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どんと行ってみよう!

2015-8362今日は、「正月事納め」とされています。

正月行事の期間といえば、これを「松の内」とか「注連(しめ)の内」などと呼びますが、この日をもって正月は終わり、と宣言するわけです。その昔は、15日ごろまでが正月期間でしたが、現在は7日までとする家庭や職場が多いようです。

「松の内」や「注連の内」は、「門松」や「注連縄(しめなわ)」が飾られている期間というところからこう呼ばれるようになったものです。門松は元々は神様がこれに宿るとされる「依代(よりしろ)」であり、不老長寿の象徴として常緑の松が選ばれました。が、地方によっては、榊、竹、椿などの場合もあります。

また、注連縄といえば、我々が普段、神社に掛けられたものを見るあれとお同じです。元々は神社などの聖域の範囲を示す「結界」に張られた縄でした。正月の期間に一般家庭でも注連縄をつけるようになったのは、この期間は一般家庭にも神様がやってこられ、家自体が聖域となる、という考え方からです。

従って、まとめると、正月には門松を飾ってこれに神様に宿っていただき、その神様が今はこのうちにいらっしゃる、ということを内外に指し示すための結界として注連縄を飾るわけです。家は元々生活の場ですが、松の内、注連の内の間だけは日常の生活の場が変じ、神聖な場所となっているわけです。

従って、正月事納めの日というのは、この神の依代であった門松を片付け、聖域であることを示す正月飾りを取り外すことによって、家を聖域から普段の生活の場に戻すという意味があります。

その昔はこの松の内の期間は15日まででした。ところが、明暦三年(1657年)に江戸で発生した、「明暦の大火」では、江戸市街の大半が焼き尽くされ、死者は 3~10万人といわれており、これがこの正月期間を短縮する原因となりました。

別名「振袖火事」とも呼ばれます。これは、江戸・麻布の裕福な質屋の娘が、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れしてしまった、とされるエピソードから始まる伝承です。

娘は16歳で梅乃といいましたが、この日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくして寝込んでしまいます。娘の身を案じる両親は彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作りましたが、梅乃はこの振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれ続けました。しかしやがて病は悪化して若くして亡くなりました。

両親はせめてもの供養にと、娘の葬式を本妙寺で行うことにしますが、その葬礼の日、娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやりました。

ところが、この当時こうした遺品は寺男たちがもらっていいことになっており、振袖も娘と共に埋葬されることなく寺男の所有するところとなり、やがては転売されます。そして、別の娘がこの振袖を手にしますが、この娘もしばらくの後に病となって亡くなります。

そしてまた振袖は彼女の棺にかけられて転売されますが、更に別の娘にもらわれたあげく、この娘もほどなく病気になって死去。振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきました。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにしました。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移しました。

たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、炎は湯島へ駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった……というのが、この明暦の大火が「振袖火事」とゆえんです。

梅乃という女性が本当にいたのかどうか、また振袖を手にした少女が次々と怪死していったという事実が実際にあったのかどうかもわかりません。が、おそらくは後年に作られた創作話でしょう。この時代の火事には放火が多かったといわれており、実際のところは大名屋敷からの失火ではなかったかとも言われているようです。

とまれ、この明暦の大火は江戸の大半を破壊しつくすほどの大災害になったことから、江戸幕府はこの教訓から、このときより火事を防ぐための様々な方策を打ち出すようになります。その一つが町火消などの消防組織であり、放火を防ぐための火付け盗賊改めなどの役職の設置もそうした対策のひとつです。

また、正月に江戸の家々の門前に飾る門松を飾る期間を短縮させよう、という対策も取られました。常緑の松とはいえ、門松は年末から半月以上も飾っておくわけですから、正月半ばともなれば、大分枯れて乾燥しています。沢山の油分を含んだ松は枯れてしまうと非常に燃えやすくなります。

そうした危険物が家々の門前に飾られていたら、それこそ放火犯にとっては格好の標的であり、また一旦火災になると、実際にこれが元で延焼拡大となる可能性もあります。

というわけで、明暦の大火から 5年後の寛文二年(1662年)に松飾りは「七日には片づけるように」との町触れ(まちぶれ)がなされ、これ以後江戸の町では松飾りは正月七日までとなりました。

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それにしても、それ以前にそもそもなぜ松の内を15日としていたのか、についてですが、これは中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日、つまり満月の日を月初としていたことの名残りと考えられています。

ご存知のとおり満月は約15日をかけて痩せていって真っ黒になりますが、江戸期より以前は、正月はじめの満月から月夜がなくなるまでの15日を正月の目安としていたわけです。この15日のことをよく小正月(こしょうがつ)といいますが、これに対して、7日までの正月行事が数多く行われる期間のことを大正月(おおしょうがつ)と呼びます。

元日から15日までの小正月までの15日間を正月として祝っていたわけですが、これを明暦の大火以後は、徳川幕府の命により7日の大正月までとされました。ところが、このお触れは江戸では浸透しましたが、関東地方以外には広まりませんでした。

従って、関東を中心とする地方では現在でも正月は7日までというところが多く、多くの会社や役所でも7日を過ぎるともう仕事仕事、といったかんじなのですが、地方へ行けばいくほど、いやいや正月は15日までだから、もう少しのんびりしようや、という気分のところが多いようです。

1999年までは毎年1月15日が「成人の日」でしたが、この日が成人の日とされたのも、この日が小正月であり、かつて元服の儀が小正月に行われていたことによるといわれています。さらには、1月15日は大学の共通一次試験が行われていた時代もありました。

もっとも、15日の共通一次試験はその後廃止され、また成人の日は、2000年からは毎年、1月第2月曜日に行われるようになったこともあり、15日が正月の終わりという感じはさらに薄れつつあり、やはり正月は7日まで、と考える人が現在では多いようです。

この小正月には、小年(こどし)といった呼び方もあり、また二番正月、若年、女正月、花正月といったさまざまな表現があります。

江戸期以前、この日の朝には小豆粥(あずきがゆ)を食べる習慣がありました。米と小豆を炊き込んだ粥であり、小正月に邪気を払い一年の健康を願って食べます。

中国の伝説として、「蚕の精」のために粥を作って祀れば100倍の蚕が得られるというものがあり、冬至の際にこの小豆粥が食せられたといい、これが日本に伝わったと考えられています。江戸時代の太陰太陽暦では、15日ころが満月、「望(もち)の日」であったため、小豆粥に餅を入れて食べる風習もあったといいます。

今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥を炊き、これに餅を入れた小豆雑煮で祝う風習のある地方があちこちに存在します。私が知っている限りでは、鳥取県では正月には小豆雑煮が定番です。

なお、逆に、東北地方の一部の農村などでは、元日から小正月の期間中に小豆や獣肉を含む赤い色をした食べものを食することは禁忌だそうです。理由はよくわかりませんが。

年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となります。一方、この15日ごろには、火祭りの行事、いわゆる「どんど焼き」が行われます。

私も知らなかったのですが、実はこのどんど焼きには正式名称があり、左義長(さぎちょう、三毬杖)というのだそうです。地方によって呼び方が異なりますが、日本全国で広く見られる習俗です。

