回転寿司のはなし


最近、遠出をして帰る際、うちで料理するのは面倒なので、ふもとにある大仁の「回転寿司」などで外食をして帰ることも多くなりました。

メニューが豊富で安く、サラダなども一緒に注文すれば栄養価も満点で、何よりもおなかがすいているときなどには、入ってすぐに食べれるところが気に入っています。

伊豆へ来るまではあまりこういうお店へ行くこともなかったのですが、数か月前に久々にこういうお店に入りやみつきになってしまいましたが、また最近はずいぶんとシステムが近代化されているのには少々驚きました。

最近のこういうお店には目の前にメニューが表示されるタッチパネルが取り付けられていて、なかなか回ってこない寿司をここからダイレクトに注文できるのですね。

以前の回転寿司だと、目の前で握ってくれる職人さんがいて、この方に声をかけるか、注文伝票に記入して店員さんに渡すかすると、しばらくして「特注品」が出てくるというシステムのお店が多かったように思いますが、最近はこういうふうに合理化されているのかぁと妙に感心してしまいました。

寿司の皿の下にICチップが組み込まれているお店もあって、あまり長い間「回転」し続けているお皿があると、このICチップがそれを探知して、お店側に教えるのだとか。できるだけ新鮮なモノをお客さんにという発想からなのでしょうが、加えてお店側も今表に出ているネタの新しさを常に把握しておけるというわけで、すごいと思います。

寿司一皿を100円程度で提供しているお店も多く、こういう低価格を実現するためには各店とも人件費を減らすためにはいろんな試みを行っているようです。我々がよく行くようになったお店も、レジ係以外にはダイレクトオーダーの寿司を届けるウェイターさんが数人いるだけで、寿司職人さんの姿は見えません。

寿司を握る人は、店の裏の厨房にいて、この人たちも必ずしも本職の方ではなく、素人を採用してこれに実地教育をしたり、場合によってはアルバイト店員さんが「機械」で握っている場合もあるようです。

ワサビやおしぼり、水などもすべてセルフサービスで、寿司に欠かせないお茶でさえ、粉末状の「抹茶」らしきものがカウンターに置かれていて、これを湯呑に入れて薄めるだけ。このお茶、まずいのかなと思ったら、案外といけるのにはびっくりしました。

この回転寿司を一番最初に発明したのは誰だろう、と調べてみたところ、大阪で「立ち喰い寿司」のお店を経営していた「白石義明」という人のようです。低コストで効率的に立ち食い寿司を客に提供することを模索していたところ、ビール製造のベルトコンベアを応用することを思いつき、多数の客の注文を効率的にこなす「コンベヤ旋廻食事台」を考案しました。

そして、1958年、大阪府布施市(現・東大阪市)の近鉄布施駅北口に日本で最初の回転寿司店である「元禄寿司」を開設しました。この「コンベヤ旋廻食事台」は、1962年12月6日に「コンベヤ附調理食台」として白石義明の名義で実用新案登録(登録第579776号)されましたが、現在ではこの権利は切れ、各社が自由にこれを使うようになりました。

その新案登録が切れる前の1968年、宮城県の企業の「平禄寿司(現・ジー・テイスト)」が東日本ではじめて禄寿司の営業権契約を獲得し、仙台市に元禄寿司のフランチャイズ店を開店していますが、元禄寿司によると、これが「東日本で初めての回転寿司店」だったそうです。

私は全く覚えていないのですが、1970年に開催された日本万国博覧会にも元禄寿司が回転寿司を出展されていて、このときにはその斬新さが表彰されるほど評判だったそうで、これにより元禄寿司の知名度は一気に高まりました。

従来の寿司店の高級化傾向に対して、安くてお手軽、明朗会計というこのシステムは大いに世間に受けるようになり、元禄寿司は北関東を中心にフランチャイズ事業者を募り、郊外への出店を拡大していきました。その後1970年代以降、元禄寿司のフランチャイズは全国的に広まり最盛期には200店を超えたといいます。

しかし、1978年に「コンベヤ附調理食台」の権利が切れたため、現在のような大手の回転寿司屋の新規参入が相次いで競争が激化。また、もともと元禄寿司をネームバリューとしてフランチャイズ展開していた企業も、自前の店名ブランドを掲げて独立していくようになります。

ところが、元禄産業さんはさらに頭がよかった。実用新案の権利が切れるのを見越して、回転寿司のお店の名称として使われそうな「まわる」「廻る」「回転」などを商標登録していたのです。このため、後発の他店はその後しばらく「回転寿司」の名称を利用できないこととなり、この状態は1997年まで続きました。

現在はこの商標権も切れ、「回転寿司」という用語は普通に使われていますが、ひと昔前までは元禄寿司さんの専売特許だったのです。

ところで、この寿司皿を回転させているコンベアなのですが、造っているメーカーのほぼ100%が石川県にあるのだそうです。

金沢市の石野製作所というところがシェア約60%、同じ石川県の白山市の日本クレセントという会社が約40%だそうで、そもそもは、元禄寿司の創業者の白石氏がどちらかの会社に特注したものだったでしょう。そしてその後もその機能はどんどん進化しています。

1974年には石野製作所がコンベアの上に給湯器がつけた「自動給茶機能付きコンベア」を開発しました。グルグル回るコンベアのすぐ横に黒くへこんだゴム製の「ボタン」のようなものがあり、これに湯呑を押し付けるとお湯が給湯されるという、今ではどこの回転寿司屋さんでもみられるアレです。

このほか、注文した品が通常の寿司搬送とは別のコンベアで搬送される「特急(新幹線)レーン・スタッフレスコンベア」やこれと同じく湯呑が搬送される「湯呑搬送コンベア」、なども開発されました。

「鮮度管理システム」も開発され、これは前述のように皿の下にICチップが組み込まれていて、一定の時間を経過した皿が、コンベアから自動的に取り出されるシステムで、こうしたシステムを両社がしのぎをけずって今も開発し続けているそうです。

この両社が開発したのかどうかわかりませんが、使用済みの皿を効率的に回収できるように、カウンター内部に皿回収溝が流れている店もあります。

客席ごとに皿の投入口が設置され、皿を投入すると数が自動計算され価格が表示されるようになっており、とくに子供連れのお客さんなどに進んで投入してもらうために、投入した皿の数で自動的にキャラクター商品などの景品が当たる機能を付加したお店などもあるようです。

回転寿司のお店には、カウンター席が主流の対面型店舗と、これにボックス席を合わせた混合型店舗がありますが、そのどちらも皿を載せたコンベアは「時計回り」に回転するものが多いそうです。これはカウンター席で箸を持った右利きの人が取りやすいようにとの配慮によるものです。

ボックス席ではややとりにくい、ということになりますが、これは一緒に座っている人が他の人のためにとってあげる、ということで解決できます。また前後二列で左右両方から流れてくるコンベアを設置しているお店もあるそうで、こうした回転寿司店では内回り外回りの両方からとることができます。

コンベアのベルト長の日本最長は147mだそうで、日本最短は5mとのこと。最長は分かる気がしますが、最短の5mのシステムを導入するお店ってどんなお店なんでしょうか。必要ないように思いますが……

この回転寿司のシェアですが、日本国内では、埼玉県が本社の「かっぱ寿司」(カッパ・クリエイト)が全国392店を展開していて最大手になるようです(2012年7月現在)。これに次いで「スシロー」(あきんどスシロー・大阪)が334店、「無添くら寿司」(くらコーポレーション・大阪)が303店となっており、いずれも100円均一のお店が上位を競っています。

我々がよく行くのが、はま寿司(東京)で、こちらが168店で、上位三店に次いで4位に入っています。はま寿司も100円均一店ですが、平日は90円を売りにしており、この10%差のためか平日もいつもお客さんでいっぱいで、売上に大きく貢献しているようです。

この他の回転寿司チェーンは、価格設定が高めな店と100円均一店の両業態がしのぎを削っていますが、同じ会社であっても、高級路線と100円均一の店を両方を持っているところもあるみたいです。ちなみに、回転寿司発祥の「元禄寿司」は現在直営11店舗であり、健在ではあるものの、当初の勢いは無くなってしまっています。

