渋谷新宿界隈

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さて、大型連休が明けました。

これから先というもの、7月20日の海の日まで休日はなく、しかも6月、8月とまったく休日のない不毛地帯が続きます。

今日から久々の仕事を再開、という方も多いと思いますが、この先の長丁場の中、頑張りすぎて体調や精神面でのバランスを崩さないよう、気をつけていただきたいと思います。

季節的には初夏から梅雨に向かい、しかも私の大嫌いな暑い夏がやってきます。一年で一番憂鬱な時期ではあるのですが、この地の涼しさにも助けられ、昨年まではあまり嫌な思いはせずに済みました。

それにしても、ほんの4年ほど前まで東京に住んでいたことが夢のようです。それまでに住んでいた街のことなどをつれつれ思い出すにつけ、なぜ東京に住まうようになったかな~と述懐してみます。

すると、そのきっかけは、大学を卒業して最初に勤めた会社が渋谷にあったからでした。この会社への入社を初めとして、その後日本橋や半蔵門などの東京各所の職場を転々としましたが、毎朝それらの職場を目指すにあたってのベースとして選んだのは、やはり土地勘のある、東京以西の多摩地方や神奈川県地方でした。

最初は、相模大野、次いで、杉並区の阿佐ヶ谷に移り住み、その後は田園都市線の鷺沼などにも住みましたが、最終的に家を買ったのは多摩であり、結局そこに20年以上住むことになりました。

その東京暮らしにおける最初の記念すべき居住地は相模大野でした。ここを選んだのはほかならず、ここに就職した会社の寮があったからでした。ここから毎朝毎朝小田急線に揺られて都心に向かい、途中で千代田線から銀座線と乗り継いで外苑前駅に降り立ちます。

そこから、神宮球場のほうへと昇っていく通りは、通称キラー通り、といいます。1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに向けて着工された「外苑西通り」の一部で、青山通りと交わる南青山三丁目交差点の前後約1キロメートルを指します。

この呼称は、作家・堺屋太一さんによる命名であり、「キラー(Killer)」は、沿道にある墓地(青山霊園)、激しい交通、当時流行していた「ピンキーとキラーズ」などから連想されたものであるといいます。

堺屋氏の知人であるデザイナー、コシノジュンコが1970年(昭和45年)、この通りに店を開店する際の案内状にこの名を書いたことから世間に広まることとなりました。通りの北端には、ビクターの青山スタジオがあり、道路の両脇にはちょっとこじゃれたブティックや喫茶店なども散見されたりして、神宮外苑のなかなかおしゃれな通りという印象です。

サザンオールスターズはデビュー以来、レコーディングをこのスタジオで行っており、2005年(平成17年)に発売されたアルバムのタイトルは「キラーストリート」で、そのジャケットにはキラー通りの風景イラストが描かれていました。

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外苑駅前からの道のりはやや緩やかな昇りになります。そして、峠を越えて、ビクタースタジオの手前約200mのところの左手にあったこの会社には、その後アメリカに留学するまで結局5年間お世話になりました。

現在は、フィットネスクラブ、レストラン、オフィスからなる複合ビルに建て替わっており、一部はイギリスの高級車、ジャガーの青山店になっているようです。が、ここにかつて東京オリンピックの際の選手宿舎として建てられた三角形の形をした変わったビルがありました。

12階建だったと思います。最上階は役員室などが主であり、私の勤務先はその階下の11階にありましたから、職場としてはこの会社の最上階に位置していたことになります。

建築されたのは、東京オリンピック前ですから、昭和37~38年ころでしょう。当時のこのあたりはまだ開発も進んでおらず、一般民家も多数ありましたから、当時としてもかなり目立つ斬新なデザインだったでしょう。その後キラー通りが現在のように賑やかになってからも、この地域でもかなりシンボリックな建物としてみなされていたようです。

各階三ヶ所にある非常階段への扉を開けたところにある踊り場は、仕事が行き詰ったときの息抜きの場所でもあり、ここから見える新宿副都心の変わりゆく姿をみながら、5年間を過ごしました。

会社勤めを始めたころはまだこの西新宿にある高層ビルはそれほど多くなく、新宿住友ビル、新宿三井ビル、新宿野村ビル、新宿センタービルなどの5つか6つぐらいだったと思います。が、私がここへ勤めている間に次から次へと新しいビルが建っていき、かなり様相が変わっていきました。

