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宇宙戦争

最近、ニュースといえば、北朝鮮のミサイルや核開発の話題ばかりです。

少々うんざり気味ではあるのですが、わが国、いや全世界を滅ぼしかねない最終兵器を持つ暴走国家の動向から目が離せないのはあたりまえであり、いたしかたないこととは思っています。

それにしても、かつては夢物語と思っていた核戦争や宇宙戦争といったものが現実的になりつつある時代なのかな… と夏バテで少々ふやけ気味の頭でぼんやりと考えていたりもしています。

ところで、宇宙戦争といえば、やはり巨匠ジョージ・ルーカスの大作、スターウォーズがまっ先に思い浮かびます。しかし、イギリスの作家H・G・ウェルズが1898年に発表した小説にも同名のものがあり、SFの古典として今も高く評価されています。

原題は、”The War of the Worlds” となっており、“wolds”は直訳すれば「世界同士」となります。「地球人の世界」と「火星人の世界」の2つの「世界」が争いを描いた話であり、その後こうした架空の宇宙人とのあいだで戦闘が勃発する、といったモチーフを用いた小説や映画が繰り返し創作されてきました。

映画として中でも有名なのは、戦後の1953年9月に公開された「宇宙戦争」で、製作はSF映画の製作者として名高いジョージ・パル。H・G・ウェルズ作の翻案で、舞台は20世紀半ばのカリフォルニア。映画の中で登場する火星人の戦闘機はエイのような形をしており、1本の触角を生やしていました。

また、1996年に7月に公開された「インデペンデンス・デイ(ローランド・エメリッヒ監督、ウィル・スミス主演)」。こちらはかなり原作とは異なったものとなりましたが、多数のCGを駆使し、ジョージ・パル版同様、非常に凝った爆発シーンやアクションが多数あったことが受け、大ヒットました。

一番最近では、2005年、巨匠スティーヴン・スピルバーグ監督により再び映画化された「宇宙戦争」があります。巨大なマシンを操り地球を攻撃する宇宙人に対して、必死の抵抗を試みる人々を描いた映画で、トム・クルーズとダコタ・ファニングという人気の俳優の主演ということもあり、そこそこヒットしたようです。

未知との遭遇」「E.T.」と過去に人類に友好的な異星人との交流を扱った作品を手掛けてきたスピルバーグが、一転して宇宙侵略物の古典の映画化に挑んだ本作は、2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件で受けたアメリカに住む人々の衝撃・思いを反映して製作された、といいます。

映画には墜落したジャンボ旅客機、掲示板に貼られた無数の人探しの張り紙、といった舞台装置が登場していますが、映画のメイキングでスピルバーグも公言している通り、これらは9.11のテロを連想させるため、あえて描いたものだそうです。

本作もH・G・ウェルズの小説を原作としていますが、それだけではなく、1938年にオーソン・ウェルズの演出で発表され、一世を風靡したラジオドラマ版の要素をも引用して製作されたといいます。




そのH.G.ウェルズのオリジナルの「宇宙戦争」のあらすじを少し書いておきましょう。

9世紀6月の金曜日の未明、イギリスは、ウィンチェスター上空で緑色の流れ星が観測され、天文学者のオーグルビーは、この流れ星がロンドン南西ウォーキング付近に落ちているのを発見。それは直径およそ30mほどもある巨大な円筒形をした宇宙船でした。

見物人が群がる中、円筒の蓋が開いて醜悪な火星人が現れ、彼らが円筒に近づいた途端、目に見えない熱線が人々を焼き払います。熱線は恐るべき威力で、人間や動物を含め、周囲の木々や茂み、木造家屋などが一瞬で炎に包まれました。

その夜、英国軍が出動しますが、十分に攻撃体制が整わないうちに、火星人の第二、第三の円筒が落下(着陸)します。翌日・土曜の午後にようやく軍隊の攻撃が始まりますが、今度は円筒の中から屋根よりも高い3本脚の戦闘機械(トライポッド)が登場し、あたりの街の破壊の限りを尽くし始めます。

これに対して出動した英国軍は全滅。さらに翌日の午後には、テムズ河畔に火星人の戦闘機械5体が現れますが、英国軍の砲撃で戦闘機械の1体を撃破。一旦は撃退に成功します。しかし、火星人はその夜から、さらに新兵器を投入。液体のような黒い毒ガスと熱線を使う攻撃に戦法を変更し、軍を撃破してロンドンへと向かいます。

月曜日の未明になるとさらに火星人の進撃は続き、ロンドン市民はパニック状態で逃げ惑います。軍隊は総崩れ。英国政府は「もはや火星人の侵攻を阻止し、ロンドンを防衛するのは不可能である。黒い毒ガスからは逃げるより他にない」と避難勧告を出しました。

その日英仏海峡に現れた火星人の戦闘機械3体に対し、沖にいた駆逐艦サンダーチャイルドは、戦闘機械目がけて突進し、砲撃で撃破。2体目に迫る途中、熱線を受けて大爆発するも、体当たりで2体目も撃破するなど善戦をしました。3体目の戦闘機械は逃げ去りますが、その後もイギリス本土への火星人の円筒の落下は続きます。

ところが15日目の朝、突然火星人の進撃が止まります。火星人に襲撃され、あと一歩で捕まりそうになり、廃屋に閉じこもっていた主人公、オーグルビーが思い切って外に出ると、火星人らは姿を消していました。

静寂に包まれたロンドンに入った彼は、そこで戦闘機械を見つけます。死を決意し近づいていきますが、そこで見たものは火星人の死体でした。のちに判明したのは、彼らを倒したのは人間の武器や策略ではなく、太古に造物主が創造した微生物ということでした。

微生物に対する免疫がない火星人は地球に襲来し、呼吸し、飲食し始めた時から死にゆく運命だったのです。やがて人々は破壊された街へ舞い戻り、今度こそは宇宙人に負けない国づくり、いや星づくりをと、復興が始まりました…

原作は、1890年代後半にイギリスの雑誌や新聞に連載されていましたが、1898年に最終版が出版され、それ以来、現在に至るまで重版が続いています。この初版本の公表に先立ち、アメリカでは2回の無許可の連載が新聞に出されました。

最初は1897年12月から1898年1月までニューヨーク・イブニング・ジャーナルに掲載されたもので、物語の舞台はニューヨークに変えられていました。また第二の連載では、火星人が現れたのがボストン近郊になっていました。

その後、アメリカでも正式に出版されて人気を博しましたが、1938年10月30日には、ハロウィン特別番組として、アメリカCBSのラジオ番組「マーキュリー放送劇場(The Mercury Theatre on the Air)」の中で放送されました。

番組は、音楽中継の途中に突如として臨時ニュースとして火星人の侵略が報じられるという体裁になっており、物語の舞台は、先の新聞連載と同じく、アメリカ合衆国に実在する各地の地名に改変されていました。

ところが、この生放送を多くの人が本物だと信じました。侵略がフィクションである旨を告げる「お断り」が何度もあったと言われますが、そのうちの1度は放送開始直後、残り2度は終了間際でした。このため、聴取者の多くが話に夢中で、この「お断り」を聞きのがしたと考えられています。結果として多くの聴取者を混乱と恐怖に落としめ、実際の火星人侵略が進行中であると信じさせました。

無論、原作本を読んでいた人も多くいて、すぐにおかしいなと感じた人も多かったようです。番組の内容がウェルズの「宇宙戦争」であることに気がついた人や、番組内容の非現実的なディテールに気がついた人などは、他のラジオ局で同様の放送をやっているか確認したり、新聞の番組表を見直すなどして事実を掴みました。

しかし、同じように番組を聴いていてパニックに襲われ、混乱していた人に確認の電話をかけてしまい、逆に感化されてしまった人も多かったようです。こうして、正確な知識や情報を得られず、明確な根拠も無い人が増え、そのままに広まる、いわゆる「デマゴーグ」が全米中に連鎖的に広まりました。

「マーキュリー劇場」は、もともと聴取率が非常に低い不人気番組であり、「宇宙戦争」の前週の聴取率はわずか3.6%でした。しかし、たまたまこのとき、裏番組では当時アメリカ国民の3人に1人以上が聴取していたという“The Chase and Sanborn Hour(チェースとサンボーンの時間)”というコメディ番組をやっていました。

ちょうど宇宙戦争のほうがが始まったとき、この国民的人気を誇る裏番組に、なぜか超不人気の歌手が登場したといい、多くの人が局を変えた瞬間、たまたま火星人によるニュージャージー州襲撃のくだりが放送されました。その迫真のナレーションが、パニックに拍車を掛けたもうひとつの原因といわれています。

さらに1938年といえば、ちょうどこのころヨーロッパでは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方帰属問題をめぐってナチス・ドイツと欧米列強が緊張関係にありました。アメリカ国民の間でもヨーロッパで戦争が勃発して自国も巻き込まれるかもしれないという懸念が膨らみつつあった時期であり、このため、火星人による襲撃をドイツ軍による攻撃と勘違いした住民も多かったようです。

ナチス・ドイツの台頭により、開戦への緊張感が高まっている時代であったことも関係したわけですが、さらに混乱に拍車をかけたのは、この作品をプロデュースしたのが、天才脚本家といわれたオーソン・ウェルズであったことです。

子供のころから、詩、漫画、演劇に才能を発揮する天才児といわれたウェルズですが、このころは人気俳優として人気絶頂でした。劇団「マーキュリー劇場」を主宰し、シェークスピアを斬新に解釈するなどさまざまな実験的な公演を行って高く評価され、1936年、ラジオにも進出し、CBSのラジオドラマのディレクターも始めていました。

オリジナルの「宇宙戦争」の舞台はイギリスでしたが、これを放送する際には、舞台を現代アメリカに変え、またその出だしもヒンデンブルク号炎上を彷彿とさせるような臨時ニュースで始めました。そしてウェルズ自らが演じる「目撃者」による回想を元にしたドキュメンタリー形式のドラマとして番組をスタートさせしました。

この前例のない構成や演出と迫真の演技は、生放送のニュースと間違うほどの出来であり、結果として聴取者から本物のニュースと間違われ、パニックを引き起こすに至ります。おそらく歴史上最も成功したラジオドラマ作品だったといえるでしょう。



この事件でウェルズは全米に名を知られるようになり、それまでスポンサーの付かなかったこの番組は、その後キャンベル・スープ社の提供による“The Campbell Playhouse”に改題して1940年3月まで継続しました。その後も1950年代半ばまで、ウェルズはラジオ番組に関わり続け、多くの印象的な番組を残しています。

しかし、オーソン・ウェルズの演出が素晴らしかったにせよ、H.G.ウェルズの原作はそれ以上に説得力のあるものでした。臨場感あふれる描写にあふれていたことが人を惑わせた理由と考えられます。原作本の作者もウェルズなら、ラジオ演出もウェルズであり、この名前の人には天才的なストーリーテラーがが多いのかもしれません。

それにしても原作が発表された1898年といえば、日本はまだ明治31年であり、3年前の1895年(明治28年)には、日清戦争が終了したばかりのころです。この戦争の勝利によって軽工業を中心とする産業革命が本格化、1901年(明治34年)には、日本初の西洋式製鉄所である官営八幡製鉄所が開業したばかりです。こうしたことなどで、ようやく日本においても重工業とよばれるべき産業の端緒が形成されはじめた、といった時代です。

もっともイギリスはこの時期、パクス・ブリタニカ(Pax Britanica:イギリスの平和)と呼ばれた時代を迎えており、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていました。ヴィクトリア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、世界中から資本が集まっていました。

産業革命による卓抜した経済力と軍事力を背景に、自由貿易や植民地化を情勢に応じて使い分け覇権国家として栄えた時代であり、H.G.ウェルズのような想像力のある人間が書いたSFを人々が単なる夢物語と受け取らず、将来的な自分の国の姿としても十分にありうる、と考えうる下地が整っていた、ということでしょう。

ただ、H.G.ウェルズという人(正確にはハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells))は科学者でも研究者でもなく、単なる文筆業家、つまり作家にすぎませんでした。作家になる以前は、呉服商や薬局の徒弟奉公、見習い教師などを経験していますが、いずれも長く続かなかったといいます。

子供の頃から教員を目指していたようですが、このころのイギリスの教育界は、極めて保守的だったといわれており、丁稚奉公をしていたような青年を受け入れるような寛容さは持ち合わせていませんでした。また、父は商人でしたが、家庭は下層中流階級に属しており、けっして裕福ではありませんでした。

このため、奨学金でサウス・ケンジントンの科学師範学校(現インペリアル・カレッジ)に入学。このころ「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護したことで知られる生物学者、トマス・ヘンリー・ハクスリーの下で生物学を学び、進化論には生涯を通じて影響を受けることになります。

これをきっかけに学生誌「サイエンス・スクールズ・ジャーナル」に寄稿し、22歳のときに掲載された「時の探検家たち」は、のちの「タイム・マシン」の原型となりました。また、25歳のときには、四次元の世界について述べた論文「単一性の再発見」がイギリスの評論雑誌「フォート・ナイトリ・レヴュー」に掲載されたりしました。

