伊豆大島のこと ~伊豆大島(東京都)


上天気が続きます。先日降った雨は富士山には雪をもたらし、今はもうここから見える富士は五合目あたりから上はもうすべて真っ白です。冬至はまだひと月さきですが、ここ静岡だけでなく、全国的に冬モードに入っているようで、北海道では積雪があちこちで見られるようです。

伊豆での積雪は比較的少ないようで、昨年もここ修善寺では積雪があったという話は聞きません。が、標高の高い天城山(標高1500m程度)では毎年のように積雪があるそうなので、今度雪景色がみたくなったら行ってみようと思います。

このほか伊豆大島の三原山でも時折、積雪が見られるということです。が、こちらの標高は800mにも満たないので、降ったとしても大した量ではないでしょう。

この三原山ですが、先日大室山に登った時、もかなり間近に見えるのをみてビックリしました。双眼鏡でみると三原山の頂上の火口付近の様子まではっきり見えるほどです。

そういえば、それほど昔ではない時代に噴火したことがあったよな~と記憶に残っていたので調べてみると、最後に噴火したのは1990年だそうです。それでも20年以上も昔の話です。

しかし、これに先立つ1986年の噴火はかなり大きかったようで、溶岩流が麓の町に向かった流下しはじめ、地震活動が活発化するとともに、住民の多い波浮地区周辺で火山活動による割れ目が発見されるなどしたため、最終的に住民全員の島外避難が行われました。

帰島は約1ヶ月後になりましたが、幸い人的な被害はなく、農作物に被害が少し出た程度で、この噴火においても著しいダメージはありませんでした。

こういう話を書いていると、つくづく伊豆という土地は、火山と切っても切り離せない環境にあるなと感じてしまいます。先日来登山している山々のほとんどはその昔火山であったり、また大室山のように今は静かではあるものの、現役の活火山であったりします。

それだけパワーにあふれている土地柄だということなのでしょうが、我が家でもこんこんと湧き出る温泉の恩恵を受けています。ここに住んでいることだけでもなんだか元気にしてくれるような何か「気」のようなものを感じるのは気のせいでしょうか。いわゆるパワースポットということなのかもしれません。

そんなパワーにあふれた土地柄なのですが、伊豆半島も伊豆大島もその昔は、京都や奈良などの中央からみるととんでもない僻地であり、それゆえに「流刑の地」でもありました。伊豆に流された人で最も有名なのは源頼朝ですが、その子の頼家も修善寺に幽閉されており、日蓮も鎌倉幕府に嫌われて伊豆へ流されています。

では、伊豆大島にはどんな人が流されていたのかなと調べてみました。すると、一番古い
ところでは、天皇家の皇子の麻績王が675年にここに流されており、また中世では、699年には修験道の開祖といわれる役小角(えんのおず)が、更に平安時代末期には大物僧侶で立川流という密教の開祖である仁寛(にんかん)が1113年に流されています。

そして中世に流された人で有名なのが、源為朝(みなもとのためとも)。平安時代末期の武将で、弓の名手といわれ、鎮西を名目に九州地方で大暴れしたため「鎮西八郎」ともいわれます。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方について後白河法皇側と戦いましたが、負けてしまい、このため、1156年(保元元年)に伊豆大島へ流されました。

ところが、ここでも大暴れして国司に従わず、伊豆諸島の海賊を味方につけて伊豆大島だけでなく伊豆諸島を事実上支配したため、朝廷の追討を受け自害。ところが、ここでは実は為朝は死なず、琉球まで逃れて生き残り、その子が琉球王家の始祖といわれる「舜天」になったという伝説も残っています。

この為朝さんという人は非常に面白い人物なので、また機会あればじっくり取り上げてみたいと思います。

その後戦国時代に入るころには伊豆大島は後北条氏の北条早雲の子孫の支配下になったため、あまり公の流人は流されていませんが、江戸時代に入ってからは引き続き流刑地としての役割を担うようになり、主として政治犯が流されました。

有名どころでは、「越後騒動」という越後国高田藩で起こったお家騒動で、藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対する一派重臣とが争い、幕府の裁定は争った者たち同士両成敗という結果でしたが、その処罰の一環として、小栗美作の弟の小栗兵庫という人物が1682年(天和2年)に伊豆大島に流されています。

また、1702年(元禄15年)には有名な赤穂浪士の討ち入り事件があり、四十七士のひとりであった「間瀬正明(ませまさあき)」とその長男の「間瀬正辰(ませまさとき)が、吉良上野介の首をあげたあと、間瀬正明は熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられ、翌年切腹。息子の正辰も水野忠之の屋敷に預けられたあと、切腹しました。

間瀬正明には、次男がおり、間瀬正岑(まさみね)といいましたが、幼かったため討ち入りには加わらず、しかしお咎めを受け、1703年(元禄16年)に伊豆大島へ流されました。

伊豆大島へはこのほかにも、吉田兼直・中村忠三郎・村松政右衛門といった、赤穂浪士の遺児が流されましたが、本家浅野家の瑤泉院(松の廊下で吉良を切りつけた浅野長矩(ながのり)の正室)の運動などが功を奏して、三年後の1706年(宝永3年)に赦免されました。

しかし、間瀬正岑だけはそれを目前にして大島で病死しており、大島の元町というところにそのお墓があります。その命日は4月24日だったそうで、300年目にあたる2005年のこの日には、その墓前で「300遠忌慰霊祭」が行われたそうです。

このほか、1612年(慶長17年))にはキリシタンの「ジュリアおたあ」という女性も伊豆大島に流されています。

この人物、私的には全くノーマークだったのですが、知れば知るほど興味深い人生を送っています。

その出自は秀吉が行った朝鮮出兵、いわゆる文禄の役(1592年(文禄元年))の際、秀吉の配下にあったキリシタン大名の小西行長が、戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘を捕虜として日本に連れ帰ったのだと言われています。

朝鮮の最後の王朝である李氏朝鮮の上級官僚「両班」の娘ともいわれていますが、生没年や実名、家系などの仔細は不明です。

文禄の役では、日本軍に平壌近郊で捕縛・連行されてのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで「おたあ」と名付けられ実子のように育てられました。

やがて両親もそうであったように洗礼を受け、ジュリアと名付けられます。そしてクリスチャン名でカタリナと呼ばれていた夫人の教育のもと大名の子としての英才教育を受けるようになります。とりわけ小西家に伝わっていた「薬草」の知識においてとくに造詣を深めたといわれ、聡明で気品のある女性であったと伝えられています。

その後の1600年(慶長5年)に起こった関ヶ原の戦いでは、小西行長は石田三成に呼応し西軍の将として参戦し、奮戦するも敗退。この年の10月に市中引き回しの後、京都の六条河原において石田三成や安国寺恵瓊と共に斬首されました。

カタリナ夫人は、その後薩摩の大名家に嫁いだといわれています。が、カタリナは実は行長の夫人ではなく娘だという説もあり、この人物の生涯は不明な点が多いようです。

育ての親を失い、またしても天涯孤独の身なってしまった、おたあでしたが、その才気と美貌を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として暮らすことになりました。

やがて長じると家康の側近く仕えるようになり寵愛を受けるようになりますが、クリスチャンとしての気概は忘れてはおらず、昼間は家康の側妾としての仕事を行い、それを終えた夜には祈祷を行い、他の侍女や家臣たちに聖書を読んでその内容を聞かせ、キリスト教信仰に導いたといわれています。

しかし家康は、天下をとったあとキリシタン棄教の方針を諸大名に伝え、おたあにもこれを要求するようになります。おたあはこれを拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、1612年(慶長17年)に禁教令を犯したとして駿府より追放され、伊豆大島へ流罪となりました。