単に「とんど」と呼ぶ場合や「とんど焼き」と“焼き”をつける場合、同様に、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼きなど、様々な呼び様があります。「爆竹」と書いて「とんど」と読ませる古い文献もあるようで、青竹を燃やす際にこれが爆発する音から来ている、という説もあるようです。

歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域では、だいたいどこでもどんど、どんとなどと呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられています。

歳徳神(としとくじん、とんどさん)というのは、その年の福徳を司る神です。年徳、歳神、正月さまなどとも言いますが、ある年にこの歳徳神のおわす方位を恵方(えほう)といいます。

「恵方巻き」のあれです。吉方、兄方、または明の方(あきのかた)とも言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされます。かつては、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があり、これを「恵方詣り」ともいいました。

歳徳神は姿の美しい姫神さまですが、その由来には諸説あり、牛頭天王の后・八将神の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるなどさまざまです。この歳徳神のおわす方角は毎年代わりますが、近年、関西を中心として立春の前日の節分の日にこの恵方を向いて「太巻きの丸かぶり」が行われるようになり、2000年頃から日本各地でも広まりました。

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どんど焼きもまた、広く全国で行われることが多い行事ですが、その起源は、現在のような火祭りではなく、蹴鞠(けまり)のようなものだったようです。

平安時代当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」と言う杖で毬をホッケーのように打ち合う遊びがあり、小正月に宮中の清涼殿でこれを行ったとする記録があります。毬杖には、木製の槌がついており、さながら最近のゲートボールのスティックのようなものだったようです。

この木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む遊びですが、杖には色糸をまとっていたため玩具の趣もあり、平安時代に童子の遊びとして始まり、後に庶民の間に広まりました。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、「ひだりぎっちょう(ひだりぎっちょ)」の語源とする説もあります。

清涼殿の東庭で青竹を束ねて立てこの毬杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたといい、これをもってその年の吉凶などを占いました。

代々内蔵頭を輩出して朝廷財政を運営した公家の中には、公家中の公家といわれる「山科家」という家があります。この山科家などから進献された葉竹を束ねたものが清涼殿東庭に打ちたてられ、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、これが天覧に供されました。

烏帽子、素襖(すおう・この当時の礼服)を着た複数の陰陽師らが謡い、鬼の面をかぶった童子1人が金銀で巻いた短い棒を持って舞い、面をかぶり赤い頭をかぶった童子が大鼓を持って舞い、小さい鼓を打ち鳴らしながら舞い、さらに笛、小鼓で打ち囃すといった賑やかなものでした。

毬杖3本を結んだオブジェの前で舞い踊ることから「三毬杖(さぎちょう)」とも呼ばれ、吉田兼好の随筆「徒然草」にも記載があることから、鎌倉時代には既に民間に伝わり、広く一般向けの行事としても普及していたようです。

現在では「左義長」という字があてられ、これを「どんど」と呼称することも多いようですが、なぜこの漢字になったのかは、不明だそうです。

この「三毬杖」こそが現在のどんど焼きのルーツだというわけですが、現在では毬杖は供えられなくなり、もっぱら青竹や葉竹などが積み上げられ、これに正月飾りなどを放り込んで燃やします。

昔は、1月15日の成人の日が祝日だったので、この日に行われることが多かったようです。が、その後成人の日が1月15日から1月の第2月曜日に変更されたことに伴い、地域によっては左義長を1月の第2日曜日または第2月曜日に実施する、というふうに変更したところも多いようです。

が、福井県の勝山市にの勝山左義長は毎年2月最終土・日に行われており、これは300年以上前から続いているもっとも古いどんど焼きだといわれます。色とりどりの長襦袢を着て太鼓を打ち浮かれ踊るというもので、「勝山左義長ばやし」と呼ばれているそうです。

このほか、国の指定文化財に認定されるなど有名なものもあります。

例えば滋賀県近江八幡市の左義長まつりでは、担ぎ手の男性が信長の故事によって化粧し、「チョウヤレ、マッセマッセ」のかけ声高く実施されます。三角錐の松明に、ダシと言われるその年の干支にちなんだ飾り物を付けて練り歩き、地区毎に左義長を持ち、町中で左義長同士が出会うと、ぶつけ合う喧嘩が始まるという勇壮なものです。

国選択無形民俗文化財に選択されています。ただなぜかこれも3月14・15日に近い土・日曜日に行われるそうです。

一方、神奈川県大磯町の左義長もまた国指定の重要無形民俗文化財ですが、こちらは毎年1月14日近辺に大磯北浜海岸で行われています。

セエノカミサン(道祖神)の火祭りとして、松の内が過ぎると子どもたちは正月のお飾りを集めて歩き回り、青年たちは、オンベという竹を芯にして「セエト」と云われる松や竹で作った塔をつくります。

集められたお飾りや縁起物とともに浜辺に運ばれ、9つの大きな円錐型のサイトが作られ、日が暮れるとセエノカミサンの宮元や宮世話人が、その年の恵方に火をつけます。

このほか、国の文化財の指定は受けていないものの、仙台の大崎八幡宮のものは20万人以上が訪れるというもっとも盛大なもので、仙台市の無形民俗文化財に指定されています。「裸参り」と称し、男衆がふんどし姿で練り歩く行事も行われ、この裸参りには、女性の参加も増えているといいます。ちなみに女性はさらしを巻くそうです。

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その他の多くの地方でも、どんど焼きは毎年恒例の行事ですが、現在では夕方から行うことが多くなっています。しかし、その昔は1月15日の朝、もしくは前日の14日の夜に行っていました。刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼きます。

その火で焼いた餅を食べると風邪をひかない、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われていた、といったことなどは今と同じです。

が、その昔は書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達するとも言われていたようです。また、松の燃えさしを持ち帰って屋根に載せておくと火災除けのまじないになる、という地方もあります。

民俗学的な見地からは、道祖神の祭りを起源とする地域が多いとされ、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされます。お盆にも火を燃やす習俗がありますが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられています。

現在では、多くの地方で小学校などでの子供会の行事として取り込まれる「子供の祭り」となった趣があります。笹などの準備は町内会の大人が行いますが、注連飾りなどの回収や組み立てなどは子供が行うというところが多いようです。

地方によって焼かれるものの違いがあり、その主たる違いは、「だるまを焼くかどうか」です。だるまは縁起物であるため、これを祭りで焼く事により、それを天にかえすのだ、という地方もあれば、だるまを焼くと目がつぶれるとされ、祭りでは一切焼かない、とする地方もあります。

私が住まうこの別荘地では、どんど焼きは行われません。どんど焼きをできるほどの広場はあるのですが、消防法の関係から消防署に来てもらう必要があるから、とのことのようです。従来住んでいた町では、それでも消防署員に御足労願って行うことが多かっただけに少々寂しいかんじはします。

が、今年初詣に出かけた広瀬神社の境内には、こうしたお札を焼くスペースがあり、古い飾り物はおみくじの焼却は既に済んでいます。あとは、松の内が解ける15日ころに、今年の恵方に向かって今年の歳徳神さまに向かってお祈りをすることにしましょう。

