admin のすべての投稿

吉ふたつ

ヒガンバナが咲く季節になりました。

学名はリコリス・ラジアータといい、リコリスはギリシャ神話の女神・海の精の名、ラジアータは「放射状」という意味です。花が咲いたとき放射状に大きく広がっている様子は、クモの巣に見えなくもなく、英語では、レッドスパイダーリリーといいます。

秋の彼岸のころ、茎の先に強く反り返った鮮やかな花弁を広げるこの花は、葉は一切なく、花が終わって晩秋になってからようやく葉を伸ばし、年を越して他の植物が青々と茂る夏前にその葉が枯れるという、かなりの変わり者です。

彼岸花(ヒガンバナ)の名の由来は、秋の彼岸頃、突然に花茎を伸ばして鮮やかな紅色の花が開花することに由来しますが、これを食べた後は死(彼岸)が待っているからだともいいます。

たしかにこの花は毒を持っています。球根は鱗茎と呼ばれる鱗のような葉が重なり合ったもので、ここにアルカロイドという物質を含んでいて、口にすると流涎(よだれ)や吐き気、腹痛を伴う下痢を起こします。ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こし、最悪の場合は死に至ることもあるそうです。

そのためか、葬式花、墓花、死人花(しびとばな)、地獄花、幽霊花、火事花、蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨て子花、灯籠花、天蓋花(仏像や住職が座っている上に翳される笠状の仏具)などなど、各地で不吉な名で呼ばれています。

一方、別名の曼珠沙華(マンジュシャゲ)は梵語(サンスクリット語)で「赤い花」「葉に先立って赤花を咲かせる」といった意味です。釈迦が法華経の悟りを得た際、これを祝して天から降ってきた花(四華)のひとつが曼珠沙華であり、天上の花です。

同じ花なのに片や死の世界の花を意味し、他方では天国に咲く花とされているという不思議な植物でもあります。

日本には有史以前に中国大陸から持ち込まれたようです。稲作が日本に伝えられたとき、土と共に球根が混入してきて広まったと考えられていますが、土に穴を掘る小動物(モグラ、ネズミ等)を避けるために有毒な球根をあえて持ち込み、畦や土手に植えたのだとする説もあります。

球根は有毒ではありますが、適切に用いれば薬になり、また水にさらしてアルカロイド毒を除けば救荒食(きゅうこうしょく)にもなります。これは、飢饉や災害、戦争に備えて備蓄、利用される代用食物のことで、栃(とち)や椎(しい)・楢(なら)などの木の実や蘇鉄(そてつ)の実などもそれです。

熊本城を作った加藤清正は籠城戦に耐えられるように、畳の芯や土壁の繋ぎに芋茎(里芋の茎)を埋め込んで救荒食としました。また壁にはかんぴょうを塗り込み、堀にはレンコンを植えていたといいます。

このほか、城内のあちこちにアカマツを植えさせました。アカマツの幹から剥ぎ取った樹皮は、コルク化した外樹皮を除いて軟らかくなるまで煮ると食べることができます。またこれを餅や米に混ぜ込むことで嵩増しができます。マンジュシャゲも同様に毒抜きをすれば、救荒食になります。

日本では北海道から南西諸島まで全国で見られます。土手、堤防、あぜ、道端、墓地、線路際など人手の入っているところに自生しますが、もともとは人の手によって植えられたものがほとんどです。害獣から作物を守るために田畑の縁に沿って植えられることも多く、それらが列をなす景観は秋の風物詩です。

山間部の森林内でも見られる場合がありますが、これはそうした場所がその昔人里であった可能性を示すものです。仏教に由来する花であることから、かつては墓地、あるいは寺院の周りに好んで植えられたようで、それらが荒廃した後も生き残っているものと想像されます。




ヒガンバナの名所として国内最大級のもののひとつに、埼玉県日高市にある巾着田があります。500万本のヒガンバナが咲き誇り、最盛期には最寄り駅である西武池袋線高麗駅に多数の臨時列車が停車し、彼岸花のヘッドマークをあしらった列車が運行されたりします。

また神奈川県伊勢原市にある日向薬師付近でも100万本のヒガンバナが咲きます。埼玉県秩父郡横瀬町にある寺坂棚田の畦にも100万本のヒガンバナが咲くそうです。

愛知県半田市の矢勝川の堤防にも多数のヒガンバナが咲きます。一説には200万本ともいわれ、その近くには童話「ごんぎつね」の作者、新美南吉を偲んで建てられた新美南吉記念館があります。

この地は南吉の出身地です。「ごんぎつね」は、それら旧知多郡半田町や岩滑(やなべ)地区の矢勝川、隣の阿久比町にある権現山を舞台に書かれたといわれています。「城」や「お殿様」、「お歯黒」という言葉が出てくることから、その設定は江戸時代から明治頃と考えられています。

「ごんぎつね」は筆者である南吉が幼いころに老翁から聞いた話という体裁をとっています。小学校の教本として使われており、どんな話か知っている人も多いでしょうが、一応紹介しておきます。

ひとりぼっちの小狐「ごん」は村へ出てきては悪戯ばかりして村人を困らせていました。ある日ごんは、村の兵十(ひょうじゅう)が川で魚を捕っているのを見つけ、いつものようにいたずら心から彼が捕った魚やウナギを逃がしてしまいます。

それから十日ほど後、兵十の母親の葬列を見たごんは、あのとき逃がしたウナギは、実は兵十が病気の母親のために用意していたものだったと悟り、後悔します。

母を失い、自分と同じようにひとりぼっちになった兵十に同情したごんは、ウナギを逃がした償いにと、イワシ売りの籠からイワシを盗んで兵十の家に投げ込みます。しかしその翌日、イワシ屋に泥棒と間違われて兵十が殴られていた事を知り、ごんは反省します。

ごんは自分の力だけで償いをすべきだと思い直し、その後自分で採ってきた栗やマツタケを兵十の家に届け始めます。しかし兵十はその意味が判らず、知り合いの加助の言葉を信じて神様のおかげだと思い込むようになります。それをこっそりと聞いていたごんは、割に合わないなと、ぼやきながらも届け物を続けます。

その翌日もごんは、栗を持って兵十の家に忍び込みます。兵十は物置でなわをなっていましたが、ふと目を上げると家に入っていく子狐を目にし、あのウナギを盗んだ狐だと気付きます。またいたずらに来たのかと納屋にあった火縄銃を取りに行き、火薬を込め、家の戸口から出ようとしていたごんを撃ってしまいます。

兵十が土間に倒れているごんに駆け寄ったとき、そばに栗が固めて置いてあったのが目に留まり、はじめてこれまでも栗や松茸を持ってきていたのがごんだったことを知ります。

「ごん、おまえだったのか。いつも、栗をくれたのは」と語りかける兵十に、ごんは目を閉じたままうなずきます。兵十は火縄銃をばたりと取り落とし、その筒口から青い煙が出ているところで物語は終わります。

出生地である半田を舞台に新美南吉がこの物語を執筆したのは、わずか17歳の時(1930(昭和5)年)でした。彼が幼少のころに祖父から聞かされた口伝を基に創作されたとされていますが、南吉は4歳で母を亡くしており、この名作が生まれたのはその経験が深く影響したといわれています。

本名は新美正八。雑誌「赤い鳥」出身の日本の児童文学作家と知られ、代表作であるごんぎつねも最初はこの雑誌に掲載されました。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くありませんが、童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残しています。

1913(大正2)年7月30日、畳屋を営む父・渡邊多蔵、母・りゑ(旧姓・新美)の次男として生まれました。前年に生まれ、すぐに死亡した兄「正八」の名をそのままつけられましたが、母は出産後から病気がちになり、29歳の若さで他界しました。父の多蔵は再婚相手を探しはじめ、のちに酒井志んという女性と再婚しました。

その後、南吉の母の実家、新美家ではりゑの弟・鎌次郎が亡くなり、跡継ぎがなくなってしまいます。そこで南吉が養子に出されることになりましたが、当時の法律では跡取りの長男を養子に出すことを禁じていました。

そこで多蔵は既に亡くなっていたりゑの父、六三郎の後見として自らの名前を新美家に入れ、自分の孫として南吉を養子に出すことにしました。六三郎には志もという老妻がおり、南吉は血のつながらないこの祖母の息子として新美家で暮らすようになりました。




しかし、寂しさに耐えられず、5か月足らずで渡邊家に戻った南吉は、今度は多蔵の再婚相手、志んと暮らすようになります。多蔵と志んの間には異母弟の益吉が生まれていましたが、志んは南吉を実子と同じように扱い、南吉も益吉をよくかわいがっていたといいます。

やがて南吉は半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)に入学します。おとなしく体は少し弱かったものの成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与されたこともありました。卒業式では卒業生代表として答辞を読みましたが、この答辞は教師の手を入れず、南吉一人で書き上げたものだったといいます。

小学校卒業後に入学した中学は、県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)でした。ここのころから南吉は児童文学に取り組むようになり、校友会誌に「椋の實(むくどりのみ)の思出」「喧嘩に負けて」などの作品を出品しています。その後も様々な雑誌に作品を投稿し始めました。

半田中学校卒業直前、「赤い鳥童謡集(北原白秋編)」を読んで感銘を受けます。卒業後の希望は大学に行き、児童文学者の大西巨口(きょこう・主に名古屋で活躍した)や菊池寛のように新聞記者で生計を立てることでした。その中で作品を書き、いずれは記者を辞めて文筆業だけで食べていこうと考えていました。

進学先は早稲田大学に進学を考えていましたが、息子を進学させるつもりのない父の多蔵に反対されました。経済的な理由からだったと思われます。仕方なく岡崎の師範学校を受験しますが、結果は不合格。体格検査で基準に達していなかったためといわれています。

そこで、小学校時代の恩師の伊藤仲治をたずねたところ、母校の半田第二尋常小学校を紹介され、代用教員として採用されることになりました。

またちょうどこのころ、「赤い鳥」5月号に南吉の童謡「窓」が採用され、掲載されます。主催者の北原白秋を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続けるようになりました。その結果、さらに8月号には童話「正坊とクロ」が赤い鳥に掲載されました。

その後代用教員を退職。上京して東京高等師範学校を受験しますが今度も不合格。しかし創作意欲は衰えず、童謡同人誌「チチノキ」に入会。ここで白秋の愛弟子の巽聖歌(たつみせいか)や与田凖一と知り合いました。巽は童謡「たきび」の作詞者として知られる童話作家で、依田は昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った人物です。

巽と仲良くなった南吉は、このころ彼の紹介で北原白秋の家を訪ねています。白秋との対面を果たし感激した南吉ですが、さらに巽から卒業生の半数が教職に就いているという東京外国語学校の受験を勧められます。教師になれるなら夢だった新聞記者にもなれるだろうと受験を決めます。

こうして1932(昭和5)年3月、東京外国語学校英語部文科を受験した南吉は、志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐりぬけ見事合格を果たしました。寮のある中野区上高田には巽の他、与田凖一、藪田義雄(白秋の伝記などを書いた)も転居し、南吉は友人に囲まれて充実した学生生活を送るようになります。

入学前には「赤い鳥」に「ごんぎつね」が掲載されるという喜び事もありました。このころから南吉は白秋指導のもと童話を創作するようになり、巽と依田も新美南吉を世に送り出すことに尽力しました。「赤い鳥」にはそうした後押しを受けた南吉の作品の数々が掲載されるようになっていきます。

1934(昭和7)年、南吉は第一回宮沢賢治友の会に出席しました。賢治はその前年に亡くなっていましたが、彼は早くから賢治の作品を読み高く評価していました。この会は賢治没後に開かれた作品鑑賞会です。



ところが、それに出席の直後、南吉は喀血します。結核でした。すぐに実家に帰り1か月あまり療養したところ小康を得、4月に学校に戻りました。その後も比較的症状は軽かったことから学業は続け、1936(昭和9)年3月、東京外国語学校を卒業します。

東京で就職活動を始めた南吉ですが、この年は不景気だったこともあり、外大で教員免許を取らなかったことも災いして就職は困難を極めました。いろいろ探し回った結果、東京土産品協会という小さな会社に採用が決まり、英文カタログを作成する仕事を任されます。しかし激務の上月給は40円と安いものでした。

さらに、このころ病が進行し、二度目の喀血で倒れ1か月寝たきりの生活になります。幸いなことにすぐに近くには巽が住んでおり、夫妻の献身的な看病で多少元気になりました。しかし仕事はあきらめ、帰郷して療養に専念することにしました。

ただ、実家も裕福ではなく療養中でもあって金はどんどん出ていきます。家計のためにと半田にもほど近い知多半島の南部にあった河和第一尋常高等小学校に務めますが、代用教員であったためにすぐに職を失います。

しかしその直後新しい職をみつけました。杉治商会という飼料生産会社で、その生産高は全国の45%を占めて第一位で、全国に支店、工業を持つ大企業でした。

入社後、そこの鴉根山畜禽研究所というところに配属された南吉は、寄宿舎に住み込み、鶏の雛を世話をする仕事でを与えられました。ところが、この会社は大会社にもかかわらずその研究所の職場環境は劣悪で、20円という薄給の上、休みは月2回しかとれませんでした。結核を囲い体調も悪かった南吉はわずか4カ月でここを辞めています。

その後、半田中の恩師で安城高等女学校の校長になっていた佐治克己の働きかけで安城高等女学校への採用が決まります。1年生の学級担任となり英語や国語、農業を教えるほか図書係や農芸・園芸部長も務めました。給料は70円と厚遇でしたが、安城は半田の隣町でありながら通勤に1時間半もかかるため、翌年町内に下宿を見つけて移り住みました。

このころは体調もよく、3年生の修学旅行の引率として関西へ行ったり、同僚と富士登山を果たしたり、熱海や大島へも行くなど充実した年でした。ところが翌年、交際していた幼馴染の中山ちゑが青森県の知人宅で体調を崩して急死。その葬儀で南吉は男泣きに泣き、その後1か月は腑抜けのような状態だったといいます。