伊豆大島に流罪になったあとも、八丈島(もしくは新島)、神津島へと次々と島を変えて流罪となったといわれますが、どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされます。

3度も遠島処分にされたのは、他の流人の赦免との引換えを望んだからだとも、また再三の家康への恭順の求めを断り続けたためとも言われていますが、このほかにも駿府時代の侍女でクリスチャンだった仲間と再会したため、この仲間とともに八丈島、または新島などで修道生活に入ることを希望したのではないか、という説もあるようです。

おたあは、島民にもキリスト教を教え、その教化によって多くの島民も洗礼を受けたといわれていますが、現状において伊豆大島には教会はひとつしかなく、この教会にもおたあにまつわる話は残っていないようであり、おたあの布教によって大島の人にキリスト教が深く根付いたという事実はないようです。

おたあはその後、神津島で亡くなったと伝えられています。しかし、1622年にイエズス会のフランシスコ・パチェコという神父が書いた「日本発信」という書簡には、おたあは神津島を出て大坂に移住してこの神父の援助を受け、のちに長崎に移った旨の記述があるそうです。

このことから、神津島での刑期を終えた後許され、大阪から長崎に移ってそこで亡くなったという説もあるようです。しかし、神津島以降の実際の消息および最期についての本当のことはわかっていないようです。

しかし、1950年代に神津島のある郷土史家が島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、おたあは神津島で死んだという定説が生まれ、このためこれ以降神津島では毎年5月に、おたあの祖国と考えられる韓国のクリスチャンも加え、日韓のクリスチャン合同での慰霊祭が行なわれているそうです。

伊豆大島への罪人の配流は、島民による流人の受入れや三宅島までの流人船の御用が大きな負担となっていました。このため、1766年(明和3年)には、島民への年貢の上乗せを条件に流人船御用が免除されるようになり、これ以降は大島への流人は途絶えるようになります。

そして、1796年(寛政8年)には、御蔵島・利島とともに正式に流刑地から除外されるようになり、これ以降、伊豆大島は流人の島ではなくなりました。

その後、明治に入り、伊豆大島と伊東の間には定期航路も開かれるようになり、1928年(昭和3年)に東京との間に日本航空による航空便も就航するようになって、伊豆大島はもはや孤島ではなくなりました。

この同じ年に、は野口雨情作詞・中山晋平作曲の「波浮の港」という歌がヒットしたため、訪れる観光客が増加し、これ以降、現在でも伊豆大島では観光は重要な産業のひとつです。

1931年(昭和6年)には三原山の砂漠(溶岩原の通称)にロバやラクダが導入され、1935年(昭和10年)に大島自然動物公園(現・都立大島公園)が開園しています。

明治30年代ころから、乳牛・酪農が行われるようになり、現在でもさかんに行われています。伊豆大島牛は味の良いブランド牛として有名であり、酪農製品も数多く本土に出荷されるようになりました。

この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた椿油は「大島産椿油」として高級品として取引されました。現在では整髪用にはほとんど使われないようですが、食用の高級品油などが取引されているようです。このほか、海洋性の温暖な気候を利用し、切花等の栽培も盛んです。

また、漁業においても日本でも有数の好漁場を近海に持ち、恵まれた漁業環境にあることから、採貝や伊勢えび漁に従事する漁業者が多いようですが、最近は漁獲量も減っているということで販売対象も観光客目当てのことも多くなってきているようです。

伊豆大島の人口は、昭和27年には13,000人を数えたこともあるそうですが、平成24年10月末現在の島の人口は8459人となり、年々減少気味。昭和40年代に入り起こった離島ブームによる観光の活発化や、オイルショック等によるUターン現象で、人口の増加がやや上向いたこともありましたが、不況による観光の停滞などで昭和50年頃からは微減を続けているようです。

温暖な気候で、住みやすそうですが、実際に住むとなるとやはり気になるのは三原山の噴火でしょうか。

やはり、行くとしても観光目的の短期滞在でしょう。東京の竹芝ターミナルからは高速船で1時間45分で着くようで、この便は一日に2~3便ほどあるようです。このほか夜発朝着ののんびりした船便もあるようで、これは横浜からも出ているようです。

伊豆半島からは熱海~大島間を45分で結ぶ定期便があるようです。なので、一度も行ったことのない伊豆大島へは今度ぜひ訪れてみたい場所のひとつです。

なお、空路は羽田から一日一往復の便(片道30分)が全日空により運航されているほか、調布飛行場からはコミューター機が飛んでおり、こちらは一日三往復だとか(片道35分)。東京以西の山奥?に住んでいる方々には、「ちょっと海を見に」行くためには良い場所に飛行場があるものです。

伊豆大島では年明けの1月ころから椿の花が咲くようで、300万本ともいわれる椿の木の群生はなかなか見応えあるようです。年が明け、まだまだ桜や梅の咲かぬこの時期、伊豆大島へ行って椿でも鑑賞しながら伊豆大島牛を食す。なかなか良いと思います。あなたも行ってみませんか?

三角点から見える風景 ~旧修善寺町(伊豆市)

城山(じょうやま)からみた富士山

秋が深まるにつけ、朝夕は厳しい寒さがあるものの、日中は快適な気温となり、晴天の日も多いことから外出する機会がぐんと増えました。

11月に入ってから何度もあちこちの山に登るようになり、先日ブログでも記した城山や葛城山、大室山のほか、先週末には達磨山にも登ってきました。

風光明媚な伊豆のことですから、どこの山に登っても絶景が楽しめますが、頂上に登って360度の視界が開けるという山はなかなかないもの。城山は東側の眺めの良い山でしたが、北側の眺望はいまひとつで、ここからじっくり富士山を眺めたいという人にはちょっと物足りない山でした。

また、葛城山は頂上が台地状になっているため、場所を変えれば東西南北の景色が楽しめますが、一カ所から周囲すべてを見渡せるという場所はありません。

そこへいくと、先日登った達磨山は、その頂上から文字通り360度の視界が開け、北にある富士山や西の駿河湾、東側はその南側にある天城山塊に続くなだらかな伊豆半島の山々を見通すことができ、文字通り視界を遮るものはありません。

しかも山頂の一カ所からこの風景が楽しめることができ、クルマでのアクセスも容易なことから、かなり人気のある山のようです。この達磨山のことについては、また後日詳しく書きたいと思います。

ところで、こういう眺めの良い山にはたいてい、「三角点」が設置してあります。地図を作るための緯度、経度、標高の基準になる点であり、明治時代にこの点が定められました。

日本の近代測量の基本となった三角測量は、工部省測量司が1871年(明治4年)にイギリス人 マクヴインの指導のもとで、東京府下に13点の三角点を設置したことに始まります。

その後、1882年(明治15年)には、全国でおよそ100点ほどのおおまかな三角点の選点が終了し、1884年(明治17年)からは陸軍省参謀本部測量局(明治21年陸軍参謀本部陸地測量部)がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。

参謀本部では、8年間のドイツ留学から帰朝した田坂虎之助が現在の測量作業規程に当たる「三角測量説約」を完成させ、本格的な一等三角測量に着手し、この時点から当初幕府が導入したフランス式測量法からドイツ式測量法に変更されました。

全国の地図を作るにあたっては、まず一番最初に選点された三角点をもとに日本全国に「基線」と呼ばれる大まかな線が引かれました。

この基線は、例えば青森から山口まで一本の線で引くこともできますが、こうした単一の基線から測量箇所を拡大していくと末端での誤差が大きくなるため、これよりもやや多い基線から始めることにし、本州だけでなく、北海道、九州、四国などに合わせて14の基線が設置されました。これらの各基線から徐々に三角網を拡大してゆくこととし、隣接する境界で誤差ができるだけ少ないようにしたのです。