調べてみると、私がこの町で日々の大部分を過ごした1980年代には、「超高層ビル」と呼ばれるものが9本建っており、以後、1990年代には10棟、2000年代にも10棟が完成しています。現在進行形の2010年代にも既に3棟が完成しており、今後とも新宿のランドスケープはさらにさらに変わっていきそうです。

ちなみに、こうした都会の風景を「スカイライン」といいます。本来は山岳の稜線などが描く輪郭線のことですが、近代では都市の高層建築物と空や大地が醸し出す風景のことを指します。これは以前にもこのブログでも書きました。日本ではクルマの名前のほうが有名ですが、欧米では普通にこうした都市景観のことをスカイラインと呼びます。

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こうした新宿のスカイラインは、1960年代まではまったくの地平線、といっていいほど凸凹が少ないものでした。いわゆる60mを超すような超高層ビルというものはなく、高いといっても、私が勤めていた会社のようなせいぜい10階建て前後の30~40m前後の建物が普通でした。

いわんや、江戸時代以前には、新宿はまだ何もない原野のようなところでした。おそらくは狐狸の住むような藪だけのような土地だったと思われます。そこへ、ようやく宿場町ができました。1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府を樹立してから約100年ほども経った1698年のことです。

信州は高遠藩の藩主、内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として設けられたもので、このため、この宿は当初、「内藤新宿」と呼ばれました。その本陣は、甲州街道と鎌倉街道が交差していた現在の新宿二丁目付近だったようです。

その後、江戸から甲府までの主要街道として開かれた「甲州街道」の整備が整うにつけ、宿場町としてさらに発展していくことになり、やがて、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展していきます。

非公認の売春宿、岡場所などもできてさらに繁盛するようになり、「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」という狂歌も詠わるようになりました。「馬の糞」というのは活発な馬の往来のことをさし、「あやめ」は飯盛女・遊女を意味します。歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえます。

ところが、明治維新によって武士が没落したため、武家地が多かった新宿もここに住まうものがいなくなり、荒廃し始めました。そこで、とくに広大な敷地を誇った内藤新宿は大蔵省によって買い上げられ、海外から持ち込まれた動植物の適否を試験する「内藤新宿試験場」となりました。

1879年には宮内省の所轄となり、これが現在の「新宿植物御苑」、通称「新宿御苑」になります。また、1885年(明治18年)には山手線が開通し、新宿駅が宿場の西はずれに作られ、続いて現在のJR中央線にあたる甲武鉄道や、路面電車の東京市街鉄道などがこの新宿駅に乗り入れるようになりました。

1915年(大正4年)には京王電気軌道、現京王線が乗り入れ、ターミナル駅としての姿を見せ始め、さらなる発展を遂げていきましたが、その流れをさらに加速したのが、実は、1923年(大正12年)に起きた関東大震災でした。

この地震によって、表層地盤の弱い都心部の銀座や東部の浅草などの下町エリアの繁華街は全滅しましたが、新宿などの東京西部のいわゆる「武蔵野台地(山の手台地)」と呼ばれる地域は地盤が固く、この地震でもほとんど被害を受けませんでした。

このため、同じく武蔵野台地に位置していて被害の少なかった、南側の渋谷、北川の池袋といった他のターミナル駅とともに、大震災後の復興を担う町として一躍時代の表面に躍り出てきました。

それまでは東京の中心といえば皇居のある旧江戸城を中心とした東側や南側だったわけですが、これらの地域の壊滅後には、より安全な地域と人々に目されるようになり、新たな繁華街が形成されるようになりました。

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また、中央線の整備も進み、京王線もどんどんと西進を続けたため、東京西部の郊外人口も急増しました。多摩地方のあちこちには住宅街が形成されるようになり、これらの人が京王線や中央線を使って大量に東京に入ってきます。そしてその際、人々が最初に降車する町として、新宿駅周辺には繁華街が形成されるようになりました。

とくに当時の中央線は西郊から都心に乗換えなしに行ける唯一の鉄道であったことから利用が多く、さらに昭和の初めには小田急線、西武鉄道も乗り入れ、新宿に交通が集中するようになると、新宿は東京駅周辺や銀座とも1~2位を争う繁華街となっていきます。

伊勢丹デパートや中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といった名物をはじめ、武蔵野館、新歌舞伎座、帝都座、ムーランルージュ新宿座などの映画館、劇場、カフェーなどが集中し人々で賑わうようになったのも、この昭和初期の時代です。

