かぶき者慶次のこと

2014-1763連休が終わりました。

……といっても、今日明日も休んで超豪華長期休暇にする、なんて人もいたりするわけで、今日から仕事という人も2日会社に行けばまた休み、というのが普通でしょう。なので、多くの人はまだまだ連休気分は抜けていないのではないでしょうか。

本格的な始動は来週からにして、今週は仕事もそこそこにしておこう、というのが大方の気分でしょうが、かくいう私も同じです。

が、連休といってもとくに遠出をすることもなく、近くの山の登山に出かけたくらいであり、連休の合間である明日あたりは観光地の伊豆も多少人が減るでしょうから、ここぞとばかりにどこかへ出かけようか、と目論んでいる次第です。

ところで、4月から、NHKで面白い時代劇をやっています。「かぶき者慶次」というドラマで、主人公の前田慶次こと、前田利益を演じるのは、渋い役者さんとして高名な藤竜也さん。

実は、この「慶次モノ」というのはこれが初出ではなく、NHKとしては、2002年の大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」で、慶次を登場させており、このときは及川光博さんが演じたようです。ほかの民放でも放映されているほか、小説でも多くの作家さんが慶次のことを書いており、時代劇好きの人にはおなじみのキャラのようです。

しかし、今回の慶次は石田三成の遺児を育てる養父という、奇抜なキャスティングでストーリーが組み立てられており、これまでの作品とはちょっと違った雰囲気です。

昔の作品を全部みているわけではないので、どこがどう違うかとはいえないのですが、登場させている役者さんの顔ぶれや前宣伝などをみるとNHKとしても大河ドラマ並の力の入れようのようです。

実は私は、主人公役を演じる藤竜也さんをじかに見たことがあります。その昔、ハワイに留学していたおり、ワイキキのホテルでシンポジウムか何かがあった際に、エスカレーターで下から上がってくる藤さんと、すれ違いました。

何かの撮影のためにハワイに訪れたのか、白い上下のスーツで、上着の下には赤っぽいシャツを着ておられました。ポケットに片手を突っ込んでホテルの中を眺めながらエスカレーターを昇ってこられたかと思いますが、さすがにかっこえーな~とほれぼれするようなお姿でした。

現在73~74歳になられているかと思いますが、私がハワイにいたのが、27~28年前ですから、その当時50歳前で、役者さんとしても脂の乗り切ったころだったでしょう。現在はそのころにも増して演技に円熟味が出てきて、「かぶき者」を演じるにも最適なキャスティングと思えます。NHKの目の付け所に拍手したいと思う次第です。

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「かぶき者」というのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、とくに江戸や京都などの都市部で流行しました。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのことを指し、当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だったのに対し、彼等は概して派手好みでした。

色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだといわれ、立髪や大髭、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、を差すなどの異形・異様な風体が流行しましたが、その代表選手が、ご存知、織田信長です。

しかし、かぶき者になるのは、一般には若党、中間、小者といった身分の低い武家奉公人が多かったようで、本来は武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定でした。

徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働いたので、多くの人に嫌われました。

自分の武勇を公言することも多く、それが元でケンカや刃傷沙汰になることもあり、辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていたといいます。

しかし、こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあり、彼らは、仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていたといわれます。

その男伊達な生き方は人々の共感と賞賛を得てもいたようで、このため武家奉公人だけでなく、町人や武士である旗本や御家人がかぶき者になることもありました。

このNHKのドラマの前田慶次もそうした一人であった、という設定ですが、時代背景も関ヶ原直後のころを想定しており、かぶき者全盛のころ、ということで一致しています。

ちなみに、その後1603年(慶長8年)に出雲出身といわれる、出雲阿国(いずものおくに)がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、これが、のちの歌舞伎の原型となったといわれています。

かぶき者の文化は江戸時代の初めのこうした時代に最盛期を迎えましたが、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消していくことになります。が、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに引き継がれ、さらにその美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていくことになりました。

