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バカボンド

最近、実家がある山口の防府天満宮の周辺がきれいに再整備された、という話を雑誌で知りました。

防府天満宮は、山口県の中南部、防府(ほうふ)市内にある神社です。菅原道真は大宰府に左遷される途中、防府の地に立ち寄ったとされ、道真の没後に「松崎天神」の名で創建されました。

道真が亡くなった翌年の904(延喜2)年がその創建年です。没地である福岡の大宰府で大宰府天満宮が創られたのが919(延喜19)年ですから、「日本最初に創建された天神様」ということになります。天神様といえば、京都の北野天満宮も有名ですが、太宰府天満宮と合わせ、この三社は日本三大天神と呼ばれています。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた門前町です。戦前は山口県下最大の都市である下関市と中国地方の拠点都市である広島市の中間点として銀行や企業の支店・営業所も多く設けられていました。

古くは「三田尻」と呼ばれ、天然の良港であったここは、戦国時代に瀬戸内海で活躍した毛利水軍、村上水軍の本拠地でした。幕末には、長州藩が幕府対策のためここに臨時の政庁を構えたこともあります。

瀬戸内海に面しているため、海岸に近い場所ではさかんに製塩が行なわれ、これを原資として町は栄えました。昭和に入り製塩業が廃れたあと、臨海部の塩田跡地には大規模工場の進出が相次ぎ、今度はこれで町が潤いました。

近年ではマツダ防府工場のほか、その他の輸送関連企業、ブリヂストン、協和発酵バイオ、東海カーボンなどの大手企業がここに工場を持っています。人口10万人ほどの町ですが、かなりの割合の人々がこれらの企業もしくは関連企業に勤めています。

山陽本線の防府駅周辺には毛利邸(毛利博物館)、国分寺(周防国分寺)などの観光スポットもあることから、年間を通じてそれなりの観光客がここを訪れます。天満宮への参拝者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録したこともあります。




神社の周辺は「松崎地区」と呼ばれており、その表参道の入り口がある道路は、少し前までは国道への抜け道として使われており、制限速度を超える通過車両が絶えませんでした。

これを懸念した防府市が、単なる自動車の通り抜け道路ではなく、歩行者が安全に街の回遊を楽しめる道路とすることを目指しました。また、イベントなどでにぎわいを創出できるような機能を付加することも検討されました。その結果新プランがまとまり工事に着手、2019年9月にこの街路は生まれ変わりました。

歩車道の境には段差がなく、全面がフラットな状態となり、縁石や柵もないこの道路は16mも幅があります。これまでは狭い歩道を行き交う車に注意しながら天満宮へ向かっていた歩行者が、こうした車の往来をまったく気にすることがなく、安心して参拝できるようになりました。

見違えるように蘇った街並みは「風致地区」としても整備され、その一角には「まちの駅 梅テラス」などの物産店なども誘致されています。

この道路の南側にはまた、並行して「山頭火の小道」という散策路が整備されています。防府の生んだ漂白の自由律俳人・種田山頭火が、生家から小学校まで通った路地裏の1キロ足らずの道です。たどりやすいように辻々には「足跡」の目印が新設され、小径沿いの民家の塀や壁には、故郷を詠んだ山頭火の句が多数掛けられています。

防府は新幹線こそ止まりませんが、3駅隣りの新山口駅で新幹線から乗換え、在来の山陽本線に乗れば15分ほどで着きます。山頭火の小道のある防府天満宮周辺へは、ここから歩いて20分ほどです。途中、上で紹介した、再整備されたばかりの松崎地区を通ります。山口における新観光スポットです。ぜひ一度訪れてみてください。

この山頭火ですが、防府駅前には銅像が立つほどこの町では有名です。無論、全国的にも有名な俳人であり、同じく自由律俳句を詠った尾崎放哉(ほうさい)とともに、新傾向派の俳人として一世を風靡しました。尾崎放哉と山頭火はともに荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)門下にあり、萩原が創刊した自由律の俳誌「層雲」で有名になりました。

師の荻原井泉水は山頭火や尾崎放哉の名に隠れてあまり知られていませんが、自由律俳句のパイオニアとして知られる人物です。二人のほかに正岡子規の高弟として知られる河東碧梧桐も、一時期その門下にありました。

山頭火というのは本名ではなく、1882(明治15)年12月3日に生を受けたときに父母からもらった名は「種田正一」といいます。山頭火の名は、29歳のときに俳人デビューしたときに初めて使った名で、これは中国に起源を発する「納音(なっちん)」という占いに発想を得たものです。

生まれ年や月・日などの組み合わせからなる30の納音の一つである「山頭火」は甲戌・乙亥(きのえいぬ・きのとい)の組み合わせになります。ただ、山頭火の生まれ年の納音は「楊柳木」であり、「山頭火」は、その字面を彼が気に入って選んだだけです。

ちなみに、納音によるある占いサイトによれば、楊柳木の人の性格は、「好奇心が旺盛で、新しい事柄を常に吸収しようとする。ただ、流れに身をまかせるため、その場の勢いに流されが。」だそうです。

また、山頭火は、「ひときわ目立つ、または異色な存在。理想が相当高く、内面はパワーに満ちていて相当な野心家。孤独を愛するナルシストで、人に支持されることで活躍の場が広がる」となっています。

どちらも当たっているような気がしますが、「孤独を愛するナルシスト」というのはとくにぴったりなかんじがします。また多くの人に支持されたことでその活躍の場を広げた、といったことも当たっています。名を変える、というのはそれなりに人生を変える効果があるのかもしれません。




この山頭火が生まれたのは、上の「山頭火の小道」の西の終点付近です。天満宮の参道入り口から西へ600mほど行ったところになります。父・竹治郎はこの地の大地主で、種田家は地域の人々からは「大種田」と尊敬され、幼いころの山頭火は多くの使用人に囲まれて成人しました。

父竹次郎は役場に勤めており、その関係から時の政友会とのつながりができました。やがて自らも政治にかかわるようになり、熱くのめりこむようになっていきました。女癖が悪く、政治と女道楽に放蕩の限りをつくしたあげく、嵩んでいった出費によってやがて屋台骨はぐらついていきました。

妻はフサといいました。こうした夫の放蕩に心を痛めるとともに義母からも「嫁のお前が悪いから」と責められ、やがてその責に耐えかねて屋敷内の古井戸に身を投げてしまいます。山頭火11才のときのことであり、のちに山頭火が放浪の生活を送るようになったのは、この母の自殺が遠因にあるといわれています。

14歳で、三年生中学の私立周陽学舎(現県立防府高校)へ入学。このころから本格的に俳句を始めました。ここを首席で卒業後、20キロ離れた山口市内にある県立山口尋常中学(現県立山口高校)の四年級へ編入。

防府から離れていたともあり、ここではあまり親しい学友もおらず、週末になると土曜日には防府と山口の間にあるトンネルを抜けて実家のある防府へ帰るのが常だったといいます。ちなみに、このトンネルは佐波山トンネルといい、山陽にある防府と県庁のある山口を結ぶために1887(明治20)年、に完成しました。

かつては佐波山洞道と呼ばれ、その長さ518mは、開通当時道路トンネルとしては日本第3の長さでした。2009年の平成21年7月中国・九州北部豪雨の際はこのトンネル周辺で鉄砲水が出て、死傷者を出したことで全国的に名を知られました。

山口尋常中学は長州藩の藩校である「山口明倫館」が前身であり、山口高校となった現在でも県下屈指の名門校として知られています。山頭火は19歳でここを卒業すると、東京へ出て私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科へ入学しました。

翌年同予科を卒業すると早稲田大学文学部文学科に入学しますが、神経衰弱のため退学。しばらく東京に留まりまっていましたが、やがて生活費も底をつき、山口へと帰郷しました。

この頃、その生家は相場取り引きに失敗して没落していました。父の竹次郎はその立て直しのために先祖代々の家屋敷を売り、これを元手に近くの大道村(防府市大道)にあった古い酒造場を買収し、「種田酒造場」として酒造業を始めました。山頭火にはほかに4人の兄妹がおり、一家でこの工場に移り住んで、父を手伝い始めました。

翌1909(明治42)年、27歳になった山頭火は、佐波郡和田村高瀬の佐藤光之輔の長女サキノと結婚しました。このサキノとの間には翌年に子供ができ、健(たけし)と名付けられました。

結婚して一児を得るという慶事が続きましたが、このころ父の始めた酒造業はあまりかんばしい状態ではありませんでした。もともと勤勉な性格ではなく、所詮は親のすねかじりで育ったおぼっちゃんに地道な商売ができるわけはありません。酒造場を購入して余った金は運転資金としてストックしていましたが、それもすぐに尽きてしまいました。

一方このころ、山頭火は徐々に俳人としての才能を見せ始めていました。1911(明治44)年、29歳のとき、 防府の郷土文芸誌「青年」が創刊になると、これに定型句を寄稿しました。またこのころ初めて「山頭火」の名で外国文学の翻訳を発表しています。

それから2年後には 荻原井泉水が主宰・発行する全国誌「層雲」に、初めて彼の投稿句が掲載されました。荻原に認められた山頭火は、このころから俳号にも「山頭火」を使い始め、編集兼発行人として個人で文芸誌「郷土」を創刊。「層雲」でも頭角を現し、俳句選者の一人にまでなりました。

ところがちょうどこのころ実家の「種田酒造場」が倒産。父は家出し、ほかにいた4人の兄妹も離散してしまします。山頭火は妻子を連れて夜逃げ同然で九州に渡り、友人を頼って古書店を熊本市内に開業しますがこれも失敗。後に額縁店を始めますがこれも失敗し、行き詰った山頭火は職を求めて単身上京、薄給で図書館勤務をするようになりました。

山頭火38歳。やがてこのころ住んでいた下宿に熊本にいる妻から離婚状が届きます。八方塞がりとなった山頭火は神経症を患うようになり、勤めていた図書館も退職。さらに追い打ちをかけるように翌1923(大正12年)には関東大震災に遭って焼け出されてしまいます。

途方に暮れた彼は熊本に帰り、頭を下げて元妻フサの家の居候となりました。このころ山頭火は、熊本市内で泥酔し市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こします。

一説によれば生活苦による自殺未遂だったのではないかといわれていますが、急停止により市電の中で転倒した乗客たちは怒って彼を取り囲みました。このときたまたまその市電に乗っていたのが顔見知りの新聞記者で、見かねた彼は山頭火を市内の知り合いの寺に連れていきました。

この寺は禅寺で、曹洞宗報恩寺といいました。ここの住職望月義庵師の得度を受け、翌年出家して耕畝(こうほ)と改名。同じ曹洞宗瑞の寺で熊本郊外にある泉寺内の味取(みとり)観音堂の堂守となりました。しかし堂守をやっているだけでは食べてはいけません。このため、山頭火は町へ出ては托鉢(たくはつ)を続けるようになりました。



それから1年余が経った1926(昭和元)年の春、尾崎放哉が41歳の若さで死去。山頭火はこの3歳年下の兄弟弟子の死に大きなショックを受けます。と同時に晩年放浪を続けていた放哉が作り上げた作品世界に改めて共感し、自らも旅に出ることを決心します。

法衣と笠をまとうと鉄鉢を持ち、寺を出て旅立ったのが1925(大正)15年のことで、山頭火は43歳になっていました。バガボンド(漂泊者)の誕生です。

このとき詠んだ句が、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」というものです。行乞(ぎょうこつ)とは、食べ物の施しを受ける行のことで、この貧乏旅はその後7年間も続くことになりますが、しかしその中で多くの名作が生まれていきます。

熊本を出て山頭火が最初に向かったのは宮崎、大分でした。九州山地を進む山頭火が、旅の始めの興奮を歌にしたのが次の句です。

「分け入っても分け入っても青い山」

その後、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から「層雲」に投稿を続けましたが、7年後の1932(昭和7)年、郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)でようやく長い旅に終止符を打ち、草鞋の紐を解きます。

そして小郡の地に「其中庵」という粗末な庵を設けました。このころ体調はさらに不安定で、精神面でも不安定となり、あるとき睡眠薬を多量に飲んで自殺未遂を計りました。しかし眠っている間に体が拒絶反応して薬を吐き出し、一命を取り留めました。

郷里にはその後4年ほど過ごしましたが、やがて体調も回復したことから、1936(昭和11年)、山頭火は雲水姿で再び旅に出ます。この時の旅は信州方面で、山梨県小淵沢から長野県佐久までを歩き、やはり数々の作品を残しています。

その後も東北地方などを旅しますが、翌年には無銭飲食のうえに泥酔したことで、警察署に5日間も留置されています。

やがて再び山口に帰ったのが56歳のとき。このときかつて住んでいた其中庵は積年の風雪で朽ち果て、壁も崩れてボロボロになっていました。このため新しい庵を探し、ようやく見つけたのが、市内の湯田温泉にある竜泉寺という寺の一角でした。四畳の間にすぎないここの小さな部屋を借り、「風来居(ふうらいきょ)」と名付けて住み始めます。

しかし、やはりここにも落ち着かず、翌年の春先には今度は近畿から木曽路を旅しました。今度の旅には一つの目的があり、それは井上井月の墓への巡礼を果たすことでした。

井月は、信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた幕末の俳人です。その墓参を果たした山頭火は、「お墓撫でさすりつつ、はるばるまいりました」と詠んでいます。

やがて旅を終えた山頭火は、すぐには山口に帰らず、今度は四国に渡り、香川県の小豆島で放哉の墓参をしています。尾崎放哉は晩年、荻原井泉水の紹介で小豆島霊場第五十八番札所、西光寺奥の院の「南郷庵」に入庵し、ここで亡くなっていました。

この墓参のあとも結局は山口に帰らず、年の暮れに松山市に移住し終の棲家となる「一草庵」を結庵。秋も深まる10月10日の夜、ここで仲間を集めて句会を行います。

いつものように酔った彼は隣室でイビキをかいて寝ていました。このとき仲間は山頭火が酔っ払って眠りこけていると思っていましたが、このとき実は脳溢血を起こしていました。

会が終わると皆、山頭火を起こさないようにと帰りましたが、そのうちの一人が妙に胸騒ぎを感じました。しかし夜も更けていたので早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していました。推定死亡時刻は10月11日の推定4時。1940(昭和15)年)のことで、59歳になる2ヵ月前でした。

山頭火は生前から“コロリ往生”を望んでいたといいます。その通りとなり、満足であったかもしれません。辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」というもので、長年旅を続け、奔放な人生を送った山頭火は、この句を残して盛り上がる入道雲の中へと消えていきました。

彼の墓は、生地の防府市内にある護国寺にあります。上の防府天満宮から西へ1.5kmほど離れたところで、その墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られています。

山頭火が亡くなったとき、一人息子の健が満州から駆け付けたといいます。彼はその後、満州に渡り満鉄(南満州鉄道)に勤務していました。父の死を知ったのは母のフサが知らせたからでしょう。

