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山口発

実は先週末から、郷里の山口に帰ってきています。六年前に亡くなった父の七回忌の法要のためです。合わせて姉の再婚相手との初めての会食などもあり、なにかと盛りだくさんの滞在でした。

今週の山口はものすごく寒く、かなり分厚いコートを着ていてもこごえるほど。しかし、短い滞在ながらも有意義な時間をすごせました。

馴染みの散髪屋さんにも行き、最近の山口の様子などもいろいろ聞かせてもらいました。ローカルな話ばかりなので、ことさらここで書き記すほどのこともないのですが、「地元」としては耳寄りな話もあり、なかなか良い時間を過ごしました。

最近の山口におけるビックイベントとしては、やはり岩国に新空港ができたことがあげられます。米軍の基地の一部が返還になったため、この場所を整備してできた空港のようですが、山口では二つ目の空港ということになります。

しかし、山口県民のための空港というよりも、岩国はどちらかといえば広島にちかいため、主には広島県の人の利用が多くなるのではないかという観測です。現在ある広島空港は、広島市の東部の西条というところにあるのですが、この地は市内から高速を飛ばしても2時間程度もかかるため、利用客にははなはだ不評でした。

ところが、新岩国空港なら、広島市内からも1時間ちょっとで行くことができます。まだまだ便数は少ないようですが、たとえば東京へ日帰り出張で出る際などには、往復で2時間あまりが浮くことになり、おおいに助かります。これからますます便利な空港として人気が出てくるのではないでしょうか。

ところで岩国といえばレンコンの一大産地です。ご存じだったでしょうか。おそらく日本で一二を争う出荷額を誇ったと思います。今頃からがその収穫の最盛期のはずで、これから本格的な冬になるにつけ、レンコン料理はなにかと滋養を得るのに良い料理素材です。

私が子供のころには、広島発山口方面行の鈍行列車に乗ると、岩国市内の前後では一面のレンコン畑が続く風景が見られ、花の咲くころ、たぶん七八月だったと思いますが、車窓からの見渡す限りの範囲すべてが蓮の花で埋め尽くされるという風情だったのを思い出します。

今はかなり宅地化が進み、見渡す限りハス畑という風景を見るのはさすがに無理でしょうが、いまもかなり広範囲にわたって咲き誇るハスの花が見れるところがあるはずです。これを見ている方で、夏に岩国方面に行かれる方はぜひ行ってみてください。

さて、今日はこれから帰宅のための準備をしなくてはなりませんので、いつものようにだらだら書いている時間がありません。

伊豆への帰路では、先日の笹子トンネルの崩落事故を起こしたのと同じタイプのトンネルをいくつか通ることになります。少々心配ですが、事故の起こる確率を考えるとさほど心配することもないでしょう。

今日はもう書きませんが、この短い滞在を利用して、久々に厳島神社にも行ってきました。さすがに紅葉は終わっていましたが、まだ多少なりとも赤い葉が残っていて、晩秋の風情が味わえました。これまで行ったことのなかった大聖院という高台にあるお寺さんが印象的でした。弘法大師ゆかりということです。

修善寺も弘法大師ゆかりということで、何かしらご縁も感じます。弘法大師の足跡もまたこのブログでたどってみたいなと思います。

そうそう、先週、修善寺虹の里のもみじの夜間ライトアップにも行ってきました。それも書かなくては。ここしばらくは何かと話題に事欠かない日が続きそうです。

エアライフルのはなし 2

昨日、エアライフルの話を書きましたが、メカニズムのことについてはあまり書けなかったので今日は少しそのことについて書きたいと思います。

エアライフルとはその名の通り、空気銃です。とはいえ、単に空気だけを使うものだけではなく、不燃性のガスを用いて弾丸を発射する形式のものもあり、その用途も子供向けの玩具から、射撃、狩猟に用いるものまであってバリエーションはかなり幅広いものです。

昨日書いたとおり、日本では一般に「空気銃」と呼ぶ場合、いわゆる「実銃」とみなされることから公安委員会の所持許可が必要となり、非常に厳しい審査を受けないとその所持が認められません。

しかし、欧米などの英語圏では、一般に空気銃をairgun(エアガン)と称して普通に所持している家庭も多く、弾薬を必要としないためその規制は比較的緩やかです。

空気銃が歴史上に登場したのは、15世紀のヨーロッパです。その機構は圧縮空気を使用して弾丸を発射するという単純なものですが、圧縮空気を溜めるシリンダーは高圧に耐えなければなりませんし、そのバルブには、耐圧性もさることながら高い精密機械加工技術が必要となります。

このため、初期の段階ではあまり高圧の圧搾空気を用いる事ができず、あまり威力のある空気銃を作ることができず、もっぱら屋内での射撃練習用の銃として使用されていた程度でした。

ところが年々加工技術が発達してくると、工作技術が進化した結果、次第に威力も高い物ができるようになり、狩猟などの実用目的のエアライフルも造られるようになってきました。また、火縄銃などとは違って、悪天候下でも弾丸の発射できる空気銃は次第に高く評価されるようなっていきました。

しかし、初期の空気銃は圧縮空気を溜めるため、数十回はポンプで空気を送り込んで圧縮する「ポンピング」という作業を行う必要があり、戦争などの現場ではなかなか実用的な銃として採用されるというわけにはいきませんでした。

日本で、空気銃を初めて作ったのは、鉄砲鍛冶職人の家に育った国友一貫斎(国友藤兵衛1778年~1840年)という人物で、1819年(文政2年)に、オランダから幕府に献上された玩具としての「風砲」を元に、実用レベルの威力を持つ物を完成させたのが初めだと言われます。

このオランダからもたらされた風砲を改良した銃はその後、「気砲」と日本語に訳されました。一貫斎はオランダ製の銃を解体し、各部品を詳細に研究した末、元となったオランダ製よりも射程に優れ、操作も簡単な気砲を作り出すことに成功しました。

また、一貫斎はポンプで空気を送り出した回数により、銃の重さが変化することに気づき、空気に重さがあることを発見した人物としても知られています。

空気銃の基本的な構造は、空気または不燃性のガスの圧力を用いて弾丸を発射する点においては玩具から実銃まで共通です。しかし、その圧力をどのように得るかという構造においてだいたい以下のような4つの方式が存在します。

ポンプ式

銃本体に装備されたポンプを用いて空気を貯め、一気に弾丸を発射する構造です。ポンピングは本体に装備されたレバーを用いて行います。その装着位置により、主にアンダーレバー、サイドレバーに分類され、一般にサイドレバーは競技用に、アンダーレバーは狩猟用に多いようです。

昔のものは一回では発射に必要な空気を貯めることができませんでしたが、近年のものではたった一回のストロークで蓄気を行うことができ、とくに競技用の銃は蓄積された気圧はレギュレータで一定に制御され、安定した初速を得ることができるという優れものです。

狩猟用でも一回で蓄気できるものがありますが、特にレギュレータは設けず、ポンピング回数を増減することで、使用弾丸の種類や猟場、獲物に応じた初速、威力を変更できるものなどもあります。

一般にポンプ銃は、撃発時に大きな可動部を持たないことから、反動も少なく高い命中精度を持ちます。このため、その昔はオリンピックなどで用いられる銃のほとんどはポンピング銃でした。

しかし、発射ごとにポンピングという大きな動作を要するため速射性に劣り、狩猟にはあまり向きません。また狩猟用マルチポンプ銃では、必要な威力を得るために結構な筋力を要求されるといいます。日本では、「シャープ・チバ」という山梨の小さな業者さんが狩猟用マルチポンプ銃を製作しているということですが、人気が高く愛用者が多いそうです。