ちなみに、今年の歳徳神は、「乙・庚」の方向にいらっしゃるとのことで、これは西南西やや西、方位角としては255°で真西ではないものの、やや南よりの西だそうです。

偶然ですが、先日来、我が家ではこの西側に面した部屋をきれいに片づけ、居室として使えるようにしたばかりであり、きっとこの部屋からは多くの福の神が訪れてくれるに違いありません。

みなさんも松の内明けにどんど焼きでその年の病を除いたら、今度は西側の窓を開け、歳徳神さまに祈ってください。きっと良い一年になること請け合いです。

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下田 白濱神社にて

玉音

2015-1170784今日は、暦の上では、「六日年越し」というのだそうで、明日の正月七日を「七日正月」として祝うため、これを前日から祝すのだといいます。

じゃあ、そもそも7日は何でお祝いするのよ、ということなのですが、これは、中国から輸入された風習のようです。古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていました。

そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていたといい、これが「人日の節句」として日本に伝わり、五節句のひとつとなりました。

人日の節句を含めた五節句とは、以下のようになります。この日に合わせて食する食べ物も示しました。

人日(じんじつ)1月7日  七草の節句 七草粥
上巳(じょうし)3月3日 桃の節句・雛祭 菱餅や白酒など
端午(たんご)5月5日 菖蒲の節句 菖蒲酒 関東では柏餅、関西ではちまき
七夕(しちせき)7月7日 七夕(たなばた)裁縫の上達を願い素麺が食される
重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句 菊を浮かべた酒など

いずれもが中国から伝来したものですが、9月9日の菊の節句だけは、あまり日本では知られていないようです。陽の数である奇数の極である9が2つ重なることから、中国では「重陽」と呼ばれ、たいへんめでたい日とされます。

邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていました。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣もあったそうです。

明日の七草粥もまた、最近では習慣としてこれをたしなむ家庭もあまり多くないでしょう。本来、中国ではこの日に7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七草がゆとなったものです。

室町時代の汁物が原型ともされており、江戸時代より一般に定着しました。江戸期には人日を含む、上述の五節句が江戸幕府の公式行事となっており、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝ったそうです。

春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、その一年の無病息災を願って食べます。正月の間中、祝膳や祝酒で弱った胃を休める為に普及したとも言われています。

また、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われているそうなので、風邪をよく引く人は試してみてはいかがでしょうか。

そして、1月7日といえば、忘れてはならないのが、この日が昭和天皇が崩御された日だということです。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により87歳で身罷られました。歴代の天皇の中では最も長寿でした。

そして同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元号から採り昭和天皇と追号し、2月24日には、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵にその遺体は埋葬されました。昭和天皇の崩御後は、即日に明仁親王が即位し今上天皇となり、新元号が「平成」と発表されました。

法律的には、元号法に基づき1989年(平成元年)1月8日に改元がなされたことになっており、1月7日までが「昭和64年」ということになります。

このわずか7日間に産まれた人がどのくらいいるか、が気になったので調べてみましたが、正確なところの人数はわからないようです。

ただ、1989年の出生数は「1,246,802」人であることから、これを365日で割り、7掛けすると、およそ2万4千人ほどにすぎず、けっして多い人数ではありません。この年生まれという称号を持つ人は、結構レアものということになります。

崩御時の昭和天皇の全財産は、18億6千900万円、および美術品約5千点で、この美術品は1点で億単位の物も多数だったといいます。また、皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有しており、日本銀行をはじめとする大手銀行各社の証券を始め、日本郵船、大阪商船、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主でした。

こうした皇室の財産も課税対象であり、昭和天皇崩御のときには香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の今上天皇が4億2800万円の相続税を支払われています。また、皇居のある千代田区には住民税を納めていらっしゃいます。ただ、残された古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に皇居東御苑内にある「三の丸尚蔵館」が開館しました。

この美術館は、1993年(平成5年)に開館して以来、2014年11月には入館者が500万人を超えました。宮内庁はこうした当館入館者の増加傾向を受け、新館建設により展示スペースを拡充させることを考えているそうですが、具体的な建設計画については今後公表される予定だといいます。

昭和天皇といえば、その長い在位中に太平洋戦争という大きな出来事があり、その激動に巻き込まれた方であるだけに非常に多くの逸話の多い人ですが、やはりその中でも誰しもが一番印象深く思い出すのが、「玉音放送」のことでしょう。

それまで誰も聞いたことない、天皇の肉声、すなわち「玉音」が一般の人向けに放送されたということで、なおさらのこと印象が深かったわけですが、これは1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、その最初の放送が社団法人日本放送協会(当時のNHK)によって流されたものです。

正式には、「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)」といい、その内容は大東亜戦争(太平洋戦争)における日本の降伏を国民に伝えるものでした。

この放送が行われる前日の8月14日、日本は御前会議において内閣総理大臣・鈴木貫太郎が昭和天皇の判断を仰ぎポツダム宣言の受諾を決定しており、これはいわゆる「聖断」と呼ばれています。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において日本が全面降伏することを意味しました。

御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言が確定し、詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、「大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書」として正式発布されました。

そして、日本からポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイス及びスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合国側に即刻伝えられました。

こののち、昭和天皇がこの詔書を朗読してレコード盤に録音し、これをラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることになったわけですが、果たしてこれが天皇自らの意思だったのかどうか、については諸説あるようです。

神州不滅などといったスローガンを掲げ、悪化の一途を辿る戦局を無視して戦争続行を鼓舞していた政府にとって、国民に降伏を伝えることはまさに一大事であり、場合によってはクーデターも起こる可能性がありました。

そこで、昭和天皇がこの帰服が自分の意思によって決定されたことを国民に示す必要が生じたわけですが、玉音放送自体は法制上の効力を特に持つものではありません。しかし、この戦争における最高司令官自らが敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたといえます。

そして、この点については、天皇自らがとくにその重要性を強く認識しており、国民の前に立っても良い、とのご発言があった、との説が有力なようです。

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ところが、玉音放送が流される前には、成功こそしませんでしたが、当初心配されたクーデターまがいの事件が実際に起きており、陸軍の一部では徹底抗戦を唱え、放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがありました。これは現在では「宮城事件」として知られています。

8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件であり、日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠しました。

しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、日本の降伏表明は当初の予定通り行われました。

前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われました。

当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電される措置までとられ、また当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置が採られました。

放送は正午に開始されました。初めに日本放送協会のアナウンサー・和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求め、続いて情報局総裁・下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、君が代の演奏が放送され、その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送されました。

この放送はアセテート盤のレコード再生によるものでした。アセテート盤とは、録音において、レコードの生産の前段階に使用される「参照用」のオーディオディスクであり、録音された音が最終的にどのようにレコードに移されるかを決定するかどうかを決めるための試験的なレコード盤でした。

例えばこのアセテート盤で録音したものを再生した上で、低音のボリュームを変更するなどの操作が行われ、最終的なマスターディスク(金型)が作られました。

従って、何度も修正のための再生が必要になるため、安価で製造できる素材が使われました。しかし、音質はそれほど悪くなく、素早く高音質で制作できるため、プロモーション用の盤として宣伝目的のためにも利用されることもありました。

