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さくら さくら

ソメイヨシノや八重桜が終わり、代わって今はハナミズキがあちこちで満開です。

北アメリカ原産で、おもにアメリカ合衆国東岸の北部から南部諸州まで自生している樹木です。南部のジョージア州などで初春に開花し、徐々に北に移動して春の終わりには最北部のメイン州で開花します。このことから、日本の桜前線とおなじように現地では「ハナミズキ前線」として報道されています。

英語では「犬の木」を意味する“dogwood”と呼ばれています。その語源には諸説あるようですが、硬いこの木を使った串を意味する英古語の“dag”が長い間に“dog”に変じたと言われています。

また、17世紀頃にその樹皮の煮汁をイヌの皮膚病治療に使うことが流行ったためという説があります。ただし、イヌの皮膚病治療に使ったとされる“dogwood”は、同じミズキ科の植物でもセイヨウサンシュユという樹だと考えられていて、ハナミズキとは異なります。

日本における植栽は、1912(明治45)年に当時の東京市が、アメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈り、その返礼として1915(大正4)年に入ってきたのが始まりです。白花の苗木が40本、ピンク花の苗木が20本で、日比谷公園、小石川植物園などに植えられました。

このアメリカから贈られたハナミズキの原木は、第二次世界大戦中にほとんどが伐採されました。「敵国」から贈られたというのが理由でしょう。しかし、東京都世田谷区深沢にある農業高校、都立園芸高等学校に贈られていたものが伐採を免れました。

二本贈られたもののうち一本が現存しており、それ記念して2015(平成27)年4月10日に100年祭が同校で実施されました。これに合わせ、日本郵便とアメリカ郵政庁から記念切手が同時発売されています。

そもそも日本からアメリカへソメイヨシノが送られたきっかけは、同国の地理学者、エリザ・ルアマー・シドモアが、ポトマック河畔に桜並木を作ることを提案したからです。

ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事となったこの人物は、72歳で亡くなる1928(昭和3)年までに度々日本を訪れた親日家であり、日本に関する記事や著作をいくつか残しています。1884(明治17)年頃に在横浜米国総領事館に勤務していた兄を訪ねたのが初めての訪日とされ、このとき新渡戸稲造夫妻と知り合い終生交流がありました。

エリザは、この最初の訪日のときに見たサクラに大きな感銘を受けたようです。母国へ帰国する際、首都ワシントンD.C.に日本の桜を植える計画を着想しました。しかし当初は積極的には動かず、14年後の1909(明治42)年、大統領・ウィリアム・タフトの妻、ヘレン・タフトにそのことを打ち明けました。

このファースト・レディが興味を示したことで、エリザの桜並木計画はがぜん現実化に向けて動き出します。タフト婦人のつてで知り合った政府関係者を中心に精力的に働きかけるようになり、話は急速に進んでいきました。

やがてこの計画は、当時ワシントン在住だった日本人科学者、高峰譲吉と当時の駐ニューヨーク日本総領事・水野幸吉の知ることころになりました。さらにこの情報が、当時の東京市長であった衆議院議員、尾崎行雄にもたらされました。

尾崎は先の日露戦争の講和に助力してもらったアメリカへの謝礼を考えていたところへ、水野からこのような計画があることを知らされました。早速、桜を寄贈する意向があることをアメリカの高峰と水野に連絡し、大統領夫人に打診してもらいました。会見が許され、結果、アメリカはこの寄贈の提案を受け入れるに至ります。




こうして東京市から贈られた桜2000本が海を渡り、ポトマック川に植樹されることになりました。ところが港で検疫を実施した農務省の役人が、その苗木に昆虫や線形動物が寄生していることを発見しました。これを聞いたタフト大統領はやむなく焼却命令を出し、贈与の桜はすべて失われてしまいます。

この知らせを聞いた日本側関係者は落胆しましたが、尾崎東京市長は、再度サクラを寄贈することを決意します。高峰博士の助力も受けて、翌年、前回を上回る12種類、3020本の苗木の再度の贈与が決まりました。

こうしてふたたびサクラの苗木が、海を渡ることになりました。日本郵船の貨客船阿波丸乗せられ横浜港を出航後、海路アメリカのシアトルまで運ばれ鉄道を経由して3月26日にワシントンD.C.に到着しました。

ちなみに、この阿波丸は、のちの太平洋戦争中の1945(昭和20)年に、アメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュの雷撃によって撃沈された船と同じものです。このとき、2000人以上の乗船者のほとんどが死亡しましたが、阿波丸は病院船に準じた保護(安導権、安導券、Safe-Conduct)がアメリカに約束されていました。

両国の懸け橋となった船が撃沈されるという痛ましい事件が起こったことは悲しいことですが、この船によってアメリカにもたらされたサクラは、軍拡競争でぎくしゃくしていたこの当時の日米関係をより良好なものとするきっかけとなりました。

こうして、1912(明治45年、大正元年は7月から)年の3月27日にポトマック川の岸辺で日本からのサクラの贈与の式典が行われました。それから20年以上を経て苗木は多くの花を咲かせる成木となり、1935(昭和10)年には、初の「桜祭り」が開催されました。多くの市民団体の共同支援で開かれたものであり、以後、毎年のイベントになりました。

やがて桜並木はポトマック川辺縁を構成する風景の一つとなりますが、1941(昭和16)年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行って太平洋戦争がはじまると、その3日後には4本の桜が切り倒されました。敵国のものと考える心ない人達の仕業でしたが、一方ではサクラに罪はないと考え、これを守ろうとする人たちもありました。

更に被害を受けないようにと、日本から贈られたものということは伏せ「東洋の桜」と称するなどの対策が取られた結果、それ以上の被害はありませんでした。しかし、第二次世界大戦の間、祭りは休止され、それが復活するのは戦後の1947年(昭和22年)のことになります。

ワシントンD.C.や商務省、D.C.委員会の支援によって再開されたこの久々の桜祭りには戦勝気分もあって多くのアメリカ人で賑わいました。

5年後の1954(昭和27)年には、日本から300年物の灯篭が寄贈されました。これは1854年にペリー提督と日米和親条約が調印されたことを記念したものでしたが、以後の桜祭りは、この灯篭の火入れをもって公式に始まることとなりました。

現在、全米桜祭りは、地元ワシントンの経済界の代表者や多くの市民、政府組織などから構成される傘下に多くの組織を持つ企業体(ナショナル・チェリーブロッサム・フェスティバルInc.)によって運営され、毎年内外から150万人以上の人々が訪れます。

今年も例年通り多くの観光客で賑わう予定でしたが、残念ながらコロナウイルス対策のため、予定通りにはいかなかったようです。催しの一部の中止や延期が発表されています。

政界の麒麟児・尾崎行雄

ところで、このポトマック河畔に桜を送った功労者のひとり、尾崎行雄は、その後日本の議会政治の重鎮となり、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれるようになった人物です。戦後長らく衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録などの数々において日本記録を持っています。

安政5年11月20日(1858年12月24日)、相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)の医家に長男として生まれました。

生家は代々医者を業としており、父、尾崎行正もそれを継いで漢方医をしていましたが、幕末の動乱時にはその渦中に自ら飛び込んでいます。戊辰戦争の際には、土佐藩の板垣退助を慕って官軍に入り、旧武田家臣の子孫たちで構成された「断金隊」に加わって会津戦争を戦い抜きました。隊長・美正貫一郎の討死後は部隊の2代目隊長にも任ぜられています。

維新後は、弾正台(監察・治安維持などを主任務とする官庁)の役人となり、東京で勤務するようになります。息子の行雄は11歳まで又野村で過ごした後、父に従って上京し、番町(現在の麹町)の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾で学びました。さらにその後、父の仕事の関係で高崎に引越し、このとき地元の英学校で英語を学んでいます。

その後父が度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移したのに付き従い、ここでは豊宮崎文庫英学校に入学しました。古典籍を収蔵する豊宮崎文庫(書庫)に隣接して設置された学校で、同地の文教の中心地として子弟教育を行い、この当時としては珍しく英語教育にも力を入れていました。

このように父の行正は英語教育に熱心だったようで、英語を通じて、幅広い国際知識を行雄に得させようとしていたものと思われます。しかし、その後さらに熊本転任が決まったため、三重を離れなければならなくなりました。このため、行雄には東京遊学を許し、弟を同行させて慶應義塾へ入学させました。

当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾に16歳で入学した行雄は、入学するやいなや塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となりました。しかし、基礎的な学問に力を入れていたここの教育方針が性に合わず、反駁した論文を書いて退学。世の中で役に立つ学問を納めたいと工学寮(のちの東京大学工学部)に再入学します。

しかしここでも学風の違いを感じて退学。明治12(1879)年には、福沢諭吉に紹介されて新潟新聞に入社し、21歳でここの主筆となりました。ちなみに退学した慶應義塾の塾長である福澤とは喧嘩別れしたわけではなく、その後終生にわたって親交があったようです。

その3年後にはさらに報知新聞の論説委員となり、このころから政治活動も行うようになり、立憲改進党の創立にも参加しました。




25歳のとき、東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出されると、反欧化主義の急先鋒となり、このころ自由党を離反していた後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めました。

大同団結運動とは、帝国議会開設に備え、自由民権運動各派による過激な若手が行った政治活動であり、メンバーと結託した尾崎は、クーデターを計画し始めました。

後藤を正装させて宮内省に向かわせ、直々に明治天皇と会って、自分たちの考えを伝えることを画策しますが官憲の妨害にあって失敗し、保安条例により東京からの退去処分を受けてしまいます。

このころ号を学堂から愕堂に変えており、これは「道理が引っ込む時勢を愕(おどろ)いた」ためだ、としています。のちに作った会派は、「咢堂会」であり、その後も本名ではなく、この号で呼ばれることが多くなりました。死後、神奈川県に作られた記念館も「尾崎咢堂記念館」になっています。

その後も星亨や林有造ら、旧土佐藩の自由民権運動家らと友好を結んで政治活動を続けますが、表舞台から遠ざかり、やがて三十路を迎えます。このころ、父の行正は伊勢で余生を楽しんでおり、その父を頼ってかつて住んでいた三重へ戻りました。

この父・行正は、維新後に熊本で起こった士族反乱、神風連の乱にも参加するなど、どうも血の気の多い人物だったようです。激しい戦いの中、九死に一生を得る、という経験をしていますが、その際、多くの同志と親交を結びました。

そうした同士がここ三重や畿内一帯に多く在住しており、尾崎はやがてそうした父の縁故を知己とするようになります。多くの支援を得るようになり、再び政界への復帰を目指した尾崎は、1890(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬して当選。その後も連続25回当選を続け、63年間にも及ぶ長い議員人生を送ることになります。

1898(明治31)年、第1次大隈内閣が成立。尾崎は40歳の若さで文部大臣として入閣。第2次山縣内閣が発足すると、かねてよりの盟友星亨と共に院内総務を任じられました。さらに桂内閣が発足すると、党務執行の常務委員の5人に選ばれるなど飛ぶ鳥を落とす勢いであり、人はこのころから彼のことを「政界の麒麟児」と呼ぶようになりました。

しかし、その後に伊藤博文と対立して離党、同志研究会を組織し、その後も猶興会などを経て立憲政友会に復党するなど、めまぐるしく所属政党を変えました。この間、政府要職には就かず、在野で時の政府を批判し続けました。

1903(明治36)年、東京市長に就任。これは在野で吠えてばかりいては政治は動かないと考えたからでしょう。この当時の東京市の人口は200万に届こうとしており、日本の総人口4500万の中にあっては突出しています。その長になるとういうことは国政への大きな発言力を得るということにほかなりません。

以後、1912(明治45)年まで9年の間の二期、尾崎はその地位にとどまり続けました。しかし相変わらず中央政界での政治活動も続けており、この間、猶興会を改組して又新会を成立させたほか、自身は総裁・西園寺公望の下で再び立憲政友会に復帰するなど、政界の再編に深く関わりました。




このころ、欧米各国の軍備拡張競争の続く中、とくにヨーロッパではきな臭い空気が流れ始めており、これはやがて1914(大正3)年に勃発する第一次世界大戦につながっていくことになります。

日本も日露戦争の勝利後、軍拡を続けており、1910(明治43)年には韓国を併合するなど、軍国主義の道をひたすら歩み始めていました。

明治時代から大正時代にかけてのこの時代、日本の政治は山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文といった、「元老」と呼ばれる維新の立役者によって牛耳られていました。このうち、西園寺を除く8名は倒幕の中心となった薩摩藩・長州藩の出身者で、いわゆる藩閥政治を形成していました。

歴史的にみれば、この藩閥による寡頭体制が日本を軍国主義の道に進ませたと言っても過言ではありません。一方では、軍事体質を批判し、明治憲法による立憲主義思想に基づく民主的な政治を望む動きも台頭してきており、その急先鋒が尾崎ら若手政治家でした。

こうした中、1911(明治44)年8月に発足した第2次西園寺公望内閣では、陸軍大臣だった上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言。西園寺は日露戦争後の財政難などを理由にこれを拒否しますが、上原はこれを不服として陸相を辞任してしまいました。

この当時、陸海軍大臣は大将・中将にしかなれない規定があり、数は限られています。その中から適任の陸相を再任できなかった西園寺内閣は、これによって内閣総辞職を余儀なくされてしまいます。

後継内閣は陸軍大将の桂太郎が引継ぎ、第3次桂内閣として発足することとなりますが、前西園寺内閣から引き続き海軍大臣を務めることになった斎藤実が「海軍拡張費用が通らないなら留任しない」と主張するなどあいかわらず右寄りの内閣でした。

これに対して、国民の間からも批判が相次ぎます。桂の就任は、軍備拡張を推し進めようとする黒幕、山縣有朋の意を受けたものだ、とする世論が巻き起こりました。

政界の中でもこうした軍国主義に反発する勢力は増えつつあり、こうした中、議会中心の政治を望んで「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする「憲政擁護運動」が起こりました。その中心人物が立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅であり、二人はお互いに協力しあって憲政擁護会を結成しました。

1913(大正2)年2月5日、議会で政友会と国民党が共同で桂内閣の不信任案を提案しましたが、その提案理由を、尾崎行雄は次のように答えました。

「彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

「玉座を胸壁とし詔勅を以て弾丸とする」は、天皇の権威をかさに着て自分勝手な政治をしている、という意味であり、この激しい言葉は、桂を怯えさせ、彼は不信任案を避けるため、苦し紛れに5日間の議会停止を命じました。ところが停会を知った国民は怒り、桂を擁護する議員に暴行するという事件が発生しました。

また、過激な憲政擁護派らが上野公園や神田などで桂内閣をあからさまに批判する集会を開き、その集会での演説に興奮した群衆が国会議事堂に押し寄せました。こうした集会は全国で行われ、各地に「咢堂会」が生まれ、尾崎が壇上に立つと聴衆からは「脱帽々々」と喝采が鳴り止まず、しばしば口を開かせなかったといいます。

この結果、衆議院議長大岡育造の説得を受けた桂は内閣総辞職を決断し、これはのちに大正政変と呼ばれました。直後に桂は病に倒れて死去。その死を早めたのは尾崎のこの弾劾演説だったといわれています。

これより少し時を遡りますが、尾崎行雄は新潟新聞の主筆になるのと前後して最初の結婚をしています。お相手は長崎の尊王家の娘だったそうですが、その後この妻を病気で亡くしており、このため再婚をしました。

東京市長になった1903(明治36)年のことであり、この演壇に先立つちょうど10年前のことです。尾崎が45歳で、相手の名は尾崎テオドラといい32歳でした。男爵、尾崎三良の娘ですが、両家は親戚関係にはなく、苗字が同じだったのは全くの偶然です。

テオドラは、日本名、英子といい、尾崎三良がロンドン留学中に、英国人日本語教師ウイリアム・ウィルソンの娘、バサイアと結婚し、その間に生まれました。

しかし、両親は5年間の結婚後に離婚し、三良は妻子を置いて帰国。セオドラは16歳までイギリスで母に育てられました。ロンドンでの母子の生活は楽ではなく、母子宅に下宿していた門野幾之進(のちの貴族院議員、千代田生命保険初代社長)から窮状を聞いた福沢諭吉が同情し、慶應義塾幼稚舎の英語教師の職を紹介するという趣旨で1899(明治32)年に来日しました。

こうして父の母国で働き始めたテオドラでしたが、4年後には教師を辞め、このころ、児童文学者として人気を博していた巌谷小波(いわやさざなみ)のお伽噺をもとに、文筆活動を始めました。そして日本の有名な昔話22編を収録した英文の物語集“Japanese Fairy Tales”を出版しました。

この作品は欧米でヒットし、国内でも高く評価されたため、別の執筆なども舞い込むようになり、日本の女性について書いたエッセーなども書くようになりました。この中で、西洋社会で誤解されがちな日本の女性について論じるなど、女性解放活動の一端も担うようになります。

こうした活動から、日本の社交界でも人気を集めるようになり、日露戦争の取材に来たタイムズ特派員とともに韓国を訪れるなど、さらにその活動の場を広げました。

尾崎と出会ったのはちょうどこのころです。そのきっかけは郵便配達の誤配だったようで、尾崎という同じ苗字のおかげで知り合った二人は急速に親しくなり、1905年(明治38年)に結婚しました。

日本の桜を米国の首府ワシントンへ贈ろうというプランが持ち上がったのは、これから4年後のことであり、想像ですが、その企画進行にはテオドラも関わったのではないでしょうか。

親日家でこのころ度々日本を訪れていたエリザ・シドモアが、尾崎夫妻と会合を重ねていたとの記録はみあたりませんが、そうした縁は当然あったかと思われます。



その後尾崎は東京市長を辞任。上の桂内閣弾劾演説を行なった翌年の1913年(大正2年)には、さらにシーメンス事件(日本海軍高官の収賄事件)で山本内閣弾劾演説を行なって山本権兵衛を辞職に追い込みました。そして、その後成立した大隈内閣では司法大臣に就任して、中央政界に復帰しました。

第1次世界大戦後はヨーロッパを視察し、帰国後、「戦争は勝っても負けても悲惨な状況をもたらす」として、その後は平和主義・国際主義による世界改造の必要性を説くようになります。また、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動を支援しました。

さらに、軍備制限論を掲げ、軍縮を説き全国を遊説するなど、軍縮推進運動、治安維持法反対運動を展開し、一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示しました。その一方で、議会制民主主義を擁護する姿勢を示しましたが、軍部にあからさまに反旗を翻すような議員が少ない中、その主張によって政界では次第に孤立していきます。

このころの所属は自らが立ち上げた憲政会でしたが、この中でも孤立し、離党するとついに無所属議員となり、その後30年あまりを無所属で通しました。無所属になったことは政界での出世の妨げとなり、閣僚経験は2度の大隈内閣で経験したのみに止まり、総理大臣はおろか衆議院議長や副議長、国会での常任委員長になることも終にありませんでした

それでも尾崎は単身で反戦に挑みました。1931(昭和6)年、カーネギー財団に招かれ米国に滞在している時、満州事変勃発の報を聞いた尾崎は、「日本は間違っている」と主張。これを既に軍部に感化されてしまっている国民は受け入れず、逆に「国賊・尾崎を殺せ!」という声も出るようになり、日本はさらに軍国主義の道を進んでいきます。

そうした空気の中でも尾崎は主張を曲げることなく、6年後の1936(昭和12)年には、議会で辞世の句を懐に決死の軍部批判を行ないました。「(楠)正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上」と時世の句を詠み(正成は圧倒的な武力の差のある足利尊氏らに挑み敗れた)、2時間におよんだこの演説を新聞各紙は全面を埋めて掲げたといいます。

しかし、近衛内閣が誕生し日中戦争が泥沼化へ入り、さらに戦争下での軍部の方針を追認し支える大政翼賛会が結成され、日独伊の三国同盟を経て東條英機が内閣を組閣すると、尾崎は議会政治に見切りを付け山荘に篭り、もはやあまり上京もしなくなりました。

これより少し前、最愛の妻、英子は肉腫病を患うところとなっていました。医療先進国のアメリカにやって手術を受けさせましたが、その甲斐もなく、1932(昭和7)年に行雄らと滞在していたロンドンで逝去。61歳でした。

行雄との間には、清香、品江、行輝、雪香の3女1男があり、雪香は旧陸奥中村藩主の相馬子爵家32代当主で、宮内庁事務官の相馬恵胤(やすたね)に嫁ぎました。

ちなみに三女の雪香は後年、67歳になって、この当時のインドシナ難民を支援するために「難民を助ける会」を設立(1979(昭和54)年)しており、この会は難民救済の国際組織の草分けとして有名です。1997(平成9)年には、同会が主要メンバーである地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞しています。

その後、日本は泥沼の太平洋戦争に突入していきますが、このころ84歳になっていた尾崎は、翼賛選挙にも反対し東条首相に公開質問状を送るなど、相変わらず反体制派の立場を貫きました(1942(昭和17)年)。同年、選挙中の応援演説が元で、不敬罪で起訴され巣鴨拘置所に入れられましたが、その2年後には、大審院で無罪判決受けています。

やがて1945(昭和20)年に終戦。多くの人が戦禍の後遺症に苦しむ中、尾崎は同年12月に、全世界の協調と世界平和の実現を願い、「世界連邦建設に関する決議案」を議会に提出。7年後の1952(昭和27)年にはそうした功績から、衆議院より憲政功労者として表彰されました。

このころより、体調を崩して入院していますが、病床より立候補して当選。これにより第1回より連続していた当選の25回目を果たしました。しかし翌53年4月の、第26回総選挙においては初めて落選。それでも、その名声は衰えることなく、同年7月には衆議院名誉議員に10月には東京都名誉都民(第1号)となりました。

1954(昭和29)年、直腸がんによる栄養障害と老衰のため慶應病院に入院。10月6日、逗子の自宅で永眠。95歳でした。尾崎が息を引き取った家は、1927(昭和2)年に彼が70歳のとき建てた家で、「風雲閣」と自らが名付けていました。終戦直後には、日本の進むべき道について、教えを請う人たちで溢れていたそうです。

今は解体され、その地にある披露山公園の駐車場には尾崎行雄記念碑が建てられており、そこには「人生の本舞台は将来にあり」と刻まれています。

あまり知られていませんが、尾崎はクリスチャンであり、1875(明治8)年、17歳のときに、英語の教師だったカナダ人宣教師から洗礼を受けています。妻のセオドアもイギリス育ちでありクリスチャンだったと思われます。

尾崎自身、子供のころから英語に慣れ親しんでおり、妻もハーフということで、かなり英語は堪能だったのではないでしょうか。1950(昭和25)年には、英語国語化論を提唱したこともあり、同年、92歳という高齢にもかかわらず2ヵ月に渡って訪米しています。

100歳になったらワシントンで余生を過ごしたいと語っていたといいますから、若いころに自分が橋渡しをしてアメリカに渡ったサクラに親しみを持っていたのかもしれません。ワシントンD.C.のポトマック川にある美しい桜並木は、尾崎が生きていればその美しい姿で彼を歓迎してくれたに違いありません。



化学起業家の先駆け 高峰譲吉

さて、尾崎行雄の話はこれくらいにして、その尾崎とともにサクラのアメリカへの寄贈に尽力し、日米友好の橋渡しを果たしたもうひとりの立役者、高峰譲吉のことにも触れておきましょう。

高峰は、幕末の1854(嘉永6)年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の御馬出町(おんまだしまち)の漢方医で加賀藩御典医の高峰精一の長男として生まれました。その生地は、山町筋(やまちょうすじ)と呼ばれ、今も伝統的建造物が数多く残る古い商人町で、国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されています。

母、幸子は造り酒屋の娘ですが、父の塩屋弥右衛門は町算用聞並という役職を藩からもらっていました。当時の高岡の町では、町年寄、町算用聞に次ぐ重要な役職で、由緒ある町人から選任された町役人でもありました。従って、御典医である高峰家とは相応のつり合いがとれた家同士といえます。

高峰は、才気あふれる子供だったようで、幼いころから外国語と科学への才能を見せ、父からも西洋科学への探求を薦められていたようです。

1865(慶応元)年、12歳で加賀藩から選ばれて長崎の致遠館に留学して海外の科学に触れたのを最初に、15歳で京都の兵学塾に学び、続いて大阪の緒方塾(適塾)に入学。翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学び、工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業しています。

おそらく地元では神童と呼ばれていたことでしょう。その後もエリートコースを進み続け、1880(明治13)年からはイギリスのグラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884(明治17)年にアメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣されました。

そこで出会ったのが後の妻となるキャロライン・ヒッチで、父親は南北戦争の北軍義勇兵として歩兵隊長を務めたのち、税務局勤務 書店員、部屋貸しなど職を転々としていました。

アメリカがイギリスに綿を初めて輸出した百周年を記念して開催されたこの博覧会では、ヒッチ家で若い博覧会スタッフの打ち上げパーティが開かれ、これに譲吉が出席したことが縁となりました。二人は瞬く間に恋に落ち、婚約。これから3年後の1887年(明治20年)に結婚しました。

帰国後の1886(明治19)年、高峰は専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力します。この年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立していますが、この会社は、かねてより高峰が米国で特許出願中であった、ウイスキーの醸造に日本の麹を使用するというアイデアを実現するための企業でした。

元々、酒好きだった高峰博は、スコッチ・ウイスキーの醸造に興味を持っていました。清酒が醸造過程で米に含まれるデンプンを麹で糖化させるように、ウイスキーも大麦に含まれるデンプンを麦芽(モルト)の酵素によって糖化させます。

ところが、ウイスキーを醸造する過程では、この麦芽をつくるのにたいへんな手間がかかります。そこで高峰は、これを麹で代用できないかと考え、研究を重ねた結果、従来より強力なデンプンの分解力を発揮する「高峰式元麹改良法」を完成させ、特許出願しました。

