、先端部にある「角島灯台」の周辺部です。こちらも公園として綺麗に整備されているほか、灯台も「参観灯台」として立ち入ることができます。

1876年(明治9年)に初点灯した洋式灯台で、石造りのがっしりしたそのたたずまいは明治レトロそのものです。高さ43mあって、その展望台から見る景色は絶景です。眼下には響灘一帯の青黒い海原が広がり、その中を時折ちっぽけな漁船が行き交う様をみると、地球の広さを感じることができます。

この灯台を設計し、施工を監理したのは、リチャード・ヘンリー・ブラントンというスコットランド人です。

明治時代に来日したお雇い外国人のひとりで、数多くの灯台設置を手がけ、「日本の灯台の父」とも言われました。技師として日本に滞在していた7年6ヶ月の間に26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船を設計施工しており、外洋航路の開拓がひとつの課題であった日本における産業界に大きく貢献したといえます。

ちなみに、灯竿というのは小型の灯台で、灯台というよりも航路標識のようなものです。現在でも防波堤などの端に設置されているので見たことがある人も多いでしょう。主として夜間に港の位置を示すためのものです。

また、灯船も同様の目的で設置されますが、こちらは灯台設置の困難な海上・河口などに停泊する船の上に置かれます。最近はあまり見ることはないようです。彼が施行したこの灯竿、灯船も現存していないようですが、26灯台のうち、23は現在も存在して現役で稼働しています。

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リチャード・ヘンリー・ブラントンは、1841年、英国海軍の艦長の息子としてスコットランドに誕生しました。長じてから鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に関わっていたところ、英政府から勧められ、日本にやってきました。

来日したとき弱冠26歳でしたが、訪日にあたって灯台建設や光学、その他機械技術を、短期間の内に英国内で実地体得しており、既にその道のエキスパートでした。

1868年(慶応4年)に妻子及び助手2人を伴って来日しましたが、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに日本中に灯台を設置しまくり、日本における灯台設計の体系の基礎を築き上げました。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いでいます。

ブライトンは灯台以外でも、多くの功績を草創期の近代日本にもたらしており、日本初の電信架設(1869年、東京・築地~ 横浜間)のほか、幕府が設計した横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し街路を整備しました。

また、日本最初の鉄道建設についての意見書を提出するとともに、大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を出しています。このほか現在の横浜公園の設計を行ったのも彼です。

1876年、34歳のとき明治政府から任を解かれ帰国しましたが、その後もイギリスで建築家として、建物の設計及び建築に携わりました。晩年、仕事の合間に書きためた原稿「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」という長ったらしいタイトルの本をまとめ終えると、程なく世を去りました。

明治34年、59歳没。

彼が生まれたのは、スコットランドの、のアバディーンシャー州というところですが、これはグレートブリテン島の北端に近い場所の東側にある行政区であり、北縁とはいえ、ここに24万人余りの人々が暮らしています。

スコットランドという国は、メキシコ湾流の延長上にある北大西洋海流という暖かい海流が辺縁を流れており、これと偏西風の影響により緯度の割にはそれほど寒い、という場所でもないようです。

最寒月平均気温は2℃~6℃で、日本の関東中部から北部にかけてと同じぐらいの気温にしか下がりません。一方、夏は最暖月でも14℃~19℃程度と涼しいようです。年較差が小さく過ごし易いといった気候は、北海道に似ているかもしれません。

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先日までNHKの朝ドラで放映されていた「マッサン」の主人公、竹鶴政孝が、ここの風土スコッチウィスキーの本場スコットランドに似ているから、という理由で選び、小樽近郊の余市に醸造所を作ったのもこのためだといわれています。

マッサンこと竹鶴の妻、竹鶴リタこと、本名、Jessie Roberta “Rita” Cowanは同じスコットランドでも南西部のイースト・ダンバートンシャーという町の出身で、来日は大正時代です。