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さて、この前田慶次という人物ですが、実在したかどうかということになると、答えはイエスのようです。そのモデルになったのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将の前田利益(とします)だといわれています。自らも慶次と名乗っていたようですが、利益のほかにも宗兵衛、慶次郎、利貞など時期によって異なる名前を用いていたようです。

養父の前田利久は、前田利家の長兄です。つまり、加賀百万国の創始者、前田利家の義理の甥ということになります。利久は現在の古屋市中川区にあった、尾張国荒子城主であり、長男であったため、本来は前田家を継ぐ身分でした。が、主君・織田信長の命により家督を弟の利家に譲っています。

その理由は、利久に実子がなく、病弱だったからのようで、このため、同じく信長に仕え、織田家の重臣だった滝川一益の一族の子である、利益を養子として迎えました。一説に一益の従兄弟、あるいは甥といった説が存在するようです、が、利家よりも年上だったようなので、年齢的にみて一益の兄か弟ではなかったか、という説もあります。

しかし、滝川家には非常に多くの支流や系譜があり、利益の出自が本家なのか分家からなのかもよくわかっていません。それでは、この一益とはどういった人物だったか。

これは、信長に付き従い、長島一向一揆と石山合戦、武田討伐と次々に武勲を挙げて、信長のお気に入りだった武将の一人です。

柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉と並んで四天王の一人に数えられた人物で、信長の命により数々の戦功をあげ、関東を鎮定以後、それまでの功により伊勢の地を拝領するとともに、引き続き、関東周辺の地の鎮定に邁進しました。

そして、当初、現在の群馬県高崎市箕郷町にあった上野箕輪城、次に群馬県前橋市にあった厩橋城に入り、ここで当面鎮定した関東の治世にあたることになりました。

ところが、信長が本能寺の変によって横死すると小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)を初めとする北条勢が北関東にまで押し寄せてきました。一益はこれを迎え討ちましたが、のちに和平を結び、これによって信長の死後ようやく織田の領国である美濃国に入ることができました。

このとき、一益は清洲にて信長の嫡孫、三法師(織田秀信)に拝礼、伊勢に帰ったといいますが、しかしこの途上に、秀吉の遺臣たちによる事後処理会議、いわゆる清洲会議が開かれ、これに一益は出席できませんでした。このため、織田家における一益の地位は急落。

清洲会議後、三法師が織田氏の後継者となりましたが、これに信長の三男・織田信孝は不満を持っていたため、事態は三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展していきます。

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一益は勝家側に与して自国の伊勢で、秀吉との戦端を開きましたが、伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市長島町)にあった自城の長島城では、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に粘り、織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を釘付けにしました。ところが、柴田勝家はその後賤ヶ岳の戦いで敗れ、琵琶湖北部、北ノ庄において自害してしまいます。

残った一益は更に長島城で籠城し、孤軍奮闘しますが、やがて降伏。これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、かつての同僚、丹羽長秀を頼り越前で蟄居生活に入りました。

織田対豊臣の戦いはこれで終わりかと思われましたが、天正12年(1584年)、今度は信長の次男、織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げます。これがいわゆる「小牧・長久手の戦い」の始まりで、このとき一益は隠居に身でしたが、娘婿である滝川雄利は信雄の家老を務めており、本来ならば老骨鞭打って出馬し、家康につくべきところでした。

ところが、ここが一益のエライところで、時代を読み切っていたのか、隠居生活を送りつつ秀吉に接近していました。秀吉のほうも一益の能力を高く評価していたことから、この戦では秀吉の誘いに応じ、秀吉方となりました。

結果、この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略するなどの功があったため、秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられました。しかし、そのわずか2年後の天正14年(1586年)に死去。享年は62と云われます。

一益には4人の息子がおり、長男の一忠は小牧・長久手の戦でも父と行動を共にしていましたが、尾張国南西部における秀吉陣営と織田・徳川陣営の間で行われた蟹江城合戦での不手際を秀吉に責められ、追放処分となりました。

また、次男の一時は滝川家の家督を継ぎ、豊臣氏の家臣として1万2千石を与えられていましたが、後に請われて徳川家康にも仕えることとなり、徳川方より2千石を与えられ、合計1万4千石の大名となりました。