スプリング式

スプリング式は、空気銃全体ではもっとも代表的かつ普及した方式であり、シリンダー内に組み込まれたピストンを圧縮したスプリングで前進させることにより、シリンダー内の空気を圧縮して弾丸を発射する構造です。

構造がシンプルで丈夫、さらに比較的安価なことから、海外では気軽な標的射撃から狩猟用まで広く普及しています。しかし、構造上反動や振動が大きく、他の方式と比べると精度の面で劣る場合が多いため、オリンピック競技のような本格的な競技などで使用されることはほぼありません。

ガス(CO2)式

空気の代わりに圧縮された炭酸ガス(CO2)を用いて弾丸を発射するものです。使い捨ての小型のボンベ(CO2カートリッジ)を銃に装填して使用するものと、親ボンベから専用のシリンダーに充填して使用するものに分けられます。主に前者は狩猟用に、後者は競技用に用いられます。

ポンピング動作やスプリング圧縮のような大きく、力を必要とする操作が不要であり、速射性に優れ、特に狩猟用では連発銃を実現しやすいというメリットを持つ反面、周囲の気温によって炭酸ガスの圧力変化が大きいことがデメリットです。

狩猟用としては猟期が寒冷な時期であることから、低い気温による圧力の低下が大きな問題とになります。競技用でも環境問題(二酸化炭素排出)への意識の高まりもあり、現在ではほぼ使われていません。

プレチャージ式(圧縮空気式)

銃に装備されたシリンダーにおよそ200~300気圧という高圧空気を充填し弾丸の発射に用いる方式です。排気バルブを短時間づつ開放することで一定量の圧縮空気を小出しに使って弾丸を発射します。あらかじめ圧縮してあるボンベを内蔵しているため、ポンピング動作なども不要となり、射手は装薬銃のように射撃に集中することができます。

ポンプ式同様、撃発時に大きな可動部を持たない構造は高い命中精度を持ちます。競技用ではレギュレータを装備し発射に使用する空気圧を一定に保つ構造が一般的であり、一度の空気充填で多くの弾数を安定した初速で撃ち出せます。ただ高精度な射撃を行う場合には充填圧の管理が重要となります。

狩猟用では競技用に比べ弾数より威力に重点が置かれることから、レギュレータは装備しないのが普通で、この点はポンプ式と同じです。空気の充填には、自転車用空気入れに似た形状のハンドポンプ、あるいはマリンダイビングなどに用いる圧縮空気が充填されたボンベを用います。

ハンドポンプは手軽ですが、高圧空気の充填には相応の労力を必要とするためあまり使われません。プリチャージには、充填に伴う補器類が必要であったり、構造的に神経質であったりという欠点は持つものの、その精度や利便性などのメリットは欠点を補って余りあるものです。

私が射撃をやっていた当時はこうしたものはあまりありませんでしたが、現在では技術が開発が相当進んだようで、現在で圧縮空気式はポンプ式とともに競技用としては主流になているようです。無論、狩猟用でも高性能のものがあり多用されています。




このようにいろいろな方式で空気を圧搾する空気銃が存在しますが、その形状としてはエアライフルとエアピストル(空気けん銃)の二つが代表的なものであり、このほか日本独自の銃種としてハンドライフルと呼ばれるものがあります。通常、競技用の口径は4.5mmで、狩猟用の口径は4.5、5.0、5.5、6.35mmなどがあります。

弾丸はたいがいは鉛で作られていますが、最近は弾道性能を高めるために何らかのコーティングがされているものもあると聞いています。

このうち、エアライフルは、主として長距離の弾道を得るための空気銃です。長い距離においても高い精度を保つため、装薬ライフル銃と同様に銃身にライフル(旋条)が切られています。

海外では無許可で所持できるケースが多いようですが、昨日述べたとおり日本では厳しい銃刀法の規制下にあり、実技面の教習等が免除となるものの、他の手続きは装薬銃や散弾銃)とほぼ同じであり、その所持のためには相当厳しい審査と面倒な手続きが必要です。

一方、エアピストルも基本的にはエアライフルと同じ構造ですが、銃身が短いのが最大の特徴です。日本では口径4.5mmの競技用で、日本ライフル射撃協会が認めた銃のみの使用が許されています。これを所持する審査はエアライフルよりも相当厳しく、そのためにはまず日本ライフル射撃協会の推薦が要求されます。

日本ライフル射撃協会に所属することが求められ、エアライフルもしくはハンドライフルによる一定の実績と段級を取得することが必要になります。しかも許可される総枠が500名と定められていて、許可の更新は行われず2年ごとに新規に推薦を得て所持許可申請をする必要があるという厳しい基準があります。

この際、所持年数に応じた一定の成績の向上が要求され、その条件を満たしていない場合推薦はなされず、したがって所持許可も下りません。このためこの500名の枠に入る人の新陳代謝は相当激しく、やはり若い人が多いようです。

これだけ厳しい規制が張られているのは、空気銃といえども「けん銃」であるためです。その気になれば上着のポケットにも入ってしまうほどの大きさのため、よからぬことを考える輩が手にすれば大変なことになる、というのが公安の言い分なのでしょう。

わからない気もしないでもありませんが、何かと規制緩和が進んでいる世の中ですから、もう少しなんとかならんのかな、と思います。たとえば、銃は警察の目の届くところに保管しておき、メンテナンスや練習の際にはその都度取に行くというような方法もあろうかと思いますが……。

そもそも公安は射撃を「スポーツ」と考えていないようので仕方がないといえば仕方がないのですが。

ところで、日本では、もうひとつ「ハンドライフル」なるへんな空気銃があります。これは、けん銃の所持が難しい日本独自の銃種で、なんのことはない、基本的にはエアピストルと同じです。ただ、持ち運びがピストルのように簡単にできないように、エアライフルと同じような長さにするため、グリップ部にライフル様の簡易なストックを装着してあります。

また、銃身にはスリーブをかぶせて延長しており、これにより法律上はエアライフルと同じ扱いとなり、所持が容易となります。その射撃の仕方はけん銃と同じであり、片手で持って撃ちます。エアピストルを自由に持つことができないため、競技人口が増えないということを批判する向きもあり、その非難をかわすための措置のようです。

無論、エアピストルを持てる「500人」になるための練習用の銃という意味合いもあるのですが、法律を変えずにピストル本体のほうの構造に手を加えて無理やり自分たちの都合にあわさせたようなかんじがしてなりません。世界的にみても稀有な成り立ちの銃です。外国の人が見たらどう思うでしょうか。

以上、昨日まで描けなかったエアライフルの構造について述べてきましたが、最後に近年の日本の標的射撃競技の現状について少し書いておきましょう。

標的射撃競技には、ISSF(世界射撃選手権)のルールに準拠した、日本ライフル射撃協会の主管する静的射撃競技と日本クレー射撃協会ランニングターゲット部会の主管するランニングターゲット(動的射撃)競技のふたつがあります。

エアライフルにょる静的射撃競技は、10mという射距離で実施され、立射、伏射、膝射(しっしゃ)の三つの撃ち方それぞれの合計点で他者と競います。こ三つの撃ちかたのうち、最もハードで命中率が悪いのは立射です。このため、立射だけでその得点を争う競技もあります。

