すべてはことのままに

あけましておめでとうございます。

皆様方におかれましては、今年もお健やかにお過ごしになられますよう、祈っております。年明け早々、流行り病が猛威を振るっていますが、いつかは春がやってきます。頑張りましょう。

さて、我が家のお正月は例年通り穏やかでした。お雑煮を食べ、質素ながらも正月料理を用意してお屠蘇を少し飲んで新年が始まりました。しかし、いつもと少し違ったのはそのあとの初詣。

本来は少し遠出をして、普段あまり行かない遠くの神社に詣でる、というのが我が家の風習です。例年だと下田の白浜神社や芦ノ湖畔の箱根神社といったところまで足を延ばすのですが、今年はさすがに近くの神社で初詣を済ませました。

正月に遠出をしたくなるのは、いつもは味わえない雰囲気を味わってみたいと思うからです。家と会社との間の往復で終始している生活から脱却し、非日常を味わいたいという気持ちは、まとまった休みのとれる年末年始にはとくに高まります。

昨年は掛川まで足を延ばし、事任八幡宮というところで初詣をしました。本当は隣の森町にあり、遠州一の宮とされる小國神社というところに行きたかったのですが、ひどい渋滞に巻き込まれたため参拝をあきらめ、別の神社を探してたどり着いたのがこの神社でした。

平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には「吾妻鏡」、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに登場するなど、由緒正しい古社です。

「事任」は「ことのまま」と読みます。「こと」は「言」であって、言い換えると「言葉のままに」となり、「願い事が意のままに叶う」という意味になります。言葉を司る神様であって、物書きや役者など文言を生業とする人にとっては大きなご利益があるとされます。

私も文章で飯を食っているようなところがあり、家内もかつてはコピーライターをやっていました。日ごろから読み書きには何かと気を使ってきた二人だからこそ、思いもかけずこの神社を見つけたのはきっとここの神様のお導きであったに違いありません。




その境内ですが、独特の空気感があり、いわゆる「良い気」に満ち満ちている感があります。多くの人が同じような感覚を持つようで、事任八幡宮への参拝についての書き込みを読むと、参拝するだけで気持ちが洗われるようだ、といった表現がよくみられます。

これだけ気持ちの良い気分にさせてくれる神社というのはそうそうあるものではありません。何か凛とした空気が漂い、神域一帯が何かふんわりとした霊気に包まれているように感じます。気のせいかどこからか笛の音色や鈴の音が聞こえてくるような気さえします。

一般に、「音」は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされます。その昔、日本においては鉦や太鼓などの楽器の音は異界にも届くものと考えられていました。

神隠しにあった子供を探す時などにも、大きな音をさせて異界へ音を届けると良いとされ、鉦や太鼓をにぎやかに叩いて捜索を行っていたといいます。異界とはこれすなわち神様が住まう世界であり、現在でも神前で行う祭囃子や能では太鼓や笛が使われます。

神社に参拝する時打つ、拍手(かしわで)もまた音による浄化の儀式です。両手を合わせ、左右に開いた後に再び合わせることで音を出します。音を出す理由は、神への感謝や喜びを表すため、願いをかなえるために神を呼び出すため、邪気を祓うためなど諸説あります。

魏志倭人伝には、邪馬台国などの倭人の風習について「見大人所敬 但搏手以當脆拝」と記されています。「貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打つ」という意味で、この当時は神様だけでなく、高貴な人にも拍手を打っていました。また、人以外の貴いものに対しても拍手をしていたようですが、長い年月の間に主として神様に対してだけになりました。

一方、柏手だけでなく、神様に対して唱える祈りや呪文もまた長い年月の間に形を変え、現在までには祝詞(のりと)の形になりました。

祝詞は神道の祭祀において神に対して唱える言葉で、万の神々を称え奏上するものです。ノリトのノリは「宣る」の名詞形で、呪的に重大な発言をすることであって、その内容は様々です。一般的にはまず祭神の御名や当該祭祀の由来が述べられ、続いて神徳を称え、供物や神酒を奉り、そして祈願の趣旨が述べられます。

なお、詔(みことのり)も、祝詞の一種かと考えられます。天子(皇帝・天皇)の命令、またはその命令を伝える国家の公文書(詔書)ですが、その内容は「宣命」として口頭で下位の人々に伝達されていました。この当時、天子は神様でしたから、祝詞のように人から上へ上奏するものではなく、逆に神から人へ下達する言葉ということになります。




祝詞にせよ、詔にせよ、声に出した言葉には「言霊」が宿るといわれています。「言魂」とも書き、言葉には霊的な力があるとされ、古来、日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされてきました。

神前に限らず、声に出した言葉は、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされています。

これとは別に、神前で自分の意志をはっきりと声に出すことを「言挙げ」と言います。内容は神道の教義的なものが多く、「言挙げ」はこれを「ことば」によって明確にする行為です。

ここでの「ことば」とは広義には「身振り」など音声以外の要素も含みます。現在の多くの神道諸派では言葉よりもこうした「身振り=所作」を重んじています。とはいえ、「ことば」を重視していることには変わりはなく、その「ことば」が自分の慢心により発せられたものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられてきました。

神道における「言挙げ」の歴史は古く、奈良時代の歴史書、「古事記」の中巻には、伊吹山(滋賀県米原市)の神を討ち取りに出かけた倭建命(ヤマトタケルノミコト)が事挙げを行ったという記述が出てきます。

ミコトが伊吹山に登った時、牛ほどの大きさの白い大猪が現れました。ミコトは「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視してしまいます。ところが実際にはこの猪が神そのもので、怒った神は大氷雨を降らし、これによってミコトは失神してしまいます。

やがて気を取り戻し、山を降りたミコトは、麓にあった「居醒めの清水」で正気をやや取り戻しますが、ほどなく病の身となっていました。米原には現在も醒井(さめがい)という地があり、ここの加茂神社に湧き出る名水が「居醒めの清水」と呼ばれています。

ミコトはそのあと、弱った体で大和を目指して、現在の岐阜南部から三重北部へと進んで行き、そして能煩野(のぼの:三重県亀山市)に到ったとき、「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」と国を偲ぶ歌を詠って亡くなりました。この地には現在、能褒野神社があり、ヤマトタケルノミコトが祀られています。

以後、さまざまな事挙げがなされるようになったようです。万葉集の柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」とあるほか、作者不詳の作で「蜻蛉島大和の國は神からと言擧げせぬ國しかれども吾は言擧げす 」といったものが残されています。

詔としての事挙げはいろいろなものが唱えられていたようですが、ばらばらだった言挙げはその後、整理・淘汰されていき、室町時代になってから、神道家、吉田兼倶によって体系化され、神道初の理論書が完成します。「唯一神道名法要集」「神道大意」などがそれです。

これはその後伊勢神宮に受け継がれて「神道五部書」として完成し、中世から近世初期にかけて神道の最重要経典となり、伊勢神道などの根本経典として現在に至っています。

このように言霊、事挙げは古い歴史を持ちます。そもそもこうした万葉の時代に言霊信仰が生まれたのは中国の影響といわれています。この時代、中国の文字文化(漢字)に触れるようになったことが、日本人にとっては逆に「大和言葉」を自覚することに繋がりました。精神的基盤として、自らが作り上げた言語を重要視するようになったのです。

独自の文化・思想、精神世界を尊び、自国文化を再認識する過程で日本人自らが作り上げた言語が尊重され、その結果として言霊信仰が定着していきました。言霊は日本人のルーツそのものであり、日本人の心でもあります。



ところで、「言葉」の語源は何でしょう。これは「言(こと)」と「端(は)」の複合語であるといわれています。古くは、言語を表す語は「言(こと)」が一般的で、「ことば」という語は使われていませんでした。

やがて「言」(こと)」には「事(こと)」と同じ意味が持たせられるようになり、「言(こと)」はかなり重い意味として使われるようになりました。

それでは、「事」とは何でしょうか。「事」は象形文字で、そもそもは「神への祈りの言葉を書きつけ、木の枝などに結びつけた札を手にした形」です。変じて、「祭事に携わる人の様」を示すようになり、やがては「仕事」「仕える」という意味を持つようになりました。

人にとって仕事をするというのは重い作業です。「言」に「事」の意も持たせることで、その意を深めようとしたわけですが、ところが、逆に軽々しく使えなくなってしまいました。

そこで、「言」「事」に何かを加えて軽い意味にしようとしました。その時考えられたのが「端」で、この象形文字は「定められた位置に正しく座る巫女の形」を表していいます。そこから「正しく座る、正しい、正す」という意味を示す文字として使われるようになりました。

これを「言」と組み合わせることで重い意味を「正」し、事実が伴わないような「口先だけ」の語として使うようになりました。軽い物言いを表現するために「羽」という文字が加えられたという説もあります。

最初は「言端」「言羽」と書いていたようですが、奈良時代までには「言羽」だけが残り、これに「言葉」「辞」が加えられました。「万葉集」にもこの3つが使われています。現在のように「言葉」という文字だけが使われるようになったのは、室町時代頃と考えられおり、この時代の随筆、「徒然草」では主に「言葉」が使われています。

複数ある「ことば」を示す漢字の中で「言葉」が残った理由としては、「葉」はたくさんの意味で豊かさを表す上で最適と考えられた、という説があります。

「古今和歌集」には「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろずのことの葉とぞなりける」と書かれています。平安のこのころすでに「葉」を「ことば」の一般的な用語として使いたい気分が多くの人にあったのでしょう。



話は変わりますが、神前で祭事に携わる人たちが行う行事のひとつに禊(みそぎ)があります。罪や穢れを落とし自らを清らかにすることを目的とした神道における水浴行為であり、滝行などに代表されるものです。不浄を取り除く行為である祓(はらえ)の一種であって、神社に参拝するとき、手水で手や口を清める行為も禊のひとつです。

「古事記」などの神話によると、伊邪那岐神(イザナギ)は死者の国へ行き心身が穢れ、帰って来ました。そこで日向(現宮崎県)の小戸の阿波岐原(おどのあわぎはら)という場所で海水を浴びて禊を行い、この時、祓を司る祓戸(はらえど)の神々が生まれました。この神々の力でその後多くの罪や穢れが清められるようになったのが、禊の始まりとされます。