いつの世にも企業の盛衰は激しいものです。

近年は高級ネタを売りにした回転寿司屋も出てきており、立地としては漁港や海沿いの都市・県庁所在地の一等地等に店舗を構え、近海で取れる魚や高級魚を売りにしたお店が多いようです。我々が先日行った、沼津港周辺にもこうした高級回転寿司店が軒を連ねていました。

それでは、海外にも回転寿司はあるのでしょうか。ウィキペディアによると、海外での回転寿司は1990年代末に、イギリスのロンドンで回転寿司に人気が集まったのが初めてのようです。

人気に拍車をかけたのは「Yo! Sushi」というチェーン店で、1997年にソーホーで開業し、その後、イギリス国内に次々と開店、1999年にパディントン駅構内のプラットホーム上に回転寿司屋を出店したことで注目を浴びました。

開業後大きな人気を呼び、創業者のサイモン・ウッドロフという人は、この成功によってイギリスの外食産業で大きな地位を獲得したそうです。この「Yo! Sushi」寿司の質についてはイギリスの新聞紙「週刊サンデータイムス」が「ロンドンで最高」と評価したこともあったそうです。

このロンドンのチェーン店では日本と同様に、商品の価格を皿の色で区別するシステムを採用しており、コンベアに並ぶのは寿司だけでなく、刺身、天ぷらや焼きうどん、カツカレー、日本酒まであるそうです。

どら焼きやケーキ、果物などのデザートなどの日本の回転寿司でおなじみの商品のほか、紅茶やパンなどもあり、あげくの果ては「唐辛子入り鶏ラーメン」「鶏の唐揚げ」「餃子」まであるそうで、ここまでくると回転寿司ではなく、まるで「回転居酒屋」です。

このチェーン店、現在、ロンドン市内のハーヴェイ・ニコルズやセルフリッジなどの高級デパート内、さらにヒースロー国際空港内など20ヶ所以上の店舗を展開しているそうで、さらにフランスや中東のドバイにも進出しており、2006年にも新店舗を開くと発表されています。

イギリス以外の国ではオーストラリアで「スシトレイン」という回転寿司屋がチェーン展開しているそうです。

アジアでは、台湾で、現地企業の争鮮(SUSHI EXPRESS)が、台湾および中国本土において回転寿司チェーンを展開しているほか、最近は韓国でも回転寿司店が増えてきているとのこと。

こうした海外の回転寿司チェーンは向こうの資本によるものがほとんどですが、日本のチェーンも、「元気寿司」などが同名でハワイやアジアに数十店舗を展開しているほか、「マリンポリス」という会社がアメリカ本土に「SUSHI LAND」の店名で十店舗以上を出店しているそうです。

寿司はローカロリーで、さっぱりしているため外国人でも受け入れやすいらしく、他の国でもこれからもまだまだ回転寿司の進出は続いていきそうです。

また、外国人だけでなく日本人にも人気の理由はなんといってもその「ネタ」の多さです。回転寿司では、本来寿司として使われない寿司種も多く、巻物では、キュウリなどを使った「かっぱ」のほか、べったら、しば漬、田舎漬、山ごぼう、梅しそ、納豆、穴キュウ(穴子+きゅうり)、カツ、エビフライなどがあります。

牛や豚のカルビ肉、チャーシュ、ローストビーフ、ハンバーグ、ベーコン、チキン照焼、えび天、いか天、ししゃも天などの、およそ寿司ネタとは考えられないようなものもあり、このほか、「太巻」ともなると、その中身には、ありとあらゆるものが詰め込まれています。

その他の副食として、味噌汁類やお吸い物類、あら汁などを提供する店も多く、酒のつまみとして、唐揚げ、フライなどのほか、煮物、お新香が出る店もあります。そば、うどん、ラーメンなどは、その昔は考えられませんでしたが、家族連れで出かける人も多いのでしょう、こうしたメニューがある店も増えています。

ゼリーやプリン、ケーキ、ジュース、果物といったデザートの種類も増えているのは子供だけでなく、女性客を狙ったものでしょう。

元々ファミリーレストランなどの外食産業の原価率は平均して30%程度なのだそうですが、一般的な回転寿司店でのそれは50%程度とかなり高めです。利益が出ないような高級魚が含まれている反面、高利潤を得るため代用魚が用いられることがあり、「えんがわ」「サーモン」などは、「ヒラメ」や「サケ」のことではない場合が多いそうです。

また、「チャネルキャットフィッシュ」というアメリカナマズの一種をマダイ・ヒラメ・スズキ・アイナメなどと称して並べている場合や、観賞魚として有名な「ティラピア」やマンボウを鯛とする場合もありました。

このほか、アフリカのナイル川の汽水域に生息する「ナイルパーチ」をスズキ、ロコガイをアワビとして代用していることなどもあり、これらは2003年にJAS法が改訂されて以来、こうした日本名を使用しないこととすると定められましたが、現在どの程度これが守られているかは定かではありません。

大手の寿司チェーンでは公正取引委員会の抜き打ち検査などもあるようですから、まさかこういうまがい物は使っていないとは思いますが、中小の回転寿司店ではグレーゾーンの商品を出しているところもあるのではないかと疑ってしまいます。

2005年の週刊誌記事によると、公正取引委員会は「回転寿司の場合“こんな安い値段で本物ができるはずがない”という認識を多くの消費者が持っている」として、排除命令などは出せないと回答したそうで、すると我々がいつも回転寿司で食べているものも、もしかしたら……なのかもしれません。

それでもおなか一杯になればいいや、と私などもついつい思ってしまいますが、やはりお寿司は本来の日本産のものを多少お金がかかっても食べたいもの。ましてや伊豆に住んでいるのですから、今度からは少しきちんとした寿司屋で食べるようにあらためようかな、とも思ったりもします。

もっとも懐が許せば……のお話です。不況のさなか、まだまだ100円回転寿司の進撃は続いていくことでしょう。悪いことだとは思いませんが、くれぐれも海外産のニセ寿司の食べ過ぎには注意しましょう。

達磨山 旧修善寺町(伊豆市)

外出しようとすると雨が降り、昨日も結局終日雨でした。しかし、三連休は終わってしまいましたが、秋が深まる中、伊豆の観光もこれからが本番というところではないでしょうか。

さて、そんな伊豆の中でもハイキングコースとして人気の高い達磨山のことについて書いておきましょう。先日「初登頂」して以来、書きそびれていましたから。

達磨山は沼津市と伊豆市との境界にある982mの山です。山頂にかなり近い戸田峠や静岡県道127号線(旧西伊豆スカイライン)の途中まで車で行けることから、日帰りヒッチハイクにはもってこいの山です。

このブログを参考にして登山される方もいるかと思いますので、最初にその登山ルートについて、書いておきましょう。

おそらく多くの方が自家用車で行かれると思いますが、まず気になるのが駐車場の問題でしょう。戸田峠からのルートをとられる場合、ここには大き目の駐車場があり、おそらく20台以上の車が止まれると思います。ゲートなどはなく公共の駐車場なので無論無料で出入り自由です。

この駐車場は、休日はかなり混雑する可能性はありますが、通りがかりにここが満車になっているのを私はみたことがありません。ここからの達磨山までの距離は約2.2kmです。

もうひとつ、達磨山直下にも駐車場があります。ここのスペースはかなり狭く、車2台もしくは詰めて3台ほどです。ただ、これより200mほど下ったところに舗装はされていませんが、車が進入可能な空き地があり、ここなら30台ほどが止まれます。この駐車スペースもゲートなどはなく、常時オープンなはずです。

どちらを起点にされるかは自由です。どちらも登山道は非常によく整備されていて、さすがにハイヒールは止めたほうが良いと思いますが、スニーカーやジョギングシューズ程度でも十分対応できるでしょう。ただ、途中ぬかるんでいるところもありますから、町歩きの革靴はやめておいたほうが良いと思います。

戸田峠からのコースも達磨山直下からのコースも駿河湾と富士山の大パノラマが望めて非常に眺めの良いコースです。お天気の良い日で、少し運動もかねてリフレッシュしたい方は前者、時間がなくて、ほんの少しだけ登山気分を味わいたいという人は後者を選べばよいでしょう。前者の場合、所要時間は登り40分ほど、後者の場合は15分といったところでしょうか。

