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漫画大国

戸田造船民族資料館にて

今、鳥取では、「第13回国際マンガサミット鳥取大会」という催しが行われているそうです。

「アジアMANGAサミット運営本部」という団体と県や米子市が主催しているもので、今月の7日から5日間の予定で、米子コンベンションセンターで開催されています。

このサミットは、日本、中国、韓国、台湾、香港の五か国が持ち回りで開催しており、国内では2008年の京都市に次いで4回目だとか。次回の開催は香港だそうです。

鳥取県では約3万人の人出を見込んでいるそうで、かなりの規模の催しです。今回のサミットのテーマは「食と海」で、開催五か国にマカオを加えた六か国から計177人の漫画家の参加も予定されています。

尖閣諸島の問題とか取りざたされているなか、大丈夫なのかなと思いましたが、案の定、中国は8月末段階の参加予定者31人を8人にまで減らしたそうです。せめて文化的な集いぐらい国を超えて協調すればいいのにと、ついつい思ってしまいます。

さて、今日はこの「漫画」について話題にしていきたいと思います。

文化庁所管の公益法人、「出版科学研究所」の発表によると、日本国内で2006年の段階で出版された漫画の単行本は10965点、漫画雑誌は305点だそうで、このほかにも廉価版の雑誌1450点が出版されています。

漫画と漫画雑誌の販売部数は、2006年に販売された出版物全体の36.7%に及ぶそうで、出版不況と言われる中において、出版業界における漫画による収益は大きな比重を占めています。

漫画というと、どうしても外来語である「アニメーション(アニメ)」と十把一からげにまとめられがちですが、アニメーションという言葉が1970年代後半から一般化し始めるまでは、テレビアニメ、アニメ映画などのアニメーション作品及び児童向けドラマなどはすべて、「漫画」「まんが」「マンガ」と呼ばれていました。

私も子供のころ「東映まんがまつり」などを映画館に見に行き、テレビでも「まんが日本昔ばなし」などが放映されていて、「アニメ」というよりも「マンガ」と呼んでいました。たしか、「テレビマンガ」という表現もされていたと思います。

最近の子供さんはみんな「アニメ」と呼ぶようなので、テレビのアニメを見て、「マンガ」などとついつい言ってしまう方、年齢がバレてしまいますので注意しましょう。

語源と歴史

さて、この「漫画」という言葉の意味ですが、字を見て素直に解釈すると「気の向くままに漫然と描いた画」という意味のようです。

「漫画」という用語がどのような経緯で使われるようになったのかはよくわかっていないようです。

が、中国から伝わった漢語では「気の向くままに文章を書く」、すなわち「随筆」を意味することばを「漫筆」といい、これが日本に伝来されて「漫筆画」という文字だけでなく絵を描く意味も含ませた語に派生し、これが変じて「漫画」になったのではないかという説があります。

また、中国語名で「漫画(マンカク)」というヘンな名前のヘラサギの一種がいるそうで、このヘラサギは雑食で水をくちばしでかき回して何でも乱雑に食べるようです。

このことから「種々の事物を漁る」という意味を表す言葉をマンカクというようになり、やがてマンカクとは「雑文」や「様々な事柄を扱う本」を指す意味に変じていき、これにも絵が加わって、絵や文字を綴ったものを「漫画」と呼ぶようになったという説もあるようです。

いずれにしても、もともとは文章を書いたものを指す用語だったものが、これに絵を加えたものも指すようになったと考えられているようです。

日本で初めて「漫画」という用語が使われたのは、江戸時代後期の1798年(寛政10年)に発行された「四時交加」という絵本で、この本の序文で浮世絵師の「山東京伝」という人が「気の向くままに(絵を)描く」という意味の言葉として、「漫画」を使ったのが一番最初といわれています。

しかし、漫画の発祥といえば、かの有名な平安時代の絵巻物「鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)」が日本最古のものであるとよくいわれます。

この時代にはまだ無論、「漫画」という言葉はまだ定着しておらず、また描かれたものも単に「滑稽な絵」という程度の単純なものでした。

このほかにも南北朝時代の作といわれる「福富草子」という御伽本では、主人公が「屁芸」で成功する話の中に、直接台詞が人物の横に書かれたものがあります。これは現代でいう「フキダシ」に近いものであり、このころの絵巻物には既に漫画的な表現が使われていたことがわかります。

また、平安時代末期の絵巻物で国宝に指定されている「信貴山縁起絵巻」でも一枚絵を連続させて次々場面転換をする技法が使われており、こうした絵巻物の文化自体が既に「現代の漫画」に似た要素を含んでいるという指摘もあるようです。

こうした物語風の絵を直接指し示して「漫画」というようになったのは、幕末に近い1814年(文化11年)に出版された葛飾北斎の画集、「北斎漫画」がはじめてです。北斎55歳のときの作で、その後1878年(明治11年)までに全十五編が発行され、人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれました。

この画集は国内で好評を博しただけでなく、1830年代にヨーロッパに渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどに影響を与えたというのは有名な話です。

北斎漫画のヒットにより、「漫画」は戯画風のスケッチを指す意味の言葉として広まっていきました。「北斎漫画」は絵手本、つまり「スケッチ画集」でしたが、戯画や風刺画も載っており、単に画集という枠を超えて、「戯画的な絵」「絵による随筆」という意味合いも強いものでした。

北斎漫画は、明治以後の、大正、昭和そして第二次世界大戦後も版行されるロングセラーとなり、幅広い層に愛読されるほどの名作でした。

これに先立つ江戸時代には、早くもこの影響を受け、日本画の絵師の尾形光琳までもが「光琳漫画」と称し、いくつもの戯画風の絵を載せた書籍を出版するなど、「○○漫画」というスタイルの本の出版は一種のブームになっていたと考えられます。

幕末から明治前期にかけて活躍し、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年も「芳年漫画」を出版(1885年(明治18年))するなど、その後も「○○漫画」は多数世に出ていきました。

しかし、まだこのころの漫画はどちらかといえば浮世絵、または絵手本の域を出ず、「漫筆画」の形態に近いものであり、これが「漫画」という独立した分野の描法として確立するのはさらにそのあとになります。

まず、それまでは「ポンチ」や「鳥羽絵」、「狂画」、「戯画」などと呼ばれていたものを、現代と同じような意味で「漫画」と呼び始めたのが、明治時代の「錦絵師」、「今泉一瓢(いまいずみ いっぴょう)」です。

一瓢は1895年(明治28年)、風刺画を中心とする「一瓢漫画集初編」を出版し、”caricature”または”cartoon”の訳語として、始めて「漫画」という用語を入れて本を出版しました。

ただ、”cartoon”と”comic”という英語を初めて「漫画」ということばに訳したのは、明治から昭和にかけて活躍し、「日本の近代漫画の祖」といわれる北澤楽天です。

北澤楽天は「時事漫画や「東京パック」という雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画を執筆し、更に「漫画好楽会」という漫画同好会も結成して後進の漫画家の育成に努めました。「日本で最初の職業漫画家」ともいわれています。

その後、大正、昭和、戦後にかけての間、数多くの職業漫画家が出るようになり、最も有名なところでは、麻生豊が「ノンキナトウサン」を描き、田川水泡が「のらくろ」を、そして手塚治虫の名作の数々へとつながっていきます。そして、現在のように世界に漫画を輸出し「漫画大国」とまで言われるまでの日本の漫画界が築かれていきました。

近年の動向

手塚治以降の日本漫画の潮流については、それだけで膨大な量の記述が必要になるので、かなり端折らせていただきます。

日本の漫画は1960年代に、少年誌である「少年サンデー」や「少年マガジン」、少女誌である「少女フレンド」「マーガレット」、あるいは「ガロ」といった雑誌の流行により、瞬く間に日本国中に浸透していきました。

1980年代後半には、「週間少年ジャンプ」の発行数が400万部を超えるなどさらに隆盛を極め、さらにこうした少年誌だけでなく、青年漫画雑誌やレディスコミック誌も投入されて幅広い世代で漫画が読まれるようになりました。

そして、1995年に日本の漫画の売り上げはピークに達しました。時代の変化に合わせて取り扱われる漫画のジャンルも拡大し、発刊される雑誌も大幅に増え、情報雑誌と複合した漫画雑誌も生まれました。

読者の様々な嗜好に合わせた専門漫画誌が多く創刊され、一方で性別・年齢の区分が半ばボーダレス化し、幅広い年代の男女に受け入れられるような雑誌が増え続けました。

ところが、1990年代後半のころからその売れ行きに陰りが出はじめ、新たな漫画雑誌の創刊が多くなされてきている一方、休刊になってしまう漫画雑誌も増えてきました。低年齢層の漫画離れが進み、少子化の影響もあってか、とくに少年誌・少女誌の売り上げが大きく落ち込むようになりました。

その中には、古くから続いたものも多く含まれており、2000年代に入った最近も漫画雑誌の売上は減少を続け、漫画単行本の売上もピークのころに比べて10%ほども減少しているようです。

出版不況といわれ、漫画に限らず書籍全体の販売も落ち込んでいる中、1995年には漫画雑誌の販売金額が3357億円、単行本の販売金額が2507億円もあったものが、2005年には漫画雑誌の販売金額が単行本の金額を下回り、2009年には1913億円までに落ち込んでいます。

しかし漫画雑誌の売上が低下する一方で、単行本にはアニメ化などのメディアミックス(商品を広告CMする際に異種のメディアを組み合わせること)によってされた作品を中心にヒット作が生まれるほか、人気漫画の多くがドラマ化・映画化されるようになり、ゲームやライトノベルとの関連も強くなるなど、漫画を巡る環境は従来とはまるで違う方向に変化しつつあります。

漫画の輸出

こうした中、日本の「文化」として発達した漫画は、海外へ「輸出」されるようになり、出版業界の中でもとくに重要な分野として注目されるようになってきています。

「漫画」という用語は、既に大正時代に中国に輸出されて「中国語」になっており、また英語の“manga”のスペルはヨーロッパ語圏でも普通に通じる日本語の一つになり、”manga”とは、「日本の漫画」を指し示す代名詞として使われているほどです。