ただし、いかんせん、後に全盛となる塩化ビニール製のレコードよりも強度が弱く、湿度や経年変化により表面剥離などが起きやすい素材でした。アセテートというのは、我々の良く知る塩化ビニール製のレコードとは違って、なかなかイメージがしにくいのですが、現在もたばこのフィルターなどでよく使われているので、なんとなく想像できるでしょう。

熱を加えても嫌な臭いを出さないという性質もあり、たばこの味を変えない素材として利用されているわけですが、原料であるアセチルセルロースが難燃性を持つことから、他の素材と組み合わせて防火カーテンなどにも利用されています。

戦前における日本では、石油を原料とするビニール素材などは入手しがたく、木材パルプ(セルロース)を原料に、酢酸を反応させたアセチルセルロースより作られるアセテート繊維質などが唯一の音声記録媒体でした。

玉音放送をはじめとする有事の放送音源などもアセテート盤で残されており、日本で、ビニール盤が登場するのは敗戦後しばらくたったあとの1950年代の話です。

そして、玉音放送は、1945年8月15日に行われましたが、この放送が一回しか行われなかったと思っている人も多いでしょうが、実際には、下記のように予告も含めて6回も行われるという、念の入れようでした。

午前7時21分(9分間・予告)
正午(37分半、玉音放送を含む)
午後3時(40分間)
午後5時(20分間)
午後7時(40分間)
午後9時(18分間)

なお、午前7時21分の予告放送と同じものは、14日午後9時のニュースでも行われています。

内容としては「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後一時頃に配達される所もあること」などでした。

このように繰り返し放送された玉音放送でしたが、詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人が多く、直後のアナウンサーによる終戦詔書の朗読や玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気、玉音放送の後の解説等で事情を把握した人が大半でした。

とはいえ、上述のとおり、アセテート盤で録音されたそもそものレコードの音質そのものはそれほど悪くなかったようです。が、それにしてもこの時代のラジオの放送品質は現在と比べても極めて音質が悪く、天皇の朗読に独特の節回しは、宮中祭祀の祝詞の節回しと同じような悠長なものでした。

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しかしそれにしても、それまではほとんどの国民が「現人神」である昭和天皇の肉声を聴いたことなどありませんせした。このためこの天皇の声の節回しと言い、声の甲高さといい、本当にこれが天皇の声か?と疑った人も多かったといいます。

沖縄で玉音を聞いたアメリカ兵が日本人捕虜に「これは本当に天皇の声か?」と尋ねた際には、答えられる者は誰一人いなかったというエピソードもあるようです。

ただ、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分だけはよく聞きとることができ、これによって日本が敗戦したのだと察する人は多かったようです。

この国民の大多数にとっては非常にわかりにくい古典的な漢文訓読体の「終戦詔書」の大まかな内容を起草したのは、内閣書記官長・迫水久常という人です。これをさらに内閣嘱託の漢学者・川田瑞穂が手を加え、さらに同じく顧問の陽明学者で思想家の安岡正篤(まさひろ)が監修したものが、14日に天皇に提示され、裁可されました。

その校正は、秘密裡に作業が行われたため、起草、正本の作成に充分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣・阿南惟幾が細心の注意を払って最終段階まで字句の修正を加えました。

例えば「戦局日ニ非ニシテ(戦局はかなり悲観的の意)」が、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、がそれです。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は天皇の押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべきところを、一行多い4行が書かれていました。

このため、文末の印の部分に十分な余白がないまま無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅になってしまっています。

玉音盤への録音作業は宮殿の事故などを想定して、「内廷庁舎」において行われました。天皇がお政務や接見をされるのに省内に設けられた特別室です。ここの拝謁間に予備含む計4台、録音機2組など録音機材が用意され、マイクロホンが隣室の政務室に用意されました。

録音の用意は16時には完了し、18時から録音の予定でしたが、前述のとおり詔書の最終稿の修正もあって録音はずれ込み、詔書裁可後の23時20分頃から録音作業は始められ、2回のテイクにより玉音盤は合計2種4枚が製作されました。

2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の声が低かったためといわれ、さらに接続詞が抜けていたことから天皇から3度目の録音をとの話もありましたが、結局はこれは実施されませんでした。

玉音放送は、のちにDENON(デンオン)とよばれるこの当時の日本電気音響の「DP-17-K可搬型円盤録音機」というもので、同じく日本電気音響製のSP盤に録音されました。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間分の玉音放送は2枚にわたって録音されました。これが2回繰り返され、ゆえに合計2種4枚ということになります。

この録音は、翌日1時頃までかかって終了。情報局総裁・下村宏及び録音班は坂下門から出ようとしましたが、上述のとおり、陸軍幹部によるクーデター未遂事件がこのとき起こりました。

玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長・佐藤好弘大尉らによって下村らは拘束・監禁され、録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀・古賀秀正少佐の指示によって、宮城内での録音盤の捜索が行われ、のちにこれは「宮城事件」と呼ばれるようになりました。

このとき結局彼等は録音盤を見つけることはできませんでしたが、くだんの録音盤は録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫にほかの書類に紛れ込ませる形で保管されていたのでした。

その後、このときの玉音盤がどうなったかですが、戦後しばらくは所在不明とされ、玉音放送の資料音声は公式には現存していないことになっていました。これについては、真偽のほどは不明ながら、放送を恥辱と考えた宮中筋が、これを隠匿したとする隠匿説などもまことしやかにささやかれました。

本物はその後も長らく発見されていなかったようですが、どうやらそのうちの一組はアメリカ軍がその後押収したようです。ところが、玉音放送から1年後、これを押収したアメリカ軍がこれの複製を製作しようとしました。そしてその際、幸運にも当時の担当のNHKの技師がこのオリジナルから自己用の複製を内密に製作していました。

これにより玉音放送の「原音」が完全に散逸されることは免れるところとなり、その後この複製盤はNHKに寄贈されました。その当時の再生技術で当時の磁気テープに記録された音源が現在でも継続使用されているものであり、我々が現在テレビのニュースや報道番組でよく耳にするものもこのコピー版ということになります。

ただし、現在通常に流布しているこの音源は、複製盤製作時のオリジナルの玉音盤に比べて再生速度と複製盤の回転速度と再生速度、磁気テープの再生速度の誤差などにより一様に遅く、音声が低いとされています。

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一方、NHKに残されたもう一つのオリジナルの玉音盤は、その後発見されたようです。その発見の経緯については、NHKのHPやこの玉音盤が保存されているNHK放送博物館のHPにも何も書かれていません。

が、もしかしたらその昔の発見当時、何等かの新聞報道があったかもしれません。おそらくはアメリカ軍が接収したあとのもう一組をNHK側で極秘に保存していたものが出てきたのだと思われます。

現在は「入念な修復作業を経て現在は保存ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている」とのことで、窒素ガスを封入したシールドケースに入れ、紫外・赤外線カットのガラスを使い、常時4℃シーを保つ恒温ケースで展示されています。

