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ワルキューレ ~静岡市清水区

昨日話題にした駿河湾フェリーが発着する「清水港」は、「港湾法」という法律で定められた全国で23ある「特定重要港湾」のひとつです。最近、さらに港湾法が改定され、この特定重要港湾も、「国際拠点港湾」と呼ばれるようになりました。

長い間、海の仕事に関わってきた私にとっては、「特定重要港湾」のほうが慣れ親しんだ名前なので、いまさら変えなくてもいいのに、と思うのです。

いまや国際的な物流の拠点を韓国や中国の港にすっかりとられてしまった日本ですから、国の思惑としては、名前を変え、心機一転国際化に取り組む、という意気込みなのでしょうが、名前ばかり粋がって変えて見ても、中身はたいして変わりもせず、なにやら空しい気がします。

ま、それはともかく、法律上も重要な港とされているこの清水港、同じく「国際拠点港湾」として知られている、神戸港・長崎港と共に「日本三大美港」の一つなのだそうです。

学生のころ、二年間清水の町に住んだことのある私としては、そんなにきれいかぁ?と再びケチをつけたくなるのですが、町中からみるとごちゃごちゃした物流の集積拠点である清水港も、外洋から入港する船からみれば、富士山を仰ぎ、三保の松原に囲まれた美しい港に見えるのでしょう。外国船員にはとりわけ人気が高いそうです。

このためか、内外のクルーズ客船や海軍の船の寄港も多いようで、昨日書いた日の出埠頭付近の公園開発も、そうした海外からのお客さんを増やすことが一つの目的だったと聞いています。

なんでも、「みなと色彩計画」といいう景観保全の計画も進められているそうで、富士山など周囲の景観に調和する「青」を基調とした港湾整備も進められているのだとか。これまでの貿易一辺倒の港から脱却し、観光港として生まれ変わろうとしている清水港のこれからの変貌ぶりは期待できそうです。

さて、この清水港ですが、古くは7世紀に書かれた日本書記にその名前が出ており、「健児兵士万余を率いて、清水湊を出て、海を越えて百済(くだら)に至らむ」と書かれています。このくだりは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で行われた、倭国(日本)・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間で行われた陸海戦のことを書いたものです。

駿河の国で勢力を伸ばしてきた廬原(いはら)氏という一族の兵たちが、ここから出撃していった様子が記録されたもので、この当時既に太平洋から瀬戸内海に回って、大陸に渡るほどの力を兼ね備えた豪族が駿河にいたわけです。

その後、16世紀には駿河は、甲斐から侵攻してきた武田氏の水軍基地となりますが、武田氏が滅亡するとこれを徳川家康が継承し、その水軍の拠点としました。江戸初期には、駿府城の築城や補修の資材が清水湊に陸揚げされ、市内を流れる巴川を遡り、東海道を通って運搬されました。そして、これに関わった人足やその家族達が次第に清水湊の周囲ににぎやかな市街域を形成しはじめます。

江戸時代に入ると、駿河をはじめ甲斐、信濃の江戸幕府領地からの年貢が富士川沿いの鰍沢河岸、岩淵河岸に集められ、ここから川を下って清水湊まで送られ、大型船に積み替えられて江戸へ回送されるようになります。また、清水湊は赤穂の塩などの西国の物資が江戸へ送られる際の中継基地にもなりました。

明治に入り、幕府より許可されていた廻船問屋42軒の特権が剥奪されると清水のにぎわいは一旦は寂れてしまいました。しかし、1899年(明治32年)に政府から「開港場」として指定されたため息を吹き返します。外国の船も入港するようになり、お茶などを扱う外国商社も多く置かれ、茶の主要輸出港として栄えるようになったのです。

戦後、昭和27年に特定重要港湾の指定を受けると共に、静岡県の産業発展を背景に清水港も規模を拡大し、現在ではヤマハやスズキといった県内の有力企業の二輪自動車・自動車部品や機械類などの輸出港として、またボーキサイト(アルミの原鉱)・液化天然ガス等の輸入港として発展してきました。

平成23年度の統計では、名古屋、横浜、神戸、東京、大阪に次いで5番目の貿易輸出額を誇り、静岡県下では無論、最大の港湾となっています。

この清水港、地図をみるとおわかりかと思うのですが、「三保半島」と呼ばれるカギ状の半島の内側に抱かれるような形で港湾区域が形成されています。三保半島は、清水港の西隣りの静岡市のさらに西側に南北に流れる安倍川から流出した砂でできました。阿部川河口から海へ掃きだされた砂が、波の作用で海岸付近にできた流れによって運ばれ、この地に吹き溜まりのように貯まって半島を形成したのです。

何百年にわたり流された土砂は、静岡と清水の海岸に幅百メートル超える砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島とその南側に「三保の松原」の砂浜を形成しました。こうした海の流れで吹き溜められた半島地形は、鳥の嘴(くちばし)のように見えることから「砂嘴(さし)」と呼ばれます。

この三保の松原ですが、その砂嘴と松林のコントラストの美しさから、日本新三景・日本三大松原のひとつとされ、日本の白砂青松100選にも指定されています。

日本三景は、松島(宮城県)、天橋立(京都府)、厳島(広島県)ですが、日本新三景とは、1915年(大正4年)、日本三景にならって「実業之日本社」主催のコンテストで選ばれた景色で、三保の松原以外のふたつは、大沼(北海道亀田郡)と耶馬渓(大分県中津市)になります。

三大松原とは、三保の松原と、虹ノ松原(佐賀県唐津市)、気比松原(福井県敦賀市)ですが、天橋立(京都府宮津市)と箱崎(福岡市東区)が別の三大松原だといわれることもあるようです。いずれにせよ三保の松原が入っており、日本を代表する松原であることには間違いありません。

実は、私はこの三保の松原のすぐ近くに、学生の頃に住んでいました。浜から歩いてほんの5~6分ほどの場所で、学校での授業から帰り、気晴らしに浜へ出ると、晴れた日には、松の枝越しに富士山もよくみえて、なるほど「景勝地」という観がありました。

浜の色は真っ白ではなく、富士山の火山灰を含んだ灰色なのが少々残念でしたが、その先に広がる駿河湾にはいつも船が浮かんでいて、天気の良い日には、日向ぼっこをしてそれを眺めながら何時間も過ごしていたものです。

この三保の松原には、天から舞い降りた天女にまつわる「羽衣伝説」があって、天女が天から舞い降りたときに羽衣を架けたという、「羽衣の松」を中心として、この一帯は観光地になっています。

松林のど真ん中に、「御穂神社」というお社があり、ここには、天女が残したとされる羽衣の切れ端が大切に保管されているとか。一般公開されていないのか、私も一度も見たことがありません。まあ伝説なので、江戸時代あたりに誰かが創作したものなのでしょうが。

この社前には、樹齢200~300年の松の並木が500mほど続いており、これがこの神社の参道になっています。この参道を神社とは逆の方向に進むと浜に出ることができ、ここに天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、「羽衣の松」があります。

私が清水に住んでいたころにはもうすでに、羽衣の松もかなり傷んでいて、あちこちに支えのつっかえ棒が取りつけてありましたが、今も健在なのでしょうか。今度行ったら確認してみたいと思います。

この羽衣伝説、いまさらここで説明する必要もないほど、全国的に浸透しているお話です。かいつまんで言えば、羽衣をまとった天女がある日そらから降りてきて、羽衣を末にかけている間に、この天女に一目ぼれした男に羽衣を隠されてしまって、空へ帰れなくなってしまう……というもの。

この男が、若い男か、老人か、というところで、各地に残っている羽衣伝説が微妙に違うようです。が、羽衣の松といえば三保、といわれるくらい一番有名なようで、三保の松原の場合は、若い男が羽衣を隠し、天に帰れなくなった天女と結婚するというストーリー。

