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八幡宮

先日、東京の深川で事件がありました。

富岡八幡宮という神社での惨事でしたが、ここ修善寺にも八幡宮があるので、今日はそのことから書き始めましょう。

「横瀬八幡神社」といい、主神は八幡様ですが、鎌倉二代将軍頼家公も祀られています。修善寺温泉街の中心部には、頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した「指月殿」と呼ばれる経堂があるほか、頼家の墓所もありますが、この神社は温泉街の賑わいとはほど遠い、狩野川に近い場所にあります。

というのも、当社は旧修善寺村の氏神として古来より地元住民を中心に厚く尊崇されてきた経緯があり、むしろ外来の入浴客が集中する温泉街を避けて建てられたようなきらいがあります。

ひっそりと静かで、落ち着いた佇まいの神社です。以前はうっそうとした樹木に囲まれて社殿がほとんど見えなかったのですが、最近すぐそばの道路の整備事業に伴って大幅な再整備が行われ、樹木が伐採されて開放的になり、鳥居も新築されて見違えるようになりました。

おそらくは市の観光協会の肝いりで大規模なリニューアルが行われたのではないかと思われますが、鎌倉源氏由来の神様ということで今後人気が出てくるのではないでしょうか。みなさんも修善寺に来られたら一度訪れてみてください。

ところで、今回の深川の事件で、そもそもこの八幡宮とは何か、が気になったので調べてみる気になりました。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられ、農耕神あるいは海の神とされていたようです。

が、付近の豪族を平定することで拡大した邪馬台国があったとされる北九州の地にあり、武具を鍛えることも盛んであったと考えられることから、祖神は鍛冶の神ではなかったか、と考察する学者もいるようです。

欽明天皇(539-571年)の時代に大神比義(おおがのひき)という地元の有力者らしい人物によって祀られたと伝えられます。

宇佐八幡宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、この地に鍛冶翁(かじおう)と名乗る神が降り立ち、これを見て驚いた大神比義が祈ると、その姿は突然三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂なり、護国霊験の大菩薩として敬え」と託宣されたといいます。

同社伝によれば、譽田天皇とは、「応神天皇」の諱であり、このとき初めて八幡神社の祖である神霊としてあらわれて、宇佐の地にその力を示顕するようになったと伝わっています。以後、宇佐八幡宮はこの応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神(ひめがみ)、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀るようになりました。

ここで、比売神とは、特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものです。神社の祭神を示すときに、主祭神と並んでこの比売神を祀ることが多いようで、ファーストレディーのようなものです。別に比売大神、比咩神、姫大神などとも書かれます。

その後約2世紀を経た天平勝宝元年(749年)、時の天皇である「聖武天皇」が国教である仏教のシンボルとして、奈良の大仏を建設することになったとき、宇佐八幡神は一人の禰宜として「尼」を派遣しました。

彼女は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京し、大仏殿の建築を助けたといわれますが、このように神社でありながら尼を派遣したという記録が残っていることから、神道は早くから仏教と習合していたことがわかります。

この時代、仏教政策を巡り、朝廷内には民衆への仏教の布教を重視する路線と、神道を中心として国家の鎮護を優先する路線の対立がありました。

聖武天皇やその娘である孝謙天皇(称徳天皇)、そして宇佐八幡宮の宮司は、その両者をとりもち、仏教と神道の両方を尊ぶことを提唱しており、仏教の守護神として八幡宮の神を位置づけていこうとしていました。

ところが、その推進運動の中心人物、聖武天皇が亡くなり、子がなかったためその血統は絶えます。そしてこの聖武天皇の葬儀から29周年にあたる天応元年(781年)の命日に八幡神が「出家」する形で、「八幡大菩薩」の号が贈られます。

これは、当時の朝廷が聖武天皇が没後に八幡神と結合したと考えることでその祟りを防ごうとしたものと考えられます。と同時に八幡神に菩薩号を与えて聖武天皇が深く信仰していた仏教の守護神とすることで、神仏習合を推進しようとしたのでしょう。

従って宇佐八幡宮のオリジナルの主神は応神天皇ですが、のちにこれに聖武天皇が合わさり、仏教の守護神として合祀されたものが八幡神ということになります。そしてその称号にはそれまで神道では使われなかった「大菩薩」が使われるようになっていきました。




その後、武家が台頭してくると、彼らはこぞってこの「八幡大菩薩」を崇拝するようになります。源頼朝は奥州征伐の際、陸奥国胆沢郡胆沢(現在の岩手県奥州市)にある鎮守府八幡宮へ参詣しています(1186年頃)。その理由はこの八幡宮が、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に勧進され、弓箭や鞭などが納められて武道の神として祀られていたためです。

坂上田村麻呂は桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、夷賊(蝦夷・北海道の民)の討伏をしたことで知られます。戦功によって昇進し、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられており、武家としては初めて最高位の官位を得た人物です。

田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられ、他にも富士山本宮浅間大社を創建したことで知られています。

のちに平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望んでおり、このころの朝廷もまたこれに応え、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍の称号を吉例として頼朝に与えました。

以降、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府の体制が固まり、これは江戸幕府まで675年間にわたって続きました。

頼朝がこの坂上田村麻呂にあやかり八幡神を崇拝したのは上の通りですが、これ以前にも同じ源家で頼朝の祖先にあたる源頼義が、「壺井八幡宮」を河内の地(大阪府羽曳野市壷井)に建立しており(1064年)、いわゆる河内源氏の氏神としていました。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗っています。

さらに遡ると、関東でその勢力を伸ばした平将門も、上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩の名のもとに「新皇」の地位を保証されています(939年)。

このように八幡神は、平家、源家などの武士から敬われてきましたが、武家が守護神として八幡神を奉ずるようになったその理由は、それまでの王朝的秩序から固定化しつつあった皇室神道から武家を解放させたいがためであり、八幡宮によって天照大神とは異なる世界を創りたい、という大きな目的があったためです。

とくに平安後期以降は、伊勢神宮をはじめとする歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い神社と八幡宮は一線を画すようになり、武家といえば八幡宮、ということになっていきました。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として進んで自分の領内に勧請するようになりました。

以降、武神として多くの武将が八幡宮を崇敬するようになっていきますが、さらに室町幕府が樹立されると、足利将軍家は三代で途絶えた鎌倉幕府による源氏復興の主旨から(足利氏の本姓は源氏)、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めました。

ちなみに、足利家は、鎌倉時代は源家の遠縁として浅からぬ縁があり、室町幕府を開いた足利尊氏の祖先の「源義家(1039-1106)」は、別名「八幡太郎」の通称でも知られます。山城国(現奈良県)の「石清水八幡宮」で元服したことから八幡太郎と称しました。

また、そのこととは直接関係ありませが、治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が、富士川の戦いを前に源義経と感激の対面を果たしたとき、二人が再開したのが、現在の静岡県駿東郡清水町に造営されていた「黄瀬川八幡宮」です。

こうしたことからも、とくに源家の八幡宮への篤い崇拝ぶりがうかがえますが、さらに頼朝の奥州討伐では「八幡大菩薩」の神号の意匠が入った錦の御旗が用いられたといいます。

その後の時代の覇者、豊臣秀吉もまた八幡宮を崇拝しました。死後に国家鎮護のために自己を「新八幡」として祀ることを命じたほどで、京都東山方広寺の鎮守として八幡宮を建設することを遺言したといいます。

ただし、秀吉が死後に祭られたのは方広寺ではなく豊国神社であり、称号も「新八幡」ではなく、後陽成天皇の神号下賜により「豊国大明神」となりました。

こうして鎌倉時代以降、室町・安土桃山(戦国)・江戸とそれぞれの時代で八幡宮は武家の神様として奉られることが次第にさかんになっていきますが、そこでは主神を「八幡大菩薩」と呼び、これは前述のとおり、神仏が習合したものでした。

ところが、幕末に維新が起こったあと、明治政府は「神仏分離令」を出します(明治元年(1868年))。寺社を分離することによって、租税(税金)をより収集しやすくすることが主目的でしたが、これによって、全国の八幡宮は寺から完全分離され、神社へと改組されることになりました。

それまでは同じ境内にあった「神宮寺」は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去されるところとなり、また江戸時代まで長らく使われてきた仏教的神号の「八幡大菩薩」の呼称は明治政府によって禁止されるようになりました。

しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残りました。昭和に入ってからも、第二次世界大戦末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられたり、「八幡空襲部隊(八幡部隊)」を名乗った部隊もありました。また、航空機搭乗員、特に特攻隊員にとっては「武士の神様」としての八幡大菩薩は人気があり、信仰を集めていました。

1944年に製作された、航空機搭乗員を描いた映画「雷撃隊出動」の中でも、出撃の際に八幡大菩薩の旗を振るシーンが見られるほどで、こうした八幡大菩薩信仰は今日まで続いています。このため、現在、全国にあるいくつかの八幡宮では、希望する参拝者に「八幡大菩薩」の墨書きのご朱印を授与しています。

とはいえ、江戸時代までとは異なり、現代では表だって八幡大菩薩が祀られることはずいぶんと少なくなりました。八幡様といえばその主神は、太古の昔に戻って応神天皇(誉田別命)であり、多くの神社の由来書きにもそう書かれている場合が多いようです。

この「八幡神」を祀る八幡宮の呼称は色々で、八幡神社、八幡社、八幡さま、若宮神社、などと呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われます(若宮は「八幡宮の若宮(嗣子)」の意)。その数は稲荷神社に次いで全国2位ですが、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位であって、その数は7817社もあるそうです。

しかし、現在でもこれらの八幡神社の総本社は大分県宇佐市にある、宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。このほかにもある大きな八幡宮を併せて俗に「三大八幡」と呼ばれることが多いようですが、これは「宇佐・石清水」「筥崎・鶴岡」に加え、以下の4社のうちのいずれかを合わせた3社とされることが多いようです。

宇佐神宮(大分県宇佐市) – 官幣大社
石清水八幡宮(京都府八幡市) – 官幣大社
筥崎宮(はこざきぐう・福岡県福岡市東区) – 官幣大社
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市) – 国幣中社

ただ、幕末の1868年(慶応4年)に太政官通達に示されていた八幡宮3社は「宇佐・石清水・筥崎」だったそうで、上の通り、官社格でもこの3社が「幣大社(朝廷、国から指定される)」で並んでいます。

これに対して鶴岡八幡宮は「国幣中社」となっており、一ランク下です。ところが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」が八幡神社の代表例とされることが多いようで、鶴岡八幡宮の知名度が上がっており、筥崎宮の最大のライバルになっています。

これは鶴岡は鎌倉にあり、人口の多い関東に位置するため、参拝者も多いことと関係があるでしょう。筥崎宮は九州で知名度が高いものの、やはり関東地方の人には馴染みが薄く、知っている八幡宮は?と聞かれれば鶴岡八幡の名をあげる人の方が多いようです。




ところで、先日事件のあった富岡八幡宮は、無論これらの中には入っていません。ましてや近代社格制度では国幣中社、その下の官幣小社、国幣小社にも入っていません。

ただ、明治維新直後の社格は、「准勅祭社」とされています。勅祭社(ちょくさいしゃ)は、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる神社のことで、「准勅祭社」とは、維新後に明治天皇が、東京近郊の主だった神社をこれと定めて東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としたものです。