“manga”だけでなく、“tankōbon”(単行本)も英語圏でそのまま通用するといい、米国の「アメリカン・コミックス」や、フランス語圏の「バンド・デシネ」といった各国独自に発達した漫画と比べて、日本の漫画は、モノクロ表現や独特のディフォルメ、ストーリー性などが高く評価されています。

とくに、大友克洋さんのアニメ「AKIRA」が海外でも高く評価され、オリジナル作品はアニメにもかかわらず、漫画本として出版されることが決まり、他の国際版漫画と同様に、アメリカン・コミック形式の構成や彩色が行われて出版された結果、大ヒットとなりました。

これがきっかけとなり、他の日本アニメを漫画化して出版することが頻繁に行われるようになり、ヨーロッパを中心として日本漫画の一大ブームがおきました。

しかし近年出版される日本の漫画は、アニメ作品の流用ではなく、むしろオリジナルの日本漫画がそのまま出版されるようになり、その特徴を前面に押し出すために、「ヨーロッパ仕様」とはせず、日本で出版される「原書」に近い形で出版されることも多くなったといいます。

フランスにおけるブーム

現在、世界において、日本漫画の「消費量」で最も多いのは、日本を除けばフランスであり、アメリカがこれに続き、両国とも日本漫画の「消費大国」となっています。

1978年以前に、フランス語圏では現代的な意味での日本漫画の紹介はほとんど行なわれていませんでしたが、1990年代に入り、前述の大友克洋さんのアニメ映画「AKIRA」が大ヒットしたことから、まず最初に白黒版で書籍版が出版されました。

この本はアニメ映画版とは異質な部分もありましたが、漫画としての革新性がフランス国内で注目を集め、同年の末にはフルカラー版が刊行され、これがまた大ヒットを記録します。

その後も、北条司さんの「シティーハンター」がヒットするなど、1991年には豪華な誌面の「Animeland」などの日本漫画が掲載された雑誌が創刊され、次第にフランス語圏の日本漫画雑誌の代表へと成長してゆくようになります。

1996年には、Animeland 誌では日本アニメ・日本漫画特集号が組まれ、その後他の出版社でも日本の人気漫画が相次いで翻訳されていき、日本漫画の単行本の発行数は、1998年には、151冊、1999年200冊、2000年227冊、2001年269冊とうなぎ上りに増えていいきました。

2007年現在、フランス国内における新刊の漫画のうち、日本漫画のシェアは42%にも達しています。もっともこれはバンド・デシネのシリーズが年に一冊程度なのに対して、日本漫画は数冊のペースで出るためでもあります。しかし、それだけ頻繁に出しても売れるということの裏返しでもあり、日本漫画の人気ぶりがうかがわれます。

日本漫画がフランスで人気な理由は、その内容もさることながら、出版社が予め作品の人気を日本市場で確認でき、西欧の漫画作品よりも安い価格で入手できることなどがあげられます。また、着実な刊行ペースであることなどが固定読者の獲得を促したと考えられています。

フランスの出版社はこぞって日本漫画に特化したシリーズものを出版しており、フランスのテイストに配慮しつつ“manga”の普及を図るようになりました。そして2006年初頭には年間の発行部数が1110万部に達し、前述のとおりフランスは日本に次ぐ世界第二の日本漫画「消費国」となりました。

日本漫画は漫画類全体の流通総額でも25%を占めるようになり、出版界で最も動きの激しい部門の中で筆頭の伸び率を記録しているといいます。

今後の動向と輸出

一方、日本の漫画業界を振り返ってみると、国内の漫画の売り上げは1995年にピークに達したあとは、ずっと下り傾向です。低年齢層の漫画離れが進み、1990年代後半以降は少年誌・少女誌の売り上げが大きく落ち込み、青年漫画が最も大きな市場となりましたが、その青年漫画においても、休刊、廃刊になる漫画雑誌が後を絶ちません。

しかし、その一方では、時代の変化に合わせて漫画のジャンルも拡大し、読者の様々な嗜好に合わせた専門漫画誌が多く創刊されるようになりました。メディアミックスとの関係性も強くなり、人気漫画の多くがドラマ化・映画化されるようになりました。

かつては「読み捨てられるもの」であった漫画も文化と見なされるようになり、絶版となった作品の復刻や、漫画の単行本の図書館への収蔵が盛んに行われるようになり、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」に代表されるように、その昔一世風靡した漫画家たちが再び着目されるようになってきています。

出版業界の外に目を向けると、同人誌やアンソロジー、ウェブコミック(ウェブ漫画、インターネット上で公開する漫画)の文化も発展し、書き手の幅も広がっています。

同人誌ではいわゆる「二次創作(漫画作家による原作を一般人が真似て創作)」も広く受け入れられ、インターネット上でネタにされたことにより有名になった漫画も出てくるなど、漫画文化の多様化が著しくなってきています。

同人誌(どうじんし)とは、同人、つまり「同好の士」が、資金を出し作成する同人雑誌の略語で、非営利色の強い物も多く、商業誌としても少部数のものがほとんどです。

漫画・アニメ・ゲームなどの二次創作市場の拡大により、「同人誌」=「漫画・アニメ・ゲームの二次創作同人誌」というイメージが広がり、また、いわゆる「成人向け」の内容で流通するものも多いことから、「卑猥なものしかない」といったネガティブなイメージももたれています。

かつて新人のデビューの場といえば漫画雑誌でしたが、現在では同人誌即売会やインターネットが新人の発掘場所になっており、商業誌に作品を発表しながら、同人活動を続ける作家も多いといいます。

昔からアジア圏では、日本漫画を無許可の海賊版で出版されることが多かったようですが、近年はアニメブームとの相乗効果もあり、全世界規模で日本漫画を翻訳し、「正規版」としての出版が急速に伸びて来たといいます。

かつて欧米では翻訳して出版する際、漫画を左右反転させて左開きにして出すのが一般的だったものが、近年では作品を尊重して、日本と同じ右開きのまま出されるケースも増えてきているそうです。

2000年代からは各国で「少年ジャンプ」などの漫画雑誌が、現地向けに編集・翻訳されて多角的に出版されるなど、これまで見られなかったような日本漫画のグローバル化が進んできています。

前述のフランスにおける出版各社は、日本の昔の作品の発掘や、愛蔵版の編纂も進めているといいます。

中沢啓治が自身の原爆の被爆体験を元にした漫画「はだしのゲン」の復刊や、劇画創始者の一人である辰巳ヨシヒロの作品、「ガロ」を舞台に活躍した寡作な作家として知られる、つげ義春の「無能の人」など、最近では日本人さえ目にしないような内容の漫画ですらフランスでは刊行されるようになっています。

2006年には「水木しげる」の作品も出版され、その翌年には水木さんの「のんのんばあとオレ」がヨーロッパ最大の漫画イベントである「アングレーム国際漫画祭」の最優秀作品賞を受賞し、フランス市場における日本漫画の浸透ぶりを象徴する出来事となりました。

さらに、最近は日本の若く活発な世代による作品が売上を伸ばしており、どちらかといえば、大人向けの作家性豊かな日本の漫画も人気を博しているということで、こうしたフランスという「日本漫画消費大国」の動向は、そのまま他の日本漫画消費国に飛び火していくものと考えられています。

長い不況にあえぐ日本ですが、いまや重要な輸出品目になりつつある日本漫画は外貨獲得の上で重要な産業になっていくことは間違いありません。「たかが漫画」と思わず、このほかにも日本独自の文化を探し出し、その質を世界に問いかけていく、という道もまた今後の日本が歩む道のひとつの方向性かもしれません。

函館と白系ロシア人

昨日までの低気圧の通過に伴い、静岡県地方では激しい雷雨になりました。しかし一夜明けた今朝は、この雨が汚れた空気をすべて洗い流してくれたためか、すがすがしいものになり、窓から見える富士山もひときわきれいです。降雪もあったようで、低気圧通過前よりもさらに白さが増したような気がします。

さて、これまで何度か、伊豆沖の駿河湾でロシアのプチャーチン提督が乗ったディアナ号が遭難したお話を取り上げてきました。このプチャーチンは、日本で初めて建造された洋式帆船「ヘダ号」に乗って帰国しましたが、その直前に苦労した甲斐もあって幕府と日米修好通商条約を締結することに成功しました。

この結果、この当時「箱館」と呼ばれていた函館が日本初の国際貿易港として開港され、外国人居留地が設置されました。

この開港以来、函館は貿易地として栄えるようになり、函館山の北東部方面に向かって徐々に市街地ができ、周辺の市や町を合併しながらさらに市街域を広げながら人口を増加させていきました。

明治の開拓使時代には出張所や支庁が置かれ、その後それらが廃止され北海道庁が設立されるまでのわずかな期間には、函館県の県庁所在地でもあり、こうした経緯から札幌ができるまで箱館は北海道の中心地でもありました。

短い間とはいえ県庁も置かれていたためもあり、今日でも主だった国の出先機関や北海道の出先機関である渡島支庁などの行政機関などが一通り所在しており、教育においても旧制中学校や高等女学校、実業学校や師範学校などの明治時代に設立された学校の後身校が今日まで存在しています。

函館の中心市街地は、函館山と陸つながりの「砂州」の上を中心として展開する形で広がっており、この砂州が接続する函館山北東麓斜面(元町・末広町)には、幕末や明治期からの都市景観が数多く残っています。

この地区は明治期より度々大火に見舞われましたが、そのたびに復興事業が行われ、大街路が縦横に通る都市計画が実施されてきました。1879年(明治12年)の復興時には「斜面に建つ家屋はロシア・ウラジオストク港のスタイルにならうように」と条令が定められ、2階の外観のみ洋風で内部と1階は和風である和洋折衷建築が多数建てられました。

