admin のすべての投稿

芸能の日

2014-7520高倉健さんが亡くなりました。

好きな役者さんの一人だっただけに、大変残念なことですが、今生でのお役目を立派に終えられたことをご本人も満足されていることでしょう。私的にも公的にも高い評価を得るに値する方だっただけに、こういう人は前世においても社会的に認められる人物だったに違いありません。

が、必ずしも役者だったとは限らず、その引き締まった容貌からは武士だった前世もお持ちかもしれません。実際、そのご先祖は鎌倉時代の執権北条家の人だったということをご本人も生前から公表されていたようです。

北条家とは、改めて説明する必要もないかもしれませんが、源頼朝を助けて鎌倉幕府開闢をなしとげた、北条時政を中興の祖とする一族で、ここ伊豆が発祥の地です。時政の死後も5代に渡って源家を補佐する執権の座につきましたが、この北条家には分家が多く、その一門には、「名越北条家」というのがありました。

名越流北条氏は、鎌倉幕府2代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とする一族で、祖父は北条時政になります。時政は鎌倉幕府に仕えている間、鎌倉の名越(なごえ)という場所に邸を構えていましたが、孫の朝時は、この名越の家を継承しており、このことにより、名越北条と称するようになり、代々北陸や九州の国々の守護を務めました。

この名越という地は、神奈川県鎌倉市大町にある旧地名で、位置的にはJR横須賀線の鎌倉駅の南東部にあたります。

海岸からはやや奥まった場所にあり、かつての三浦半島方面への旧道である三浦往還(現在の県道311号)沿いにあり、名越という呼称は、このあたりの坂及び切通しが難所であったことから、「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われています。

その名越北条氏の始祖とされる朝時の孫にあたるのが、北条篤時(とくとき)でやはりこの鎌倉名越に居を構えていました。さらに篤時の孫にあたる名越時如(ときゆき)の代あたりから名越の姓を名乗るようになったようで、その子孫は山口の大内氏に仕えるようになり、さらには九州北部に住みつくようになりました。

江戸時代の初めのころではなかったかと思われますが、太平の世になったこともあってか、このころの名越の主は武士の身分に見切りをつけ、代々冠してきた北条の名も捨てて「小松屋」の屋号で両替商を営むようになりました。

この商売は大きく当たったようで、この地を当地していた筑前福岡藩の黒田家の藩主から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになりましたが、この小田家の子孫が、高倉健さんということになります。

このため健さんの本名も小田剛一といい、この江戸時代に両替商をしていたという小田家の本家は、北九州市から20kmほど西方にある福岡県中間市にあったようです。

明治時代から昭和時代にかけて、この地で産出される石炭がこの街を栄えさせ、明治大正時代に中間は炭鉱の町として全盛を誇りました。健さんは、1931年(昭和6年)にこの地生まれましたが、父はこの家に代々伝わる商売を継がず、その道を捨てて旧海軍の軍人になったようです。

退役後は、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていたといい、またお母さんは学校の教員だったということでもあり、割と厳格な家庭であったのではないかと推測されます。

太平洋戦争が既に始まっていた1943年(昭和18年)に福岡県立東筑中学校に入学。しかし、途中、学徒動員にかりだされるなど勉強をやっているような状況ではなかったようです。戦後すぐに福岡県立東筑高等学校の商業科へ進みましたが、これは先祖が両替商などの商売をやっていたことと無関係ではないでしょう。

しかし健さん自身は世界を渡り歩く貿易商を目指していたようで、高校卒業後は明治大学商学部商学科へ進学。しかし、卒業後は戦後間もなくのことであり、大学卒業後も思ったような就職先がなく一旦帰郷し、このころ採石業をやっていたお父さんの仕事を手伝うことになりました。

23歳だったこのころのある日、「このままではダメになる」と思い、集金で持っていたお金を持ち出して家出同然の再上京。持ち出したお金も使い果たした頃に、大学の恩師から「新芸プロ」のマネージャー見習いの紹介をうけます。

喫茶店で面接テストを受けましたが、たまたまその場に居合わせていた東映の東京撮影所の所長で映画プロデューサー、マキノ光雄氏にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社することになりました。

翌年、1月に24歳でいきなり主演映画でデビュー。「電光空手打ち」というタイトルでしたが、これは、空手道に青春をかける青年の役で、舞台はこの青年の出身地である沖縄から始まり、他派との抗争に巻き込まれながらも夢を追いかけて上京してここで成長する、という青春ものだったようです。