ただし、完成から1年で劣化するアセテート盤なので状態は悪く、実際の再生は困難であるといいます。

この玉音放送から、44年後の1月7日、昭和の時代が終り、そして現在に至る平成の時代が始まりました。

それから既に今年で27年。大正天皇の在位をはるかに越え、今上天皇は昨年12月23日に81歳の誕生日を迎えられました。

失礼かもしれませんが、平成の世がこの後も20年も30年も続くというのは少々考えがたく、昭和天皇の在位年を越えることはまずありえないでしょう。

しかしまた今年すぐにそのXデーがやってくるとも考えがたく、できればせめて次回の東京オリンピックまではお元気でいていただきたいものです。

今年は、8月6日に広島で8月9日に長崎でともに70回目の原爆の日を迎えるという節目の年でもあります。と同時に8月15日には、 第二次世界大戦終結後70回目の終戦記念日を迎えることにもなります。

日本にとってその節目となるにふさわしい、良き一年でありますように祈り、今日の項を終えます。

なお、玉音放送の、口語訳を以下に示しました。改めてその内容をかみしめてみてください。

終戦の詔勅-玉音放送-(1945.8.15正午) 口語訳

私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。

私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。

そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。

なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。

考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。

ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。

あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

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羊・ひつじ・ヒツジ・・・

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あけましておめでとうございます。

正月3ヶ日も今日で終わりです。明日は日曜日で、翌日の5日からはもう出勤という人も多いでしょう。いよいよ新しい年の始動、といった感じですが、みなさんの今年一年の出足はいかがでしょうか。

未(ひつじ)年です。

が、最近、羊をみたことがあるか、と聞かれるとあまりはっきりした記憶がありません。最近は、動物園でも行かない限りはほとんど見ることのなくなってしまった動物のひとつです。しかしそれにしても、ヤギと何が違うのだろう、と疑問に思ったので調べてみました。

すると、ヤギとヒツジは、同じウシ科の動物であり、生物学的にはほぼ兄弟のような関係のようです。その分類をみると、以下のようになります。

ウシ科→ウシ亜科→ヤギ亜科→ヤギ亜族→ この下のヤギ属に属するのがヤギであり、同じくヒツジ属に属するのがヒツジ、ということになります。

古代より家畜として人間の側に留め置かれることの多かった両者ですが、ヤギの乳質はウシに近く、乳量はヒツジよりも多いため、その進化の過程において主に酪農用途としての改良が加えられたようです。しかし、ヤギは貧相な体格であり、ウシや馬のように農耕そのものには役に立ちませんでした。

この点、ウシは農耕用途だけでなく、乳牛としても使え、しかも食用に適すると言った万能家畜であるため、現在では最も重用される家畜となっています。一方のヒツジもまた、農耕には適しませんが、肉や毛皮がヤギよりも良質であったため、現在でも重要な家畜として生き残っています。

この点、近年では、逆に駆逐される運命にあるヤギとはエラい違いです。ヤギとヒツジの違いとして、ヒツジは草だけを食べるのに対し、ヤギは木の芽や皮も食べるなど、幅広い採食特性を持っています。植物が豊富でない場所でも育てることができ、このため日本でも、明治以降数多くのヤギが飼われ、「貧農の乳牛」とも呼ばれた時代がありました。

が、牛や豚が登場すると、本土からは追い出され、南西諸島、小笠原諸島などの周辺の島だけで生き残りました。これらの島々では特に無人島などで数が増えすぎ、この結果、植生破壊や農業被害及び土壌流失による周辺漁場への悪影響等の問題が起こっており、他にも数ある外来種による生態系破壊の中でも最も深刻なケースの一つとなっています。

このため当初は、動物愛護の観点から捕殺ではなく、ヤギを生け捕りにして、ヤギを食べる習慣のある沖縄へ送っていました。が、長旅のストレスにより多くのヤギが死亡することも多かったため、現在では生け捕り後安楽殺(薬殺)という手段に変更しているところが多いようです。

ただし、ヤギはヒツジ同様に宗教上ウシやブタを利用しない文化においても、重要な家畜です。このため日本以外では、現在でも多くの品種のヤギが飼育されています。とはいえ、日本においては、ヒツジと比べるとやっかいものになっている、というのが現状のようです。

一方のヒツジは、ウールを取るためだけでなく、羊毛や肉(ラム、マトン)を目的として世界中で広く飼育され、現在では、全世界で10億頭を超えるといわれています。地球温暖化にも大きく「寄与」しているといわれ、これはヒツジの「げっぷ」に含まれるメタン(CH4)は地球温暖化ガスの一種で、その影響力は二酸化炭素に次いで強いためです。

世界で最もヒツジを多く飼育しているのは、オーストラリアやニュージーランドというイメージがありますが、実は一位は中国で、1億3000万頭以上に上り、2位はインド次いで飼育頭数が多いのがオーストラリアです。

オーストラリアは、かつては長らく世界最大のヒツジ生産国であり、1992年には1億4800万頭以上のヒツジが飼育されていましたが、飼育頭数は急激に減少しており、1996年には中国に抜かれて第2位となりました。

2010年にはインドにも抜かれて3位となりましたが、1992年の半分以下にまで減少しており、現在の飼育頭数は約6800万頭と、中国の半分にすぎません。

ニュージーランドもまた古くからのヒツジの大生産国であり、1834年にヒツジが本格導入されてからすぐに羊毛の大輸出国となりました。が、今は中国やインドに抜かれて現在6位の地位に落ちました。ニュージーランドでは現在でも羊毛専用種の多いオーストラリアとは違い、羊肉・羊毛兼用種が主に飼育されています。

なお、日本のヒツジ飼育頭数は2010年に1万2000頭であり、世界では第158位にすぎません。都道府県別では北海道での飼育数が飛び抜けて多く、他は秋田県、岩手県、福島県などの東北地方、栃木県や千葉県などの関東地方で飼育されています。東日本ではある程度飼育されていますが、西日本ではほとんど羊の飼育は行われていません。

さて、ヒツジの動物的な特徴についてみていきましょう。ヒツジの動物としての能力でとくに特徴適なのは、聴力はよいことです。また視力については、水平に細い瞳孔を持ち、優れた周辺視野をもつ。視野は 270–320°で、頭を動かさずに自分の背後を見ることができます。

しかし、奥行きはあまり知覚できず、影や地面のくぼみにひるんで先に進まなくなることがあるといいます。また、暗いところから明るいところに移動したがる傾向もあります。通常は、妊娠期間150日ぐらいで仔を1頭だけ産みますが、2頭あるいは3頭産むこともあります。

ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受けます。
また、先導者に従う傾向が強く、その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもします。これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素でした。

一方では、捕食者がいない地域の在来種は、強い群れ行動をおこさないといわれ、外敵の存在が群れという行動を促すこともわかっています。この群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向があり、混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動きます。

ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に集団で危険から逃げ出すことです。ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しいといいます。

しかし、野生の種では、追い詰められると逆ギレしてヒツジの側から突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇することもあるそうです。この行動はとくに新生児を連れた雌にみられるといいます。