このため、坂の下の港から望むと洋風の2階建の建物の外観が目に飛び込むという特徴的な景観が生まれ、日本の港町とは思えないような情緒ある洋風の景観を醸し出しています。

かつての定住ロシア人が建設したロシア領事館やこれに付属するハリストス正教会の聖堂などのロシア建築もこの美しい風景を彩っています。

ロシアと函館の関わりは、1855年の日露和親条約に伴う開港から始まりましたが、その後多くのロシア人がこの地に定住するようになったきっかけは、1917年に起こったロシア革命です。

1917年(大正6年)の10月、レーニンが指導するボルシェビキ(後の共産党)が武装蜂起し、首都ペテログラードを占拠。ケレンスキー内閣を倒し、歴史上初めて社会主義政府を実現しました。

悪名高かったロシア帝国を滅ぼして成立したボリシェヴィキ政府ですが、この革命に入る前、旧ロシア帝国とドイツは戦状態にあり、ドイツはこの革命のどさくさに紛れて旧ロシア領である現在のバルト三国方面に深く攻め入っていました。

このドイツとの交戦の継続は、一日も早く国内を安定させたかった新政権にとっては大きな問題であり、できるだけ早くドイツと講和を結ぶ必要性を感じていました。

このため、1918年、「ブレスト=リトフスク条約」という講和条約をあわててドイツと締結しましたが、この講和条約は新生ロシア連邦共和国にとっては苦渋の選択でした。講和の条件として、旧ロシア領であった現在のバルト三国、ベラルーシ、ウクライナにあたる広大な領域をドイツに割譲しなければならなかったためです。

このようなドイツ軍の横暴を食い止めることができなかったボリシェヴィキ政権に対し、国内では大きな不満が渦巻くことになり、講和条約の締結に刺激され、ロシアの内外のあちこちで反ボリシェヴィキ運動が活発化し始めました。

こうしていわゆる、「ロシア内戦」が始まり、この内戦は1920年までに終結しましたが、この内戦を避けるために、多くのロシア人が祖国を脱出し、日本へ逃れてきました。

日本に亡命してきた旧ロシア帝国国民の多くはいわゆる「ロシア人」といわれる生粋のロシア人が多数でしたが、このほかにも多くのロシア系の非ロシア人、つまりポーランド人やウクライナ人などが含まれていました。

非ロシア人の多くは、母国語であるウクライナ語やポーランド語を常用語としていましたが、日本人と意思疎通を図るためには、それよりは通じやすいロシア語を用いていました。このため、彼らは正確にはロシア人ではありませんでしたが、日本人は彼らのことを「ロシア人」であると解釈していました。

こうして、1918年に日本に来たこれらのロシア人およびロシア系非ロシア人の亡命者の数は、1年間だけでも7251人(当時の日本の外事警察の記録による)となりましたが、この中にロシア人以外の非ロシア人がどの程度含まれていたかは明らかになっていません。

なので、これらのロシア人およびロシア系非ロシア人のことを一般的には「白系ロシア人」という言い方をします。その多くは、その後函館で暮らしたあと、しばらくしてからオーストラリアや米国などに再移住していきましたが、そのまま日本にとどまって永住した人たちも少なくありません。

そして彼らがロシアからもたらした風習は現在に至るまで函館の日本人の生活にも溶け込み、現在に至るまで「函館の文化」としてこの町に根付くようになりました。

ロシア革命後、日本とボルシェビキ政府、その後のソ連はしばらく国交が断絶していましたが、1925年(大正14年)に「日ソ基本条約」が締結されると国交が正常化しました。

このとき、ロシア革命時の亡命者の一人で、ロシア帝国最後の在日代理大使を務めていたアブリニコフという人は、日ソ基本条約締結後も日本に留まり、第二次世界大戦の終結まで白系ロシア人の取りまとめ役として日本政府との交渉に当たりました。

こうしたとりまとめ役の存在により、函館における白系ロシア人の治安はかなりよかったようで、日本人との交流の進む中、積極的に日本人とともに働く人々が増えていきました。

白系ロシア人が携わるようになった職業としては、漁業のほか、貿易、毛皮、不動産業、ジャム製造業、パン、化粧品売りなどなどで、他に喫茶店やカフェ経営もありました。最も有名なのは、「ラシャ売り」と呼ばれた主に紳士服の行商人でしたが、この人達はその後、内地に拠点を決めて年ごとに全国を移動するようになり、必ずしも函館を定住地には定めなかったようです。

こうしてロシア革命で亡命した白系ロシア人は函館一カ所にとどまらず、全国各地に散らばっていきました。その後完全に日本人として暮らし始めた人も多く、知的職業としては、漁業会社の通訳、あるいはロシア語教授もおり、東京などの大都会へ進出し、ピアニストやバレリーナ、画家等になった人も多かったといいます。

創生期のプロ野球で300勝を記録したスタルヒンは、日本名は「須田博」と名乗っていましたが、結局日本国籍の帰化申請が受理されず、生涯無国籍のままで終わりました。

また、ガラス容器入りプリンで人気を博した神戸の老舗洋菓子店「モロゾフ」の創業に深く関与したフョドル・ドミトリエヴィチ・モロゾフとヴァレンティン・フョドロヴィチ・モロゾフの親子もそうしたロシアからの亡命者です。

モロゾフ家の末裔は、これとは別に「コスモポリタン製菓」という会社を設立して、これを直営していましたが、2006年に廃業しています。

このほかにもお菓子屋さんとして、神戸に洋菓子メーカーの「ゴンチャロフ」という会社があります。チョコレート菓子を中心に作っていて、ウイスキーボンボンで有名ですが、この創業者マカロフ・ゴンチャロフも白系ロシア人であり、ロシア革命当時に日本に亡命してきた人のようです。

ヴァイオリニストの小野アンナさん、本名アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワさんは、日本人女性ヴァイオリニストの生みの親と呼ばれた人です。

日本人ヴァイオリニストとして著名な諏訪根自子(すわねじこ)さんや巌本真理(いわもと まり)さん、前橋汀子やさんや潮田益子らを育てた人として有名ですが、この人もロシア革命時に日本にやってきた白系ロシア人です。

ロシア革命当時、ペトログラードに留学していた日本人の小野俊一氏(後のロシア文学者・生物学者・昆虫学者・社会運動家)と出逢い、1917年に結婚。翌1918年、革命下のロシアを離れ、東京にやってきました。その後長らく「小野アンナ」名義で日本でヴァイオリン教師として教鞭を執り、戦後は武蔵野音楽大学で前述のような若手ヴァイオリニストを育て上げました。

1958年に、お姉さんのワルワーラとともにソ連に渡り、グルジアのスフミ音楽院にてヴァイオリン科教授に就任した後、1979年にスフミにて永眠。

このほか、指揮者の小澤征爾さんの奥さんで元女優、ファッションデザイナーの入江美紀さん(現小澤ヴェラさん)もお父さんが白系ロシア人で、ご本人も本名はヴェラ・ヴィタリエヴナ・イリーナといいます。

そのほか、松田龍平さんの奥さんの太田莉菜さん、歌手の川村カオリさん、その弟で俳優の川村忠さんなどもお母さんがロシアの方だそうで、元歌手で俳優の東山紀之さんも、父方の祖父がロシア人の血を引いているそうです。

最近テレビをつけるとたいてい何等かの番組に出ているローラさんも、お母さんが日本人とロシアのクォーターだそうで、こうしてみるとロシア人系の方というのは芸能・音楽関係でとくに目立ちます。ロシア人の血というのは、そうした職業に向いているのかもしれません。

しかし、白系ロシア人の亡命者やその子孫の人数は、戦後の混乱期の影響により、資料や統計が不足しているうえに、すでに日本国籍を保持し、見た目は日本人とほとんど変わらなくなっているため、いったいどれくらいの「ロシア系」の人が日本にいるのか、正確な数字はわかりません。

ロシア人以外の在日韓国人や中国人、米国人やその他のアジア人の混血などに比べても、その存在はほとんど目立たなくなっており、むしろもう日本人と同化しているといっても良いのかもしれません。

ただ、日本で活躍した白系ロシア人の亡命者達の中には、「ハリストス正教会」の信者であった人も少なくなく、その多くの子孫は現在もなお神戸ハリストス正教会やニコライ堂など、日本の幾つかの正教会内において、一定の亡命ロシア人系のコミュニティを形成しているようです。

このハリストス正教会ですが、1859年にロシア領事のゴシケヴィッチが、函館の領事館内に聖堂を建てたのがそもそも日本での発祥になります。

この最初のハリストス正教会の初代司祭は、教会ができたあとすぐに帰国しましたが、1861年に来日した修道司祭の「亜使徒聖ニコライ(ニコライ・カサートキン)」によって日本人3人が洗礼を受け、これが現在の「日本正教会」の原型となったそうです。

函館ハリストス正教会は日本正教会の最初の聖堂を持つ教会であり、日本における正教会伝道の始まりの場所でもあります。日本の正教会の拠点はその後、ニコライによって函館から東京の神田に移され、以後当地に建設されたニコライ堂(東京復活大聖堂教会)を中心に宣教を拡大させていきました。

しかし、日本正教会は、明治の後半から大正、昭和にかけて苦難の時代を迎えます。

まず日露戦争によって、日本とロシアの関係が悪化し、正教会が白眼視されたことがあげられます。さらには突然、ロシア革命という決定的打撃を被り、日本正教会は、物理的にも精神的にも孤立無援の状態となりました。

しかも引き続いて起こった関東大震災により、東京のニコライ堂が崩壊します。鐘楼が倒れ、ドーム屋根が崩落し、火災が起き、聖堂内部のものをすべて焼き尽くし、貴重な文献や多くの書籍なども焼失してしまいました。

その後日本全土の信徒の募金によって昭和4年に東京復活大聖堂は復興しましたが、日本の中では正教会だけでなくすべての宗教にとって政治的な統制を受ける困難な時代を迎えました。世界大戦の混乱の中、司祭や伝教師などが激減し、信徒の多くも離散してしまいました。