戸田峠から登る場合、駐車場すぐ脇に案内看板がありますから、これに従い伊豆山稜線歩道を登ってゆきます。ここから達磨山頂まで2.2kmです。登山道は木の階段で整備されているところと、何も整備されていない区間が交互にあらわれ、それをトレッキングしている合間合間に、駿河湾や富士山が望めます。途中、戸田港を一望に望めるところもあるほか、南のほうに目を向けると恋人岬の先端も見えます。

ハイキングコースから西方にみえる戸田港

途中、稜線上の小峰といった感じの場所を通りますが、ここは小達磨峠と呼ばれています。が、山頂は狭く、木々が生い繁っていて展望はありません。ここからは、せっかく登ったのにと思うかもしれませんが、少し下ります。すると、旧西伊豆スカイラインの車道(県道127)がみえてきます。スカイラインの横には前述の舗装のない駐車スペースがあります。

ここから、車道に出たら、ほんの100m程あるけば、達磨山と直登のための登山道入り口があります。ここには舗装された駐車スペース3台分があります。が、休日はもちろん、平日の昼間ならおそらくここは満杯でしょう。私が行ったときにも早朝にも関わらず帰りにはもうスペースが埋まっていました。

ここから達磨山山頂までは、木造りの階段の緩斜面が続き、これを喘ぎ喘ぎ登れば、あっという間に(15~20分程度)で山頂へ辿り着きます。正確な標高は981.8m。一等三角点が設置されています。山頂は大きな岩と小さな岩の間に畳三畳分ほどですが、平坦な場所がある程度です。なので、大勢で行ってお弁当を食べるには不向きです。

頂上から西の沼津方面を望む
頂上から東方の伊豆スカイライン方面をのぞむ

が、ここからさらに南の船原峠へ向かう道があり、頂上から100mも下らないうちの途中途中にも「お店」を広げる場所が随所にありますから、頂上が他のグループに占領されていても大丈夫でしょう。

帰路は戸田峠からの方はもと来た道を戻るだけです。下り部分が多くなるので、往路よりも多少早く帰れるでしょう。帰る途中、晴れていれば真正面には富士山が見えるはずです。
達磨山直下の駐車場付近から直登された方は言わずもがなです。すぐに下れます。でもせっかくですから、広大な駿河湾と富士山に囲まれた伊豆の風景を満喫しましょう。

ところで、この達磨山山頂からはさらに南の船原峠へ続く登山道が続いています。稜線上の一本道であり、ここからの駿河湾と西伊豆の眺めは抜群です。さらに体力や時間のある方はこれにチャレンジしても良いかもしれません。

頂上より南の船原峠方面をのぞむ 遠方にみえるのは天城山塊

私が登ったときにも、戸田峠から来られた若い男性一人が、達磨山山頂から船原峠方向へ駆け足で立ち去って行かれました。おそらく「鉄人レース」などに出場されている猛者なのでしょう。この登山道は本当によく整備されているので、そうしたトレーニングにも最適かもしれません。

さて、その達磨山の頂上からの眺めですが、山頂付近はササで覆われているものの、このササはひざほどまでの高さしかなく、ほかには視界を妨げるような大きな木は一切ありませんので、文字通り360度の視界が開けます。

北の富士山方面を望む 本来ならば中央に富士山がみえる

富士山や駿河湾はもとより、南側に連なる天城山も見え、東に目を向けると伊豆半島を南北に走る山稜を見渡すことができ、修善寺温泉方向の谷も見渡せます。私が行った日は、晴天だったのですが、富士山方面にだけ雲がかかり、富士山の頂上が見えたのはほんの一瞬でした。

しかし、駿河湾のはるかかなたには御前崎を見てとることができ、さらにその向こうには南アルプスの白い山々を望むことができ、ラッキー!というかんじでした。

頂上から駿河湾越しに見える南アルプス

山頂から下の山腹は笹原の間にところどころごつごつした岩が飛び出ていて、改めてここが火山であることがわかります。よくみると山頂にころがっている岩も黒っぽい灰色で、小さな穴が開いているものも多く、その昔火山弾だったもののようです。

達磨山は、80万年前から50万年前の火山活動で形成された火山です。もともとはもっと大きな成層火山だったようですが、長い年月の間に大きく浸食されて今のような峰になったそうです。古代の達磨火山の最高地点には間違いないそうですが、ここに火山の噴火口があったわけではなく、その火口は山頂から下った西側の斜面方向にあったと考えられています。

旧達磨成層火山の浸食が進み、固い部分だけ残ったのが現在の達磨山で、このため近くでみると火山のようには見えませんが、いったん下山して、山体の東にある達磨山高原レストラン付近からみると、大きな火山特有のなだらかな裾野を持っているのがわかります。

その姿がどっしりと座禅をしている達磨のように見えることから地元の人が達磨山と呼ぶようになったのだとか。

また、この山頂部分に天狗が住んでいたといわれ、その南にそびえる天城連山の万次郎、万三郎と兄弟だそうで、「番太郎」と言う別名もあります。「太郎」であることから、万次郎岳、万三郎岳のお兄さんということになります。万三郎岳が1405m、万次郎岳が1299m、達磨山は982mですから、この兄弟はお兄さんほど背が低いということになります。

この達磨山には、戸田峠からさらに東側にある「だるま山高原レストハウス」からも登山道が整備されていて、このだるま山高原レストハウスについては、これまでも何度かレポートしてきました。車が30~40台ほども止まれる大きな駐車スペースとトイレが整備されていて、「レストハウス」内でお食事や喫茶もできます。

駿河湾越しの裾野の広い富士山が展望ができ、沼津市街が一望です。無論天気がよければ御前崎や南アルプスも見通せます。ここからも達磨山の南側にある金冠山や達磨山方面へ行くハイキングルートが出ていて、その途中に戸田峠があります。

なので、時間の更にある人は、ここに車を止めて、半日がかりで達磨山まで登り、頂上あたりでお弁当を食べて帰ってくる、なんてこともできます。家族連れのピクニックには最適なコースです。なによりも道が整備されていて、眺めが最高なのがいいですね。

達磨山からほんの少し垣間見えた富士山

但し、達磨山山頂付近にトイレはありません。戸田峠にもありませんので、とくに女性の方はその対処法を考えてから登られることをお勧めします。

今日のところはこれくらいにしたいと思います。今回私が登山したときは、はっきりと富士山が見えなかったのが残念ですが、近いうちにリベンジしたいと思います。みなさんが達磨山に登られる時は晴れていてきれいな富士山が見えるといいですね。お祈りいたします。

パワーストーン


修善寺の温泉街から駿豆線の修善寺駅方面へ下る途中に、ちょっと変わった名前のバス停があります。その名も「うなり石」。バス停のすぐ隣には大きな石があり、どうやらこれがそのうなり石のようです。どうしてこんなへんな名がついたのだろう、と調べてみたところ、いろいろ諸説があるようです。

ひとつは、裏山から大きな石が転げ落ちてきて、これが転がったときの音が「うなる」程大きかったため、という説です。また、昔はこのあたり一面は原野であり、風の通り道でした。ある日弘法大師が石の傍を通った時にも強い風が吹いており、その風がこの岩に吹きつけ、唸るような音を出したので、大師がこれをうなり石、と名づけられたといいます。

どちらとも物理的な現象に基づいているのでもっともらしい説ですが、弘法大師にまつわる説としては、こんなものもあります。

その昔、このあたり一帯は湿地帯で、うなり石の傍にも沼があったそうです。このため強い風が吹くとこの石がうなりながら揺れ、みずしぶきがあげたため、そこを通りがかる人がたいそう怖がったといいます。その話を聞いた弘法大師が、このうなり石にありがたいお説教をしたところ、石はうなるのをやめ、静かになったとか。

重たい石が水の上で揺れるわけはないので、これはかなり脚色された「民話」だと思いますが、これらのお話からもここ修善寺は昔から風の強いところだったことが想像されます。我々の住む修善寺の裏手の山の上も冬場になると北西からの風が強く吹きつけます。

山の上から落ちてきた石というのも、風の影響で土砂が吹きとばされ、足場の悪くなった石が落ちてきたのかもしれません。

こういう昔話はここだけでなく、伊豆のあちこちにもまた全国各地にもあります。「石」は人間とのかかわりの中では神秘的なものとして扱われてくることが多かった物体です。

最近ではパワーストーンというのが流行っていて、石の中でもとくに宝石にはある種の特殊な力が宿っているに違いないということで、こういうパワーストーンをブレスレッドなどに仕立てて身に着けるのが流行っています。