ヒツジは非常に愚かな動物であるというイメージがありますが、アメリカのイリノイ大学の研究によりヒツジのIQがブタよりは低くウシと同程度であることが明らかになっています。人や他のヒツジの顔を何年も記憶でき、顔の表情から心理状態を識別することもできるそうです。

非常に食べ物に貪欲で、いつもエサをくれる人の顔を覚えているため、その人だけにエサをねだることも多いといいます。こうした食い意地が張った性格を利用し、羊飼いは牧羊犬などで群れを動かす代わりに、エサのバケツでヒツジを先導することもあるそうです。

また、集団の中では、エサを食べる順序は身体的な優位性により決定されることもわかっています。他のヒツジに対してより攻撃的なヒツジが優勢になる傾向があります。さらに
オスのヒツジは角のサイズが群れでの優位を決める重要な要素となっています。

角のサイズが異なるヒツジの間ではエサを食べる順番をあまり争いませんが、同じような角のサイズを持つもの同士では争いが起こるそうです。

このヒツジの起源ですが、一説では、中国では8,000年以上前から飼育されていたともいいます。新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡があり、家畜化が始まったのは古代メソポタミアです。

紀元前7000~6000年ごろの遺跡からは野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土しており、最古のヒツジの家畜化の証拠と考えられています。家畜化されたヒツジの祖先は、モンゴルからインド、西アジア、地中海にかけて分布していたわずか4種の野生ヒツジに遡ることができるそうです。

人間がなぜこうしたヒツジを家畜化したかについては、脂肪と毛の入手が目的であったという説が有力です。ただし、肉や乳、皮の利用はヤギが優れていたため、家畜化は1000~2000年程度こちらのほうが先行していました。

しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、このためより良い脂肪が採れるヒツジのほうへシフトしていきました。

同じくブタも良い脂肪が採れるのですが、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、また宗教上の理由から利用されないことも多い動物です。このため、他の地域ではブタが主流となっているのに、ヒツジのほうが優先されることが多い地域もまた多くなりました。

とくに乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されるようになり、これらはやがて現在のように脂尾羊、脂臀羊とに分類されるに至ります。

日本には古来より、様々なものが海を越えて伝わりましたが、羊の飼育及び利用の記録は乏しいようです。寒冷な土地も多く、羊毛の需要もあったはずですが、骨の出土などもなく、羊自体の存在や飼育記録は確認できません。

ただ、仏教の影響を色濃く受けた故に肉食があまり推奨されてこなかったことから食肉用はともかく、羊毛製品には全く需要がなかったわけではありません。このため、貿易品としての羊の毛織物が輸入されることもあり、人気は高かったようです。が、いかんせん舶来ものは高額であり、長らく一部の有力者や富裕層のみに珍重されていました。

明治期に入るとお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれましたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しませんでした。日本政府はむしろ、牛馬の普及を重視しましたが、お雇い外国人のル・ジャンドルという人が軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説きました。

このため、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設され、これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりとなりました。以後、戦前から戦後間もない時期まで、日本製の毛織物は重要な輸出品となるまで成長しました。しかし、のちの化学繊維の普及によってこれにとってかわられました。

現在、日本のヒツジ飼育頭数は2010年に1万2000頭にすぎませんが、その用途は主に食用です。

日本国内では、毛を刈った後で潰したヒツジの大量の肉を消費する方法として新しく考案されたジンギスカン鍋や、ラムしゃぶ、スペアリブの香草焼き、アイリッシュシチューなど特定の料理で使われます。カルニチンを他の食肉よりも豊富に含むことから、体脂肪の消費を助ける食材とされています。

ラムには臭みが少なく、こちらは日本で近年人気が高まりつつあります。羊肉特有の臭みは脂肪に集中するため、マトンの臭みを取り除くには、脂肪をそぎ落とすと良いと言われます。他には、「香りの強い香草と共に炒める」「牛乳に漬けておく」等の方法があります。

漢方では体を温める作用があるとされており、北海道、中国北部、モンゴルといった寒さの厳しい地域で好まれています。

「羊羹」というものがありますが、無論これは本物のヒツジ肉を使ったものではありません。もともとは中国の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類でした。

南北朝時代に北魏の捕虜になった毛脩之が「羊羹」を作ったところ太武帝が喜んだという記事が宋書に見えますが、これは本来の意味の羊のスープであったと思われます。
冷めることで肉のゼラチンによって固まり、自然に煮凝りの状態となります。

鎌倉時代から室町時代に、禅僧によってこの肉料理が日本に伝えられましたが、禅宗では肉食が戒律(五戒)により禁じられていました。このため、精進料理として羊肉の代わりに小豆を用いたものが、日本における羊羹の原型になったとされます。日本の文献における「羊羹」の初出は室町時代に書かれた「庭訓往来」の「点心」の記事と言われています。

一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み寒天で固めたものであり、日本を代表する和菓子です。初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹でした。この蒸し羊羹からは、芋羊羹やういろうが派生しています。

また、当時は砂糖が国産できなかったために大変貴重であり、一般的な羊羹の味付けには甘葛などが用いられることが多く、砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していました。

しかし、17世紀以後琉球王国や奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって日本本土に持ち込まれると、砂糖が用いられるのが一般的になり、甘葛を用いる製法は廃れていきました。

「練り羊羹」が日本の歴史に登場するのは慶長4年(1599年)で、鶴屋(後に駿河屋と改名)の五代目、善右衛門が寒天の原料であるテングサ・粗糖・小豆あんを用いて炊き上げる煉羊羹を開発。その後も改良を重ね万治元年(1658年)には完成品として市販されています。

ただし、寒天を使用した練羊羹が一般に広く普及したのは江戸時代の中期からであって、それまでは依然として蒸し羊羹が主流を占めていました。

「煉羊羹」は寒天に餡を加え、型(羊羹舟)で固めたものです。棹物として、棹状の練羊羹もつくられました。江戸時代は煉羊羹全盛時代であり、江戸本郷の藤村羊羹をはじめ、多くの名舗が現われました。

一方、伝統的な羊羹は蒸し羊羹といわれ、安価な下物として区別されるようになり、その一部は丁稚羊羹と称したものもあります。また、料理菓子として、煉羊羹を半煉り状にした製法の羊羹もつくられ、後に水分を多くした水羊羹(丁稚羊羹)がつくられるようになり、御節料理として、冬の時季に食されました。

さて、そのおせち料理にもそろそろ飽きました。今晩あたりからは、そろそろ普通食に戻し、来週からのスタートに向けて、こころとからだを新しい年に慣らしていかなくてはなりません。

年末年始に貯めこんだ脂肪を発散し、ロケットスタートを切りましょう。始めよければ終わり良し。新しい年がどんな年になるかは、この一時期にかかっています。

そうそう、今年初めの初詣で私が引いた、おみくじは「大吉」でした。気持ち良いスタートが切れそうです。

さて、みなさんの新しい年のはじまりはいかがだったでしょうか。

風邪をひいたら……

2014-7909

年末でいろいろ新年の準備をしなければならないというのに、風邪をひいてしまい、日曜日の夕方から寝込んでいました。

症状としてはそれほどひどくはないのですが、微熱があって食欲がなく、体のあちこちが痛む、といった典型的なそれです。

ひどくなる前に、広島の知り合いから送ってきた生ガキを大量に食したので、すわノロウィルスか、とも思ったのですが、普通の風邪のようで、不幸中の幸いとはこのことかと思っている次第。