その元妻、フサの墓もまた山頭火の隣にあります。フサが住んでいた熊本市の安国禅寺にも山頭火の分骨墓があるといい、おそらくはいずれも息子の健が建てたものでしょう。山頭火の放浪によって家族はバラバラになりましたが、その死は再び家族をひとつに結びつけたといえるでしょう。

修善寺の大患

10月も下旬になり、涼しいを通り越して寒さを感じる日も多くなってきました。

このころになるとさすがに咲く花も少なくなり、庭で目立つのは山茶花(サザンカ)やツバキぐらいのものです。ただ、紅葉が進み、なにかと華やかさのないこの季節の穴を埋めてくれています。

修善寺には「修善寺自然公園」というモミジの紅葉がきれいな公園があり、毎年この時期になると多くの観光客で賑わいます。出店(でみせ)も何軒かあって、ふだんはガランとしている駐車場もクルマで一杯になります。

公園に入り、正面にあるゆるやかな坂道を色づいたモミジを鑑賞しながら上がっていくと、登り切ったところの右側道沿いに「夏目漱石詩碑」と書かれた案内板が立っています。そのすぐ裏側に高さ3mほどもある石板が据えられており、そこには漱石が修禅寺に滞在していた折に詠んだ自筆の漢詩が彫られています。

1910(明治43)年、小説「門」を書き終えた漱石は、悩まされていた胃潰瘍の治療で麹町の長与胃腸病院に入院しました。退院後、知人に修善寺温泉での療養を勧められ、8月6日から10月11日までの2ヶ月間、修善寺温泉にある菊屋旅館に滞在しました。

ところが、8月24日に急に病状が悪化し、一時危篤に陥ってしまいます。命はとりとめ、快方に向かう9月29日、菊屋旅館の病床で書いたのがこの石板にある詩です。以下がそれになります。

仰臥人如唖 黙然看大空(ぎょうがひとあのごとく もくぜんとたいくうをみる)
大空雲不動 終日杳相同(たいくうくもうごかず しゅうじつはるかにあいおなじ)

病床にあって、私は唖(おし)のように黙って窓辺に望める大空を眺めている。大空に浮かぶ白い雲の様子は終日変わらない、という意味で、終日空と向かい合っているうちに、大自然の中に融け込んだような気分になったことを作詩したものと考えられます。

彼我が一体化することを「主客融合」といいます。本来は死んで空に還っているところを生き延びたことに感慨を覚えてこの詩を創ったのでしょう。この「修善寺の大患」で、漱石は生命の尊さを自覚すると共に、生きるということの意味を改めて考えさせられたに違いありません。



漱石はこのときのことを、のちに「思い出すことなど」の中で書いています。修善寺の大患を自ら描いた随想であり、同じ年の10月から翌年の2月まで間欠的に綴ったものが当初は「病院の春」と題して、朝日新聞に掲載されていました。

この中に登場する人物は、妻である夏目鏡子のほかに、門人である松根東洋城や坂元雪鳥、このころ勤めていた朝日新聞の渋川玄耳(げんじ)や同社主筆の池辺三山(さんざん)などがいます。ほかに、東京で漱石がかかっていた長与胃腸病院から派遣されてきた医師たちや、修善寺の町医などが出てきます。

「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」などのヒット作によってこのころ既に高い名声を得ていた漱石は、それまで勤めていた大学の講師を辞め、本格的に職業作家としての道を歩み始めていました。朝日新聞に入社したのはこの大患の3年前で、日本のジャーナリストの先駆けといわれる池辺三山に乞われてのことでした。

三山は、陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された人で、漱石以外にも二葉亭四迷を入社させ、今日文豪と言われる作家の長編小説の新聞連載に尽力した人物です。「思い出すことなど」には、修善寺から帰ったあと長与病院に入院ししながら原稿を書いていた漱石に対し、三山が「余計な事だ」と叱ったといったことが書かれています。

また、同じ朝日新聞の社会部長だった渋川玄耳は、漱石の吐血の連絡を受け、部下の坂元雪鳥に指示し、漱石が治療を受けていた東京の病院から修善寺まで医師を派遣させました。8月20日には自らが漱石を見舞うために修善寺にやってきて一泊しています。

渋川は漱石が熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師だったころからの知己で、彼を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力しました。




東京で漱石の胃潰瘍を治療していたのは長与胃腸病院といい、当時は麹町区内幸町にありましたが、現在は四谷に移転しており、経営者も長与一族から変わって別な人になっているようです。当時の病院を開設したのは長与称吉という人で、漱石の主治医でもありました。

父は、初代の内務省衛生局長だった長与専斎で、「衛生」という言葉をドイツ語から翻訳して採用したのはこの人です。コレラなど伝染病の流行に対して衛生設備の充実を唱え、また衛生思想の普及に尽力したことで知られています。長崎の医学伝習所で、オランダ人医師ポンペから西洋医学を学んでおり、日本における西洋医学発展の先駆けでもあります。

息子の長与称吉もそうした医者血を引いており、東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を経て、7年間ドイツのミュンヘン大学医学部に留学していました。このころ、現地の女性に子供を産ませ、手切れ金を渡して解決したという逸話が残っていますが、その面倒を見たのが、衛生局で父の專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だったといいます。

また妻・延子は後藤象二郎の娘であり、妹・保子は総理大臣を務めた松方正義の長男・松方巌と結婚するなど、何かと政治家と関わりのある人でした。ちなみに、次女・仲子は同じく総理大臣を務めた犬養毅の息子と結婚しており、その長男の異母妹がエッセイストの安藤和津で、その夫は俳優で映画監督の奥田瑛二です。

漱石は「三四郎」「それから」に続く前期三部作の3作目にあたる「門」の執筆途中に胃潰瘍になり、この長与称吉が院長を務める長与胃腸病院に入院しました。

胃潰瘍になった原因はいろいろ取沙汰されていますが、ひとつには妻の鏡子が起こすヒステリー症状が漱石を悩ませ、神経症に追い込んだことが一因とされます。また第一高等学校と東京帝大の英語講師を勤めていたころ、一高での受け持ちの生徒のひとり、藤村操が華厳滝に入水自殺してしまったことが遠因だとする説もあります。

北海道出身の藤村が自殺現場に残した遺書「巌頭之感」は新聞各紙で報道され、大きな反響を呼びました。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出しました。

彼の死に伴い、一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」といった噂が囁かれるようになりました。こうした風評被害に苛まれて苦悩した結果、漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭で頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居しています。

さらには、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の執筆途中に、門下の森田草平が1に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こしており、その後始末に奔走したことも神経衰弱や胃病を悪化させた原因と言われています。

塩原事件とのちに呼ばれるこの事件では、雪山で二人が彷徨ううち、森田のほうが意気地を失い、「人を殺すことはできない」と言って心中に使うつもりだった明子の懐刀を谷に投げ捨ててしまったことなどから、心中未遂に終わりました。

警察に保護された森田はマスコミを避けるために漱石の家に身を隠しますが、事件の後始末を任された漱石は解決策として平塚家に弟子の結婚を申し出ました。しかし、結婚など考えていなかった明子に呆れられ、断られています。

事件の翌年、森田はこの事件を自ら綴った「煤煙」の連載により有名作家となり、明子は「青鞜」を創刊して、有名女性運動家、平塚らいてうとなりました。




漱石は1910年6月18日から7月31日まで長与胃腸病院に入院していました。修善寺で療養することになったきっかけは、その退院後、門下の松根東洋城が皇族の北白川宮の避暑に随行して修善寺に行くことになったことです。漱石は良い空気を吸えば症状も改善するだろうとこれに同行することを決めたようです。

住み慣れた土地を離れて別な環境に身を置き療養することを「転地療養」といいます。このころは富裕層の間でよく行われていました。現代でもストレス性の症候(無自覚性のものも含めて)などに対して、転地療養の効果は認められているようです。堀辰雄の小説 「風立ちぬ」で有名になった結核等の治療施設、サナトリウムも転地療養をするためのものです。

漱石に修善寺行きを勧めた松根東洋城は、本名は豊次郎で、俳号の東洋城(とうようじょう)はこれをもじったものです。漱石に紹介されて正岡子規の知遇を受けるようになり、子規らが創刊した「ホトトギス」に加わるようになりました。

漱石とは、愛媛の尋常中学校(現松山東高等学校)時代、同校に教員として赴任していた彼から英語を学んだときからの付き合いです。卒業後も交流を持ち続け俳句の教えを受けて終生の師と仰いでいました。

京都帝国大学仏法科卒業後、宮内省に入り宮中の祭典・儀式および接待に当たる「式部官」をやっていましたが、たまたま公務で修善寺に長期逗留することになり、ちょうど漱石が退院していたことから誘いをかけたようです。

東洋城は、子規没後「ホトトギス」を継承した高浜虚子と決別し、虚子らが掲げる「客観写生」の理念とは一線を画した作風を確立しました。実践を重視した芭蕉の俳諧精神を尊み、俳諧の道は「生命を打ち込んで真剣に取り組むべきものである」としたその理念に同調する者は多く、後世に名を残す多くの俳人を輩出し、彼らは渋柿一門と称されました。

「渋柿」の呼称は、宮内省式部官であったこのころ、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となったためで、のちに創刊主宰した俳誌「渋柿」の名もそこからきています。

東洋城は、子供のころから眉目秀麗でも知られていましたが、定まった住居をほとんど持たず、生涯独身であり、数々の女性問題がそうした生き方をとらせたといわれています。宮内省に入省したとき、伯母・初子の婚家である柳原家に寄寓しましたが、このとき、離婚して柳原家に出戻っていた柳原白蓮と親しくなりました。

柳原家は鎌倉時代からの名家で、皇室に近い一族です。東洋城の父も宇和島藩城代家老の長男、母も宇和島藩主伊達宗城の三女であって、叔母の初子が名家である柳原家に嫁いだのもその名家としてのつり合いからでしょう。白蓮とはつまり従妹同士ということになります。

「花子とアン」で有名になった柳原白蓮のことを知っている人は多いでしょう。のちに、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚しますが、その後、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちしたことで、当時のマスコミにセンセーショナルに報道されました。

柳原白蓮と同じ屋敷に住むことになった東洋城と白蓮はすぐに仲良くなり、恋人同士になりました。結婚まで誓いあいましたが、彼の母親の反対で結婚を許されず、その後は嫡男であったにもかかわらず独身を貫きました。

「花子とアン」でこのエピソードが語られることはありませんでしたが、白蓮が炭鉱王の妻になったのは、この東洋城との仲が認められなかったことも関係しているようです。社会運動家と駆け落ちし再婚した白蓮は、その後の戦争の時代と戦後を波瀾万丈で送りますが、二男・一女を得て81歳で大往生しています。

東洋城のほうは、その後も各地で渋柿一門を集めて盛んに俳諧道場を開き、人間修業としての「俳諧道」を説いて子弟の育成に努め、86歳で亡くなりました。墓は宇和島市の金剛山大隆寺にあります。



東洋城が修善寺に行くことになったのは、式部官というこのころの彼の職務上の理由からだと上で述べました。北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう)という皇族の避暑に随行するというのがその任務でした。

成久王は陸軍士官学校卒業後、27期生として陸軍大学校を卒業しており、この修善寺行きはその卒業間近のころでしたから、おそらく卒業旅行の意味があったのかと思われます。1895(明治28)年生まれですから、このとき15歳だったはずです。

のちの1921年(大正10年)には、軍事・社交の勉強のため、「キタ伯爵」の仮名でフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学。翌年には自動車免許も取得し、機械好きな彼は自家用車(ヴォワザン社製)を購入しました。既に結婚しており、妻房子も同伴でした。「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かったといいます。

この滞仏中に運転を覚えた成久王は、「一度、腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり、自動車運転に習熟していた東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)をドライブに誘いました。しかし、成久王の運転の腕前を怪しんだ稔彦王は「あなたの運転はまだ未熟だから気を付けたほうがいい」と忠告した上で同行を断りました。

ちなみに、この稔彦王はのちの第二次世界大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走し、大戦後は終戦処理内閣として内閣総理大臣に就任したことで知られる人物です(在職1945年8月17日-1945年10月9日)。これは初の皇族内閣でもありました。

稔彦王に断わられた成久王は、そこでドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう のち陸軍大将)に変え、同日の朝に妃の房子内親王やフランス人の運転手等と共にドライブに出発しました。

出発先は、ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルで、そこに泊りがけのドライブをする予定でした。途中で鳩彦王を拾い、エヴルーで昼食をとったあと、成久王がハンドルを握り、その後ペリエ・ラ・カンパーニュという村に近づこうとするころ、前方にのろのろと走っている車をみつけました。

成久王はその前の車を追い抜こうとしましたが、その際にスピードを出し過ぎ、車は大きく横に滑って道路を飛び出し、路傍にあったアカシアの大木に激突。この事故で、運転していた成久王と助手席にいたフランス人運転手は即死し、同乗していた房子妃と鳩彦王も重傷を負いました。成久王は35歳でした。

東洋城がこの成久王に随行して修善寺に来たのはこれより20年前であり、まだ顔には幼さが残っていたはずです。無論、この国民から愛された王子がその後悲惨な死を迎えることになろうとは想像だにしていなかったでしょう。

ちなみに、成久王と房子妃の間には永久王という男子がいましたが、のちに陸軍砲兵大尉として蒙疆(モンゴル及び中国北部)へ出征し、演習中に航空事故に巻き込まれ殉職しています(享年30)。その子の北白川道久王は81歳まで生き、長寿を全うしましたが、男子に恵まれなかったため、北白川家はその後男系としては断絶しました。

漱石が修善寺で初めて喀血をしたのは8月17日で、当初その治療に当たったのは野田洪哉という修善寺の町医者です。

修善寺には野田姓が多く、確認はしていませんが、おそらくそのルーツは庄屋などの大家だったでしょう。現在でも名家として地域の尊敬を受けています。野田洪哉が院長をしていた大和堂医院は、現在も修禅寺のすぐ前を流れる桂川を隔てたすぐその先にあり、内科医として開業されています。

野田医師は、漱石が吐いたものが血であることを指摘し、帰京を勧めました。24日の危篤時には長与胃腸病院から派遣されてきた副院長の杉本東造の指示で食塩水輸液を準備し、漱石の救命に貢献しました。

一方、8月17日の漱石吐血の報を受け、長与胃腸病院が最初に送った医者は、森成麟造といい、当時まだ26歳の若い医師でした。のちに漱石が長与胃腸病院を退院したあとは、新潟県高田市(現上越市)に帰郷して開業。漱石はこのとき自宅に彼を呼んで送別会を開き、修善寺での大患時の対応を謝しています。