師範学校を卒業後、ヘンリー・ハウス・スクール(高校?)で教職に就きます。このころ、ウェルズは彼のいとこイザベル・メアリー・ウェルズと結婚しますが、3年後には離婚し、肺をわずらったこともあり、教師の道はあきらめ、文筆活動へ進むことを決意します。

その後、エイミー・キャサリンと再婚。このころから「アーティスト」としての活動にも取り組んでおり、かなりの枚数の絵を描いています。日記で自己表現をすることも多く、このころは政治的解説から現代文学への彼の気持ち、現在のロマンチックな興味に至るまで幅広い話題を取り上げています。

多数の絵やスケッチを残しており、彼はこれらの写真を “picshuas”(ピシャウス)と呼んでいますが、今風の漫画とスケッチを足して二で割ったような絵です。これらのpicshuasは、長年にわたってウェルズの学者による研究の話題となっているとともに、骨董の世界ではかなりの高額で取引されているようです。

その後ウェルズはジャーナリストとなり、「ペルル・メル・ガゼット」といった保守層を対象とした新聞にのちのSFの元になるような幻想小説を書いたり、総合科学技術誌「ネイチャー」に寄稿したりするようになります。

1890年代から1900年代初頭にかけて、「タイム・マシン」(1895年)をはじめ、「モロー博士の島」、「透明人間」、そして「宇宙戦争」など現在に至るまでも名作といわれるような有名作品の数々を発表しました。これら初期の作品には、科学知識に裏打ちされた空想小説が多く、ウェルズ自身は「科学ロマンス」と呼んでいました。

晩年は、人権家としての社会活動に携わり、歴史家としても多くの業績を遺しました。が、生涯を通して糖尿病、腎臓病、神経炎などさまざまな疾患と戦いながら仕事を続けたといいます。

満79歳のとき肝臓ガンが悪化して逝去。ロンドンの友人のフラットで亡くなったといい、直接的な死因は臓発作だったようです。

その生涯における創作活動の結果は膨大で、とくに後世でもよく扱われるSF的題材を数多く生み出し、また発展させた事で評価を得ており、小説家としてはジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」と呼ばれます。

社会活動家としては、50~60代に「新百科全書運動」を展開しています。世界平和の基盤となる新世界秩序のための知識と思想を集大成させる、としたもので、これに関する著書「世界の頭脳」を執筆。この中では、書籍の形態をとらない世界規模の百科事典を構想しており、これは現在のウィキペディアの構造を予言していたとも言われます。

また、自らが糖尿病を患っていたこともあり、1934年、糖尿病患者協会の設立を「タイムズ」紙上で国民に呼びかけました。これにより、国家規模での糖尿病患者協会が初めて設立されました。

ウェルズが書いた小説のひとつ、「解放された世界」は、SFでもありましたが、原子核反応による強力な爆弾を用いた世界戦争と、戦後の世界政府誕生を描いた社会小説の面もありました。核反応による爆弾は、原子爆弾を予見したとされ、ハンガリー出身の科学者レオ・シラードは、この小説に触発されて核連鎖反応の可能性を予期し、実際にマンハッタン計画につながるアメリカの原子爆弾開発に影響を与えたといいます。

また、ウェルズは、第一次世界大戦中に論文「戦争を終わらせる戦争」を執筆。大戦後に戦争と主権国家の根絶を考え、国際連盟を樹立すべく尽力しました。しかし、結果的に発足した国際連盟はウェルズの構想とは異なり国家主権を残す様相を示すようになったため、彼はその後「瓶の中の小人」という論文で国際連盟を批判しています。のちに発足した「国際連合」も同様に批判していました。

第一次大戦と二次大戦の二つの大戦を経験した彼は、戦争に翻弄される多くの人々をみて、「人権」にも言及しました。1939年には「人権宣言」についての書簡を「タイムズ」とルーズベルトに送るととともに、これを世界中の指導者に送っています。

知る権利、思想と信仰の自由、働く権利、暴力からの自由などを示したもので、これをもとに、1940年には、イギリスの貴族院議員所属の裁判官、ジョン・サンキーが議長を務める「サンキー委員会」にちなんで「サンキー権利章典」が創られました。11の基本的人権を含んでおり、これは以下の通りです。

人生への権利
未成年者の保護
コミュニティに対する義務
知識の権利
思考と崇拝の自由
仕事の権利
個人所有権
動きの自由
個人的自由
暴力からの自由
法の制定の権利

この権利宣言は、1941年1月6日に公表されたアメリカ大統領、ルーズベルトの一般教書の中の「四つの自由」を包含しています。さらにのちの1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択された「世界人権宣言」などに影響を与えたとされ、さらには戦後の新日本国憲法の原案作成に大きな影響を与えたとされます。

特に日本国憲法9条の平和主義と戦力の不保持は、ウェルズの人権思想が色濃く反映されている、といいます。原案では、全ての国に「戦争放棄」を適用して初めて自由が得られる、といったことが記されていようです。しかし、結果として日本のみにしか実現しなかったことで世界平和の達成は遠い先の話になった、といったことが言われているようです。

また、ウェルズの原案から日本国憲法の制定までに様々な改変が行われた結果が、現状の憲法9条だといいます。そして、このあたりのことが、現在活発に議論されるようになった改正議論の原因のひとつにもなっているともいわれているようです。

ウェルズが、晩年にこうした人権運動に走るようになったのは、自らが創作したSFの世界での世界平和の延長線上の行為であったことは想像に難くありません。

また、「戦争を終わらせる戦争」とは人類世界のためだけのものではなく、今後実際にありうるかもしれない宇宙人の世界との戦いの中で必要になってくるものなのかもしれません。

2017年も暮れに近づいてきました。残る時間の中、宇宙人との接触はあるでしょうか。




赤とんぼの色は?

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9月になりました。

まだまだ秋本番にはほど遠いようですが、朝晩かなり冷え込むようになり、日が短くなってきました。私の大嫌いな夏も遠からず終わりを告げるのは確かであり、いずれ、そこここを赤とんぼが飛び回るようになるのでしょう。

トンボは漢字で「蜻蛉」と書くようですが、この赤とんぼは、「赤卒」とも書くようです。

中国語でもこれで通じるようですが、なぜ「卒」の字をあてるのか調べてみたところ、この文字には「にわかに」、「急に死ぬ」、「終える」、という意味があるようです。なので、秋の終焉を迎える虫ということで使うのかもしれません。赤とんぼが終わるころには、秋が終わり、冬がやってきます。

赤卒は「せきそつ」と読む一方で、「あかえんば」とも読むようです。こちらも由来を調べてみたのですがよくわかりません。飛騨地方の方言で「えんば」とは、もうじき、もうすぐ、という意味のようなので、こちらもやがてやってくる冬を意味するのかもしれません。

昆虫の分類上、赤とんぼといえば、普通「アキアカネ」を指すようです。こちらは「秋茜」と書き、秋にふさわしく、哀愁を感じさせるネーミングです。トンボ科アカネ属に分類される日本特産種で、日本では小笠原諸島、沖縄県を除き各地で普通に見られる種です。

平地から山地にかけて、水田、池、沼、湿地などにヤゴとして生育します。孵化した未熟な成虫は夏に涼しい山地へ移動し、成熟し秋になると平地に戻る、という習性があります。他の多くのトンボも未成熟成虫が水辺を離れて生活しますが、アキアカネの場合この移動が極端に長距離なのが特徴です。

5月末から6月下旬にかけての日中の気温が20-25℃程度のとき夜間に羽化します。まれに標高2000m代の高所からの羽化記録もあります。成虫となったアキアカネは朝になると飛び立って水辺を離れ、1週間ほどを摂餌に費やします。

様々な小昆虫を空中で捕食し、長距離飛翔に必要なエネルギーの蓄積を行います。十分に体力がついた段階で3000mぐらいまでの高標高の高原や山岳地帯へ移動して、7~8月の盛夏を過ごします。そして、夏が終わるころ、通常は秋雨前線の通過を契機に大群を成して山を降り、ふたたび平地や丘陵地、低山地へと戻ってきます。

なぜ移動するか、ですが最も大きな理由は暑さが苦手なためです。アキアカネが活動中の体温は外気温より10~15℃も上昇するそうです。にもかかわらず排熱能力が低いため、気温が高い場合は簡単にバテてしまいます。30℃を超えると生存が難しくなるといい、このあたり、25℃を超えると生息が危うくなる私とよく似ています。前世は赤とんぼだったか?

逆に低温時におけるアキアカネの生理的な熱保持能力は高く、秋の終わりごろになり、大半の虫が死に絶えるころになっても平気です。ただ、ちょっと残暑が厳しくなると涼しい環境をみつけて移動します。酷暑の年には移動先はより高い標高の地域となり、冷夏の年にはそれほど高いところまでは移動しないこともわかっています。

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普通にじっとしているときも何気に暑さ対策をしています。夏の昼間の日差しが強い時間帯に、止まっているアキアカネが逆立ちをしているのをよくみかけますが、これは、日光が当たる面積を減らし体温の上昇を抑えるためと考えられています。

赤い色をしているためか、危害を加えると罰が当たるとする言い伝えもあるようです。東北地方では、捕まえると雷に打たれるとして「かみなりとんぼ」と呼びます。また、東海地方では目が赤くなったり腹が痛くなったり、瘧(おこり・マラリア)などの発熱発作を起こすとする伝承があります。

アキアカネに限らず多くのトンボは害虫を食べてくれるので、むやみに殺生することを戒めため、こうした伝承がうまれたのでしょう。あるいは、秋に真っ赤になるほどの大群で出現するため、その姿に何らかの霊性を認めたためかもしれません。同じく秋の赤い色の風物詩といえばヒガンバナがあり、こちらは“あの世”である「彼岸」にちなんでいます。




赤い色をしたトンボにはこのほか、「ナツアカネ」と呼ばれる種があり、アキアカネは夏に一旦低地から姿を消し、秋に出現するのに対して、こちらは一夏中低地から姿を消しません。「ナツ」の和名が与えられたのはこのためのようです。ただ、アキアカネに比べ、相対的に数は少なく、夏の間でもほとんどみかけない地方も多いようです。

いずれも同じアカネ属に分類される近縁種ですが、高地と平地でそれぞれ棲み分けがなされているのは、おそらくその生活史の中での食餌環境をシェアするためでしょう。ナツアカネのほうが少ないのは、同じ平地においては競争相手として他のトンボもいるためと考えられます。

なぜ赤い色をしているのか、ですが、これは彼らの生殖行動に関係があるようです。通常アキアカネもナツアカネもオスはメスに比べて赤色が濃いようで、これは交尾のためによりメスにアピールするため、といわれています。メスが性的に成熟したオスを識別しやすくするためでもあります。

また、赤く見えるということはその色をはね返しているということでもあり、青や紫、さらに紫外線などの波長の短い光を吸収しやすいということです。紫外線などの波長の短い光は、高いエネルギーを持っています。それを吸収しやすいということは、晩秋のよう寒い時期になっても体温を暖かく保てる、ということになります。

暑さに弱いという特徴があるのに矛盾しますが、寒い季節になっても保温能力が高いということは、摂餌においてはそれだけ他の昆虫に比べて有利になります。また、とくにオスが日なたにとどまって縄張りを守る際には役立つ、といったこともあるようです。

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この「赤」という色名ですが、あらゆる文化には、それぞれ化特有の特徴を持った色があり、呼び方はさまざまです。文化の背骨となっている言語の中で生まれてきたものであり、日本語では「赤」ですが、中国語で赤という場合は「紅」になります。こうしたある文化で生まれた固有の色名を「基本色名」と呼びます。

日本のJIS規格での基本色は、無彩色としては白・灰色・黒の3種類であり、有彩色では赤を含めて10種類が採用されています。アメリカでは13種あります。

ところが、色というのは、そんな単純なものではなく、特別な名前が付けられた色や、また名前の付けられていないような色が、それぞれの国でゴマンとあります。ただ、それらは全て基本色名で言い換える事ができます。

例えば、日本では黒みがかったシブい赤色で「蘇芳色(すおういろ)」というのがありますが、これも基本色名である「赤」と言い代ることができますし、空の色や海の色などをまとめて「青」と呼んでいます。

同様に、基本色である赤にはほかにも、朱(シュ)、丹(タン)、緋(ヒ)、紅(コウ)などがあり、それぞれが日本の長い歴史のなかで文化的な意味を保ってきました。

基本色名である「赤」の語源は「明(アカ)るい」に通じるとされます。「赤恥」、「赤裸(赤裸裸)」などの用例のように、「明らかな」、「全くの」という意味を持つとともに、暗黒の世界の象徴である悪霊や病気に対する効果がある色とされてきました。

古来日本では、疱瘡(天然痘)をもたらす疫病神(疱瘡神)が赤色を嫌うと信じられており、患者の周囲を赤で満たす風習がありました。また沖縄では病人に赤を着せ、痘瘡神を喜ばせるために歌、三味線で、痘瘡神をほめたたえ、夜伽をしたといわれます。