三保の松原以外では、次のような場所に同様な伝説が残っているようです。

滋賀県 長浜市 余呉湖
京都府 京丹後市 峰山町○
千葉県 佐倉市
鳥取県 東伯郡 湯梨浜町羽衣石
大阪府 高石市羽衣
沖縄県 宜野湾市 真志喜

他の地方でも、だいたいが、天女が羽衣を盗まれ、しかしやがてそれをみつけて天に帰ってしまう、というオチのようです。が、京都の丹後の場合、天女に逃げられた男が天女を追っかけて天に上り、天女を取り返そうとしたところ、天女のお父さんが出てきて、難題を吹っかけ、それを解くことができたら天女を呉れてやろう、という話になっているそうです。

同じような話は、「七夕伝説」の中にもあり、こちらは、牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女(織姫)の衣を盗んで夫婦となりますが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというもの。

その類似性から出所は同じだろうという説があるようなので、七夕伝説というのは案外と丹後地方が発祥地なのかもしれません。

しかし、その丹後には、また別のバージョンのストーリーがあり、それは、

・羽衣を盗んだのは老いた男である。
・天に帰れなくなった天女はその男と妻の老夫婦の子として引き取られる
・天女は酒造りにたけていたため、それによって老夫婦は裕福になる
・やがて裕福になった老夫婦は、天女が邪魔になり、自分の子ではないと言って追い出す

という、ちょと不道徳な話。せっかく世話になった天女を追い出すなんて、まったくひどいヤツらです……と怒ってみたところで、所詮はおとぎ話の世界です。

ただ、追い出された天女は、その後、各地をさまよった末、丹後の竹野にある村にたどり着き、そこで「豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)」という神さまになったという話もあります。

このトヨウケビメは、伊勢神宮外宮の豊受大神宮に祀られている「豊受大神」のことだそうで、伊勢神宮以外の近畿・中国地方を中心としたあちこちの神社でも祀られているということです。

追い出した老夫婦はその後どうなったかわかりませんが、少なくともこのトヨウケビメの逆襲にあってのたれ死んだ、とかいうようなリベンジストーリーは残っていないようですね。

このように、日本全国に広がっている羽衣伝説ですが、ヨーロッパの北欧でも似たような話があるということです。

「ワルキューレ」というのがそれで、どこかで聞いたことがあるような名前ではありませんか?

そう、ワルキューレとは、あの有名な作曲家、リヒャルト・ワーグナーが書いた楽劇「ニーベルングの指輪」に出てくる女神の名前で、ワーグナーの劇では、そのはじめのころに悲劇の女神として登場してきます。

最近では、トムクルーズ主演の映画名にもなりました。これはドイツ軍の将校の主人公がヒトラーを暗殺する計画を立てますが、この計画のコードネームがワルキューレでした。

また、ちょっと古い映画ですが、フランシス・コッポラの映画で「地獄の黙示録」というのがありました。この映画では、主人公の乗ったヘリコプター部隊が、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を響かせながら、ベトナムへ進撃していくシーンが印象的でした。

ニーベルングの指輪は、映画の「指輪物語」の原作にもなったといわれており、日本でも里中満智子さんや池田理代子さん、松本零士さんなどの漫画家が題材にして作品を書いています。

ワーグナーやこれらの漫画家さんのストーリーをここで書いている余裕はないので省略しますが、このようにいろんな作家さんが原作にするくらい、想像力のかきたてられるお話です。

ワルキューレは、そもそも「北欧神話」に登場する、片親が神さまで、もう一人の親が人間である「半神」の女神です。

北欧神話は、スカンディナビア神話ともいわれますが、ゲルマン神話、つまり古い時代のドイツの神話でもあり、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、アイスランドなどに伝わってきたものです。もともとは、北ゲルマン民族によって共有されていた信仰や物語が集約されたものでしたが、その後主にスカンディナヴィア半島に住むヴァイキングに伝承され、現在まで生き残ってきました。

ワーグナーもこの北欧神話をもとに、「ニーベルングの指輪」を着想したものと考えられ、その意味では、他の作家の原題とされるワーグナーの劇楽もオリジナルではありません。

そもそもの北欧神話では、ワルキューレは戦場において死を定め、勝敗を決する女性的存在、「女神」として描かれていたそうです。しかも、ひとりではなく、ワルキューレは九人いたといわれており、別の伝承では十二人と言われる場合もあります。

最近の研究では、そもそも北欧神話におけるワルキューレは、人間の魂が動物の姿をして現れる霊的な存在「フィルギャ」から派生したものと考えられているそうです。

それがやがて勝敗を定める女神になり、やがては、ギリシャ神話におけるゼウスのような主神、「オーディン」の命を受けて、天馬に乗って戦場を駆け、戦死した勇士(エインヘリャル)を選び出す使者として描かれるようになります。

ワルキューレ(達)は、死んだ勇者を天上に連れて行き、「ヴァルハラ」という宮殿へと迎え入れて蘇生させ、彼らをもてなす役割を担っていました。

北欧神話では、最終戦争で神様と人間たちの連合軍が、「巨人族」によって攻め滅ぼされてしまうのですが、この最終戦争のことを「ラグナロク」といいます。ワルキューレたちは、ラグナロクでの戦いに備え勇士達を探しだし、ヴァルハラにおいて、ラグナログでの戦いに備えて彼らに武事を励まさせます。シチュエーションはかなり違いますが、このあたりが天上の神様に仕える日本の天女とちょっと似ているところ。

しかも、このワルキューレも、天女のように白鳥の羽衣を持っていて世界を飛び回っていたといい、これを身にまとうことで白鳥に変身することができたそうです。日本の天女は、やはり羽衣を身にまとうことで、天界と地上を行き来していたということですから、もしかしたら、この伝説の出所は同じなのかもしれません。

北欧伝説の中には、ワルキューレたちが、白鳥の羽衣を男に奪われるというエピソードが出てくるそうで、このあたりも日本の羽衣伝説と似ているところです。

だからといって、北欧のヴァイキングたちが、北極海をまわってオホーツク海にまで到達し、北欧伝説を日本に伝えた、とは考えにくいところです。

しかし、ヴァイキングたちは、その優れた造船技術で建造した船を操って、南は黒海やカスピ海のあたりまで進出していたということですから、アラビアの世界に伝わったワルキューレ伝説が、シルクロードを通って日本にまでやってきた、と考えるのはあまり無理がないように思えます。

北欧といえばオーロラを思い浮かべる方も多いと思いますが、北欧のヴァイキングたちの間では、オーロラは、オーディンの使者として夜空を駆けるワルキューレの鎧がきらめいたものだと考えられていたということです。

日本ではオーロラを見ることができるのは、北海道などのごく一部にすぎませんが、北欧と違って、夜空の真ん中には星々たちをちりばめた天の川が見渡せます。

もし、ヴァイキングたちのワルキューレ伝説がシルクロードを渡って日本に伝わってきたのなら、その話を聞いた倭人たちは、オーロラを天の川にみたて、それを天女がまとう鎧ならぬ羽衣と考えるようになったのかもしれません。

丹後地方に伝わるという七夕伝説が、羽衣伝説と似ている点が多いのも案外とそのせいなのかも。ワルキューレ伝説が七夕伝説に変わり、それをもとに羽衣伝説ができた、と考えると、何かすっきり説明できるような気もします。

今夜空を眺めていて、すっきり晴れ渡った夜空に天の川が見えたら、そこには天女ではなく、ヴァイキングたちのワルキューレの姿が見えるかもしれません。そう考えるといつもとは違うまた別の楽しい星空散歩ができそうです。みなさんもやってみませんか?