ブラントンのように明治期に来日して日本の文明開化に深く関わったたスコットランド人で、同じくアバディーンシャー出身者はほかにもう二人います。

その一人は、トーマス・ブレーク・グラバーで、この人はこれも人気の観光地、長崎のグラバー邸を建てた人物として、ブラントン以上によく知られています。

武器商人として幕末の日本で活躍したことで知られ、商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たしました。維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行い、造船、採炭、製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献しました。

意外に知られていないのが、国産ビールの育ての親だということで、これは彼が晩年三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の元で働くようになっていたころの事業です。このころ、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーという欧米資本の飲料会社の再建参画を岩崎に勧め、これが後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)になりました。

グラバーは、明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めましたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで、巨大な富を集めていたグラバー商会を破産させています。このとき、昔から恩を売っていた三菱の岩崎弥太郎に助けられて、高島炭鉱の経営者になりました。

以後は、岩崎財閥の番頭さんのようになってしまいましたが、晩年まで東京で過ごし、1908年(明治41年)には、それまでの功績を認められて、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与されました。1911年(明治44年)に73歳で死去。

「ツル」という日本女性と結婚し、長女ハナと長男富三郎の二人を設けました。この息子はのちに、倉場富三郎と名を改めましたが、この「倉場」とは“Glover”を日本語にしたものです。

この富三郎は、長崎の加伯利英和学校を経て学習院を中退後にアメリカのペンシルベニア大学で生物学を学び、帰国後、父の興したグラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社。また長崎汽船漁業会社を興して日本に初めてトロール漁業を導入するなど第二次世界大戦前まで長崎の実業界にて活躍しました。

ところが、大戦がはじまってまもなく、彼がイギリス人と日本人の混血児だったことからスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられました。また、このころちょうど造船が始まっていた戦艦武蔵の機密保持を理由にグラバー邸を退去させられたり、妻に先立たれるなど不幸な晩年を送りました。

更に終戦直前には長崎に投下された原爆により故郷が壊滅し、これが追い打ちとなったのか、終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で首吊り自殺を図り、亡くなっています。自殺の理由については、スパイの疑いを晴らすために積極的に戦争に協力した事で連合国から戦犯として裁かれるのを恐れたとする説もあるようです。享年74。

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遺体は長崎市の坂本国際墓地に、同じく日英混血だった妻のワカ(旧姓中野)とともに埋葬されており、その隣にはグラバーとツル夫妻も仲良く埋葬されています。

父のグラバーのほうは生涯母国のスコットランド、そしてアバディーンシャーに二度と帰ることはなかったようです。

そのスコットランド・アバディーンシャー出身で日本ゆかりのもうひとりの人物は、こちらもあまり知られていない人ですが、ジェームズ・マードックという人です。

東京帝国大学などで教え、彼が教えた人物の中には夏目漱石がいます。アバディーンシャーでは、地元の雑貨商として生まれており、家は決して裕福な家庭ではなかったものの幼いころから優秀で、アバディーン大学の奨学金を獲得して入学し、学士号、修士号を得たのち、名門オックスフォード大学でも学んでいます。

22~23歳ころから、フランスのパリ大学、ドイツのゲッティンゲン大学などに遊学しており、このゲッティンゲン大学在学中に、牧師の娘と結婚しました。これを機に研究生活をやめ、24歳で研オーストラリアに移住。33歳まで教師としてここで過ごしますが、やがて結婚生活は破綻。

教えていた大学でも経営陣と対立したため辞め、その後は急進的な社会改革思想に傾倒し、労働者階級の過酷な生活条件の改善を訴えるジャーナリストして活躍しました。白豪主義の勃興期にあったこのころのオーストラリアでは、とくに労働階級での中国人排斥の声が高く、その視察のために1888年に中国に行き、香港と広東を取材しました。

