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陰陽師

2014-11402629月になりました。

例年ならばまだまだ暑い日が続くはずですが、太平洋高気圧の張り出し弱いようで、大陸から寒気が降りてきて、この涼しさをもたらしているようです。もう少し夏らしさを満喫してから夏休みを終えたかった、という若者も多いでしょうが、夏嫌いの私としてはありがたい限りです。

旧暦9月は長月と呼びます。これは「夜長月」の略であるとする説が有力だそうで、9月に入ると途端に日が短くなることに由来するようです。確かに最近朝起きても、まだかなり暗いことが多くなりました。他に、「稲刈月」が「ねかづき」となり「ながつき」に転じたという説もあり、なるほどこのころになると田んぼの稲穂がそろそろ黄色く重くなります。

9月の誕生花としては、リンドウ、芙蓉、桔梗などがあるようです。このうちの、キキョウ(桔梗)はキキョウ科の多年性草で、ある程度日当たりの良い所なら土壌を選ばず、だいたい日本中どこでも育ちます。万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」は本桔梗のことだそうです。

実は、絶滅危惧種です。エッ?と思う人も多いかもしれませんが、これは野生のもの、つまり桔梗の原種とされるものが少なくなっているものです。この野生をもとに数々の品種改良が加えられ、多くの園芸品種が生まれているため、減っているという感じはしませんが、それだけ日本の生態系も変わってきているということになります。

改良された園芸品種も原種もつぼみの状態では花びら同士が風船のようにぴたりとつながっているため、英語では”balloon flower”といいます。一般的な品種では、このつぼみが徐々に緑から青紫にかわり裂けて6~9月にかけて星型の花を咲かせます。

が、品種改良したものには、この花が二重咲きになる品種や、つぼみの状態のままでほとんど開かせないようにしたものもあり、他に背長けがあまり伸びないようにした品種もあります。色も原種の白や青以外にも、紫やピンク色などたくさんの色の品種があり、年々多様になっています。

雌雄同花です。最初に雄しべから花粉を出し、この雌しべの柱頭が閉じるまでが雄花期です。一方、これとは別に先行して閉じた柱頭が再び開く花があり、これは他の花の花粉を待ち受ける雌しべになります。この雌花期にある花が雄花からの花粉を受けとり、受粉して秋になると種を作るという仕組みで、知れば知るほど植物の世界はまか不思議です。

キキョウの根は「サポニン」をたくさん含んでいます。これは、石鹸の材料として知られるものです。漢方薬としても使われ、その効用は去痰、鎮咳、鎮痛、鎮静、解熱作用があり、このほか、消炎排膿薬、鎮咳去痰薬などにも使われます。

桔梗の花は、蕾のうちは鐘形ですが、花開くと五つに裂け、5本の花びらになります。この綺麗な五角形は、太古の時代から日本人には親しまれてきました。

花の形から「桔梗紋」が生まれ、これを美濃の山県氏、土岐氏一族などが紋所としており、明智光秀も土岐氏一族であり、桔梗紋を用いていました。また、陰陽師(おんみょうじ)として高名な安倍晴明が使用した五芒星は、桔梗印と呼び、現在の晴明神社では神紋とされています。

この安倍晴明は、921年~1005年の平安時代に実在したとされる人です。のちに鎌倉時代から明治時代初めまで、「陰陽寮」を統括することになる、「土御門家(つちみかどけ)」の始祖とされます。

陰陽寮は、天皇の補佐や、詔勅の宣下や叙位など朝廷に関する職務の全般を担っていた「中務省(なかつかさしょう)」に属する機関で、主に占い・天文・時・暦の編纂を担当していました。

現在の大阪市阿倍野区、当時の摂津国阿倍野に生まれたとされます。また、生地については、その苗字から奈良県桜井市安倍とする伝承もあるようです。幼少の頃については確かな記録はありませんが、先輩の陰陽師「賀茂忠行・保憲父子」に陰陽道を学び、天文道などもこの二人から伝授されたといいます。

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この陰陽道は、古代中国の自然哲学思想をもとに生まれた、「陰陽五行説」を起源とし、これが日本に輸入されて以降、日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系です。

陰陽五行説というのは、この世の中は、木、火、土、金、水、の「五行」に「陰陽」の二つを掛け合わせたものでできているという説であり、5×2=10ですから、これは甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸となります。

現在使われている季節にも五行が配されています。季節に対応する五行は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水です。この四季それぞれの最後の約18日が、「土」であり、これは言い換えて「土用」と呼ばれます。つまりウナギを食べるという、「土用の丑の日」は各季節の最後の時期「土用」の丑の日ということになります。

この土用は12分割されていて、それぞれに十二支が割り当てられています。つまり子丑寅……と子の次の丑の日は、土用のうちの、二番目(18日あるので正確には1.6~3.0日目)の日ということになり、それぞれの季節に一回あります。

このように、全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする思想は、中国古代の夏(か)、殷(いん)のと呼ばれた王朝時代にはじまりました。以後、これをもとに天文学、暦学、易学などが発達し、時計もこの結果生まれたものです。

日本には、5~6世紀の飛鳥時代のころに、中国大陸から直接、もしくは朝鮮半島経由で伝来したようです。この陰陽五行説とともに、同時に仏教や儒教も伝えられ、以後、いわばこれら中国固有の思想は日本の文化の根幹に関わり続けるようになっていきました。

とくに陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問は、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を「占う技術」として、圧倒的に日本人に支持されました。もともと山川海と自然豊かな国であり、この自然の一つ一つの要素に神が宿ると考えていた日本人にとっても受け入れやすい思想だったのでしょう。

この「占いの技術」は、仏教とともに輸入されたことから、当初はおもに漢文の読み書きに通じた中国人や朝鮮人の僧侶によって担われていました。しかし、やがて日本人の中にも精通する者が現れ、やがて朝廷でも占いが流行ったことから、7世紀後半頃からこれを司る「陰陽師」があらわれ始めました。

さらに時代が進んで、平安時代以降になると、それまで社会秩序を保っていた律令制にも緩みが見えるようになり、形式化が進んだ宮廷社会では、「怨霊」といった超自然的なものに対するものを信奉するようなオカルティックな雰囲気が出てきました。

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こうしたいわゆる「御霊信仰」などを奉じて世の人をたぶらかす者たちに対し、陰陽道では占術と呪術をもって彼等による災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活にも「正しい道」を教える、として影響力を強め、やがて陰陽道の教えこそが彼等の指針とされるようになっていきました。

こうして陰陽道は宮廷社会における法律ともいえるようになり、やがて宮廷から日本社会全体へも広がりつつ一般化し、法師、あるいは陰陽師と呼ばれる陰陽道の導師などの手を通じて民間へと浸透していきました。

10世紀ころ、この陰陽道だけでなく、これから更に発展した天文道や暦道といった、いわば「天文学」に精通する者もあらわれ、その際たる人物が「賀茂忠行」であり、子の「賀茂保憲」とともに、陰陽道占術の達人といわれるようになりました。

この賀茂父子の出自や、生没年などはまるで不明です。が、陰陽の術に優れ、この当時の帝から絶対的な信頼を得ていたといわれ、特に布や箱などで覆ったものの中身を当てる「射覆」を得意とし、帝の前でそれを披露した事もあったといいます。

醍醐天皇からその腕を披露するように命じられたところ、忠行の目の前には八角形の箱が目の前に出され、これを占った結果は「朱の紐でくくられている水晶の数珠」でしたが、これは見事に正解だったといいます。そして、天皇からは「天下に並ぶもの無し」と賞賛された、といった話が「今昔物語」に書かれています。

忠行・保憲はその技を安倍晴明に伝授したといい、二人は安倍清明がまだ子供だったころから既にその卓越した能力を見抜いていたようです。

今昔物語集の中に「安倍晴明忠行に随いて道を習いし語」というくだりがあり、これによれば、ある時忠行が内裏より自邸に帰宅途中、牛車の中でうとうとしていると、外で供をしていた幼い安倍晴明から突然に呼び起こされたといいます。

驚いて簾を上げて外を見ると、そこには百鬼夜行の一団が通りかかろうとしており、これを見た忠行一行はこれを回避してあやうく難を逃れたといい、忠行はそれ以降、弟子の中でもとくに晴明を可愛いがるようになったといいます。

この忠行の息子の保憲もまた、特異な能力の持ち主だったらしく、あるとき忠行がある貴人の家にお祓いに行く機会があったとき、まだ幼かった保憲が供をするというので連れて行ったところ、無事終わって帰宅途中、保憲が、祓事の最中に祭壇の前で供え物を食ったり、それで遊んだりしている異形の者を目撃した、と父に話したといいます。

これによって忠行は自分の子もまた、ただならぬ能力を持っていることに気付き、保憲に陰陽道を教えるきっかけになったといい、この保憲が長じてからは二人して清明を鍛えたようです。この保憲には、さらに光栄という子があり、二人は晴明に天文道、光栄には主に暦道を伝え、この二人は兄弟弟子として育ちました。

こうして、平安末期から中世においては、天文道の安倍清明と暦道の賀茂光栄が二大宗家として、この時代の陰陽道を独占的に支配するようになりましたが、阿部清明は、とくに宮廷社会から非常に篤い信頼を受けました。

安倍清明は平安時代末期の1005年に83歳か84歳で死没したとされていますが、その技は子孫に受け継がれました。安倍家は、本来下級貴族でしたが、室町時代に入るとその嫡流は賀茂家など他の一族を圧倒し、公卿に列することのできるほどの家柄へと昇格していきました。

やがて、中世に入ると安倍氏が陰陽寮の長官である「陰陽頭」を世襲し、賀茂氏は次官の「陰陽助」としてその風下に立つようになりました。さらに戦国時代までには、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移りましたが、安倍氏の宗家である土御門家も戦乱の続くなか衰退していきました。

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ところが、衰退したといっても、これは宮中などにいる位の高い人々の中の話であり、民間では室町時代以降、陰陽道の考え方がより深く浸透し、占い師、祈祷師としての民間陰陽師が活躍するようになっていました。

さらに時代が進み、関ヶ原以降、徳川家による幕藩体制が確立すると、江戸幕府はこうした野放しになっている民間陰陽師におそれをなすようになりました。このため、賀茂氏の分家の幸徳井家に賀茂氏を継がせて復活させ、この賀茂幸徳井家によって土御門家を牽制させつつ、それぞれに諸国陰陽師を支配させるという巧みな操作をしました。

ところが、それでもやはり復活した賀茂氏よりも土御門家のほうが勢力が強かったため、次第に土御門家だけが民間の陰陽師を支配するようになり、諸国の陰陽師たちに免状を与える権利を独占して17世紀末までには全国の陰陽道の支配権を確立しました。

一方、徳川家による幕藩体制が確立したため、江戸時代には陰陽師の宮中の政治に対する影響力はほとんどなくなり、かつて勢力を誇った陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなりました。一方では、土御門家による民間陰陽道の支配権が確立したため、民間ではこれが暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していきました。

しかし、この民間陰陽道はもはや往時の宮廷陰陽道のような高尚なものとはかなりかけ離れたものとなっており、民間陰陽師たちの活動は、「だましもの」と呼ばれるようなものがほとんどあり、彼等は「声聞師」とよばれて蔑まれ、士農工商にも該当しない、身分の低い賎民として扱われるようになりました。

明治維新後の1872年(明治5年)、新政府はこの陰陽道を迷信として正式に廃止させました。こうして長きに渡って中央政府に影響を及ぼしてきた陰陽道は、政治的には完全に姿を消し、現代においては土御門家の流を汲む「天社土御門神道」と、高知県香美市に伝わる「いざなぎ流」を除いて、すべて消滅しました。

民間に伝承されていた陰陽道もまた江戸時代に「声聞師」などと呼ばれてその格を大きく落としたことから、現在では、暦などにわずかに名残をとどめるのみとなっています。

しかし、長引く不況による日本の国力低下がささやかれる中、こうした不安定な時代にはよくあることで、占いや呪術といったものは流行りやすいものです。このため、安倍清明や陰陽道についても、小説や映画で取り上げられると大人気となり、果てやゲームやコミックの世界にまで浸透して、今やちょっとしたブームになっています。

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一方では、阿部清明は、その当時の最先端の学問であった陰陽道の科学的価値を高め、「天文道」や卜易を体系にまとめあげた人物として再評価する向きもあり、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受けたその政治的手腕を研究しようとする向きもあるようです。

しかし、一般にはその足跡の多くは神秘化されたものが多く、数々の伝説的逸話を生んできました。

この安倍清明の最大のライバルといわれた、「蘆屋道満」こと「道摩法師」との対決もそうした伝説のひとつです。道摩法師は、安倍清明と同じく平安時代の呪術師でしたが、安倍清明とは異なり、非官人の陰陽師でした。

江戸時代の地誌「播磨鑑」によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされ、また播磨国の民間陰陽師集団出身ともいわれています。晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持っていたとされ、安倍晴明が藤原道長お抱えの陰陽師であったのに対し、蘆屋道満は藤原顕光お抱えの陰陽師でした。

藤原道長は、言わずと知れた有名な政治家です。天皇家の姻戚筋にあたるとされ、数ある政争に勝って左大臣にまで上り詰めて政権を掌握した人物ですが、藤原顕光はその政敵のひとりでした。道満は藤原道長に命じられ、道長以前に左大臣の座にあった藤原顕光を呪祖するように命じたとされています。