現在のオリンピック競技などで採用されているエアライフル競技もこの10mという射距離だけです。これ以上の射距離の競技はありません。

2000年代前半、JAFTA(日本フィールドターゲット射撃協会)等が中心となり、主として50m射場で狩猟用エアライフルを用いた標的射撃が注目を集めたそうです。しかし、射場におけるマナーの問題や射場に関連した法令の問題等でなくなってしまったようで、この背景にはやはり公安の規制がありました。

射場の法令問題とは、10mを超える射距離の空気銃射場は、その全長を構造物で覆わなければならない(覆道式)と内閣府令で規定されていることです。

薬装の小口径ライフル(22口径)では、50mの射距離で競技が行われることが多く、この薬装用のライフル競技場を使って空気銃競技の実施が可能と思われたのですが、この薬装用のライフル射撃場を調べたところ、その大部分は上記の内閣府令に抵触することが判明したため、多くの射場では次々と空気銃の使用が不可となりました。

一部に覆道式で空気銃の使用が可能な50m射場も存在するものの、多くの地域では事実上10m射場しか利用できないのが現状です。

前述のISSF(世界射撃選手権)で行われるエアライフル競技は10m競技だけであり、標的射撃しかやらない人にとっては、10mの射撃場で十分なのですが、狩猟を目的としてエアライフルを所持している人にとってみれば、現代の空気銃の性能や平均的な射距離を考えれば、10mの射距離というのはあまり現実的なものではありません。

また10m射場の多くはその設備を含めて競技用空気銃の使用を前提にしているため、標的交換機等の射場設備が破損する恐れもあることから、狩猟用空気銃の使用を禁じたり制限しているところも少なくないといいます。

狩猟用といえども、調整や練習に射場での射撃は欠かせないものであり、空気式の狩猟用射撃銃はランニングコストも安いことから、50m用の狩猟用エアライフル射撃場を復活ささせてほしいという声は根強いようです。




私自身は狩猟射撃はやったことはありませんが、昨今全国でイノシシやシカなどの被害が相次ぐなか、これらを駆逐するため猟友会の方々の出番は増える一方のようです。シーズンオフの技量維持のための練習は、猟期中の安全確保という面からも欠かせないものであり、射距離の長い狩猟用空気銃用の射場の確保は大変重要なことであると私は思います。

しかし、50m用のエアライフル射撃場が無くなってしまった理由としては、このほかにも射場におけるマナー問題があるといいます。

マナーの問題というのは、こうした小口径ライフル射場における競技を目的とする射手と狩猟を目的とする空気銃射手の意識の違いから生じたものです。

競技射手にとっては射場は真剣勝負の場なであり、練習といえども射手はかなりストイックな意識で射座に入っています。しかし狩猟系の射手にとっては、主戦場はあくまで猟場であり、射撃場は練習や調整が主目的の比較的気軽な場であります。

複数人が集まれば談話もしたくなり、片や射撃に集中している横で、話し声や笑い声が聞こえてくれば、やはり反感を覚えるものです。こうした軋轢が意識的な対立に発展することも多かったそうで、こうしたことも近年の長距離射場の閉鎖に拍車をかけたようです。

そういえばその昔、伊勢原の山の奥にあった射撃場に行っていたころ、猟友会の方たちも練習をやっておられ、我々の練習をみて話しかけてこられる方もいました。中にはタバコを吸っておられる方もいて、いやだなーと思いながら練習を続けていたことなどを思い出します。

練習をいったん離れ、談笑する中などではきさくで楽しいおじさんたちでしたが、やはり別々の目的で射撃をする人たちは別の人種のように見えたことは確かです。

これから標的射撃を始めようという人にとっては、あまり関係のない話かもしれませんが、害獣の駆除という任務がある彼らにとっての射場の確保も大事な話であり、その両方が満足できるような射撃場の整備が今後は必要になってくるように思います。

日本の射撃人口は公安の規制などもあって諸外国に比べれば極端に少ないようですが、今後も射撃をやる人が急増するというようなこともないのでしょう。いつまでもマイナーなスポーツのままなのかもしれませんが、一度やってみるとその爽快さや素晴らしさがわかると思います。

ちなみに近年は青少年の精神力増強のために、ビームライフル射撃を学内のクラブ活動として導入する学校も増えているそうです。免許がいらないことから民間の会社組織で運営されているビーム射撃場もあるようです。

使われている銃も、将来エアライフルへの転向に備えて本物そっくりのモノもあるようですから、こうしたところへ行けば少しはその味わいを感じとることができるでしょう。

また、厳しい規制があるとはいえ、健全な生活を送っている方であれば免許の取得は不可能ではありません。昨日も書きましたが、こうした難しい免許をとることができるということは、精神的にも人格的にも問題がない人物であると証明してもらったようなものです。

公安の免許をとり、あなたもぜひスポーツ射撃にチャレンジしてみてください。




エアライフルのはなし

このブログではあまりスポーツの話題をとりあげたことがありません。スポーツが嫌いというわけでもないのですが、昔からスポーツの代表ともいえる「球技」は苦手だし、球技というよりも団体で行動するスポーツがそもそもあまり好きでない、というひねくれた性格のためでもあります。

このため、ひとりでやるスポーツのほうが好きで、登山やジョギングのほか、学生のころはライフル射撃をやっていました。

この射撃競技のひとつの「エアライフル射撃」というのをご存知でしょうか。エアライフルとは空気を用いて弾丸を発射する形式のライフル銃で、俗な言い方をすれば空気銃のことです。

大学生のころ、エアライフルを使う「エアライフル射撃部」作るために仲間を集め、大学に申請してこの設立を認めてもらったことがあります。外部からコーチも招き、日々トレーニングに励んでいた時代を思い出します。

腕を上げるために明けても暮れても練習に励みましたが、なんとか競技大会に出れそうになったころには卒業が迫り、卒論の執筆や就職活動を余儀なくされたため、やむなく練習を中断し、大学卒業後に再開しようと思っていました。

その後、就職は希望した会社に採用してもらうことができたものの、今度は仕事のほうが忙しく、結局そのまま競技大会に出ることもなく射撃をやめてしまいました。

自分で言うのは何ですが、腕前のほどはかなりのもので、少なくとも集めた仲間の中ではもっともうまく、おそらくもう一年、いや半年ほどトレーニングを積めば、大会に出れたのに……と今でも悔しく思います。

今からでもまた再開したいなぁとも思うのですが、今度は練習するための射撃場が近くになく、また40代のころに目を悪くして飛蚊症をかかえていることもあり、いまだに実現できずにいます。

このライフル射撃ですが、一見やわなスポーツに見えますが、こう見えてなかなかハードです。その理由のひとつは、ライフル銃の重さ。エアライフルといえども重さが5kgほどもあり、これを一日の練習で、二百回ほども上げ下ろししなければなりません。

仮に100回としても、のべ500kgの重量物を上げることになり、200回ならなんと1トンにもなります。かなりの重労働です。

しかもそれだけではなく、銃がぶれないようにするためには、強靭な足腰と、体の柔軟性が求められ、加えて強い精神力がないと自分に負けてしまいます。

冬季オリンピックには、「バイアスロン」という競技がありますが、これはクロスカントリーと射撃を合わせたものです。「動」のスポーツであるクロスカントリーと、「静」のスポーツのライフル射撃を組み合わせており、これは射撃をやったことがある私にはとてつもなく難しい競技だということが理解できます。

長い距離をスキーで滑って心臓がバクバクしている状態で伏射(寝そべった姿勢で射撃する)とはいえ、50mも先にある的を正確に射るというのは、かなりの鍛錬を積まないとできることではありません。

