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ヒトというサル

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今年は申年です。

よく人間はサルから進化したといわれます。いったいいつごろの時代のことからなのか、についていえば、最近、「最古の人類」として注目をあびている原人がいます。

アフリカのチャド北部で出土したサヘラントロプス・チャデンシスがそれです。フランスのポワティエ大学の、ミッシェル・ブルネイという古生物学者が2001年に発見したもので、年代は700〜600万年前と推定され、現在のところ世界最古の人類の祖先とされています。

ただし、頭骨のみの出土なので「直立二足歩行」が可能であったかについての確証はいまだ得られていません。が、その頭骨にある脊髄につながる孔が真下に向いていることから、直立していた可能性が高いとされます。

ヒトに代表される霊長類から特徴づける数多くの特徴のうち、直立は最も初期に進化した形質の1つということになるため、これがチンパンジーと分岐したのちのヒトの祖先であるという説が有力です。

このように、我々の祖先とされる過去の人類の軌跡を辿る学問を人類学、もしくは古人類学といいます。その中でとくに重要視されるのがこうした化石であり、これを「化石人類」といいます。人類の進化を考察していく上で重要な資料であり、これまでの研究結果から、化石人類は大きく、猿人、原人、旧人、新人に大別されます。

このうち、旧人は古代型ホモ・サピエンス、新人は現代型ホモ・サピエンスに大別され、いずれも現在の人類の生物学的な名称、ホモ・サピエンスにかなり近いとされる化石人類です。とくにこのうちの新人は現在を生きる我々とほぼ同じであり、形質上の差はほとんどない、といいます。

人類の進化を研究していく場合には、主にこれらの4種で考察していきますが、これらの共通点は「直立二足歩行」であり、これがほかのサルとは違うところです。ただ、発見される化石は体の一部にすぎないため、直立二足歩行をしていたかどうかについては、これらのうち発見された腰や足の骨で判断していきます。

二足歩行をしていれば、当然これらの足腰の骨は重い頭骨を支えることを可能にするために頑丈にできています。また、頭蓋骨が発見されれば、その頭蓋容量も各段階で大きく変化します。脳が大きい場合、骨格はそれに見合ったものになるため、直立歩行の程度がわかるとともに、その進化の程度もわかるわけです。

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猿人段階のアウストラロピテクス類、原人段階のホモ・エレクトゥス類、旧人段階のネアンデルタール人などを中心に、こうした化石人類には世界的に多数の発見例があります。が、日本においては土壌・気象・気候・地形などいずれをとっても人骨ののこりにくい条件がそろっているため、出土例が少ないようです。

もっとも、化石人骨が、猿人、原人、旧人、新人に大別できるとしても、猿人→原人→旧人→新人という単線的進化を遂げたものではなく、人類の進化はそのような単純な道筋をたどったものではないといいます。例えば猿人と原人にはその特徴に共通な部分が多数ありその部分の発達がどちらが先とは言えない場合があります。旧人と新人も同じくです。

このため、こうした分類のみならず、人類の進化の道筋は、資料が今よりも少なかった時代から、いく度も仮説が立てられ、検証を繰り返してはその都度修正されて、何度も書きかえを余儀なくされてきました。

ただ、その起源についてはだいたい統一見解ができており、ヒト属(ホモ属)はこれまではおよそ200万年前にアフリカで生まれたアウストラロピテクス属から別属として分化したとされていました。上述のサヘラントロプスは700万〜600万年前のものとされるため、この定説が覆されようとしているわけです。

ま、もっとも地球の長い歴史から考えれば、200万年前も600万年前もそうたいして違いはありません。我々現代人にすれば、どちらも似た「サル」のようなものであり、強いて言えばかなり今の私たち、「ヒト」と近しいとされる新人に多少の親近感を覚える程度です。

この新人から進化した現生人類を意味する「ホモ・サピエンス」の「サピエンス」は賢い、知的を意味しますが、だいたい25万年前に現れ現在に至っているとされます。

40万年前から25万年前の中期更新世の第二間氷期までの間に、旧人段階であった彼らが頭骨の拡張という著しい進化を遂げ、と同時に石器技術を発達させて、ホモ・サピエンスとなりました。

この少し前の限りなく旧人に近い人類は、正式な学名では、ホモ・エレクトゥスといいますが、これが、ホモ・サピエンスへ移行したとされる時期や場所については、ある程度の直接的証拠があるといいます。ホモ・エレクトゥスがアフリカから他の地域へ移住した間にホモ・サピエンスへの種分化が起きたこともわかっているそうです。

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ただ、アフリカのどこで起きたかについてまではわかっていません。その後アフリカとアジア、ヨーロッパでエレクトゥスが徐々にホモ・サピエンスに入れ替わっていきました。

こうしたアフリカを起源とするホモ・サピエンスの移動と誕生のシナリオは単一起源説、あるいはアフリカ単一起源説と呼ばれています。一方、古人類学には、多地域進化説もあり、これを信奉する学者たちは単一説学者との間で激しい議論を戦わせているようです。

とまれ、世界に分散した人類はその後、7万年前から7万5千年前に、インドネシア、スマトラ島にあるトバ火山の大噴火の影響を受けます。噴火により地球は気候の寒冷化を引き起こし、その後の人類の進化のみならず地球環境全体に大きな影響を与えたとされます。

これを「トバ事変」といいます。このとき、大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断し、地球の気温は平均5℃も低下しました。これによる劇的な寒冷化はおよそ6000年間続いたとされ、その後も気候は断続的に寒冷化するようになり、地球はヴュルム氷期と呼ばれる氷河期へと突入しました。

この時、この時期まで生存していた人類の傍系の種はほとんど絶滅しましたが、生き残ったのは、いわゆるネアンデルタール人と呼ばれる旧人と新人である現生人類の二種とされます。しかし、現生人類は、このトバ事変の気候変動によって総人口が1万人までに激減しました。

また、ネアンデルタール人はその後、2万数千年前までに絶滅しました。その原因はよくわかっていないようですが、生き残った現生人類との暴力的衝突により絶滅したとする説、獲物が競合したことにより段階的に絶滅へ追いやられたとする説、現生人類と混血し急速に現生人類に吸収されてしまったとする説など諸説あります。

こうして唯一人類として生き残ったのが現生人類、ホモ・サピエンスです。しかしこの著しい人口減少では「ボトルネック効果」が生じました。ボトルネック効果という名称は、細いびんの首から少数のものを取り出すときには、元の割合から見ると特殊なものが得られる確率が高くなる、という原理から命名されたものです。

つまり、現在の全人類はこの時生き残った一握りの人々の子孫においては、少数であるがゆえに、その遺伝的多様性が失われてしまいました。個体群のごく一部のみが隔離され、その子孫が繁殖した場合には、同様の集団ができます。この場合は最初に隔離された少数の個体(創始者)の遺伝子型のみが引き継がれるといいます。

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現在、人類の総人口は70億人にも達しますが、遺伝学的に見て、現生人類の個体数のわりに遺伝的特徴が均質であるのはこのトバ事変のボトルネック効果による影響であるといいます。しかも、遺伝子の解析によれば、現生人類は極めて少ない人口、すなわちわずか1000組~1万組ほどの夫婦から進化したことが想定されるそうです。

また、現代人=ヒトに寄生するヒトジラミは2つの亜種、主に毛髪に寄宿するアタマジラと主に衣服に寄宿するコロモジラミに分けられます。近年の遺伝子の研究からこの2亜種が分化したのはおよそ7万年前であることが分かっています。

このことから、およそ7万年前に生き残った現生人類は衣服を着るようになり、新しい寄宿環境に応じてコロモジラミが分化したのではないか、と研究者らは考えました。時期的に一致することから、トバ火山の噴火とその後の寒冷化した気候を生き抜くために、このころから人類は衣服を着るようになったのではないかと推定しています。

これら生き残った現生人類の中から、さらに約3万年前にクロマニョン人という人類が現れます。クロマニョン人とは、南フランスで発見された人類化石に付けられた名称であり、1868年クロマニョン (Cro-Magnon) 洞窟で、鉄道工事に際して5体の人骨化石が出土し、古生物学者ルイ= ラルテによって研究されました。

同じトバ事変で生き残ったネアンデルタール人を旧人と呼ぶのに対し、このクロマニョン人が、新人と呼ばれる現生人類の代表です。そして、これが旧人と新人の分かれ目です。

このクロマニョン人は後期の旧石器時代にヨーロッパに分布した人類です。カルシウムの入った骨は見つかっておらず、化石でのみ発見されるので、「化石現生人類」とも言われます。死者を丁重に埋葬し、呪術を行なった証拠もあるなど、進んだ文化を持っていました。

また、精巧な石器や骨器を作り、動物を描いた洞窟壁画(ラスコー、アルタミラ、その他多数)や動物・人物の彫刻を残しました。一部の学者によれば、狩猟採集生活をし、イヌ以外の家畜を持たず、農耕も知らなかったといいます。ただこれは、資源が豊富だったのでより効率の高い食糧生産方法が必要なかったためです。

このため、農耕以外の生活史を見ればほぼ、その外見も含め、現在のわれわれとかなり似通っています。単一起源説によれば、このクロマニョン人の先祖の現生人類は、7万から5万年前にアフリカで生まれて外へ移住し始め、結局ヨーロッパとアジアで既存のヒト属と置き換わりました。

こうしたヨーロッパ人と日本人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であることまでがわかっています。これが現代人、つまりホモ・サピエンスといわれる我々の直接的な先祖になります。

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この「ホモ・サピエンス」という言葉ですが、この学名は1758年にカール・フォン・リンネによって考え出され、ラテン語の名詞で「homō」(属格の「hominis」)は「人間」を意味し、ラテン語で「賢い人間」を意味します。現生人類の属する種の学名であり、新人に近いネアンデルタール人などの絶滅した旧人類も含める場合もあります。

解剖学的にみれば、350万年前ごろの猿人、アウストラロピテクスのものをそのまま引き継いでおり、発達した二足歩行という特質が頭蓋骨に変化をもたらし、声道がそれまでの猿人よりもさらにL字形になったものを継承しています。

その後、道具を使うようになりますが、その使用は特に脳の継続的な増大をもたらしました。そしてそのことが、他の動物が特徴的にもたない、顕著な「言語」を生み出しました。

石器は260万年前に初めてその証拠が現れますが、一方、単発的な火の使用の開始は、170万年から20万年前までの広い範囲で説が唱えられています。最初期は、火を起こすことができず、野火などを利用していたものと見られており、日常的に広範囲にわたって使われるようになったことを示す証拠が、約12万5千年前の遺跡から見つかっています。

歴史においてホモ・サピエンスが登場して以後、この三種の神器、すなわち言語と道具、火の使用によって、より創意工夫に長けた人類となり、さらに環境適応性の高いホモ・サピエンスとなっていきました。そして以後、疑いようもなく、地球上で最も支配的な種として繁栄してきました。

このホモ・サピエンスは、日本語では生物学的に「ヒト」といいます。いわゆる「人間」の生物学上の標準和名であり、生物学上の種としての存在を指す場合、カタカナを用いて、こう表記することが多いようです。

英語圏ではHumanと呼びます。広義にはヒト亜族(Hominina)に属する動物の総称であり、狭義には現在生きている人類、つまり現生人類という意味です。片やホモ・サピエンスは「学名」になります。上の標準和名などと異なり全世界で通用します。国際自然保護連合が作成した絶滅危惧種のレッドリストでは、「軽度懸念」(低危険種)とされています。

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ややこしいので、以下、日本風の呼び方、「ヒト」で統一します。古来「ヒト(人)は万物の霊長であり、そのため人は他の動物、さらには他の全ての生物から区別される」という考えは普通に見られます。しかし、生物学的にはそのような判断はありません。

「ヒトの祖先はサルである」と言われることもありますが、生物学的には、ヒトはサル目ヒト科ヒト属に属する、と考えられており、「サルから別の生物へ進化した」とは考えません。アフリカ類人猿の一種にすぎず、生物学的に見ると、ヒトにもっとも近いのはゴリラやマントヒヒなどの大型類人猿です

では、生物学的な方法だけでヒトと類人猿の区別ができるか? と言うと、現生のヒトと類人猿は形態学的には比較的簡単に区別がつきますが、DNAの塩基配列では極めて似ているし、また早期の猿人の化石も類人猿とヒトとの中間的な形態をしており、線引き・区別をするための点は明らかではありません。

結局のところ、「ヒト」というのは、直立二足歩行を行うこと、およびヒト特有の文化を持っていることで、類人猿と線引き・区別しているだけです。つまり、生物学的な手法・視点からみれば、ヒトもサルの一種にすぎない、ということになります。

そこで、このヒトをサルの一亜種、一生物としてみていこうと思います。

直立二足歩行によって、ヒトは体躯に対して際立って大きな頭部を支える事が可能になりました。その結果、大脳の発達をもたらし、極めて高い知能を得た。加えて上肢が自由になった事により、道具の製作・使用を行うようになり、身ぶり言語と発声・発音言語の発達が起き、文化活動が可能となりました。

分布は世界中に及び、もっとも広く分布する生物種となっていますが、その学習能力は高く、その行動、習性、習慣は非常に多様です。民族、文化、個体によっても大きく異なりますが、同時に一定の類似パターンが見られます。また外見などの形質も地域に特化した結果、「人種」と形容されるグループに分類されるようになりました。

コーカソイド・モンゴロイド・ネグロイド等がそれですが、しかし全ての人種間で完全な交配が可能であり全てヒトという同一種です。

サル目としては極めて大型の種であり、これより大きいものにゴリラとオランウータンがいますが、ヒトも含めこれらはいずれもサル目としては群を抜いて大きい部類に入ります。

なお、動物一般には頭部先端から尻、または尾までの長さを測定しますが、ヒトでは尾に該当する部位が退化しており標準の大きさとして直立時の高さ(身長)を測定することが多いので、他種との直接の比較は難しい、ということになります。

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体長は雄の成体でおおよそ160〜180cm、体重は50〜90kg程度。雌は雄よりやや小さく、約10%減程度と見ていいようです。独自の特徴として、完全に直立の姿勢を取れるという点があり、頭が両足裏の間の真上に乗る位置にあります。また、乳幼児を除いて、ほとんどの場合二足歩行を行います。

「前足」の付け根が背中面の位置に近いところにあり、これは別名「手」と呼ばれます。一方、「後ろ足」は前足よりも長く、かかとがあるのが特徴です。

体表面のほとんどの毛が薄く、ほとんどの皮膚が露出しています。が、顔面の上から後ろにかけて毛が密生しています。これは「頭髪」と呼ばれ、雄の個体によっては年齢を増すにつれて抜け落ちます。この頭部の毛に覆われる部分以外は肌はほとんど露出していますが、雄は顔面下部に毛を密生することがあります。これは「髭」と呼ばれます。

また、目の上、まぶたのやや上に一対の横長の隆起があり、ここに毛を密生しますが、これは「眉」といいます。鼻は前に突出し、鼻孔は下向きに開きます。また、口の周囲の粘膜の一部が常に反転して外に向いていますが、これは「唇」と呼ばれる部位です。

ヒトは往々にして「裸のサル」といわれます。しかし、実際には無毛であるわけではなく、手の平、足の裏などを除けば、ほとんどは毛で覆われています。とはいえ、その大部分は短く、細くて、直接に皮膚を見ることができます。

このような皮膚の状態は、他の哺乳類では水中生活のものや、一部の穴居性のものに見られるだけです。ヒトの生活はいずれにも当てはまらないので、そのような進化が起きた原因については様々な説があるようですが、定説はありません。

代表的な理由としては、外部寄生虫がとりつきにくくする、あるいはそれらを取りやすくするための適応である、という説。また、体表を露出することで、放熱効率を上げて、持久力を上げるための適応。などがあります。また、性的接触の効果を上げるための適応であるという意見や、一時期に水中生活を送ったなごりという説もあります。

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この水中生活において水に浸からない頭髪だけが残ったという説があり、これは「水生類人猿説」といわれるものです。これはこれで一家言あり、説明が長くなるのでやめます。が、年齢を増すと頭髪が抜け落ちてしまう雄の個体は、水中での活動が活発だった個体の生き残りかもしれません。河童?