駿河湾フェリー ~旧土肥町(伊豆市)


先週末、このブログで残暑お見舞いを書きましたが、そのあと、列島は急速に涼しくなり、昨日の夜などは、我が家の外気温は20度にまで下がりました。暑いのは彼岸まで、とよく言われますが、今年も例外ではなく、やはり涼しくなりましたね。雨もそこそこ降ったようなので、関東地方の水がめもちょっと一息つけたのではないでしょうか。

さて、先週、土肥金山のことを話題にしましたが、ここ土肥は、「駿河湾フェリー」が立ち寄る港でもあり、ここから駿河湾を横断して、清水港まで一日4往復の航行が行われています。所要時間は片道65分で、乗用車で清水まで行こうとすると東名高速を使ったとしても2時間少々かかりますから、伊豆西海岸からちょっと清水や静岡方面へ行くのには比較的便利な交通手段です。

しかし、ここ修善寺からだと、土肥港まで30分以上かかりますし、沼津や三島からではさらにそれ以上時間がかかります。さらに乗船までの待ち時間などを考えると、結局あまり時間差はなくなる、かな。さらに、船賃は片道2200円、往復3960円であり、東名高速の有料運賃が1300円であることを考えると、必ずしもお得とは言えない交通手段です。

この駿河湾フェリー、正式名称は、「エスパルスドリームフェリー」と呼ぶそうで、清水に拠点を置く、Jリーグの人気チーム「清水エスパルス」にあやかってつけた名前で、静岡市清水区にある海運会社の鈴与グループの傘下企業が運営しています。

平成14年4から一隻で運行をはじめ、好評だったためか平成17年7月からは2隻体制の運航になり、年間29万人もの利用者があったそうです。しかし、その後は利用者数が伸び悩み、さらに原油高騰などによるコスト上昇が経営に影響し、平成20年12月から1隻による運航に戻しています。

その後、利用者数は年間約15万人程度で推移しているようで、フェリーとしては結構厳しい運営状況みたい。年間15万人を単純に365日で割り、しかも一日の船便数8で割ると、一回の渡航者はわずか50人あまりになります。

無論、夏場などのレジャーシーズンなどにはもっと多くの利用者がいるのでしょうが、これから冬になると、利用者も減ってくるのかも。私も冬場は駿河湾から見える富士山がきれいそうなので、一度は利用者してみたいと思うのですが、正直なところ、一回乗ればいいかな~というかんじ。リピートはおそらくないでしょう。

……などと書くと、鈴与さんから、営業妨害だ!とお叱りを受けそうなので、このくらいでやめておきます。が、お客さんを増やすためにはもっと工夫が必要でしょう。

たとえば今は、65分で清水まで行けるというスピードが「売り」なのでしょうが、これを倍ぐらいの時間にすれば、消費する油代が少なく済みます。その分、運賃を安くできるでしょう。この2時間あまりの時間をどうやって潰すかですが、私なら、もっと洒落たレストランを作って、富士山を眺めながらゆったりとお食事ができるスペースにするかな。

喫茶店でもいいと思います。2時間あれば、映画も放映できるし、ショッピングも楽しめるということで、お土産モノ屋さんを充実させる、という手もあるかと思います。無論、新に投資が必要になることなので、なかなか安易には踏み込めない領域でしょうが、そこは会社の経営ですから、鈴与さん、もう少し考えてみてはいかがでしょうか。

船好きの私としては、この駿河湾フェリーがもっと魅力的なものになり、何度も乗りたくなるような交通手段に生まれ変わってくれることを切に祈りたいところです。

しかし、この鈴与さん(正式名称は「㈱エスパルスドリームフェリー」だそうですが)、清水には、清水港クルーズが楽しめる、「オーシャンプリンセス号」という帆船ももっているようです。クルーズ船とはいうものの、通常は結婚式や宴会などのための「貸切船」としての営業しかやっていないので、時々催される特別イベント(クリスマスディナークルーズとか)などに参加しない限りはなかなか乗れません。

この船、実は結構由緒正しい豪華船だったようで、1974年にアメリカの大企業「ジョンソン・エンド・ジョンソン」の経営者のお兄さん、シェワード・ジョンソンという人が、自家用船としてデザインさせ、ポーランドで建造された帆船です。

このジョンソンさんが所有していた時代には、かの有名なJFケネディーの一族やエリザベス・テイラー等の多数の著名人が乗船したことがあるんだそうです。その後、1980年にギリシャの海運王のマルチノス一族の手を経た後、今のエスパルスドリームフェリーの所有となり、1996年(平成8年)より清水港クルーズを用途として運用されはじめたとか。

船には一流シェフが乗り、なかなかうまい料理を出すみたいで、伝統を感じさせる木造のキャビンと白い帆をかかげた優美な姿は、船フェチの私としてはぜひ乗ってみたいところ。クリスマスだけでなく、そのほかの季節にも時々一般向けにイベントを開催し試乗ができるようなので、そのうちチャンスがあったら乗ってみたいと思います。

鈴与さんのクルーズ船にはまだほかのものがあるようです。「ベイプロムナード号」という双胴船がそれで、こちらは、清水港内を周遊する遊覧船として就航しており、一日4回のクルーズが楽しめます。11時半と13時出航は、14時と15時の出航は35分コースだそうで、この10分の違いは何なのかな、と思ったら、11時半と13時のコースでは、船内で「船弁」なるお弁当が楽しめるのだとか。

ただし、「15人以上」という人数制約がある上、予約が必要だそうです。15人以下でもご相談によってはOKということなのですが、45分という微妙な時間が気になるところ。気になる「船弁」のメニューは、1800円から2900円の範囲で5種類のお弁当かお寿司が食べれるようです。値段的にはちょっと高いけれどもまあ、こんなものなのかも。

ちなみに、船弁なしの一般利用のクルーズ料金は、45分が1000円、35分が900円だそうで値段的にはまあ許せるかな、というかんじ。ですが、100円しか違わないのに、35分しかクルーズが楽しめないなんって、ちょっと不公平、などとケチなことを考えるのは私だけでしょうか。

この清水港クルーズ、さらには「ミニクルーズ」なるものもあって、こちらは、15分が450円、20分が500円のコース。結構お手軽です。ただし、鈴与さん(略称ですいません。正式名称が長いもんで)のホムペにははっきりしたことが書いてありませんが、こちらのクルーズに使うのは、おそらく「フェルケル号」とかいう20トン未満の小舟のようです。小舟といっても100人弱は乗れるようですが。

この「フェルケル号」のフェルケルとは、おそらく清水港の「日の出埠頭」の近くにある「フェルケール博物館」の名称からとった名前でしょう。「フェルケール」とはドイツ語で交通を意味し、この博物館の創設者、「鈴木与平」さんの大学の恩師の講座名からとったそうです。

鈴木与平?それってまさか……そうです。鈴与の社長さんです。「鈴与株式会社」は、物流業を営む株式会社で、持株会社の鈴与ホールディングスは、Jリーグのサッカークラブ清水エスパルスや、静岡空港を拠点とする航空会社フジドリームエアラインズを傘下におさめるほか、さきほどまで書いてきたエスパルスドリームフェリーもその関連会社。

おそらく清水、いや静岡県下でも一番古い企業のひとつで、その創業は江戸時代。幕末にもほど近い1801年(寛政13年)で、第11代将軍、徳川家斉のころです。創業者は「鈴木與平」で、無論、現在の社名はこの鈴木與平(与平)の名前を略したものです。以来、この会社の社長さんは、代々「鈴木与平」を名乗り、現在の社長さんは8代目になるとか。