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しかし、一時は慶長8年(1603年)に35歳で死去。その際、豊臣氏から与えられていた1万2千石は没収され2千石の旗本とされました。また、一時の嫡男・一乗は幼年であった為、叔父の一忠の子で米子藩主中村氏に仕えていた滝川一積が呼び戻され名代となり、その後、家督と750石が一乗に返却され、滝川本家として存続しました。

その他、一益には三男に辰政、四男に知ト斎という二人の息子がいました。このうち辰政は、大坂の陣で戦功を挙げ1千石を加増され、合計3千石となり、その子孫は池田氏の移封に伴い、備前岡山藩士となりました。また、知ト斎は因幡鳥取藩池田氏に仕え、それぞれの子孫は岡山と鳥取の池田氏に仕えました。

いずれにせよ、往時の信長の代にあって大大名といわれた一益が興した滝川家は、相次ぐ戦乱の波に飲まれ、没落は避けられたものの、その後の徳川の世では、旗本、もしくは小大名になりさがるところとなりました。

さて、少々前置きが長くなりましたが、前田利益は、この滝川家の中興の祖、滝川一益の一派から出ました。前田家に養子に出されたわけですが、時代背景をみると、どうやら一益がまだ信長の四天王として活躍し、関東や北関東を鎮定しつつあったころかと思われます。

滝川家から前田家に養子に出された、という事実をみると、おそらくは滝川家の流れを汲む名門家の出であったとしても、嫡男としてではなく、次男三男がその出自だったと思われます。

この前田家の始祖の、前田利家もまた一益同様信長に信頼されていた人物です。利家は、はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持つほどの武将であり、その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、連勝しました。こうした功績が信長に認められ、のちには能登一国23万石を拝領して大名になっています。

同じく重臣の滝川一益とどこまで仲がよかったかどうかまではよくわかりません。が、勘気の強い信長の元でいつまで続くかもわからない乱世の中、できるだけ重臣同士は縁戚関係になり、敵を作らないようにしていたと考えられ、昔ながらのよしみで、利益を養子にしてやってよ、ということだったのではないでしょうか。

ところが前述のとおり、利益の義理の父となった、利家の兄、利久には子供がなく、病弱のため、その後信長から「武者道御無沙汰」、つまり武士としては甲斐性がない、と判断され、隠居させられてしまいました。そして、前田の家は、弟の利家が尾張荒子2千貫の地(約4千石)とともに継ぐことになりました。

これによって利久は没落し、このため利益は養父に従って、一旦は尾張の荒子城から退去し、浪人の身分になったとされます。しかし、さすがに食えなかったのか、その後利家は累進し能登国一国を領する大名となると、利久と利益は利家を頼り、これを許されて能登で仕える事になります。

このとき利家から利久・利益親子には7千石が与えられたといい、そのうち利久は2千石にすぎず、利益には5千石が与えられました。弟の利家からもよほど能力がないと思われていたのか、あるいはこのとき利益に家督を継がせることが決まっていたのでしょう。

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ところが、天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が起きます。その二年後には、天下人の継承をめぐって、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で、上述の小牧・長久手の戦いが起こりますが、この時、利家は秀吉側についており、当然、利益も彼の手先となりました。

彼らが住まう加賀・能登へは、徳川方の佐々成政が侵攻してきましたが、このとき利益は、佐々らに攻められた能登の末森城の救援に向かい、徳川方と交戦しました。この戦いは結局秀吉側の勝利に終わり、徳川は秀吉の一大名に成り下がりました。

叔父の利家は、末森城の戦いに勝ったのに続いて隣の越中国へも攻め込んで勝利し、越後の上杉景勝と連絡をとって北陸を平定、また秀吉の弟・羽柴秀長に従って四国へ進出してここを制しました。これによって前田家の地位は豊臣政権にあって不動のものとなり、利久と利益親子もまた利家に帰依していたため、それなりの恩賞を受けたと考えられます。

しかし、小牧・長久手の戦いから3年後の天正15年(1587年)には、義父利久が没しました。このとき、利益は家督を嫡男の正虎に与え、また利久から貰い受けた2千石をも正虎に与え、引き続き利家に仕えることになりました。

