U-2

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ちょっと前の首相官邸へのドローンの侵入事件以来、最近、ドローン、ドローンとやたらに無人飛行機の話題が目につきます。

この「無人飛行機」には全幅30メートルを越える大型から手の上に乗る小型までの様々な大きさのものが存在し、固定翼機と回転翼機の両方で軍用・民間用いずれも実用化されています。操縦は基本的に無線操縦で行われ、機影を目視で見ながら操縦するものから衛星回線を利用して地球の裏側からでも制御可能なものまで多様です。

飛行ルートを座標データとしてあらかじめプログラムすることでGPSなどの援用で完全自律飛行を行う機体も存在します。大きな機体ではガスタービンエンジンを搭載するものから、小さなものではガソリンエンジンを搭載し、極小の機体ではバッテリー駆動されます。

元々は軍用に開発されたものであり、このため最近では偵察だけでなく、攻撃能力のある機体も増えています。

機体そのものに人間が搭乗しないため、撃墜されたり事故を起こしたりしても操縦員に危険はなく、また、衛星経由で遠隔操作が可能であるため、操縦員は長い期間戦地に派遣されることもなく、任務を終えればそのまま自宅に帰ることも可能です。

しかし、無人機の活用を推し進めるアメリカ軍では、こうした無人機を操縦する兵士の負担がむしろ増しているといいます。というのも、無人機の操縦というものは、有人機の操縦以上に神経を使うものであり、しかも、年間平均飛行時間は有人機では200~300時間ですが、無人機では900~1100時間にも上るといいます。

想像以上に無人機の操縦士は酷使されており、労働時間は平均で1日14時間、週6日勤務となっており、人手も不足しているとのことで、アメリカ軍ではこうした状況を打破するための改善策を検討中だといいます。

また、攻撃機として使われる場合は、操縦者が人間を殺傷したという実感を持ちにくい点も問題視されています。敵を殺傷する瞬間をカラーテレビカメラや赤外線カメラで鮮明に見るということは、ほとんどゲームをやっているのと変わらず、それだけに事後に自分がやってしまったことの後悔がじわりじわりと沸いてきます。

従来の軍事作戦では有り得ない生活を送るわけであり、いつミサイルを発射してもおかしくない状況ながら、その直後に家に帰って家族と普通に食事する、ということもあり得るわけです。平和な日常と戦場を行き来する、といったアンバランスな生活は操縦者にさまざまな精神的問題を引き起こすといい、操縦員に大きな精神的ストレスを与えます。

イラク戦争のときなどには、実際にイラクに展開している兵士よりも無人機のパイロットのほうが高い割合で心的外傷後ストレス障害を発症していたというデータもあるようです。

それなら、いっそのこと有人偵察機に戻せばいいじゃないか、という意見もあるようですが、しかし、元々撃墜される可能性を想定しての無人機開発であったはずであり、それでは本末転倒です。

ただ、無人飛行機全盛のこの時代にあって、有人の偵察機が未だに使われているという事実は意外に知られていません。

ロッキード U-2(Lockheed U-2)はロッキード社がF-104をベースに開発した、そうした有人のスパイ用高高度偵察機であり、初飛行はなんと、今から60年も前の1955年です。公式ではありませんが、ドラゴンレディ(Dragon Lady)という愛称があり、また、その塗装から「黒いジェット機」の異名もあります。

CIAの資金により開発されたU-2は、1955年(昭和30年)8月4日、1号機が進空したのに続いて計55機生産され、冷戦時代から現代に至るまで、アメリカの国防施策にとって貴重な情報源となりました。

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U-2は高度25000m(約82000ft)以上と成層圏を飛行することができます。その並外れた高高度性能は、要撃戦闘機による撃墜を避けるため、敵機が上昇し得ない高高度を飛行するためのものです。旅客機は通常10000m(約33000ft)程度なので、その2倍以上ということになります。

外観は誘導抵抗を減らすためのグライダーのような縦横比の大きな主翼形状が特徴で、軽量化と非常に小さな空気抵抗により目的の性能を生み出しています。

軽量化を徹底した結果、車輪が胴体前部と後部の2箇所にしかありません。離陸時には翼の両端に地上から離れるときに外れる補助輪をつけ滑走します。着陸時には車がU-2と並走して翼が地面につかないよう指示を出しつつ十分に低速になったところで翼端を地面にすりつけ着陸、その後補助輪を装着され滑走路から移動を行います。