本当に水中にたかどうかは別として、体を何かで覆うことは、ほとんどの生息域のヒトにおいて行われます。そして、これはいわゆる「衣服」と呼ばれます。

これをヒトの体が毛で覆われていないことから発達したと見るか、衣服の発達によって毛がなくなったと見るかは、判断が分かれるところです。が、上でも述べたように、衣服に付くシラミがコロモジラミ、頭髪に付くのがアタマジラミであり、この両者が存在することから、ヒトはある時期に衣服を身に着ける種へと種分化を生じたものと想像されます。

もっとも、体に着用するものには、体の保護を目的とするものと、装飾を目的にするものとがあり、また両方を兼ねる場合も多いようです。体の保護を目的とするものとしては、まず腰回りに着用し、生殖器を隠すものが最低限であるようにみえます。

一方、装飾にはさまざまなものがありますが、手首や首など、細いところに巻くものがよく見られ、装飾目的はセックスアピールでしょう。雄雌ともに体に直接、文字や絵を描き込んだりすることもあります。いわゆる「入れ墨」です。

また、体の一部に穴をあける個体もおり、これはピアスといわれます。さらに、頭髪の上に何かを突出させる形の装飾は、非常に多くの民族に見られます。

ごく稀にですが、裸族と呼ばれる何も身に付けない習慣を持つヒトの集団が存在しますが、全く何一つ着用しない例はまずありません。生殖器を隠す事は最低限であるため、裸族に属するヒトであっても、オスはペニスケースを装着している場合が多いものです。

この衣服というものの着用が常時となったヒトは、衣服を着用せず、自らの身体を他の個体にさらすことに嫌悪感を持つようになりました。これは「羞恥」と呼ばれる習性であり、独特の文化といえます。生殖器および臀部をさらすことに対しての嫌悪感は多くのヒトで共通しています。

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どこをさらすことに嫌悪感を持つかについては地域差がありますが、ヒトのメスの場合は膝より上部の下肢、あるいは乳房をさらすことに嫌悪感を覚える例が多いようです。しかし、それらをさらすことに全く嫌悪感を持たないヒトも存在します。また、さらす側の個体のみならず、さらされる側の個体も嫌悪感を持ちます。

このため、多くのヒトの社会では、身体の特定部位を必ず衣服で覆うことを義務づける規範を持つに至りました。一方でヒトの中には、そのような規範をあえて破り、身体をさらすことに快感を覚える個体も存在します。こうした個体には、自らさらして喜ぶ場合と、他の個体にさらさせてそれを見て喜ぶ場合とがあるようです。

普段は衣服によって隠されている生殖器は、性交時には必ずさらす必要があるため、脱衣行為の解放感と快感は性的興奮と密接に結びついているといわれます。そしてこうした快感は、ストリップやポルノグラフィなどの性風俗文化の発展にもつながっていきました。

体の特徴をみていきましょう。胴を支える脊椎は骨盤によって受け止められます。そのため、他の霊長目とは違い直立姿勢によって発生する上部の加重軽減するためにやや弓なりに組まれています。

ただし、全ての加重を軽減できるものではなく、そのことがヒト独特の脊椎、とくに腰椎に加重ストレスがかかった損傷状態である「腰痛」を引き起こす要因になります。

雌では胸に一対の乳房が発達します。また、腰骨は幅広くなっており、腰の後部に多くの筋肉と脂肪がつき、丸く発達します。これは「尻」と呼ばれる部位です。尻の隆起は主として二足歩行によって必要とされたために発達したものと考えられています。しかし雌の尻は脂肪の蓄積が多くてより発達し、乳房の発達と共に二次性徴の一つとされます。

特に、雌における乳房は性的成熟が始まるとすぐに発達が始まり、妊娠によってさらに発達します。とはいえ、非妊娠期、非保育期間にもその隆起が維持される点は、他の生物にみられない特異なものです。これには、性的アピールの意味があるとされる意見もありますが、その進化の過程や理由については様々な議論があります。

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前足は「腕」、特に尺骨・橈骨より先の部分は「手」と呼ばれ、歩行には使用されません。あえて四足歩行を行う場合には手の平側を地につけ歩き、チンパンジーなどに見られるように手首を内側に曲げて歩く、いわゆる「ナックル・ウォーク」は一般的ではありません。

後足は「脚部」、特に地面に接する部分は単に「足」とも呼ばれ、歩行のために特化しています。膝を完全に伸ばした姿勢が取ることができ、この膝は、幼いときの四足歩行時にここを接地させるので肥大化してぶ厚くなります。

かかととつま先がアーチを形成し、間の部分がやや浮きますが、これは「土踏まず」と呼ばれるものです。これによって接地の衝撃を吸収します。まれに土踏まずのほとんどない個体がいますが、こうした個体の持つ足先は「偏平足」と呼ばれます。

生殖状況をみると、他のほ乳類と同じく体内受精を経て母親の子宮内で子供を育てます。妊娠期間は約266日、約3kg〜4kg程度で生まれます。新生児はサル目としては極めて無力な状態であります。一般のサル類は、生まれてすぐに母親の体にしがみつく能力がありますが、ヒトの場合、目もよく見えず、頭を上げる(首がすわる)ことすらできません。

これは直立歩行により骨盤が縮小したために、より未熟な状態で出産せざるを得なくなったためと考えられています。ただ、出産直後の新生児は自分の体を支えるだけの握力があります。とはいえ、これは数日で消えることが知られています。

また、体毛も出産までは濃く、その後一旦抜けおちます。約2年で次第に這い、立ち歩き、言葉が操れるようになります。栄養の程度にもよりますが、10年から20年までの間に性的に成熟を完了し、体の成長もその前後に完成します。だいたい10歳〜15歳のころに生殖能力を得るようになります。

10歳未満で生殖能力を得る個体も存在しますが、雌の場合はまだ身体が成長途中であるために、妊娠には大きな危険が伴います。個体が成育する文化によりますが、雌雄共に15歳を過ぎたあたりから生殖に対し活発になり、40歳くらいまでは盛んな時期が続きます。

雄の場合、その活動は次第に低下しますが、老齢に達しても完全になくなるわけではありません。ときには老いても異常なまでに活動が活発な個体もいます。それに対して雌では通常50〜55歳くらいに閉経があり、それを期に生殖能力を失います。

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サル目の中で最も多産です。生物学上、一個体のヒトの雌が生涯で産む子の数は最大で15人前後も可能であるといわれ、双子、三つ子を産むことができるサル目はヒトだけと言われています。ただし、現在では豊かな社会に生息するヒトほど少子化傾向にあります。

しかし、現在のような文明を得る前の社会では多産多死であり、母子ともに高い死亡リスクを抱えていました。その後、薬草の時代から発達した医学、農業技術の進歩、公衆衛生の普及などが大きく影響し、19世紀末以降、ヒトの個体数は著しく増加しました。

現在のヒトの社会では、成熟したオスが成熟したメス、非成熟個体(子供)に対して優越し、場合によってはそれらの個体への干渉権や支配権を持つことが多いようです。とりわけオープンな集合社会の決定の場では、成熟したオスの優位は非常に強く、かつ明白です。

逆に家庭内など閉鎖的な社会では、成熟したオスの権威の優越性は弱まり、不明瞭となるか、時にメス優位の事例も出てきます。が、通常、非成熟個体やメスに対しては、劣位の代償として成熟したオス個体からの恩恵的な「庇護」が一定程度与えられます。ときにその庇護を嫌がる雌もおり、その場合、それまで培われた生活共同体は崩れます。

家系の継承理念については、父系と母系、双系の三種類がありますが、現在のヒトのさまざまな社会における家系理念を見ると父系が一番多く、母系や双系は少ないようです。古代日本では、社会の基本単位は血縁にもとづく氏族あるいは出自集団であり、その際には、父系も母系もありました。つまり、双系です。

ただし、父系継承の社会であれ、母系継承の社会であれ、もう一方の系統で自分と血縁のある個体に対しても近縁個体としての情を抱くのが通常であり、実際は現在のすべての社会において、ヒト:ホモ・サピエンスは、双系的な親族意識を持つといえます。

父系・母系・双系にかかわらず、理想的な環境、すなわち非常に長生きすることに適した環境で育ったヒトが、各種の寿命を縮める要因のない状態で一生を終える場合の最大寿命はおよそ120歳程度と想像されます。

しかし、実際には様々の要因により寿命はそれよりも短くなり、また雌の方が5年から10年程度平均寿命が長くなるようです。かつてヒトの平均寿命ははるかに短く、30〜50年程度でした。現在でも、栄養条件の劣悪な環境下では、この程度になることが多いようです。

一方では生殖可能な年齢を過ぎた後の生理的寿命が非常に長いのがヒトの特徴であり、これが顕著なアジアのある島国では、雌の平均寿命が87歳、雄の平均寿命が80歳にも及ぶようです。

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食生活もみてみましょう。ヒトは、植物の葉や茎、根、種子、果実などの植物食、陸上脊椎動物、昆虫、魚介類などの肉食と非常に幅広い食性を有する雑食性です。

多くのサル類に見られるような昆虫などの小動物の捕獲のみならず、それに加えてより大型の哺乳類や鳥類を集団で狩りをすることによって捕獲する狩猟、魚介類や海洋哺乳類を利用する漁など、動物性の食料の利用はサル類の中では抜きん出ています。これは、高い知能や文化的な情報の蓄積によるところが大きいようです。

一般的傾向として、脂肪とタンパク質の豊富な肉、糖質を多く含んだ甘いものを好みますが、肉への嗜好に対しては、これが大脳の発達を促したという説もあります。しかし肉の摂取量については地域差がきわめて大きく、肉を食べず、植物性の食品のみを好む個体もあります。これをベジタリアンと呼びます。

食物にはしばしば塩味の付加が行われますが、これはヒトの発汗機能が他の動物に比べて非常によく発達しており、大量の塩分の摂取を必要としているからです。菌類食の習慣も広範にみられ、上でも述べたアジアの島国のように藻類を好んで摂取する地域もあります。

肉食では、陸上脊椎動物と魚類(海水魚と淡水魚)の摂取が最も一般的ですが、沿海部や島嶼に居住する個体には海産の軟体動物(貝や頭足類)や甲殻類も好まれます。

氷河期の終わりの最終氷期ごろから、野生のものを採るのではなく、食料を自ら育てること、つまり農耕や牧畜が多くの地域で行われるようになりました。この結果、各地で地域に合ったさまざまな形の農業が発達し、現在では、食料は大部分がこれで賄われています。

動物としては極めて特殊な食性として、エタノールを好みます。エタノールはカロリー源として優れているものの、同時に強い毒性を示し、中枢神経を麻痺させる作用があります。これを「酔い」といいます。しかし、ヒトはむしろこの麻痺を快感として受け入れてきました。

もっとも、エタノールの嗜好には個体差が大きく、あまり好まない個体や、より自然な生き方を望む個体には嫌悪を示す個体も多いようです。なお、東アジア系のヒトの中には、遺伝的にアセトアルデヒド分解酵素を持たず、エタノールを摂取できない個体もいます。

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ヒトは、環境を作り替える動物であると言われます。一定の住居をもつ民族が農業を行う場合は、広い区域を加工し、また、作物や家畜などを守るため、人為的に特定の生物を維持し、その天敵を攻撃します。

ヒトの生活の場には、その住居を使用する生物(ツバメなど)、ヒトの植物の食べ残しなどを食料とする動物(ゴキブリなど)、吸血性の昆虫(ノミなど)、雑草などさまざまな特有の生物が集まっており、それらをまとめて人間生態系ということがあります。

一方でヒトが環境を作り替えることにより、従来その環境に生息していた動植物が駆逐されるということが頻発しています。その過程で多くの動植物が絶滅しています。特定の動植物が他の動植物を駆逐し、絶滅に追いやる例はヒト以外でも見られますが、ヒトによって絶滅させられた動植物の種類はそれらより桁外れに多くなっています。

またヒトが環境を作り替えることにより、 ヒト自らにとっても生息困難な環境へと変化する場合もしばしば見られます。肥沃な土地だったものが、ヒトの生息によってヒト自らにとってもあまり好ましい環境とは言えない状態へと変化するといった例は後を絶ちません。

中東の砂漠地帯などはその好例です。こうした地域ではヒトの生息数が著しく減少しているとともに、他のヒトの生命を脅かす好戦的な「ヒトデナシ」が現れるようになっています。

極東の小さな島国のヒトもまた、科学技術におぼれ、大きな地震があった際にそれによって自らその環境を著しく汚染させました。そのほかにも自分たちが生きんがために多くの他の生物や植物の生を危うくしています。

その環境を変え続けることにより、いずれまた大自然によって大きな鉄槌が加えられることでしょう。

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赤は今年の幸運色?