このとき森成医師と一緒にやってきた坂元雪鳥は、第五高等学校で夏目漱石に師事し、以後漱石の弟子格となった人で、このころ東京朝日新聞社に入社しており、漱石の容態を本社に伝える臨時記者としての役割も担っていました。8月24日の危篤時には30通以上の電報を東京に送っています。

長与胃腸病院副院長の杉本東造が修善寺にやってきたのは、漱石が危篤になった8月24日夕方でした。菊屋に着き、漱石を診察したあと「さほど悪くない」と見立てましたが、そのわずか2時間後、漱石は吐血して意識を失い、危篤となりました。

「思い出すことなど」にはこのとき30分ほど意識を失っていたと書かれており、その間にカンフル剤が16本以上打たれました。

その後一時意識はもどりましたが、再び意識を失いかけました。遠ざかる意識の中で杉本医師と森成医師がドイツ語で「駄目だろう」「ええ」などと会話していことを覚えており、そのことも書いています。漱石は大学予備門や大学のときにドイツ語を第二外国語として学んでいました。専門の英語ほどではないにせよ、その程度の会話は理解できたのでしょう。

漱石はそうした会話をうつらうつらと聞きつつ、森成と雪鳥の二人に両手を握られたまま朝を迎え、その後回復に向かいました。

長与胃腸病院としては、VIPである漱石の治療にあたっては本来、主治医である院長の長与称吉を派遣したいところでした。ところが、このころ長与称吉は腹膜炎を発症しており、それどころではありませんでした。最初に若い医師、森成麟造が送られたのも、この院長の急病に対して副院長の杉本が対応していたからだと考えられます。

杉本医師はその後、25日ごろまで修善寺に滞在していたようですが、漱石の回復を見てとると帰京し、かわりに看護婦を2人派遣しました。長与称吉院長は、そのすぐあとの9月5日に亡くなりました。

漱石はこのことを知らされておらず、9月になって森成医師から粥食を許可されて退院し、東京に戻って長与胃腸病院に挨拶に行ったとき、はじめてその事実を知らされて唖然としたようです。冒頭で紹介した詩にあったように、自分は生き残り、主治医だった長与称吉が死んでしまっていたこと対し改めて無常の意味を思ったに違いありません。

漱石の妻鏡子は、漱石が喀血した8月17日には子供の避暑先の茅ヶ崎にいて、漱石吐血のことは翌日18日に電報で知りました。電報を送ったのはおそらく東洋城でしょう。あわてて東京に子供を返してから修善寺に向かい、到着したのは19日の午後でした。

その翌日の20日には小康を得たことから、森成医師が「私は東京に帰ります」と言ったところ、鏡子は森成に強い口調で詰め寄り翻意を迫りました。今回の漱石の修善寺療養にあたっては前もって胃腸病院へわざわざ出かけていき、旅行に行かせてもいいかどうかを伺って快諾を得ていたこともあり、誤診とでも言いたい気分があったのでしょう。

森成医師に対し、「私から言えば、お医者の診察違いとでも言いたいところだのに、病人をうっちゃって帰るなどとはもってのほか」と言い放ったと伝えられています。

この鏡子夫人は広島は福山の人です。元医師で、貴族院書記官長の中根重一の長女で、漱石とは見合い結婚で結ばれ、2男5女を設けました。このうち長男の夏目純一はのちにバイオリニストとなり、その息子が漫画家でエッセイストの夏目房之介であることをご存知の人も多いでしょう。

漱石との見合いの席では、鏡子は口を覆うことをせず、歯並びの悪さを隠さずに笑ていたそうで、そうした裏表のない彼女に漱石は好感を抱いたようです。また、鏡子も漱石の穏やかな様子に魅かれたようで、父の重一が漱石のことをベタ褒めしたこともあって早々に結婚を決めました。

しかし、お嬢様育ちの鏡子は家事が不得意であり、寝坊することや、漱石に朝食を出さぬままに出勤させることもしばしばで、二人の間には口論が絶えませんでした。慣れぬ結婚生活からヒステリー症状を起こすこともままあり、これが漱石を悩ませ、神経症に追い込んだ一因とされています。

漱石が第五高等学校教授になり、二人で熊本に引っ越したころ、鏡子は初子の出産で流産しました。このとき慣れない環境もあいまってヒステリー症が激しくなり、熊本中央を流れる白川沿いにある藤崎八幡宮のすぐ裏の淵に投身自殺を図ったといいます。その後漱石はしばらくの間、就寝の際に彼女と手首に糸をつないで寝ていたそうです。

裏表がなく、ずけずけとものを言う鏡子の性格は、鏡子を含めた中根家に共通したものだったようで、そうした言動から神経症を悪化させた漱石もまた、鏡子や子供たちに対して頻繁に暴力を振るうようになりました。

周囲から漱石との離婚を暗に勧められたこともあり、このとき鏡子は、「私の事が嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私達に暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と、言って頑として受け入れなかったといいます。

こうした言動からもわかるように、夫婦仲はそれほど悪くはなかったようです。漱石の死後、鏡子が子供たちの前で失言し、それを子供たちにからかわれると「お前達はそう言って、私のことを馬鹿にするけれど、お父様が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだ」と、亡夫・漱石を懐かしむことがしばしばだったといいます。

漱石が専業の小説家となったのち、彼を慕う若手の文学者やかつての教え子たちが毎週木曜に夏目家に集うようになりました。これがいわゆる「木曜会」で、会が開かれるようになると、鏡子はしばしば彼らの母親代わりとして物心両面から面倒を見たといいます。

漱石は、経済的に苦しい立場にあった門人たちに金銭面での援助をすることも多かったようで、このとき鏡子は漱石に言われたとおりにポンと、当時としてはかなりの額の金銭を渡していました。漱石夫妻が門下生に貸した金は相当の額だったようですが、そのほとんどが貸し倒れになっていたといいます。

孫の夏目房之介は、鏡子の性格には多少問題はあったものの裏表がなく、弱いものに対する慈しみの気持ちの強い、子供や孫に慕われる良き母であり良き祖母であったとその手記に記しています。

とかく、悪妻、猛妻という名で呼ばれることが多い鏡子ですが、このころはまだ男尊女卑の風潮が強く、おとなしい良妻賢母が良いとされた時代です。失言が多くおおざっぱな行動が目立つ鏡子がそのように見られてしまうというのはやむを得ない面があったと思われます。

漱石の修善寺大患の際、最初に見舞いに駆けつけた安倍能成(あべよししげ、のちの貴族院勅選議員、文部大臣、第一高等学校時代の漱石の教え子)を見て、鏡子は「あんばいよくなる」さんが来てくれたからもう大丈夫、とユーモアたっぷりに語って周囲を笑わせたといい、おおらかな一面もあったことをうかがわせます。

漱石の死後、鏡子はその後半世紀近く生き、1963(昭和38)年に85歳で没しました。死因は心臓の疾患でした。

漱石は、「明暗」執筆途中の執筆中だった1915(大正4)年12月9日、体内出血を起こし自宅で死去しました(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったといいます。

漱石が亡くなった翌日、その遺体は東京帝国大学医学部の解剖室において解剖されましたが、それを行ったのは長与胃腸病院の院長、長与称吉の弟の又郎(またお・長与専斎の三男)でした。長与又郎は、癌研究所や日本癌学会を設立し、癌の解明に努力したことで知られ、癌研究の先駆者です。

衛生に力を入れていた父の専斎の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立しましたが、自ら予言していた通りに癌となり、1941(昭和16)年に63歳で亡くなりました。死の前日に、医学への貢献により男爵の爵位が贈られています。

母校である東京帝国大学の伝染病研究所長や医学部長を経て、総長に就任したこともあり、若いころには野球部長も務めていました。

部の寮である「一誠寮」にある同寮の名を綴った書は又郎の揮毫によるもので、これを書く時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なった又郎は、これを指摘した選手たちに対し「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったといいます。

東大の六大学野球最高位は、現在でも1946年春季の2位でのままであるため、今も残されているこの書の「ノ」の部分は未だ欠けたままとなっています。

この長与又郎解剖を依頼したのは、未亡人である鏡子であったといい、生前の漱石はそれを承認していたようです。漱石の亡くなる5年前には末娘の雛子が突然死しており、解剖などの措置をとらなかったため、死因が不明のままに終わっていました。

そのことが夫妻の心にはひっかかっていたようで、日ごろから科学的思考を重んじるタイプだった漱石もまた、解剖を行うことで死因や病気の痕跡をつきとめることが重要だと考えていたようです。夫の遺体の解剖が医学の将来に役立ててもうということが本人の意思にかなうと、鏡子も判断したのでしょう。

その際に摘出された脳と胃は寄贈された脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されています。重さは1,425グラムであり、成人男性の脳は一般に1350~1500グラムだそうですから、特段重いというわけではありません。遺体は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園に葬られました。

漱石が修善寺で宿泊した菊屋本館は戦後解体され、当時の別館が現在の本館になりました。温泉街にある筥湯(はこゆ)という共同浴場の横にはこの本館跡の掲示があります。菊屋本館2階の漱石が吐血した部屋は、修善寺自然公園の隣にある「修善寺虹の郷」へ移築され、現在「夏目漱石記念館」として公開されています。

修善寺に来ることがあったら、ぜひ訪れてみてください。

隕石のはなし

10月も終わろうとしています。

少し早いかもしれませんが、このころになると今年ももう終わりだな、という気分になるのは私だけでしょうか。

今年もいろいろあったな、と思い起こす中で、最大の事件はやはり新型コロナウィルスの流行であり、それに引きずられる形での東京オリンピックの延期、7月からの一連の豪雨災害、そして8年近く続いた安倍政権の終焉といったところが主なニュースでしょうか。

全体的に重い空気の漂った感のある今年ですが、その中でも少し明るい話題はないかと探すと、山手線で約49年ぶりの新駅となる高輪ゲートウェイ駅の開設、第5世代移動通信システム(5G)がサービスを開始、ヴェネツィア国際映画祭での黒沢清監督の銀獅子賞(スパイの妻)受賞といったことがありました。

さらにもっとイイ話はないのか、と探してみたのですが、日本だけでなく世界中がコロナ渦にある中では、ちょっとくらい明るい話も、闇夜の中の豆電球くらいの効果しかなく、逆に漆黒の闇の中に飲み込まれてしまいそうです。

私的には、先の9月末に手の手術をして1週間ほど入院したのが最大の出来事でしょうか。よかったことといえば、このコロナ騒動のおかげで当初予定していた中国出張が中止になったことがあげられます。もとより気乗りがしない出張だったので、ホッしたのもつかの間、来年はまだ騒動が終息していない中での再出張が画策されているのが気になります。

暗い世相の中、年末恒例の「今年の漢字」はきっと「災」ではなかろうかと思うのですが、既に2度も選ばれている(2004年と2008年)ということで、だとすると「難」とか「凶」とかいった漢字をついつい思い浮かべてしまいます。あるいは「害」とか「渦」といったものもありかもしれません。




とはいえ、今年もまだあと2ヵ月以上あるわけですから、この間、少しはいいことがあるかもしれません。明るい話題はないかな、と探してみると、この年の末にJAXAで開発された小惑星探査機「はやぶさ2」が地球へ帰還する、ということがわかりました。

12月6日にそれが実現するようで、帰還カプセルの投下場所は初代はやぶさと同じくオーストラリア南部に位置する軍の演習地、ウーメラ試験場を予定しているようです。無事帰還すれば、耐熱容器に収納された採取物質が回収できます。

これが成功すれば、有機物や水のある小惑星を探査して生命誕生の謎を解明するという科学的成果を上げるための初の「実用機」の開発に成功したことになり、今後の日本の宇宙開発にとって計り知れない恩恵をもたらすことになるでしょう。ちなみに初号機である「はやぶさ」は小惑星往復に初めて挑んだ「実験機」と位置づけられているようです。

地球へ向けてカプセルを放出したあとのはやぶさ2の本体はその後、再度小惑星探査に投入されるそうで、およそ10年後の2031年7月に1998 KY26という小惑星を接近探査することになるようです。これは今回のはやぶさの探査目標「リュウグウ」を選ぶにあたっても候補になった天体の1つで、直径30メートル前後の非常に小さな小惑星です。



「リュウグウ」は直径が700mありました。これに対してこのような微小小惑星を観測することの意味は、それを近接観測することによって、地球史の解明だけでなくプラネタリーディフェンスに有益な情報が得られるからだといいます。

プラネタリーディフェンスとは、地球に衝突する恐れのある地球近傍天体(Near-Earth object NEO)を発見・観測し、衝突に備える試みで、スペースガード(Space Guard)ともいいます。スペースガードは各国で実施されおり、日本以外では、アメリカ、オーストラリア、フィンランド、イギリス、ドイツ、イタリアが協力して観測を行っています。

その統括的な役割を果たしているのは、イタリアのフラスカーティに本拠を置くNPO、スペースガード財団(The Spaceguard Foundation)です。1994年、木星に天体が衝突した事件を受けて地球でも起こりうるとの危機感が高まり、同年に開催された国際天文学連合の総会での提言を受けて1996年に設立されました。

地球近傍の物体の観測を統括する国際的な組織であり、同財団の下、各国にスペースガードセンターが組織されています。それぞれの国の中央天文台や宇宙開発機関から資金援助を受けて新しくスペースガードセンターを設置したり、既にある施設で観測を実施しています。

日本では、岡山県の井原市美星町に「美星スペースガードセンター」が設置されており、JAXA等からの支援を受け、NEOのほか、宇宙空間を彷徨うスペースデブリ(宇宙ゴミ)の監視も行っています。

光学式と電波式のふたつの観測装置を用いた観測が行われており、光学式の場合には、広視野角を持つ望遠鏡複数台によって、主に地球近傍へ接近する小惑星や彗星等の軌道を求める、といったことが行なわれています。

また、電波式観測装置としては、「フェーズドアレイレーダー」という軍艦の艦載用レーダーにも使われている最新式のものが備えられており、このレーダーは非常に指向性が高い(いろんな方向からの電波を受信できる)ことから、スペースデブリの位置をつきとめるのに最適です。

先代のはやぶさが地球突入した際にも、参考になる貴重なデータがこれらの観測機器で得られたそうで、今後も地球近傍に接近する小惑星や彗星の軌道を正確に把握し、将来の地球衝突を予測することになっています。10年後にはやぶさ2が観測するであろう小惑星1998 KY26のデータもそれに寄与することになるでしょう。

ただ、「美星スペースガードセンター」に設置されているレーダーでは、現在大きさ1.6メートルまでの宇宙ゴミしか補足できないそうで、それ以下の宇宙ゴミの接近についてはアメリカからの情報に依存しています。

このため、2023年度を目途に、高出力高感度のレーダー設備を新設し、特殊な信号の処理技術も採用して、従来と比べて約200倍の宇宙ゴミ探知能力を持たせることが計画されて、います。防衛省が計画している別のレーダー施設との連携も考えられており、低軌道で周回している10センチ程度の宇宙ごみの監視が可能になるといいます。