一方、当初、祓には、こうした水の禊以外にも、火の禊、風の禊、光の禊、大気の禊、など色々なものがあったそうです。そしてもうひとつ、「言霊の禊」というものもありました。つまり現在までに生き残ったものが、水の禊と言霊の禊ということになり、言霊の禊は祓(はらい)となり、今日では神道の浄化儀式として宮中や神社で日常的に行われています。

大晦日に行われる「大祓」というのをご存じの人も多いと思いますが、これは天下万民の罪穢を祓うという意味を持つ神道の年最大の祓の行事のひとつで、12月31日だけでなく、毎年6月の晦日(30日)にも行われています。

祓が「言霊の祓い」の名残である証拠に、祓の際には、祓詞(はらえのことば、はらえことば)が唱えられます。神事の前に必ず行われる祝詞の一種です。祓詞を唱えれば、祓戸の神々の御神力により、罪や穢れが清められると言われています。

祓詞を理解する話として、次のようなものを紹介します。明治初期の伊勢神宮神官が集めた霊験譚「神判記実」の中にある話で、紀伊国の岩松という樵(きこり)が狼の群れに襲わるという話です。狼に襲われた岩松は、木に登りますが、狼は背に登って重なり迫って来たため、暗唱していた祓詞を唱えました。

すると、突然心が清浄になり、狼達は降り、地に伏せ始めました。そのまま祓詞を続けていると、今度は朽ちた木の枝が折れ、大きな音と共に落ちたため、狼達は驚いて退散しました。難を逃れた岩松は、その後も日常的に祓詞を唱え続け、96歳まで生きたそうです。

このように、神通力のある言葉を唱えるというのは邪悪を廃し、幸せをもたらすとされ、これが祓詞です。祓詞は神道各派によって異なり、いろいろなものがあります。例えば出雲大社の祓詞は次のようなものです。

「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃日向乃橘小戸乃阿波岐原爾御禊祓閉給比志時爾生里坐世留祓戸乃大神等 惟神奈留大道乃中爾生令氐在奈賀良其御蔭乎志深久思波受氐皇神等乃御恵乎大呂加爾思比多利志時爾過知犯勢留波更奈里今母罪穢有良牟乎婆祓閉給比清米給閉登白須事乎八百万乃神等共爾聞食世登恐美恐美母白須」(かけまくもかしこきいざなぎのおほかみつくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらにみそぎはらへたまひしときになりませるはらへどのおほかみたちかみながらなるおほみちのなかにうまれてありながらそのみかげをしふかくおもはずてすめかみたちのみめぐみをおほろかにおもひたりしときにあやまちおかせるはさらなりいまもつみけがれあらむをばはらへたまひきよめたまへとまをすことをやおよろずのかみたちともにきこしめせとかしこみかしこみもまをす)」

お分かりのとおり、こんな長たらしい言葉を我々が使うのは日常的ではありません。第一暗記するのが大変です。

こんな長い文を覚えなくても、日ごろから汚い言葉や穢れた言葉は使わないようにし、良い言葉ばかりを使うようにすれば、良いことばかりが起こるようになる、といわれています。つまりは祓詞の簡易版であり、自分流の「祓えことば」です。

自分が発した言葉は、自分も耳にしています。口から出した瞬間、他の誰かに届く前に自分自身が自分の発したものを直に受け取ります。これはつまり「出したものが返ってくる」ということを意味し、それがこの世の真理であり道理です。

その原理に従い、自分が言ったことはそのまま自分に返ってくると考えれば、それはそのまま自分の中に浸透していく、ということにもなります。脳に刷り込まれたそれこそが言霊であり、望む望まないに関わらずその影響を受けるのは自分自身ということになります。

これと似たような法則に、引き寄せの法則というものがあります。こちらもポジティブな事を考えればポジティブに、ネガティブな事を考えればネガティブになるというもので、そう信じる事によって自分が求めている物を引き寄せると言われています。

言霊と同じく、ポジティブな言葉を言えばポジティブになり、ネガティブな言葉を言えばネガティブになります。本当にそんなことってあるの?と疑う方も多いと思いますが、言葉が意識を変え、意識が自分の行動を変えるので望んだ結果が生まれてくるのです。

ですから、今年は意識を変え、発言に注意し、良い言葉だけを発するようにしましょう。ネガティブな心を捨て、ポジティブマインドで毎日を過ごせば、おのずときれいな言葉だけが出てくるようになるはずです。

きれいな言葉は意識を変えるだけでなく、意識が行動を変え、さらに潜在意識の中にポジティブな事や、願いをすりこむようになります。その事によって、自分の行動がその目標に向かって動きやすくなるのです。

さて、今年最初のブログもそろそろ終わりにしたいと思いますが、最後に一つだけ冒頭で書いた事任神社にまつわるエピソードを披露しましょう。

事任神社の近くに、小夜の中山(さよのなかやま)という峠があります。掛川市佐夜鹿(さよしか)に位置する峠で、西行法師が詠み新古今和歌集に入れられた「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」という歌があり、その歌碑がこの峠に存在します。

最高点の標高は252mで、古くから、箱根峠や鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所として知られてきました。東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、当時は急峻な坂のつづく難所でした。頂上には真言宗の久延寺、西側の麓にあるのが事任八幡宮であり、この峠を越えた人、これから越える人の多くがこれらの寺社を参拝し、旅の安全や願い事成就を祈りました。

事任神社からこの小夜の中山までは、旧東海道を歩いておよそ50分ほどで到着します。現在は周囲を茶畑に囲まれたのどかな山道であり、峠付近には久延寺のほか、浮世絵のコレクションが日本一といわれる「浮世絵美術館 夢灯」といったものもあります。

この峠にはかつて、遠州七不思議の一つとして知られる「夜泣き石」というものがありました。「南総里見八犬伝」で有名な曲亭馬琴(きょくていばきん)がその話を「小夜中山復讐 石言遺響(せきげんいきょう)」の中で書いています。それによれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいました。

ある日お石が麓の菊川の里(現菊川市)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われました。そこを通りがかった轟業右衛門という男がこれを見つけ、しばらく介抱しましたが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪って逃げ去りました。

その時お石の傷口から子供が生まれたといい、そばにあった丸石には死んだお石の霊が乗り移ったといいます。この石はその後夜毎に泣くようになり、里の者はこれを「夜泣き石」と呼んで恐れました。生まれた子は、近くにある久延寺の和尚が見つけて保護し、音八と名付けて育てました。

和尚は音八に飴を与えて育てたといい、音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となりました。ある日のこと、音八はひとりの客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」と言いました。

すると客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と暴露しました。音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしました。

後にこの話を聞いた弘法大師がここを訪れ、亡くなった母を憐れんで丸石に仏号を刻んで供養を行ったと伝えられています。

かつて、峠にあり、夜泣き石と伝えられたこの石は今はなく、その場所には、夜泣石跡の石碑があるだけです。元の石は現在、国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇に移されています。その昔「夜泣き石」を見せ物しようとした業者がこれを持ち出しましたが、興行に失敗し、焼津に置き去りになっていたものを地元の人々がここに運んだそうです。

この国道1号は昔の東海道ではありません。明治13年に東海道の北側の沢沿いを開削した新道が造られ、これが明治38年に国道となりました。昭和7年には小夜の中山トンネルができ、トンネルができたことで峠を行き交う車のアップダウンも少なくなりました。

この夜泣き石がある敷地には「名物 子育飴 元祖 小泉屋」があり、ここで子育て飴という、琥珀色の水飴が売られ、この地の名物となっています。久延寺の和尚が飴で音八を育てたという伝説から、寺の隣にあった茶屋「扇屋」が、峠を通る客に出したのが始まりとされます。

昔ながらの静岡おでんや子育て飴ソフトクリームといったものもあるようです。一度訪れてみてはいかがでしょうか。

パストラルな日々

今年もあとわずかになりました。

年の初めには、ああまた長い一年が始まる、今年は何が起きるんだろう、といったワクワク感があった一方で、見通せない先のことを思ってヤキモキした気分になったりもしていました。

年の終わりが近づく今、ともかくも大ごとはなく無事に一年を過ごすことができたという安堵の気持ちがある反面、何も成し遂げられなかったという後悔の念もあり、一方では悪いことはひとつもなかった、しかし大きな進歩もなかったなといった好悪入り混じった複雑な心境でいます。

面白いなと思うのは一年の終わりと年の初めの間にはほんの僅かな時間差しかないのに、そうしたふうに気分が変わるということです。まさに始まりと終わりは表裏一体で、人の一生とは、こうした同じことを繰り返しながらメビウスの輪のように永遠と続いていくものなのかもしれません。

かなりの齢を重ねてきた最近、それではあとどのくらいその輪の中をグルグルと回ることになるのだろう、と考えたりもします。しかし、人生に無限ということはなく、やがては死が訪れます。

哲学者の樫山欽四郎さんは、人間の本質的な特質とは「死を自覚する存在である」と述べており、「死を知ることがなければ、これほど楽なことはない」とも言っています。また人が他の生物と異なる特徴のひとつは、人は全て、そして自分自身もやがて死ぬということを知っていることだとも言っています。

自分が死ぬことを知っているがゆえに、人は人生の意味を考えます。それは一種の哲学です。人生の意味を自己に問いかけ、死の意味をどのように受け止めるか、受け入れるかを考え続けるのが人の一生といえるのかもしれません。

フランスの文学者、フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー(1613~ 1680)は「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。人は死なざるを得ないから死ぬわけだ」と述べています。死が何であるかを知ることを一生の課題と捉える人は多いでしょうが、その答えを知る人は少ないようです。

まして突発的事故などで襲ってくる死の場合は死について考える余裕さえありません。一方で、回復の見込みのない病にかかり余命が数ヶ月と宣告されるような場合、時間的な余裕はあっても、結局死の意味というその答えを見つけられないということはありがちです。

突然の死を迎えない人、病気にならなない人もいつかは自分が死なねばならない、じきに死ぬ、という現実に向き合うことになりますが、死までの時間的余裕があるからといって、その意味が悟れるとは限りません。




では、人は死という定めをどう受け入れるのでしょう。死期を悟った人達は、一体どのように自己の死の事実と向き合い、どのようにその事実を拒否したり受けとめるのでしょう?