もともとは、駿河国清水湊、つまり清水港で初代の与平さんが、船舶を利用した物流業「播磨屋」を創業したのがはじまりです。その後明治時代に日本郵船の母体となる「郵便汽船三菱」の代理店となることで、運送会社としての実績を積み、さらに安田火災海上(現・損保ジャパン)の母体となる「帝国海上保険会社」の代理店にもなり、船舶交通における保険業でさらに業績を伸ばしました。

さらには、倉庫業にも着手するなどその分野をさらに拡大しましたが、この倉庫部門は1918年(大正7年)には、「鈴与倉庫株式会社」として分離。鈴与倉庫は、本来の鈴与グループとは離れて独自の業務展開を行いましたが、その結果大成功して、物流会では知る人ぞ知る大会社になりました。その後1990年(平成2年)には、「株式会社富士ロジテック」と社名変更しましたが、現在も、鈴与本体との資本関係はあるものの、鈴与グループからは独立しています。

本体の鈴与のほうは、昭和に入ると、1929年(昭和年)に缶詰メーカーの「清水食品」、1933年に石油ガソリンスタンドを開設するなど多角経営をスタート。1936年(昭和11年)には「株式会社鈴与商店」に改組。

その後も、1941年(昭和16年)には清水食品をベースとして、薬品のインスリンを開発し、「清水製薬」を設立。戦中にも「鈴与建設」を設立(1944年(昭和19年))、戦後すぐの1950年(昭和25年)には「鈴与自動車運送」等を設立するなど、「戦争にも負けない」企業として、静岡県を代表する総合複合企業への発展していきました。

1991年には、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)参戦を目指して設立された清水エスパルスの運営母体「エスラップコミュニケーションズ」(筆頭株主はテレビ静岡、並びに市民後援会)の運営に参画。1997年にエスラップコミュニケーションズが経営難に陥り倒産(清算)したのを受けて、1998年からその受け皿会社「株式会社エスパルス」を鈴与がオーナー企業として設立し、事業譲渡を受けます。

今や全国的に広まっている「セルフ式ガソリンスタンド」ですが、これも鈴与が全国に先駆けて1998年に始めたもので、「セルフ24」という看板をご覧になった方も多いでしょう。

さらには、2007年、静岡空港を拠点とするリージョナル航空事業への参入を表明。2008年6月、フジドリームエアラインズを設立し、2009年の静岡空港開港と共に就航開始しています。

私は別に鈴与さんの宣伝マンではありませんが、学生時代の2年を清水で過ごしており、あちこちに「鈴与」のマークのある倉庫が立ち並ぶのをみて、「地元の誇り」とまでは思いませんでしたが、清水を代表する大企業として畏敬の念をもっておりました。

その鈴与さんが経営する「フェルケール博物館」ですが、その前身は、「清水港湾資料館」といい、当館は、昭和53年7月20日(海の記念日)から財団法人として運営されていました。

もっぱら港および海事関係の資料を集めて展示していたようですが、私自身、学生の頃、入ったことがあるかな~?とほとんど記憶にないので、かなり規模の小さな博物館だったのではないでしょうか。この当時は、もしかしたら、鈴与さんの投資はなかったのかも。

この博物館ですが、その昔「清水港線」と呼ばれる国鉄の貨物線を中心にその駅や貨物ヤードがあった場所を再開発した、「清水マリンパーク」のすぐ近くにあります。

市や県、運輸省などのお役所が主導をとり、臨海公園として新たに生まれ変わった清水マリンパークは、西欧の城壁風の歩道に囲まれたイベント広場や、ボードウォーク、ヨットハーバー、スケートボードパークなどの設備があり、展望台からは清水港が一望にみえて、とても気持ちの良い公園です。

そのすぐ近くには「エスパルスドリームプラザ」があります。ここもやはり鈴与さんが関与してできた施設で、サッカーショップやフットサルコートなど、清水エスパルスと関連した施設のほか、映画館やレストランの施設があり、サッカーファンならずとも一般観光客でいつも賑わっています。

フェルケール博物館のほうも、鈴与さんがもともとあった財団にテコ入れし、平成3年5月3日に開館しましたが、展示品としては、前身の「清水港湾資料館」が保有していた港および海事関係の資料をさらに充実させました。また、絵画や彫刻、写真やシルクといった美術品展示も行っており、博物館というよりは美術博物館的な存在に仕上がっているようです。

残念ながら私はこの博物館もドリームプラザにも入ったことがありません。が、隣接する清水マリンパークは何度も仕事で足を運んだことがあり、いつ行っても清水港からの風が潮の香りを運んできて、とても気持ちのいい場所です。

周辺にはちょっと洒落たレストランなどもたくさんあり、海をみながらお食事をしたい方、ちょっとリゾート気分を味わいたい方は、ぜひ行ってみていただきたい、おすすめの場所です。

ちなみに、この清水マリンパークのある一帯は、清水港日の出地区といって、その総称は「日の出ドリームパーク」と呼ぶようです。旧国鉄の跡地を利用した区画なので、その開発にはお役所が関わって第三セクター形式で開発したのに対し、ドリームプラザやフェルケール博物館がある一帯は鈴与さんが独自に開発した地域みたいです。

どうせなら、一緒に開発すればよかったのに……と思うのですが、まあ、開発された年代も違うみたいですし、お互いすぐ近くにあるので、相互利用もわりとスムース。何よりもいろいろ楽しめる施設が同じ場所に集まっているのは良いことです。

駿河湾フェリーの乗り場は日の出ドリームパークの一角にあります。ですから、駿河湾フェリーに乗って、清水まで行き、そこでひと遊びしてから伊豆へ帰る、ということも可能。そう考えると、我々にとっての駿河湾フェリーは結構、魅力的なものなのかもしれません。

しかし、静岡や清水の人がこれに乗って果たして土肥まで来るかどうか。土肥港のほうの観光の魅力がいまひとつなのが気になります。駿河湾フェリーがなくなったりしないよう、土肥港にももっと頑張ってほしいもの。もっとも土肥港の管理者は「伊豆市」ではなく、「静岡県」のようですが。どちらでもいいから、もっと魅力的な土肥港を考えてくださいな。

金の切れ目は…… ~旧土肥町(伊豆市)

東京以北では厳しい残暑が続いているようですね。改めて残暑お見舞い申し上げます。去年までは、やはり私も東京にいて、その暑さで辟易していましたから、その辛さはわかります。

先日、同じ別荘地内の方が亡くなり、お悔やみを申し上げたばかりなのですが、このときふと思ったのは、もしかしたら暑い夏には死亡率が高いのかな、ということ。

気になったので調べてみると、厚生労働省(厚生省)が1947年から2005年までとった統計では、6~9月の死亡率はそれほど高くなく、人口千人に対して7人(0.7パーセント)前後で、最も低いのは9月ということでした。

逆に1~3月の冬のほうが死亡率は高く、だいたい0.9~0.95パーセントで、もっとも高いのが1月でした。

夏のほうが死亡率が高い、と私は思い込んでいましたが、なぜ夏のほうが死亡率が低いのでしょうか。おそらくインフルエンザや肺炎といった寒い時期ならではの病気が多いためなのでしょうが、もしかすると、夏の暑さは逆に健康増進のためにプラスになっているのかも……

そう考えるとこの暑さも少し和らぐのではないでしょうか。暑さ寒さも彼岸まで。涼しくなるのもあと少しです。がんばりましょう。

さて、それでは昨日の続きを書いていきましょう。

近代的金山開発

伊豆の諸金山は長安の導入した新技術によって生産量を飛躍的に増大させていきました。特に土肥金山は、海に面していたため、採掘した金をすぐに船に積み込んで運ぶことができ、周辺の金山からも鉱石が集約されたため、拠点として大いに繁栄しました。