一方、大きな小惑星などの衝突については、ハワイ大学などによって10m以下の天体に対して大気圏突入よりも数日から数週間前に警告ができるようにするシステムの開発が進んでいるほか、これよりもはるかに大きなもの(100mを超えるようなもの)についても、数年から数十年前に予測できるよう各国との調整の上、システム開発が進んでいます。






ちなみに、2008年10月6日、アフリカ大陸スーダンの北東部のヌビア砂漠の大気圏に突入した、推定4メートルの天体(2008 TC 3)は、アメリカ・アリゾナ州にあるカタリナ天文台(CSS)の1.5メートル望遠鏡によって検出され、翌日地球に衝突するまで監視が続けられました。

この衝突では幸い大きな被害は出ず、合計10.5キログラム(23.1ポンド)の重さの約600個の隕石が回収されました。

一方、2013年2月15日にロシア連邦ウラル連邦管区のチェリャビンスク州付近に落下した隕石は、その通過と分裂により発生した衝撃波によっての大規模な人的被害をもたらしましたが、スペースガードの観測では事前に検出されることはありませんでした。

この隕石落下では、衝撃波で割れたガラスの破片を浴びたり、衝撃波で転ぶなどして、1491人の怪我人が発生しました。指が切断されるなどの大けがして入院した人は52人に上り、うち13人が子供でした。中には隕石に直接当たったことにより頸椎を骨折するという重傷を負った52才の女性もいました。

ロシア科学アカデミーなどの解析によれば、隕石の直径は数mから15m、質量は10トン、落下速度は秒速15km以上で、隕石が分解したのは高度30kmから50kmではないかと見られています。

幸い、この隕石による死者は報告されていませんが、隕石による広範囲への災害は、ロシア帝国時代の1908年に発生したツングースカ大爆発以来の出来事であって、これほどの負傷者を出した隕石災害は前例がありません。

ツングースカの隕石落下は、居住地から離れた場所であったことから人的被害は公的には確認されていません。しかし、遊牧民のキャンプが吹き飛ばされるなどで死傷者が出たとする伝聞が残されているほか、猟師や木こりなどの犠牲者がいた可能性もあります。

隕石が大気中で爆発したために、強烈な空振が発生し、中心地と目される場所から半径約30~50kmにわたって森林が炎上し、東京都とほぼ同じ面積の約2,150平方キロメートルの範囲の樹木がなぎ倒されました。1,000km離れた家の窓ガラスも割れ、爆発によって生じたキノコ雲は数百km離れた場所からも目撃されました。

南西へ約500km離れたイルクーツクでは衝撃による地震が観測されたといい、爆発から数夜に渡ってアジアおよびヨーロッパにおいても夜空は明るく輝き、ロンドンでは真夜中に人工灯火なしに新聞を読めるほどであったといいます。

地面の破壊規模から推定された隕石の大きさは、直系60~100m、質量約10万トンとされ、爆発地点では地球表面にはほとんど存在しない元素のイリジウムが検出されました。破壊力はTNT火薬にして5メガトンとされ、これは広島型原爆の300倍以上の威力です。



おそらく有史以来、最大のものがこの隕石だと思われますが、さらにさかのぼり、有史以前ともなると、いったいどのくらいの隕石が地球を襲ったかについては誰にもわかりません。ただ、こうした巨大な地球外天体の衝突は大量の生物の絶滅を引き起こすことから、そうした観点からの研究が進んでいます。

多細胞生物が現れて以降、地球では少なくとも5度の大量絶滅が生じていることがわかっていますが、その原因は必ずしも小天体の衝突によるものとは限りません。超大陸の形成と分裂の際に発生する大規模な火山活動による環境変化によるものと考えられている絶滅やその他のものもあって、原因や原因について立てられた仮説は一定していません。

ただ、白亜紀末にいわゆる恐竜が絶滅した際の大絶滅については、隕石や彗星などとの天体衝突が原因であるとする説が定説になりつつあります。

三畳紀後期からジュラ紀、そして白亜紀まで繁栄していた恐竜は、現生鳥類につながる種を除いて約6600万年前に突如絶滅しました。ほとんどの恐竜が絶滅したこの時期には、全ての生物種の70%が絶滅したと考えられています。

地質学的には、中生代と新生代の境目に相当する時期であり、中生代白亜紀(独: Kreide)と新生代古第三紀(英: Paleogene)の境目であることから、この大変化のあった時代はK-Pg境界またはK-P境界と呼ばれています。

K-Pg境界を境にして、ほぼ全ての恐竜、翼竜、首長竜、アンモナイトが絶滅しました。生き残ったのは、爬虫類の系統では比較的小型のカメ、ヘビ、トカゲ及びワニなどに限られました。恐竜直系の子孫である、古鳥類や小型の獣脚類も大きな打撃を受けましたが、現生鳥類につながる真鳥類は絶滅を免れて現在も存続しています。

海中ではアンモナイト類をはじめとする海生生物の約16%の科と47%の属が姿を消しました。これらの生物がいなくなった後、それらの生物が占めていたニッチは哺乳類と鳥類によって置き換わり、現在の生態系が形成されました。我々人間もその生き残った生態系の中から生まれました。




こうした恐竜を中心とする生物の大量絶滅の原因としては、「夜間も活発に活動する哺乳類の台頭によって、恐竜の卵が食べつくされた」、「あまりに巨大化した恐竜は、種としての寿命が尽きた」、「白亜紀末期に出現した被子植物に対応できなかった」等の説がありましたが、いずれも客観的な証拠が欠けていました。

1980年、アメリカカリフォルニア大学の地質学者ウォルター・アルバレスとその父でノーベル賞受賞者でもある物理学者ルイス・アルバレスおよび同大学の放射線研究所・核科学研究室の研究員2名が、K-Pg境界における大量絶滅の主原因を「隕石」とする論文を発表しました。
アルバレス父子はイタリア中部の町、グッビオに産するK-Pg境界の薄い粘土層を、彼らの研究室にしかなかった「微量元素分析器」を使って分析し、他の地層と比べ20 ~160倍に達する高濃度のイリジウムを検出しました。

イリジウムは、プラチナの精錬の副産物として得られ、年間の採掘量はプラチナの生産量に依存するがわずか4トン程度で、貴金属、レアメタル(希少金属)として扱われています。 地球の地殻中での濃度は0.001 ppmにすぎませんが、隕石には多くのイリジウムが含まれており、その濃度は0.5 ppm以上であるとされています。

デンマークに産出する同様の粘土層からも同じ結果が得られたことから、アルバレス父子はイリジウムの濃集は局地的な現象ではなく地球規模の現象の結果であると考え、彼らはその起源を隕石に求めました。

発表した論文には「巨大隕石の落下によって発生した大量の塵が地上に届く太陽光線を激減させ、陸上や海面の植物の光合成が不可能となって、食物連鎖が完全に崩壊した結果大量絶滅をもたらした」と記載されました。また衝突直後の昼間の地上の明るさは満月の夜の10%まで低下し、この状況が数か月から数年続いだだろうと推定しました。

ところが、この論文の内容を他の多くの地質学者が否定、いくつもの反論が出ました。反論のなかで最も有力だったものが、イリジウムの起源を火山活動に求めた「火山説」でした。地表では希少なイリジウムも地下深部には多く存在します。それが当時起こっていた活発な火山活動により地表に放出されたとするのが火山説です。

インドのデカン高原には、地球上でもっともな広大な火成活動の痕跡である「デカントラップ」があります。2,000メートル以上の厚さを有する洪水玄武岩の何枚もの層から成り、面積は50万平方キロメートルに及びます。「トラップ」とは階段を意味するスウェーデン語で、この地域の景観が階段状の丘を示すことに由来します。

「デカントラップ」は、6800万年前から6000万年前の間に何回かの噴火によって形成されたと考えられており、時期的にも6600万年前とされるK-Pg境界と合っています。

このため、大規模な噴火の際に放出された大量の火山ガスと粉塵が当時の地球において大規模な環境破壊をもたらしたと推測されました。K-Pg境界より規模の大きな大絶滅であったP-T境界事件の原因とも推定されており、隕石説に反対する多くの地質学者が、この巨大な洪水玄武岩の噴火説を支持しました。

一方、アルバレスたちの論文の発表の直前には、ニュージーランドのK-Pg境界層でもイリジウムの濃集が確認され、同様のイリジウム濃集層がスペイン・アメリカ各地・中部太平洋・南大西洋の海成堆積岩層からも確認されました。K-Pg境界層の厚さは、ヨーロッパでは約1cmでしたが、北アメリカのカリブ海周辺やメキシコ湾岸では厚さが1mを超えました。

北アメリカのK-Pg境界の粘土層中には、高熱で地表の岩石が融解して飛び散ったことを示すガラス質の岩石テクタイトとそれが風化してできたスフェルール、高温高圧下で変成した衝撃石英も発見されており、これらはすべて、隕石衝突時の衝撃により形成されたと考えられました。

アルバレス父子の理論を支持する研究者たちによって調査が進むにつれ、K-Pg境界層の厚さから北アメリカ近辺に落下したらしいという点と、カリブ海周辺およびメキシコ湾周辺のK-Pg境界層で津波による堆積物が多く見つかることから、やがて落下地点はこの近くにあると推定されるようになりました。

最初の論文発表からおよそ10年を経た1991年、巨大隕石による衝突クレーターと見なされる「ユカタン半島北部に存在する直径約170kmの円形の磁気異常と重力異常構造」が石油開発関連の調査で発見されました。この調査は「メキシコ石油開発公団」(ペメックス)が石油探査のために行ったもので、1970年代後半から行われていました。

調査を行っていたのは、地球物理学者のアントニオ・カマルゴとグレン・ペンフィールドの二人で、ペンフィールドは当初、このクレーターが火山噴火によるものと考えていましたが、その証拠を得ることができず、調査をあきらめていました。

しかし1990年に惑星科学者であるアラン・ラッセル・ヒルデブラントと接触し、隕石落下によって形成される岩石標本を見せられたことから、このクレーターが隕石によってできたものではないかと考えるようになりました。そこでペメックスが採取していたボーリングサンプルを再調査したところ、その形成年代がK-Pg境界と一致することを発見。

含まれる岩石成分が隕石の衝突によって周囲に飛び散ったテクタイトと一致することが判明し、「K-Pg境界で落下した巨大隕石によるクレーター」であると確認され、メキシコユカタン半島の北西端チクシュルーブにあったため、チクシュルーブ・クレーターと名付けられました。深さ15 ~25kmの規模を持つ巨大なクレーターです。

チクシュルーブの名は中心付近の地名に由来し、マヤ語で「悪魔の尻尾」という意味があります。クレーターの直径についてはその後1995年に直径約300kmという説も発表されましたが、現地での地震探査の結果、現在では「直径200km」が妥当とされています。




その後、火山由来のイリジウムが検出される場合は同時にニッケルとクロムの濃度増加を伴うことがわかり、隕石由来の地層からはこれらの不純物が検出されないことがわかりました。K-Pg境界層からはイリジウム以外の元素の濃集は確認されていないことから、これにより火山説より隕石説のほうが有力な説とされるようになりました。

2010年、12か国の地質学・古生物学・地球物理学・惑星科学などの専門家40数人からなるチームが、K-Pg境界堆積物から得られた様々なデータを元に衝突説及び火山説についてその妥当性を検討した結果、チクシュルーブ・クレーターを形成した隕石の衝突が、K-Pg境界における大量絶滅の主要因であると結論づける論文をサイエンス誌に発表しました。

2014年には日本の千葉工大がこの時期の生物大量絶滅は、隕石衝突による酸性雨と海洋酸性化が原因であるという論文を発表しました。

それまでに提案されていた絶滅機構の仮説では海洋生物の絶滅を説明することが困難でしたが、千葉工大の研究者たちは高出力レーザー光を使って、宇宙速度での岩石衝突蒸発実験を行い、その結果、衝突で放出された三酸化硫黄(発煙硫酸)が数日以内に酸性雨となって全地球的に降り注ぎ、深刻な海洋酸性化が起きていたことを明らかにしました。

さらに2015年、地球惑星科学を専門とするカリフォルニア大学バークレー校のポール・レニー教授らが精密な年代測定方法によって、その衝突時期を分析した結果、それは約6604万年前と特定され、誤差は前後3万年であることなどもわかりました。

火山説はこうして葬られるかと思われましたが、超巨大隕石が衝突したのと時期を同じくして、デカントラップから溶岩流出量が増加していることが確認され、その時期は6604万年前の前後5万年内だと特定されました。現在では、溶岩流出は隕石衝突で誘発されたものであり、この二つの事象が同時に作用して大絶滅が引き起こされたと考えられています。

宇宙から落下してくる隕石は、大気圏で表面温度が1万度近くまで熱せられます。高速の隕石は高度11000mより下の対流圏を1秒以下で通り過ぎるので、非常に大きな衝撃波を伴い、地上に衝突した直径10kmの隕石は地殻に数十kmもぐりこみながら運動エネルギーを解放して爆発します。

チクシュルーブでは、推定直径10から15kmの大きさの隕石の爆発エネルギーで衝突地点周辺の石灰岩を含む地殻が蒸発や飛散によって消失し、深さ40km、半径70~80kmのおわん型のクレーター(トランジェントクレーター)ができました。このときクレーター部分とその周辺の海水も同時に蒸発・飛散して無くなりました。

この爆発の衝撃による爆風は、北アメリカ大陸全体を襲い、マグニチュード10程度の大地震が起きました。トランジェントクレーターの底には溶解したものの蒸発・飛散せずに残った岩石が溜まり、やがて再凝結しました。大きく開いたクレーター中心部は地下深部の高温の岩石が凸状に盛り上がってきて中央部が高くなりました。

中心部の盛り上がりに対応して地下の岩盤の周辺部は低下し、地表ではトランジェントクレーターのおわん型の壁が崩落して外側に広がっていきます。これらの地殻変動によってクレーター周辺の地殻は波打ち、同心円状の構造が形成され、最初のクレーターの形状が消し去られたあと、更に大きなクレーター構造となって残りました。

浅海に空いた巨大なクレーターに向かって海水が押し寄せるため、周辺海域では巨大な引き波が起こり、勢いよく押し寄せる海水はクレーターが一杯になっても止まらず、巨大な海水の盛り上がりを作った後、押し波となって周辺へ流れ出し全世界へ広がりました。衝突地点に近い北アメリカ沿岸では300mの高さの津波となって押し寄せました。

地面に衝突して爆発した隕石は全量が飛散し、衝突地点の岩石も衝撃のエネルギーで蒸発・溶解・粉砕され、トランジェントクレーターでは、隕石質量の約2倍に相当する岩石が蒸発(ガス化)し、隕石質量の約15倍の融解した岩石と、隕石質量の約300倍に達する粉砕された岩石が飛び散りました。