しかし、その後の太平洋戦争では、新宿もまた東京大空襲により大きな被害を受けました。ただ、このときも浅草などの東部の下町と比べれば人的被害も物的被害も少なかったほうで、このため、新宿駅周辺には戦後間もない頃から闇市が建ち並ぶようになりました。

良きにつけ悪しきにつけ、戦後の東京における復興の先駆けとなり、東口の中村屋横にできたハーモニカ横丁では「カストリ」と呼ばれる模造焼酎が売られるようになりました。また、これを真似て、統制外の粗悪紙を用いて濫造された、低俗な内容の雑誌なども流行るようになり、これらを総称して「カストリ文化」の名も生まれました。

ただ、その後政府によってこうした闇行為の撲滅運動が始まると、1950年頃までには新宿から闇市は姿を消していきました。小売店も次々と再開または新規開店し、新宿駅を中心とした商店街は東口を中心に戦前にも増して活気で満ちあふれました。

1952年には新宿駅が日本一乗換駅が多い駅となり、さらに、昭和30年代にかけて、丸井、小田急、京王などの百貨店が続々と進出し、現在見られるような新宿駅の西、東の商業地の風景が形成されました。

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そして、高度成長時代です。昭和30年代に入ると人々の心にもゆとりが生まれ、新宿は商業の急激な発展とともに、娯楽・演劇の拠点としても戦前以上の賑わいをみせるようになります。そして、その中心となったのが、戦災で焼失した新宿駅北方の地の一角、すなわち、歌舞伎町でした。

歌舞伎町を中心に数々の映画館が建ち並び、1956年には新宿コマ劇場がオープンし大衆の人気を集め、1964年には紀伊國屋ホールが開場し若手演劇人の登竜門となりました。そしてこの頃から、いわゆる「アングラ演劇」も盛んになり、新宿は独自のサブカルチャーの発信地としての地位を確立していきます。

新宿のジャズ喫茶、歌声喫茶などの喫茶店には多くの若者が交流の場を求め、集まるようになりましたが、と同時にこうしたサブカルチャーの余波は隣接する渋谷にも押し寄せました。

1970年頃までは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば、何といっても新宿でした。しかし、1973年(昭和48年)に渋谷でPARCOの開店があり、これを機に日本における若者文化の歴史が大きく変化したといわれます。そして、その流れは「新宿から渋谷、または原宿を含めた渋谷区全体へ」と移り変わっていきました。

新宿における若者の街、若者文化などは、渋谷へ向けて大移動を始め、渋谷は新宿に代わって新たな流行の発信地となりましたが、と同時に隣接する原宿も若者の集まる街として人気を集め、渋谷プラス原宿、そして表参道といった渋谷区の中心に大きな変化が訪れるところとなりました。

このころから、渋谷原宿と言えば若者の町、といわれるようになり、新宿はどちらかといえば大人の町と呼ばれるように変わっていきました。そして、私が大学を卒業して渋谷にある会社に就職したのはそうした「文化大移動」が終結して定着しつつあった1980年代の初頭ということになります。

既に若者の町としての渋谷は完成されつつあり、渋谷パルコ劇場、クラブ・クアトロ、シネセゾン渋谷、スタジオパルコなど、ライブハウスや劇場、映画館群が形成されたのもこの時代です。若者は皆、手に手に「ぴあ」を持ち、これらの劇場群をはしごするようになります。

さらには、PARCO・OIOIの進出やシブヤ109が誕生し、渋谷は若者のファッション文化の発信の地ともなりました。原宿とともにファッションの町としての地位を確立していった時代であり、いわゆる「竹の子族」なる人種が湧き出たのもこのころです。

ファッションの最先端ということで、当然芸能人たちもこぞってこの町で遊ぶようになり、この時代、私も夜になるといわゆるアイドルと言われるような人やタレントさんをよく見かけたものです。

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が、私といえば、こうした若い喧騒のある渋谷より、落ち終いた雰囲気のある新宿のほうがどちらかといえば好きでした。戦後の西新宿の開発は、1971年(昭和46年)に京王プラザホテルが建設されたのを皮切りに本格化し、次々と200m超の高層ビルが建設され、東口とは趣の異なる、オフィス街として熟成されていきました。