まず最初に選点された三角点を中心として、45km間隔で測量を行うための観測点候補地が定められました。そしてこの候補地でまず最初に三角測量を実施し、だいたいの間隔を定め、ついでその補点として、この点を含め今度は約25km間隔の測量をするということを繰り返していきました。

こうして全国で次々と25km範囲の三角点網が完成されていきましたが、これがいわゆる「一等三角点」とよばれるものです。ただし、一等三角点には最初に45km間隔で定められた「本点」とその後25km間隔で定められた「補点」の二つがありました。

地図上や現場の標識にこれが明示されているわけではありませんが、最初に定めれらた本点とあとから定められた補填は別物ということで現在でも一等三角点というときには、資料上は本点と補点は区別してあります。

こうして選ばれた一等三角点は、無論、他の一等三角点が見通せる位置関係になければならないわけであり、当然眺めが良い場所でしたが、その地点は恒久的に一等三角地点として永続が可能である必要がありました。

なぜなら大雨によるがけ崩れや地震によって崩壊してしまうような脆弱な地盤の場所に一等三角点を設けると、そうした災害が起こったあとは二度と測量ができなくなってしまい、「国土を守る」という目的の地図を作る場合、それを修正する場合の基点がなくなってしまうからです。

このため、いくら眺めがよくてもその場が無くなってしまうような危険性がある場所は一等三角点には選ばれていません。眺めがいいからそこは一等三角点だろうというと、必ずしもそれは正しくありません。

眺めがよくても、噴火のおそれがあったり、崩れやすい地質の山は選ばれていません。明治時代の人は、後世のことも考えてこの一等三角点の選定には相当注意を払ったと思われます。

こうして一等三角点が決まると、この次にはこの一等三角点を含めて約8km間隔に二等三角点を設定します。以下二等三角点を含めて約4km間隔に三等三角点を設け、次いで以上を含めて約2km間隔に設けられたのが四等三角点です。

そして、これらの一等から四等までの三角点を基準とし、20mの等高線幅で地形を描写して一番最初に造られたのは、五万分の一地形図でした。

ちなみに、明治時代には、「五等三角点」というものが存在しました。1899年(明治22年)に国土地理院の前身である陸地測量部が定めたもので、その内部文書に「海中の小岩礁の最高頂を観測し、其の概略位置及高程を算定し、之を五等三角点と称すること、尋て市街地の高塔等亦之に準することに定めたり」という記述が残っています。

三角点の標石を設置するのが困難な小岩礁はその最高点を五等三角点とし、「市街地の高塔等」に該当する火の見櫓や煙突などの構造物などがこれに準じるものとして五等三角点になりました。

しかし、明治時代以降、長らく五等三角点の新設は行われることはなく、四等三角点以上への切り替えや廃止が行われたため、現在は沖縄県の小島の3か所が残存しているのみだそうです。

これらの三角点は、一等三角点だけでなくほかの三角点も地殻変動その他を知る重要な点になります。このため、一等三角点では、18cm角、二等と三等は15cm角、四等は12cm角の丈夫な御影石(花崗岩)もしくは硬質の岩石の標石がその三角点地点に埋設してあります。

これら三角点の約半数は明治・大正時代に設置されており、一等三角点の重さは90kg(24貫)もあって、明治・大正時代には人夫がその石を背負って山頂まで運んだそうです。

ただし、三角点が置かれる場所は山のような場所ばかりではなく、場所によっては街中に設置されることもあり、こうした場合、公立学校などの公的建造物の屋上に設置されていることもあります。

また、見たことのある人も多いと思いますが、上面の中央に+が刻まれてあって、その中心が三角点の位置であり、十字の真ん中がその地点の高さ(標高)になっています。ただし、三角点の高さは、三角点の置かれた位置の高さであって、これがその三角点の置かれた山の最高地点の高さを示すものではありません。

意外とみなさんが知らないのは、この刻まれている十字が、実は方位を示しているということ。さすがに「東西南北」の文字は刻まれていませんが、もし山で道に迷ったとき、この三角点をみつけ、その十字が確認できればその地点の方位がわかります。

三角点は現在、全国に103284点あって、このうち一等三角点は、たったの972点しかありません(二等5056、三等32699、四等64557)。

通常、360度の範囲の他の一等三角点を見通せる場所に設置されていることから、当然見晴らしの良い場所に設置されており、冒頭で述べた達磨山もそのひとつです。

こうした、一等三角点を山頂に持つ山の踏破を目標とする登山愛好者も多いようで、「一等三角点百名山」なるものを定めて、これを踏破することを目標としたサークルもあるようです。

一般の百名山の中には、名山には違いないものの、そこからの眺めがイマイチというものもあります。しかし、一等三角点がある山ならば、見通しが良いことはまず間違いありませんから、同じ目標として登るならば、こちらを目安とするほうが間違いないと考えるファンが多いのもうなずけます。

初期の一等三角測量は大正2年にはひととおりの観測が終了し、一応の完成をしたそうです。その後は、千島や、樺太、台湾といったいわゆる外地の測量が実施されましたが、その多くは現在日本の国土ではなくなってしまいました。

以後残った三角点では、地殻変動をとらえる目的も併せ持って、繰り返し現地測量が実施されて現在に至っていますが、近年はGPSなどの測量技術が進歩したため、現地での測量はほとんどされなくなっているそうです。

平成21年度には、全国約2万の三角点に、ICタグを付加した「インテリジェント基準点」なるものが整備されました。

このICタグには、場所情報コード(番号のようなもの)や、緯度・経度・標高が記録されているそうで、例えば専用の携帯端末をこのタグに近づけると、その場の位置情報をすぐに見ることができる、というもの。

設置した国土地理院によれば、ICタグに対応した測量機器の開発により、簡便な位置決定作業が可能となり、これを利用した位置情報の提供サービスなどの分野での応用が期待される……というのですが、ほかにどんな使い道があるんかしらん。

たぶん、ほかにも測量がやりやすくなるとかのメリットもあるのでしょうが、いまひとつ何に使えるのかピンときません。事業仕分けの対象にしてもよかったのかも。

もっとも、GPSシステムだって、出たころにはこんな精度の悪いもの何に使えるの?とさんざん批判を浴びていたのを思い出します。

今は、かなりの精度をもって位置情報を得ることができるシステムとして、インターネット同様に我々の生活になくてはならないものになっています。なので、インテリジェント基準点もいずれ日の目を見る日がくるのかもしれません。

このように明治や大正に作られた三角点を新しい技術で有効利用しようという動きはあるものの、かつて地図作成や道路建設、都市開発などの公共事業に多大な貢献をしたような役割はあまり期待されていません。

そのためか、ときおり、山に登った時に三角点標石の頭部などが削られているのを目にすることもあります。登頂の記念?に削っていくのかな、とも思うのですが、もしそうだとしたらそんな馬鹿なことをしなければよいのに、と思ってしまいます。

登山の目印のためか、赤や青のスプレーで塗られた三角点もみたことがありますが、こうした先人が作った遺物をぞんざいに扱うのはどうかと思います。

「柱石の破壊など機能を損ねる行為をした者は、測量法の規定により2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられる」そうです。

このブログを読まれている方々の中にはけっしてそんな不埒な人はいないと思いますが、もしそういう人を見かけたら、ぜひご注意を。逆切れされるのが怖い場合はぜひ通報を。

自衛官たちの伊東 ~伊東市


先日、大室山に登った時、伊東港の沖合から一隻の自衛艦らしい船が入港してくるのが見えました。艦上部に大きな箱がのっかっているような奇妙な形の船なので、いったいどういった種類の船だろう……と疑問に思ったので家に帰って調べてみました。