最近はそうしたことを研究の対象として考える学者もいます。

アメリカの精神学者、キューブラー=ロスは、長年心療治療にあたった経験から「死に行く人」との会話の結果をとりまとめ、多くの人が辿る「死の受容への過程」を、次のような段階モデルで示しました。

第一段階:「否認と孤立」
病気などの理由で、自分の余命が短いと知りそれが事実であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの誤りだという風に反論することで、死の事実を否定する。しかし、否定しきれない事実であることが解っているが故に、事実を拒否、否定することで事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。

第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかけるが、当然、その普遍的な原理は見つからない。それゆえ、誰か社会の役に立たない人が死ぬのは納得できるが、なぜ自分が死なねばならないのか、といった問いの答えの不在に、怒りを感じる。

第三段階:「取り引き」
死の事実性は拒否出来ず、根拠を尋ねても答えがないことに対し怒っても、結局、「死の定め」は変えらず、死の宿命を認識する。なお何かの救いがないかと模索する中、死を受容する代わりを考え、取引を試みる。例えば全財産を寄付するので死を解除してほしいとか、長年会っていない娘に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避する可能性を探る。

第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えないので深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。

第五段階:「受容」
抑鬱のなかで、死の事実を反芻する中、死は「無」であり「暗黒の虚無」だという考えは、もしかして誤っているのかもしれないと考える。あるいは死を拒否し回避しようと必死であったが、実は死とは何か別のことかも知れないという心境が訪れる。死んで行くことは自然なのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ死を受容するに至る。

ただし、これはロス博士が多数の「死に行く人」の事例を観察して得たひとつの「型」にすぎません。誰しもが同じような段階を経て、死の受容に至るわけではなく、色々な自己の死との向かい合いがあることは博士自信も認めています。

いずれにせよ、人が死を受け入れて尊厳を持って死に臨めるようにするためには、本人が死というものをしっかりと見つめる必要があり、また周囲の理解と協力が必要不可欠です。

人は「病気であることの意味」、「生かされていることの意味」、「死ぬことの意味」をめぐって様々な疑問を抱き、そして苦痛を感じますが、このような痛みは「スピリチュアルペイン(スピリチュアル的な痛み)」と呼ばれているようです。

欧米の医療では伝統的に、このような痛みを和らげるサービス、すなわち「スピリチュアル・ケア」を提供するしくみが整っています。日本の医療の場ではそうした試みは長い間行われてきませんでしたが、1990年代に入ってから注目され、実施される病院も増えてきました。




ここで「スピリチュアル」の意味ですが、WHOにおいては次のように定義しています。

「スピリチュアル」とは、人間として生きることに関連した経験的一側面であり、身体感覚的な現象を超越して得た体験を表す言葉である。多くの人々にとって、「生きていること」が持つスピリチュアルな側面には宗教的な因子が含まれているが、「スピリチュアル」は「宗教的」とは同じ意味ではない。

スピリチュアルな因子は、身体的、心理的、社会的因子を包含した、人間の「生」の全体像を構成する一因子とみることができ、生きている意味や目的についての関心や懸念と関わっている場合が多い。(WHO「ガンの緩和ケアに関する専門委員会報告」1983年)」

「人間として生きることに関連した経験的一側面」「人間の生の全体像を構成する一因子」と位置付けていることからわかるように、WHOもスピリチュアルを生きる意味や目的に関する「重要な一要素」と考えているようです。また、「身体感覚的な現象を超越して得た体験」という言葉から、目に見えない「超常的な感覚」であることを示唆しています。

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「毎日繰り返される体験の意味は何か」「自分はなぜ病気なのか」「自分はなぜ死ななければならないのか」「死んだあとはどうなるのか」「人間に生まれ、人間として生きているということはどういうことなのか」などの問いは、人間誰しも抱えています。

スピリチュアル・ケアとは、こうした問いに真正面から対面し、探究し、健全な解決へと向けて、絶え間なく働きかけるために、「超常的な感覚」を利用する一つの方法論と考えればよいかと思います。

人は、誰でも、元気なときでも、何かしらこうした「スピリチュアル・ケア」を必要としています。生きていく上においては人との関わりは不可欠ですが、職場や学校、その他の人生ステージにおける人間関係の中で抱える多くの悩みは、人を疲弊させ、「スピリチュアルペイン」を覚えさせます。

ましてや、病気になったとき、どうにもならない困難と対峙したときや死に直面しているときなどはなおさらです。

病はしばしば、何の前ぶれもなくやってくるものであり、因果関係がはっきりせずその説明がなされない疾病も多いものです。そうした場合、多くの人は「私だけなぜこんなに苦しまなければならないのか」といった疑問を持ち、現れた苦難への対処法がわからず苦しみます。

また、死を覚悟しなければならない病気になったり、人の世話にならなければ生きることができなくなる、といったより深刻な状況では「いったい私の人生は何なのだろうか?」と問いかけ、生きる意味を深く考えます。しかし当然すぐに答えは出ず、必要以上に苦しみます。

病気になると、孤独感という苦痛にさいなまれることも多く、また時には家族や周囲も人に迷惑をかけたくないという思いから罪責感さえ感じます。永遠に家族と別れなければならないと感じるので「別れの予測」に伴う苦痛もあり、また、見たことのない死後の世界に不安を感じそのことを思うだけで苦しくなったりします。

こうした様々な苦痛は、単なる精神的な痛みというよりも「魂の叫び」ともいうべきものです。自己存在の根本的な意味や価値に関わるより深いレベルの痛みであり、そうした心の痛みを感じたときこそ、適切なスピリチュアル・ケアの提供を受けることが救いとなります。



ところが、現代西洋医学はハイテクノロジー重視の医療へと変化しており、その従事者の多くは、病んでいる人のスピリチュアル・ニーズやその切実な叫びを理解できなくなってしまっています。かつての進化中の医学や各文化圏の伝統医療ではまだそうした心の叫びを受け止める向きもありましたが、現在では皆無の状態といえるかもしれません。

現代では社会全体が、若さやバイタリティー、美などばかりを高く評価しそれに言及することが多く、苦しむこと、病気の状態を生きることや死ぬこと、宗教的なこと、といったことがらについては、むしろタブー視する傾向すらあります。

病は突然やってくるものであり、そのような場合、人はスピリチュアルな痛みを感じつつ、「自分は何のために生きているのか」「死んだあとはどうなるのか」といったスピリチュアルな問いかけをします。

欧米の医療界におけるスピリチュアル・ケアは、こうした医療現場で生まれている切実な心の声に応えるためのしくみといえ、それなりに長い歴史があります。

「パストラル(pastoral)」といった名を冠した部門が設置されている医療施設も多く、これは本来、牧畜、つまり季節や水・食糧の入手可能性のために広大な陸地を家畜を移動することを表す言葉です。しかし医療的には、無限の宇宙を漂っているかのように苦しむ人々の精神的ケアを施す特別な手法を表します。

イギリスやアメリカ合衆国では”Pastoral Care Department(パストラルケア部)”といった部門が設置されている例が多く、またドイツの国公私立医療施設などでも“Seelsorge”といった名称の部門がありますが、こちらの邦訳はまさに「スピリチュアル・ケア」です。

このほかにも、欧米の病院にはスピリチュアル・ケア的な施設があることが多く、例えば、礼拝堂が併設されていたり、専門職のための宿泊所が用意されていたりします。これらは、欧米社会でスピリチュアル・ケアが制度としてしっかり根付いていることを示しています。

スピリチュアル・ケアの専門職は、チャプレン(chaplain)と呼ばれています。これは教会・寺院に属さずにスピリチュアル・ケア施設やその関連施設で働く人々で、牧師、神父、司祭、僧侶などの聖職者を指します。欧米の軍には常設のところが多く、例えばアメリカ軍にも、ラビ、イマーム、仏僧といった色んな宗教の聖職者がいます。

「従軍牧師」や「従軍神父」「従軍司祭」と呼ばれるキリスト教系の人たちがこうした軍のチャプレンの典型であって、ミリタリー・チャプレンというのがその公称です。ちなみに牧師はプロテスタント系の聖職者で、神父や司祭はカトリック系です。

ただ、チャプレンはキリスト教に限らず、どのような信仰を持つ人でもケアを提供することができるようになっており、その認定においては、神学の修士号相当の資格を持ち、信仰グループの運営経験、信仰グループからの認証、臨床パストラル教育などの4つのカテゴリーの資格、経験がなくてはなりません。

チャプレンは、軍隊だけでなく、多くの病院、養護施設、介護施設、ホスピスなどに配属され、患者、家族、スタッフに対して、精神的、宗教的、スピリチュアルなアドバイスをします。このほか、老人ホーム、介護付き住居などでチャプレンが採用される場合もあります。

かつて旧日本軍においても、従軍僧や従軍神職といった人達がいました。ただ、死者を弔うことに力点が置かれ、欧米のチャプレンのように精神的なケアを目的にしたものではなかったようです。現在の自衛隊にも似たようなものはありません。



日本の医療界においてもチャプレン的なものはありません。しかし、最近スピリチュアル・ケア職を置くようなところが増えてきました。「パストラルケア」の名でそうした専門職を受け入れているところがあり、国公立病院やキリスト教系病院などで散見されます。しかし、それ以外の私立病院などではほとんどみられません。

日本ではまだスピリチュアル・ケアが必要だとの認識が未だ十分に育っておらず、位置づけも不十分で伝統が確立していないからです。

そのための教育や訓練を受けた人が必要だという認識も不足しており、医療の片手間でできるような簡単なものではないということへの理解不足もその普及を妨げています。スピリチュアル・ケアの専門家がケアを行うことを拒むような病院すらあるといいます。

一方、終末医療(ターミナルケア)を行う場のことを「ホスピス」といいます。元々は中世ヨーロッパで、病や健康長上の不調を抱えた旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指しました。死ぬまでケアや看病をしたことから、こうした看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになったもので、その後欧米では広く普及しました。

日本で最初のホスピス・ケアは、大阪の淀川キリスト教病院で1973年に始められました。その後民間の医療機関を中心に広まりましたが、やがて公的な機関も開設に乗り出すようになりました。日本初の国立のホスピスは、1987年に開設された千葉県の国立療養所松戸病院で、その後も、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっています。