当初は12社(日枝神社・根津神社・芝神明宮・神田神社・白山神社・亀戸神社・品川神社・富岡八幡神社・王子神社・赤坂氷川神社・六所宮・鷲宮神社)でした。

しかし、1870年(明治3年)には廃止され、准勅祭社の制度は一時的なもので終わり、同制度の廃止後は記載がない府社とされました。

ただ、皇室の尊崇は受け続け、そのまま約100年が経ちました。1975年(昭和50年)、昭和天皇が即位50年となったため、その奉祝事業を関係神社が協議して行うことになりました。このとき、かつての准勅祭社から遠隔の府中市の六所宮と埼玉県久喜市の鷲宮神社を外し、観光的な要素を濃くした「東京十社」として指名し、現在に至っています。

何か大きな行事があると皇室がここを訪問するのは、これらの准勅祭社がもともと明治天皇により指定されたためです。この十社を決めたのも、昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行った結果、という経緯があります。

現在でも、この昭和天皇即位50周年に行われた「東京十社巡り」が各種観光団体などで継続されており、23区内にある「東京十社」を巡るとともに、これらの神社にある七福神巡りなども合わせて行われています。

その一つである富岡八幡宮は、江戸時代には最大の八幡宮であり、これは、八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受けていたためです。とくに、三代将軍家光の命により、 長男家綱の世継ぎ祝賀を行うことになり、その時に指定されたのがこの神社で、その祭礼が現在の「 深川八幡祭り 」として継承されています。

そもそもは1627年(寛永4年)、「長盛法印」という僧侶が、かつて江東区に存在した「砂町(現在の北砂、南砂、新砂、東砂にあたる)にあった「砂村八幡」を移す形で、創建しました。当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより6万坪以上の社有地があったといい、広く美麗な庭園は江戸庶民の人気の名所であったそうです。

ただ、当初は外に出ると江戸時代のこの地はほとんどが葦が茂る沼地でした。いわゆる「深川」と呼ばれるこの地域は、皇居の東を流れる隅田川左岸側(東側)一帯を指し、摂津国(現・大阪府)から移住してきた深川八郎右衛門が一帯の開拓を行ったことに由来します。江戸初期には漁師町だったことからもわかるように、すぐそばまで海が迫っていました。

明暦の大火(1657)以降に開発され、万治2年(1659)に両国橋が架けられたことで急速に都市化し、永代寺(現・江東区富岡)の門前は料理屋や屋台の並ぶ繁華街になり、やがて岡場所(遊郭)ができ、信仰と行楽の場所として多くの人々が訪れる地域となり、「門前町」として発展していきました。

現在では、通称「門仲(もんなか)」と呼ばれるこの地域は、地名改正以前、「深川永代寺門前仲町」とも呼ばれていましたが、1969年住居表示を実施し、深川門前仲町から現在の正式名称「門前仲町」に町名変更を行っています。

江戸時代には多くの著名人が多く住んでいたことで知られます。材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門も一時邸を構えていたほか、曲亭馬琴もここで生まれ、松尾芭蕉が住み、勝海舟もここで青年期までを過ごしました。海舟の妻、民子は元深川の芸者だったといわれています。

大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央邸に討ち入った事件では、一行が富岡八幡宮の前の茶屋で最終的な打ち合わせのための会議を開いたと伝えられます。

また、測量家である伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため、この富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたといいます。このことから、2001年(平成13年)に当社の境内に銅像が建立されました。

毎年8月15日に富岡八幡宮を中心に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つに数えられ、「わっしょい、わっしょい」の伝統的な掛け声とともに沿道の観衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられます。このため別名「水かけ祭り」と称されて親しまれています。

三年に一度、当八幡宮の御鳳輦(ごほうれん・金銅の鳳凰を飾りつけた輿)が渡御を行う年は「本祭り」と呼ばれ、各町の大人神輿50数基が勢ぞろいして連合渡御(れんごうとぎょ)が行われます。上述のとおり、三代将軍家光の長男、家綱が誕生したことを祝う祝賀行事の名残で、江戸城まで神輿を担いでいったのが始まりといわれています。




また富岡八幡宮の名物といえば、江戸勧進相撲があります。

勧進相撲(かんじんすもう)とは、現在の大相撲の源流となる相撲の形態の一つで、富岡八幡宮はその発祥の神社であるとされています。

その起源ですが、戦国時代の日本において、貴族の都落ちに従って京都の文化が全国に広がり、「土地相撲」もそのひとつでした。やがて、この土地相撲を本職として巡業などで生計を立てる相撲人が現れるようになるほど流行しましたが、その一方で、神社の祭礼にはこの土地相撲を真似た「神事相撲」も多く行われるようになりました。

神社仏閣の建築修復の資金調達のための興行のことを「勧進」といいますが、これにあやかり、「「神事相撲」も、やがて「勧進相撲」と名前を変え、資金集めのために行われるようになっていきます。もともとは「寄付」という形をとるボランティア活動でしたが、長い年月の間には営利目的の興行として行われることが常態化していきました。

文禄・慶長の頃(1600年前後)までには主として上方で、盛んにこの勧進相撲の巡業が行われるようになりましたが、その後浪人、侠客が出入りして始終喧嘩が絶えない事態になり、各地で勧進相撲は禁止されるようになりました。江戸幕府は慶安元年(1648年)に「風紀を乱す」という理由で勧進相撲禁止令を出しています。

しかし、のど元過ぎれば…で、その後数十年を経てふたたびおおっぴらに行われるようになり、とくに京都などで「京都相撲」と銘打ち、実質は勧進相撲である興業が堂々と行なわれるようになりました。これに対し、江戸ではお上の取り締まりも厳しく、街中での興行(辻相撲)はまだ禁じられていました。

ところが、寺社の境内などの興業は幕府の目も届きにくく、ここでこそこそと勧進相撲が再開されるようになります。これに気付いた江戸幕府は、慶応年間以前のトラブルの再現を危惧し、その対策としてこのころから「寺社奉行」を置くようになります。以降、江戸相撲の興行の届け出先もそれまでの町奉行から寺社奉行に移動しました。

この寺社奉行により、勧進相撲の開催はかなりコントロールされるようになりましたが、その後、徳川吉宗の時代に入り、寛保2年(1742年)には江戸で勧進興行のすべてにわたって解禁されました。

吉宗はいわゆる享保の改革を行った名君として知られる将軍ですが、目安箱の設置による庶民の意見の政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書(蘭学)輸入の一部解禁といった庶民に目を向けた政策も多く実施しており、またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励しました。

相撲もまた、この武芸のひとつと考えられていた時代であり、この開放政策により、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を実施することが慣行化されるようになります。

「勧進相撲」の呼称も完全復活しましたが、一方ではこの興業の管轄権は寺社奉行が持ち、きつく取り締まる、というしきたりは残されました。

寺社奉行はいわゆる三奉行の1つですが、主に旗本であり老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行とは別格であり、三奉行の中でも筆頭格といわれます。寺社奉行に任ぜられた者は、その後、大阪城代や京都所司代といった重役に就くこともあり、最終的に老中まで昇り詰めるなどエリートの証でもありました。

従って、寺社奉行の管理のもとに行われる勧進相撲もまた格式の高いものであり、相撲が行われる寺社もまた通常の寺社よりも格上とみなされる傾向がありました。

幕府瓦解後も勧進相撲は格式の高い興業としてそのまま明治・大正時代まで受け継がれていきました。ただ、相撲集団は江戸と大坂の二つに収斂されてゆき、大正14年(1925年)、東京相撲が大阪相撲を吸収合併することにより勧進相撲の組織は日本相撲協会に一元化され、現在の大相撲が誕生しました。

この組織化にあたっては、江戸時代以降、寺社奉行が取り締まり、勧進相撲と言っていた時代の方式がほとんどそのまま受け継がれました。現在でも形式的にではありますが使われている、「勧進元」という言葉はその名残であり、地方巡業の主催者のことをそう呼ぶのはこのためです。



余談が過ぎたので、富岡八幡宮の話に戻します。

寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可されたのは吉宗以前の1684年、綱吉の時代です。そのしくみはほとんどそのまま歴代の将軍の下で継承されるととともに、大相撲と呼ばれるようになった現代にまで受け継がれています。

この現在の大相撲にまで伝わるルールが最初に決められたとき、その仕組みのもとに最初に興行が行われたのが、ほかでもない「富岡八幡宮」でした。

前々年に焼失し、復興を急いでいた江戸深川にあった、ということも理由ですが、最初に興業が認められたということは、それ以上に徳川将軍家の目にかけられていたということでもあります。将軍の継嗣が誕生したことを祝う祝賀がここで行われた一事をみてもわかるように、富岡八幡宮は関東にある八幡宮の中でもとくに一目置かれる存在でした。

現在でも新横綱誕生の折りの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるのは、相撲の歴史上、もっとも由緒ある興業先、という認識が関係者にあるためです。

実際、「横綱力士碑」をはじめ相撲にまつわる数々の石碑が建つのもこの神社だけです。これは、そもそも大大関、」「雷電爲右エ門」を顕彰して建立されたものでしたが、のちに歴代の横綱力士の名が刻まれるようになりました。

12代横綱陣幕久五郎が発起人となって、明治33年(1900年)に完成。縦横約3.5×2.5m、厚さ1メートル、重さ20トンの白御影石で、正面に宮小路康文の揮毫で碑銘、裏面に初代明石志賀之助以降の横綱力士と、「無類力士」として雷電の名が並びます。

綾川五郎次(初代)を2代目、丸山権太左衛門を3代目とする現在一般的な歴代横綱表も、この碑の記銘に基きます。2017年(平成29年)6月には、稀勢の里が横綱力士碑の刻名式に参加して、自らの四股名を刻んでいます。

当然、くだんのモンゴル出身の横綱の名も刻まれているはずです。例の暴行事件に加え、今回の殺傷事件と相まって、また何やら大相撲にケチがついたような気がします。

現代日本において最も人気のあるこのスポーツがらみで、こうたびたび不祥事が起こるのは、あるいは、見えないあちらの世界にいる相撲関係者からの何か警鐘のような気もしてきました。

この先大相撲がどうなっていくのか、時代の代わり目に我々はいるのかもしれません。

暗いニュースばかり頻発する相撲界ですが、年内の大相撲興業も、12月17日(日)で行われる沖縄県宜野湾市での地方巡業で終わるようです。

以後、年末にかけては少しは明るいニュースは出てこないものか、期待したいところです。



粗にして野だが…

その昔、城山三郎さんが書いた「粗にして野だが卑ではない」という題名の小説を読みました。

石田礼助(1886~1978年(明治19年~昭和53年))という人の半生を綴ったもので、この人は三井物産の代表取締役社長を務めたあと、日本国有鉄道総裁に転身した実業家です。

「粗にして野だが卑ではない」とは、彼が国鉄総裁に就任したとき国会に初登院し、就任の挨拶を行った際に出た言葉です。

「生来、“粗にして野だが卑ではない”つもりだ。丁寧な言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキー(山猿)が裃を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお願いしたい。」という、どこかぶっきらぼうな挨拶ですが、妙に味があります。