清明と道満が直接対決をした、という話も残っており、「式神対決」と呼ばれたこの対決で道満は晴明に敗れ、播磨へ追放されたといいます。式神(しきがみ)とは、識神(しきじん)ともいわれ、陰陽師が使役する鬼神のことで、陰陽師自身は自ら闘わず、いわば手下である式神同士を戦わせて雌雄を決する、というわけです。

人心から起こる悪行や善行を見定める能力があるといわれ、文献によっては、式鬼(しき)、式鬼神ともいわれます。「式」とは「用いる」の意味であり、使役することをあらわしますから、これらかも陰陽師の手先の小悪魔であることがわかります。

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陰陽道は中国から伝来したものですが、これには古来からあった神道の思想や儀式も引き継がれて日本独特のものに変化したものであるということを前述しました。

神道では神主や巫女は、神降ろしによって神を呼び出し憑依させることを「神楽」や「祈祷」といいますが、これらは極めて日本的な神霊であるのに対し、陰陽道においてはその役割を中国由来の式神が担うようになりました。

神道においては、古くからの神道にある「和御魂」の神霊、すなわち自然霊だけを用いましたが、陰陽道では、これよりさらに格の低い「荒御魂」の神霊、いわゆる「荒ぶる神」や「妖怪変化」の類が式神であり、こうした位の低い神を呼び出して使役したと考えられています。

陰陽師においては、式札(しきふだ)と呼ばれる和紙のお札に祈祷を与えることで、これを式神へと変化させます。式神の形は様々ですが、使役意図に適った能力を具える鳥獣や異形の者へと自在に変身します。

異形の者というのはいろいろありますが、鬼のような形をしたものもあれば、いわゆる妖怪のような恐ろしい形のものもあります。中国由来であることから、あるいはキョンシーのようなものであったかもしれません。

滋賀県大津市にある園城寺(三井寺)に残っている「不動利益縁起(ふどうりやくえんぎ)」という巻物にある式神は、鶏や牛の妖怪であり、荒ぶる神としての式神として描かれています。最近の陰陽師ブームによってこの式神は更にいろんな姿で描かれるようになっており、ゲームやコミックで擬人化されたこれらを見たことのある人も多いでしょう。

こうした式神の中でも、安倍晴明がとくによく使役した式神は、「十二天将」だったといいます。「十二」という数字からもわかるように、陰陽師にとって必須の占術には十二支を始めとしてこの数字は必須であり、十二天将卜易の象徴体系の一つにもなっています。北極星を中心とする星や星座に起源を持っており、それぞれが陰陽五行説に当てはまります。

安倍晴明が残した「占事略决」という書物にある十二天将は以下のようになっており、それぞれに十二支が割り当てられています。

前一 騰虵(とうだ)火神 「巳」 夏 南東 炎に包まれ羽の生えた蛇の姿
前二 朱雀(すざく)火神 「午」 夏 南
前三 六合(りくごう)木神 「卯」 春 東 平和や調和を司る
前四 勾陳(こうちん)土神 「辰」 土用 南東 金の蛇の姿、京の中心の守護を担う
前五 青竜(せいりゅう)木神 「虎」 春 北東
天一 貴人(きじん)上神 「丑」 土用 北東 十二天将の主神で天乙貴人、天一神
後一 天后(てんこう)水神 「亥」 冬 北西 航海の安全を司る女神
後二 大陰(たいいん)金神 「酉「 秋 西 智恵長けた老婆
後三 玄武(げんぶ) 水神 「子」 冬 北
後四 大裳(たいも) 土神 「未」 土用 南西 四時の善神。天帝に仕える文官
後五 白虎(びゃっこ)金神 「申」 秋 南西
後六 天空(てんくう)土神 「戌」 土用 北西 霧や黄砂を呼ぶとされる

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朱雀や、青竜、玄武や白虎といったものが含まれていることからもわかるように、これらの十二神将は、キトラ古墳のような、古代の墳墓などにも好んでかかれた式神です。安倍清明はこれらの十二天将を駆使して、この時代の魔を退治したわけです。

こんな逸話があります。あるとき、ライバルの道満が上京し、安倍晴明に対して、内裏で争い負けた方が弟子になるということにしよう、と呪術勝負を持ちかけました。この勝負に、帝も興味を示し、帝は大柑子(みかん)を15個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を二人に与えました。

早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が15」と答えましたが、晴明は、じっくりと長持を眺めたあと、冷静に「鼠が15匹」と答えました。観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていましたが、彼が中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆してしまいました。

ところが、いざ長持を開けてみると、中からは鼠が15匹出てきて四方八方に走り回りました。晴明が式神を駆使して鼠に変えてしまったためであり、この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われています。

道満はまた、上述のとおり、左大臣藤原顕光に政敵である藤原道長への呪祖を命じられたことがあります。室町時代の播磨の地誌である「峰相記(ほうしょうき)」には、このときのことが書かれており、依頼された蘆谷道満は、道長を呪い殺そうしますが、安倍晴明にこれを見破られ、播磨に流されたと書いてあります。

また、こんな話もあります。

あるとき、安倍清明は、唐に渡り、伯道という上人のもとで修行をしていました。ところが、この修行のため日本を留守にしている間、道満は晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めました。しかも、晴明が唐から帰ってきたあと、この妻の手引きによって彼が伯道上人から授かった「書」を盗み見て、そこに書いてあった呪術を習得します。

そして、晴明との命を賭けた対決を申し出た道満は、この呪術を使って清明に勝利し彼を殺害しました。ところが、第六感で晴明の死を悟った師である伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させます。そして、二人で道満と対決して、ついに彼を斬首しました。

この道満という永遠のライバルとのいさかいに終止符を打った清明は、その後伯道上人から授かったくだんの書をさらに発展させて、こうした呪術の数々を「簠簋内伝金烏玉兎集」という秘伝書にまとめ上げた、という話です。

この伝説は、のちに浄瑠璃、歌舞伎に脚色されましたが、三重県の志摩地方の海女が身につける魔除けである、セーマンドーマンにもまたこの二人の名が残されています。この魔除けには、星形の印(セーマン)と格子状の印(ドーマン)が描かれ海での安全を祈願しますが、星形の印は晴明の五芒星紋、格子状の印は道満の九字紋だといわれています

磯ノミ、磯ジャツ(上着)、磯メガネなど、海女の用具全般に記され、海女達が恐れるトモカヅキ、山椒ビラシ、尻コボシ、ボーシン、引モーレン、龍宮からのおむかえ、などから彼女たちを守ります。これらの妖怪の詳細については、以前のブログ、「セーマンドーマン」を見てください。

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「丑の刻参り」もまたこうした清明や道満が使った陰陽道における呪術の名残といわれています。ご存知の方も多いでしょうが、これは、神木(神体)に五寸釘を打ち付け、自身が鬼となって恨む相手に復讐するというものです。

丑の刻(午前1時から午前3時頃)に神木に釘を打って結界を破り、常夜(夜だけの神の国)から、禍をもたらす神(魔や妖怪)を呼び出し、神懸りとなって恨む相手を祟ると考えられていました。妖怪を呼び出し、祟るために使役する点においては式神と同じです。

こうした数々の伝説を残した清明も、11世紀の最初のころに没しましたが、その後彼の存在は神格化されていきます。歴史物語の「大鏡」「十訓抄」や説話集の「今昔物語集」「宇治拾遺物語」には、とくに晴明に関する神秘的な逸話が多く載っています。清明の墓所は京都嵯峨に現存し、これは観光地として有名な渡月橋のすぐ近くです。

京都嵐山の渡月橋のちょっと下流の左岸に長倉天皇の墓所がありますが、この一角に安倍晴明を祀る神社があり、この境内にひっそりと安倍清明は眠っている、とされます。この地は彼の屋敷跡だったと伝えられており、このほかにも生誕地とされる大阪市阿倍野区に建てられた安倍晴明神社、東京の葛飾区にある熊野神社など全国各地に存在します。

後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したためにこうした神社は日本各地にあり、また晴明塚といわれる塚もあちこちに建立されており、こうした名跡がない県を探すほうが難しいくらいです。

ただ、維新後の1872年(明治5年)、明治新政府は陰陽道を迷信として廃止させたため、前述のとおり、現代では清明の築いた土御門家の陰陽道を扱うのは、正式には福井県の「天社土御門神道」と、高知県の香美市に伝わる「いざなぎ流」のみといわれます。

ただ、このいざなぎ流は、土御門家や賀茂氏との歴史的な関連性は確認されておらず、土佐国で独自発展した民間信仰ではないかともいわれているようです。一方の天社土御門神道は、天文学・暦学を受け継いだ安倍氏の嫡流が賜った「土御門」の称号を残すものです。

福井県おおい町に本庁を置く神道・陰陽道の流派で、正式には日本一社陰陽道宗家「土御門神道本庁」といいます。上述のとおり、江戸時代に土御門家は全国の陰陽師の統括を目的として保護され、陰陽道に神道を取り入れて独自の神道理論が打ち立てられ、「土御門神道」は幕末には全国に広まりました。

しかし、明治3年(1870年)に陰陽寮が廃止され、太政官から土御門に対して、天文学・暦学の事は、以後大学寮の管轄になると言い渡しを受けました。これによって陰陽師の身分もなくなる事になり、陰陽師たちは庇護を失い転職するか、独自の宗教活動をするようになりました。

このため陰陽道は民間の習俗・信仰と習合しつつ生活に溶け込んでいきましたが、溶け込みすぎたために、かえって消滅したように感じられるほどです。このおおい町に残る土御門神道は、そうした状況の中でも、かつての土御門神道の姿をその中に残しつつ、清明の子孫の手によって守られている、というわけです。

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この、おおい町はというのは、福井県南西部の町で、2006年に遠敷郡名田庄村と大飯郡大飯町が合併して誕生した町で、人口9千人、世帯数3千ほどのこじんまりとした町です。

北陸地方の最西端にあって若狭湾に面していることから、若西(じゃくせい)とよばれる地域のひとつであり、行政区域はリアス式海岸の続く若狭湾の一角とその背後に続く丹波高地の北側に位置します。旧名田庄地区には若狭と京都を結ぶルートの一つ周山街道が通り、かつては魚介類や塩がこの道を通り京都に運ばれていました。

室町中期から戦国期にかけての戦乱期には、都から多くの公家が下向したことが知られており、陰陽師の安倍晴明の直系子孫である土御門家もまた、応仁の乱を避け、京都からこの地に移り、乱が収まるまで数代にわたり居住しました。

このため、京都と同名の社寺が残り、かつての屋敷跡一帯には、小京都の風情があります。このような正統な意味での小京都は、全国でも例が非常に限られ、貴重な存在です。土御門家の本家はその後、秀吉や家康によって世の安泰がもたらされると京都に呼び戻されましたが、その庶子の子孫がここに残り、陰陽道の流れがこの地に受け継がれました。

大飯発電所のある町でもあります。関西電力が保有する原子力発電所としては最大規模で、全国的にみても柏崎刈羽原子力発電所に次ぎ、日本で第2位です。2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに日本国内の全原発が停止して以降、最初に再稼働した原発として有名になりました。

2012年7月5日、全国に先駆けて3号機が発送電を開始、21日には4号機が発送電を開始しましたが、翌年9月2日には3号機が定期検査のため停止、15日には4号機も定期検査に入り、これをもって再び日本国内において原発の稼働は停止されています。

この発電所はおおい町にある若狭湾に突き出した半島の先端部分に位置していますが、発電所から3㎞ほどの若狭湾内には、北西から南東方向に伸びる断層が存在することがその後判明し、この原発が現在停止しているのもこれが理由です。

施設内にも活断層が存在する、という見方もあり、山がちの半島の先端に位置するため、大地震、津波などが起きた際には、発電所と外部を結ぶ道路が寸断され、発電所が孤立する危険があるとの指摘もあります。

また、若狭湾にはこの大飯発電所の他にも、日本原子力発電の商用原発、日本原子力研究開発機構のもんじゅがあり、これらの原発があった各箇所では天正地震の津波で大きな被害が出たことが明らかになったことも発表されています。

できるだけの調査を行い、わかる範囲の他の時代の津波を含め、これへの対処の方法に関する最終的な報告を10月末頃に行う、と関西電力は言っているようですが、人々を納得させるような結論を導きだすのは結構きびしそうです。

私的には、地元陰陽師の手で、ちちんぷいぷいと、これらの原発を消滅させて欲しいと願っているのですが、はたして現在に至るまでもこうした悪魔を浄化してくれる安倍清明の霊魂は存在してくれているでしょうか。

この美しい日本を守るためにも、ぜがひにでも退治してほしいものです。

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芙蓉の人その後 ~富士山

2014-0864最近、毎週土曜日の夜9時から、NHKで「芙蓉の人」を放送していて、山岳物の好きな私は、これを毎回欠かさず見ています。

しかも、原作の作者はこれも私が愛してやまない、新田次郎さんであり、初版は1970年に出されました。主人公は「野中千代子」といい、これが「芙蓉の人」です。「芙蓉」は富士山のことでもあるわけですが、それにしても、なぜ富士のことを「芙蓉」と呼ぶのでしょうか。

調べてみると、はっきりしたことはわかりませんが、芙蓉には「美人」の意味もあるようで、このため、「美しい峰」と言う意味で使うようになったという説、また、芙蓉の花のあのぎざぎざした花弁が、富士山頂のギザギザに似ている、という説などがあるようです。