我々が住む修善寺のすぐ隣の大仁にも、「大仁金山」と呼ばれる金山がありましたが、ここから採掘された金も土肥まで運ばれ、船で積み出されました。

1607年(慶長12年)、家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に移り、ここから全国の諸大名をコントロールするようになります。こうして新時代を迎えた徳川幕府の財政を支えたのが、伊豆の金山から産出された金だといわれています。

江戸時代に流通した慶長大判・小判の多くが、土肥から駿府まで船で直接搬送され、そこで鋳造された金でつくられたのです。

伊豆で開発された金山としては、土肥金山やさきほどの大仁金山のほか、伊豆天城鉱山(西伊豆町)、縄地金山(河津町)、蓮台寺金山(下田市)、伊豆猪戸金山(下田市)、清越金山(土肥町)などがあり、その中でも土肥金山の産出量はとびぬけており、日本でも指折りの金山のひとつでした。

これらの金山の多くは大久保長安が金山奉行になってから開発されたようですが、このように数多くの新しい金山が運営されるようになったのは、その採掘法が大きく改良されたためでもありました。

それ以前の鉱山の採掘法といえば、金鉱の一部が露出している山腹の露頭部を探しだし、その直下に抗口を開け、斜めに地下の富鉱部を求めて掘り進むという単純な方法でした。斜めに掘り進むだけの工法のため、最後は穴の底に湧水が貯まり、採掘を中止に至るというのが常で、水が貯まった坑道は放棄して、次の穴を掘るという不効率さでした。

これに対し、長安が考案した採掘法は、山腹の一番下に横掘坑道(立入)を掘削し、同じ高さで掘り進むことによって金鉱脈に達するというものです。その後主流となる「横掘法」という掘り方であり、坑内の湧水を排出するための水抜法についても長安は研究を重ね、こうした新技術の開発に力を注いだ結果、その産金量は大きく増大することになりました。

さらに、1609年(慶長14年)、イエズス会の宣教師たちが、母国から水銀を使う「アマルガム金製錬法」の技術を日本にもたらします。

この製錬法では、まず、粉砕した金鉱石をさらに微細な粒になるまで挽き、これに水を加えて練り、水銀とともに撹拌することで鉱石中の金銀が水銀に溶け込ませます。これを、これをキューペル皿(骨灰やポルトランドセメント、酸化マグネシウムの粉末などで作った皿)にのせて加熱すると、水銀が蒸発し不純物がキューペルに吸収されたあとに金銀の合金が得られるのです。

それまでの精錬方法は、細かく砕いた鉱石から数多くの不純物が含まれる金銀分を取り出し、鉛とともに炭火で溶かして、金銀と鉛の合金を作ります。その合金を灰を敷いた鍋の中で熱すると、最初に鉛が溶けて灰にしみ込み、金銀だけが残るという方法で、「灰吹法」と呼ばれていました。

アマルガム法に比べると金銀抽出の効率が悪く、また不純物が大量に出来上がった生成物に残ってしまうという欠点がありました。

アマルガム法が導入されるようになり、金の実収率が飛躍的に改善されたため、土肥金山はその後さらに隆盛を極め、本邦随一の金山とまで称されるようになり、こうして土肥鉱山の第一期黄金時代が形成されるに至ります。

明治時代以降

しかし、日本屈指の金山として多くの金を産出した土肥金山も1620年ころには、産出量が枯渇しはじめ、1625年(宝永2年)に休山に至ります。その後の江戸時代にも、再開発の作業がたびたび試みられていますが、記録に残るような成果はなく、再び開山されることはありませんでした。

土肥の町はその後も伊豆各地の金の集積地として存続し続けていましたが、土肥金山から金が産出されなくなったことから、町(村)のにぎわいも衰退の一歩を辿っていました。

明治期に入っても、土肥金山はあいかわらず閉鎖されたままでしたが、1906年(明治39年)、神戸の実業家、長谷川銈五郎(けいごろう)がヨーロッパの技術者を招き、閉鎖されていた土肥金山のふたを開け、探鉱を行ったところ、かなりの金が埋蔵されていることを発見します。

そして、長谷川がその開発に成功すると、土肥金山はふたたびその名声を高め、第二期黄金時代を築くことになりました。長谷川は、1917年(大正6年)に企業形態を「土肥金山株式会社」に改め、金山の開発操業のために最新式の機械と新技術を導入して、高品位な金鉱石の効率的な採掘を行いはじめました。

さらに、長谷川は、金以外にも銅の製錬事業にも着手し、銅の精錬に欠くことのできない珪酸鉱という鉱物の長期売鉱契約を、住友財閥の鉱山会社、住友鉱業と結びます。そして銅の売買で多額の利益を上げるなど、「土肥金山株式会社」を本邦第二位の金山会社、といわれるまでその地位を引き上げました。

ちなみに、「本邦第一」は佐渡金山を有する三菱合資会社です。佐渡金山は、江戸時代には既に産出量が激減していましたが、明治以降に三菱に払い下げらた後も採掘が続けられ、それなりの産出量を誇っていました。

佐渡金山の閉山は、1989(平成元)年でしたが、1601年の初掘からこの年までの388年間に採掘された金の総量は、諸説ありますが、76トンから83トンだといいます。

これに対して、土肥金山の金の累計産出量は推定40トンだそうで、佐渡金山の産出量の約半分にすぎませんが、それでも他の金山を圧倒する産出量だったといいます。

長谷川は、その後も神戸で摩耶鋼索鉄道という鉄道会社の経営にも乗り出し、六甲山に「六甲山ケーブル」を敷設するなど観光開発も行うなど活躍しましたが、1931年(昭和6年)に死去。

長谷川氏が亡くなったあと、土肥金山株式会社は、1942年(昭和17年)住友鉱業の傘下に入り「土肥鉱業株式会社」と改名しましたが、第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、住友の系列を離れて独立し、再び土肥周辺の探鉱を始めました。

土肥の中心を流れる恋文川(土肥山川)より北側の開発なども行われましたが、有望な鉱脈を発見するには至らず、金の産出量はその後次第に減少していきます。その後、1959年(昭和34年)には、三菱金属株式会社(現三菱マテリアル(株))がその再興に乗り出しますが、やはり高品位の金鉱石を産出することはできませんでした。

そして固定価格制度によって、金の価格が安くなっていったこともあり、1963年(昭和38年)、長い歴史を誇った金山としての採掘を中止し、翌1965年(昭和40年)、ついに本邦有数の金山として君臨した土肥金山は閉山しました。

しかし、土肥鉱業株式会社そのものは、その後も経営を継続し、1972年(昭和47年)、再び社名を変更し、今度は、「土肥マリン観光株式会社」となって観光事業会社として再出発します。

この土肥マリン観光株式会社が運営しているのが、鉱山の跡地を利用した博物館です。歴史的遺産である坑道の一部を改造し、江戸時代の坑内作業風景が理解できるように電動人形などが配され、一般に公開されています。

大久保長安のその後

家康に見いだされ、幕閣きっての能吏として実力を発揮し、徳川初期の財政を一手に支えるほどの貢献をした大久保長安でしたが、晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から次第に家康の寵愛を失っていきました。

金の切れ目が縁の切れ目といいますが、家康に嫌われるようになったのは、その素行にも問題があったのではないかと言われています。

長安は無類の女好きだったそうで、金にモノを言わせて側女を70人から80人も抱えていたと言われています。金山奉行になったころから派手好きとして知られるようになり、かなり贅沢な暮らしぶりだったようで、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという話まで残っています。

このような派手な出費ぶりが家康に長安の不正蓄財の疑いを抱かせたともいわれており、さらに、長安は、家康より伊達政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたのではないかという話もあるようです。