しかし日本ではまだ癌やAIDS等により治癒が難しくなった患者などだけが対象であり、これに対して欧米では医学的に救命や延命が不可能なほとんどの病気の患者に適用されています。

人々が人生の最後の時を迎えようとする場をケアするホスピスにおいてスピリチュアル・ケアは重要であり、WHOもケアの柱は、身体的ケア、心理・精神的ケア、社会的ケアに加えてスピリチュアル・ケアであると表明しています。

日本でも施設としてのホスピスは次第に増えてきているものの、こうしたホスピスを運営する人的資源の充実はまだ不十分です。1997年の「日本全国ホスピス施設ガイド」で紹介された29のホスピス施設のうち、スタッフにチャプレン・宗教家・伝道部職員などがいるとしたのは、9施設(30%)にすぎません。

十分な知識を持ったスピリチュアル・ケアの専門家がいないところも多いと指摘されており、またホスピスチャペル、仏堂、礼拝堂、祈りのための部屋などの施設も備えているのは7施設(24%)にとどまっています。

しかし、こうしたスピリチュアル・ケア人材の充実を目指す動きも加速しています。2004年にはスピリチュアル・ケア研究会が愛知県(中部地方)で立ち上がり、2007年には関西を拠点として日本スピリチュアル・ケア学会が設立されました。

理事長は3年前に亡くなった日野原重明氏でした。日野原さんは、「ありのまま舎」という難病のケアを行うホスピス施設を開設するなど、スピリチュアル・ケアに熱心な人でした。また自らが院長だった聖路加国際病院には礼拝堂を設けるなどホスピス施設の充実にも力を入れていました。

東京大空襲の際に満足な医療ができなかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能できる病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた新病棟を1992年(平成4年)に建設しました。

この備えの効果はその3年後の1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難もされていたロビー・礼拝堂施設は、緊急応急処置場として機能しました。事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となりました。

また78歳の時から始めた「いのちの大切さ」や「いのちの器」を伝えるために全国の小学校に出向き実施する「いのちの授業」は、多くの人々の共感を呼び、2016年までに全国合計200以上の小学校で実施されました。

「いのちの器」について日野さんはこう説明しています。「命は私に与えられた時間です。それを何の為に使うのか、もし助けを求めている者の為に有効に使うのなら、自分達の生き方は、これからの時代を生きる子供たちの手本になる」。自らの命の意味を知らしめることがスピリチュアル・ケアの拡散に繋がると考えておられたのでしょう。

それを喧伝するかのように105歳という長寿で亡くなりましたが、日野原さんが設立した日本スピリチュアル・ケア学会は最近も活発に活動を続けています。東大や京大のほか聖トマス大学、高野山大学、龍谷大学などの宗教関連の大学が参加して学術大会が開かれ、また関連書籍が多数出版されるなど、日本のスピリチュアル・ケアの発展の源泉になっています。

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「死んだあとどうなるのか」といった問いを人間誰しも抱えていますが、誰しもがその答えを持っているわけではありません。またこうした問いかけと探究の奥は深く、生半可な知識では対応できるものではありません。

1950年にドイツから来日し、長年臨床パストラルケア教育の指導に携わってきたウァルデマール・キッペス博士はこう述べています。

「スピリチュアル・ケアを行うためには、全人的な基盤、すなわち哲学的・宗教的基盤の上に立ったしっかりとした教育を受ける必要がある」

「老齢」という域に入ってきた昨今、私の死も遠い未来の話ではありません。残る人生、そうした向きの勉強もしっかりとやり、願わくば自らも人さまをケアできようになっていきたいと考えています。

自然に還る

伊豆での暮らしも、来年でもう9年になります。

しかし、ここよりもさらに長く住んでいたところもあり、これまで一番長く住んだのは、東京西部の町で、20年と少しそこで暮らしました。

そこに住もうと思ったきっかけは、そのころ勤めていた会社から近かったということもありますが、東京の西の端にあって山が近いというのがもう一つの理由でした。

昔から山登りが好きで、といってもアルプスといわれるような難所に行くでもなく、近場の比較的登りやすい、しかし眺めのよい山を選んでは、仕事が休みの週末ごとに踏破する、ということを若いころには繰り返していたものです。

山が好きというよりも、自然と触れ合うのが好きだったといったほうがいいでしょう。齢を重ねた現在では、さすがに毎週山へ行くといったことはしませんが、それでも週末には近所の山野を歩き回ることが半ば習慣化しています。

「自然霊」というものがあるそうで、大地や空気、緑といった自然現象をつかさどる働きをもっているといいます。この世に一度も姿を持ったことのないので目には見えませんが、大なり小なり私たちの生活に影響を与えているようです。時折、無性に山の中や川近くを歩きたくなるのは、そうした霊たちが私に囁きかけているのかもしれません。

古代日本の人々は自然物には生物にも無生物にも精霊(spirit) が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んでその名前の語尾につけました。

古事記や風土記などの古代の文献にそれらがみられます。葉の精は「ハツチ(葉槌)」、岩の精は「イワツチ(磐土)」、野の精は「ノツチ(野椎)」、木の精は「ククノチ(久久能智)」です。また水の精を「ミツチ(水虬)」と呼び、火の精は「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいました。

古代人はまた、自然界の中でも「力」を持つものの発現はその精霊の働きと信じていました。雷は「イカツヂ」であり、毒によって他の生き物を死に至らしめることもある蛇は「オロチ」です。

こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも宿るとされ、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」と呼ばれ、足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」です。

それにしても、なぜ「チ」なのかですが、人間の生命や力の源が「血」にあると信じられたところに起源していると言われています。父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができ、さらに人の生活に密接な道(ミチ)や家を建てる場所である土(ツチ)もまたそこからきているといわれています。

さらに、神話に出てくる国津神(くにつかみ、地上の神。対するのは天津神)系の神様には「チ」が名称の語尾につけているものがあります。「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日孁貴)」などがそれです。

また人間でも大きな勢力を持った一族には「チ」を付けた別名で呼ばれていました。物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」がそれらです。

こうした「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋るといった自然主義的な観念を人々が普通に持ち、信じていた時代を反映しているものと考えられています。




生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方を「アミニズム」といいます。ラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味です。

霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観であり、日本だけでなく世界中で宗教や習俗として定着しています。原始的な宗教観であることから、未開社会の未開人の宗教であるとする見方もあります。とくにキリスト教を先進的なものだと信じるヨーロッパの人々にとってはこうした古い考え方は時に蔑視の対象になっているようです。

しかし、自然物・自然現象に宿る霊魂をストレートに崇拝するというのは、きわめてシンプルな営みです。近代宗教の多くがそうであるように、改めて神をしつらえてそれを崇拝するというのは、神聖なものと何か直接向き合えていないような感じがしないでもありません。

朝日が昇ったら自然にそれに手を合わせたくなる、きれいな景色を見たら自然と涙が流れる、といった感覚は人間にとってごく自然なものであり、蔑むどころかより崇高なものであるという気がするのです。

人間が自然の中に神秘性を感じて自然崇拝の場としているところは世界中にあります。ユネスコの自然遺産に指定されているものの中にそれらは多く、例えば、アメリカのイエローストーン国立公園がそれであり、インディアン達はここを“Mitzi-a-dazi”(「黄色い石のある川」)として崇敬してきました。

オーストラリアのグレート・バリア・リーフもそうで、オーストラリア先住民のアボリジニやトレス海峡諸島民たちは1万5千年前から、グレート・バリア・リーフと共生を続け、彼らの文化や精神に多大な影響を与えてきました。

日本の白神山地もまたユネスコの自然遺産に登録されており、古くから地元の人々の崇拝の対象になってきた場所です。青森県の南西部から秋田県北西部にかけて広がっている標高1,000m級の山岳地帯で、世界遺産登録以前には弘西山地(こうせいさんち)とも呼ばれていました。

世界遺産登録地域の外側にも広大な山林を持ち、通常は、登録地域外も含めて白神山地と呼ばれますが、その中でも特に林道などの整備がまったく行われていない中心地域だけが世界遺産登録の対象です。

山地全体が神聖なものとされていますが、中でも「白神岳」は地元大間越の人たちが祈りをささげてきた、信仰の山でもあります。白上山とも呼ばれることがあり、これは秋田県側から春に見える山頂の雪形が「上」の字に見えるためだといいます。

白神山地は、他の名勝地のような美しい高山植物や雄大な景色を眺められる場所はあまり多くはありません。ここが世界遺産に登録されたのは、意外にもブナの原生林が広大に広がっていることが評価されたものです。

ここのブナは人為の影響をほとんど受けていません。ブナはあまり人間の生活には役にたたず、薪のほかでは椎茸の栽培以外にはあまり使い道はありません。そのために伐採を免れてきたのです。

小さな実をたくさん付けるために果樹と同様に寿命が短く、寿命は200年ほどであると言われています。自然に放置して倒れたブナは他の樹木や生物の生存に欠かせない栄養分を供給しています。

白神山地のブナの原生林は樹齢の若いもの、大木、老木、倒壊し朽ちたものまであらゆる世代が見られます。もちろんブナだけでなく、カツラ、ハリギリ、アサダなどの大木も見られ、そうした木(言い換えれば森)のみで形成された環境が評価された世界的にもめずらしい世界遺産だといえます。

世界遺産に登録されている地域は、中央部の核心地域とその周辺の緩衝地域であり、これらの地域の開発は原則禁じられています。このため、核心地域には道らしい道はなく、遺産登録以前からあった登山道があるだけで、新しいものは今後も恒久的に整備されない予定です。

秋田県側の核心地区は原則的に入山禁止です。また、青森県側の核心地域に入るには、事前、あるいは当日までに森林管理署長に報告をする必要があります。ただし林道がないので、仮にここを踏破する場合でも高度な技術が必要であり、世界遺産に登録されて以降、遭難事故もあって死亡者も出ています。

禁猟区にも指定されており、このため川で漁を行うには漁業協同組合と森林管理署長の許可が必要です。また動物の猟もできないわけで、このため自然の資源を利用してきたマタギによる狩猟も禁止されており、マタギ文化が消失するのではといいう懸念を持つ人もいます。