パイロットは高高度を飛行するため、特殊な与圧スーツを着用します。それはまた高高度で脱出する際に必要不可欠な装備でもあります。このスーツは宇宙服とほぼ同様で、違いは色と生命維持装置が付いているかいないか、及び宇宙空間での推進装置が無いだけであるといいます。

このスーツのヘルメットには数個の穴があり、ヘルメットを脱がずにチューブ入りの食料を摂取できます。また、呼吸と排泄のためのチューブが、外付けの機械と繋がっています。

U-2は、偵察用の特殊なカメラを積み、冷戦時代はソ連など共産圏の弾道ミサイル配備状況をはじめとする機密情報を撮影してきました。当初、CIAとアメリカ空軍、台湾空軍で使用されていましたが、1970年代にCIAと台湾空軍はU-2の運用を取りやめたため現在ではアメリカ空軍のみで運用されています。

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無人機全盛のこの時代になぜ、こうした有人偵察機が使われて続けているか、ですが、理由はいろいろあるなかで、そのひとつには無人機では判断できない高度な情報収集が有人飛行ならできる可能性があります。

例えば傍聴した音声の内容を機械は正確には理解できません。器械に組み込まれたコンピュータプログラムによる反応には限りがあり、咄嗟の判断といった人間臭い判断は大の苦手です。

特殊な状況下においては、生身の人間ならば即座に判断して、もっと別のソースから情報を得るといった、臨機応変の対応ができる可能性があります。昨今は自動車の自動運転の技術がかなり高度化していますが、まだ実用にほど遠いのは、いざというときの判断がまだ機械には委ねられないからであり、同じ理屈です。

しかし、戦闘機や地対空ミサイルの能力が向上した現在、撃墜される危険のある地域を強行偵察することはやはり困難です。ただ、電子/光学センサーの進歩は著しいものがあり、U-2に搭載されている重量約1.36tの探査センサーを使えば、直接敵国上空を飛行しなくとも、かなりの情報収集が可能になるといいます。

敵国の付近を飛ぶだけでも、通常高度500~600kmの低軌道に位置する偵察衛星に比べれば遥かに近い距離からの偵察であり、より精度の高い情報収集が可能です。従って、日本の領海に上空にとどまりながら、北京の政治状況を探る、といったことも場合によっては可能になるようです。

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U-2には後継機があり、これはステルスタイプのSR-71という偵察機でした。ロッキード社が開発しアメリカ空軍で採用された超音速・高高度戦略偵察機です。愛称はブラックバード。実用ジェット機としては世界最速のマッハ3で飛行できました。

ところが、このSR-71は機体の特殊性ゆえの運用コスト高や偵察衛星の進歩により、アメリカ議会でその高コストは軍事費削減の格好のターゲットになり、1990年に退役しました。

しかし、U-2は現在でも、湾岸地域やボスニアでは有力な情報収集手段となっており、現役で活躍中です。アメリカ空軍はコクピット等のアビオニクスの機能を向上させ、エンジンをF118-GE-101(推力8390kg)に換装した性能向上型U-2Sへの改修計画を進めています。

アビオニクス(Avionics)というのは、航空機に搭載され飛行のために使用される電子機器のことで、通信機器、航法システム、自動操縦装置、飛行管理システムなどです。こうした機器の多くは組み込み型コンピュータを内蔵しており、最近の最新鋭戦闘機の価格の80%はこうしたアビオニクス関連だといわれています。

SR-71が退役後もU-2が生き残った理由はただ一つ。安価だからです。SR-71は高高度を音速で飛ばすという高性能が求められたため、全体の93%にチタンが使用され、高性能のターボジェットエンジンを搭載するためにかなり高価になりました。

対してU-2はジュラルミン製のペラペラの機体であり、スピードも最高速度はせいぜいマッハ0.8ですが、ともかく製造コストが安く、これなら偵察機としていざというときに残しておいても金はかからなくて済む、というわけです。

失速して、揚力を失っても頭部を下げれば再び揚力を回復できるなで、安定性が高いといわれ、また、徹底した軽量化は燃費に優れ、長い航続距離と飛行時間を確保できます。

しかし、空気の薄い高高度を飛行するため、SR-71と同じく極めて操縦が難しい軍用機といわれます。万一失速した場合、高度を下げる事になるので、そのこと事態が即墜落に結びつくわけではありませんが、作戦行動中であれば被撃墜リスクは高まります。