その火付け役となったのが、2000年代に入ってからのいわゆる「スピリチュアルブーム」であり、このブームの火付け役ともいえる江原啓之さんが著書の中で勧めたことの影響なども大きいようです。

これを受けてスポーツ界や芸能界等の有名人がパワーストーンを身につけるようになり、これをみたそのファンたちもアクセサリーに加工されたいろいろな石を身につけるようになりました。

これらのアクセサリーに使われる石は、研磨前の裸石が販売されることも多く、また、水晶や紫水晶をカットせずにそのまま販売するもの、黄銅鉱のように母岩ごと採集して販売するものなどいろいろな販売形態が生まれ、その昔はただの石にすぎなかったものの多くが付加価値を持った商品に生まれ変わりました。

それぞれの石が持つパワーはそれを持つ人の「波動」と合う者と合わないものがあるといい、その石ごとの「パワー」を風水などの占いによって説明する「専門家」もあらわれ、自分の運気を高めてくれる石を探してこれを身につけることがひとつのブームにまでなりました。

ブームの影響によって価格が高騰している石もあり、そうした石は高値で取引されているようで、ここまでくると、その石の持っているパワーを期待してではなく、単に投機目的のための購入であり、不況とはいえ、ついにこうしたものまでが金儲けの対象か、と嘆かわしくなってしまいます。

そもそも「パワーストーン」という英語はありません。典型的な和製英語です。英語圏では、”Crystal” や ”Gemstone” ということばがよく使われますが、これらはどちらかとおいえば「宝石」という意味合いが強く、日本のようにそれそのものが何等かな不思議な力を持っている石、という意味合いに該当する単語はありません。

しかし、歴史的にみても、古来から様々な民族にのあいだで貴石や宝石には特殊な力があると考えられてきており、「ヒスイ」はマヤ文明やアステカ文明では呪術の道具として用いられており、日本でもヒスイなどの宝石が邪馬台国などの古代文明で何等かの儀式に使われていたことが分かっています。

こうした宝石の力についての考えが1970年代アメリカ合衆国でのヒッピー文化に取り込まれ、石に癒し、つまりヒーリングの力があると解釈されるようになると、いわゆる「ニューエイジ・ムーブメント(ニューエイジ運動)」がおきました。

この運動はアメリカのとくに西海岸を発信源として、1970年代後半から80年代にかけて盛り上がり、その後商業化・ファッション化されることによって一般社会に浸透、現在に至るまで継続しています。

その根源にあるのは、「霊性の復興」であり、物質的な思考のみでなく、超自然的・精神的な思想をもって既存の文明や科学、政治体制などに批判を加え、それらから解放されることを目的とし、真に自由で人間的な生き方を模索しようとする運動でした。

具体的には、瞑想法、前世療法・催眠療法等の心理療法やヨーガや呼吸法、さまざまな整体術等の身体技法、アロマテラピーなどの従来の医学とは異なる方法で超自然現象を解明し、人間の精神世界をを見つめ直そうとする手法が研究されるようになりました。

また、医学においても、近代医学による治療以外の方法で、身体的な痛みや心理的、社会的な苦痛をスピリチュアルな方法により軽減することまでも含めた「ホーリスティック医療」や「心霊治療」などが研究されるようになりました。

さらにこの延長としてチャネリングやリーディングといった方法による「あちらの世界」との対話を通じての癒し、輪廻転生、さまざまな波動系グッズなどについても科学的なアプローチをしようとする科学者が増えました。

こうしたアメリカでの運動は当然のことながら日本にも飛び火し、日本における現在のようなスピリチュアルブームの背景には、1970年代から80年代にかけてのニューエージ運動の流行があります。パワーストーンの流行りもまたその一環といえます。

しかし、日本においてはアメリカでおこったこられのいくつかはいわゆる「オカルト」と呼ばれる領域に属するものとされ、必ずしも本来の正しい意味での浸透はまだ途上にあるといえます。

書店などでもこうしたアプローチは、「宗教」や「精神世界」の書棚の中に置かれており、「スピリチュアル」という名のジャンルの確立はいまひとつの段階です。ひどい場合にはホラーや妖怪、怪奇現象といったジャンルに分類されている場合さえあります。

しかし、こうしたアメリカでブームとなった霊性回帰の運動とは全く関係ないかのように、パワーストーンだけはいわばファッションのように日本社会の中に浸透していき、「石による癒しの力」はこうした不況下にあって疲弊している日本人の心にはより一層届きやすいのでしょうか、これを信じている人もかなり多いようです。

石にはたしてそうしたパワーが本当にあるかどうかという真偽はさておき、石の中でも特に癒しの力が大きいと考えられているのが水晶です。

パワーストーンブームの中で「クリスタルパワー」という言葉が作られ、水晶による癒しの効果が説かれるようになりました。とくに江原啓之さんなどがパワーストーンの中には「鉱物霊」なる神霊が宿っており、とくに水晶には大きな力があることなどを主張されたため、多くの人が水晶を求めるようになりました。

この水晶とは、そもそもは石英(quartz、クォーツ)のことであり、二酸化ケイ素 (SiO2) が結晶してできた鉱物のうち、特に無色透明なものをさします。英語では“rock crystal”と表記され、「クリスタル」といえば水晶のことをさします。日本では古くは玻璃(はり)と呼ばれて、山梨県を中心とした地域で良質のものがたくさん産出され、「宝石」として珍重されてきました。

宝石としての水晶は、何の不純物のない無色透明なものも珍重されますが、不純物を含むことによっていろいろな色となるため、紅玉髄、緑玉髄、瑪瑙、碧玉などと呼んで飾り石とすることも多く、紫色に色づいた水晶はアメジストとして人気があります。同様に黄水晶(シトリン)も人気の高い宝石です。

しかし、このほかにも水晶は工業目的でも多用されており、その代表が時計に使われているのが「クォーツ(水晶の英名)」です。水晶は、代表的な「圧電体」であり、これに圧力が加わると電気が発生します。この発生した電気信号が極めて規則正しくくるいが少ないことから、水晶を「発振器」として利用したのがクォーツ時計です。

また、この原理を利用して、水晶微量天秤 (QCM) と呼ばれる微量質量を正確に測定するための装置の研究が行われているほか、古くはレコードプレーヤーのピックアップにもよく使われていたことを50代より古い世代の方はよくご存知でしょう。

こうした装飾品や工業目的以外にも、水晶は古くから人間の文化に深くかかわってきました。古代マヤ文明やその地域の原住部族においては、透明水晶を「ザストゥン」と呼び、まじない石として大切に扱いました。また、オーストラリア先住民の神話の中では、最も一般的な神の思し召しの物質、「マバン」として分類されています。

日本では、水晶を球状に加工した「水晶玉」が古くから作られ、その起源は明らかではないものの2000年前の遺跡といわれる奈具岡遺跡(京都府京丹後市)では水晶をはじめとする貴石を数珠状にする細工工房があったことがわかっています。この当時既に水晶を球形に加工する技術があったのです。

「水晶玉」の珍重は少なくとも弥生時代中期からにさかのぼる時代から始まっていたものと考えられ、こうした時代のその使用目的は呪術的なものではなかったかと推定されています。

装飾品などとして用いられる以外の水晶玉の呪術的な力については何も証明されているわけではありません。が、いわゆる「占い師」といわれる人々の多くは水晶玉をパワーストーンとして扱ったり、スクライング(scrying、幻視を得る占い)に用います。

古くから絵画などに何らかの意図を持って水晶玉が描かれることもあり、物語の世界においても何等かの力を持った石として登場することも多いようです。

私もこの水晶のパワーを否定するものではありません。しかし、技術者(科学者)としての立場からすると科学的に証明できていないものについて、その効用を第三者に勧めるということもまたあまり気のりしません。

しかし、クォーツが電気を加えることで非常に正確な信号を出すなどの、ほかの鉱物にはない独自な性質を持ち、また他の多くの宝石も独自の周波数を持ち、これと共振震動を起こす惑星や恒星があるという話を聞くと、こうした石には宇宙からもたらされた我々の知りえない何等かのパワーがやはり宿っているのではないかと考えてしまいます。

こうした宝石が醸し出す美しい色は、これを構成する元素同士の織り成す結晶系列が太陽光との結合で生まれるものであることなども考えると、宝石の成因と宇宙成り立ちの間にも何等かの因果関係があるのではないかとも思うのです。