この映画はヒットしたようで、1週間後には続編が公開されたそうです。その後は、アクション・喜劇・刑事・ギャング・青春もの・戦争・文芸作品・ミステリなど、幅広く現代劇映画に出演しました。

さらにその後1963年に出演した「人生劇場 飛車角」もヒットし、それ以降、仁侠映画を中心に活躍。1964年から始まる「日本侠客伝シリーズ」、1965年から始まる「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝シリーズ」などの主演でスターとしての地位を不動のものとしました。

以後の活躍は、連日のようにテレビや新聞で報道しているので、これ以上の説明は必要ないでしょう。

今年の8月26日に亡くなった米倉斉加年のお別れの会が10月13日に開かれた際に、故人に宛てて弔電を発したのが公の場での最後の活動だったそうで、去る11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。

2014-7524

……と、ここまで書いてきて色々調べていたら、この11月10日という日には高倉健さんだけでなく、いろんな有名人、しかも俳優さんが同日亡くなっている、という意外な一致をみつけました。

例えば、2009年のこの日には、森繁久彌さんが亡くなっており、一昨年の2012年には女優の森光子さんが亡くなっています。これだけでも驚きなのですが、1974年には小笠原章二郎という俳優さんも亡くなっています。

私も含め、若い世代の人は誰も知らないと思いますが、この人は、日本映画黎明期の大正時代デビューした人で、当初の芸名は「楠英二郎」だったようですが、昭和時代に入り「小笠原章二郎」に改名。戦前は二枚目俳優として知られた人で、戦後は端役まで数多くの作品に出演し、テレビ放送が始まるとテレビドラマにも出演していたそうです。

晩年の1970年代まで活動しましたが、1954年の「和蘭囃子」という新東宝の映画では、顔を白塗りにした殿様をコミカルに演じたそうで、この演技が、後世の志村けんのコント「志村けんのバカ殿様」に繋がる「バカ殿」の原型になったといわれているようです。

さらに、です。1965年には、歌舞伎役者で、十一代目 市川團十郎さんが11月10日に亡くなっています。

この人は、一昨年の2013年(平成25年)2月3日に亡くなった、十二代目市川團十郎のお父さん、つまりニュースキャスターでタレントの小林麻央と結婚し、2010年に西麻布の飲食店で暴行を受け顔面を負傷した、十一代目市川海老蔵のおじいさんにあたります。

この十一代目 市川團十郎さんは、歌舞伎の世界に入る前の20代後半には、東宝劇団でも活動した人で、東宝との契約終了後の1939年(昭和14年)、市川宗家の十代目市川團十郎に望まれ、市川宗家の養子となり、翌年に九代目市川海老蔵を襲名しました。

この海老蔵時代、「花の海老様」として空前のブームを巻き起こすようになり、品格ある風姿、華のある芸風、高低問わずよく響く美声などを売り物として戦後歌舞伎を代表する花形役者の一人となっていきました。

1962年(昭和37年)、53歳のとき、十一代目團十郎を襲名。これは59年ぶりの大名跡復活だったということで、このときお披露目として興行された「勧進帳」は「一億円の襲名」と言われたそうです。

しかし、團十郎襲名からわずか3年半経った1965年(昭和40年)11月10日、胃癌で死去。56歳の若さでした。

その長男で十二代目 市川 團十郎さんのことはご記憶の方も多いでしょう。父が早世した後は自らの努力で芸を磨いた人で、スケールの大きい骨太な芸格が魅力で、重厚な存在感がありながらも、独特な愛嬌がありました。

市川宗家お家芸の歌舞伎十八番はもとより、荒事、世話物、義太夫狂言、新歌舞伎と多彩な役々を演じ分ける器用な人でしたが、2004年に長男が十一代目の市川海老蔵襲名した前後ごろから白血病を発症。

その後は壮絶な闘病生活を送り、妹から骨髄移植を受けたことでその後しばらくは舞台にも立てるほど回復されましたが、一昨年の2013年2月に肺炎のため死去。66歳でした。

その子である、十一代目市川海老蔵さんは、そうした父親の姿だけでなく、亡くなった祖父の十一代目 市川團十郎さんからも強い影響を受けたと語っています。少年時代の一時期、厳しい稽古に反発を繰り返していた折に、立ち直ったきっかけとなったのが、生前の祖父・十一代目團十郎のフィルムを見たことだったそうです。