新田さんは、その著作に「白い花が好きだ」という随筆もあり、自らの作品に白い花の名を与えたかった、という意向はあったでしょう。白い芙蓉の花の清楚な姿はなるほど富士山にもよく映えます。

富士山に日本人女性として初めて登ったのは、江戸時代の「高山たつ」という人です。この人の場合は信仰のためでしたが、気象観測という実務のために登ったのは、野中千代子が初めてのことであり、気象技術者でもあった新田さんは敬意をこめて富士の雅称である芙蓉の名を彼女に贈ったのでしょう。

この野中千代子という人は、実際、残っている写真をみるとなるほど花に例えても良いほど、結構な美人さんです。結婚前は福岡藩の「喜多流」という能楽師の娘さんだったようで、同じく福岡の人で親戚でもある「野中到」と結婚し、夫婦で冬季の富士気象観測を成功させるという快挙を成し遂げました。

この物語はこの二人の夫婦愛と、気象観測に情熱を傾ける夫、野中到の人生を描いたノンフィクションであり、新田さんの原作が発行されてから3年のちの、1973年にはじめてNHK放送でテレビ化されました。ただ、今回の放送は全6回ありますが、このときは全2回でした。

主演の野中到は、長門裕之、千代子は八千草薫で、その後も民放のテレビ東京で1977~1978年まで放送されていますが、この時の野中到は、中村嘉葎雄、千代子は五大路子でした。
その後、NHKは1982年にも「少年ドラマシリーズ」としてこの話を放送していますが、このときは、一回きりの短編だったようです。野中到は滝田栄、千代子は藤真利子です。

NHKとしてのドラマ化は、これ以来、なんと32年ぶりということになりますが、その背景としては、昨年富士山が世界遺産登録されたこともあって話題性も高いことや、最近は朝ドラなどの短編は好調なものの、長編についてはドラマ離れの傾向が強いので、ここらでヒット作を飛ばして、足がかりを作りたいといったこともあったでしょう。

そのNHKの意気込みにも答え、私もテレビで放送される新田作品としては久々でもあるので、結構リキを入れてみているのですが、主人公の千代子を奥深い縁起で定評の松下奈緒さんが演じ、また野中到を熱血物で定評のある佐藤隆太さんが好演していて、なかなかよく出来ていると思います。

が、ストーリーは単純なため、そこを演出やら役者さんの演技力でカバーしているようなところがあり、まだ完結しているわけではありませんが、クライマックスに向けてどの程度盛り上がりを持たせてくるかが成功か否かの分岐点といったところでしょうか。

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ところで、この芙蓉の人の原作者の新田次郎さんは、これを書いたあとわずか10年後の1980年に67歳という若さで亡くなっています。1956年に「強力伝」で第34回直木賞を受賞して以降、主に山岳モノで人気作家となり、晩年は歴史小説などにも力を入れていました。が、私はどちらかといえば晩年の作風よりも、若いころの作品のほうが好きです。

実はもと気象庁の職員であり、1932年に現在の気象庁にあたる中央気象台に入庁し、当初は富士山観測所に配属されていました。その後東京に戻って技術職員としてのキャリアを積んでいましたが、太平洋戦争のさなか、1943年には満州国観象台に転勤となり、ここで高層気象課長を勤めました。

1945年に終戦。しかしそのままの帰国はかなわず、新京で中国共産党軍に拉致されて抑留生活を送ることになりました。しかし、翌年には帰国がかない、中央気象台に復職。気象庁生え抜きの技術者として活躍しつつ、1963年ころからは気象庁観測部の高層気象観測課長・測器課長として、富士山気象レーダー建設責任者となりました。

このレーダーは、1959年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置が必要と考えられたことにより建設が決まったもので、新田さんたちの努力が実り、1965年に無事完成しました。

このとき、新田さんはこのレーダーの建設に関連して数々の新技術をも開発しましたが、そのひとつには無線によるロボット雨量観測計などもあり、これによって運輸大臣賞を受賞しています。

この当時においては、気象測量機器開発およびこれを使った観測の第一人者といえ、また完成した富士山山気象レーダーの運用技術もまたこの当時世界最高度のものであったため、そのノウハウの教示の要望が内外からも高く、新田さんは国際連合の気象学会でもこれを発表するなどの公務に明け暮れました。

こうした富士山レーダーとの関わりを基にして書かれた作品が、小説「富士山頂」であり、この作品は1967年に映画化もなされました。「芙蓉の人」はこの3年後に書かれたものです。

新田さんと同じく気象学者であり、富士山観測に関しては先人である野中到のことについては、かねがね気にはなっていたようで、長年この人の伝記を書こう書こうとネタを貯めこんでいたといいます。

この物語の主人公である、野中到と千代子夫人の話は、奇しくもちょうど一年前にもこのブログでその名も「芙蓉の人」、として書いています。二番煎じということになりますが、このときは野中到の晩年のことなどについてはあまり触れていないので、あらためてもう少し書き足してみたいと思います。

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野中到は、現在、これもNHK製作の大河ドラマ、「軍師官兵衛」で有名になった福岡の黒田藩の藩士・野中勝良の息子として筑前国(現福岡県)に生まれました。祖父は黒田家に仕えていた200石取りの武士で、槍術の達人だったといい、父は、明治維新後に役人となり、東京控訴院判事などを勤めていました。

この父の姉の糸子がのちの妻である千代子の実母であり、つまり二人はいとこ同士ということになります。役人の子として厳格な家庭で育てられたようですが、長じてからは気象観測に興味を持つようになります。

この当時気象予報はまだ黎明期であり、現在のような数値予報は行われておらず、機械による地道な観測が主であり、観測ポイントも少なかったこともあって、天気予報は当たらないのが当たり前といわれた時代でした。

また高地測候所は信州にしかなく、野中は、気象の勉強を進めるにつれ、天気予報が当たらないのは、高層気象観測所が少ないからだ、と考えるようになりました。そして天気は高い空から変わってくる、富士山のような高い山に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる、と確信します。

しかし、時代は日清戦争から日露戦争へ、またその後の軍拡へと突き進む時代であって国費は乏しく、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ません。このため、まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能であると、野中は考えました。

こうして自費で富士山観測所の設立することを思い立った野中は、思い切って当時入学していた大学予備門(現・東京大学)を中退し、その建設方法の模索を始めました。1894年ごろからその準備登山を始め、翌年1895年(明治28年)初頭には、厳寒期の登頂に成功し、富士山頂での越冬が可能であることを確信。

私財を投じて測候用の小屋を建設するための資材を集め始めましたが、資金不足のために当初予定していたほどの観測所はできず、結局6坪(およそ20平方m)ほどの「小屋」になってしまいました。

しかも、明治維新以降、信者だけでなく一般登山者も増えたため、山小屋へ荷物を運ぶ人手は忙しく、このため、観測小屋を建設するための資材を運ぶ強力を思うように集めることができません。しかし、地元御殿場で定宿としていた旅籠の主人などの援助なども得てなんとか強力を集めることができ、8月までにはようやく「野中観測所」が完成しました。

この観測所は、富士山頂の中でも一番高い場所である剣ヶ峰に建設されました。風を避けるところが少ない山頂において数少ない崖状の地形がある場所であり、観測所はそこにへばりつくように建てられました。ここに野中は冬季を超すための大量の資材を背負った強力とともに入り、9月初旬から観測を始めました。

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無論、強力は返し、一人だけの観測が始まったわけですが、毎定時に気温や風速、気圧を始め多くの観測記録を残す必要があるため、寝る時間は無論、料理をする時間も僅かしかなく徐々に衰弱していきました。実はこのことを東京に残した妻の千代子は予見しており、夫を助けるため、わざわざ実家のある福岡に帰って登山の練習などの準備をしていました。

夫が保有する気象学のなども勉強し、気象観測の方法まで勉強しており、夫を助けるために富士山に共に登るという決意は固いものでした。二人には一人娘がおり、もしものことがあってはと周囲は反対しましたが、その子を福岡の実家に預けてまでして、千代子は夫を追いかけて富士に登ります。

しかし、季節は既に10月半ばでした。連日マイナス20度以下という厳しい寒さによって、千代子は風邪をこじらせ扁桃腺が腫れて呼吸ができなくなるという事態が発生します。このとき、なんと到は、真っ赤に焼いたノミで千代子の扁桃腺を切り、膿を出して助け、この荒療治が功を奏し千代子は元気になりました。

とはいえ、極寒の山上での生活は更に厳しく、二人とも高山病と栄養失調で歩行不能になり、また越年を待たず、12月にはほとんどの観測機器が壊れるという事態に至ります。そんな中、二人を心配し、冬富士に危険を冒して訪れたのが、野中の弟の野中清でした。

清によって夫妻の体調不良の状況はすぐに麓に伝えられ、やがて野中夫妻を応援していた中央気象台の技師らが救援にかけつけます。野中は頑として観測を続けると言い張りますが、諭され、説得されてようやく下山に合意しました。

こうして冬季を通して富士観測を行うという野中到の試みは道半ばで途絶えましたが、野中夫妻のこの決死の行為と思いは、この時代の人々に大いに共感されました。評判をよび、小説や劇になりましたが、野中自身は越冬断念により十分な結果が得られなかったことをいつまでも恥じていたといいます。

このためもあり、野中は1899年(明治32年)には本格的な観測所の建設を目指し、「富士観象会」という民間団体をつくり、富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけました。また、富士山頂における気象観測の有効性を訴えるべく、その後も絶えず登山し観測を続け、中央気象台へもそのデータを提供し続けました。

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こうした野中の熱意に動かされ、明治34年(1901年には、宮家の山階宮菊麿王が、茨城県の筑波山に「山階宮気象観測所」を設立しました。ここの初代の所長となったのが、気象台の大分測候所の技師であった、佐藤順一でした。

佐藤順一は、野中と同じく福岡県の出身で、父佐藤善六は柳川藩の立花氏につかえ、同藩の剣道指南役でした。大分県尋常中学校卒業後、東京に出て私立東京物理学(現在の東京理科大学)に入学、卒業後大分測候所の技手として採用されました。

その後は、気象学者として知られるようになり、これが山階宮の目に留まったものです。この山階宮菊麿王は、海軍に入り、海軍大佐まで進んだ人でしたが、気象学研究にも打ち込み、筑波山のこの気象観測所も建設費用は自弁でした。

山階宮菊麿王は16歳の時にドイツに留学、キールの海軍兵学校に入学し、卒業後、海軍少尉に任官しましたが、引き続いて海軍大学に入り、卒業後の明治27年日清戦争のすぐ前に帰国しました。留学先のキールは軍港でしたが、すぐ近くにウィルヘルムスハーフェンという商港がありました。

ここには海洋気象台があり、休みのたびにここを訪れていた山階宮父は気象台長にかわいがられ、しばしば通ううちに気象観測の手ほどきを受け、これが一生の興味となりました。そして帰国後すぐに始めたのが、高層気象観測であり、そのために建設したのが筑波山の「山階宮気象観測所」だったというわけです。

この佐藤順一は、その後筑波山の所長をやめ、大正9年に中央気象台技師に任ぜられました。さらに、北樺太のアレキサンド・フスクでの観測を命ぜられてこの大役を全うし、大正15年(1926)にはそれらの功績を認められて大日本気象学会の幹事になっています。

このころ、富士山頂における越冬観測は、明治28年(1895)の野中到の観測以来、不可能とされるようになっていました。野中の富士山頂での観測は冬季ではあったとはいえ、9月から12月までであり、さらに極寒が続く、1~2月の冬季観測はことさら困難と考えられていました。

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ところが、佐藤は、昭和2年(1927年)、日本で初めて創設された自動車学校として知られ、五反田にあった「東京自動車学校」の鈴木靖二校長という知己を得ました。実はこの鈴木靖二は、山階宮菊麻呂殿下の運転手をしていたことがあり、山階宮が36歳の若さで逝去してからは実業家に転じ、東京自動車学校を設立していたのです。

佐藤はこの鈴木の寄付を得て、富士山頂の東安河原に観測小屋「佐藤小屋」を完成させました。そして、昭和2年(1927)の12月、若い技手3人をつれて冬季富士登山を試みました。しかし、この時は暴風雪のため失敗したため、昭和5年(1930)1月には、梶房吉という強力をひとり連れて富士山頂に向かいました。

途中八合目では滑落し、手と足に怪我をしましたが、強力の房吉に助けられて山頂にたどりつき、そこで冬季観測をはじめました。この登山においては脚気や凍傷になやまされはしたものの、予定通り1ヵ月の観測をすませ、2月に下山しました。が、この下山のときにも吹雪にあい、両足に凍傷を負っています。

しかし、この当時気象台を管轄していた文部省への報告にはこのことにはふれず、装具さえ十分ならば、59才の自分でも平地と全く同様に観測するこができるとだけ報告したといいます。これによって、野中到の観測以来、危険とされていた越冬観測が不可能であるというのは迷信だという雰囲気が生まれました。

こうして中央気象台が富士山頂に正式な観測所をスタートさせたのは昭和7年(1932年)のことでした。ただこのときにはまだ「臨時気象観測所」であり、まだ未知の領域ということでもあり、一年限りの予算で試験的観測という位置づけでした。

が、幸いにもこれは成功し、昭和11年(1936年)には常設の「中央気象台富士山頂観測所」が剣ヶ峯に完成しています。以後、平成16年(2004年)に無人化されるまでは、富士山頂における有人観測は継続され続け、その後の日本全土の気象予報の精度アップに大きく貢献しました。