この画期的な発明は、当時のアメリカにおけるウイスキー醸造で90%ものシェアを持っていた「ウイスキートラスト」の社長の目に留まり、アメリカでビジネスをしないか、と誘われました。

高峰はこれをチャンスととらえ、東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に相談しました。ところが、渋沢は海のものとも山のものともわからないようなそんな話に乗るのは無謀だとして、渡米を止めるようにいいます。

この言葉により、高峰もいったん思いとどまりますが、このころ渋沢とともに商法講習所(のちの一橋大学)の設立のために働いていた益田孝(後の三井物産の設立メンバー)の強い勧めもあって、渡米を決意するに至ります。

1890(明治23)年、再びアメリカに渡った高峰はシカゴに向かい、ここで「高峰式元麹改良法」を利用したウイスキー醸造の開発に取り組みました。そして苦心の末その製法を確立。シカゴ南西部にあるピオリヤに完成した新工場で大規模な生産を始めました。

この頃ピオリアには22カ所の蒸留酒製造所と数多くの醸造所があり、アルコールに課される内国税収入は全米のどこよりも多く、禁酒法時代には主要な密造地域になったほどです。

ところが、麹を利用したこの醸造法を使用することで、従来のモルトを使った醸造法でウイスキーを製造する職人たちが失職するところとなり、地元から大きな反発を浴びます。高峰が建てた工場のまわりをデモ隊が取り囲み、夜間の外出もままならない危険な状況が続きました。

そこで高峰は、それまでのモルト職人を従来より高い賃金で雇うことを提案し、いったんは和解しました。ところが、今度は、従来のモルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた地元の他の醸造所の所有者達が妨害を始めました。

新しい醸造法での酒造りを止めさせようと、夜間に譲吉の家に武装して侵入し、一家に危害を加えようとする者まで現われました。しかし、高峰の家族は隠れていたので見つからず、侵入した賊たちは、隣接する研究所に火を放ってこれを全焼させました。

さらには、製麦業者によるロビー活動などもあり、結局、高峰の会社は、アメリカ政府から解散命令を受ける事態となってしまいます。

その後、高峰一家はニューヨークへ移り住み、セントラルパークの近くのビルの半地下に、事務所兼研究所を開き、新たなビジネスを模索し始めました。そしてある日、新たな発見をします。

ウイスキー製造で排除された麹を水に浸し、アルコールを加えたあとに出来上がったデンプンを粉末にしたところ、それまでだれもが経験したことのない強力な酵素作用を発見したのです。

1894(明治27)年に発見されたアミラーゼの一種であるこの酵素に、高峰は、自らの名である”タカ”をつけ、「タカジアスターゼ」と名付けました。今も胃腸薬や消化剤として世界で広く使われているこの薬品は、その後の酵素化学の発展に大きな影響を与え高く評価されています。



しかし高峰の発明はこれにとどまりませんでした。かつて彼が居住したピオリアは当時アメリカでも有数の豚肉の加工製品の産地で、ブタ以外のウシも含めて多数の食肉処理場が存在していました。そこで、高峰はこのとき廃棄される家畜の内臓物に着目し、これからアドレナリンを抽出する研究をはじめました。

アドレナリンは1895(明治28)年にナポレオン・ツィブルスキによって初めて発見された物質で、彼が動物の副腎から抽出したものには血圧を上げる効果が見られました。しかし、純粋のアドレナリンをどうやって抽出するかが問題とされ、医薬品として使用するためには安定した抽出法の確率が求められていました。

高峰はこの難題に臨み、1900(明治33)年、についにウシの副腎からアドレナリンの結晶を抽出することに成功します。これは世界で初めてホルモン(体内の特定の器官で合成・分泌され、生体中の機能を発現、正常な状態を維持する)を抽出した例であり、タカジアスターゼと同様にこちらもその後の医学の発展に大きく貢献しました。

現在、世界中で100年以上利用されている薬は3つしかないといわれています。

それは、タカジアスターゼ、アドレナリン、アスピリンの3つであり、このうちの2つ、タカジアスターゼとアドレナリンが高峰の功績ということになります。とくに、アドレナリンは心停止時に用いたり、アナフィラキシーショックや敗血症に対する血管収縮薬、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として用いられるなど、医療現場ではなくてはならないものです。

タカジアスターゼとアドレナリンの成功により、高峰は莫大な収入を得るところとなり、アメリカの政財界の著名人の知己も増え、交流も得るようになりました。

この頃、日本の極東での立場は危ういものでした。ロシアが極東へと進出し、日本との朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって、1904(明治37)年、ついに日本はロシアと戦争状態に突入します。日露戦争です。

当初より戦費が不足していた日本は、日本海海戦で勝利を得たものの、戦争が長引くことを恐れ、国民の間に「戦勝」の気分が続いているうちにできるだけ早い終戦を望んでいました。このため、仲裁をしてくれる国を探しており、その第一候補が米国でした。

ところが、当事のアメリカの知識人のほとんどは日本については何も知らず、どちらかといえばロシアびいきでした。このため、当事日銀総裁であった高橋是清と、ハーバード大学ロースクールで法律を学んだことのある貴族院議員であった金子堅太郎が渡米し、同大学のOBとして面識のあったルーズベルト大統領と直接交渉することになりました。

その彼らを陰で支えたのが、高峰でした。私財を投げ打ってアメリカ世論を日本の味方につけるべく奔走し、日本のことを知らないアメリカ人に日本の文化を伝えるべく、各地で講演を行い、新聞に記事を掲載しました。また、ニューヨーク郊外に「松楓殿」を開いて日米親善を図りました。

講演の際は常に羽織袴姿でキャロライン夫人を伴っていたといい、こうした努力の結果、米国世論は次第に日本有利となり、1905(明治38)年、ポーツマスで日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、日露戦争は終結しました。

その後も、ジャパン・ソサエティの設立(1907(明治39)年設立)に尽力し、1911(明治43)年には、国際親善の場とするためとして、ニューヨークのハドソン河畔にアパートメントを購入しています。

同じくニューヨークにあるポトマック河畔にサクラの並木を作りたいという、エリザ・シドモアからの打診があったのがこのころのことです。それから5年後の1912年(明治45)年にポトマック川の岸辺で日本からのサクラの贈与が実現し、記念式典が行われました。

高峰はそれから10年後の1922(大正11)年7月22日、腎臓炎のためニューヨークにて死去しました。67歳没。この当時、日本人は帰化不能とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られませんでした。しかしその亡骸はワシントンDCのウッドローン墓地に葬られました。ちなみにこの墓地には野口英世の墓もあります。

高峰の没後、妻のキャロラインは高峰が保有していたシカゴの地所を処分し、4年後にアリゾナのランチハンド(牧場労働者、カウボーイ)だった歳若い男性と再婚しました。その後、農場を次々と購入し大牧場主となり、地元のメキシコ人労働者のための福利厚生事業を行うなどの慈善活動を行いました。

88歳まで生き、1954(昭和29)年に死去。生前、農場で働くメキシコ人労働者のために建設したカトリック教会に夫のチャールズともに葬られています。

高峰とキャロラインの間には二人の男子があり、長男・譲吉II(ジューキチ・ジュニア)は、名門イエール大学卒業後、ドイツに化学留学。パリのパスツール研究所でも学び、帰国後、亡くなった父親が設立した会社の代表となりましたが、41歳でニューヨークのホテルの14階から転落死しました。

以前にも放火されて研究所が全焼しているという事件があり、母のキャロラインは、高峰が発明した麹によるウィスキー醸造の反対派による殺人と主張しましたが、警察は飲酒による事故死と断定しました。

もう一人の子、次男のエーベン・孝も学業に秀で、イエール大学卒業にニューヨークで結婚しましたが、35歳のとき離婚。兄の没後は、父の事業を引き継ぎ、さらに発展させました。

日本生まれだったため、父と同じく米市民権が得られず、第二次大戦勃発では財産を没収される可能性がありましたが特例で許され、ペニシリン製造などで軍を支援しました。

1943(昭和18)年にイギリス女性と再婚、10年後の1953(昭和28)年に63歳で亡くなりました。没後、妻が事業を売却し、財産の大半は散逸しましたが、一部がサンフランシスコ市に寄付され、この資金を使って、ゴールデン・ゲート・パークに「高峰庭園」が造られました。これはゴールデンゲート・ブリッジの近くに今もある公園です。

高峰が発明したアドレナリンは、世界中で高く評価されましたが、日本でも高い評価を受け、1912年(大正元年)には帝国学士院賞を受賞しており、これに先立つ1899年(明治32年)にもタカジアスターゼ抽出成功が評価されて、東京帝国大学から名誉工学博士号を授与されています。



高峰が残したもうひとつの遺産 ~ 宇奈月温泉

実は、高峰はキャロラインと不仲だったといわれており、このため、晩年はアメリカよりも日本にいることが多かったようです。この名誉博士号を授与された年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ会社の初代社長に就任しており、この会社と高峰は販売許諾契約を結び、日本・中国・朝鮮での独占販売を目指していました。

この会社こそ、「三共」であり、その後第一製薬と合併し、現在は「第一三共」となっています。武田薬品工業に次ぐ業界二位の大会社であり、世界的にも有数の製薬会社です。

また、高峰はアメリカで開発されたアルミニウム製造技術を用い、日本初のアルミニウム製造事業を推進することを目論んでいました。このあたりが普通の科学者と違うところで、学問一筋の研究バカではなく、起業家であることが彼の本質であったようです。

1919(大正8)年に設立された東洋アルミナムは、それを具現化したもののひとつで、アルミ精錬に必要な電源確保のため、地元の富山県にある黒部川に発電所を建設することを目的としていました。

同社は1920(大正9)年に黒部川の水利権を獲得し、1921(大正10)年に子会社・黒部鉄道を設立。開発の足がかりとして国鉄北陸本線・三日市駅(現・あいの風とやま鉄道黒部駅)から黒部川に沿って鉄道路線を敷設していき、1922(大正11)年には下立駅まで延伸されました。

この鉄道は現在も「富山地方鉄道」として運営されており、富山市内の電鉄富山駅を発し、宇奈月温泉駅に至る53.3kmの路線です。下立駅は終点の宇奈月温泉駅から4つ手前の駅で現在は無人駅となっています。

同年、東洋アルミナムは五大電力の一角・日本電力の傘下に収められ、それ以降黒部川の開発は日本電力の主体のもと行われていきます。

その第一弾として柳河原発電所の建設工事が1924(大正13)年に着手され、1927(昭和2)年に完成。柳河原発電所は現在の宇奈月温泉の4kmほど下流にある発電所で、ダムでできた水位落差により発電を行うものではなく、主に黒部川の急流を利用した発電所だったようです。

これと並行して下立駅から桃原駅(のちの宇奈月駅、現:宇奈月温泉駅)およびそれ以南の工事専用鉄道路線(現:黒部峡谷鉄道の本線)が敷設されました。

日本電力は柳河原発電所完成後、さらに開発の手を上流へと伸ばし、小屋平ダムおよび黒部川第二発電所の建設を目指して1929(昭和4)年に鉄道路線をさらに小屋平駅まで延伸しました。

ちなみに、この第二発電所に続いて、その後第三、第四発電所などが建設されますが、黒部川第一発電所というものはありません。「第二」の意味は、上の柳河原発電所を最初のものとし、黒部川に二番目にできた発電所、というほどの意味だったようです。

こうして小屋平ダムの建設の建設が始まりましたが、この当時は不況下にあって、同年11月には工事の一時中断を余儀なくされてしまいます。

ところが、1932(昭和7)年になると一転して景気が回復し、電力が不足する傾向となったことから、1933(昭和8)年6月にダムの建設工事が再開されました。

工事を請け負ったのは大林組(ダム・取水口・沈砂池を担当)、間組(導水路トンネル上流側を担当)、鉄道工業(導水路トンネル下流側を担当)、大倉土木(現:大成建設、水槽・発電所を担当)の4社です。

既に鉄道路線が小屋平駅まで至っていたこともあって工事は順調に進み、1936(昭和11)年には小屋平ダムが完成。黒部川第二発電所は同年10月30日から運転を開始し、1937(昭和12)年6月からフル稼働に入りました。

日本電力は建設工事と並行して営業活動にも力を入れており、富山平野にいくつもの大工場を誘致し、電力の需要確保に努めました。

その後も開発の手を上流へと伸ばし、黒部川第三発電所と仙人谷ダムを完成させましたが、発電所及び仙人谷ダムの建設に伴って行なわれたトンネル工事は難航しました。1940(昭和15)年に出版された吉村昭の小説「高熱隧道」でもその難工事ぶりが伝えられています。

摂氏160度に達する高熱の岩盤を掘り進むという過酷なもので、劣悪な労働環境、地熱によるダイナマイトの自然発火事故、物資輸送中の峡谷での転落事故、泡雪崩による宿舎の全壊事故などの被害が重なり、全工区で朝鮮人労働者を含む300人以上が犠牲となっています。

この難工事が行われている間、日本政府は電気事業の国家管理下を目指して「日本発送電」を1939(昭和14)年に設立。日本電力は同社への電力設備の出資によって電力会社としての歴史に幕を下ろしました。

戦後になってこの日本発送電はさらに分割・民営化され、日本電力が手がけた黒部川の発電所群は、これを関西電力が継承しました。この関西電力が1963(昭和38)年に完成させたダムこそが、「黒部ダム」です。

併設された発電所が黒部川第四発電所であることから、黒四ダム(くろよんダム)の愛称でも親しまれています。その竣工により、黒部川の豊富な水資源はよりいっそう有効活用できるようになりました。

黒部ダムが建設された地点は、これより下流地点よりもはるかに水量が多く、水力発電所設置に適した場所であることは、大正時代から知られていました。ただ、第二次世界大戦などもあり、その開発はその直下流の仙人谷ダムおよび黒部川第三発電所までにとどまっていました。

戦後、日本の電力需要のほとんどは水力発電所により賄われていましたが、渇水になると各地で計画停電が相次ぎました。関西地方では、1951(昭和26)年の秋に深刻な電力不足に陥り、一般家庭で週3日も休電日が設けられたりしていましたが、休電日でない日でも連日のように停電していました。

この状況は、高度経済成長期を迎えた昭和30年代に入っても同じであり、工場などでは週2日、一般家庭では週3日ほどの使用制限が行なわれていました。

こうした事態を受けて立ち上がったのが関西電力社長の太田垣士郎で、太田は1956(昭和31)年、黒部ダム建設事業の復活を宣言します。戦前に調査を行い、基本的な設計まで終了してはいたものの、太平洋戦争への突入によってお蔵入りとなっていた計画でした。

しかし黒部ダム建設工事現場はあまりにも奥地にありました。初期の工事は建設材料を徒歩や馬やヘリコプターで輸送するというもので、作業ははかどらず困難を極めました。このためダム予定地まで大町トンネルを掘ることを決めたものの、トンネル内の破砕帯から大量の冷水が噴出し、これもまた大変な難工事となりました。

このため別に水抜きトンネルを掘り、薬剤とコンクリートで固めながら掘り進めるという当時では最新鋭の技術(これをグラウチングという)が導入され、その結果9ヶ月で破砕帯を突破してトンネルが貫通、工期を短縮することに成功しました。

こうして、貯水量2億立方m(東京ドーム160杯分)、高さ(堤高)186 m、幅(堤頂長)492 mという巨大ダムが完成しました。現在でも日本で最も堤高の高いダムで、富山県で最も高い構築物でもあります。また、この黒部ダム完成により、ダム湖百選にも選定される北陸地方屈指の人造湖「黒部湖」が形成されました。

黒部ダムは世界的に見ても大規模なダムとなり、周辺は中部山岳国立公園でもあることから、立山黒部アルペンルートのハイライトのひとつとして、今も多くの観光客が訪れています。

こうした観光資源と、電源開発の歴史を背景として1923(大正12)年に開湯されたのが「宇奈月温泉」です。

高峰譲吉が設立した東洋アルミナムは、資材運搬と湯治客も利用できる一般営業を目的とする黒部鉄道株式会社が設立された(1921(大正10)年)ことは先にも述べたとおりです。

この会社は、元々は原始林に囲まれ一部の人にしか知られていなかった未開の地、桃原(ももはら)を温泉地として開発して利益をあげる、温泉客の鉄道利用で収入を得る、さらに電源開発工事作業員の福利厚生施設ともする、という一石三鳥を狙ったものでした。

「宇奈月」の地名は、当時の日本電力社長・山岡順太郎が名付け親とされています。この地の上流に不動滝という滝があり、ある猟師が山中に入ったところ、滝壺で黄金色に輝く聖徳太子像を発見し、「ほほう!」と大きく「うなづいた」という伝説をもとにしたようです。

そもそも日本電力は第一次世界大戦による好景気による関西地方の工業化都市化に伴う電力不足を補うために設立された会社です。開発の進んでいない北陸地方の河川に水力発電所を設置し高圧電線によって関東・中部・関西方面の大規模需要家へ電力を供給することを目的としており、その後、高峰が設立した東洋アルミナムを併合するに至ります。

上述のとおり高峰は、日本最初のアルミ精錬所を計画し、黒部川で電源開発を進めようとしていましたが、このとき、その中心となって計画を推進してくれる若い人材を探していました。

あちこちを当った結果、このころ逓信省に勤めていた東大土木工学科出身の電気局技師・山田胖(やまだ ゆたか)を探し当て、逓信省から引き抜いて自分たちの会社の事業に当たらせることにしました。福岡県出身の山田は31歳でした。

時は1917(大正6)年。こうして人員体制を整えたその5年後の1922(大正11)年には東洋アルミナムの関連会社として黒部温泉会社を設立しました。その名義で桃源より下流の旧愛本温泉の権利と建物を買い取り、また、黒部川支流の黒薙川沿いの黒薙温泉の財産と権利を買収するなどして地域一帯の土地買収を始めました。

しかし同年7月に 社主の高峰譲吉が死去したことから、これ以降、東洋アルミナムによる黒部川での温泉事業は縮小を余儀なくされます。結局、黒部温泉会社による桃原の土地買収は計画の半分の2万5000坪で終結し、以後、黒部温泉会社と東洋アルミナムは、県内の旅館や料亭などに自社が購入した土地を斡旋し始めました。

1923(大正12)年には、山田の発案により、黒部川の水利開発を行うための資材運搬を主な目的とした黒部鉄道(現・富山地方鉄道)の敷設が始まり、この鉄道はその後旅客も乗せるようになりました。

また、黒部市中心部にあった三日市駅(1969(昭和44)年廃止)と宇奈月を結ぶ鉄道路線が開通すると、これにより奥地の宇奈月で温泉宿を営もうとする者が出始めます。

逓信省の土木技術者であった山田胖は、ここでその手腕を発揮するようになります。もともとは電源開発やそのための鉄道敷設を担当する技師として招かれたわけですが、温泉開発にも関わるようになり、上流の黒薙温泉から新たに引湯管の設置を企画しました。これは旧愛本温泉の古い引湯樋に替わるもので松材をくりぬいたパイプを使ったものでした。

従来の引湯樋はU字型の形状でここを温泉が自然に流下するだけのものでしたが、新しい引湯管は密閉されており、温泉が自噴する圧力を保ったまま引湯することができます。このため流れが速く、黒薙の泉源から2時間ほどで湯が届くとともに、パイプの中を通るため外気に触れることがなく、冬でも55℃の温度が確保されることとなりました。

現在も宇奈月温泉の源泉は同様の引湯管を使って黒薙温泉から7kmにも及ぶ距離を運んでいます(但し、パイプは合成化)。源泉段階で摂氏92〜98度と非常に高温であり、宇奈月温泉街に到達した時点でも摂氏63度もあるため、浴用として多少水を混ぜて運用されているようです。とはいえ元の泉質を損なうものではなく、湯量も豊富であるため人気があります。

1924(大正13)年、黒部温泉会社は旧愛本温泉の建物を移築し、宇奈月館(現宇奈月グランドホテルの前身)として新たに運用を開始しました。それとともに、宇奈月で新たに旅館を経営しようとする者には、自社が購入した土地と温泉を斡旋し、その際に3万円(現在の価値で600万円ほど)を融資しました。

この結果、宇奈月館以外にも、延対寺別館、宇奈月富山館、も原館、河内屋、などの温泉宿が開かれ、これらを含めた十数件の旅館のほかにみやげ物店などもできて、温泉街としての体裁が整っていきました。

黒部峡谷の入り口にあたるこの宇奈月温泉には、現在、これ以上の数のホテルや旅館、商店や土産物店が多数立ち並んでいます。宇奈月温泉駅から東南に進めば、そこには黒部峡谷鉄道宇奈月駅があり、黒部峡谷を訪ねる多くの観光客がここを利用します。

1925(大正14)年、 日本電力が黒部水力株式会社を併合しました。その3年後の1928(昭和3)年には上の柳河原発電所が完成し、これをもって自分の役割を終えたと感じた山田胖は黒部を去りました。電源開発の調査を始めてから11年目のことでした。

山田はのちに東京都西部の奥多摩地区を中心に石灰の採掘、販売を行う太平洋セメント系列の企業、企奥多摩工業株式会社の社主などを務めました。

その後も宇奈月温泉は発展を続け、富山県内の温泉地としては最大規模のものに成長し続けましたが、戦後の1946(昭和21)年5月21日 には、 共同浴場の近くにあった土木作業場より出火し、川をふさいだため大火となって、温泉街のほとんどを焼失しました。

しかし、当時の日本発送電や下流の内山村の援助により復興し、1953(昭和28)年には、 関西電力の黒部専用軌道を使った「トロッコ電車」の運行が実現しました。一般観光客に向けての利用が行われるようになった結果客足が伸び、温泉街は戦前にも増して活気を呈するようになりました。

1956(昭和31)年には宇奈月温泉駅南側に宇奈月温泉スキー場(現・宇奈月スノーパーク)がオープンするなど冬でも集客できる施設ができ、また、1958(昭和33)年10月には昭和天皇が富山県国体開催に合わせて行幸したことなどから、知名度もあがりました。

それから7年後の1963(昭和38)年、山田胖は久々に宇奈月温泉を再訪しています。このとき「40年ぶりに来た。宇奈月の発展はめざましい。私の働いていたころがしのばれる」と語りましたが、この翌年の1964(昭和39)年に78歳でこの世を去っています。

山田胖は、電源開発に尽力したほか、当時無人の地だった現在の宇奈月温泉に鉄道を敷設、黒薙からの引湯に成功し、温泉地として発展する基礎を築いた人物として地元では今も語り継がれています。

現在、黒部峡谷鉄道宇奈月駅の南側には、黒部の電源開発の歴史についての展示のある、関西電力黒部川電気記念館が建てられています。2019年には、この山田を偲ぶ集いが黒部川電気記念館で開かれ、関係者が「黒部開発の恩人」として彼を顕彰しています。

また、その敷地横の独楽園には山田の銅像があり、発展する宇奈月温泉と黒部峡谷を見つめています。宇奈月町長らが中心となり、1958(昭和33)年11月「黒部開発の恩人・山田胖翁之像」として建てたものです。

ただ、黒部の開発の端緒を開いた高峰譲吉の銅像はここにはありません。それは、彼の故郷である金沢の「高峰公園」内にあります。高峰の成家の跡地に整備されたもので、高峰譲吉の顕彰碑と銅像が建っています。

また、1950(昭和25)年には、高峰譲吉博士顕彰会が金沢市に結成されており、個人賞である高峰賞は地元の優れた学生の勉学を助成し、平成30年度(第68回)までの受賞者は874名に上り各界で活躍しています。顕彰会の事業費は第一三共からの交付金と金沢市の補助金をもって賄われています。

それでは、尾崎行雄の像はどうかといえば、こちらは霞が関の国会前庭の敷地内にある憲政記念館横に建立されています。憲政記念館は1960(昭和35)年に建てられた「尾崎記念会館」を母体に1970(昭和45)年の日本における議会政治80周年を記念して設立され、2年後の1972(昭和47)年に開館しました。

敷地内にある時計塔は、尾崎記念会館建設時に建てられたもので、その三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものです。塔の高さは、ことわざの「百尺竿頭一歩を進む」にちなんで、百尺(30.3m)よりも高くした31.5mに設定されているそうです。努力の上にさらに努力して向上する、という意味を持たせたとか。

今日のこの話を読み、よし、私もより一層の努力をして生きていこう!と決意された方、一度はここを訪れてみてはいかがでしょうか。

マスク

あいかわらずマスク不足が続いています。

このマスクの効用については、他の人からの感染を防ぐためと、自らが感染源とならないための二つがある、ということは、昨今の報道で多くの人が認識するようになったかと思います。

ただ、日本では自らが病原菌をばらまかないようにするためというよりも、自己の感染予防のためにマスクを使うという人が多いようです。冬場には、4割以上の人がマスクをするというデータがあるほどですが、これはインフルエンザなどの感染症予防のためということでしょう。

こうした習慣が一般化したのは、2002年(平成14年)の重症急性呼吸器症候群(SARS)の世界的流行によるところが大きかったといわれています。これにより予防意識が高まった結果、2009年の新型インフルエンザの流行では家庭用マスクの売り上げが急増し、このときもマスクが売り切れる騒ぎが発生しました。

これが日本人のマスク着用率が高くなったきっかけと考えられていますが、一方では、このころから感染症予防のため以外の目的でマスクをする人も増えているようです。

「マスク依存症」とまでいわれるほどに、普段からマスクをしていないと落ち着かないという人も多く、こうした人の中には対人恐怖症であるほか、醜形恐怖症であったりする場合もあります。自分の顔が醜いとかたくなに信じており、その顔を人から見られることを嫌う人で、一種の病気と考えられています。

そこまでいかなくても、「人からの視線を少し軽減できる気がする」とか、「自分がどういうふうに見られているかを意識しなくてすむ」という人がいます。そもそもマスクを着けようと思っていないのに、何らかの機会でマスクをするようになり、やがてそうした効果に甘んじてしまうもののようです。