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そのほかにも、赤系の色はさまざまな文化的意味を持って使われてきました。中でも特筆すべきなのは、朱色です。

朱は、硫化水銀(HgS)からなる鉱物から採れる「辰砂」から作られます。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16世紀中期以後、天然・人工の朱が中国から輸入されるようになり、中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになりました。中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、顔料や漢方薬の原料として珍重されていました。

日本では弥生時代から産出が知られ、古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていました。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていました。

色料としての朱の範囲は比較的幅があり、例えば「黄口」や「青口」といったものがあります。赭土(三酸化二鉄)、鉛丹(四酸化三鉛)、鶏冠石(硫化砒素)を加えるか、それ以外の顔料や染料、或いは他の朱色の発光物の混合に基づいて、いろいろなバリエーションがあり、これらの混合の度合いで朱の色合いが定まります。

この朱を作る材料のひとつ、赭土(しゃど)は、別の赤色である「丹(タン)」を生み出します。発色成分の三酸化二鉄は、いわゆる赤土に多数含まれているものです。要は鉄が錆びたものであり、古来から日本国中どこでも容易に入手できる顔料のひとつです。鶴の一種タンチョウの和名は、頭頂部(頂)が赤い(丹)ことに由来し、“丹鳥”の意です。

朱や丹が鉱物から生み出される赤色であるのに対し、緋(ヒ)は、植物性由来の色で、「アカネ」の根を原料とします。「茜染」といわれる染物に古来から使われてきており、濃く暗い赤色を「茜色」というのに対して、最も明るい茜色を「緋色」といいます。

日本では大和朝廷時代より緋色が官人の服装の色として用いられ、紫に次ぐ高貴な色と位置づけられました。また江戸時代には庶民の衣装にも広く用いられていました。ちなみに、緋色は英語圏の色、scarlet(スカーレット)とほぼ同じ色と言われています。

紅(コウ)は、くれない、べに、とも呼ばれ、こちらも植物性です。キク科の紅花の汁で染めた赤色で、鮮やかですが、やや紫を帯びており、中国に由来するとされることからで「唐紅(からくれない)」とも言います。ほかに古来から染料として利用してきた色に「藍」があり、“くれない”は「呉の藍」(くれのあい)から来ている、という説もあります。

現在の中国や旧ソビエト連邦をはじめ、共産主義のシンボルとしても使われています。紅花の原産地はエジプトとアナトリア半島といわれており、このためか、どちらかというと他の赤い色よりもエキゾチックなイメージがあります。

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このように、日本における赤色は、他の基本色と比較すると、かなりバラエティーに富んでいます。以上は代表的なものにすぎず、いわゆる赤系の「和色」と呼ばれるものは、分類法にもよりますが、だいたい90種類ほどもあるようです。日本の国旗の色でもあることを考えると、日本人というのは赤という色に相当のこだわりがある国民のようです。

ちなみに、日章の色に定められているのは、輸入色ともいえる「紅色」で、マンセル色体系(色を定量的に表す国際的体系)で 3R 4/14 です。ただ、より明色に見える朱色系の「金赤(同 9R 5.5/14)」が使われることも実際には多いようです。いずれにせよ、より日本的な色である朱や丹が使われていない、というのは不思議なことではあります。

この赤色に限らず、一般に色は、生活や文化、産業や商業、デザインや視覚芸術の重要な要素であるため、多種多様なものが生み出されてきました。「様式」「作風」「文化」の特徴の一つとして、特定の色の使用、特定の色の組み合わせ、色と結び付いた意味などが含まれている場合も多く、色に関していえば、広辞苑や国語辞典のような一般的な辞書というものは存在しません。

また、色は様々な感情を表現したり、事物を連想させることがあり、時代や文化による影響も大きいといえます。たとえば今日では喪服は黒が一般的ですが、江戸時代までは白が一般的でした。

ただ、「赤」 ついていえば、太古の昔からおおむねその意味は変わっていないと思われます。日の丸の赤は太陽を表しており、すなわち日本そのものですし、このほか血や生命、火に関するものも赤、女性も赤です。現代的なものとしては、左翼、革命、力、愛、情熱、危険、熱暑、勇気、攻撃、敵、といったものも赤で示されることが多く、電気や信号も赤で表現されることがあります。

交通信号などでは、赤色が停止や危険を示す表示として使われるほか、日本の消防車の車体色は運輸省令「道路運送車両の保安基準(昭和26年号)」で朱色と規定されています。フランス、イギリス、スイス、オーストリア、アメリカの一部の州等でも消防車の色に赤を用いています(ドイツでは赤または紫)。

このような場合に赤が使われる理由としては、人間には感知し易い色と知覚し難い色があるためです。色が人の注意を引きやすく目立つ度合いを、色の「誘目性」と呼び、無彩色よりも有彩色、寒色系よりも暖色系のほうが誘目性が高く、赤は暖色系です。

また、赤や黄などの暖色系の色および白色は実寸より物が大きく近くに見える膨張色で、他の色より知覚し易くなります。日本の児童の帽子やランドセルカバーが黄色なのは、知覚し易く、大きく見える色を採用する事で自動車事故を減らす狙いがあるからです。

ちなみに、青や黒等の寒色系の色は実寸より物が小さく遠くに見える収縮色です。誘目性も低く小さく見えるため、実際に黒色の自動車は他の色に比べて事故が多く、バスやタクシーが黒色を避けているものが多いのはこのためです。また、囲碁の碁石も黒石と白石が同じ大きさだと黒石の方が小さく見えてしまうので、黒石を一回り大きく作っています。

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また、赤を多用するのは人間の生理にも基づいているためともいわれます。乳幼児は赤色を強く認識するので、乳幼児の玩具は赤色を基調に作られています。また、子供部屋を黄色や赤の暖色を基調に作ると、知能指数が高い子供が育つという説があります。

さらに、年齢を重ねると波長の短い青色緑色系統の色は黒っぽく見えるようになりますが、波長の長い赤色は比較的年長の方でもよく見えます。ちなみに、老人性白内障に罹ると水晶体が黄色く濁り、より青色緑色系統の色が見えにくくなります。このため、老人はガスコンロの青い炎が見えにくく、火傷や火事を起こし易いといわれます。




生理学的に言うと、人間の目は、赤、緑、青の光を感知する「錐体」によって様々な色の視覚情報を知覚していますが、このうちL錐体は「赤錐体」と呼ばれ、赤色を感知する錐体です。その分布密度はM錐体(緑)の2倍、S錐体(青)の40倍もあり、他の色に比べて赤色光に対する感度が高いということがいえます。

これをもう少し詳しく説明すると、ヒトの目の網膜内には、L錐体・M錐体・S錐体と呼ばれる3種類の「錐体細胞」があり、これらが吸収する可視光線の割合が色の感覚を生んでいます。

これらの錐体細胞は、それぞれ長波長・中波長・短波長に最も反応するタンパク質(オプシンタンパク質)を含んでいます。錐体が3種類あることはそのまま3種の波長特性を構成する元となるので、L , M , S の各錐体を赤・緑・青でなぞらえることもあります。

ところが、人や猿などの霊長類における錐体はかつて2種類だったそうです。色刺激の受容器である目の進化の過程で、2種から3種に分岐したとされており、ヒトを含む旧世界の霊長類の祖先は、約3000万年前、3色型色覚を有するようになったといわれています。

これに対して、ヒトと同じ哺乳類の多くは2色型色覚か、色覚を持ちません(実は色覚を持っているがその感度が低い)。目の進化の過程で取り残されたかたちです。

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ところが、さらに、です。この哺乳類のさらに祖先である古代の爬虫類は、もともと4色型(4色型色覚)だったそうです。上のL、M、Sに加えて4つ目の色覚がありました。

この4番目の色覚とは、波長300~330ナノメートルの紫外線光を感知できる錐体網膜細胞のことで、これによってこれらの生物は長波長域から短波長域である近紫外線までの色を認識できるものと考えられています。

哺乳類の祖先ももともとこの4つ目の色覚を加えて4錐体細胞を持っていましたが、これがある過程で2種類になりました。

その理由としては、哺乳類だけは他の種類からの捕食を恐れて、夜や暗い所で活動することが主となったためです。わずかな光でも見えるよう桿体細胞(光の刺激を受容する細胞)が発達し、その代わりに2色型色覚になり、色覚そのものを失ったとされます。

夜行性となったため、色覚は生存に必須ではなく、結果、M錐体(緑)と紫外線感知錐体の2タイプの錐体細胞を失い、青を感知するSと赤を感知するLの2錐体のみを保有するに至りました。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態です。

変わらず昼夜ともに活動が活発だった魚類、両生類、爬虫類、鳥類はそのまま4色型色覚にとどまり、この名残で現在でもこれらの種のほとんどは4タイプの錐体細胞を持っています。

一方、2錐体のみを保有するに至った哺乳類のうち、ヒトを含む旧世界の霊長類の祖先は、上述のとおり、約3000万年前、突然3色型色覚を有するようになりました。3000万年前といえば、氷河期が終わり、ようやく地球全体が緑に包まれるようになった時代であり、このころ2色型色覚(赤緑色盲)に退化した哺乳類から、人や猿の先祖である霊長類が分科しました。

その理由としては、ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存に有利だったためと考えられ、霊長類が暮らすようになった「森の環境」がその原因です。

森の中というのは、うっそうと木々が生え、緑と緑陰に囲まれた場所です。こうした環境では、果実が熟した時などに、葉の緑の中から赤を識別できるかというと、2色型色覚ではそれができません。

明度(明暗)が違えば識別できますが、常時ほぼ同じ明度の森の中では、色度だけをたよりに果実を区別しようとしても周囲の緑に完全に埋もれてしまいます。ところが、3色型の色覚なら、緑の背景から黄色やオレンジや赤っぽい果実がポップアップして見えます。

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これが、ヒトや猿が現在のように3つの錐体を持つに至った理由と考えられています。ただ、ヒトに関して言えば、その他の猿とは違って、その後狩猟生活をするようになりました。このため、果物などの植物に依存して生活する必要がなくなり、若干この3色型色覚の優位性が低くなったといわれており、それは他の霊長類に比べて色盲が多いことからもわかります。

色盲の出現頻度は狭鼻下目のカニクイザルで0.4%、チンパンジーで1.7%です。これに対し、日本人では男性の4.5%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされます。またニホンザルもヒトよりも色盲の数が非常に少ないことがわかっており、3色型色覚という点では人はやや退化した状態ということになります。

イギリスのロマン主義の画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)は、黄色を好んで使用したといわれています。彼の絵具箱では色の大半が黄色系統の色で占められていたといい、逆に嫌いな色は緑色で、緑を極力使わないよう苦心したそうです。このことから色覚異常ではなかったかと言われており、同様にやゴッホ、ピカソやシャガールなど著名な画家達も色覚異常であったのでは、との説があります。

ターナーは知人の1人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っており、また別の知人からヤシの木を黄色く描いているところを注意された時には、激しく動揺していたといいます。近代社会においても、とくにアニメなどのように、生理的な識別が容易で単純な色を多用する分野・領域では、色覚異常者はとかく肩身が狭い思いをしています。

しかし、色覚異常といわれているのは、あくまで標準的な色覚を持っている人に対しての評価であり、一般に普通と言われている人であっても、色覚に関しては大小の差異があります。人が色として感じる感覚には非常に多くのものがあるといわれており、赤色の和色が90種あるように、他の国の基準を入れればもっと多くの赤色の分類ができるでしょう。

こうした色覚の違いが表面化するのは、同じように見えるもののその見え方の違いが微妙であるため、お互いの意見に疑義が生じるなどの場合です。大多数の人がはっきりと同じものだ、あるいは異なる、といった判断をしているのにそれは違う、という人はその生理については色覚異常、機能については色覚障害というレッテルを張られてしまいます。

ところが、色覚が正常といわれている普通の人々の生活の上においても、印刷や塗装の過程において、いつもとは異なり、明るく鮮やかな色を多用するとか、色素の濃度を高くしたり塗料を厚く塗ったりすることはママあります。色の飽和度を高くしたり、色素の存在比を大きくして生理的な弁別の容易さを高めるなどした結果、結局はオリジナルとはかなり変わった色になってしまった、というのはよくあることです。

上で色覚異常が疑われている画家たちに関しても、彼らが生きていた時代には用いる絵具などの画材の消費量は少なく、また使用法も厳密ではありませんでした。一般に原料の品質も低く、このため発色が良くないものも少なくなく、より古い時代はなおさらです。従って、上の有名画家たちが本当に色覚異常だったかどうかはわかりません。

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さらに、同じ組成の光を受けた場合でも、それをどのように知覚するかは人それぞれの目と脳の相関関係によって異なるので、複数の人間が全く同一の色覚を共有しているわけではありません。同様に、ある人が同じ物を見ても右目と左目では角度や距離が異なり、見えた色も一致しないことがわかっています。他者の色知覚を経験する手段は存在せず、同一の色知覚を共有することも不可能です。