佐藤順一による民間初となるこの厳冬期における富士山測候所の成功は、それ以前に気象学に情熱を傾け続けてきた野中到や山階宮菊麻呂王の努力のたまものともいえます。

ちなみに佐藤順一は、その後中央気象台の技師として復帰し、昭和16年にはすでに70才になっていたのにもかかわらず統計課の雨量掛長に命ぜられています。その後図書課という閑職に移り、一時再び統計課に勤務されたこともあったようです。しかし、昭和24年(1949)に退職したときは再び調査部図書課に戻りそこの事務員をしていました。

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退職後は気象学会の事務に専念し、役所に出られなくなってから後は杉並区高円寺の自宅で悠々自適の生活を送っており、昭和41年にはそれまでの気象学における貢献によって、日本気象学会の最初の名誉会員となるとともに勲四等に叙せられ、旭日小綬章が授けられています。

その4年後の昭和45年(1970)脳軟化症により亡くなりました。享年97才の大往生でした。

この佐藤順一を富士に誘ったともいえる先人の野中到のほうですが、彼はその後も、富士での観測記録を含む著書「富士案内」などを観測するなど、引き続き富士山に関わり続けました。が、その一環で、1905年(明治38年)、経営危機にあった御殿場馬車鉄道を買収し、「野中御殿場馬車軌道」として個人で運営を始めました。

野中がこの会社を始めたのは、かつての富士山での観測所の建設にあたり、麓の御殿場の人々の手厚い援助を受けたことの恩返し手の意味があったと思われ、また当時強力として、気象台の富士山観測のための資材や食料運搬にあたっていた人々のための便宜を図る意味もあったと思われます。

更には年々増加する富士登山者の足としての鉄道馬車の将来性を見越していたのでしょう。この御殿場馬車軌道は、山中湖側から籠坂峠を越えて須走に至るルートと、御殿場市内から須走に至るルートがあったようで、御殿場駅前から、その北西に位置し富士登山口の一つとなっていた須走村に至るまでの工程がこの馬車鉄道によってかなり短縮されました。

全盛期には客車32両、貨車24両を有し、年間7万人近い人を運んだ時期もあったようですが、その後、バスやトラックが普及したため馬車鉄道は衰退。1928年(昭和3年)に全線が休止し、1929年(昭和4年)に会社は解散、御殿場馬車鉄道は消滅しました。

最愛の妻、千代子が死去した1923年(大正12年)にはそれでもまだ年間4万人ほどの利用客がありましたが、千代子の死とともに、野中到の事業も縮小していった恰好となります。野中はその後、30年あまりを東京で生き、1955年(昭和30年)に亡くなりました。88歳であり、53歳と早くして亡くなった千代子と比べればかなりの長寿でした。

御殿場馬車鉄道の事業を辞めて以降、何をしていたのかは何を調べても出てこず、よくわかりません。が、少なくとも気象関係の仕事はしていなかったようです。最晩年は神奈川県の逗子市に住んでいたようで、この逗子市の海岸付近にある浪子不動堂の上の高台に住んでいたことなどが確認できました。

その近くに、披露山公園というのがあり、その眺望の良さからも逗子市民をはじめ多くの人々に愛され親しまれています。ここからは西に江の島を望み、相模湾そして天気が良ければ雄大な富士山が一望できるそうで、野中はここから富士山を望みながら、往時のことを思い出しつつ余生を送っていたのでしょう

野中到の墓所は東京文京区の「護国寺」にありますが、ここには千代子が先に埋葬されており、二人は仲良く同じ墓に眠っています。この護国寺には富士浅間神社を祀る富士山があるので有名だそうで、小高い土を持った程度ですが、ここに登ると富士山登頂と同じ意味があるそうです。

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野中到が最初に始め、新田次郎がレーダー建設によってその後の本格運用の端緒を開いた富士山の気象観測もまた、その後縮小されていきました。

まず平成11年(1999年)に富士山レーダーによる観測が廃止され、その後平成16年(2004年)10月1日から無人化されました。しかし、レーダー撤去後も観測建屋は残り、平成20年(2008年)10月1日にこれを富士山特別地域気象観測所と名称を変更。

現在は、研究者の組織である「富士山高所科学研究会」が中心となって設立したNPO法人「富士山測候所を活用する会」が、夏季期間に測候所の庁舎施設を借用し、様々な研究活動を行っています。が、無論、かつてのような有人による通年観測は行っていません。

この観測所での観測では、昭和41年(1966年)9月25日、台風26号がすぐ西を通過した際、最大瞬間風速の日本記録の91.0m/sを観測するなどの希少なデータなども多数得られました。

しかし、気象衛星の発達や、長野レーダー・静岡レーダーの設置などにより、富士山でのレーダー観測が必要性を失ったことが大きく、また観測装置が発達したことにより、現地での人手による観測の必要性は失われました。

この有人観測中、とくに問題になることが多かったのは測候所運用の鍵ともいえる電源の問題だったそうで、旧陸軍が設置した電線の劣化に端を発し、老朽化し続けるその他の施設のメインテナンスは大変だったらしく、このほか観測員の排泄物の処理などにまつわる環境汚染なども問題視されていたようです。

また、富士登山をしてくる一般登山者の遭難の可能性がある場合、観測員がその対応に追われるといったこともあったようです。とくに冬季の富士に禁止されているにも関わらず登頂してきて、観測所に宿泊を頼む輩もいたようで、その際当惑したことなどを新田さんが何かの随筆で書いていたように記憶しています。

ちなみに、1966年3月5日に起こった英国海外航空機空中分解事故は、富士山御殿場市上空で起き、乱気流に遭遇した同機は空中分解後、御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下し、乗客乗員124名全員が犠牲になりました。その瞬間を、この富士山測候所職員が目撃していたそうで、その後墜落原因を明らかにするためにその目撃談が役立ったといいます。

ちなみにちょうどこの年に、新田さんは気象庁観測部測器課長を最後に依願退職しており、このため彼自身はこの事故を目にしてはいません。あるいは何かの折に書こうとこの事故に関するネタを集めていたかもしれませんが、私が知る限りはこれにまつわる随筆などもないようです。

この英国海外航空事故は、この年1966年に5連続で起こった航空機事故の3番目の事故であり、この年は丙午の年だったということも印象深いのですが、このことについては、また別の機会に書くことにしましょう。

今年も富士登山の季節が終わろうとしています。今宵も延々と山頂へと続く灯りが夜通し見えることと思いますが、ここ数日の寒気によってかなり富士山頂も寒かろうと思われます。無事下山されることを祈ります。

さて、みなさんは今年、富士山の初登頂を果たせたでしょうか。

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ダーウィンがいた!

2014-5352かなり涼しくなってきましたが、標高約200mの場所にある我が家ではさらに気温が低く感じられます。

植物も同じとみえ、麓ではほぼ消滅してしまった柏葉アジサイが今もって咲いており、またサルスベリなどの花木も、もう8月の終わりだというのに、今がまっさかり、といったかんじです。

このサルスベリは、ミソハギ科の落葉中高木で、花は紅の濃淡色または白色と言いうものが多いようですが、最近は紫色や青っぽいものまで見かけられます。我が家に咲いているのは、白とピンクが混じりあった不思議な色の花で、これは品種改良の成果なのでしょう。

漢字として「百日紅」があてられますが、これはこうした可憐な花を夏の間中、咲かせることに由来しています。花が美しいばかりでなく、耐病性もあり、必要以上に大きくならないため、一般家庭もさることながら公園などに植えられることが多く、サルスベリだけを集めた庭園というのもよく見かけます。

幹の肥大成長に伴って古い樹皮が剥がれ落ち、新しいすべすべした感触の樹皮が表面に出て更新されていきます。「さるすべり」の読みは、このなめらかな表皮のために、猿が登ろうとしても、滑ってしまうためにつけられたようで、実際、「猿滑」と表記することもあるようです。もっともこのくらいの表面なら、サルは苦も無く登ってしまうでしょうが。

この「サル」の顔つきは、ヒトに比べると額が狭く、顎が前に突き出ています。このため、そういう顔つきの人は、よくサル面といわれます。豊臣秀吉のあだ名がサルであったことは有名ですが、最近ではタカ&トシの、トシさんのサル面が愛嬌があると人気です。

サルといえば、チャールズ・ダーウィンの進化論は、このサルが人類の先祖であったことを証明しました。が、この理論の発表当初は、世間から総反発を喰らいました。このため、ダーウィンの顔にサルの胴体をつなげた似顔絵が描かれたこともあります。しかし、彼自身も顎が突き出ており、顔がしわくちゃで、どちらかといえばサル面だったようです。

ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を種の変化の調査へと導きました。そして1838年に自然選択説を思いつき、そのアイディアは親しい友人の博物学者と議論された結果、1859年に著書「種の起源」として発表され、以後自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論は確立されました。

ダーウィンは、1809年2月12日にイングランドのシュロップシャー州シュルーズベリーにて、裕福な医師で投資家だった父ロバート・ダーウィンと母スザンナ・ウェッジウッドの間に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれました。

父方の祖父は高名な医師・博物学者であり、母方の祖父は陶芸家・企業家でした。この祖父同士は仲が良く、このためダーウィン家とウェッジウッド家は家族ぐるみで交流を行うほど親密でした。このため、両家と数組の婚姻が結ばれてさらに近しい姻戚関係となりましたが、ダーウィンの両親の結婚もそのひとつでした。

また、実業家であった母のスザンナの弟で、ダーウィンの叔父にあたるジョサイア2世は、同じく実業家である父とウマがあったようで、このためダーウィンとも生涯において何かと関わりが続きました。

父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はありませんでしたが、園芸が趣味だったため幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていました。このため、子供のころから博物学的趣味を好み、小さなころから植物・貝殻・鉱物の収集を行っていました。

ダーウィンが8歳のとき、母のスザンナが亡くなり、このためキャロラインら3人の姉が母親代わりをつとめました。父のロバートは思いやり深い人でしたが、妻の死によって厳格さを増し、子供たちには厳しく接することもあったといいます。

一方では、この父を含めダーウィンの一族の男性は自由思想家で非宗教的傾向が強かったといいます。ただ、父ロバートは保守的なイギリス国民でもあり、国教である英国国教を受け入れ、しきたりに従って子どもたちに英国国教会で洗礼を受けさせました。従って、ダーウィンもまた長じるまでは敬虔なクリスチャンでした。

ダーウィンが育った、シュルーズベリーという町は、イギリス中西部に位置し、中心部の大きな通りに、中世から変わらない歴史的なマーケットタウンが配置されており、15世紀から16世紀の木造建築を含め、660以上もの歴史的な建物が残っています。

このシュルーズベリーを含むイギリス南部のイングランドとウェールズ地方では、その人口の大部分は農業と牧畜に従事し、都市に住む者はごく少数でした。このため、農民は礼拝後に教会の敷地内で開催された非公式の市場で自らの農産物を販売するようになり、これを「マーケットタウン」と呼びました。

現在もシュルーズベリーの中心部の大きな通りには、中世から変わらない歴史的なマーケットタウンが配置されており、ここはイギリスの典型的な田舎町といった風情です。また、毎年恒例のシュルーズベリーフラワーショーは、英国で最大かつ最古の園芸イベントの一つで、ここに毎年10万人もの人々が集まります。

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ダーウィンは、そんな田舎町にある寄宿舎校で7歳から学んだ後、16歳(1825年)の時に親元を離れ、イギリス北部スコットランドのエディンバラ大学で父の家業を助けるために医学と地質学を学び始めました。

しかしこのエディンバラ大学では、麻酔がまだ導入されていない時代の外科手術を学ぶことになり、もともと血を見るのが苦手だったダーウィンはこれが苦手で、またそのアカデミックな内容の退屈な講義になじめず、まったくここでの勉学には身が入りませんでした。

このため、昔から好きだった博物学への興味のほうが先行し、さらには昆虫採集などを通じて実体験に即した自然界の多様性に魅せられていたことから、ついには学位を取らずに18歳で大学を去ることになりました。

エディンバラ大学を中退した彼に父のロバートは失望しますが、考えを改め、今度は彼を牧師とするためにケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入れ、神学や古典、数学を学ばせようとしました。これも彼の本意ではありませんでしたが、牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考えてひそかに喜び、父の提案を受け入れます。

そして、このケンブリッジ大学でも必修ではなかった博物学や昆虫採集に傾倒しました。しかし、この当時のダーウィンの頭の中には、人がサルから進化したというようなアイデアはまったくなく、全ての生物は神が天地創造の時点でデザインしたとする「デザイン説」に納得し、これを信じていました。

しかしその一方で、自然哲学の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述したジョン・ハーシェルの新進理論を学び、アレキサンダー・フンボルトの科学的探検旅行といった本を読み、博物学の基礎をも学びました。

さらには、これら博物学の先人たちの「燃える熱意」に刺激され、熱帯でその実践を学ぶために卒業のあと同輩たちとアフリカ大陸北西岸にあるカナリア諸島のテネリフェへ島へ博物学調査を目的として旅行を敢行しました。

またこれに先だち、地層の形成や化石生物の存在を天変地異的な現象で説明しようとするウェールズでの地層調査などにも参加しました。

地上の世界は神の創造行為である天変地異によって生じたことを証明するための調査であり、こうした調査に参加すること自体、このころダーウィンはまだ科学よりも宗教のほうへ重心を置いていたことがわかります。ただ、こうした基礎調査への参加は、のちにビーグル号で博物学者としての任務を果たすためのよきリハーサルになりました。