生の自分をさらけ出したくない、という気持ちはわからないわけではありません。しかし、こうしたマスク依存の弊害として、人とのコミュニケーションがとれなくなる、といったことがあります。

人は、相手の表情を見ながら会話をしています。とくに目と口元を確認しながら話をする傾向が強く、これによって相手が喜んでいるか、怒っているか、悲しんでいるかなどの感情を推測できます。しかしマスクをしてしまうと、それが読み取れなくなり、通常のコミュニケーションがとりにくくなってしまいます。

感情が読めない、何を考えているかわからない、といったふうになりがちであり、このため、親しみやすさが減り、良好な人間関係を築きにくくなってしまいます。さらに顔面の大半を覆うマスクによって印象は薄くなり、顔を覚えてもらえない、安心してもらえない、といった問題が生じます。

試しにマスクをはずして相手と話してみるとよくわかると思います。読み取れる相手の感情の情報量がぐっと増え、言葉を交わさなくても相手が言わんとしていることがわかるはずです。

最近は「おしゃれマスク」とよばれるように、色とりどりの模様のものや、キャラクターが描かれているマスクも存在し、ファッションの一種として取り入れる人も増えているようです。しかし良好な人間関係を築くという意味においては本来、マスクはない方が良いのです。

とはいえ、コロナウイルスの蔓延が続いている昨今、このあともマスクが手放せない状況が続くことは間違いないでしょう。マスクをつけることによる日々のちょっとした不自由は、感染によってもたらされる苦しみよりもずっと楽に違いありません。

ところで、このマスクというものの定義ですが、口元などの顔の一部を覆うものという印象が強いものですが、一方では顔全体を覆ったり、頭部全体にすっぽりとかぶるものを含めてマスクと呼ぶ場合もあるようです。

マスクによってカバーする部分によってその目的が異なりますが、顔全体を隠す場合には、装着するマスクそのものに意味がある場合もあります。例えば、日本に古来からある「お面」の中には、それをかぶることによって人格を変化させ、神や精霊・動物等になりきるために使うものがあります。

代表的なものに能面があり、古くから宗教的儀式や儀礼にも用いられてきたものです。様々な種類がありますが、超自然的なものを題材とした能ではその内容にあった面をつけ、人間以外のものを演じる場合も多くなっています。一方、狂言では、登場する人物は現世の人間であるため、通常は面をつけません。

このほか、舞踏、あるいは演劇などにおいて用いられてきたマスクがあり、こちらは一般に「仮面」と呼ばれます。仮面舞踏は、紀元前4000年ごろにすでに行われていたといい、アフリカでは、祭祀のために独特の仮面をかぶって踊る姿が壁画などに描かれて残っています。




一方、顔を「隠す」という意味合いが強いマスクは、一般に「覆面」と呼ばれます。布などのやわらかい素材で顔を隠すことが多く、硬質の素材で作られることの多いお面や仮面と差別化されています。

その目的は存在や目的を隠しながら行動することであり、「覆面強盗」は布で顔を覆って犯罪行為に走り、「覆面レスラー」もマスクで頭を覆うことで素顔を隠し、相手に弱みを見せないようにします。

また、目的を知られないための行動にも「覆面」という言葉を使う場合があり、「覆面調査」などがその代表例です。

ミステリーショッピングともいわれ、通常の調査では知ることのできない情報を入手するために行われるものです。一般には消費者動向を調べるため、調査員がその身分を隠し、一般人に扮してサービスを受けた結果を、依頼者にフィードバックします。

一種の潜入調査であり、一般消費者に交じって行われる調査です。誰が調査官であるのか、あるいは調査が行われていること自体が謎(ミステリー)であることから、ミステリーショッピングと呼ばれます。これによりサービスの品質をより消費者に近い立場で知ることができます。

1940年代にアメリカの企業が始めたといわれており、当初は従業員へアンケートを行ってその様子を録音したり、働く姿をビデオで録画してチェックしていたりしていました。しかし、録音機やカメラを意識するために本音が出なかったりすることも多いことから、こうした覆面調査を行うようになりました。

現在では、顧客を装って調査対象となる店などを訪問し、バレないようにスタッフや社員のサービスを観察し、また施設の状態をチェックする、といった形が一般的です。

「ミシュランガイド」や「ロンリープラネット」がこうした覆面調査を行っていることは有名であり、一般客を装った覆面調査員が、飲食店やホテルへ直接訪問し、そこで得た体験を基に作成された満足度の格付けをガイドブックとして公表しています。

ファーストフード店などでも同様の調査が行われており、ほかにも一般の小売店や飲食店、アミューズメント施設、医療施設など、接客サービスが中心となる業態において、覆面調査は広く普及しています。2012年には、民間資格として「覆面調査士」という資格制度も創設されたほどです。

一般社団法人・覆面調査士認定機構が認定するもので、その活動場所としては、コンビニエンスストア、飲食店、宿泊施設、服飾店、薬局、銀行など多岐にわたります。少し古いデーになりますが、2011年の調査では月間6万店舗以上がこうした調査士による覆面調査を受けており、2006年の調査結果との比較ではその需要は171%も伸びています。

一方、最近はでは「ネット調査」というものもあり、これはウェブサイト経由で一般消費者を対象にアンケート調査を行うというものです。質問要件に対して一定基準を満たした回答者に謝礼を行うというものであって、比較的少ない費用で済み、覆面調査士よりもお手軽ということで、利用する店舗も増えているようです。

さらに、覆面調査といえば、おなじみの「覆面パトカー」があります。高速道路などで交通違反をした車両を見つけると、赤色灯を露出させサイレンを鳴らして追跡し、検挙するあれです。お世話になった人もいるのではないでしょうか。

こうした交通違反を取り締まる覆面パトカーは、正式には「交通取締用四輪車」、といい、このほか政府閣僚や来邦した各国要人を警護に使うためのものを「警護車」、犯罪捜査の用に供するものを「捜査車両」といい、この3種を総称して覆面パトカーと呼ぶことが多いようです。

覆面パトに使われる車両は、警護車両としては高級車やスポーツセダンが採用される場合が多く、防弾ガラス仕様も存在します。捜査車両としてはセダン以外にもミニバンやSUVといった乗用車が使われ、その他の一般車も使用されます。私服の刑事警察官が乗務するものであり、警察車両と気取られないため、車種は多岐にわたります。

一方、交通取締用四輪車の場合はほとんどがセダンであり、それ以外の車種は少ないようです。また通常のパトカーに比べて需要台数は少なく、このためカタログモデルとして覆面パトカーの設定があるのはトヨタのクラウンのみだそうです。いわば特殊車両であるため、開発コストが高くつき、他社が尻込みするためのようです。

とはいえ、クラウンだけではなく、スバル・レガシィや日産・スカイライン、同じくトヨタ のマークXも使われています。地方では日産・セドリックが使われていることもあるようです。なので、覆面パトといえばクラウン、という思い込みはやめたほうがよさそうです。

こうした覆面パトカーは、カモフラージュが目的であるため、いかに普通の車両に見せるかが肝要です。このため覆面パトに乗務する警察官は必ずしも警察の制服を着ているとは限らず、「私服警察官」として、一般人と同じ服装でパトロールしている場合もあるようです。

パトカー自体もそれとわからないような工夫がされており、セダンが多いのはそのためです。セダンは他の車と比べても目立ちにくいためであり、色も白、黒、シルバーと地味な色が選ばれることが多いようです。

こうした目立たない覆面パトカーをそれと見破る一つの方法としては、「赤色警光灯」が車内天井部に格納さており、それを発見することです。窓ガラス越しにこうした格納された黒い箱状の部分が見えればそれとわかります。

緊急時にはルーフ中央部分が開き、中にあった小型の赤色警光灯が車の上部にせり上がって来るというものです。ただ、最近は窓ガラスをスモークガラスにしている車両も多く、なかなかそれであるとはわかりにくいかもしれません。

このほか、警察無線用のアンテナに着目するという手があります。古くはラジオアンテナを模したものやパーソナル無線用のアンテナ・自動車電話用アンテナを模したタイプが使用されており、一目でそれとわかりました。とはいえ、最近ではこちらも、フィルムアンテナなどに変わり、すぐにはわからないようになっているようです。

こうした工夫?によって検挙率が高くなっているのかどうかはわかりませんが、最近の覆面パトカーは認識が難しくなっているのは確かなようです。そもそも違反をしなければお世話になることはないわけですが、追い越しなどでうっかりとスピードが出ていた、なんてことはよくあるもの。くれぐれもお気をつけください。




このほか、覆面といえば、「覆面オーケストラ」というのもあります。レコードやCDなどの録音媒体に通常の正式名称が記載されておらず、実体が隠されているオーケストラのことで、ここでの覆面は、身分・経歴情報を隠す「匿名」を意味します。

過去から現在に至るまで数多くの覆面オーケストラがありますが、「コロンビア交響楽団」というのが有名です。アメリカの、コロンビア・レコード社とその関連会社によって組織された「録音専用」のオーケストラで、ブルーノ・ワルターが晩年に指揮したものをステレオ録音で残したことなどで知られています。

ブルーノ・ワルターは、ドイツ出身のピアニスト・作曲家・指揮者で、戦前や戦後間もなくの日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニと合わせて「三大巨匠」と呼ばれ、20世紀を代表する偉大な指揮者の1人とされる人物です。

このオーケストラの実体は、ハリウッドの映画スタジオの奏者たちによって組織されていた「グレンデール交響楽団」の変名であるという説や、「ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団」のメンバーを主体にしつつ、それにハリウッドの映画スタジオに所属する奏者などを加えたという説があります。

いずれにせよ、実際にそうした楽団が存在していたことは間違いないものの、どこの楽団が母体のであるかは公表されておらず、レコードの表紙には「コロンビア交響楽団」とだけしか書かれていません。

なぜこうした覆面オーケストラが必要かといえば、そもそもが臨時編成のオーケストラであるためです。録音だけの目的でさまざまな演奏家を集めて結成したオーケストラです。その名称での活動は録音のみであり、終了したら解散します。また当然ですが、演奏会などの一般活動は行いません。

音楽会社との契約の関係で正式名称が公表できないために変名を使用している場合などもあります。このように、その実態については公表したくてもできない、あるいは必要がない、といった楽団を覆面オーケストラと呼びます。

日本でも例があります。二ノ宮知子さんの漫画「のだめカンタービレ」が映画化されたとき、CDも製作され、その際、「千秋真一指揮R☆Sオーケストラ」というオーケストラが結成されました。

「ブラームス:交響曲第1番ハ短調+ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調第1楽章」などが収録されている本格的なものでしたが、指揮者の「千秋真一」は原作漫画の主人公そのものの架空人物であり、また「R☆Sオーケストラ」も漫画内に登場する同名のオーケストラでした。

オーケストラの実体は公表されておらず、どこのどういった楽団が演奏しているのかも明かされていません。これとは別途、テレビドラマ版などの楽曲を演奏するために、「のだめオーケストラ」が結成されており、こちらも東京都交響楽団の団員を核とし、オーディションで集められたメンバーを加えた臨時編成オーケストラ、と発表されています。

しかし、「R☆Sオーケストラ」との関係性は明らかにされておらず、その正体は現在に至るまで「覆面オーケストラ」のままです。こうしたオーケストラは、その存在に違法性があるわけではありませんが、時として、実は超有名な楽団が演奏をしていた、なんてこともあるわけで、話題性の面からマスコミなどで取り上げられることが多いようです。



覆面オーケストラのように「匿名」が目的という意味では、「覆面作家」というジャンルもあります。

素性やプロフィールを明らかにしていない作家のことで、プロフィールには謎の部分が多く、基本的に本名や顔写真は公開されません。また、ペンネームではなく本名で活動している場合であっても、それ以外のプロフィールは公開されないことが多くなっています。

基本的には「物書き」、つまり文学作品や小説、雑誌などのコンテンツを書く人のほか、漫画家、作詞・作曲家などに覆面作家がいます。覆面作家を自称する場合も自称しない場合もあり、すでに著名になっている人物が他の名義で覆面作家になる場合もあれば、当初から素性などを全く明らかにしない覆面作家もいます。

彫刻や絵画の世界にも覆面作家もいるようですが、そもそもペンネームで活動していて氏素性がわからない作家が多く、話題にはあがることは少ないようです。文字や音楽による作品ほど大量に出回ることがないため普遍性がなく、匿名作家として名を売る意味やメリットがあまりない、といった理由もあるようです。

ただ、最近、全世界でその名を知られるようになった、バンクシーは別格です。街中の壁などに反資本主義や反権力など政治色が強いグラフィティを残すこの作家は「芸術テロリスト」とも呼ばれ、芸術家というよりはむしろ政治活動家のようです。

こうした作家が素性を隠して覆面作家として活動する理由はさまざまあるようです。ひとつには、著名人・既存作家と明らかにしないことで作品に先入観を持たれないようにしたいということがあり、ほかには匿名作家とすることで他とは違うんだという印象を与え、独自性を高めたいということがあります。

また、ときには、普段自分が創作しているものとは少し毛色の異なった異質の分野の作品を発表したい、という場合があります。こうした場合、別の作家名で公開することで別人が描いたものと思わせ、実は同じ人物であることを発表して驚かせる、といったことができます。この人はこんなにも多才な人なんだというインパクトを与えることができるわけです。

覆面作家として活動する理由としては、ほかに実務的な面も考えられます。クライアントとの契約の都合上、本来のプロフィールが公表できない、といった場合がそれで、例えば作家が塀の中に入っており、氏素性を明かすとその作品の入手経路が問題になる、といった場合などです。

また、その作家が副業としてその創作活動を行っている場合には、勤務している会社・機関から圧力がかかる可能性がある、といったことや、勤務先が副業を禁止しており、作家活動が知られると解雇される恐れがある、といった場合があります。

このほか、素性を明らかにして自らのプライバシーや名誉を荒らされたくない、という場合があります。収入をあてにされる可能性があるので、その活動を家族や親族に内緒にしている、といった場合もあります。

さらに、描いている作品が、性描写を含む成人向け作品であったり、反社会的な作品であったりする場合には、自分の家族だけでなく、知人にもその正体を知られたくない、といった作家が多いようです。

とくに反体制側の人間として作品を世に出したいという場合には、政府から迫害され、最悪は拘束されることもあるわけです。このため名前だけでなく、性別・国籍・民族などの出自・身元までも装い、執筆することもあります。文筆活動が自由に認められていない中国にはこうした匿名作家が多いようです。

もっとも、一般的な覆面作家も基本的には本名を伏せペンネームを使用することが多いものです。その顔・素性・経歴なども明らかにしないことも普通であり、世間から見たその人物像はまったく謎に包まれています。

このため、覆面作家の作品がベストセラーになったり主要な文学賞を受賞したりすると、一般大衆の興味を惹きつけ、大きな社会的関心事となります。話題性の高い作品であればあるほど、マスコミは視聴率や発行部数の向上を目当てに騒ぎ立てます。

こうした場合、興味本位にその覆面作家の顔や人物像、個人情報などの秘密を曝露させようとする動きが加速します。とくに、その匿名作家が有名人らしい、といったことがわかったときには、「報道・表現の自由」といわんばかりに、行き過ぎた調査が行われます。

時には、マスコミにスクープを売り込むことを生業としているパパラッチや私立探偵までもが投入されて覆面作家の素性を暴こうとします。ここまでエスカレートしてくると、当該作家のプライバシーの保護の問題もさることながら、その後の執筆活動の可否も絡んできてさらに複雑な問題に発展することもあります。

匿名でやっている仕事を副業でやっている場合は、その人が勤めている会社に迷惑がかかることとなります。またそれをメインの仕事としている場合でもその素性を広く知られると出版業界内での活動に支障を来たす、といったことにもなりかねず、こうなると商売上がったり下がったりです。



一方、こうした匿名作家の中には、書籍や記事、脚本、作詞作曲などを有名人に代わって「代作」することを生業とする著作家もいます。「ゴーストライター(ghostwriter)」と呼ばれ、変名を使い正体を明かさないまま作品を公表する覆面作家とはまた区別されます。

その正体が明かされる場合、こちらも大きな社会問題になることがあります。一般に、ゴーストが勝手に名乗りを挙げることは、出版業界のモラル上の大きなタブーとされているためです。

秘密裡に代作をすることを条件に作品を作っているのであり、そうした作家自体が実在していることそのものがタブーなのであって、それが明らかになった場合には代作を依頼した本人のキャリアにも傷がつくことになります。ゴーストライターはあくまで影武者を貫き通す、というのがこの業界のモラルであるわけです。

しかし、ごくたまにゴーストライターがゴースト以外の作品で成功する、といったケースもあり、その実在が表に出ることがあります。ゴーストも作家である以上、その才能を認められることはうれしいに違いありませんが、問題となるのは、こうしたとき、代作してヒットした過去の作品を自分が作ったと公表してしまうことです。

当然代作を依頼した「著者」の面目は丸つぶれとなり、ときには代作者のほうが有名になって、元の著者の名声は地に落ちる、といったことになります。依頼者は追及をされない限り、代作であることを黙っている人がほとんどであり、あくまで自分で書いたかのように振る舞っていますから、そのダメージは相当大きなものになります。

2014年、耳の聞こえない作曲家として売り出していた佐村河内守氏が、実際は自分で作曲していないこと、また言われるほどの聴覚障害がないことを、彼のゴーストライターである新垣隆氏が告発する、という事件がありました。

通常は表に出ないゴーストライターが公になったことで大きな注目を集め、この結果、既に出版されていたCDや本は出荷停止されるところとなりました。しかし、当の新垣氏はその後、実名で作曲家として売り出して成功をおさめ、数々のバラエティーに出るほどの人気者になりました。

この事件があったころ、新垣氏は桐朋学園大学音楽学部の作曲専攻非常勤講師を務めており、問題発覚後、本人の申し出により一旦退職が決まっていました。ところが、慰留を求める学生からの多数の署名が集まったことにより、退職は白紙化されたといいます。

学生やその保護者が行ったツイートには「優しくまっすぐで物腰柔らかな方」「現代音楽の面白さを体験を通して教えて下さいました」といった好意的なコメントが多く、こうした支援の声が彼のその後の人生を変えました。

一方、佐村河内氏は、その後障害者とはいえないレベルであることなども暴露され、同氏の全国ツアーを企画していた音楽会社からは、ツアー中止による損害賠償を求められました。その裁判は敗訴に終わり、また真実を知った多くのファン達の信も失いました。現在も音楽活動は続けているようですが、最近マスコミには全く登場しなくなりました。

こうした音楽業界では、かねてよりでゴーストライターの存在が噂されていました。とくにテレビ番組の主題歌やコマーシャルソングの製作をめぐってそうしたことが多かったようです。しかしこのような発覚例は稀で、その存在は長らく秘匿され、表に出ることはめったにありませんでした。




一方、出版業界においても、著名人とされる人の名で出版されている本のうちのかなりの割合がゴーストを使っていると言われています。文筆を主業としないタレントや俳優、政治家やスポーツ選手、経営者、学者の多くがゴーストライターを使っていると噂されてきましたが、かつてそれが広く公然化されるということはありませんでした。

それを明らかにしたのが、KKベストセラーズの創業者・岩瀬順三氏です。1982年11月17日にNHK教育テレビで放送された「NHK教養セミナー「に出演した岩瀬氏は、当時ベストセラー第2位だった江本孟紀の「プロ野球を10倍楽しく見る方法」をそれであると暴露しました。

「プロ野球を10倍楽しく見る方法」はプロ野球の暴露本の草分けとしてベストセラーになった作品で、この当時220万部という記録的な売れ行きとなっていました。その後あらゆる分野で「〇〇を〇倍楽しく見る方法」といった書籍が出版されるようになったほどの草分け本であり、その暴露は世間に衝撃を与えました。

ただ、暴露といっても、既にその情報を得ていたアナウンサーが、「原稿をまとめたのは、実は出版社だという話ですが」と振ったのに対し、岩瀬氏はその一般的な正当性を述べたにすぎず、それほど過激でもないインタビュー番組でした。

岩瀬氏は「なまじ本人が書いて拙い文章の本をつくるより、言わんとすることを正確に、より読みやすく面白く書いてもらったほうがいい」と述べ、「江本孟紀の書いた本を売っているのではなく、“江本の本”を出しているのだと判断してもらいたい」とも発言して、ゴーストライターを軽く擁護するにとどめました。

しかしこの発言を世間はそうとは捉えませんでした。出版業界を代表してゴーストライターを肯定する発言だと考え、ゴーストライター必要論を強調したものと受け止めました。結果としてかねてよりあった批判を助長する形となり、ゴーストライターで儲ける出版業界もまた批判を浴びるようになりました。

ただ、この「事件」は、その後のゴーストライターブームを作るきっかけにもなりました。それまでは、著者が書いたものをそのまま本にするというのが一般的でしたが、その後はとくにビジネス書や実用書の分野でゴーストライターの起用が当然のようになり、それまでのように大きな批判を浴びなくなったのです。

最近では、メディアに頻繁に出演しているような有名人の自伝などがゴーストライターのものであるとわかっても、それを追認するような雰囲気すらあります。歌手では五木ひろしや松本伊代、スポーツ選手では王貞治や金田正一、俳優の長門裕之、といった有名どころがゴーストを使っていたようです。

こうした有名人のゴーストライターのほとんどは、作家やジャーナリスト・評論家・フリーライター・新聞記者・雑誌記者などの、物書きのプロフェッショナルです。一方では、高い知名度を持つ作家で、かつてゴーストを務めていた経験があったり、逆に自身がゴーストを使っていたりする場合もあるとされます。

また、ジャーナリストの肩書があっても、自分ではまったく書かない人もおり、いずれにせよ、知名度のある人物が表の顏となり、実際の作業はこうした裏方であるゴーストライターに任せる、という形です。役割分担をそれぞれ定めたいわば分業体制による作品づくりといえなくもありません。

こうしたゴーストライターが重宝されるのは、著名人といえども文章を書くことを生業としていない者がゼロから原稿を書き上げるのは現実的には難しいためです。また、また書いたとしても、そのままでは読みづらく読者が理解しにくい文章になりがちだからです。

このため、ゴーストライターは文章を書き慣れない人をサポートし、文章の質や量の向上に寄与している、一種の「職人」であるという見方もできます。

現在、約9割のビジネス書は、ゴーストライターが書いているという説もあり、なぜビジネス書かといえば、発売後の売れ行きが見込みやすく、出版の企画そのものも立てやすいからです。

また著名人の名を借りて著者とすればより売りやすくなります。文章力よりも著者の知名度によって売れ行きが大きく左右され、その著書のファンが多ければ多いほど本は売れます。

かつて一世を風靡した田中角栄の「日本列島改造論」や小沢一郎の「日本改造計画」は、ベストセラーにもなりましたが、これを代筆したのはとりまきの官僚や秘書などです。こうしたビジネス書はいったん火が付くと爆発的に売れる傾向にあり、また小さなヒットでも継続的に売れればそれなりに出版社は儲かります。

こうした書籍を頻繁に出版するためには、有名作家に直接の執筆を頼むよりも、その名を借りてゴーストライターに書かせたほうが効率的でありかつ、原稿依頼料も安く済みます。出版社も企業である以上、手堅く儲けるためにはそのほうが楽というわけです。

このように、とくにビジネス書や実用書ではゴーストライターの起用が当然となっているといわれている出版業界ですが、近年は小説などの「文学」ともいえるような分野においてもゴーストライターを使うのが普通のようになってきている、といいます。

とはいえ、それが明らかになることはビジネス書ほど多くはなく、そうした数少ないもののひとつとしては、元・ライブドア経営者の堀江貴文による小説、「拝金(2010)」と「成金(2011)」などがあります。

この本の表紙イラストを描いた漫画家の佐藤秀峰氏が、自らのブログで、「実際には堀江さんは文章を書いていません。代筆者がいるとのこと」と暴露したことでゴーストライター利用が発覚しました。

ビジネス書でこそ普通になっていますが、こうした小説におけるゴーストライターの起用は、音楽業界と同じく出版業界でも未だグレーゾーンにあります。

堀江氏はほかにも多数の著書を出版しており、以前からあれだけ多忙なのに、本当に自分で書いているの?という声もちらほら出ていたようです。普段自著とするビジネス書でのゴーストライター起用も隠さない堀江氏も、このときばかりは口を閉ざしてコメントを拒んだといいます。

これに先立つ40年前の1973年に出版された糸山英太郎議員の自伝「太陽への挑戦(双葉社)」もまたこうしたゴーストライターの存在が暴露されたものでした。直木賞候補になったこともある作家の豊田行二が翌年に同様の内容の本を小説として発表し、「オール読物(文藝春秋)」に発表した上で、自分が代筆をやった、と暴露しました。

この本は一年半で50万部を売り上げるベストセラーになっており、この暴露によって出版元であった双葉社の評判はガタ落ちとなりました。この発表によって批判にさらされることになった同社の幹部は怒りまくったと伝えられています。

もともと出版業界では、有名人やタレントの名を借りさえすれば本が売れる、という風潮がありましたが、それは隠してあくまで本人が書いたもの、ということを前提に売り出しを行っていました。当然、こうしたゴーストライターの存在を表に出すことはありませんでしたし、世間もそうした存在を知りませんでした。

しかし、この事件をきっかけに、その実態がだんだんと明らかになり、ゴーストライターを使った出版業界のなりふり構わぬマーケティング手法に疑問が呈されるようになっていきました。

上の堀江氏のゴーストライター疑惑もそうした中から発覚したものですが、その後もこうした暴露が続いた結果、最近では有名人の本が出版されるたびに、あれも実はそうではないか、と誰もが思うようになってきました。

それを逆手にとり、ゴーストライターの手によるものをわざわざ明かして手記を出すタレントまで登場するようになり、今やゴーストライター全盛の時代といっても過言ではありません。