海老蔵さんはこのときフィルムに映る祖父の勇姿と芸の美しさに感銘を受けたといい、その祖父のDNAを受け継ぎ、以後は古典の大役に挑み、初役を多くつとめ、高い評価を得るようになりました。そしてその姿に「海老さま」と人気のあった十一代目市川團十郎に重ね合わすファンも多いといいます。

2014-7525

さて、このように、11月10日という日は、有名な役者さんがたくさん亡くなっているわけですが、さらに調べてみると、実は、皇室ともゆかりの多い日ということもわかりました。1915年にはこの日に、大正天皇の即位礼が京都御所の紫宸殿で挙行され、1928年にも同じ日に昭和天皇の即位礼が同じく紫宸殿で挙行されています。

皇室典範・登極令制定後、初めてとなったこの大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われましたが、一般には公開されず、皇室関係者以外では貴族院議員などの国のトップだけを集めて行われました。

一方の昭和天皇の即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上もの参列者がありました。

1928年(昭和3年)11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かいましたが、京都へ向かうこの天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車、皇后の乗る4頭立て馬車、皇族代表の内大臣牧野伸顕の乗る馬車、内閣総理大臣田中義一の馬車と続く壮麗なものでした。

全長600メートルにも及んだというこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていたそうで、一行が京都に到着したあと続いて11月10日に行われた式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱して昭和の時代が幕を開けました。

ところが、11月10日に行われた皇室の行事は、これだけにとどまりませんでした。さらには、1940年の11月10日、皇居外苑で「紀元二千六百年式典」が実施されており、このときは日本各地で皇室2600年を祝う記念行事が盛大に行われました。

西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年に当たるとされたことから、これを記念して行われた行事であり、日本政府はこれに遡る5年前の1935年(昭和10年)から既に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、初代天皇とされている神武天皇が祀ってある橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進してきていました。

1937年には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」を創設。時代はそろそろアメリカとの関係があやしくなろうとしている時期でもあり、国民の意識を「神国日本」に向け、その国体観念を徹底させようという動きが強められていた時節柄でした。

「紀元二千六百年式典」は極めて神道色の強いものであり、敬神思想の普及のために「神祇院」なる組織まで設置され、奈良の橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕しました。

また外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進されましたが、日本政府は、こうした活動により日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示しそうとしました。

しかし、その一方で日本政府には、このころ既に始まっていた日中戦争の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、こうした様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしていたわけです。

2014-7533

こうした中で迎えた1940年の「紀元二千六百年」は、年初めの橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催されました。そして、11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催されました。

宮城外苑寝殿造の会場で挙行された内閣主催のこの「紀元二千六百年式典」の式次第では開会の辞を近衛文麿首相が読み、君が代奉唱、近衛首相による寿詞を首相が引き続いて奏上、天皇から勅語が下賜されたのち、軍楽隊・東京音楽学校による紀元二千六百年頌歌斉唱、万歳三唱されましたが、この模様は日本放送協会によりラジオで実況中継されました。

が、天皇の勅語の箇所だけはカットされたそうで、これは、ラジオの聴取者がどのような姿勢・体勢で放送を聴いているかがわからないため、不敬とされる状況が生じるのを避けるための措置であったといいます。天皇の肉声が正式なプログラムとして初めてラジオで流れるのは、その後1945年のポツダム宣言受諾を伝える玉音放送でした。

11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達し、式典に合わせて作曲された「皇紀2600年奉祝曲」は日本各地で演奏されました。

この曲は一曲だけではなく、紀元2600年を祝うために作曲された数々の曲の集合体であり、日本国内で作曲されたものもありますが、なんと欧米各国の作曲家に委嘱して作られました。アメリカ、イギリス、イタリア、ドイツ、フランス、ハンガリーなどに依頼されましたが、アメリカはこのころ悪化していた対日関係を理由にこれを断りました。

結果、アメリカを除く5ヶ国から曲が提供されましたが、その後イギリスもアメリカと同様に敵性国家になったため、結局イギリスから提供された作品は演奏されませんでした。奉祝曲演奏会は、1940年12月7日・8日に東京の歌舞伎座において行われ、日本の著名な指揮者により演奏がなされました。

この演奏会は続いて12月14日と15日に一般向けの演奏会が行われたほか、大阪歌舞伎座でも一般向け演奏会が開かれ、その合間を縫ってラジオでも演奏の模様が全国放送されました。