なお、このケンブリッジに入学した年の夏にはジョサイア2世やその娘、つまり彼にとっては従妹である、エマ・ウェッジウッドとヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在しており、これは彼にとって最初で最後のヨーロッパ大陸滞在でした。そして、このエマこそ、ダーウィンの将来の妻になる人でした。

1831年にケンブリッジ大学を卒業すると、恩師の紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになりました。ビーグル号は、イギリス海軍の10門の砲を搭載した帆船であり、ビーグル号の名は、野兎狩りに使われる猟犬ビーグルに由来します。

もともとは軍艦でしたが、老朽化のため予備艦となっていたものを改装して測量艦として使われるようになり、ダーウィンらが乗船した航海の前には、南米大陸最南端に位置するティエラ・デル・フエゴ諸島などの水路調査を行っていました。

測量艦としての任務は、イギリスが世界中に植民地を持とうとしていたこの時代にあって、未知の島嶼やその周辺における航路の開拓が主なものでしたが、同時にダーウィンのような博物学者を乗船させて大英帝国の威信にかけた博物学調査も目的のひとつでした。

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ダーウィンのこのビーグル号への乗船にしかし、父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対しました。

ただ、叔父のジョサイア2世の取りなしでなんとか参加が認められ、こうしてダーウィンを乗せたビーグル号は1831年12月にイギリス南西部の軍港、プリマスを出航しました。
このビーグル号による航海は、結果として足かけ5年にもおよぶ世界一周旅行になります。

そしてこの航海でダーウィンは、のちの世で高く評価されることになる進化論を思いつくことになるわけですが、弱冠22歳のこの若き博物学者はこのときはまだ、そんなことはつゆとも考えておらず、ただ、前途に広がる洋々とした海原のかなたに彼を待っている数々の生物たちに思いを馳せ、その出会いに対する期待だけに胸を膨らませていました。

ビーグル号が南米に向かう途中には、大西洋の北、アフリカの西沖合いカーボヴェルデ島に寄港し、そのあと南米東岸を南下してリオデジャネイロに立ち寄りましたが、ここでビーグル号の正式な艦の博物学者だった艦医マコーミックが下船したため、非公式ながらダーウィンがその後任を務めることになりました。

1834年6月にはマゼラン海峡を通過し、7月に南米西岸のバルパライソに寄港。ここでダーウィンは病に倒れ、1月ほど療養を余儀なくされましたが、思えばこのとき、のちに彼を一生苦しませることになる病因を得たのかもしれません。が、彼が罹患した病気が何であったのかについては必ずしも明らかになっていません。

バルパライソを発ったビーグル号がここから更に北上し、ダーウィンがのちに進化論へとつながる多数の生物と出会うことになる赤道直下のガラパゴス諸島に到着したのは1835年9月15日のことです。一行は、これより約一ヶ月、10月20日までここに滞在しました。

このガラパゴス諸島は、東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領の諸島で、「ガラパゴス」は、「ゾウガメの島」という、スペイン語です。1832年にエクアドルが領有を宣言すると、次々と各国の入植が開始され、イギリスも総督府をここに置いて、主にこの地に囚人を送り、流刑地としていました。

赤道直下のエクアドル本土より西約900キロメートルにあり、大小多くの島と岩礁から構成され、現在、ガラパゴスの123の島にはすべて名前が付けられています。が、この当時は無論、島々に名前などありません。これらは、1535年、スペイン人の宣教師たちが、侵略で得たインカ帝国内の領地へ伝道に向かう航海の途中、偶然に発見されたものです。

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ガラパゴス諸島は発見時には無人島であったようですが、ダーウィンらがここを訪れる前後ごろからスペイン船の金などの積載物を狙う海賊の隠れ家として利用されるようになり、海賊たちは食料のヤギを島に放しました。

このため、ヤギの大繁殖が起こり、捕鯨船の乗組員によるゾウガメの捕食などもあり、1832年にエクアドルがここの領有を宣言すると、次々と入植者も増え、さらに環境破壊が進行しました。そして時代を経て現在に至るまでには、航空路や横断道路が建設され、欧米を中心に観光客が訪れて、環境破壊も深刻になりました。

世界遺産にも登録された現在では国立公園管理事務所の設置、観光客に対するナチュラリストガイド制度などの厳重な自然保護対策が講じられており、観光客は、足元を洗ってからでないと上陸させないほどの保護体制を取っています。が、未だ大航海時代に持ち込まれたヤギの繁殖は問題になっているようです。

ガラパゴス諸島は赤道直下にあって陸地から切り離されて孤立した存在であり、こうした島々で生息する生物は飛来したか海を渡って漂着したものの子孫に限られます。その多くは南アメリカ大陸に出自があるとされます。またほ乳類と両生類を欠くなど、生物相にははっきりしたゆがみがあります。

その代わりに生存する種群には「適応放散」が著しく、これは、生物の進化に見られる現象のひとつで、単一の祖先から多様な形質の子孫が出現することを指します。特にゾウガメがこの島の名の由来になったように、大型のは虫類がとくに多く、種々の動物相の中でも突出しています。

このため、最近では、こうした孤島であるがゆえに偏った生物相を持つ島嶼になぞらえ、さまざまな事象を「○○のガラパゴス」と呼びます。

ガラケーもそのひとつであり、これはガラパゴス携帯の略で、いわゆるスマートフォンが登場する前の「普通の携帯電話」のことを意味です。ただ、ガラケーのことをスマホを使えない人が使う「遅れた携帯」という意味だと思っている人がいますが、これは違います。

日本の携帯が世界から隔離されたような環境で独自の進化をとげており、ワンセグ・着うた・着メロ・電子マネー・お財布携帯・アプリ・ゲームなど、日本では当たり前のような機能も、実は海外ではほとんど普及していない機能です。このため、ガラケーと呼ばれて肩身が狭い思いをしていますが、実は世界標準ではない特殊な電話であるだけです。

日本では琉球列島や小笠原諸島が「日本のガラパゴス」と呼ばれますが、琉球列島はかつて大陸や日本列島と陸続きで、そこから侵入した生物相が元になっている点、海洋島へ漂着した生物を起源とするガラパゴスのそれとは性格が異なります。したがって、その意味では小笠原だけは、こう呼ぶ方が理にかなっていると言えます。

最近の調査ではウミイグアナとガラパゴスリクイグアナの共存関係が崩れだし、ウミイグアナとガラパゴスリクイグアナの交尾によって生まれた子供は、両方の遺伝子を持ち、ガラパゴスリクイグアナにはない鋭い爪が生えているそうです。

これをハイブリッドイグアナと呼びます。が、両方の遺伝子を持つという特殊生物であるためか繁殖力はありません。また最近はエルニーニョ現象の影響からか、体長が25%も短いイグアナが発見されたりしており、ガラパゴスの生態系が破壊されつつあるのではないかと問題視されています。

ガラパゴス諸島は地質学的にはおよそ500万年歴史があると考えられています。が、ダーウィンは当初そう古いものとは考えておらず、ここに生息するゾウガメたちは海賊が食料代わりに連れてきたものだと考えていました。

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ところが、この地に長く住むガラパゴス総督から諸島のあちこちに多数の変種がいることを教えられ、ダーウィンはそこで初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づきました。

一般に、ダーウィンはガラパゴス諸島で「ダーウィンフィンチ」と呼ばれることになる鳥類の多様性から進化論のヒントを得たと言われています。

が、彼の足跡を調べた研究者によれば、彼はガラパゴス諸島に滞在した時にはこうしたゾウガメやイグアナのほか、鳥類でもツグミのような種に強い興味を持っていたといい、こちらから最初にヒントを得たというのが事実のようです。

しかしまだこれらの種の進化や分化に気がついていなかったため、彼の興味は博物学的な関心から生物の多様性をそのまま記載するだけでした。このため、フィンチなどの鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、どこで採取したかの記録も残しておらず、鳥類標本については、後に帰国してから同船仲間のコレクションを利用せざるを得ませんでした。

前述のように、彼が進化論の糸口を発見したのは、ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について様々な示唆を受けることができたためでした。が、このことについて深く考察し始めるころには既に一行は諸島の調査予定を終えつつあり、その考えに基づいた十分な資料を持ち帰ることができず、のちにダーウィンはこのことをひどく後悔しています。

なお、この時、ダーウィンがガラパゴス諸島からイギリスまで持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは175歳まで生き、2006年に心臓発作のため他界しています。

やがて調査を終えた一向は、1835年12月に南下してニュージーランドへ寄港し、さらにオーストラリアのシドニーへ到着しました。その後、インド洋を横断し、モーリシャス島に寄港した後、南アのケープタウンへ到着。北上して大西洋に浮かぶイギリス領の火山島、セントヘレナ島にも立ち寄り、ダーウィンはここでナポレオンの墓所を散策しています。

その後、大西洋中央部のアゾレス諸島を経て1836年10月2日にプリマスにもほど近い、ファルマス港に帰着しました。航海は当初3年の予定でしたが、ほぼ5年が経過していました。

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後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残しています。

一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと、三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほどこの大陸のものに似ていることでした。

つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相や植物相が微妙に違うものの近縁にあることに気づき、それぞれの種が独立して創られた不変の存在であるとは考えられないと感じるようになったのです。また、この5年にわたるビーグル号での航海中、ダーウィンは、スコットランド出身の地質学者で、友人であるチャールズ・ライエルの「地質学原理」を読んでいました。

そこには地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化することなどが書かれていましたが、ダーウィンは同様に動植物にもわずかな変化があり、その変化は長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に適応しうるのではないかという、現在では当たり前になっている理論を考えはじめました。

ライエルの「地質学原理」はこの分野では古典とされ、近代的地質学の基礎です。彼はこの本の中で「斉一説」を提唱しており、これは自然界において、過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろう、と想定する考え方です。

「現在は過去を解く鍵」という表現で知られる近代地質学の基礎となった地球観であり、この当時はあたりまえのように信じられていた天変地異説に対立する説として登場しており、のちのダーウィンの自然淘汰説の着想にも大きな影響を与えました。ビーグル号に乗船する前には、彼自身もこの天変地異説を信じていたことは上でも述べたとおりです。

帰国したとき、それでもダーウィンはまだ27歳でした。ビーグル号で得られたコレクションを整理し航海記を書き直すため、ケンブリッジに移り、さらに1837年3月により仕事をしやすいロンドンに移住し、世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案したチャールズ・バベッジのような数学者とも付き合い始めます。

このころからダーウィンは絶滅種と現生種の地理的分布の説明のために、「種が他の種に変わる」可能性を考え始めます。7月中旬に始まる「Bノート」では変化について新しい考えを記しており、この中で既に「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てています。そして生命を一つの「進化樹」から分岐する系統だと見なし始めました。

「一つの動物が他の動物よりも高等だとするのは不合理である」と考え、さまざまな種の変化に関する研究を始めました。が、それを系統立てて説明するためには膨大な資料が必要となり、やがてその研究の泥沼に入り込んでいきました。

このころイギリス地質学会はダーウィンを事務局長に推薦しており、一度は辞退しましたが、結局これを引き受けました。しかし、ダーウィンは、ビーグル号の報告書の執筆と編集に苦しんでおり、と同時にこのころ、胃炎、頭痛、心臓の不調で苦しみ、嘔吐、激しい吹き出物、動悸、震えなどの症状でしばしば何もすることができなくなっていました。

この病気の原因は当時もわからず、ダーウィンも様々な治療を試みたようですが、治癒しませんでした。現在、彼がかかった病気は、心の病ではなかったか、という説以外にもシャーガス病という、寄生虫が原因の感染症であった可能性が取沙汰されているようです。

中南米に生息する「サシガメ」というカメムシの一種をベクター(媒介)とする病気で、ヒト以外にも、イヌ、ネコ、サルなど150種以上の哺乳類への感染が確認されています。サシガメは吸血性の昆虫であり、刺された人が痒みなどを感じて自分で掻いて皮膚を傷つけた時、その傷口からこの虫の糞に含まれる病原体が体内に侵入します。

ただ、すぐには発病せず、一般に30年ほどの潜伏期間があるといわれ、ほとんどの場合、当人は感染にまったく気付きません。子供時代に罹患した後、数十年たって大人になって突然発症することもあり、リンパ節、肝臓、脾臓の腫脹、筋肉痛、心筋炎などを起こし、時には、心肥大(心臓破裂)、脳脊髄炎、心臓障害など致死症状を発する可能性もあります。

日本でもシャーガス病陽性者が見つかっているそうで、中南米諸国出身の人または母親が中南米諸国出身の人や、中南米諸国に通算4週間以上滞在した人は、罹患の可能性を否定できないので、予防的措置を講じるため、献血時に申告するよう日本赤十字社は呼びかけています。

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シャーガス病の陽性とされた人が、日本で献血を行っていた例もあり、その血液を輸血された患者の追跡調査を行った結果、調査対象となった5人全員が陰性だったそうですが、このほかでは輸血によりシャーガス病に感染した事例は日本では報告されていません。

が、日本以外では輸血でも感染した例があり、また母子感染も確認されているため、献血された血液の検査や、フィルターによる濾過や冷凍などで原虫を除去する必要があります。

現在治療薬も開発されているようですが、感染直後しか効果がなく、副作用が大きいため、慢性患者に対しては、もっぱら対症療法を行っているそうです。対策としてはサシガメに刺されないようにすることはもちろん、稀にサシガメから果物にシャーガス原虫が付着することがあるため、この病の流行地では生のジュースを飲むのを控えた方がいいそうです。