蒸発した岩石には石灰岩や石膏が含まれており、これが大気中で分解して大量の二酸化炭素と二酸化硫黄が発生。融解した岩石は空中で冷えて凝固しガラス状のマイクロテクタイトになります。衝突地点から吹き上がったこうした高温の噴出物は、クレーター周辺に再び落下して森林に火事を起こさせ、大量の煤(すす)を発生させました。




衝突地点から放出された大量の塵や大規模火災による煤は空中に舞い上がり、太陽光が地上へ到達するのを妨げました。さらに隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤は、比較的大きなサイズのものは対流圏(高度約11000mまで)まで上昇したあと数か月をかけて地上に落下しました。

1000分の1mm以下の小さなサイズのものはその上の成層圏や中間圏まで上昇し、数年から10年間とどまりました。これらは太陽光線に対して不透明であるため、隕石落下の直後には地上に届く太陽光の量は通常の100万分の一以下にまで減少しました。

この極端な暗闇は対流圏に大量に噴き上げられた煤や塵が地上に落下するまで数か月続き、その期間気温が著しく低下し、光不足で植物は光合成ができなくなりました。

北アメリカのK-Pg境界に相当する地層のハスやスイレンの化石から、隕石は6月頃に落下したこと、落下直後には植物が凍結したことが分かっており、またK-Pg境界直後の海洋においても植物プランクトンの光合成が一時停止したことが判明しています。

さらに、大気中に放出された二酸化硫黄は空中で酸化し硫酸となって酸性雨として地表に落下し、一部は硫酸エアロゾルとなって空中にとどまりました。そして高温の隕石や飛散物質が空気中の窒素を酸化させて窒素酸化物を生成し酸性雨を更に悪化させました。

煤や塵と同様に、硫酸エアロゾルも地表に届く太陽光線を減少させる物質であり、これらの微粒子の影響による寒冷化はその後約10年間続いたと推定されています。こうした隕石衝突による地上の暗黒化・寒冷化は「衝突の冬」と呼ばれるようになりました。

以上のように、この巨大隕石の衝突は、衝突地点で破滅的な状況を生み出したのみならず、数か月から数年におよぶ地球全体における光合成の停止や低温を引き起こし、その結果招いた環境の激変によって、恐竜をはじめとする多くの生物種が滅びました。

チクシュルーブ・クレーターを形成した衝突エネルギーは、1.3×1024 J – 5.8×1025 J、又はTNT換算3×108~ 109メガトンと計算されていますが、この量は冷戦時代にアメリカとソ連が持っていた核弾頭すべての爆発エネルギー104メガトンの1万倍以上に相当します。

仮にもし現在、の冷戦下の核弾頭すべてが爆発したと仮定すると、著しい爆発で舞い上がった塵や大規模火災で生成された煤の影響によって地上に到達する太陽光の著しい減少が生じ、厳しい寒冷化が起こると考えられています。

北半球中緯度地方の夏至の気温は平均で10-20℃低下し、局所的には35℃ほど低下があり、オゾン層は壊滅的に破壊されて農業はほぼ全滅すると考えられていますが、忘れてはならないのは、こうした環境変化を起こす隕石がもたらすエネルギーがK-Pg境界で落下した隕石の持つエネルギーの1万分の1にすぎないということです。

もしもチクシュルーブ・クレーターを形成したのと同じ隕石が現在の地球に落ちてきたら、当然のことながら人類もまた大きなダメージを受けるでしょう。地球近傍天体(NEO)は、いつ人類に滅亡をもたらしてもおかしくない絶対的な脅威であり、歴史上の人間同士の戦争や疫病によるものをはるかに超える被害が出ることは間違いありません。

地球近傍天体の直接の衝突だけでなく、前述のロシア・チェリャビンスクの隕石の例にもみられるように、そうしたニアミスによっても大きな被害が出ると考えられています。ほかにも天の川銀河内でのガンマ線バースト発生や、破局噴火、長周期の気候変動などが考えられ、天文学的・地学的災害によって我々人類が滅亡する可能性は否定できないのです。

1933年に刊行された、フィリップ・ワイリーとエドウィン・バーマーのSF小説「地球最後の日」は、2連の放浪惑星が地球に衝突するというストーリーでした。地球衝突のコースをとるその存在に気付いた科学者たちは、唯一人類を存続させる方法として、可能な限りの人数が乗り込める大きさの宇宙ロケットを作って地球を脱出させました。

最後の人類が旅立った先は、あろうことか地球に衝突しそうな放浪惑星の一つであり、もうひとつの惑星は地球に激突し、地球とともに砕け散りました。

残った放浪惑星に辿り着いた人類の生き残りは、ここで新たな人類の歴史を作り始める、というのがこの話のオチですが、現在の地球もその環境が悪化の一途をたどりつつあり、そうした中、火星への人類移住計画も取沙汰されていて、「地球最後の日」もあながち荒唐無稽な話ともいえません。

人類を滅亡に導くのは、地球近傍天体の衝突だけとは限りません。現在世界中に蔓延しているコロナウィルスのように、ウイルスやプリオン、抗生物質耐性を持つ細菌などが大発生し、全人類に感染して死滅する、という可能性もあります。

最近の研究では、人為的に制作された病原体で人類を絶滅させることは可能とされてり、しかもそのようなものを作るための障壁は低いと科学者たちは警鐘を鳴らしています。

その一方で、そのような事態を「認識し効果的に介入」して病原体の拡散を食い止め、人類滅亡を防ぐことが出来る、ともいわれています。今回のコロナ騒動を機に、そうした認識を高め、地力をつけて来るべき人類の滅亡に備えたいものです。これからの時代を担う若い世代にはとくにそれを期待したいと思います。

地図にない町

ロシアのウラジオストックは、日本から直行便で約2時間半、今や気軽に行ける港町になりました。東欧を起点とするシベリア鉄道の始点であり、ヨーロッパとアジアの雰囲気が入り混じるエキゾチックで独特な雰囲気が魅力です。

2017年8月からは無料の電子査証での訪問が可能となっており、2020年2月からは日本航空が、また3月からは全日空が成田から毎日1往復の便を就航させたことなどから、日本人観光客が増えています。

ほかにもS7航空の直行便が毎日運航しています。関空からも各社の便がありますがこちらは週に1~2便のみ。韓国経由だと航空券代もかなり安くなりますが、総飛行時間が長くなるのが難点です。

飛行機のスケジュールにもよりますが、現地への移動時間を含めても成田発2泊3日が基本。調べてみたところ、添乗員同行のツアーでも最安値で6万円台からあるようです。

最大の観光名所がどこかといえば、その答えを出すのはなかなか難しそうです。誰もが訪れたくなるような特別な名所が存在しないからですが、そこもまたウラジオストックの魅力であるといえます。

ほとんどの観光地は市内に集中しており、あくせくとあちこちを回る必要がなく、ゆったりとした時間の流れを感じとることができます。

ロシアでしか購入できない雑貨を求めるのもよし、街中にあふれるストリートアートや美術館、バレエなどの芸術鑑賞をするのもよし、大自然の中でのトレッキングや見晴らしの良い展望台に行くのもありです。北朝鮮料理の店やカジノなどもあって、各々が期待するシーンに合わせた観光が楽しめます。




その古い街並みも魅力で、大手企業の資本の店舗はほとんど見掛けません。「ZARA」や「バーガーキング」といった例外は多少あるものの、昔からの街並みがそのまま残っており、古き良き時代のヨーロッパのノスタルジーを感じさせます。

ウラジオストックの名称は「東方を支配する町」を意味しています。その通り、かつてウラジオストックはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市でした。本来のロシア語での読みはヴラディ・ヴォストーク(ウラジ・オストク)ですが、日本では明治時代以降、ウラジオ・ストックと解され、漢字には浦塩斯徳(または浦潮斯徳)が当てられました。

日本海に突き出した長さ30キロ、幅12キロのムラヴィヨフ・アムールスキー半島(ロシアの極東政策に深く関わった同名の政治家に由来する)の南端部、北緯43度7分、東経131度51分に位置し、かつてはロシア海軍の太平洋艦隊の基地が置かれていました。

人口は60万とちょっと。丘陵上の市街に囲まれるようにして金角湾が半島に切れ込んでおり、天然の良港になっています。街の中心部は金角湾の奥にあり、南には東ボスポラス海峡(ロシア船舶が黒海へ頻繁に出入りをするトルコのボスポラス海峡にちなんでこう呼ばれる)を挟んで軍用地や保養所などのあるルースキー島が浮かんでいます。

2012年9月にはこのルースキー島でロシアAPECが開催され、首脳会議の会場となりました。ロシア政府はそのAPEC開催に備える形で、ルースキー島連絡橋の建設やウラジオストック国際空港の改修を行うなど、総額約6,000億ルーブル(1兆6,500億円)の莫大なインフラストラクチャー投資を行いました。

ルースキー島では、リゾート地化を目的として大規模な開発が進められ、現在までに数々のリゾートホテルや水族館(プリモルスキー・オケアナリウム)が完成するに至っています。また、APEC終了後、極東連邦大学がその会場跡に移転しました。

清の時代に外満州(Outer Manchuria)と呼ばれていた地域の中で、現在のウラジオストックにあたる地域は海參崴(ハイシェンワイ・海辺の小さな村の意)と呼ばれていました。外満州は、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約によって、清からロシア帝国に割譲されました。

ロシア帝国は外満州から獲得したこの土地を沿海州と名付け、その南部にウラジオストックの街を建設しました。19世紀末までには太平洋への玄関口として、また北に厳氷海しか持たないロシアが悲願とする不凍港として極東における重要な港町に位置づけられるようになりました。

日露戦争時には、ロシア帝国海軍バルト艦隊、太平洋艦隊の分遣隊が置かれ、のちに強化されてウラジオストック巡洋艦隊となりました。日本海海戦で日本の連合艦隊に完膚無きまで叩きのめされた後、残りの艦船のほとんどがバルト海へ返され、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小されました。

その後の革命の勃発によってロシアが国力を弱めると、第一次世界大戦では連合国が干渉戦争を仕掛け、シベリアへ出兵することが決まります。連合国のひとつであった日本も、1918年(大正7年)に帝国陸海軍が当地に進出しました。

日本はウラジオストックからイルクーツク以東を1918年から1922年にわたって占領しましたが、「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」と名前を変えたソビエト政権が日本のシベリア出兵に対峙すべく極東共和国を建国。占領を続ける日本軍との対決が始まります。

占領を続ける日本は、ボリシェヴィキ(レーニンが率いる左派)が組織した赤軍や労働者、農民によるパルチザンによる激しい反抗受けましたが、その結果1922年10月にウラジオストックが陥落し、これを機に北サハリンを除く地域から撤退。極東共和国は存在意義を喪失し、ソビエト政権へ統合される事となりました。

ソビエト連邦時代の1935年、それまであった小規模な艦隊を拡張する形で、ウラジオストックを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設されます。1938年には、沿海州を改組した沿海地方の州都となるとともに、ウラジオストックは軍港として重視されるようになりました。

太平洋戦争(日)・大祖国戦争(ソ)の時代を経て米国との冷戦に入った後、国際都市として開かれていたウラジオストックは一変することとなります。1958年からソ連が崩壊する1991年まで、ごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止され、「閉鎖都市」となったのです。

しかし、ソ連崩壊後の1992年、閉鎖の指定が解除されました。民間旅客航空会社のウラジオストック航空が誕生し、日本各地の空港との間に定期便が就航するようになり、1993年には、閉鎖都市となっていた間ナホトカへ移動していた日本国総領事館も戻ってきました。

2012年のAPEC開催が決まったことで大規模な公共事業が実施された結果、急速に交通インフラの整備も進みました。空路では、サハリン航空を併合した「オーロラ」が成田と新千歳の間に航路を開き、海路では、韓国のドゥウォン商船が京都舞鶴港と韓国の浦項迎日湾港、ウラジオストックを結ぶ航路を開設しています。

産業では自動車産業を積極的に誘致しており、マツダやトヨタ自動車など外資系メーカーの進出しているほか、日本からの中古車輸入が盛んとなり、極東における一大市場となっています。さらに、天然ガスの生産・供給において世界最大の企業であるガスプロムと日系企業によるLNG生産プラントの建設も計画されています。




閉鎖都市

このように、近年のウラジオストックの発展はかつてそれが「閉鎖都市」であったことを忘れるほどに著しいものです。

ウラジオストックと同様、かつて閉鎖都市だった東欧各地の都市も開かれ、国際交流が盛んになってきています。

かつて閉鎖都市を持ち、現在はソビエト(ロシア)から独立している東欧諸国は、カザフスタンやウクライナ、エストニア、スウェーデンといった国で、またソビエトと冷戦関係にあったアメリカ合衆国にも閉鎖都市がありました。

閉鎖都市は、主として核兵器や化学兵器開発といった国家秘密に関わるような特定の目的のために作られた都市です。街の情報の開示や出入りを厳しく制限することで兵器の秘密を保持し、開発をしていること自体を秘密にしたり、また軍事基地の情報が外に漏れないようにするために閉鎖を行いました。

そもそもアメリカ合衆国が核兵器開発のために秘密都市を作ったことをソビエト連邦側が察知し、それを模倣して作るようになった、ともいわれています。その住民は、主として核兵器製造や化学兵器製造、あるいは何らかの軍事活動に従事している者やその家族です。

通常、都市というものは出入りが自由ですが、閉鎖都市の多くはフェンスや壁など、出入りの障壁になるもので囲まれています。検問所や何らかのゲートのようなものを設けて外の人間の立ち入りを厳しく制限しており、一般人は立ち入ることができません。

中に入ることができるのは極めて限られた者だけであり、住民が転出することも、陰に陽に、さまざまな形で制限されたり、それをしないように当局から圧力がかかりました。仮に転出ができた場合でも長らく当局から監視の対象になることも多く、そうしたことから、その都市で生まれた人の多くが一生涯その都市で暮らすことになるといいます。

ソビエト連邦崩壊後のロシアでは1992年に「閉鎖行政領域体に関するロシア連邦法」が制定され、この法律の適用を受けて、42の閉鎖都市(ロシアではZATOと呼ばれる)が指定され、そこに住む住人の人口合計は推定でおよそ130万人に及ぶとみられています。

核開発にかかわるZATOが多く、核開発以外に関わるZATOとしては、宇宙開発関係のアムール州のツィオルコフスキー(旧称ウグレゴルスク)、ICBM基地があるトヴェリ州オジョルヌィ、潜水艦基地があるカムチャッカ地方ヴィリュチンスクなどがあります。

42のZATO以外にも、約15の確認されない都市があると考えられており、いずれもが特別な行政組織で運営されていて、居住者や関係者以外の立ち入りは規制されています。