このころ国鉄の経営状態は惨憺たるもので、この時も、「国鉄が今日の様な状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と、居並ぶ国会議員たちを痛烈かつ率直に批判。以後他の国会答弁でも「人命を預かる鉄道員と、たばこ巻きの専売が同じ給料なのはおかしい」などと発言。歯に衣を着せぬ言いようで何かと物議を醸すことの多い人物でした。

城山さんの小説でも、こうした石田の骨太の人物像を好意的に描いていますが、1963年(昭和38年)に鶴見事故(後述)が起きたときに遺族の葬儀に参列した際には、「白髪を振り乱し」「嗚咽で弔辞も読めなかった」といい、情に厚い人だったこともうかがえます。

石田礼助は、1886年(明治19年)2月20日、ここ伊豆の松崎町江奈に生まれました。父の房吉は当地の遠洋漁業の先駆者として知られた人で、網元でもあったため、比較的裕福な環境で育てられたようです。

松崎は伊豆半島南西部の海岸沿いに位置し、古くから伊豆西海岸の中心として栄えてきた港町です。漁業だけでなく、町中心部を流れる那賀川・岩科川流域には約500haもの広大な耕地があり、伊豆半島西側最大の農業生産地でもあります。

しかし江戸時代には農業よりもより漁業に重きが置かれており、カツオ、マグロ、イワシ、サバ等を主漁として、カツオは加工して江戸へ、マグロは清水、沼津へ船で出荷されていました。また、鰹節の製造も盛んで、こちらも江戸へ出荷され、重要な地域産業のひとつでした。

町内には史跡も多く、なまこ壁造りの建物が特に印象的です。また、中心部の松崎温泉、東部の大沢温泉、南西部にある三つの温泉、岩地温泉・石部温泉・雲見温泉などが連なる「湯けむりの庄」でもあり、夏には海水浴目的の観光客も多数訪れる観光地でもあります。

実はこの松崎町、出身者には偉人が多いことが知られています。

入江長八(1815-1889)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した左官職人で、名工といわれた工芸家です。なまこ壁、鏝絵といった漆喰細工を得意とし、傑作美術を多く残しました。

近藤平三郎(1877 -1963)は、塩野義商店(現シオノギ製薬)の発展に寄与するとともに、同社の援助によって乙卯研究所の設立、東京帝国大学教授にも就任しました。現在、向精神薬や農薬として多用されるアルカロイド関係の薬剤開発に専心して文化勲章を受章しています。

鈴木真一は、幕末・明治時代の写真家です。横浜に出て下岡蓮杖に師事。1874年(明治6年)横浜弁天通に鈴木真一写真館を開業しました。その後、本町1丁目にモダンな洋風建築の写真館を建て、10数年にわたる研究の末、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発しました。

依田勉三(1853-1925)は、明治の早期に北海道の開拓に携わった人物です。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率いて帯広市を開拓。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章しており、北海道神宮開拓神社の祭神にも祀られています。




そして、その兄の依田佐二平(よださじべい)。松崎の産業、農業、海運、教育に多大の貢献をした実業家としてこの地では著名です。当初、海運振興を目指して豆海汽船会社を作り、その社長となりました。

また、1923年の帝国議会開設と同時に初の衆議院議員となったほか、生糸製造同業組合長、全国実業団体中央会委員、大日本蚕糸会静岡支会副会長など多くの要職に就きました。とりわけ蚕糸業界における功績は大きく、1925年には国から緑綬褒章を受けています。1940年に福岡県で開催された大日本蚕糸会総会に出品した製糸でも金牌を受賞。

輸出していた絹の海外の評価も高く、アメリカのセントルイス博覧会で銀牌を受賞しているほか、同アラスカ・ユーコン太平洋万国博覧会で金牌、日英博覧会でも金牌、イタリー万国博覧会では名誉褒状を受賞しています。

そのほか北海道開拓のため晩成社を設立。弟の勉三の北海道開拓の道筋をつけたのは彼です。さらに善吾、文三郎ら弟たちをも十勝に移住させ、半世紀にわたって困難な開拓事業と取り組んだことから、勉三とともに、北海道ではよく知られた人物です。

この依田佐二平、勉三兄弟と、その恩師である漢学者「土屋三余」の3人は地元では〝三聖〟と称されています。松崎町の中心街から1kmほど山手に入ったところにある「道の駅 花の三聖苑伊豆松崎」は、幕末から明治期にかけて活躍したこの郷土の三聖人の業績を中心に、松崎の歴史、文化を紹介する複合施設です。

初オープンは平成3年で、平成7に県内3番目の道の駅に登録されました。敷地内には、3人のたぐい稀な業績をはじめ、松崎の歴史などを紹介する「三聖会堂」が設けられています。

同じ敷地内にある「大沢学舎」は明治6年に三聖人の一人である依田佐二平が私財を投じて開校した公立小学校です。平成5年にこの場所に移され、開校当初の姿に復元されました。 館内には郷土の資料も展示されています。

松崎は海以外の三方を山に囲まれ、閉鎖的な環境にありながら、このように多くの傑出した人物を生み出しました。その原動力は「教育」であり、外部から多くの指導者を招いたことが、こうした多くの偉人を生むきっかけとなりました。

NHKの大河ドラマ「八重の桜」で西田敏行さんが演じて有名になった、元会津藩家老・西郷頼母もその一人であり、この地の教育活動に多大な足跡を残しました。そして彼をこの地に招いたのも、上の依田兄弟と思われます。

市内の高台には、伊豆最古の小学校、「旧岩科学校校舎」というのがあります。明治時代に総工費2630円66銭をかけて建築されましたが、この時代にほとんどの学校が官主導で建設されていたのに対し、ここではその4割余りが住民の寄付でまかなわれたといいます。このことからも、この町の住民の教育に対する並々ならぬ情熱が伺えます。

この岩科学校は、地元の大工棟梁の設計施工による擬洋風建築で重要文化財に指定されています。玄関上の唐破風など寺社建築の要素に加え、なまこ壁やアーチ窓、半円バルコニーが組み合わせられており、レトロなその建築様式から観光客にも人気があります。正面玄関に掲げられた「岩科学校」の扁額は、太政大臣・三条実美の書だといいます。

その他松崎町には長八記念館、長八美術館、中瀬邸、伊豆文邸、雲見浅間神社、雲見くじら館といった数々の観光スポットがあります。小京都と呼ぶには少々語弊がありますが、およそ史跡には縁がなさそうなところが多い西伊豆にあって、多くの歴史的な文物に触れ合うことができる土地柄です。ぜひ一度訪れてみてください。

さて、余談が過ぎました。

石田礼助のことです。彼もまた上の岩科学校に通い、与田兄弟などの先駆者の薫陶をうけつつ育ったと思われますが、やがて狭いこの地での立身に限界を感じるようになり、海の向こうを目指すようになりました。

父に懇願して東京の学校へ進学することになり、東京の麻布尋常中学校に進学します。この学校は、沼津兵学校の創設者である「江原素六」が創立したもので、おそらくは同じ伊豆ということでその進学にあたっては彼の口添えがあったことでしょう。ここを経て、さらに1907年(明治40年)には東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業しました。

22歳で三井物産に入社し、アトル、ボンベイ、大連、カルカッタ、ニューヨークの各支店長を歴任。大連支店長時代には大豆の取引で巨利を得るとともに、ニューヨーク支店長時代には、錫の取引で再び成功を収め、同社での出世街道を突き進みます。

47歳で同社取締役に就任したのを皮切りに、50歳のとき常務取締役に就任。そして53歳で代表取締役社長に就任するなど三井物産一筋でトップにまで上り詰めます。しかし、55歳(1941年(昭和16年))のときに思うことがあり、同社を退社。

翌年に商工省所管の「産業設備営団」の顧問に就任。これは戦時下にあって国家総動員体制の下、住宅政策のために設立された機関です。その後近衛内閣においては、その発展形である「交易営団」が設立され、その総裁に就任しました。

ところが、太平洋戦争で日本は敗戦。石田は軍に協力的だったとして戦後に公職追放となります。このため引退を決意し、小田原の国府津へ移り住みますが、そこで運命の人、十河信二と出会います。

この十河信二とは、元南満州鉄道理事であり、戦後、鉄道弘済会会長に就任していた人物です。愛媛県新居浜出身で、東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、鉄道院に入庁。官僚時代に、時の鉄道院総裁であった後藤新平の薫陶を受けて国鉄畑を歩むことになり、のちに開発される新幹線構想に多大な影響を与えたことで知られます。

鉄道院では主に経理畑を歩み、36歳の若さで経理局会計課長に就任。関東大震災(1923年)では、後藤と共に復興事業に携わりましたが、土地売買に関わる贈収賄疑惑(復興局疑獄事件)に巻き込まれて逮捕されました。

無罪となった後、南満州鉄道株式会社(満鉄)に46歳で入社。理事を務める傍ら国策会社である「興中公司」の社長に就任して中国の経済発展に寄与します。しかし、関東軍による満州事変(1931年)が勃発すると、軍に反目して1938年に辞職。54歳で再び浪人となりました。

終戦直後の1945年には第二代愛媛県西条市長に就任しますが、翌年には市長を辞任。鉄道弘済会会長に就任したのはこのときです。さらに日本経済復興協会会長をも兼任するなど、戦前に贈収賄疑惑でふいにした人生を取り戻すかのように活発な活動を再開しました。

しかしちょうどこのころ、千人以上の死者を出した洞爺丸事故が勃発。また、168人が死亡した紫雲丸事故が起こります。このとき3代目の国鉄総裁であった長崎惣之助は、これが原因となって引責辞任。これを受けて、しぶしぶその後任となったのが十河信二でした。



この当時の国鉄は、赤字体質とこうした相次ぐ事故による世間の批判集中により、後任の成り手がいませんでした。弘済会の会長も務めていた十河は国鉄の行く末を心配し、国鉄の経営に対してもいろいろ口出しをしていましたが、長崎が辞任に追い込まれると、「そんなに言うんなら、あんたがやったらどうか」と、内外から白羽の矢が立ちました。

年齢と健康を理由にいったんは固辞しますが、そこへ現れたのが同じ四国出身国会議員で日本民主党総務会長の三木武吉です。三木は十河に対し、「君は赤紙を突き付けられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か」と説教をし、これに対して十河は、「俺は不忠者にはならん」と言い、総裁職を引き受けてしまいます。

当時は大事故が立て続けに起こったことで国鉄の信用は地に墜ちており、そこで登板した十河に対し、「鉄道博物館から引っ張りだされた古機関車」との酷評もありました。

それに対して十河は、最後のご奉公と思い、赤紙を受けて戦場に行く兵士のつもりで、鉄路を枕に討ち死にの覚悟で職務にあたる」という挨拶をし、信用の回復を自身の第一目標として総裁を引き受けました。

71歳という高齢で第4代日本国有鉄道総裁に就任した十河が、このとき右腕として目をつけたのが同じ国府津の住人であった石田です。1956年(昭和31年)、十河信二の依頼で日本国有鉄道監査委員長として実業界に復帰。

このとき、石田もまた70歳を迎えており、二人の古機関車が、ボロボロになった国鉄を牽引することになりました。当初は2期7年にわたって国鉄監査委員長をつとめ、その後、諮問委員を務めることになります。