日本からの出場者はたいがいが自衛隊や警察官のようですが、日ごろから有事に備えて体を鍛えている彼らだからこそできる技だと思います。

バイアスロンに限らず、この射撃という競技は日本においてはそれほどメジャーな競技とはいえません。その最大の理由は、日本の公安当局が一般人が銃を所持することを厳しく制限しているためです。

たかがエアライフルといっても、その威力はすさまじく、至近距離で命中すれば人間の体ぐらいは貫通してしまいます。また、エアピストルという拳銃型のエアライフルがありますが、これは持ち運びがしやすい分、何かの犯罪に使おうとすれば隠し持つことがたやすくできます。

さらにエアライフルの場合、発砲時には銃声がほとんどなく、「暗殺」などに使用しようと考える輩にはもってこいの武器になります。江戸時代には既に「気砲」と呼ばれる空気銃が存在していましたが、幕府の鉄砲方はこれが暗殺に使われる可能性があると考えて危険視し、使用禁止令を出していたほどです。

その後、明治や大正の時代になって、国産の空気銃も製造されるようになり、戦後には実用的な狩猟用銃として一般にも広く販売されていました。中高生から大人に至るまで、鳥類や小動物を食用などにするために獲るための銃として広く使用された時代がありました。

しかし、1958年に銃刀法が制定され、また狩猟法も改正されたため銃砲所持許可手続きが煩雑になり、射撃人口は著しく減りました。しかし、70~80年代になって欧米で流行りはじめた「スポーツ射撃」が日本にも伝わって再び注目を集めるようになり、私たちもそのことを知り、母校の大学に射撃部を立ち上げたのです。

それからしばらくはスポーツ射撃の人口は徐々に使用者は増えつつあったようですが、その後公安委員会の許可を受けた銃砲による凶悪事件などが数件発生したことなどから、公安当局がこれを問題視するようになり、平成21年には「改正銃砲刀剣類所持等取締法」が制定されました。

この法律では銃砲所持許可に対する欠格要件が大幅に厳しくなり、とくに「絶対的欠格事項」という条件はかなりの厳しい内容になっています。たとえば許可には18歳以上で心身ともに健全であり重大な犯罪の前科や薬物中毒がないこと、暴力団関係者でないことが求められ、許可の審査にあたっては、本人の前科等のチェックはもとより、同居親族についても調査の対象となります。

また必要に応じ身辺のトラブルや近隣の評判まで調査の及ぶ場合があります。私が大学時代に銃の所持許可を得たときにはまだこの改定銃刀法は施行されておらず、その前の銃刀法の施行下での許可でしたが、一般的な審査のほかに警察官が広島の実家の父母のところにまで押しかけ、怪しい人物ではないかをヒアリングしています。

私が大学で射撃部を立ち上げる際の中心人物だったため、とくに念入りのチェックが行わのだと思います。考えてみれば「射撃部」という団体が成立すれば、私を含めて10人以上の人間が一度に銃を持つことになるわけであり、警察側からみればこれは要注意の団体と映ったに違いありません。もし、怪しい団体だったら「武装集団」にもなりかねないわけですから。

何も知らない父や母に迷惑をかけたことが少々心が痛みましたが、このときの驚きを両親はその後もときどき持ち出し、警察官が押しかけてきたとき、息子が何をしでかしたのかとはらはらした、と笑い話にして話してくれたのを思い出します。

このほか、日本での銃の所持には明確な目的が求められ、例えばコレクション目的のような曖昧な目的では許可されません。いったん許可を受けた後も毎年の銃砲検査と更新時に使用状況のチェックを受けます。

正当な理由なく許可された目的に使用されていないとみなされた場合、「眠り銃」として許可返納を求められることもあります。

なお、エアライフルは、日本ライフル射撃協会や日本体育協会の推薦を得れば、14歳から所持許可申請が可能です。本物の銃を持つことさえできないのに、なぜ14才?と思われるかもしれませんが、ライフル競技の中には、「ビームライフル」というレーザービームを使った「光線銃」の競技があり、これならば実弾を使わないため、少年でも練習ができます。

私の時代にはなかったものですが、その後の技術の発達によりこうしたものもでき、主に高校でビームライフルを使って射撃をする青年が増えてきています。こうした青年の中には短時間で腕を上げる者もおり、協会の推薦と親の承諾を得た上でエアライフルの所持のための申請をすることが認められます。

とはいえ、一般の人がエアライフルを所持するためには、まだまだいろんなハードルがあります。まず、「猟銃等講習会」という講習を受けなくてはなりません。室内での初心者向けの講義を受けるだけですが、終了時に考査試験があり、これに合格して修了証の交付を受けないと銃を持つことができません。

簡単な試験なのですが、あろうことか私はこれに一度落ちたことがあります。学生のころあがり症だった私は、試験だということでかちこちになってしまい、他の仲間は全員合格したのに私だけが失格になってしまいました。

幸いもう一度受講して修了証を受け取ることができましたが、あのときは友人たちの手前、恥ずかしくて消え入りそうだったことなどを思い出します。

さて、こうしてめだたく修了証を手にしたら、いよいよ銃の取得です。銃砲店で銃を選択し譲渡承諾書を発行してもらいますが、この際には公安当局から受け取った修了証の提示が必要になります。

ところで、お金を出せばすぐに銃がもらえると思ったら大間違い。銃砲店では所持する予定の銃のことが書いてある「許可申請書」を貰えるだけで、さらには病院に行って医師の診断を受け、前述した「絶対的欠格事項」に該当がないことの証明書をもらわなければなりません。

これは、私の時代にはなかったことなので、どんな風に言ったら病院でこれ貰えるのかは私にはよくわかりません。が、薬物中毒や精神異常ではないこと、などを検査してもらい、その検査結果をもとに証明してもらうのでしょう。

こうして、意思の診断書や銃砲店からの申請書などを持って所轄警察署窓口に行き、所持許可申請を提出したら、およそ一ヶ月程度の期間ののち、ようやく書類審査がしてもらえます。

しかし、これだけではなく、さらに身辺調査があり、また、届け出た住所の場所に銃を頑丈に保管しておけるカギ付きの「ガンロッカー」などの保管設備があるかどうかを警察官に確認してもらわなければなりません。

こうして、長い長い手続きを経て、ようやく所持許可が下りたら、ここで晴れて銃砲店で銃を受け取ることができます。ただ、これで終わりかと思ったらまだあり、今度はその銃を所轄警察窓口へ持ち込み、許可内容との照合を受け所持許可証へ確認印をもらう必要があります。

こうしてようやく空気銃とはいえ、ライフルを手にすることができます。しかし、日本での銃の所持はいわゆる免許制ではなく、一丁の銃と特定の個人の組み合わせにおいて許可される「一銃一許可」制です。つまり、講習会を得て修了証明書を貰ったからといって、二丁も三丁も銃が持てるわけではなく、たった一丁の銃しか持てません。

したがって、許可を受けた人間が所持することができるのは、その許可を受けた銃のみであり、新たな銃を所持しようとする場合、改めて所持許可申請が必要になります。

このような許可制度のため、日本では銃の貸し借りは不可能であり、例えば射撃場で他人の銃を試し撃ちどころか、正当な理由なく他人の銃を手に取っただけでも不法所持が成立してしまいます。