しかし、戦後、日本正教会は、アメリカ正教会から主教を迎えました。アメリカ正教会もロシアから伝道された正教会で、日本の正教会とは姉妹関係にあります。そしてアメリカ正教会がロシア正教会から完全独立するのに伴い、昭和45年に日本正教会も自治教会となりました。

自治教会とは、完全には独立しないものの、経済的には独立し、日々の教会運営を独自に行うという形です。こうして日本正教会は低迷していた教勢や財政の立て直しに励むようになり、各地で聖堂が再建され、信徒の啓蒙教育や宣教活動が活性化されました。

この中でも函館のハリストス正教会は日本正教会でも最も長い伝統を誇る教会としてその活動を今も存続し続けています。

2010年現在、日本ハリストス正教会の信者は1万人ほどもいるといいます。ほとんどの信者は日本国籍を持つ日本人ですが、前述のように亡命ロシア人系のコミュニティもこの中に存在し続けているようです。

聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)と、函館ハリストス正教会(復活聖堂)、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財にもなっており、
その他のハリストス正教会でも、いまやほとんど見ることのできなくなった貴重な明治・大正の建築をみることができます。

現在、日本には15のハリストス正教会の聖堂があり、その多くは明治時代や大正時代に建築された貴重なものであり、各地の観光にも役立っています。以下に、そのリストを示しましたが、あなたの町にもハリストス正教会聖堂があるのではないでしょうか。

・日京都ハリストス正教会
・生神女福音聖堂
・札幌ハリストス正教会 (主の顕栄聖堂)
・斜里ハリストス正教会(生神女福音会堂)
・函館ハリストス正教会(復活聖堂)安政5年(1858年)築。現聖堂は大正5年改悛。
・旧石巻ハリストス正教会教会堂(聖使徒イオアン聖堂)明治13年(1880年築)木造教会堂建築としては国内最古。
・仙台ハリストス正教会(生神女福音聖堂)明治2年(1869年)開教。
・東京復活大聖堂(ニコライ堂)竣工1891年、再建1929年。
・豊橋ハリストス正教会(聖使徒福音記者マトフェイ聖堂)大正4年築。
・半田ハリストス正教会(聖イオアン・ダマスキン聖堂)大正2年築。
・京都ハリストス正教会(生神女福音聖堂)明治34年(1901年)築。1891年竣工のニコライ堂と並んで最古級。
・大阪ハリストス正教会(生神女庇護聖堂)昭和37年再建。鐘楼は明治43年のもの
・神戸ハリストス正教会(生神女就寝聖堂)昭和27年建立。
・徳島ハリストス正教会(聖神降臨聖堂)昭和55年建立。
・鹿児島ハリストス正教会(聖使徒イアコフ聖堂)昭和32年再建。

近年、日本のキリスト教諸教団が「靖国問題」や「憲法問題」などの政治運動に熱心に取り組んでいるなか、日本ハリストス正教会は他の諸教団とは一線を画して、正教会という団体としては政治運動と一切関わりを持っていないそうです。

これについては「政治的中立性を保っている」という評価から、「体制従属的である」という批判までさまざまでありますが、「体制従属的である」という批判の声があがる原因のひとつは、ハリストス正教会が捧げる祈りの中に、「天皇と為政者のための祈り」というものがあるためです。

諸外国の正教会では君主や為政者への祈りを捧げることは珍しくなく、イギリスの正教会では女王のために祈りを捧げ、また米国でもアメリカ正教会が大統領と全軍のために祈りを捧げています。

こうした祈りは、君主や為政者、国軍が暴走をせず国民の平和と安寧秩序のためになるようにとの願いを常に込めているとされ、日本ハリストス正教会による天皇と為政者への祈りもまた同じ意義を持っているそうです。

ハリストス正教会では、ローマ帝国時代からオスマン帝国、ソビエト連邦において迫害を受けていた時期にも、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(マタイによる福音書による)」を実践し、異教徒である為政者のための祈りを正教会は行ってきており、一貫して「敵のための祈り」を実践してきたといいます。

「その国の象徴・元首のために祈る」のは「体制迎合」では説明できない何か広い心のようなものを感じることができ、「汝の敵を愛せ」と言ったキリストの言葉を今も忠実に実践しているこの正教会の姿勢には好感が持てます。

日本の政治家も「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とまではいいませんが、せめて敵対する相手に対して礼節を持って対峙し、理解できる点を共有しともに育てていこうという姿勢が欲しいものです。

敵をも愛せるという思想がどこかにあれば、今のような国民そっちのけの誹謗中傷合戦は少しは治まるのではないかと思います。

アメリカの大統領選も終わったようです。オバマさんにせよ、ロムニーさんにせよ、アメリカの政治家たちは果たして汝の敵を愛せるような人たちなのでしょうか。

結婚します?

「今日は何の日?」というテーマを売りにしたサイトがたくさんあります。そうしたサイトに今日は「お見合い記念日」と書いてあるのを見て、当ブログの今日のテーマもお見合いだな?とにらんでいた方、当たりです。

その昔、若いころに、渡辺昇一さんの「知的生活の方法」という本を読みましたが、この中に「リソースフル」な人間になるための方法が書かれていたように記憶しています。

リソースフルとは、発想力豊か、というほどの意味だったと思いますが、最近、このリソースフルに焼きが回ったのか、ブログを書くにあたってもなかなか良い発想が出ず、ついついこういうサイトを見てしまいます。もう一度渡辺さんの本を読み返して、「リソースフル」を取り戻す努力が必要なのでしょう。

さて、とはいえ、せっかく見つけた面白そうなテーマなので、今日のお話は「結婚」にまつわるお話としましょう。

まずは、今日がなぜ「お見合いの日」なのかというと、1947年(昭和22年)の今日、結婚紹介記事を主に扱う「希望」という雑誌を出していた出版社が、東京の多摩川の河畔で集団お見合いを開催したことを記念したことにちなんでいるそうです。

戦後間もないころのことであり、戦争に私生活を蹂躙されたために婚期を逃した20~50歳の男女386人が参加してお見合いを行ったのだとか。お見合いの結果がどうであったのかよくわかりませんが、現在と比べるとかなりの高率での結婚成立に至ったのではないかと推察されます。

ちなみに、私の父も戦争にとられ、シベリアに抑留された後に帰国し、旧建設省でダムの仕事をしていたころの山口県で母とお見合いをして結婚しています。このころは、そういう若いカップルをみつけては結婚させる、おせっかいなおじさんおばさんが結構いたようで、私の父もその当時住んでいた官舎近くの村の誰かと懇意になり、そこから来たお見合いの話に乗ったようです。

確か昭和25年ころのことだったと思いますが、このころの日本の平均初婚年齢は男性が26才、女性が23才くらいだったようです。

その後平成に入るまでは、だいたい男性が26~28才、女性も23~26才くらいまでには結婚していたようですが、平成に入ってからはだんだんと初婚年齢があがり、平成22年の段階では男性の平均が30.5才、女性が28.8才となるなど、もうじき男女とも初婚年齢が30才を超えようかという勢いです。

先進国の中では、日本は結婚率の高い国のひとつだそうで、正式婚の数は、1978年以降、平成16年に至るまで年間70万件台を維持しているということですが、未婚率は年々上昇しており、30代前半で未婚の男性の割合は1960年の9.9%から2005年には47.1%まで上昇しているとのこと。

生涯未婚率も上昇しており、2010年時点で男性19.4%、女性9.8%となり、男性の5人に一人、女性の10人に一人は一生結婚しないという時代になりました。

ちなみに婚外子、つまり結婚していないシングルマザー、シングルファザーの子供の数は全体の2%程度だそうで、フランスなどのように半数以上が結婚せずに子供を産んでいる国に比べればかなり低率のようですが、これも年々増加しつつあるのだそうです。

結婚しない理由

このように、平均結婚年齢が年々上昇し、未婚率が上昇して非婚化・晩婚化が進んでいる要因については、いろいろな原因が取沙汰されています。

一般的には女性の高学歴化や社会進出が言われ、女性が自身で相当程度の収入を得られる社会になり、「結婚しないと生きていけない」というような状況ではなくなったことが原因とされます。

また、不況などの影響もあって、結婚して子供ができたらその育児が困難になる、という理由や、「どうしても結婚しなければならない」という社会通念が希薄化しているのではないかという指摘もあり、女性の社会的身分が男性と肩を並べるようになったことも、結婚への意欲を削ぐ原因になっているのではないかといわれています。

働く女性にとっては、「出産」は大きな負担であり、一時的なリタイヤのあと、再び復帰できるのかを心配する向きも多いのではないでしょうか。

ジャーナリストで、ライターの「白河桃子」さんという方がいらっしゃいますが、女性たちの年代別ライフスタイル、未婚、晩婚、少子化などをテーマに執筆活動を続けられておられます。

「婚活時代」という本を旦那さんである現中央大学教授の山田昌弘と共に書かれ、この中で使われた「婚活」という言葉は、2008年度に続き、2009年度も新語・流行語大賞にノミネートされ、社会に影響力を持つワードとして注目されました。

旦那さんの山田さんのほうも、成人後や学卒後も親と同居し続ける未婚者のことを「パラサイト・シングル」と命名するなど何かと最近話題になることの多いご夫婦です。

この白河さんは、「婚活アドバイザー」を自称していらっしゃって、そうした活動の中でいくつもの婚期を遅くしてしまった男女の例を見てきた結果、近年なぜ結婚が晩婚化しているのか、なぜ結婚しないのかについて、以下のように分析しておられます(筆者要約)。

○女性の視点から見て、男性と同居することの魅力の減少(男性の収入の不安定化)

男性の場合、収入が低くて将来の見通しが不安定だと、結婚率が低くなります。結婚を安定させるだけの収入がないのに、結婚どころではありませんし、まして子育てができるような見込みも立ちません。