するとどうやらこれは、海上自衛隊の潜水艦救難母艦の「ちよだ」という船だということがわかりました。横須賀にある、「第2潜水隊群」という潜水艦部隊の旗艦だそうです。艦名は江戸城の別名千代田城に由来し、この名を受け継いだ日本の艦艇としては4代目なのだとか。

海上自衛隊初の「潜水艦救難母艦」として建造され、「うずしお型」と呼ばれるちょっと古いタイプの潜水艦が万一沈んだときに、これの救難にあたる「深海救難艇」と「深海潜水装置」を装備しており、艦の後部にはヘリコプターも発着できる甲板があります。

艦の真ん中に穴があいたようにみえ、そこにオレンジ色の物体がみえますが、これが深海救難艇(Deep Submergence Rescue Vehicle、DSRV)のようです。

深海救難艇は海中で遭難艦を捜索し、発見すると艇体下部の「スカート」と呼ばれるハッチと遭難艦の専用ハッチを接合し、スカート内部を減圧・排水した後に深海救難艇と遭難艦のハッチを開いて、遭難艦に残された人を深海救難艇に移します。

一度に全員が救助できない場合は、深海救難艇が支援艦と遭難艦の間を何度も往復して遭難艦の乗員を救助します。深海救難艇は各国の海軍が持っていますが、その接合方法は共通になっているそうで、これは救助を行うのが必ずしも自国艦とは限らないためだそうです。

なので、深海救難艇の上部甲板には他国の艦船がみてもすぐわかるように救難ハッチの位置を明示する塗装がなされており、これがこのオレンジ色です。こういう色に艦艇を塗るのは、隠密行動を主とし一般には黒っぽい色を塗る潜水艦における塗装では唯一の例外なのだそうです。

潜水艦救難母艦の「ちよだ」のほうは、潜水艦救難艦としての機能のみならず、「潜水母艦」としての機能も付加されていて、潜水艦1隻分80名分の宿泊施設、ミサイル、魚雷、糧食、真水の補給物資、潜水艦への給電と充電を可能なのだとか。

大きな箱のようにみえたものは、この潜水艦の乗員のための宿泊施設、つまりホテルのようです。

艦首付近の喫水線下には「サイドスラスタ」と呼ばれる船を進行方向とは90度をなす横方向に動かすスクリューもついていて、これによって、波の高い海の上でも安全に潜水艦に静かに接舷することができます。

と、いうことがわかったのですが、それにしても何で伊東沖に?という新たな疑問が。そういえば前から伊東沖に来るたびにしばしばこうした護衛艦をみかけることがあり、伊豆へ新居探しに来た昨年には、潜水艦が停泊しているのを目撃したこともありました。

その理由をネットで探ってみたところ、どうやらこうした横須賀の艦隊基地に所属する自衛艦は、相模湾沖などで訓練をおこなったあと、訓練に励んだ乗員をねぎらうために、こうした伊東のような温泉のある港町に仮停泊することが多いようです。

横須賀基地だけでなく、舞鶴や佐世保、呉といった他の基地からの艦船も横須賀基地の艦船と合同で訓練を行うこともあるようで、そうした折に、伊東のような港に停泊することも多いのだとか。

伊東沖は、海岸から数十メートルで急に水深が深くなるうえ、海上が非常に静かなため、護衛艦の停泊地にとても適しているのだそうです。すぐ近くには、熱海もありますが、ここは海底に初島と本土を結ぶライフラインのための海底ケーブルやパイプなどが張ってあるため、停泊できるポイントが限られ、大型艦艇の停泊には不向きです。

このため海底地形をよく理解した熟練艦長以外の艦長は、熱海を嫌ってあまり行かないそうです。停泊の候補地としてはこのほかにも、東京湾の入口である館山等がありますが、ここは大型艦船の出入りが多く、事故のリスクが高い上、町には何もないということで、停泊地としても上陸地としても余り好まれないのだとか。

伊東市のある市議会議員さんが海上自衛隊の護衛艦の艦長に招かれて飲食を共にしたときのことを綴ったあるブログ情報によれば、海上自衛隊というところは、海軍の伝統が今なお生きているところで、優秀な司令、艦長ほど、独断専行が許されるのだそうです。

なので、特殊な錬成訓練や海上訓練以外の通常の訓練のときには、艦隊秩序さえ保たれていれば司令や艦長の単独の判断で航路や寄港地が決定できるそうで、多くの自衛艦の艦長さんは危険な港よりも停泊のしやすい伊東沖を好むということのようです。



この日本の「護衛艦」ですが、海上自衛隊が現在保有する艦艇隻数は2011年現在で148隻です。アメリカの海軍は原子力空母を中心とした「空母打撃群」によって構成されていますが、航空母艦を持たない日本の海上自衛隊では、ヘリコプター搭載護衛艦を中心とした「DDHグループ」と、ミサイル護衛艦(イージス艦)を中心とした「DDGグループ」それぞれ4つで構成されていて、横須賀、舞鶴、呉、佐世保のそれぞれにこれらの基地があります。

これらの艦艇には、4年周期で半年程度を要する大規模なドック修理があります。ドック修理終了から約1年間は、低練度艦として基礎的な訓練を繰り返し、その後1年間は、高練度艦として実戦的な訓練を消化します。

そしてドック修理から約2年経過後、約1年間を即応艦として実任務に対応し、残りの一年は次のドック修理までの予備の期間として準即応艦扱いで活動するみたいです。護衛艦の一般的な寿命は、約30年程度だということですから、一隻について、こういうサイクルをその生涯で7~8回繰り返したあと廃役になっていく計算になります。

この運用体制下では、即時実戦配備可能な護衛艦は全体の4分の1程度で、全護衛艦のおよそ3分の1は出港して訓練中、3分の1は移動中または帰投中、残り3分の1が入港して休養中または整備中となります。

最近の新造の艦艇にはステルス性能のアップも図られているそうで、形状を工夫してレーダー反射面積を低減させる設計や、対潜水艦戦に影響を及ぼす騒音の低減、船体磁気の消磁による磁気感応機雷対策、船体外観や排煙による被探知を避けるための設計などが行われており、その技術は世界でもトップクラスだとか。

自衛艦の平均的な年間出港日数は約120日程度で、出港中は24時間体制でレーダー、逆探知機、ソナー、目視などによって、海上輸送路(シーレーン)への脅威となり得る国籍不明艦船や潜水艦に対する哨戒を行なっており、護衛艦に搭載している哨戒ヘリコプターは、スクランブル発進に備えて、常時、哨戒待機(アラート)状態にあります。

こうした自衛艦の訓練中に一番警戒されるのが火災で、出港中の艦内で行われる各種訓練のうち、重大な被害をもたらす危険のある火災対しての消火訓練の回数が一番多いそうです。

船内での大量の放水は、船体の姿勢変化や沈没にもつながるため、放水が少なくても行える消火作業に重点が置かれ、消火器を用いた初期消火から、各種消火装置を使用した本格的な消火までの訓練が実施されます。そして油火災、電気火災なども想定しつつ、排煙通路の設定、応急電路の設定、隣接区画の冷却などの訓練を行いまた、被害が局部限定の場合の訓練なども行います。

自衛隊といえばやはり射撃とかミサイル発射訓練を想像しますが、こうした訓練はむしろ少なく、年に数回程度だそうで、しかもそのほとんどがシミュレーションで行うようです。ただ、ヘリコプター搭載護衛艦では、ヘリコプターの発着における制度が求められるため、実地において高練度の発着艦訓練が頻繁に行われます。