その昔は高々度を飛んでさえいれば撃墜は不可能だといわれましたが、最近は高性能の対空ミサイルの発達により、ちょっとでも高度が下がれば比較的撃墜がしやすくなったともいわれます。

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1960年5月1日にはソ連領空内にCIA所属のU-2偵察機が領空侵犯をし、偵察飛行をしていたところ、ソ連軍の放ったS-75地対空ミサイルによる迎撃を受け、撃墜される、という事件がありました。これは、ミサイルが直撃したのではなく、ミサイルが付近で爆発した際の爆風で機体が破壊され、墜落したものでした。

地対空ミサイルの威力が強かったのではなく機体外壁がとても薄く作られていたため、衝撃波に耐えられなかったためであり、このとき高高度から墜落した機体は、大破と言うよりは潰されたような形で発見されました。

軽量で大柄な機体のために空気抵抗が大きくなり、落下速度があまり速くならなかったためであり、ミサイルによる直接破壊ではありません。これは、「U-2撃墜事件」として知られる事件です。偵察の事実が発覚したことから、この当時予定されていたフランスのパリでの米ソ首脳会談が中止されるなど大きな影響がありました。

激化していた米ソ冷戦が、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相の訪米などで一時期緩和されていた時期のことでもあります。ちょうどこのころのアメリカではソ連にミサイル・ギャップ(技術格差)をつけられたという認識が高まっていました。

ソ連の戦略ミサイルを徹底的に監視することで安全保障を確保する方針を固め、当時、ロッキード社で開発されたばかりのこのU-2偵察機による高高度偵察飛行によりソ連領内のミサイル配備状況などの動向を探っていました。

同機はアメリカ国内でもその存在は秘密にされるほどのトップシークレットであり、いわんや外国にもその姿を見たことがある人間はほとんどいませんでした。ところが、事件が起こる前年の1959年9月、厚木基地配置のWRSという分遣隊に所属するその一機が、燃料切れにより藤沢飛行場へ緊急着陸するという事件を起こします。

事件当日は飛行場でグライダー大会が行われており、このため多数の親子連れがU-2を目撃する事態となってしまいました。U-2撃墜事件が起こる前の当時、当然同機は日本でも完全に秘密扱いされていました。

このため、厚木からアメリカ軍がU-2を回収しにやって来るまでにU-2を目撃した民間人は無論のこと、日本領土内に住む日本人であるにもかかわらず、不時着機の写真を撮影した人物はすべてアメリカ軍による家宅捜索を受け、アメリカ軍の守秘義務誓約書にサインさせられました。

日本ではこの事件は、のちに「黒いジェット機事件」と呼ばれてその事実が明るみに出ましたが、事件が起こった当時は、読売新聞や産経新聞、朝日新聞などの全国紙もこの事件を一切報道せず、わずかに翌25日付で神奈川新聞が小さく報じたのみでした。

しかしその後、1959年12月1日の第33回国会衆議院本会議で日本社会党の飛鳥田一雄によって採り上げられ、一般に知られるようになりました。マスコミにおける「黒いジェット機事件」の名称はこの時以来のものです。

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このU-2の厚木基地への配備は、ソ連領内のミサイル配備状を探るためでした。アメリカ空軍はこのU-2を定期的に飛ばしていましたが、対するソ連側も成層圏飛行で領空侵犯してくるU-2のことに気がついており、その何度目か以降には連防空軍はMiG-19P迎撃戦闘機などで幾度となく迎撃を行うようになっていまし。

しかし、当初のソ連の戦闘機での迎撃は高度が足らず実質的に不可能であったため、その後新型のSu-9迎撃戦闘機の完成を急ぐと共に新型の地対空ミサイルの開発も進めました。その結果、この黒いジェット機事件が発生したころには、U-2のような高高度偵察機を撃ち落せる能力のあるミサイルが実戦配備に就くようになっていました。

そして、パリ・サミット開催予定の2週間前の1960年5月1日、パキスタン・ペシャーワルの空軍基地を離陸し、ソ連領内で偵察飛行中のU-2に対し、ソ連側が地対空ミサイルをスヴェルドロフスク州の第1ミサイル部隊から発射し、これを撃墜することに成功した、というわけです。