一方この年は彼の作品が次々雑誌に載りました。翌年はじめからは良寛の伝記を書き始め、10月に「良寛物語 手毬と鉢の子」が出版されます。これはヒットし、2万部も出版された結果、南吉は1300円もの印税を受け取りました。現在では3~400万円ほどの大金です。

このころ、女学校の教え子の兄の依頼で早稲田大学新聞に「童話に於ける物語性の喪失」を寄稿しています。これは長年童話を綴ってきた南吉の児童文学論の集大成ともいえるような内容でしたが、その執筆後から体調が悪化。さらには腎臓病を患って10日あまりも学校を欠勤することになりました。

その後も体調不良が続いたため、11月中旬には岩滑の実家に戻りますが、翌月には血尿が出て、このときついに南吉は死を覚悟しました。翌年1月、病院で診察を受け腎臓炎と診断された南吉は日記にそのころの死を見つめた思いを綴っています。

しかしあいかわらず創作意欲は活発で、3月末から5月末までの2か月の間に代表作の「ごんごろ鐘」「おぢいさんのランプ」「花の木村と盗人たち」「手袋を買いに」など、のちに代表作とされる童話を次々書き上げていきます。そしてこの年の10月はじめての童話集「おぢいさんのランプ」を刊行。

南吉はこの本で得られた印税で女学校職員全員に鶏飯をふるまい、職員室にラジオを寄付したりしました。しかしこのころから体調はさらに悪化し、喉が痛み声も出にくくなります。この年の11月、敬愛していた北原白秋が死去。明けた1943年の初めからは女学校を休むようになり、長期欠勤した結果、2月に安城女学校を退職しました。

退職後は咽頭結核のためほとんど寝たきりになります。既に死を覚悟していた南吉は、巽聖歌に原稿と病状を手紙にして送るとともに、このころ遺言状も書いています。南吉の病気を知らなかった巽は手紙の内容に驚いて岩滑を訪れ、離れで寝ている南吉と対面。南吉に頼まれて原稿の整理などをしています。

3月20日、恩師伊藤仲治の妻が見舞いにきましたが、南吉はほとんど声が出ない様子で、「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と語りました。3月22日午前8時15分、死去。29歳8か月の生涯でした。

新美南吉




生涯独身の南吉でしたが、その生涯に4人の女性との交際経験がありました。ただ、いずれも実を結ばずに終わっています。

そのうちの一人である木本咸子(みなこ)は、新美南吉の初恋相手です。18歳の頃、半田第二尋常小学校に代用教員として勤務中に交際を始めましたが、4年後に別れています。また2度目の恋人、山田梅子は24歳の頃、河和第一尋常高等小学校に代用教員として勤務中に交際を始めた相手ですが、ここを退職後疎遠になり、こちらとも翌年別れています。

上でもふれた中山ちゑは南吉の幼馴染です。子どもの頃から親しく遊んでいた彼女とは26歳の頃に再開して愛を深めあうようになり、結婚まで考えていましたが、翌年に急死したためその望みは叶いませんでした。その反動なのか、ちゑの死後の翌年、教え子の岩月みやという女性に結婚を申し込んでいますが、齢が離れすぎているという理由で断られています。

新美南吉は、地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治とよく比較されます。

宮沢賢治は独特の宗教観・宇宙観を持ち、擬人化した動物なども登場させてシニカルで幻想的な物語を展開するのに対し、南吉の作品の主題はあくまでも人間であり、人の視線の先にある素朴でほのぼのとしたエピソードをさらに味わい深く脚色したり膨らませるといった作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれて好対照をなしています。

作品の多くは、故郷の岩滑新田(やなべしんでん)を舞台にしたものが多く、このため新美南吉は現在、半田市の名誉市民にもなっています。出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られています。

新美南吉をはじめ多くの童話作家の登竜門となった「赤い鳥」は、1918(大正7)年7月1日創刊で1936(昭和11)年8月に廃刊になるまでに196冊が刊行されました。

創設者の鈴木 三重吉曰く、「低級で愚かな政府」が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話や歌を世に広めるための一大運動と宣言、発刊された「赤い鳥」への反響は大きく、それに賛同した支持者や投稿者によってこの文化運動はやがて「赤い鳥運動」とも呼ばれるようになっていきます。

創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声といったこの時代を代表する文人らの筆が寄せられるとともに、表紙絵は黒田清輝、藤島武二に師事した洋画家、清水良雄が描きました。

その後も菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風といった一流作家が作品を寄稿し、中でも新美南吉が憧れた北原白秋は「赤い鳥」において自作の童謡の発表を行いながら、寄せられる投稿作品の選者の役も担うなどの重要な役割を果たました。

創設者の鈴木三重吉という人は、広島県広島市出身の小説家で、広島県広島尋常中学校を出ており、これは現在の県立広島国泰寺高等学校で、私の母校です。

1882(明治15)年9月29日、広島市猿楽町(現エディオン本店がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれましたが、母は三重吉が9歳の時に亡くなっています。三重吉が15歳の時「少年倶楽部」に投稿した「亡母を慕ふ」にその母のことが書かれています。

1901(明治34)年、京都の第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。ここで夏目漱石の講義を受けるようになります。ところが神経衰弱を煩い、静養のため大学を休学して広島に過ごしているときに完成させたのが「千鳥」という作品でした。

師である夏目漱石にその原稿を送ったところ賞賛され、漱石の友人であった正岡子規の弟子、高浜虚子にもそれが送られ、雑誌「ホトトギス」5月号に掲載されました。以降、大学に復学して漱石門下の一員としてその中心的な活動を行うようになります。

1908(明治41)年、東京帝国大学文学科を卒業。成田中学校の教頭として赴任して英語を教えるようになりますが、3年後に退職して上京、新宿の海城中学校の講師となりました。これは海軍兵学校へのエリート人材供給のための予備校として創立された学校で、古い歴史を持つ伝統校として現在でも都下有数の有名校とされています。

同年5月、三高時代に知り合ったふぢと結婚。2年後の1913(大正)2年からは掛け持ちで中央大学の講師となります。翌年より、「三重吉全作集(全13巻まで刊行)」の刊行を始めるなど数々の作品を執筆して小説家としての評価を上げましたが、片や自身の小説家としての行き詰まりを自覚し、中央公論へ「八の馬鹿」を発表以降、小説の筆を折りました。

1916(大正)5年、三重吉34歳のころ、三重吉宅には河上房太郎という青年が事務の手伝いに来るようになっていましたが、その縁で妹の河上らくも手伝いに来るようになり、このらくとの間に、長女すずが生まれました。三重吉には既に妻がいましたから、らくとのことはつまり「お手付き」ということになります。

こうして生まれた娘のために童話集「湖水の女」を創作したことをきっかけに、三重吉は児童文学作品を手掛けるようになりますが、その矢先に妻ふぢが亡くなります。ふぢは第三高校時代に付き合っていた京都の青物屋の娘でしたが、その結婚はわずか4年でした。

翌年から「世界童話集」の刊行を開始。このとき清水良雄が装丁・挿絵を担当し、児童文芸誌「赤い鳥」へ続く親交が始まります。続いて「赤い鳥」を創刊。海城中学は辞職、中央大学を休職して本格的に児童文学誌「赤い鳥」に力を入れ始めました。

「赤い鳥」では文壇の著名作家に執筆を依頼。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や有島武郎の「一房の葡萄」といった名作が生まれるとともに、北原白秋らの童謡、小山内薫、久保田万太郎らの児童劇など大正児童文学の名作の数々が本誌から誕生しました。当時、軍拡化で教訓色が強まっていた児童読み物は、こうして質の高い文芸としてその地位を高めていきました。

39歳の時、三重吉は小泉はま(濱)と再婚。その後もますます児童の情操教育の手本としての赤い鳥の内容の充実に努めますが、その延長で46歳の時には「騎道少年団」を設立しています。これは乗馬による少年の精神教育を主旨とする団体です。

さらに53歳の時、「綴方読本」を刊行。こちらは赤い鳥の「綴方投稿欄」の中で、選と選評というかたちで子供たちに行っていた文章作法の指導を集大成したものでした。

しかし、それが刊行される直前から喘息のため病床に臥すようになり1936(昭和11)年末には病状が悪化。東京帝国大学附属病院真鍋内科へ入院しますが、同年6月27日・午前6時30分、肺がんのため死去。53歳でした。

鈴木三重吉



三重吉の死去と共に、「赤い鳥」は同年8月号で終刊しましたが、同年10月、「赤い鳥 鈴木三重吉追悼号」が刊行されています。「赤い鳥」は18年間もの間刊行を続け、最盛期には発行部数3万部を超えたと言われます。学校や地方の村の青年会などで買われたものが回し読みされたものも多く、現在ならもっと売れていたでしょう。大ベストセラーです。

この間、排出された童話作家は、新美南吉以外にも巽聖歌や坪田譲治がおり、表紙を飾った童画家、清水良雄も高い評価を得ました。ほかに童謡差曲家として成田為三、草川信らがおり、1918年11月号に西條八十の童謡詩として掲載された「かなりや」には、のちに成田為三によって曲がつけられ、1919年の5月号に楽譜の付いた童謡がはじめて掲載されました。

唄を忘れた 金糸雀(カナリヤ)は
後(うしろ)の山に 棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
背戸(せど)の小薮(こやぶ)に 埋(い)けましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
柳の鞭(むち)で ぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀は
象牙(ぞうげ)の船に 銀の櫂(かい)
月夜の海に 浮(うか)べれば
忘れた唄を おもいだす

この歌にはそれまでの唱歌にありがちだった単純な有節形式を壊す試みがなされており、これによって芸術的な香気が高まり、詩的また音楽的にも従来と異なった響きを持っていたことから、大評判となりました。

当初、鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、「わらべ歌」「子供の歌」という程度に考えられていた童謡に旋律を付けることは考えていませんでした。しかし歌と楽譜の同時掲載という形式が大きな反響を呼んだことから、元々文学運動として始まった赤い鳥運動は、音楽運動としての様相をも見せるようにもなりました。

以後、毎号、芸術味豊かな作品(=文学童謡)を掲載するようになります。この後、多くの童謡雑誌も出版されたことで、子供の情操教育のために作った芸術的な歌としての童謡普及運動、あるいはこれを含んだ児童文学運動はこの時代の一大潮流となっていきました。

さらに「赤い鳥」が刺激となって次々と子供向けの雑誌が出版されるようにもなり、三重吉の13回忌にあたる1948年(昭和23年)からは、「鈴木三重吉賞」が創設され、現在も全国の子供の優秀な作文や詩にこの賞が贈られています。

三重吉の遺骨は、鈴木家の菩提寺である、広島市・長遠寺(じょうおんじ)の鈴木家の墓に納められ、そのすぐ右隣には、三重吉の13回忌墓碑が建立されています。墓碑の「三重吉永眠の地 三重吉と濱の墓」の文字は、彼自身が生前に書き残したものです。

街中にある寺のためヒガンバナは多く咲いていないかもしれませんが、境内に「被爆ソテツ」があります。現地は爆心地に近く、三重吉の墓とともに戦禍を免れたようです。世界遺産、原爆ドームからもほど近い場所にあります。ぜひ訪れてみてください。

赤十字 part2

赤十字とナイチンゲールの関係

(前稿より続く)
ところで、こうした世界的な救護活動といえば、イギリスの有名な看護婦、ナイチンゲールを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

あれっ?赤十字ってナイチンゲールが設立したんじゃなかったの?という人もいるかと思いますが、これは間違いです。

ナイチンゲールは、1854年に勃発したクリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で有名になりました。病院建築でも非凡な才能を発揮し、ロンドンにナイチンゲール看護学校を設立しましたが、これは世界初の宗教系でない看護学校でした。これを記念して創設された国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日でもあります。

クリミア戦争においてナイチンゲールは、トルコの都市イスタンブールに隣接するユスキュダルのスクタリ病院の看護婦の総責任者として活躍しました。彼女の着任前、この病院の死亡率は42%もありましたが、着任後わずか半年で5%にまで減ったといわれています。

兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測されましたが、その衛生環境の改善に必死で取り組んだことが死亡率の低下に結びつきました。こうした成果を受け、ナイチンゲールの献身的な姿勢は高く評価されるようになり、この当時「クリミアの天使」と呼ばれるようになりました。

現在に至るまで看護婦さんのことを「白衣の天使」と呼ぶのもまた、ナイチンゲールに由来します。また彼女は夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人(または光を掲げる貴婦人)」とも呼ばれました。

フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910 90歳没)




もっともナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようで、本人の言葉として「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」といったものが残されています。

国民的英雄として祭り上げられることも多かったナイチンゲールですがそのことを快く思っていなかったようで、クリミア戦争が終わると、スミスという偽名を使用して人知れず帰国したと言われます。帰国後、現地で収集した克明なデータをもとに病院の状況分析を始め、数々の統計資料を作成し、病院改革のためにつくられた当時の各種委員会に提出しました。

これは高い評価を受け、特に死亡原因ごとの死者の数をひと目で分かるように工夫したグラフは、「コウモリの翼」とか「鶏の鶏冠」と呼ばれました。放射線状に伸びた数値軸上の値を線で結んだ多角形のグラフは、今日ではクモの巣チャート(レーダーチャート)と呼ばれていますが、当時はまだ円グラフも棒グラフもなかった時代であり、斬新なものでした。

こうしたことからイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者とみなす向きも多いようです。こうした新しい試みは、保健制度のみでなく、この当時のイギリス陸軍全体の組織改革にもつながっていきました。

こうした業績が評価され、ナイチンゲールは1859年にイギリス王立統計学会の初の女性メンバーに選ばれ、後にはアメリカ統計学会の名誉メンバーに選ばれています。

のちに美化された自分の偶像が世に氾濫することを嫌うようになったナイチンゲールですが、クリミア戦争で従軍看護婦をしていた当初はその名が広まることを嫌がらず、むしろ自分が「クリミア戦争における英国の広告塔となる」ことで国内における救護活動の機運が高まることを望んでいたようです。