また許可を受けた銃は、毎年一定の時期に銃砲検査が実施され、そこで検査を受ける必要があります。許可の更新は3年ごとであり、銃ごとに更新しなければならず、更新時には再度猟銃等講習会を受講します。この講習会は「経験者講習」と呼ばれ初心者講習会とは内容が異なります。そしてその銃を引き続き所持するためにはその修了証が必要となるのです。

その後の銃の保管を行う、ガンロッカーについても厳しい規定があり、会社においてあるようなロッカーでは許可がおりません。

内閣府令によって定められた厳しい適合基準があり、例えばすべての部分が、厚さ1mm以上の鋼板製であることや、扉上下と本体が固定される構造であること、錠のかけ忘れ防止装置(施錠しなければ、キーが抜けない)を有すること、使用する錠は、120種類以上の鍵違いのものであることなどなどの規定があります。

格納時には用心金(トリガーガード)にチェーンを通して保管することも法令で義務付けられており、銃の発射に関係する部品等を他所に分解保管することも求められているなど、銃砲所持者としての厳重な管理責任が求められます。なお施錠した車のトランクなどは、法的に「銃の保管場所」とは認められず、うっかり車に銃を忘れてしまうことは違法行為にあたります。

……いかがでしょうか。それでもエアライフル持ちたいですか?興味のある方も多いでしょう。あまり一般性のないものには人は興味を持つものです。しかし、まがりなりにも人の殺傷能力があるわけですから、これくらいの厳しい管理を求められても仕方がありません。

法律で規制されているような「武器」を所持するわけですから、精神的な問題はないか、危険な思想は持っていないか、薬物中毒ではないか、人格に問題はないか……などなどをチェックされるというのはあたりまえです。こうした規制のないアメリカでは問題のある人物でも簡単に銃を手にすることができ、しばしば殺人事件が起きています。

そうした危険がないようにするためには、これほど厳しい規制もあってしかるべきなのかもしれません。

前述までの規制は、空気銃に関してのものであり、装薬式の銃砲についてはさらに厳しい規制があります。なので、日本での銃砲所持許可者の全体数は、長年減少傾向だそうです。このため、オリンピックなどの大会でも日本の選手が活躍したというのはあまり聞きません。

日本選手が金メダルを取ったのは唯一、1984年のロサンゼルスオリンピックのピストル競技における蓮池猛夫氏だけです。48才での金メダル獲得は日本のオリンピック史上最年長で、中年の雄として大きな話題になりました。

ただ、この方も自衛隊に所属しており、日ごろから射撃の練習が日課になっていました。今もオリンピック競技で好成績を上げる人の多くは自衛隊や警察官が多いのは、銃を持つことが日課である人たちであるためです。

一般人の場合は、上述のように銃を持つこと自体にもハードルが高く、その絶対数が少ないのに加え、設備の良い射撃場も限られており、般人がオリンピックに出るのは難しい環境にあります。
それにしても、射撃って何がそんなにおもしろいのかと言われると言葉に窮してしまいます。が、私の場合、あえていえばその「精密さ」でしょうか。

例えば、エアライフル競技の場合、的までの距離はわずか10mです。ところが、この10m先の的の大きさはわずか3cmであり、しかもその中央の10点圏の大きさはわずか2mm弱です。この部分にかすったかかすらないかで得点差を競うわけであり、このため、使用するライフルにはきわめて高性能な精度が求められます。

その昔には日本製のライフル銃があったのですが、射撃人口が少ないことから多くの会社は生産をやめてしまったり、生産していたとしてもあまり性能が良くないと思われていることから敬遠されることも多いようです。

私が学生時代に使っていた銃は、ファインベルクバウというドイツ製でしたが、現在も一流の射手の多くがこの会社の銃を使っています。この話をし出すとまた長くなりそうですから、その性能などについては、また後日改めて書きたいと思います。

が、その「つくり」はほれぼれするようなもので、私も学生時代にこれを手にしたときには、天にも上るような気持ちになったものです。

射撃は、かなり年をとってからもできるスポーツです。私が学生のころに時々行くことのあった伊勢原の射撃場にもかなり年配の方々が見えていました。銃を所持するためには厳しい規制のある日本ですが、逆の言い方をすればこうした厳しい規制をクリアーできた人は、人格的にも精神的にも大丈夫だよ、と警察から烙印を押してもらったような人なわけです。

年をとってからやるスポーツとしては、ゴルフやゲートボールもお手軽で良いかもしれませんが、何かスポーツをおやりですか?と聞かれ、「ええ、ちょっとライフル射撃を」と答えられるのはなかなかおしゃれだと思いませんか。同機は不純でも結構です。みなさんもぜひ、ライフル射撃にチャレンジしてみてください。

カメラのこと

突然ですが、カメラを持っていない、という人はおそらく日本人ではいないのではないでしょうか。それくらい日本人はカメラ好きな国民だと思います。

もともとの語源であるラテン語では、camera は「小さな部屋」を意味し、のちに政治や財政を司る「部屋」(官房・国庫)などと意味が拡大したそうですが、さらにこれが英語に訳されたときの camera は「暗室」を意味するようになりました。

このため古くは「写真術」を表す言葉だったと思われますが、時代が下がるつれ、撮影する機材そのものをカメラと呼ぶようになっていったようです。

今日はなぜか「カメラの日」ということになっているようなのでこの話題をとりあげたのですが、なぜカメラの日なのかというと、1977年11月30日に小西六写真工業(現コニカミノルタ)が、世界初のオートフォーカスカメラである「コニカC35AF」を発売したのを記念してのことだそうです。

ちなみに,フランスのルイ・マンデ・ダゲールが「ダケレオタイプ」という長時間露光の写真機を発明したことで制定された「カメラ発明記念日」はこれが発明された1839年の8月19日で、カメラの日とは別になっています。

このコニカのオートフォーカスカメラのことを覚えているとすると50代以降の年配の方でしょう。私も形はよく覚えていませんが、「ジャスピンコニカ」の愛称でテレビコマーシャルが流れ、このカメラが大きく宣伝されていたのをなんとなく覚えています。

それまでカメラを扱うのに尻込みをしていた女性層にこの「オートフォーカス」という昨日は多いに受け入れられ、爆発的な売れ行きを示したといいます。

コニカはこれに先立つ1963年4月にも世界初の自動露出(AE)カメラ「コニカAutoS」を世に送り出しており、その当時はカメラ業界におけるパイオニアとして広く名前が知れ渡っていました。

しかし、カメラ好きの私の目には、どちらかといえば「トイカメラ」的な存在のように映り、女性が好むというその前衛的なスタイルがあまり好きではなかったような記憶があります。

確かにニコンやキャノンといった高級一眼レフを作っている会社のカメラとは異なり、コストパフォーマンスを追求した結果からか、手にとった質感も何かちゃちなかんじがしました。

とはいえ、それまでのカメラでは、撮影するためにフレームで対象を捉え、シャッター速度、絞り、そして焦点という3つの要素を合わせて撮影しなければならなかったものを、このコニカのカメラは、そういう専門知識のない人でも簡単に使えるようになったという点で高い評価をすることができます。

カメラのほうで自動的に露出を決めてくれ、しかもピントまで合わせてくれるというのは、画期的なシステムであり、それまでは扱いにくい「機械」というイメージであったものが気軽に持ち歩けるアクセサリーのような存在になったのはこのカメラからではないでしょうか。

アメリカではこういう素人でも扱えるカメラというのを「休日に気軽に持ち出して使えるカメラ」というので Vacation Camera と呼ぶようになり、このことばがそのまま日本語に輸入されてローマ字読みされ「バカチョン・カメラ」ということばになったそうで、コニカのオートフォーカスカメラが出たころには、もうすでに市場でこの言葉は定着していました。