1990年頃までは、男性は年功序列制度により、収入が低くても将来収入が増える見通しがありましたが、1990年代に入り、ニューエコノミーへの転換やグローバル化という大きな社会変化がありました。これにより、正社員や一部の専門職とは別に、パートやアルバイト、派遣社員などの非正規社員・周辺的正社員などが必要な状況へ社会構造が変わっていきました。

この結果男性の収入は全体的に低くなり、将来の見通しがたたない不安定な状態になっていき、女性からは結婚相手として魅力に欠ける相手と映るようになっていったというわけです。ただし、女性の場合は、年収はそれほどなくても結婚はできると考える人が多いためか、収入と結婚率の間には相関関係はみられないといいます。

○男性の視点から見て、女性と同居することの魅力が減少

一方では、男性で正社員の職についていて収入が良くても、男性自身が結婚しない、結婚したがらない人も増えており、結婚に特にメリットを感じない、女性と暮らすことにあまりメリットが感じられない、と考えている男性も増えているといいます。

現代では、家庭で自炊をしなくとも外食産業や中食(コンビニ等)などが発達し、家事においても洗濯機や調理器具などの便利な家電製品が数多くあり、女性に頼らなくても、男性だけで十分に快適な生活が成り立ちます。独身男性の視点から見て、女性と同居することのメリットが減少しているというわけです。

○社会的圧力の減少

かつての日本には、「結婚して一人前」とする周囲からの社会的な圧力がありました。たとえば、「結婚しないと出世が遅くなる」というのは多くの企業であたりまえであり、独身をつらぬこうとするだけで勇気が必要であったといいます。

これは、扶養義務を持たない「身軽な」人間を要職に就けることに企業経営者が抵抗を感じていたためであり、結婚適齢年齢までに結婚することを「義務」とするような社会的な風潮があったためです。若手女性社員は男性社員のお見合い要員と見なされるような風潮もあり、企業が結婚相手を世話することも多く、結婚は企業が従業員を統制する手段でもありました。

しかし現代では、男性はそのような社会的な圧力は受けることは少なく、企業からの結婚話の斡旋は逆にセクハラやパワハラの問題となる可能性もあり、仮にそういった申し出が会社の上司からあったとしても、とくに男性の場合、女性よりも収入は良いことが多いため、いくらでも結婚の回避や先延ばしが安易になってきています。

○社内恋愛、社内結婚、お見合いなどの機会の減少

従来、社内恋愛は大切な出会いの場でしたが、近年は就職氷河期が続き、女性社員も採用が減り、インフォーマルな付き合いとはいえ、社内恋愛も減ってきました。若い男女が社内でふれあう機会の減少に伴い、社内結婚も減少しました。

同時に前述のように社会的な圧力が減り、知人などから勧められて「お見合い」の席に着く人も減ったため、結婚相手としての異性と巡り合うきっかけも減ったことが結婚率の低下につながったと考えられます。

○女性の専業主婦志望と男性の共稼ぎ希望との齟齬

「女性も収入をもたらして欲しい」という望みを抱く男性も以外に増えていることに女性が気づいていなかったり、応えようとしていないことも考えられます。白河氏独自の調査では、女性が専業主婦を希望していることを嫌がる男性も統計的に増えてきているそうで、結婚後も、女性が労働し、収入を家庭にもたらして欲しいと考える男性が増えているといいます。

白河氏による2005年の調査では、66%ほどの男性が、女性にも収入をもたらして欲しい、と思っており、女性に専業主婦になって欲しいと望んでいる男性はわずか12%にすぎないという結果が出ました。

ただし、女性に年収800万だの1000万円という高収入ではなく、手堅く仕事をして数百万円程度を稼いでくれることを男性は期待しているようです。近年の不況下では、ひとりの人間が収入を100万円増やすことも至難であるので、女性の稼ぎの有無で、一家の生活状況は大きく変わるというわけです。

……いかがでしょうか。未婚のあなた、結婚しない理由として心当たりのある原因があったでしょうか。私も白川さんのご意見にはだいたい賛成ですが、とくに「社会的な圧力の減少」というのはインパクトが大きいように思います。

こういう考え方は時代錯誤だ、といわれてしまうかもしれませんが、企業のみならず、一般的にも結婚を社会の一員となるための「義務」というふうにとらえる風潮は全くなくなっており、私はこのことが最大の原因のように思います。

まさか結婚を法制化するなんてことはできないにせよ、結婚することによって経済的なことや育児の面でいろんなメリットが出てくるような法律を造り、社会的にみても若い人の結婚を後押しをするようにすることが促すことが、少子高齢化が進む日本では必要なことではないでしょうか。

離婚率の上昇

しかし、我が国ではせっかく結婚しても、離婚する人も増えているといいます。は平成元年から平成15年にかけて連続して増加しているそうで、平成18年の離婚件数は約25万件、「人口千人あたりの、一年間の離婚件数」、すなわち「離婚率」は平成17年で2.08件ということです。

離婚率が3.39であった明治時代に比べればかなり減っていますが、これは、明治時代の女性は処女性よりも労働力として評価されており、再婚についての違和感がほとんどなく、嫁の追い出し・逃げ出し離婚も多かったことや、離婚することを恥とも残念とも思わない人が多かったことが理由とされています。

1000件のうちの、2.08件というと少なそうにみえますが、これは、厚生労働省の統計による「その年1年間の離婚率」にすぎません。全国の「その年の離婚件数」を全国の「その年の新規婚姻件数」で割ると、マスコミなどでよく言われているように「3組に1組が離婚」となり、この比率は「生涯のどこかで離婚する割合」にかなり近くなるといいます。

また、厚生労働省「平成21年 人口動態統計」をみると過去40年間の婚姻数が3202万人、であり、同じく30年間の離婚数が748万人となっており、この数字をもとにすると離婚率は23%となり、このデータの中にはもっとも婚姻数が多い1970年代のデータが含まれているにもかかわらず「4組に1組が離婚」という衝撃的な数字になっています。

こうした離婚の原因ですが、法務省が整理した「司法統計」によれば、離婚の申し立てにおいて、夫からの申し立て理由で最も多かったものは「性格の不一致」であり、これに次いで「異性関係」、「異常性格」の順が多いのだそうです。

また女性からの申し立て理由だけを取り上げると、その一番はやはり「性格の不一致」ですが、これに次いで、「暴力をふるう」、「異性関係」の順が多くなっており、DV(ドメスティックバイオレンス)が増加している社会風潮がこのデータからも見て取れます。

離婚の子供への影響

ところが、離婚について、どう思うか、という調査をしたところ、意外なことに離婚に対しては罪悪感を感じている人が多いようです。

内閣府が平成19年に行った「男女共同参画社会に関する世論調査」によると、「相手に満足できないときは離婚すればよいか」との質問に対して、賛成派(「賛成」と「どちらかと言えば賛成」の合計)は46.5%にとどまったのに対して、反対派(「反対」「どちらかといえば反対」の合計)は47.5%となり、賛成派を上回りました。

この調査は毎年行われており、反対派が賛成派を上回るという結果が出たのは23年ぶりだそうで、賛成派は1997年に行われたときの54.2%をピークに毎回減り続けており、一昔前に比べると、離婚をあまりよくないことだと考えている人が多くなってきているようです。

その理由についてはいろいろ取沙汰されているようですが、やはり原因として一番大きなものは、夫婦の間に子供がいた場合、離婚が子供に与える影響をおもんばかってのことではないかと考えられます。

かつて、離婚は子供に何の影響も与えないと考えられていましたが、アメリカの心理学者ジュディス・ウォーラースタインは、親が離婚した子供を長期に追跡調査して、子供達は大きな精神的な打撃を受けていることを見出したといいます。

子供達は、両方の親から見捨てられる不安を持ち、学業成績が悪く、成人してからの社会的地位も低く、自分の結婚も失敗に終わりやすいなどの影響があったといい、これはアメリカの研究結果ですが、こうした研究結果を日本の離婚予備軍も目にすることが多くなったと考えられます。

バージニア大学のヘザーリントン教授が1993年に行った実証的研究では、両親がそろっている子どものうち、精神的に問題が無い子どもは90%であり、治療を要するような精神的なトラブルを抱えている子どもは10%であるのに対して、両親が離婚した子どもではトラブルを持っている子供の比率は25%という高率でした。

このほかにも離婚が子どもに悪影響を及ぼすことについて、スウェーデンやイギリスなどの多くの国で大規模な追跡調査が行われた結果、悪影響が実際に存在することが確認されたそうで、親の離婚によって「壊れていく」子どもたちの症例が多数報告されたそうです。

逆に、子供から引き離された片親が精神的なダメージを受ける「片親引き離し症候群(PAS)」という病気まであるそうで、離婚によって子供から引き離される親の心理的なダメージも相当なものと考えられます。

ケンブリッジ大のミッシェル・ラム教授は、離婚が子どもの成育にマイナスの影響を及ぼす要因として、次の5つを挙げています。

① 非同居親と子どもとの親子関係が薄れること
② 子どもの経済状況が悪化すること
③ 母親の労働時間が増えること
④ 両親の間で争いが続くこと
⑤ 単独の養育にストレスがかかること

ラム教授によれば、子どもの健全な発育には、父親の果たす役割はかなり大きいそうで、こうした調査結果などを踏まえて、欧米各国では、1980年代から1990年代にかけて家族法の改正が行われ、子どもの利益が守られるようになったといいます。

日本も批准した「子どもの権利条約」では、その対策として、①子供の処遇を決めるに際しては、年齢に応じて子供の意見を聞くこと、②別居が始まれば両親との接触を維持すること、を求めているそうです。ところが一方、子供の側からみた「子どもの権利」は、日本では裁判規範とはされず、裁判所によって無視されているそうで、国際機関から再三勧告を受けているといいます。

「子供の権利」とは、「両方の実の親との関係を維持する権利」であり、それだけでなく、「基本的な食事の必要を満たし、国家がお金を出す普遍的な教育を受け、体のケアを受け、子供の年齢と発達の度合いから見て適切な刑事法の適用を受け、人間としての独自性を発揮する権利」まで含まれています。

このほかにも、子供が虐待から身体的にも精神的にも感情的にも自由になることを援助することまで含まれており、こうした主旨の権利の主張が子供側からあった場合でも裁判所がこれを無視できる国というのは、先進国とはいえないのではないでしょうか。

父親と母親が争って相手を非難しあっているとき、きっと子供自身もまるで自分が非難されているように感じていることでしょう。

傷つき引き裂かれるであろう子供の心を思いやり、たとえ離婚がやむを得ないとしても、子どもの利益を最優先し、離婚後もきちんとコミュニケーションを行って、協力して子どもを育てていく、というのが全世界ルールとなっています。

先進国では、離婚手続きの一環として、育児計画の提出を要求されることが多いといいます。離婚時に詳細な育児計画を決めておけば、その後の多くの争いを予防できるためであり、日本でもこうした制度を取り入れていくべきだと思います。

負け犬の遠吠え?