しかし、あまりに広告塔として利用されたこともあり、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになりました。

ちょうどこのころ、ナイチンゲールのこうした態度を高く評価したのが、赤十字国際委員会の創設者の一人、アンリ・デュナンです。彼は国際委員会の名において「創造的・先駆的貢献を果たした看護婦」として彼女に記念章を贈りました。

しかし、ナイチンゲールはデュナンらの赤十字社活動には積極的に関わらず、むしろ彼らが提唱するボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していました。

これは「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」と彼女が考えていたためです。この点は後年、同じく人道主義者として高い評価を得たマザー・テレサと似ています。彼女が遺した「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という有名な言葉にもその考え方が表れています。

「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」というのがナイチンゲールの主張であり、ボランティアを理想としたデュナンらの赤十字活動を全面的に受け入れることはできなかったのでしょう。

ナイチンゲールは必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない人で、そうした何事にも自分が正しいと信じることに突き進むといった果敢な姿勢に、陸軍や政府関係者も敬意を表し、また恐れもしました。

この当時、大英博物館のすぐ近くにあったナイチンゲールの住居兼事務所は、敬意と揶揄の双方の意味を込めて関係者の間で「小陸軍省“ Little war office”」 とあだ名されていたほどです。

ナイチンゲールはその後も超人的な仕事ぶりで活動を続け、戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院(現キングス・カレッジ・ロンドン)という病院内にナイチンゲール看護学校を創立しました。その後、同種の養成学校がイギリス各地に作られ、同様の看護婦養成組織が世界中で創られるようになっていきます。




しかし、これはあまり知られていないことですが、実は、彼女自身がこのように活発な運動をしたのは、1854年にクリミア戦争が勃発してからナイチンゲール看護学校が設立されるまでのわずか6年間だけです。

献身の象徴的イメージと統計に基づく医療衛生改革で名声を得たナイチンゲールですが、クリミア戦争が終結した翌年の1857年、37歳の時に心臓発作で倒れています。

その後一時は持ち直しましたが、看護学校の運営が軌道に乗るころから虚脱状態に悩まされるようになり、死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごしました。

慢性疲労症候群と呼ばれ、現在でもその原因がよくわかっていない病気で、神経系機能障害、や免疫系・胃腸器系・泌尿生殖器系の機能障害などを引き起こし、慢性疲労によって日常生活が著しく阻害されるといわれています。

このため本の原稿や手紙を書くことがその後のナイチンゲールの活動の柱となり、晩年は年老いた親の看病などに当たっていました。しかし、1874年に父親が80歳で没し、1880年に母親が91歳で没したあとは活動も少なくなりました。1890年にはさらに姉が71歳で没し、以降はずっと自宅にいることが多くなっていました。

1910年8月13日に、ロンドン中心部のメイフェアの自宅で静かに息を引き取ったとき、ナイチンゲールは90歳でした。死去に当たり、イギリス政府から国葬が打診されましたが遺族が辞退しています。彼女は現在、ハンプシャーのイーストウェローにあるセントマーガレット教会の教会墓地に埋葬されています。遺言により墓標にはイニシャル以外何も記されていません。

赤十字設立の立役者、アンリ・デュナン



このようにナイチンゲールの名はあまりにも有名ですが、活躍した一時期を除き意外にもその生涯はひっそりとしたものでした。

実は赤十字設立の立役者、アンリ・デュナンもまた、赤十字を設立したころの華やかな活動経歴と比べ、その後送った人生は実に侘しく細々としたものでした。ただ、ナイチンゲールはその栄誉を若くして得ましたが、彼の場合はその死を目前にしてそれを受けた点が異なります。

このアンリ・デュナンですが、生まれたのは1828年5月8日です。スイス共和国の代議員や福祉孤児院の所長を務め、政治・経済界の名士であった実業家ジャン・ジャックと、名門コラドン家の出身で、福祉活動に熱心だった母親のアンヌ・アントワネットの間に長男として生を受けました。

デュナン家はジュネーヴでも名の知れた旧家で、プロテスタントの中でもとくに厳格といわれたカルヴァン派の伝統を継承していました。

10歳のときカルヴァン派の系統でジュネーヴの名門校といわれたカルヴァン学校に入学しますが、学業不振により3年で退学。家庭教師による補習授業で教養を身につけ、やがて母の影響受けて慈善団体のメンバーとして働くようになりました。

21歳のとき、ポール・ルラン・エ・ソテ銀行の正社員となり、銀行員として熱心に仕事をこなす傍ら、キリスト教活動にも尽力。西ヨーロッパ諸国の若い福音運動家たちと交流を図るようになっていった彼は、この当時、ジョージ・ウィリアムズによって創設されたばかりのキリスト教青年会(YMCA)に興味を持ちます。

青年キリスト教徒たちの合同集会などを開催していたデュナンは、YMCAを各国のキリスト教団体が連携を図れるような国際的な組織にしたいと考え、「ジュネーヴYMCA」を設立します。さらにその3年後にはパリで「YMCA世界同盟」を結成しました。

この前年の1853年、勤務先の銀行からフランスの植民地であるアルジェリアへの出張を命じられた彼は、そこで差別と迫害と貧困に苦しむ現地のアラブ人やベルベル人に衝撃を受け、翌年ポール・ルラン・エ・ソテ銀行を退職。

1858年、アルジェリアで現地の人々の生活を助けるための農場と製粉会社の事業を始めますが、水利権の許可が下りなかったことで事業が上手く行かず、水利権の獲得と事業の支援の請願のため、イタリア統一戦争に介入してオーストリアと戦っていたナポレオン3世に会いにいきました。

このとき遭遇したのがソルフェリーノの戦いであり、その中で自らも救援活動に参加したことがのちの赤十字社の創設につながっていきます。

このころの逸話として、なぜ敵味方分け隔てなく救済するのかと尋ねられたデュナンは、「人類はみな兄弟」と答えています。この言葉はのちに日本でも、戦前の大物右翼にして日本船舶振興会・会長の笹川良一がCMに使って有名になりました。

もっともこれはサントリーの宣伝部に所属していた作家、開高健がウイスキーのテレビCM製作のために考えたという説もあり、彼がデュナンのことを知っていたかどうかは不明です。

このときの体験を書いた「ソルフェリーノの思い出」は評判となり、赤十字の創設につながっていたことは前稿で書いたとおりです。デュナンが代表格となって1863年にジュネーヴで結成された「5人委員会」はやがて世界的な国際組織赤十字社に発展していきました。



ところが、その後デュナンの人生は転落していきます。当時、彼が理事を務めていたジュネーヴ信託銀行が1865年に倒産したのをきっかけに、アルジェリアでの事業が決定的な打撃を受け、株主らから裁判所へ訴えられたことで、5人委員会からは辞職を求められました。

このため、デュナンは1867年、39歳のときに故郷のジュネーヴを去り、その後生涯、この地を踏むことはありませんでした。銀行辞職後、裁判所から破産宣告を受けたデュナンはその後借金を抱えたまま行方をくらまし、以後約20年もの間、消息を絶ちます。

その後、赤十字の活動範囲は戦争捕虜に対する人道的救援、一般的な災害被災者に対する救援へと拡大していきましたが、彼自身はこうした活動から身を引き、世間からも忘れられていきました。この間、パリやロンドン、ストラスブールなどで姿を見かけられることもありましたが、駅舎で寝泊まりするなど浮浪者同然の生活であったといいます。

48歳のとき、貧困のどん底の状態であったデュナンは、シュトゥットガルトの避難所に現れ、そこで世話をしていたワーグナーという牧師が、自分の家の2階の屋根裏部屋を貸し与え、ここでの下宿生活が始まりました。この時期に、ドイツ、テュービンゲン大学の学生、ルドルフ・ミューラーと知り合い、懇意になりました。

その後さらに歳月が流れ、59歳になったデュナンは健康を損ない、スイス東北部のハイデンに現れ、ここで3年余り下宿生活を続け、ハイデンの赤十字社創設に深く関わりました。その後、他の町へ移住しますが、再びハイデンに帰郷し、64歳から死去するまで、病院長のアルテル博士の世話で、ハイデンの公立病院の一室を住居として暮らしていました。

晩年はここで執筆活動を行い自叙伝などを書き記していましたが、67歳のとき、スイス東部の新聞「オスト・シュヴァイツ」の編集者がデュナンを訪ね、彼の書いた記事がシュトゥットガルトの週間新聞に大きく掲載されると、長い間忘れ去られていたデュナンの功績が再び脚光を浴びることとなりました。

このころ、その昔懇意になったルドルフ・ミューラーは、シュトゥットガルトで教師として働いており、彼がノーベル平和賞の選考委員会に推薦したことで、一躍脚光を浴びるようになったデュナンは、その後1901年の「第1回ノーベル平和賞」の受賞者となりました。

それから9年後の1910年10月30日、デュナンは82歳で静かにその生涯を閉じました。葬式は式典なしで行われ、その遺体はチューリッヒのジルフェルド墓地に埋葬されました。

実は、ナイチンゲールが亡くなったのも同じ年の1910年です。8月13日がその命日でデュナンよりも少し早くなっていますが、ほぼ同じ時期に亡くなっているというのは何やら因縁を感じます。母国が違うこともあり、お互いほとんど面識はなかったはずですが、もしかしたら魂レベルでは深い知り合いだったかもしれません。

アンリ・デュナン(1828-1910 82歳没)

デュナンは、その死まで質素な生活を貫き続けており、ノーベル平和賞の受賞で手にした賞金もほとんど手付かずだったといいます。遺言により、その賞金はスイスとノルウェーの赤十字社に寄付されました。

また、これとは別に貯めていた遺産の一部はハイデン特別養護老人ホームに寄付され、「無料ベッド」を確保するための資金として使われました。

このほかノルウェーとスイスの友人や慈善団体にいくらかのお金を寄付し、残りの資金は、彼が死ぬまで抱えていた借金を軽減するため債権者の元に行きました。借金を完全に消すことができなかったことを最後まで気にしていたようです。

デュナンの死後、1914年には第一次世界大戦が勃発し、多くの加盟国が戦争に巻き込まれました。この大戦において各国赤十字が救護活動を行う中、赤十字国際委員会は各国に大量に発生した捕虜の救済活動を活発に行い、その功績によって1917年には赤十字国際委員会がノーベル平和賞を受賞しています。

さらに1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ふたたび多数の加盟国間で戦闘が行われることになりました。赤十字社連盟本部は同年パリから中立国・スイスのジュネーヴに移転しましたが、第二次世界大戦中も活発に救護活動を行い、1944年にはこの功績によって国際赤十字委員会は2回目のノーベル平和賞を受賞しました。

しかし、第二次世界大戦においては多くのジュネーヴ条約違反が横行し、また膨大な数の戦闘員・非戦闘員が命を落とすこととなりました。

こうした第二次世界大戦の結果を受け、1949年8月には「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善」「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善」「捕虜の待遇」「戦時における文民の保護」のジュネーヴ四条約が新たに制定されました。

この条約によって戦争時の民間人の保護や内戦時における保護、違反に対する罰則規定などが定められ、赤十字の権限は大きく拡大しました。1963年には赤十字は設立100周年を迎えたため、この100年間の貢献に対して赤十字国際委員会、赤十字社連盟にともに、3回目のノーベル平和賞が贈られました。

1977年には、ジュネーヴ四条約において保護されていなかった独立運動やレジスタンスに対する民間人の保護を目的とする議定書が追加され、内戦・内乱時の保護の拡大を目的とする議定書も採択されるなど、赤十字の対象はさらに拡大しています。

なお、日本においては、1877年(明治10年)に旧龍岡藩主で元老院議官の大給恒と、同じく元老院議官の佐野常民が「博愛社」を結成し、同年の西南戦争において救護活動を行ったことが赤十字運動の嚆矢となっています。1886年(明治19年)には日本は東アジア初のジュネーヴ条約加盟国となり、これを受けて博愛社は翌年に日本赤十字社へと改称しました。

現在、日本赤十字社は全国に92の赤十字病院、79の血液センターを運営するわが国でも最大規模の医療団体となり、一般医療だけでなく、地震・台風などの災害時旅客機墜落・公共交通機関の大事故など、消防で対応し切れない大人数の負傷者の救援活動を行っています。

代表者である社長は、元・厚生労働省事務次官の大塚義治氏、名誉総裁は皇后雅子様がお勤めになっています。また、名誉副総裁には、代議員会の議決に基づき、各皇族が就任されています。

赤十字を創設したデュナンは今日、「赤十字の父」と呼ばれており、彼の誕生日である」5月8日は「世界赤十字デー」となっています。

彼の母国であるスイスの国旗の赤白の配色を逆にした十字マークは、今も日本だけでなく世界中で見ることができます。

赤十字 part1

9月も半ばになろうとしています。台風の襲来はまだまだ続きそうですが、少しずつ秋めいてきて、やがては月見の季節がやってきます。

月見は、主に旧暦8月15日から16日の夜に行われ、これは十五夜(じゅうごや)と呼ばれますが、旧暦9月13日から14日の夜にも行われ、こちらを十三夜(じゅうさんや)と呼びます。そして、こうした秋の夜に昇る月は「中秋の名月」と呼ばれます。

2020年の今年、旧暦8月15日は10月1日(木)、旧暦9月13日は10月29日(木)です。ただし、こうした十五夜や十三夜の月は、完全な満月ではありません。実際に満月になるのは、今年なら9月3日(土)や10月2日(金)、11月1日(日)などです。

十五夜や十三夜の夜の月齢は満月のそれ(13.8から15.8)とは限りません。例えば今年の10月1日の月齢は13.7、10月29日の月齢も12.3であって、満月の一歩手前です。

にもかかわらず、このように「名月の日」を決めて月を鑑賞する風習は、7~10世紀の中国の唐代の頃に始まりました。10~13世紀の宋代に記された「東京夢華録(とうけいむかろく)」という随筆には月夜の夜、人々が身分に関わらず街を挙げて夜通し騒ぐ様子が記録されているそうです。