これらの訓練は、それぞれの艦で個別に行われます。しかし、こうした個艦での基礎的な訓練を終えて錬度が上がったあとは、同じ部隊の僚艦との共同訓練をおこなったり、実際の潜水艦を使用した実艦的対潜訓練、航空機との空水共同訓練、補給艦との洋上補給を行います。

時々テレビなどでアメリカ軍との合同訓練の模様が放映されたりしますが、こうした派米訓練やアメリカ海軍以外の同盟国との環太平洋合同演習なども時々行い、こういう演習のときにはかなり実戦に近い訓練を行うようです。

自衛艦ではこれらの洋上での訓練のほか、入港中にも訓練が行われます。その内容は主に、「整備」、「補給」、「広報」の三つであり、これに加えて各種教育なども行われます。入港時には、その地域の人々のレセプションや見学会なども催されることも多いため、停泊中の船体の塗装などの整備作業も重要な作業といわれます。

停泊中であっても、緊急の事態や災害派遣の必要性などが生じた場合に船は緊急出航をする必要があるため、自衛官は警急呼集を受けた場合、2時間以内に帰艦できるよう定められています。

このため、行動範囲外に出る場合などには別途に申請をして許可を受けるなど、上陸した乗員の行動にはある程度の制限が課せられており、また乗員は常時、携帯電話を携行することを義務付けられています。入港中の艦内では、艦長さえいればいつでも出港できるように当直員が確保されており、完全に無人になることはないそうです。

東日本大震災に関する緊急出航では、こうした当直制度のおかげで発災から1時間以内に複数の護衛艦が緊急出航を実施することができ、追って数時間以内に全国の基地から20隻を超える護衛艦・補助艦艇が被災地に向かうことができたそうです。特に、横須賀地方隊では発災当日のうちに稼働する全艦艇を緊急出航させることができたとか。

こうした厳しい艦内勤務をこなす隊員の生活ですが、航海中は3時間3交代、6時間2交代、または交代なしの総員配置による哨戒配備を行います。また、停泊中は、昼間の8時間勤務が標準となります。

艦内飲酒は一切許可されないそうです。その昔の明治時代の海軍はイギリスの海軍を手本としてため、酒は「紳士の嗜み」として許されていましたが、戦後の海上自衛隊はアメリカ海軍を手本としたため一切許可されず、艦内で飲酒した隊員には厳重な罰則が与えられます。

その日常ですが、4月1日から9月30日までの夏季の平日は、「総員起こし」と呼ばれる午前6時起床ではじまり、体操後に朝食、午前8時から11時45分と午後1時から午後4時30分までが基本的な勤務時間です。停泊中などの通常時には午後7時30分には巡検が行われ、午後10時消灯となり、哨戒担当以外の人員は床につきます。

しかし、実際には交代で哨戒にあたったりするため、この間の食事や入浴などの時間帯も特に洋上にある場合にはそれぞれの任務の状況に応じて変わります。航行中、停泊中それぞれのシチュエーションにおいてこれらの生活パターンが変化するわけで、かなりのストレスの溜まる任務といえます。

食事は、1日3回でます。かつては夜食もあり1日4回だったそうですが、現在は、行事訓練等の所要に応じ不定期に夜食が供されるそうです。長期にわたる遠洋航海途上等において、乗員の曜日感覚を維持する目的で、毎週金曜日には海軍カレーが出されるというのは有名なお話です。

艦にもよるようですが、各艦には結構料理上手なコックさんが乗船しており、この海軍カレーは「かなり」うまいそうです。かつては土曜日に提供されていた時代もあったそうですが、公務員の週休2日制が一般的になってからは休みの前日を知らせる昼食という意味も込められ、金曜日になったそうです。

食事の調理に使う熱源はすべて電気か蒸気で、ガスは使用されません。火災を引き起こす可能性があるからです。従来は米を研ぐ際は海水を使用し、炊くときに真水を使用していましたが、最近の船では最新の海水淡水化装置が積まれていて、豊富な真水が使えるため、現在はほとんどの艦で真水を用いる洗米機を使用しているそうです。

しかし、造水能力が向上したとはいえ、やはり洋上では真水は貴重品であるため、航海中の入浴は海水を使用しているそうで、艦にもよりますが、風呂上がりのシャワーのみ真水の湯の使用が許されていることが多いようです。しかし、この海水風呂も慣れるとなかなか良いものらしく、海水風呂でないと風呂に入った気がしない、という自衛官も多いとか。

艦内の娯楽はそれほど多いとはいえません、乗員居住区や食堂に、テレビが1台以上置かれている場合が多いようですが、陸岸から離れるとテレビの地上波は届かない上、衛星放送のセッティングも日本列島本土に合わせてあるため、海上遠くになると映りません。

乗員は私物や官給の本や雑誌を読んだり、ビデオ、トランプゲームなどで自由時間を過ごすことが多いそうですが、飽きるでしょうね~。

しかし、個々の居住空間は、新鋭艦になるほど大型化されて広くなり、生活環境は改善されており、電気も自由に使えるようなので、こうした個室ではパソコンなども使えるようです。ただ、金属で覆われた艦内では携帯電話の電波が届く箇所は限られているため、無線LANなどでインターネットを使えるケースは少ないようです。

家族との通信は、カード式公衆電話が設置されており、衛星通信による通話が可能ですが、訓練の状況などによってはこの使用も制限されます。携帯電話も金属で覆われた艦内では電波が届かず、電話できる場所は限られておりまた、秘密保全の関係で持ち込むことができない区画もあります。

陸上の施設と違い、空間の利用に制限がある護衛艦では、女性用トイレや風呂の設備を作る余裕がなかったことから、女性自衛官の配置制限が行われてきたそうですが、2009年に就役した「ひゅうが」からは女性自衛官の配置が開始されたそうです。今後は自衛艦に乗る「護衛艦ガール」も増えてくるに違いありません

こうした厳しい艦内生活を送る自衛艦にとって、伊東沖での停泊時の外出許可はなくてはならない息抜きになっているといいます。だいたい4~5000トンクラスの護衛艦の場合、
通常の乗員は170~200名程度ということで、これらの人員が上陸する場合には、交代で上陸します。

1回につきだいたい3分の2くらいの隊員が上陸するそうで、こうした船が二日間停泊すると町に繰り出す人数は二日間で200人以上となります。最近は伊東沖に停泊する護衛艦や掃海艇が増えているそうで、こうした上陸人数を考えると自衛隊員が伊東市の飲食費や娯楽施設に落とすお金も馬鹿になりません。

前述した、伊東市のある市議会議員さんの試算によると年間52週、一週間に一隻として、同じクラスの艦艇が平均してやってくると仮定すると、年間12000人程度の誘客効果を生むそうで、一人一万円程度とすると1億2000万円の経済効果になります。

実際にはもっと小さな船も多いようですから、これほどのお金が実際に伊東市に落ちているかどうかはわかりませんが、それでも町にとっては自衛隊さまさまです。だからといって昨今の沖縄のように無礼者の兵士ばかりの軍隊とは違って規律正しい自衛隊員のことです。きっと町の救世主になっているに違いありません。

普段目にすることのない変わった艦船を見ることができるのは、船好きの私にとってもありがたいこと。これからもどしどし来て欲しいものです。

もっともあまりたくさんの自衛艦がやってきすぎて、前にあったような一般漁船との衝突などというのがあっては困ります。せいぜい今と同じくらいのペースで一週間に一隻ほどでいいのかも。そしてそういう船がやってきたら、ぜひ艦内の公開などの広報活動もやっていただきたいもの。それが評判になればそれだけでも十分な町興しになります。