十河は就任後、新幹線建設計画を主導・推進するとともに主要幹線の電化・ディーゼル化(無煙化)や複線化を推し進め、オンライン乗車券発売システム「マルス」を導入して座席券販売の効率化を図るなど、当時高度経済成長で大きく伸びていた輸送需要への対応に努めました。

新幹線工事にあたっては、世界銀行から8千万ドルの借款を受けることに成功しましたが、
1962年に死者160人、負傷者296人を出す三河島事故が発生すると、東海道新幹線の建設予算超過の責任を負うという名目で総裁職を退任しました。ただ在任8年は歴代国鉄総裁の中で最長でした。

こうして1963年(昭和38年)、新国鉄総裁が選出されることになります。その起用にあたり、当時の池田勇人首相は官からの選出ではなく、財界人の抜擢に執念を燃やしました。十河のような官僚出身者ではまた同じ過ちを繰り返すと考えたからです。そして池田の強い希望により、十河の後任として第5代国鉄総裁に就任したのが石田礼助です。

池田が財界人の起用にこだわったのは、当時池田の政敵になっていた佐藤栄作の国鉄への影響力を絶ちたいためでもありました。また、公共企業体としての明朗な国鉄カラーを取り戻し、国鉄経営に民営色を強め、思い切った経営合理化を実施しようと考えたからでもあり、民間商社出身の石田はその適任でした。

石田にこの総裁就任の話があったのは国鉄の諮問委員会があった日でした。国鉄本社に所要があって立ち寄り、文書課へ顔を出したとき、このころ日本工業倶楽部理事長であった石坂泰三(のちの経団連会長)から「急な用件で」と電話があったことを知らされます。

急いで車を呼び、飛ぶようにして総理官邸へ向かうと、総理から切り出されたのは思いもかけない総裁就任の話でした。躊躇せず、数え78歳でこの総裁職の申し出を引き受けた後、開かれた記者会見で彼は、「乃公(だいこう)出でずんば」の心境である、と語りました。

これは「乃公(だいこう)出でずんば蒼生を如何(いかん)せん」ということわざに由来します。「蒼生」は人民の意。乃公とは、自分のことを指す一人称(書き言葉)です。「乃(=汝、お前)」の「公(=主君)」ということで、「俺様」とか「我が輩」といったニュアンスがあります

つまり「乃公出(いで)ずんば」は、「俺様が出ないで、他の者に何ができるものか」といった意味となります。並々ならぬ自信を示す発言でしたが、この石田の総裁就任の報せに、石田を知る人々の間では、「よくまあ引き受けたものだ」という声が圧倒的であったといいます。

若いころに三井物産社員であり、ニューヨークでは石田支店長に仕えたことのあった弘世現(元日本生命社長・会長)は、この時こう語りました。

「石田さんが引き受けられたと聞いて、とにかくびっくりしました。普通なら、悠々と余生をたのしむところでしよう。総裁になったところで、いいのは汽車に乗るのがタダになるぐらい。それなのに、総裁の仕事は容易なことじゃない。石田さんはそれを読んでたはずなのに。」




しかしそうした心配とは裏腹に石田は、自らを「ヤング・ソルジャー」と称して活発に活動を開始します。官僚としての経験は未知でしたが、「公職は奉仕すべきもの、したがって総裁報酬は返上する」と宣言して、その通り総裁報酬は受け取らずに勤務し、国民からは喝采を得ました。

さらに鶴見事故の発生後は、給料さえも1円も受け取らなかったといい、ただしその代りに1年あたり洋酒1本を受け取ることにしていたといいます。

ちなみに、本項でたびたび出てくる鶴見事故とは、国鉄時代に生じた事故の中でも最も犠牲者の多かった事故の一つです。1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に東海道本線鶴見駅~新子安駅間の踏切で発生した列車脱線多重衝突事故で、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となりました。

この事故では、車両や軌道に決定的な欠陥は見られず、原因は現在も不明で、一応の結論としては、様々な要因が重なり(競合して)脱線に至る「競合脱線」とされました。

石田はまた国会質疑でも「ご意見番」であり続けました。国労と直接交渉したり、「黒い霧事件」が発覚した際は国鉄幹部に「接待ゴルフはやめなさい」とたしなめるなど、財界出身ながらも官僚社会である国鉄内部に対して堂々と意見を発しました。

この事件は、自民党の荒舩清十郎運輸大臣が、自選挙区の深谷駅に急行列車が停まるよう国鉄にダイヤ改定をするように圧力をかけた事件です。それだけでなく、自民党を中心に相次いで不祥事が発覚し、これにより著しく国民に政治不信を与え、国政に対する信頼が失われました。

総裁在任中の1964年(昭和39年)10月1日には、前任の十河が果たせなかった東海道新幹線が開通し、石田はその代りに開通式でテープカットを行っています。

また「赤字83線」廃止提言や名神ハイウェイバス参入など国鉄の経営合理化に取り組み、国鉄経営に民間企業の経営方針の導入を試行しました。さらには“パブリックサービス”の概念を徹底させ、「持たせ切り」を禁止しました。

当時の鉄道は改札口で切符に駅員がいちいちパンチを入れていました。このパンチの形でいつどの駅から入ったかも認識できるようになっていました。パンチを入れるときに乗客に切符を持たせたままでそこにパチンと入れるのが「持たせ切り」です。

この当時、タクシー業界では乗車拒否が問題になっており、「乗車拒否禁止令」が出されました。どちらも「接客業」としてはいかがなものか、ということで「態度を改めろ」と問題になっており、これを機に国鉄の方では客から切符を受け取ってパンチを入れて切符を返すようになりました。

また、運賃制度にモノクラス制を導入し一等車・二等車の呼称をグリーン車・普通車に変更させました。1965年には国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の経営権を産経新聞社・フジテレビへ譲渡しています。鶴見事故後の安全対策や連絡船の近代化、通勤五方面作戦(首都圏の5通勤路線の輸送量増強計画)を目指し、その推進にも着手…。

一部で「このような大規模投資は利益に直結しない」と批判されましたが「降り掛かる火の粉は払わにゃならぬ」と反論。さらには東海道新幹線に続いて山陽新幹線の建設にも着手しました。

結局、4年の国鉄総裁任期をフルに使ってもまだ改革は止まらず、ついには二期目に突入します。その途中の昭和43年(1968年)10月に行われた大規模ダイヤ改正(ヨンサントオ)では、これまでの国鉄でもあまり例のない大規模な改革を実施します。

ヨンサントオ(4・3・10)とは、国鉄が実施した「白紙ダイヤ改正」とも言うべき大規模改革で、このように命名して大々的に広報活動を展開したのは当時としては極めて異例の出来事でした。無煙化(動力近代化計画)の促進や、全国的な高速列車網の整備など、その後の国鉄の全国輸送体系、ひいては現在のJR列車群の基礎を作った画期的な内容でした。

日本は50年代後半から戦後復興を終えて経済成長期に入り、国鉄の旅客・貨物輸送量も大幅に増加しましたが、鉄道の基盤整備が遅れていることは否めず、長らく慢性的な輸送力不足が続き、また鶴見事故のような重大事故もしばしば発生しました。

60年代の高度経済成長への対応能力が危ぶまれる状況にあり、さらには、航空機や自動車など交通手段の多様化により、輸送量は増えているものの、次第にシェアは低下してきていたため、国鉄は1965年(昭和40年)から7か年に渡る第3次長期計画を策定し、既に輸送体制の抜本的な強化を開始していました。

ヨンサントオはこの7か年計画の前半部分の成果を取り入れて実施された抜本改革であり、採算性の悪化が問題となっていたローカル線115線区において、合計18,500 km / 日に及ぶ列車の運行本数が削減されました。のちの鉄道関係者・鉄道ファンの間でもヨンサントオと聞けば大規模改革、と即座に答えがかえってくるほどの改正です。

ちなみに、このダイヤ改正によりSL牽引列車が激減したことにより、それまで「どこにでもあった」SLは希少価値を高め、静かに広まりつつあったSLブームがさらに過熱しました。以来、写真撮影に適した場所を取り合ったり、禁止された場所や他人の所有地に侵入して三脚を立てる業者やファンが目立つようになりました。



こうした大改革をやり遂げた翌年1969年5月には運賃値上げ法が成立。その直後、石田は高齢を理由に総裁辞任。多くの職員に見送られて国鉄本社を去りましたが、このとき、なんと83歳でした。

辞任後は再び晴耕雨読の日々に戻り、昭和53年(1978年)7月27日92歳にて死去。
生前、総裁になったときに発した「粗にして野だが卑でもない」の言葉は、その武骨で清廉な人柄とともに人々の記憶に長く残るところとなりました。

後に国鉄分割民営化を推進し、国鉄内部の三羽烏と目され、東海旅客鉄道(JR東海)代表取締役名誉会長になった葛西敬之は、その著書で石田を「名総裁であると思う」と評し、彼の手腕により国鉄設備の近代化が促進されたことを高く評価しています。

ところで、前述の黒い霧事件で世間から批判を浴びた元運輸大臣、荒舩清十郎もこの2年後の1980年(昭和55年)11月25日に亡くなっています。その生前、荒舩は国会の場という公前で池田と直接的な接点を持っています。

荒舩はこの事件のあとも政界で活躍し、1976年(昭和51年)には衆議院予算委員長としてロッキード事件の証人喚問を取り仕切ったことで有名になりました。

また、同年三木内閣改造内閣、翌年福田内閣改造内閣でそれぞれ行政管理庁長官も務め、ニセ電話事件(ロッキード事件がらみで現職裁判官が起こした政治謀略事件)においては弾劾裁判の裁判長も務めています。

決してクリーンではないが気骨ある政治家として知られ、また品性に欠ける嫌いがあったものの愛嬌があり憎めない党人派として国民から親しまれていたところは、石田とどこか似ています。

黒い霧事件が発生する以前の1966年(昭和41年)8月、第1次佐藤内閣第2次改造内閣の運輸相に抜擢されましたが、上述のとおり、ヨンサントオに先立つこの年の10月1日からのダイヤ改正に際して、国鉄に要請して自分の選挙区(当時の埼玉3区)にあった深谷駅を急行停車駅に指定させたため、世論の批判を受けます。

問題が表面化した9月3日の夜、荒舩は自宅で新聞記者に「私のいうことを国鉄が一つぐらい聞いてくれても、いいじゃあないか」と発言しました。

9月12日の参議院運輸委員会でこの問題が取り上げられますが、このとき答弁に立ったのが、石田礼助国鉄総裁です。このとき彼は「いままでいろいろ御希望があったのだが、それを拒絶した手前、一つくらいはよかろうということで、これは私は心底から言えば武士の情けというかね」と答弁したといいます。

この発言をどうとらえるかは、いまだに議論があるようですが、ひとつにはこの当時の国鉄と運輸省は反目しつつも、ダイヤ改正などの抜本改革を巡って馴れ合い関係にあり、急行駅停車事件も黙認したという見方です。

が、池田は荒舩に対して似たようなテイストを感じており、案外とかねてより好意を持っていた、というのがもう一つの見方であり、類は友を呼ぶ、というべきだったのかもしれません。

しかし、この問題を皮切りに、荒舩の疑惑が次々と国会で追及されるところとなります。一連の疑惑が積み重なり、荒舩はついに10月11日に辞表を提出しました。辞任時の記者会見で荒舩は「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で佐藤内閣にマイナスになると、党員として申訳ないので辞める」と語っています。