アメリカ合衆国でも、マンハッタン計画による原子爆弾研究・製造の拠点として、過去に同様の機密都市を建設しています。1943年に指定されたオーク・リッジ、ロスアラモス、ハンフォードの3つの都市がそれらです。

いずれも都市も建設前には大規模な人口密集地はありませんでした。オーク・リッジとロスアラモスは、該当地区とその周囲に農村が点在していただけであり、アメリカ陸軍がその居住農民たちから半ば強制的に土地を収用し、これに応じない者は強制排除しました。

オーク・リッジやロスアラモスと言った現在の地名は、付近に過去に存在した地名から命名されたものです。ハンフォードだけはそれ以前から同名の漁村が存在していましたが、住民はやはり強制的に土地を収用され立ち退かされた後、同じ名前が付けられました。

ただし、建設当初からこれらの名で呼ばれていたわけではありません。オーク・リッジはサイトX、ロスアラモスはサイトY、ハンフォードはサイトWと呼称されていました。また内部の個々の施設もその目的や用途、機能を隠匿するため、S-25、Y-12といったコードネームで呼ばれていました。

しかしこうした秘匿名称を使うことは返って周囲の興味を引くという考え方から、上述のような地名などをあてがわれることになりました。地図にもそれらの施設が記載されることはなく、実際にそのような都市・施設が存在しているかどうかは、一般市民はもとより政府・軍関係者でも一部の者にしか知らされませんでした。

マンハッタン計画が終了した1947年以降、オーク・リッジとロスアラモスは存在自体の秘匿対象から外れ、正式な地名・自治体として公表されました。

しかし依然として施設の内容は秘匿され、また住民の管理も続き、さながらソ連型社会を思わせるかのような居住統制が行われていたといいます。

また人種差別もあえて強まるように指導されていたといい、これは白人主体の運営のほうが情報が漏れにくいと考えられたためでしょう。こうしたところに白人社会が幅を利かせているアメリカという国のえげつなさを感じます。



これらの都市が完全に解放されるのは、冷戦の終結後です。ただ、マンハッタン計画に基づいてプルトニウムの精製が行われていたハンフォードだけは、現在もハンフォード・サイトと呼ばれて核燃料や核廃棄物の再処理が行われています。核施設の労働者以外は基本的に居住せず、外国人の立ち入りも制限されている点は昔と同じです。

こうした閉鎖都市では上空の飛行制限を行ったり、閉鎖都市につながる道路を封鎖するなどの規制も行われていました。また郵便物を届ける際も、近くの大都市の名前を使い、郵便番号も特殊なものを用いる(ソビエトの場合、Arzamas‑16, Chelyabinsk‑65など)といったことまで行われ、その都市がこの世に存在することをできる限り秘密にしていました。

こうしたことから、閉鎖都市は「秘密都市」と呼ばれることすらあり、こうした秘密都市は、地図上からも消されたり、その描写を変えられていました。そもそもが戦時下の対策として始められたことから、こうした改変を戦時改描(かいびょう)と呼びます。

軍事的に重要な施設が、地形図上に偽って表現されたり消されたりするもので、日本でも戦時下に毒ガス開発の拠点であった瀬戸内海の大久野島(広島県)が地図から消されていたというのは有名な話です。

日本だけではなく、世界中でこのような戦時改描が行われていましたが、最初は重要な施設を空白にしておく「省略改描」だけでした。しかし、第一次大戦で都会が爆撃を受け多数の犠牲者が出たことなどを受け、架空のリンゴ畑や桑畑が描かれるようになりました。

日本では陸軍参謀本部の外局である陸地測量部によって戦時改描が行われていました。対象となったのは、軍事施設、基幹産業関連、皇室関連施設などで、貯水池は芝生に、火薬庫は桑畑にしたりと、色々な改描が行われました。その一方で敵国の地図を入手し改描を行った箇所を看破するといったことも行っていました。

ただ、こうした改描を行ったことがわからなくなってしまう恐れもあることから、軍事施設では星の下に錨を描いた記号を書き込み「陸海軍官衙」と注釈を入れたり、枠外に記入されている価格を丸括弧で囲むなどして改描の有無がわかるようにしていました。




消された町

かつての閉鎖都市や秘密都市も同様に地図上から消される、ということは日本だけでなく他の国でも行われていましたが、そうした軍事目的の施設や都市でなくても地図を見ただけではどんな場所なのかわからない、ということは往々にありがちです。

インターネットが普及した今日では、googleマップのストリートビュー機能などによって世界中どこにでも行けますが、人が踏み入れたこともないような場所や紛争地域、あるいは中国のように積極的な情報開示をしていない国にそうした場所は多いようです。

航空写真がある場合はどんなところなのかそれなりに見当はつきますが、それがない場合や小さな縮尺の写真がない場合はほとんどお手上げになります。

実際には存在するはずなのにいくら調べてもどこだかわからない場所もあります。多くの場合、呼称が複雑だったり似たような地名が多数あることが原因ですが、記載漏れや間違いによって見つけられない場合もあり、改めてしっかり調べれば見つかったりします。

しかし、中には知名度の低さや「存在感の薄さ」からインターネット上では「実在しない町」になってしまっている場合があり、中には恣意的に消されそうになった町もあります。

ドイツのビーレフェルトは、そうした町のひとつです。

ノルトライン=ヴェストファーレン州にあるこの町は、人口33万人の実在する都市ですが、インターネットによって、「実在しない」とされるようになってしまいました。「その存在を信じさせようとする巨大な陰謀がある」とする情報まで流され、陰謀を企む「やつら」によってそうした情報が流されたのだとする噂まで流されました。

それによれば「やつら」は「当局」と手を結び、「ビーレフェルト」なる架空の都市があたかも実在するかのような情報が流れました。またビーレフェルト関連のニュースも「やつらのプロパガンダ」と論評され、Bielefeld の一部を“B*e*e*e*d,”、“B**l*f*ld”などとわざと伏字にして公表されました。

挙句の果てには、実在するビーレフェルト大学(Bielefeld University)は実は宇宙人が運営していて、この大学がそうした陰謀を画策している本拠地だといった噂まで流れ、さらにはBIではじまるビーレフェルトの自動車のナンバープレートは実際には存在せず、偽造されたものだとする情報まで流れました。

一方ではこのようなありもしない都市が存在するかのように信じさせる陰謀が「いつ始まったのか、なぜ仕組まれたか」といった逆説的な特集記事まで組まれ、あたかも何等かの陰謀が実際にあったかのように見せかけるサイトまで出てきました。

この町に関し、「試しに、相手に3つの質問をしてみよう」といった問いかけがネットで流されたこともあります。これは、

あなたは、ビーレフェルトから来た人を知っていますか?
あなたは、ビーレフェルトに行ったことがありますか?
あなたは、ビーレフェルトに行ったという人を知っていますか?

というものです。ビーレフェルトをよく知らない人がこうした質問をされれば、3つの質問すべてに「いいえ」と答えてしまうでしょう。

しかし、もしも1つでも「はい」と答えた人物がいたら、その人物(あるいはその知人)は「やつら」の陰謀に加わっているに違ない、というわけで、こちらも何か陰謀があるかのように思わせる巧妙な仕掛けといえます。



このように「消される対象」となったビーレフェルト市ですが、たしかに「大都市なのにぱっとしない」微妙な存在のようです。第二次世界大戦で激しい爆撃を受けたために歴史的な町並みや建物も少なく、全国的に知られた観光地もありません。また有力な企業や公共機関があるわけでもなく、ニュースに取り上げられることもほとんどありません。

アウトバーンは郊外を通過するだけであり、鉄道駅は市の中心部にあるものの、かつてはまるで仮設駅のような雰囲気でした。2007年に大規模な改修工事が行われたため多少事情は変わったとはいえ、人々はビーレフェルト市が大きな都市であることに気が付かないまま通過してしまいます。

市に本拠を置くプロスポーツチームとしてはサッカーのアルミニア・ビーレフェルトがあり、このチームは観客動員数では世界第1位のプロサッカーリーグであるブンデスリーガ一にかつて属したこともありますが、その地位を維持し続けるほどの力はありません。

方言がありますが、日本でいえば青森や沖縄のそれほどひどくはなく、ビーレフェルト方言を話す人物としゃべったとしても、そのなまりが印象に残ることはあまりありません。

このようにこれといった特徴がないビーレフェルトは、他の地域に住む多くのドイツ人にとっては印象に残らないのです。

こうした風潮に危機感を覚えた市政府は1999年、新聞に Bielefeld gibt es doch! (ビーレフェルトは存在する!)と題する広告を載せました。しかし、よりによってその掲載日が4月1日であったために、「陰謀論」に加担した格好になりました。

さらにGoogle マップではビーレフェルト都心部の衛星画像の解像度は長らく低いままであったといいます。衛星画像と道路地図は完全に合致しなかったといい、データは2006年10月に更新され、都心部も詳細に見ることができるようになりましたが、市長のオフィスには現在でも実在を確かめる電話やEメールがしばしば寄せられるといいます。

このように、どこの国でも印象の少ない町や地域というものはあるものです。ドイツ以外では、1980年代にアメリカのノースダコタ州が同様に「抹消」の対象となったほか、ネブラスカ州、アイダホ州、ワイオミング州などもその存在感の薄さからよくからかわれます。

ジョージ・H・W・ブッシュ政権時代に国防長官や副大統領を勤めたディック・チェイニーは、このうちのネブラスカ生まれであることから、「やつら」の側で陰謀の片棒を担いでいるとよくジョークのネタにされました。

このほか、スペインのテルエルは県都でありながら、山がちな地形と少ない人口のために存在感が薄いようです。1999年、Teruel existe (テルエルは存在する)というスローガンを掲げるキャンペーンが展開されましたが、このスローガンは、Teruel no existe (テルエルは存在しない)という巷で流行ったジョークを逆手にとったものだったといいます。

さらには、国家的にも存在感がない国もあります。例えばヨーロッパ諸国の中においてはベルギーがそのひとつです。国土が小さいこともありますが、突出して優れた産業もなく、国自体の実在が疑わしいとしてジョークの格好のネタにされることも多いようです。

日本でも、影の薄い県は少なくありませんが。ネットなどで「忘れられている都道府県ランキング」といったキーワードで探すと、島根県 福井県 佐賀県 滋賀県 山口県などがよく出てきます。このほか群馬県や栃木県も印象に残りにくい県のようです。

2005年11月にフジテレビで「ニッポン列島緊急特番ザふるさとランキング最新格付け決定SP!!」という番組が放送されましたが、この中で栃木県は「影の薄い県第1位」に格付けされました。

さらに栃木県の県庁所在地である宇都宮市は、それが県庁所在地であることすら知らない人が多いようです。栃木県出身のお笑いコンビのU字工事は、人口51万人の大都市であるこの宇都宮の存在感の薄さをしばしばネタにします。

しかし同じ栃木県にはさらに影の薄い町があります。市貝町(いちかいまち)というのがそれで、ここも同じフジテレビによって「影の薄い市町村第1位」に格付けされました。

栃木県南東部に位置する町ですが、たしかに目立った観光地はなく、人口も1~1.2万人と決して多いといえません。出身者に目立った有名人はおらず、2014年に道の駅「サシバの里いちかい」ができましたが、全国に1200ほどある道の駅の人気投票では800位前後でけっして賑わっているとはいえません。

近くには同じ大きさの益子町、芳賀町、茂木町、高根沢町などがあることもその影の薄さを際立たせています。これら4町と違って町の名前さえ出されないことも多いとかで、これが「日本一影の薄い街」とされた理由ですが、これにはさらに「日本一影が薄い県の」が頭につきます。

しかしどんなに影が薄くても実在する町には人も住み、土地もあるわけです。市貝町のように印象の小さい町は日本中いたるところにあり、ここが取り上げられたのは、印象が薄いとされる栃木県という地域を際立たせたかったからでしょう。同県・同町にお住まいの方々にとってはいい面当てです。



実在しない町

このように地図に載っていて実在するものの印象が薄い町がある一方で、地図には存在するにもかかわらず、実在しない町、というものもあります。

かつてイギリスのアーグルトン(Argleton)という町がそうした町として有名になったことがあります。2009年12月中旬に訂正が行われるまで、この地名はイギリス・イングランドのランカシャー州オートンに近接した位置に表示されていましたが、実際にはこの場所は空き地が広がるばかりの土地でした。

Google マップおよびGoogle Earthで表示されていた「アーグルトン」の位置は、北緯53.543度 西経2.912度座標: 北緯53.543度 西経2.912度でした。ここは人口約8000人の村・オートン(Aughton)の村域内で、リヴァプールとヨークとを結ぶ幹線道路A59がすぐ近くを走っています。

通常、Googleのデータは他のオンライン情報サービスにも利用されています。このため、「アーグルトンの天気」「アーグルトンの不動産」「アーグルトンの求人」といった、あたかもこの町が実在するかのような情報が多数リストアップされることになりました。これら関連付けられたサービスや事業体は、同じ郵便番号L39の地域内にある実在のものです。

実在しない町「アーグルトン」に気づいて最初に反応したのは、マイク・ノーラン(Mike Nolan)という人物でした。オートンの隣町オームスカークでウェブサービス会社の社長を務めるノーランは2008年9月、インターネット上で実在するかのように扱われているこの「幽霊集落」のことを自身のブログに書き込みました。

さらに翌年にはノーランの同僚であるロイ・ベイフィールド(Roy Bayfield)によって詳しい調査が試みられました。グーグル・マップが指し示す場所に特別な何かがあるのかどうかを実際に歩いて調べたベイフィールドは、その結果を彼自身のブログに報告しました。

そのブログで彼はまず「アーグルトン」は「一見普通だった」(deceptively normal)と語り、しかし現実と虚構が混交するまるでマジックリアリズムの町のようだとこれを補足しました。

マジックリアリズムとは、日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、世界中の小説や美術に見られるものです。例えば、大江健三郎の「同時代ゲーム」では、主人公の故郷である「村=国家=小宇宙」は徳川期に権力から逃れた脱藩者により四国の山奥に創建された村です。

明治維新以後「村=国家=小宇宙」は大日本帝国の版図に組み込まれますが、租税や徴兵に抵抗するため「二重戸籍」の仕組みを持っていました。しかしこの仕組みが露見したため、大日本帝国は軍隊を派遣し、ここに「五十日戦争」の火蓋が切られた…といった物語です。

このベイフィールドによる「アーグルトンの発見と探索をめぐる物語」がどのようなものだったのかはよくわかりませんが、実際に何か歴史があるかのごとく紹介し、かつ幻想的な町であるといった創作をしたのでしょう。

これがまず地元のメディアによって取り上げられ、2009年11月には「Googleマップには存在するが、現実には存在しない町」が世界中のメディアの注目を集めるようになり、インターネット上でも大きな反響を呼びました。