また、知覚した色をどのような色名で呼ぶかは学習によって決定される事柄であり、例えば赤色を見て二人の人間が異なる知覚を得たとしても、二人ともそれを「赤」と呼ぶので、色覚の違いは表面化しませんが、実際にはイチゴ色とサンゴ色ほどに違っていたりします。

近年、人間以外の様々な生物の色覚を知ろうとする試みがあり、色覚の有無や性質が研究されていますが、こうした研究もはたして人間が感じるのと同様な色を感じているのかどうかを確認することでその生活史を探るためです。違った色の見え方をする人を比較してみた場合、その世界は青と赤ほども違っている可能性もあるわけです。

もっとも、文明が発達した人間社会ではそれでも共同生活は可能です。複数の個体間で知覚される色がどのような色であるかを直接すり合わせることは出来ませんが、人間同士であれば言語やカラーチャートを用いて情報交換することが可能だからです。色の違いで混乱がおきないのは、人間がこうした高度な科学力を持っているからです。

なので、この項で強く言いたいのは色覚に「異常」というものはなく、それは個性だということです。

ヒトも生物である以上、色覚の個体差があるのはあたりまえであり、このように色の認識の上において違いがあるのは、色覚を感知する目の機能がひとりひとり微妙に違うためです。目は色刺激に由来する知覚である「色知覚」を司りますが、色知覚は、質量や体積のような機械的な物理量ではなく、音の大きさのような「心理物理量」であるといわれています。

同一の色刺激であっても同一の色知覚が成立するとは限らず、直前に起こった事象による知覚や体調・心理状態によって、それをその人がどう感じるか結果はかなり異なります。たとえば、対象物が白や灰色・黒といった無彩色なのに、色を知覚する場合があり、その例えとして良く使われるものに「ベンハムの独楽(こま)」というのがあります。

イギリスのおもちゃ製造業者である「チャールス・ベンハム」の名に由来する独楽です。視覚に関する錯覚、「錯視」の実験として良く知られており、ベンハムは、1895年に下図に示したように上面を塗り分けた独楽を発売しました。

Benham's_disc_(animated)ベンハムの独楽

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回転していないオリジナルは白と黒の図形にすぎない

見るとわかると思いますが、ベンハムの独楽を回すと、何等かの色のついた弧があちこちに見えるはずです。この弧の色は、刺激に関する感覚の定式を“ヴェーバー‐フェヒナーの法則”として定式化したドイツの物理学者、グスタフ・フェヒナーによって、「フェフナーの色」と呼ばれています。

誰が見るかによって異なる色となりますが、なぜこのような現象が起こるのか完全には理解されていません。ただ、赤(正確には黄色からオレンジ)、緑、青に感受性が高い網膜内の光受容体(錐体)が応答する光の変化率がそれぞれ異なっているからではないかとも考えられています。

このベンハムの独楽は、単色光の下で回してもやはり色感覚が生まれます。さらに左目と右目別々に、独楽の模様の一部分ずつを見せるように工夫しても色感覚が生まれます。日本では、あるテレビ局がこの錯視を応用してモノクロテレビ放送で擬似的な色を発生させる試みが行われ、テレビCMでの映像効果に使用した事もあったそうです。

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このベンハムの独楽の現代版ともいえるようなおもちゃが最近流行しているようです。

ベンハムの独楽と違って色の変化をみるためのものではなく、ストレス解消等が目的で、「ハンドスピナー」といい、アメリカ生まれの手慰み玩具です。英語ではフィジェットスピナー(fidget spinner)とも呼ばれており、あちらではこのほうが一般的な呼び名です。

考案者はアメリカフロリダ州のキャサリン・ヘティンガー(Catherine Hettinger)という女性で、重症の筋無力症を負った彼女が、娘と遊べる玩具として考案しました。特許も保有していたそうですが、特許更新料の支払いができずに2005年に特許が切れています。

本来はただ単に、「回すだけの玩具」でしたが、回転速度や回転時間を向上させるなどの改造を加えた遊び方が受け、全米で広まりました。実際は一方方向に回っているにすぎませんが、ストロボ効果で逆回転しているようにみえるものもあり、このほか5枚羽のハンドスピナーやLED付きハンドスピナー、いろいろなものがあります。

一般には手のひらに乗るサイズであり、ボールベアリングと、その外輪から放射状に伸びるように付くプラスチックや金属等で出来たプレート部分、内輪を軸方向から挟むホールド用の部分とで出来ています。手や指でプレート部分を回転させることで一定時間プレート部分が回り続けます。

製品によっては5分以上回転し続けることを謳った商品もあるそうで、 基本的には指の間や机の上などで回転する様子を眺めたり、ジャイロ効果を感じたりして遊びます。動画サイトYoutubeなどでは「トリック(技)」を組み合わせてパフォーマンスを行う動画も個人などによって公開されています。

ただ、アメリカでは流行の拡大とともに遊んでいた子供が眼を怪我する事故や、幼児の誤嚥、子供たちが熱中するあまり学業の妨げになる問題も起きたため、一部の学校で使用を禁止するなどの混乱も起きたようです。しかし、その後改良は進み、日本にも輸入されるとともに、日本独自のオリジナル商品も出始めました。

アメリカでは昨年暮れぐらいから流行し始め、今年の4月あたりから「fidget spinner」の検索数が急激に伸びたといいますが、日本でも先日NHKのニュースなどで取り上げられたことから、これから話題になりそうです。

米CNNはADHD(注意欠陥・多動性障害)のカウンセリングにも有用であると報道したといい、もともとは筋無力症という重度の病を負った女性が生み出したものであることから、精神医学的にも着目されそうです。

暑かった夏がそろそろ終わり放心状態のあなた、夏バテで最近集中力が途切れがちな貴兄。飛び回り始めた赤とんぼを指先をクルクル回して捕まえてみるのも一興ですが、ここはひとつ、長い秋の手慰み。こちらをスピンさせてみてはいかがでしょうか。

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ああ広陵

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この夏の高校野球では、地元広島の高校が大活躍したので我が家でも大盛り上がりでした。

普段はあまり見ない高校野球ですが、今年は2回戦から決勝戦までほぼすべてのイニングを鑑賞しました。

この広陵高校の怪物球児、中村奨成君の活躍もさることながら、広島勢が決勝戦まで行ったのは、10年ぶりのことであり、これは久々の快挙です。同じく地元といえる山口の決勝進出となると、32年前の1985年に遡り、このときは宇部商業がPL学園に敗れています。

なかなか郷里の球児たちが活躍する場を見る機会もない中で、今年は5試合も応援できたということで、骨折療養中の私としては大きな慰みになりました。

残念ながら、10年前と同じく今年も優勝はできませんでしたが、プロ野球の広島カープのほうは、どうやらぶっちぎりでペナントレースを制しそうな勢いなので、優勝の美酒を味わうのはこちらで、ということにしましょう。もっとも主砲の鈴木誠也外野手が右足の骨折とのことで、今シーズン終盤での活躍が見れそうもないのが残念ですが。



ところで、この広陵高校ですが、広島では一二を争うほど古い歴史を持つ学校です。明治40年(1907年)、呉服商・石田米助が出資して自らが校主となり、校長に鶴虎太郎を迎えて、旧制中学校として認可されました。

この二人、地元でもあまり知られていないようですが、教育者として広島の街に大きな貢献をした人物です。石田米助のほうは、このほか広島山陽高校、広島経済大学などを設立。一方の鶴虎太郎も。広陵高校、広島国際学院、鶴学園でといった学園を次々に創設したほか、他にも小中学校などの教育分野で多大な足跡を残しています。

広陵高校は正式には広陵学園広陵高等学校といい、現在は広島市の北西部、安佐南区にあります。大正期には現在の修道中学校・修道高等学校の前身である修道中学、明道中学(1923年廃校)とともに私立の中では広島三中と呼ばれていた程の名門校でした。

しかし、1945年8月6日、原子爆弾の投下により講堂及び教室一棟が倒壊。戦後しばらくは休校していたようですが、1948年5月の学制改革により広陵高等学校(全日制普通科)として改めて開校。1950年には定時制(普通科)を併設するとともに、1953年には 全日制・定時制とも商業科を併設するなど、規模を拡大しました。

1960年代までは、広島南部、海にも近い宇品というところに立地していましたが、1971年に安佐南区に広陵幼稚園を開園したのを契機に、翌々年の1973年、現在の安佐南区に全面移転。翌年には理数科を新設しました。

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実は80年代までは男子校でした。が、1998年4月 男女共学に移行、2000年頃までに定時制の普通科と商業科を廃止し、現在に至っています。そして校訓「質実剛健」のとおり、中身のぎっしり詰まった多数の良質な卒業生を世に送り出し、野球界だけでなく今の広島の街を支えています。

「広陵高校野球部 有志の会」のHPによれば、広陵高校野球部の歴史の始まりは、旧制中学として発足した明治40年からすぐの明治44年(1911年)のことで、「庭球部と合体し“球術部”として誕生」とあります。翌年球術部が解体して野球部と庭球部に分離しており、「野球部」の名称でのスタートは明治45年(1912年)になるようです。

大正5年(1916年)8月の第2回山陽大会への出場が公式戦への初参加で、大正12年(1923年)の第1回夏の全国大会に初出場、翌年の第2回 センバツ大会にも初出場して以来、何度も甲子園に行っています。日本の高校野球では広島商業ともども、広島県のみならず全国的にも有名で、1926年、1991年、2003年といずれも春の選抜大会で3回優勝しており、「春の広陵」の異名があります。

夏の選手権大会では1927年、1967年、2007年と、これまでも40年おきに3度決勝へ進出していますが、いずれも準優勝に終わっています。準優勝は春夏合計6回で、今回を入れれば7回にもなります。

卒業生としては、漫才師の島田洋七や演歌歌手の角川博、マジシャンのふじいあきら、などがいるほか、プロ野球界にはそれこそゴマンといった卒業生がいます。

野球界において、おそらく最も有名な選手は金本知憲、現阪神タイガース監督(第33代)でしょう。南区青崎出身で、中学校はその近くにある大洲中学校を卒業しています。実はどちらも私の母校であり、少々くち幅ったい感じもしますが。後輩ということになります。

広島市立青崎小学校4年時にリトルリーグ「広島中央リトル」で野球を始めましたが、練習についていけず、また体育の授業で手を骨折して練習が出来なくなったこともあり、それを口実に1年で退部したそうです。一学年下に、1990年代の大洋・横浜で主力投手として活躍した野村弘樹がおり、同チームのエースで四番打者でした。

その後は町内会のソフトボールや広島市立大州中学校の軟式野球部でプレー。広陵高校に入学して硬式野球部に入部したあと頭角を現しました。広陵では2年生からレギュラーとなり、左翼手として1985年の広島大会決勝に進出しましたが、広島工業に敗退。翌年も広島大会で敗れ、全国選手権出場はありませんでした。

高校では通算20本塁打を打ち、東北福祉大学に入学。大学野球で活躍したあと、広島カープにドラフト4位指名で入団していますが、その後の活躍はご存知のとおりです。

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このほか、広陵出身のプロ野球選手としては、長年、阪神タイガースで投手として活躍した福原忍、巨人・日ハムの二岡智宏、阪神タイガースに現役で所属する新井良太などがいます。ちなみに、この新井選手は広島東洋カープの新井貴浩の実弟です。

このほか現役では、カープのエースピッチャー、野村祐輔や中継ぎや抑えで活躍中の中田廉、巨人の小林誠司捕手などがおり、プロ野球だけでなくアマチュアや野球界にも多数の人材を輩出しています。野球以外では、日本初の柔道五輪メダリスト、かつ1964年東京五輪金メダリスト、中谷雄英も広陵高校の出身です。

この広陵高校野球部の歴史が長いことは前述のとおりですが、戦前の1936年にプロ野球連盟(日本職業野球連盟)が発足した当時から既にここに多数の名選手を送り出しています。

広陵中学(現・広陵高校)を経て慶応大学卒業後、八幡製鐵所野球部など社会人野球で活躍していた「加藤喜作」は、1940年、創設三年目のプロ野球南海軍に助監督兼選手として入団。戦時下の1942年、南海三代目の監督に就任し、終戦前年の1944年まで指揮を執りました。

また、広陵中学時代から捕手として活躍した、「小川年安」はおそらく、広島出身の選手として初めてプロ野球登録をした選手です。慶応大学に入学し、水原茂や宮武三郎といったその後の草創期の日本プロ野球の人気を支えた投手とバッテリーを組みました。また強打の4番としてスター選手となり、2度目の慶應義塾大学野球部の優勝に貢献しました。

慶応卒業後の1935年、この年創設された大阪タイガースと契約、入団。背番号2。翌1936年、プロ野球リーグが開幕すると、この年は主に3番を任され、チームトップの打率.342を記録。誰も打てなかった巨人沢村栄治のホップする剛速球を、「大根切り打法」で攻略するなど活躍しました。しかし、その後招集され、1937年(昭和12年)、東京中野の第一電信連隊へ入隊。惜しむらく1944年に中国で戦死した、とされます。