日本にこの風習が入ってきたのは、平安初期の貞観年間の頃です。延喜19年(919年)には宇多法皇が十三夜の月見を催したという記録があり、このころの月見は詩歌や管絃を楽しみつつ酒を酌む、という貴族社会の遊びでした。

庶民とは縁のないものであり、現在のような願掛けや供え物といった宗教的な要素もありません。一般の人々は、満月のころになるとただ月を眺めつつその美しさを愛で楽しむだけでした。

室町時代に入ってからも、こうした派手な名月の鑑賞は上流社会で続いていました。しかし、応仁の乱以後の戦国期に入ると、権力を失った中央政権だけでなく地方の有力者たちもそれどころではない、ということで遊宴の内容は簡素になっていき、室町後期では名月の日には月を拝み、お供えをする程度になりました。

月を信仰の対象としてみるようになったのはこのころからで、御所に仕える女官達によって書き継がれていた当番制日記「御湯殿上日記」には、このころの天皇、後陽成天皇がナスに開けた穴から月を見て幸運を祈る「名月の祝」という祝い事の様子が記録されています。

時代がさらに下がり、江戸時代ころまでには月見はかなり世俗化しました。江戸初期の記録によれば、十五夜の日には飲み食いしながら夜遊びをするといったことが一般化しました。ただ、このころもまだ「月見団子」は登場していません。家庭にある普通の食べものを食べ、たとえば芋煮会といったようなものをしながら月見をしていたようです。

団子がお供えに使われるようになったのは江戸中期以降になります。十五夜の日に文机で祭壇をこしらえ、月見団子をお供えするといった、現在でも行われているような風習が定着したのは江戸後期のことです。ただ、地方によってお供え物は異なり、江戸では球形の月見団子が、京阪ではサトイモの形をした団子を供えていました。

一方、こうしてお供え物を準備しても、雲などで月が隠れて見えないこともあります。江戸の風流人たちは、こうした夜を「無月(むげつ)」と呼び、また中秋の晩に雨が降ることを「雨月(うげつ)」と呼んで、月が見えないながらもなんとなくほの明るい風情を楽しんだといいます。

さらに、江戸で月が見えても、地方によっては天候次第では月を見られない場合もあります。このため、ところによっては「月待ち」という風習があって、月夜になるまで待ってからお月見をしました。

一般には、15日の前の日の14日と当日を「待宵(まつよい)」、そのあとの16~17日を「十六夜(いざよい)」と呼び、名月の前後の月が月見の対象です。

これらの月が見えない場合、その翌日の十七夜の夜まで待って出た月は立待月(たちまちづき)と呼び、以後、居待月(いまちづき)、寝待月(ねまちづき)、更待月(ふけまちづき)と続きます。さらに二十三夜、二十六夜と月が出るまで待ち続ける地方もあるようです。




このように、日本人は月を鑑賞し、それを待ち続けるほどに崇めてきました。西洋でも月を鑑賞することに神秘的な意味を見い出す国は多く、月は人間を狂気に引き込むと考える民族もあるようです。

英語で“lunar”は「月の」という形容詞になりますが、 “lunatic”(ルナティック)といえば、気が狂っていることを表します。また狼男はまあるい満月の日に狼に変身し、魔女たちはそうした夜に黒ミサを開くとされます。満月には不思議な力があるとも、満月の夜には犯罪が増えるとも言われています。

このように満月を特別なものと考える国が多い一方で、同じ月でも新月のほうを崇める国々もあります。トルコ、パキスタン、モルディブ、マレーシアなどのイスラム圏の国がそれで、国旗には新月が描かれています。形は三日月のようにみえますが、これは月齢27~28日の月であり、ほぼ新月を表しています。

オスマン帝国の首都、コンスタンティノープルにおいては古くから新月がシンボルとして用いられていました。歴代の皇帝は国教であるイスラム教共通の意匠としてこれを広めようとし、その流れを汲む現在のトルコ共和国の国旗はいまでもかつてのオスマン帝国と同様新月があしらわれています。

とはいえ、新月を国旗に採用しているイスラム国家はそれほど多くはありません。これはオスマン帝国崩壊後、そこから独立した諸国の多くが、新月を意匠として採用しなかったためです。

トルコ共和国の国旗(基本的にはオスマン帝国当時のものと同じ)

赤十字と赤新月

現在でもイスラム教徒が多い国では新月を入れた国旗を使っています。ただ、イスラム圏では偶像崇拝の禁止が定められているため、月の崇拝は禁じられています。また、キリスト教信徒のイエス崇拝に繋がるという理由から十字も忌避されています。

こうした理由から、一般には「赤十字社」のシンボルは「赤十字」であるのに対し、こうした国ではそのシンボルに「赤新月」が用いられ、またその名称も「赤新月社」としているところが多くなっています。

赤十字といえば万国共通のものと思っている人も多いことでしょう。しかしその活動を日本やヨーロッパの多くの国が「赤十字運動」というのに対し、イスラム圏では「赤新月運動」と呼びます。いずれも戦争や天災時における傷病者救護活動を中心とした人道支援運動を行っていますが、シンボルと呼称だけは異なっています。

赤新月、もしくは赤十字を名乗るこうした組織は、世界各国に存在し、それらは国際的な協力関係を持っています。今日、赤十字・赤新月運動は、赤十字国際委員会 (ICRC)、国際赤十字赤新月社連盟(IFRC)、各国の赤十字(赤新月)社の3組織で構成されています。

ただし、各組織は財政・政策の面で独立しており、ICRCは紛争、IFRCは自然災害、赤十字・赤新月社は主に国内で活動を展開し、それぞれの基本的な任務は異なります。

とはいえ、国を超えての活動は共同して行われ、国の内外を問わず、戦争や大規模な事故や災害の際の人道的支援は敵味方区別なく中立な立場で行われます。こうした活動は、1863年に制定された「ジュネーヴ条約」とこれに基づく各国の国内法によって行われ、特殊な法人格と権限を与えられています。

現在、世界に赤十字社があるのは152か国で、また34か国に赤新月社が設立され、合計186ヵ国が活動を行っています。なお、十字でも新月でもない“ダビデの赤盾”を用いるイスラエルのマーゲン・ダビド公社を含めると、全部で187か国で赤十字活動が行われていることになります。その主要任務は次の通りです。

紛争や災害時における、傷病者への救護活動
戦争捕虜に対する人道的救援(捕虜名簿作成、捕虜待遇の監視、中立国経由による慰問品配布や捕虜家族との通信の仲介など)
赤十字の基本原則や国際人道法の普及・促進
平時における災害対策、医療保健、青少年の育成等の業務

大半の国がそのシンボルには白地に赤い十字を模した赤十字(Red Cross)を採用しているのは上述のとおりです。

このマークは、赤十字社の設立者の一人であるアンリ・デュナンの母国スイスの国旗の赤地に白い十字の色を反転したものといわれています。ジュネーヴ条約にも「スイスに敬意を表するため、スイス連邦の国旗の配色を転倒して作成した白地に赤十字の紋章」との一文があります。

スイスの国旗 創設者のひとりアンリ・デュナンの母国




1863年に赤十字規約が制定された時から各国で使用されてきたものですが、当初は団体名は各国まちまちであり、こうした旗はおろか「赤十字社」という名称も使われてはいませんでした。

しかし団体の規模が大きくなるにつれて統一した名称が必要となっていったことを受け、1867年からオランダ救護社が通称として使っていた「赤十字社」を各国救護社の正式名称とすることが提案され、次々と各国がそれに倣っていきました。

ただし、中華人民共和国では「紅十字会」、また朝鮮民主主義人民共和国では「赤十字会」などと呼んでいます。

また、シンボルマークは赤十字ですが、上述のとおりイスラム諸国では、「十字はキリスト教を意味し、十字軍を連想する」として嫌われたため、白地に赤色の三日月を識別マークとし、「赤新月社」と呼ぶようになりました。

オスマン帝国もまた1865年にジュネーヴ条約に加盟しましたが、「ヨーロッパの瀕死の病人」といわれるほど国力の低下していたこの時代でもまだ多くの軍隊を抱えており、十字のマークは使えませんでした。兵士の大半がイスラム教徒であり、キリスト教の印である十字架の印を用いるのはタブーとされたからです。

そこで、1876年に新たに赤い三日月を模した赤新月のマークを制定し、以後オスマン帝国の救護部隊には赤十字に代わって赤新月を使用させる旨をスイス政府に通告しました。また、国際委員会には赤新月マークの使用を条件として加入することとしました。

第一次世界大戦後、いくつかのイスラム教国の新独立国が誕生すると、それらの国々は同じように赤新月を自国の団体のマークと定めました。ただ、インドネシアのようにイスラム教徒が多い国であるにも関わらず「赤十字社」を採用する国もありました。

一方では、パキスタン、マレーシア、バングラデシュなどのように、設立当初は「赤十字社」であったものの、国内の宗教事情の変化からのちに「赤新月社」に変更した国もあります。

さらには赤十字や赤新月以外のシンボルの使用を求めた国があります。イランの「赤獅子太陽(Red Lion with Sun)」などがそれです。最終的に認められましたが、国際委員会は現在に至るまで基本的にはこうした異なるマークの採用には否定的なスタンスを貫いています。

イスラム教国の赤新月マーク

第二次世界大戦後にユダヤ教を国教とするイスラエルが独立し、マーゲン・国の国旗ダビド公社(=ダビデの赤盾社)が設立された際、同国は「ダビデの赤盾(Red Star of David)」を使用したいと申請しましたが、このときも赤十字社のマークとして認定することは拒否されました。

このように赤十字国際委員会が、赤十字や赤新月以外の旗の採用を嫌うのは、余りにも多くの標章が乱立することで、混乱が生じることを懸念しているためです。しかし、国際委員会としては国際赤十字活動には多くの国が参加することを望んでおり、既に赤十字運動に参加していた国々も同じでした。

そこで、2005年の赤十字・赤新月国際会議総会において、赤十字・赤新月に代わる共通の標章採用が提案されました。賛成多数により採択されたそれは「赤水晶(Red Crystal)」とというものでした。赤の菱形を象ったマークで、宗教的に中立であり第三の標章としてふさわしいものと評価されたものでした。

この「赤水晶」の標章の意味や法的効力は従来の赤十字・赤新月と完全に同一とされています。つまり、このマークを用いれば国際赤十字への加盟が出来ることになります。こうしてイスラエルは「赤盾社」の名称のままで赤十字国際委員会に参加を正式に認められることになりました。

ただ、当初イスラエルが提唱した「ダビデの赤盾」は今でも認められていません。「表示標章」として紛争地帯を除くイスラエル国内のみで用いることを許されていますが、ジュネーヴ条約で定めた「保護標章」とはみなされていません。このため他国で交戦するような場合には用いることはできません。

このほか、国内にキリスト教とイスラム教徒が混在するような国もあり、こうした場合にも標章をどうするかが問題になります。

例えばエリトリアなどのように、宗教勢力のバランスから赤十字・赤新月の両方の標章を併用したいと主張している国があります。国際委員会としては、こうしたケースでも「赤水晶」を用いることによって国際赤十字へ参加できるようになるとアナウンスしており、その加盟を期待しています。

このようにたかが標章といえばそれまでですが、できるだけ多くの国に国際的な人道支援活動に参加してもらうためには、その国の国情に応じたシンボルを用意してあげる必要があるわけです。それぞれの国の国民が崇拝する宗教の違いはこうした国際規格を統一する際、いつも問題になります。

新標章の赤水晶(上)と、通常の赤十字(下)

赤十字社の設立

ところで、この赤十字社が創設されたきっかけは何かといえば、それは創始者の一人であるスイス・ジュネーヴ出身のアンリ・デュナンが1859年に北イタリアでの紛争に遭遇したことでした。

デュナンはこのころ、アルジェリアで現地の人々の生活を助けるための農場と製粉会社の事業を始めていましたが、そのために必要な水利権の許可が統治国のフランスから下りていませんでした。このため、このころイタリアでオーストリア帝国と戦っていたナポレオン3世に請願に行き、この戦闘に遭遇したのでした。

この戦争はソルフェリーノの戦いといいます。イタリアの統一を目指すサルデーニャ王国とフランスの連合軍が、これを阻止しようとしたオーストリア帝国と争ったものですが、この戦争では両軍合わせて20万を超える軍隊が衝突し、4万人近くの死傷者が出るほどの激戦となっていました。

デュナンは戦場に放置された死傷者とその救援活動をしている地元の女性たちの姿をみていたたまれなくなり、彼女たちに交じって自らも救援活動に参加するようになりました。

一週間ほどの短い滞在でしたがその悲惨さに大きな衝撃を受けた彼は、帰国した1862年、「ソルフェリーノの思い出」を出版。その中で「各国に戦争となった際に戦いの犠牲者たちを救援する組織を設けること」「戦闘による負傷者やその負傷者の救援にあたる者を戦闘に加わるいずれの側からも保護する法を定めること」の二つを提案しました。

デュナンのこの提案は大きな反響を呼び、翌年2月にはジュネーヴにおいて、デュナン、アンリ・デュフール、ギュスターブ・モアニエ、ルイ・アッピア、テオドール・モノアールの5人によって「国際負傷軍人救護常置委員会」(五人委員会。現・赤十字国際委員会)が発足します。

この5人はそれぞれ赤十字の設立に大きな役割を果たしましたが、とくにデュナンは優れた行動力を持ち、各国において赤十字の必要性を説き、支持を獲得する中心人物となっていきました。

残りの4人のうち、デュフールは元軍人で、1847年の分離同盟戦争(民主化推進派と保守派の間の紛争)においてスイスの分裂を防いだことで高い評価を得た人物です。この時に捕虜や負傷者に対し人道的な対応を取ったことで賞賛を浴び、その名声と各国への人脈から五人委員会の委員長となり、草創期の赤十字運動において指導的な役割を果たしました。