ちなみに、この際1機のSu-9迎撃戦闘機も迎撃に上がりましたが、迎撃に失敗しています。この事件の際有名になったソ連の迎撃ミサイルはS-75といい、その後ベトナム戦争でも多くのアメリカ軍機を撃墜することで西側にも認知されるようになりました。

このときのU-2のパイロットの名前は、フランシス・ゲーリー・パワーズといいました。彼はパラュートで脱出し、スヴェルドロフスク州コスリノに着地し一命を取り留めました。

自殺用の硬貨内蔵の毒薬を所持していましたが、これを使用しませんでした。このことは、のちに彼がアメリカに帰国したときに明らかにされましたが、一部からはこのCIAの作った自殺用毒薬を使用しなかったという批判もなされました。

また、撃墜後、ソ連側に逮捕される前に彼がU-2機密情報や偵察写真、部品を自爆装置を用いて処分することを怠った、という非難も起きました。

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とまれ、行き延びた彼は村民に捕らわれ、その後ソ連側により公開裁判にかけられました。やがて、スパイ行為を行っていたことを自白し、こうしてアメリカ側のスパイ行為の実態が明るみに出るところとなりました。

その当時、アメリカ軍機による頻繁な自国領空侵犯の報を受けやきもきしていた、この当時の首相、ニキータ・フルシチョフは、事件がおこった当日、モスクワ赤の広場でのメーデーパレードに参加しており、その開始直後にこのアメリカ軍偵察機撃墜成功の報告を受けました。

首相はすぐに、アメリカ政府に対し事件に関する謝罪を要求。このため、パリ・サミットは崩壊し、フルシチョフは5月16日に会談を一方的に打ち切られるという政治的な余波がありました。

さらにフルシチョフはこの事件を、「アメリカによる犯罪行為」として大いに反米プロパガンダに利用しました。これに対して当初アメリカ政府は、「高高度での気象データ収集を行っていた民間機が、与圧設備の故障で操縦不能に陥った」という嘘の声明を発表します。

しかし、パワーズの自白が明らかになると態度を一変し、当時のアメリカ合衆国大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは、「ソ連に先制・奇襲攻撃されないために、偵察を行うのはアメリカの安全保障にとって当然のことだ。パールハーバーは二度とご免だ」と開き直り、スパイ飛行の事実を認めました。

パワーズは8月19日にスパイ活動で有罪と判決され、禁固10年シベリア送りを宣告されました。しかし、ソ連側がシスキンKGB西欧本部書記官を、アメリカ側が顧問弁護士のドノバンをそれぞれ代理で出し、二人の会合の結果、両国は東ベルリンのソ連大使館でスパイを交換釈放することで合意しました。

1年9ヶ月後の1962年2月10日、自首し亡命を申し出た別のスパイの供述を元にFBIが逮捕したソ連のスパイ、”マーク”、ことルドルフ・アベル大佐ほか一名とベルリンのグリーニケ橋で交換されました。なお、この橋は東西ドイツの国境であり、度々スパイ交換が行われた場所でした。

パワーズは、帰国後に撃墜から拘留中の出来事についてCIA、ロッキード社、空軍から事情聴取を受けたあと、1962年3月6日、上院軍事委員会に出頭しましたが、結局上院軍事委員会はパワーズは重要な機密は一切ソ連側に洩らしていないと判断しました。

その後、彼は1963年から1970年までロッキード社にテスト・パイロットとして勤務し、1970年、事件における自身の体験を綴った“Operation Overflight”を出版しました。この本の中でパワーズは、かつてソ連に一時亡命したアメリカの諜報員がソ連側に渡したレーダー情報がU-2撃墜事件につながったと指摘しています。

その後彼は、1977年、ロサンゼルスでKNBCテレビのレポーターとしてヘリコプターに搭乗中、墜落死しました。事故原因は燃料計の故障でした。遺体はアーリントン国立墓地に埋葬され、今もここに眠っています。

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ちなみに、交換されたソ連側のスパイ、ルドルフ・アベル大佐は、本名ウィリアム・フィッシャーといい、イギリス生まれでした。が、両親は共にロシア人であり、このため彼もソ連に忠誠を誓っていました。英語が堪能であったため、長じて統合国家政治局(OGPU)という秘密機関に採用され、欧州諸国で非合法活動を行っていました。