ところがこのことばは「馬鹿でもチョンでも扱えるカメラ」という意味だと誤解する人が多かったようで、「チョン」は朝鮮人のことで差別語だと騒ぐ人たちが出てきて、マスコミが使用を控えるようになり、その後、文章に書くのは禁句のような扱われかたをして消えていったという経緯があります。

日常会話ではみんなあまり深く意味を考えないまま、今でもときどき使われるのを聞くこともありますが、どちらかといえばやはり年配の人が使っているのではないでしょうか。

このオートフォーカスカメラですが、現在販売されているカメラはある程度以上の価格のものにはほぼ全部使われていますが、レンズ付きフィルムなどの安いカメラにはピント合わせの必要のない「固定焦点方式(パンフォーカス方式)」が採用されています。

絞りを絞り込んで焦点の合う範囲を広げたもので、比較的感度の高いフィルムで使うと近くの人物から遠くの背景まで全てに焦点が合います。すべてに焦点が合うのは良しあしであり、遠くにあるものと近くのものの遠近感がなくなってしまうなどの難点がありますが、ともかく安いので、いわゆる「トイカメラ」と呼ばれるもののほとんどは、この方式です。

こうした旧来のカメラにとって代わって登場したのが、コニカの世界初のオートフォーカスカメラ「コニカC35AF」ですが、オートフォーカスとはいえ、このころの技術ではまだまだピントを合わせるのは難しく、きちっとしたピントの写真を撮るのはなかなか大変でした。

ピントを自動で合わせるためには、カメラに組み込まれている「距離計」という装置を自動で動かすことになります。話すと長くなるのでやめますが、簡単にいうと、コニカC35AFでは二つの窓から入った被写体像を二つのミラー(片方は固定、片方は可動)で捉え、その二つの像が合致する箇所を判断、そのピント位置にレンズを駆動しました。

このカメラは大ヒットとなり、「ジャスピン」の名前とともに「AFカメラ」の名が世に浸透していきました。コニカはその後、ストロボを内蔵させた「ピッカリコニカ」なども発売し、これもヒットします。

他のカメラよりは若干高めの価格設定でしたが、オートフォーカスでストロボがついている、という形式のカメラはその後他者からも次々と発売され、数年でその後の価格はどんどん安くなっていきました。

その後、各社のオートフォーカスの性能は徐々によくなっていきましたが、なかなかスピーディにピントを合わせることができるカメラは登場しませんでした。

ところが、1985年にミノルタが発売した、α-7000は「位相差検出方式」という新方式を使っていたため、ピント合わせがよりスピーディーになり、しかも一眼レフカメラとして発売され、AF用の交換レンズも揃えられたため、爆発的なブームになりました。初めて買ったオートフォーカスカメラがα-7000だったという人は多いのではないでしょうか。

この位相差検出方式とは、対になっているラインセンサーを用いて、像の位相差(ズレ)から、ピントの合う方向を検出するAF方式で、α-7000は中央一点測距方式でしたが、その後ミノルタだけでなく、他社からも発売されるようになったAFの多くは多点測距となりました。

現在のデジタル一眼レフの多くもこの位相差検出方式を使っていますが、コンパクトデジタルカメラでは撮像素子を使う像面AFが主流で、これは画像のコントラストの違いによって距離を測りピントを合わせる方式です。複雑な装置が必要なく、安価なコンパクトデジカメにはもってこいの方式です。

このデジタルカメラは、撮像素子で撮影した画像をデジタルデータとして記録するカメラのことで、コダックが世界で先駆けて開発しました。

通称「デジカメ」とよくいわれますが、「デジカメ」は、日本国内では三洋電機や、他業種各社の登録商標です。三洋は「デジカメ」だけを使うのはかまわないが、「○○のデジカメ」といようにメーカー名を併記した記述は認めない、といっているそうです。

しかし、これだけデジカメという用語が一般化している現代にあって、一社だけがデジカメとはうちのカメラのことだよ、と言ってみたところで、あまり利益に結び付くような話ではないように思いますがどうなのでしょう。

ま、商標はともかく、日本で初めて電子式のカメラとされるものは、ソニーが1981年に試作し後に製品化した「マビカ」のようです。初の販売製品としてはキヤノンが1986年に発売したRC-701というのがあるそうですが、このカメラでは2インチのビデオフロッピーディスクを記録媒体として使用したそうです。

これに追随して、カシオは1986年にアナログ方式で画像を保存するVS-101を発売したものの、10万円台という価格はちょっと高すぎたため人気が出ず、大量の不良在庫を出しました。その後も990年代初頭に至るまでいくつかのメーカーから「電子スチルカメラ」と称するカメラが発売されましたが、ビデオカメラほどヒットしませんでした。

1988年に富士写真フイルムが開発した「FUJIX DS-1P」は当時のノートパソコンでも使われたSRAM-ICカードに画像を記録しましたが、これは発売されることはなく、その後富士フィルムは、1993年に電源がなくても記録保持ができるフラッシュメモリを初採用した「FUJIX DS-200F」を発売。しかし販売実績はあまり伸びなかったようです。

しかし、1995年にカシオ計算機が発売したデジタルカメラ「QV-10」は、外部記録装置なしで96枚撮影ができ、本体定価6万5,000円という価格が受け、それなりに売れたようです

今でこそ当たり前になっていますが、このカメラの一番のメリットは、液晶パネルを搭載し、撮影画像をその場で確認できたことで、また当時はWindows95ブームで一般家庭にパソコンが普及し始めた時期でもり、パソコンに画像を取り込めるということで、広く認知されるようになりました。

この機種はNHKの番組「プロジェクトX」でも取り上げられ、あたかも世界初のデジタルカメラのように紹介されましたが、上述のとおり、世界発のデジカメというわけではありません。

このカメラの成功を皮切りに多くのメーカーが般消費者向けデジタルカメラの開発・製造を始めました。QV-10発売の2か月後にリコーから発売されたDC-1にはカメラとしては初めての動画記録機能があり、その記録方法としてJPEGの連続画像が採用されました。

この頃の製品の画質はまだ数十万画素程度であり、電池寿命もそれほど良くなく、存在が認知されたとは言え購入層もその使われ方も限定的でした。

1995~97年ころというと、私が転職した先で方々へ出張に行き、現場の写真を撮って帰る機会も多かったころですが、デジカメで撮った写真など画質が悪くて使い物にならなかったので、あいかわらずアナログカメラばかり使っていたのを記憶しています。

当時のアサヒカメラや日本カメラといった日本を代表するカメラ雑誌の記事を読んでも、その性能がフィルムカメラを追い越すようになるなんてことはありえない、という論調だったのを覚えています。

ところが、このころから各メーカーとも猛烈な高画素数化競争や小型化競争などを始めます。市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇しつつも、価格も下がり続け、利便性も受けて、2005年頃にはフィルムカメラとデジタルカメラの販売台数がついに逆転。フィルムカメラからデジタルカメラへと市場が置き換わりました。

2000年初頭には日本のデジカメは世界で断トツのシェアを誇っていましたが、このころから海外の電気機器メーカーの参入も始まり、台湾や中国、韓国等のメーカーが開発競争に加わるようになります。

さらにはカメラ付携帯電話が流行したことから、携帯電話に付随するカメラの高機能化も加わり、とくに携帯電話の領域では海外メーカーのデジカメがかなりのシェアを占めるようになってきました。