また、モアニエは弁護士であり、赤十字運動の理論化と組織化に力を尽くして、1910年に亡くなるまでこの運動の中核を担い続け、赤十字の育ての親ともいわれています。

アッピアは戦傷外科の権威であり、自らも医師として積極的に救護に出向くとともに、医学的な方面から助言を行いました。モノアールも外科医であり、指導層だけでなく一般市民への広報を重視していました。

五人委員会が設立された翌月の1863年3月には、委員会自身ではなく各国がそれぞれ民間救護団体を設立するという方針が確立され、ジュネーヴでこの問題に関する会議を開催することが決定されました。

これを受け各委員は各国に精力的な呼びかけを行い、10月には予定通り16カ国が参加する会議が開かれました。このとき参加した国々は以下の通りです。

スイス、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、オランダ、スウェーデン、ロシア、オーストリア、プロイセン、バーデン、バイエルン、ハノーファー、ヘッセン・カッセル、ザクセン、ヴュルテンベルク

このうち、プロイセン以下の7ヵ国は現在ドイツに属しています。従って現在の地図でいえばこのとき赤十字の設立に関わった国は10ヵ国ということになります。

この会合では、参加各国に救護団体を設立することなどが決められ、赤十字標章等を定めた赤十字規約が採択されました。またオランダ代表からこの団体はいかなる戦闘においても「中立を貫く」べきということが議題に提出され、採択されたことで中立原則も確立されました。

この会議が終わるとすぐに、具体的な救護団体設立の動きが本格化し、同年12月にはヴュルテンベルク王国(現、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州)において世界初の赤十字社が設立されました。

翌1864年2月には現存する最古の赤十字社であるベルギー赤十字社が設立。その後も続々と多くの国がこの精神に賛同して救護団体を設立しました。同年8月にはスイスなど16カ国が参加した外交会議で「傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約」(最初のジュネーヴ条約)が審議され、陸戦に適用されるこの条約には12カ国が調印して発効しました。

以後、ハーグ陸戦条約(ハーグ法)などの数々の国際人道法が設立されましたが、このジュネーヴ条約はその嚆矢とされており、その後欧州諸国は続々とこの条約を批准していきました。

1865年にはオスマン帝国が条約を批准、1868年には同国に救護団体が設立されるなどキリスト教圏以外にもこの運動は拡大していきました。現在、世界各国で繰り広げられている赤十字活動はすべてこの1863年のジュネーヴ条約に基づいています。

戦時国際法として傷病者及び捕虜の待遇改善を求めるこの条約は赤十字条約とも呼ばれ、これによって戦時下においても多くの人々の命が救われるようになったのです。
(この稿続く)

松前のこと

ハッと気がつくともう9月です。

今年は梅雨が長かったので、いつもよりも夏は短いはずなのですが、そのかわりに暑い日が多く、うんざりしてしまいます。

私は暑いのが苦手で、夏がない場所に引っ越したいと思い、移住先として北海道を考えたこともあります。

北海道は懐かしい土地です。その昔、サケマス類の保護の調査でよく出かけていました。帯広や釧路といった拠点都市に空路で行くのですが、そうした町の中心部からちょっと郊外へ出ると、ほとんどが手つかずの大地です。そこはその昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた時代からそう大きくは変わってはいないと思われます。

彼の地に住んだ原住民はかつて「えみし」と呼ばれていました。漢字は同じく「蝦夷」が使われますが、古くは愛瀰詩とも書き、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読まれました。後に「えびす」とも呼ばれる時代もありましたが、これは「えみし」からの転訛と考えられます。

11世紀か12世紀には、えみしに代わって「えぞ」とも呼ばれるようになりましたが、この呼称を使うときは、アイヌを意味することが多くなったようです。アイヌはえぞの一族のひとつにすぎないという説もあるようですが、アイヌとえぞとの関連については未だに定説はないようです。ただ、日本史学において、一応えぞとアイヌは区別して考えられています。

この蝦夷が住む北海道の地もまたのちに、蝦夷が島(夷島)、蝦夷地(えぞち)などと呼ばれるようになっていきますが、そのうち、単にエゾとだけ呼ばれるようにもなりました。

蝦夷に住まうアイヌたちは当初、農耕を生活の柱としていましたが、次第に狩猟・漁業を主な生業とするようになり、獲れた魚や毛皮を日本人(和人)に売って鉄を得るといった交易を行うようになっていきます。

鎌倉時代以降になると、和人の蝦夷地への進出が進み、どくに蝦夷南部(現在の道南地方)では、後の松前藩の系譜につながる和人たちの活発な活動が見られるようになっていきました。とくに「安東氏」とよばれる津軽地方を本拠地としていた豪族の蝦夷への進出が目立つようになっていきます。




安東氏は鎌倉時代末期から南北朝時代に隆盛を誇った一族で、元々陸奥津軽十三湊付近を根拠地としていました。これは現在の津軽半島の北西部に位置する十三湖の西岸に位置する場所です。その所領は畿内や関東など本州中央部の武士団のものと比べてもかなり広大なものでした。

安東氏はここを拠点として蝦夷地との海上交通に従事し、交易によって大きな利益をあげていましたが、彼らが築いた独自国家の影響力が蝦夷地にも及んでいることを京や鎌倉などの中央政権も薄々と感づいていたようです。

やがてその拠点も津軽海峡を跨いで蝦夷地に求めるようになり、14世紀初頭には、夷島南部に家臣を移配させました。彼らは渡党(わたりとう)とよばれており、これは家内の有力者たちを現地に赴かせ、交易の責任者としたものです。

渡党を支配していた安東氏は、このころまだ「安藤」と称していたようです。安藤氏は、鎌倉時代のころに陸奥国(現在の福島、宮城、岩手、青森)・出羽国(現在の秋田・山形)などの東北部に勢力を張った武士の氏族ですが、室町時代中期以降は「安東」を名乗ることが多くなっていったようです。

安藤から変えて安東を名乗るようになった家々の系譜は諸系図によりまちまちであって、その実体についてはいまだ研究の途上にあります。しかし、応永21年(1414年)に没したとされる「安藤盛季(もりすえ)」をもってこれを安東家の祖とする研究成果が有力視されています。

安東と蠣崎の時代

この安東(安藤)盛季は、その代に一族の所領を現青森県地方だけでなく蝦夷南部にも広げ、さらに内地でも出羽秋田まで勢力を拡げました。その子の康季(やすすえ)の時代には後花園天皇からも「奥州十三湊日之本将軍」と呼ばれるほどに認められ、さらに勢威を振るうようになります。

この安東家2代は「康季(やすすえ)」といいました。この康季の代に安東家は二つの流派に分かれます。ひとつは津軽(青森)から下って南部にある秋田郡(現秋田県)に拠った一族で「上国家(かみのくにけ)」を称し、これに対して、津軽に残った惣領家は下国家(しものくにけ)を称するようになりました。

この津軽下国家はその後5代にわたって続き、南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努めました。一方の上国家は、秋田郡を拠点として出羽小鹿島(男鹿半島)や出羽湊(現・秋田県秋田市)を領し、後に秋田郡全体を制して秋田城介(あきたじょうのすけ)と呼ばれる国司を自称しました。

この下国・上国の二家は相対しながらも檜山郡(現秋田北部)と秋田郡(現その他の秋田)とを分け合い、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺を所領として開拓しつつ、海を隔てた蝦夷地にも進出して、朝廷(鎌倉幕府)から彼の地の管領の役割をも果たすよう命ぜられる身分になっていきます。

その後、安東家の2代当主康季の子、安東義季(よしすえ)は、下国安東家を率いる身となりましたが、その代に南部氏(現青森から岩手を拠点とする豪族)との抗争に敗れ戦死し、ここに安東氏直系の下国家は一旦絶えます。しかしすぐにその後再興を計る者が現れました。

安東家初代盛季の弟は、潮潟四郎道貞(みちさだ)といい、その子重季(しげすえ)の子であった師季(もろすえ)がそれです。戦死した義季の養子を名乗り、下国家の再興を計ろうとし、その後、師季を改めて安東政季(まさすえ)と称するようになりました。

ところが、この政季もまた南部氏との戦いで破れます。このとき、のちに陪臣となる武田信広とともに下国家の勢力圏であった蝦夷地に渡り、そこで被官者であり娘婿でもあった上ノ国は花沢館に住む蠣崎季繁(かきざきすえしげ)のところに身を寄せました。上ノ国は現在の渡島半島西部にあたる場所で、花沢館は季繁が拠点とする館です。




これが1454年(享徳3年)のことで、このころといえば、室町幕府から分派した鎌倉府が次第に幕府から独立した行動を取り始めるようになっていました。

翌年の享徳4年(1455年)には、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となっています。室町幕府滅亡に先立つこと20年ほど前のことであり、既に戦国時代の様相を見せ始めていた時代です。

この武田信広というのは、安東家の系譜の出ではなく、若狭の国(現福井県西部)の人です。永享3年(1431年)2月1日、若狭国の守護大名・武田信賢の子として若狭小浜青井山城で誕生。宝徳3年(1452年)、21歳の時に家子の佐々木三郎兵衛門尉繁綱、郎党の工藤九郎左衛門尉祐長ほか侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔したとされます。

その理由は家督争いです。信広の父・信賢は家督を弟・国信に譲る際に、自身の子である信広にゆくゆくは家長にしたいと考えて、国信の養子にさせました。しかし、間もなく実子・信親が誕生したことで、信広の居場所がなくなります。また、信広は実父・信賢とも仲が悪く対立していたといわれ、孤立無援となったのが原因といわれています。

しばらくは義父・武田国信が加担する古河公方、足利成氏(鎌倉幕府と敵対していた)の下に身を寄せていましたが、この年の内に、同じく国信の敵方である三戸(さんのへ)の南部光政の下へ移りました。さらには陸奥宇曽利(現下北半島)に移住し、南部家の領分から田名部・蠣崎の知行を許され、ここに「蠣崎武田氏」を名乗るようになります。

上で述べた蝦夷地の蠣崎(季繁)はこの田名部の蠣崎氏と同姓であることから、同じルーツを持つ親戚筋の豪族かと考えられます。信広は享徳3年(1454年)、上の安東政季を奉じて南部大畑より蝦夷地に渡り、田名部蠣崎家の縁者である蠣崎季繁のところに身を寄せるようになります。

この武田信広と安東政季の出会いについては筆者の元にこれを語る資料がありません。どのようにして行動を共にするようになったのかはよくわからないのですが、同じ負け組、ということで境遇の似たところもあり、お互い惹かれあうものがあったのかもしれません。

信広は、のちに安東政季の娘を妻に迎えており、安東家との結束を強めようとしていたと考えらえます。力関係としては、安東家は北の雄であり、対する信広はいわば流浪の身であったことから、当然、当初から信広は政季に臣下の礼をとっていたでしょう。

こうして蝦夷に渡った主従ですが、信広はその後、季繁に気に入られてその婿養子となり、武田の名を捨てて、「蠣崎」を名乗るにようになりました。

実はこのとき結婚した相手は安東政季の娘です。政季が蠣崎家に養子に出していた子で、この婚姻によって安東家と蠣崎家、そして武田家の絆はより強いものとなりました。康正2年(1456年)には信広とこの政季の娘との間に嫡男・光広が生まれています。

蠣崎氏を継承して蠣崎信広を名乗るようになった信広は、安東家との絆を保ちつつやがてこの地、蝦夷南部で勢力を伸ばすようになります。

配下の武将を渡島半島の12の館に配置してその礎を固めまるとともに、みずからもそのひとつを拠点とし、これを「花沢館」と称しました。また義父である蠣崎季繁には、茂館や大館などの主要館の管理者の統治を任せるようになりました。

現在、これらの館は「道南十二館」と呼ばれて史跡になっています。東は函館市に所在する志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで、渡島半島南端の海岸線各地に分布している城跡です。安東氏の被官である館主たちはこれらの館を拠点として、アイヌ民族や和人商人との交易や領域支配を進め、蝦夷南部を支配していきました。




しかし、そうした勢力の拡大は原住民であるアイヌの反感を強くし、軋轢を深めていくことにもなりました。翌1457年(長禄元年)には、東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、和人に向け戦端を開きます。コシャマインは渡島半島東部のアイヌの首領で、当て字として「胡奢魔犬」が用いられていました。

コシャマインの戦いと呼ばれるこの争いのきっかけは、あるアイヌの男性が和人の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したことだったとされます。品質と価格について争いが発生し、怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したことで、争いは大きくなりました。

このとき怒ったアイヌ勢の侵攻はすさまじく、奇襲攻撃によって政季が支配する十二館のうち10までが落城します。

攻撃を受けた武士たちはさらに追い詰められましたが、翌1458年(長禄2年)に季繁の旗下で戦う信広が武士達をまとめあげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退していきました。信広は、七重浜という海岸まで彼らを追い詰め、コシャマイン父子を射殺して首を取りました。

この功績が安東家に認められ、蠣崎氏による蝦夷地における地位は決定的となりましたが、以降もアイヌとの戦いは散発し、その都度十二館が交戦拠点となりました。

しかしその後アイヌとの関係もある程度改善されるようになり、交易も復活します。文明7年(1475年)ころまでにはその範囲を樺太にまで広めるようになり、樺太アイヌの首長から貢物を献上されるなど蝦夷地全体に影響力を及ぼすようになります。

とはいえ、アイヌとの完全な和解が成し遂げられたわけではなく、1512年(永正9年)には再び大規模な争いが起きました。このときは蝦夷地東部の村長であったショヤ(庶野)、コウジ(訇時)兄弟率いるアイヌが蜂起し、数カ所の館を襲撃しました。

この戦いは二人の兄弟の名をとって後世、ショヤコウジ兄弟の戦いと呼ばれるようになったものですが、渡島半島南西部を支配する蠣崎氏に対するアイヌの不満が爆発したものです。

信広の子の蠣崎光広はこのころ幕府(室町幕府)から上国守護職を拝領するようになっており、本家である安東家を凌駕する勢いを持ち始めていました。その子である義広とともに蠣崎家のメンツをかけてこれを撃退しようと出撃します。