正確な没日、没地などの詳細は不明で、出征後帰還しないため戦死として記録されたものです。享年33。タイガースの初代主将で、現役時代には名選手、監督時代にも名監督と謳われた松木謙治郎は、その著書の中で「復員していれば、人柄からみて必ずタイガースの監督になっていた」と述べています。

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この小川年安とともに広陵時代にバッテリーを組んでいた選手に「田部武雄」という人がいます。その実力は小川に勝るとも劣らないといわれたほどの選手でした。東京巨人軍創成期の1番打者、主将として活躍し、巨人で最初に背番号3を着けた選手で、現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもあります。

戦時中に亡くなった巨人軍の名選手といえば沢村栄治が真っ先に思い起こされますが、1936年に日本職業野球連盟が結成され、アメリカへ遠征壮行会が行われたとき、巨人の選手の中でアメリカ大リーグが最もマークしていたのが沢村とこの田部だったといわれます。沢村の影に隠れてしまっていますが、もっと評価されてもいいのに、と思わせる人物です。

なので、今少し詳しくこの人物について書いてみたいと思います。

田部武雄は1906年3月28日、広島県広島市袋町(現在の中区)に生まれました。8人兄弟の5番目で早くに父を亡くし、家庭の事情は苦しかったようですが、お母さんは苦労してこの子供たちを逞しく育てたようです。

その甲斐あってか、次兄・謙二は、1915年に初開催された全国中等学校優勝野球大会(のちの夏の高校野球選手権)、第1回大会の第1試合に、広島一中(現・広島国泰寺高校)の6番・捕手として出場しました。実はこれも私の母校になります。どうも今日はそういう日のようです。

この試合で指を痛め付近の病院に担ぎ込まれたため、これをきっかけに各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話が残っています。ちなみ広島一中(国泰寺高校)はその後サッカーの名門になりましたが、野球部は現在に至るまで二度目の全国大会出場は成し遂げていません。

この兄はその後、毎日新聞広島支局の記者となり、セミプロ野球団「大阪毎日野球団」の結成にコーチ兼任格として参加。田部武雄もこの兄の影響で野球を始めました。上述の加藤喜作と同じ袋町小学校出身で、少年野球チーム・旭ボーイズに所属していたといいます。

袋町小学校高等科を経て1920年、旧制広陵中学(現・広陵高校)に入学しますが、1年で退学。理由は先の次兄・謙二がこの頃亡くなったことです。そのころ長兄と三兄は満州に渡って職についており、その仕送りもあったでしょうが生活は苦しかったと考えられます。兄の死を契機にこのとき16歳だった武雄は、自らも収入を得るため単身満州に渡ることを決心します。

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1924年、大陸に渡り、奉天でサラリーマンとなり、大連実業団に参加し野球を続けました。大連実業は、当時、人気絶頂だった東京六大学のスタープレーヤーがこぞって海を渡って結成されたチームで、満鉄中心の「大連満洲倶楽部)」と並んで社会人野球の都市対抗戦では、ぶっちぎりの強さを誇っていました。

武雄が満州に渡った理由としては家計の問題以外にも複雑な家庭環境があったこと(親戚か他の兄弟との確執?)が取り沙汰されており、学校あげての野球部満州遠征のメンバーに加えられなかった不満があったことなども理由ではなかったかと言われています。

他に彼の野球に関する天才的素質に好意を寄せた大連実業の実力者に迎えられた、といった説もありますが、はっきりしたことはわかっていません。とまれ六大学出身の花形選手ばかりだというのに、いきなりレギュラーポジションを掴み、再三戦った「満州倶楽部」との“実満戦”は「大連の早慶戦」と呼ばれ、人気を博したといいます。

この当時の田部の勤務先は「銭荘」だったようで、これは、中国における旧式の金融機関のことです。この当時、事実上の本位通貨として通用していた銀の固形体である銀錠(馬の蹄の形をしており、馬蹄銀と呼ばれ広く用いられていた銀貨)と銅銭の両替を行い、その際に手数料を得ることが主業務であり、比較的お気軽な職業だったようです。

こうして満州で職業人野球を満喫していた田部ですが、1926年からは、内地の実業団と戦うために内地に戻り、逆に国内各地を転戦するようになります。大連実業の1番二塁手として内地を転戦していたころ、そのころの監督で明治大学OBだった中島謙などから、明治大学への進学を勧められました。これを受けて帰国し広陵中学4年に復学(このころの中学は5年生で現在の高1に相当)。

この当時は広陵から多くのOBが明大野球部に進んでおり、進学しやすくするための措置だったようです。当時の広陵の学籍簿には「中学四年生として編入試験に合格」「1927年復学」と書かれています。当時中学は5年が修了期限でしたが、4年修了と同時に大学に進学することも可能であり、大学へ行く資格を取るための一時編入だったのでしょう。

この内地で暮らした短い期間にも彼は野球に没頭しています。この頃既に21歳になっていた田部は、この年の春の選抜大会で「中学生」として甲子園に出場。この当時の選抜には年齢・学年とも制限が無かったためです。広陵はその前年度に初優勝しており、この満州がえりの剛腕投手の加入をチームは諸手を挙げて歓迎しました。

このころの広陵野球部は、田部を加えて史上最強チームと言われ、八十川胖(のち明大)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)などの名選手がそろっており、その後の「野球王国」の礎を築きつつありました。

田部は、春連覇を狙いエース3番として勝ち進み決勝までいきますが、快速球左腕小川正太郎(のちに早慶戦など大学野球で活躍)を擁する和歌山中学(和中)の前に惜しくも敗退しました。この大会で田部はピッチャーとして奮闘しましたが、バッターとしてもランニングホームランを打つなど走攻守に渡って活躍しました。

しかし、決勝はクタクタでピッチングは本調子ではなかったといいます。この年の優勝チームはアメリカ遠征の褒美が付いていましたがそれも叶わず、試合後、「オレは、それだけが目的だった」と身を震わせて残念がっていたといいます。

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このころ田部はまだ大連実業に籍を置いており、この年の夏の選手権は出場できませんでした。その理由は、毎日新聞が主催する春の「選抜」と異なり、夏の大会では主催者である朝日新聞が他チームから移籍してきたメンバーの出場を制限していたためです。

この当時、田部のように実力十分な選手が加わることで、チーム力がすぐに上昇する現実が、中学校の選手争奪戦を激しくしていました。田部のように「放浪生活」を続けて各チームを渡り歩くといったやり方は中等野球選抜でも問題となっており、夏の選手権大会ではその後1932年には、「在学一年以上」「落第生の出場禁止」など出場資格についての制限が加えられました。

夏の選手権に出場できなかった田部は、その後広陵中を後にして大連実業に復帰したようです。が、その後、大学にも進学しており、進学に必要な卒業資格は得ていたようです。推論ばかりですが、これはちょうどこの時期の田部の行動に関する資料が欠落しているためです。おそらく、いろいろと波風の立つことのあった広陵での野球生活は早めに切り上げ、進学までの短い時間を住み慣れた大連で過ごしたい、といったことだったでしょう。

1928年9月、鮮満遠征にやってきた明治大学との試合では、大連実業の1番遊撃手として登場。ピッチャーが一塁に山なりの牽制球を投げるのを見てとると、三塁から脱兎の如く本塁を駆け抜け見事ホームスチールを成功させました。逆に田部のいた大連実業が東京に遠征して早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学と対戦する、ということもあったようです。

同じ年の1928年、時期はよくわかりませんが4月以外の季節に、22歳で明治大学の3年に進学。「広陵学園野球クラブ会員名簿」には昭和4年(1929年)広陵を卒業と明記されているため、広陵中に籍を置いたまま明治大学に進学したことになります。

現在なら、二重学歴となり、決して認められることはありませんが、この当時は明治大正のおおらかな雰囲気がまだ残っている時代です。個人の才能を十分に伸ばすことができるのならば、といった緩やかな教育条件が整っていたものと推察されます。ただ、この入学問題のため「明大は田部を買った」「球界の不祥事」などと大きく批判されました。

明治入りした田部はすぐにレギュラーを確保、主に二塁と遊撃を守りましたが、捕手以外のポジションなら全てこなし、命ぜられればマウンドに上がり強打者を手玉に取りました。現在の日ハムの二刀流、大谷翔平ばりの活躍ですが、この当時の大学野球はプロのレベルに限りなく近かったようで、現在の大谷選手と比較しても遜色はなかったかもしれません。

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投手としては、踏み出した左足を地面に付けて、やや遅らせて球を投げるというボークすれすれの新しいモーションを編み出し、この投げ方は田部以外のピッチャーも真似し、当時流行したといいます。三塁にけん制球を投げるふりをし、反転、一塁へ牽制球を投げるという戦法も田部が編み出したものだそうです。

またランナーとしても優秀でした。塁に出ると飛び跳ねて、スパイクをカチッカチッと鳴らし、片足を突き出してピッチャーを挑発。観客の大歓声が沸き起こるなか、まるで隣の家に行くようにやすやすと盗塁やってのけたといいます。

さらに俊足強肩の外野手としても知られ、慶明戦でセンターを守っていた田部は、ランナー三塁で大きなセンターフライを背走して好捕。100m近い距離からバックホームをしてランナーを刺したこともあったといいます。

全てを兼ね備えた天才選手といわれ、この当時の明大の黄金時代に大いに貢献しました。リーグ通算67試合出場の間、22打点で36盗塁を記録しましたが259打数56安打で打率.216、本塁打は0本で、大砲というよりもマシンガンといったところでしょうか。

ただ、東京六大学を代表する美男子ともいわれ、明治の練習に女性がくれば九割が田部のファンだったといい、野球部の同僚たちは田部のファンからの差し入れのケーキや寿司をよく回してもらったといいます。

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1931年、読売新聞社主催の「日米野球」では日本選抜チームの外野手としてファン投票で選ばれ、右翼手3回と投手2回で4試合出場、初来日した鉄人ルー・ゲーリッグや剛腕レフティ・グローブら大物ら米大リーグ選手と対戦しました。もっともこの交流戦では、日本は初めてオールスターチームを結成して挑んだものの、17戦全敗に終わっっています。

1932年明治大学を卒業後、東京市の深川にあった藤倉電線に入社。このころはまだプロ野球は発足しておらず、田部の野球選手としての活躍の場は、アマか社会人野球だけでした。東京市に本拠地を置くクラブチーム、「東京倶楽部」の一員として第6回全日本都市対抗野球大会に出場。開幕第1戦に三塁手兼投手として出場しましたが、この大会優勝した全神戸に田部の三塁への暴走等で敗れました。

このころ、明治在学中から日活のトップ女優であった伏見信子・直江姉妹と付き合っていたといわれマスコミを賑わせました。父・伏見三郎が新派の俳優で、信子は早くから姉の直江と共に舞台の子役などで新派の舞台に出演し、1933年(昭和8年)、松竹蒲田に入社。五所平之助監督「十九の春」主演をキッカケに人気女優となり、小津安二郎監督の「出来ごころ」に人気男優の大日方伝(おびなたでん)と共演し、人気を不動のものとしました。

しかし騒いでいたのはマスコミだけで、その実は深いつきあいではなかったようです。田部の本命は東京日本橋の老舗乾物問屋のお嬢さんだったそうで、彼女との恋愛を周囲に反対され、すべてが嫌になり忽然と姿を消しました。

日本を去って南洋ジャワ島の開拓に行ったと当時の雑誌に書き立たれましたが、実際は山口県の小さな鉄道会社の身を落ち着けた後、1934年に福岡県の九州電気軌道(西日本鉄道の前身)に転職し、車掌をしていました。

しかし彼ほどの逸材を野球界が放っておくはずもなく、1934年の日米野球のアメリカ遠征チームで監督を務めていた「三宅大輔」が彼を勧誘します。三宅は慶應で名捕手として鳴らし、卒業後は1927年(昭和2年)から始まった第1回全日本都市対抗野球大会に出場し大会第1号本塁打を放ったことで知られています。壮年のこのころ日米親善野球の日本選抜チームの選手を中心にした「大日本東京野球倶楽部」の結成を画策していました。

その初代監督に就任すると田部を東京に呼び戻し、3年ぶりに上京した田部はこうして大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加し入団。結成時の背番号は3でした。

仲立ちしたのは大学の先輩の小西得郎で、都市対抗野球大会に審判員として出場し、第1回大会では、開幕戦の球審を務めていました。大日本東京野球倶楽部に入団した田部は、1935年の内地巡業時に背番号が1となり、初代主将二出川延明の退団に伴い、2代目主将となりました。

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東京六大学出身で端整なマスクに、ショーマンシップ溢れたプレースタイルは、男女問わず非常に人気が高く、また伝説的な韋駄天選手と持ち上げられました。ただ、それなりの実力は持ち合わせており、1935年の同チームの第一次アメリカ遠征では、主にトップバッターとして109試合で105盗塁という驚異的な数字を記録しました。

また本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、アメリカ人を驚かせるとともに「タビー」の愛称を獲得しました。