しかし、日本のメーカー製の高級デジカメの質は現在でも世界のトップクラスであり、報道関係やプロカメラマンの間でもほとんどが日本製のデジタルカメラを使っています。

初期には高画質でも大型で可搬性のないものであったり、専用のレンズ群が必要で価格も数百万円になる一眼レフカメラも多く、一部の大手報道機関などが少数保有するだけの特別なカメラでしたが、最近ではこうした高級カメラも一般の人が入手できるくらいのかなりの手頃の価格になってきました。

フィルム現像にかかる費用がなくコスト的にも優れたデジタル一眼レフは、現在ではフィルムカメラを駆逐してしまい、報道カメラの中心的な存在となっていますが、こうしたカメラは専門家だけでなく、一般の人でも普通に所持するようになってきました。

はっきり言って、どうやってそんな高級なカメラを使いこなせるの?というくらい高額なカメラを持ち歩いているおじさんを良く見かけますが、こういう人に限って真っ暗闇の海の風景をストロボを焚いて撮ったりしています。

ま、こういう人たちが日本のカメラメーカーの快進撃を支えているわけであり、文句を言う筋合いはありません。しかし、良いカメラを持てば良い写真が撮れるというわけではありませんので、そうした意味では日本人のカメラに対する高級志向はもう少し改められるべきかな、とも思います。

このデジタルカメラの将来ですが、今よりもさらに高画質化が進むのでしょうか。私はそうは思いません。写真を見るのは人間である以上、ある一定値以上の高品質化は過剰といえます。

L版程度のプリントしか普段見ない人にとって、1000万画素以上のデジカメを使う意味は全くなく、A4版だとしてもこの程度の画素で十分です。こうしたことを一般の人はあまり意識して考えていませんが、いずれこうしたことがわかってくるころには、見た目に分からない品質にお金を出す一般ユーザはいなくなると思います。

なので、デジタル技術の進展に従い、コンパクトデジカメがスマートフォンにその地位を奪われているように、一眼カメラなどもやがてはコンパクトデジカメやあるいはスマートフォンにその地位を奪われるようになり、あまり高画質で高級すぎるものは逆に流行らなくなるのではないかという気がしています。

むしろカメラで撮影したものをどう扱うか、ということころが焦点であり、画像の処理技術であるとかプリントの方法であるとかに人々の興味が移っていくように思います。

さて、今日はカメラが話題ということで、少し熱が入ってしまいましたが、これ以上書くとさらに長くなりそうなのでやめておきましょう。

明日からはもう12月です。しかしまだ紅葉は散りきっていないと思います。週末はみなさんもデジカメを持って撮影に出かけましょう。

宝永山のこと

ここ数日天気が続いて富士山が良く見えます。いつもながらの風景ですが、そのすぐ脇にある宝永火山の噴火口はいつみても大きなあざのようで、朝日などに照らされるとくっきりとした影をそこに落とし、一層この付近の荒々しさを感じさせます。

宝永山は江戸時代の1707年(宝永4年)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山です。標高は2693 mもあるそうで、ここ伊豆からはあまりその山の形はわかりませんが、御殿場あたりまで行くと、円錐状の形の山が富士山の脇に張り付くようにそびえているのがよくわかります。

この宝永山の南東側の富士山の斜面には「宝永火口」があり、山頂側から順に第1火口、第2火口、第3火口と呼ばれていて、第1火口が最も大きく、我が家からは第2・3ははっきりと見えませんが、第1は肉眼でもくっきりとそれが確認できます。

この宝永山、あまりよく知られていないようですが、頂上までは登山道が整備されているそうで、富士山登頂に比べれば登頂は難しくないそうです。それでも2700m近い山であることから、夏山登山が普通で、冬に登る人はかなりの登山マニアでしょう。

とはいえ、御殿場口新五合目駐車場から山頂まで片道約1時間30分だそうで、装備さえしっかりしたものを持ち、天候に気を付けていれば我々でも行けそうです。

宝永山頂まで行かなくても途中までのルートで宝永火口は十分に見えるそうで、行ったことがないので偉そうなことは言えませんが、これを見るだけでも富士山の雄大さを実感することができるのではないでしょうか。

宝永火口が見える地点へは、御殿場口新五合目駐車場の東端から森林帯の登山道(宝永遊歩道)を利用すれば、距離が短く高低差も少ないため約20分で着くそうです。

登山期間は通常、5月上旬ごろから11月中旬ごろまでといいますが、私は冬季にこのルートが閉鎖されているかどうかは確認していません。多くの方が冬季に登ったレポートをブログなどで紹介されていますから、おそらくは警察署への届け出などは必要ないのではないでしょうか。

この宝永山と宝永火口を形成した、宝永大噴火は、有史時代の歴史に残った富士山三大噴火の一つだそうで、他の二つは平安時代に発生した「延暦の大噴火」と「貞観の大噴火」です。宝永大噴火以後、2012年に至るまで富士山は噴火していませんが、近年富士山周辺で大きな地震が起こっており、一昨年の東日本地震以降、微振動が続いているそうで、少々不気味なかんじです。

宝永大噴火のときの噴煙の高さは上空20kmにまで上がったそうです。「プリニー式噴火」と言うそうで大量の火山灰を伴いました。

プリニー式噴火は、数ある火山の噴火形式の中でも、最も激しいもののひとつで、膨大な噴出物やエネルギーを放出するのが特徴です。地下のマグマ溜まりに蓄えられていたマグマが火道を伝って火口へ押し上げられる際、圧力の減少に伴って発泡し、膨大な量の「テフラ」を噴出します。

テフラとは、火山灰や軽石、「スコリア」と呼ばれる塊状の岩滓(がんさい)などがごっちゃまぜになった混合状の噴出物で、火砕流などの現象を引き起こす大変厄介なものです。

このテフラや噴石は火山ガスとともに、火口から吹き上がり、柱状になって山体から吹き上がりますが、その様子はフィリピン・ルソン島のピナトゥボ火山が1991年に噴火したときの映像が世界中に流れ、これを見て記憶している人も多いと思います。

火口からの噴煙柱の高さは通常でも1万m、時には5万mを越えて成層圏に達し、1日から場合によれば数日、数ヶ月の長きに渡って周囲を暗闇に包みます。上空に達した噴煙柱はやがてその自らの重みに耐え切れずに崩れ落ち、火砕流となって四方八方に流れ下り、時には周囲100kmの距離を瞬時に埋没させます。

宝永の大噴火の際にも、100 km離れた江戸にも火山灰をもたらしましたが、幸いこのときの噴火では周囲を瞬くに埋没させるほどひどいものではありませんでした。溶岩の流下もなく、地下20km付近に溜まっていたマグマが滞留することなく上昇したため、爆発的な噴出とはなりましたがその量も比較的少なかったことが幸いしました。

噴火が起こったのは富士山の東南斜面であり、前述のとおり、これが後年宝永山と呼ばれるようになり、合計3つの火口が形成されました。

宝永大噴火は1707年の12月16日(宝永4年11月23日)に始まったとされています。噴火の直前に記録的な大地震があり、これは宝永噴火とは別に、「宝永地震」と呼ばれ、噴火による火山災害とは別に大きな被害をもたらしました。

噴火の始まる49日前の10月4日(10月28日)に推定マグニチュード8.6〜8.7と推定される宝永地震が起こり、この地震は遠州沖を震源とする「東海地震」と紀伊半島沖を震源とする「南海地震」が同時に発生したもので、これらの震源域を包括する一つの巨大地震と考えられています。地震の被害は富士山周辺だけでなく、東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋は2万戸に達しました。