しかし開戦当初から劣勢に立たされたため、光広は一計を計り、和睦を装って酒宴を開き自らの本拠地である松前大館へショヤコウジ兄弟を招きました。そこで兄弟らを酒に酔わせ、宝物を差し出すふりをして兄弟らを油断させ、また木槌の音を鳴らさせて騙し討ちの準備に気付かれないようにしました。

そして隙を見て仕掛けのついた戸の裏から飛び出して兄弟らを襲撃。光広によってショヤコウジ兄弟は斬殺され、他のアイヌも蠣崎氏の軍勢により皆殺しにされました。この時光広が用いた刀は、父信広が蠣崎季繁から受け取った家宝「来国俊(らいくにとし)」であったといいます。

2人の首長をはじめ殺されたアイヌたちは館の近くに埋められ、そこに塚が築かれて「夷塚」と呼ばれるようになりました。のちにアイヌとの講和(商舶往還の法度)が成立する5代蠣崎当主季広(義広の息子)の代まで、アイヌに対して蠣崎氏の軍勢が出撃しようとすると、その塚からかすかに声が聞こえたといいます。

このアイヌとの戦いでは、松前大館が陥落しました。ここは素行の悪い当主、安東恒季に代わって家臣の中でも重鎮の相原季胤が守っていましたが、相原もまた討ち取られるなどの被害が出るなどして、大舘は戦後一時期空き城となっていました。



その後、1514年(永正11年)には信広の子の蠣崎光広がここに入城します。ただ光広は、父の代に松前の花沢館のすぐ側に建てられ、より強固な城になっていた勝山館に本拠を移転したいと考えていました。

ところが、このころから安東家と蠣崎家との間に微妙な空気が流れ始めていました。安東家としては蝦夷地において蠣崎の勢力がこれ以上増大することを快く思ってはおらず、自分たちの勢力が脅かされることを懸念し始めていたのです。このため、安東としては当初、光広の勝山館入封を認めませんでした。

しかし、蠣崎氏からの再三に及ぶ要請を受けてこれを認めるとともに、蠣崎氏がそれまで奉じていた上国守護職に加えて松前守護職への就任も追認します。さらには蠣崎氏に蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することをも認めました。

そこまでの譲歩をしたのは、これによって蠣崎が得た利益の上前をはねるためです。数々の便宜を図ってやる代わりに、彼らが得た運上の過半を安東家の拠点のあった内地・上国の檜山(現秋田県能代市)に送ることを彼らに命じました。

とはいえ、こうした優遇政策によって蠣崎家の勢いは主家の安東家を上回るようになっていき、松前大館や勝山館に拠る蠣崎氏の勢力は他の館主に優越する体制が固まりました。そしてやがて、従来蝦夷南部においては安東家の下にあって一派にすぎなかった蠣崎氏による他の館主の被官化が進んでいくようになります。

松前藩の成立

南北朝時代が終わって戦国時代に入り、下克上の世の中になると、さらに蠣崎家の勢力は強まり、東北北部から蝦夷南部に影響力をもっていた主家である上国安東氏から実質的に自立の傾向を見せるようになります。

蠣崎家はまた、アイヌの慰撫・調略も進めました。光弘の子、蠣崎義広(4代)の時代にはアイヌの酋長・タリコナを謀殺しました。また、その子の蠣崎季広(すえひろ)の時代には13人の娘を安東氏などそれぞれの奥州諸大名に嫁がせて政治的な連携をはかり、戦国大名としての地位を築き上げていきました。

蠣崎季広(5代)の子・蠣崎慶広(よしひろ・6代)の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵されました。これによって秋田を拠点とする旧惣領家である上国家安東氏から名実ともに独立する事になりました。

天正19年(1591年)には、秀吉の命に応じて九戸政実の乱に多数のアイヌを動員して参陣。これは南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直と奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱です。蠣崎慶広は国侍として討伐軍へ参加し、このとき旗下のアイヌが用いた毒矢が大変な威力を発揮したことが「三河後風土記」に記されています。

秀吉の死後、蠣崎慶広は徳川家康に接近して慶長4年(1599年)、姓名をアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで「松前慶広」に改めました。その後長きにわたって世に名を遺すことになる松前家の誕生です。

その後、慶長8年(1603年)徳川家康は征夷大将軍の宣下を受けました。これによって征夷大将軍のお墨付きを得るところとなり、松前と改めた蠣崎氏はその後の江戸時代を生き抜くことに成功しました。

蠣崎家は江戸初期には「蝦夷島主」として客臣扱いでしたが、5代将軍徳川綱吉の頃には、交代寄合(所領に住み江戸へ参勤交代を行う)に列されて旗本待遇になりました。

さらに、享保4年(1719年)からは1万石格の柳間詰めの大名となりました。当時の蝦夷地では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは名ばかりの格に過ぎませんでした。しかし、松前藩はこれとは別途交易によって大きな収益を得ていました。

慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状には、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認める旨の記載があります。このころ松前藩では、蝦夷地に藩主自らが交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形で与えていました。

これにより、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まります。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となり、請け負った商人はさらに、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させるなどして利益を出していました。

松前藩はまた、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとり始めました。

江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、松前藩がこの政策をとったことから両者の往来に関しては次第に取り締まりが厳しくなっていきました。結果、アイヌとの交易においては松前藩の寡占が続くようになります。



一方、松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業はこのころはまだ漁業でしたが、やがてニシンが不漁になり、収益が上がらなりました。そこで松前藩は蝦夷地と和人地の間の通交制限を緩和し、逆に蝦夷地へ和人が出稼ぎしやすくなる環境を構築しました。

漁業に代わって彼らの収入源になったのは林業でした。松前藩は和人の山師たちにヒノキが繁茂する森林地帯では樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また野火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めました。その一方で、アスナロ等の材木切り出させ、これを使った造船で収益を上げるとともに他藩との交易のために活用しました。

さらに伐採を出願制としたことから他藩からも山師が訪れるようになり、こうした山師には伐採のたびに運上金を課したため、これも大きな収入源となりました。

さらなる山師の要望に応えて、池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけるエゾマツの伐採が許可されると、伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下って石狩川口から本島へ船で運ばれました。これらの木材は江戸や大阪で障子や曲物へと加工されましたが、その材質の高さが高く評価され、広く流通しました。

こうした林業による収入によって藩の財政は潤い、城下町の松前は天保4年(1833年)までに人口1万人を超える都市となり、繁栄していきました。

このころから松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られるようになっていきます。商人の経営によって、林業から得る利益は莫大なものとなり、と同時に鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産も大きく拡大しました。ただ、それ以前からある熊皮、鷹羽などの希少特産物の生産は逆に減り、交易の対象ではなくなってきました。

一方、生活物資の中心となる米は、あいかわらず蝦夷地での生産が十分ではなく、このため対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていました。ところが1782年から深刻化した天明の大飢饉の期間は輸送が途絶、弘前から米がこなくなったため、大坂からの回送船による米の輸送が行われるようになります。

米だけでなく酒や砂糖、瀬戸内海各地の塩(漁獲物の塩漬けに不可欠)、日常生活品(衣服や煙草、紙、蝋燭、藁製品(縄や筵)など西方で生産された物資が蝦夷地で流通するようになり、これは、従来疎遠だった西日本側と蝦夷との結びつきを深めてゆく起因となりました。

このように松前藩がアイヌや西方諸国と活発な交易を行っているという情報は薩摩や琉球など諸外国と密貿易を行っていた国々にも伝わっていました。このため、やがて蝦夷地の存在は諸外国にも知られるようになっていきます。その結果、18世紀半ばにはロシア人が千島を南下してアイヌと接触するようになりました。

松前藩も当然そうした事実を知ってはいましたが、幕府に対してはロシア人の存在を秘密にしていました。しかしやがて幕府もまたロシアの南下を知るところとなり、天明5年(1785年)からは調査のための人員をしばしば派遣するようになっていきました。

そんな中、寛政11年(1799年)には、国防上のため、という理由から、幕府は蝦夷地の大半を取り上げます。その後文化4年(1807年)には西蝦夷地も取り上げ、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封の憂き目をみました。

しかしそれから14年後の文政4年(1821年)には、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前復帰が実現しました。

藩を挙げての幕閣重鎮に対する表裏に渡る働きかけが功を奏したためだと思われますが、その一方で、松前藩はこのころから北方警備の役割を担わされるようになりました。幕府としては、松前藩に蝦夷を返す代わりに、諸外国からの攻撃の盾の役割を担わそうと考えていた節があります。

幕末の動乱

このころの藩主は、12代松前崇広(たかひろ)です。文政12年(1829年)11月15日、9代藩主・松前章広の六男として福山館(旧大館)にて誕生。幼少期は武術、とくに馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学、英語、兵学を学んだ英才でした。

さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通でした。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させたのもこの松前崇広です。

この松前城は、公式には福山城と呼ばれていましたが、備後国にも福山城があり、これとの混同を避けるため松前城とも称されることが多くなりました。天守閣持ちの伝統的な建築技法を使った城としては江戸時代最後の城です。

その前身の福山館は、松前慶広の代に、松前氏が居城としていた大館(徳山館)を福山へ移城した際、1600年(慶長5年)から1606年(慶長11年)にかけて建設されました。

福山館には堀や石垣があり、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれるなど、ほとんど城と言ってよいほどの規模でしたが、松前氏が無城待遇だったことから、正式に城とは呼ばれていませんでした。

完成した新しい城は、これにさらに手を加えたもので本丸から三の丸まで総面積21,074坪もあり、三重櫓、二重櫓、太鼓櫓が建てられました。

城の強化のため、外郭石垣の輪郭を大きくし、さらに内側には二重の石垣を設置。建物の壁も、その外側に落とし板が付けられました。また旧式城郭として異例の砲台が三の丸に7つ置かれ、城のほかにも海岸砲台が16砲台33門も据え付けられていました。



この松前崇広の代には、日米和親条約によって箱館が開港されています。幕府は再度蝦夷地の直轄化を目論み、安政2年(1855年)に乙部村(現乙部町・江差近辺)以北、木古内村(現箱館近辺)以東の蝦夷地をふたたび召し上げ、松前藩の蝦夷における領地は渡島半島南西部だけとなってしまいました。

ただその代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、また出羽国村山郡尾花沢1万4千石が込高として預かり地とされ、これら合計およそ4万石余に加え別途手当金として年1万8千両が支給されました。しかしこれらより余程に儲かる蝦夷地の交易権を失ったために、松前藩の財政は以前より厳しいものとなってしまいました。

一方、幕府は西洋通の崇広を文久3年(1863年)に寺社奉行に起用します。寺社奉行はいわゆる三奉行の1つで、老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行とは別格で、三奉行の中でも筆頭格といわれていました。任ぜられた者はその後大阪城代や京都所司代といった重役に就くこともあり、最終的に老中まで昇り詰めることあってエリートの証でもありました。

松前崇広

(1864年(元治元年)頃。翌年老中にもなり、 開明的で英語も話せた彼は将軍家茂の信任を得て外国との交渉にもあたった。)

元治元年(1864年)、崇広はさらに老中格兼陸海軍総奉行となり、同年11月10日は老中にまで上り詰めました。松前崇広が老中に就任すると、乙部から熊石まで8ケ村が松前藩に戻されましたが、上知や新興の箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は苦しく松前城下に住まう藩士や民の生活レベルも低いままで据え置かれていました。

その後、大政奉還と王政復古がなされ、徳川幕府と新政府との対立が現実のものとなると、松前崇広は慶応元年(1865年)の第二次長州征討に徳川家茂の供をして京都、ついで大坂に至り、その後陸軍兼海軍総裁となりました。

この当時、幕府は英・米・仏・蘭の4ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放を内容とする条約を締結していましたが、朝廷から勅許が得られず、条約内容が履行されない事態となっていました。4ヶ国は軍艦を率いて兵庫に進出、兵庫開港を要求しますが、この事態を受けて、老中の阿部正外と崇広は独断で兵庫開港を決定します。

このため朝廷は正外と崇広に対して官位の剥奪、謹慎を命ずる勅命を下します。このため、将軍・家茂はやむなく正外・崇広両閣老を免職し、国許謹慎を命じるに至ります。これを受けて崇広は、翌慶応2年(1866年)1月に松前に帰還しますが、同年4月25日、熱病により松前で死去しました。享年38。その跡は養子の徳広が継ぎました。

この松前徳広ですが、11代藩主・松前昌広の長男として福山城にて誕生しました。嘉永2年(1849年)に父が隠居しましたが、徳広は幼少だったため叔父・崇広が藩主に就任しており、崇広の死によって、世子に指名され、13代当主となりました。ただ、元々肺結核かつ重度の痔疾で、さらに精神病でもあったために政務を執れなかったといわれています。

それでも藩主に抜擢されたのは文人で尊王派であったためであり、新政府との軋轢も少ないと考えられたためでしょう。

しかし、英才として高い評価を得ていた崇広は別として、このころの歴代藩主の評判はよくありませんでした。若年で家督を継ぐ藩主が続いたことから重臣に統治を任せすぎ、結果として専横への不満が藩にくすぶるようになっていたためです。

またこのころ、松前藩は新政府方と奥羽越列藩同盟にそれぞれお伺いを立てる、といった日和見政策を取っていたため、藩内では尊王派と佐幕派の両派閥が争う構図が露わになってきていました。

こうした中、藩をとりまとめていく自信がなくなったのか、徳広が藩主を退く発言をします。これを受けて、藩を主導する筆頭家老の松前勘解由らは崇広の次男の敦千代(松前隆広)の後継擁立を画策します。

しかし日頃から勘解由の執政に批判的な勢力がこれに反発し、勘解由は家老を解任・蟄居となりました。しかし実力者の勘解由抜きでは藩政はままならず、慶応4年(1868年)には家老に復帰。

これに反発して、同年7月には鈴木織太郎や下国東七郎といった尊皇派の40名余の家臣団らが蜂起します。そして箱館の新政府方と連携し、「正義隊」を名乗って徳広に対し建白書を提出、佐幕派の一掃と勤王への転向を強要しました。