さて、とはいえ、離婚はまず結婚しなければできないもの。世にはまだまだたくさんの独身者がいます。

前述の白河桃子さんは、近年の女性の結婚観が、従来通り結婚への願望は抱きつつもDVをはたらくなどのダメな男性をできるだけ避けたいというふうに変化している、と指摘されています。

そして、こうしたダメな男を避け、たくましく一人で生きていこうとする女性たちをむしろ応援したいとする女性活動家も増えています。

「だめんず・うぉーかー」などを書いた漫画家の倉田真由美さんなどもその一人です。28歳で結婚し、一子となる男児を出産後に離婚し、さらに自らの連載上で未婚のまま第二子を妊娠していることを発表されるなど、いろいろマスコミをにぎわせている方ですが、シングルマザーとしてのその生活を明るく笑い飛ばし、多くの独身女性の支持を得ています。

また、エッセイストの酒井順子さんも未婚女性を応援しています。2003年(平成15年)に出版したエッセイ集 「負け犬の遠吠え」において、30歳代超・子供を持たない未婚女性を指してこう表現する事で逆説的にエールを送り、この「負け犬の遠吠え」は2004年度流行語大賞のトップテン入りも果たしました。

日本では、結婚・子育てこそ女の幸せとする価値観が根強い一方、結婚よりも仕事、家庭よりもやりがいを求めて職業を全うする女性が増加の一途を辿っています。

この結果、気が付いた時には「浮いた話の一つもない30代」という女性が、昔ならば「ダメ女」の烙印を押されるところが、現在では相応の社会的地位を得て安定した生活を送っています。酒井さんは、こうした女性を半ば自嘲的に「負け犬」と自称し、この「開き直り」の姿勢がまた若い未婚女性に大いに受けました。

職場では相応の地位を獲得しながらも結婚できないというジレンマに陥り、それでもそうした人生を悲観することなく明るく生きていく……それでホントにいいのかぁ?と問いたくもなります。

しかし、近年では主夫の増加など、女性だけでなく、男性の社会における役割も変化してきている時代であり、伝統的な価値観だけに縛られて生きる必要性もまたありません。

現在、スウェーデンでは56%の人が未婚のまま出産するか、あるいはその多くはそのまま生涯未婚を通すそうです。フランスでも半数以上が未婚のまま出産を行っているとのことで、こうして生まれた「婚外子」は年々増加しつつあるのだそうです。

こうした中で結婚しなくても夫婦と同等の権利になれる制度が法的に定められているからではありますが、案外とこうした社会形態が今後の日本にも定着する未来形なのかも。

別々に暮らしてはいても、夫婦として子育ての責務はきちんと全うし、子育てが終わった後のちに、本当に愛し合い一生連れ添いたいとお互い思った場合のみ結婚を行うという考え方もあってもよいと思います。

あるいは我々が死ぬころにはそれが日本社会一般の常識になっているのかもしれません。一生連れ添いたいと願っていても、その日までどちらとも元気でいるとは限りませんが……

紅葉、落葉そして進化……

紅葉の季節になりました。といっても、まだまだ始まったばかりであり、ここ修善寺の紅葉も観光協会さんのHPを見る限りでは、その見ごろは11月下旬から12月上旬ぐらいみたいです。一般的には紅葉が始まってから完了するまでは約1か月かかるそうで、一番の見頃は始まってから20〜25日ごろということです。

修善寺には紅葉の見どころがたくさんあるようで、修善寺温泉街の紅葉もさることながら、弘法大師が修業をしたという奥の院や、修善寺自然公園、そして修善寺虹の郷などがあるようですが、観光客の方も知らないような場所がまだまだあるかも。

これから季節が進んでさらにきれいになったこれらの紅葉をまた見に行って、レポートしたいと思います。

ところで紅葉といえば、一般には落葉樹のものですが、常緑樹にも紅葉するものがあるそうです。しかし、落葉樹と同じ季節に紅葉とするとは限らず、時期がそろわないため目立たないことのほうが多いようです。

ホルトノキという常緑時は、常に少数の葉が赤く色づくので紅葉とわかるそうですが、このほかにも秋になると紅葉する草や低木の常緑樹もあって、これらのものをひっくるめて「草紅葉(くさもみじ)」と呼ぶこともあるようです。

とはいえやはり我々が目にすることが多いのは、落葉樹の紅葉です。しかし、この落葉樹も同じ種類の木であっても、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったり、その色の変化は千差万別です。

また一本の木でも紅葉の色が違う部分があり、我が家の庭に植えたトウカエデという種類は、秋だけでなく他の季節でもいろいろ色が変わるだけでなく、同じ木なのに部分部分で紅葉の色が違ったりします。

それにしてもなぜ秋になったら、木々の葉っぱは色づくのでしょう。また、なんで秋になると落葉がおこるのでしょう。気になったので色々調べてみました。

紅葉のメカニズム

……その結果、紅葉の理由は諸説あって、なぜ秋になると色づくかについてはどれも定説といわれるものはまだないのだそうです。落葉については、後述しますが、秋から冬にかけての厳しい気候に対応するための植物の反応です。

紅葉も落葉も「化学的なメカニズム」は明らかになっていて、紅葉は葉っぱに含まれている、「クロロフィル」の減少がその主な原因です。「葉緑素」ともいい、光合成をすることで空気中の二酸化炭素から炭水化物を合成して葉っぱ内に貯めこむ、というお話は小学生でも知っています。

で、このクロロフィルですが、秋になり、寒くなって日照時間が短くなると葉っぱの内部で分解されやすくなります。またこういう季節になると、葉っぱの付け根の茎との境に「離層」という特殊な水分を通しにくい組織ができ、この離層ができることによって、葉っぱには糖分(水溶性のブドウ糖や蔗糖などの糖類)やアミノ酸類が蓄積されるようになります。

落葉がおこる前、離層の形成のため葉っぱに溜められるようになった糖分やアミノ酸類で造られた「酵素」はクロロフィルの代わりに光合成を行うようになります。その結果として葉っぱの中に新たな「色素」が作られ、その過程で葉の色が赤や黄色に変化し、紅葉になるのです。

紅葉の色が、赤かったり黄色だったり、褐色だったりするその違いは、それぞれの酵素を作り出すまでの気温、水湿、紫外線などの自然条件の作用によってできる酵素系の違いとその量の違いによるものです。

酵素は光合成によっていろいろな色素を作り出しますが、例えば赤色は、主に酵素から作り出される色素「アントシアン」に由来するもので、これはブドウ糖や蔗糖と、紫外線の影響で発生します。

一方、黄色は色素「カロテノイド」によるもので、これは若葉ができるころから既に葉っぱに含まれていますが、秋になってクロロフィルが分解することによって、より目立つようになるものです

褐色の場合も、原理は黄色の場合と同じですが、カロテノイドよりも「タンニン」性の物質や、それが複雑に酸化重合した「フロバフェン」と総称される褐色物質の蓄積が目立つケースです。

黄葉や褐葉の色素成分は量の多少はありますが、いずれも紅葉する前の新緑のころから葉っぱに含まれており、本来は紅葉になるべきものですが、アントシアンの生成が少なかった場合には黄色や褐葉になるのです。

落葉のメカニズム

さて、次は落葉です。秋になると葉っぱと茎の間に「離層」という植物細胞が変化したものが生成されるということは前述のとおりです。

この離層は、色素のカロテノイドと同様に、初夏から盛夏の深緑のころの葉っぱが盛んに生長する時期に作られはじめます。そして、この離層こそが葉っぱと茎が離れやすくするための装置であり、植物はこれを秋までに用意することで落葉に備えるのです。

「離層」は、細胞は葉っぱで作られる植物ホルモンの一種で、「オーキシン」という物質に敏感です。オーキシンは植物の生長を促す植物ホルモンで、春から夏の間にはたくさん作られて茎のほうに送られていますが、これが秋になると寒くなったり日が短くなったりといった季節的条件の変化がストレスになって、その供給量が減ります。

葉からのオーキシンが減ると、「離層」の細胞はれを敏感にキャッチし、その形が「間延び」したようになり、この間延びした部分にはここから樹液が漏れないように「コルク質」が充填されていきます。

ご存知の通り、コルクはもろくて手で揉むとパラパラになりますよね。葉っぱと茎の間の離層が間延びし、ここにコルクが貯めこまれるようになると、やがて葉っぱの重さを支えられなくなり、ぽっきり折れて落葉がおこるというわけです。

植物の葉っぱというものは、本来は低温、特に凍結に弱く、また「気孔」といって二酸化炭素を取り込み、酸素を放出する「穴」があるため乾燥にも弱いものです。低温や凍結によって気孔を収縮されたりふさがれたりといったストレスは、葉っぱ内のオーキシンの製造量を減らす原因となります。

この結果として、日本のような温帯・亜寒帯のような秋になって温度が低くなる地域では、落葉する植物も多いわけです。

しかし問題は、なぜ木々は秋になると葉っぱを落とすのか、です。

その答えは、低温または乾燥という厳しい環境条件に耐えるために、そうした環境に弱い葉っぱを落として「休眠」に入るためです。一般的には寒くなるために休眠するわけですが、こうした正常な理由による落葉のほかに、周辺環境が塩害にあったり、極端な虫害が生じた場合にもその防御反応として落葉が起こる場合もあります。