宝永地震の翌日の卯刻(朝6時頃)にも、富士山の南側の富士宮付近を震源とする強い地震があり、駿河、甲斐付近でもこの強い地震動が感じられたといいます。いわゆる噴火前の「予兆地震」であり、これに先立つ4年前の1704年(元禄17年)の暮れにもこの地方で山鳴りがあったことが「僧教悦元禄大地震覚書」という記録に記されています。

このように宝永地震の余震と思われる地震が続く中、噴火の前日の12月15日の夜から富士山の山麓一帯ではマグニチュード4から5程度の強い地震が数十回起きます。そして翌朝の16日の10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていったことが記録に残っています。噴火の始まりです。

富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下しはじめ、家屋を焼き田畑を埋め尽くしはじめ、夕暮れには噴煙の中に火柱が見えるようになり、火山雷による稲妻が飛び交うのが目撃されたといいます。

噴火が起こったのは江戸時代の徳川綱吉の治世の末期で、江戸や上方の大都市ではいわゆる「元禄文化」と呼ばれる町人文化が発展していた時期でした。噴火の前年には、1707年(元禄15年)の赤穂浪士の討ち入り事件が近松門左衛門作の人形浄瑠璃として初演されています。

この噴火は、江戸の町にも大量の降灰をもたらし、当時江戸に居住していた医学者の新井白石はその著書に、次のように書いています。

「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」

直訳すると、「江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を多い、空から雪のような白い灰が降ってきた」という意味のようです。

また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかったといいます。伊藤祐賢という人が書いた「伊藤志摩守日記」には、最初の降灰はねずみ色をしていたそうですが、夕刻から降ってきた灰は黒く変わったと書かれています。

荒井白石によれば、2日後の18日までこの黒い灰は降り続いたようで、ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったのに対し、夕方には黒灰に変わっている点です。

噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠であり、東京大学本郷キャンパス内の発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2cm積もっていることが確認されています。この黒い降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされました。

当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれており、例えば、

これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳

などと風流に見えますが、かなり江戸の町の空気が悪くなっていた様子がわかります。

この後、宝永大噴火は延々と続きましたが、その後徐々に規模が小さくなり、12月31日までには完全に終焉しました。噴火後の最初の4日は激しく噴火したそうですが、その後小康状態をはさみながらの噴火が続いたといいます。

12月19日ころまでにはまだ江戸などでは断続的な降灰が続いていましたが、小康状態の期間が多くなり、20日〜30日ころには噴火の頻度や降灰量が減っていきました。

しかし、最後の最後の12月31日の夜になって噴火が激しくなり、遅くに爆発が観測されましたが、その後噴火は治まり二週間にわたる火山噴火はようやく終焉します。

この噴火による被害ですが、現在の御殿場市から小山町(御厨地方)は噴火の初期に最大3mに達する降下軽石に見舞われ、12月中旬から下旬の後期には降下スコリアに覆われました。これらのスコリアは熱を含んでいたため、家屋や倉庫は倒壊または焼失し、これらの地方では食料の蓄えがまったく無くなったといいます。

田畑もスコリアや火山灰などの「焼け砂」に覆われたため耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥りました。当時のこの地方の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施しましたが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかでした。

このため、藩主・大久保忠増は江戸幕府に救済を願い出、幕府はこれを受けて周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、この当時の関東郡代「伊奈忠順」を災害対策の責任者に任じました。

また被災地復興の基金として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源としました。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両で、残りは幕府の財政に流用されたといいます。

このあたりのお話は、東日本大震災で用意された復興費用が全く別の事業に流用されていたという事実と何やら似ています。役人というものは江戸時代から変わっていないのかと思ってしまいます。

ともあれ、こうした幕府による救済は徐々に浸透していきましたが、とくに小山町(御厨地方)では田畑が大きなダメージを受けたためにその生産性はなかなか改善せず、その影響はその後数十年も続きました。約80年後の天明3年(1783年)に至っても低い生産性しかもっていなかったことから、これに天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」といわれる大一揆がおこりました。

このほか、噴火により降下した焼け砂は、富士山東側の広い耕地を覆いまし。農民たちは田畑の復旧を目指し、焼け砂を回収して砂捨て場に廃棄するという対策をとりましたが、砂捨て場の大きな砂山は雨のたびに崩れて河川に流入し、河川環境を悪化させました。

特に酒匂川流域では流入した大量の火山灰によって河川の川床が上昇し、あちこちに一時的な天然ダムができ水害の起こりやすい状況をひきおこしました。

噴火の翌年の6月に発生した豪雨では大規模な土石流が発生して、酒匂川の大口堤が決壊し足柄平野を火山灰交じりの濁流で埋め尽くしました。その後これらの田畑の復旧にも長い時間がかかり、火山灰の回収・廃棄作業にはさらに何十年という月日が必要になりました。

このように、宝永の大噴火は、人的な被害こそ少なかったものの、その降灰による地域へのダメージが大きかったことが特徴です。このことは今後また富士山が噴火した場合でも同じ被害が繰り返される可能性があることを示しています。

情報の伝達がスムースになった現在では、富士山が噴火した場合の人的な被害は江戸時代に比べれば格段に小さいのではないかと考えられ、むしろ降灰が社会に与える影響のほうが大きいことが予想されます。

国の防災機関や地方自治体は、学識経験者などを集めて「富士山ハザードマップ検討委員会」を設立し、万が一の際の被害状況を想定して避難・誘導の指針を策定しています。この中で火山灰被害の例として「宝永噴火の被害想定」が詳細に検討されており、その調査結果がハザードマップとともに、内閣府の防災部門のホームページや関係市町村のサイトで公開されています。

この検討報告書では、宝永大噴火と同規模の噴火が起こった場合、火山灰が2cm以上降ると予想される地域は富士山麓だけでなく現在の東京都と神奈川県のほぼ全域・埼玉県南部・房総半島の南西側一帯に及ぶとされています。

この範囲では一時的に鉄道・空港が使えなくなり、雨天の場合は道路の不通や停電も起こることが予想され、また長期にわたって呼吸器に障害を起す人が出るとされています。

また富士山東部から神奈川県南西部にかけては、噴火後に大規模な土石流や洪水被害が頻発すると考えられています。ただし宝永大噴火は過去における富士山の噴火では最大級の降灰をもたらした噴火と考えられており、次の噴火ではこれほどの降灰はないのではないかという楽観的な見方もあるようです。

しかし、細かい灰はどこにでも侵入するため、電気製品や電子機器の故障の原因となると推定されていて、コンピュータや電子部品が全盛の今の時代には、江戸時代にはみられなかったような新たな災害が起こる可能性もあります。

予想もしなかったような電磁波のようなものも発生するのではないかと危惧する学者もいるようで、こればかりは江戸時代にも記録がないため、どのようなものが出るのかは誰もわかりません。

幸い、宝永の大噴火のときには我々が住んでいる中伊豆にはあまり降灰はなく、被害もそれほどではなかったようです。なので、もし再度富士山が噴火したら、ここら一帯は「避難区域」に指定されるのかもしれません。

今は空き家も多いこの別荘地もいずれは避難住民で一杯になる……そんなこともあるのかもしれません。大災害が起こったときにはお互い助け合うべきですから、そうなったらなったで努力はしたいと思います。が、できればそんなことにならないよう、日々、富士山に向かって祈ることにしましょう。