日本は経済成長によって南米から日系人を含む少なくない人数の出稼ぎ労働者を受け入れており、その人数と南米人のシャーガス病発症率から計算すると、現在日本には数千名程度のシャーガス病感染者がいる可能性があり、また当人たちはほぼ全員まだそれに気づいていないと考えられるそうです。

この病気の存在が南米からの日系人や労働者への差別につながっては困りますが、日本人の間でも蔓延する可能性は否定できず、今後の監視は重要です。

日系人などが、日本で突然、心臓発作を起こしたとされるケースでも、実は、日本の医師にシャーガス病の知識が無いためそう判断されただけで、実はシャーガス病で亡くなっている事例が多数含まれているのではないか、ともいわれているそうです。

純粋な日本人の患者数は、さらに少ないと考えられます。しかし、輸血によって罹患する可能性もあり、ヒト以外の哺乳類も感染することが確認されていることなども合わせて考えると、将来的に大流行する可能性がないわけではなく、不気味な存在です。

ダーウィンを襲った病気もその可能性があり、この病はその後の彼の研究に大きく影響するところとなり、ビーグル号からの帰国後の学者人生の前途には暗雲が立ち込め初めていました。(「ダーウィンがいた!2」へ)

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数字のメッセージ②~夢のお告げ~

2014-3575こんにちは、タエです。

前回の「数字のメッセージ」を書いた後、ブログ上でムシャからエラいプレッシャーをかけられ、少しばかりブルーになってます。

地方都市の広島で細ぼそと物書き家業をしていたのは十年近くも前のこと。錆びついたペンをキーボードに持ち替え、日々の幸せな発見を“マイペースで”綴っていけたら・・・と思ってます。どうぞ温かい目で、気楽~につきあってやってくださいまし。

で、前回の「数字のメッセージ」の続きです。

私が母の命日や誕生日にまつわる数字を立て続けに目撃することになった日の二日前、私は東京の神田神保町で、亡き母の弟…私にとっての叔父二人・従妹二人の四人と久しぶりに会っていました(私以外は全員関東在住)。約一年ぶりの昼食会です。顔を合わせなかった間に起きたこと、出かけた旅先の話など、おのおのが持ち寄った話題に花が咲き、それは楽しいひとときになりました。

そして皆の食事が一通り終わり、食後の飲み物に手が伸び始めた頃だったでしょうか。
「そうだ、この話をしておかなきゃ」と、私の中でにわかに思い出された話題がありました。それは、去年の秋にみた夢が発端となった一連のエピソードです。

私は一人っ子のせいか昔から夢見がちなところがあり、物語を読んではその世界を空想して遊ぶのが大好きな少女でした(NHKの朝ドラのヒロイン、花子そのままに)。そればかりか、放っておかれたらいくらでも寝ていられるロング・スリーパー。空想だけでなく現実の夢の方もたくさんみる性質(たち)で、近頃では気になった夢は「夢日記」に書き留めるようにしています。

その中でも去年の九月にみた夢というのが、非常にリアルな質感をした、すこぶる付きの気になる夢でした。紹介するとこんな具合です。

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明るい朝か昼間の時間帯。どこか見知らぬ家の広めの和室に私が寝ています。
他に何組も白い布団が敷いてありますが、寝ているのは私一人です。

その部屋と廊下を仕切っている五~六枚続きの襖。その一枚がスーッと開いてぞろぞろと人が入って来ました。その集団の三人目くらいに、九年前に亡くなった母が笑顔で現れ、寝ている私の右側に敷かれた布団の上に座ってニコニコしています。その光景が現実のように鮮やかでリアルな見え方のため、「これが夢?」と内心驚いているワタシ・・・。そう、このシーンは、“夢の中の夢”という設定なのです。

その“夢”の中で私は起き上がると、母より先に入ってきて私の枕元にある窓辺に腰かけた女性に
「どこから来られたんですか?」と話しかけます。すると、
「丸の内の“きわ”です」と彼女。
「ああ、東京ですか」と私。
その女性の向こう隣りにもう一人、年配の女性が微笑みながら私たちのやり取りを聞いています。

その間、グループの別の男性と話をしていた母でしたが、私が母の方へ向き直ると、亡くなった当時の七十年配そのままだった母の顔が、若くキレイな女性の顔になっているではありませんか。私が
「お母さん、キレイになったねー」と頬に手を当てながら言うと、
「あんたもキレイになったよ」と言ってくれ、それがとてもうれしい私でした。

やがて母たちの帰る時刻になったようで、立ち上がった母が
「三月の会(大会?)には来るんよ」と言います。
(その時、その会には三百人だか三千人?が集まるのだと声が聞こえてきました)
「それって、どこであるん?」と私が尋ねると、母は窓辺の女性の方へ眼をやりながら
「丸の内のきわ」と言うのです。

そのあと母は「来るんよ、いいね」と念を押すように言い残し、他の方たちと部屋の外へ出て行きました。

・・・そこで“夢の中の夢”から覚めた私は、部屋の中に入って来たスーツ姿のムシャに(仕事先から帰ってきたという設定)「今時間ある?ちょっと今みた夢の話を聞いてほしいんだけど」と言って、夢の話をし始めるのでした。

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この夢は、今思い出しても不思議な感じのする夢でした。

亡くなった両親の出てくる夢は結構みる私ですが、生前一緒に暮らしていた頃と同じような何げない夢がほとんどで、こんな風に「○○するのよ」と行動を促されたのは初めてです。しかも、「三月の会」「丸の内のきわ」・・・と、具体的な時期や場所が指定されているのです。

気になった私はその日のうちに早速インターネットで色いろ検索してみました。

けれど、「きわ」という名前はもちろん、丸の内周辺で今年の三月に予定されているイベントのようなものは見つかりません。あったのかもしれませんが、その時は探し出せず、年が明けてその時期が近づいたらヒントのような何かが起きてくるのかもしれない、と思っていました。

それから二か月余りたった十二月。長い付き合いのある友人たちと会うため、私はひとりで約一年ぶりに広島に帰っていました。そこで会った一人が、ムシャのブログにもたびたび登場しているスピリチュアル・カウンセラーのSさんです。

彼女とはライター時代の仕事が縁で知り合って、もう二十年近くになるでしょうか。両親が生きていた頃から人生の節目節目に会ってはカウンセリングを受け、その的確なアドバイスや守護霊さんからのメッセージに励まされ続けて来ました(私に結婚の時期が近づいていることも、彼女が伝えてくれた亡き母からのメッセージで知りました!)。

ですから、広島に帰ることになった時、夢の謎解きをSさんにしてもらうことに何の迷いもなかったのです。

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そして、その夢に関するSさんのお見立ては・・・

「(その時の夢に現れた母以外の方たちは)空襲で亡くなった方たち。
最初に現れた女性に焦点を当てたら“空襲”“空襲”というイメージが出てくる。
何でその場所に行かなきゃいけないかというと、何かそこで語り合うみたい。
(私と誰かが?私たちの関係する魂さんたちが?)
戦時中の空襲で亡くなった人たちの大量浄化かも。
そこでタエさんと誰かが会い、語り合うことで、空襲に関係した人(霊的存在)たちが一つの区切りをつけるのかもしれませんね」

という風な内容でした。

でも、三月中にはそれらしき会合も「丸の内の“きわ”」に該当するようなキーワードも現れてくることはなく・・・実生活では三月末に当地で入院していた義母が退院してきたため、三人での新たな日常が始まって、夢のことは忘れ果てていたのです。

そうしたら、四月の下旬に差し掛かったころ。五月の連休明けくらいまでは滞在すると思っていた(ムシャの)母上が、四月の三十日には山口に帰ると言い始めました。そこで慌てて連絡を取ったのが、亡くなった先妻さんのお母さんのT子さんです。

・・・というのも、八王子在住時代からT子お母さんには息子君の面倒を見てもらったり何かとお世話になっており、修善寺の家にもお招きしたいと思っていたのに実現できないでいました。そこでかねてより「入院中の母上が退院してきたら、千葉の息子とも都合を合わせてぜひ我が家へいらしてください」という話をしてあったのです。

それで、息子君とも連絡を取り合ってもらい都合のつく日をあげてもらったところ、それがちょうど大型連休初日の土曜日。それだと、連休中の伊豆地方はものすごい人出になるため、車での移動が大変厳しいものになります。加えて息子君も大学の都合でトンボ帰りしなければならない日程だとのこと。それらの事情を勘案した結果、T子母上に我が家に泊まっていただくのは次回に譲って、急きょ都内で会うことになりました。

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で、どこで落ち合うかという話になった際、ムシャの提案したのが、東京駅の前の旧東京中央郵便局跡に新たにできた商業施設「KITTE(キッテ)」です。

そう・・・「丸の内の“きわ”」ならぬ「丸の内の“キッテ”」だったのです。

もちろんこの時のムシャの頭の中には私の夢のことなどひとかけらもなく、千葉から来る息子と、西東京から来るT子母上、修善寺から出向く我々の三組が、一番わかりやすく合流できる都内の最適地・・を考えて思いついただけのこと。

ここまでだったら、「なんだか似た名前の場所になったわね」というだけなのですけど、実際に待ち合わせた「キッテ」の6階・レストランで、ランチをいただきながら色いろおしゃべりしていると・・・東京の下町生まれのT子母上のご一家が、東京大空襲にあい亡くなられた縁者も多数いらしたことが判明!(母上は田舎に疎開していて難を逃れたとのこと)

この日は、ムシャの母上の快気祝いのようなランチ会だったので、その話に関してはそれ以上広がらなかったのですが・・・「もしかして、空襲で亡くなった人たちの大量浄化って、T子お母さんの関係者の方だったわけ?」と、後になればなるほど思えてきました。

私とムシャ、息子君、ムシャの母上にT子お母さん・・・この顔合わせでは初めてとなるお食事会の場所が、たまたま東京駅を見下ろせるビルの6階になり、戦時中多くの人々が命を落としたその場所で、家族の絆を確かめ合ったこと(というとカッコいいですが、要するに楽しくクッチャべったこと)。それが、どれだけ魂さんたちの浄化に役立ったのかはわかりません。

けれど、修善寺に帰った晩にT子お母さんから電話があって、「今帰りました。今日は本当に楽しかったです~」と弾んだ声で言っていただけたときは、また一つお役目を果たせた気がして、「よかったぁ~」と、心底思ったのでした。

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・・・と、長くなりましたが、これらの一連の話を先月会った叔父や従妹たちの前で話したわけです。すると、皆もよく知っている亡き母の登場する夢でもあり、かなり意味深な内容とその顛末だったこともあって、「へぇ~」「面白―い!」と予想以上のリアクション。

「そういえば昔、近所のおばさまに『夢日記をつけるとイイわよ』と言われたことがあった」とか、
「そうか、普段つけてる日記に夢日記も加えるとイイのかもしれないな」など・・・
それぞれの“夢”に関する話題が広がって、ネタを提供した側の私もこれまた一つお役に立てたかも・・・と、手前みそながら大変うれしくなったのでした。

そんなことがあった二日後だったのです。母の誕生日や命日にまつわる数字を外出先で立て続けに目にしたのは・・・。これはもう、母からのOKサインに違いありません。

実はもう一人、広島で夢解釈をしていただいた方がいて、その方には
「お母さんが三月ごろに大切なテスト(霊的なお試し)があることを、夢を通して前もって教えてくれている。そのテストに正解をしなければいけない。それは“正しさ”が基準になるんじゃない。大切なのは“愛”だよ。いいね。」
と言われていました。

私が母の教えてくれた大切なテストに正解できたのかどうかはわかりません。
しかし、母の夢がきっかけとなって、結婚後にできた新しい家族と、結婚前からつながっていた母方の親戚・・・その双方と楽しい時間を過ごすことができた。そのことについては、母も喜んでくれたんじゃないでしょうか。

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そんなことを考えていた先日の昼間、リビングの窓から見える朝顔のプランターに黒っぽい小さな蝶…ミスジチョウが現れました。それを目で追いながら何げなく窓辺のテレビに目をやると、画面には母の誕生日である「6月22日」の文字が!(見ていた番組が上半期の総集編を放送していて、私が目をやった時にたまたま6月22日放送分を映していたのです)

母が元気でいた頃、「お互いに万が一のことがあってこの世を去るようなことがあったら、残されたものに(そばにいることが)分かるように必ずサインを出し合おうね」と言い合っていました。これまでにも色んな形で母の存在を感じて来ましたが、今回の夢のお告げに始まる数字のメッセージほど分かりやすいサインもありません。
(もしかしたら、母以外の守護霊さんが私に気付かれやすいサインとして送ってくれている場合もあるとも思うのですけど・・・)

一説によると、天使が送ってくるサインで最も多いのが、数字の組み合わせだそうです。
車のナンバープレートや郵便番号に住所の番地、電話番号、時計の時刻表示・・・等々。皆さんの中にも、なぜか気になる数字の組み合わせがあるんじゃないでしょうか。
その数字の向こうには、やがて明らかにされるのを待っている大切なメッセージが隠れているのかもしれません。

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真砂土の国

2014-1204一昨日、我々夫婦が育った広島の地で、大きな災害が起こりました。

二人ともよく見知った土地柄であり、とくにタエさんは、被害に会った地区のうちの「山本」という場所に住んでいたことすらあり、とても他人事ではない感じがします。亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