1936年、大日本東京野球倶楽部は、ジャイアンツを巨人と訳した「東京巨人軍」に正式改称。このころの国内の巡業試合での巨人のライバルの一つは、東京鉄道局野球部(のちの国鉄スワローズの前身)でしたが、この東京鉄道局がマークしたのが田部と沢村栄治であり、田部対策として内野安打での出塁を防ぐ前進守備の田部シフトを敷いたといいます。

同年2月5日、日本職業野球連盟(プロ野球)が結成され、直後の2月14日からの第2次アメリカ遠征では、全75試合でチーム17本の本塁打中、2本を放ち、投手としても5試合登板しました。沢村と二人だけ写真入りで取り上げられ、共にメジャーリーグから勧誘を受けたのはこのときです。

この1936年という年は、翌年の1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争の前年であり、その後太平洋戦争に突入するきっかけとなるこの戦争を境に日米関係は急速に悪化していきます。そうした雰囲気の中、さすがにメジャーへの参加もままならなかったでしょう。

沢村も同様であり、無論日本初のメジャーリーガーは実現していません。ちなみに、日本人初のメジャーリーガーは、1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツに投手として入団した村上雅則が初めてになります(通算成績:54試合5勝1敗9S 防御率3.43)。

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帰国後、主将としての役目上、選手の不満を代弁して球団上層部と衝突、これが原因で巨人軍を退団します。この当時、沢村を先頭として選手たちのあいだにチーム内の学閥に対する不公平などへの不満があり、また渡米前に阪急へ移籍させられた恩人、三宅大輔と仲の良かった内野手、苅田久徳(東京セネタース(現日ハム)へ移籍)が火種となりました。

この年、巨人は77試合を43勝33敗1分の成績で大阪タイガース(現阪神)を破って初優勝を飾りましたが、浅沼誉夫新監督と選手の間では軋轢が多く、勇退を要求する声も高くなりました。主将の田部主将と水原茂副将を中心に、メンバーから署名捺印を集めて正力松太郎に直訴しましたが、結局受け入れられませんでした。

田部は三宅が監督となった阪急軍に転じるつもりでしたが、移籍は認めないという規定が契約書に含まれていたことから進退を迫られることになります。結局、日本初のプロ野球リーグが開幕したというのに、退団を選択。同年秋、田部を筆頭に関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)なる新球団の設立も画策されたようですが、これも頓挫。

こうして田部は日本を去り再び満州大連に戻りました。当時の大連は日本からの資本が続々と投入された時期で活気にあふれており、田部もトラック運送業を始め事業も成功しました。元々大連でサラリーマンとして勤めていた田部は、実業野球に復帰し「もうややこしいことを考えて野球をするのがイヤになった」「実業野球を楽しみたい」と話していたといわれます。

その言葉通り、1940年第14回都市対抗野球大会には、大連実業のエースとして出場、準優勝するなど、古巣での嬉々としたプレーが目立っていました。この大会でもポジションをころころ代えたり、1番投手で出場するなどで観客を沸かせ、また1942年、戦前最後の大会となった第16回都市対抗野球大会にも出場しています。

しかし、米軍相手の泥沼戦争はこのころ最終局面に向かっていました。戦争末期の1944年、ついに田部も大連で現地召集されます。すぐに戦況悪化の激戦地、沖縄に送られましたが、1945年、地上戦最中の6月、消息を絶ちました。沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡した、と推測されています。没日ほか詳細は不明。満39歳没。

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広陵時代、バッテリーを組んでいた小川年安が入団したタイガースの初代主将・松木謙治郎は田部とともに明治大学を卒業しており、親交も深かったようで、その著書の中で田部の事にも触れています。それによれば田部は、同年ロサンゼルスオリンピックに出場し、東洋人として初めて陸上短距離で入賞した「吉岡隆徳」と競争したことがあったそうです。

どちらが速いか、とこの当時“暁の超特急”といわれた吉岡に挑戦したといいますが、神宮球場でのこの勝負において、田部は馴れない陸上用のスパイクを履きながら後半までリードしたといいます。吉岡は当時世界で一番速いとも言われていたので、これが本当なら50mなら田部が世界一速かったという事になります。

ちなみに、吉岡は現役を退いたあと1941年には広島高等師範学校に招かれ教授に就任、戦後は広島県庁教育委員会保健体育課長に職を移り、1950年の国民体育大会広島開催に尽力するなど戦後の約10年間、陸上の現場から離れ体育行政に携わりました。また、1952年には広島カープの初代トレーナーを勤めるなど当地のスポーツ界に功績を残しています。

田部はその生涯独身ではなく、大連に戻った1942年、結婚して子供を設けました。男の子だったそうで、明大中野高校を卒業しましたが、父と同じ明治大学には進学しなかったようです。戦後の1950年から1952年ころ東映フライヤーズでバットボーイをしていたようで、そのころはまだ母親は息災だったようです。

田部親子はその後、野球関係者に連絡を取ることはなかったといいます。しかし、松木謙治郎が1957年に大映スターズの監督として沖縄へ行った時、田部親子を見たと話しています。沖縄摩文仁海岸の崖の上でひっそりと祈る二人を見たといいますが、その後、メディア等の表に出ることはなかったようです。

東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれています。1969年、野球殿堂入り。

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まだまだ今も左利き

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前回のブログを読まれた方は、ある疑問を持たれたことでしょう。

それは、右手が不自由なくせに、いったいどうやってブログを書いているの? ということ。

たしかに右手の骨折によりギブスをはめてはいるのですが、私の場合、医者先生に強くお願いをして、右手の指の先端と他の4本の指の第一関節の部分だけはフリーになるようしてもらっています。

そのおかげで、なんとかパソコンのキーボードだけは叩ける、というわけなのですが、それでも文字をつづるのに、ふだんの5割増し以上時間がかかるのに加え、パソコンの操作以外の右手の操作はほとんどできません。服のボタンをはめるのも一苦労といったありさまで、その他食事も入浴もほとんどを左手で行う毎日が続いています。

かくして、大部分の人が右利きのこの世において、左利きの人の不便さ、あるいは障害があって左手しか使えない方の不自由さを、まざまざと感じているわけなのです。

それならばそれで、ということで、では左手利きであることについて、スポーツ以外ではどんなメリットがあるのだろうと思いつき、調べてみることにしました。

すると、主として人文科学的な理由により、少数派である左利きにとってのほうが有利になっていることもいくつかあるようです。

たとえば、文字を縦書きするときに手が汚れない、ということがあります。但し、これは日本語や中国語の・韓国語などのように右から左に縦書きする言語の場合であって、英語やモンゴル語のように行を左から右に書く言語の場合は当てはまりません。ただ、アラビア語のように横書きではあるものの、右から左に書く言語の場合は、左利きの方が手を汚さずに済むようです。



このほか、現代に住む我々にとって不可欠な道具となっているコンピュータにおいては、これを扱うためのメインの入力機器となるキーボードの配列が左利きにとって有利な配列だといいます。

例えば、もっとも一般的なQWERTY配列は、左手の使用頻度のほうがわずかながら右手より多いのだそうで、限られた時間内に数多く文章を書かなければならない、といったシチュエーションでは、左利きのほうが多少なりとも有利になる、ということになるようです。

このほか、ビデオゲームのコントローラは、業務用ゲーム・家庭用ゲームを問わず、方向キーやジョイスティックを左手で操作するものが標準となっているそうです。

ゲームの種類にもよりますが、多くの場合、複雑・微妙な操作を要求されるのは左手のほうだといいます。ほとんどコンピュータゲームをやらない私にはよくわかりませんが、ゲーマーの中にはなるほど、と思う人も多いのかもしれません。ゲームダコが左手指にできることが多いことも、ビデオゲームのコントローラが左手偏重である証です。

なぜ左手のほうを難しくしているのかはよくわかりませんが、こうした風習は初期の業務用ゲームの時代からの慣習のようです。推測ですが、簡単にゲームをクリアしてしまうと面白くないので、利き手の多い右手よりも左手のほうに重要な操作を多くしたのかもしれません。

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ほかにも、世界における左利きの割合は約10%なのに対し、MENSA(知能指数130以上の人しか入れない団体)の会員の2割は左利きだそうです。また左利きのほうが頭脳明晰な人が多いということを反映してか、平均的に左利きの男性は右利きの男性よりも15パーセント収入が多いのだそうです。

さらに、これは必ずしも左利きの人だけが有利とはいえませんが、一般に左手を使用している時は、左の耳はゆっくりとした音の変化に敏感になるといわれているようです。つまり、どちらの手を使っているかによって音の聴こえ方が変わってくる、というわけで、左手を多用する左利きの人は右利きの人とはまた違った音感を持っている可能性があります。音楽の世界などではよりクリエイティブな活動ができるのかもしれません。

以上、私が調べた限りの左利きであるメリットですが、たかがそんなもんかい、と思われる方もいるでしょう。ただ、前回のブログでも書いたように、とくにスポーツの世界において、左利きはサウスポートして歓迎されていますし、一般には左利きのほうが脳が活性化されやすく、とくに芸術的な才能に恵まれることが多い、といったことが言われているようです。

さらに左利きにとってうれしいのは、最近ではユニバーサルデザインの視点から、右利き左利きどちらでも快適に暮らせる社会にしようとの動きも出始めていることです。

例えば、マウスにも左利き専用のものがあり、左利き専用マウスを発売する会社も増えています。

そのひとつ、ロジテック社のCEOのゲリーノ・デルーカは左利きだそうで、マイクロソフトのビル・ゲイツも左利きであり、そうしたトップの意向もあるのかもしれません。もっともマイクロソフトは左利き専用のマウスは発売していません。ただ、左右対称のマウスを基本形としているため、どちらの手でも同じように使えるのだそうです。

このほか、大手民鉄、JRが導入している一部の自動改札は、左手で使う場面も考え、券投入口が左に5度傾いており、これで投入がしやすくなるといいます(ただし、小児検知センサーを付ける支柱がない“バーレススタイル”と呼ばれる機種のみ)。

他にも左右両開きの冷蔵庫など家電製品にも対応品があり、左利き用のはさみなどの文房具は多くの文具店にみられるほか、最近では左利き文具の専門店も増えているといいます。

そんな少数派のための商品を作っていて儲かるのかしらん、と思うわけですが、社会的に左利きのような少数派に迎合できる企業というのは、ボランティア精神に富んでいるということでそれだけ信用も高くなります。株価などにも反映するため結果的には利益につながる、ということなのでしょう。

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ところで、社会的といえば、現在欧米を中心に世界中の道路に「右側通行」が多いのは、ナポレンオの影響だ、といわれているようです。

フランス皇帝ナポレオンが登場する前、ヨーロッパのほとんどの国は左側通行でした。しかし左側通行で馬に乗っていると、左利きのナポレオンは戦闘になった時に右側から向かってくる敵を切り付けにくい、ということがあったようです。このため、自分が統治している国々の道をすべて右側通行にしてしまったのだそうです。

かくして、その後ナポレオンに占領された国々でも次々に右側通行が導入されるようになっていき、現在でも右側通行の国が多いのはその名残りなのだとか。ところが、ヨーロッパ諸国ではイギリスだけが左側通行であり、これはこの国が唯一フランスの手に落ちなかったからだといわれています。

他にはオーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、インド、香港、ケニア、南アフリカ共和国などが左側通行ですが、これらの国はかつてイギリスの植民地であった地域です。タイのように植民地になっていない国でも、近代になってイギリスの制度や技術等を取り入れた際に、影響を受けて左側通行となった場合もあるようです。

では、日本も同じ理由で左側通行になったのでしょうか?