その帰りに、九州で教師をしている学生時代の友人を訪ねて日本に立ち寄ったのが日本との縁の始まりです。これを機に大分中津の中学で6週間英語を教えるようになりました。その一方では、長崎の高島炭坑の労働環境の酷さについてオーストリアの雑誌に寄稿するなどジャーナリストとしての活動も継続。

おそらくこのとき、高島炭鉱つながりで、グラバーとも面識があったでしょう。

日本の生活が長くなるにつけ、実際の日本と日本人がこれまで持っていたイメージと違うことに気付き、と同時に大いにその良さを気に入ったマードックは、いったんオーストラリアに戻ると、日本に長期滞在するための身辺整理を手短に済ませ、すぐさま再来日しました。

このときの来日は、ブラントンと同じくお雇い外国人としてであり、のちの東大教養学部となる第一高等中学校でヨーロッパの歴史と英語を教えるようになりました。この時の教え子の一人が夏目漱石になります。

この再来日では、教職の一方、「ジャパン・エコー」という雑誌の発行を始め、6号を発行するなどジャーナリストとしての活動も続けていましたが、また著述家としての活動もはじめ、短編集や小説も書くようになりました。

このほか、日本人で初めてアメリカ国籍をえた「浜田彦蔵」の評伝なども執筆していました。浜田彦蔵というのは、幕末に活躍した通訳で、元は兵庫の播磨の漁師の子でしたが、紀伊半島沖で嵐に遭って2ヶ月太平洋を漂流した後、南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助された、という経歴を持ちます。

その後、アメリカ・サンフランシスコに渡り、下宿屋の下働きなどをしていましたが、税関長の家庭にもらわれてそこで学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けました。このときの洗礼名はジョセフ・ヒコであり、こちらの名前のほうで記憶している人も多いでしょう。

日米修好通商条約で日本が開国しのちに、9年ぶりの帰国を果たし、幕末には領事館通訳などを勤めました。のちに貿易商館を開いたり、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊したりもしました。維新後は大阪造幣局の創設に尽力するなど、その後の大蔵省の創設にも関わった人物です。

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マードックはこうしたアメリカゆかりの日本人の評伝のようなもののほか、日本の写真の草創期を築いたウィリアム・K・バートン、小川一真、鹿島清兵衛といった写真家とも組んで、日本の風景や文化を紹介する本の文章も担当するなど、日本文化の世界への発信にも尽力しました。

しかし、このころもまだ社会改革思想の実現に燃えていた彼は、37歳のとき突如日本を去ります。オーストラリア時代の同志がパラグアイに作った実験的な共産主義的コミューン「新オーストラリア(New Australia)」に参加するためでした。

ところが、マードックがパラグアイに到着するまでには、入植者の約3分の1が離脱しており、彼が想像していた社会主義の楽園はそこにはありませんでした。それだけでなく、貧困や病気が原因の仲たがいなどもあり、こうした現実に幻滅した彼は、ほんの数日滞在しただけで、このときはオーストラリアには戻らず、母国のイギリスに帰りました。

このパラグアイではどうやら体を壊していたようで、このときはその療養のためにロンドンで過ごしています。おそらくはアバディーンシャーよりも医療事情がよかったためでしょう。療養中は日本における16世紀ヨーロッパの修道士の手紙を翻訳する大英博物館の仕事をしていましたが、病が治ったのか5ヶ月間を過ごした後、日本に戻りました。

こうして再々来日を果たしたところをみると、やはり自分が住むべきところは日本だと思ったのでしょうか。このときは、一高時代の同僚の紹介で、最初は金沢の第四高等学校で英語を教え、のちに東京に戻り、高等商業学校(現在の一橋大学)で経済史と英語を教えるようになりました。

43歳のとき、旧幕臣・岡田長年の娘、岡田竹子と結婚し、芝高輪で暮らすようになりました。が、このころもまだ体調がすぐれず、健康のことを考えて新妻とともに温暖な鹿児島に移り住むことにし、ここの第七高等学校で教鞭をとるようになります。