マタギの立ち入りを許可して文化を保つことが重要か、自然保護のために核心地域への立ち入りを全面的に禁止すべきかどうかについては現在も議論が続いています。しかし、ほとんどの場所が開発され尽くされている日本においては、少しくらい全く人が足を踏み入れることのない場所があってもいいのではないでしょうか。




この白神山地と同様に日本でユネスコの自然遺産に登録されている場所は、ほかに3つあります。屋久島、知床、小笠原諸島がそれらであり、登録年は白神山地と屋久島が1993年で元も古く、知床が2005年、小笠原諸島が2011年です。

いずれもその地理的自然、生物的自然が高く評価されたもので、私もいつかは行ってみたいと思うのですが、どれを選ぶにしても甲乙つけがたいものがあります。

もっとも、こんな有名な場所に行かなくても、美しい自然というものは日本中至る所にあります。これを書いている部屋の窓の外に見える富士山もその一つであり、晴れた日などには輝かんばかりの光彩を放つ最も身近な自然美です。

富士山の場合は自然遺産ではなく、「信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産に登録されました。同じく山岳信仰が理由として世界遺産に登録されているのは、高野山や熊野三山があり、ほかにも、平泉の金鶏山(浄土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群)や、長崎の安満岳(天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)などがあります。

これらはいずれも、その山の持つ水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、あるいは雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から崇敬されてきたものです。神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、「神奈備(かんなび)」という神が鎮座するとされました。

神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域であり、これが「カンナビ」です。古くは、その山に付けられている一般名とは別にそう称されて敬われていました。語源は「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする説や、「ナビ」は「隠れる」を意味し「神が隠れ籠れる」場所とする説があります。

カンナビの崇拝は、自然への感謝や畏敬や畏怖の表れですが、ここは常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境とされています。常世とはつまりあの世のことで、神の住まう神域とみなされることもあります。常世と現世を分かつ「結界」や「禁足地」としての意味もあり、現世の端境として、現在でもここで祭祀が行われる地域も多く残っています。

富士山だけでなく石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している例は多く、麓の農村部においてはその山が水源でもあることから、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという言い伝えを残すところも多くなっています。

古くから手付かずで残すべき自然として重視されてきた経緯から開発を免れてきたものも多く、山そのものだけでなく里山やその周囲にも文化的にも貴重なものが残っており、世界中の自然環境学の研究者などが、研究に訪れる場所でもあります。過去にはその土地特有の土壌細菌の発見が新薬開発のきっかけとなったといったこともありました。



現世と常世の境界であることから、死者の魂(祖霊)が山に帰る場所であるという言い伝えもあり、これは「山上他界」といいます。古くには、亡くなった人の魂は山の上の遥か彼方に行ってしまうと信じている人が多く、葬儀の際の野辺送りは「山送り」とも呼ばれていました。

山上他界をよく表しているのが「修験道」であり、これを体現する人たちは修験道者といいます。他界あるいは死の世界で修行を積み、現世に帰還することで常人の持てない力を身に付けることを目指す人々です。山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得る日本古来の山岳信仰であり、のちには仏教に取り入れられて発展した日本独特の宗教といえます。

海上他界というのもあり、これは人は亡くなったら海の彼方に行ってしまうと信じられていたものです。九州や南方の島々、或いは瀬戸内地方に多く、竜宮伝説はこの海洋信仰の延長線上にあるとも言われています。

沖縄や奄美群島に伝わる他界概念のひとつ、「ニカライナ」も海上他界の思想です。生者の魂はニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられています。沖縄では海へ帰った死者の魂は死後7代して親族の守護神になるという考えが信仰されていました。

ほかに「地中他界」というのもあり、こちらは地の下はるかに死者の霊魂の眠る国があるという考え方です。いわゆる「黄泉(よみ)」と言われる世界がそれであり、日本神話のイザナギとイザナミの話が有名です。

死者の魂を他界へと運ぶとされるものとしては、馬や鳥といったものがあります。馬は、ケルト神話の死の女神エポナなどが有名であり、ヨーロッパで信仰が衰えた後も、ケルピーといった命を奪う妖精伝承の形で残っています。また、鳥は、葬儀に鳥葬といった形式があり、また霊魂の表象とされる地域が世界中にあります。

船もまた、あの世へ導いてくれる象徴として昔話によく出ていきます。北欧のヴァイキングの風習には「船葬墓」というものがあり、副葬品として船を死者に添える風習もヨーロッパ各地で見られるものです。

以下のアイヌの物語にもあの世への乗り物として船が出てきます。今宵、皆さんが眠る前のおとぎ話として、それを紹介してこの稿を終わりにしたいと思います。

ある酋長の夫婦が和人の国へ交易へ出かけた。その帰りに嵐に遭遇した二人は、小舟でつたいづたいで海岸を移動して、寝泊りを続け、故郷の村に帰ろうとしていた。その日は夜になってしまったので、崖山の下の浜に舟を置いて一休みしていると、大津波が寄せて来た。夫はとっさに妻の手をとり、崖を上って避難すると、そこにひとつの洞窟をみつけた。

中に入ってみると意外にも奥は深く、さらに歩き進むと暗くなるどころか逆にどんどんと明るくなっていった。歩き続けた二人がその先で見つけたのは、綺麗な村で、そこでは何人かの村人が畑仕事をしていた。

夫がそのうちのひとりに自分たちが津波に遭って逃げてきたことを話すと、その男はここは死者の国であり、けっしてここの食物を口にしてはいけない、と教えてくれた。

ここの物を食べると人間界に戻れなくなるとも言われたが、またここは死者の国ではあるものの、人間以外にもクマもシカもいる。このため、狩りで食べていける上、生前に使っていた道具も持って来れる場所だとも言われた。

いかんせん、ここはあの世である。何も食べず、急いで帰るようにとこの男の忠告を受けた二人は引き返そうとすると、男はさらに、お前たちが見つけた浜は悪魔が住んでいるところで、津波もその悪魔が見せた幻であるから、舟も無事であるはずだと教えてくれた。

二人が洞窟を引き返す途中、見知った老人と見知らぬ老人とすれ違ったが、2人ともこちらの姿は見えない様子だった。夫婦が元いた浜に帰ると朝になっていた。悪魔がいると言われた二人はあわてて小舟に乗り、さらに何日もかけてようやく生まれた村に帰ることができた。

夫婦はその後末永く幸せに暮らしたが、時折思い出すのがあの洞窟の奥にあった美しい村だった。いつか自分たちも死んだらまたあそこへ行こう、そのときは今この家にある道具を持って行き、クマやシカを狩って静かに暮らそう、そう話す二人なのであった。

流刑地紀行

我が家のある町は、麓から車で5分ほど山道を登ったところにあり、標高200mほどであることから、いつも麓より涼しく、通常は2~3℃、時には4~5℃ほども気温が下がります。

このため、暑い夏でも快適に過ごすことができ、暑さが苦手な我々夫婦にとってはありがたい環境です。その麓の修善寺温泉街は観光地でもあります。伊豆で最も古い温泉と言われており、古刹もいくつかあることから、いつも観光客が絶えません。

最も人で賑わうのが曹洞宗の寺院、修禅寺です。源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後ここで殺害されたとされており、二人の墓があります。

源頼朝自身も罪人として囚われていた時期があり、その幽閉地は修善寺温泉から北西へ8kmほど離れた韮山の地にあったとされます。蛭ヶ小島という場所で、その昔は見渡す限り芦原が広がる沼地だったようです。

伊豆にはほかにもあちこちに罪人を配流した土地があり、これは平安時代に成立した「律令法」において、ここが遠流の対象地と定められたからです。重罪犯は、さらに伊豆諸島に流されましたが、伊豆半島はその入り口で比較的罪の軽い罪人がここへ追いやられました。

頼朝以前にも伊豆に流罪になった人は多数おり、能書家の橘逸勢(たちばなのはやなり)は、謀反を企てたとして流罪になりました。また、応天門への放火犯、伴善男(とものよしお)もここで亡くなっており、後白河天皇と対立した文覚上人も伊豆へ流されました。このほか、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)も伊豆を経て伊豆大島へ流されています。

このように罪人を辺境や島に送る追放刑のことを「流罪」といいます。流刑、配流ともいい、特に流刑地が島の場合には島流しとも呼ばれることもあります。都会に造られた獄舎に入れられるより、遠いところに取り残されるほうが生活は過酷です。生きていくための糧の少ない中一人だけで生きていかなければならず、苦痛がより大きい刑罰とされていました。

流罪は主として政治犯に適用されましたが、戦争・政争に敗れた貴人に対し、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合にも流罪が適用されました。

配流先で独り生涯を終えた流刑者は多数に上りますが、中にはそこで子孫を残したり、赦免されたりした例もあります。西郷隆盛は2度目に奄美大島に流されたとき、島の名家の娘・愛加那(あいがな)と結婚して一児を設け、その子菊次郎は後に京都市長になりました。

脱走を企てて成功した流刑者も多く、後醍醐天皇は元弘の乱で敵対勢力に捕らえられ隠岐の島に流されました。しかし脱出して建武の新政を打ち立て鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。その鎌倉幕府を創設した源頼朝もまた伊豆で再起して新政権を打ち立てています。

平安から鎌倉期にかけてのこの時代、流刑が宣告された受刑者には、居住地から遠隔地への強制移住と、1年間の徒罪(ずざい)が課されました。徒罪とは徒刑(ずけい)ともいい、律令法・五刑のうち、3番目に重い刑罰です。受刑者を一定期間獄に拘禁して、強制的に労役に服させる刑で今日の懲役と似た自由刑です。

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五刑のうち、最も重いのが死罪であり、次いで流罪、続いて徒罪、その次は杖罪(じょうざい)です。木製の杖をもって背中又は臀部を打つというもので、最も軽い刑が来て笞罪(ちざい)と呼ばれ、これはいわゆる鞭打ちです。

流刑対象者の中でも、特に悪質なものに対しては3年間の徒役も加えて課されました。妻妾は基本的には連座して強制的に同行させられましたが、他の家族は希望者のみが同道しました。配所への護送は季節毎に1回行われ、流刑地到着後は現地の戸籍に編入され、1年間の徒罪服役後に口分田(律令制において民衆へ一律に支給された農地)が与えられました。