やがて、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていくようになり、さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、1613年(慶長18年)脳卒中のために死去しました。享年69才。

その死後、幕府に目をつけられるようになっていた大久保家では、無論黄金の棺などは作られませんでした。しかもそれだけではなく、長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れみのにして、不正蓄財をしていたという理由でお咎めを受け、大久保家は蟄居を命じられます。

そして、厳しい詮議の末、長安の不正蓄財が事実であったとされ、長安の七人の男児は全員処刑、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあいました。さらに、家康は埋葬されて半ば腐りかけていた長安の遺体を掘り起こし、安倍川の川原で斬首して駿府城下で晒し首にまでしています。

また、長安の庇護者であった大久保忠隣らも後に失脚しました。しかしこれは、当時の幕府の二大実力者である、大久保忠隣(秀忠側近)と本多正信・正純父子(家康側近)の対立のためであったのではないか、と言われています。

長安が不正蓄財を行っていたというのも本多側の陰謀で、幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・正純父子がでっちあげたのではないかというのです。

しかし、長安の財力と権勢を徳川家が警戒していたことは事実であり、その粛清は、不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあったのではないかと言われています。

一般市民には厳しい税を課し、おいしい汁は自分だけ吸う役人……、いつの世にも同じような光景が繰り返されてきましたが、いまもそのような役人がはびこっているとしたら、それこそ見せしめに斬首にしてほしいところです。

先日、土肥の浜で行われた土肥金山で亡くなった方々の魂の慰霊祭に参加してきましたが、この方々は、このように権勢を誇った大久保長安が、不正な蓄財をしていたことを知っていたでしょうか。もしかしたら、彼らが一生懸命金山で働いて作った金を横取りし、それをもとに土肥の町で女を囲い、豪遊していた長安の姿は、鉱夫の間で噂になっていたのかもしれません。

そして、安い賃金でこきつかわれた鉱夫たちは、長安らの不正役人を恨みながら死んでいき、そのためにその霊は浮かばれずにこの世に留まっているのかもしれないのです。

しかし、土肥金山で浮かばれずにそこにとどまっていた霊たちの何体かは、先日の我々の祈りであちらの世に安んじて旅立って行ったことでしょう。慰霊祭のあとに4度もかかったという虹がそれを物語っています。

それにしても、その虹を渡って成仏した霊たちは、あちらの世で長安の霊に出会ったでしょうか? 出会ったとしたら、長安に恨みのひとつやふたつは言ったかもしれません。

ただ、長安がこの人たちの霊が行くような高い次元の世界にいるとは限りません。もしかしたら、この世にいたころの素行が祟り、今もずっと低い、地獄に近い次元にいるかもしれないからです。

お金は生きていく上では大事です。けれどもそのために、死してまで苦労するようなお金の使い方はくれぐれもしないよう、気をつけましょう。

天正金鉱 ~旧土肥町(伊豆市)

先日、広島のご神職Sさん主催の地震鎮めのお祈り会に参加したのは、伊豆西海岸の土肥でのことでした。

この土肥ですが、その昔は「土肥金山」で潤った町で、「土肥温泉」として知られています。金山を開発中の江戸時代に、街中にあった坑口から突然お湯が湧き出したのが始まりだそうで、その源泉は、発見者の「間部(まぶ)彦平」にちなんで「まぶ湯」と名づけられ、現存しています。

このまぶ湯があるのは、土肥の町の中心を流れる恋文川(なんとも洒落た名前ですが、由来は不明、別名、土肥山川)の北側、山の手にあるお寺の裏山あたり。このお寺、「安楽寺」は1534年(天文3年)に創建されたと云われている曹洞宗の古刹であり、これもまた土肥観光の一つの名所になっています

「まぶ」とは坑道を意味しているそうで、幕府の金山奉行の「大久保長安」が伊豆の金山奉行として赴任してきたとき、このお寺の裏山に坑口を開けさせたものです。その当時の安楽寺の住職は「隣仙」という名前の和尚さんでしたが、坑道を掘る鉱夫たちや土肥村の人々に大変慕われていたといいます。が、あるとき、このご住職は重い病に倒れます。

「間部彦平」という人物は、苗字が記録されているところをみると、どうやら大久保長安の部下で、金の採掘の現場主任クラスの人だったと思われます。この人物も隣仙和尚を敬仰していたとみえ、住職の治癒を願い、薬師如来に願掛けをはじめました。そして、彦平らが願掛けをはじめて21日目の夜、彦平の枕元に薬師如来が現れ、坑口を掘ってみよ、と告げられます。

彦平が言われたとおりに、坑道の入口付近を鉱夫たちに掘らせてみたところ、地中からみるみる熱いお湯が噴出してきました。このころには伊豆のあちこちで温泉がみつかっており、これに浸かると病気が治ると聞かされていた彦平は、早速、隣仙和尚にもこの湯につかってみてもらうことにします。すると、和尚の病はみるみるよくなり、もとのように元気になったということです。

これが、1611年(慶長16年)のことで、以来、村人や鉱夫だけでなく、近隣の村々からも多くの人々が湯治に訪れるようになりました。

現在、まぶ湯の傍らには「湯かけ地蔵」というお地蔵さんが据えられていて、この地蔵さんにお湯をかけると無病息災の霊験があると云われています。

土肥金山はその後、日本屈指の金山として、多くの金を産出しましたが、江戸初期の1620年ころには、早くも産出量が枯渇しはじめたため、1625年にいったん休山。そして、明治の終わりごろになって、新しい掘削技術が導入されたことから、また新な採掘がおこなわれるようになります。このころから、温泉のほうも着目されるようになり、現在の形の温泉街の開発がスタートしました。

現在、土肥には、遠浅で両側を岬に囲まれた天然の海水浴場があり、この海水浴場の背後にホテルや旅館が立ち並ぶほか、土肥の旧集落内にも共同浴場がいくつかあって、これら共同浴場のある街中にも宿泊施設が点在します。

恋文川の河口付近の左岸側には、「世界一の花時計」を中心にした「松原公園」が整備され、ここにある観光案内所のすぐそばには足湯も設けられるなど、観光には力を入れており、土肥金山として江戸時代に栄えたことから、温泉街にはそれに関連した観光名所があちこちにあります。

松原公園や町の中心を流れる恋文川沿いには、河津桜ならぬ「土肥桜」が植えられていて、2月下旬~3月上旬にはそのピンクの花で観光客の目を楽しませてくれるそうです。我々もまだ見たことがありませんが、修善寺からは近いので、来年ぜひ見に行ってみたいと思います。

土肥金山ことはじめ

土肥金山の坑道跡は土肥観光の目玉のひとつで、明治時代に閉鎖された坑道跡を改造して博物館として公開されており、江戸時代や明治時代の採掘の様子などが再現されています。

江戸時代に大久保長安らが行った金鉱開発に先立つこと50年ほど前の天正5年(1577年)に開発されたことから、「天正金鉱」とも呼ばれています。北条氏(後北条氏)の配下の富永政家という人物がおり、この手代で、市川喜三郎という人が、土肥で本格的に金山の開発を行った最初の人物だそうです。

しかし、一説によると、これをさらに遡ること200年前の1370年代、足利三代将軍、義満のころには、既に盛んに金銀が掘り出していたとも言い伝えられています。1370年代というと、室町時代の初期であり、このころ伊豆を守護領国としていたのは、室町幕府から関東管領に任命されていた畠山清国です。

この清国は初代鎌倉公方の足利基氏と仲が悪く、鎌倉を追い出されたために、その領地の伊豆へやってきて反鎌倉の旗揚げをします。しかし援助を頼んだ伊豆の諸豪族からはそっぽを向かれ、逆にかれらに攻め滅ぼされて失脚。伊豆は、小豪族がひしめく無政府状態になっていました。