こうして、利益は実質、隠居状態になります。このとき57歳であり、年齢的にももう戦はご免、という時期だったでしょう。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので、利益もこれに従うよう命令が下ります。

また、次いで利家が陸奥地方の検田使を仰付かったときにも、利益はこれに随行しており、隠居の身とはいえ、利家が頼りにするほど、その知力にはまだまだ余裕があったことがうかがわれます。

しかし天正18年(1590年)以降、利益は突如として利家と仲が悪くなります。理由ははっきりわかりませんが、利益に長年付き従ってきた部下が利家の嫡子である利長と不仲だったからと伝えられています。このとき既に家督は長男の正虎に譲っており、養父の利久も亡くなっていることから、前田家と縁がなくなったと判断した彼は、出奔を決めます。

金沢を飛び出した利益は、その後は京都で浪人生活を送りながら、連歌師の里村紹巴・昌叱父子や学者の九条稙通、武将ながら茶人でもあった古田織部ら多数の文人と交流したといいます。40代後半のころにはすでに京都での連歌会に出席していた、という記録が残っており、この出奔以前から京都で文化活動を行っていたようです。

なお、このとき、利益の嫡子である正虎は当然のことながら、妻や他の子供なども一切この出奔には随行せず、そのまま金沢の利家の元に残りました。NHKのドラマ「かぶき者慶次」の中では、この妻を江波杏子さんが演じており、その名は「前田美津」となっており、また娘のひとりは、左乃(西内まりや)などとして描かれています。

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この京都では、同じく信長の家臣であった、細川幽斎とも親交があったようで、彼が出席した連歌会でたびたび顔を合わせている、という記録もあります。細川幽斎とは、初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力しますが、後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となった人物です。

後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川氏の祖となりましたが、若かりしころは明智光秀とも親しい間柄でした。信長の薦めによって嫡男・忠興と光秀の娘・玉を結婚させており、この玉こそ、のちに細川ガラシャといわれる人物です。のちに夫忠興が家康に組したことで、その留守に石田光成に襲われ、城ごと焼死することになります。

この細川幽斎のような大物中の大物と親しかったという利益もまた、かなりの人脈があり、有名人が多数出席するような連歌の会に出席していたことなどから、教養がある人物であったことは容易に想像できます。

この京都への出奔後、しばらく遊び暮らしたのちに利益は、越後の上杉景勝に仕官しています。この上杉景勝は、豊臣政権の五大老の一人で、前田利家とも親交がありました。

豊臣政権下では、前田家、上杉家とも格の上では同じくらいであり、両者とも乱世を生き抜き、家を江戸まで存続させたという点で共通点があります。同じ北陸地方ということで親近感もあったでしょうし、そこへ仕官したというのもうなづけます。

が、仕官というよりも、家格からしておそらくはどちらかといえば食客として迎えられた、というのが正しいと思われます。時期としては、関ヶ原の2年前の慶長3年(1598年)のころのようです。実は、この年は、上杉家は、秀吉の命により120万石に加増された上で、会津に移封された年であり、このとき当主の上杉景勝は、「会津中納言」と呼ばれました。

利益は既に65歳になっており、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1000石を受けています。

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この上杉家への入封においては、主君景勝のブレーン、直江兼続のとりなしもあったことがわかっており、兼続が利益のために屋敷を建ててやれ、と部下に命じる書状なども残っています。その後も兼続とは何かと親交が深かったそうで、このほか上杉二十五将の1人といわれた安田能元とも親しく、2人での連歌が今に残っています。

利益が上杉家に入ってから、1年後の慶長4年(1599年)には、叔父の利家が61歳で亡くなっています。叔父とはいえ、義理であり、利益よりも年下であったことからもその関係性がうかがわれます。利家にとっては結構けむたい甥だったのではないでしょうか。