答えはノーです。その理由は日本独自のものであり、江戸時代より以前の武士の時代の名残だといわれています。

日本の路地は大変狭い場所が多く、対面で右側通行になったときに、左腰に差している刀の鞘(さや)同士がぶつかってしまうので、「武士の喧嘩の種」によくなっていたようです。この無用な争いを避けるために、侍のルールとして左側通行が定着していったという説が有力です。

やがて、江戸幕府が終わり、明治時代に入った際、鉄道や道路などの交通における新しい技術の導入にあたってはフランスよりもイギリスをお手本にすることが多く、同じく左側通行の英国と友好を深めるためもあって、左側通行を正式に交通法とし定めたそうです。

このように、右か左かといった社会的な風習は、文化的・軍事的な理由のほか、驚くべきことにその時代の統治者が右利きか左利きかという事実に、文字通り「左右」されてきました。

こうした中、世界中、のみならず日本における文化・軍事面にも大きな影響を与えているアメリカ合衆国のリーダーについても、近年、左利きが多くなっている、ということが話題になっているようです。

実は、2017年の現在に至るまでの、直近の8人の大統領のうち5人が左利きだ、という事実をご存知でしょうか。トルーマンの時代まで戻れば、13人のうち5人(あるいは6人)が左利きだといい、1992年の大統領選挙では、有力候補であったジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントン、そしてロス・ペローの3人は全員左利きでした。

1996年の大統領選挙でも左利きに関係の深い候補が3人登場します。左利きのクリントンとペロー、そして第二次世界大戦中の怪我がもとで右手が麻痺してしまったことにより左手を使うようになったボブ・ドールです。加えて、2008年の大統領選挙においても、二大政党の候補者であったバラク・オバマとジョン・マケインの両方が左利きでした。

アメリカにおける左利きの人口比率は、他国と同様に約10%でしかありません。にもかかわらず、このように近年の大統領、大統領候補者に左利きの比率が高いように見えることについては、単なる偶然であるとする見方がある一方で、科学的な説明を考察する研究者も現れています。

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例えばカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の教授で、神経遺伝学の権威として知られるダニエル・ゲシュビン(Daniel Geschwind)博士は、このように近年の大統領に左利きが多いことには何らかの意味がある、と言っています。

ゲシュビンは、人間の利き手に影響を与える要因と、左利き人と右利き人の脳構造の違いに関する研究で知られており、過去12人の大統領のうち6人が左利きであるということは統計的にも有意であるとし、研究の対象に値する、と述べました。

また、今年3月に亡くなった、遺伝子研究の第一人者で、インド系アメリカ人のアマル・クラー(Amar Klar)博士は、利き手の研究でも良く知られており、左利きの人たちは広範囲に物を考え、多くのノーベル賞受賞者や作家、画家が左利きに偏っていると指摘していました。クラーは、左利き、そして両利きは、両方の半球において言語を処理することができ、それにより、さらなる複雑な論理的思考が可能である、とも示唆していました。

さらに、米オンタリオ州、グェルフ大学の神経心理学者、マイケル・ピーターズ(Michael Peters)が20万人以上の被験者を対象にアンケート調査を行った結果、左利きの人の多くが、識字障害、喘息、注意欠陥多動性障害、同性愛になりにくいという結果が得られたといいます。これらは、「一般的な」生活を送る上においては障害になりうる可能性がある因子ばかりです(同性愛の場合は「障害」という表現は適当ではありませんが)。

ピーターズ博士は、左利きの人は右利きに適している世界でうまく暮らしていかなければならず、そのことが右利きよりも優位な「精神的回復力」を生みだすのではないかと指摘しました。つまり、左利きであることが、もともとのハンディである左利きということを十分に補うだけの新たな能力を逆に与える、ということのようです。

脳、特に大脳皮質が部分ごとに違う機能を担っているとする理論を、「脳機能局在論」といいます。これによれば、左側の大脳半球は通常、言語を司りますが、左利きの人の場合、この区分はそれほど明確になっていないことがわかっています。これについては、前回のブログでも少し述べましたが、左利きの人の脳は、何かに集中するときに使う脳の部分が右利きの人よりもより分散しているようです。

左利きの人のうち7人に一人は、言葉を使っているとき、脳の左だけでなく左右両方を使って処理していることもわかっており、一般的な右利きの人々の場合、こうしたことができるのは20人に一人にすぎません。

このことは、左利きであることと、言語を操る上での器用さの間には深い相関があることを示しており、左利きの場合、脳内で言語に割り当てられる場所が増加するため、高いコミュニケーション能力が得られている可能性があります。

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本題に戻りましょう。近年の大統領、中でもとくにレーガン、クリントン、そしてオバマ元大統領はとくに演説が上手だった、と記憶しているのは私だけではないと思います。左利きの彼らは、その高い言語能力を駆使して、合衆国トップに登り詰めた、といえるのかもしれません。

ところが、アメリカ合衆国大統領の利き手に関しては、彼らより以前の大統領、ここ数十年より以前のリーダーに関しては確実に特定することは、極めて困難だといいます。なぜかといえば、アメリカ合衆国が建国された18世紀から19世紀にかけて、左利きの人は障害者と見做され、教師の多くは左利きの生徒に対してこれをやめさせるように努力したためです。

2017年現在、データ上では、アメリカの左利きの人の割合はわずか2%になっています。ただしその代わり、両利きの人の割合が約28%もあり、これは実は、アメリカで左利きに生まれた人の多くは、右手も使える様にして、後天的に両利きになった人が多いためです。

伝統的に左利きを矯正して両利きにすることが行われてきたという経緯があり、その結果、左利きの人の割合が少なく見えてしまっていますが、平均的には他国と同じ10%前後と考えられています。

こうした理由のため、20世紀初期より前の大統領に関しては、利き手を確実に決定できるような出典はほとんど存在していません。左利きであった最初の大統領は、第31代のハーバート・フーヴァー(任期1929 – 1933年)であったとされていますが、これについても議論が存在します。

ましてや、これより前に左利きの大統領がいたという証拠はありませんが、第20代大統領の、ジェームズ・ガーフィールド(任期1881年の6か月間、同年7月暗殺により死去)は右手でラテン語を、そして左手で古代ギリシア語を同時に書くことができたと言われています。つまり両利きです。

また、第40代のロナルド・レーガンも、必ずしも左利きだったと確認されているわけではありません。左のほうが利き手として優勢と噂されることが多かっただけで、学校の教師や両親に強制的に右利きにされたのではないか、といわれています。もし事実であれば、レーガンも元は左利き由来の両利き、ということになります。

二度のピューリッツァー賞を受けた有名な伝記作家、デビッド・マッカロウの研究によれば、第33代大統領のハリー・S・トルーマンも同様に左利きである、と噂された人物だったようです。

トルーマンといえば、日本への原子爆弾投下を指示したとされ、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」という評価が定着している指導者です。また、全米有色人種地位向上協会で演説を行い、公民権運動を支援した初めての大統領であり、この人もまた演説が上手なことで定評がありました。

1940年から1941年にかけ、アメリカでは、NTSC(National Television System Committee)が白黒テレビの標準方式を走査線525本、60フィールド方式に決定し、世界に先駆けて白黒テレビの放送が開始されました。1945年4月に大統領に就任したトルーマン大統領は、このテレビを高く評価し、その前年の大統領選における主な演説のすべてにおいて、このテレビを最大限に活用するよう、部下たちに指示していたそうです。

現在でも、アメリカでは政争となると、テレビ討論がよく行われていますが、こうした場合にも、左利きの政治家は有利なのだそうです。

テレビの討論会においては、左利きの政治家は、利き手である左手をジェスチャーでよく動かします。すると、テレビスクリーンを見ている右利きの視聴者によりアピールでき、優位に立てるのだといい、そういわれてみれば、オバマ大統領が大統領選を戦っていたときのスピーチでもよく左手を使っていたような記憶があります。

現職のトランプ大統領はどうやら右利きのようです。だから頭が悪い、演説も下手、というわけではないでしょうが、世界の中でも卓越した国力を持つアメリカという国を牽引してきた指導者の多くが左利きであり、それがこの国の魅力を作ってきたと考えるとすれば、この大統領にはあまり多くは期待できないのかな、とついつい思ってしまいます。

しかし、こうしたアメリカのような傾向は他国では見られていません。イギリスでは戦後、左利きの首相はジェームズ・キャラハンとデーヴィッド・キャメロンの二人しかいませんし、またカナダでも、少なくとも1980年以降、左利きの首相はいません。かといってこれらの国に魅力がないとはいえず、美しく逞しい世界に誇れる国づくりを行ってきています。

お隣、北朝鮮の歴代の指導者にも左利きはいないようです。金正恩(キム・ジョンウン)総書記やその父の金正日(キム・ジョンイル)、祖父の金日成(キム・イルソン)がそうだったという情報はないようなので、彼の国に関してだけは、指導者にも恵まれてこなかったばかりか、右利きの指導者がもたらした弊害が最も色濃く残った失敗作ということがいえるのかもしれません。

それにしても、米朝の緊張が続く中、両国のリーダーとも右利きということで、この先の事態がどうなっていくのか不安でしかたありませんが…

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それでは我が国はどうか?戦時下の首相、東条英機は左利きだったそうで、上述のトルーマンとともに、太平洋を隔てて左利きのリーダーを持った両国が戦っていた、というのは、こちらもまた不思議なかんじがします。

最近の首相では、安倍晋三氏や野田佳彦氏、菅直人氏は箸やフォークを右手で持っており、右利きと思われます。また都知事経験者では、石原慎太郎氏が左利きだそうですが、現職の小池百合子氏が左利きという話はないようです。そのほかにも、私が調べた限りでは、目ぼしい?日本の政治家に左利きはいないようです。

ただ、小池氏と同じくニュースキャスターだった故筑紫哲也氏は左利きだったそうで、現役の小宮悦子さんも左利きです。また、解剖学者の養老孟司氏や宇宙飛行士の野口聡一氏、新進作家の綿矢りささんが左利きだそうですが、こうした異分野の中から、新しい時代を形成する政権政党の左利きリーダーが出てくることを期待したいものです。

戦時下の東条内閣は別とし、日本においては、アメリカのようにリーダーが左利きだった、という歴史があるのかどうかは明らかではありません。戦国の武将、松永久秀や上杉謙信、宮本武蔵や新選組の斎藤一などが左利きだったという説がありますが、我が国でも左利きは差別対象ともなり、あまり公表せず矯正させていたりするので、確証は難しそうです。

箸の国日本では、食事の時に隣の人の邪魔になるからという理由で左利きが少ないという俗説もあるようですが、それではいったい、現在の日本人の左利きの割合はどのくらいでしょうか。

これは、「約11%」と言われています。日本人の総人口が、”1億2695万人(平成27年7月1日現在)”ですので、数にすると「約1397万人」の方が左利きという事になります。

政治家だけでなく、天才肌や芸術肌などと言われる事が多いこうした「左利き」の人たち。近代日本を代表する文豪・夏目漱石、同じく俳人・正岡子規も左利きだったと伝わっています。

現在の芸能界をみただけでも、男性では、坂本龍一、鹿賀丈史、ガクト、玉木宏、小栗旬、女性では、倍賞美津子、川原亜矢子、増田惠子、斉藤由貴、そして先日亡くなった小林麻央といった、魅力あふれる方々が実は全員左利きという事を考えると、やはりちょっと彼らに憧れてしまう部分はあります。

しかし、近年の研究により、左利きは右利きよりも酒を頻繁に飲み、飲酒量も多いのだとか。1970年代に、左利きはアルコール依存症になりやすいとの研究結果が発表されたこともあり、現在ではこれは間違いだとは判明しているものの、やはり左利きの酒量は多くなる傾向にあるそうです。

現在、左利き状態である私も酒を飲みすぎないように気を付けなくてはいけません。しかし最近、以前にも増してインスピレーションが鋭くなっているように感じるのは、やはり左利きになってから、全脳を使用する度合いが増えているからかもしれません。

左利きとしての一時期の間、その個性を存分に楽しむとともに、右利きに戻ってからもその能力が維持されることを期待したいものです。

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わたしのいまは左利き

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前回のブログで少し触れたとおり、およそ2週間、約半月にわたって、手術入院しておりました。

原因は右手の骨折です。

「舟状骨」といい、手の関節8つある「手根骨」という骨の1つで母指(親指)側にあり、手根骨の中でも重要なものの1つです。船底のように彎曲をしており、船のような恰好の骨ということで舟状骨と言います。

舟状骨は、母指の列にあるため他の指の列とは45度傾いて存在します。そのため、通常のX線(レントゲン)写真の撮り方では骨折箇所が見えにくく、見逃されてしまうこともあります。事実、私の場合も、初診ではただの脱臼と判断され、整形外科では対処の余地なしと判断されました。

それなら整骨院でみてもらおうとしたところ、病院での診断書が必要といわれ、再度同じ病院を受診したところ、たまたま手が専門の先生がおられ、骨折と告げられました。

舟状骨の骨折は、放置すると偽関節になりやすいのだとか。偽関節とは、骨折した骨がつかず、関節のように動くものをいいます。私の場合もここの部分がぶらぶらした状態で痛みを伴うので、いったいなんだろうと思っていました。

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https://www.joa.or.jp/public/sick/condition/scaphoid_fracture.html
公益社団法人日本整形外科学会HPより

スポーツや交通事故などで手首を背屈して手をついたときによく起こるといいい、私の場合、いつの日だか野外で樹木の伐採をしていたとき、切り株につまづいて右手をひどく地面に突いたような記憶があります。

数か月前のことだったようですが、そのときは骨折しているとは思わず、捻挫したと思ったまま放置したため、偽関節になってしまったようです。

急性期では、手首の母指側が腫れ、痛みがある、といいますが、あまりその記憶もありません。急性期を過ぎると一時軽快しますが、放置して骨折部がつかずに偽関節になると、手首の関節の変形が進行し、手首に痛みが生じて、力が入らなくなり、また動きにくくなっていくといいます。

なので、みつかったのは手が動かなくなる直前で、もしかしたらこのあとさらに手が不自由になっていくタイミングだったかもしれません。

初期には普通のX線写真でも発見されにくいことが多く、これが偽関節になる原因の1つです。私の場合、さいわいにも発見され、CTやMRIをとってさらに詳しい検査をしたところ、骨折部分の壊死もなく、手術をすれば完治する、という判断がなされました。

ただ、舟状骨は血行が悪いため、非常に治りにくい骨折の1つです。早期に発見された場合、ギプス固定で治療することになりますが、この固定は長期になることが多いため、最近では特殊なネジによる固定を行って治療期間を短縮することが積極的に行われており、私の場合もそれです。