しかし、そんな状況の中で誰がいったい土肥で金を採掘していたのでしょうか。

畠山清国が失脚したあと、二代目鎌倉公方、足利氏満のころには政権がようやく安定してきましたが、この鎌倉公方足利氏の傘下にあって、このころから歴史に名前がよく出てくるのが、駿河国駿河郡大森(現静岡県裾野市)より起こったという大森氏です。

駿河の国の東から箱根道に連なる交通網の拠点を押える実力者として室町幕府に認められるようになり、関所などを実質的に采配するこの地方の長者といわれていましたから、金を採掘していたのは案外とこの大森氏あたりかもしれません。が、憶測にすぎず、このころ実際に誰が金を掘って潤っていたのかは歴史的にも空白です。

その後、16世紀後半までには、伊豆は北条早雲によって平定され、土肥も北条氏の領地となったため、土肥金山も北条氏が管理していたと考えられます。しかし、1590年(天正18年)に北条氏が豊臣秀吉の小田原城攻めによって滅びると、その際、土肥だけでなく、ほかの伊豆の金山も秀吉の軍隊に蹂躙され荒廃してしまったようです。

伊豆はその後、豊臣秀吉によって関東地方へ移封された徳川家康の知行地となり、このため土肥金山は家康の管理下に入ります。

そして、やがて豊臣家に反旗を翻し、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、疲弊した徳川家の財政を賄うために積極的に金山の開発を進めるようになります。

1601年(慶長6年)、家康の命を受けた家臣の彦坂元成という人物が、伊豆の金山奉行を拝命しました。しかし、ぼんくらだったらしく、鉱山開発には着手したものの、あまり金を産出できず、五年後の1606年(慶長11年)に罷免され、子供や弟とともに改易されて没落しています。

大久保長安

そこで、次に家康が土肥金山の開発者として金山奉行に任命したのが、大久保石見守長安です。大久保長安は1606年(慶長11年)に全国の金山を司る金山奉行を拝命するとともに、伊豆奉行も拝命して本格的に伊豆金山の開発に取り組むことになります。

長安は、もともと甲州武田氏配下の猿楽師、「大蔵太夫新蔵」という人の次男で、1545年(天文15年)に生まれ、幼名を籐十郎といいました。父の新蔵は猿楽師としてだけでなく、武士としても優秀な人間だったらしく、数々の戦場で武勲をあげ、その功により信玄の家臣の土屋右衛門尉直村から土屋の姓を与えられ、土屋新之丞と名乗るようになります。

次男の藤十郎も蔵前衆(金銀・米穀や税を司る役人)として取り立てられ、やがて武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事するようになります。

その後、織田信長・家康連合軍に武田氏が攻め滅ぼされ、父の新之丞は長篠の戦で亡くなります。藤十郎は、武田家が滅亡する少し前から、信玄の息子の勝頼に疎まれるようになっており、長篠の戦があったころには武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいました。

家康が甲州武田家の征伐に向かったとき、奇しくもその逗留の仮館を建設したのが藤十郎だったといわれています。この時、家康がその館で藤十郎の作事をみて、その才能をひと目で見抜き、仕官をするように語りかけたそうです。

また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一が、藤十郎は信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれているので重用されてはいかが、と家康に進言したため、家康もその気になって彼を召し抱えるようになったのだともいわれています。

いずれにせよ、藤十郎は天下人の家康の目にも止まるような非常に目端の利く青年であったようです。さらに家康に推挙され、その重臣、「大久保忠隣(ただちか)」に仕えることになります。忠隣は、その後二代将軍秀忠を支えた重臣として歴史にその名前を刻まれる人物です。

藤十郎はその大久保にも認められるようになり、やがて主人の大久保の姓を許されて大久保十兵衛長安と名乗るようになり、忠隣の懐刀として活躍するようになっていきます。

1582年(天正10年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀に反旗を翻されて死去すると、信長の領地であった甲斐は、事実上、家康の領地となりました。しかしこの当時の甲斐国は、武田家が滅亡したあとの混乱がまだあとを引いており、治世は乱れに乱れていました。

そこで家康は、側近の本多正信と伊奈忠次を所務方に任じ、甲斐国の内政再建を命じました。しかし、このとき実際に所務方として実務に携わり、実質の再建を行なったのは長安であるといわれています。長安は甲府市内を流れる、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発に尽力するとともに、金山の開発も行い、わずか数年で甲斐国の内政を再建したそうです。

こうした功もあり、1603年(慶長8年)、家康が将軍に任命されると、長安も従五位下、石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられるとともに、以後、大久保石見守長安と名乗るようになります。

さらに同じ年の7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)にまで列せられます。

そして、1606年(慶長11年)、ついに長安は、金山奉行兼、伊豆奉行に任じられ、全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されるなど、幕府きっての実力者に上り詰めるのです。長安58才のころのことです。

長安は甲州で金山の開発に携わっていた経験から、鉱山の知識が豊富で、西洋から学んだ最新の採掘法やアマルガム法という、最新の製錬技術なども駆使して従来の鉱山技術を一新し、これまでにないほど大量の金を生み出すことに成功します(この項、長くなりそうなので、明日へ続けます……)。

そうだ!良いことしよう!

今日20日は彼岸の入りだそうです。

「彼岸」とは、そもそも煩悩を脱した悟りの境地のことをさすのだそうですが、煩悩や迷いに満ちたこの世を「此岸」(しがん)、つまり「こちらの側の岸」と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」というのだとか。つまりは、彼岸とは「あの世」の意味でもあります。

春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間は、「お彼岸週間」ということでこれは彼岸に「会」をつけて「彼岸会(ひがんえ)」と呼び、仏教ではこの期間にいろいろ行われる仏事のことをさします。

具体的には、彼岸会の中日、つまり秋なら23日に先祖に感謝する行事を行い、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目、「六波羅蜜」を「菩薩」が1日に1つずつ修めるのだそうです。

六波羅蜜ってなんじゃ?菩薩?ということなのですが、その前にまず、仏教における「菩薩」とは何かについて説明しておきましょう。

仏教においては、成仏を求める修行者、つまりは仏教徒のことを「菩薩」と呼びます。

また、成仏することは「如来」になるといいます。如来とは、仏教の始祖のブッダの別名です。つまり、仏教的にいえば、仏様になるということは、如来になるということ。「○○如来」とかいう仏像がたくさん作られていますが、これらの像はそもそもは仏様、つまりはブッダのお姿を現したものということになります。

ということで、「菩薩」は一般仏教徒で、如来=仏様になれるよう努力している人たちのことを意味します。

このようにもともと菩薩といえば、仏教徒そのもののことを言っていたのですが、時代が経つにつれて、修行をしている仏教徒の中から、人々と共に歩み、成仏できるよう教えに導く人のことを「菩薩」というようになりました。

いわば仏教徒のリーダー的な存在を菩薩と呼ぶようになったわけであり、仏教徒の中にはこのリーダーを崇拝する像を造り、これを崇める一派も現れるようになりました。

このため、こうしたリーダーとしての「菩薩様」の仏像が造られましたが、菩薩とは本来は人間そのもののことを指しますから、数多く造られている菩薩像は人間の本質そのものの姿を現したもの、ということにもなります。

さて、次です。六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、成仏を目指す仏教徒、つまりは如来になることを目指す「菩薩」が修めなくてはならない、6つのトレーニングメニューのことで、「六度(ろくど)」とも呼ばれます。

「波羅蜜」は、サンスクリット語の“ Pāramitā ”が語源という説もあり、これは、「努力に努力を重ねることで、極みに達することができる」というような意味で使われていたようです。