現地の民として租税も課されましたが、現地民とみなされるようになったことから、原則的に恩赦等による帰国もありませんでした。もっとも、時には全ての罪人が赦免される「非常赦」が行われて帰国が許されることもありました。

同じ流罪でも、その境遇は受刑者を監視する監督官の匙加減で大きく変わります。源頼朝は縁者から仕送りを受けていたほか、本来禁じられている若干の側近まで置いてもらっており、ぎりぎり貴族の体面を保つ暮らしをしていました。

一方では、鹿ケ谷の陰謀で鬼界ヶ島に流された藤原成経・平康頼、俊寛のように、かなり悲惨な生活を強いられることもありました。鹿ヶ谷の陰謀とは、平安時代の安元3(1177)年に京都で起こった、平家打倒のクーデター未遂事件です。

このころ、清盛を筆頭とする平家は全盛を誇っていましたが、これに対して後白河天皇は公家勢力を復権させて平家にとって代わろうと画策していました。これに加担する形で多くの反対勢力が京都、東山は鹿ヶ谷(現京都市左京区)に結集し、謀議が持たれました。

しかし、これをいち早く察知した清盛によって一味は捕らえられ、関係者全員およびその近親が処分されるところとなり、首謀者と目された後白河院の近臣、西光は斬罪、同側近の成親は備前国に流罪となり、後に謀殺されました。

清盛の弟の教盛の叔父、成経もこれに連座して備中国へ流されました。更に御白河院側近の俊寛が、同じく後白河院近習の平康頼とともに薩摩国にあったとされる「鬼界ヶ島」へ流されることになりました。そしてその後、平成経もまた同島への移送が決まりました。

「鬼界ヶ島」とはすなわち「鬼が棲む世界と人の住む世界の境界」という意味です。「平家物語」によると、島の様子は次の通りです。

舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。

美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所がある。山上からの景色は素晴らしい。南を望めば海は果てしなく、雲の波・煙の波が遠くへ延び、北に目をやれば険しい山々から百尺の滝がみなぎり落ちる。

後段の記述をみると、その恐ろしげな名前とは裏腹に、まるでパラダイスのような場所にさえ思えます。古代以降、日本の南端の地とされていましたが、それがどこにあったのかははっきりしません。ただ、以下の薩南諸島のふたつのいずれかではないかとする説が有力です。

硫黄島 –俊寛の銅像と俊寛堂がある。俊寛の死を哀しんだ島民が俊寛の墓を移したと場所に建てられたとされ、毎年盆には送り火を焚いて悼む行事も行われてきた。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから、「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。

喜界島 – 俊寛の墓と銅像がある。骨が出土しており、これは面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。しかし、喜界島には硫黄が取れる火山はおろか、高い山もなく、高い滝ができるほどの川も見られず、「平家物語」の記述とは大きく異なる。

これを見る限りでは鬼界ヶ島は硫黄島ではないか、と私には思えます。薩南諸島北部に位置する島で、人口は120人ほど、世帯数は60ほどです。薩摩硫黄島とも呼ばれますが、これは小笠原諸島に同名の島があり、日米両軍が激戦を交わしたこの島と区別するためです。

「吾妻鏡(正嘉2(1258)年)には、2人の武士がこの硫黄島に流刑にされたとする記述があり、その内の1人の祖父も硫黄島に流刑にされたと記録されています。このことから、平安時代末期から既にこの島が流刑地として使われていたことがわかります。

東西5.5km、南北4.0kmで、主峰の硫黄岳(703.7m)は常時噴煙を上げており、亜硫酸ガスによってしばしば農作物に被害が発生します。また、周辺の海は硫黄が沈殿して黄色く見えることから「黄海ヶ島」と呼ばれ、これが「鬼界ヶ島」に書き換えられたとされます。

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この島に流罪となった俊寛を題材にした「平家女護島」(へいけにょごしま)という浄瑠璃があります。俊寛を題材にして近松門左衛門が人形浄瑠璃に仕立てたもので、享保4(1719)年に大坂竹本座で初演されてヒットしましたが、そのストーリーは以下のようなものです。

平家転覆を企んだ俊寛、平成経、平康頼の三人が鬼界ヶ島に流され、早三年が過ぎようとしていた。彼らの流罪には刑期がなく、死ぬまでこの島にいなければならない。食べることもままならず、時たまやって来る船に硫黄売って食いつないだり、海草を食べ暮らしていた。

あるとき、三人の一人、成経がここに住む海女で千鳥という女と結婚することを他の二人に打ち明けた。絶望的な状況の中で起こった数少ない慶事であり、これを三人は歓びあった。そして形ばかりのこととはいえ、成経と千鳥は俊寛と康頼の前で祝言の杯を交わした。

するとそこへ、大きな船が島を目指してやってくるのが見えた。何事かと皆は驚くがそれは都からの船であった。船が浜辺に着くと中から使者の妹尾太郎兼康が降りてきた。妹尾は早くから平氏に仕え、鳥羽上皇とその官女との間に生まれた高級官僚である。

妹尾は、建礼門院(平清盛の娘)が懐妊したため、彼らの流罪を恩赦にする、という清盛の赦免状を持っていた。それを読んで夢かと喜びあう三人だったが、その中にはなぜか俊寛の名前だけない。何度も内容を確認するが、やはり俊寛の名だけが見当たらない。

清盛から目をかけられていた俊寛は陰で密に平家打倒を企てていた。そのことは許されることではない、それゆえ恩赦を受けられなかったのだ、と妹尾は憎々しげに言い放つ。青ざめる俊寛。一時の喜びも突然のこの暗転によって消え去り、打ちひしがれて泣き崩れる。

だがそこへもう一人の使者である丹左衛門尉基康(たんさえもんのじょうもとやす)が船から降りてきて、俊寛にも赦免状が降りた、と伝える。俊寛にだけ恩赦が与えられないのを見兼ねた清盛の嫡男、平重盛が別途、俊寛にも赦免状を書いていたのだ。

これで皆が帰れる。そう安堵して三人が船に乗り込み、千鳥がそれに続こうとすると、それを妹尾が止める。またも憎々しげに言うには、重盛の赦免状には「三人を船に乗せる」としか書いておらず、そう書いてある以上、四人目の千鳥は乗せることはできないというのだ。

嘆きあう三人と千鳥に、妹尾の言葉がさらに追い撃ちをかける。俊寛の妻の東屋が亡くなったというのだ。しかも清盛の命により東屋を斬り捨てたのは妹尾自身だという。いつかきっと都で妻と再び暮らす、そんな夢さえも打ち砕かれた俊寛は、再度絶望に打ちひしがれる。

妻のない都に何の未練もなくなった俊寛は、自分は島に残るから代わりに千鳥を船に乗せてくれと訴える。しかし妹尾は拒絶し俊寛を罵倒する。思い詰めた俊寛は、妹尾の刀を奪って彼を斬り殺す。そしてその罪により自分は残るから千鳥を船に乗せるよう、基康に頼んだ。

こうして千鳥は乗船を許され、俊寛のみを残して船が出発する。しかしいざ船が動き出すと、俊寛は言い知れぬ孤独感にさいなまれ、半狂乱になる。手綱をたぐりよせ船を止めようとするが、無情にも船は遠ざかる。孤独への不安と絶望に叫び、船を追うが波に阻まれてしまう。

船が見えなくなるまで呼び続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へ登り船を追い続ける。ついに船がみえなくなり、俊寛の絶望的な叫びとともに日は暮れていく…

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この物語は本来なら船が出ていくところで終わるはずですが、そこで終わりではなく、船が出るや一転して俊寛が取り乱すという結末になっています。俊寛の人としての弱さと未練を締めとしたところが高く評価されており、数多くの浄瑠璃や歌舞伎を生み出し、東洋のシェークスピアと称された劇作家、近松門左衛門の面目躍如の作品といわれています。

史実としての俊寛は、その後自ら命を絶っています。成経や康頼が島を去ったあと、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、その折俊寛は娘からの手紙を受け取りました。上の話では妹尾が俊寛の妻の死を語ることになっていますが、実際にはこの手紙で妻の死を知った俊寛は絶望し、食を断ってひたすら阿弥陀の名号を唱えながら37歳の生涯を終えました。

平安時代の南方方面への流刑は鬼ヶ島以外にも行われていたようで、奄美群島に位置する沖永良部島でも遠島が行われたという記録があり、おそらくここが最南端だったでしょう。

では、北端はどこだったかといえば、「外が浜」がそれであったとされます。現在の 陸奥湾西方にある津軽半島の一部を指す古来の地名で、現代の自治体としては、青森市・蓬田村、外ヶ浜町、今別町、平内町などです。これらはいずれも津軽半島の北のはずれにあたります。
地名の由来は、国土の終端を意味する「率土の浜(そっとのひん)」と考えられています。

中世には、「穢れ」の思想が強まり、「外が浜」は穢れたモノの筆頭としての鬼が棲む地と目されていました。鬼はタブーとして遠ざけられる存在であり、そんな物の怪が棲む場所へ追放されるというのは究極の流刑です。和歌においては、こうした僻地に追いやられた人々に抒情を感じるとして多くの歌人がこの辺縁の地を歌に詠みました。

「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(西行)
「みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」(藤原定家)

定家の歌の「うとう」とは海鳥・ウトウのことですが、歌詠みの間では、外が浜と同じく、最果ての国の代名詞として使われていました。漢字では「善知鳥」と書き、別名「ウトウヤスカタ」とも呼ばれます。体長は40cmほどで、夏羽では上のくちばしのつけ根に突起ができます。アイヌ語でウトウといえば「突起」という意味があります。

長野県塩尻市にも善知鳥峠という標高889mの峠があります。北側(塩尻市側)が急で、南側(辰野市側)は緩くなっていて、その名称は以下の猟師にまつわる民話に基づいています。

ひとりの猟師が北の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴って都に売りに行った。このとき、親鳥が猟師の後を追ってきて、わが子を取り戻そうと「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けた。
親子はこれにかまわず険しい峠道に差しかかったが、このときから激しい吹雪に襲われた。

そんな中でも、親鳥はなおも「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けながら追いかけ、その声は麓の村まで響き渡った。吹雪の収まったあと、村人たちが峠に登ってみると、猟師は吹雪のなかで力尽き、わが子に覆いかぶさるように死んでおり、息子はその下で泣きじゃくっていた。