Googleにおける”Argleton”の検索結果は、2009年11月4日現在で25,000件、同年12月23日には249,000件にまで増加したといい、Twitterでも”Argleton”はよく使われるハッシュタグ(検索をしやすくするためのキーワード)となりました。

その結果、「アーグルトンでこのTシャツを買ってきた」とか「ニューヨーク、パリ、アーグルトン」であるとかいった文字をプリントした商品を販売するサイトまで登場するようになりました。

果てには「著作権トラップ」としてGoogleがわざと「アーグルトン」を記したと疑う人まで出てきました。これは著作権の侵害者を発見したいときに時々使われる手法です。

例えば図鑑や地図など、ある対象を事細かに調べ上げた類いの著作物の場合、本文中にさりげなく誤った情報を数個混入させておけば、それを丸ごと盗用する者は誤った情報だと区別することなく一緒に書き写すはずです。その項目の有無を確認することによって不法な盗用であることを立証しやすくなります。

つまり、無断複写によって地図の著作権を侵害した者が言い逃れできなくするための罠として、Googleがわざと間違った情報を載せておいたのではないかというわけです。

よく見ると、“Argleton”のスペルはこれを入れ替えると”Not Large”になります。これは単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊び、「アナグラム」と考えることもできなくはありません。

さらにスペルを入れ替えるとこれは”Not Real G”にもなります。この場合、GはGoogleのGであるという解釈です。Googleがその名を伏せてこうした罠をかけたのではないかというわけですが、一方ではこれは、単に“Argleton”を含む村の名前である”Aughton”をスペリングミスしたものではないか、と指摘する人もいます。

こうしたいろいろな憶測に対して、Googleのスポークスマンは「我が社の情報の大部分は正確だが、たまに誤りもある」とコメントし、利用者に誤りをデータ提供者に知らせるよう勧めたといいます。

Googleマップにデータを提供しているのは、オランダに本拠を持つテレアトラス社というカーナビゲーション用のデジタルマップなどを提供する会社でしたが、同社は、このような「異常」がデータベースに混入した理由についての説明を行わず、ただいずれ「アーグルトン」は地図から除去されるだろうと述べるにとどまりました。

情報の訂正は2009年12月中旬に行われ、以降 Google Map 上でも「アーグルトン」を見つけることはできなくなりました。

おそらく現在でもGoogleマップを探し歩けば、アーグルトンのように実在しない町が世界中に存在するのでしょう。おそらく日本でも同じと思われます。

もしかして、あなたの住む町も間違った記載がされているかもしれませんし、あるいは消されているかもしれません。ぜひ一度チェックしてみることをお勧めします。

ユダという名の日本

10月です。日本では神無月ともいいます。

出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなるのでこう呼ぶのだとか。逆に、神々が集まる出雲では、この月は神在月と呼ばれます。

ではなぜ出雲なのかですが、これは中世以降、全国で最も布教活動に熱心だった出雲大社の御師(おし)たちがこの話を広めたからです。

御師というのは、それぞれの神社の広報マンのような存在で、講とよばれる結社を広めるために作られた職業です。戦国期を除いて経済が比較的安定していた時代、庶民はレジャー感覚で寺や神社にお参りをしていましたが、このとき御師の助けを受けていました。

御師は頑張って宣伝を行い、自社を援助してくれるサポーターを獲得するよう努力しましたが、このサポーターのことを「檀那」といいます。有力神社に御師職が置かれて布教活動が盛んになると、祈祷などにやってくる依頼者をこう呼ぶようになりました。神社に限らず寺院でも同じ呼び方をします。

中でも伊勢御師の活動はとくに活発で、全国各地で「伊勢講」を構築しては檀那の世話を行い、逆に彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図りました。

鎌倉時代から室町時代初期にかけては、こうしたことが全国の神社で行われるようになりました。何しろ儲かる商売なので、御師の間で師職(御師の職)や檀那の相続、譲渡・売買といったことがさかんに行われるようにもなります。

江戸時代になるととくに勢力の強い御師のもとに檀那や祈祷料などが集まり、伊勢以外では富士や出雲の御師組織がと大きくなり富士講や出雲講といった講ができました。出雲の場合、その御師が布教する場所は丹所(たんしょ)といい、これが全国に建設されるようになりました。

出雲神社の御師たちはこの丹所を発信源として、神無月には出雲以外には神様が居なくなるという説を流布しました。無論、何の根拠もあるわけではありませんが、出雲神社のような由緒ある神社の御師が言うことだから、と人々はこれを信じるようになり、その御師組織が出雲講と呼ばれるように大きくなった江戸時代には全国で信じられるようになりました。




このようにある出来事の由来について、確固たる根拠がないにもかかわらず、何等かのかたちで権威づけられ定着してしまったものを、民間語源と呼びます。

民衆語源、語源俗解、民俗語源、通俗語源などとも呼ぶようですが、広められたものが必ずしも「語」とは限らないので、民間伝承(フォークロア)と呼ぶ方が正しいかもしれません。

民間語源のこのほかの例としては、「くだらない」というのがあります。

地方へ流通していく京都・上方の物産で、特に灘の酒などのように地方産より上質とされたものは、は「くだりもの」とよばれるのに対し、そうではないものは「くだらない」とされ、つまらないものという意味で使われるようになりました。もっともらしい説ですが、これも根拠があるわけではなう、長い間にそうであろう、とされるようになっただけです。

「師走」もそうです。年末は坊さんが仏事で忙しく走り回るからこう呼ばれるようになったとよくいわれますが、こちらも民間語源のひとつであり裏付けるものは何もありません。

「邪馬台国」はなぜそう呼ぶようになったのか、というのもあります。これは、九州に上陸した大陸からの使節がこの地域の住民に、「この国の名は?」と問うたとき、彼らが九州弁で「大和(やまと)たい」と答えたというものです。笑い話のような話ですが、真に受ける人もいそうです。

似たようなものは英語にもあります。英語のアスパラガス(asparagus)がスパローグラス(スパローは“スズメ”でスズメ草)に由来するという俗説や、ヒストリー(history)がヒズ・ストーリー(彼の物語)に由来するといったものです。

語源が方角をあらわす北東西南のそれぞれを意味する英語NEWSもNorth、East、West、Southの頭文字だという説がありますが、これも民間語源にすぎません。本当は“new”が複数形化したものであり、「(複数の)新しいこと」という意味のラテン語が語源です。

民間語源が単語や綴りを変えてしまう場合もあり、島を意味する「islandアイランド」は、もとは古英語で“iland”と綴っていました。ところが、ラテン語で島を意味する「insulaインスラ」が語源であるとする俗説が広がった結果、発音には不要な“s”の字が挿入されてislandとなってしまいました。

英語を日本語に翻訳する際にできたとされる語源俗解もあります。肥筑方言のひとつである「ばってん」は、英語の“but and“または”but then“によるとする説です。これは意外にも言語学的には正しく、古語の「〜ばとて」は、「それでもしかし」という意味であり、英訳すれば”but then“です。

さらに「阿呆(あほ)」の語源は英語の「ass holeアス・ホール」であるという説や「ぐっすり」の語源は英語の「good sleep」であるという説などがあります。




このほか、日本語にはヘブライ語が多数入り込んでいるという説があります。「ジャンケンポン」はヘブライ語「ツバン・クェン・ボー(隠す・準備せよ・来い)」であり、これは「キリスト教の一切を語る秘儀」を表現しているのだそうです。

さらに、「威張る」は「バール(主人)」、「さようなら」は「サイル・ニアラー(悪魔追い払われよ)」、「晴れる」は「ハレルヤ(栄光あれ)」、ありがとうは「ALI・GD(私にとって幸運です)」などがあり、さらに、京都の「祇園」は「シオン」であるとか、「イザナギ・イザナミ」は「イザヤ」だとするなど、ヘブライ語とされる語は意外に多くあります。

実際、ヘブライ語と日本語には類似点が多いようで、そうした類似点を背景に言語学者らが「日ユ同祖論」というものを唱えました。日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放された「イスラエルの失われた10支族」の一つとする説で、日本人とユダヤ人は共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族であるというものです。

この古代イスラエルの失われた10支族とは、ユダヤ民族を除いた、ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族を指しています。

旧約聖書のアブラハム(紀元前17世紀)の孫はヤコブ(別名イスラエル)であり、ヤコブの12人の息子を祖先とするのが、イスラエル12支族です。孫で同名のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住した後に、子孫はやがてエジプト人の奴隷となりました。

400年程続いた奴隷時代の後の紀元前13世紀に、モーセが彼らをエジプトから連れ出しました。12支族はシナイ半島を40年間かけて放浪した末に永住の地をみつけ、200年程かけて一帯を征服していきました。そしてその地カナンにおいて、ダビデ王(紀元前1004年‐紀元前965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされました。

しかし、それを継ぐソロモン王(紀元前965年‐紀元前930年)の死後、南北に分裂して、サマリヤを首都にした10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にした2部族による南王国ユダに分かれます。

その後、北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10支族の指導者層は虜囚としてアッシリアに連行されました。しかし、10支族の民たちの行方はわからなくなり、このため残された2部族たちは彼らを「失われた10支族」と呼ぶようになりました。

10支族はアッシリアに征服された後信仰を邪魔されない場所に移り、このため消息不明になったのではないかと噂されましたが、その行方をはっきりと示す記録は残っていません。

一方、ユダ族等の残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされました。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となりましたが、同胞同士で宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになりました。

そして神殿宗教ではなく律法を重んじる宗教としてユダヤ教を確立することになります。ユダ族はその後離散し、今日のようにユダヤ人と呼ばれるようになりました。そのユダヤ人たちがアメリカの援助で再び建国したのが現在のイスラエルということになります。

それでは失われた10支族はどこへ行ったのでしょうか。

旧約聖書の第4エズラ記には次のような記述があります。

「幻に現れたその群集は…九つの部族であった。彼らは異教徒の群れを離れ、先祖がいまだかつて住んだことのない土地に行き、自国で守ることのできなかった規則をせめて守るようにとの計画を互いに持ち合って、さらに遠くの国へ向かった。…それはアルザレト(もうひとつの土地あるいは果ての地)という地方であった。彼らは最後までそこに住み…」

明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド)は、こうした旧約聖書などの記述をもとに、彼ら、あるいは彼らの一部が日本にやってきたのではないか、という説を立てました。

そして日本と古代ユダヤとの相似性の調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化し、1878(明治11)年に“The Epitome of The Ancient History of Japan(日本古代史の縮図)”を出版しました。

マクラウドは、スコットランド・スカイ島出身とされる人物です。日本に来る前は、ニシン業界に身を置いていとされています。しかし生没年含めてその出自には不明な点が多く、ただ現存する著書の献辞に「スコットランド自由教会」の聖職者が使う表現があることから同派の宣教師だったと推測されています。

マクラウドは、日本で最初の王と呼ばれていた男が“オセー”という名で、これが紀元前730年に王位に入り紀元前722年に死亡したとされるイスラエルの最後の王“ホセア”だと主張しました。

一方、日本国を建国したとされる神武天皇は紀元前660年に即位したとされています。神武天皇が“オセー”という別名を持っていたという歴史的な資料はありませんが、年代も近く時代的には合っています。

またマクラウドは、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由して日本の鞍馬寺へ渡ったとし、またダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に留まったと主張しました。これら古代イスラエルと日本のつながりを証明するものとして、ほかにもユダヤ教と神道それぞれの宗教儀式の類似点などを示しました。

明治後期になりこの説に英語教師の佐伯好郎や牧師の川守田英二らが同調し、1930年代には対日禁輸政策を取る米国への対応策の一環として立案された「河豚(フグ)計画」などに利用されました。

フグ計画とは1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画です。1934(昭和9)年に実業家で日産コンツェルン創始者の鮎川義介が提唱したもので、1938(昭和13)年の五相会議で政府の方針として定まりました。実務面では、陸軍大佐の安江仙弘、海軍大佐の犬塚惟重らが主導しました。

計画の内容としては、ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設するというものでした。しかし日本はその後ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めていったために計画は形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり、しまいには頓挫しました。

「河豚」の呼称は、1938年に行われた犬塚大佐の演説に由来します。ユダヤ人の経済力や政治力を評価していた犬塚ですがその一方で「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」とし、美味ではあるものの猛毒を持つ「河豚を料理するようなものだ」と説明したのです。

この当時、ユダヤ人社会は日本と比較的友好的な関係にあり、一方、日本の満州国建国などによってアメリカと日本との外交的対立は先鋭化してきていました。そこで同計画書において提示されたのが、世界に散らばるユダヤ人とアメリカの双方の関心を惹く方法でした。

具体策としてはアメリカのラビを日本に招聘し、ユダヤ教と神道との類似点をラビに紹介するといったことやユダヤ教を日本人に紹介して理解を深めてもらうといった案が浮上しました。そしてこれを実践していく上において、日ユ同祖論はうってつけの背景論でした。

結果としてこの計画はとん挫しましたが、第二次大戦後、新宗教団体の「キリストの幕屋」(1948年設立)が再びこの説を支持してイスラエルに接近しました。1970年代には英文冊子を作成して同国大統領に進呈するなどして同説を広め、さらに在米ユダヤ人ラビ(ユダヤ教における宗教的指導者)のマーヴィン・トケイヤーがこれを大々的に宣伝しました。

トケイヤーはラビとして渋谷の日本ユダヤ教団に勤務し、1976年まで日本に滞在してユダヤと日本の比較文化論を研究していた人物です。ヘブライ語を話す皇族の三笠宮崇仁親王と親交を結び、親日家として知られていたため、彼が唱える日ユ同祖論は反響を呼びました。




以上のようにマクラウドやトケイヤーといった人物によって提唱されたのが日ユ同祖論において指摘された日本人とユダヤ人文化の類似点は多数にのぼりますが、以下にはその代表的なものを筆者の独断で整理してみました。

皇室や神道において獅子と一角獣は重要な意味を持つが、獅子はユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族であるヨセフ族の紋章である。京都御所(清涼殿)には天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があり、天皇の王冠には一角獣が描かれていたとされる古文書がある。

現在でも京都御所清涼殿昼御座奥の御帳台(天皇の椅子)の前左右には、頭頂に長い一角を持つ狛犬と角のないものが置かれており、天皇の即位に用いられる高御座の台座には獅子と一角獣(麒麟)と思われる絵が描かれている。

仁徳天皇陵とマナの壷

仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、契約の箱に収められていたユダヤ三種の神器の一つであるマナの壷(jar of manna)を形取ったものではないかと考えられる。陵墓には壷の取っ手とおぼしき膨らみが認められ、また鍵穴のように見えるが、向きを変えれば壷のようにも見える。

そもそも前方部が台形で後方が円と考えれば、これはマナの壺を象ったものとも考えらえる。鍵穴という解釈は、長い時間を経て誤った認識が持たれるようになったものである。

神道の儀礼・様式

日本もユダヤも水や塩で身を清める禊の習慣がある。また、ユダヤ教では祭司がヒソップ(ヤナギハッカ属の香草)という香草や初穂の束を揺り動かしてお祓いし、日本の神社の神官も榊の枝でお祓いをする。