また、日本語の資料収集を日本人の友人に手伝わせ、英文で日本が外国との交流を持つようになった幕末からの歴史書などを自費出版しています。

この本のタイトルは、”A History of Japan During the Century of Early Foreign Intercourse”といいますが、同書はイギリスにおいて日本研究書として長きに渡って使われ、1967年まで版を重ねました。

語学の才に長けたマードックはラテン語、スペイン語、フランス語、オランダ語、ポルトガル語の資料が読めたといい、また上の歴史書の第一巻を出版後日本語資料を自ら読むための勉強を始め、2~3年のうちに古事記や万葉集を読めるまでになったといいます。

鹿児島には52歳まで滞在していましたが、教職契約がきれてもここにとどまり、神戸の英字新聞に寄稿するほか、果樹園を作って暮らしていました。日本語はまだ流暢では無かったものの、日本人でも読めない古い日本語の文献を読むことができるようになっていたといい、以後も「日本史」などの日本の歴史に関する史書を執筆しました。

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それほど慣れ親しんだ日本ですが、61歳のとき、マードックはオーストラリアに戻ります。王立陸軍士官学校とシドニー大学で日本語を教えてくれという依頼があったためで、オーストラリアでは国防上の理由から、対日諜報活動のため日本語話者の育成が急がれていました。

陸軍学校では、ドイツ語・フランス語クラスから選抜された精鋭8人を生徒とし、シドニー大学では80人の生徒を抱えて、彼等に日本語を教えましたが、日本語教育には母語話者の助手が必須であるとして日本に行って助手を募り、両校に日本研究のプログラムを設立しました。

この時陸軍大学の助手に雇われた日本人は、妻の兄弟の「岡田ロクオ」なる人物で、この訪豪の際には、妻の竹子も伴っています。しかし、のちに単身鹿児島へ返しています。

こうした才能のある人間はどこの国でも目をつけるもので、1918年、62歳になった彼には今度は早稲田大学からの教授招請の動きがありました。しかし、彼を手放したくないオーストリア政府は、彼にシドニー大学の終身教授の座を与え、さらに陸軍士官学校の支援で同大学にマードックを長とする東洋研究部門を設けました。

しかし、第二の故郷日本への帰国を切望する彼に対し、国防省からは日本の世論と外交政策の変化の一次情報を取得するため、という名目で年間、£600もの報酬が与えられ、毎年日本を訪問することが許可されました。これは、現在の日本円にすると2400万円ほどにもなるようです。

オーストラリア政府は、さらに彼に対日政策についてのアドバイスを求めるようにもなりましたが、マードックは長年築いた人脈から日本の軍部や政府の内情に詳しく、上程した報告書には、日本の最優秀な人材は陸軍と海軍に集められており、さらにその中の最優秀頭脳が情報部に配属されていること、などの詳しい情報が書かれていたといいます。

こうして晩年はオーストラリアと日本の間を行き来する暮らしを続けていたようですが、上述の「日本史」の第4巻を執筆中に、65歳で肝臓がんのため死去。亡くなったのはシドニー北西部の、ニューサウスウェールズ州のボウカムヒルズという場所でした。

さて……

今日は角島の話題から飛び火してアバディーンシャーという同じ場所出身の3人のスコットランド人の伝記ものになってしましました。

なってしまいました……という言い方もないでしょうが、ここまで書いてきて、同じ明治という、日本にとっては開花期の時代に同じ場所から日本で活躍する人物3人も出たというのは、単なる偶然ではないような気がしています。

いつも言うようにすべてのことには意味があり、必然とするならば、この日本の文明開化に多大なる寄与をしてくれたトリオの日本への派遣もまた、神の御意志だったのでしょう。

彼等の功績の上に今の日本があるとすれば、やはりその活躍に感謝をすべきかと思います。アバディーンシャーに何等かの石碑でも建ててはどうかと思う次第です。

政府関係者の皆様。もしこれを読んでいらしたら御一考ください。

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