出版社側が著者の作業のほとんどを行った場合においても、これは「編集者と著者の共同作業」だ、開き直るといったことすら増えています。

編集者がテーマを設定して、企画力を発揮し、編集者が徹底的に注文を付けて著者に書かせるという「創作出版」という形がある一方で、ゴーストライターのような他人の手を借りてこれを完成させるという形はむしろ普通だ、と主張する編集者は多いようです。

例えば、ノンフィクション作品や推理小説では取材や事実確認といった、いわば下調べ作業はデータマンの手に任せることがあります。「著者」であるライターはアンカーマンとして作品を書くだけといったケースも多くなっており、この場合のデータマンを彼らはゴーストライターではない、と主張します。

確かに一理はあるのですが、作家を自称する以上、取材からすべての素材を自分で集めるのが普通のスタイルであり、それを人に集めさせて、エッセンスだけを横取りするのが果たして許されるのか、と批判されてもおかしくはありません。

漫画の分野でも、漫画原作者は表には名前を出さずにストーリーだけを手掛け、作品自体は力のあるアシスタントや名もない別の漫画家に描かせるというケースがあります。キャラクター設定や物語の概要のみならず、ストーリー制作の実権まで雑誌スタッフや編集者が握る場合もあり、彼らが実質的な原作者である場合さえあります。

そういう場合であっても、編集者が原作者としてクレジットされることは少なく、その多くはゴーストライターと同様の形態になります。

音楽業界も同じで、名前や顔の売れているタレントや若手アーティストに作詞や作曲をさせるケースがあり、プロデューサーやディレクター、アレンジャーなどの専門家が「手直し」や「修正」をする場合があります。それらが多岐にわたり大幅になることも多々あるといい、結果として修正にかかわった人間がゴーストライター化してしまうことがあります。

ポピュラー音楽界では、鼻歌や主旋律程度しか作曲できない「シンガーソングライター」も多いといい、楽譜も読めないのに、単にルックスや奇抜さだけで世間受けしているアーティストはそこら中にいるといいます。

ある音大の学生によると、「作曲科専攻の学生が、担当教師の代わりに作曲することは珍しくない」といい、普通に恩師のゴーストライターをやり、1曲あたり5000円ほどのアルバイト料をもらっていた、といった証言もあるようです。

中には短期間ではぜったい一人で完成できなさそうな大曲もあり、こうしたものは同じ学科の学生が総出でゴーストすることもあるといいます。「実際の作曲者が無名の場合、世に知れた音楽家の名前で曲が売られることはよくある」との証言もあります。

バッハやモーツァルトのような大作曲家ですら、本人が作曲したことの確証が取れない“偽作疑惑”の曲が多く存在するといいます。




こういうふうになると、もう個人による代作や盗作といったレベルではなく、なにやら組織犯罪のような様相を示してきます。

1990年代前半、数々の犯罪によって当時の日本の社会へ大きな衝撃を与えた、オウム真理教の教祖、麻原彰晃は、自作と称する交響曲や管弦楽曲を多数制作し、教団の専属オーケストラ(キーレーン交響楽団と称していた)を自ら指揮して発表しました。

実際には麻原にはこれらの曲を書く能力まったくなく、彰晃マーチはじめオウム真理教の音楽を数多く製作した鎌田紳一郎ほかの専門的に音楽教育を受けた信者達が共同で制作したと言われています。

一方、アメリカの出版業界では、スポーツ選手や企業人など素人の文章を出版する際に、ライターやジャーナリストとの「共著」として発表されることが多いようです。この場合の共著者とは、クレジットされた(名前が明示された)ゴーストライターであり、文章執筆のすべてを公的に請け負っていて、著作者と対等な関係にあります。

たとえば、2006年に出版された「スリー・カップス・オブ・ティー」は、登山家から慈善活動家に転身したグレッグ・モーテンソンの自伝として売り出されました。

この本は、発売後220週もの間、「ニューヨーク・タイムス」紙のノンフィクション部門ランキングに載り続けたベストセラーであり、世界39カ国で翻訳、販売され、総計400万部以上を売り上げ、続編もベストセラーとなりました。

グレッグ・モーテンソン著とされるこの2冊の共著者はデビッド・オリバー・レーリンというジャーナリストでしたが、彼はこれを執筆するにあたってモーテンソンの協力が得られなかったため、想像によって彼の自伝のエピソードを大きく補いました。

この本がベストセラーになると、モーテンソンの慈善事業には多額の寄付金が集まるようになりましたが、のちにこのうち7〜23億円が行方不明になっていることが判明します。また執筆内容に虚偽のエピソードが含まれていることが明らかになり、これ対して大きな批判が巻き起こりました。

著者であるモーテンソンは、この非難に対して、今後は慈善活動にいっそう力をいれることで償う、として謝罪しましたが、共著者であるレーリンは批判キャンペーンが展開された翌年の2012年に49歳で自殺してしまいました。罪悪感やライターとしての将来への悲観からであったと推測されています。

同じアメリカでは、1990年にもゴースト事件が起こっています。男性二人組のダンス・ユニット「ミリ・ヴァニリ」はデビューから4曲の大ヒットを放ち、グラミー賞を受賞するなどの人気を博しました。しかし、実際には歌っておらず「ゴーストシンガー」に歌わせて曲を発表していたことが発覚し、グラミー賞は剥奪され、レコードも廃盤となりました。

騒動の後、本家のミリ・ヴァニリは事実上芸能界から追放されましたが、実際に歌っていた「影武者」たちはリアル・ミリ・ヴァニリ(本物のミリ・ヴァニリ)としてデビューし、ヨーロッパなどで一定の成功を収めました。

元祖ミリ・ヴァニリの、ロブ・ピラトゥスとファブリス・モーヴァンの二人はその後、ロブ&ファブとして再デビューを果たします。しかし、こちらは売れるはずもなく、ピラトゥスはドラッグやアルコールに溺れた挙げ句に強盗事件を起こし、カリフォルニアの刑務所に3か月間服役したあげく、1998年にアルコールと処方薬の過剰摂取でこの世を去りました。

2008年、中国でも同様のゴースト問題が発覚しました。北京オリンピック開会式で歌手を務め、その愛くるしい笑顔から「微笑みの天使」と呼ばれた9歳の歌手、林妙可(りん みょうか)が、実際には歌っておらず、口パクだったことが後日明らかになりました。

歌っていたのは楊沛宜(やんぺいい)という別の女の子で、この事件によって逆に売れっ子になりました。疑惑が発覚した翌年にはファーストアルバムをリリースするともに、香港で開催された創立60周年を記念する文化ショーに出演し、人気歌手ジャッキー・チョン(ジャッキーチェンではない)と共演するなどの人気者になりました。

片や林のほうは、それまでトヨタ自動車や松下電器など約40社のCMに出演するほどの売れようでしたが、この事件以後、インターネットなどで激しいバッシングを受けるようになりました。やがて私生活を暴露されるに至ったため、両親が芸能生活から遠ざけるところとなり、現在までもほとんど活躍の場がないようです。

この北京オリンピックが開催されてから12年。その開催国からやってきたウィルスで日本や世界中が大変なことになっています。

一方では、中国にあれほど多数いた感染者が今は減りつつあるといい、連日中国政府から発表されているこうした情報を全世界の人々が疑いの目で見ています。まさか、こうした情報までゴーストライターが書いているとは思えませんが、この国の隠ぺい体質を考えると、そうした疑惑もあながち嘘ではないと思えてきます。

そうした偽情報の発信を百歩譲って許すとしても、初動体制の不備によってこれほど世界中を巻き込む大惨事を引き起こすことになったことを、中国政府は少しは反省してほしいものです。

昨年亡くなった、堺屋太一さんは、 そのプロレス趣味が高じて「プロレス式最強の経営 “好き”と“気迫”が組織を変える」という本を執筆したそうです。ただその出版にあたっては、自分の名義ではなく「週刊プロレス」編集長を著者として出版したといい、印税も受け取らなかったそうです。

同じゴーストライターであっても、こうしたエピソードを知ると、何かおおらかさのようなものを感じます。趣味だからとはいえ、人の代わりにそれをやってあげて何ら見返りを期待しない、というのはなかなかできることではありません。出来上がった本はきっと生き生きとした内容のものなのでしょう。

一方、悪意をもって世間を欺き、自分だけが得しているような作家のものは読みたくもありません。ゴーストライターに頼むことで、簡単に自己の名声を高め、多くの収入を得ることができると考えている有名人がいるとしたら、そうした悪に与する一人ではないでしょうか。書くということはそれほど大変なことです。猛省してもらいたいものです。

えっ?このブログもそうではないかって? いえいえ、これは正真正銘、わたしが自分で書いているものです。しかも無償での行為であり、誰に非難される筋合いのあるものではございません。

広告を出しているじゃないかって? えーまあ少し…。しかし微々たる収入にしかなりませんし、ブログサーバの維持費には遠く及びません。

老い先短いことでもあり、その日々をほんの少し賑わせるための小遣いということでお認め下さい。

いつか大作家として認められるような日がくれば(永遠に来ないと思いますが)、そのときその収入は、かならずや感染症予防のために使わせていただきます。

それではみなさま、外出にあたっては今日もマスクをお忘れになりませんように。

笑う門には…

先日の志村けんさんの死は、日本中に衝撃を与えました。

人気のあるタレントさん、ということはそれだけ影響力があるということで、お役目のある人だったのでしょう。身をもって新しい感染症の恐ろしさを教えてくれたに違いありません。ご冥福をお祈りいたします。

この志村さんが、お笑い稼業に身を投じるようになったきっかけは、お父さんだったという話をテレビの報道などで知りました。

45年ほど前に亡くなった父・憲司さんは学校の先生だったそうです。厳格な人だったらしく、家にいるときはいつも重苦しい雰囲気が流れていたといいますが、テレビのお笑い番組で漫才や落語を見ると、声を出して笑っていたそうです。

幼かった志村さんは、普段は怖いこのお父さんがこうして笑う姿を見て、お笑いの世界に憧れを抱くようになったといいます。

こうしたエピソードを聞くと、人の人生を変えてしまうほど、笑いというものは力のあるものなのだということが実感できます。

そこで、今日はこの笑いとはいったいどういうものなのか、といったことを掘り下げて考えてみようかと思います。




ネットで笑いの定義を調べてみると、笑いとは、楽しさ、嬉しさ、おかしさなどを表現する人間特有の“感情表出行動”ということのようです。

では、ヒトだけでなく他の動物も笑うのかというと、人間に近い猿の仲間には笑いがあるようです。オランウータンやチンパンジーといったヒトに近い動物は、くすぐると声をあげて笑うといいます。

もっとも、人間はひとり誰かが笑うとそれが伝染して多数が一斉に笑いますが、猿にはそうしたことはありません。またユーモアや、嘲笑、他者を笑わせる「おどけ」といった行為も見られないそうです。

人類がまだ類人猿といわれていた時代のころもまたそうだったのかわかりませんが、ユーモアを伝えるためには少なくとも言語能力が発達している必要があります。猿レベルのコミュニケーション力ではそれはかなり難しいといえるでしょう。

さらに文字を使って笑いをとるといった高度なことは人間にしかできません。猿を含めて文字を自由に使える動物は人間以外皆無です。

人間が文字を使うようになったのは、紀元前4千年前くらいのことのようですが、ここまで遡るとさすがに笑いに関する記録はありません。洞窟壁画などにも笑いを表現したものはなさそうです。

最も古い笑いに関する記録は、紀元前400年くらいのものとされています。古代ギリシアの学者、プラトンが書いた笑いに関する考察があるそうです。

またほぼ同じ時代の人、アリストテレスも笑いについて触れており、喜劇について書いたものの中でそうした持論を展開しています。どうやったら人を笑わせるか、といった研究はこの当時から既にあったようです。

では、日本はどうかというと、最も古い笑いの記録と言われているのが「古事記」であり、これは誰もが知っている、アマテラスオオミカミのお話です。

あらすじをおさらいしてみましょう。

神々の暮す高天原(たかまがはら)を統(す)べる紳、太陽神・アマテラスオオミカミは、弟のスサノオノミコトの粗暴な性格を普段から快く思っていませんでした。その日もこの弟が引き起こした乱暴狼藉に、腹を立てたアマテラスは、ついに岩の洞窟、「天岩戸(あまのいわと)」に閉じこもってしまいます。

そのため世界中が真っ暗になってしまい、困った神々たちはアマテラスオオミカミをおびき出そうと、岩戸の外で大宴会を行うことにします。

飲めや歌えの大宴会が始まりましたが、神々のうちの一人、女神アメノウズメは、着衣を脱いで全裸になり、こっけいな踊りを始めたことから、これを見た八百万の神々たちが受け、大爆笑が宴会場に沸き起こりました。

その笑い声を岩屋の中で聞いていたアマテラスオオミカミは、何が起こっているんだろう、と岩戸を少しだけ開けて様子をうかがいました。そのとき、ここぞとばかりに神々たちが岩屋の引き戸をこじ開け、アマテラスを引き出すのに成功。こうして、真っ暗になっていたこの世に再び光が戻りました。

と、まあこれが日本で最初の「笑い」ということになっているわけですが、神様の話といいながら通俗的というか、なにか人間くささを感じる話です。

では、笑うという行為が、このように人間的である、とされる理由はなんでしょう。怒り、悲しみなどの表現はほかの動物にもあるようですが、笑うという行為を自発的に行っているのは人間だけです。

その理由のひとつとして、ヒトの笑いには「笑うもの」と「笑われるもの」という分離がある、ということが言われています。

笑うためには、何か(誰か)を対象とする、という心の働きが不可欠であり、「自と他」を明らかに分け、自が他を対象として見る「対象化」ができるのは人間だけです。そして、自分がその対象に対して、「突然の優越」を感じるときに笑いが生じるのだそうです。そうした説をイギリスの哲学者、トマス・ホッブズが唱えています。

何かおかしみのある事象を見聞きしたときに、思わず笑ってしまう、という経験は誰にでもあるものですが、そうした状況を思い浮かべてみると、確かにそれには「対象」があります。それに対して優越感というか、何か自分にはないものを見つけたような気になり、笑いが起こるような気がします。

生まれて間も無い新生児が、自然と笑顔をつくることが良く知られていますが、これを「新生児微笑」といいます。その理由については、はっきりわかっていないようですが、母親など世話をする周囲の人間の情緒に働きかけている、といわれています。つまり、こんな小さなころからでも「他」を意識して笑いかけているわけです。

この「対象化」には自分自身も含まれる、という点が特徴的で、たとえば自分自身の馬鹿さかげんを苦笑する、といった場合にも適用され、こうした感情に関わる自己表現ができるのもまた人間だけです。

一方、笑いは自然に生じるもので、考えや意志で引き起こしたりすることはできません。ただ、自然に生じるといってもある程度、心に余裕がないと出てこないものであり、緊張が高まっているときとか、何かに夢中になっているときには笑いは発生しません。

何かのことに真面目に取り組み、そのことで緊張している、という状況は、ヒトの自我がその状況の中に入り込み、その物事と「一体化」しようとしている場合であり、こうした場合には笑いの時に起きるような対象化は生じないようです。

これを逆説的に考えると、例えば非常に緊張感が高い状況が続いている中、上手に人を笑わせる人がいたりすると、それによって緊張がほどけ、余裕が出ることで自分自身を対象化することができ、これによって笑いが生じます。

こうした場合、よくよく注意してみると、そういう笑いが取れる人というのは、そのような状況からやや距離を置いて、安定した感情でその状況を客観的にみている人に限られる、ということがわかります。

つまり、笑いを得るためには、安定した感情を持ち、自己あるいは他人との間に適切な「距離」を置いているということが必須条件であり、このような心理的距離を保つという能力を持っているからこそ、人間は他の動物とは違うのだということが言えるのです。



さらにもう少し医学的な見地から笑いというものを見てみると、笑う、という行為を通じてヒトは「自律神経」の切り替えをしているらしい、ということがわかっています。

「自律神経」とは、血液などの循環や、呼吸、消化、発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝といった、ほぼヒトのすべての生存機能を司っている神経系のことで、交感神経系と副交感神経系の2つの神経系で構成されています。

交換神経系は、激しい活動を行っている時に活性化しますが、一方の副交感神経系はこれとは対称的な存在であり、心身を鎮静状態に導きます。このふたつのバランスがうまく取れている状態というのが通常の状態ですが、何らかの原因によりこのバランスが著しく崩れたときには「自律神経失調症」といった病的な状況に置かれます。

情緒不安定、不安感やイライラ、ひどいときにはうつ病、パニック障害なども引き起こすことがあり、会社や学校に入りたての新人の中には、そうした失調症に悩む人もいるようです。自律神経失調症には様々な症状があり、病態は人それぞれですが、ひどくなると情緒不安定、や被害妄想、鬱状態など精神的な症状が現れることもあるので注意が必要です。

実は、そこまでひどく崩れなくても、この二つの神経系のバランスは、しょっちゅう不安定になっています。笑いという「症状」が引き起こされた結果、そのバランスは崩れます。

笑いが起こる場は、交感神経と副交感神経のふたつのうち、副交感神経が優位な状態になることがわかっており、副交感神経が優位になるという状態とは、これすなわち安らぎや安心を感じる、といった状態です。この状態が続くとストレスが解消されます。

一方、逆に交感神経が優位になる状態というのは、神経が興奮しているときなどであり、いわゆるアドレナリンが出ている場合です。何かのスポーツに真剣に取り組んでいる場合や必死に逃げるときなどそれですが、もっと興奮する状態、例えば喧嘩などで怒りや恐怖を感じるような状態になると強いストレスが生じることになります。

それが長く続くような場合、身体中の様々な器官に刺激が与えられる結果となり、場合によっては病気にもなったりします。上の自律神経失調症もそのひとつです。

笑う行為というのはその逆で、副交感神経を優位にさせ、ストレスを解消させることで心身が安定な状態になり、リラックスできます。アドレナリンに対してアセチルコリンという物質が神経系に流れやすくなり、副交感神経を刺激して、脈拍を遅くし、血圧を下げてくれます。

さらに、笑うことによって、NK細胞(ナチュラルキラー細胞)が活性化し、これによって免疫力が増す、ということもわかっています。ナチュラルキラー細胞とは、自然に免疫力を高めてくれるリンパ球であり、リンパ球とは血液中にある免疫系の白血球の一種です。

リンパ球にはほかに、T細胞やB細胞といった病原体や病原体に感染された細胞を排除してくれるものもありますが、NK細胞は、特に腫瘍細胞やウイルス感染細胞を取り除いてくれる能力を持っています。

細胞を殺すに際し、T細胞などでは病原体からの刺激を感知し「活性化」されて初めて病原体への攻撃能力を持ちます。これに対し、NK細胞は病原体によって活性化されなくてもその能力を発揮できます。

もともとそうした能力を持っている=生まれつき(natural)であり、こうした害のある他の細胞を壊すことから、細胞傷害性細胞(killer cell)ともいわれ、合わせてナチュラルキラー細胞と呼ばれています。

ただNK細胞もその能力を発揮するためには、何等かの形で活性化されなくてなりません。その活性化の方法のひとつが、交感神経からの働きかけであり、何等かの形で交感神経と副交感神経が交互に切り替わると、そのことが脳へ刺激を与え、このとき神経ペプチドという免疫機能を活性化するホルモンが全身に分泌されます。

NK細胞には、この神経ペプチドを受け止める受容体があり、これによってNK細胞が活性化されます。こうした活性化したNK細胞は、例えばウイルスに感染した細胞のような体にとって良くない細胞を攻撃するようになります。

そして、そうした交感神経の切り替わりを促すのが笑いです。もう一度おさらいすると、笑うことによって、交感神経が刺激される、それによって神経ペプチドが分泌される、さらにこれによってNK細胞が活性化し、悪い病原体をやっつけてくれる、という手順になります。

このNK細胞は生まれながらに何十種類もセンサー群をもち、これらを組み合わせて使うことで、普通の病原体だけでなく、癌細胞なども認識し攻撃して排除できることなどがわかっています。つまり、笑うことは癌の予防にもなり、治療にも効果がある、ということになります。

大阪国際がんセンターが漫才や落語を鑑賞した患者と、鑑賞しなかった患者のそれぞれ約30人の血液を採取して分析しました。その結果、鑑賞したグループはNK細胞を活性化するタンパク質を作る能力が平均で1.3倍上昇し、NK細胞自体も増加する傾向を確認できたということです。

どの程度笑いが癌に効くか、といった具体的なことはまだよくわかっていないようですが、少なくとも笑うことが癌にとって悪いことではないばかりか、良い影響を与えるということだけは確かなようです。

また、別の研究では、笑いは糖尿病にも効く可能性があると言います。京都医療センター臨床研究センターが行った実験では、笑いに代表されるようなポジティブな心理的因子が糖尿病やメタボリックシンドロームを改善する、といった効果が確認されています。

笑いは脂肪を燃焼してインシュリンの働きを助けるそうで、これによって糖尿病の改善が期待できるということです。

また、昨年(2019年)、山形大学医学部は滅多に笑わない人はよく笑う人に比べて死亡率が2倍にのぼる、という研究結果を発表しており、この中で脳卒中などの心血管疾患の発症率がとくに高いことなども明らかにしています。

さらに別の研究では、笑うことで頬の筋肉が働き、動くことによってストレスが解消され、これによって鎮痛作用のあるタンパク質の分泌が促されることなどがわかっています。ストレスが下がることでさらに血圧が下がり、心臓を活性化させ、運動した状態と似た症状を及ぼします。これが血液中の酸素を増やし、さらに心臓によい影響を与えるといいます。

このように、笑いは、癌や糖尿病、脳卒中、心臓病といったいわば現代病の代表的なもののほとんどに効果がある、といったことが医学的にも証明されつつあります。

こうした結果を受け、「ポジティブな心理要因や笑う習慣」を取り入れた治療法の提唱を目指す研究者たちも増えてきているということです。

将来的には患者さんをわざと笑わせることで現代病を治療する、といった最新の病院施設もできるかもしれません。病院なのに毎日が笑いにあふれているとうのは素晴らしいことです。ぜひ実現してほしいものです。




ところで、この「笑い」にはいろいろな種類があります。例えばつくり笑いや愛想笑い、苦笑い、泣き笑いなどがあり、ほかにも失笑や冷笑、照れ笑いや愛想笑といったものがあります。

これを英語で表現すると大きく二つに分けられます。可笑しさによって笑う「laugh」と、嬉しさによって微笑む「smile」のふたつがそれです。

両者は同じように見えるものの、よく考えてみれば違うものであることがわかります。“laugh”のほうの笑いは、多くの場合声や音が加わりますが、“smile”のほうの微笑みは声をたてずに、ニコリと笑うだけです。

それぞれの英語表現をみるとさらに理解が進みます。例えば“Smile gently”は、「穏やかに微笑む」であって、歯をむき出しにせず、上品な口元で女性が笑う姿が想像できます。また“Have a bitter smile”は「苦笑する」であり、思わず苦笑いをする時に使います。

さらに、本当は楽しくないのにその場を取り繕って笑うのは、“Force a smile”であり、これは「作り笑いをする」です。ほかに“Smile reminiscently”というのがあり、これは「思い出し笑いをする」であり、“Have a fearless smile”は「不敵な笑みを浮かべる」であって、smileを使った微笑み表現はすべて声や音を伴わないことがわかります。

これに対して、「声を出して笑う」laughでは、例えば“Burst into laughter”というのがあり、これは「吹き出す」という意味です。Burstは「爆発する」という意味で、いきなり、ぷっと吹き出す、といったときに使います。

また、“Laugh scornfully”は「鼻で笑う」で、“scornfully”は「軽蔑して」という意味の副詞になります。「相手を見下し、ふんと笑う」という時の表現です。“Laugh to oneself”は周囲に気づかれないように声を潜めて笑うことであり、つまり「忍び笑い」です。直訳すれば「自分自身に笑う」であり、「必死に笑いをこらえている」状態です。

さらに“Cause an explosive laughter” は大爆笑が起こった、というときに使い、“Laugh boisterously”といえば、「ゲタゲタ笑う」、あるいは「高笑いする」といった場合に使います。水戸黄門が「カッカッカッ」と笑うのもこれですが、日本語の高笑いとは少し表現が違うような気がします。

なお、日本語では笑い声をそのまま音にして「あはは」や「イヒヒ」のような擬音語(オノマトペ)で表現しますが、英語では日本語に比べるとオノマトペを使う場合があまり多くありません。

とはいえ、オノマトペが全くないわけではなく、「hee-hee」、「thhee」、「tee-hee」といった表現は「イヒヒ」という笑い声をそのまま音写した表現です。アニメや漫画の英語字幕で比較的多く目にします。

このように、英語の“laugh”に相当するものは、どれも声や音が加わる笑いであり、これを伴わない”smile”とわりと明確に区別できることがわかります。

しかし、いずれの場合もポジティブな笑いとネガティブな場合が含まれている点は同じであり、また、自然な笑顔と不自然な笑顔があります。

微笑み“smile”を例にとれば、心に嬉しさがあって自然に出ているものと、そうではなく、内心嬉しいとは感じていないのに意識的に表情筋を動かして作っている笑顔があります。また”laugh”の中にも、心から笑う場合もある一方で、「鼻で笑う」のようにネガティブな感情を表情に出したものがあります。

言語学を研究している学者の中には、人と人のコミュニケーションの研究や、あるいは嘘の研究を通して、こうした違いがどのように発現するのか調べている人がいます。それによれば、例えば自然な笑顔は、眼もとまわりの表情筋が中心になって動きます。眼もとまわりがゆるんでほほえみ、わずかに「たれ目」ぎみになる状態です。

これに対して、意図的・作為的に作られた笑顔というのは、口もとあたりの表情筋肉が主に動いていて、眼元の表情筋がほとんど動きません。口の端だけが引っ張られてつりあげられたような笑顔であり、こうした場合のほとんどは、心に喜びがあってでた笑顔ではなく、意図的あるいは作為的に作っている笑顔です。