ところで、今回災害が起こった安佐南区は、その西方に、「武田山」という山をしょっており、地元の人達からはハイキングやトレッキング、縦走コースとして親しまれています。安佐地域のシンボル的な山として、周辺各地域の住民による保全・整備活動が活発に行われており、多数のコースがあります。

ここに銀山城(かややまじょう)という城跡があります。鎌倉時代以降、毛利氏に滅ぼされるまで、ここに安芸武田氏が居を構えていました。すぐ麓に太田川という大きな川があり、海に近い広島は、海からここまで舟運が行われていました。このため鎌倉時代初期この地には、古市、今津等の「港町」があり、ここは市場としても賑わっていました。

武田家というのは、現在の大阪にあたる河内に起こった源氏の名族のひとつで、戦国時代には戦国大名化し、武田信玄の時代には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するほどの勢力になりました。これを甲斐武田氏というのに対し、武田氏の始祖といわれる武田信義の5男、武田信光が興したとされるのが安芸武田氏です。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱、「承久の乱」の際には追討側に回り、その戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことに始まり、武田信光はこの武田山の麓に守護所を建て、安芸国の経営に乗り出しました。

が、この当時はあくまで「守護」という官職を賜ったに過ぎず、常時は京に在住であり、広島に移住して本格的に領地の整備に乗り出したのは、甲斐武田氏第10代当主・武田信武の次男、武田信宗であり、一般的にはこの人が安芸武田家の始祖とされます。

武田信宗が一番活躍したのは、南北朝時代か室町時代前期にかけての時代であり、武田山の山頂に銀山城を建てたのは、これより少し早い鎌倉時代末期といわれています。

室町期に入ってからここは、安芸国へと進出を図る周防国の戦国大名・大内氏との激闘の舞台となり、幾度と無くこの城を巡って攻防戦が繰り広げられましたが、永正14年(1517年)、山陰の尼子氏と結んだこの当時の安芸武田氏当主・武田元繁は、毛利氏とその同盟者である吉川氏を果敢に攻めました。

しかし、反撃に出た毛利元就率いる毛利軍や吉川軍と戦って元繁は討死し、これ以降安芸武田氏は弱体化に歯止めがかからなくなり、天文23年(1554年)銀山城は毛利勢によって落とされ、以後、関ヶ原の戦いまでここは毛利による支配が続きました。

その後、毛利元就の隠居城として使う予定もあったようですが、現実にそれが実行されることはなかったようです。また、後に広島城が築かれると、その重要性は低下し、毛利氏が関ヶ原の戦い後に移封されると廃城となりました。

江戸時代以降も城地が荒らされることはありませんでしたが、麓の繁栄は、現在の広島中心部に移っていき、明治、大正、昭和とこの地は長く辺境の地でした。現在のように住宅などなく、太田川沿いには田畑が広がっていましたが、それ以外の土地の多くは何も開墾されない荒れた土地ばかりでした。

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今回、被災にあった安佐南区、北区というのはそういう歴史がある土地柄です。

ところが、1970年代以降の高度成長時代になると、広島市のベッドタウンとしての需要が出てきたため、この地は急速に都市化が進みました。

1980年(昭和55年)4月1日には、広島市の政令指定都市移行と同時に安佐南区と安佐北区の二つの区が誕生し、それまで「安佐郡」に属していた沼田町、祇園町、佐東町、安古市町は、安佐南区に、また、安佐町、可部町、高陽町、旧高田郡白木町が安佐北区に編入されました。

広島市と合併した後は、住居表示実施により一部を除いて旧町名はほとんど残っていません。この合併によりとくに安佐南区の人口は肥大化し、広島市の8区の中で最多となり、唯一20万人を超えています。面積は3番目の大きさですが、2005年に旧佐伯郡湯来町が佐伯区に編入される前までは、安佐北区に次いで2番目に大きい区でした。

アストラムラインというモノレールが市内に通じており、その開通による住宅増加に伴う人口流入が大です。区内に大学、高校などが多いことから区章はペンを模しています。数多くの芸能人を輩出しており、相原勇、山根良顕(アンガールズ)、夏川純、綾瀬はるかなどがおり、他にも大物アナウンサーが何人かいます。

一方の安佐北区は、山がちな地形であるため、区の面積は広島市の8区の中で最大であり、広島市の総面積の約40%を占めます。湯来町が佐伯区に編入される前までは、市の総面積の約半分を占めていました。ここも人口の増化によって山際まで住宅が建設されており、安佐南区同様、従来から雨による地盤軟化が起こりやすいことは指摘されていました。

両区では真砂土が主体の地盤が多い、ということはテレビでも繰り返しアナウンスされています。報道では「まさど」と呼称することが多いようですが、我々は子供の頃から「まさつち」と呼んでいます。全国的にみても、中国地方ほど広く分布しているところは少なく、これは風化花崗岩が堆積した土壌です。

なお、漢字表記の「真砂土」は園芸用語であり、地盤工学では砂質土や砂岩と区別するため、論文などでは「マサ土」とカナ表記が一般的ですが、話し言葉としては「まさど」です。が、以下では、どうとでも読める、「真砂土」で表記します。

この真砂土の「原料」となる花崗岩とは、火成岩の一種です。石材としては御影石(みかげいし)とも呼ばれます。花崗岩の英語名 granite の語源は、ラテン語で種子や穀粒を意味する granum ですが、これは数mm径の結晶が寄り集まった粗い粒子構造から命名されたものです。

構成する種々の鉱物結晶の結晶粒子は大きく、かつそれぞれの結晶の熱膨張率が異なる花崗岩は、温度差の大きい所では粒子間の結合が弱まりやすく、風化しやすいという特徴を持っています。

風化が進むと構成鉱物の粗い粒子を残したままばらばらの状態になり、非常にもろく崩れやすくなります。このようにして生じた粗い砂状の粒子が「マサ」であり、このマサが堆積した土が真砂土、ということになります。

西日本においては特にこの花崗岩の風化が進行しやすいといわれています。これは、降雨が少なく温暖な気候が続くという特徴を持つ瀬戸内海式気候のためです。風化してできた真砂土は、当然地表に近いところに堆積しますが、粒子と粒子の間がガラ空きなのでここに水分が貯まりやすく、強い雨などが降ると、一度に多量の砂が流れ出します。

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このため、これまでも花崗岩地帯の多くが砂防指定地や保安林に指定され、土砂災害対策が講じられてきました。

土木学会の調査団は、今回の災害が起こる前のつい先日の調査で、現場周辺の山間部の地盤はもろい風化した花こう岩の上を薄い表土が覆う地質であり、住宅が載っている地盤も同様で、土砂災害などの危険性が高い箇所が増えていることを警告していたといいます。

また、広島県は花崗岩が風化してもろい砂状になる真砂土の地盤が多い上に、真砂土でできた土地はやわらかいために造成がしやすく、安佐地区のように危険が多い場所にさらに危険が高い土地造成を行ったことが今回のような惨事につながったことも考えられます。

それでは、なぜ中国地方に真砂土の原料となる花崗岩が多く分布しているのでしょうか。それを理解するためには、中国地方のほぼ大部分を占める中国山地という山塊がどうやって形成されたかにまで、遡る必要があります、

そもそも、中生代以前、中国山地は存在していませんでした。中国地方のみならず、日本列島のある場所の大部分は海でした。中国山地を含む列島の形成は、約2,300万年前から約500万年前までの「後期中新世」から約500万年前から約258万年前までの「鮮新世」にかけての日本海以南地域の広域的な隆起によるものです。

ちなみに、この鮮新世期には、現代の動物相につながるものがほぼ出現しており、ヒトの祖先もこの時代にアフリカで誕生、発展しました。いわゆる猿人です。

しかし、日本にはまだ陸地といえるようなものはまだなく、太平洋東部で生まれた、比重の大きい太平洋プレートが、大陸側にある比重の小さい大陸プレートに衝突することで初期の日本列島のベースの部分の形成が始まったばかりでした。

重い太平洋プレートは、大陸プレートにぶつかって、斜め下40~50°の角度で沈み込み、この際、太平洋プレート上の海底堆積物が大陸プレートに押し付けられます。この堆積物を「付加体」といい、両方のプレートがぶつかり合う段階で、次々と古い付加体は、後からできた付加体に押されて、大陸プレートの下部へと押し込められました。

そして、地中深くなると高い圧力により変成作用を受け、変成岩となりました。中国山地でもっとも古い歴史を持つ変成岩は、「秋吉帯」と呼ばれる付加体で、現在では主に北九州地方〜山陰地方に分布しています。これらの地域にはプレートのぶつかり合いによって地中深くに押し込まれた変成岩がその後隆起したものがよくみられます。

こうした付加体は地中深くで低温高圧の変成作用を受けた後、その後のマグマの活動によって活発になった造山運動によって隆起し、いったん陸地となりましたが、その後その活動が沈静化したため逆に沈降していき、海底に沈んでしまいました。

ところが、白亜紀に入ると、アジア大陸東縁一帯、すなわち現在の日本列島付近ではマグマが上昇して造山運動が活発となり、多くの陸地が形成されはじめました。これを「佐川造山運動」といい、約1億年前に起こりました。

白亜紀というのは、約1億4500万年前から6600万年前を指し、このころは恐竜の全盛期でした。従って、現在日本各地で発掘されている恐竜は、このころ隆起したばかりの日本列島で産声をあげ、ここを闊歩するようになったものです。

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このとき、中国地方においても、地下で変成したのち隆起、沈降していた付加体が、再びマグマによって押し上げられて上昇してきました。このとき、上昇する前にマグマの熱によってさらに高温低圧の変成作用を受けた変成岩も多く、これが分布する領域を変成帯と呼び、中国地方を含み、長野県南部から九州まで続くものを「領家変成帯」といいます。

マグマの熱作用を受けてさらに変成した領家変成帯は、中国地方では主に瀬戸内海沿岸に分布しています。また、付加体の中には、長い間海底に沈んでいたために珊瑚等の死骸が大量に堆積し、分厚いカルシウム層を持った場所もあり、マグマ熱をあまり受けずに押し上げられたものが、現在の秋吉台や、北九州の平尾台のようなカルスト台地になります。

一方、上昇してきたマグマはこれらの付加体を押しのけ、直接地表に出てきたものもあります。多くは瀬戸内海沿岸に広がる領家変成帯の北側に盛り上がり、冷えると花崗岩になり、こうしたマグマ上昇は現在の中国地方のほとんどで顕著でした。

すなわち、「中国山地」の大部分はマグマが冷えてできた花崗岩によって形成されたものであり、広島市内の北部に広がる山々もこれに連なるものです。他地域ではこのほか北九州、関東北部、飛騨山脈、木曽山脈、美濃高原、近畿地方中部などでも表層に花崗岩質の地形がみられ、これらの地域においても今回のような災害が起こる可能性は大といえます。

このように単に付加体が押し上げられたもの、マグマの熱によって更なる変形を受けて隆起した付加体、また直接マグマが上昇してきた花崗岩等によって中国山地は形成されました。しかし、その大部分を占めるのは花崗岩質ということになります。

そしてやがてそこには、大陸から人間が移住してきました。このころにはまだ日本海は浅くて狭く、また中国山地の標高も低く、容易にこの地にやってくることができました。

こうした人間活動の痕跡は、中国地方では旧石器時代にさかのぼってみることができます。広島県北部に、「帝釈峡」という紅葉のきれいな渓谷があって観光地になっていますが、ここにも旧石器時代のものと考えられる遺物が多数出土しています。

縄文時代の遺跡も複数発見されており、中国地方においてはここが、人類が住み始めた最初の場所と考えられています。さらに時代が下った弥生時代にはここだけでなく、中国山地のあちこちに人が住むようになり、竪穴式住居跡や銅剣・銅鐸などの祭祀具などが発見されています。

鉄器も発見されており、古墳時代ごろ既に大陸から製鉄技術が伝来していたと考えられ、これらの鉄器は花崗岩に含まれる「磁鉄鉱」を利用して作られたと推定されています。

中国山地の花崗岩は、その地理的分布からそれぞれ山陰花崗岩、山陽花崗岩、領家花崗岩に区分されます。このうち山陰花崗岩は磁鉄鉱を多く含んでおり、これが風化して河川等による運搬過程で淘汰集積したものが「砂鉄」です。前述のとおり花崗岩は、風化・侵食の作用を受けやすいものですから、この砂鉄も中国山地の各所で普通に見られるものです。

当初、中国山地で行われていた製鉄は磁鉄鉱を含む花崗岩を砕いて原料としていましたが、平安時代ごろからは、砂鉄を集めて原料とする方式へと変わっていきました。そして、砂鉄を使用した製鉄においては、平安時代に「たたら製鉄」という方法が発明され、中世から近世まで続きました。ちなみに、たたらとは、風をおこす、「ふいご」のことです。

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このたたら製鉄に使う砂鉄は、砂鉄だけでまとまって存在しているわけではありません。川底の砂に混じっており、これをかごでさらって抽出されていました。この川砂さらいは河口付近の砂浜形成の原因となったとも言われています。

例えば、島根県東部を流れる斐伊川(ひいかわ)の河口が出雲大社付近から宍道湖へ移動したことや、鳥取県西部を流れる日野川河口付近から延々と白浜を形成する弓ヶ浜が伸びていることなどの原因の一つに、製鉄のための川砂さらいがあったとする見解があります。

またその昔は、製鉄に必要な薪炭の供給のため多くの木々が伐採されました。もう20~30年ほど前になるでしょうか、ヒバゴンという類人猿が出るといって大騒ぎになった広島県と島根県の境あたりの比婆山周辺では、とりわけ山林伐採された場所が多く、現在でも「毛無山」という山名が複数見られ、これはこの当時の木々が伐採されたときの名残です。

