ユダヤ人を始め多くの罪のない人々を殺した残虐な独裁者という印象があり、その死を悼む、という気にはなかなかなりにくいのは事実です。が、改めてその最後の様子を調べていたところ、その死の前日に、エヴァ・ブラウンなる人物と結婚式を挙げていた、ということを初めて知りました。
生涯独身だったと思っていたので、ちょっと驚いたのですが、どんな人物なのか興味が沸いてきたので調べてみることにしました。
エヴァ・ブラウンはリッツ・ブラウンという教員の父を持ち、母フランツィスカとの間に、次女として1912年2月6日に生まれました。生まれたのはミュンヘンで、ほかに3歳年上の姉イルゼ、3歳年下の妹マルガレーテがおり、3人姉妹でした。
父のブラウンは、教育者だけに厳格な人だったようで、娘たちが中等教育を終えたあとは教育の総仕上げに修道院に送り、礼儀作法などを覚えさせるのを一家のしきたりとしていました。
ただし、修道院といっても聖職者になるための教育を受けさせるのではなく、院運営の職業訓練校のようなものだったようで、しかもここに通うのは1年間だけです。
エヴァはここに16歳で入りましたが、修道院だけにその教育内容は厳格なものだったようで、当然男女交際などは認められません。保存されているこの学校の卒業生名簿には彼女の名前が記載されているそうですが、そこには同時に処女であることを証明する産婦人科医の証明書が付記されているといいます。
17歳でここを卒業したエヴァは、すぐに診療所の事務員として数ヶ月勤務するようになりましたが、職に馴染めず、次の仕事を探し始めます。そして、求人広告を見て興味を持ったのが、「ハインリヒ・ホフマン美術写真商会」という写真館でした。
記念写真を撮影するだけでなく、写真を中心にした美術品なども扱う骨董商でもあったようで、店主のホフマンはナチ党員でした。ヒトラー専属のカメラマンでもあり、このため、客層の中には、ヒムラー、ボルマン、ヘス、といったヒトラー側近のナチ党幹部もおり、彼の写真館を頻繁に訪れていました。
エヴァの修道院の職業学校での成績は平凡だったようです。が、体操だけは好成績だったとされており、これは彼女が演劇にあこがれていたことと関係があるようです。ダンス、演劇が好きだったといい、映画の「風と共に去りぬ」を何度も繰り返し見て感動しており、もしかしたら女優になることを夢見ていたのかもしれません。
しかし、残っている写真を見ると、それほど美人というかんじはなく、女優は難しかったかもしれません。ただ、ドイツ人らしいというか、堅実な感じがする女性であり、体操が得意というだけにスタイルは大変よかったようです。
その立ち姿の良さを気に行ったハインリヒ・ホフマンは、彼女をモデル兼助手として雇うことを決め、こうして彼女の新しい生活が始まりました。
ヒトラーとの運命的な出会いは、務めを始めてから3週間後の事でした。1929年10月、スタジオに姿を現したヒトラーはこのとき、40歳。17歳のエヴァよりも23歳も年上でしたが、エヴァはこのときのヒトラーの印象を「おかしな口ひげを蓄えた中年紳士で、イギリス製の明るい色のコートと大きなフェルト帽を身に着けていた」と友人に語っています。
エヴァのほうは、それほどでもなかったようですが、ヒトラーの方は、エヴァの目の色が彼の母にとてもよく似ていると評していたといい、出会ったその瞬間に彼女に惹かれたようです。
エヴァは自分の脚をじっと見るヒトラーの視線に気づいていたといい、その日、ヒトラーはホフマンとエヴァとともに簡単な夕食をとりましたが、その食事中にもエヴァを見つめ続けていたといいます。
数日のちには、早くも彼女をドライブに誘いますが、エヴァはこれを拒絶しています。これは当然でしょう。修道院で男女の間のことは軽はずみに考えないようにと、厳しくしつけられていた彼女が、2回りも年齢が違うおっさんにデートに誘われてすぐにホイホイと承諾するわけはありません。
しかし、熱心なヒトラーの誘いによって逆に彼について興味を持ったエヴァは、ホフマンにどういう人物なのかを聞きます。そこで初めてヒトラーが政治家であることを知り、カッコいいと思ったのかどうか、家に帰って彼のことを教師である父に尋ねています。
このころのヒトラーの反政府運動は熱を帯びて年々過激化しており、5年前の1924年には、イタリアのファシスト党が行ったローマ進軍を真似、反政府を掲げて「ベルリン進軍」と称する示威行進をミュンヘン中心部へ向けて開始しました。