やれやれそれならそれで、布団の中でじっくり考え事でもしようかな、と思っていたものの、熱のためか思考がまとまらず、同じことを何度も何度も反芻して考えるだけで、結論めいたものは何一つ得られず、結局横になっているだけの一日となりました。

今日はだいぶ回復した感があるので、こうしてブログでも更新しようかという気にはなっているのですが、何をテーマに書こうとか目的意識などなく、ただ単に指を動かして目で文字を追っているだけ、といった風情です。

最近、風邪らしい風邪をひいたことがなく、ひいたとしても軽い症状で済んでいました。我が家には温泉が出るのですが、以前から温泉に浸かっていると風邪をひかない、とはよく人に言われていたことです。今の今まであまりひどい感冒にかからなかったことは、この温泉入浴と無縁ではないでしょう。

では、これほど重い症状だったのは…と思い起こしてみると、記憶にあるのは、一昨年の正月のこと。ですから、およそ2年ぶりの病気といえば病気になるわけです。そのころは何をしていたかな~と考えているのですが、よく思い出しません。が、何やら仕事の方向性や何かのことで色々悩んでいたような気がします。

以前、このブログでも紹介したことのある、「病気が教えてくれる病気の治し方(トアヴァルト・デトレフゼンと、リューディガー・ダールケ共著、柏書房)」という本では、こうした病気については、すべてスピリチュアル的な意味がある、という観点から理論展開をしています。

今日はあまり元気がないので、詳しいことはこの本を読んでいただくとして、この本には、生きた人間の体は、非物質的なもの、つまり意識と精神のはたらきによって機能しており、意識や精神の醸し出す情報が、物質的な肉体に伝えられて動かされ可視化される、といったことが書かれています。

従って病気もまた意識という「魂」と精神という「命」によって示された何等かのメッセージだというわけです。




そこで、今の私のテーマである、この風邪についてのこの本における記述について、もう一度まとめてみましょう。

風邪は呼吸器官を激しく消耗させる病気です。風邪といっても色々な種類があるようですが、一般的にはウイルスの感染による上気道(鼻やのど)が炎症を発した状態のことです。のどのいがいがや痛み、くしゃみ鼻水、鼻づまりなどの局部症状とともに、しばしば発熱、倦怠感、頭痛など全身症状をひきおこします。

もともと、ウィルスによって体の健全な組織が攻撃されているため、体内の細胞たちが抗体を作ってこれをやっつけようとしているわけですが、これをスピリチュアル的に考えると、我々の魂はウィルスというものに形を変えた精神障害に対して「葛藤」し、これを「消化」している状況になります。

従って、風邪をひいた場合は、精神レベルで何かの問題があってその症状を発しているのであって、その炎症の起こっている場所や領域を調べれば、なぜその風邪をひいたのかがわかる、ということになります。

例えば、風邪をひくとたいてい、くしゃみや鼻水など、たいていといっていいほど「鼻」に症状が出ます。「病気が教えてくれる病気の治し方」によれば、これはつまり、なにかが「鼻もちならない」危機的状況のときと考えることができるといいます。

危機的状況といっても、命が危険にさらされるようなものではなく、日ごろよくある状況で、大騒ぎするほどではないけれど心の重荷になってしばらくそこから逃げたくなる、そんな状況をさします。

ただし、それを自分に認める心の準備がまだないので、まずは体に症状として現れます。そして風邪をひくことによって意識せずにその隠された願い~現実からの逃避~を実現することができます。

例えば風邪をひいて休むことができれば、誰もが状況を理解してくれます。風邪さえひきさえすれば、やっかいな状況から距離を置いて自分をいたわることもできます。そして繊細になってしまっている心の状態を、体レベルで表現することで外部に示すことができるわけです。

このほか、風邪の症状としては、頭が痛い、目に涙がたまる、体の節々が痛む、いらいらするといったことがあり、全般的に「感じやすく」なります。このため、人から近寄られたり触れられたりするのを極端にいやがり、鼻がつまってコミュニケーションができなくなります。

自分で意識する、しないは別として、くしゃみによってさらに守りを固めるところとなり、やがては喉が荒れて、コミュニケーションの媒介として言葉を話すことも制限されていき、とどのつまりは孤立します。孤立してしまえば、何人からも妨げられることもなく、ひとりの世界の中で、今抱えている問題をじっくり考えることもできようわけです。

しかし、いつまでも自分の殻に閉じこもってばかりいても、問題は解決しません。新たな自分を見つめ直し、風邪を治して新たな方向性をみつけていかなくてはなりません。

こうした風邪の症状に対応するためには、まずは、背負った問題を化膿した粘液として体外に出そうと試みればうまくいきます。「鼻持ちならない状況」を起こした原因を考え、それが自分に起因するならばこれを修正し、他人が引き起こした状態ならばその人との和解を考えます。

自分が引き起こした問題であり、自己責任として処理する場合も多いでしょう。そこは謙虚に自分を見つめ直し、それが功を奏してひとつひとつ問題解決の糸口がみつかり、がんじがらめになった課題のしがらみから解放されれば、まず気が楽になります。

あらゆる通り道をふさいでいるねばっこい粘液が再びさらさらと流し出す、というイメージを持つことが大事です。こうして「鼻持ちならない」状況を起こした風邪は流動的になり、やがて小さな進歩の訪れを告げます。

風邪がすっかり治っているころには、なぜあんなに悩んでいたのだろうか、とウソのように問題は解決しているでしょう。私もよくあるのですが、風邪をひく前とそれが治ったああとでは精神状態がガラッ変わっていることがあります。

しかし、もし風邪が治らず、長続きするようならば、何も問題解決の糸口が見えていないのかもしれません。

ただ、ある自然療法では、風邪は体から毒を洗い流す健康な洗浄作用とみなされているそうです。精神レベルでも毒は問題であり、これが排出されることで、体も心も元気になって危機を脱するのです。

従って、風邪もなかなか治らず、何も問題も解決されていない、と嘆かずとも、少なくとも体の中からある種の毒は抜けつつあるはずです。そして時間がかかってもやがてはその毒気は抜けるはずであり、リフレッシュしたその心と体で新たな一歩を踏み出しましょう。そうすればきっと道は開けるはずです。

こうしたことを踏まえ、今回の自分の風邪は何だったのかな、と自問してみるのですが、ひとつはやはり忙しさから逃げたい、逃げ出したい、はあったように思います。またなんでもかんでも自分ひとりでしょい込みがちな性格から出た閉塞感、という側面もあるように思います。

そして、しばし体を横たえ、ぼんやりとした頭の中でこれらの問題の対処方法を考えていたら、少し風邪もやわらいだような気がします。

なので、皆さんもいかがでしょう。年末年始、人ごみの多いところへ出かけることも多くなると思いますが、そこで貰った風邪は必ずしも単なるインフルエンザではなく、自分の精神状態から出たものだ、と考えるとまた対処方法が違ってくるのではないでしょうか。

ただし風邪は誰でも何度もひきます。風邪をひかないでいられるのは次に何かが鼻持ちならなくなることが起きるまでのひとときです。

次の風邪をひかないよう、つねに自分のこころとからだを見張って問題の根っこは常日頃摘み取っておきましょう。

来年は食欲の年?