ユダヤのお祓いは、イスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念し、ヒソップで子羊の血を門に塗り、浄化したことに由来する(過越しの祭り)。日本では古来から植物には神が宿ると考えられており、榊の枝先に神が降りてヨリシロになると考えられたことに由来する。

それぞれ由来は異なるが、両者とも神社(神殿)において植物を用いてお祓いを行い邪気を払うといったところに類似点がみられる。なお、ユダヤのメズサ(護符)と日本のお守りは似ている。

神社の施設の様式

イスラエル民族がエジプトを出て放浪していたころの移動式神殿である幕屋や古代イスラエル神殿(エルサレム神殿)では、入口から、洗盤(水で洗う場所)、至聖所、聖所 と並んでいる。神社においても、入口から手水舎、拝殿、本殿 と並んでおり、構造が似ている。

古代イスラエル神殿は木造建築であり、建築後に賽銭箱が備えられた。また、幕屋の神殿の内部は赤色だったとされており、神社にも赤色の神社がある。生後30日ごろに赤ちゃんを神社(神殿)初詣でさせるお宮参りの習慣は、日本とユダヤにしか見られないものである。

正月の鏡餅

日本の正月とユダヤの過越しの祭(後述)はよく似ている。過越しはユダヤの祭日のうち最古かつ最大の行事であり、新年の祭りでもある。日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。過越祭は全部で7日間と規定されており、日本の正月と同期間である。

過越祭の日だけは普段と食べるものが違う。普段はふっくらとしたパンを食べるが、この日に限って、「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種なしパンは日本でいう餅に似ている。丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるという風習は、同じく餅を重ねて飾る鏡餅(かがみもち)と似ている。

赤い(朱塗りの)鳥居

トリイは、ヘブライ語のアラム方言で門という意味であり、日本の神社のトリイ(鳥居)と音が同じである。過越の前にはヒソップで羊の血を門に塗るという風習があることから、これが日本の朱塗りの鳥居となったと考えられる。

なお、羊の血を門に塗った理由は、エジプト脱出の前日、“殺戮の天使”がエジプト全土に襲いかかって来たため、モーセが、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせて災いを防いだことに由来する。モーセはこのとき災いが通り過ぎるまで静かに家の中で待つように指示したが、これが「年越し」のルーツになったと考えられる。

アーク(聖櫃)と神輿

古代ユダヤの聖櫃(アーク)と日本の神輿(みこし)は、良く似ている。アークはモーセが神から授かった「十戒石板」(モーセの十戒)を保管するための箱である。全体に黄金が貼られており、旧約聖書」の“出エジプト記”にはそうしたアークの作り方が書かれていて、それは日本の神輿の作り方と似ている。

また、アークの上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっているが、日本の神輿もその上には鳳凰(ほうおう)と言われる鳥が配されていて大きく羽を広げている。

さらにアークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、神官が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てる習慣があり、日本にも同様の風習がある。アークを担ぐための2本の棒は絶対に抜いてはならないとされており、祭りが終わった後も、棒を差し込んだまま保管されている。日本の神輿の担ぎ棒も差し込んだままである。



以上のように、日本古来の神道に関する造作物や習慣には、旧約聖書を緒元としたユダヤ文化とよく似たものが多くみられることが、日ユ同祖論の根拠となっています。ほかにもここには書かなかった多数の類似点があります。

そうしたユダヤ文化が日本に入ってきたのが本当だとして、それでは、その文化を持ち込んだのは誰なのでしょうか。かつての失われた10支族が、直接日本にやってきてそれらをもたらしたのでしょうか。

実は古代の日本において“秦氏”と呼ばれていた一族がその古代イスラエルの失われた10支族の末裔ではないかという説があります。

秦氏とは、4世紀後半、第15代応神天皇のときに、大陸から渡来してきたと考えられている一族で、この時数千人とも1万人ともいわれる多数の人々が日本に帰化してきたとされます。その一部は大和(奈良)の葛城に、多くは山城(京都南部)に住みましたが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったとされます。

日本に定住後、秦氏は非常に有力な一族となり、794年に作られたとされる平安京は、事実上この秦氏の力によって完成したといわれています。仁徳天皇陵のような超巨大古墳の建築にも秦氏の力が及んでいたと考えられており、この陵墓とユダヤのマナの壷の類似点は上で述べた通りです。

京都の八坂神社もまた秦氏の本拠地といわれています。八坂神社を信奉する氏子たちが奉じる祇園信仰の風習には、古代ヘブライの信仰のものと類似している点がいくつかあり、そのひとつが「蘇民将来」という護符です。

八坂神社で祇園祭の行われる7月には社頭や各山鉾にて「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が授与され、これが「蘇民将来の護符」と呼ばれるものです。

厄除けのご利益があるとされ、紙札、木札、茅の輪、ちまき(円錐形)、角柱など、さまざまな形状・材質のものがありますが、共通点としては「蘇民将来」の文字と「晴明紋」が記されていることです。晴明紋とはすなわち、ユダヤ教のシンボルである五芒星であり、別名ダビデの紋章といわれるものです。

また八坂神社の八坂(Yasaka)は、10支族の一つであるイッサカル族のアラム語における呼び名、“Yashashkar(ヤシャッシュカル)”が語源とする説もあります。こうしたことが秦氏が日本にユダヤ文化を持ち込んだのではないかとする根拠となっています。

もともと秦一族は、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰し、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住み、アッシリア王国(現在の北イラクあたりにあった)が興隆した以降、中東の共通言語となったアラム語を話していたとされています。

弓月国があった場所は、現在の中国とカザフスタンの国境付近と推定され、その都は、現在の中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区北西部の伊寧(いねい)付近にあったとされます。弓月国には、ヤマトゥ(ヤマト)という地や、ハン・テングリ山という山がありました。

「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味です。彼らはユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされますが、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年頃から数回にわたって日本に渡来してきたとされます。

5世紀末には渡来者は2万人規模になったといい、このころの有力豪族の長であった秦酒公(はたのさけのきみ)もまた弓月国からやってきたと考えられています。

秦酒公は日本酒の醸造技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされ、さらに絹の製造技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕えました。とくにハタ織りなどの絹事業で財をなし、有力豪族となっていきました。

この秦氏が根拠地とした地は太秦(ウズマサ)と呼ばれるようになり、これはアラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach)に相当し、インド北部ではユズマサと発音します。また、ヘブライ語ではヨシュア・メシアと発音され、これは選ばれた者ヨシュアを意味し、ギリシャ語ではイエス・キリストのことです。

日本書紀(720年成立)には、皇極天皇(642〜645)に関する記述があり、この中でこのウズマサ(キリスト?)を信仰する豪族として秦河勝(はたのかわかつ)という人物が登場します。秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子にも強い影響を与えた人物ですが、秦酒公と同じく弓月国からやってきた帰化人と考えられます。

秦河勝が弓月から持って来たという胡王面(異国の王の面)は、のちに伎楽面(ぎがくめん)として仮面舞踊劇伎楽(ぎがく)で用いられるようになりましたが、この面はユダヤ人などの異国人のようであり、天狗のように鼻が高くなっています。

秦大酒のほうは748年、大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれています。秦河勝と同様に京の太秦を本拠地としていましたが、国内で勢力を伸ばすにつけ、その一派は大分の宇佐に住むようになり、一説にはこの地の神、ヤハダ神を信仰したことがのちの八幡神社宇の創設につながったともいわれます。

このヤハダはアラム語では、“YHWDH”と書き、語源は“Yahawada”で、失われた支族のユダ族を意味します。つまり、ユダ/ユダヤの語源でもあります。

宇佐に定着した秦氏の一族は八幡神社を創設しましたが、これが712年に官幣社(朝廷の正式神社)となり、現在までも受け継がれている宇佐神宮です。現在、全国にある八幡宮の総本社であり古くから皇室の崇敬を受けている神社です。

この八幡神社(宇佐神宮)は秦大酒が大蔵長官になった翌年の749年頃から急に勢力を持ち始め、やがて奈良の平城京に上京するとともに全国にその分祀が置かれるようになりました。このころはじめて神輿を作成したとされ、それのもとになったのがアークではないかというわけです。

上でもふれたとおり、秦氏は平安京の造成に尽くしたとされます。794年に行われたこの平安京遷都は仏教勢力から逃れるためだったとも言われています。その直後に京都で祇園祭が始まっていますが、祇園信仰の風習には蘇民将来の護符などがあり、これが古代ヘブライ由来のものと考えられるといったことも上で述べました。

また、「山城国風土記」に記述がみられる秦氏の豪族のひとり、秦伊侶具(はたのいろぐ)は、稲荷神社の創設者といわれています。「イナリ」という発音は、“JNRI”または“INRI”ではないかとされ、これはユダヤの王・ナザレのイシュア(ヨシュア)であって、ローマの公用語であったラテン語ではイエス・キリストを意味します。




秦氏は伊勢神宮の遷宮にも関与したとの説もあります。現在伊勢市に鎮座する伊勢神宮は現在地へ遷る前には、平安京内にある「元伊勢」に一時的に祀られていたと考えられており、元伊勢のひとつとされる松尾大社(京都府京都市西京区)は秦氏の一族のひとり、秦都理(はたのとり)が創建しました。

この松尾大社は、松尾神を酒神として祀っています。松尾大社の由緒には、これは渡来種族である秦氏が酒造技術に優れたことに由来すると書かれており、上で述べた「秦酒公」との関連が指摘されています。

さらに京都太秦の大酒神社は、その名も「ウズマサ明神」を祀っていますが、古くは大辟神社(おおさけじんじゃ)と書き、大辟は中国語でダヴィと発音することから、ダビデ紋章、ダビデ王との関連が取沙汰されています。

このようにかつての平安京であった京都には秦氏や古代ユダヤにまつわると考えられる数々の痕跡があり、この当時の天皇家がその影響を受けたことは確かです。平安京に遷都をした桓武天皇は古代ヘブライの燔祭(はんさい)の儀式を行なっていたという説もあります。

この儀式は、古代ユダヤ教における最も古く、かつ重要とされた儀式で、生贄(いけにえ)の動物を祭壇上で焼き、神にささげるというものです。秦氏が持ち込んだ風習に違いありません。

平安京当時の遺跡からは、「六葉花」という六角形の花の文様を形どった瓦があちこちから出土しており、平安京のシンボルとして多用されていたのではないかとする説があります。現在の京都府や京都市の府章・市章は、その平安京のマークを図案化したものだといわれており、これもまたダビデの紋章(六芒星)が原案だと言われています。

さらに、平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム(平安の都)」であり、これすなわち、古代イスラエルの都ヘブライの聖地「エル・サレム」です。名称の類似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京とよく似ています。ただ平安京は中国の洛陽を建設のモデルにしたという学者が多いのは確かです。

このように日本とユダヤの歴史的・宗教的な類似点を列記してくると、かつての失われた10支族の末裔が秦氏であり、その秦氏の血が元からの日本人と混じりあって現在に至っているというのは本当のことのように思えてきます。

実は、こうした類似点を背景に、分子人類学的調査も行われています。これは分子生物学を人類研究に応用して、ヒト集団の遺伝的系譜やその多様性、疾患との関連性を検討するものです。その方法のひとつは、ヒトのDNAや、人から人へと感染するウィルス(JCウイルスタイプなど)を民族的に追跡するというものです。

現代日本人を対象として行なわれたDNA調査の結果によれば、日本人の1~2%に白人系遺伝子が存在している可能性があるとされており、JCウイルスタイプによる調査でも、北海道を除く日本人の約2%に白人系JCウイルスタイプが見られたといいます。

ただ、白人といってもそれがユダヤ人と証明されたわけではなく、こうした結果だけで、日ユ同祖論を証明することはできません。しかし、日本とユダヤの文化類似を考える上では興味を引かれる研究結果といえます。

とはいえ、日本人とユダヤ人のルーツが同じであるとする説は、一般的にはあまりにも突飛なかんじがしますし、学問的見地からも見直す余地が多数あるとする指摘もあります。当然でしょう。

日本にはヘブライ語やアラム語などの古代の中東言語を専門的に比較、研究する大学や公的機関はありません。このため単語や音に類似を見つける事が出来ても検証不足で、関連を決定付ける事は不可能だという研究者もいます。



ただ、日本の文化とユダヤの文化の両方を知る識者の中には、感覚的に日本民族とユダヤ民族の民族性は良く似ているとする人も多くいます。キリスト教思想家で聖書学者だった内村鑑三(1861~1930))やイスラエルの歴史学者でヘブライ大学名誉教授、イスラエル日本学会名誉会長のベン・アミー・シロニー(1937~)などがそうした人たちです。

アメリカに留学し、英語にも堪能だった内村は「代表的日本人“Representative Men of Japan/Japan and the Japanese”」という本を書いており、この中で幕末の志士たちが信奉していた陽明学はキリスト教に近いものだと説明しています。形骸化したそれまでの朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いたのが陽明学です。

江戸時代の支配層は保守的で普遍的に秩序志向にある朱子学を好み、このためキリスト教に近い考え方をする陽明学を弾圧したとする研究もあります。実際、体制に反発する人々に好まれ、正義感に囚われて革命運動に走った者の中に陽明学徒が多かったのは事実です。

大塩の乱を起こした元与力大塩平八郎や、倒幕運動した幕末維新の志士を育てた長州藩の吉田松陰も陽明学者を自称していました。西郷隆盛もまた陽明学に影響を受けていたと内村鑑三は書いており、その西郷無しには維新革命は起こらなかったでしょう。

陽明学に似ているとされるキリスト教とユダヤ教は現在では異なる宗教とみなされていますが、同じく古代ユダヤにルーツを持ちます。そうしたユダヤ的な感覚が幕末・明治以降、日本を変える原動力になったとすると、やはり日本人にはそうした血が流れているのだなと、素直にそう思えたりもします。

かつての失われた10支族である北王国の民は、鋳造の「金の子牛」の像を神前において王国の祭祀の拠り所としていたそうです。

神の命を受け、偶像崇拝を諫める立場にあったモーセはこれを怒り、金の子牛を燃やしてしまいました。そしてそれを粉々に粉砕して水に混ぜ、イスラエルの民衆に飲ませた上で、偶像崇拝に加担した民衆の殺害を命じました。このとき死んだ民衆の数は3千人に及んだといいます。

もし、そうした北王国の民の血を継いでいるのなら、きっとあなたも金の子牛が好きに違いありません。あなたの家にあるのはもしかしたら豚の貯金箱かもしれませんが、そっとそれを胸に押し当てて目を閉じてみてください。金の子牛が脳裏に浮かんで来たら、きっとあなたの前世はユダヤ人に違いありません。