さらに翌1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で、埼玉3区から立候補した荒舩は、まず秩父神社で選挙演説を始め、「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」と演説し喝采を浴びると共に、そのあまりにもストレートな地元至上主義的な内容でマスコミ関係者の度肝を抜きました。

「粗にして野だが卑ではない。」彼もまた、この言葉にふさわしい人生を送った人物といえるでしょう。

徳があり、清廉でウソがない人物だからこそ、多少の失言はあっても世間も文句は言わないわけです。最近、こうした徳やら気骨のある政治家や実業家が少なくなっているような気がします。

さて、自分を振り返ってみるにどうか…といえばこうした偉人達には程遠い…。

「粗にして野だし、卑でもある」 そんなところでしょう。

そんな自分でも、今年もまた年末がやってきます。凡人である私は、今年もそこそこの数の年賀状を準備し、他にへつらわなければなりません。

しかし、今年は開き直り、粗にして野、しかも卑なものを作ってみようかと思いますが、はたしてどんな仕上がりになるでしょうか。




八島

せわしなく年の瀬が過ぎて行きます。

例年になく落ち着かない気分なのは、このあと予定している旅行のせいでもあります。

姪の結婚式のため広島方面に行くのですが、正直のところあまり気乗りがしません。これを姪が読んでいたら憤慨するかもしれませんが、親族としては一応のお役目を果たさねばという義務感が先行しています。

無論、かわいい姪っ子のため、という気持ちもあるのですが、それにしても、なんでこんな時期に…というのが本音ではあります。あちらもいろいろ忙しいようで、結婚式場の予約が入りやすいためこの時期になったのでしょうが、それにしてもクリスマス前とは…

そうでなくても旅行というものにはお金がかかるばかりではなく、時間と労力がかかります。ましてや多くの人との交流があるイベントでは気苦労という別の意味のプレッシャーがかかり、人前へ出ることが苦手な私にとってはできれることならば避けたいところです。

まあしかし、これも何かのお知らせかもしれません。人の流れが一番多くなる年末のこの時期に旅行をすることになったのは、あるいはこの時期ではなくてはならない何かの理由があるのでしょう。今となっては諦めてその時がくるのを粛々と待つ、というまな板の上のコイのような心境です。

ところで、ブログのネタにしようと、その結婚式についていろいろ調べていたところ、日本で一番最初の結婚式というのは、日本神話における伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の結婚式だといわれているようです。

「古事記」、「日本書紀」には、「オノゴロ島」なる島に天の御柱を建て、イザナギが「私と貴方と、この天之御柱を廻って結婚しましょう。貴方は右から廻り、私は左から廻り逢いましょう」という約束をし、出会ったところで「なんとまあ、かわいい娘だろう」「ほんとにまあ、いとしい方ですこと」と呼び合って結ばれたという描写があるとか。

少女マンガじゃあるまいし、なんともミーハーなエピソードですが、古代神話の世界というのはえてしてこんな漫画チックなもので、庶民の日常の素朴なエピソードを切り取ったものが多いようです。

結婚自体も男女が結ばれるという、しごく素朴な生活の営みに立脚したものです。その目的は、終生にわたる共同での生活を両者に約束させるための行事、すなわち「婚姻」を成立させることであり、その結果として子孫を確実に作ることができる下地ができるわけです。




このイザナギとイザナミの婚姻が行われたというオノゴロ島(又はオノコロ島)とは、「国生み神話」でも知られ、神々がつくり出した最初の島とされます。「古事記」では淤能碁呂島、「日本書紀」では磤馭慮島、とそれぞれ表記します。自凝島とも表記され、これは「自(おの)ずから凝り固まってできた島」の意味です。

オノゴロ島は、実在の島だという説と、いや神話の架空の島にすぎない、という説のふたつがあります。

実在するという伝承が残る地域は近畿地方が中心です。平安前期の古代諸氏族の系譜書である「新撰姓氏録」では、オノゴロ島は紀淡海峡(友ヶ島水道)に浮かぶ無人島群、友ヶ島の島々(和歌山県和歌山市加太に属する)との一説があります。

同じく平安前期に書かれた「新撰亀相記」と鎌倉後期成立の「釈日本紀」では、オノゴロ島の説明に「沼島」を当てており、明治時代に発行した地名事典である「大日本地名辞書」でも、「オノゴロ島を沼島と為すは至当の説なるべし」として、この沼島説を有力に見なしています。

沼島は「ぬしま」と読みます。淡路島の南4.6kmの紀伊水道北西部に浮かび、所属は兵庫県側の南あわじ市になります。

面積2.71km2、周囲9.53kmのこじんまりとした島で、淡路島の南海上4.6km先に位置しており、瀬戸内海国立公園の一部にもなっています。2017年4月末現在の人口は473人。江戸時代末期に漁業や海運業で最も栄え、1955年(昭和30年)頃までは人口2,500人ほどを擁していましたが、その後は人口流出が著しくなっています。

上空からみると勾玉(まがたま)の形をしており、北西側の真ん中に漁業中心の集落と沼島漁港があり、対岸の南あわじ市灘土生の土生(はぶ)港、 洲本市の洲本港との間を定期船で結ばれています。島内には信号機が存在せず、一部の工事用作業車や軽自動車を除き、島民は主に徒歩や自転車で移動するそうです。

1994年(平成6)に、1億年前の「地球のしわ」とされる「鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)」と言う、非常に珍しい岩石が発見された島として知られ、島の海岸線には奇岩や岩礁が多く見られます。

とくに、東南海岸には、矛先のような形をした高さ約30mの屹立する巨岩「上立神岩(かみたてがみいわ)」がそびえ立ち、神話の世界を思わせる象徴的な存在となっています。この上立神岩は、「天の御柱」とも言われ、イザナギノミコトとイザナミノミコトの2神が降り立ったと伝わっています。

沼島内の小高い山の上にある「おのころ神社」には、このイザナギノミコトとイザナミノミコトの2神を祀られており、地元では山全体が「おのころさん」と呼ばれ大切にされてきた神体山です。



その二人の神様の国創りの話はこんな風に始まります。

伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられます。そのため、別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えました。そこで二人は、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜ始めます。

このとき、矛から滴り落ちたものが積もり、最初に淤能碁呂島(おのごろじま)ができました。二神は淤能碁呂島に降り、結婚しますが、そこで行われたのが上でも書いた漫画チックな婚姻です。

イザナギは左回りに、イザナミは右回りに天の御柱を巡り、出会った所でイザナミが「あなにやし、えをとこを」とイザナギを褒め、イザナギが「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とイザナミを褒め、ここで二神は性交を行います。

しかし、女性であるイザナミの方から男性のイザナギを誘ったために、ちゃんとした子供が生まれませんでした。二神は、最初に産まれたこの子、水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流しました。そして別天津神のもとに赴き、なぜちゃんとした子供が生まれないのかを聞きました。

すると、占いによって、女から誘うのがよくなかったとされたため、といわれました。このため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性の伊邪那岐から誘って再び性交します。こうして次に生まれたのがアハシマ(淡路島)でした。ここからこの二神は、大八島、すなわち日本列島を構成する島々を生み出していきました。

産んだ島を順に記すと、淡路島、四国(伊予国、讃岐国、阿波国、土佐国)、隠岐島、九州(筑紫国、豊国、肥国、熊曽国)、壱岐島、対馬、佐渡島、大倭豊秋津島(本州)の順になります。

以上の八島を総称して大八島国(おおやしまのくに)といいますが、大八洲国、略で大八洲とも呼ばれます。日本神話においては八は聖数とされ、また漠然と数が大きいことを示すことにも用いられました。よって本来の意味は、「多くの島からなる国」です。

ちなみに、この中には北海道が含まれていません。イザナギ・イザナミの国産み神話が記された「古事記」や「日本書紀」が編纂された当時、北海道は、まだ日本の版図に組入れられていませんでした。

このため、北海道は大八洲に含まれず、天皇家に伝わった神話に北海道の国産みの話もありません。ただ、北海道の先住民であるアイヌの間には、これとは別に各部族に様々な国産み神話が伝わっており、天から降った神が、混沌の海から陸地を創ったという、イザナギ・イザナミの国産み神話に似た話もあります。

現在、八島 という呼称はほとんど死語になっています。が、明治時代にはまだ何かとよく使われていたようで、日本海軍が初めての近代的戦艦を持ったとき、その1隻に「八島」の名が冠せられました。

2艦建造された富士型戦艦の2番艦で、このころはまだ日本はこれほどの戦艦を建造する自前の技術がなく、イギリス・ニューキャッスルにあるアームストロング社に依頼して建造しました。

1896年(明治29年)2月進水。翌1897年(明治30年)に竣工、同年11月に横須賀到着、日本海軍はし、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義し、この八島を含む該当4隻(富士、八島、朝日、敷島)を一等戦艦に類別しました。

1899年(明治32年)12月25日には、沼津御用邸滞在中の明治天皇皇太子(のち大正天皇)が、「八島」に乗艦しており、誉ある艦として海軍内でも一目置かれる存在でした。

竣工後7年目に日露戦争が勃発し、旅順口攻撃や旅順港閉塞作戦に参加しましたが、これが最初で最後の参戦でした。

旅順港閉鎖隊は、初瀬、八島、敷島、笠置、龍田で構成され、第一戦隊司令官梨羽時起中将(初瀬座乗)の指揮下に入りました。そして1904年(明治37年)5月15日、旅順港沖合を航行中、老鉄山沖でロシア海軍(敷設艦アムール)の敷設した機雷に触雷。

触雷は午前11時頃10分頃で、最初に触雷した「初瀬」の救援のため停止してボートを降ろしている最中でした。爆発は右舷後部ボイラー室で起こり、その1分後に水中発射管室で爆発、艦内に浸水し右に大きく傾斜。 このとき日本艦隊は触雷原因が機雷か潜水艦によるものか判断できずに大混乱に陥ったといいます。

「八島」では応急処置の後、自力航行により擱座を試みますが、刻々傾斜が増したため投錨。午後5時40分、曳航も断念されるに至ります。 坂本一大佐(八島艦長)は夜間になってからの退避で混乱する事を懸念し、総員退去を決定。午後6時30分、軍艦旗を降下し総員退艦。「八島」は夜8時半過ぎに転覆沈没しました。

同日に戦艦「初瀬」も沈没しており、日本海軍は当時保有していた主力戦艦6隻(富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠)のうちの2隻を一挙に失うこととなり、また同日未明に巡洋艦「吉野」が沈没(味方艦春日との衝突による)、初瀬生存者・八島生存者を収容していた「龍田」も座礁、ということで、5月15日は日本海軍厄災の日となりました。

日本海軍は国民の動揺を恐れ、戦死者が無く、ロシア側にもこの事実が知られていなかった事から、日本海海戦の大戦果が確認できるまでこの八島沈没の事実を秘匿しました。

1905年(明治38年)6月1日、日本海軍は6隻(八島、暁、大島、速鳥、愛宕、高砂)の喪失を公表。 同年6月15日、八島は軍艦籍および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍されました。



こうした災難にあったためか、その後日本海軍の艦艇に八島の名前を冠したものが登場することはなくなっています。しかし、姉妹艦として建造された「富士」は運用術練習艦、
定繋練習艦として使われ続け、1934年(昭和9年)に海軍航海学校が創設されると、航海学校保管艦として艦上に居住区施設や講堂を増設、浮き校舎となりました。

1939年(昭和14年)、海軍航海学校が海軍砲術学校の傍に移転すると、富士も繋留地を変更。その後、終戦直前の横須賀空襲により炎上し着底、戦後に解体されています。

以後、八島の名のつく艦艇は現在に至るまで登場していません。

「八島」のひとつとして最初に作られたという淡路島にあるおのころ神社(兵庫県南あわじ市(旧三原町))には、高さ約21.7の朱色の大鳥居がシンボルがあり、この鳥居は平安神宮及び厳島神社と並び「日本三大鳥居」の一つに数えられています。

2006年に辺見えみりが自身のブログの中で、木村祐一との交際が始まる以前に当社を参拝し、縁結びのお守りを購入していたことを明かしました。これが影響し、それまで1日に2、3人程度であった参拝客が10倍以上増加したといいます。ご存知のとおり、辺見えみりは、父は俳優で歌手の西郷輝彦、母は歌手の辺見マリです。

しかし、その後二人は離婚。えみりさんは2011年、以前より交際していた男性と再婚。2013年には第1子授かり、その後も第2子を授かっています。

一方の木村さんのほうも2012年に、女優の西方凌さんと自身4度目の入籍。昨年末に凌さんが第1子女児を出産しています。

それぞれの再婚によってまた日本人の子孫が増えたということで、経過はともかくめでたしめでたしかと。八島の名も忘れ去られつつありますが、NIPPONという名のもとにその後繁栄してきたこの国は、3年後には2度目の夏季オリンピックを開催します。

さて、わが姪夫婦の今後にはいかなる人生が待ち受けているでしょうか。




風のはなし

まだ11月だというのに、外は真冬並みの寒さです。

この時期にこんなに寒いのはひさびさのように思います。暖かい伊豆では他地域より紅葉も遅いようですが、この寒さで一気に赤くなるかもしれません。

こうした寒さとは関係はなく、この時期になると、伊豆では風が強くなります。いや、伊豆だけのことではなく、全国的な傾向でもあります。冬季にはユーラシア大陸の上にある冷たいシベリア高気圧から、比較的暖かい太平洋に向かって空気が流れ込みやすくなるためです。

全国的に、北風や北西からの風が吹きやすくなりますが、山がある地域の反対側、つまり南側では、山を越えて吹きつける下降気流が発生しやすくなります。

山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態となり、これがいわゆる「からっ風」を発生させます。

特に群馬県で冬に見られる北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられています。また、ここ静岡でも、西部の浜松市などは冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれます。

浜松の風はおそらく、北アルプスや中央アルプス越えの下降気流に原因があると思われますが、静岡市あたりでもその北西にある南アルプス越えの風が吹きやすくなります。これが原因で、この時期には静岡市内でもよく突風が吹きますが、ここ伊豆でもその風が駿河湾を超えてやってくるためか、かなり風が強くなります。

この風はたいていお昼前頃から強くなります。これはおそらく日が昇って太平洋側がより温められ、北と温度差が激しくなるためでしょう。上空の冷たい空気はアルプスを越え、温かい海に向かって一気に吹き降ろしてきます。

このため、朝、洗濯物を干しているときにはほとんど風がなく、油断をして洗濯バサミする手間を省いたりします。ところが、午後になってから急に風が吹き出すことが多く、あわてて飛ばされないようにしたり、洗濯物を干す場所を変えることを余儀なくされたりもします。

ここへ引っ越してきたばかりのころは、このことをよく理解しておらず、午後になって吹き荒れる風によく翻弄されたものです。しかし、最近は慣れたもので、あらかじめ厳重に洗濯バサミで洗濯物を固定する手間を惜しまなくなっています。

ちなみに、同じように山を越え、吹き降ろしの風の温度が上昇・乾燥化する現象のことを「フェーン現象」といいます。風下側の気温が著しく上昇するので森林火災が発生したりして、大きな災害になる場合もあります。

ここで、冬に山越えで吹き降ろす風は「からっ風」と呼び、なぜ「フェーン現象」と呼ばないか、ですが、これは、吹き降ろしの風の温度がかなり上昇したとしても、冬季であるがゆえに麓の気温も十分に低いためです。

仮に1000mの山の上でマイナス10℃の風が吹き下ろしたとしても、麓では0℃にしかならず、体感温度では、これは暖かい風というよりも「冷たいからっ風」と感じるわけです。

このため、こうした冬に発生する現象をフェーン現象と呼ばず、「ボーラ現象」と呼ぶこともあります。

ボーラの場合は初めから非常に冷たい空気で構成されていることや、湿度もそれほど高くないことから、昇温の幅は小さく、むしろ風が吹き始めると気温が低下することが多くなります。加えて風下側の気温が比較的高いため、相対的に冷涼な風となります。

ボーラの名は、「北風」あるいは「むさぼりつくす者」を意味し、ギリシア神話に登場する風の神ボレアスに由来しています。ボレアスは、しばしばほら貝を持ち突風にうねる外套を纏い、もじゃもじゃ頭に顎鬚を生やした、翼のある老人として描写されます。粗暴な神として扱われることも多いようです。

この現象は、そもそもヨーロッパ中部から東部にかけて居座る大陸性の冷たい気団から、アルプス山脈東部やディナルアルプス山脈を越えて、南西方向に吹き降ろす寒冷風を指します。

一方のフェーン現象は、同じヨーロッパでも、アルプス山中で吹く局地風のことをドイツ語でこう呼んだために由来しており、ラテン語で西風の意のfavoniusに基づく、というのが通説です。

この「ボーラ現象」、すなわちからっ風のことを、日本では昔から一般的には「颪(おろし)」といいます。ただ、全国的な呼び名ではなく、主に太平洋側の地域での呼称で、冬季に山や丘から南の地方に向かって吹き下ろしてくる風のことをいいます。

一方、日本海側では冬場に山から吹き下ろす風のことを、「だし風」または「だし」と呼ぶことが多いようです。「だし」は低気圧が日本海に入りながら東進している時に、南方の太平洋上の高気圧からの風が強い南寄りの風になって吹き込んで日本列島の脊梁山脈を越えて日本海上の低気圧へ吹き降りることで発生します。

こちらは、冬場といっても春先に吹くことが多く、「フェーン現象」でもあるだけに高温かつ乾燥した南風となります。このため雪解け洪水が起きたり、稲の赤枯れや虫害、また強風から不漁を引き起こしたりするやっかいものです。

一方の太平洋側の冬に吹く、「颪(おろし)」のほうは、関東平野の「からっ風」、岡山県の広戸風、愛媛県のやまじ風など、随所に常襲地があって局地風としてその土地土地での固有の名で呼ばれることが多くなっています。

ただ、いずれも主風向は一定で山脈に直行して吹きます。谷間の急に開けた場所で強い傾向にありますが、北海道における局地風「日高しも風」のように岬を回った山蔭に生じる場合もあります。




「〜颪」と付く局地風の呼称は吹き下ろしてくる山の名が冠されていることが多く、以下のようなものがあります。

赤城颪 – 赤城山
浅間颪 – 浅間山
愛宕颪 – 愛宕山
吾妻颪 – 吾妻山
伊吹颪 – 伊吹山
北山颪 – 京都
蔵王颪 – 蔵王連峰
鈴鹿颪 – 鈴鹿山脈
丹沢颪 – 丹沢山地
筑波颪 – 筑波山
那須颪 – 那須岳
男体颪 – 男体山
鉢盛颪 – 鉢盛山
榛名颪 – 榛名山
比良颪 – 比良山地
比叡颪 – 比叡山
風伝颪 – 風伝峠
富士颪 – 富士山
八ヶ岳颪 – 八ヶ岳
摩耶颪 – 摩耶山
六甲颪 – 六甲山
霧島颪 – 霧島山

この中で有名なのは、六甲颪(ろっこうおろし)で、六甲山系より吹き降ろす山颪のことです。プロ野球球団阪神タイガースの応援歌のタイトルにもなっており、聞いたことがある人も多いでしょう。

六甲颪といえば、冬の寒風としてのイメージが強いようですが、その他の季節でも吹きます。春は本州南岸を進む低気圧が集める東風が大阪平野から六甲山地に収束され強い北寄りの東風が吹く日が多く、また、秋は発達した低気圧や台風による北風が吹きます。ただ、唯一夏には吹きません。

とはいえ、夏以外は、表六甲は常に比較的強い風に吹かれている状態といえ、古来から季節を選ばずに山頂より吹き降りる突風はこの地域の名物のようになっています。

このほか、上でもあげた「上州からっ風」、と呼ばれるのが、赤城颪(あかぎおろし)です。群馬県中央部(赤城山)から東南部において、冬季に北から吹く乾燥した冷たい強風をさします。

筑波颪(つくばおろし)というのもよく聞きます。茨城県南部から千葉県北部にかけての地域で冬期に吹く冷たく乾燥した北西風のことで、日本付近が西高東低の冬型の気圧配置になった場合に、日本海から日本に向かって北西の湿った季節風が吹き込みます。

これが千葉や茨城の西北にそびえる関東山地に雪を降らせ太平洋側に吹き降り、乾燥した冷たい北西風となって関東地方に強風をもたらします。茨城県南部から千葉県北部にかけては、ここから筑波山が良く見えることから、この風を「筑波おろし」と呼ぶようになりました。

ただ、筑波山というのは実はそれほど高い山ではなく(877m)、ほぼ単体の山であるため、実際にこれを吹き下りてくる風が直接当たる範囲は限られています。

ここまで話広がってきたので、もう少し風の話をしましょう。

この冬場におこる颪に限らず、特定の地域に限って吹く風のことを、「局地風」、あるいは「局所風」、また「地方風」などと呼びます。地方風は英語でも“ local wind”と呼ばれます。

地球上では、地域によってさまざまな性質を持った風が吹き、その地域の独特の気候や風土を形作っています。その地域の気候を温暖にしたり、恵みの雨をもたらす風もあれば、農業に重大な影響を及ぼすものや、人間の生活にとって脅威となるものもあります。

その地方独特の名称で呼ばれている風も多く、中には、神話や伝承に関連した名前もあり、文化的な側面を垣間見ることもできます。また、方角の名前が風の名前になったもの、その逆のものなど、方角と関連付けられた名前も多いようです。早春に吹くことが多く、春の季語にもなっている東風(こち)などがその代表的なものです。

ただ、穏和であまり被害をもたらさないようなこうした地方風よりも、生活に大きな影響を及ぼすような地方風に名前がつけられることのほうが多いようです。地方風の一般的なイメージも、穏和というよりは悪影響をもたらす風という印象が強くなっています。

上の颪(おろし)やからっ風も、冬場に吹く乾燥した冷たい空気であり、それイコール冬場の厳しい寒さそのものをイメージさせます。

また、山形県の庄内町付近を吹く局地風は、「清川だし」と呼ばれ、上述のように雪解け時に悪さをするため「日本三大悪風」の一つとも言われます。

奥羽山脈から吹く南東の風が、新庄盆地を経て、日本海側の庄内平野に吹き抜ける際に発生するもので、出羽山地に囲まれている地形から風が集まり、庄内平野側の出口にあたる清川で局所風となります。夏場を中心に強風が続くため、古くから、農作物の生育に大きな影響がありました。