各国の作曲家への返礼として、このときスタジオ録音されたSPレコード、印刷された楽譜、また、織物などが各作曲者に送られたそうですが、この翌年には太平洋戦争に突入したため、これらの贈り物を積んだ船は撃沈され、結局は届かなかったというエピソードも残っています。

ただ、友好国であったドイツの作曲家であったリヒャルト・シュトラウスには、その後作曲料の代わりに、この当時彼がコレクションとして収集していた「鐘」が代わりに送られ、これをシュトラウスは大いに喜んだそうです。

こうして、1940年11月10日の「紀元二千六百年式典」は無事に終わりましたが、この当時既に始まっていた日中戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、行事終了後には、大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」のポスターがあちこちに貼られるようになりました。

この標語の如く、その後戦時下の国民生活は引締めムードが強くなり、翌年の太平洋戦争への突入と共にますます厳しさを増していくことになっていきました。

2014-7543

終戦後、この11月10日に何等かの皇室の重要行事が行われたという話はないようですが、上で述べたような数々の式典が行われてきたことなどをみると、いまだもって皇室と非常に縁が深い日という印象があります。

そしてこの日に亡くなった森重久弥さんは、その皇室から、紺綬褒章(1964年)、紫綬褒章(1975年)、勲二等瑞宝章(1987年)、文化勲章(1991年)などなどの賞を受けており、2009年には従三位を受け、さらにはその没後に国民栄誉賞(2009年)まで受けています。

森光子さんもまた、1984年(昭和59年)11月、紫綬褒章を授与されており、1992年(平成4年)には、勲三等瑞宝章を授与されたほか、森重久弥さんと同様に文化勲章を受け、国民栄誉賞は生前に受賞しています。また従三位は死後に遺贈されています。

高倉健さんはといえば、この人も1998年に紫綬褒章を受けており、2006年には文化功労者とされ、2013年には文化勲章を受章しました。おそらくは、その死後にも何等かの栄誉が遺贈されるのではないでしょうか。

このように、皇室においてもハレといわれるような日に亡くなったということを考えると、どうしても神前に召されたのでは、と思ってしまうのは私だけではないでしょう。戦前の皇室は神格化された存在であり、現在も数々の問題をはらんでいますが、日本で一番古いファミリーであり、神に最も近い存在とも言われます。

まさか人身御供というわけでもないでしょうが、人身御供は、実は「神隠し」を起源とするものである、という説もあるようです。

神隠しとは、人間がある日忽然と消えうせる現象で、神域である山や森で、人が行方不明になったり、街や里からなんの前触れも無く失踪することを、神の仕業としてとらえた概念です。古来用いられてきた用語ですが、現代でも唐突な失踪のことをこの名称で呼ぶことがあり、天狗隠しともいいます。

なぜ、人身御供の起源といわれているかといえば、かつては神隠しとは神が人を食うために行われていた行為だと人々が考えていたためです。民俗学者の柳田國男によれば、日本では山で狼が子供を食ったという話が多く伝わっているということで、このオオカミがその後「山神」に転じ、これが子供をさらっていくと考えるようになったのだといいます。

そしてこのことが神隠しの起源となり、その後小児が失踪することをそう呼ぶようになっただけでなく、やがては荒ぶる神を抑えるために、こちらから人身御供を差し出す、というふうに変化していきました。

古代社会では人命は災害や飢饉によって簡単に失われる物でした。このため、気紛れな自然に対する畏怖のため、人身を捧げる風習が発生したと考えられ、自然が飢えて生贄を求め猛威を振るっているという考えから、大規模な災害が起こる前に、適当な人身御供を捧げて祈願することで、災害の発生を未然に防止したわけです。

2014-7553

特に日本では、あちこちの河川が度々洪水を起こしてきましたが、これは河川のありようを司る水神(龍の形で表される)が生贄を求めるのだと考えられ、このため河川の護岸工事などにおいては、人身御供の形で生贄が出されました。

人柱とも言われ、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言いますが、事実であったかどうかは別として、人柱の伝説は日本各地に残されています。

また、城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多く、実際に城郭の遺跡を発掘したところその基礎から人骨が出てくるケースは結構あるようです。また、かつてのタコ部屋労働のように、不当労働や賃金の未払いから「どうせなら殺してしまえ」という理由で人柱にされてしまった例もあるといいます。