宝石だけでなく、あらゆる物質には波動があるという「波動科学」についてもまだその研究の端緒についたばかりといい、従来の波動力学で説明されてきた波動に加えて「生命エネルギー」のようなものも波動で説明できるのではないかという研究も始められているといいます。

最近の素粒子研究によって宇宙は我々もまだ知らない素粒子で満ち満ちているということがわかっており、これらもまた何か波動のようなものを持っているとすれば、これらまだ解明されていないものどうしがいずれはどこかでつながり、いずれはそこから水晶の持つ本当のパワーが解き明かされるということも将来的にはあるのではないでしょうか。

エドガーケイシーは、他者による催眠状態において第三者からの質問により、主としてアカシックレコード(アカシャ記録)から情報を引き出し、個人の疾患に関する質問に対して、体を神経の状態や各臓器の状態また体の状態なども透かしたように話し病気の治療法などを口述する、いわゆるリーディングによって何千人もの患者を救った人として有名です(アカシックレコードについては要約不能なので、また別の機会に書いてみたいと思います)。

前述のアメリカで流行したニューエイジ運動はこのケイシーリーディングに影響を強く受けていると言われ、代替医療、ヨガ、瞑想、輪廻転生等のとくに東洋的な思想が西洋において普及するにあたり大きな影響を与えました。

そのエドガーケイシーが、水晶に関するリーディングをある患者に行ったところ、「水晶は体の力を集中し、多くの影響力が流入する経路を開いてくれる」という答えが得られたそうです。そして、「それを神の名のもとに、神の義の下にのみ使うならば、多くのものがそこから得られるだろう」とも。

水晶にどのようなパワーがあるのかはまだ我々も預かり知らないところです。しかし、このことから、そこには何か人類の知らないまだ未知の世界への入口があるような気がします。水晶のパワーを有効に使うことが正しい神の道を定めることならば、そこから宇宙は何故できたか?といった究極の命題も解明されるかもしれません。

水晶に人間に益をもたらすパワーが本当にあるかどうかは科学的にはわかっていません。しかし、私自身はわからないながらも、とりあえずそれを信じてみようかと思っています。

縁日と的屋

毎月25日は、天神様の縁日だそうです。今日は24日ですが、明日がその日です。

天神様とは本来、国津神(地上の神様)に対する天津神(天上の神様)のことであり、特定の神の名ではありません。しかし、平安時代に藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された菅原道真公のことを雷神信仰と結びつけ、以後「天神様」として畏怖・祈願の対象とするようになりました。

道真が亡くなったあと、天変地異が引き続いて起こったことから、道真公は火雷天神と呼ばれようになり、その神霊に対する信仰は「天神信仰」と呼ばれ、学問に造詣の深かった道真を祀り、「学問の神様」とした神社が各地に造られるようになりました。

この、菅原の道真が亡くなった日が、旧暦の2月25日だったことから、毎月この日が天神様の縁日になりました。縁日というと、「祭り」というイメージをお持ちの方が多いと思いますが、とくに天神様に限らず大きな神社やお寺では縁日になると屋台の出店が並び、大勢の人が集まってにぎやかな雰囲気になります。

しかしそれにしてもそもそも「縁日」とはなんだろう、と調べてみたところ、縁日とは神社や寺の創建やその寺社に祭られる神仏の降誕などの特別な日に行われる祭典、供養の日のようです。

元々は「会日(えにち)」と言ったようですが、それが訛って「縁日(えんにち)」になったようです。そもそも「縁日」は、寺社に祀られた神仏と人間の間の「縁」が結ばれた日と言う意味で使われるようになったものです。

この日は、祀られた神様や仏様にとっても特別な日なので、この日参拝した人には、特別なご利益があると考えられ、この「特別なご利益」を授かろうと、この日に参拝する人が増え、多くの人が集まるところに目をつけた寺社が商売人に屋台の出店を許し、そのテナント料を徴収するようになりました。

なので、天神様の縁日に行くと、とくに学問の神様ということですから、受験生や何等かの資格を取ろうとしている人にとっては合格の可能性が高くなるに違いありません。

ところで、この縁日に出回る「屋台」なのですが、これはいったいどういう人たちが運営しているのだろう、とかなり前から気になっていました。

調べてみたところ、近年のこうした屋台は第二次世界大戦後、闇市の屋台が広がっていったのと同時に日本中に広まっていったようです。正月の寺社や縁日など大きな行事の場所にはたこ焼き、焼きそば、綿菓子、磯辺焼、おもちゃなどを売るいろんな屋台が出店しますが、こうした祭りの縁日等大きなイベントに出店する屋台はたいがいが「的屋(てきや)」と呼ばれる人たちによって営まれている場合が多いとのことです。

現代の屋台の形式そのものは第二次大戦後の闇市の名残りのようですが、この的屋そのものはかなり古い歴史があるようです。「的屋」とは、思いもかけずに儲かることや、一山、当てようと目論んだことが大当たりすることを指し、「的矢」になぞらえて使われるようになった言葉だそうです。

祭りや市や縁日などが催される、境内や参道、門前町において屋台や露店で出店して食品や玩具などを売る小売商や、射的やくじ引などを提供する街商、大道芸をやって客寄せをし商品を売ったり、芸そのものを生業にする大道商人らのことを総称して「的屋」といいます。

的屋の人たちは、祭りや市、縁日などが催される、境内、参道や門前町のことを「庭場」と呼んでいるそうで、的屋の人たちの中には、この庭場において御利益品や縁起物を売る商売人もいます。

商売人といっても、こうした商売はいわゆる「寺社普請」と呼ばれる相互扶助の一環でもあり、古くは町鳶、町大工といった町人たちが行った冠婚葬祭の互助活動と同じです。

この商売によって彼らが手にするお金も「現金」を手にする感覚ではなく、「ご祝儀」をいただく、という感覚のようで、お寺や神社からの依頼によって御利益品や縁起物を売る行為自体が、神仏の託宣を請けている、という意味を持つのだそうです。

的屋は「露天商や行商人」の一種であり、日本の「伝統文化」を地域と共有している存在でもあります。このため、的屋の人たちは価格に見合った品質の商品を提供するというよりも、祭りの非日常(ハレ)を演出し、それを附加価値として商売にしているという自負があります。

「ハレ」の反対は「ケ」であり、「ハレとケ」は、日本人の伝統的な世界観のひとつです。ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表していますが、「ケ」のほうは「穢れ(けがれ)」のケだという説もありますす。

もともとハレとは、折り目・節目を指す概念であり、その語源は「晴れ」であり、「晴れの舞台」、「晴れ着」などの「ハレ」はこれをさします。これ対し普段着は江戸時代までは「ケ着」といったそうですが明治以降から言葉として使用されなくなりました。

また、現代では単に天気が良いことを「晴れ」といいますが、江戸時代までさかのぼると、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と日記などに記す風習がありました。

ハレの日はめでたい日ということで、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されますが、江戸時代よりも前は当然これらは高級食材であり日常的に飲食されたものではありませんでした。また、このための器もハレの日用であり、日常的には用いられませんでした。

つまり的屋の人たちが売りに出しているものも「ハレ」を演出する商品というわけで、このためハレの日に屋台で売り出すものは、多少高くても「縁起物」だという感覚が彼らにはあります。それを買う側の我々も高いなーと思いつつも、「まっ、お祭りだし」とたとえ高くてもなんとなくそれを買うこと自体が縁起が良いこと、と感じている、というわけです。

この的屋と呼ばれる人たちの起源ですが、これは思ったよりかなり古くからある商売のようです。そもそも日本では、古くからいろいろな生業において「組」と言う徒弟制度や雇用関係があり、的屋ももともとは、親分子分の関係を基盤にしてできた企業や互助団体であったりします。

零細資本の小売商や、ちょっとやばい人たちに雇われている下働きの人々の団体というイメージもありますが、これに該当しない地域に密着した形や、個人経営や兼業の的屋も多くあるといいます。

地勢的な違いや、歴史的な成り立ちの違いに人と資本の要素が複雑に絡み合って発生し成り立ってきた商売のようで、単に「的屋」としてひとくくりにすることにこそ無理があるとも言われます。が、一般的に的屋の源流とされているものは、だいたい以下の五つだそうです。