このことから、相手が心から喜んでいるか、それともそうでないかを見分けたかったら、口元はできるだけ見ないようにして、眼元をよく観察すればよい、ということがわかります。

その場合、眼元もわらっていて、なおかつ口元も笑っていれば、ほぼ問題はありません。しかし、目が笑っておらず、口の端だけが吊り上がっているようなら、無理に笑顔をつくろうとしていると推測できます。

「引きつった笑い」という表現がありますが、これもそのひとつで、一見笑っているように見えても、本心ではむしろ不快に思っている場合がほとんどです。相手をうまく操作して商売をうまくすすめようとしていたり、だまそうとしている場合には、よくみるとこうした引きつり笑いになっていることがあります。

もっとも、このように意識的に作られた微笑みというのは、通常のビジネスの場でもよく見られます。町の商店で従業員がお客に接する時などでも、とりあえず少なくとも敵意は持っていないということを示すために、笑顔を作ってみせる、といったことはよくあるものです。初めて会った人へ挨拶するときなどでも、特に感情が無くても笑えます。

この場合、心を込めて挨拶しようとしている人の目元は笑っています。必ずしも作り笑いが悪意のあるものとばかりもいえないわけであり、そこには儀式として笑いを使うことでコミュニケーションを円滑にしたいという意図があります。

このほか、どうしても微笑む必要がない場合でも、作為的に笑みを浮かべることによって、気分を高揚させる、といったこともあるでしょう。

人は笑顔を作ると、その時の筋肉の状態が、感覚受容器から脳にフィードバックされます。例えば顔の皮膚には、痛覚、温覚、冷覚以外に、圧覚(押された感覚)や触覚(触れた感覚)の感覚受容器があり、笑って皮膚がひきつると、こうした受容器への情報が脳に伝えられ、そうした情報が「嬉しさの内部モデル」として記憶されます。

笑っている表情を作っている時は、その情報が脳に伝わり、それが嬉しい時であると判断するため、こうした過去に構築された嬉しさの内部モデルが働き、結果として、脳内で「嬉しい」と感じる反応が起こります。こうしたとき、本心はそうでないとしても、今私は嬉しいのだ、という気持ちが沸き起こってきます。

無理に作った笑いであっても、脳内で嬉しい気分を示す反応がおきるわけであり、その笑いには人の心を豊かにする効果があるのです。



一方、悲しいはずなのに、自然に笑みが出てくる、という特殊なものもあるようです。本来なら悲しむべき状況であるにもかかわらず、微笑むという習慣は、日本独特のもので、2010年に日本とオランダの大学で行われた共同実験においても、そうした笑いが確認されました。

もともと日本人は文化的に本当の感情を出さない傾向があり、否定的感情も笑顔で取りつくろうことが多いことが、上の研究でもわかっています。悲しんでいるのか喜んでいるのか顔を見ただけではわかりにくいため、日本人は、相手の感情を読み取る際には、「顔」ではなく、「声」の方を重視する傾向にある、といったこともいわれているようです。

こうした日本人の不自然な微笑に関しては、小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンもその著書「日本瞥見記」の中でそのことを述べています。「日本人の微笑」というエッセイの中で、「愛する人が亡くなった重大な時にこそ、みだりに表情を表すことを控え、むしろ笑みを浮かべることを美徳としている」と書いています。

「美徳」としながらも、外国人であるハーン自身も不可解に思ったようで、そのこともこの中に記しています。ハーンは日本以外に韓国も旅をしており、その際、葬式に遭遇する機会がありました。このとき肉親のほとんどが大声をあげて泣いていたと記しており、「泣き女」というこの国独特の感情表現と、日本の静かな微笑みとのギャップに驚いたたようです。

新渡戸稲造もまた、この日本人独特の微笑について、自著「武士道」の中で触れています。ある外国人女性の視点から書かれたもので、悲しい時に笑う日本人のこの不気味な笑いついての驚きが記されています。

新渡戸はさらに、こうした悲しい時の微笑は、男女にかかわりなくあるとし、これは相手を気遣わせないための配慮であり、他人を心配させないための表情であろう、と結論づけています。

狭い島国の中で暮らす単一民族ならではの気遣いの発展形、ということだろうと思いますが、他国の人には真似できない、いや理解できない日本人独特の笑いといえます。

欧米人の皮肉やジョークが、必ずしも日本人に受けないのもそうしたことと関係があるかもしれません。こうしたひねったジョークは、どこか知性を感じさせるようなものも多いものですが、真面目にとると笑えないようなブラックジョークも多く、日本人にとっては、何か居心地の悪い気分になってしまうものも少なくありません。

ジョークなのか皮肉なのかわからないこうした笑いよりも、馬鹿馬鹿しくてわかりやすい、“安心して笑える”直球のお笑いのほうが日本人は好みです。日本のお笑いといえば、二人一組のコンビがする“漫才”があり、こちらはいかにも日本独自のお笑いセンスといえます。

ボケとツッコミというそれぞれの役割を決め、チームプレーで行うこうしたお笑いは、ワンマンショーが主流の欧米ではあまり見られるものではありません。ときに「はたき」も加わって馬鹿馬鹿しくくだらない方向に展開するこうしたお笑いを外国人は「クレージー」といい、珍しがります。

自分以外の誰かを加えた形でお笑いを完成させるという発想は、欧米ではほとんどないように思います。いかにも集団主義社会の日本らしいお笑いであり、上のような悲しいときにも笑うのと同じような独特の文化です。

こうした漫才を注意深くみてみましょう。すると、同じジョークであっても、欧米人のそれが単独で成立するのに対し、漫才のそれは相手の反応を伺いながらのジョークを飛ばしあっているのがわかります。また、そのやり取りはお互いの信頼関係のもとに成立していることもわかるはずです。

ボケとツッコミに代表されるように、信頼できる相手との会話のなかで生まれるものであるから面白いのであって、相手の反応や聞いてくれる人ありきのお笑いといえます。相手との関係性や人間性を把握し、その場の雰囲気や自分の役割をよく理解して発しているジョークであって、もしそれらが曖昧でわかりにくいとき、観客は安心して笑えません。

ボケとツッコミというお互いの立場を理解した中でコンビがジョークを発し、観客もまたそのシチュエーションが明快であるからこそ笑えるのであって、演じる側と観客との間にも信頼関係が成り立っているからこそ成立する笑いといえます。

これに対して欧米のジョークは、一方的に発せられたジョークの中身だけを判断して笑うか笑わないかを決めます。日本人が欧米のジョークを苦手とするのは、そこに受け手となる要素が薄く、はたして「笑っていいのかわからない状況」という微妙な空気に直面し、笑うかどうかを躊躇するわけです。

また、欧米人の場合は、そのジョークが面白くなかった場合には、即ブーイングやヤジを飛ばします。これに対して、日本人はたとえ面白くないジョークでも、相手のためを思って「笑ってあげる」ことが多いようです。

これもまた、「相手」を意識してのことであり、笑ってあげなければならないという自分の役割を見出し、「ここでは笑っておくべきだ」と判断します。同じ「お笑い」の一員だという当事者意識が強いため、無意識にこうした”笑っています”アピールをしてしまうのだと考えられます。

もうひとつこうした日本人の特質をよく表しているのが、「手をたたきながら笑う」という行為です。日本人はその笑いが気に入るとよく手をたたきながら大笑いしますが、欧米人はそうしたことはあまりやりません。良い芸だとわかると笑いながら拍手する、ということはありますが、大げさに笑いながら手をたたいたりはしません。

欧米人は、このように手を叩きながら笑う日本人を見て、「まるで必死に”笑っています”アピールをしている」と感じるようです。その通りであって、そのお笑いが気に入った、ということを、こうして笑いと拍手を同時に発することによって相手に伝えているわけですが、欧米人はこれを「わざとらしい」と感じるようです。

これとよく似た表現方法に、「相槌を打つ」とうのがあります。日本人は相手の話を聞きながらよく相槌をうちますが、これは「あなたの話は面白いですよ」というメッセージを伝えているのであって、お笑いで手をたたいて笑うのと同じといえます。

このように、笑いひとつをとっても、日本と欧米ではその受け止めようが違うことがわかります。笑いが体に良い、ということは万国共通ですが、それぞれの国の笑いは異なり、それがその国独特の文化を形成しているのです。

人の動作にはこのほか泣く、怒る、といったものもありますが、そうしたものも含めて、比較分析すると、それぞれの文化の違いがより明確になってくるかもしれません。そうしたアプローチをまたいつかしてみたいと思います。

京都太秦の広隆寺に国宝として納められている「弥勒菩薩半跏思惟像」というのがあります。

古代飛鳥時代の仏像で、顔の感情表現を極力抑えながら、口元だけは微笑みの形を伴っているのが特徴で、これは生命感と幸福感を演出するためのものと言われています。

「アルカイック・スマイル(Archaic Smile)」と呼ばれ、古代ギリシア語のarche(古い)から派生した語で、古代ギリシアのアルカイック美術の彫像に見られる表情であることからこう名付けられました。

ギリシアだけではなく、広くエーゲ海周辺でこうした古い彫像が見つかっており、不自然な微笑であるものの、どこかぬくもりを感じます。広隆寺の弥勒菩薩像も同じであり、右手の指先を軽く右頰にふれ、思索するその顔に浮かぶ深い微笑みは、世界中の人々を魅了してやみません。

弥勒は、ゴータマ・ブッダ(仏様)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)であって、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するとされています。

仏様が亡くなってからまだ3000年も経っていませんが、流行り病で失われようとしているあまたの命があるこの現在、できれば時間を早めてこの世に現れ、その微笑みによって多くの人を救って頂きたいものです。

春雷

今年は桜が早く、伊豆ではもう満開になりつつあります。

桜もさることながら、このころの候を表す言葉として、「雷乃発声」というのがあります。

これは「かみなりすなわちこえをはっす」と読み、 遠くで雷の音がして、稲光が初めて光るという意味です。

これとは別に「始雷」という短いのもあって、こちらも稲光が始めて光る季節がやってきたことを示しています。

俳句においても「春雷」は春の季語であり、正岡子規も次の句を詠んでいます。

下町は雨になりけり春の雷(らい)

こうした音と光を伴う雷の放電現象を「雷電」といいます。雷電の「雷(らい)」は雷鳴であり、これに付随して起こる光は稲妻であり、雷電の「電」です。

古来、この雷電の名を付した地名や人名は多々あり、雷電海岸といえば北海道の積丹半島にある海岸です。埼玉県の鴻巣市にも雷電という地名があります。なぜこうした名前が付くのか不思議ですが、昔は雷除けのために「雷電神社」という社があちこちに建てられていたので、そうした名残かもしれません。

江戸時代の力士にも雷電爲右エ門という人がいました。松江藩お抱えの力士で、そのネーミングは出雲が相撲発祥の地とされることから来ています。古事記の国譲り神話に、稲佐浜で力比べをした二人の神様の話があり、これは建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)です。

雷電の四股名は、このタケミカヅチノカミにちなんだ「雷」を使うことを藩から許されたからにほかなりません。それほど強い力士で、生涯の通算勝率.962は驚異的です。大相撲史上未曾有の最強力士とされており、体格は197cm、169kgもあったといわれ、この当時としては破格の巨漢でした。

このほかに、菅原道真を主人公にした能楽にも雷電というのがあります。こちらは、冤罪で大宰府に左遷され死にいたった道真が雷となって内裏に行き、恨みをはらそうと荒れ狂う、というストーリーです。現在、日本各地にある多くの天満宮は、そのほとんどが雷神になった菅原道真を祀っているものです。

乗り物に雷電を冠したものもあり、航空機では、日本海軍が局地戦闘機として運用した「雷電」があります。零戦の後継機として開発されたものですが、初飛行後の不具合解消に手間取り、実用化が遅れたため、戦争中の生産数は少数でした。




磐吉

船舶でも幕末期、江戸幕府が所有していた軍艦に同名のものがあります。明治6年(1873年)に開拓使が購入し、「雷電(丸)」と名を改め、その後明治10年(1877年)、明治海軍の軍艦にもなりました。

この船は明治21年(1888年)に廃艦となりましたが、さらに高知県に無償で払い下げされて捕鯨船となりました。あげくは愛知の汽船会社に買い取られて商船となり、明治30年(1897年)、大阪の木津川造船所で解体されています。

これほど数奇な運命をたどった船も珍しいかもしれません。もともとは、蟠竜丸(ばんりゅうまる)という名前で、イギリスから日本に贈られたものです。幕末の安政5年(1858年)7月、日英修好通商条約に調印するために来日した英国使節により、ヴィクトリア女王の名において将軍に寄贈されました。

バランスのとれた美しいスクリュープロペラ船で、小型の快速遊覧船として建造されましたが、構造が頑丈だったため、幕府はこの船を砲艦として使うべく幕府海軍の艦隊に組み入れました。箱館戦争に投入された当時のイラストが残っています。

箱館戦争における蟠竜丸

とはいえ、本来は王室のレジャーボート(ロイヤル・ヨット)です。内装は目を見張るほど絢爛豪華で、階段・手すりには彫刻が施され、壁一面を埋める鏡も設置されていました。幕府役人が鏡と気づかずぶつかった、といった記録があります。

幕艦として導入されて以降はあちこちで軍務につきました。箱館戦争の際、砲台からの砲撃でこうした美しい内装もかなり破壊され、その後も、十分な手入れができず、戦闘が終わる頃には、内装の塗装や意匠は痛み、美観は大きく損なわれました。

しかし、外観はいたってきれいだったといいます。他の艦船が稚拙な操艦によってしばしば座礁や他船などとの接触で損壊する中、蟠竜丸にはそうした著しい損傷はありませんでした。

このころこの船の艦長だったのが「松岡磐吉」という人で、これはこの人の優れた操船技術のおかげだったと言われています。

箱館戦争に先立つ宮古湾海戦にこの蟠竜丸が参加した際も、激しい暴風雨によって幕府艦隊は離散するなどのトラブルに見舞われました。しかし、このときも松岡艦長の操船は見事で、本船には傷一つなかったといいます。

「艦長松岡磐吉は操船の名手で、ロープ1本損なわれることなく」と、乗っていた同僚の幕臣、林董(ただす・のちに外務大臣)が書き残しています。乗船していた海軍・陸軍合わせて130名あまりの戦闘員も、そのおかげで無事に箱館に帰還できました。

この戦闘は、現在の岩手県宮古市沖の宮古湾で発生したものです。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍が、新政府軍の主力艦である「甲鉄艦」への斬り込みによってこれを奪取する、という作戦を立てました。

作戦の要は、いわゆる接舷攻撃で、蟠竜のほか、回天、高雄の合わせて3隻の幕府軍艦が投入されました。しかし暴風雨によってそれぞれの艦が分離してしまい、これによって勢力をそがれたほか、ガトリング銃などの強力武器を備える敵の新鋭艦、甲鉄の猛反撃に遭ったため、作戦は失敗に終わりました。

3隻の幕府海軍のうち、機関故障を起こしていた高雄は新政府軍の甲鉄と春日によって捕捉され、艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降しています。また回天も、作戦失敗後に箱館まで退却しましたが、暴風雨によって3本のマストが2本になるなどの被害を受けました。

蟠竜だけは無傷でしたが、箱館への帰路、やはり甲鉄からの追撃を受けました。蟠竜の排水量370トン、出力60馬力に対し、甲鉄は1800トン、出力1200馬力というこの当時最大の軍艦であり、機関力の差で逃げ切れないと観念した松岡は観念し、一艦で接舷攻撃を挑もうと戦闘準備をしました。

この時、松岡は顔を洗い、新しいシャツに着替え、「今日は死ぬつもりだからしゃれています」と冗談を言いながら悠々と戦闘準備の命令を出したといいます。肝が据わった人物のようでありながら、ちょっとしたユーモアのセンスもうかがえます。

写真も残っています。幕軍の制服と思われる洋服を着て椅子に座っており、ちょび髭をはやしたその顔は精悍で、なかなかの美男子です。ちょんまげは落としてザンギリになったその頭はセンターで分け、きちっと整髪料でまとめていて律儀な性格が見て取れます。

眼光はするどく、でありながら何か悟ったように見つめているその先にあるのはなんでしょう。わずか30歳で散るまでの、この英才の人生のほとんどは海で過ごしたものでした。

松岡 磐吉(ばんきち)、は、幕臣、松岡正平の三男として天保12年(1841年)に伊豆・韮山に生まれました。

父の松岡正平は、天保3年より韮山代官の江川太郎左衛門(英龍)の筆頭手代を務めており、松岡家は代々この江川家に仕える家臣でした。

この江川太郎左衛門については、その昔、このブログでも詳しくその伝記を書いたことがあります。(韮山代官

太郎左衛門は通称で、号は坦庵(たんあん)といい、地元では「たんなんさん」と呼ばれています。また、死後は諱の英龍で呼ばれることが多くなりました。

洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させたことで知られる人物です。地方の一代官にすぎませんでしたが、この当時、最新の軍事知識を有する西洋兵学者として幕府からも絶大な信頼を得ており、1853年の黒船来航後は、江戸湾一帯の台場築造の責任者として駆り出されています。

その後も、幕府に海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たしました。残念ながら勘定奉行任命を目前に病死したため、他の幕末の偉人ほど有名ではありません。しかし、地元伊豆では立志伝中の人であり、かの福澤諭吉もまた自身の自伝で英龍をとりあげ、「英雄」と高く評価しています。

江川家手代の松岡正平もまたこの英君に忠実に仕えました。磐吉を含めて四人の子を設けましたが、長男は「来吉」といい、その後幕府の歩兵差図役頭取改方に、次男の「弘吉」は軍艦頭となり、初代回天の艦長を務めています。

三男の磐吉も、その後兄と同じ軍艦頭となり、戊辰戦争では蟠龍の艦長を務めるところとなります。ちなみに、軍艦頭というのは、軍艦12隻よりなる1艦隊を指揮する提督として位置付けられた官職で、のちの帝国海軍・中将に相当します。

戊辰戦争で磐吉は、兄の弘吉や榎本武揚と共に北海道へ渡りましたが、兄弟4人のうちこの真ん中の二人だけが、旧幕方として最後まで新政府軍と戦いました。

四男春造もまた、軍艦役見習三等を経て、幕府海軍の士官になっていますが、この当時まだ若かったせいか歴史には登場してきません。この春造と、来吉、弘吉の3人いずれもが養子に行き、三男である磐吉が松岡家の跡取りになりました。これすなわち兄弟の中でも一番秀でている、と父の正平が判断したからでしょう。

兄弘吉は天保5年(1834年)生まれですから、磐吉より7つ年上になります。磐吉が家を継いだため、松岡家と同じく江川家手代の柴家に養子に行きました。柴弘吉と名乗り、のちに柴誠一と改名、さらに貞邦と何度も名を変えています。

一方、江川家の跡取りとして残された磐吉の江川家での役柄は、「鉄砲方」でした。鉄砲御用人、鉄砲御側衆ともいい、鉄砲の研究、整備および修理を行うのが役目です。若年寄配下で、役料は200~300俵程度ですから、それほど高給取りではないものの要職といえます。

韮山代官として国防を担う江川家において鉄砲は重要な武器であり、物騒なこの時代にあって、砲術の教授、鉄砲の製作、保存、修理といった仕事は、なくてはならないものでした。ほかにも猪や狼の打ち払い、火付や盗賊の逮捕といった職務もあり、多忙な日々を送っていたようです。

家長の江川英龍はまた、武芸以外でも優れた才能を持った人物として知られています。学問を儒学の大家として知られる佐藤一斎に学び、書は幕末の三筆といわれた市川米庵に、詩は江戸の四詩家と称せられ大窪詩仏、そして絵は大国士豊や谷文晁に学ぶ、といった具合であり、この当時最高の教育を受けています。

さらに、剣術は、神道無念流の岡田十松から免許皆伝を受け、所属する撃剣館では四天王の一人に数えられています。同じ撃剣館の同門で、後に同じ韮山代官所の手代として雇われることになる斎藤弥九郎は、学問の上でも英龍の弟子であり、彼から蘭学、砲術などを学ぶとともに尊王攘夷思想の薫陶を受けました。

斎藤弥九郎は、その後自らが開いた「練兵館」において、長州藩や水戸藩などの門下生たちに、英龍から手ほどきを受けた尊王攘夷思想を植え付けました。長州藩の桂小五郎はその影響をもっとも受けた一人で、その後師匠の斎藤を飛び越して江川英龍に直接願い出、弟子にしてもらっています。

桂は、江川から小銃術・西洋砲術などを学びましたが、それだけでは飽き足らず、このころ江川が手掛けていた台場築造に興味を持ちました。江川の付き人となって台場築造工事をつぶさに視察しており、これによって砲台築造術を習得しています。

お台場はこの当時一般人が立ち入ることを許されなかった最重要軍事施設であり、これを見たことは、その後の長州藩による江戸攻撃の際の重要情報になったと考えられます。




長崎海軍伝習所

弘吉と磐吉の松岡兄弟はその後、伊豆韮山の代官所を離れ、長崎の海軍伝習所に学ぶことになります。この当時の手附・手代一覧表からその名が忽然と消えており、おそらくはこれも英龍の指図かと思われます。

この二人は、幼いころから英龍の小姓として教育を受け、英龍の小姓をつとめながら、蘭学・砲術を学んできました。時代が大きく変わろうとする時期、英龍は、この才気あふれる兄弟をそれほど買っていたということでしょう。

ちなみに江川は1801年生まれ、磐吉は1841年生まれですから、40ほども齢が離れています。兄の弘吉とでも33歳離れており、二人にすれば雲の上の存在、といったところだったでしょう。

その江川の命令により、二人は安政3年(1856年)、長崎の海軍伝習所に派遣され海軍術を学ぶことになりました。兄弘吉22歳、磐吉15歳のときのことです。

長崎海軍伝習所とは、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関です。幕臣や雄藩藩士から選抜し、オランダ軍人を教師に航海術を学ばせました。

軍艦の操縦だけでなく、造船や医学、語学(蘭学)などの教育も行われており、日本人が初めてこうした幅広い学問を学んだという意味においては現在の大学にも通じるものがあります。

中でも、ポンペ・ファン・メーデルフォールトによる医学伝習は、物理学・化学を基礎として講義を進める本格的なものであり、日本の近代医学の始まりであった、と評価されています。

このように伝習所で幅広い分野の西洋科学を学び、卒業した生徒たちの多くはその後幕府海軍や各藩の海軍、明治維新後の日本海軍でも活躍しました。明治新政府の中枢を担うものも多く、海軍伝習所はその後の日本を形成する上での重要な教育施設であったことは間違いありません。

船乗りの養成にあたっては、当初、練習艦としてオランダから寄贈された「観光丸」が使われました。オランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定へ贈呈され、日本の最初の蒸気船となったもので、木造外輪の3檣スクーナーです。

観光とは、中国の古文にある「観国之光(国の光を観る)」からとったものであり、現在の我々が普段よく使う「観光」は、こここら来ています。

この時、日本側はその返礼として、狩野雅信や狩野永悳といった当代一流の御用絵師たちが描いた金屏風10双をオランダ政府に贈っており、その大半が今もライデン国立民族学博物館に残っていいます。

伝習所ではさらに、「咸臨丸」「朝陽丸」も供用されました。こちらはオランダに建造を依頼した新型艦であり、このうち観光丸に次ぐ2番館と位置付けられた咸臨丸は洋式のスクリューを装備する軍艦としては初のものでした。のちに初めて日本人の手によって太平洋を渡った船として歴史にその名を刻むことになります。

さらに、イギリスからも練習船が購入されました。元商用線だった帆船「鵬翔丸」がそれで、このほか「長崎形」と呼ばれる小型帆船も、日本人の手で建造されました。造船実習を兼ねて建造されたもので、完成艦は航海練習船として使われました。とはいえ有事の際には武装して軍艦として使用できるよう大砲の設置場所が用意されるなど本格的なものでした。

この伝習所における当面の目標は、最新型である咸臨丸と朝陽丸を練習船として世界に通用する日本人船員を養成することでした。このため、安政2年(1855年)に第1期生として、幕臣を中心とした伝習生37名が入校しました。この中には総監の永井尚志や勝海舟が含まれています。

翌安政3年(1856年)にも、第2期生として12名が入所しましたが、松岡兄弟はこのとき伝習所入りしました。さらに第3期生が企画され、近代的な海軍兵学校においては若年の段階から士官養成をすべきとの方針から、若手26名が入校しました。この中にはのちの海軍中将、赤松則良などが含まれています。

弘吉・磐吉兄弟が入所した第2期生の総監は「幕末の四舟」の1人に名を連ねることもある、幕臣・木村喜毅(木村芥舟)でした。教授はオランダの海軍軍人、カッテンディーケです。のちにオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任することになるこの人物は、実習生たちに精力的に航海術・砲術・測量術などを教えました。

この2期生はほとんどが幕臣で、歴史に名の残るほどの人物としては、伊沢謹吾(頭取)、榎本武揚、肥田浜五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、岡田井は蔵、勝海舟などがいます。このうち勝海舟だけが第1期から継続して学ぶ伝習生でした。

伊沢謹吾と榎本武揚はともに江戸の出身で、この2期では井沢が頭取を勤め、榎本がこれを補佐するなどの中心的な役割を担いました。二人は親友だったと言われています。肥田浜五郎は磐吉と同じく韮山代官所で江川英龍の教えを受けて育った人物で、伊東玄朴に蘭学を学び、ここでは主に機関学を修めました。

伴鉄太郎は江戸生まれの下級武士の子で、御徒を務める伴家の養子に入り、かつては箱館奉行支配調役並に任ぜられたことのある人物です。この期では33歳で最年長だった勝海舟の二つ下の31歳であり、このころわずか15歳だった磐吉や19歳だった岡田井蔵よりも一回り以上年長でした。