2014-8213

今年も残りあとわずかとなりました。

「午」の年ということだったわけですが、改めてなぜこの文字が馬と読むのかなと思って調べてみたところ、「午」という字は「忤(ご)」という文字の省略形のようです。

「つきあたる」「さからう」の意味だそうで、草木の成長が極限を過ぎ、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しているとされます。ではこれをなぜ馬と読むのかについてですが、これは他の干支も同じく、元は難しい漢字だったために、覚え易くするためにそれぞれに動物の名前が割り当てられたためです。

従って、午に相当するものをウシと呼んでもよかったのでしょうし、タヌキでもよかったのでしょうが、あとは訓読みにしたときの呼び方のゴロの良さなども考慮して今のような順番になったのでしょう。

干支は元々は中国が発祥の地ですが、日本も含めたアジアの他の諸国に伝来してからは、当然、言語が異なり、読み方も違うため、動物の種類もかわる例があります。例えばベトナムやロシアの一部の地方では、兎がネコになったりしています。

それにしても、この午の意味が、元々は「つきあたる」というのは、なにやら現在の日本を表しているようで、意味深です。今年一年を振り返ると、未だに経済状況は頭打ちだし多額の借金に加えて高齢化もさらに加速していて、日本は没落しかけているのではないか、という印象を誰でもが持っているのではないでしょうか。

さらに、今年の重大ニュースの中では、年頭2月の関東地方を中心とした大雪や、8月の広島での大規模な土砂災害、9月の御嶽山の噴火などがまちがいなく上位に含まれているでしょう。例年になく今年は災害が多かった印象があり、「頭打ち」にさらに水をかけられたような感じがします。

が、暗いニュースばかりでもなく、ノーベル物理学賞に青色LEDを開発した日本人の3氏が選ばれたことや、全米テニスで錦織選手が準優勝したこと、世界文化遺産に「富岡製糸場」がえらばれ、また「和紙」がユネスコ無形文化遺産に決定するなど、スポーツや文化の面では逆に明るい話題が多かったように思います。

ソチオリンピックでは、日本は金1、銀4、銅3と、やや振るわなかったものの、このうちの金メダルは日本男子フィギュア界初となる羽生選手の大活躍によるものでした。また、途中から怪我で失速はしたものの、ニューヨークヤンキースの田中投手が前評判通りの実力を示したのも記憶に新しいところです。

よく言われることですが、最近の日本はひところの経済成長が止まってあまり元気はないものの、文化的には成熟期に入ったという説もあるようで、この点、老大国、イギリスに似てきたという人もいます。

バリバリと稼げた中年の時代は過ぎ、老後の時代を迎えた、ということであり、今年一年を振り返るとまさに社会全体のありようも高齢化している、そういう印象があります。

そうした意味でも、今年の干支である「午」はまさに現在の日本にぴったりのようにも思え、この干支というものサイクルといいうのは、もしかして日本の上昇不沈のリズムに関連づけて決められたのかもしれない、とも勘ぐりたくなります。

そうなると、来年の干支である「未」の意味が気になることころです。これも調べてみたところやはり午と同じく略字化された文字のようで、元は「昧(まい)という文字だったようです。「暗い」の意味だそうで、えっ、そうすると来年はもっと暗い年になるのか、とも思ってしまいます。

しかし、この文字の本来の意味は、植物が鬱蒼と茂って暗く覆うこととされており、別の解釈では「昧」の同義語は、「味(み)」であり、これは訓読みでは「あじ」です。果実が熟して滋味が生じた状態を表しているとされており、単に暗いのではなく「味が出てくる」ということであり、悪い意味ではなさそうです。

今年よりもさらに日本ではあらゆる面で機が熟してくる、とも受け止めることができ、長い低迷時代を踏まえた老大国日本がますます円熟期を迎える、というふうにも解釈できます。

同様に見ていくと、さらに再来年の「申」は「呻(しん)」の略であり、これは「うめく」とも読みます。その真意は、果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされるそうで、再来年ごろがこの円熟期の仕上げになる、という解釈ができます。

さらに次の年は、「酉」で、これは「緧(しゅう)」、「ちぢむ」の意味で、果実が成熟の極限に達した状態を表しているとされます。食べごろを通り越して、ザクロであれば、はじけたような状態をさします。

そして、「戌」。これは「滅(めつ)」「ほろぶ」であり、草木が枯れる状態を表しているとされます。

つまり、今年あたりから始まった成熟期は来年、再来年とさらにますます円熟期を迎えますが、3年後の酉年あたりには、そのピークを過ぎ、枯れてしまう、ということになります。

すわ、日本沈没か、というふうに思ってしまい、やっぱりそうかぁ、と悲観してしまう人もいるかもしれません。が、すべてのものには栄枯盛衰があるものであり、枯れるということは決して悪いことではなく、再生の序章でもあります。

そして、その次の年。この2020年は、「亥」であり、これは干支の最後の年でもあります。文字としては「閡(がい)」であり、これは「とざす」の意味です。が、これもけっして悪い意味ではなく、草木の生命力が枯れた実の中に閉じ込められた状態を表しているとされ、つまりは次の時代の「種」が宿る年ということです。

東京オリンピックが開催される年であり、まさにこの年に新生日本が生まれるタネが宿るとの暗示でもあります。

ここ数年はまだじっと我慢の年が続くけれども、その時代に培ったものはやがてタネを産み、次なる成長につながっていく糧になる、と考えると明るい気分にもなろうと思うですが、いかがでしょうか。

ただし、干支の意味そのままに推移していくならば、来年はまだまだ日本にとっては飛躍の年というわけではなく、おしんのようにじっと我慢の日々が続く、ということになります。しかし、「未」の文字が意味するところは、果実が熟していよいよ食べごろになるということであり、これを逆手に考えることもできそうです。

例えば、来年の目標をまだ立てていない人は、来年こそは味覚をより磨くべく、従来よりもさらに美味しいものを食べる、と前向きに考えると良いかもしれません。

しかし、ただ、単に食べるだけではぶくぶく肥ってしまい、健康にはよくありません。なので、これを少し改め、お金を貯めておいしいものを食べる、ということを目標にする、というならば気も張ってきます。

私自身もむしろダイエットをしたいほうなのですが、食べたいものがないわけではありません。今年は割と控えていたおいしいラーメン屋めぐりを、来年はぜひ実現させる、そのためにも仕事を頑張る、というのは一つの目標としてなりたちそうです。

年末から年始にかけて来年の目標を立てようと思っているあなたも、どうでしょう。おいしいものを食べるために仕事を頑張る、ぜひこれを目標に加えてみてはいかがでしょうか。