この際バイエルン州警察に逮捕されており、このときヒトラーは要塞禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されました。収監後、しばらくは虚脱状態となり、絶食していたといい、逮捕直前に自殺を試み、側近に制止されたとい逸話も残っています。
しかし、その後のナチ党の幹部となる多くの側近の励ましをうけて立ち直ったヒトラーは、逮捕後の裁判において、弁解を行わずこの反政府運動の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取りました。そして、弁舌さわやかな口調でその場を彼の独壇場としたことと、その潔い態度が民衆に受け、一躍注目を集めるようになりました。
このころ、前大戦で活躍したエーリヒ・ルーデンドルフ将軍という人物の人気も高く、彼もまた右派に傾いていましたが、同じ思想を持つヒトラーに親しく接するようになっていたことから、ヒトラー自身もこの英雄にも並ぶ大物と人々から目されるようになっていきました。
花束を持った女性支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者も現れたほどの人気であり、所内でも特別待遇を受けました。この間、ルドルフ・ヘスによる口述筆記で執筆されたのが「我が闘争」です。ヒトラーは職員や所長まで信服させ、入所から5か月経ったころには所長から仮釈放の申請が行われ始めました。
州政府は抵抗したものの、裁判を行った判事がヒトラーのためにアピールを行うという通告もあり同年12月に釈放。翌年の1925年には、活動禁止が解除されたナチ党は息を吹き返しました。が、大規模集会で再び政府批判を行ったため、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が下され、他の州も追随しました。
しかし、ドイツ民衆からの支持は衰えず、1926年までには党内の不満分子なども屈服させ、この年「指導者ヒトラー」の指導者原理による党内独裁体制が確立しました。ちょうどこのころ、党の宣伝にと、腕の良い写真家を探していた折に出会ったのが、ホフマンであり、彼はその後党の公式写真家となりました。
2年後の1928年5月にはナチ党としてはじめての国会議員選挙に挑みました。が、このころはまだドイツも黄金の20年代と呼ばれる好景気に沸いていた状況で支持は広がらず、12人の当選にとどまりました。
しかし、獄中で発表した「我が闘争」の印税などによりこのころのヒトラーの財政状況は悪くなく、バイエルン・アルプスの美しい町ベルヒテスガーデンの近郊の山腹オーバーザルツベルクにある別荘「ベルクホーフ」を買う余裕もあったほどでした。
世間からは新しい時代を切り開く政治家として着目され、もてはやされる傾向は続いていましたが、しかし、有識者の間では極右思想の政治家とみなす雰囲気があり、必ずしも評判はよくありませんでした。エヴァの父もその一人であり、ヒトラーのことをよく思っていないことを彼女に告げたようです。
しかし、エヴァはこうした彼の過去を知れば知るほど興味を抱くようになっていったようで、その後のヒトラーの誘いにも乗るようになっていました。
いつしか二人は交際するようになりましたが、このころまでにはもうエヴァのほうがヒトラーにぞっこんになっており、写真館の店員仲間にも「ヒトラーと婚約している」と見栄から来た嘘をついており、これをホフマンに叱責されています。
エヴァの両親はこの交際に反対だったようですが、一方のヒトラーの近親者たちもこの2人の接近に大反対でした。中でもヒトラーの異母姉アンゲラ・ヒトラーは、この交際をけっして認めなかったといいます。
それにはある理由があったといわれており、それはこのアンゲラの娘の、ゲリ・ラウバルとヒトラーとの間にあったことに起因しているといわれています。
夫に先立たれたアンゲラは、1928年からヒットラーの山荘、ベルクホーフに居住し、ヒトラーの身の回りの世話をしていました。このころ同居していたちょうど20歳の彼女の娘、ゲリは叔父ヒトラーから大変かわいがられていました。
ゲリはレオ・ラウバルと、ヒトラーの姉、アンゲラ・ヒトラーの第二子として生まれましたが、8歳の時に父親が死亡し、母のアンゲラの手で育てられることになりました。その後、母親がヒトラーの世話するようになったため、1928年にヒトラーが別荘ベルクホーフを入手すると、ゲリもまた母親とともに住居するようになっていました。