伴はのちに小笠原開拓で磐吉と行動をともに従事しており、維新後の最終的な役職は水路局長副官です。岡田井蔵のほうは、横須賀造船所製図掛機械部主任、機械課工場長を務めました。

このほか佐賀藩主・鍋島直正の推薦で、20歳で入所した中牟田倉之助と通訳の中村六三郎がいます。中牟田はその後日清戦争などを経て海軍中将となり、中村は三菱商船学校(後の東京商船学校)初代校長になるなど、日本の海事史にその名を残しました。

磐吉は、こうした維新後にもその名を遺すエリートたちに囲まれ、この伝習所で一年ほど学びました。短い期間ではあったものの、弱冠15歳で最年少、若い彼がこの間に吸収した知識量は膨大なものであり、また身につけた技量は図抜けていました。

その後、1857年(安政4年)に江戸築地にあった講武所のなかに「軍艦教授所」ができると、磐吉を含む多くの伝習生がそちらに移動しました。総監の永井尚志をはじめとする多数の幕府伝習生もまた築地に教員として移動し、そのため長崎海軍伝習生は45名程に減りました。

のちに「軍艦操練所」と改称したこの施設が設けられたのは、江戸から遠い長崎で伝習所を維持する財政負担があまりにも大きかったためといわれています。その後、幕府の海軍士官養成は、この築地の軍艦操練所に一本化されることになりました。

安政6年(1859年)には、長崎海軍伝習所は完全に閉鎖されるところとなり、オランダ人教官は本国へと引き上げますが、ここではオランダ軍事顧問団が教官を務めたのに対し、軍艦操練所では基本的に日本人教官による教育が行われました。

操練所の教授陣は長崎海軍伝習所の卒業生が中心で、小野友五郎や荒井郁之助、肥田浜五郎、佐々倉桐太郎、勝海舟などがこれを勤めました。ジョン万次郎も、ここの教授を務めた時期があります。土佐出身の漁師で、漂流してアメリカに渡り、高い教育を受けて帰国したこの人物は幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

これらの教官の多くは、のちに政府や軍の重要機関に努め、その後の時代の担い手になった人物ばかりです。例えば小野友五郎は文部省で洋式数学の普及に努めるなど日本の教育レベルの向上に貢献しました。また荒井郁之助は初代中央気象台長、肥田浜五郎は海軍艦艇の機関総監、佐々倉桐太郎は兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めました。

勝海舟もまた、維新の立役者としてその後外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任しました。しかし、明治政府への仕官に気が進まず、これらの役職は辞退したり、短期間務めただけで辞職するといった具合で、52歳で元老院議官を最後に中央政府へ出仕していません。

晩年は、政府から資金援助を受けて歴史書などを書いていましたが、明治後、歴史の面に出ることはなく77歳でその生涯を終えました。

長崎から築地へと移った磐吉もまたわずか16歳でここの教授方を務めようになりました。後年、小笠原諸島の測量任務などに就いているところを見ると、操船のほかに測量学などを中心に教えていたのではないかと思われます

軍艦操練所はさらに軍艦所と改称され、1866年(慶応2年)には教育だけでなく幕府海軍の行政機関としての機能も追加されて、最終的に「海軍所」という名称になりました。

佐賀藩も1858年(安政5年)に、「海軍所」を設立しています。現佐賀市川副町に設けられたこの施設は、長崎伝習所と同様に西洋船運用のための教育・訓練機関でしたが、蒸気船等の船の修理・造船施設もありました。築地の海軍所も教育機関でしたが、佐賀海軍所を真似て、船舶の修理・造船機能を持たせようという意図があったと思われます。

この築地の海軍所は、1864年(元治元年)に付近で発生した火災が延焼して施設の大半を失っています。その3年後の1867年(慶応3年)にも再度の火災に遭って焼失しており、築地から最終的には徳川将軍家の別邸、浜御殿へと移転しました。

これは現在の浜離宮恩賜庭園であり、浜松町近くにあるこの公園は、明治以後皇室の離宮であったものが戦後下賜され、都立公園として開放されたものです。ここにあった海軍所はその後さらに呉市の呉鎮守府に近接した江田島町(現在の江田島市)に移転し1888年(明治21年)、海軍兵学校と名を変えて、第二次世界大戦終戦まで存続しました。

ちなみに佐賀藩の海軍所の正式名称は、三重津海軍所といい、実用的な国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造したことで知られ、その遺構は2013年に国の史跡に指定を受け、2015年には「明治日本の産業革命遺産 」として世界文化遺産に登録されています。



練兵館

この築地操練所時代、磐吉は忙しい合間を縫って、斎藤弥九郎が創立した練兵館で剣術を学んでいたと思われます。

この練兵館設立の資金援助をした人物こそが、主君の江川英龍です。このころ、練兵館の道場主・斎藤弥九郎は、江川から軍事防衛の最新知識も吸収するようになっており、剣術師範以外にも教育者として門弟の前に立つようになっていました。

この斎藤弥九郎は、越中国射水郡仏生寺村(現・富山県氷見市仏生寺)の農民、組合頭・斎藤新助の長男として生まれました。

12歳のとき、越中の高岡に奉公に出され、油屋や薬屋の丁稚となりましたが、店主と反りが合わなかったのか、ここを辞めて帰郷。それならと、江戸へ出ることにし、文化12年(1812年)、親から一分銀を渡されて村を出ました。

一部銀は現在価値にすると2~3万円といったところであり、これでは江戸へ着く前にすっからかんになってしまいます。このため、途中、旅人の荷担ぎなどをして駄賃を稼ぎ、野宿をしながら、なんとか江戸にたどり着いています。

江戸では、郷里の者の世話で、四千五百石取りの旗本、能勢祐之丞の小者となって住み込みで働き始めますが、昼間の仕事でへとへとになる中、夜は書物を読んでその後に備えたといいます。これに感心した主人の能勢が、学資を出して勉強をさせてくれるようになりました。

儒学を古賀精里に、兵学を平山行蔵に、文学を赤井厳三に、砲術を高島秋帆に、馬術を品川吾作にと言った具合で、さらに剣術では神道無念流・撃剣館主の岡田吉利に師事しました。

岡田吉利は、武蔵国埼玉郡砂山村の元農民でしたが、15歳で地元の剣客、松村源六郎に師事して頭角を現し、その後剣を極めることになる人物です。

その後江戸に移り、麹町の兵法家で神道無念流の剣客、戸賀崎暉芳に入門すると、22歳で印可され、さらに武者修行で剣名を上げました。30歳で師の道場を継ぎますが、門弟が増えすぎ、神田に移って開いたのが撃剣館でした。

斎藤は、この撃剣館で修業を重ね、20代で師範代に昇進し、岡田の死後は、その子の岡田利貞を後見しました。29歳で独立して江戸九段坂下俎橋近くに神道無念流・練兵館を創立。鏡新明智流の士学館、北辰一刀流の玄武館と並び、後には幕末江戸三大道場と呼ばれるようになりました。

練兵館は、のちに現在の靖国神社境内にあたる九段坂上に移転しましたが、幕末期にはさらに同神社敷地の南西部に移っており、ここに百畳敷きの道場と三十畳敷きの寄宿所を設けました。黒船来航以来の尚武の気風もあって、隆盛を誇りましたが、その人気のひとつは剣術の稽古によって心身を鍛えるだけでなく、これに練兵(軍事訓練)を加えたことでした。

ペリーの来航以来、こうした実践的な軍事知識の吸収を多くの江戸在住の武士が望んでいました。また練兵館では、武術や軍学だけでなく儒学などの国学も教えており、これはその分野での造詣が深い斎藤自らが教えました。

師匠である江川もまた、公務の間を縫って彼らに教鞭を振るうこともあったようで、その中で幕府の危機を弟子たちに伝え続け、彼らもまたその貴重な情報を素直に受け止め続けました。その結果、門下から数多くの明治維新の志士を輩出しました。

このころの斎藤と江川の関係は、江川が練兵館のスポンサー役を果たしつつ、斎藤を自分の公務の用人格として形式的に召し抱えるというものでした。このため、江川が伊豆国韮山の代官となると、斎藤はその江戸詰書役として仕えたり、品川沖に台場の築造が計画されると、江川の手代としてその実地測量や現場監督を行う、といったふうにその期待に応えました。

江川英龍は、長崎海軍伝習所が開設された安政2年(1855年)の正月に54歳で亡くなっていますが、斎藤は、その後継で英龍の三男の江川英敏からも同様の助力を要請されており、引き続きそうした役割を担っています。

討幕運動が激しくなる中、斎藤は彰義隊から首領になってくれるよう頼まれるなど、何かと時世の前面に押し出されようとしていましたが、その度にこれを拒絶しています。維新後は政府に出仕し会計官権判事や造幣寮(のちの造幣局)の権允(中等職員)などを勤めましたが、動乱の空気まだ冷めやらぬ中、明治4年(1871年)に74歳で亡くなっています。

斎藤の死後、東京招魂社(現靖国神社)創建により練兵館は立ち退かざるを得なくなり、新宿の牛込見附内に移転しましたが、文明開化の影響で剣術は廃れ、のちに閉館したようです。現在栃木県の小山市にその志を継ぐ同名の剣道場がありますが、神道無念流ではなく現代剣道を稽古しています。

主君である江川とその影響下にある斎藤が主導するこの練兵館で剣や学問を習い始めた磐吉ですが、ここでもその才能を発揮して多くを吸収し、剣術では見事に神道無念流皆伝を得ています。

神道無念流の特徴は、「力の剣法」と言われ、竹刀稽古では「略打(軽く打つこと)」を許さず、したたかに「真を打つ」渾身の一撃を一本とした点にありました。そのため、他流派よりも防具を牛革などで頑丈にしていたといいます。

幕末の江戸三大道場は道場主の名から「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されており、他流派と比べて、「力」を重んじる剣であったことがうかがえます。昭和初期に行われた天覧試合の記録映像が残っており、優勝した同流派の選手たちが、竹刀を頭上に大きく振り上げて力強い打突を繰り出していることが確認できます。

上述のとおり、練兵間では剣以外の教育にも熱心であり、塾生が遵守すべき日課を定めた「塾中懸令」には、毎朝、五つ時(午前8時ごろ)まで素読を行うことが定められていました。午後の出稽古の無い時は手習、学問、兵学、砲術をも心掛け、怠惰に日常を過ごさないよう訓辞されていました。

塾頭を務めた渡辺昇(のちの元老院議員・子爵、会計検査院長)もまた、後年、剣術のみならず空いた時間に学問も修めたことなどを述懐しており、土木工事や時事など「武術の外に教へられた処が多かつた」と語っています。



咸臨丸

磐吉もまた練兵館で剣を学びつつ、そうした一般教養を学び、片や軍艦操練所では操船や造船技術に関する知識を深めていきました。この間、とくに海洋測量の技術研鑽に励んだようで、操練所を卒業したのちの安政6年(1859年)には日本初の沿海測量を実施して海図を作成しています。

その翌年の1860年(安政7年(改元され万延元年))には、咸臨丸の測量方士官として渡米を果たしました。「万延元年遣米使節派遣」と呼ばれるこの外遊は、1854年の開国以来、初の外国公式訪問であり、勝海舟ほかの軍艦操練所教授方・教授方手伝らが幹部として参加しました。

咸臨丸にはまた、前年の台風のため横浜沖で座礁、破棄された測量船、フェニモア・クーパー号の艦長で、海軍大尉ジョン・ブルックが事実上の船長として乗船していました。派遣に抜擢されたメンバーのほとんどが外洋での操船経験がなかったためです。おそらく磐吉は、この航海で、彼から操船技術だけでなく測量についても多くを学んだと考えられます。

この咸臨丸でサンフランシスコに到着した遣米使節派遣団の一行は、その後ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークを訪問し、北大西洋を横断してヨーロッパへ渡り、さらにアフリカ喜望峰を回って英領領香港を経由、年内中に日本に帰ってきました。

一方、咸臨丸は序盤のサンフランシスコまでの船旅を担っただけで帰国しましたが、往復83日間・合計10,775海里 (19,955 km)の大航海を成功させたことは高く評価されました。しかし往路の操船はほとんどがアメリカ人乗員によるものであったという点が過小評価され、航海・運用の技量不足などの問題点が見過ごされる結果となりました。

それでも、磐吉をはじめとして長崎海軍伝習所時代からのベテランにとって、この外洋航海を経験したことは大きな自信になったことは間違いありません。

帰国後の1862年(文久元年)、幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じ、アメリカから帰還したばかりのこの咸臨丸のメンバーの一部を率いて小笠原に赴き、測量を行うことを命じています。無論、その中には22歳になっていた磐吉も含まれていました。

この派遣は、ジョン万次郎が小笠原諸島の領有・捕鯨基地化を幕府に提案したことから実現したもので、表向きは測量ではあるものの、このころ列強により所有されかかっていた小笠原諸島を彼らから奪還することが目的でした。

このときの艦長は小野友五郎で、磐吉よりふた回り上の46歳。笠間藩(現・茨城県笠間市)出身で、江戸幕府天文方出仕となり、勤務の傍ら、磐吉の主君である江川英龍から砲術や軍学・オランダ語を学びました。

海軍伝習所には1期生で入所しており、咸臨丸でも同船していましたから当然、磐吉とも親しい間柄でした。同じく咸臨丸で渡米したジョン・ブルック大尉は小野の測量術の練達ぶりに感心したといいます。小野は維新後数学者となり、財務官僚としても活躍しています。

これに先立つ36年前の1827年(文政10年)6月、 イギリス軍艦ブロッサム号が父島に来航。このとき艦長のフレデリック・ウィリアム・ビーチーは新島発見と思い違いし、父島をピール島(Peel island)、二見湾をポートロイド(Port Lloyd)、母島をベイリー島(Bailey island)と命名し、領有宣言を行いました。

ただし、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されず、このためその後しばらくの間、イギリスが積極的にここへ進出してくることはありませんでした。

その後26年を経た1853年(嘉永6年)には、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが日本へ行く途中、琉球を経て父島二見港に寄港し、石炭補給所用の敷地を購入しました。

このとき、ペリーは3条13項から成る「ピール島植民地規約」を勝手に制定し、自治政府設置を促した結果、ピール島植民政府が設立され、マサチューセッツ州ブラッドフォード生まれのナサニエル・セイヴァリーを首長に指名しました。

また、その4年後の1857年(安政4年)には、英国籍のジェームス・モットレーという人物の一家が母島(沖村)に居住を始めました。

このように、小笠原諸島の領有に諸外国が動き出したことに危機感を覚えた幕府は、水野忠徳らに小笠原に赴き、測量を行うことを命じたわけです。

小笠原諸島へは東京から直線で500kmほどもあります。咸臨丸の速力は最大で6ノット(約11km/h)ほどでしたから、帆走も併用したとしても、辿りつくまでにはおそらくは1ヵ月ほどはかかったでしょう。

航海の苦労はありましたが、こうして小野艦長以下による小笠原諸島の測量が行われるところとなりました。そしてこの測量はその後同諸島の日本領有の大きな手がかりとなります。

その後、幕府は小笠原諸島に居住する住民に対し、ここは日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ、同意を得ました。咸臨丸による小笠原訪問の翌年の1863年(文久2年)には、駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告し、さらに同年9月には、八丈島から38名の入植が開始されました。

この小笠原派遣で、磐吉は塚本恒輔とともに母島の測量地図作成を担当しています。塚本は長崎伝習所時代の同僚で、身分が低いため当初第1期生の矢田堀景蔵の内侍若党として員外聴講生として受講し、その後実力を認められ伝習生に抜擢された人物です。維新後は初代中央気象台長の荒井郁之助を補助し日本の気象観測をリードするようになりました。

ちなみに、塚本が仕えたこの荒井郁之助は、軍艦操練所で教授方を勤めた幕臣で、のちに榎本らが箱館に立国する蝦夷共和国では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦では総司令官として奮闘することになる人物です。維新後は許されて、札幌農学校の前身の開拓使仮学校校長を勤め、上述のとおり中央気象台の初代台長にもなりました。

もしその後も生きていれば、磐吉もまたこの荒井や塚本のように新しい時代を担う人物となっていたことでしょう。明治海軍を担う重要官僚としての道を歩み続けていたに違いありません。しかし、時代の変化はそれを許さず、過酷な運命へと彼を導いていきます。





戊辰戦争

ちょうどこのころ、同じ長崎海軍伝習所で共に学び、その後命運をともにすることになる榎本武揚は、ヨーロッパに渡り、デンマークやフランス、イギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察しています。

榎本は、伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規の次男として生まれました。近所に住んでいた田辺石庵という儒学者に学んだのち、15歳で昌平坂学問所に入学。2年後に修了しましたが、修了時の成績は最低の「丙」であったといいます。

18歳のとき、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現・函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行。翌年昌平坂学問所に再入学しますが、すぐにまた退学しています。ぶらぶらしているころに長崎海軍伝習所が開設されることを聞き込み、聴講生となった後、磐吉らとともに第2期生として入学しました。

22歳で海軍伝習所を修了し、築地の軍艦操練所では磐吉とともに教授となりますが、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学んでいます。25歳のとき、幕命でアメリカに留学を命じられましたが、南北戦争の拡大によりアメリカ側から断わられたため、留学先もオランダへ変更となりました。

幕府はこの年(1862年(文久2年))にオランダに蒸気軍艦1隻を発注しており、榎本の任務は、それが完成するまでの間、その建造過程を記録するとともに、ヨーロッパの情勢を視察する、というものでした。

1866年(慶応2年)にその船、開陽丸が竣工したため、榎本はこの船に乗り、オランダ・フリシンゲン港を出港して、1867年(慶応3年)3月、横浜港に帰着しました。

5月に幕府に召し出され、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられると、7月には軍艦頭並となり、布衣(ほい・幕府叙位者に許される礼服)の着用を許されました。9月、さらに軍艦頭となり、和泉守を名乗ります。

この2年前の1864年(元治元年)には幕府による第一次長州征討が実施に移されており、2年後の1866年(慶応2年)には第二次長州征討が行われました。この二次征伐では結果的に幕府軍は大敗を喫し、その後の時代の流れは反幕に大きく傾いていきます。

小笠原に磐吉と共に派遣された小野友五郎はこのころ、この長州征伐に係る幕府陸軍動員にあたり、動員・補給計画に携わっていました。磐吉もまた、幕府幹部としてそうした役割の一部を担っていたと思われます。

第二次長州征伐において幕府は、周防国大島(現・山口県大島郡)から海路長州藩内に侵攻しており、おそらくその攻防戦にも磐吉は関わっていたのではないでしょうか。小笠原派遣から3年を経て25歳という血気盛んな年齢になっており、打倒長州に燃えていたに違いありません。

しかし、そうした気分を覆すかのように、同年7月20日には大坂城において将軍・家茂が弱冠21歳の若さで客死します。その5か月後の12月5日には、一橋慶喜が将軍職に就任しますが、この優柔不断な将軍の登場によってさらに時代は混とんとしていきます。

翌年(1867年)の10月、その慶喜が決断した大政奉還の実現によって、旧幕府と反体制派の対立はいったん治まるかと思われましたが、薩摩藩らは政変を起こし、朝廷を制圧して慶喜を排除した上で新政府樹立を宣言しました。

のちに王政復古と呼ばれるこのクーデター以後、旧幕府と新政府の対立はいよいよ深まっていきました。慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至ります。

1868年1月26日(慶応4年1月2日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、これをもって事実上、戊辰戦争が開始されました。

旧幕府勢力と、薩摩・長州などの新政府勢力が戦ったこの戦争は、やがて江戸に伝播し、北陸・東北を経て最終的には箱館(函館)で終焉を迎えることになります。

この兵庫沖での幕艦の砲撃に対して、薩摩藩は幕府に猛烈に抗議しました。このとき榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、薩摩藩と幕府は既に戦争状態にあり、あたりまえのことだと突っぱね、2日後の1月4日には、更に兵庫港から出港していた薩摩藩の春日丸ほかを追撃しました。

阿波沖海戦と後年呼ばれるこの戦いは、日本史上初の蒸気機関を装備した近代軍艦による海戦でした。開陽丸は薩摩藩軍艦・春日丸、同藩運送船・翔凰丸を追走し、敵艦に計25発の砲撃を加え、応戦した春日丸は計18発の砲撃を開陽丸に向けて放ちました。しかしどちらも大きな損害には至らず、またこの海戦による死傷者は双方皆無でした。

一方、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は大敗北を喫します。これを受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに1月7日に大坂城へ入城しました。しかし徳川慶喜は既に前日の夜に大坂城を脱出しており、7日早暁、榎本不在のまま開陽丸に座乗して8日夜までには江戸へ引き揚げてしまっていました。

榎本はやむなく大坂城に残された銃器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両を勘定奉行並・小野友五郎とともに順動丸と翔鶴丸に積み込みました。さらに自分自身は新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに富士山丸に乗り、大阪湾を出発して江戸に到着しました。

このとき、榎本は大阪から逃げ帰った慶喜の弱腰に腹をたてていました。慶喜はその榎本に登城を命じ、そこで彼を海軍副総裁に任じることを告げます。思いもかけない抜擢でしたが、このとき榎本はその大役に謝する間もなく、慶喜に対して徹底抗戦を主張しました。

しかし、恭順姿勢の慶喜はこれを採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従ったため、榎本も新政府軍との不戦をしぶしぶ了承。旧幕府艦隊を温存することを承諾しました。

後年、「江戸っ子の代表的人物」と評されたように、榎本は執着心に乏しく、正直で義理堅い人間であったといわれています。このときも、主君の慶喜に真顔で戦はやめてくれ、大事な船を守ってくれと頼まれて嫌とは言えなかったに違いありません。

慶喜に対しては、死ぬまで終始一貫礼を尽くしたことが知られています。維新後、徳川慶喜が公爵となったとき、旧幕臣が集まり祝宴を開きましたが、その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ろうということになりました。このとき、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないと固辞したといいます。





蝦夷へ

こうして、榎本はおとなしくなったかに見えました。しかしその3か月後、新政府軍は江戸開城に伴い降伏条件の一つとして、旧幕府艦隊の引渡を要求してきました。これに対して恭順派として旧幕府の全権を委任されていた陸軍総裁の勝海舟は、これを了承します。

この決定に榎本は再び猛烈に反発します。艦隊を預かれといったり、今度は手放せといったり一貫性のないこの幕府の対応に怒りを周囲にぶちまけ、ついには悪天候を口実に、艦隊8隻で品川沖から安房国館山に脱走してしまいました。

このとき、恭順派である総裁の矢田堀には榎本からお声はかからず、置いてけぼりをくらいました。矢田堀はこれを機会にその後ほとんど歴史の表舞台に出ることはなく、維新後も工部省、左院などを転々としました。海軍に関係する職にも就きましたが、軽いものばかりで不遇の思いを募らせ、晩年は酒と碁でその鬱屈を紛らしていたと伝わっています。

こうして榎本をリーダーとして館山に向かった旧幕府艦隊でしたが、その後勝海舟の説得により4月17日にいったん品川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)を新政府軍に引渡しました。しかし、このとき開陽等の主力艦を引き渡すことはなく、旧幕府艦隊の主力艦温存に成功しました。

その後も榎本は、新政府に恭順しようとしていた館山藩の陣屋を海上から砲撃したほか、脱走兵を東北地方へ船で輸送するなど旧幕府側勢力を支援しました。また奥羽越列藩同盟の密使と会うとともに、列藩同盟の参謀を務めていた板倉勝静・小笠原長行と連絡を取り合うなど反新政府勢力の結束に努めました。

明治元年(1868年)8月20日、榎本武揚らはついに品川を脱出し、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる艦隊を率いて蝦夷をめざし北上、奥羽越列藩同盟の支援に向かいましたが、この時、27歳の磐吉が艦長として任されたのが蟠竜丸でした。

この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が乗船していました。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託しています。

ところがその海路、房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、主力艦のひとつだった咸臨丸は下田港に漂着してしまいます。このとき、磐吉が操船する蟠竜がこれを曳航して清水へ入港しますが、その修理に時間がかかると目されたため、蟠竜丸だけが先に出航しました。

残された咸臨丸は、そのすぐあと追いついてきた新政府軍艦隊の襲撃を受け、この戦いで乗組員の多くは戦死または捕虜となりました。船はその後新政府の用船となり、維新後の明治4年9月、北海道への移民を載せて小樽へ向け出航しますが、その途中、木古内町泉沢沖で暴風雨に遭難し、破船、沈没しました。

房総沖ではまた、美賀保丸もマスト2本も折れて航行不能状態となり、銚子の犬吠埼近く黒生海岸へと漂着し、座礁の末に沈没しました。周辺漁民の救助を受けたものの乗船者13人が水死。生存者のうち約150人ほどが上総の山間を経て江戸へ向かいましたが、新政府方の追撃を受けて大部分は投降、その一部が処刑されました。

こうして、2隻の艦船を失った榎本艦隊ですが、その後磐吉の操船する蟠竜丸も追いつき、バラバラながらも8月下旬頃までには順次仙台に到着しました。9月に入り、榎本は仙台城で伊達慶邦に謁見。翌日以降、仙台藩の軍議に参加しますが、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日には仙台藩も降伏を決定しました。

これを知った榎本は登城し、仙台藩の執政・大條孫三郎と遠藤文七郎に面会し、翻意させようとしますが果たせず、やもなく再び出港準備を始めました。このとき、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸を艦隊に加えており、この新編成の艦隊に仙台藩を脱藩した兵など約3,000名を収容し、次の補給地、石巻へと向かいました。

この石巻への移動中、榎本艦隊は、さらに千秋丸という船を気仙沼で拿捕しました。この船は幕府が仙台藩に貸与していたものでしたが、無頼の徒に奪われ海賊行為を行っており、これを追い詰めて奪還したものです。艦齢20年ほどのボロ船でしたが、新政府との戦いが予想される中、一隻でも戦力が増すことは歓迎すべきことでした。