政務の舵取りに弱腰の徳広がこれを承諾してしまったため、慌てた家老の松前勘解由は急遽登城しようとしますが反対派の妨害にあって果たせません。そこで、集めた1千名もの藩士と共に藩の武器弾薬庫から武器を出し、松前城の東にある法華寺から正義隊が立て籠もる城中への砲撃を企図しました。

しかし、徳広から君臣の分を弁えよ(わきまえよ)と説得され思いとどまりますが、翌日に勘解由は家老を罷免されてしまいました。

これを追い風と考えた正義隊は佐幕派重臣らを襲撃。勘解由も屋敷を襲撃され、一旦はこれを撃退しますが、自宅禁固となり、翌日切腹を余儀なくされました。その他重臣の多くは正義隊の思うままに処罰されるとともに、正義隊の名のもとに新たに合議局・正議局・軍謀局などが創設され、人材の新たな登用なども行なわれるようになりました。

しかし、藩内は著しく混乱したままであり、こうした状況の中、松前藩は箱館戦争を迎えることとなります。同年10月には榎本武揚らの旧幕府軍が北海道に来襲、箱館の五稜郭を拠点として松前に攻め込みました。

これらの動きに対して、藩主一同および藩の主力は山間部に新規に構築しつつあった館村新城(館城)に移動します。その直後に榎本軍の軍艦蟠竜が松前城の砲撃を開始し、これに対して松前藩側は榎本軍に奇襲をかけますが撃退されます。

一方の旧幕府軍側は土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名をもって松前城攻撃を開始、搦手門から攻めかかりました。このとき、松前城には城代家老、蛎崎民部を中心に五百名あまりが籠城していましたが、この城の構造は搦手門からの攻撃をほぼ想定していなかったため、容易に城内侵入を許してしまいます。

また、旧幕府軍の襲来前の藩内の内紛もあって城内勢力の意思は一本化されておらず防衛意欲を欠いていました。このため、旧幕府軍の攻撃に対して大砲などで抵抗するも反撃は長続きせず、数時間のちには開城するに至ります。残存の藩兵は城下に火を放ち、江差方面へ退却しました。

一方、榎本軍の別働隊500名は、徳広らの逃れた先の館城を攻略しようと来襲しました。このとき徳広らはさらに北部の熊石(現八雲町付近)に避難済みであり、城には60名ほどが籠っていただけでした。しかし、城の攻撃は継続され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となりました。

この戦闘では、豪傑として知られていた元僧侶の三上超順が、まな板を盾にしつつ太刀で奮戦した末に壮絶な戦死を遂げたという話も残っています。しかしこうした城兵の奮闘むなしく、やがて一同の力は尽き、ついには落城を迎えました。箱館戦争終結後ののち、松前藩はこの激しい戦いが続いたこの館城に因んで「館藩」を名乗っています。

追撃する榎本軍はさらに藩主徳広を追って熊石村に向かいますが、徳広ら男女60余名はここから船に乗り、本土の弘前藩へ落ちて行った後でした。榎本軍が熊石の番所内に入ったとき藩士およそ300名がいましたがこのとき全員が投降しました。

時を同じくして、江差に逃れた松前藩軍を攻めるために榎本軍の主力軍艦開陽が派遣されました。しかし江差の松前藩兵は既に退却済であり、しかも間の悪いことにこの日の夜、天候が急変し、風浪に押された開陽丸は座礁してしまいます。

箱館から回天と神速丸の二隻が開陽救出のために江差に到着しましたが、神速丸もまた強い風に流されて座礁。なすすべもなく総員が退艦した開陽丸は数日後に沈没してしまいました。

これによって榎本軍は頼みの海上戦力を大きく減らすこととなり、この失策はその後新政府方を勢いづかせるとともに、その上陸を安々と許すことにもつながっていきます。

一方、本土に逃れ、弘前藩領までたどり着いた徳広は、領内の天台宗の寺院・薬王院に逃れます。しかしここで喀血して倒れて5日後に死去。薬王院からもほど近い曹洞宗・長勝寺に埋葬されました。後年、旧津軽藩士の内藤官八郎が記した「弘藩明治一統誌」には、咽を突いて自殺したとの記述もあります。享年25歳。

松前徳広の長男、松前修広(ながひろ)は、このときわずか3歳で、榎本武揚ら旧幕府軍に敗れた父と共に最終的に津軽にまで敗走しました。

松前藩の消滅

明治2年4月、松前藩は新政府に協力して藩兵を出し、奪われていた松前城を奪回します。さらに翌5月、新政府軍から五稜郭内へ立てこもる旧幕府軍兵士に対して、総攻撃を開始する通知がなされました。これに対して榎本らは衆議を計り、結果として降伏を決め、これによって五稜郭は新政府軍に引き渡されることになりました。




こうして箱館戦争は終了しますが、これに先立つ前年の11月に松前徳広は死去しており、これを受けて同年1月には、息子の松前修広がわずか4歳で家督を継いでいました。

同年6月には版籍奉還により修広は藩知事となり、同時に藩名が舘藩に改称されます。こののち、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で館県になるまで館藩は2年間存続しました。

藩名の由来は、上述のとおり、館城で旧幕府軍との奮戦が行われたことにちなみますが、西部厚沢部村にあるこの地「館」に新城を建築するにあたってはわざわざ朝廷から許可を得るなど「館」の名や土地柄にこだわりがあったからかと思われます。

館藩が発足した初年には、松前や江差にあった口番所(藩の境界や交通の要所などに設置した番所)が廃止され、代わりに函館、寿都(すっつ)らに海官所(のちに海関所と改称)が設置されたため、口番所での収益に依存していた館藩の財政は深刻な打撃を受けました。

明治3年12月には館藩の訴えにより、従来の口番所の機能の一部が復し、松前、江差にも海官所が置かれたためにここからも運上金が入るようになったものの、インフレによって財政難は解決されませんでした。さらにオランダ商会、藩内の商人への借金及び藩札の大量発行を行ったことが、藩の財政を悪化させました。

政治的にも藩政を掌握した正義隊と反対派が対立し、反対派は開拓使に正義隊への非難を訴えるなど不安定な状態が続き、こうした問題は廃藩に至るまで解消されることはありませんでした。藩の内紛は悪化していた財政状態をさらに深刻なものにしていきました。

こうした窮状を受け、1872年(明治4年)に館藩は、家臣俸禄維持のため、松前城内の建物の銅瓦をはぎ取って売却し、一戸当たり7両を給付することを決めます。

これに先立ち、旧幕府側の降伏直後の明治2年(1869年)には、松前より北の和人地および蝦夷地(北州)には、太古の大宝律令の国郡里制が復活導入され、11国86郡が置かれて北海道と称されるようになっていました。また、箱館県(箱館府の後身)に設けられていた開拓使がその開拓を引き継ぐことになり、北海道の開拓は本格化しました。

明治4年(1871年)7月、廃藩置県により館藩の旧領には館県が置かれ、館県の範囲は、渡島国に属する爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡の4郡となりますが、二か月後の9月、館県は道外の弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県と合併、弘前県(後の青森県)の一部となり、ここに館の名を遺す郡は完全に消滅しました。

さらに翌年の明治5年(1872年)には、青森県内にあった旧館県の領地も開拓使に移管。これにより北海道全域が開拓使の所管となりました。

最後の藩主、修広は、明治17年(1884年)7月、子爵となりました。明治24年(1891年)1月にはさらに伯爵になることを願うものの、許可されませんでした。明治38年(1905年)3月26日に死去。享年41。

1874年(明治6年)には、道南で漁業税改正反対の漁民一揆が発生しました。これを受け、旧藩士による反乱を予防するため松前城を解体することとし、開拓使札幌本庁舎の屋根に転用するため、天守閣の銅板まではぎ取られました。

開拓使はその後、松前城の本丸御殿の建物を福山出張所としようとしましたが、老朽化がひどいため断念。1874年(明治7年)、天守閣、本丸表御殿、本丸御門以外の建物の解体を開始。古材は役所建築の材料としたり、民間に売却されました。同年5月には松前城の取り壊しに着手し、石垣を撤去、堀を埋めて更地としました。

既に松前や館の名は消滅していましたが、松前城天守閣だけは残っていました。これだけは残そうと旧藩士たちが政府や道庁に保存の補助を働きかけたが実現せず、中を改装して公会堂などに利用していましたが、昭和初期には修理続きで無用の長物扱いされる状態でした。

しかし、1935年(昭和10年)、城跡が国の史跡に指定され、1941年(昭和16年)5月8日には、天守閣、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されました。

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、軍の命令により、天守閣が敵の目標となるのを防ぐため、藁縄を編んだものを天守閣に被せて遮蔽しました。戦後、この網は除去されましたが、白壁が崩れて建物は骨ばかりとなり、鯱も落下している状況となっていました。

戦後の1946年(昭和21年)になって国が調査を行った結果、1948年(昭和23年)度に国と道で修理工事を行うことになりました。しかし、道が資金を捻出できず、修理は1949年(昭和24年)度まで持ち越されることとなりました。

ところが、ようやく解体修理を始めようとした矢先、城は火事に襲われます。1949年6月5日午前1時10分頃、国の史跡・松前奉行所跡であった松前町役場の当直室から出た火は飛び火して、午前4時には天守閣と本丸御門東塀を全焼。町民の多くは手を合わせ、涙ながらに落城を見送りました。

消失前の松前城(1935年ころ)

ただ幸いなことに本丸御門だけは焼失を免れていたため修理工事がなされた結果、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により再度重要文化財に指定されることとなりました。

現在ある天守閣は、その11年後の1961年に再建されたもので、基本構造は鉄筋コンクリートによるものです。外観は焼失前の姿をできる限り忠実に再現。5,792万円の寄付金に町費を加えた7,000万円の工事費で復元工事が実施されました。

2011年(平成23年)、この年の耐震診断で、鉄筋コンクリート造のこの復興天守閣は「国の耐震基準を下回っていて震度6で倒壊の恐れがある」とされました。

このため、補強か復元かの判断を迫られることになりますが、長い議論が交わされた結果、2018年(平成30年)に、2035年の完成をめざした木造による復元計画が松前町により公表されました。

しかし、事業費は30憶円といわれており、一般会計が約50億円の町にとっては大きな負担です。町としては史跡整備に関する国の補助制度を活用してぜひ実現にこぎつけたい考えです。

城郭の木造復元は、名古屋市が名古屋城天守で計画しているほか、高松城(高松市)でも検討されています。また、既に木造による復元が実現した城もあります。以下がそれらです。

白河小峰城三重櫓(福島県白河市 1991年)
掛川城天守(静岡県掛川市 1994年)
白石城大櫓(宮城県白石市 1995年)
新発田城三階櫓(新潟県新発田市 2004年)
大洲城天守(愛媛県大洲市 2004年)

筆者はこのうちの掛川城を訪れたことがありますが、昔ながらの本格木造の城は、やはりコンクリート製のものと違い、その趣が格段に違います。

松前城をはじめ、さらに多くの城が昔ながらの木造で復元されていくことを願ってやみません。

時の流れに

お盆が終われば、もうすぐ9月です。

齢を重ねると、時間が過ぎるのを速く感じるようになるといいますが、この調子でいくとなすべきことも何もできず年末までノンストップで行きそうな感じです。

年齢を重ねれば重ねるほど、時が過ぎるのを速く感じるという感覚はほとんどの人が持っているようです。一説によれば、これは齢をとると一定の時間内にできることや考えたりできることの量が減るからだといいます。限られた時間の中でできることが少なくなれば、相対的に時間が速く過ぎるように感じるのかもしれません。

うん?逆じゃないか?より時間が流れるのを長く感じるんじゃないか?と言う人もいるかもしれません。が、よく考えてみてください。たとえば、年をとると、昔はすぐにできた計算に何倍もの時間をかけなければならなくなる、といったことがあります。

また、若い時に30分で登れた山が1時間もかけなければ登れなくなったりもします。齢をとると何かをするとき何かと時間がかかりがちであり、ぐずぐずしているうちに、すぐに時間は過ぎていきます。

その過ぎ去る時間の速さは、いままで生きてきた時間の反比例で説明できるともいわれます。たとえば7歳の子供にとっての1年は人生の7分の1であるのに対して、70歳の人にとっての1年は人生の70分の1です。それだけ時間が過ぎるのが早く感じるだろうという論法です。

なんとなく意味はわかるのですが、何やら騙されたような気がしないでもありません。時間の過ぎる速さというものは個人的にもかなりの差があるはずですし、心理的にも時間というものは、さまざまな要因によって影響を受けて伸びたり縮んだりするのではないでしょうか。




さらに時間の長さは、その人が持っている世界観とも関わりがあるように思えます。「世界」といった場合、今生きていてこの目で見えているこの世だけをさすのか、あるいはあの世も含めるのか、はたまたさらに我々の想像もおよばない異次元空間までも含めて世界と呼ぶのかは、その人の考え方や思想、宗教観にも左右されます。

自分の目で見える世界だけが世界だと信じている人がいる一方で、目に見えない世界もある、と考える人も多くいることでしょう。宇宙のはるかかなた、手の届かない世界で流れる時間の概念は、おそらく我々のものとはかなり違っているのではないでしょうか。

また、死後の世界には時間という概念はないといいます。仏教などでは「転生」という考え方があり、これは人は何度も生まれ変わってくる、というものです。転生は、同一の時間軸の上に起こるものとされとされており、つまりはエンドレスに続けられるものであることから、そもそも時間という概念がありません。

人は死ぬといわゆる「魂」というものになるといわれます。肉体が生物学的な死を迎えた後には、非物質的な形態を得て新しいフェーズに入るという考え方で、もともとは哲学、もしくは宗教的な概念です。

ただ転生といっても、その思想は多様であり、世界各地で異なった考え方があります。西洋と東洋といった地域的な違いによって分けることもできますが、包括的に大きく分類すると次のようになります。