伊東市も観光が落ち込み地盤沈下が著しいといいます。市議会議員さんたちもぜひ頑張ってこうした形での自衛隊の平和利用を実現してみて欲しいと思います。

想像以上の大室山 ~伊東市


最近の朝のジョギングで、別荘地に隣接している「修善寺自然公園」内まで行くこともあります。大正13年に旧修善寺町の町制が施行された記念として整備された公園で、約1ヘクタールに1000本くらいのモミジが植えられています。例年だと11月中旬から12月上旬が見ごろだということですが、今年は暑かったせいか、少し遅れているようです。

しかし、既にもう何本かのモミジは真っ赤になっていて、ジョギング中の目を楽しませてくれます。公園内の一番高いところには展望台があって、ここからの富士山もなかなかきれいです。

この修善寺自然公園のすぐ隣には「修善寺虹の郷」があります。これまでも何度か訪問し、このブログでもレポートしてきました。その修善寺虹の郷でもそろそろ紅葉が見ごろになりはじめていて、11月22日から12月2日までは、紅葉の夜間ライトアップも行われるそうです。

この期間中の入場料は夜間割引になって600円で入れるようです(通常は1000円)。また、駐車場もタダになるようです(通常昼間は300円)。なので、伊豆へ来られる方はぜひ訪れて見てください。とはいえ、我々もまだこの夜間ライトアップは見たことがありません。ぜひ期間中に訪れて、その結果をまたレポートしたいと思います。

さて、昨日は、先々週行った城山から葛城山のトレッキングを話題にしましたが、先週は、伊東にある「大室山」にタエさんと登ってきました。

大室山(おおむろやま)は、伊東市の南8~9kmくらいの場所にある標高580mの山です。伊豆東部火山群国に属するれっきとした「火山」だそうですが、今は冷え切っていて当面火山の噴火のおそれはないということです。

約4000年くらい前に噴火してできた単成火山で、マグマが噴き上がってできた多孔質の岩石が積み重なってできた山で、こういうでき方をした火山を「スコリア丘」というのだとか。

「スコリア」というのは地質用語です。日本語では「岩滓」と書くそうで、マグマが地上に吹き上げられて飛散冷却してできる岩塊のことで、穴がいっぱいあいていて黒っぽい色をしています。火口の周りに降り積もり、小高い山を形成するので「噴石丘」とも呼ばれていて、日本ではめずらしいみたいです。

積み上がった噴石の山の中央にはマグマが溜まります。このマグマの密度は回りの噴石よりも大きいので、マグマは噴石とその下の基盤の間から徐々に染み出して抜けてしまいます。こうして丘の真ん中にぽっかり穴の開いた「スコリア丘」という独特の火山ができました。

これと同じようなものをどっかで見たな~と思ったら、阿蘇の草千里の下にある「米塚」も同じ成因できたようです。ご存知でしょうか。

米塚には伝説があり、健磐龍命という神様が収穫した米を積み上げて作ったとされ、貧しい人達に米を分け与えたために、頂上にくぼみができ、それで米塚と呼ばれるようになりました。後述しますが、大室山にもこうした日本神話にまつわる伝説があります。

この大室山ですが、こうした珍しい成因のため、2010年(平成22年)8月5日には、国の天然記念物に指定されたそうです。2010年といえばついこの間です。おそらくは伊豆が世界登録を目指している「ジオパーク構想」の一環として地元自治体が国に働きかけて決定されたのでしょう。

このあたりでは一番高い山であり、毎年、山焼きが行われ、一年生植物で覆われるために遠方からでも非常によく目立ちます。天然記念物というだけでなく、山体は「富士箱根伊豆国立公園」にも指定されているそうです。

さて、先週この大室山に我々も登ってきたのですが、正直言って期待以上でした。その昔、「オペル」というドイツの自動車会社が日本のヤナセの販売網下に入ったとき、その知名度を上げるために、テレビで、「想像以上のオペルです」というキャッチフレーズが使われて流行りましたが、この大室山も「想像以上の大室山」でした。

大室山は、中央に直径およそ300m、周囲約1kmの火口があり、その深さは山頂からの標高差でおよそ70mあります。南側の山腹には直径およそ100m、深さ10mほどの側火口がみられるそうですが、山の頂上からはこれはよく見えません。

その北側のふもとに、大きな駐車場があり(無料)、ここで車を降りて、そこから頂上までは有料リフトで登ります。ひとり往復500円ですから、まあリーズナブルなほうでしょうか。もっと高い入場料を取るところもあるので、良心的だと思います。

ただ、歩いて登れるのかと思ったら、そういう登山道はわざと整備されていないみたいです。頂上に登る人全員をこのリフトで登らせて観光収入を得ようという魂胆なのかと思ったのですが、実は昔は徒歩でも登れたのだそうです。

登山道により山腹が荒れるために、禁止にしたのだそうで、環境に配慮してのことのようです。大きな産業のない伊東市にとっては大事な収入源にもなっているのでしょうし、二人で1000円の料金は「環境整備費」として寄付したのだと思えばあまり腹もたちません。

山腹のほとんどは低い笹原とススキなどで覆われていますが、毎年2月の第2日曜日には山焼きが行われるそうで、このときには多くの観光客で賑わいます。有料ながら先着順で観光客が山焼きの着火に参加することもできるそうです。

また、お正月にはここから初日の出を見る観光客のために早朝からリフトが営業されているとか。ちょっと変わった初日の出を見たい方は出かけてみてはいかがでしょうか。

頂上まではおよそ5分ほどの空中遊泳です。リフト乗り場のすぐ隣には、「伊豆シャボテン公園」が隣接していて、高度を上げるにつれ、この敷地がどんどん小さくなっていきます。

東側の青い相模湾がだんだんと広がりをもっていき、北西にみえる伊東市街が遠くに立体的に見えてきます。そしてさらに高度を上げると伊豆大島らしい島も見えてきます。これだけでも既に絶景です。

山体の最高点は火口の南側にあります。リフト降り場はほぼこの真反対側の北側にあって、ここからぐるりと一周できる遊歩道が整備されており「お鉢周り」ができます。

左右どちら回り歩こうが自由です。火口の底は観光アーチェリー場として利用されています。何でアーチェリー?と思ってしまうのは私だけでしょうか。子供向けにアスレチックでも作ればいいのに。

山頂からの眺めですが、これはもう、素晴らしいの一言に尽きます。東側には眼下に城ヶ崎海岸とその手前の伊豆高原が広がり、これを中心として伊豆半島東岸の180度の大パノラマが広がります。その先の水平線のほうに目を転じれば、すぐ間近には伊豆大島がみえ、さらにその向こうには利島、新島などの伊豆七島も見通せます。

この日は上天気だったのですが、遠くのほうはややかすんでいました。もっと気象条件が良ければ、北には南アルプスまで見えるということでしたが、これは確認できず、富士山も少し雲がかかっていて麓の方しか見えませんでした。しかし、箱根の山々ははっきりみえ、遠くには三浦半島から房総半島に至る陸地まで望むことができました。

東京スカイツリーも見えるということで、双眼鏡で何度も確認したのですが、残念ながらこちらは見えませんでした。ただ、横浜ランドマークタワーを見ることができました。

頂上には二カ所ほど、お地蔵さんが置かれており、このうち東側に置かれている「八ヶ岳地蔵尊」は、近隣沿岸の漁師さんたちの海上安全、海難防止祈願のために設置されたそうです。