しかし、文化都市の側面もあり、熊野神社を含む広大な中央公園もあったり、あちこちには、ギャラリーや画廊なども散見されます。私も休日などには新宿のあちこちにあった(現在もあるでしょうが)フォトギャラリーで、有名な写真家さんの写真を見て歩くのが趣味で、その後待ち合わせた友達と飲みに行くこともありました。

が、私はどちらかといえば人とつるむのは好きでなく、アパートに帰りひとりでその余韻にひたるほうが好きでした。また、今でこそ映画館は各回の総入れ替え制ですが、このころは映画は何度でも最初に払った値段で見ることができたため、お気に入りの映画で休日を過ごすこともままありました。

また週末の土曜日などには一晩で4本も5本もの映画を連続上映するテアトル系の映画館もあり、ここで映画を見てからの朝帰り、というのもよくやりました。朝方映画館を出て、朝焼けの中でぼんやりと遠くに見える西新宿の高層ビル群がやたら綺麗に見え、いつかああゆう超高層ビルで仕事をしたいな~、と思ったりもしたものです。

とはいえ、最初に就職したこの会社での仕事は、慣れるにつけ何かと楽しく、また周辺が渋谷新宿という「行楽地」でもあり、大いに青春を謳歌できた感があります。なんというか、時代の最先端にいる、という気分があり、日々が楽しかったことが思いおこされます。

しかし、そうした生活にも時間の経過とともに「慣れ」が生じます。就職して5年目を迎えるころになると、オレの一生はこのままでいいのだろうか、と思い出しはじめましたが、結局はそうした「気分」がエスカレートするところとなり、長年お世話になった、その会社を辞めることになりました。

そして、フロリダ~ハワイにつながる長い海外生活に入ることになるわけですが、当初は2年程度で帰ってくるつもりが、結局はその倍の足掛け4年ほどの海外生活を送ることになりました。このため、その後、この間の新宿や渋谷の変わりようは目にしていません。

1990年代はじめに日本に帰ってきたころは、ちょうど東京都庁が完成したころであり、この新宿西側の様相も相当に変わっていたように記憶しています。また、渋谷にあったかつての勤務先のビルも取り壊されており、ある日その跡地を訪れたときは新しいビルが既に建っており、もうここは自分の居場所ではないな、と強く感じたのを覚えています。

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新宿や渋谷は、今でも仕事とプライベートの両方でたまに訪れることがあります。が、あのころのように自分の町、という感覚は既になく、ただの通過点になってしまっています。

しかも今、そこから遠く離れた伊豆の空の下にいて、そこで日々を送っているのが何やら不思議でしょうがありません。

彼の地で日々を送った生活から流れた時間を数えると早、30数年。この間の新宿渋谷の町の変遷を、今流行りのタイムラプスで見てみたいと思うのですが、どこかにそうした映像はないでしょうか。

もしあったとして、おそらくその映像の中で変わらないのは背景にある富士山くらいなのかもしれません。たしか、新宿駅西口からは、高層ビル群越しに富士山が見えたはずです。富士を中心にして撮影したそうした時間の流れをぜひ見てみたいものです。が、それはかなうはずもありません。

しかし、人は死ぬとき、その一生の映像を一瞬で見ることになる、といいます。映像と共に過ごした月日の良きこと悪きこともすべて見させられるともいいますが、そんな中でこの若かりし時代はどんなふうに見えるのかな~と想像したりもします。

更に思いかえすと、あの時代には、楽しかったことだけでなく、悲しかったことも多々あり、浮沈さまざまな気分を味わいましたが、と同時にこの町で過ごした日々はやはり人生で一番ワクワクしていた時代だったかな、とも思います。

1980年代というのは、バブルに向かう時期でもあり、渋谷や新宿の町が日本でも一番ダイナミックな変遷を遂げていたこの時期をそこで過ごせたのは少しくラッキーだったかな、とも。

少なくとも、5年経っても10年経ってもおそらくはあまり変わり映えしないであろう、この伊豆の地に住んでいたことよりも、新しい経験ができた時代であり、良い時代であった、と人生の最後には思うのかもしれません。

連休が終わり、また都会の喧騒に帰っていくみなさんも、そうした目で今過ごしている時間をみてみてはいかがでしょうか。

連休の間の楽しさは失せ、いやな仕事やノルマが待ち受けているかもしれません。が、その世界はのちに振り返ることになる長い人生の中においては、もしかしたら実は変化に満ちた驚きの時代であるかもしれない、ぜひ、そういう可能性についても考えてみて頂きたいと思います。

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