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明日15日は、小正月(こしょうがつ)の中日です。

今日14日から16日までの3日間のことであり、元日から1月7日までを大正月と呼ぶのに対して、この三日間をこのように呼ぶようです。正月の実質的な終わりと位置づけられています。

松の内とは、古くはこの小正月まででした。この日まで門松や注連飾りを飾っていたものが、江戸時代に徳川幕府の命により大正月までとされたことから、以後江戸庶民の正月は1月7日までとなりました。

寛文2年(1662年)に江戸幕府により、江戸の城下に町触として発せられた「飾り納め」を指示する通達であり、以後、この松の内短縮発令は徐々に関東を中心に全国に広まっていったようです。

この時同時に小正月の終わりに行う行事である「左義長」、いわゆる「どんど焼き」も禁止されました。これは、注連飾りなどを燃やすこの火祭りを止めさせ、火事の多かった江戸における火災予防を計ろうとしたものです。

それにしてもなぜ、江戸幕府が7日を正月治めに指定したか、ですが、その理由のひとつは、1月7日が、人日(じんじつ)と呼ばれる、五節句の一つであったからです。この日には七種粥(かゆ)を食べることから七草の節句ともいわれます。

古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしており、そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていました。

また、この日には7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七草粥となり、平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着しました。人日を含む五節句は江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝うようになりました。

徳川幕府が、正月を7日までと区切ったのはこうした故事に基づいており、またこれにより、庶民の左義長の習慣をやめさせることで、できるだけ江戸の火事を防ごうとしたわけです。

また、従来よりも早めに正月を終わらせたほうが、景気もよくなる、と考えたのでしょう。いつまでも正月気分で遊んでいないで、さっさと働け、ということであり、徳川幕府の方針でもあった質素倹約の一環としてこの正月期間の短縮が行われた可能性もあります。

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がしかし、正月ぐらいゆっくりさせろよ、ということで、この松の内短縮令はなかなか全国的には広まらず、当初守られていたのは江戸をはじめとする関東地方だけだったようです。広まらなかった理由のひとつには、その昔は、小正月には「元服」の儀式を行っていた、ということもあったようです。

男子の成人を示すものとして行われる、武家社会における典型的な通過儀礼の一つであり、数え年で12~16歳の男子がこの日、氏神の社前で大人の服に改め、角髪(みずら)と呼ばれる子供の髪型を改めてもとどりを結い、冠親により冠をつける、というものです。

武士の一生においては重要な儀式であり、それが行われる小正月までは、子供のままでいさせてやりたい、ゆっくりさせてやりたい、という親心もあり、従来の小正月を廃するのは嫌だ、という武家も多かったと考えられます。

ちなみに、1月15日が成人の日という国民の祝日となったのは、このように、かつてこの元服の儀を小正月に行っていたということからきています。ただ、その近年では元服との関連がわかりづらくなっており、小正月自体を正月の名残と知っている人も少なくなったこともあって、2000年から成人の日は1月第2月曜日に変更されています。

正月が東京だけでなく、全国的にも7日までというふうに定着するようになったのは、富国強兵策のために「国民総生産」が求められた明治以降のことのようです。江戸幕府と同じように明治政府もいつまでも正月気分で庶民を遊ばせていてはまずい、と思ったようです。

その後、大正・昭和と時代が変遷するにつけ、この正月が7日までという風習は定着し、休日は7日まで、とするのが通例となりました。このため、ちょっと前までは、巷の店舗などでも、1月5日ごろから7日まで休業していた店が多かったようです。

その後1980年代前半になって、百貨店・スーパーマーケットなどの大型店を中心に正月三ヶ日が終わった4日から営業するところが増えました。また、昭和63年には、行政機関を対象として、12月29日から1月3日までを休日とする、「行政機関の休日に関する法律」が定められました。

これにより、お役所では正月と週末が重ならない限りは、正月4日から出勤が義務付けられるようになり、一般の企業や商店もこれに倣うようになりました。なので、今年のように、正月三ヶ日の翌日が月曜日といった年では、まだ正月気分も冷めやらぬ中、国民のほとんどが、仕事始め、ということになるわけです。

もっとも、24時間営業のコンビニエンスストアの登場などの生活様式の変化により、この不況のさなかにあって、正月なんてないよ、という小売業も増えており、1990年代以降は元日のみ休業し、翌2日から短時間体制での営業を始める店も多いようです。

その昔は、正月7日までは閉まっていることが多かったものですが、最近では大型店など店舗によっては、短時間体制ながらも元日も営業することも多くなりました。また、ほとんどの店舗の場合は4日ごろから平常営業に戻っているようです。

このように、その昔は15日までが正月だったものが、時代の変遷とともにどんどんと正月は短くなってきており、15日が7日に、7日がさらに短くなりつつある傾向についてはいろいろ議論もあるでしょう。日本人がより働き者になった、ということで良しと考えるべきなのか、あるいは余裕のない人が増えてきている、と考えるべきなのでしょうか。

私としては、正月早々そんなに焦らなくてもいいではないか、昔のようにのんびりとした正月を始めればいいじゃないか、と思います。どこかのんびりしていた昭和の時代を懐かしく感じるわけですが、みなさんはいかがでしょうか。

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とまれ、暦上は、小正月も今週末で終わりです。この日には正月飾りである門松やしめ飾りを焼くどんど焼きが行われること地域も多いようです。江戸では幕府によって禁じられましたが、その他の地方ではそのまま風習として残り、現在に至っています。

その多くは、1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物などを持ち寄って焼きます。

その火で焼いた餅や団子を食べるとその一年は健康で過ごせるといわれ、またどんど焼きのあとに残った灰を持ち帰り自宅の周囲にまいても、その年の病を除くと言われているようです。

いつの時代からこうした行事が行われていたかを調べてみたところ、鎌倉時代には既におこなわれていたようです。起源は諸説あるようですが、有力なものは平安時代の宮中行事だとするもので、これは当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」と言う杖で毬をホッケーのように打ち合う遊びがあったことに由来します。

この当時既に正月は小正月である1月15日までとされており、宮中では、清涼殿(現京都御所)の東庭で青竹を束ねて立て毬杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いていました。そして、その炎が高く上がるかどうかなどにより、その年の吉凶などを占ったとされています。

この毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれるようになり、これが民間に伝わり、現在一般的な「左義長」という字があてられた、とされますが、なぜこの字をあてるようになったのかは、よくわからないといいます。

一説によれば、江戸時代に行われた三毬杖において、左に仏教の書(左義)と、右に儒教の書(右義)をそれぞれ置いて、どちらの宗教が優れているか火をつけたところ、仏教の書が焼けずに残ったことから、仏教(左義)の方が優れている、とされるようになった、という話もあるようです。

ここで言う「義」とは、宗教用語では「意味」をさします。たとえば仏教は、当初は新しい宗教であったため、他と比較しながら理解しようとする風習が生まれ、これは「格義仏教」と呼ばれました。他の教えと、その義(意味)を格する(比較する)ことで理解しようという試みであり、例えば、仏教の「空」は老荘思想の「無」で説明されました。

これが上の逸話を生んだ、とされるわけですが、まあ、仏教と儒教の書を焼いて残ったから、といった絵空話はおそらくは江戸時代の仏教信奉者の創作話でしょう。が、語源としては、案外そんなところかもしれません。

平安時代の左義長は宮中での行事でしたが、その後民間にこの左義長が伝わって以降は、門松や注連飾りによって出迎えたその年の神様である「歳神(としがみ)」を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされるようになりました。

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「どんど」呼ばれるようになったのは、この歳神様の徳、「歳徳」を「とんど」と読むためです。地方毎の訛りによって変化し、「どんど」とする場合や「どんどん」「どんと」「さいと」などいろいろバリエーションがあるようすです。いずれも歳徳神を祭る慣わしがある地方での呼称ですが、出雲方面の風習が発祥であろうという説もあるようです。

また、どんど焼きでは竹をくべる場合もあり、このとき竹の中の空気が爆発していわゆる「爆竹」状態になります。この時の「ぱーん」という音を「どんど」と表したため、という説もあるようです。

その昔は遊びの少ない時代であり、こうしたお祭りであれば、普段は許されない青竹を炎にくべるという危ない遊びも許されたのでしょう。このためか、古来、子供の祭りとされ、どんど祭りにおいては、注連飾りなどの回収や組み立てなどもすべて子供が行う、ということころが多いようです。

近年では、小学校などでの子供会、あるいは町内会の行事として、地区ごとに開催されることも多いようです。ただし、子供だけでは危ないので町内会に所属する大人が行事を仕切るところも増えています。

なお、地方によって焼かれるものの違いがあるそうで、その一つに「だるまを焼くかどうか」があるようです。縁起物を祭りで焼く事により、それを天にかえす、ということで吉だとされる一方で、目がつぶれるとされ、祭りでは一切焼かないというところもあり、また、だるまそのものが全く登場しない、といった地方もあるようです。

このように、このどんど焼きに何を期待するか、についても地方ではいろいろな見解があるようです。ただ、年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、このどんど焼きが行われる小正月には豊作祈願などの「農業」に関連した行事や家庭的な行事が行われる、という地方が多いようです。

松の内には、農家では竈(かまど)を休ませ、この間に日ごろ忙しく働いている主婦をねぎらう意味でこの行事を行う、という地方もあるようです。

このため、小正月のことを「女正月」という地方もあり、場所によっては男性が女性の代わりに料理などの家事を行う日とされます。

これが転じて、実際には料理などできはしない男性のために、保存食であるおせちを正月になる前に女性に作らせる、という風に変わっていったのでしょう。

このほか、繭玉をつくって養蚕の予祝をおこなったり、「道具の年越し」とし農具のミニチュアをこしらえ豊作を祈願する習慣が残っている地域もあります。

さらには、この日の朝には小豆粥(あずきがゆ)を食べる習慣がその昔はありました。平安時代には既に小正月に小豆粥を食べた記録があり、現在でも東北地方の農村などに、どんど焼きの前に小豆粥を食べる習慣が残っている地域があるそうです。

これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆を食することが禁忌とされている場合が多いそうで、あるいは獣肉を含む赤い色をした食品全般を食べることを控えるといいます。

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その昔は全国的な風習だったようです。しかし、小豆粥など食べたことがないよ、という人も多いでしょう。私もそうです。が、そんな難しい料理ではなく、これは単に米と小豆を炊き込み、塩を加えた粥です。小正月の1月15日、つまり元服の日のように、ハレの日に食せられる食べ物の1つであるとされます。

邪気を払い一年の健康を願って小豆粥を食べますが、この15日は旧暦では満月、つまり「望」の日なので、望粥(もちがゆ)とも呼びます。

そもそもこの小豆のような赤い色を持つ食物は、稲作民族である日本社会の中においては呪術と結び付けられ、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきました。

中国から入ってきた風習のようで、中国では古くは冬至の際に小豆粥が食べられていました。六朝時代(222~589年)には、中国南部で既に1月15日に豆粥が食せられていたという記録があり、この風習が日本に伝わったのもこのころのことのようです。

その後、宮中においては小正月に、米・小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子(ムツオレグサ)の「七種粥」が食せられるようになりましたが、これがいつのまにやら同じ中国の故事である人日の7日に食される、というふうに変わっていったようです。

ただ、七菜揃えるというのはやはり大変であり、一般官人には米に小豆を入れたより簡素な「御粥」が振舞われていました。これがやがては小豆だけになりました。紀貫之の「土佐日記「によれば、承平7年(935年)の小正月の朝に「あづきがゆ」を食したという記述が出てくるそうで、この時代から既に庶民の間で定着するようになっていました。

江戸時代には旧暦15日の「望の日」に食べられるようになり、望は「餅」にも通じることから、「餅の日」の粥とも解せられ、小豆粥に餅を入れて食べる風習も行われるようになりました。今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際にこうした餅の入った小豆雑煮で祝う風習のある地方があるそうです。

大師講というのは、弘法大師こと空海の偉業を称えて冬至のころに行われる行事であり、旧暦では11月23日、現在では12月23日の行事です。それぞれの家で長短不揃いのカヤの箸とともに小豆粥が供えられます。

大師様が小豆粥を食する際に用いたと考えられたこの箸は、地方によっては講の後に魔除けや子女の学問・技術の向上のまじないなどに用いられたといい、現在も同様の風習が残っているところがあるようです。

この小豆粥ですが、同じ赤色ということで、米と小豆を炊き込んだ、いわゆる「赤飯」との共通点も多く、いずれもハレの日に食されています。いまも昔もこの赤飯には「胡麻塩」をふりかける、という風習がありますが、これは単なる味付けのみならず、小豆粥に他の穀物を入れたことから来ている、という説があるようです。

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もち米に小豆またはささげ(大角豆)を1~2割ほど混ぜて蒸し上げたご飯であり、いわゆる「強飯(こわめし)」「おこわ」です。かつては、女児の初潮を祝して赤飯を振る舞う家庭もありました。が、最近ではそうした風習を行う家庭は少ないようで、その他のハレの日に炊くことのほうが多いようです。

明治頃までは、もち米を蒸しただけのものをおこわと言い、小豆などを混ぜたものを赤飯と言って区別していましたが、最近では普通米に小豆を加えた炊いた赤飯もおこわと言うようになってきています。

呼称としては「せきはん」が一般的ですが、女房言葉として語頭に「お」をつけた「おせきはん」、あるいは地域によって「あかまんま」「あかごわ」などの呼び方もあるようです。

栄養価が高い事から缶詰やフリーズドライ化された物も普及しており、非常食などとして用いられています。また、「赤飯おにぎり」「赤飯弁当」のように、一般食としてコンビニエンスストアやスーパーマーケット、駅売店で売られているのもよく見かけます。