このゲリのことをナチ党のお抱え写真家であったハインリヒ・ホフマンは「天真爛漫な立居振る舞いですべての人の心をとりこにするかわいい娘」と好意的な評価をしています。その一方でホフマンの娘ヘンリエッテは「粗野で、挑発的で、向こう気が強い」としており、しかし、「抗し難い魅力を持った」人物とも評していました。
美しいわけではないものの、人を惹きつける自然な魅力があったといい、どこかエヴァと似たようなところがある女性だったようです。叔父であるヒトラーからもらった金の鉤十字以外は宝石らしきものは身に着けることも無かったといい、そうした質素な面がある一方では行動的な性格であり、映画やオペラやショッピングを好んだといいます。
実は叔父と姪という関係を超えていたのではないかともいわれています。ヒトラーはホフマンに対して「私はゲリを愛している、だが彼女との結婚は望めない」と語っており、通常の叔父姪の関係を超えた愛情を注いでいたと周囲の他の人物たちも証言しています。
しかし、具体的にどの程度の関係であったかは当人たちだけが知る事実であり、必ずしも明らかになっていません。が、いずれにせよ彼女を愛するがゆえに、次第にヒトラーはゲリを束縛するようになり、友人とさえも自由に行動することを許さず、ヒトラー自身か信用できる者を常に彼女の傍につけさせていたといいます。
また、ヒトラー自身が付き添う事もあり、ウインドウショッピングをするゲリに待たされることもあったといいます。しかし、そんなヒトラーの束縛とは反対に、ゲリは自由奔放に振舞っていました。23歳の夏には、当時運転手であった親衛隊指導者のエミール・モーリスと親しい関係になり、ひそかに婚約しました。
これを知ったヒトラーは激怒して不忠をなじり、彼を解雇したといいますが、彼をそそのかしたゲリのほうに問題があることは明らかでした。家政婦の証言によれば、ゲリは「ヒトラー夫人になることを望んでいた」としながらも、惚れっぽい性格であったとも証言しています。
後に秘書の一人クリスタ・シュレーダーに、愛人エヴァ・ブラウンと結婚しないのかと聞かれ、ヒトラーは「エヴァは好ましい女性だ。しかし、私の生涯で本当に情熱をかき立てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結びつけることができる女性は、ただ一人、ゲリだけだった。」と語っているそうです。
こうした背景から、ゲリの母のアンゲラは、ヒトラーとエヴァの交際を認めなかったのではないか、といわれているわけですが、実の娘と弟の結婚という近親相姦を、果たして彼女が本当に望んでいたかどうかまでは、史料からは読み取れません。
エヴァは、このヒトラーとゲリとの関係を知らされていなかったようです。おそらく仲の良い叔父と姪、ぐらいに思っており、そこには何の疑義ももっていなかったでしょう。
が、後年、上述の秘書シュレーダーから、ヒトラーがこのようにゲリとの結婚をほのめかしていたことと聞かされていたといいます。しかし、その事実をシュレーダーから聞いたエヴァには特に何も反応はなかったといいます。
ところが、ゲリはその数カ月後に突然この世からいなくなります。奔放な性格からその後もオーストリア人の画家と交際するようになっていたゲリでしたが、ヒトラーは姉アンゲラと協力し、このときも二人を別れさせました。
1931年9月17日、ヒトラーとゲリは二人だけの昼食の席で激しい口論をしたといい、ヒトラーはその直後に会議のためにニュルンベルクに出発した後、彼女は家政婦に「私とおじさんの間には共通点が何もないわ」と家政婦に告げました。
この後、家政婦の一人がゲリが紙を4つに破く姿を目撃しており、彼女があとで紙をつなぎ合わせてみると、それはエヴァ・ブラウンからヒトラーへのラブレターであったといいます。ゲリは邪魔をしないようにと彼女に言い残すと、部屋に閉じこもりました。そして家政婦は夜中、何か鈍い物音を聞いたものの、気にせずそのまま就寝しました。
翌9月18日の朝、起きてこないゲリを心配した彼女は、ヒトラーの側近の一人に錠前屋を呼んでもらい、そこで夫人が見たものは、胸から血を流して倒れていたゲリと、傍らに転がる拳銃でした。弾丸は心臓を貫通しており、彼女はすでに死亡していました。