が、生きたままの人間を犠牲にする、というのは非常に世間体が悪いわけです。このため、一般にはこれを「神隠し」と称して神にさらわれたのだとし、そしてその神隠しにあった人たちは、岩や山、海や川などの神の宿る場所に行ったと人々に思い込ませました。

自然に存在する「依り代」のもとに行ったのだとされたわけですが、この依り代とは、憑代とも書き、神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことです。神体などを指すほか、神域を指すこともあり、その場所と現世との端境でもあるという意味で、そこに「社(やしろ)」、すなわち神社を造って祀るようになりました。

そして、その神域とその外の境を「結界」と呼びました。鎮守の森や森林や山や海や川や岩や木などは、禁足地である場所も多く、現世の端境の向こうにある世界とし、そこに結界の象徴として社や境内を作ったわけです。

そして、その結界には、白い紙や布を吊るしたり張ったりしてそこが神域であることを示しましたが、この慣わしはその後家庭にも持ち込まれるようになり、現在でも神棚を白い紙や布を吊るしたり覆ったりするのはそのためです。

人身御供もその結界のかなたへ行き、表向きこれは神隠しとされました。災害を防ぐという大きな見返りを得るために、理不尽にもかかわらずその犠牲になるわけですが、いわば神という権力者に対して通常の方法ではやってもらえないようなことを依頼するための生贄だったわけです。

が、今回亡くなった高倉健さんをはじめ、これらの優れた役者さんたちは、けっして人身御供や生贄としてあの世に召されたわけではありません。それどころか、我々の世界においてはその演技を通じて多くのことを我々に教えてくれる貴重な存在であり、むしろ神によってその才能を望まれてあちらの世界に帰ったと考えるべきでしょう。

そして、今度はきっと神に奉仕するような存在になるに違いなく、あるいはより神様に近い存在になっていくのかもしれません。

古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われたものが「舞」であり、これがもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となりました。そして、そこからは歌舞伎などが生まれ、やがてはそれが現在の芸能になっていきました。

その芸能を一生の生業にした健さんたちもまた、その俳優・女優業を通して知らず知らずにその活動を神に奉納していたのかもしれず、その生涯を終える日として、日本では最も神に近いとされる天皇家にゆえんのある日を選んだと考えることもできるかもしれません。

ですから、いっそのこと、11月10日を「芸能の日」とかいった記念日にでもしたらどうか、などと私などは思うのですが、そんな突拍子もないことを考えつつ、秋の日は更けていきます。

今年もあと一ヶ月あまり。その最後に毎年発表される墓銘録の中に、高倉健さんの名前も刻まれることを考えると少々寂しいかんじがします。

ご冥福をお祈りしたいと思います。

2014-7536

イタリア発アメリカ

4a19703u-2おとといの11月14日に、アメリカ合衆国ニューヨーク州の町オウェゴ(Owego)の郊外アパラチン(Apalachin)というところで、「アパラチン会議」という会議が開かれました。

といっても、これは60年ほども前の1957年のことであり、会議の名前からすると政治家の集まりか何かな、と思いきや、これはアメリカのマフィアのボスたちの秘密会談でした。

ニューヨークのジェノヴェーゼ・ファミリーのボスであるヴィト・ジェノヴェーゼが全米のボス達とコミッションを開く事を提案したもので、彼の呼びかけにより、全米よりマフィアのボス達約100人が、フィラデルフィア北東部一家のボス、ジョゼフ・バーバラの所有する邸宅に集まりました、

会議中にはこの片田舎の家に多数の高級車が並び、高級スーツを身にまとった大勢の男たちが集まりましたが、こんな片田舎にこれだけの紳士が集まっているのはどうみても不審です。案の定、街の住人から通報があり、このため多数の警察官がかけつけ、この会議場に踏み込みました。

驚いたマフィア達は周囲の森などに逃亡しましたが、このとき数多くの名うてのマフィア幹部達が逮捕・起訴されました。それらの中には、ジョゼフ・ボナンノ(ボナンノ一家)、ジョゼフ・プロファチ(プロファチ一家)、サント・トラフィカンテ(フロリダ州、キューバ)、ジェームズ・シベーロ(ダラス)といった大ボスもおり、65人が逮捕されました。

この事件は、この当時マスコミにより大々的に報道され、これによって初めてアメリカ国内にも大規模な犯罪組織が存在していることが全米に知れ渡りました。警察はそれまでこうしたマフィアの大組織が存在を否定していましたが、これを契機にこのときのFBI長官であったジョン・エドガー・フーバーは組織犯罪撲滅の開始を宣言しました。