北海道や山梨県には、甘納豆を赤飯に入れる風習があるようで、室町時代に甲斐国(山梨県)南部の人たちが移住した青森県の一部でも、この風習が残っています。こうした地方では、小豆ではなく、花豆、金時豆などに砂糖を加えて煮た、いわゆる甘納豆を使い、こうした豆は赤い色をしていないので、食紅が加えられます。

この甘納豆の赤飯では、米が炊き(蒸し)上がった状態に甘納豆を加えて混ぜたり、添えるだけのものが多いようです。これはこうした豆は米と一緒に炊きあげると、溶けて形が崩れてしまうためです。

出来上がったものには、紅しょうがをスライスまたは刻んだものが添えられ、胡麻塩がふりかけられるそうです。私は食べたことがないのですが、これはこれでおいしそうです。通常の赤飯とはちょっと変わった「変わり赤飯」として食してみるのもいいかもしれません。

このほか、赤い色をした食物としては、小豆のほかに「赤米」があります。上述の通り、こうした赤い色を持つ穀物には、古代より邪気を祓う力があるとされました。これは、墓室の壁画など呪術的なものに辰砂の赤い色が多く使われていることからもわかります。

日本神話にも、こうした赤い色が吉兆のしるしである、という話はよく出てきます。例えば、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)という神さまは、「雷を別けるほどの力を持つ」とされる神様ですが、そのお母さんの玉依姫(たまよりびめ)が京の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢(赤く塗った矢)が流れてきました。

それを姫が持ち帰って寝床の近くに置いたところ、後日懐妊し、男の子が生まれました。これが賀茂別雷命であり、その丹塗矢の正体は実は乙訓神社(おとくにじんじゃ:京都府向日市に鎮座する向日明神)の火雷神であったといいます。

また、同じく日本神話に登場する、大物主(オオモノヌシ)という蛇神は大国主の分霊で、大黒天として祀られることも多い神様です。この大物主は、あるとき勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)という女神が美人であるという噂を耳にし、実際に見に行ったところ、彼女に一目惚れしてしまいます。

そこで、セヤダタラヒメに何とか声をかけようと、大物主は丹塗矢(赤い矢)に姿を変え、彼女が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を、トンっと突きました。

あれま!と不思議に思った彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれたといい、こうして二人の間に生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)です。後に「ホト(陰所)」を嫌い、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、この神様が神武天皇の后となったと伝えられたといいます。

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こうした伝承に見られるように、その後丹塗矢、赤い矢は、「破魔矢」の意味をも持つとされるようになり、赤はラッキーカラーとされるようになりました。また、こうした神話に起源をもつ神道は、稲作信仰を基盤として発展してきた経緯があり、このことからも米はとても価値の高い食糧と考えられてきました。

中でも、このラッキーカラーである赤い色を持った「赤米」は、最も尊い穀物とされ、古くからこれを蒸したものを神に供える風習があったようです。現在でもこの風習は各地の神社に残っていますが、その際にお供えのお下がりとして、人間も赤米を食べるようになったと考えられています。

米の源流を辿ると、インディカ種とジャポニカ種に辿り着くといわれますが、インディカ種は赤っぽい色をしており、ジャポニカ種は白です。縄文時代末期に日本に初めて渡ってきた米はこの2種の中間の種類で、ちょうど赤飯くらいの色だったといい、この米を、日本人は江戸時代になる前まで食べていました。

しかし、稲作技術の発展による品種改良でより収量が多く作りやすい米が出てきたこと、食味の劣る赤米を領主が嫌って年貢として収納することができなかったことから、次第に赤米は雑草稲として排除されるようになりました。

ただ、古来よりのラッキーカラーを持つ赤い色をしたご飯を食べる風習自体はさらに生き続けます。しかし、毎年生産される赤米は少なくなり、貴重品となったため、次第に白い米に身近な食材である小豆等で色付けする方法が取られるようになった、というわけです。

従って、赤飯と小豆粥のルーツは異なりますが、その伝承過程で奇しくも同じように普通米を使うようになった、ということになります。

なお、上述のように赤飯にゴマ塩を乗せるのは七草粥の名残ではなく、白いご飯を赤くしたことを神様に「ゴマかす」ため、というまるで作り話のような説もあるようです。

現在では、小正月に小豆粥を食べる風習は廃れつつありますが、この赤飯だけは、その他の祭りや誕生祝いなど吉事に炊く風習が多くの地方で残っています。

ただ、江戸時代には、災害などの「凶事」に赤飯を炊くということもあったようで、これには、赤色が邪気を祓う効果がある事を期待した為という説や、いわゆる「縁起直し」という期待を込めて赤飯が炊かれたという説があるようです。

12世紀ごろには、赤飯が死んだ人の供養に使われていたという記録もあり、これはもともと赤飯は宗教的な意味合いも強かったためと考えられます。現在でも静岡県の蓮華寺や神奈川県の御霊神社境内にある石上神社では、「赤飯供養」の行事があるといいます。

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 上:箱根九頭竜神社

また、東京の八王子には、北条氏の本城である小田原城の支城の八王子城というお城がありましたが、天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められて落城しました。

この戦は激戦となり、北条側では1000人以上の死傷者を出したとされますが、この城を守っていた北条氏照の正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは「御主殿の滝」という滝に身を投げました。このため、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられており、このほか多くの落人も御主殿の滝で自刃・処断されたという言い伝えらえています。

この故事に由来し、この地では「あかまんま供養」という行事が根付いているそうで、その名の通り、供養のために、赤飯を亡くなった人の墓などにお供えするようです。

こうした供養以外にも「竜を祭る」という風習があり、こうした行事でも赤飯が炊かれるそうです。8世紀から使われている事が確認されおり、伝承として最も古くに伝わるのが箱根の芦ノ湖に伝わる「湖水祭」です。

芦ノ湖には、「九頭竜伝承」というのがあり、これは、芦ノ湖がまだ万字ヶ池と呼ばれていた奈良時代以前の話です。この当時の箱根の村には、毎年若い娘を選んで芦ノ湖に棲む毒龍に人身御供として差し出すという習慣がありました。

箱根山で修行中の万巻上人という高僧が、この事を知り、法力で毒龍を改心させて村人達を救おうと決意します。そして上人は湖畔で経文を唱え毒龍に対して人身御供を止めるように懇々と仏法を説き、ついに毒龍は宝珠・錫杖・水瓶を携えた姿で湖から出現し、上人の前で過去の行いを詫びました。

万巻上人はそれでもその言葉を信ぜず、龍を鉄の鎖で湖底の「逆さ杉」に縛り付け、仏法を説き続けましたが、その結果、龍は、もう悪事はせず、さらに地域一帯の守り神になる旨を約束をします。万巻上人は龍の約束が堅いことを知り、九頭龍大明神としてこの地に奉ることにしました。

そして、現在芦ノ湖畔にある箱根神社の隣にはこの九頭竜を祀った九頭龍神社(本宮)が建立されており、毎年6月13日が例大祭、毎月の13日が月次祭となっています。湖水際が行われるのは毎年7月31日であり、この祭では、現在では人身御供に代えて赤飯を湖に捧げています。

三升三合三勺の赤飯と神酒の入ったお櫃を御供船に載せ、逆さ杉のところで湖底に沈めますが、このお櫃が浮かび上がってくると、龍神が人身御供を受け入れなかったとされ、災いが起きると言われています。

似たような話は、群馬県の伊勢崎市にもあり、ここの赤堀地区の長者である道元の娘が赤城山の小沼(コノ)に引き摺り込まれて竜神となったという伝承もあり、芦ノ湖の例と同様に重箱に入れた赤飯を沈めると翌日には空になった重箱だけ浮かんできたといいます。

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このほか、同じく竜神(大蛇)を祭るという行事が、ここ静岡県の桜ヶ池でも行われています。御前崎市佐倉にある池で、桜の名所として知られていますが、池のほとりには竜神を祀る池宮神社があります。

御前崎の突端に近い場所にあり、およそ2万年前に風や波により運ばれてきた砂が溜まりせき止められて出来上がったと考えられており、直径は200mほど。平安末期の1169年に、天台宗、比叡山の高僧、阿闍利が、56億7000万年後に現れるという弥勒菩薩に教えを乞うと言い残し、自ら桜ヶ池の底に沈んで竜神(大蛇)となったと伝えられています。

以降、秋の彼岸の中日には赤飯を詰めたお櫃を池に沈めて竜神に供える奇祭「お櫃納め」が行われているそうで、こちらも芦ノ湖と同じように、数日後には空になったお櫃が浮いてくると言われ、「遠州七不思議」のひとつといわれています。

桜ヶ池に沈めたお櫃が、同じく竜神伝説の残る長野県の諏訪湖に浮いたことがあるとされ、諏訪湖と地底でつながっているという言い伝えもあります。これに関連して、浜松市の池の平(旧磐田郡水窪町)では7年周期で池が湧く、「幻の池」という不思議な現象が起こるそうです。

標高650mほどの山の中腹にあり、普段は何の変哲も無いスギやヒノキが生えた窪地ですが、ここに、およそ7年周期で夏の終わりに突然池が出現します。一説によれば、これは桜ヶ池の竜神が諏訪湖に赴く際に休息するためだといいます。

数日から20日間というごく短期間のうちに水が引いて、元のくぼ地に戻るといい、こうしたことから幻の池とも言われるようになりました。池が出現すると、その神秘的かつ幻想的な光景から毎回多くの観光客で賑わいを見せるといい、出現する池の規模は縦70m、横40m、水深1.2mほどもあるそうです。

池の成因は詳しく解明されておらず、斜面に降った雨水が、1~2ヵ月後に崖下泉として湧き出してできる、とか、草木の保水力によって雨水が集まってできる、などの説があるようですが、科学的には確認されていないようです。

さて、今年もこの小正月を境に一年が本格始動するわけです。

先日、初詣でに訪れた箱根神社の境内には、「丙猿歳」である今年は、開運のためには、「的確で迅速な決断と行動」が必要、と書かれた看板が掲げられていました。

また、今年は「活気溢れる活動の年」なのだそうで、「赤色」はぴったりの色です。案外と今年のラッキーカラーであるかもしれず、もしかしたら流行色になるかもしれません。

先週から放送が始まったNHKの大河ドラマ、「真田丸」の主人公である真田信繁(幸村)が編成したのも、「真田の赤備え」と呼ばれる赤一色の甲冑などで武装した屈強軍団でした。

恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって真田の武名を天下に示すための部隊編成だったといわれています。

武田家由来のこの赤備えで編成した真田隊は天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と後世に言わしめました。

そうした故事にあやかって、私もまた今年は赤い色を愛用しようかな、などと考えているところです。赤いちゃんちゃんこを着るにはまだ少し早いようなので、赤いハンカチとか、靴下でも身に着けてみようと思っています。

みなさんもいかがでしょう。赤い手袋や赤いネクタイもいいですが、年甲斐もなく赤い色は……という方は、赤いパンツとかいかがでしょうか……

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旅にしあれば……

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今年初めての三連休が終わり、いよいよ新しい年が本格始動した、というかんじです。

今年はオリンピックイヤーであり、8月にはブラジルで夏季大会が開催され、また11月にはアメリカの大統領選挙の投票などもあって、これらを中心に国際的にいろいろ活発な動きがありそうです。

また、先日は年が明けてすぐだというのに、北朝鮮が水爆実験を行っており、はたまた今年も波乱の一年か?と思わせるような雰囲気があります。昨年は年明け早々にイスラム国に日本人ジャーナリストが人質にとられる、といった事件があり、日本中を震撼とさせました。

その日本国内でも5月末に、伊勢志摩G8サミットが行われる予定であり、ここに訪れる各国首脳の動向に日本中の耳目が集まるであろうし、審議内容に関しても国際的な関心が寄せられるでしょう。また、これに先立つ、3月には、 北海道新幹線が開通する予定であり、こちらも日本中で話題になりそうです。

新青森駅〜新函館北斗駅の開通は3月26日の予定であり、これにより、東京と北海道はわずか4時間余りで結ばれます。飛行機であれば、函館までは約1時間半のフライトですが、都心から羽田までの電車の時間、および函館空港から市内までのアクセスを考えれば、待ち時間を含めて実質3時間を超えるはずであり、新幹線とほとんどかわりません。

しかも羽田函館間の航空運賃は3万円超であり、函館新幹線が2万円前半ということなので、どう考えても新幹線のほうを利用する人のほうが多くなるような気がします。ただ、当面、新幹線は函館止まりなので、札幌ほかの道内の地域にアクセスする場合にはさらに費用や時間が嵩みます。

フライトならば、札幌や釧路、稚内をはじめとして北海道内には離島も含めて14もの空港があり、ピンポイントで目的地に行きたい場合はこちらのほうが便利です。東京からの直通便は札幌などの数都市に限られるものの、乗継による地方空港への便を使えば、それらの地域へのアクセスはレンタカーを使うよりもずっと楽ちんです。

がまあ、いずれ北海道新幹線も札幌まで行くことですし、遠い将来にわたっては道内各地に延伸されていくに違いありません。とくに道東には釧路や帯広などの大きな町もあり、また風光明媚な観光地も多いことから需要も多いのではないでしょうか。

現在、新幹線は南は鹿児島までつながっていますから、将来的には北海道発鹿児島行の「夜行新幹線」なんてのもできるかもしれません。函館までの路線が開業すれば、その時点でも九州へのアクセスが可能です。現在でも東京から鹿児島へは、大阪で乗り換えが必要になりますが、それでも5時間30分ほどで行けるようです。

これに函館~東京間の4時間を加え、待ち合わせ時間も合わせれば所要10時間ほどの乗車時間となるはずであり、将来にわたって「寝台特急」」に仕立てるとするならばなかなかいい塩梅です。

無論、現在はこうした直通運転の予定はないようですが、仮に実現するとすれば、常夏の鹿児島を夕方に出て、朝目覚めてみたらそこは雪国の北海道だった、といった旅行も可能になるわけです。

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現在、JRは各地方毎に分かれており、これを実現しようとしたら、九州、西日本、東海、東日本、北海道とほぼほとんどのJRグループ各社が協力せねばなりません。が、もともと国鉄の時代から同じ穴のムジナだったわけですから、やろうと思えばできるでしょう。あとは本当にそうした需要があるかどうかの見極めと、JR各社のヤル気の問題ですが……