よく秋でもないのに葉っぱが黄色くなったり赤くなったりして葉っぱが落ちてしまうのをみかけますが、それはその植物が何かの病気にかかっているか、何等かの環境変化を受けてストレスを感じているからと考えて間違いありません。

本来葉っぱそのものは、大きくて薄い方が効率はよいといいます。薄いほうがたくさんの葉っぱを蓄えることができ、大きいほうがたくさんの光合成をおこなうことができるためです。

大きくて薄い葉っぱは、熱帯雨林などの植物にたくさん見られます。しかしこうした熱帯植物は乾期や寒冷期など不適な季節に対応できません。これを耐えるためには、葉っぱを小さくし、厚くするというのがひとつの方法ですが、温帯地方に多く見られる「常緑樹」は熱帯より涼しい温帯の環境変化に対応するよう進化した植物です。

一方、落葉樹は、温帯よりもさらに厳しい寒さとなる地方において、葉っぱを小さくして厚くしたものの、それだけでは秋から冬にかけての寒さに耐えられなくなり、葉っぱを維持することをあきらめた植物です。

常緑樹の葉っぱは樹種にもよりますが、普通は数年の寿命があります。これに対し、落葉樹は、そんなおんなじ葉っぱを何年も持っていられるかい!そんなの捨てちまって、冬の間の数か月だけ死んだふりしてりゃあいいじゃん、ということで、葉っぱを「使い捨てる」道を選んだというわけです。

もったいないかんじはしますが、逆にいえば、自分の好みの時期だけ葉っぱを維持すればいいわけで効率的といえます。このため温帯から亜寒帯の地域では、秋になって葉っぱを落としやいよう、常緑樹よりも大きくて薄い葉っぱを持つ落葉樹のほうがだんだんと増えていきました。

ちなみに、サクラや梅も落葉樹ですが、秋までには葉っぱをすべて落とし、この様態で春先のまだ寒い季節に花を咲かせます。

これは、こうした季節での開花には低温や乾燥によるリスクが伴うものの、春先には虫が飛来してくることも多くなることから、花粉を運んでくれる昆虫に自分の花を見つけてもらいやすくするためです。まだ葉っぱがなく目立ちやすい時期に花をつけるほうが昆虫は花を発見しやすいのです。

こういう花を「虫媒花」といいますが、「風媒花」というのもあり、これは葉っぱを落として風通しがよくなるために、この時期に花を咲かせ、風によって花粉を飛ばしやすくなることで受粉効率がよくなる花です。

虫媒花、風媒花のいずれも葉っぱを落とす時期に咲き誇ることでより確実に種が保存されることを目指した植物であり、このため、他の落葉樹よりも早々と葉っぱを散らしていきます。桜の葉っぱがまだ秋になるかならないころから色づいて、他の落葉樹に先だって散ってしまうのはこのためです。つくづく、うまくできているもんだなーと感心してしまいます。

紅葉と進化

紅葉と落葉のメカニズムについては、だいたい以上のとおりです。しかし、そもそも木々はなぜ紅葉するのか、についてはまだはっきりとした科学的な説明の定番といえるものはないのだそうです。

ご存知のとおり、植物も人類他の動物と同様に、長い時間をかけて進化してきました。その進化の過程において、「紅葉」の進化的要因や進化的機能については、これまでは普通に葉っぱの「老化現象」にともなう「副作用」であると説明されてきており、あまり研究の対象にはなってこなかったといいます。

ところが、イギリスのウィリアム・ドナルド・ハミルトンという生物学者が、1999年(平成11年)に北半球の262の紅葉植物とそれに寄生するアブラムシ類の関係が調べたところ、紅葉色が鮮やかであるほどアブラムシの寄生が少ないという事実を発見しました。

前述のように紅葉の原因は、アントシアンやカロテノイドなどが葉っぱの内部で合成されるためですが、このためには光合成などの大きなコストがかかる一方で、特段、紅葉すること自体が直接害虫への耐性を高めるわけではありません。

ところが、アブラムシは樹木の選り好みが強い昆虫で、長い間の研究で一部の種は色の好みもあることがわかってきました。こうした研究結果からハミルトン博士は、植物の紅葉は自分の免疫力を誇示する「ハンディキャップ信号」として進化してきたのではないか、と考えました。

つまり、赤や黄色に変色する木々は、「十分なアントシアンやカロテノイドを合成できる俺様は、耐性が強いのだから、寄生しても繁殖することはできないぞ」と呼びかけているとみなせる、というのです。

ハンディキャップとは、そもそもスポーツやゲーム等において競技者間の実力差が大きい場合に、その差を調整するために事前に設けられる設定のことですが、競技に限らず様々な競争的な場での立場を不利にする条件を指す言葉として用いられます。

そもそもは弱い立場にある場合に、他の強い者に対抗するために与えられるアドバンテージのことですが、ハミルトン博士は植物の紅葉も一種のハンディキャップではないかと考えたのです。

前述の例えでは、植物は「耐性が強いのだから、寄生しても繁殖することはできないぞ」と強がっていると書きましたが、これは「僕はもともとアブラムシ君たちよりもずっと弱い立場にあるんだよ。だから、秋になったら君たちに食べられないよう、ハンディキャップとして君たちの嫌いなアントシアンやカロテノイドを合成させてもらうよ。」というふうに主張しているとも解釈できます。

つまり、ハンディキャップ信号というのは、危害を加えるものに対して自分がその対抗手段として何等かの「ハンディキャップ」を持っていることをアピールするための「信号」というわけです。

植物の場合、アブラムシなどの動物に対して自らが弱い立場にあることを示すハンディキャップが「紅葉」ではないかとするこの説は、実はこれより前から動物に関しても研究されていました。その典型的な例として挙げられるものにガゼル(アフリカなどに棲むウシ科の動物。鹿に似ている)の跳びはね行動(ストッティング)に関する研究というのがあります。

ガゼルは、捕食者であるライオンやチータによって狙われていることを悟ると、最初のうちはゆっくり走って逃げはじめますが、その途中で突然急に高く跳びはねるといいます。

一般的にみれば、より捕食者に見つかりやすくなるこの行動は、動物学者にとっては不可解な行動であり、なぜそんな行動に出るのかというのは長いこと議論の対象になっていたそうです。しかし、多くの学者は、その行動は他のガゼルにチータの存在を知らせているのだろうと説明づけていました。

ところが、1975年にイスラエル人の生物学者でアモツ・ザハヴィという人が、このガゼルの行動は、他の仲間より自分が健康で調子が良い個体であるということを捕食者に示し、捕食者がそれを追うことを避けなければならないようにするために行なっているのではないかと主張したのです。

つまり、健康な個体であるガゼルは、捕食者であるチータに、「俺はこんなにも元気なんだから、追っかけたって、最終的にはあんたの苦労は実を結ぶことのないよ。追跡はムダだぜ。」と知らせており、捕食者に対して、無駄なエネルギーを避けたほうがいいよ、とアピールするために、わざと高く跳ねるという行動に出たのではないか、というのです。

この結果、捕食者であるチータは、ガゼルの行動から健康か健康でないかという情報を得ることができ、捕獲する前にその難易度を図ることができるため、逆に調子の良いガゼルは追わないといいます。そして実際に、チータはストッティングを行わずすぐに逃げ出すガゼルのほうを狙うことが多いことが観察されているといいます。

この植物や動物が出す「ハンディキャップ信号」に関する理論は、「ハンディキャップ理論」とも呼ばれていて、ほかにもいろんな研究が始められているそうです。

「羽を広げるクジャク」もオスがメスに自分のエサの確保の能力や肉体能力を誇示しているのではないかと考えられる一方で、羽根を広げれば他の肉食系の動物に目立つ行為になることから、ハンディキャップ信号の一種ではないか、それを積極的に示すことが直接自己の生存や繁殖の何等かの利益になるのではないか、という研究がされているそうです。

オスがメスに自分のエサの確保の能力や肉体能力を誇示しているのではないかという考え方は、指標説(優良遺伝子説)というそうですが、これはクジャクのオスは肉体的な能力を誇示するためにその羽のきらびやかさをMAXまでメスにみせているという考え方です。

これに対して、ハンディキャップ理論では、例えば羽根を大きく広げるオスは、寄生生物への耐性があり栄養状態が良いことをメスに知らせているのではないか、と考えるわけです。

別の考え方もできます。「僕は無理をすれば、もっときらびやかな羽を持てるんだよ、でもそんなに無理しすぎると逆に羽根のほうに精力を使い果たしてしまって、「アレ」をするときに元気がなくなるので、この程度にしているんだよ」と他の種よりも「やや小さ目」に羽根を広げて、より生殖機能が高いことをメスにアピールしているといるのではないかという説です。

メスはより大きく羽根を広げるオスよりも、適度な大きさときらびやかさしかみせない、「謙虚な」オスのほうが、「元気なオス」と考えてこちらを選択するのではないか、というわけです。

逆説的な、見方によってはかなりひねくれた考え方ですが、従来通りの観察で物事を解釈するのではなく、別の観点から生物の進化の過程を明らかにしようとするアプローチで、なかなか面白いと思います。

この辺の話は、人間にもあてはまるような気がします。最近は、マッチョで粗暴な男よりも、少し痩せていて体力はなさそうだけれども、頭がよさそうで優しくしてくれる男性のほうを女性は好みます。

実際、こうした研究は、ヒトに関してもなされています。人間は多くの場合、男のほうが女よりも背が高く体格が良いのが通例ですが、これもクジャクと同様に普通に考えれば、男は食べ物の確保の能力や肉体能力を誇示するために女性よりもたくましくなると考えることができます。