その後、一行は宮古湾で補給の後、さらに蝦夷地を目指します。そして10月20日には箱館の北、内浦湾に到着。湾に面する鷲ノ木(現在の森町)に上陸しました。その後二手に分かれて箱館へと進撃、各地で新政府軍を撃破して五稜郭を占領、11月1日には郭内に入城しました。

一行はさらに各地で松前藩の駐屯地を攻撃しますが、旗艦・開陽丸を江差攻略に投入した際、座礁により喪失してしまいます。タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁したもので、江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことが災いしました。

回天丸と神速丸がその救助に向かいましたが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消しました。その後何度か試みられましたが、ついに本体が浮上することはなく、永遠に海底に沈んだままとなりました。

こうした不運によって旗艦を失った榎本ですが、12月15日には蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により総裁となりました。

この間、榎本はイギリスとフランスに新政府との仲介を頼み、新政府宛に旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓したいという内容の嘆願書を出しています。しかし、新政府はその受理を拒絶しました。

このころ、それまでは局外中立を宣言していたアメリカが新政府支持を表明。これによって、幕府が買い付けたていたものの、引渡未了だった装甲艦・甲鉄の新政府への引き渡しが実現します。これは、戊辰戦争の勃発に伴い譲渡が中断していたものです、

翌1869年(明治2年)1月に新政府に引き渡されたこの船の「甲鉄」という呼称は、命名以前の無名艦であった頃の通称です。その後明治海軍の正式軍艦となってからは「東艦(あずまかん)」と呼ばれるようになりました。

本艦はアメリカ南部連合の注文により、同盟国だったフランスで建造されたものでした。しかし、その納入をアメリカ北部合衆国が妨害したため、納入先が宙に浮きました。あちこちの国に転売されたあげく、南北戦争が終結したため、再びアメリカが買い戻していました。

それを旧幕府が購入しようとしていたわけですが、奥羽越列藩同盟が崩壊し、明治政府が新たなる政府であることをアメリカが認めたため、新政府が購入することになりました。

まだまだ財政が厳しかった明治政府は躊躇したようですが、榎本らの脱走艦隊がまだ健在である以上、その脅威の排除のためには不可欠と判断し、購入に踏み切ったものです。

この艦は、甲鉄の名のとおり、全面を鋼鉄製の装甲で覆われており、南北戦争中に使用したあらゆる種類の艦砲に対して貫通されない防御力が要求された結果、それをすべてクリアーして完成したものです。複雑な曲線の船体に装甲板を満遍なく貼り付つけたこの船をみると、フランスという国のこの当時の建艦技術の高さが窺えます。

これだけの装甲を施しながら、最高速力は10.8ノットと、沈没した旧幕府軍の旗艦、開陽丸の10.0ノットを上回っています。もっとも最新のイージス艦の最大速力は30ノット以上といわれますから、それに比べればはるかに遅いといえますが、この当時は世界最高の機関能力を持っていました。

しかも本艦は、艦首に口径27.9cmものアームストロング砲が取り付けられており、また船体中央部には口径12.7cmのライフル砲2基を据えるなど、軍備でも世界的な水準のものを備えていました。

甲鉄艦(東艦)

こうしたモンスターのような艦船とまともに戦って勝てるわけはありません。このため、旧幕府軍はこの状況を打破すべく、宮古湾に停泊中のこの甲鉄を奇襲し、移乗攻撃で奪取する作戦を立てました。

これは、斬り込みのための陸兵を乗せた回天、蟠竜、高雄の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入するというものでした。攻撃開始と同時に日章旗に改めて甲鉄に接舷、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠する、という作戦で、いわば騙し討ちです。しかし、奇計を用いることは正当である、とこの当時の万国公法でも認められていました。

敵艦に乗り込みこれを奪い取るという近代以降では世界でも数少ない戦闘事例です。宮古港海戦とも呼ばれるこの作戦は、1868年(明治元年)3月21日の未明の回天・蟠竜・高雄の出港から始まりました。

その結果は、冒頭で記述した通りであり、高雄と春日は失われ、回天だけが箱館へ逃げ帰るというさんざんなものとなりました。この戦いでは、回天艦長の甲賀源吾が戦死し、総司令官として乗船していた荒井郁之助が自ら舵を握って、追ってくる新政府軍艦隊を振り切りました。

作戦は失敗に終わりましたが、このとき砲術士官として春日に乗船していた東郷平八郎は、「意外こそ起死回生の秘訣である」として、この回天による奇襲を評価し、そのことを後年まで忘れず、日本海海戦での采配にも生かしたと言われています。

箱館戦争

こうして旧幕府軍艦隊が徐々にその戦力を失う中、新政府軍は、着々と箱館政権が設立した蝦夷共和国に忍び寄ってきました。やがて青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて4月9日、江差の北、乙部に上陸します。

このとき新政府軍は、甲鉄艦を旗艦として、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸の6隻の軍艦を擁し、艦砲射撃で陸上の旧幕府軍要塞を破壊しつつ、陸上部隊の上陸を支援しました。

これに対して、箱館政権の艦隊は、失われた開陽の代わりに回天丸を旗艦とし、これに蟠竜丸、千代田形丸を加えた3隻の編成でこれに対するしかありませんでした。それまでの松前藩との交戦や新政府艦隊との海戦で多くの艦船を失っていたからです。

しかも4月30日には、千代田形丸が新政府側に拿捕され、箱館政権の軍艦は回天丸と蟠竜丸だけとなりました。両艦とも数多くの命中弾を受けながらよく戦いましたが、5月7日に回天丸の機関部が損傷。弁天台場付近で意図的に座礁させ、海上砲台として利用されるようになりました。

一方、陸では5月11日に箱館総攻撃が行われ、その結果、脱走軍の最大の砦であった松前の弁天岬台場がほとんど壊滅状態となり、その救援に向かった土方歳三が銃弾に撃たれて戦死しました。

この箱館総攻撃では海上戦も行なわれ、磐吉が操船する蟠竜丸が最後の一艦として早朝から縦横に運転して敵方を射撃しました。磐吉は双眼鏡を手に着弾を確認しては砲撃を指示し、圧倒的な兵力差にもかかわらず、新政府軍艦・朝陽丸の火薬庫に着弾させて轟沈させました。これは日本史史上初の軍艦の轟沈記録といわれています。

このとき、朝陽丸の艦長をしていたのが、かつて長崎海軍伝習所で磐吉と同期生だった佐賀藩の中牟田倉之助でした。朝陽丸は、先の松前攻撃でも陸上攻撃のために170発の砲弾を放って松前城の櫓に命中させ、さらにこの箱館総攻撃でも回天の40斤砲に砲弾を命中させるなど、連日活躍を見せていました。

しかし、磐吉の操る蟠竜丸の最後の奮闘によりその最後を迎えることとなります。蟠竜丸の放つたった一発の砲弾が火薬庫に当たって大爆発を起こし、同船は轟沈しました。

中牟田は重傷を負いながらも一命を取り留めましたが、副長夏秋又之助はじめ乗組員の80名が戦死して海中に投げ出され、救助された乗組員のうち、さらに6名が死亡しました。

のちにこの時の勲功によって中牟田は海軍中佐に任じられ、さらに海軍大佐となったあと、海軍兵学寮校長となり、草創時の明治海軍兵学校教育にあたりました。この時期の生徒が、のちの海軍大臣で総理大臣も務めた山本権兵衛です。ほかに海軍大将となった上村彦之丞などを輩出しました。

中牟田はさらに明治10年の西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。後、海軍大学校長や枢密顧問官も務めましたが大正5年(1916年)に享年80で死去しています。

この朝陽丸が爆沈したとき、旧幕府軍の陸兵が生き残って海上にあった搭乗員を陸地から狙撃しようとしましたが、磐吉はこれを一喝して止めさせています。

たとえ敵であっても無防備の者を殺めるという行為は許さない、という彼なりの美学が感ぜられますが、これはかつて師であった江川や斎藤から教えられた儒学の基本理念である、仁(人を愛し、他者を思いやる)の体現であったでしょう。

このころ「浮砲台」となっていた回天は、一艦のみで奮戦するこの磐吉の蟠竜丸を、すぐ近くにある弁天台場と共に援護していました。しかしやがて箱館市中に新政府軍が進入すると、背後からの砲撃も受けたため、総司令官、荒井郁之助を筆頭とする乗組員は全員が回天を脱出。一本木(現在の箱館駅近く)へ上陸してその後五稜郭へ撤収しました。

無人となった回天は、その日のうちに新政府軍の手で放火されて消失。煙突、外輪、後部の船体だけが無残な姿で残りましたが、当時の箱館では、「千代田分捕られ蟠龍居ぢやる、鬼の回天骨ばかり」という唄が流行ったと伝えられています。

唯一生き残った蟠竜も、その後新政府艦隊から集中砲火をあびることになります。弾薬が尽きるまで応戦しましたが、いよいよとなると磐吉は退船を決意し、乗組員ともども弁天台場近くに上陸、敵中を突破して弁天台場へ撤退しました。

この弁天台場とは、外国船襲来に備えて旧幕府が箱館湾沖に建設したもので、周囲390間余(約710m)、不等辺六角形で、上から見ると将棋の駒のような形をしていました。高さ37尺(約11.2m)の石垣をもつ土塁2,350尺(約780m)で囲まれており、砲眼15門(60斤砲2、24斤砲13門)を装備する本格的な要塞です。

この台場の近くに、長い間世話になった蟠竜丸を座礁させた磐吉は、「またのちに(新政府が)使うこともあるだろうから」と自焼を禁じました。

同日、新政府軍の手でやはりこの蟠竜丸も放火されましたが、火災は帆柱を炎上させるのみで船体には殆ど引火せず、そのうち帆柱が折れ、バランスを崩して横転したことが幸いし、その後、鎮火しました。

維新後、イギリス人により船体が引き揚げられ、上海で修理されましたが、この際、帆柱の数が3本から2本に変わり、甲板上に大きな船室が作られるなど船体上部がほぼ新造された結果、姿は大きく変わって往年の優美さは失われました。冒頭で述べたとおり、その後さまざまな用務を得ましたが、明治30年(1897年)に大阪で解体されました。

弁天台場に立てこもった旧蟠竜丸の乗組員は、既にここで戦っていた新選組とともに小銃等で応戦して奮闘を続けましたが、箱館市内が新政府軍によって占領されたため、やがて孤立。14日までには、弾薬・飲料水・糧食も尽き、本陣五稜郭に先立ち、ついに15日に新政府軍に降伏しました。

一方の五稜郭では、これに先立つ12日以降、箱館港内にいた新政府軍の旗艦、甲鉄からの艦砲射撃を受けていました。このうち、奉行所に命中した一発の砲弾により、洋学者で歩兵頭だった古屋佐久左衛門が負傷、のちに死亡しています。

さらに新政府軍は各所に陣地を築いて大砲を並べ、五稜郭を砲撃したため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にしてそこに畳を敷いて休息を取ったといいます。

その後15日に弁天台場が降伏すると、16日には、箱館防衛の拠点、千代ヶ岱陣屋(ちよがだいじんや)も陥落しました。これは本陣の四周に外濠を巡らしたもので、およそ140m四方、高さ約3.6mの土塁と幅約16mの濠がありました。ここでは、築地軍艦操練所で教授も務めた中島三郎助が陣屋隊長として守備していました。

この前日、中島らは新政府軍からの降伏勧告を受けますがこれを拒否。このため、この日の未明、午前3時頃から新政府軍が攻撃をかけました。

北・西・南の三方向から突然銃撃が行われ、不意を突かれた陣屋内の旧幕府軍兵士たちは、組織だった防御ができず、多くが逃走したため、1時間足らずで陣屋は陥落しました。このとき、中島三郎助と長男の恒太郎・次男の英次郎、浦賀与力時代の部下・柴田伸助だけが残って奮闘したものの、やがて力尽きて戦死しました。

こうして、旧幕府艦隊は壊滅し、また各所の砲台や拠点が全滅したのを受け、同日の夕刻、榎本は、新政府軍に軍使を遣わし、翌朝7時までの休戦を願い出ました。政府側はそれを了承しましたが、このとき五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告したといわれています。

休戦の間、榎本ら旧幕府軍首脳側は合議の上、降伏して五稜郭を開城することを決定しました。この夜、榎本は敗戦の責任と、降伏する兵士の助命嘆願の為に自刃しようとしたといわれていますが、たまたま近くを通りかかった旧京都見廻役の幕臣、大塚霍之丞に制止され、思い留まりました。

ちなみに、この大塚は明治になってからは官僚となり、後に榎本武揚が北海道小樽の所有地管理のため設立した北辰社の支配人を務めています。

翌17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、箱館市街、亀田に設けられた会見場に出頭、新政府軍の陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願しました。

このとき黒田は、幹部のみに責任を負わせると、榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかったといいます。しかし結局榎本らは無条件降伏に同意。幹部らの処罰は宙に浮いたまま、降伏の手順書の提出だけが要求されてこの会談は終了しました。

その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には降伏の実行箇条書を作成、側近に新政府軍に提出させました。

翌18日早朝、榎本ら幹部は改めて亀田の新政府屯所へ出頭し、昼には五稜郭開城が実現しました。このとき、城内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了しました。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結しました。

戦後

降伏した旧幕府軍の将兵は、一旦箱館の寺院等に収容された後、弘前藩ほかに預けられ、ほとんどが翌年に釈放されました。一方、幹部については榎本武揚をはじめ、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、相馬主計、そして松岡磐吉の7名が拘束されました。

彼らは熊本藩兵の護衛の下、5月21日に箱館を出発し、東京は兵部省軍務局の糾問司(きゅうもんし)に護送されました。そして同所内にある牢獄に一般の罪人とともに入れられ、それぞれが牢名主となりました。

この糾問司は、もとは江戸幕府の評定所だったもので、江戸城外の辰ノ口にありました。現在の東京駅の目の前にある丸の内永楽ビルディングが建てられている場所がその跡地です。旧幕時代には幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判が行なわれていました。

糺問司はその後、1872年(明治5年)に陸海軍にそれぞれ設置された「軍事裁判所」に移行され、1882年(明治15年)には「軍法会議」の制度ができたため、廃止されています。

旧箱館政府の元幹部7人の処罰にあたっては、新政府内でも異論があり、木戸孝允ら長州閥の面々が厳罰を求めた一方、主に旧幕府家臣からは減刑の声もあがり、赦免嘆願書を出す者もいました。

特に榎本の才能を高く評価していた黒田清隆、福沢諭吉らは、その助命を強く主張しましたが、大きな動きがないまま拘禁が続き、榎本を含む7人は、未決のままその後2年を辰ノ口の牢で過ごしました。

榎本はこの獄中、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えていたといい、磐吉もまた英語を学ぶなどして過ごしていたといいます。

しかし、磐吉はその後熱病を発症し、牢屋内の床に臥せるようになりました。熱病といっても腸チフスや肺炎、敗血症、発疹チフスなどいろいろ考えられますが、罪人であるため医者が呼ばれることもなく、原因不明のまま、明治4年(1871年)7月5日5時、死亡しました。

享年30歳。真夏であったため、その遺体は敷地内に仮埋葬され、のちに東京谷中にあった松岡家の菩提寺、一乗寺に埋葬されました。

翌1872年(明治5年)1月、他のメンバー、榎本武揚ら幹部は全員が赦免され、このとき磐吉にも「死後赦免」の沙汰が下されました。あと6ヵ月ほど持ちこたえることができれば、生きたままの赦免を迎えるところでしたが、運命はそれを許しませんでした。

磐吉が獄にいる間、その赦免嘆願書を出した、旧斗南藩士、武田信愛は、その嘆願書に松岡の人となりを書き、「気骨本幹ありてよく衆を御す」と評しています。冒頭の写真からも見てわかるように、気骨にあふれ周囲に慕われたであろうその人物像が、この文章からもうかがわれます。

その磐吉の兄、弘吉はこの3年後の1874年(明治7年)、柴性のまま亡くなっています。
彼もまた榎本や磐吉とともに蝦夷共和国設立に参加しましたが、五稜郭陥落後、他の将兵とともに解放されました。明治以後は許され、明治海軍に出仕したと思われます。

榎本武揚は、釈放後、黒田が次官を務めていた開拓使に雇われ、ナンバー4にあたる四等出仕に任官、北海道鉱山検査巡回を命じられました。ここで北海道の資源調査を行った結果、その功績が認められ、のちには駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結する重役を果たしました。

これを皮切りに出世街道を突き進み、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任し、子爵となりました。しかし、第2次伊藤内閣で農商務大臣に就任した際は、足尾鉱毒事件での対応をめぐって被害農民の反発を招き、大臣を引責辞任しています。

以後、政府要職に就くことはありませんでしたが、晩年にはかつて設立した蝦夷共和国の夢を再現すべく海外殖民への関心を抱き、1897年(明治30年)には36名の植民団のメキシコ派遣を実現させました。

しかし、目指していたコーヒー菜園の開発が思うように進まない中、資金繰りに行き詰まり、マラリアも発生して逃亡者が発続出するなどしたため、わずか3ヶ月でこの殖民地は崩壊しました。

1905年(明治38年)には、海軍中将を退役し、その3年後の 10月26日、腎臓病で死去。享年73でした。その葬儀は海軍葬で行われています。

榎本は、実務的大臣を何度も歴任し「明治最良の官僚」と評され、明治天皇からも信頼を得ましたが、その一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉」といった批判や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けました。伴食とは主客のお伴をして御馳走を受けることで、恩赦というおこぼれのおかげで出世できたという批判です。

しかし、辰ノ口の牢への投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていたといい、晩年に至るまでもどこか新政府には殉じない気分をもっていたようです。

批判を受けながらも、反論もせずに重職の数々を担い続けたのは、それは、かつて共に戦い死んでいった同志が受けるべきだった職務と考えていた可能性があります。彼らに報いるつもりで、重責を受け続けたと考えることもできるでしょう。晩年、自腹を切って手掛けたメキシコ植民事業も、そうした贖罪のひとつであったのかもしれません。

弘吉、磐吉の二人が師事した江川英龍の息子、英敏は、その後家督を継いで第37代江川家当主となり、生前に父が進めていた農兵育成・反射炉の完成・爆裂砲弾の開発などを次々と推し進めました。しかし、家督を継いでから7年後の1862年(文久2年)に24歳で夭折しました。

継嗣がなく、末弟の江川英武が養子として跡を継ぎましたが、英武は、明治19年(1886年)、町村立伊豆学校の校長に就任。学校では生徒に英語教育を施すとともに柔道教育にも力を入れました。

“講道館四天王”の1人に数えられた富田常次郎を講師として伊豆学校に招聘しており、この富田は、青年期より講道館創始者の嘉納治五郎と寝食を共にした人物です。後に米国で指導を行うなど柔道の国際的普及にも尽力し、その多大な功績から“講道館柔道殿堂”にも選ばれています。

江川や富田によってその礎が築かれたこの伊豆学校は、その後、静岡県立韮山高等学校となりましたが、現在でもその「学祖」を江川英龍としています。その校訓は学祖江川坦庵の座右の銘である「忍」であり、現在も毎年、松岡兄弟のような優秀な人材を輩出し続けています。

同校は地元では「韮高」と呼ばれていますが、一方では「龍城」という名前がしばしば用いられるそうです。この韮山高校のすぐそばには、かつて北条早雲が拠点としていた韮山城跡があり、こちらがその由来です。その本丸があったとされる場所からは、すばらしい富士の眺めを堪能することができます。

磐吉や弘吉が学んだと思われる、かつての韮山代官所、江川邸は、この龍城のすぐそばに位置します。これを読んで興味を持たれた方は、一度ここを訪れてみてはいかがでしょうか。きっとこのころ吹いていたであろう、心地よい風を感じることができるに違いありません。

重要文化財 江川家住宅(江川邸)静岡県伊豆の国市韮山1番地

カッコウ発 ウイルス着

今年は暖冬で、早くもソメイヨシノが咲きそうです。

日に日に暖かくなり、日中の最高気温も20度を上回ることも珍しくなくなってきました。

「冬籠りの虫が這い出る」といわれる啓蟄は、ちょうど今頃、3月の上・中旬のころの気候をいいます。

古代中国で考案された季節を表す標語「七十二候」のひとつに、同じ季節を表現した「鷹化為鳩」というものがあり、これは「たかかしてはととなる」と読みます。

鷹が鳩に姿を変えることをさし、獰猛な鷹も春のうららかな陽気によって鳩に化ける、といいう意味ですが、ここでの鳩は、郭公(カッコウ)でもある、といわれます。

カッコウをみたことがある人はわかるでしょうが、たしかにぱっと見た目には鳩に見えなくもありません。中国やヨーロッパを含むユーラシア大陸全般に生息する鳥ですが、日本にも夏鳥として今の季節ごろからやってきます。

全国的に見られますが、本州中部から北に多く生息しており、草原、耕地、牧草地と小さな林がある明るくひらけた環境に棲んでいます。エサとしては、昆虫類も食べますが、クモやムカデなどの節足動物を好み、毛虫なども食べるようです。

名前のカッコウは、オスがそう鳴くから付けられたものであり、学名はCuculus canorusであって、“Cuculus”は「クゥークゥルス」という風に発音します。日本語でのカッコウは欧米人にはそう聞こえるのかもしれません。

canorus(カルノス)のほうはラテン語で「音楽的」を意味します。ヨーロッパでは、カッコウの声が聞こえる春になると、少女たちがその鳴き声を使って占いをするそうです。その最初にきいた鳴き声の数で、自分があと何年たったら結婚できるがわかるといいます。

フィンランドやロシアでは、その鳴き声を悲しい声ととらえる一方で、フランス人には陽気な声として聞こえるらしく、それぞれの国で悲しく楽しい民謡が作られています。

ヨーロッパのこのほかの国でも、古くからその鳴き声が親しまれており、民謡以外の楽曲にも取り入れられています。有名なところでは、「おもちゃの交響曲:オーストリア」(エトムント・アンゲラー)、「第六交響曲(田園):ドイツ」(ベートーヴェン)、「森の奥にすむカッコウ:フランス」(サン・サーンス) などがあります。

サン・サーンスの「森の奥にすむカッコウ」は、「動物の謝肉祭」という組曲の中に収められており、全14曲のうちの第9曲目に出てきます。クラリネットがカッコウの鳴き声を模倣するという形で表現されており、ピアノ伴奏がその「声」を引き立てる形になっています。

日本でも「静かな湖畔の森の陰から」といった歌に歌われており、これは長野県・野尻湖のYMCAのキャンプ場で作られたそうです。筆者も行ったことがありますが、確かに静かな湖であり、この歌の普及からカッコウはこうした山奥の静かな場所で鳴く鳥と広く受け止められています。

しかし良い意味に受け止められているばかりではありません。「閑古鳥が鳴く」という言葉がありますが、これはカッコウのことです。静かなところでしか鳴かない、ということは、つまり人気が少ないところで鳴く鳥である、ということであり、「閑古鳥」ともいわれます。客が来なくて商売がはやらない「閉店ガラガラ」の状態を指すときによく使います。

松尾芭蕉の句にも「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」というのがあります。こちらは風流の例えとして使われており、「閑古鳥よ いつも何となく物憂にふけっている私を、お前のその寂しい鳴き声で、もっと閑寂境の世界に誘い込んでおくれ」といったほどの意味です。

芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡って岐阜の大垣まで旅したあとに詠んだ句です。芭蕉はこのとき48歳で、京都や伊勢志摩などの畿内での旅を終えて江戸へ帰った直後でした。

その2年ほど前に約5ヶ月600里(約2,400km)に渡って各地を旅した中で見た景色への思いをこの歌に込めたのではないかと思われます。この旅の印象を綴られたのが有名な紀行文「おくのほそ道」です。ちなみに芭蕉はこれから2年後の元禄7年(1694年)に、50歳で亡くなっています。

このほか、日本の昔話には、カッコウがなぜカッコウと鳴くようになったか、について語るものがあります。

とあるとき、ひとりの母親が「背中がかゆいのよ 掻いてくれない」と息子に頼みました。しかし、その子は遊びに夢中で母の頼みを聞いてくれそうもありません。母親はしかたなく川辺に行き、そこにあった岩に背中をあててこすっていましたが、あやまって川に落ち、死んでしまいました。

残された子は親不孝をしたことを悔い、悲しみに暮れて泣きました。そしてもしお母さんが生き返ってくれるならその背中をかこう、かこう、と言っているうちに、やがて鳥になり、カッコウ、カッコウと鳴くようになった、といいます。

さらに、日本には昔から「鳩時計」というものがありますが、この鳩も実はカッコウです。

もともと、ドイツで発明されたものを輸入したものですが、上述のとおり、カッコウの別名が閑古鳥であることから、縁起が悪いので鳩に替えられたという説があります。普及したのは戦後のことで、輸入したものを改良して準国産化したのは世田谷にあった、「手塚時計」だといわれています。

オリジナルの鳩時計は、ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトというところで18世紀の終わりごろから作られ始めました。ここで鳩時計の心臓部ともいえる、装置が発明されましたが、これは二つの音を発し、その高低さで鳥の声を模倣するというものでした。

そもそもオルゴールのような自動演奏装置の一部として開発されたものでしたが、この地方の人々は器用だったため、身近にある豊富な木材を利用して彫刻で人形を作るのが得意であり、この装置をもとに、からくり時計を作り始めました。

19世紀の半ばまでには現在のものとはそれほど違わない原型の鳩時計ができ、この地方がスイスにも近いことから、その後スイスでも作られるようになりました。

そのしくみとしては、鎖に付いた細長い松ぼっくり状のおもりがついていて、鎖がその重みで上下することによって時計やそのほかの装置を作動させる、というものです。おもりは通常2つまたは3つあり、1つは時間を動かすため、もう1つは時報(鳩や鐘の音)、そしてもう1つはオルゴールを動かすために使われます。