出雲地方は「たたら製鉄」の発祥地として最も有名ですが、ここにおける製鉄用の砂鉄もこれら比婆山付近から得られたと考えられています。当地では周辺地域に産する砂鉄を2種類に呼び分け、その性質に応じて適宜使い分けてきました。

一般的には、中国山地最高の比婆山や道後山などの山々よりも北側の山陰側で採れる山陰花崗岩由来の砂鉄は純度が高く、「真砂(まさ)砂鉄」と呼ばれましたが、一方、山陽側の山陽花崗岩はチタン鉄鉱系列であり、あまり多く砂鉄を含みません。しかし、安山岩、玄武岩などの火山岩に由来する砂鉄が多く、これは「赤目(あこめ)砂鉄」と呼ばれました。

純度は高くないかわりに加工のしやすさが特長であり、江戸時代に入り、寛永年間(1625年~1645年)には、この山陽側を主たる領土とする郷士・佐々木久盛と、その子の正信らによってこうした赤目砂鉄を産出するための「鉄山」が開発されるようになりました。

もともと、中国地方は石見国の大森銀山や出雲国の砂鉄等、鉱物資源に恵まれていましたが、この佐々木久盛らが本拠地としていた「加計(かけ)」の地も例外ではありませんでした。この加計地区は、今回土砂災害により大きな被害を出した、安佐北区内の北西部に位置する地区です。

佐々木久盛・正信親子はまず最初に、同地の寺尾という場所で銀鉱を採掘して儲け、これを資本として、加計本郷に町を作り、「隅屋」を屋号として、たたら吹きを中心とした製鉄業を始めました。これが「加計隅屋鉄山」の始まりです。以後、太田川上流に多くの精錬所を設け、広島や大阪に支店を出して、隅屋の製品の販売に努めるようになります。

江戸時代にはこの地域から鉄の生産量は全国の鉄の10%にも上り、隅屋は江戸期を通じて中国地方で最大手の製鉄商人となりました。その隅屋の経済力は広島藩だけではなく、周辺の浜田藩や津和野藩にも重視され影響力を持つようになりましたが、嘉永6年(1853年)に製鉄業が藩営となり、ここに加計隅屋鉄山の歴史も終わりを告げました。

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しかし、その藩営製鉄も、明治時代を迎え新たな製鉄技術が入ってくると廃れました。しかし、隅屋以降、200年の間に採掘した鉄山は25にも上り、現在の広島市市街地たる太田川デルタの形成は、上流で隅屋ら製鉄商人らが山を切り崩し、土砂を川に流したことが原因だと言われています。

と同時に、製鉄業は周辺の森林を伐採し、山を切り崩し、多大な環境破壊をもたらしました。しかし、加計隅屋鉄山の閉山を経て、その後はこの地の山の荒廃は次第に収まっていきました。

ところが、原子爆弾によって壊滅的な被害を受けた広島の町も、戦後の高度成長期を経て、次第に活気を取り戻し、人口も増えたことから、各地で開発が行われ、多くの山々が切り崩されるようになりました。広島では家が「山に登る」といい、市内へ行くとよくわかりますが、ここから見渡せる少し高い山の斜面にはびっしりと家が軒を連ねています。

政令指定都市に指定された昭和55年の広島市の総人口は、約99万人で100万人を切っていましたが、現在はこれよりも18万人も多い117万人であり、この人口の居住を支えるために市内の至るところで開発が行われました。が、市内中心部は砂州地盤であるため、高層化があまり進まず、このため、宅地開発は次第に山間部へ山間部へと及んで行きました。

その結果、いたるところで山が切り崩され、平地化されていきますが、今回の災害地である、安佐南区や北区はその最たる箇所でした。この北区に広島市が経営する、「安佐動物公園」という動物園があります。昭和46年(1971年)の開園で、私が子供のころには、ここは市内でも数少ないテーマパークのひとつでした。

ここへ連れて行ってもらうのが楽しみで、このためそのころのことは今でもよく覚えているのですが、広島駅からここへは直通バスが通っていました。ところが、市内の繁華街を抜けて次第に山奥に入っていくと、その周りはほとんど何もない原野ばかりで、子供心にもなんでこんな辺鄙なところに動物園なんか作ったのだろう、と思ったものです。

それが、です。テレビで見る通り、現在は一面の住宅街であり、いまやその当時の面影もありません。そこで、ふと思ったのですが、かつてこの地でさかんだった製鉄業は周辺の森林を伐採し、山を切り崩し、自然破壊をもたらしたわけですが、こうした彼の地における現在の乱開発もまた、環境破壊といえるのではないでしょうか。

こうした自然破壊の様子は宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」の題材にもなっており、実はこの「もののけ姫」の舞台は、この中国山地だといわれています。この映画をご覧になった人も多く、ストーリーはご承知の向きも多いでしょうが、あらすじを書くと、だいたいこうです。

「エミシ」とよばれる隠れ里に住む少年アシタカは、村を襲おうとする「タタリ神」に矢を放ち、命を奪う事と引き換えに死の呪いをかけられます。死んだタタリ神の中からでてきたものは、鉛の塊であり、タタリ神がやってきたと考えられる西の方で「何かが起こっている」と考えたアシタカは自分の運命を見定めるため、西方の地を目指して旅立します。

西の村でアシタカはジコ坊という僧侶に出逢います。この僧侶から西の土地の話を聞いたアシタカは彼から教えられた「ししがみの森」を目指し旅を続けます。「ししがみの森」にたどり着いたアシタカは傷付いた人間たちと大きな山犬を見つけます。

この傷付いた山犬に駆け寄る少女がおり、その名をサンといい、彼女はこの地にとどまれば災いが降りかかる、「去れ」とだけ言い、山犬に乗って去ってしまいます。しかし、アシタカはあきらめず、「ししがみの森」を抜け、そこでアシタカが見たものは、山林を開拓して鉄を作るタタラの民たちとその長「エボシ御前」でした。

また、そこには森を守る山犬一族と、先ほど去っていった少女サンもその一員としてそこにいました。アシタカは彼等との交流の中でやがて自分が呪われた理由をようやく知りますが、ちょうどそのころ、森を守ろうとする「もののけ」たちの蜂起が始まり、その長である「シシ神」と人間との壮絶な戦いが始まります。

実は、アシタカの呪いの原因であるタタリ神を生み出したのは「エボシ御前」でしたが、彼女を頼りに生きているタタラの民のような人間はたくさんいました。「森と人、双方生きられる道はないのか」アシタカは葛藤しつつも、人と自然との戦いに身を投じていくのでした……

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この映画は、その当時、興行収入193億円、観客動員数1420万人を記録し、それまでの歴代の日本映画の興行収入をぶっちぎりに抜き去って第1位となりました。現在も、ジブリ作品の中では、「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」に次いで3位につけており、日本国内の興行収入歴代記録も第6位を維持しています。

物語の図式は、上のあらすじからもわかるように、森と人界の対立です。ジブリの広報によれば時代背景は鎌倉時代だということで、一説によればこの時代の日本の人口は、わずか五百万人に満たなかったといいます。

鎌倉時代における日本の山々は現代から見れば考えられないほど美しいところだったと考えられますが、戦うための刀剣だけでなく生活のための鍋釜や農具を得るためのたたら製鉄がさかんとなり、多くの森や山が焼かれました。

しかし、まだまだ数少ない日本民族は、その同胞を増やさなければ生き残っていけず、美しい自然の一部を自分たちの自由にせざるを得なかったともいえます。

このころはまだ、生きていくこと自体が悲惨の極みともいえる時代であり、京や鎌倉のような大きな町はともかく、その他の地域ではほんの小さな集落が離れ離れで点在するような状態で、その一つの村にすれば、それが滅びるということは、全世界が滅びることに等しかったといえます。

自然の脅威は今以上に恐ろしく無常のものであり、必死になってそれと戦わなければ生きていけませんでした。従って森や山を焼いて自然を破壊したといっても、500万人が生き延びるための量にすぎず、まだまだ許される範囲といえ、現在のように環境破壊と呼ばれるほどひどいのものではなかったのではないか、と考えられます。

しかし、江戸時代以降の開発は少々度が過ぎ、潰した山々から流れ出た砂によって現在の広島の市街地が形成されたということが事実だとすれば、その自然破壊ははなはだしいものといえます。その後原爆投下という憂き目に遭ったのも、もしかしたら、超自然的なものによるしっぺ返しだったのかもしれない、という気になってきます。

とはいえ、原爆だけではなく、この地では過去から何度も土砂災害が起こっています。これはニュースでも度々報道していることですが、広島では、1999年(平成11年)の6月にも「6.29豪雨災害」によって大きな被害が生じています。

活発化した梅雨前線の東上に伴い西日本から北日本の広い範囲で降雨し、各地で豪雨となったものです。しかし、時間降水量の最大値は、広島市佐伯区で81mmであり、一日を通しての降水量も同じく被害の大きかった高知県や福岡と比べても、そこまでの降水量ではありませんでした。

この時広島では、死者行方不明者32名の犠牲を出し、住宅全壊101棟、半壊68を数えましたが、被害が大きくなった原因は、やはり真砂土でした。とくに市内西部の「佐伯区」などの新興住宅地では大規模な土石流が発生し、この当時「都市型土砂災害」と呼ばれました。

多大な被害が出たこの地域では、狭い平野をギリギリまで土地開発しているため全国的に見ても急傾斜地が多い特徴がありますが、実はここには我が妻タエさんの実家もありました。この当時は彼女のご両親だけが住んでおり、彼女は直接この豪雨を経験しているわけでもありませんし、また、この実家にも幸い大きな被害はありませんでした。

が、この家から少し離れた山奥の地は激しい土砂災害に見舞われ、この地は元々急傾斜地に真砂土が堆積する土地柄だったことや、発生したのが比較的小規模な土石災害に過ぎなかったにも関わらず、急斜面だったことから土砂が滑り落ちるスピードが速く、著しい被害が出ました。

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実は、広島県西部では、これ以前にも著しい土砂災害が起こったことがあり、1967年(昭和42年)7月に起こった豪雨災害でも、100人以上の死者・行方不明者を出しています。

さらには、昭和63年7月20日から21日にかけ、6時間で246mmという猛烈な集中豪雨が広島県北西部を襲い、この当時はまだ山県郡安芸太田町、と称していた、上述の安佐北区の加計地区や、隣町の戸河内地区を中心に大規模な土石流が発生し、犠牲者14名、負傷者11名、家屋の全壊38戸など大きな被害を出ました。

この災害のあと、さまざまな調査が行われましたが、その当時既に、この安佐地区における災害現場付近の住民の土砂災害に対する危機意識の低さが指摘されるとともに、広島市などの行政の対応が遅かったことなどが報告されていました。

これに加えて1999年(平成11年)の「6.29豪雨災害」においても多大な被害を出した広島県や広島市はこれを機に、防災計画の見直しを図り、特に災害発生時の初動と、土石流危険渓流や急傾斜地崩壊危険個所の近くの住民への広報を徹底するなどの対策をとったといいます。

また、学識者や関係機関により詳細なハザードマップ作成を依頼し、各自治体はこれをもとに、細かい防災対策計画を立てていたといいます。が、今回の災害ではその成果が出た、とは言い難いところがあり、そうしたことも踏まえて、早、今回の被害の拡大は人災ではなかったか、という声も上がっているようです。

しかし、今回の災害の発生が夜間未明であったことや、急激に発生した雨雲による激しい降雨は現在の予報システムをもってしても把握はしがたく、テレビでもコメンテーターの専門家さんの多くが、今回に関しては行政ができることはあまりなかったのではないか、と言っています。私もそう思います。

避難勧告をもっと早く出していれば、という声も数多く聞かれますが、夜間であったことや激しい雷雨の中では、仮に避難勧告が出ていたとしても、安全な避難はできなかったことでしょう。それにしても、むしろその勧告を出せなかったということで、激しい自責の念を感じる人が、行政の側に出てこないか、と私は心配しています。

もし、人災の側面があるとすれば、自然の環境を破壊し、そこに居座った人間に対する自然の警告とも受け取れ、「山に家が登る」とまで言われるほどの乱開発を繰り返し続けてきた、といったことでしょう。そこに鉄槌がついに下ったと見ることもできるかもしれません。今後ともその非を改めなければ災害は続いて行くと思います。

砂防ダムの新設などは場所によっては有効ですが、多額な費用がかかり税金の無駄遣いです。また新たな環境破壊につながりかねません。住居地域の見直しや移転、規制なども含めて、抜本的な対策を講じていく必要があると思いますが、果たして今後県や市がどこまでそこの部分にどう切り込んでいくかは、今後とも見守っていきたいと思っています。

振り返ってみれば、今私たちが住んでいるこの別荘地もまた、かつては自然豊かな台地であったものを、新たに開発して人が住むようになったものです。そのための自然のしっぺ返しがないとは言い切れず、そうした可能性も考えながら、改めてこの土地に感謝の意をとなえつつ、住みつづけていく必要があります。

その土地に住まわしてもらっている、という感覚は大事だと思います。その土地土地にはすべてそれぞれの神様が宿っていてそこを守ってくれています。そのありがたみを忘れることなく、感謝の気持ちを持ってそこに住みましょう。

さて、みなさんのお宅には、どんな神様が宿っているでしょうか。

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