ほかの二つは、広戸風(岡山県津山市~奈義町)、やまじ風(愛媛県四国中央市)です。
広戸風は、 岡山県の津山盆地の一部で吹く局地風で、日本海からの北よりの風が鳥取県・千代川流域のV字谷で収束され、那岐山山系を越えて南麓に吹き降ろすことで発生します。

2004年の台風23号では奈義町で最大瞬間風速51.8m/sを記録し、山林の大規模な倒木や家屋に大きな被害が出ました。

また、やまじ(山風)とは、愛媛県東部の四国中央市一帯や新居浜市、西条市でみられる南よりの強風のことで、春や秋に多いものです。低気圧の中心が日本海を通過する際に、四国山地に南から吹き付けた強風が、石鎚山系と剣山系の間の鞍部になっている法皇山脈に収束し、その北側の急斜面を一気に吹き降りることにより発生します。

やまじが吹くときは、必ずフェーン現象を伴うため、著しく気温が上がります。天気予報において、東予地方の気温予想の代表地点には新居浜市のものが用いられますが、やまじの際には、この気温にさらに5~8℃も上乗せされます。

例えば2007年3月24日の最高気温は、新居浜市・西条市・今治市が12℃台だったのに対し、やまじ風が吹いた伊予三島では20.5℃を記録しています。

このほか、やませ(山背)というのも有名です。北日本の(主に東北地方)太平洋側で春から夏(6月〜8月)に吹く冷たく湿った東よりの風のことです。寒流の親潮の上を吹き渡ってくるため冷たく、水稲を中心に農産物の生育と経済活動に大きな影響を与えます。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方の太平洋側に凶作を引き起こしました。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱しました。




以上の地方風があまり良い印象がないのに対し、愛媛県の肱川河口で吹く局地風「肱川あらし」は町の風物詩として全国的に知られるようになりました。

愛媛県大洲市で観察されるもので、初冬の朝、大洲盆地で発生した霧が肱川を下り、白い霧を伴った冷たい強風が河口を吹き抜ける現象です。

冬型の気圧配置が緩んだ日に、大洲盆地と瀬戸内海(伊予灘)の気温差が原因で陸地において地表が放射冷却によって冷え込み、霧が発生します。そしてこれが、山脚が河口付近まで川の両岸に迫っている特異な地形をしている肱川下流から、一気に海側に流れ出します。

大規模な時は霧は沖合い数キロに達し、風速は可動橋として知られる長浜大橋付近において15km以上が観測されるといいます。年配者を中心に「肱川おろし」と言われ、こちらが正式名称のようですが、近年は「肱川あらし」の呼称の方が一般的となり、大洲市広報紙でも「あらし」となっています。

実は私はこの大洲市の生まれです。

といっても、3歳になるかならないかの時に父の仕事の関係で広島に移転したため、ほとんどこの街の記憶はなく、無論肱川あらしの記憶など全くありません。

とはいえ、最近あまりにも頻繁にこの街の話題が出るので、できれば一度里帰りをしたいと考えており、場合によってはこの年末にも実現できるかもしれません。

年末に姪の結婚式が広島であり、実家のある山口ともども訪問したいと考えています。実現すれば実に半世紀ぶりということになります。

その際には、私が生まれたという大洲市街とそこを流れる肱川、そしてそれらを一望できるという大洲城をぜひ訪れたいと考えています。

ちなみに、この肱川という名前は、1331年、伊予の守護職となった宇都宮氏が比志城(大津城)を築いたときのエピソードに由来しているといいます。

このとき、下手の石垣が何回も崩れて石垣が築けなかったので「おひじ」という乙女を人柱にしたところ、それ以後は石垣の崩れることはなかったといいます。そこでこの乙女の霊を慰めるために比地川(ひじかわ)と名付けたとのことで、なんとも物悲しい話ではあります。

もしかしたら、前世ではそんな出来事にも関わっていたかもしれず、あるいはそのころの肱川あらしも見ていたかもしれません。今度の訪問が実現すれば、あるいは幼い頃のことを思い出すかも。

新たな記憶の手がかりが得られれば、またこのブログでも紹介することとしましょう。




カマラルザマーンとブドゥール

その昔、ペルシャと呼ばれるそのエリアに、ハーレダーンという国があった。

国王シャハラマーンには一人息子がおり、その名をカマラルザマーンといった。この王子は、神の子と噂されるほどの美形であり、街中を歩けば、国中の女どもすべてが振り返るほどの輝きを放っていた。

父の国王は国の行く末を思い、早くこの息子に妃を迎えたいと考えていた。しかし、当の本人は15歳になってもまったく女性に興味が無く、父がいくら結婚を勧めても、まだ早いと言ってはいつもこれを拒否していた。

一方、ハーレダーンの地から遥か遠く離れたところに、エル・ブフールとエル・クスールという二つの国があった。両国を束ねる国王、ガイウールには美しい一人娘、ブドゥールという王女がいたが、こちらも男性にはまるで興味が無く、近隣の国の王子の求婚を断り続けていた。

ある日のこと、ハーレダーンの国王・シャハラマーンはいつものようにカマラルザマーンに縁談をもちかけたが、このときも彼は断固としてこれを受け付けなかった。業を煮やした父は、それならと懲罰のため、彼らが住まう城の中でも一番奥にある古い塔の中に息子を閉じ込めた。




その塔は古代ローマ時代からある塔で、その昔は牢獄として使われていたものだった。中は広々としていたが、古めかしい石造りの内部はじめじめしており、気味悪がって普段は誰もがそこへ近づかなかった。塔の階下にはひとつの井戸があり、実はそこには魔王ドムリアットの娘、魔女のマイムーナが棲んでいた。

マイムーナは井戸の底の底にある邸宅で静かに眠っていたが、騒々しい物音を聞いて目を覚ました。すると誰かがひきずって来られ、入口のドアに錠をかけられる音が聞こえてきた。

それはちょうど、カマラルザマーンが家来によって押さえつけられていた両腕をふりほどいたところだった。振り返ると、分厚い樫の木でできた扉が閉められ、重い鍵がそこにかけられた。見上げると遥か上の方に小窓があったが、それ以外にあかり取りはなく、薄暗い塔に押し込められたカマラルザマーンはやれやれと思った。

しかし、少しも不安はなかった。一人息子の自分を王である父が見殺しにするわけはなく、しばらくすればまた外に出してもらえると確信していたからである。

ただ、それにしても牢の中というものは退屈なものである。加えてこの塔の中の空気は陰湿で、気を滅入らせた。カマラルザマーンはいた仕方なく、上の方に見える窓のからこぼれてくる月明かりをぼんやりと見ていたが、そのうちに眠くなり、横になると深い眠りに落ちていった。

井戸の中から様子をうかがっていたマイムーナは、外が静かになったころあいを見て、おそるおそる姿を現した。そして井戸の横の床の上で横になって眠っているカマラルザマーンを見て驚いた。その美しさは数百年生きてきた彼女にとっても初めてのものであり、感動のあまり、おもわず感嘆の声をあげた。

おりしもその時、静かだった外に雷鳴がとどろき、突風が吹きすさんで、塔の窓から木の葉が舞い込んできた。そして、それと同時に吹き込む一陣の風の中から、鬼神シャムフラシュの息子で魔神のダハナシュが現れた。

ダハナシュは美しい生き物が好きだった。世界中を旅し、ありとあらゆる珍獣や昆虫、妖精といわれるものをみてきたが、一方では美しい人間も探し求めていた。そしてかねがね、誰がいったいこの世界で一番美しいかをこの目で見極めたいと考えていた。このときもハーレダーンの国に美男がいると聞きつけ、遥かかなたの国からやってきたのだった。

塔の中に降り立ったダハナシュはそこに眠るカマラルザマーンを見た。そしてその神の子のような容貌を見て美しいと思ったが、ここへ来る前に出会ったエル・クスール国の王女、ブドゥール姫の方がより美しかったと思い、つい、それを口にした。

ところが、そこに居合わせた魔女マイムーナは、そんなことはない、数百年生きてきた私が言うのだから間違いない、美しさについてはカマラルザマーンが世界一だと言い張った。

二人はしばらく言い争ったが結論はつかず、ついには、それなら、くだんのブドゥール姫をここへ連れてきて、見比べてみようということになった。



こうして妖精ダナハシュは再び風に乗り、空を飛んでエル・クスール国まで戻り、眠っていたブドゥール姫を抱きかかえて連れ出し、再びハーレダーンに戻ってきた。

ダナハシュは王女をカマラルザマーンの隣に寝かせ、魔女と魔神は二人して、あらためてそれぞれの顔を見比べた。そしてあることに気が付いた。それはその美しさには優劣がつかないということであった。なぜなら、そこにある王子と王女の顔はまるで双子と思えるほどにそっくりだったからである。

しかしそれでも二人はそれぞれが推する男女のほうが美しいといって譲らなかった。そこで、偉大なる魔王アブー・ハンファシュの子孫の鬼神、ハシュカシュ・ベン・ファフラシュ・ベン・アトラシュに判断してもらおうということにになった。

アトラシュはもう既に数千歳にもなる老人であり、数百歳にすぎない若いマイムーナとダハナシュにとっては良き仲裁相手だった。

さっそく、マイナームが水晶を取出し、祈りを唱えると、たちまちのうちにもくもくと雲のようなものが湧きあがり、その中からアトラシュが姿を現した。二人が老人にこれまでのいきさつを伝えると、彼は長く伸ばしたひげをしごきながらしばらく考え、最後にこういった。

「それぞれの目を覚まさせよ。そのあと、より相手に惚れた方を勝ちとすることにしよう。」

彼の言わんとするところは、ふたりを順番に起こし、それぞれ眠っている相手にどう反応するかを見てこの論議の結論を出そう、というものであった。

そこで、三人はまず、カマラルザマーンを起こしたところ、彼はそばに寝ているブドゥール姫をたちまち好きになった。これほど美しい女をみたのは生まれて初めてであり、その気持ちは説明できなかったが、これがもしかしたら人が言うところの恋というものか、と思った。

しかし彼は、これはきっと父王シャハラマーンの計略と思い、意のままになってはならない、とも考えた。そのまま受け入れてしまえば、わずらわしい国王の座を継がなければならなくなってしまう。とはいえ、断ればこの女とは二度と会えなくなるだろう。

そこで、一計を案じることにした。これなら父に気づかれずにのちに彼女を探し出すことができる、そう考えた彼は、自分の指輪と彼女の指輪を交換することにし、彼女と一線を越えることは我慢した。朝になれば二人でここから出れるだろうと思ったが、しかし朝まで待つことなく、三人の魔神によってふたたび深い眠りに落ちていった。

次に三人がブドゥール姫を起こしたところ、こちらも隣を見て驚いた。そこには彼女がこれまで見たこともないような美しい男が眠っており、その風貌と容姿はとてもこの世のものとは思えないほどのものだった。