このお地蔵さんは比較的新しいもののようでしたが、頂上の西側に安置されている五体の「北五智如来地蔵尊」は、およそ300年も昔に据えられたものだそうです。

その昔、相州岩村(現神奈川県足柄下郡)の地頭の「朝倉清兵衛」という人の娘さんが9歳で身ごもり、その安産を大室山浅間神社に祈願したところ無事安産したのでお礼に安置したということでした。古いものだけに大室山の歴史を感じさせる風情がありました。

頂上には小一時間ほどもいました。あまりにも景色が雄大なので、あちこち写真をとったりしながらゆっくりと歩いて「お鉢回り」をしたためです。これでもう少し空気がすっきりしていたら富士山も含めてもっと良い眺めだったのでしょうが、またもう少し空気がきれいになる冬に来てみても良いと思いました。

この大室山の火口北側の中腹には「浅間神社」があります。今回我々は時間がなかったのでお詣りしませんでしたが、その祭神は磐長姫(いわながひめ)だそうです。

以前、8月の終わりころにこのブログで「花と岩」というタイトルでこの神様のことを書きました。「花」とは富士山の神様で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)のことで、「岩」とはそのお姉さんの磐長姫命のことです。

この姉妹のお父さんは、オオヤマツミ(大山津見神)という国津神(地上の神様)で、山と海の両方を司る神様でした。あるとき、高天原(天上)からやってきた天津神(天上の神様)であるニニギノミコトという神様にこのコノハナサクヤヒメが一目ぼれし、求婚します。

お父さんのオオヤマツミはこれをたいそう喜んだのですが、この際売れ残っていたイワナガヒメも一緒に嫁に出してしまえ、と思ったのか、ニニギノミコトに二人とも嫁にもらってくれと頼みます。

ところが、ニニギノミコトは美人の妹コノハナサクヤヒメからの求婚はまんざらでもなかったものの、「おまけ」のイワナガヒメがブスだったことから、「エーッ!?、聞いてないよ~」ということで、イワナガヒメとの結婚は拒み、コノハナノサクヤヒメとだけ結婚してしまいます。

これを聞いたオオヤマツミは怒りまくり、「二人を一緒にもらってくれと言ったのは、イワナガヒメを妻にすればミコトの命は「岩」のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤヒメを妻にすれば「花」が咲くように繁栄するだろうと思ったからじゃ。コノハナノサクヤヒメだけと結婚するんなら、お前は早死にしてしまうぞ!」とニニギノミコトに告げたといいます。

実は、このニニギノミコトは歴代の天皇の祖先でした。そしてイワナガヒメを拒否したことで、その後、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子孫である歴代の天皇の寿命は、神々ほど長くなくなってしまった、というのが「花と岩」のストーリーでした。

ニニギノミコトと結婚したコノハナノサクヤヒメは、その後三人の子を無事出産し、この三人兄弟の一人、「ホオリ」の孫が、のちの世の神武天皇になります。

そして、その子を産んだコノハナサクヤヒメは、「無事に天津神の子を産んであっぱれであった」とオオヤマツミから称賛を受け、「火の神」を名乗るように許され、同時に褒美として、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲り受けたというわけです。

ところが、ニニギノミコトに嫁ぐことができなかった、イワナガヒメのその後については、これにまつわるお話は日本書紀や古事記などにはまったく記されていません。

ところが、この大室山にある浅間神社の社伝では「磐長姫命が、父の計らいで妹と共に天孫である瓊々杵命(ににぎのみこと)に嫁いだが、彼女が瓊々杵命(ニニギノミコト)の子を身籠ったものの大山祇神(オオヤマツミ)の許へ返されてしまったため、当所に産殿を設けて無事に出産した」という伝承が残されているそうです。

日本書紀や古事記などでは、彼女が身籠ったことや産殿の場所については言及がないことから、地元で創作された神話ということなのでしょう。伊東からは大室山も富士山も良く見え、二つの山はそれぞれ姉妹のように見えることから、こうした伝承が生まれてきたのでしょう。

磐長姫命は「岩」のように永遠の命を司る神であることから、これを祭神とする浅間神社は、不老長寿や安産、さらには海上安全や家内安全、学問や縁結びの神として奉られるようになっているといいます。

しかし、地元伊東では、イワナガヒメの化身である大室山に登ってコノハナサクヤヒメの化身である富士山を褒めたたえると、怪我をするとか不漁になるなどの俗信があるそうです。醜いためにニニギノミコトに遠ざけられたイワナガヒメは、美しいコンハナサクヤエを嫉妬しているはずだからというわけです。

なので、もし大室山に登って、きれいな富士山が見えたとしても、「わあ、きれい!」というのはやめたほうがよいかもしれません。帰りのリフトから落っこちたり、自動車事故に遭うかもしれません。

大室山に登ったら、「わあ、大室山ってきれい!」と叫びましょう。きっとこれに気を良くしたイワナガヒメが素敵な恋人を見つけてくれるに違いありません。さらに結婚したらきっと安産で丈夫な子供が生まれて来るでしょう。そのときはもう一度大室山に来て、お礼を言いましょう。今度はきっと長生きを授けてくれるに違いありません……

城山へ登ってきました ~旧大仁町(伊豆の国市)

別荘地から城山をのぞむ

最近、ほぼ一年ぶりにジョギングを再開しました。昨年の今頃は引越し前の大騒ぎで、ジョギングどころではなく、毎日引っ越し荷物の整理と廃棄物の処理をしていたような気がします。

一年ぶりということで、体がなまっていないかなと思いましたが、最初の一二日ほどはやや筋肉痛が残ったものの、その後は順調でほぼ前と同じ程度の調子で走れるようになりました。

早朝五時半!くらいには起き出し、だいたい30分ほどをかけて、別荘地内を走るのですが、高台にあるだけに、随所で富士山や天城山、田方平野の絶景が見える場所があり、こういう風景に出会ったときは最高の気分です。

こんな早い時間帯にもかかわらず、健康のためか散歩をされている方や犬に散歩をさせている方も多く、それぞれみなさん「おはようございます」と声をかけてくださるのは気持ちのよいもの。

ただ、この別荘地にはご高齢の方も多く、私以外にジョギングをされている方はほとんどいないのがちょっと寂しい感じもします。自分でさえ既に50才を超えているのに、別荘地内では最年少のような錯覚を覚えるのは気のせいでしょうか。

11月に入って上天気の日も多く、最近はこうしたジョギングだけでなく、暑い夏の間は控えていた外出をすることも多くなってきました。先々週には念願だった「城山(じょうやま)」(342m)に登山し、ここからさらに尾根づたいに葛城山(452m)の山頂までトレッキングしてきました。

城山は、その昔の火山の名残で、地下にあったマグマが地上に出て冷え固まり、浸食によって地表に現れることでできた「岩頸(がんけい)」と呼ばれる地形で、別名「溶岩ドーム」ともいいます。すぐ麓には狩野川が流れ、垂直に立ちあがった岩肌はかなり周囲の景観から際立っていて、その特徴的な姿から、この辺のシンボル的存在となっています。

駿豆線の大仁駅から歩いて、そうですね、20分ほどぐらいでしょうか、狩野川大橋を渡ってすぐのところにその登山口があります。

その切りたった岸壁がロッククライミングのスポットになっているほか、狩野川の脇から山頂まで登山道が整備されていることから、これにチャレンジするロッククライマーや一般登山客が多く、このため、登山道の入口付近には乗用車20台ほどを止められる駐車場もあります(無料)。

私もここにクルマを止め、城山山頂をめざしましたが、土曜日の早朝(朝8時ごろ)ということもあり、一般の登山客は一人もいませんでした。ただ、ロッククライミングを楽しむ方々が早くもクルマで乗り付けていて、ナンバーをみると品川や横浜と都内や神奈川から来られる方が多いようでした。