ちなみに、飛行機の場合、札幌(千歳)~鹿児島という路線もあるようで、こちらも名古屋や大阪での乗り継ぎが必要ですが、格安航空券だと4万円を切る路線もあるとのこと。鹿児島から北海道、もしくはその逆を移動する目的が何かにもよりますが、ともかく列島を手短な時間で移動したい、という向きには歓迎されていることでしょう。

しかしそれにしても、新幹線にせよ飛行機にせよ、こうした乗りものの発達によっていかにも世界が狭くなったかを痛感させられる時代です。

新幹線が初めて登場したのは、1964年(昭和39年)10月1日のことで、この日に、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業しました。新幹線乗入区間以外の在来線改軌区間での最高速度は1910年代から1950年代まではせいぜい100km/hが最高速度であり、現在でも130 km/hにすぎません。

仮に新幹線がなかったとして、北海道から鹿児島まで100km/hで走り続けたとしても、20時間かかる計算であり、いわんや実情の運行速度が平均60~70km/h程度であることを考えると、30時間前後かかる勘定となり、一日で列島を縦断するのは不可能です。

いっそ、足の速い船を利用したほうが早いかも、と調べてみましたが、貨物船で最高速のコンテナ船でも24ノット(時速約44㎞)前後だそうで、とても太刀打ちできません。ただ、軍艦の中でも高速が出せる駆逐艦が40ノット(時速約74㎞)ほどといいますから、こちらなら列車と競争になるかもしれません。

ま、早ければいいというものではなく、そもそもそうした距離を乗りものを使って移動することの意味を考えると、これはもう旅行というよりも、冒険に近いものといってもいいかもしれません。

最近テレビのバラエティー番組でも、タレントさんがたちが列車や飛行機を乗り継いで日本中を移動するプログラムがよく作られ、放映されていますが、これらを見ているともう「旅番組」というよりもむしろゲームのようであり、旅の醍醐味のようなものはほとんど感じられません。

時間や乗継回数の制約が課せられており、その条件を満たさなければ完遂したとはみなされず、不眠不休で移動する彼らを見る限り楽しそうには見えません。なかにはほとんど拷問にしかみえないような番組すらあります。

そうしたことを考えると、地球上を移動する方法は、やはりゆっくりしていたほうがいいよな、と思います。究極を考えれば、できれば乗り物は使わず、交通手段は足だけにして、勝手気ままに時間をかけて日本中を歩く、といった旅をできればしてみたいな、と思う人もいるでしょうし、私もときにそう思います。

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かつて、江戸時代末期に伊能忠敬とその弟子は、自らの足だけで日本全土を周ってこの地を実測し、「大日本沿海輿地全図」を作り上げました。江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものであり、ご存知のとおり、本邦初の詳細な日本地図です。

しかし、その測量にあたっては長い長い時間がかかっており、本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)の16年もの歳月をかけて完成しました。詳しい数字はわかりませんが、本州全部の海岸線を見て回るとするとざっくり3500km位はあるはずなので、これに北海道や九州四国を合わせるとおそらくはその倍近くを測量したことになります。

国策による事業であったとはいえ、人力以外では馬などの交通手段があっただけの時代です。その他の機械的動力による交通手段がなかった時代に、しかも馬はほとんど使わず、徒歩だけで日本中を巡ったというのは、すごいことだなあと改めて思う次第です。

伊能忠敬は56歳でこの測量の旅に出ていますが、若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあったといい、そのため、とりわけ食事に気をつけて体を鍛えるようになってといいます。着ていた着物の寸法などから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されているそうです。

この体格はこの当時としては必ずしも小柄とはいえませんが、かといって、けっしてがたいが大きいといえるほどのものではありません。このため、食べ物に関しても食材の少ないこの時代にできるだけバラエティーに富むものを食べ、体力をつけるよう気を付けていたようです。

残っている記録では、野菜としては、かぶら、大根、人参、せり、長いも、蓮根、くわい、菜、菜類、椎茸など多岐におよび、このほか動物性のものとしては鰹節、鳥、卵、及びといったものを好んで食べていたといいます。

本人が実家などにあてて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらにタンパク質の豊富な豆類や豆腐も好物だったとされています。

厳格な性格であり、測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていたといい、また、根気強く、几帳面であったようで、根気強い観測と食事や健康に関する様々な工夫によってこうした偉業を成し遂げたといえるでしょう。

もっとも日本は島国であり、海岸線に沿ってゆけば伊能忠敬たちのように日本の周囲を回って最後には必ずスタート地点に戻ることができます。海岸線沿いに四島回れば、日本一周の達成であり、近年では海岸近くにはたいてい道路があり、海岸沿いの幹線道路を通ることで一周とすることが可能です。

近頃では、バックパックを背負って移動する人も多くなり、各地の観光地でこうした日本一周旅行をしている若者を見ることも多くなりました。「日本一周旅行中」と書いた旗を掲げていたりしていることなどからわかるわけですが、一昨年、広島の原爆ドームに行ったときにも、こうした若者をみかけました。

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このバックパックとは、日本風に言えば「リュックサック」であり、これはオランダ語の「リュッフザック」)ドイツ語の「ルックザック」のことで、本来の意味は「背中袋」です。「ルック」でなく「リュック」であるのは、ドイツ語で背中を「Rücken」(リュッケン)と言うことに影響されたため、といわれています。

一方、バックパックというのはこのドイツ語の英訳であり、用語としては1910年代にイギリスで定着し、その後北米に広がりました。当初は「ナップサック (knapsack)」「サックパック (sackpack)」と呼ばれていたものが、のちに単に「パック (pack)」に変化しました。

その後、主として英米において低予算で国外を個人旅行する旅行者のことをバックパッカー(backpacker)と呼ぶようになったものですが、従来の旅行者との違いとして、移動に公共交通機関を使うこと、ユースホステルや安宿を値段の高いホテルよりも好むことなどが特徴とされます。

部屋や寝袋や長期滞在の場合はアパートの利用などで宿泊費を節約し、屋台や自炊などで食費を削ります。公共交通機関の利用やヒッチハイクや格安航空券の現地調達や陸路の多用で移動費なども抑えつつ、限られた予算で遠く・長く旅するために大なり小なり節約しながら旅するのが、伝統的な低予算のバックパッキングです。

とはいえ、その定義を厳密に定めるのは難しく、彼らの行動原理や意義は多様です。観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことに意義を見出す人などが多いようですが、中にはバックパッキングの旅の目的を「安く上げること」に定め、それ自体を楽しみとする者もいるようです。

また、バックパッキングは、「自己教育」の手段でもあると受け取られているようで、ツアー旅行のような「パッケージ化された」ものではなくリアルな現実を体験したいと望み、「舞台裏を密かに歩く」感覚に虜になる人も多いようです。

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1960年代から欧米で流行しはじめ、航空券の低価格化と共に瞬く間に世界の若者の旅装の代表となりました。2000年代にはライフスタイルとしてのバックパッキングが定着しましたが、一方ではビジネスとしてのバックパッキングが大きな成長を見せました。

格安航空会社はもとより、世界の各所にあるユースホステル・ゲストハウス・ドミトリーなどの安宿が普及したためであり、このほか、インターネット上のブログ・電子掲示板・SNSなど、デジタルなコミュニケーション手段や情報資源により、バックパッカーが長期の旅行を計画し、実行し、継続することは以前よりもかなり容易になっています。

バックパッカーの正確な起源は不明ですが、17世紀末に世界を一周したイタリアの冒険者ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリが世界最初のバックパッカーとされることもあるようです。

ジェメリ・カレリは、ナポリのイエズス会大学で法学博士号を修得し、学業を終えた後の短期間、裁判官でもあった英才でしたが、その職務に飽き、休暇を取ってヨーロッパ諸国を旅したのをきっかけとして、最終的に世界一周旅行のためにキャリアを中断することを決意しました。

1693年にエジプト、コンスタンチノープル、聖地パレスチナの訪問から始め、ペルシアとアルメニアを横断し、南インドを訪れてから中国に入り、北京で皇帝に謁見し、元宵節の祝典に出席し、万里の長城を見学しました。さらに海路フィリピンに渡り、さらには太平洋を渡ってメキシコのアカプルコへ渡り、ここで半年間を過ごしました。

メキシコでは、いくつもの炭鉱の街やテオティワカンの遺跡を訪問しましたが、これらの5年間の世界放浪の後、キューバの財宝艦隊に合流して大西洋を渡ってイタリアに帰国。

この世界一周の間、移動手段としては「公共交通機関だけ」を貫いたことが、「世界初のバックパッカー」とも言われる要因になりました。また、カレリの旅はジュール・ヴェルヌが「八十日間世界一周を著す契機」となったと考えられています。

しかし、カレリ自身がバックパックをしょって旅をしていたわけではなく、また安宿ばかりに泊まっていたわけではないようです。また、バックパッカーすべてが世界一周を目指しているわけではありません。

このため、現在のバックパッキングといわれる旅行形態の起源は、1960年代から1970年代にかけてのヒッピー・トレイルがそのルーツではないか、ということがいわれているようです。

ヒッピーとは、この時代主にサンフランシスコなどのアメリカの若者の間で生まれたムーブメントあり、ヒッピー・トレイルとは、のちに彼らが「巡礼」としてシルクロードを巡るようになったことに由来します。

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ヒッピーは、当初は「正義無きベトナム戦争」への反対運動を発端とし、愛と平和を訴え徴兵や派兵に反発した若者達でした。彼らは当初戦争に反対し、徴兵を拒否する反戦団体のような形容を持っていましたが、のちに自然と平和と歌、そしてセックスを愛するという、「人間として自由に生きる」というスタイルを確立するようになります。

彼らのスタイルは戦時下にあり、厭戦ムードの漂っていた全米で一大ムーブメントとなりましたが、初期は薬物による高揚や覚醒や悟りから出発したことから、大きな批判を呼びました。

各地にコミューンと呼ばれるヒッピー共同体が発生し、社会的な問題にもなりましたが、その後若者を中心に爆発的な人気を誇ったロックバンド「ビートルズ」がさらにこれに火をつけました。

ビートルズは、かなり真面目なロックグループと目されがちですが、一方ではマリファナやLSDを使用した精神解放等を訴えていた時期があり、これとヒッピーとの活動が結び付き、全米・そして世界へとそのムーブメントは広まっていくことになります。

このムーブメントは同時に日本にも飛び火し、一時期、「フーテン」といえばヒッピーのことだ、と勘違いされたこともありました。

ビートルズの言動や行動はヒッピーに多くの影響を与えましたが、特に彼らの「インド巡礼」は特に大きな影響を与えました。彼らが作曲した曲のある時期のものはかなりインド音楽に影響されているものがあり、とくにジョージ・ハリスンは、北インド発祥の弦楽器、「シタール」に魅せられ、その習得の際にインドの瞑想に深く関るようになりました。

1965年頃に友人の勧めで聴いた、インド人のシタール奏者ラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入し使用。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接シタール演奏のレクチャーを受けています。

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このジョージの発案により、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで催されていたインド人の瞑想家、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。その教義を気に入ったため、その後メンバー全員がこうしたインド瞑想セミナーの数々に参加するようになりました。

1968年1月、ジョージがインドのボンベイで「不思議の壁」を録音(発売は11月)。その後メンバー全員でヨーギーの講義に参加しており、これがいわゆるビートルズによる「インド巡礼」です。

ヒッピーたちは、こうしたビートルズの行動や彼らがリリースした楽曲に触発され、インドをはじめとする、いわゆる「シルクロード」と呼ばれる地域を順番に辿るようになっていきます。ただ、かつてのヒッピー・トレイルを辿る旅は、1980年代以降のアフガニスタン・イラク・イランの政情不安のため困難なものになっています。

しかし、これをきっかけとして、バックパッカーたちは世界のほとんどの地域に広がっていくようになります。近年では、格安航空会社や航空便の増加がさらに彼らの活動を活発にすることに寄与するようになり、現在ではこうした格安航空でアクセスできるようになった、北アフリカのモロッコやチュニジアを中心にその他の地域にも活動が及んでいます。

こうした、旧来のシルクロードも含めたパッカーたちの活動領域が「ヒッピー・トレイル」であり、現在では「ワンワールド」や「スターアライアンス」や「スカイチーム」といった航空会社間の協定に基づいて「世界一周航空券」などが利用できるようになったことから、さらにこうした活動が活発化しています。

こうしたシステムを利用して、バックパッカー・スタイルで世界一周をする猛者も数多く現れるようになりましたが、とはいえ、バックパッカーのことをヒッピーと呼ぶ風潮は最近ではあまりないようです。必ずしも自然と平和と歌を愛している人たちばかりとはいえず、旅をすること自体に意義を求める若者が増えています。

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純粋に旅だけを楽しみたい、と考えるこうした人種が増えた理由には、科学技術の変化と進歩も関係しています。

これまでの、旧来の伝統的なバックパッカーたち(=ヒッピー)は、ノートパソコンやデジタルカメラや携帯情報端末といった高価な情報機器は盗難や破損の恐れがあり荷物も重くなるとして持ち歩きませんでした。しかし、技術の発達により、これらの携帯機器は電子機器として著しく発達しました。

発達したのはとくに小型軽量化、多機能化であり、と同時に、こうした最新技術を常に袂に持っていたい、と考える若者のバックパッカーの欲望は、その後「フラッシュパッキング」と呼ばれる様式を生み出しました。

フラッシュパッキング(flashpacking)のflashとは「光るもの」「見せびらかし」などの意味ですが、これはすなわち、携帯電話、デジタルカメラ、iPod、ノートパソコン、タブレット端末などの近代テクノロジーの粋とされるような電子機器です。

こうした最新鋭の機器を持って旅することを好むバックパッカーは、「テクノロジーに通じた冒険者」としても定義されるものであり、従来のバックパッカーと区別して「フラッシュパッカー(flashpacker)」と呼ばれます。

こうした機器というものは必ずしも安価なものばかりではありません。このため従来のバックパッカーのように貧しい人々ばかりではなく、裕福なバックパッカーも多く、こうした比較的潤沢な資金を持つバックパッカーを指す新語でもあるといえます。