①循環型
②輪廻型
③リインカーネーション型

①の循環型は、どちらかといえば古い考え方です。転生といっても、部族や親族などの同族内だけで生まれ変わりを繰り返すというもので、人間だけでなく、時には動物や植物も転生するという考え方をする民族もいます。現在でも世界中で見られますが、どちらかといえば比較的小さな社会でみられるものです。

②の輪廻型は、サンスクリット語でサンサーラともいわれ、インドで生まれた転生観です。この思想においては転生のことを「流転」と表現します。生物は永遠に「カルマ」の応報によって、車輪がぐるぐると回転し続けるように繰り返し生まれ変わるという考え方です。

カルマは、日本語では「業(ごう)」とも訳し、これは「悪行」の意味ですが、もともとは単なる行為(action)というほどの意味であり、「良い」「悪い」といった色はありませんでした。しかし、仏教およびインドの多くの宗教説では、生きているうちに悪いことや良いことをなすと、それ相応の楽苦の報い(果報)が生じる、と説明してきました。

流転を繰り返しながら生まれ変わることで楽しい経験もしつつ、過去生で犯した罪を解消していくという考え方で基本的には転生を「苦」と考えています。限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と考え、二度と再生を繰り返すことのないよう何度も生まれ変わるうちに達する境地を「解脱」といいます。仏教では魂にとって至福の状態とされます。

③のリインカーネーション型は、比較的新しい考え方で、19世紀中頃にフランスで生まれた思想です。②の輪廻型と同様に人間は生まれ変わるとしていますが、それ自体は「苦」ではなく「成長」のためだとしています。

人類は生まれ変わりを続けることで直線的に進歩し続けていくという考え方です。人には「不死なる根源」があるという考え方で、それは転生を繰り返すことで向上していきます。それは俗に霊とか魂とかいう呼び方をされますが、もし霊と呼ぶのなら、生まれ変わるごとにそれは「霊的に進歩」していきます。

そして最終的に神に近い完全な存在になる、あるいは神と同化して神そのものになると考えられています。上の輪廻が生まれ変わるうちに苦を解消していくと考えるのに対し、リインカーネーションはいわばそれぞれの人生を「進歩の過程」と捉えています。




リインカーネーションという言葉はもともと、フランスの教育者、アラン・カルデックが1857年にその著書の中で用いたことでヨーロッパを中心に広まりました。日本では幕末の安政3年のことで、無論そんな理論はまだ入ってきていません。

カルデリックは、霊能力があるとされる親友の2人の娘の協力で交霊会を催し、その中で、人生のさまざまな問題や宇宙観について質問したところ、この生まれ変わりの概念を知ったとされます。

霊能力があり、「死者と話しができる」人のことを「霊媒」といいますが、こうした人を介して死者とのコミュニケーションをはかる催しを「交霊会」といいます。1840年代にアメリカで行われるようになり、1850年代に入ってからヨーロッパのブルジョワサロンでも流行り、熱狂されるようになりました。

カルデリックは教育者であったことからこうした非論理的な風潮には当初否定的でしたが、やがてこうした現象がもし本当ならば、宗教・科学の発展に大きく寄与しうると考えはじめました。そして、そうした「本物の能力」のある人物を広く探していたところ、この姉妹に出会ったのでした。

その結果、姉妹二人は抜群の霊媒能力を発揮します。普段はごく普通の明るい娘たちが、トランス状態になると、打って変わって真剣な様子になり、あるとき「あなたには重要な宗教的使命がある」とカルデリックに告げたといいます。

その後週末毎に2人の協力で交霊会を開くようになり、テーブルターニング(日本的に言えばこっくりさん)や自動書記によってあちらの世界の人々との交霊会をつづけた結果、カルデリックはその内容には信ぴょう性があると信じるようになりました。そしてその内容をまとめて出版する決意を固めます。

彼はまた、姉妹との交霊会だけでなく、いろいろな言語の複数の交霊会で霊言も収集して、その内容を吟味しました。大量の霊言を自ら細かく比較・検討し、公表すべき内容を絞り込んで編纂した結果生まれたのが「霊の書」と呼ばれるものです。

この本は、来世についての問答集(FAQ)の形態をとっていました。霊の起源、生命の目的、宇宙の秩序、善と悪などに関する様々な質問に答え、また、古代ギリシアのピタゴラスやプラトンの生まれ変わり観も参考にして編纂されています。



カルデックは1856年の交霊会である霊媒を通じて次のような啓示を受けました。「今、真実であり、偉大で美しく、創造主に相応しい宗教が必要とされている。基礎的な教えは既に与えられている。リヴァイユ(カルディックの本名)、汝には(その宗教を伝える)任務がある。」これは最初に出会った二人の姉妹から告げられたのと同じでした。

カルデリックは、その啓示を与えてくれたのは「真実の霊 (The Spirit of Truth) 」と呼ぶ一群の霊としており、彼らが語ったことに基づいて書かれた「霊の書」の真の著者はそうした霊たちであって、自分は編者に過ぎない、と書き残しています。

このカルデックですが、1804年にフランスのリヨンで生まれています。敬虔なローマカトリック教徒として育ち、長じてからは哲学と科学への関心を追求し、文学士号や医学博士号を取得しました。また、母国語のフランス語に加えて、ドイツ語、英語、イタリア語、スペイン語にも堪能でした。

彼は、パリ歴史協会、フランス自然科学協会、全国産業奨励協会など、いくつかの学術団体に所属するとともに王立アカデミーのメンバーでもあるなど、富裕層と多くの付き合いがありました。その一方で、「民衆教育の父」と呼ばれたヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの助手となり、貧困層に教育の機会を与えました。

このペスタロッチは、フランス人ではなくイタリア人です。イタリア系の新教徒の医師の子として生まれた彼は、地元のチューリヒ大学を卒業したのち、貧農を救助するため親戚からの援助で農場を創設したり、孤児や貧困の子供のための学校を設立するなどの活動を行いました。

「基礎的なものから高度なものへ」という分かりやすい教育思想を構築し、これが高い評価を受けて当時のヨーロッパで広くその名を知られるようになりました。

ペスタロッチの教育理論は主として初等教育向けのものでしたが、その後彼の思想を引き継ぐものによってより洗練されたものとなり、やがてその弟子たちによって幼児教育から中等教育へと応用が進み、大学教育の場でも使えるようになるなどの発展を遂げました。

現在多くの教育機関で実践されている初等教育のやり方の礎は、ほとんど彼によって築かれたといってもよく、その理論は日本にも伝えられ、教育界で盛んに研究されました。

教育学者でのちに広島大学の名誉教授となる長田新は、1947(昭和22)年)に日本教育学会初代会長に就任するなど戦後の日本の教育再建の立役者の一人ですが、ペスタロッチの研究者かつ信奉者でした。没後遺言により、その墓をスイスのペスタロッチの墓の傍らにわざわざ作らせているほどです。

カルデックもまたこのペスタロッチに大きな影響を受けて教育者になった一人であり、私塾でそうした教育学を先生の卵たちに教える傍ら、哲学、医学なども教えていました。20冊以上の教育関係の書籍を出版していますが、上の「霊の書」もそのひとつです。

このように「筋金入り」の教育者でもあったカルデックですが、「真実の霊」に出会い、霊的な世界に目覚めてのちは、その忠実な伝道者になっていきました。




そして彼が真実の霊から聞かされた内容を記した「霊の書」の中心にある思想こそがリインカーネーションであり、やがてその内容は、のちの世の神秘思想やオカルティズム、心霊論に大きな影響を与えていくことになります。

のちにアメリカで勃興した「ニューエイジ」と呼ばれるスピリチュアル思想にも影響し、これらはその後日本にも入ってきて、新宗教や新新宗教、精神世界と呼ばれるようになる教義を提唱する思想家たちにも影響を与えました。

ただ、カルデリックの理論はこうしたのちの世界だけでなく、この時代の人々にも大きな影響を与え、とくに彼が住んでいたフランスで彼の理論は広く受入れられました。

このころのフランスでは社会主義が浸透しつつありましたが、社会主義を唱える指導者たちがその思想を広めるにあたっては、カルデックが提唱するこのリインカーネーションの考え方はうってつけでした。

今世での境遇がよくないものであっても、それが過去世から継続してきているものだということになれば、過去生ではもしかしたら幸せだったのかもしれないと考えることができます。また、今生では不遇であっても、来世ではまた努力して幸せになれれば帳消しになる、と考えることができるようになれば、ここに「公平」の観点が入ってきます。

これはリインカーネーションの視点を取り入れないと成立しない考え方であり、カルデリックはこうした、「魂の進化」の原理が社会的不平等を受けている人々の復権を果たす鍵になると考え、社会主義者たちに積極的に自分の理論を広めました。

カルデリックはまず、キリスト教で言うところの「復活」は「死者が肉体を持って再び生き返ること」としているが、既に現在の科学では物質が再生することは不可能であることが証明されている、と主張しました。

その上でリインカーネーションとは、霊が繰り返し違う肉体を持つことであり、「復活」とは魂が生まれ変わって新たな肉体を持つことであると人々に説きました。

また、従来のキリスト教の説法だけでは真の復活は説明できないとし、「人類がこうした真理を理解することができるレベルに到達したので、キリストの教えを補完するためこうした考え方が現れたのだ」と説明しました。



さらにカルデックは、リインカーネーションは罪の償いのためにあり、魂が肉体を持つことでそうした償いを果たして進化した結果、最終的には解き放たれ、「天界あるいは神聖な世界」に到達すると説きました。肉体は霊の監獄か檻のようなものであって、肉体から解放された霊こそが本来の自由を獲得できると主張したのです。

「監獄か檻」というのは少々過激にも思える表現ですが、こうした彼の思想はのちに「カルデシズム」と呼ばれるようになりました。

カルデックはさらに、こうした教えでは進化してもその信仰がある限り退化することはなく、現在より劣位の世界に落ちることはないと主張しました。これはつまり、カトリックの人々がそれまで信じていた地獄や煉獄というものは存在しないということを意味しています。こうした説には彼らの死にたいする恐怖心を解放する効果がありました。

こうしてカルデシズムは、それまで、現世で悪事を犯すと地獄に落ちると恐れていたキリスト教徒を中心に広まっていきました。死後の世界には天国か地獄のふたつある、とするキリスト教と違い、死後の世界はひとつしかないとするカルデシズムの考え方は斬新なものでした。

それまでの欧米系の心霊主義では死後霊は再び肉体を持たずそのまま存在し続けると説いていましたが、カルデシズムはこれとは異なり、根本に「輪廻転生しながら進化していく」という考え方に大きな特徴がありました。

また、人間の霊魂は、与えられた自由意志によって生まれ変わりを繰り返しながら、より高等な霊へと進化していくという考え方が根本にあり、これが「霊の進化」と呼ばれるものです。

カルデシズムではさらに、霊にも階級があり、下級から上級までのヒエラルキー(階層制や階級制)があって、そのレベルを上げるために「霊の進化」があるのだとしました。

また神から自由意思を与えられた霊は、過ちという「負債」を作り、これが苦しみの原因であるとしました。このあたりは、転生によって苦が解消されるとする仏教と似ていますが、カルデシズムでは、そうした苦は過去世と今世での善行で解消されると説明しています。

そして「慈善活動」こそが善行の根本的なものである、と主張しました。慈善活動を行うことで自らの霊としてのレベルを上げ、そのことによって過去あるいは過去世の負債を支払えるとし、そうした行為を行うことで神から徳分(メレシメント)が与えられ、魂が救済されるのだと説きました。

「慈善活動」としたあたりに、多少の宗教臭さを感じさせますが、単に転生を繰り返していくだけで苦が解消されるとする仏教の輪廻転生と比べればかなり進歩的な考え方といえるでしょう。

こうした「初期のスピリチュアリズム」ともいうべき解釈は、さらに後年、神秘思想家ヘレナ・P・ブラヴァツキーによってさらに洗練されたものいなっていきます。ブラヴァツキーは、このカルデックの転生論を取り入れてより論理化し、その後「神智学」と呼ばれる分野を開拓した人物です。

この神智学では、転生するのは単に魂だけでなく「心霊的自我」が転生するのだと説明しています。これは、カルマとはすべての行為が原因となって生じる果報でありその変遷こそが人間を支配しているということを意味しています。

言い方を変えると、その自らの行為の結果をいずれは「自分で引き受ける」ことになる、ということです。人間は生まれる前から自身の運命を決めており、前世のカルマを解消するために生まれ変わってきます。

現在の人生で起こる良いも悪いもすべて過去生の経験から自分が自分で決めてきたものであり、それを今生では自己責任で解消することがカルマの解消につながっていくという考え方です。

神智学ではこれを「カルマの法則」と呼んでいます。この法則では、「自らの努力」がテーマであり、生まれ変わりの中でカルマを解消していくことにより、より無限の精神の向上が約束されています。

しかし、たいていの場合、今生の生だけそのカルマを解消することが不十分です。そうした人は、人生という「学びの学校」を、幾度となく繰り返し再生することで「霊的進化」を繰り返します。

そして、いつの日かその再生の必要がなくなった段階では、「霊的な完成」が待っており、神智学ではそれを「マハトマ(偉大な魂)」と呼び、「高次の自己」を持っている霊であると説明しています。

そうした高次の魂になる機会は誰にでも与えられており、自助努力によって無限の精神の向上を図り、最後には「神」に近い存在に近づくことができます。

こうした思想は自己を中心とした能動的なものといえます。救済が神によって与えられるという、受動的な考え方をするキリスト教とはある意味正反対の思想といえ、自己が自己を救済するというこの考え方はその後世界中で受入れられていくようになりました。そして、現在の精神世界的思想(スピリチュアル)へも多大な影響を与えています。

さて、今日は時間という枠にとらわれずに永遠に生きていく魂、ということについて少し触れてみました。まだまだ書きたりないことがありますが、続きはまた別の機会に書くことにしましょう。

お盆休みが終わり、また学校や職場などの元の環境に戻っていく人も多いでしょう。時間に縛られがちな毎日だと思いますが、これを読んだら少し「永遠の時間」ということについて考えてみてください。