この「マフィア」というのは、もともとイタリアを起源とする組織犯罪集団です。その発祥の地は、シチリア島といわれ、この島は地中海のほぼ中央に位置しています。イタリアとチュニジアを結ぶ中間点にあることから、古代から近世にかけて様々な民族による侵略を受け、長年にわたり諸外国の勢力下に置かれていました。

その後18世紀にはこの地においてシチリア王国が成立しましたが、当然のことながら王による絶対支配であり、その後も近年に至るまでシチリアには自治行政府は存在せず、このため住民たちは数世紀にわたり大土地所有制度の下、貴族などの権力者によって住人達は抑圧されてきました。

実は、こうした住民側に立ち彼等を擁護する、という立場から登場してきたのがマフィアです。しかし、19世紀ごろから次第に凶暴化して恐喝や暴力により勢力を拡大するようになり、1992年段階では186ものグループに膨れ上がり、これらのマフィアのグループは「ファミリー」と呼ばれました。

この当時既に総勢で約4000人ものメンバーがいたといいますが、マフィアの一部はその後、19世紀末より20世紀初頭にアメリカ合衆国にも移民し、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなど大都市部を中心に勢力を拡大していきました。

1992年段階でアメリカ全土には27ファミリー・2000人の構成員がおり、ニューヨークを拠点とするものはコーザ・ノストラと、シカゴを拠点とするアウトフィットがそのうちでもとくに大きなファミリーでした。

今日は、このように19世紀から現在にかけてまでイタリアとアメリカの裏社会において君臨してきた「マフィア」という存在の歴史をさらに詳しくみていこうと思います。

8a15858u-2

マフィア・その黎明期

マフィアの起源は、中世シチリアの「ガベロット」と呼ばれる農地管理人であるといわれています。彼らは農民を搾取する大地主でもありましたが、一方では自分たちの農地を守るため武装して守り、また政治的支配者と密接な関係を結んでいました。

この「マフィア」という言葉の語源ですが、諸説はあるものの定説はありません。が、アラビア語で採石場を意味するマーハ(mafie)、空威張りを意味するマヒアス(Mā Hias)から来たというものが有力といわれています。

イタリアのシチリアでは9世紀から11世紀までイスラム教徒のアラビア人が支配しており、支配に反抗した者や犯罪者がしばしば採石場に逃げ込んだといいます。またイタリアの国語辞典にはシチリア方言で「乱暴な態度」という意味であるとの記述があるようです。

しかし実際には人々の受け止め方は違い、マフィアという言葉が出される場合は、肯定的な意味で使用されることが多く、とくに農民はガベロットの支配下にはあったものの、自分たちを守ってくれる彼らを「美しさ、優しさ、優雅さ、完璧さ、そして名誉ある男、勇気ある人、大胆な人」と考え、マフィアという言葉にその意味を込めました。

この言葉が初めて公文書に使われたのは1656年、この当時スペイン人の統治下にあったイタリアのシチリア島北西部に位置する都市パレルモでの異端尋問においてであり、異端とされたイタリア系キリスト教信者のリストの中で初めてこの言葉が使用されています。

その後、18世紀になるまで、シチリアに領地を持っていた貴族や地主らは、ナポリやパレルモ等の都市部に居住していたため、一般の小作農民との接点はなく、また地主らもまたガベロットに土地管理を任せたままにしていたため、自分たちが所有する土地やそこに住み農民への関心は薄いままでした。

このため、地主らから広大な農地を貸与されてたガベロットたちは、こうした地主たちの無関心を利用して、そこでの収益を地主に不正申告し、余った金を小作農民達に法外な利子をつけて貸しつけたり、また当時は非常に儲けの大きかった家畜泥棒等をして私腹を肥やしていきました。

そして裕福になったガベロッとたちは、本来の自分たちの仕事を、農地監視人(カンピエーレ)という人達に任せるようになり、彼等に山賊や盗賊から守る為の仕事をやらせました。一方では、徐々に地主達からその権利を奪い取り、さらに、貴族、政治家、警察、教会などの上流階級や小作農民や山賊らをも取り込んでいき、勢力を拡大していきました。

こうして彼ら農地管理人と農地監視人は共存共栄の癒着関係となっていき、こうした彼らがのちのマフィアと呼ばれる犯罪組織の母体となっていきました。しかしこの当時のマフィアはまだ、国の支配者たちから自分たちの権益を守る自衛組織的なカラーが強いものでした。