伝統的にバックパッキングが低予算の旅行と物価の比較的安い目的地に結び付けられてきたのと対照的に、フラッシュパッキングは旅行中により多くの予算を使える人種が行う行為として定義されているわけです。

もっとも、かなり漠然とした定義でもあり、従来通りのパッカーがハイテク機器を持っただけだ、という人もいます。しかし、従来のバックパッカーと明らかに異なるのは、宿泊や食事にはそれほどお金はかけないものの、こうした機器には金をかけ、かつ選んだ旅先での活動には時としてふんだんに、場合によっては過剰にお金を使うことです。

従来の貧乏バックパッカーとは明らかに異なり、昼は低予算の旅行者たちと共に冒険的な旅を行ものの、夜は落ち着いた食事と快適な宿泊を楽しむようなフラッシュパッカーが増えているといいます。

ある程度裕福でありながら、たとえば「スラムを覗く」ことにスリルと冒険を覚え、これと贅沢との不調和な混淆の状態が楽しい、と考える人々もおり、これが新たに生まれたフラッシュパッカーが従来のバックパッカーと違うといわれるゆえんです。

かつては、組織的な旅行を見放し、高収入な仕事から離職したりキャリア上の休暇を取ったりして自力での旅行に時間を費すことによる冒険目的の旅がバックパックの醍醐味と考えられていました。しかし、近年ではより快適に、自宅で慣れ親しんだ多くの装置と共に旅するような旅行者に変貌しており、その数もかなり増加しているといいます。

結果として宿泊施設も変化し、従来のバックパッカーのためには安価で手軽なものであったものがより高級な設備に変化しつつあるといい、こうしたフラッシュパッカーの増加に呼応して旅行業界全体も変化しつつあるようです。

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一方では、従来型のバックパッキングこそ、旅の醍醐味だとする古いタイプのパッカーたちも少なからずおり、高級な宿泊施設などには泊まらず、しかも乗り物を使わず、人力でのバックパックにこだわるパッカーも数多くいるようです。

従来のバックパッキングにこだわったパッカーの中には徒歩だけで世界一周を遂げた人もおり、ギネス世界記録保持者としては、2007年10月6日に世界で初めて人力での世界一周に成功した、ジェイソン・ルイス(Jason Lewis)という人がいます。

ギネスブックでは、その2006年版で人力での世界一周に関するガイドラインを発表しており、そこで示された条件は、距離 36,787.559 km (北回帰線の距離)以上で赤道を通り、出発地点と完全に同じ場所に戻ってくることであり、ルイスはこの基準を徒歩でクリアーしました。

これはエクスペディション360という企画で、多数のサポーターに支えられた13年におよぶ旅程でした。

ただ、乗り物は使わないといいながらも、ローラースケートやスケート靴を履いたり、自転車を使うことは許されており、あるときは岩礁地帯をモーターボートで渡ったこともあるといいます。しかし、彼は後にこの地点を人力で渡り直しており、ギネスへの登録はこうした努力が認められたものです。

また、最近では、2012年にトルコ人冒険家のErden Eruç、これはどう読むのかよくわかりませんが、英語風ではアーデン・エルクでしょうか、この人は世界で初めての「単独での」人力世界一周に成功したとされ、同じくギネス登録されました。

Eruçはこぎ舟、シーカヤック、徒歩、そして自転車によって2007年7月10日から2012年7月12日の約5年間で世界一周を達成しており、総移動距離は66,299キロメートルでした。ただし、中断期間があるため、延べでは1,026日の旅でした。

これ以外にも、大洋は飛行機で渡り、陸路のみを歩行または自転車で世界一周した人物はあまたいるようですが、海洋を除いた移動距離はギネスのガイドラインを下回っているため、ギネス登録はなっていないようです。それでも記録を目指すのが目的ではない、チャレンジすることに意義がある、と彼らは考えているようです。

ただ、徒歩で歩いて世界一周というのはよほど時間に余裕がなければできないことであり、またやはり潤沢な資金がないと実現できないことであり、そうした意味ではフラッシュパッカーの一形態といえるのかもしれません。しかしかなり泥臭い冒険ではあります。

なかなか我々にはできない冒険でもあるわけですが、しかし、何も世界一周をしなくても、日本でも北から南まで徒歩で歩き、しかも車道を通らずにバックパッキングして旅できるルートが日本中に整備されています。

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「長距離自然歩道」といい、環境省が計画を定め、各都道府県が整備、管理運営している複数の都府県間にまたがる自然歩道であり、昭和45年(1970年)の東海自然歩道に始まり、各都府県が事業主体となって整備を進めた結果これまで九州・中国・四国・首都圏・東北・中部北陸・近畿と8つの自然歩道が整備されています。

長距離自然歩道は、自然景観や文化財等に恵まれた既存の道路を、標識等の整備によりネットワーク化した長距離の自然歩道であり、四季を通じて「手軽に楽しくかつ安全に」がモットーの遊歩道であり、沿線の豊かな自然や歴史、文化に触れることもできます。

計画総延長距離は約27000キロメートルであり、一部悪路の場所などもあるようですが、現在までには、ほぼ整備が終わっているようです。

以下がそれらの自然遊歩道ですが、今年はひとつこれをすべて網羅してやろう、という人がいらっしゃれば、ぜひチャレンジしてみてください。

またすべてを歩かなくても、このうち身近な一つを制覇してみる、というのを今年の目標に掲げる、というのもいいかもしれません。今年一年を通じて分割して歩いてみるという手もあるでしょう。

私もこうした徒歩を中心にした旅行を通じて、今年一年を無事で健康でいられるように努力したいいと思います。みなさんもひとついかがでしょうか。

東海自然歩道(1697キロメートル)
九州自然歩道(愛称「やまびこさん」、2932キロメートル)
中国自然歩道(2295キロメートル)
四国自然歩道(愛称「四国のみち」、1637キロメートル)
首都圏自然歩道(愛称「関東ふれあいの道」、1800キロメートル)
東北自然歩道(愛称「新・奥の細道」、4369キロメートル)
中部北陸自然歩道(4085キロメートル)
近畿自然歩道(3296キロメートル)
北海道自然歩道(4600キロメートル)
東北太平洋岸自然歩道(愛称「みちのく潮風トレイル」、700キロメートル)

 

享保・平成・そして

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松が明けました。

昨日1月8日は「正月事始め」ということで、この日から本格的に仕事をスタートした、という人も多いでしょう。

この日は、1989年に昭和天皇が崩御された翌日で、「平成」という年号が公にされた日でもあります。

このとき私は、ハワイにまだいて、ほんの短い冬休みをホノルルに借りていたアパートで過ごしていました。ルームメートの外国人3人は皆クリスマス休暇で帰国していて、この日は私ひとりでした。

朝早く、玄関先のドアを開け、いつものようにそこに放り投げてある(アメリカではこれがふつう)新聞を持ってリビングに戻り、開いたその一面トップに昭和天皇の肖像画が掲載されていたのを見てビックリしたのを今でも覚えています。

亡くなったのは日本時間の7日早朝であり、遠く離れたホノルルにおいても19時間の時差があるため8日朝にはもうその知らせが新聞報道されていたわけです。明るいリビングに差し込む朝日に照らされたその紙面に浮かび上がる天皇陛下のお顔をながめながら、しみじみと、あ~時代が変わっていくんだな、と感じたものでした。

外国で、しかも日本とも因縁の深いハワイでの出来事だったので、かなり鮮明な記憶として残っており、いまさらのように思い出すわけです。と同時にこのときからすぐに帰国、再就職、結婚とまるで平成の時代が始まると同時に時計の早回しのように人生がくるくると変わっていった節目の時期だっただけに余計に記憶に残っているのでしょう。

元号が平成に変わったことの発表がこのときの官房長官、小渕恵三氏によって行われたのは、日本時間の同日の2時ごろのことであり、1月8日は昭和の終わりであるとともに、このときが平成のスタートでもあったわけです。が、昭和天皇が崩御されたのは前日の7日午前6時33分のことでした。

ところが、この直後の午前6時35分ころには、NHKをはじめとするメディア各社では危篤報道が出されただけで、天皇崩御の事実はまだ世間一般には報道されていませんでした。

しかし、この直後からテレビのテロップは、危篤報道から崩御報道へと変わり始め、午前10時くらいまでには、国民のほぼ全員が天皇崩御の事実を知るところとなりました。

以降、NHK、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち、エピソードにまつわる番組などが次々と放送されていきました。なお、この日と翌日にはCMが放送されなかったそうです。

ただ、崩御の知らせは7日の新聞朝刊には当然間に合わず、この日の朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていました。とはいえ、午前中に号外を出した新聞社も多く、またこの日の夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれました。

明けて8日になっても各社の朝刊紙面の多くはこの崩御の話を前段抜きで報じていましたが、一方ではテレビ番組欄は、NHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載されていたそうです。

8日午前までには、NHK、民放各局が既に特別報道体制に入っており、宮内庁発表報道を受けてのニュース、天皇の死にまつわるエピソードなどの番組などが放送されるようになりました。「新元号発表」のNHK放送は、正確には、午後2時34分30秒から午後2時59分までのことであり、人々が「平成」という年号を認識し始めたのはこのときからです。

しかし、宮中では7日の昭和天皇の崩御を受け、即座に歴代2位の年長となる55歳で明仁親王の皇位継承(践祚)の儀式、「剣璽(けんじ)等承継の儀」)を執り行われたといい、新しい元号も関係者の間ではこのときすでに共有されていたようです。

世間一般への公表が1日遅れたのは、諸処の法律手続きがあったからと思われ、7日にはまず元号法に基づき改元の政令が出されています。同政令によって翌日1月8日0時の到来とともに自動的に「平成元年1月8日」と改元がなされた、ということになっています。つまり、報道があった午後2時ころよりかなり前からすでに平成は始まっていたわけです。

以来、28年。すでに大正時代の15年を超えており、現在御年82歳になられる今上天皇にはさらに長生きしていただきたいと思う次第です。さすがに明治や昭和を超えるのは難しいかと思いますが、まだまだお元気なご様子であり、30年代までは大丈夫でしょう。

しかし、おそらくは私が生きている間には再び改元がある「Xデー」が訪れるでしょうし、だとしたら、昭和、平成、○○を生きてきた人間、という肩書を持つことになるわけです。

この平成という時代ですが、なかなかに難しい時代であり、大日本帝国期の昭和時代、すなわち戦前の世界恐慌の時代と大不況の面で類似しているという人もいるようです。また、坂本龍馬が人気となっており、また平成維新の会や大阪維新の会が設立されるなど維新思想がブームとなったことから幕末期から明治維新に続く明治初期に似ているという人も。

あるいは、平成は阪神大震災と東日本大震災が発生していることから、関東大震災が発生した大正時代に類似しているという人もいて、評価はさまざまです。

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一方では、江戸時代の1716年(享保元年)から1736年(享保21年)の享保期の約20年間の転換期と似ている、という人もおり、この享保年間には、8代将軍徳川吉宗による「享保の改革」がありました。

江戸時代中期に吉宗が主導した諸改革であり、宗家以外の御三家紀州徳川家から将軍に就任した吉宗は先例格式に捉われない改革を行いました。寛政の改革や天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の1つと呼ばれましたが、この時の改革は財政安定策が主眼でした。

一定の成果を上げたことから、戦後の高度経済成長期に流行語となった「昭和・元禄」に倣って「平成・享保」と名付けられることも多いようです。しかし、現在進行中の阿部ノミクスはまだ成果半ばといった感があり、この享保の改革と比較するのは無理があるのでは、という意見もあるでしょう。

享保の改革では、事面では出身の紀州藩の人材を多く幕臣に登用して地方の逸材を登用して本家ではない吉宗の指導力の確立を図るとともに、他藩の人材の多く登用して幕政の一新を計りました。また御庭番の創設し、江戸の都市政策を行う一方で庶民の要求や不満の声を直接訴願の形で募るための目安箱を設置しました。

この目安箱の投書から貧病民救済を目的とした小石川養生所を設置しましたが、こうした貧民対策は諸藩にも踏襲されました。また、私娼や賭事、心中など風俗取締りや出版統制も行い、こうした江戸の都市政策は南町奉行の大岡忠相に一任しました。

さらに、町奉行所や町役人の機構改革を行い、防火対策は町火消し組合の創設に留まらず、防火建築の奨励や火除地の設定を実施、米価や物価の安定政策、貨幣政策も行いました。

経済政策としては、倹約と増税による財政再建を目指し、農政の安定政策として年貢を強化して財政の安定化を図りました。また治水や、新田開発、助郷制度の整備を行い、青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じています。

朝鮮人参やなたね油などの商品作物を奨励、サクラやモモなどの植林。薬草の栽培も行うとともに、日本絵図作製、人口調査も行いました。国民教育、孝行者や善行者に対する褒章政策も行うなど、「モラル」を人々に植え付けました。ただ、賤民層に対しては、居住や服装等に制限を設け、農工商との接触を禁止する等、厳しい差別政策を以って臨みました。

こうした改革により、社会不安は急激に減り、また幕府財政も安定するようになりました。しかし、享保の改革で吉宗は、幕府政治の再建に熱心であった5代将軍綱吉時代を範と考えました。それゆえに現実の社会の流れに逆行する政策もかなり断行したため、かなりの混乱もありました。

たとえば、享保年間中期以後には、財政再建や物価対策を急ぐ余り「一時凌ぎ」的な法令を濫発したことなどは、かえって幕府・将軍の権威を弱め、社会的な矛盾を後々に残しました。

また、年貢増徴など農民に負担を強いる政策を行い、特に、年貢を家宣・家継時代の四公六民(4割)から五公五民(5割)に引き上げたことは、農民にとっての過重負担となりました。

建前上は1割の上昇ですが、四公六民の時期においては、四公とは公称にすぎず、実質は平均2割7分6厘程度の負担でした。これに対して、五公五民の五公は、そのままであり、実質的にも5割の負担が課せられたため、庶民にとっては2倍近い増税となりました。

また、それまでは、年毎に収穫量を見てその年の年貢の量を決める検見法(けみほう)が採用されていいましたが、これでは収入が安定しないので享保の改革では、定免法が採用されました。これは、過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず一定の年貢を納めるものです。