登山道は一本道ですが、途中から頂上へ上る道と、ロッククライミングのための取り付けポイントへ向かう道のふたつに分かれます。私が行ったときには、3人一組の男性グループがちょうどこのポイントに向かっているのを目にしました。

頂上へは健脚の人でなくても、だいたい30~40分くらいで登れるでしょう。辿り着いた城山山頂には畳三畳分ほどの展望台が設けられています。といってもベンチやパーゴラがあるわけではなく、大きな石の間を整地してコンクリートで平らにしてあるだけです。

ここからの展望は東から南にかけての眺めがよく、眼下に狩野川から南の天城山のほうまでの東方約180度を望むことができます。その北側には富士山を望むことができることはできますが、やや樹木が密度濃く茂っていて、その姿が少し見えにくいのが難点です。

城山山頂から大仁方面をのぞむ

この城山には、南北朝時代(1336~1392)に畠山国清という武将によって造られた「金山城」というお城があったそうです。畠山国清は、足利尊氏に従って鎌倉幕府討幕に加わったあと、畿内の和泉、と紀伊の守護になった人ですが、足利政権の執事(管領)と仲違いして中央を追われ、伊豆へ逃げこみました。

そしてこの地で一旗揚げて中央と対抗しようとしますが、地元伊豆の武士たちからも嫌われ、総スカンを食らい、逆に攻め滅ぼされてしまった、という、あわれといえばあわれな武将です。

私がみたところ、その金山城の跡らしいものは頂上付近には見受けられませんでしたが、他の山中には堀切や土塁の跡が残っているそうです。頂上付近はこの当時見張台として使用されていたそうで、その後戦国時代にも北条早雲の後北条氏がここを城として使用したということです。

城山山頂から天城山方面をのぞむ

私もそうですが、ハイカーの中にはここからさらに西北側にそびえる葛城山を目指し、さらにその西側の発端丈山(ほったんじょうやま)(410m)に登り、その直下の駿河湾に抜ける長距離ルートを歩く人も多いようです。

登山道はよく整備されていて、城山~葛城山~発端丈山間は、それほどヘビーな登山靴を履いていなくても大丈夫です。軽登山靴で十分でしょう。私はこの当日かなり軽装で、履いていた靴はジョギングシューズでしたが、靴表が柔らかいので後半は足先が痛くなりました。登山道が良いとはいえ、私のマネはしないほうがいいと思います。

道案内の看板も主要分岐点などには立てられています。が、案内の表示がわかりにくい箇所が何ヶ所かあったと思うので、現地で出くわした分岐では地図としっかりとにらめっこして先へ進むことをお勧めします。

城山から葛城山までは快適な尾根道が続きます。途中、富士山がよくみえる絶景ポイントが何ヶ所かあります。ずっと登りではなく、いったん下り、一度ふもとから来る林道沿いに進む区間がありますが、この区間からの富士山はなかなかの眺めです。

この林道の途中からさらに葛城山山頂を目指しますが、これは結構急坂で、頂上へ着くころにはたいがいの人が大汗をかくことでしょう。

城山から葛城山山頂までの行程ですが、だいたい一時間半くらいと考えればいいと思います。健脚の人なら一時間で行けるかも。私は写真を撮りとり行きましたので、二時間弱かかりました。

葛城山には、ちょうど去年の今頃に登ったことがあり、このときにもブログで紹介したような記憶があります。山頂部一帯が、「伊豆の国パノラマパーク」という公園になっていて、山の北側の麓から山頂まではロープウェイが運行されています。

山頂からの富士山や天城山の眺めは絶景です。ふもとから見てもわかるとおり、周囲にはその視界を妨げるような高い山は全くみあたらず、非常によく目立つ山塊です。頂上付近には茶屋やお土産物屋さん、簡単なアスレチックなども置かれており、伊豆長岡テレビ中継局も設置されていて、このための大きなアンテナが立っています。

パラグライダーのためのテイクオフポイントも設けられているそうで、これがどこにあるのか確認しませんでしたが、そういえば少し前、葛城山の北側で気持ちよさそうに泳いでいるパラグライダーを確認しました。

この葛城山も昔は火山でした。といっても、城山のような陸上の火山ではなく、海底火山だったようで、およそ1千万〜200万年前に、噴火した海底火山がその噴出物とともに隆起してできた山だそうで、伊豆半島でも3番目に古い地質なのだそうです。

その昔、フィリピン海プレートに乗っかっていた伊豆半島が、本州側のプレートの衝突したときにぶつかって隆起したのが葛城山で、その後浸食が進んで、葛城山やその西北に連なる発端丈山などをはじめとする静浦山地ができました。

山頂にある「パノラマパーク」内には平安時代よりその名が確認されている葛城神社や、鎌倉時代より置かれていたと言われる地蔵尊などがあり、葛城山は古くから人々に信仰されていた山のようです。

今年の7月ころに書いた「伊豆の王国」という記事の中で、その昔この伊豆半島の中央部には「葛城氏」とう豪族の長を王にいただく、「伊都の国」という王国があったらしいということを書きました。

その都は葛城山の東側にある、田京(伊豆の国市大仁田京)という場所にあったのではないかといわれており、この一帯は、古くから伊豆における政治・文化の重要な場所であったのではないかという説があるのです。

古事記には、「御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。」という記述があるそうで、これに出てくる「葛城」とは「葛城山」のことではないかという人もいます。

「掖上宮」というのは宮城のことだそうで、この説をもとにすると「御眞津日子詞惠志泥命」という「伊豆の王」がかつて葛城という場所に住んでおり、この「葛城」こそが葛城山だとすると、古くは葛城山の山頂にその「伊豆の王」の何等かの拠点があり、その宮城は田京にあったのではないか、と解釈できるというのです。

その「拠点」とは何だったのだかはわかりませんが、もしかしたらピラミッドや大きな古墳のようなものだったのかもしれません。だとすると葛城山はその昔の大きな古墳跡なのでしょうか???

伊豆半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、京都や奈良にあるのと同じ地名がたくさんあります。この地名もこのころ、畿内からやってきた京都や奈良のお公家さんが伊豆王国を建設したときの名残と考えると、なかなか楽しくなります。

しかも、この伊豆王国は、かつての邪馬台国に匹敵するような王国ではなかったかという説もあり、そういうふうに考えるとますますワクワクしてきます。

葛城山山頂から沼津方面をのぞむ

さて、この日の葛城山の山頂は、そんなことは全く知らない観光客さんばかりであふれておりました。こちらは汗をかきかき、どろどろで登ってきたのですが、頂上にはハイヒールを履いて愛犬連れで登ってこられるような人も大勢いて、自分とのギャップを感じてしまいました。閑静な山道からいきなり大勢の人で賑わう山頂に出たせいもあります。

この日頂上からの富士山の眺めは絶好でした。みなさんも機会あれば行ってみてください。これからの季節はおすすめです。

帰路は、頂上から一気に下るだけなので楽でした。が、途中の分岐で案内表示を勘違いしてしまい、一本道を間違えてしまいました。誤って駿河湾側に降りる発端丈山のルートに入ってしまったのですが、途中で気づいて引き返すことができました。

城山まで降りてきたとき、その岸壁に張り付いている若者二人を目撃しました。おそろしい眺めです。人間技ではありません。どうしてあんなところをしかもあんな細いロープを頼りに登れるのでしょうか……

今回の登山では発端丈山へは登りませんでしたが、次回、今度はこちらにもアプローチし、「沼津アルプス」と呼ばれている登山ルートにもチャレンジしてみたいと思います。機会あらばまたそのレポートなども掲載しましょう。

スポーツの秋です。みなさんもこぞって山登りにチャレンジしてみてください。