猿楽師(奇術・手品・曲芸・軽業・祈祷・占いなどを大道芸として行いながら、旅回りをしていた人たち。太刀まわりや一人相撲など日本古来の芸も含む)

香具師(芸や見世物を用いて客寄せをし、薬や香の製造販売・歯の医療行為をする人たち。野士・野師・弥四と書いて「やし」と呼ぶ場合も。

的屋(「まとや」。これも、「矢師(やし)」と呼ばれ、「ハジキ」ともいわれる。弓矢を使った射的場を営む人たちのことで、射的だけでなく、くじ引きなどの景品交換式遊技を生業にする人たちのことも的屋という。ヤクザの持つハジキ(拳銃)はこれが語源。)

蓮の葉商い(時節や年中行事に必要な縁起物の木の実や葉、野菜や魚、地域によっては獣肉などの季節物や消え物(きえもの)を市や縁日で販売する人たち。)

鳶職・植木職(鳶職や植木職が町場の相互関係の中で、「町火消し」などの特別な義務と権限を持つようになり、「熊手や朝顔」などの縁起物や、「注連縄(しめなわ)やお飾り」などの販売権を持つようになった人たち。現在でもその権利は不文律といわれる。)

ちなみに、上述のうちの的屋では、客が弓矢を楽しむ横で矢を回収することは危険な行為であるということで、関東の的屋の間では危ない場所を矢場(やば)と言うようになり、これが変じて危ない事を「矢場い・やばい」と表現するようになりました。

こうした古来からの営みを行う人たちを総称して「的屋」と呼ぶようになったのがいつのころのことからなのかは、定かではないようですが、平安時代のころには既に上記のような商売は成立していたようであり、この五つの中に「的屋(まとや)」があることから、いつのころからか、これらの商売を総称して「的屋(てきや)」と呼ぶようになったのでしょう。

しかし、その商売の形態が確立したのは明治時代以前の江戸時代のころのようで、こうした人たちはお寺や神社などからの依頼、つまり「託宣」としてこれらの商売を行うようになりました。

この商売の形態を「寺社普請」といいます。江戸時代より古い時代には、人々の暮らしの中心に寺や神社がありました。その定期的な修繕や新設、基盤の拡張をする場合、そのためには多額の費用がかかりますが、これを地域の人々から直接寄付によって募集するのには無理があります。

そこで「祭り」と称して縁日や市を開催し、そこに的屋を招いて、非日常(ハレ)を演出してもらう、つまり的屋に上述のような商売をしてもらうことで儲けてもらうことにしたわけです。

そして、それによって儲けたお金の一部を神社仏閣が場所代として的屋から貰い受け、これによって寺社の修繕や新設を行いました。家を造ったり修繕することを「普請」といいますが、「寺社普請」とは、本来このように的屋に頼んで境内で商売を行ってもらうことをさしたのです。

この方法は、単に地域の人たちから直接寄付を募るよりも効果的で、庶民も「お祭り」と称して夜店や出店の「非日常」を楽しむことができることから、日本全国で大いに流行るようになりました。いわゆる日本の「祭り文化」が生まれ、これが人々の生活を豊かにすると同時に技術を持った商売人としての的屋の人たちもその生活がなりたっていきました。

ちなみに宝くじの起源である「富くじ」も、寺社普請のために設けられた、非日常を演出する資金収集の手段だったといいます。

こうした「ハレ」の場で持たれた「有縁」が「会日」となり、やがて「縁日」という呼称に変化していき、庶民の生活習慣に深く根ざすようになるにつれ、これがもとで各地域での経済が活性化され、定期的な「市」が持たれるようになります。そして的屋を中心とする露天商はますます発展していきました。

神事や、お祓い、縁起といった価値観は、商売する的屋側としても商品に高い付加価値をつけることができる手法として高く評価され、江戸時代の「祭りブーム」と相まって的屋はますます栄えるようになっていきます。その勢いは昭和初期まで続き、第二次世界大戦前の東京都内では、年間に600を超える縁日が催されるまでになり、忌日をのぞき、日に2・3ヶ所で縁日が行われていたといいます。

しかしその後の戦争による疲弊により縁日はあまり開かれなくなりました。お祭り自体は復活するものも多かったにかかわらず、縁日は職業人としての的屋がいなければ成り立たないものであり、これらの的屋の多くが、戦後の貧困によって廃業や転職を余儀なくされたためです。

縁日などという商売はもう古い、というよう戦後世間の風潮もあり、的屋に成る人も少なく、その総数は減少の一途をたどりました。

ただ、かつての的屋(てきや)のひとつであった的屋(まとや)は、現在も温泉場や宿場町に残る射的場として残っているところも多く、こうした「景品交換式遊技場」は、スマートボール(ピンボール)やパチンコの源流ともいわれます。前述したとおり、宝くじの源流は的屋がやっていた「富くじ」屋です。

戦前ほど多くの的屋がいなくなってしまった現代ですが、全くいなくなったかといえばそうではなく、その生き残った後継者たちはいろいろな形態で全国各地で商売をしています。

例えば、「転び(ころび)」というのがあり、これは地面引いた茣蓙(ござ)などの上に直に商品を転ばして売っていたためにこう呼ばれています。新案品と呼ばれる目新しい商品を売る事が多く、その身軽さから、近年では庭場にとらわれず、小学校の下校時にあわせて、子供向けに売り場を開く事もあります。

私も子供のころに下校しようすると学校の入口にたくさんの色をつけた「ひよこ」を売っている行商人さんがいましたが、これがそうです。最近では消えるカラーインクセットやカラー砂絵セット(色別に着色した硅砂と木工用ボンド)、カラー油土の型枠セットなどを販売する的屋さんがいるようです。

また、縁日に良く出ているのが、「小店(こみせ)」といわれるもの。これは売り台が小さく、ほとんど間口がない店で、飴などの「小間物」を扱っており、もともとは市や縁日で前述の「蓮の葉商い」などをやっていた人たちの名残です。

伝統的な的屋で地域密着型の商売なので、地元の人々が既得権をもって商売している例が多く、外から来た的屋さんよりその地域においてはいろいろな条件面で優先されていことが多いそうです。

さらに、縁日などでは、「三寸(さんずん)」と呼ばれ、小店よりももう少し大きいお店があります。売り台の高さが、一尺三寸(約40cm)になっているからといわれ、その昔、渡世人として各地方を渡り歩く的屋家業の人が顔役に世話になる時、「軒先三寸借り受けまして……」と口上をしたからといわれています。

この三寸を運営しているのは、縁日や市や祭りが催される場所を求めて全国を渡り歩き、床店(とこみせ)と呼ばれる組み立て式の移動店舗で商売をする、いわゆる露天商です。個人や個人経営の人たちが集まった「組」もありますが、「神農商業協同組合」の組合員も多いといいます。

「神農商業協同組合」とは、旅回りの的屋の世話や、庭場の場所決めの割り振りや場所代の取り決めや徴収をするための仕組みを組織化したもので、相互扶助を目的とした露天商の連絡親睦団体として全国にいろんな名前の組織が存在するようです。

江戸時代、的屋は「神農」とも呼ばれることがあり、的屋のことを「稼業人」、博徒のことを「渡世人」と呼んで区別していました。「無宿渡世・渡世人」とは、本来は生業を持たない、流浪する博徒を指し蔑まれましたが、的屋については商売を持っているため、渡世人ほど嫌われることはありませんでした。

生業とする縄張りも、的屋では「庭場」といいますが、博徒では「島」と表現するなどの違いがあります。また的屋たちは、個々が持っている信仰は別として、その商売の神様として「神農」という神様を信じ、これを祀っていましたが、これに対して博徒は職業神として「天照大神」を祀っていました。

こうした共通で奉ずる神様を持った的屋たちは、組織として「組」を形成し互助活動を行うようになり、こうした組が各地にある「神農商業協同組合」の前身です。

大工、鳶、土方(つちかた)などの建設業団体や河岸、沖仲仕、舟方(ふなかた)などの港湾労働団体、籠屋、渡し、馬方(うまかた)などの運輸荷役団体と同じであり、そういう意味では、現代の各業界の代表会社で組織する「社団法人」に似ているかもしれません。