こうした増税や定免法の導入は、特に凶作時においては農民の著しい負担増につながりました。この結果、人口の伸びはそれ以前に比べて極めて低くなり、一揆も以前より増加傾向になりました。このため、吉宗の次の家重時代には、建前上は五公五民の税率は守られたものの、現場の代官の判断で実質的な減税がなされています。

ただ、吉宗は、財政に困窮する武士および農民を救済しようとさまざまな試みも行っています。米価引き上げなどがそれであり、弱いインフレ、これをリフレといいますが、これを引き起こして景気を活性化しようとしました。

そこで、貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる「貨幣改鋳に着手」しましたが、この政策は、元文元年(1736年)に行われたため「元文の改鋳」と呼ばれ、日本経済全体に好影響を与えた歴史上でも数少ない改鋳の1つであると高く評価されています。

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さらに、幕府の重臣・旗本・諸大名の間で日常的に行われ、江戸時代全体を通じた社会問題だった贈収賄の取り締まりに、吉宗自身が将軍としては初めて手をつけていたことは、意外と知られていません。

このように表面的にみれば国政や人々の生活は安定したように見えること、また一定のモラルが守られるようになったことは、現在の平成の世の中に似ていなくはありません。世界一安全な国と言われ、文化の面でも海外から高い評価を受けている現在の日本を誇りに思う人は多いでしょう。

一方では、増税にあえぎ、長く続く不況からなかなか脱出できないという構図も享保のころと似ており、消費税のアップに苦しみ箪笥預金を吐き出しつつ、低金利が長く続く中で多くの人が貯金もままならない現在の日本は、なるほど享保と似ています。

一定の成果を上げたと後世で評価されたこの時代と重ね合わせたがる人が多いのはわかる気もします。誰もが平成が終わるころには享保のような成功がきっとくる、と信じているでしょう。

このほか、この徳川吉宗の享保の改革の時代には、意外にも「国際化」が進んでいる点も現在の日本と似ています。

現在、日本を訪れる外国人は1900万人を超えており、一昨年通年の1300万人を大幅に上回って過去最高水準で推移しています。このほか、出国者数のほうは、それほど急激に伸びているわけではないようですが、それでもここ数年は1700~1800万人で安定しており、これほど内外の出入りの多い時代を日本はこれまで経験していません。

鎖国をしていた江戸時代に国際化?と思われるかもしれませんが、実は、この吉宗の享保の改革の時代というのは、洋書輸入が一部解禁されたことが起因となり、急激に蘭学研究が盛んになった時代です。

学問的な興味だけではなく、生活様式や風俗・身なりに至るまで、オランダ流(洋式)のものを憧憬し、模倣するような者まで現れるようになり、中には蘭語名まで持つ者まで出るようになり、こうした人は、「蘭癖」と呼ばれています。

この風潮は幕末にまで至り、幕末期にいたって、水戸藩等攘夷派から「西洋かぶれ」の意で、蔑称として用いられる例が多くなりました。ただし、明治時代になって普及した語であり、「鎖国」等と同様に、明治以降になって普及した後に形容されるようになったものです。

しかし、一般化していないとはいえ、知識人の間では「蘭癖」といえば通じたようです。蘭書やオランダの文物・珍品は非常に高価であり、購入には莫大な経済力が必要だったため、「蘭癖」と称される人物には、学者よりも大商人や大名、上級武士などが多かったようです。

特に藩主の場合は「蘭癖大名」等と呼ばれ、殿様趣味の枠を超えて、自ら蘭学研究を行ったり、学問を奨励する等、文化的な評価は高い反面、蘭学趣味が高じて藩財政を窮地に陥れた人などもいたようです。

蘭癖大名の分布としては、主に九州の外様大名が多いようです。これはオランダに開かれた港・長崎が近く、蘭書や輸入品の入手が容易だったことと無縁ではないでしょう。その点、藩主として蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせた、関東の下総佐倉藩の第5代藩主、堀田正睦などはかなり例外的といえます。

このような蘭癖大名の典型例として知られる代表的な九州の諸大名としては、シーボルトと直接交流のあった長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清(なりきよ)や薩摩藩主・島津重豪(しげひで)が挙げられます。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬もまた、重豪の影響を受けたためかそれぞれ蘭癖大名と称されるほどでした。

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このような蘭癖の存続と拡大は、オランダ商館長と最も密接な関係にあった島津重豪の画策を助けました。その画策とは、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというものでした。

事実これは成功しており、NHK大河ドラマで有名になった、天璋院こと「篤姫」は、徳川家斉と3歳のときに婚約し、幕府に取り入りました。この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基を築く要因となりました。

「高輪」は、薩摩藩邸が江戸の高輪にあったためであり、下馬将軍とは、このころ将軍は江戸城の玄関まで籠に乗ったまま入城できましたが、大名は下馬後に籠から降りて入城しなくてはならなかったのに関わらず、重豪は下馬以後も籠に乗って入城できたためです。

これらは幕末の人物ですが、これ以前の江戸中期、享保の時代を生きた吉雄耕牛(オランダ語通詞、幕府公式通訳で蘭方医)、平賀源内(言わずと知れた蘭学者、発明家)、といった「蘭癖」たちは、「オランダ正月」と呼ばれる太陽暦で祝う正月行事等の西洋式習俗を恒例行事としてスタートさせました。

オランダ正月とは、江戸時代に長崎の出島在住のオランダ人たちや、江戸の蘭学者たちによって行われた太陽暦による正月元日を祝う宴で、「紅毛正月」などと呼ばれることもありました。

このころのオランダの正式名称は、「オランダネーデルラント連邦共和国」ですが、オランダ人の多数が信じるキリスト教のカトリック教会では、12月25日をイエスの誕生日としているのでこの日にキリスト生誕日が祝われていました。

一方、キリストを信仰しないユダヤ人も少なからずおり、彼らは男児が生まれた場合、生後8日目を割礼日として祝っており、このユダヤ人の習慣から、太陽暦における1月1日をキリストの割礼の日、として祝日にしていました。

この当時の日本は旧暦であり、この太陽暦における正月は、旧暦では12月の19~20日ごろにあたり、ちょうど旧暦の冬至の時期でもあります。

一方、日本では江戸幕府によるキリスト教禁令のため、オランダ人たちは表だってクリスマスを祝うことができません。そこで彼らはこの日をキリスト教徒ではない「ユダヤ人の正月」ということにし、表向きは「オランダ冬至」として祝い、キリストの生誕の祝宴に変えることを思いつきました。

こうして、出島勤めの幕府役人や出島乙名(町役人)、オランダ語通詞たち日本人を招いて西洋料理を振る舞い、オランダ式の祝宴を催したのが、「オランダ正月」の始まりです。もともとはオランダ冬至と言っていたわけですが、長崎の人々が「阿蘭陀正月」と呼んだことから、こちらのほうが通称になりました。

文政年間(1818~1829年)の「長崎名勝図絵」にはこのころの彼の家でのオランダ正月の献立が記されており、牛肉・豚肉・アヒルなどの肉料理やハム、魚のバター煮、カステラ、コーヒーなどが饗されていたようです。しかし、招かれた日本の役人はほとんど手をつけず、お土産としてこれらの食事を持ち帰ったといいます。

このため、商館側もオランダ料理のほうは持ち帰り用として別途取り置き、別にその場で食する日本料理を用意していたのでは、ということがいわれているようです。

やがて、出島だけでなく、長崎に住む日本人とりわけオランダ通詞らの家でも、これを真似てオランダ式の宴が催されるようになります。オランダ通詞で長崎生まれの吉雄耕牛(幸左衛門)は、幼い頃からオランダ語を学び、14歳のとき稽古通詞、19歳では小通詞に進み、25歳の若さで大通詞となりました。

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歴代のオランダ商館長(カピタン)は定期的に江戸へ参府することが義務づけられていましたが、吉雄は、年番通詞、江戸番通詞として、毎年のカピタン(オランダ商館長)の江戸参府にも随行するようになりました。彼らのオランダ正月へもその流れで参加するようなり、やがては逆に自宅に彼らを呼び込むようになっていきます。

オランダ正月を開くようになって以来、彼の自宅の2階にはオランダから輸入された家具などが配されるようになり、「阿蘭陀坐敷」と呼ばれるようになるとともに、庭園もオランダ渡りの動植物にあふれ、長崎の名所となっていきました。

通詞以外の吉雄に師事した全国の数多くの蘭学者も彼の家を訪れており、のちに江戸の蘭学者で指導者として有名になった大槻玄沢も、吉雄の晩年に、彼のオランダ正月に参加して感銘を受けたといいます。

江戸において初めてオランダ正月を初めて開いたのはこの大槻玄沢です。寛政6年(1794年)、オランダ商館長(カピタン)ヘイスベルト・ヘンミーの江戸出府において大沢はこのオランダ人と初めて対談しました。これを機に、京橋区水谷町にあった自宅の塾芝蘭堂に、多くの蘭学者やオランダ風物の愛好家を招き、新元会(元日の祝宴)を催しました。

この年は閏年であり、西暦の元旦は旧暦の11月11日だったようです。このときには、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待されていたそうで、その宴の様子を描いた「芝蘭堂新元会図」という絵が残っており、ここには出席者による寄せ書きがされているそうです。

当日の楽しげな様子が伺える絵だということで、大きな机の上にはワイングラス、フォーク、ナイフなどが置かれ、部屋には洋式絵画が飾られており、出席者は他に玄沢の師でありすでに「解体新書」の翻訳で名を上げていた杉田玄白や、玄沢の弟子の宇田川玄随、稲村三伯などがいました。

このころまでには享保の改革から50年以上が経っていましたが、蘭学研究は一段と盛んとなり、蘭癖らの舶来趣味に加え、新しい学問である蘭学は一定の市民権を得るようになっていました。

このことを受け、蘭学者たちも、このオランダ正月において親睦を深めるようになりました。自らの学問の隆盛を願い、最新情報の交換を行う集まりとして日本の伝統的正月行事に把われることなく行われるこの集会に意義を認める蘭学者も増え、以後も毎年行われるようになっていきました。

ただし、このころのオランダ正月は冬至のころではなくなっていました。当時使用されていた寛政暦などの旧暦と太陽暦はずれは毎年異なっていたためであり、便宜上、冬至から数えて第11日目にオランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となっていたそうです。

この江戸におけるオランダ正月の習慣は、玄沢の子・大槻磐里が没する天保8年(1837年)まで計44回開かれたいたといいます。

一方、この江戸でのオランダ正月が始まったころの1795年1月には、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、その国土がフランス革命軍に占領され、ランスの衛星国バタヴィア共和国が建国を宣言しました。

そして、オランダ国は、1815年にネーデルラント連合王国が建国するまでの20年間、地球上に存在していませんでした。すなわち、江戸の蘭癖たちは、オランダ滅亡と同時に存在しないオランダの正月を祝い始めたことになります。

このことを蘭癖の上級武士たちは当然知っていたはずですが、職を失ったオランダ商館の存続を偽装し、さらには滅亡したオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させるようになります。

1797年にまず、オランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船が出島に入港するようになりしたが、さらにオランダ国が消滅した余波を受けて、1799年にオランダ東インド会社は解散。それでもなお、アメリカの船は1809年まで出島に入港して貿易を行っていました。

つまり、オランダ商館に雇われていたオランダ人たちは全員がその雇い主を失っていたことになりますが、オランダ国が存在しないにもかかわらず、この期間、蘭癖たちは他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装していました。

これがそののちの、ペリーの来航につながっていきます。ペリーたちアメリカ人は、その表だった来航以前からこのオランダ商館のオランダ人を通じて日本の情報を得ており、また、蘭癖たちもオランダ船を装ったアメリカ船から、ペリーの来航の予定について詳しく知らされていました。

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1852年、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出しましたが、そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されていました。

また、中国周辺に有るアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載していることなど、詳しい情報が加えられており、出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝わっていました。

当然、日本の幕府に関する情報もアメリカ側に筒抜けであり、幕府の防御態勢が貧弱であること、どこに黒船を停泊させれば、日本人はおののくか、といったこともすべてお見通しでした。

このように、アメリカによる「日本開国」は半ば仕組まれたものであった、というのは現在ではほぼ通説です。現在では実際にはアメリカ人が出島に入国していたのではないか、だとしたらいったいどの程度のアメリカ人がオランダ商館に出入りしていたのか、といったことが研究の対象になっているようです。

以上みてきたように、「享保の改革」以後、日本には蘭学を通じて国際熱広まっていき、引いてはそれが日本を鎖国から解放することにまでつながっていったわけですが、この時代に似ているといわれているこの平成の時代にも同じような国際化が進みつつあるようなかんじがします。

昨今の日本を訪れる外国人の増加や、渡航する日本人が増えていることがその表れですが、このほか、昨年の安保法案の通過により、これからますますアメリカとの馴れ合いが増えていきそうな雰囲気です。アメリカがもくろんでいる世界戦略に日本はさらに引き込まれていくことになるのではないでしょうか。

日本がアメリカと通商和親条約を結んだのは、享保の時代からおよそ100年後。似ているといわれるこの平成の時代からあと100年たったら、日本はどんな国になっているだろう、と思い描いてみるのですが、想像もつきません。

あるいは、日本にすっかり取り入っているアメリカ人の中には多数の宇宙人が混じっているかもしれず、もしかしたら、日本はその宇宙人の住まうどこかの星の人々と通商和親条約を結ぶようになるのかもしれません。

楽しみのような、楽しみでないような……

さて、お天気も良いようです。正月以来の連休3ヶ日を楽しむこととしましょう。

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あの子かわいや

2015-65412016年がスタートして6日が経ちました。

今年は3日が日曜日になったため、4日が仕事はじめ、という方も多く、ゆっくりと正月気分を味わうためには少々せわしない年初めだったことでしょう。

我が家では、年末には母が山口から、また年明けてからは一人息子が千葉から戻ってきたこともあり、いつもは二人と猫一匹で静かなこの山荘も少しくにぎやかになりました。

この息子君は今年就職であり、早晩結婚して子供などできようものなら、私もおじいちゃんです。実現すれば、将来の我が家の正月はさらに賑やかしくなると予想されます。

家族が増えることは嬉しいことではあるのですが、しかし、今のこの静かな生活が一変する可能性を考えると少々憂鬱な気がしないではありません。少なくない数の世のじいちゃんばあちゃんが、正月の一時期、孫の帰省によって静かな生活が脅かされることを内心戦々恐々に思っているに違いありません。