姫はしばらく彼を見つめていたが、あまりのせつなさに我慢しきれなくなり、ついには彼に処女を捧げた。そしてカマラルザマーンに寄り添いながら再び眠りに落ちた。

こうして、姫のほうがより王子に積極的な行為に出る、という結果が出た。勝負は魔神ダハナシュの勝ちとなり、彼がこれまで世界中を回って作ってきた美男美女のリストの一番上にブドゥールの名が刻まれることになった。そして言うまでもなく、その二番目にはカマラルザマーンの名が記された。

ダハナシュは満足そうに、眠っているブドゥール姫を抱きかかえると、ふたたび風に乗ってガイウール王の宮殿に彼女を連れ帰った。




翌朝、カマラルザマーンが目を覚ますと、その指に指輪があるのを見つけた。また、ブドゥール姫は、処女血があったことを知り、それぞれが夕べのことは夢ではないと悟った。そして二人は、国中を回ってその夢の相手を探し始めたが、そんな夢の話を信じる者は誰もおらず、かえって狂人扱いされた。

それを見ていたガイウール王は、王女に「狂った女」のレッテルが貼られるのを恐れた。そこで「ブドゥール姫の狂気を治した者には、結婚を許し国王にする。」というお触れを出した。ただ、お触れには書かれなかったが、部下にはこう命じていた。「姫の狂気を見た以上生かしてはおけぬ、治せなかった者は、即座に首を刎ねろ。」

こうして城下には我こそは心得ありと思う若者が数多く集まってきた。皆、ブドゥール姫の美しさを知っており、ぜひともその狂気を直し、国王の座を得たいと考えていた。

エル・ブフール国とエル・クスール国だけでなく、近隣の国からも多くの者が集まってくるようになり、その治療を志願したが、誰も治せず、次々と国王によって首を刎ねられた。

そんなブドゥール姫には一人の乳母がいた。子供のころから実の子のように愛情を注いで姫を育ててきた彼女は、不憫に思い、実の息子マルザワーンに事情を話し、彼女の夢の恋人を探す旅に出るよう頼んだ。

マルザワーンは、それを聞き入れて旅に出、方々でブドゥール姫の恋人のことを聞きまわった。しかし、思うような結果を得られず、瞬く間に一ヶ月が経った。

ところがある日、タラーフという町に着いたとき、遠い国で高貴な男性が指輪を持つ女を探している、という不思議な噂を聞きつけた。タラーフから、ハーレダーンまではさらに陸路で6か月か、海路で1か月のところにあったが、マルザワーンは臆することなく、そこへ出かけようと旅立った。

途中、船が難破するなどの試練もあったが、マルザワーンは、なんとかハーレダーン国に着いた。町中で聞いた噂のことを聞きまわると、指輪を持つ女を探しているのは、どうやらこの国の王子だということが分かった。すぐに城に赴き、カマラルザマーン王子に、自分の国でも狂ったように王女が恋人を探していることを知らせた。

彼からその王女の風貌などを聞き出したカマラルザマーン王子は彼女こそ探している指輪の持ち主だと確信した。そして、マルザワーンの案内で旅立ち、海路で1ヶ月、陸路で6ヶ月をかけて、ガイウール王の国に着いた。

再開した二人は一目であの夜の相手であることを知り、再び深い恋に落ちた。愛し合う二人は王に結婚を申し出、王もまたカマラルザマーン王子の人品卑しからぬ容姿と教養を気に入り、その婚姻を許した。

結婚後、ガイウール王の庇護のもと、カマラルザマーンはしばらくのあいだ、ここでブドゥール姫と楽しく過ごした。しかし、ハーレダーンに残して来た父王のことが次第に気がかりになりはじめ、姫を連れて国へ帰りたい旨を王に申し出た。

王はゆくゆくはカマラルザマーンに王位を譲りたいと考えていたため、この申し出に戸惑ったが、最愛のブドゥール姫がどうしても夫の両親に挨拶したいというので、しぶしぶこれを許した。

こうして二人はハーレダーンを目指す旅に出た。その途中のある夜のこと、テントの中で寝ているブドゥール姫の体をまさぐっていると、紅瑪瑙(赤オニキス)でできた魔法のお守りがあるのを見つけた。テントの中は薄暗く、どんなものだろうと外へ出てながめていると、そこへ突然飛んできた巨大な白い鳥にお守りを取られてしまった。

この鳥は、ロック(rokh)といい、万物の種を生むという木から、熟した果実を振り落としたことで知られる不死鳥だった。

驚いたカマラルザマーンは、お守りを取り返すために一人鳥を何日もかけて追いかけたが捕まえることができず、11日目の日、ついにある港町で鳥を見失ってしまった。その町は異教徒のキリスト教徒に征服された町で、彼と同じイスラム教徒はといえば、年老いた庭師一人しかいなかった。

イスラム教徒だとわかれば敵対するキリスト教徒には殺されてしまう。帰る道も分からなくなっており、カマラルザマーンは港にイスラムの船が入港するまで、庭師の手伝いをしながらひっそりと待ち続けることにした。

一方、ブドゥール姫はカマラルザマーンが突然消えたことに驚き、悲しんだ。と同時に子供のころから自分を守ってくれた紅瑪瑙のお守りがなくなったことを知り悲嘆に暮れた。しかし、王子がいなくなったことで、従者たちの和が乱れ、反乱が起こることをそれ以上に恐れた。

そこで、思い立ったのは、自分の顔がカマラルザマーンと同じことを利用し、男装してカマラルザマーンを演じることであった。側近の女奴隷にベールをさせてブドゥール姫を演じさせ、従者たちにはまるで夫婦がそのままいるように思わせながら、愛する夫の故国、ハーレダーンへの旅を続けた。

その途中、黒檀の島に着いた。島の名前は銘木の黒檀(コクタン)にちなむもので、この時代には金よりも貴重と言われた。そしてこの島はこの木を豊富に産するため、ペルシャ中に豊かな国として知られていた。

黒檀の島の国王はアルマノスと言い、男装の姿のまま彼に会ったブドゥール姫は、いたく彼に気に入られた。そして、国王の美しい一人娘、ハイヤート・アルヌフース姫との結婚を持ちかけられた。ブドゥールは戸惑ったが、自分は男であるとも言い出せず、そのままアルマノス王の申し出を承諾した。

しかし、アルヌフース姫にだけは、実は自分が女であることを打ち明け、秘密を守ることを約束させた。そして初夜を迎えたが、翌朝、鳥の血を処女の血と偽り、アルマノス王には無事、契りの儀式が終わったことを報告した。王は喜び、王位をブドゥール姫に譲った。



一方のカマルザマーンは、いつまでも来ないイスラムの船を港街で待ち続けた。そんなある日、遥か向こうの砂漠の中で大きな鳥同士が争うのをみかけた。砂埃が収まるのを待って近づくと、そこには、一羽のハヤブサの死体があった。そしてそのそばには、ブドゥール姫が身に着けていたあの紅瑪瑙のお守りが落ちていた。

カマルザマーンはお守りを掴むと喜んで港町に取って返したが、いかんせん、イスラム船の入港がない限り、ここからは脱出できないことを改めて思い知らされた。しかたなく、再びイスラム教徒の老庭師との仕事に戻ったが、あるキリスト教徒の富豪宅の庭仕事をしていたとき、地中に埋もれた古い階段を見つけた。

その階段を降りると、砂に埋もれた20個の甕があり、掘り出して蓋をあけあると、中にはぎっしりと金貨が詰まっていた。カマルザマーンは裕福な生まれであり、必要以上の金は不要であったが、この先旅を続けるための費用もかかる。このため、半分を庭師にやり、残りを自分の取り分とすることにした。

その日、おりしも、港にはイスラム船が入港した。船主に聞くと行先は、ハーレダーンの途中にある黒檀の島だという。これぞ神の思し召しと喜び勇んだ彼は、その日得たばかりの金を船主に差出し、自分を故国まで送り届けてくれるよう頼んだ。

船主は山のような金貨を目にしてほくそえみ、ほかに荷物はないか、とカマラルザマーンに尋ねた。そこで彼は、その日掘り出した甕の上の方に、ありったけのオリーブを詰め、船に載せるよう船首に頼んだ。そして、そのうちの一つの甕の底に紅瑪瑙を隠し、表にはカマラルザマーンと自分の名前を彫った。

船主は彼がなぜオリーブにこだわるのかを訝ったが、その理由は告げなかった。しかし、これは彼が用意した万一の時の備えであり、のちに大きな意味を持つことなる。

こうしていよいよ船が出港する時間となったが、そのとき、ここで世話になったイスラム教の老庭師が急死した、という知らせを受けた。葬儀に出席すれば船に間に合わなくなってしまう。しかし、義理堅い彼には世話になった老人の弔いへの出席を取りやめることとはできなかった。

カマラルザマーンを乗せないまま船は港を発し、数週間のちに黒檀の島に入港した。船にはさまざまな異国の物資が積まれており、港に着くと、船主はそれを売りさばくため、さっそくそこに市を立てた。

黒檀島の国王となっていたブドゥール姫は、行方不明の夫の故国に行くこともできず、かといって義父のアルマノスにも彼を欺いていることを言い出せず、やるせない日々を送っていた。そんなとき、珍しく港にイスラム船が入ると聞き、もしかしたら夫の消息が得られるやもしれずと思い、その市にも出かけた。

男装のまま、市を見回りながら、それとなく夫の情報を聞きまわったが、良い話は得られず、帰ろうとしたとき、彼女の大好物のオリーブが入った甕が目に入った。そしてその全てを買占め、城に持ち帰り、料理番に、良いものと悪いものを仕分けするよう命じた。

料理人が甕の中のオリーブを順番にざるに空けていると、ひとつの甕の底から紅瑪瑙のお守りが出てきた。貴重なものと思われたが、正直者の料理人は、それを大臣に告げ、大臣がお守りを持ってそのことをブドゥール姫に伝えにやってきた。

驚いたブドゥール姫は、急いでお守りが入っていたという甕を持ってこさせた。すると、そこには愛する夫の名前が刻まれており、さらに驚いた。船長を問いただすと、甕を船に積むように命じたのは確かに若い男だったという。

これからハーレダーンに向かうので、と渋る船長に対し、ブドゥール姫は金を渡し、その男をここに連れて来るよう命じた。こうして、船長はカマラルザマーンがいた港に戻り、異教徒の町から無事、彼を救い出して帰ってきた。

船が港に着いたという報を聞いたブドゥール姫は、転がり落ちるように城から港までの坂道を走って下りて行った。港についたばかりの船からは、髭ぼうぼうとなった男が降りてきた。その姿を見て別人かと思ったが、その目を確かめると、すぐに愛する夫だと悟った。

二人が離れ離れになってから数年が過ぎていた。カマラルザマーンもまた、男装のブドゥール姫に気付かず、最初戸惑ったが、ついにはそれと気付き、二人は熱い抱擁を交わした。

こうして、カマラルザマーンは、故国ハーレダーンに無事に帰還し、父王シャハラマーンに長い長い旅の報告をした。そして、ブドゥール姫を第1の正妻とし、ハイヤート・アルヌフース姫を第2の正妻とすることを許され、国王の地位を父から継いで、その後も幸せに暮らした。

かつて妻のブドゥール姫が王位を継承した黒檀の島の国と彼女の故国エル・ブフール、エル・クスールもまたカマラルザマーンの統治するところとなり、その後も末永い繁栄を誇ったことは言うまでもない。