しかし、互助活動に対しての「謝礼」を授受する風習があり、こうした表向きは謝礼とされる金銭の授受の中には、いわゆる「民事介入」、すなわち民事紛争に介入し、暴力や集団の威力を背景に不当に金品を得ようとする行為である「ミンボー」にあたるケースも多いのではないかと指摘されています。

的屋の人たちすべてがそういう人たちではありませんが、その一部がやくざと同一視されているのはこれが理由です。現在の暴力団といわれる組織の中でも老舗といわれる組の中には、元をたどればこれらの神農を信奉する的屋業を営んでいたものがあることも事実のようです。

各地の神農会を運営していた世話主のことを「庭主」といいますが、本来、行商人や旅人の場所の確保や世話をする世話人が、集まって組織となり、神農会と呼ばれる庭主の組合がつくりました。が、戦後の貧乏期には円滑な運営をなしえない状態になる者も多く、これらが転じて各地の暴力団の傘下組織となったものも少なくないといいます。

一部には肝心な世話することを怠って何もしない「庭主」や、競合する出店を脅迫し排除したり、挨拶に来るよう呼びつけたり、行商人などから「所場代」名目で金品をたかるものも存在するそうで、こうした行為は博徒と変わりありません。

これらの中には、県などの公認を受けた協同組合として活動している組織もありますが、実際にはヤクザ組織の親分が協同組合理事長を兼任している場合もあり、こうしたケースの場合は協同組合というより親分の私物の組合といった趣きが強いのも事実です。極端な場合には、理事長そのものが替え玉という場合もあるようです。

だからといって、今縁日などで出店をされている方々がすべて暴力団がらみとみるのは早計で、その多くは、その寺社や近くの商店街の了承を得て正規に運営されているものがほとんどです。

こうした縁日で買ったり、飲み食いして支払われたお金の一部はその寺社への寄付金の一部にもなるわけであり、そう考えると、おみくじやお賽銭と同じということになります。

無論、暴力団のような非情な組織の存在を許してはいけません。暴力団組織の排除の機運を高める一方で、こうした「ハレ」の場を演出する場が戦前のようにもっと多くなるよう、
正直な的屋さんがもっと増えるよう、行政なども積極的に関与して、そのしくみを変えていかなくてはなりません。

日本経済の再生は、案外とこうした縁日や市といった日本の伝統的な行事に関わる組織や人々の見直しから始めるべきなのかもしれません

人車鉄道の夜 ~焼津市・藤枝市

大仁まで来ていた豆相線の軽便を牽引した蒸気機関車

今日は二十四節気の「小雪」だそうで、その名のとおり、少し雪が降りはじめるころ、ということのようです。伊豆ではさすがに雪はまだまだ降りそうもありませんが、先日朝ジョギングをしていると霜が降りているのを発見しました。朝晩はもう完全に冬です。

さて、今朝がた、先々週放送されたNHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組の録画をみていました。「知られざる鉄道の歴史」がテーマでしたが、この中で、熱海~小田原間に明治時代に「人車鉄道」というものがあったことを紹介していました。

たしか以前のブログで、その昔東京から名古屋方面へ向かって東海道線を延伸していくとき、小田原から先は熱海方面には丹那山があったためにこちらには延伸できず、御殿場のほうに東海道線を伸ばしていった、という話を書いたように思います。

このとき、小田原から鉄道がやってくるものとばかりに思っていた熱海の旅館街の主たちはがっかり。鉄道が通れば二時間足らずで東京から客が呼び込めるようになり、商売繁盛になると期待していたところ、そのもくろみは足元から崩れてしまいました。

そこで、主たちが寄り合って何か良い知恵はないかと考えたところ、ある旅館の主が自分たちの手で鉄道を作ろう!と言いだしました。しかし、何分素人連中ばかりの集まりのため、誰かに相談したほうがよかろう、ということで、ちょうどそのころ、療養のために熱海に滞在していた「雨宮啓次郎」という人物に相談することにしました。

この雨宮敬次郎という人ですが、明治時代の実業家・投資家で、甲州山梨県の出身。結束して商売をすることで有名ないわゆる「甲州商人」の一人で、この当時「甲州財閥」とよばれる実力者集団のリーダー的存在でした。

その後「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれるほどこの当時の経済界で大物視されるようになる人ですが、まず明治のはじめのころ(1879年(明治12年)に東京深川で設立した蒸気力による製粉工場で成功をおさめました。

その後この事業を発展させ、1887年(明治20年)には主に軍用小麦粉製造を目的とする有限責任日本製粉会社を設立しました。この会社が、1896年(明治29年)に名前を改めて発足した「日本製粉株式会社」であり、現在も日本の代表的な製粉会社であることはご存知のとおりです。

さらに1888年(明治21年)に中央本線の前身となる甲武鉄道への投機で大きな利益を出し、同社の社長にも就任すると、1891年(明治24年)には川越鉄道(現在の西武国分寺線)の取締役となります。さらに翌年の1892年(明治25年)に日本鋳鉄会社を興したほか、1893年(明治26年)には北海道の炭礦鉄道の取締役に就任し、大師電気鉄道の発起人になりました。

その後も、岩手県の仙人鉄山(現在の北上市和賀町)や東京市街鉄道、江ノ島電鉄社長などの数々の鉄道会社の経営を手掛け、1908年(明治41年)には大日本軌道を設立。その他、海運・石油・貿易など様々な事業において活躍した、明治時代の大実業家です。

そんな大実業家の雨宮を頼って、熱海の旅館の主たちは、おそるおそる協力の申し出をしました。無論、断られると思っての思い切っての決断でしたが、おもいのほか、雨宮はその申し出を了承します。

実は、雨宮自身が小田原から熱海へ療養に通っており、この際にいつも使う人力車の乗り心地が悪く、途中しばしば気分が悪くなることも多かったため、自分としても何等かの交通の改良が必要だと考えていた矢先のことでした。

しかし、後年数々の鉄道会社の経営を手掛けて成功しているところをみると、このころにはもう「鉄道は金になる」ということを見抜き、旅館の主たちの申し出を渡りに船と考え、事業に乗り出そうと考えたのかもしれません。

ともかくも熱海の主らの申し出を快諾し、国の力を得ずに自分たちの手で鉄道を作るために奔走を始めます。これが1880年(明治13年ころ)のことだった思われ、まだこのころは雨宮も後年の大実業家ではなく、一介の製粉工場の社長にすぎませんでした。

とはいえ、このころから「大物相場師」といわれるほど投機がうまかったらしく、熱海の片田舎の旅館の主たちの間にさえ知れ渡るほどの実力者だったことは確かです。

こうして、雨宮は小田原熱海間に鉄道を敷設すべく、東京で出資者を探して奔走し始めます。しかし、たかだか20kmほどの区間とはいえ、このころ本格的な鉄道を敷設するためには莫大な費用がかかり、かつ蒸気機関車の値段は一民間会社が購入できるような金額ではありませんでした。

このため、なかなか有力な出資者があらわれず、この鉄道計画が持ち上がってからまたたくまに10年ほどが過ぎてしまい、計画はいよいよとん挫しそうになります。

ところが、ちょうどこのころ、雨宮はある情報を入手します。それは、熱海と同じ静岡の藤枝と焼津の間を「人力」で貨車を動かす、「人車軌道」なるものができたというものでした。

ルートは東海道本線から外れた藤枝の町の中心と官営鉄道の焼津駅を直結するもので、これは元来東海道本線建設時に瀬戸川から焼津まで砂利採取に用いられたトロッコの軌道跡地を流用したものでした。

停留所は焼津、瀬戸川、藤枝のたった三つだけで、全線の所要時間は勾配の関係からか藤枝~焼津が25分、焼津~藤枝は30分と異なっていました。しかし、正規の鉄道さながらきちんとした時刻表があり、毎日7往復に加えて臨時増発便まであり、貨物は毎日数回運営されました。

1891年(明治24年)5月に正式に内務省の許可を得、同年7月から営業を始めましたが、この鉄道の評判を聞いた雨宮は、「これだ!」と思ったのでしょう。

さっそく、熱海の旅館の主たちを集め、人力鉄道の運営を提案します。自分たちの悲願であった鉄道建設が思いがけない形式だったとはいえ、実現しそうなことを知った主たちは、無論、この計画に賛同しました。

実は「人車軌道」は、藤枝焼津間軌道が日本最初のものではなく、これに先立つ、1882年(明治15年)から1888年(明治21年)まで営業された、「宮城木道」と呼ばれるものがありました。