その頃ヒトラーは、ホフマンとともに自動車でニュルンベルクに向かっていましたが、ホテルのメッセンジャーボーイが「ホテルに電話が入っている」と連絡してきたため、ホテルに戻り、そこでゲリの異変を知ります。ヒトラーらは猛スピードでミュンヘンに戻りましたが、すでに遺体は警察によって運び出されていたといいます。
ゲリは遺書を残しておらず、新聞が彼女の死を報じ出すと、様々な解釈が行われ、自殺ではなく誰からに殺されたのではないか、あるいは事故ではなかったのか、といった憶測も生まれたようです。が、多くの取り巻きは自殺であったと断言しています。
ヒトラーの落ち込み様は相当なものであったようで、別荘に姿を隠したヒトラーは目に見えて憔悴していました。側近の運転手は自殺を防ぐためにヒトラーの拳銃を隠したほどだったといい、彼は食事も取らずに2日間も別荘の周りを歩き回っていたそうです。
ゲリの葬儀は、9月20日、オーストリアのウィーンで行われましたが、ヒトラーはオーストリア政府から政治活動を禁じられており、入国を禁止されていたためにこの葬儀に参列できませんでした。
実は、ヒットラーは民族としてはドイツ人でしたが、生まれはオーストリアであり、国籍はオーストリアでした。20過ぎまではこの母国で暮らしていましたが、24歳のとき徴兵を拒否して罰則を受けており、その後ドイツ国内へその過激な闘争の場を移したこともたたってオーストリアへの再入国が禁止されていました。
このためゲリの葬儀にもヒムラーらの側近が立ち会いましたが、その日の深夜、ヒトラーは密かに自動車でオーストリアに潜入し、ゲリの墓に参っています。
その直後にヒトラーは、側近に対して政治について熱く語り出したといい、2年後までには政権を取るとの決意を示したそうですが、一両日後の朝、朝食の席で側近のヒトラーはハムを食べることを拒否するこの総統の姿を目にします。
そのとき、ヒトラーは、「いわば死体を食べるようなものだ!」と叫んだといい、以降ヒトラーは、一切の肉を食べることを拒否するようになったといいます。
若かりし頃のヒトラーには芸術家になる希望があり、その後戦火を逃れた彼のヌードスケッチの中には、ゲリをモデルとしたものもあったそうです。どれほど彼女を愛していたのか、二人の関係性についてはこうした事実も加味して押し図るべきかと思われます。
その後もヒトラーはゲリの死にショックを受け、長きに渡って憔悴していたようですが、結局、このころ19歳になっていたエヴァがゲリの代わりにヒトラーの傍で暮らすことになります。エヴァの手記によるとその時期は1932年の春頃とされているようです。
しかしヒトラーには他にも交際が噂される女性がおり、そのひとり、女優レナーテ・ミュラーへの嫉妬はエヴァを苦しめました。
ヒトラーの身長は徴兵検査の結果などから175cm程度だったようで、けっして小柄というほどではありませんでした。が、チャップリンの映画「独裁者」などで小柄なチョビ髭というイメージが定着したため、どうしてもそういうイメージで見てしまいます。
しかし、けっして平均的なドイツ人としては背の高いほうではなく、自身の容姿にはそれほど自信は持っていなかったのではないかと思われます。また運動不足から、その後亡くなる数か月前には体重が100キロを超えていたといい、このゲリが亡くなったころから、健康を害しはじめ、戦争指導の末期には猫背になり老人のように見えたそうです。
しかし、そんなヒトラーに対してもエヴァは深い愛情をいだいており、「あちらのほう」でもあまり男性としての自信が無かったヒトラーに「性的欲求も得たいのなら、他の男と付き合いなさい」と忠告されても離れることは無かったといいます。
そんななかの、1932年11月1日、エヴァは突然、自らの胸を拳銃で撃ち自殺を図りました。ヒトラーの他の女性との交友関係への嫉妬心などから苦しんだあげくと思われますが、しかし、弾はそれて頸動脈付近にとどまり、自殺は未遂に終わりました。
ヒトラーはゲリに続く、彼女の自殺未遂にショックを受け、以降は他の女性との交際を控えるようになりました。しかし、ヒトラーは外部に向かっては「自分はドイツと結婚した」と主張し続けていたため、“妻”エヴァの存在は山荘の側近だけが知る事実でした。