折れてしまった部分は削除することになりますが、それでは短くなってしまうので、自分の腰骨を削って移植する「骨移植」が必要といわれました。単に手だけの手術かとおもっていたら、だんだんと大がかりになってくるのをみて、あー、これはこういう機会に自分の体のメンテナンスをしろ、というメッセージなのだと思ってあきらめました。

骨移植に使用する骨は、亡くなられたドナー、または組織バンクで無菌化・保管されている提供者の体から利用される場合もありますが、患者自身の骨、または人工の骨が利用される場合のほうが多いようです。骨移植によって、新しい生きた骨が成長する骨格ができますが、「自家骨移植」の場合、患者自身の内部の骨から作られた移植片を使いますから、くっつきやすく、合併症などが起こりにくいといわれます。

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手術は全身麻酔で行われます。麻酔の状態と患者の回復は、麻酔科医によってモニタリングされます。次に執刀医が、骨移植が必要な部位の皮膚を切開します。その後、移植する骨を移植部位にあわせて整形します。ピンやプレート、ねじなどを使用して、移植する骨が固定されます。移植骨がしっかり固定されたら、切開部は縫合で閉じられ、包帯で傷口が覆われます。

と、いえば簡単に聞こえますが、私の場合、偽関節部分を削ってフレッシュ化した部分に腰骨からとった移植骨をあて嵌め、固定する作業にかなり手間取ったそうです。通常のピンだけでは足りず、もう一本固定のためのワイヤーが必要になったとのことで、通常なら2~3時間で終わる手術が4時間もかかりました。

手術後の一夜は経過観察室で過ごしましたが、翌日には大部屋に移り、傷が治癒するまでおよそ2週間の入院を余儀なくされました。骨移植からの回復は、移植の規模やそのほかの条件によって決まります。通常、回復には2週間から3ヶ月を要します。この間、右手はギブスで固定されていますが、2週間後にいったん抜糸のためにギブスを外します。

抜糸後あらためて新しいギブスをはめ、退院しましたが、ギブスが完全にとれるまでにはさらに4週間かかるそうで、さらに最大半年間、激しい運動を避ける必要がある、と医者先生にはいわれました。

回復を待つ間、手術を行っていない部位の筋肉を運動させることで、体を良好に保つことができます。また回復プロセスを促すために、健康的な食事を心がけることが必要とされますが、いかんせん、手術したのが利き手の右手だったために、現在は食事をはじめとして多くの日常的作業を左手で行う、ということになっています。

いわば、にわか左利きであり、いまのわたしは「左ギッチョ」です。

この何気なく使っている「ギッチョ」ということばですが、調べてみると「毬杖(ぎっちょう)」からきています。これは、先端に槌がついた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む、平安時代の童子の遊びが起源です。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、ひだりぎっちょう、左ギッチョといわれるようになった、といわれているようです。

毬杖はその後形骸化し、江戸時代頃までは正月儀式として残っていましたが、無論現在はほとんど行われていません。

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英語では「サウスポー(southpaw)」です。野球やボクシングなどスポーツ競技の左利き選手や、楽器などの左利き演奏者のことをさします。英語でサウス(south)は南を、ポー(paw)は動物の前足を意味します。

その昔、野球場は、午後の日差しが観戦の妨げにならぬよう、バッターからピッチャーを向く方向がやや東向きになるよう設計されるのが一般的でした。このため、右投手が投げる球はほぼ北側から飛んでくることになりますが、左投手の投げる球は南側に近い方角から飛んでくることになります。

投手のその手を動物の前足に例えたことから、南(south)から左手(paw)で玉を投げる投手のことをサウスポーと呼ぶようになったようです。

が、アメリカ南部出身のピッチャーに左腕投手が多かったためサウスポーと呼ばれ始めたという説もあるようです。200年以上も歴史があるといわれる野球のことであり、そのはじめのころに使われるようになった用語のようですから、どちらがほんとうなのかよくわかりませんが。

それはともかく、野球では左利きの人は重宝がられます。スポーツにおいては、左利きであることが有利に働く場合が多く、野球だけでなく、ボクシング、相撲、柔道など直接人と勝負するスポーツや一対一で必ず対戦するようなスポーツにおいては左利きであることが有利に作用します。

これは、右利きと左利きの人口比から左利きが右利きと対戦する機会が多いのに対して右利きは左利きと対戦する機会が少ないからです。右利きにとっては慣れないフォームの相手と戦う不利に加え、左利きが逆方向・逆回転の攻撃をしてきます。このため、多くのスポーツで左利きを利点として戦う選手がトップクラスにいます。

一対一競技だけでなく、サッカーやアイスホッケーといった相手側と対称のコートで行う団体球技の場合、右側には右利きの選手、左側には左利きの選手を配置するのが有利であるとされるようです。

統計では成人人口の8%から15%が左利きであり、また、わずかながら女性よりも男性の方が左利きが多いという統計結果もあります。この割合は古今東西を問わずほぼ一定だといいます。

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左利きは全ての動作を左手で行うと思われがちですが、文字を書くのは右でも、ボールを投げたりするのは左を使うなど、動作によって使う手が異なる場合もあるため、実際には右手で行う動作をすべて左手で行う「完全な左利き」は少ないそうです。

古代の壁画や石像を見ても右利きの方が圧倒的に多かったことが確認されており、このため左利きが生まれるのは文化・教育・食事など後天的要因によるものではないことが分かっています。しかし、なぜ左利きが少数なのか、なぜ10%前後で変動がないのかについては、これほど科学技術や医学が発達した現在でもはっきりとした理由が分かっていません。

左利きが発生する要因とされている説のなかには「自然選択説」があります。これは、人類の長い「戦い」の歴史の中で、左利きの戦士は左手に剣を持ち右手に盾を持って戦うため、心臓を危険にさらし致命傷を負う確率が高くなり、従って右利きの人間より生き残る率が低くなった、という説です。

しかしこの説では、利き腕が遺伝することを前提としていますが、利き腕に関わる遺伝子の存在は確認されていません。また盾を使ったとされる年代や地域は限定されるほか、盾がまだない石器時代から左利きが少数であったこと、盾が廃れた近代になっても左利きが増えないことなどを説明できません。

このほか、DNAや染色体異常などの突然変異により左利きが生まれるとする「突然変異説」もありましたが、右利きと左利きでDNAや染色体に変化がないことは証明されています。

また、左利きが生まれることによって、人間は生物の「種」として多用化することになり、未知の環境変化対して「種の自己防衛」になる、という説もあります。が、利き腕の差異があるだけで、はたして種が守れるのか、という点において議論が分かれるようです。

このほかにもいろいろ説がある中で、もっともらしいのが「脳の半球説」です。ご存知の通り、脳の右側は左半身を、左側は右半身を制御していますが、脳の左側は人間が持つ特有の能力「言語」も制御しています。このため、脳の左側が制御する右半身の方が発達しやすくなる、という説です。

他の霊長類のなかには人間のような話し言葉を使うものはおらず、利き腕の偏りが見られないこともこの説を後押ししています。また、90%前後の右利きの人は言語を制御するのに脳の左半球を使っていますが、左利きの人は左半球の場合と右半球の場合があり可変であることが多いといいます。

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左利きの人が脳卒中の発作に見舞われた場合、右利きの脳卒中患者よりも復帰が早いそうで、左利きの人のほうが左右の脳を有効に使っている可能性があります。

この説を裏付けるため、右利きの脳と左利きの脳の基本的な違いを脳スキャンで確認するいくつかの研究が行われています。その結果、通常の脳の特定部位が各作業に使われている状態で、右利きの人の脳は非常に集中的に使われていましたが、こうした集中化は左利きの人の脳ではあまりみられなかったといいます。

このことから、左利きの人の脳は、脳の各所に機能を分散する度合いのほうが高く、一点に集中させる度合いが低いらしい、ということがわかっています。

これに関連してか、利き腕と脳についてよく言われる説で右利きは理論に優れ、左利きは芸術など感性に優れるとよくいわれます。

前述のとおり人間の左脳は言語野など理論的なものがあります。対して、右脳には感性を司る部位があります。利き腕と脳はクロスした太いつながりがあることが考えられ、左利きの人は、感性が優れているのかもしれません。もっとも、左利きの人は理論的ではない、ということもなさそうですが。

ちなみに、人の言葉を巧みに真似することのできるオウムの90%は、左足利きだそうです。このことからも、ことばを操るということと、脳の働きには何等かの関係がある可能性がうかがわれます。

2004年、英ベルファストのクイーンズ大学博士・ピーター・ホッパーが行った研究によると、人間が右利きになるか左利きになるかは妊娠10週間目の頃に決定しているとされ、これは新発見である、といわれました。

ホッパー教授が、妊娠中の女性1000人に超音波走査を実施した結果、例えば10週間目から12週間目の頃に胎児が左手の親指よりも右手の親指を頻繁に吸っていた場合、子供はほぼ確実に右利きとして生まれてくるという関係性が明らかになったといいます。

スピリチュアル的には、ちょうどこうした胎児の発生の時期、生まれ変わる魂は地上にいる父母を選んでその胎児の中に「滑り込んでくる」といい、この時点で親子関係が決まるといいます。同時に、その後この世に生を受けて一生を送る間の利き腕についての選択肢もこの時期に与えられるのかもしれません。

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しかし、右利きの多い中、左利きで生まれてくるということは、多くの試練にさらされることになります。道具や機械、楽器など、世の中の製品のほとんどは、右利き用に設計されている、といってよく、これは左利きにとって不便なだけでなく、生きていく上においては危険性が高くなる、といってもよいかもしれません。

また一般に左利き用の製品は右利き用に比べ割高であり、生涯にわたって経済的負担を強いられる、ということもあるしょう。

個人差は多く見られますが、大人になるほど利き手の変更は困難です。このため、こうしたビハインドを補うため、日本を始めとする世界の多くの国で、「利き手の変更」を行なわせようとすることが多いようです。

幼少時に周囲の人物が、箸や鉛筆を右手で使うように強いるわけですが、しかしこの「矯正」は本人が望んだものではありません。「矯正」の指導をする親が激しく叱ることも多く、このため、うまく腕を動かせないストレスが加わるなど、心理的な悪影響が少なくないようです。

洋の東西を問わず、かつては左利きを身体障害者と考える人・地域は多く、さらには知的障害の一種のように扱われることもありました。西欧では20世紀前半までは、利き手の矯正はかなり高い比率で行われており、時には厳しい体罰を伴ってでも矯正されていました。

近年、左利きは障害ではないことが広く知れ渡ると同時に個性のひとつとして考えられるようになったため、矯正する親の割合は減ってきました。しかし、現在においても文字筆記上の不便さから学校受験などで不利になると考え、また生活上の不便を考えて、子供に矯正を促す親も多いようです。

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一方では、上の「脳の半球説」を信じ、我が子をクリエイティブな能力のある子供に育てようと、右利きの子供をわざわざ左利きにしようとする一部の親もいます。その効果?のほどはよくわかっていませんが、「変更しようとする」ということは、つまりその子は既に右を多用しているわけです。

心身共に著しい成長を遂げつつあるこうした幼少期に、強い影響力をもって親がその成長に関与することがはたしてその子にとって良いのかどうか、いずれどういう影響を与えることになるのか、という面を理解した上で矯正にのぞんでいるのでしょうか。

ただ、子供のころからそうした「試練」を克服することこそがその子の人生にとってはプラスになる、という考え方もしかりであり、その良否のジャッジはそれぞれの家庭で考えるべき問題なのでしょう。もっとも、そうした是非をそれぞれでよくよく考える、ということが大前提なように思いますが。

一方では、「右」と「左」とにそれぞれ意味をもつ文化では、右手左手を使い分けが定められている場面もあり、それを無視すれば礼儀やマナーに反することにもなるため、子供が左利きの場合、あえて利き手を右にしようとする場合もあります。

時と場所によっては、利き手にかかわらず右手でなければならないことがある場合もあり、例えばインドでは左手は一般的に排便の処理をする「不浄の手」であり、食べ物を左手で食するのは多くの場合マナー違反です。

また、日本の多くの「道」や文化では利き手に関わらず、右優位のしきたりが決まっている事があります。書道・茶道・花道・剣道・弓道等や日本料理等においては、時に左手を使うことがルール違反やマナー違反になることもあるようです。

とくに武道の場合には、右手を優先することが時には危険回避の為に有効な場合もあるようです。敵としての相手には圧倒的に右手使いが多いわけであり、これに対して左手で対処すると命を落としかねない、というケースもあるのかもしれません。

もっとも、日本の場合、利き手の概念に囚われず、”「道」としての心を培う” ことが大事、とする分野も多いようです。そのあたりの文化的な違いについては、他の国との比較において研究してみると面白そうです。

さて、病後はあまり手を使わない方がよさそうなので、今日はこれくらいで。

このテーマ、少し面白そうなので、次回気が向けばまた続編を書いてみるカモ、です。

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