現在では世界中に普及していますが、近年ではアメリカ、日本、中国などではクォーツなどのムーブメントを組み込んだタイプも多く販売され始めており、本場のドイツでも作られています。しかし、かつての伝統的な重り式鳩時計もドイツやスイスを中心にして、まだ作られています。

ドイツにはシュヴァルツヴァルド時計協会という組織があり、おもり式鳩時計の品質証明書を発行しています。同協会が定める品質をクリアしている証であり、その基準を満たしている伝統的な鳩時計にのみ、その認定書を付けることができます。

幾らぐらいするものなのか調べてみたところ、シンプルなデザインのものでも2万円程度はするようで、オルゴールが組み込まれているような複雑なものでは3~4万円もするようです。が、その装飾は見事で、その価値は高そうです。こうしたものがお好きな方は購入を検討されてはどうでしょう。商売をやっている方はやめたほうがいいかもしれませんが。




このカッコウについては、宮沢賢治もまたその作品の中で登場させています。「セロ弾きのゴーシュ」というもので、賢治が亡くなった翌年の1934年に発表された作品です。37歳で亡くなるその7年ほど前に習い始めたセロ(チェロ)に触発されて書いたものと考えられます。

町の楽団でセロを弾くゴーシュという男性が、夜な夜な訪れてくる動物たちから刺激を受けつつ、その才能を伸ばしていく、といった話で、この中に主人公のもとに音楽を教わるためにカッコウが訪ねてっくる、という場面があります。

ゴーシュは粗野な性格で、所属する楽団の楽長に叱られた鬱憤晴らしに、弱者の動物をいじめる、といった卑屈な若者でした。しかし彼の元を訪れる様々な動物たちへ無償の行為を繰り返すうちに、次第に謙虚さを学び、同時にその技量を高めていきます。

カッコウとの反復練習で自らの音程の狂いを自覚し、さらにタヌキの鋭い指摘によって、自分の楽器の特性を知ります。そして最後にやってきた野鼠は、ゴーシュのセロの演奏で動物たちの病気が治ることを教えてくれました。

こうして自分が人知れず役立っていることを教えられ、自信を持つようになった結果、ゴーシュの演奏はリズム、音程、感情の三つが改善され、聴衆の心を動かすようになります。

楽長からも褒められて初めて自分の上達を知りますが、このときはじめて動物達から恩恵を受けていたことに気づきます。と同時に慈悲の心が芽生え、これによって真に音楽を理解できる青年へと成長していきます。

この作品は戦後、三度にわたって映画化されており、1982年には、高畑勲が監督して一般公開されています。前年の1981年には、大藤信郎賞(日本のアニメーションの先駆者である大藤信郎を称え、1962年に創設された賞)にもノミネートされて受賞しています。

この宮沢賢治の原作の中で、カッコウはゴーシュの手助けをすることになるわけですが、最初に来た時はその鳴き声に悩み、ドレミファ(音階)を正確に歌うことができませんでした。

「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか。」とゴーシュはッコウをからかいますが、賢治もまたこの鳥の鳴き声はただ単調なだけ、というふうに思っていたのでしょう。

現在、日本中で使われている「音響装置付信号機」に使われている誘導音のひとつもまたこうした単調なカッコウの声であり、横断歩道を渡るとき、「カッコー、カッコー、カッコー」といった擬音に促されて道を渡った経験は誰にでもあるでしょう。

これは単調ではあるものの、その高温と低温の組み合わせが人の注意を惹きやすいとして、1975年に警察庁などからなる委員会によって選ばれたものです。擬音としてはもうひとつ「ピヨ、ピヨ、ピヨ」が選ばれ、このほかメロディーとしては、「通りゃんせ」、「故郷の空」の二つも選ばれています。

このように意外と我々の身近なところでもその声が応用され、親しまれているカッコウですが、その生活史をのぞいてみると、ちょっと眉をひそめるような生態を持っていることに驚かせられます。

それは「托卵」を行う、ということあり、これは自分以外の種の鳥に、卵を預けて育てさせる、というものです。カッコウの成鳥の大きさはだいたい35cmほどもありますが、これよりもはるかに小さいオオヨシキリやホオジロ、モズといった鳥の巣に自分の子の卵を産み付けます。

自分と同じくらいの大きさのオナガに対しても托卵を行うことが確認されていますが、いずれにせよ、自分で子育てをせず、人様の家に自分の子供を押し付けて育てさせているわけで、人間世界ではありえない習性です。

その「仕事」は巧妙であり、托卵の際には、その相手の巣の中にあった卵をひとつ持ち去り、ちゃんと数を合わせる、という念の入れようです。カッコウのヒナはだいたい10~12日程度の比較的短期間で孵化し、これは相手の巣の持ち主のヒナより早いことが多くなっています。

先に生まれたカッコウのヒナもまた親譲りの性格の悪さを持ち合わせており、生まれたらすぐに、その巣の持ち主の卵やヒナを巣の外に放り出してしまいます。本能的にそうするようその遺伝子に刷り込まれているらしく、こうして自分だけを育てさせることに成功すると、その後はその巣の養父母の元ですくすくと育ちます。

その巣の親もまた他人の子とも気付かずにその子を育て、ご丁寧にその巣立ちまでご奉仕します。巣立ち直前には「カッコウ、カッコウ」ともう一人前の声を上げますが、その声が他の種の子の声であるのにも気づきません。「義母」である親鳥、例えばそれがオナガならば、「グェーイ、グェーイ」とカッコウの子とまたは違う声で鳴きながら給餌します。

しかし、やがてすぐには餌を与えないようになり、幼鳥をじらしながらより高い枝に誘導し、独り立ちを促します。やがてカッコウの幼鳥はどこかへ飛び去りますが、残された巣には何も残されることはありません。その巣から本来は巣立つはずの子は、とうの昔にカッコウに押し出されて、巣の外で冷たくなっているわけです。

もっとも本当の親であるカッコウの親鳥の托卵のタイミングが遅い場合は、先に孵化した巣の持ち主のヒナも大きくなっていることがあります。この場合は相手が重すぎて押し出せないため、そのまま一緒に育つ場合もあるようです。

また、あるカッコウが別種の鳥の巣に卵を産みつけた後、別のカッコウが同じ巣に卵を産む、といった「ダブルブッキング」をすることもあるといいます。この場合、2つの卵がほぼ同時に孵ることもあります。この場合はその2羽のヒナ同士が落とし合いをするところとなり、敗れたほうには当然死が待っていることになります。

こうした托卵がなぜ行われるのかについての解明は、まだ完全には行われていません。ただ、カッコウは自分の体の体温を維持する能力が低く、外気温や運動の有無によって体温が大きく変動することがわかっています。

このため、卵を産んでも自分の安定した体温で育てることができず、体温の変動の少ない他の鳥に抱卵してもらうのではないか、ということが言われているようです。




こうした托卵はカッコウの専売特許ではありません。他の鳥では、例えばダチョウのように、同じ種同士が共同で子育てをするといった例もあります。ダチョウはオスが地面を掘ってできた窪みにメスが産卵、その巣にさらに他のメスも産卵します。これを最初に産卵したメスが抱卵するといいます。

同様の行動はムクドリにもみられるということであり、このように自分以外の同種や他種に卵を預ける、といった行動は鳥類以外にもみられます。

北米に生息する“フロリダアカハラガメ”は同所に生息するアメリカアリゲーターの巣に托卵します。巣の発酵熱で孵化を早めると同時に、巣を守るアリゲーターの親を卵の護衛役に利用します。托卵先のアリゲーターの卵に危害を加えることはありません。

また、魚では、ナマズ類に属する“シノドンティス・ムルティプンクタートス”という種は、マウスブルーダー(口の中で抱卵する)である“シクリッド”という魚に卵を託す習性を持っています。このナマズの稚魚は、シクリッドの口腔内で育ちますが、その過程で養母であるシクリッドが生んだ卵を食べながら成長します。

さらに、昆虫の“シデムシ”も種内托卵を行います。その一種“モンシデムシ”も同種に托卵を行いますが、托卵される側は、ときに「子殺し」を行います。寄生に対して敏感な本能を持ち合わせていて、親は通常の孵化に要する時間と比べて孵化が早すぎる個体があればこれに気づき、殺すことがあるといいます。

カッコウの話に戻ると、同様に托卵されたその子が異種のものであることを見破る鳥もいます。そうとわかるとそれを排除してしまいますが、このように托卵を見破るケースが時おり見受けられるというのは、長い間痛い目に遭ってきた結果、そうした異種の卵を見分ける能力を自然に身に着けたものと考えられています。

これに対して、カッコウもまた対抗策を講じてきました。その結果、托卵先の相手の卵にできるだけ模様を似せ、見破られないようにできるようになりました。たとえばホオジロの卵には線模様がありますが、カッコウの卵にも似たような模様があって見破られにくくなっていますし、大きさもそっくりです。

このようにある生物学的な行動を通じて、関係しあう者同士がお互いの能力を発達させ、ともに進化することを「共進化(Co-evolution)」といいます。

生物学的には、一つの種の「生物学的な要因」の変化が引き金となり、別の種の生物学的要因もまた変化すること、と定義されています。この共進化は、別々の種との間だけでなく、同じ種同士でも起きます。

2種の生物が互いに依存して進化する場合、それがお互いの利益につながるなら、この共進化は「相利共進化」と呼びます。たとえばヤドカリとその貝殻上に生息するイソギンチャクとヒドロ虫との関係では、ヤドカリは殻の上にこれらの刺胞動物が生息することで敵の攻撃を受けにくくなり、ヒドロ虫は移動手段を得られます。

この場合、異なる生物種が同所的に生活することで、互いに利益を得ることができる共生関係であることから、「相利共生共進化」ともいいます。

一方、カッコウの例のように、カッコウ側は子育てをしてもらって利益を得ますが、托卵をまかされる相手は害を受けるわけであり、この場合は「片利片害」になります。しかし、そのことを通じてお互いに切磋琢磨し、化かし化かされないように進化するわけであり、「片利片害共進化」を果たすわけです。

同じ「片利片害」でもライオンとそれに食われる草食動物との関係のように、捕食種と被捕食種、といった極端なケースもありますが、この場合でも進化は発生します。ライオンは草食動物を効率的に狩るために進化し、草食動物はこれから逃れようとまた独自の進化を遂げるわけです。

一般には草食動物は逃げ足が速く、より周囲に敏感になるのに対して、捕食者はそれを捕まえられる能力が優れていきます。いわば「軍拡競争」のような状況であり、このように、敵対的な関係にある種間で、進化的な軍拡競走が繰り広げられるパターンは「赤の女王仮説(Red Queen’s Hypothesis)」として説明されています。

「赤の女王競争」や「赤の女王効果」などとも呼ばれ、アメリカの進化生物学者であるリー・ヴァン・ヴェーレンによって1973年に提唱されたものです。

「赤の女王」とはルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する人物です。彼女が作中で発した「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」という台詞からきています。

赤の女王は、一般的なチェスでは黒のクイーンにあたります。この物語の序盤で他の多くの駒たちとともに姿を見せますが、その後人間並みの大きさになって再登場すると尊大な態度でアリスに接します。

そして、鏡の国のチェスゲームに興味を持ったアリスに、自分が敵対する白のチームの歩となってゲームに参加するよう助言します。加えてルールを説明しますが、その中で「ひとところに留まっていたければ全力で駆けなければならない」とこの発言をするのです。

赤の女王が言いたかったのは、ゲームに勝ちたかったら、同じところに留まっていてはダメ、努力しなさい、ということなのですが、進化論的には、捕食者に耐えて生き残るためには、自らが進化し続けなければダメ、ということであり、こうしたことからこの説が「赤の女王仮説」と呼ばれるようになりました。

弱肉強食の生物界において小型動物が生き残っていくためには、いかに立ち止まることなく自分を進化させていくかが問われています。現在を生きる小動物たちは皆、捕食者から逃げのびる中で長い時間をかけて自己淘汰を行ってきたのであり、その結果この世に生存するに足る優れた能力を持つに至ったわけです。

一方で、たとえば海洋の孤島などのように捕食者のいない環境を考えてみましょう。そこで生き延びてきた小型動物たちは無警戒であり、もしそのような場所に上位捕食者が入り込んだとしたら、あっという間に食べ尽くされてしまうに違いありません。

捕食者がいる、ということはその時々では脅威に違いありませんが、長い目でみれば、自己を進化させるという意味で重要である、ということがわかります。

こうした赤の女王仮説は、他の種が存在する理由にも使えます。例えば昆虫の例では、北アメリカ北部に生息する“ジュウシチネンゼミ”の例があります。このセミは、17年に一度しか成虫が姿を見せません。アメリカ南部には13年にしか発生しないセミもおり、こうしたセミは、一定周期で現れたり消えたりするので、「周期ゼミ」と呼ばれています。

もっとも一定周期の間現れないのは特定の地域だけでのことであって、その間、また別の地域では現れます。つまり、ほぼ毎年どこかでは発生しているものの、それぞれ別の場所で13年、17年周期で発生するのです。例えば隣接する地方では、ある年に片方の地方では発生するけれどもその隣では発生せず、そのあとも時間をずらして交互に発生します。

全米においては、17年周期の17年ゼミは3種、13年周期の13年ゼミは4種いるそうですが、これらのセミが同じ地方において同じ年に発生することはほとんどありません。まるでそれぞれの周期ゼミが隣のテリトリーの発生周期を知っていて、これを避けているようにすら見えます。

まれに、全米のどこにも周期ゼミが発生しない年もあるようですが、いずれにせよ、こうした周期ゼミは、基本的には地方毎に発生の時期をずらすことで、同じ場所に同じ種が重複して発生しないようにしている、と考えられています。

しかしそれにしても、どうして時期をずらして別々の場所に発生するのでしょうか。これについてはまだよくわかっていないようですが、この現象のひとつの説明としては、かつてこれらのセミに寄生した天敵があったのではないか、ということが言われています。

普通のセミは、ほぼ毎年、夏になれば発生します。これに対して、13年、あるいは17年もの長い間、間を空けて発生する理由は、3~4年の間隔で大発生する寄生虫を避けるためと考えることができます。これにより、長スパンで発生する自分たちのサイクルに、こうしたはついてこられなくなります。

しかもその発生年数が、13年、17年といった「「素数」であれば、より寄生虫を避けやすくなります。例えばセミの発生周期が13年ではなく12年であったなら、発生周期が3年や4年の寄生虫とは、同時発生してしまう時期が3~4年間隔で必ず出てきます。

ところが、これが13年であれば、発生周期が3年の寄生虫は39年、4年の虫は52年おきにしかセミと同時発生することができません。17年周期であれば、発生周期が3年の寄生虫は51年、4年の虫とは実に68年周期でしか遭遇しないことになります

こうした習性をもし周年ゼミが長い間の淘汰で得てきたとしたならば、これもまた共進化の結果であり、捕食者である寄生虫に、被食者である周期ゼミが勝ち残った結果の進化、といえます。




このように、ほ乳類のような小動物が自分の身体機能を進化させることで外的からその身を守ろうとするだけでなく、こうしたちっぽけな昆虫類もまた、自らの発生時期を変えるという単純な工夫で天敵から逃れる術を得ている、と考えることができるわけです。

このことはつまり、生物はその生存の過程において、何等かの迫害者がいる場合はそれに適応して彼らから逃れる術を身に着けている、ということにほかなりません。たとえ一つの世代においてそれが達成されなくても、何世代にもわたってそれが繰り返されれば、その結果として進化がもたらされます。

その進化は迫害を受けるものだけでなく、迫害者にも起こる可能性があるわけであり、昨今、人類を脅かしているコロナウイルスもまたそうした過程で進化してきたものです。

ウイルスは、手を変え品を変えて、宿主である我々の体内に入り込み、寄生しようとしますが、これに対して我々はそれを阻止するために、「免疫系」というものを発達させてきました。

免疫系は、細菌やウイルスなどの寄生者を排除するよう選択圧を受けた結果、我々が身に着けた能力です。片やウイルスもまた、こうした免疫系を破壊するか回避するような選択圧を受けた結果、世代ごとにその能力を進化させてきました。

従来のウイルスに比べてコロナウイルスのほうが感染力が強い、といったことが言われているようですが、これはそうした進化を重ねることによってその能力をより巧妙なものに仕立ててきた、と考えることができるのです。

こうした人間とウイルスの共進化、別の意味での「戦い」の歴史は長く、おそらくは人類が始まって以来続いているものでしょう。ヒトに感染するウイルスの中でも最も古いものといわれているのは、天然痘と麻疹(はしか)のウイルスであり、これらのウイルスは数千年前にヨーロッパと北アフリカの人類の前に初めて出現しました。

11世紀以降、十字軍やイスラムによる征服によって、こうしたウイルスは新世界へと運ばれていきましたが、ここに住む先住民たちは対抗する免疫を持っていなかったため、数百万人が死亡しました。1580年にはインフルエンザによるパンデミックが初めて生じ、その後の世紀でも頻度を増しながら発生し続けていきました。

1918年から1919年にかけて流行したインフルエンザは、初出がスペインであったため、スペイン風邪と呼ばれましたが、これによって4000万人から5000万人が1年以内に死亡し、歴史上最も壊滅的な伝染病流行の1つと言われています。

人類が初めてこうしたウイルスへの対策法を確立したのは19世紀になってからです。ルイ・パスツールは狂犬病ワクチンを、エドワード・ジェンナーは種痘を開発することで、ウイルス感染から人々を守ることに成功しました。

さらに20世紀に入ってからは1930年代に発明された電子顕微鏡によってウイルスの性質は徐々に解明され始めました。昔からの病気も新しい病気も、多くがウイルスによって引き起こされていることが判明するようになり、古代からあったポリオでは、1950年代にポリオワクチンが開発されるとその制圧が進みました。

ジェンナーが開発した種痘の実施は徐々に世界中に広まっていき、20世紀中盤には先進国においては天然痘を根絶した地域が現れ始め、日本においては1955年にほぼ天然痘は根絶されました。

一方では新しいウイルスも出現し、そのひとつであるHIVは、この数世紀の間に出現した新しいウイルスの中で最も病原性の高いものの1つです。人の免疫細胞に感染してこれを破壊し、最終的に後天性免疫不全症候群 (AIDS)を発症させるこのウイルスの感染対策はまだ確立されていません。

そしてコロナウイルスです。2009年の新型インフルエンザ以来の世界的流行となったこのウイルスに対して、先日、WHOはこれをパンデミックである、と宣言しました。

パンデミックとはある感染症が、著しい感染の広がりを見せ、死亡者も膨大になる事態を想定して、世界的な感染の流行を表す警告するものであり、世界的な保健機関であるWHOがそれを宣言すること自体、歴史的な大流行であることを意味します。

「今、すべての人類が脅威にさらされている」との警告がなされたものであり、多くの人を死に至らしめる可能性が高く、それを警告するためこのような宣言なされるわけです。

コロナウイルスが過去に発生した伝染病と比べてどれほど危険性が高いかはまだよくわかっていないようですが、人類にとって有害な伝染病であることは間違いありません。

しかし、上述のような「共進性」ということを考えたとき、こうしたウイルスの流行もまた、人類がさらに進化するための試練である、というところは否定できないでしょう。長い目で見れば、むしろ「必要悪」といえるのかもしれません。

そもそも、ウイルスは、人類の誕生のころから我々と共生してきたものです。コロナウイルスのように人に有害なものも数多くありますが、実は地球上には約1031、ものウイルスが存在すると推計されており、そのほとんどは人類にとっては有害ではなく、むしろ有益なものです。

対して、人間に害を及ぼすタイプのウイルスはその「病原性」に対して科学的関心が寄せられてきたものですが、それらは種を越えた「遺伝子の水平伝播」によって進化を促し、生態系の中で重要な役割を果たす生命に必須の存在である、という見方があります。

遺伝子の水平伝播とは、母なる細胞から子細胞への遺伝ではなく、個体間や他生物間においておこる「遺伝子の取り込み」のことです。生物の進化に影響を与えていると考えられています。

通常、生物の体の中では、細胞分裂によって母細胞から子細胞へ染色体がコピーされということが繰り返されています。同様の遺伝子情報は、親から子へと行われる際に継承されるわけで、その際の時間的変化を垂直的(遺伝子の垂直伝播)とするならば、同種が「同時的に」他の生物からの影響によって遺伝子情報を受けて変化することは「水平的」と表現できます。

これが、「水平伝播」であり、我々のようなヒトのゲノムには、ウイルスの遺伝子が「水平的」に取り込まれていることが知られています。つまり、我々が生きている間にウイルスによって侵されることによって、そのウイルスの遺伝子情報が我々の中に取り込まれる、というのです。

こうした水平伝播が長い歴史の中で繰り返されてきた結果、つまり、「垂直伝播」が起こってきた結果、ある種のウイルスは既に人間と一体化しているといわれています。

ヒトゲノムプロジェクトによって、ヒトゲノムの至る所に無数のウイルス由来DNA配列が散在していることが明らかにされています。これらの配列はヒトのDNAの約80%を構成しており、太古のレトロウイルスがヒトの祖先に感染した痕跡だと考えられています。

これらのDNA断片は、ヒトのDNA中にしっかりと定着しています。このDNAのほとんどはすでに機能を失っていますが、これらのウイルスの中にはヒトの発達に重要な遺伝子を持ち込んだものもあるようです。

4000万年前に存在したウイルスの遺伝子がヒトに取り込まれたとする論文も発表されており、ヒトの進化にウイルスが関与する可能性は昔から研究者の間で取り沙汰されています。

そして近年では、そうした影響力の強いウイルスのひとつが「バクテリオファージ」タイプのウイルスではないか、といわれています。

バクテリアファージとは、細菌に感染するウイルスの総称で、このタイプのウイルスが感染した細菌は細胞膜を破壊される「溶菌」という現象を起こします。

このとき、その細菌は食べ尽くされるかのように死滅し、死細胞を残しません。このため、「細菌(bacteria)を食べるもの(ギリシア語:phagos)」を表す「バクテリオファージ(bacteriophage)」という名がつけられました。つまりは、細菌イーター(細菌の掃除屋)ということになります。

ウイルスは、人類だけでなくその他の生物にとっても、病気や死の原因になるもの、という評価を受けていますが、多くの生態系においては、豊富にあるウイルスは実はその生存のために重要な役割を担っているといわれています。

上述のとおり、地球上には約1031のウイルスが存在すると推計されていますが、実はそのほとんどはこうした「バクテリオファージ」タイプのウイルスです。

しかし、そのほとんどは海洋に存在し、陸上にはあまりいません。細菌も含めた微生物は海中のバイオマス(生物体量)の90%以上を構成していますが、バクテリオファージタイプのウイルスはこのバイオマスの約20%を日々殺しているといわれており、海洋中には細菌や古細菌の15倍のこうしたウイルスが存在すると推定されています。

日本近海では、いわゆる「赤潮」と呼ばれ、微小な藻類が高密度に発生し水面付近が変色する現象がしばしば起こります。欧米でも赤潮は発生しますが、同様の原因ではあるものの水面が褐色になる現象が起こることが多く、これは water-bloom(ウォーターブルーム) と呼ばれています。日本でも発生することがあり「水の華」という呼称があります。

赤潮や水の華は他の海洋生物を殺す有害なものとなることも多く、バクテリオファージはこうした藻類ブルームを迅速に破壊してくれます。海洋の藻類は、ラン藻という細菌の一群から形成されており、複数のラン藻間の環境的なバランスを維持し、地球上の生物のための適切な酸素合成を助けているのが、こうした海洋性のウイルスです。

さらに、我々が病気になったときに投与される抗生物質に対し、これに耐性を示す細菌が増えており、これまでの抗生物質が徐々に効かなくなっている、と言われています。その対策のためにもこのバクテリオファージは有効ではないかと考えられ始めています。

薬を投与しても効果のない細菌(薬剤耐性細菌)によって引き起こされる問題は急増しており、細菌感染の治療の上において問題になってきています。ウイルスによる感染以上に深刻といわれていますが、ここ30年の間に開発された新たな抗生物質はたった2つだけであり、細菌感染と闘うための新たな手段としてバクテリオファージが期待されているのです。

その研究は1920年代に始められ、細菌を制御する方法として注目を浴びるようになり、1963年にはソ連の科学者たちによって大規模な臨床試験が行われました。その業績は、1989年に西側諸国で公表されるまで世界的にも知られていませんでしたが、その発表を受けて、バクテリオファージによる治療には大きな関心が寄せられるようになりました。

こうしたバクテリオファージを用いた細菌感染症の治療法は「ファージセラピー」といわれています。理論上、宿主生物(ヒト, 動物, および植物)に対して無害なだけでなく、腸内細菌のように病原性を持たず、善玉細菌に対しても無害であり、高い治療効果が期待できるわりには副反応も起こさないと考えられています。

このため、細菌を殺すウイルスとして大きな期待が寄せられているのです。ただ、欧米を中心にこれに対する関心は高まってはいるものの、まだヒトへの使用は承認されていません。細菌を破壊する過程で出てくる毒性が人間に及ぼす影響も懸念されているためであり、まだまだその実用化には時間がかかりそうです。

ただいつの日か、こうしたウイルスを利用した細菌治療法が確立され、それと同時にそうした優れた性質がヒトの遺伝子に害なく取り入れられる時代がくるかもしれません。その延長で、今猛威を振るっているコロナウイルスのようなものへの対策に使える日がくる可能性があるかもしれません。

あるいはコロナウイルスもまた改良されて人間と同化し、今のように有害なものではなく、むしろ有益なものにできるよう、人工的に改良できるような時代がやってくるかもしれません。

そのためにはあとどのくらいかかるでしょう。

何十年、何百年もかかるかもしれません。が、そのころまでには、また生まれ変わり、別の人生を歩んでいるに違いありません。

もしかしたら、そんな新技術の開発を担っているのはほかならぬ私かもしれません。

あるいはあなたかも。それならばぜひ未来の私を救っていただきたいものです。