この言葉が日本に輸入されたとき、なんかいい漢字がないかいな、ということで当て字に使われたのが「波羅蜜」のようで、別に甘い蜜かなんかが語源ということではなさそうです。

ちなみに、今大河ドラマで放映されている「平清盛」の晩年の拠点が京都の「六波羅」ですが、この地名は、その昔ここに天台宗空也派の創始者の「空也」が「西光寺」というお寺を建設し、その後継者が後年、これを「六波羅密寺」と呼んだことに由来するそうです。なので、「六波羅」と聞くとなにやら強烈な印象がありますが、この地名そのものにそれほど強い宗教性はないみたいです。

さて、「菩薩」は、この六つの波羅蜜を実践することで、「徳」を積み、そのことによって、遠い未来の生において「悟り」を開くことができるとされています。その実践メニューは以下の六つです

1施波羅蜜 別名、檀那(だんな)といいます。語源は「ダーナ」。「分け与える」という意味で、英語のdonate(寄付する)は、これから来ているそうです。具体的には、自分の財を喜びをもって分け与えることです。

後年、奉公人が主人を呼ぶ言葉として使われるようになり、さらに結婚後に女性がその配偶者を呼ぶ言葉としても定着しました。旦那さんは、奥さんに無償で財産を分け与えなければいけないんですね。

2持戒波羅蜜 別名、尸羅(しら)。語源は「シーラ」で、これは、「戒律を守ること」。出家前の在家の場合は五戒を守ることで、五戒とは、

不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物を殺してはいけない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 他人のものを盗んではいけない。
不邪淫戒(ふじゃいんかい) 自分の恋人・配偶者以外と交わってはいけない(不倫してはいけない)。
不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではいけない

の五つです。出家して坊さんになった場合には、仏教で決められた掟(律)を守ることを指します。最初の四つは良いとしても、五つ目のお酒を飲んではいけない、は守れそうもないですね~。料理酒ならいいんでしょうか。

3忍辱波羅蜜 羼提(せんだい)。語源の、「クシャーンティ」は、耐え忍ぶこと。あるいは怒りを捨てること(慈悲)。まあ、一週間ぐらいなら、耐ええ偲び、怒りを治めることはできるかも。

4精進波羅蜜 別名毘梨耶(びりや)。「ヴィーリヤ」は、努力すること。私は、いつも努力してます。

5禅定波羅蜜 禅那(ぜんな)。「ディヤーナ」は、特定の対象に集中して、心乱さず安定させること。そのためには、いろんな修業をする必要がありますが、たとえば四禅、四無色定、九次第定、百八三昧次などなどがあります。

このうち、一番初歩的な修業が、四禅と言われますが、それは、次のような境地をさします。

一禅……欲を捨てることができるが、まだ覚・観がある状態
二禅……覚・観を捨てることができるが、まだ喜・楽がある状態
三禅……喜を捨てることができるが、まだ楽がある状態
四禅……楽を捨てることに成功し、「不苦不楽」になった状態

一番やさしい修業でこれですから、四無色定、九次第定、百八三昧次なんてのは、難しすぎてとても「在家」では成し遂げられそうもありません。ちなみに、四無色定は、空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定なのだそうで、さっぱりわかりませんが、要は無の境地を目指す修業のようです。

いずれにせよ、「在家」でこのメニューをこなすのは無理ですね。だから、お坊さんになる人は、「出家」してこれらの修業に専念するのです。お彼岸中にこの境地に至るのはどだい無理です。やめておきましょう。

6智慧波羅蜜 般若(はんにゃ)。語源は、「プラジュニャー」だそうですが、なんでこれが「般若」になったのかよくわかりません。最後の「ニャー」のところはなんとなくわかりますが。

これは、「物事をありのままに観察する」だそうで、「観」によって、思考に頼らず、人間が持っている本質的な智慧を発揮させることです。考えすぎず、本能にまかせて事に臨みなさい、といことでしょうか。これはなんとなくできそうですね。

以上が六波羅蜜です。この六つをお彼岸の中日を除いた6日間にそれぞれこなしていくのが「彼岸会」ということなのですがこの習慣、実は日本独自のものなのだそうです。

彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているそうで、日本に限らず、ほかの国でも太陽信仰は原始宗教として古来からみられるものです。

平安時代に編纂された歴史書「日本後紀」によれば、日本の場合、806年(大同元年)に、崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」行事が行われたそうで、これが日本で初めて行われた「彼岸会」とされています。

しかし、もともとインドで仏教が発祥したときには、こうした習慣はなく「生を終えた後の世界を願う」という単純な思想でした。それがシルクロードを経て日本に伝わったあと、より具体的になり、「心に極楽浄土を思い描き、浄土に生まれ変われることを願う」という日本独自の「浄土思想」に変わったのが、ちょうどこの最初の彼岸会が行われたころのことのようです。

この「彼岸会」の行事も、ブッダが形づくった原始的な仏教思想に結びつけて無理やり説明されるようになったものらしく、その証拠に上述した六波羅蜜は、浄土思想で信じられている極楽浄土へ行くための修業というふうに位置づけられています。

浄土思想における極楽浄土というのは、阿弥陀如来が治めている国のことで、そもそもは西方の遙か彼方にあると考えられており、「西方浄土」とも呼ばれていました。

春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。なので、西方に沈む太陽を礼拝すれば、はるかかなたにある極楽浄土に行けるのではないか、ということで始まったのが「日願」であり、やがてはこれが「日が沈む彼の地」を意味する「彼岸」に変わっていったのだと思われます。

しかし、皆が皆、六波羅蜜にあるような大修行を毎年二回もやっていたのでは体が持ちません。そこで、「彼の地」へ行くためには、仏を称える経文を読めばいい、というふうに親鸞や日蓮といった大宗教家たちが工夫し、より単純化したものが「念仏」です。

出家して大変な修業をするよりも、それを読み上げれば浄土に行けるということで、やがて在家のままの一般市民に広く浸透していきました。

さて、以上がお彼岸が持つ意味でした。えー、それじゃあ、もともと仏教にない行事なんじゃん。そんならお彼岸なんてやる必要はないか~、と考えるのは早計です。

いつの時代も人として、生を終えた後の世界への関心の高いことは同じであり、かつて生を終えていった祖先を供養する行事であるこのお彼岸に対する「思い」というものが、1200年以上もの間、日本人の魂の中に蓄積されているのです。

その思いは、今や亡くなってしまってあの世にあるご先祖の魂の中にも蓄積されてきているはずです。ですから、単に昔の風習だからといってこれを切り捨てるのではなく、彼岸会をその先祖の思いと自分の思いをつなげることのできる「タイムトンネル」と考え、先祖を敬う大事な一週間としてとらえてみてはどうでしょうか。

とはいえ、さすがに六波羅蜜を実践するのは厳しいかと思いますので、昔から日本ではお彼岸に供え物として作られる定番、「おはぎ」など作り、ご先祖にお供えしましょう。

最近では、おはぎって何?という若い人もいるみたいですが、炊いたもち米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだこのお菓子を、花瓶にさしたすすきを眺めながら月夜の夜に食べる、というのは今もやはり風情があります。

ちなみに、「おはぎ」と「ぼたもち」は同じものだそうで、これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来しているそうです。

日蓮宗の始祖、日蓮さんによれば、彼岸会というのは、善行・悪行とも、どちらとも過大な果報を生ずる特別な期間なのだそうです。いいことをやればもっといいことが起こるし、悪いことをすると、もっと悪いことが起こる。

ですから、お彼岸の間は、毎日おはぎをお供えし(ときにそれをつまみに酒でも飲みながら)、できるだけ善行に励みましょう。お彼岸明けにはきっといいことが倍返しになって帰ってくると思いますよ。