またそのすぐ脇には、死んだ親鳥の姿もあった。同じように下に雛鳥を抱えており、雛は生きて鳴き続けていた。命を賭してわが子を吹雪から守った姿を見た村人たちは、その鳥を猟師とともに手厚く弔い、のちにこの峠を「善知鳥峠」と呼ぶようになった。

室町時代にも能の演目で善知鳥にまつわるものが作られています。旅の僧侶が途中の山で亡霊に出会うという話で、亡霊はかつて猟師で善知鳥を捕獲して生計を立てていました。

ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用し、声真似をして雛鳥を捕まえていました。しかし死後、その悪どいやり方を咎められて地獄に落ち、そこで鬼と化したウトウに苦しめられるようになっていました。

猟師の亡霊は僧侶に地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆き、助けを求めながら消えていく…という話です。別バージョンもあり、その中では猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわります。猟師はその雨から逃れるため蓑笠が必要になったというオチがつきます。

実際のウトウという鳥は、その繁殖地で断崖の上の地面に穴を斜めに掘って巣にします。メスは一度に一個だけここに産卵して両親が交代で45日抱卵します。ヒナが孵化すると、今度は巣立ちまでの約50日間餌を運ぶという子煩悩な鳥です。

ウトウは水中を泳ぎまわって小魚やイカなどを捕食します。繁殖期になると親鳥はイワシやイカナゴを嘴に大量にぶらさげ、鳴き声をあげながら帰ってきます。雛はその声を聞いて出てきますが、「ヤスカタ」と鳴くかといえばそんなことはありません。親鳥は「ウウウウッブェッーッ」鳴き、雛の声はヒヨコの声をソプラノに振ったような声で鳴きます。

それにしてもなぜ、「ウトウヤスカタ」なのか調べてみたところ、これは青森市安方にある善知鳥神社の言い伝えに起因しているようです。その縁起によれば、その昔、烏頭大納言藤原安方朝臣という身分の高い人物が罪を犯し、都から流された後に、安方の浜で没しました。

すると、不思議な鳥が浜辺に降り立つようになり、雄は「ウトウ」、雌は「ヤスタカ」と鳴く事から、藤原安方にちなんでその鳥を「烏頭鳥=善知鳥」と呼ぶようになったといいます。

人々はこの鳥を安方の化身として恐れ敬いましたが、ある日猟師が誤って雄鳥を鉄砲で狙って殺してしまい、他の雄鳥達は急に凶暴化して田畑を荒らすようになりました。狙撃した猟師も変死したため、祟りを恐れた村人達は雄鳥を丁重にその霊を慰めるため、「うとう明神」として祀り、のちには雄鳥も祭るようになり、その後善知鳥神社と呼ばれるようになりました。

この善知鳥神社は、その昔青函連絡船の発着場があったところからほど近く青森市の中心部にあります。津軽藩の2代目藩主、津軽信枚がここに港を作り発展したため、青森の発祥の地ともいわれています。創建年ははっきりとわからないようですが、航海安全の神として知られる市杵島姫命・多岐津姫命・多紀理姫命の宗像三女神を主祭神として祀っています。

版画家・棟方志功は、幼少期をこの神社の近くに住んでおり、よくその境内で遊んでいたそうで、この神社界隈のスケッチを好んで描いていたといいます。昭和13(1938)年に善知鳥版画巻という版画集を帝展に出品しており、これは特選となっています。

まとまったものをどこかで展示しているかどうか調べてみましたがよくわかりません。ただその一部はネットで流通しており、高い値段で取引されているようです。

皆さんもウトウとしていないで、探してみてはいかがでしょうか。

孤独なやつら

先日のブログで書いた山頭火の生涯をみると、どうしても「世捨て人」という言葉が頭に浮かんできます。

「世捨て人」は英語では、“anchorite”といい、同じく英語の類義語には“hermit” というものもあります。こちらは「隠者」と訳され、いずれも古き時代の知識人を表す言葉であって生活の在り方は似てはいますが、本来別のものです。

そもそも、こうした人々が現れたのは、中世ヨーロッパで広く普及したキリスト教のためです。この宗教は貧困に積極的な価値を与えており、とくに財貨や家郷も捨てて貧困を求めることを潔しとしました。生活苦による貧窮などではなく、自発的に質素な生活を送ることを是としたこの思想からは色々な生きざまが生み出されましたが、そのひとつが「隠者」です。

富を捨て、一般社会との関係を絶つことを「隠遁(いんとん)」といいます。本来は質素な生活の中で生の全てを神への賛美と愛に捧げるという意味の宗教用語であり、キリスト教ではその根拠を聖書に求めました。隠者達はこの中でもとくに旧約聖書に書かれた「砂漠の神学」というものを信奉し、それを学ぶために隠遁生活を送るようになりました。

その起源は、西暦250年ごろ、エジプトで生まれた大アントニオスと呼ばれる聖者だとされます。アントニオスは20歳になった頃両親と死別、その後財産を貧しい者に与えました。そして自らは砂漠に籠もり、105歳で亡くなるまで苦行生活に身を投じたといいます。

隠者を意味する“hermit”は、「人里離れた」、「そして砂漠に住むもの」という意味のラテン語が語源です。かつてのキリスト教徒の隠者は、この大アントニオスにあやかり、「隠者の庵」と呼ばれる人里から隔絶された場所に住むことに生きる意味を見出そうとしました。

その庵は文字通り砂漠の中にあり、あるいは森の中や自然の洞窟であったりしました。富を捨て、高い宗教的な信念を持つ彼らは人々の尊敬を集め、精神的な助言や答申を得るため、あるいは弟子になるため遠路はるばる訪ねてくる人も多数ありました。しかしあまりに多くの弟子をとったために、物質的な意味では孤独ではなくなってしまう隠者もいました。

物質的といえば、隠者といえども食がなければ生きてはいけません。このため初期の隠者達は蔓や小枝で籠を織り、これとパンと交換して生計を立てていたとされます。

もともとは砂漠の民でしたが、やがては町中に住まうようになる隠者も出てきました。生計を立てるためには籠編みだけでは苦しいため、やがては門番や渡し守といった仕事をするようになり、町に住みついて人目にも頻繁にふれるようになっていきました。そしてこうした隠者のことを人々は「世捨て人」と呼ぶようになっていきます。

世捨て人たちはたいてい教会の敷地の中に建てられた小さなあばら家か独居房に住んでいました。聖壇の裏に設けられており、そこに小さな窓が備えられていました。世捨て人を人目にさらすことなくミサ(典礼)に参加させ、聖餐に与らせることができるようにする仕組みです。世捨て人の助言を求める人はその窓を使って彼・彼女に相談することができました。

独居房には、もう一つの窓が通りか共同墓地に開かれており、慈悲深い街の人たちが食料その他の生活必需品を届けてくれました。彼らの生活はこれによって成り立っており、それは教会との約束、もしくは契約の上で成立する生活でした。そうした意味で、この時代の世捨て人というのは、ある種の「職業」といっていいかもしれません。




中世のヨーロッパでは、こうした隠者や世捨て人が普通に見られましたが、一方では隠遁者になるのは実は非常に難しいと考えられていました。それなりの学識が必要だからです。それだけに憧れを持つ人も多くいましたが、教養というものは一朝一夕で身に着きません。

そこで、「巡礼」というものがこのころ流行り始めました。日常的な生活空間を一時的に離れて、聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動です。より高尚な言い方をすると、「日常の俗空間から離脱し、非日常空間あるいは聖空間に入り、そこで聖なるものに接近・接触し、再びもとの日常空間・俗空間に復帰する行為」です。

一時的な世捨て人ともいえ、領主権力からも共同体からもその保護を離れ、いわば個人として社会に露出した状態です。ただ単に旅に出るだけなら高度な教養を身に着ける必要はなく、思い切って家を出れば、世捨て人と同じように他人にはばかられることなく神と対面できます。いわば世捨て人の大衆版であり、多くの人がそうした流浪の旅を夢見ました。

こうした巡礼は世界中の宗教にみられます。共通点は、宗教儀礼であるという点であり、多くの場合目的地を伴います。たとえばキリスト教やイスラム教のように一つの聖地を訪れる直線型のほか、インドや東洋で見られる複数の聖地を巡る回遊型があります。日本の四国のお遍路も巡礼のひとつであり、こちらも回遊型といえます。

ところがこうした宗教や目的地に縛られることなく旅に出て自らを開放したいという人々もおり、こうした人たちの旅は、巡礼とはいわず、「放浪」と呼びます。あてもなくさまよい歩くことであり、英語では“wandering”で 、「放浪者」は“wanderer”です。日本語では、さすらい、流浪、彷徨ということもあります。

本来、欧米では家畜を保有する遊牧民が生活のために行う行為でした。このため“nomad”(ノマド )という言葉もあり、これは牧歌的放浪を意味します。ほかに放浪を意味する言葉には“roam(ローム)”、や“vagabond(バガボンド)”、“stroll(ストロール)”、“drifter(ドリフター)”などがあり、それぞれニュアンスは異なり、微妙な使い分けをします。

例えばロームは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ストロールとは、散歩などの場合にぶらつくというような場合に使います。またドリフター、バガボンドなどはそれぞれ日本語では、漂泊者、異邦人といったふうに訳されます。

「放浪」はこれらの総称といってもいいでしょう。何のための放浪かといえば、巡礼のように何か目的があってのものではありません。目的があるとは限らず、人生の意味を求めて、といった漠然としたものもあり、特に何の意図を持たずに放浪を繰り返す場合もあります。

こうした放浪の旅をする人達の中には、そこでの体験やそこから得た印象を文学や絵画、その他の芸術に反映させて輝く人もいます。放浪を愛する文化人は古今東西後を絶ちません。
日本では西行法師がおり、俳人の松尾芭蕉や井上井月、現代では画家の下清や棋士の間宮純一などがいます。山頭火とその兄弟弟子の尾崎放哉も晩年放浪生活を送っています。




こうした放浪者に共通しているのは、周囲の人間との関わりを絶ち、できる限り「孤独」になりたがるという点です。この点、世捨て人や隠者も同じであり、修行の一環として自ら人間関係を断ち、孤独に籠もります。こうした行為は世界中でみられます。