宮城県仙台区東六番丁(現・JR仙台駅東口)と同県宮城郡蒲生村(現・仙台港の南側)とを結んだ軌道で、開業当初の約9ヶ月間は人車軌道として、その後は馬車軌道として営業されました。

明治初期の仙台港(蒲生)は東京と仙台を結ぶ海路の重要な拠点でしたが、仙台港から仙台駅までの陸路は非常に劣悪であり、荷物が滞ることもしばしばだったため、この当時の実業家で政治家だった由利公正の息子の光岡丈夫という人物が、ここに馬車軌道を敷設する計画をたてました。

この鉄道を敷設するために明治14年に「木道社」という会社を設立し、鉄道が敷設されると、この当時「郵便報知新聞」という新聞社の記者だった原敬(のちの総理大臣)が宮城県までやって来て、有力政治家だった由利公正をたずね、この鉄道の記事を書いて、事業を宣伝したという逸話が残っています。

敷設された鉄道の軌条は、「木道」の名のとおり、角材の上に鉄板をかぶせただけのものでした。鉄製より耐久性や強度は格段におちましたが、輸入品の鉄製よりはるかに廉価であるというメリットがありました。

藤枝焼津間軌道で用いられたのも、この「木道」であり、そういう意味では、このあとに純粋の鉄を使って敷設された熱海小田原間の鉄道こそが、日本発の人力「鉄道」になります。

この東北の木道の運営距離は、2.5里ないし3里(10~12km)であったといわれ、貨物専用で1日2往復でした。使われた車両の形などの詳細不明ですが、由利公正に関する史料には、馬車5両を馬5頭で引き、貨車は25台であったと記載されているということです。

こうした先例を参考にしつつ、雨宮と地元旅館たちの有志が共同で開発した鉄道の軌道は前述のとおり、純粋な鉄製でした。しかし、蒸気機関車のような本格的な車両が通る鉄道ほど頑丈なレールは必要なく、1ユニットあたりのレールは大人二人で運ぶには十分に軽量でした。

ただ、敷設にあたって用意された資金には限りがあったため、実際の鉄道のようなトンネルを掘るといったことはできず、従来あった道路の上にそのまま敷設していくという方法がとられました。延長距離が長くなるという難点がありましたが、レール自体が安価であったため、さほど費用もかさみせん。

ただ、トンネル区間や橋梁は少なく普通の山道を通る軌道だけに、急な上り坂や下り坂も存在し、これらの坂を数人の車夫が人力で押しあげたり、抑えたりといった運行方法がとられました。

ちなみに、NHKで放映された内容によると、この人力鉄道には上等、中等、下等の三種類の切符があり、上等の切符を持つ客は、小田原から熱海まで車両に乗りっぱなしでいられますが、中等客は、上り坂になると、車両から下りて自分の足で山を上らなくてはなりませんでした。

下等の客に至っては、車両が昇る際には、車夫と一緒に車両を押すのを手伝うことが条件だったといい、なんとものどかな運行形態でした。

こうして、小田原熱海間の人車軌道の建設が開始され、組織としては「豆相人車鉄道」という会社が設立され、1895年(明治28年)から1900年(明治33年)にかけて漸次開通されていきました。

この人力鉄道は、大成功しました。全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれるほど高価だったそうですが、東京から熱海まで楽して療養に出かけたいという人々の需要は雨宮たちの想像を超えており、連日超満員になるほどの盛況をもたらしました。

しかし、やはり原始的な運行方法であり、押し手の車夫へ払う手間賃も高額となることから、その後豆相人車鉄道は社名を「熱海鉄道」と改め、1907年(明治40年)からは蒸気機関車牽引の「軽便鉄道」へ切り替えられました。軽便と呼ばれたのは国営の正規の鉄道よりも軌道幅が狭く、使用する蒸気機関車もより軽量で小型だったためです。

しかし、新車両の導入などが経営を圧迫したことから、熱海鉄道はその後雨宮が設立した大日本軌道に買収され、同社の小田原支社管轄という事業形態に改められます。

その後、東海道本線のルートを現行のように熱海経由で沼津方面に付け替えられるために、丹那トンネルの開削することが発表されると、雨宮はこれでは勝負にならないと判断し、補償付きで一切の設備車両を1920年(大正9年)に国へ売却しました。

国が買収した施設は、いったん「熱海軌道組合」という新たに設立された組合に貸し付けるという形がとられ、主にこの組合員が丹那トンネル建設作業員となり、旧熱海鉄道は通常の観光列車の運行に加え、丹那トンネル掘削の資材を運搬する送手段として活用されました。

丹那トンネルはその後1934年(昭和9年)まで開通しませんでしたが、1922年(大正11年)に小田原から熱海方面へ向けての「新東海道本線」のうちの小田原駅~真鶴駅間が開通し、これが「熱海線」の名で先に開業しました。このためこれと並行していた旧熱海鉄道の区間は廃止され、残る真鶴~熱海区間だけで営業を継続することにしました。

ところが、この翌年(1923年)に発生した関東大震災でこの真鶴~熱海間の旧熱海鉄道路線は壊滅的な打撃を受け、結局そのまま廃止となりました。

しかし、その翌年の1924年(大正13年)には、延伸を続けていた東海道線が真鶴から熱海駅までの区間で開業を果たし、さらにその10年後の1934年には丹那トンネルが開通したことで、現在のようなルートの「東海道本線」となりました。

かつて東海道線であった、小田原~御殿場~三島間の路線は「御殿場線」と呼ばれるようになり、東海道線の名を失いました。

この「人車鉄道」が運営されていた1907年(明治40年)までは、小田原から熱海のあいだで25.3kmの軌道が敷かれ、この間に駅が14あったそうです。以下がその駅ですが、現在の東海道線にはない地名もたくさんあって、どこだこれ?というものもあります。

小田原~早川~石橋~米神~根府川~江ノ浦~長坂~大丁場~岩村~真鶴(旧:城口)~吉浜~湯ケ原(旧:門川)~稲村~伊豆山~熱海

この路線、すべて単線区間であったことから、上りと下りの電車がかちあうと、どちらかの車夫がよっこらしょと車両を線路の脇におろし、対向車を先に通したそうです。また、走行中の客車が転倒することもしばしばあったとそうで、滑稽な乗り物として新聞雑誌などに紹介されることも多かったといわれています。

運営が開始された1900年(明治33年)の運行本数6往復で、小田原熱海間の所要時間は3時間40分だったそうです。

客が多いときには、これ以上の増便がなされたそうで、急行運転も実施されたということなのですが、この場合、車夫は駆け足で車両を押したということでしょうか。すごい体力です。

この人力鉄道の名残は現在ほとんど残っていません。その後の軽便鉄道に切り替える際の工事で使われなくなった軌道のうち、現在の湯河原町門川に敷かれていたと思われる軌道レールの一部が熱海市内のお寺に現在も保管されており、NHKでもこれを放映していました。

が、まあなんとちゃちいというか、ほほえましいといえるようなレールでした。なるほど、これが乗っていた車両もよっこらしょと持ち上げられるわけです。

国木田独歩もこの人車鉄道に乗車したことがあるそうで、そのときの体験談を元に「湯河原ゆき」・短編「湯河原より」という自著の中にこの鉄道のユーモラスな様子を書いているそうです。知人への書簡にも「実に乙なものであり、変なものである」という感想を記しているそうで、こういう先人の文章を読むと、もし今でもあるなら乗ってみたいと思ってしまいます。

ところが、この人車鉄道のレプリカを作って公開している人がいて、これもNHKの放映の中で紹介していました。この人は「根府川」でロッジを経営されている方で、近所の大工さんに手伝ってもらって二か月がかりで仕上げたものをこのロッジの敷地内で公開しているみたいです。このほかにも、湯河原で和菓子屋さんを経営している人の試作品などもあり、この方は「豆相人者鉄道の会」の会長さんだとか。

前述した焼津藤枝間軌道の復元を目指しているグループもあるようで、この人者鉄道は、静岡県ではひとつのブームになりつつあるようです。その「発祥の地」の二つが県内にあることから、近い将来復元軌道なども完成するかもしれず、そうなると、我々が「人力鉄道」に乗れる日もそう遠くないかもしれません。その日を楽しみに待つことにしましょう。