ヒトラーはその後も女性問題をエヴァに悟られないように気を付けていたようですが、首相に就任して多忙な日々を送るようになり、エヴァのもとを訪れる回数も減少しました。こうしたことから、エヴァは再びヒトラーの愛情に疑問を抱くようになり、1935年5月28日、睡眠薬により2度目の自殺を図ります。
しかしこのとき飲んだ睡眠薬は危険性が低いものであり、命に別状はありませんでした。この時、エヴァの父、リッツ・ブラウンはこの娘の再三の自殺に心を痛め、ヒトラーに「娘を家族の元に帰してくれるように」手紙を書きました。ところがこの手紙は父に託されたホフマンを通じてエヴァの手に渡るところとなりました。
このとき、彼女はこの手紙を破り捨てています。父親といえども自分の恋愛に口を突っ込んで欲しくない、という気持ちからだったでしょう。しかし、面と向かってヒトラーにグチを言うでもなく、彼女はさらにひきこもるようになります。
一方のヒトラーも、さすがにこの二度目の自殺にはショックを受けたようで、エヴァを身近に置いておくべきだと判断し、ミュンヘン郊外に移し、邸宅、ベンツ、運転手、メイドを与えました。しかし、エヴァはすぐに山荘に戻ってきてしまいました。
このころ、ヒトラーの異母姉アンゲラはここに住むことを禁じられて移住させられています。これはヒトラーとエヴァの存在を依然として認めようとしない彼女の存在が、エヴァをさらに刺激することを恐れていたためでしょう。
山荘内ではこうしたどろどろとした人間関係が続いていましたが、対外的には、ヒトラーはこうした事実は無論のこと、彼女の存在をも隠し続けていました。独身であることで婦人票が得られると考えていたためであり、このため、第二次世界大戦が終わるまでドイツ国民がエヴァの存在に気づくことはありませんでした。
山荘のあるオーバーザルツベルクはナチス専用の保養地と位置づけられ、外交や政治の舞台ともなっていましたが、ヒトラーが彼女の存在を隠していることをエヴァ自身も知っており、けっして表に出ることはありませんでした。ただし、エヴァは政治にも無関心であり、興味があったのは流行のファッション、音楽、映画だったといわれています。
ヒトラーが山荘にいるときは外に出られず、友人や両親、親類を招いて夕食を共にすることが多かったといい、彼女自身が望んだことだったとはいえ、側近には、そんな彼女がどこか脅えているようで、籠の鳥、不幸な女性に見えたといいます。
ヒトラーとの性生活などでもわりと淡泊だったようで、2人は山荘、ベルリンにある総統官邸、そして総統地下壕においても寝室は別々でした。エヴァのほうはヒトラーを敬愛していたようですが、対外的な対面からか、ヒトラーのほうはエヴァに対して冷淡で時に侮辱した態度をとることもあったといいます。
ゲリの時と同じように、束縛を好み、エヴァには喫煙を許さなかったといい、またヒトラー以外の男性とのダンスを禁じていました。エヴァはそうした束縛に不満を募らせており、二人のが口論する様子が度々目撃されています。
しかし、そんな束縛された生活の中でも、エヴァは楽しみをみつけてはそれをエンジョイするタイプの女性だったようです。
恋愛小説の読書や友人たちとの映画鑑賞など遊興に時間を費やすほか、かつてホフマンの写真館で覚えた写真の技術を持っており、自分の暗室を作ってもらい、そこで裸で日光浴をする自分の写真などを数多く残しています。ヒトラーのスチール写真や映画を現像することもあったといいます。
そんな中、ドイツの戦況は次第に不利なものになっていきます。1944年の6月には、ソ連軍の一大反攻により東部戦線が崩壊、また連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させるノルマンディー上陸作戦に成功するなど敗色濃厚な中、ヒトラー自身に対する暗殺未遂事件も起こり、彼も軽傷を負います。
1945年3月、エヴァはヒトラーの反対を押し切ってベルクホーフ山荘を後にしてミュンヘンへ移り、4月初旬、既に戦火に曝され荒廃した首都ベルリンへ入ります。が、すぐに4月中旬には総統地下壕へと避難せざるを得なくなります。両親や姉妹が再三ベルリンを離れるよう説いても、エヴァは最後までヒトラーと共にいることを選びました。
4月20日には、ついにソ連赤軍がベルリンに侵攻。そんな中、ヒトラーとエヴァは4月29日に、総統官邸地下壕内で簡素な手続きによって結婚しました。この結婚式では宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスとナチ党ナンバー2のマルティン・ボルマンが立会人をつとめました。花嫁は青色のシルクドレスを着けていたとされます。