しかし、ハンディキャップ理論に即して考えると、例えば、男は酒やタバコといった習慣性薬物を摂取する率が女性より高いといったことや、バンジージャンプのような自らを危険にさらす行動も女性よりも高い比率でやりたがる、といったこともハンディキャップ理論に基づけば、何らかの進化した本能の表現ではないか、と考えるわけです。

ヒトに関するこうした研究に結論が出たわけではなさそうですが、ハンディキャップ理論に基づいたこうした研究が進めば、近い将来、こうした研究から人類の進化に関しては驚くべき発見がなされるようになるかもしれません。

男性が女性よりも大きいのはもしかしたら、精神的には女性よりも繊細でよりか弱い生物であることのハンディキャップなのかもしれません。「僕は君たちより弱いんだよ。だから大切にしてね。」

いずれにせよ、次々と新説が現れるということは、人間はさらに進化しているということにほかならないわけで、このハンディキャップ理論という考え方が出てきたこと自体が人間の進化のあらわれなのかもしれません。

さて、今日は紅葉や落葉の話に端を発しましたが、だんだんと怪しい方向に進みだし、生物の進化の話にまで発展してしまいました。いつもの話ですが反省至極です。明日からは初心に帰って真面目にやろうかな。でもまた脱線するかもしれません。お許しください。

死者の日

今日、11月2日は、カトリック教徒の人たちにとっては、「死者の日」として死者の魂のための祈りを捧げる日とされているようです。古くは「万霊節(ばんれいせつ)」という言い方をしていたようで、これに対するのが「万聖節(ばんせいせつ)」であり、全ての聖人と殉教者を記念する日で近年は「諸聖人の日」と呼ばれています。昨日11月1日はその「諸聖人の日」でした。

私はとくにキリスト教徒でもなく、仏教徒でもないので、特段この日にお祈りを捧げる習慣はありませんが、日本だけで45万人もいるというカトリック信者さんたちにとっては、今日は死者のためにミサを捧げる大切な一日なのでしょう。

「教会暦」というのがあって、これは典礼暦(てんれいれき)ともいわれ、カトリック教会では、伝統的にその一年が待降節(アドベント)から始まり、「王であるキリスト」の祝いで終わるサイクルになっています。この間、主なものだけで20以上の「典礼」が行われ、それらの中には、我々もよく知っている「主の降誕」、つまりクリスマスや、復活祭なども含まれます。

この「死者の日」もそのひとつであり、他の典礼と同様にこの日にカトリック教会では「ミサ」が行われます。他の典礼日には聖書朗読の内容がだいたい規則によって決まっているそうですが、死者の日に関してはとくに固定されておらず、死者のためのミサも自由に選ぶ事ができるそうです。

「レクイエム」というのもミサのひとつであり、これは死者の安息を神に願い捧げられるミサです。本来は死者を弔う儀式全体のことを指したようですが、ミサで用いる聖歌のことを単体で「レクイエム」と呼ぶことも多いようです。

「鎮魂曲」と訳されることがありますが、レクイエム自体には「鎮魂」、つまり魂を鎮めるという意味はなく、単に「葬送」「死を悼む」とかいった単純に「死者を送る」「死を悲しむ」いう意味しかないそうです。

この「死者の日」の由来ですが、かつてカトリック教会ではその教えとして、人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄(カトリックでいうところの地獄)での清めを受けないと天国にいけないという考え方がありました。

こうした思想はやがて、死者は生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間を短くできるという考え方に変わっていき、「死者の日」を設けることで、その日一日さえ煉獄にいる死者のために祈れば、安らかに天国にいける、と考えられるようになっていったようです。

そもそもカトリックだけでなく、死者のために祈るという発想自体は世界中で古代から存在していましたが、キリスト教においてその歴史の中で死者の日というものを取り入れたのは、11世紀のころといわれています。フランスのブルゴーニュ地方にあるクリュニー修道院の院長で「オド(オディロン)」という人がそれを始めたそうです。

イタリアには、11世紀に国王とともに教会改革を推進した人で、神学者のペトルス・ダミアという人がいましたが、この人はカトリックでは聖人とされており、この人が記した「聖オド伝」には、死者の日について次のようなことが書かれているそうです。

聖地に巡礼に行き、そこから海路を渡って帰ってきたある巡礼者が、嵐に巻き込まれ、ある孤島に打ち上げられました。そこには一人の修道士が住んでおり、その修道士に助けられた巡礼者は、ある日その修道士から島にある岩の中をのぞいてみるように言われました。

その岩のすきまから煉獄の様子がみえるというのです。

言われたとおりに巡礼者が中をのぞきこみましたが、暗くてよくは見えませんでしたが、確かに中からは煉獄で苦しむ人々の声が聞こえるようです。そして修道士は巡礼者に向かって、私は悪魔が「死者のために祈られると死者の魂が早く天国へいってしまうから不愉快だ」とぼやいているのも聞いたことがあると語りました。

この話を聞いた巡礼者は修道士にお礼を言い、そして故郷に帰りその地の聖人として崇められていた「オド」にすぐに会いに行き、その話を伝えました。

その話を聞いたオドは、それ以後死者の霊魂のために祈りを捧げる習慣を始めたということで、その日が11月2日であったことからクリュニー修道院においては、この日を「死者の日」としてミサを捧げるようになったそうです。

そして、やがてこの習慣はクリュニー修道院から系列の修道院へと伝えられ、それがフランス全体に広がり、西欧全体へと広まっていったといいます。

こうして「死者の日」はヨーロッパ各国に浸透していきましたが、宗教改革の時代、イギリスでは、イギリス国教会がこの風習を否定したことから、死者の日は廃止されました。しかし他のヨーロッパ諸国では、プロテスタントが主流の国であっても廃止される事なく継続されました。

ドイツでは、宗教改革の中心人物で神学教授だった「マルティン・ルター」が聖書に根拠のないすべてのキリスト教の伝統行事をすべて廃止しようとしましたが、それでもドイツのザクセン地方の信者たちは、死者の日の習慣を廃止しませんでした。

死者の日は単なる教会暦の祝い日という枠を超えて、人々の文化の中に根付いていたためです。

同様にフランスでも死者の日は廃止されることはなく、現在でもこの日になると墓に飾りをほどこすといい、宗教改革がとくに進んだドイツでもこの日に墓に花を飾る地方が現存しています。

ただ、プロテスタント教会の多くはこの日を「死者の日」とは呼ばず、聖徒の日、諸聖徒日、召天者記念日などと別名にして礼拝を捧げる教会が多いということです。

ところで、この死者の日とハロウィンは何か関係があるのでしょうか。

結論からいうと、全く関係ありません。ハロウィン、あるいはハロウィーン(Halloween)は、ヨーロッパを起源とする「民俗行事」で、毎年10月31日の晩に行われ、そもそも日付が違います。

西ヨーロッパには、その古代に「ペイガニズム」と呼ばれる自然崇拝、多神教の宗教があり、この宗教では「死者の祭り」と「収穫祭」を重視しました。紀元400年ほど前にヨーロッパを席巻したケルト人は「「サウィン祭」というお祭りを行っていたそうで、これがハロウィンの由来ではないかといわれています。

その後、ヨーロッパを中心としてアングロ・サクソン系諸国で、盛大なお祭りとして毎年行われるようになりましたが、今日のようなハロウィンの習俗に落ち着いたのは19世紀後半以降と比較的新しく、とくにヨーロッパからの移民で作られた国アメリカで「非宗教的大衆文化」として広まったものだそうです。

ハロウィンという語感には、なんとなくキリスト教の行事のような響きがありますが、本来キリスト教のような近代的な宗教とは無関係で、どちからといえば古代宗教の色合いの濃い習慣のようです。

ただ、ケルト人は、自然崇拝からケルト系キリスト教を経てカトリックへと改宗していったため、11月1日を諸聖人の日(万聖節)としており、これと古くからの習慣を合わせ、ハロウィンはその前日の10月31日に行うようになったといいます。

そしてこの日は万聖節の「イブ」にあたることから、諸聖人の日の旧称“All Hallows”の前夜“eve”、すなわち、“Hallows-eve”が訛って、Halloweenと呼ばれるようになったということです。

ところで、この「死者の日」は、アメリカの「インディオ」にもその風習が残っているそうです。日本では、「お盆」にお墓の前で飲んだり踊ったりする習慣が、長崎などのごく一部の地方で残っているようですが、インディオでも同じような風習があるそうです。

ただ日本の場合は、各家のご先祖様を迎えるために飲食をするわけですが、インディオの風習では、ご先祖だけでなく、自分にとって関係深い人々を迎える、という思想のようです。そして、数日前からご馳走を準備し、呼びたい人の分だけ揃えるのですが、その時必ず一人前、余分に作るのだそうです。

その理由としては、生きている人間でも誰にも声をかけてもらえないような人がいますが、霊にもどこにも呼ばれない霊があり、自分たちの親しい人の霊を呼べば、その霊がこうした誰にも誘われないような霊を誘って連れてくるためだそうです。

そして自分の親しい人たちの霊にだけご飯を差し上げるのではなく、こうした「身よりのない霊」にも寂しい思いをさせない、ということで一人前余分なごちそうを用意するのだといいます。

生きている我々だって、パーティをやるときには一人誘えばその人が誰かを連れてくることがあります。 二人誘えば四人になることもあり、そうしてパーティは大勢の人で盛り上がります。インディオの世界では、それが生きている人間だけでなく、死後も同じと信じられているわけで、こうした優しい風習が残っていることにはちょっと感動します。

浮かばれない霊の中には自殺をした人とか、他にもあまり良い死に方をしたことがない人の霊も多いといいますが、そうした霊もひっくるめて、みんなお盆のときくらいおいでおいでよ、ご馳走があるよと呼んであげれば、そうした霊の中にはそれで浄化されて解放されるものもあるかもしれません。

そして、自分が死んだあとは、あちらの世界で迷っている霊を誘い、一緒に良い場所へ連れて行ってあげる。どうせいつかは死ぬなら、そういう心の広い霊になりたいではありませんか。