かつて父が生きていたころ、山口にまだ幼かった息子や先妻を連れて帰省するたびに、「お前らが来ると生活のペースが乱れる」と笑いながら言っていました。冗談のつもりではあったのでしょうが、どこか本音に近いものがあったに違いありません。

少子化が進む昨今、「孫がいる」というだけでうらやましがられ、「孫をかわいがるのが当たり前」という風潮さえ生まれています。しかし、その陰で高齢者の間では、孫の世話を押しつけられ、疲れ切ってしまう「孫疲れ」が密かに蔓延しているのではないかといわれているようです。

現在は晩婚化が進んでおり、そうした世代の親たちは60代で定年退職した後に孫ができることが多いことがこうしたことが起こる原因のようです。祖父母は既にリタイアしており、若い人のように仕事を理由にして孫の世話を断わることができません。

一方では、体力的にも衰えており、活発に走り回る小さな子供の世話で、腰椎すべり症や高血圧といった病気にかかり、孫育てに「ドクターストップ」がかかるケースさえあるようです。また、団塊世代の男性はあやし方もオムツの交換も知らなかったりするので、余計にストレスを抱えてしまうといいます。

孫がかわいいか、かわいくないかといえば、かわいいに決まっているし、できれば面倒を見たいでしょうが、残念ながらそのための体力と気力が足りなくなっている高齢者も多くなっているようです。

ある60代なかばの元会社員男性は、都内に二世帯住宅で、息子夫婦と4歳の孫と暮らしていますが、毎朝、毎晩、車で嫁を隣県にある会社へ、また孫を保育園へ、送り迎えをしているそうです。

1往復で2時間以上はかかるので、2往復で1日が終わりますが、孫が小学生になるまでの辛抱だと耐えて頑張っています。しかし、孫が小学校に上がるより先に、自分が倒れてしまわないか心配になっています。

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このほか、別のやはり60代後半の元会社員男性が耐えているのは、意外にも「孫とのおしゃべり」だそうです。6歳の女の子の孫が家に入り浸っていますが、この子がまた「口から生まれたんじゃないか?」と思われるほどのおしゃべりなのだとか。

適当に相づちを打っていると、「今の話聞いてた? じゃあ、友達の名前をいってみて」と問い詰められてパニックになる始末で、孫の話に出てくる登場人物もエピソードも多くてとても頭がついていいきません。

さらに最近の子供が持っているおもちゃといったらまるで「ハイテク機器」そのものです。凧揚げや羽子板で育った世代にはとても理解できる代物ではなく、適当に孫に合わせてはみるものの、やはり使い方は分からずじまいで、そうしたわけのわからないものを覚えようとすることだけでもストレスです。

それにしても、なぜそうまでして孫をかわいがろうとするのか、関わろうとするのか?進化論的には、子孫を繁栄させる、ということが一義であり、親子関係については当然子供を守り育てることが、人類の存続の上で必要であるわけです。親が子供を大事にするのは自然選択的に当然と考えられます。

しかし、孫を大事にすることは必ずしもそうではありません。親がそれをすれば十分であり、祖父や祖母が子育てをする必要性は薄いと考えられます。

人間以外のほとんどの動物では孫が生まれるまで親が生存することがなく、そうした状況下では、祖父母世代は孫の面倒などはみはしません。そうすることに進化論的な意味がないからです。親が子を育てて、一人立ちする程度まで成長すれば親は必要なく、祖父母世代が孫の面倒をみる生物というのは人間以外にはほとんど例をみません。

もっともゾウなどのようにグループで子供を見守る、という例はあるようですが、それにしても子育ては親がやることであり、「他ゾウ」がその子にちょっかいを出すのは、その親が死んでしまった場合や外敵からの脅威にさらされた場合だけです。

しかし、人間においては、孫は明らかに直系の血縁者だから、これを守ることはそれなりの価値が認められるのではないか、と考える人が多いようです。

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「血縁選択説」というのがあり、これは、自然選択による生物の進化を考える上においては、個体が自ら残す子孫の数だけではなく、遺伝子を共有する血縁者の繁殖成功に与える影響も考慮すべきだとする進化生物学上の理論です。

ヒトは自分の受精、出産と子育て、といった他の生物で言うところの「繁殖時期」の終了よりも遙かに長い生理的寿命を持ちます。このことが何に由来するか、という生物学的な議論の上において、もしかしたら、祖父母が子育てに参加することで孫の生存率が高まるのではないか、といわれるようになりました。

様々な動物で、子供が親の育児を手助けする「ヘルパー」という行動が知られていますが、これをヒトでは祖父母が担っているという説であり、特におばあちゃんが豊富な経験を自分の子の子育てに生かせることで、孫の生存が高まる、ということも言われているようです。

こうしたことが、ヒトの寿命が長くなることが進化に影響を持っているのではないかということが言われるようになり、「血縁選択説」が生まれました。これが正しければ、祖父母が孫に執着する感情を持つ理由はこれに由来するのかもしれません。

こうした血縁選択説を裏付けるものとして、たとえばカナダでは、継子が血縁のない義理の親と同居している場合、子殺しの起こる頻度が数十倍になることが明らかになっているそうです。また、オセアニアの人々はしばしば養子を育てますが、これを詳細に調べると養子のほとんどは養父母の血縁者(甥や姪など)であることがわかっているそうです。

ヒトの進化の過程で自分の子を識別し、血縁のない相手よりも愛情や養育行動を向けやすい性質を持つようになった、と考えるのはごく自然です。イスラム国に集まっている輩は別として、日本人や欧米人、その他のまともな国(アジアの某国は別として)における一般に文明人、といわれる人種の間では普通のことでしょう。

一方、アフリカや南米にはまだ「部族」といわれるような未開化の人種が数多く残っており、こうした「原始的な」人類を研究すると、こうした血縁選択説をより明確に説明できる行動が見つかってくるといいます。

たとえば、南米のブラジルとベネズエラの国境付近、アマゾンの熱帯雨林からオリノコ川にかけてひろく居住している先住民族「ヤノマミ族」の例があります。狩猟と採集を主な生活手段にしており、「ヤノマミ」とはヤノマミ語で「人間」という意味だそうです。

このヤノマミ族で集団間の争いが起こると、味方のなかでも血縁度の高い者をよく助ける傾向があることがわかっています。ヤノマミ族では部族間闘争が絶えないそうで、その際にもっとも助けになるのは、他人よりも親族のほうだ、というわけです。

ダーウィンは、厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる「突然変異」を選別させ、進化に方向性を与えると「自然選択説」を唱えました。生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られることから思いついたアイデアであり、「変異」は自然選択説の中での中核です。

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ダーウィンはこのほか、こうした変異の中には、親から子へ伝えられるものがあるとし、これを「遺伝」と呼びました。さらに、変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがあり、これが「選択」です。

生物がもつ性質がこの「変異」「遺伝」「選択」の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する、つまり進化を続ける、というのがダーウィンの提唱した自然選択説の根本です。

これによって、生物は自らの子孫をより多く残すように進化していくと予測されます。しかし、実際の生物にはしばしば利他行動、すなわち自分の繁殖成功を下げて他者の繁殖成功を高める行動が見られます。

たとえば、ハチやアリなどの社会性昆虫などでは、働きバチ、働きアリなどの個体があり、これは一般にワーカーといいます。これらの一部の個体は全く繁殖活動をせず、他個体の繁殖を助けることに一生を費やします。このような自分の子孫を残さない形質を持つ生物は、自然選択に従えばすぐに個体群から消えてしまうはずです。

そこで、イギリスの進化生物学者、理論生物学者のウィリアム・ドナルド・ハミルトは、従来の自然選択説がある個体自身の繁殖成功のみを考えていたのに対して、上述の血縁選択説を加えることを思いつきました。

この説では、生物の個体が、遺伝子を共有する血縁個体が共同作業で繁殖成功を増す、という「間接適応度」も考慮に入れたのが特徴であり、自然選択説にこの関節適応度を足し合わせることで、生物の進化は最大化する、とハミルトンは考えました。

これが血縁選択説であり、したがって、祖父母が行う「子育て」も、「血縁個体が共同作業で繁殖成功を増す」行為であり、今後とも人類が進化していく上においては意味がある、というわけです。

ハミルトンはこの説により、「現代におけるダーウィン」といわれるほどの高名な生物学者として称えられるようになりましたが(2000年没)、ただ、この説が生物学者のすべてに受け入れられているわけではありません。

ハミルトンはこのほかにも、「赤の女王仮説」という説を唱えており、これは、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならない、というものですが、これも仮説のままでとどまっており、定説には至っていないようです。

「赤の女王」とはルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する人物で、彼女が作中で発した「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」という台詞からきています。

「赤の女王仮説」はまたその生物学的な過程が、軍拡競争にも似ているといわれます。国家間の争いはとどまるところを知らず、相手をへこますまで自分たちの軍備を増強し、相手がさらにその上を行くのをみるとさらにその上を行こうとするなど、全力で軍備増強を続けようとし続けます。

英語表現では「進化的な軍拡競走」というのがあるほどで、なるほど国家間の軍拡競争は永遠に進化し続けようとする生物の進化にも似ています。人類の進化は実はこの軍拡から来ているのではないか、という学者さえいるようです。

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しかし、人同士の争いは、進化し続ける現在文明人の間においてのみ存在するだけでなく、上述のヤノマミ族のような未開化の人種においても争いはあります。

ヤノマミ族の社会は100以上の部族、氏族に村ごとに別れて暮らしていますが、他の村との間の同盟は安定することはまれで、同盟が破棄され戦争が勃発することが絶えないそうです。

このため現在に至るまで民族内部での戦争状態が断続的に続いているといい、このような状況におかれた人間社会の常として、ヤノマミ族では男性優位がより強調される傾向があります。肉体的な喧嘩を頻繁に行い、いったん始まると周囲の人間は止めたりせず、どちらかが戦意を喪失するまで戦わせるといった気風があるといいます。

そうした中で起こる争いの中では、生きるか死ぬかといった状況になることも多く、その場合には、やはり血縁関係があるものとないとでは結束力が違う、ということなのでしょう。

ヤノマミ族は、現在、ブラジルとベネズエラ合わせて、およそ2万8000人ほどもいるといわれており、南アメリカに残った文化変容の度合いが少ない最後の大きな先住民集団といわれています。

彼らの住居は、シャボノと呼ばれる巨大な木と藁葺きの家であり、多くの家族がその中でそれぞれのスペースを割り当てられていっしょに暮らしています。衣服はほとんど着ておらず、主な食物は、動物の肉、魚、昆虫、キャッサバ(熱帯で生育する芋の一種)などです。

彼らは食事に調味料を用いず、塩などというものもありません。このため極端に摂取する塩分が少ないことが特徴で、彼らはもっとも低血圧な部族として有名です。加齢にともなう血圧上昇もみられないといいます。

最高血圧100mmHg前後、最低血圧60mmHgだそうで、一般的な日本人の場合、上が129、下が84程度ですから、いかに低いかがわかります。

女子は平均14歳で妊娠・出産します。出産は森の中で行われますが、この子供が生まれたてのへその緒がついた状態のとき、その子を「精霊」のまま自然に返すか、人間の子供として育てるかの選択を迫られる、といいます。

精霊のまま自然に返す、というのは、すなわちこのまま育てても無事に成人しない、と判断されるような貧弱な肉体を持った嬰児である場合です。「精霊」とみなされて自然に返すときは、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、なんと、白アリのアリ塚に放り込むそうです。形は違いますが日本でもかつて行われていた「間引き」の行為と同じです。

その後、白アリが食べつくすのを見計らい、そのアリ塚を焼いて、その子が精霊になったことを神に報告するといい、このほか寿命や病気などで民族が亡くなった場合も精霊に戻すため、同じことが行われるといいます。

近代社会に住まう我々からみれば、なんと野蛮な行為だろうか、とついつい思ってしまうのですが、「価値相対主義」によって物事を判断する我々と異なり、彼らには自然そのものが絶対的な価値であり、自然に生まれたものは自然に返す、というのがごく普通の人生感のようです。

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もっとも、ヤノマミ族は未開人であるがゆえに、技術的に人工妊娠中絶ができない、ということもあります。従って彼らなりの「自然主義」に従えば、親にとってその存在が「生育不能」「不必要」である子供は、資源的・社会的にも自然に返すのがふつう、ということになります。

森の中で子供を白蟻に食べさせるという行為は、我々文明社会においては「嬰児殺し」とみなされるわけですが、彼らにとってはごくごく普通の行為であり、我々がふだん「自然淘汰」と呼んでいるものに近いかたちです。

我々にとってのこの「嬰児殺し」の行為、彼らにとっての「自然への返還」の権利は形式上は母親にあるといいます。しかし、ヤノマミ族は基本的には男尊女卑であり、このことから、実際は子供の遺伝的父親や、母親の父親・男性庇護者の意思、村の意思が強く反映されるそうです。

ヤノマミの言葉では、この行為を「子供を精霊にする」といったふうに表現しますが、これは我々の言葉では「中絶」ということになります。不必要な子供を始末する点では一致しますが、「超自然的」な位置づけがされている点が異なります。

いかに人類が進化してもその根本はやはり「人間」という生物であり、この地球に生まれ育って死んでいくという点では他の生物と同じです。

言語や文明を持たないはるか昔の人類から進化してきた我々もまたヤノマミ族と同じように、他の動物と同じように自然の中に生き、自然の中で生きてきたわけです。その体の中に超自然が残っていても不思議ではありません。

どこか「超自然」を信じたいと思う気持ちがあるのはそのためでしょう。じいちゃんばあちゃんが、血縁選択で孫を愛でるのもその名残なのかもしれません。

しかし、はたして孫を本能のままにかわいがることが本当に人類の進歩につながるのか、その子の成長のために本当に必要なのか、といったことも時に考えてみてはどうでしょうか。

近寄ってくる孫を蹴飛ばし、突き放せとはいいませんが、本当にそこまでしてかわいがる必要があるのか、なぜ愛そうとするのか、といったことも、今年はその孫の頭をなでる手をちょっと止めて考えてみてはいかがでしょうか。

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