前田家は彼の死により嫡男の利長が継ぐところとなりましたが、このころまでには既に秀吉は死んでおり、天下は徳川と旧豊臣派が真っ二つにわかれて睨みあう情勢になっていました。前田家は元々親豊臣でしたが、利長の代に、結局は家康の脅しに屈服し、利家の死から一年後に勃発した関ヶ原合戦では東軍に与しました。

一方、上杉家は打倒家康の闘志をむき出しとして徳川方と抗いました。関ヶ原の前哨戦ともいわれる山形盆地で行われた「長谷堂城の戦い(慶長出羽合戦)」では、徳川方の最上義光・伊達政宗率いる東軍と激戦を行っています。

このとき、利益は直江兼続の傘下に入って伊達軍と戦い、数々の功を立てたとされ、そうした奮闘もあって一時は上杉が優勢でした。しかし、この戦いの途中で、主君の景勝が参加していた関ヶ原の戦いで西軍が敗れたとの報が入ります。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの、このとき彼を諌めたのが、利益だったといわれています。

利益に説得された兼続は、撤退を決断します。が、最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転。上杉軍が撤退を開始する中、最上伊達連合軍が追撃した結果、上杉方は大勢の兵を失いましたが、兼続らの首脳陣は命からがら越後へ逃げ帰りました。

結果、上杉家は会津120万石を没収された上、30万石に減封された上で米沢に移されることになり、利益もこれに従って米沢藩に仕えるところとなりました。そして、米沢近郊の堂森(現、米沢市万世町堂森、慶次清水と呼ばれる)において再び隠居生活に入りました。利益はこの時すでに68歳になっていました。

隠棲後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わっています。そして、慶長17年(1612年)6月4日に79歳で、堂森で没したとされます。子は一男三女(五女とも)をもうけたとされますが、その後の生涯は不詳です。

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NHKドラマでは、この晩年の米沢時代の利益を描いているわけですが、しかし、これまで書いてきたような史実の中には、劇中にあるような、石田光成の子供を預かったというような事実は見えてきません。

ただ、前田家、上杉家とも秀吉の五奉行を命じられていたころから、同じく五奉行だった石田三成と親しかったことは確かでしょう。

三成には、3男3女もしくは2男5女がいたとされます。しかし、うち、長男と三男は関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命されたものの出家させられて坊主になっており、可能性のあるのは次男の「石田重成」という人物です。

しかし、米沢に渡ったという事実はなく、関ヶ原の戦い後、津軽信建という津軽氏の武将の助力で畿内を脱出。津軽氏に匿われ、のちに、「杉山源吾」と名を変え、津軽藩の家老職となっています。その子孫は津軽家臣として数家に分かれており、従って、NHKのドラマではこの事実をかなり脚色しているものと思われます。

利益の亡骸は米沢の北寺町の一花院に葬られたとされますが、一花院は現在廃寺となっており、当時の痕跡は残っていません。また堂森の善光寺というお寺には供養塔が残っているそうですが、こちらの供養塔は昭和55年(1980年)に建てられたものです。

利益の残した足跡としてもうひとつ残っているものとしては、山形県米沢市の宮坂考古館に利益の甲冑とされるものが展示されています。また、2009年、山形県川西町の掬粋巧芸館で、もう一つ利益のものとされる甲冑の40年ぶり2回目の特別公開があったそうです。

もともと非公開だっただけに、保存状態は極めて良いといい、これが、本物かどうかは不明ですが、上杉家に伝わった甲冑をまとめた「御具足台帳」には利益所用の甲冑は3領のみだったと記されているそうです。この残されたふたつが3つのうちの二つということになるのかもしれません。が、真偽のほどはわかりません。

それにしても、「かぶき者慶次」とよばれるような本当にユニークな人物だったのだろうか、というところが気になります。それについても今日書いていこうかと思ったのですが、前置きが長くなりすぎ、紙面も押してきたので今日のところはもうやめにしましょう。

史実によれば、確かに、利益には「かぶき者」と呼ばれるような傾向があったようで、常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖があり、また、いたずら癖、奇行の持ち主だったようです。

が、そろそろ晩飯の支度をしなければなりません。そのことはまた別の機会に書きましょう。今晩夜8時のドラマの放映が楽しみです。

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