彼女は結婚書類の署名欄に「Eva B……」と書きかけましたが、すぐに気がついて「B」に線を引いて消し、「Eva Hitler」と書き直したといわれています。
ヒトラー自身は、この結婚以前から彼女のことを、フロイライン・ブラウン(ブラウン嬢)と呼んでいたそうですが、式の後、地下壕の者達が「フロイライン」と呼びかけたところ、エヴァは誇らしげに「もう、フラウ・ヒトラー(ヒトラー夫人)と呼んでくれていいのよ」と言ったといいます。
翌日30日午後3時30分頃、エヴァは青酸化合物を嚥下して自殺。ヒトラーは銃弾の貫通痕から青酸カリのカプセルを噛んだ直後、顎の下から拳銃で頭を撃ち抜いて死んだと推察されています。
2人の遺体は、連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却されたといい、焼却された総統官邸の庭でソ連軍によって発見された遺体はひどく損壊していました。遺体は軍の歯科助手によって鑑定され、歯型から二人であると確認されたのち、ベルリンから西へ150キロほど離れたマクデブルク近郊に埋葬されました。
1970年に遺体は掘り出され、完全に焼却されたのちベルリン近郊が源流のエルベ川に散骨されました。エヴァの両親は戦後も行き延び、父は1964年に、母は1976年にそれぞれ亡くなりました。姉イルゼは1979年に71歳で死去しました。
妹グレーテルの夫は、敗戦は間近いと知り、妻以外の別の女性を伴ってスウェーデンに逃げようと企てたとして捕らえられ、ヒトラーの命によって銃殺されています。このとき彼女は妊娠8ヶ月で、姉のエヴァの死の5日後に生まれた女児に姉の名を取り、「エヴァ」と名付けました。
グレーテル自身は、戦後織物商と結婚し、1987年に72歳で死去しましたが、「エヴァ」の名を貰ったこの娘は、30歳になった1975年に叔母と同じく自殺しています。
ほぼ生涯にわたって独身を通し、死の直前に結婚したので、ヒトラー自身には直系の子孫はいません。ただ、ヒトラーが第一次世界大戦に従軍した際、部隊の駐屯地であったフランス北部で現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたという説があり、この男性はその後、現地でドイツ兵の私生児として生まれた男性ではないかと騒がれました。
しかし、この男性が1985年に死亡したのち、2008年に行われたDNA鑑定では、「ヒトラーの子供ではない」という結論が出されています。
一方、ヒトラーの遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものであり、また側近らの証言も曖昧であり、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらず、この事が「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となりました。
それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国日本にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道まで現れました。
俗説のひとつとして、スターリンの晩年に「ヒトラーが生存しているのではないか」といううわさがたびたび立ち、そのたびに彼は自宅の裏庭から木箱を掘り起こし、中の頭蓋骨を確認してから埋め戻した、というエピソードがあります。
この頭蓋骨は実在するそうで、2009年、アメリカのコネチカット大学の考古学者がそれまでヒトラーのものであるとされてきたこの頭蓋骨のDNA鑑定を行ったところ、これもやはりヒトラーのものではなく非常に若い女性の頭蓋骨であると結論づけられています。
たった一日だけの夫婦生活をこの世で過ごしたヒトラーとエヴァは、ほぼ同時にこの世から旅立ったのち、直後にあちらの世界で再会したことでしょう。
その後改めて結ばれたか、はたまた生まれ変わってこの世のどこかで再び暮らしているのかどうかもわかりません。
案外と我々のすぐ近くにいるのかもしれず、だとしたら今度こそ幸せな結婚生活を送っていてほしいと思います。そう祈るばかりです。