独ソ戦勃発後、破壊工作とパルチザン活動に従事する部隊に志願。この期間、後の彼の偽名となるドイツ人パルチザン、ルドルフ・アベルと知り合いました。二次大戦中、フィッシャーは、ドイツ軍の占領地に派遣された他のパルチザン及び諜報員のための無線手を養成したりしていたといいます。

終戦後、非合法諜報に復帰。1948年、アメリカの原子力施設からの情報入手のために、アメリカに派遣され、このとき、コードネーム「マーク」が与えられ、ルドルフ・アベルの名で画家を装い、活動を開始していました。

1949年5月末までにはかなりの成果を上げ、母国からは赤旗勲章を授与され、その後も7年間に渡って諜報活動を続けていました。が、あるとき、ブルックリンで大きなミスを起こします。新聞配達少年が客の誰かから新聞代として受け取った5セント硬貨を落とし、その中からマイクロフィルムが出てきたのです。その落とし主こそが彼でした。

FBIは、ニューヨーク市にアメリカの核情報を探るスパイがいるとして捜査を開始し、その結果、1957年、自称画家であったマークが浮上。FBIによって逮捕されました。当時、ソ連当局は、彼によるスパイ行為への関与を否定し、またフィッシャーは、死んだ友人の名前「ルドルフ・アベル」で押し通し、自分はドイツ人であると主張し続けました。

さらにスパイ行為への関与を否定し、裁判での証言を拒否し、アメリカ当局からの買収の申し出も撥ね付けたため、裁判では死刑判決が出るところでした。そこを、元アメリカ軍の諜報機関出身の弁護士に助けられ、その弁護によって禁固30年に減刑され、ニューヨーク刑務所、後にアトランタ刑務所に収監されていました。

東西ベルリンの境界であるグリーニケ橋においては、U-2パイロットのゲーリー・パワーズ、もう一人、スパイ容疑で拘留中であった留学生フレデリック・プライヤーと交換される形で解放されました。ソ連への帰国後は、諜報部に復帰し、非合法諜報員の教育に当たっていましたが、1971年、68歳で死去。

レーニン勲章、赤旗勲章3個、労働赤旗勲章、一等祖国戦争勲章、赤星勲章を受章したほか、1990年には、ソ連郵政当局が発行した顕彰切手には、アベルの肖像写真が使われています。

この事件以後、アメリカのミサイル技術もソ連以上に格段に向上し、敵のミサイルなどの軍事技術を偵察する意味も薄れたため、U-2によるソ連領内の高高度偵察飛行が行われることはなくなりました。

が、ソ連同様、アメリカと対立する国々へのU-2による高高度偵察飛行は依然として続けられてきたと考えられ、キューバ危機の際にもU-2が対空ミサイルで撃墜されるまで頻繁に続けられていたことがわかっているほか、現在までにも中国や北朝鮮に対するスパイ飛行が行われているようです。

少し前までは、中国に対してのスパイ飛行はアメリカより台湾空軍に供与された機体で行われていました。CIAの支援の下で台湾空軍内にU-2を運用する、通称「黒猫中隊」が創設され、1959年から2機のU-2が中国奥地への偵察に従事したとされます。

当然、中国政府が支配している地域への領空侵犯をしながらの危険な任務であり、中国空軍による迎撃で5機を失い3名のパイロットが戦死、任務中や訓練中の事故で6名のパイロットが殉職しました。

しかし、黒猫中隊のもたらした情報は、中ソ国境での軍事的緊張をキャッチし、中ソ対立が深刻化していることを明らかにし、また中国の核開発の情報をもたらしました。しかし、1972年にニクソン大統領の中国訪問で米中両国間の国交が樹立され、米中両国間の緊張関係が緩和されると中国への偵察任務は停められ、1974年に黒猫中隊は解散となりました。

アメリカや台湾側はこの件に関して当然のことながら沈黙を保ち続けてきましたが、中国側はソ連より供与されたSA-2により数機を撃墜し、残骸を北京の軍事博物館に並べて一般公開しています。

その後、中国側によってU-2が再び撃墜されたという記録はありません。しかし、おそらくは、さらに性能をアップし、現在もU-2は日本海の上、遥か高高度を飛び回り、周近平主席らの言動を嗅ぎまわっているに違いありません。

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