インドでは、放浪の旅に出て瞑想の修行や苦行に励む人々がおり、僻地で一人でいる姿を現在でも目にすることができます。お釈迦様も孤独な苦行を体験し、最終的に辿り着いた境地、涅槃(ニルヴァーナ)も菩提樹の下に一人で居たときに得たとされています。日本でも山伏のような行者が修験道のため山に一人で籠って修行をします。

また「哲学」をするために孤独になる、ということもよく言われます。ドイツの哲学者マックス・シュティルナーは「孤独は、知恵の最善の乳母である」という格言を残しています。孤独状態において人間は自分の存在などについて深く考えることができるようです。

その結果、創造性、想像力などが身につくと多くの哲人は結論付けており、このような精神の働きは心理学的にみると「昇華」と呼ばれています。孤独であることから生み出され、花(華)開いた芸術作品は数多く存在します。

放浪を愛する人たちは、こうした寂寞とした心理を表現することに秀でています。孤独によって「増した愛」を濃密に描き出すことで芸術の極みを達成するのです。このため人によっては、人知を超えた高次の存在を表現することに成功する人もいます。

こうした「望んで孤独を楽しむ」という文化性は、日本や中国などの東洋よりも個人主義の傾向が強い欧米のほうが顕著なようです。例えば、イギリスでは、社交会場にて壁際で佇んでいる人にむやみに声を掛けることは、むしろマナー違反とみなされる場合があります。せっかく孤独を愛しているのに邪魔をしては悪いと判断して放っておくのです。

一方「同胞社会」の日本では、孤独は社会から孤立していることと同義に扱われる傾向が強いようです。日本と同じように孤独が「良くない状態」として見られる社会や文化は多く、孤独と見られる状態にある者には、積極的に他者が働き掛けることこそが美徳とされます。

孤独な人には悪霊が付くと信じている民族もおり、南太平洋のトロブリアンド諸島やアマゾンの先住民などがそれで、呪術的な意味合いから孤独な人に「声を掛ける」といいます。
ただ、孤独といっても、多くの状態や種類があります。孤独感には自分と他者・世界との関係で捉えたものや、自分ひとりの中で完結する孤独など様々な視点からのものがあります。

大勢の人々の中にいてなお、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない、理解されていないと感じている場合、たとえ他人がその人物と交流があると思っていても、当人がそれを感じ得なければ、孤独です。その逆もありえなくはありません。自分は孤独ではないと思っていても、周囲から孤立している場合のそれは孤独といえます。

孤独な人を周囲はとかく助けてあげたくなり、すぐに声をかけがちです。しかし、暗く沈んだ気持ちの孤独者への励ましは、むしろストレスとなることもあります。特に鬱病の人に対してはついつい激励をしてしまいがちですが、医学的にはむしろ禁忌だそうです。

いわゆる「引きこもり」もそうしたうつ精神疾患の一つといえ、日本では深刻な社会問題になりつつあります。内閣府の調査では15歳~39歳の若年層では、推計で54万人強、40歳~64歳の中高年層でも推計で61万以上の引きこもりがいるといいわれています。

一般的には「長期間にわたり自宅や自室にこもり、社会的な活動に参加しない状態が続くこと」ですが、厚生労働省は、「さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」とやや具体的に定義しています。

この「さまざまな要因」というところがまさにポイントです。うつ病は一般的には精神疾患と捉えられる向きが多いのに対し、「ひきこもり」は、単純な(あるいは単一な)疾患や障害ではなく、多岐多様な原因があると考える研究者が多いようです。



こうした問題を研究する国の機関、国立精神・神経センター精神保健研究所などもそうした見解を持っています。「ひきこもり」の原因や実体は多彩であり、明確な疾患や障害として割り切ることができないケースが多いと言っています。

また、「長期化」することを特徴としてあげています。この長期化は物的側面、心理的側面からだけでなく、社会的側面などから理解すべきであり、病気として扱うよりもむしろ「精神保健福祉の対象」と考えるべきだとし、医者が扱う類のものではなく福祉の対象として考え、例えば社会福祉士のような立場の人が扱うような問題であるとしています。

このため、面接や電話相談、家庭訪問、家族やグループによる心理的教育のほか、緊急時には保健所や精神保健福祉センターに助けを求めることを推奨しています。またこれらの機関が開催するケア会議によって介入、保護、分離などの選択をします。「治療」ではなく社会全体で個人を支える福祉的な対策の方向性が示されているのです。

ひきこもりは病気ではないんだよ、みんなで考えていけば元の世界に戻れるんだよ、と本人だけでなく、周囲も理解することがその解消につながっていくというわけです。

それにしても、引きこもりというのはどういう人たちがなりやすいのでしょうか。

上の病気ではないという主張と矛盾しますが、一般的には、児童青年期に発症する精神疾患に原因があるとされています。また、引きこもりとの明確な関連性は明らかになってはいないものの、発達障害や適応障害、パーソナリティ障害、統合失調症といったよく見られる精神疾患の他、ゲーム依存症、インターネット依存症などが引き金になると考えられています。

さらに、健全な親子関係の構築に失敗した家庭では引きこもりが発生しやすいといわれています。これは、親子という上下関係の不明確な家庭で育つことにより、人間関係の構築の基礎ができず、人間不信になった状態です。

いじめがきっかけで引きこもりが発生するケースも多く、学齢期に不登校だった状態がそのまま続いてひきこもりになる人が多くいます。一方、社会人になった後に引きこもりになる人も少なくはなく、職場の人間関係の悪化や、セクハラ、リストラなどの要因から心をすり減らし引きこもりになった人も多いようです。

加えて日本では「追い出し部屋」というのがあります。これは従業員を「自己都合退職」に追い込み、「会社都合」で退職させないための部署で、ここへ配属されたことで引きこもりになる人も多いようです。日本では終身雇用のレースから外れると不利な境遇に陥ることも多く、いったん社会の枠組みから離脱してしまうと、引きこもり予備軍になりがちです。

厚生労働省の調査によれば、引きこもりになる人には男性の方が多く、全体での割合は6〜8割だといます。また、高学歴の両親がいる家庭に多い傾向にあり、さらに従来は30歳以下の若年層が多かったのに対し、最近は高齢化が進んでいることが指摘されています。

これは、高齢になってから引きこもりになるのではなく、若いころに引きこもりになったまま年齢を重ねて高齢になる人が増えているということを示しています。事実、引きこもりの平均年齢は年々高齢化しており、また当事者を養っている親も高齢化しています。

養い親が老年期に入ると、経済的・体力的に行き詰まってしまう場合があります。このため、当事者である無職の子が親の死後に衰弱死・自殺したり、親の死を届け出ずに罪に問われるケースなども報告されています。親が死去した場合、死亡届以外にも多数の手続きがあり、社会的能力の低い人間にとっては自力で解決することは難しくなります。

さらに、引きこもりの子を持つ家庭では「家の恥」だという意識からこれを隠そうとする傾向があります。当事者も家族も「自分は問題になっていない」「引きこもっているわけではない」と思いこんで相談しないため、問題が表面化しないのです。

老年退職後、友人にも会社の同僚にも誰にも問題を相談できないまま、次第に人脈を失い情報も途絶えていく人も多いようです。こうした場合、家族ごと引きこもり状態になって埋もれていき、最後には行き詰まって、心中や餓死といった悲劇が起きることさえあります。

めったに外出もせず外で見かけないので、近所からは一人暮らしだと思われていた家で、実際には引きこもりの子供がおり、親子が死んではじめてその存在が明らかになる、といったショッキングな事例もあります。

一方、こうした引きこもりについては、「甘えている」、「怠けている」、「親の育て方が悪い」、「自己責任がとれていない」、といったふうに受け取る人も多いようです。引きこもりは犯罪予備軍という誤解を持つ人すらいます。

実際、AKB48握手会傷害事件(2014)、東海道新幹線車内殺傷事件(2018)、川崎市登戸通り魔事件(2019)の犯人は引きこもりの生活状態や経験があったそうです。引きこもりが起こした事件が大々的に報道されるたびに彼らはさらに引きこもるようになっていきます。

深刻な社会問題として発展しつつある引きこもりに対しての対策を国も考えてはきているようですが、具体的な対策については、まだ試行が始まったばかりで先は見えません。



実はこうした引きこもり問題は日本だけではなく、世界的な問題にもなりつつあります。イギリスやイタリアなどでも目立ってきており、同様の現象は、韓国、台湾、香港、アメリカ合衆国、オーストラリアなど多くの国、特に先進国で普通にみられるようになってきました。

オックスフォード英語辞典には「hikikomori」の表記で収録されています。そこには“社会との接触を異常なまでに避けること”、“一般的には若い男性に多い”という説明がなされているそうです。こうした有名辞典への収録は、世界的な風潮である証拠です。

こうした世界的な引きこもり拡大を背景に、引きこもりに関する研究も進んできました。海外での最近の研究では、孤独感を感じるといった感受性は「他人を信頼できるか」といった相手の人格や感情への「期待」と関係があることが分かってきています。

有益な交友関係を築くことを「ソーシャルキャピタル」といいます。その量や質が引きこもりと関係がある、という説があり、ソーシャルキャピタルは、主観的な「幸福量」を決定する上で重要なファクターで、これが欠落した状態は幸福量が少ない状態といえます。その減少によって人によっては心身の健康を害し、やがては引きこもりになっていきます。

このほか、孤独感の感じやすさは、怒り、恐れ、喜び、悲しみといった情動系よりも、目などの社会信号を知覚する部位に関係があるようだ、とする研究成果もあります。このことは、人と目線を合わせる、といったことだけで、孤独感が和らげられる可能性を示しています。

年齢を重ねると、相方を失う人もおり、また何かと意欲が薄れて活動が鈍くなります。結果として交際範囲が縮小して人や社会とのつながりが減少し、孤独感を感じやすくなります。

残り少なくなった人生の時間的な展望の中では孤独に陥ってしまいがちですが、こうしたときこそ、積極的に外に出ていくべきです。いつもの普段着ではなく、たまにはおしゃれして外出し、すれ違う人たちと目線を合わせるだけで、孤独感は和らぐに違いありません。

秋も深まってきました。暖かくして外に出かけ、道行く人に微笑みかけてみてはいかがでしょうか。