その後の1860年、イタリアはスペイン人を追い出しシチリア島を併合してイタリア王国が設立されましたが、これがマフィアたちにとっても歴史の変換点となりました。

イタリア民族自らが権力者を選ぶ王国になったとはいえ、政権に集まった人間の中身は右翼から左翼までばらばらであり、このためとくに伝統的に中道であった大地主たちは次第に王政に不信感を抱くようになりました。

さらにシチリア人達は、それまでの数世紀にわたるシチリア王国以前のフランス人やスペイン人といった外国人支配者による政治的な圧迫の記憶から、政治や政府そのものに対して強い不信感があり、住民同士での互助組織を通じてその時々の外国人支配者に対して抵抗してきましたが、そんな中でマフィアを頼りにするようになったという歴史があります。

そこへきてこれら外国からの圧迫から解放され、王国ができたわけですが、その政治が乱れに乱れたことから、マフィアが台頭することとなり、彼等は主に労働運動などを扇動し、デモなどを通じて会社や政治への関係を強めていくようになり、次第に裏社会を操る「必要悪」といわれるような存在となっていきます。

とくに現代のような犯罪者としての意味合いの強い「マフィア」という言葉が広く知られるようになったのは1862年に制作された「ヴィカーリア刑務所のマフィア構成員たち」という喜劇がパレルモのサンタンナ劇場で上演され大ヒットし、イタリア各地で巡演されてからといわれています。

このマフィアの扇動により、住民だけでなく、大地主も含めたシチリア王国の大部分の住民は中央政府に対する反発を強めるようになり、さらには保守的な宗教勢力による運動、労働運動なども勃興するようになります。つまり、このころのマフィアはもうすでに、人々を守るような存在ではなく、後世のような「悪魔」に変身していたのです。

8a15586u-2

イタリアンマフィアの誕生

こうした風潮の中で、悪賢いマフィアたちは、シチリアの住人に対して「無能で高圧的な公権力に対し、誇り高く名誉ある男として振る舞う男たち」というイメージを刷り込んでいきました。そしてシチリアの大衆もそんな彼らに幻想を抱き、救いの手を求めるようになっていきます。

ところが、このように住民たちが受け入れたマフィアは、救世主でもなんでもなく、やはり悪魔でした。

マフィアが起こした事件で最初に世界を震撼させたのは、1877年に起きた「ジョン・フォスター・ローズ誘拐事件」でしょう。この事件は1877年11月にジョン・フォスター・ローズというイギリスの銀行家が自分の所有しているシチリアの土地を見に訪れたときにレオネというマフィアのボスに誘拐された事件です。

レオネはローズ家に莫大な身代金を要求しましたが、払えないという返事が来るとローズの耳と鼻をそぎ落とし、送りつけました。この事件の収集は結局当事者だけでは収まらず、イギリスの新聞が募金を呼びかけて集まった金をレオネに払い、ようやくローズが解放されるという結果になりました。

しかし、イギリス政府は自国民のこの遭難を看過しませんでした。イタリアに対しレオネを逮捕するよう要求し、逮捕が行われなければ軍隊を上陸させるとまで通告したともいい、これを受けてイタリア政府は1年かけてレオネを逮捕しました。彼は裁判で終身刑を受けましたが、その後脱獄し、アルジェリアに逃げたといわれています。

ところがこのころまでには既に多数の住民の支持を得ていたマフィアはかなりの大組織に成長しており、たちまち彼等の逆襲が始まりました。彼等は政治家にも取り入り、政治にも介入していくようになっており、そんな彼らが起こした象徴的な事件として、1893年2月1日に起こった「ノタルバルトロ侯爵殺害事件」というものがあります。

この事件では、元シチリア銀行頭取エマヌエレ・ノタルバルトロ侯爵が殺害され、その犯人として、政治家であったラファエレ・パリッツォーロと彼の友人であるマフィアのボスが浮上しました。

事件の発端は、彼が手形を偽造して銀行から融資を受けていたことを、ノタルバルトロに感づかれてしまったことでした。しかしあらかじめマフィアが各方面に手を回していたこともあり、当局はこのことに関して調査しようとせず、この事件を捜査しようとした捜査官らは左遷され、直接殺害に関与したマフィア達もまともに審議されずに釈放されました。

これに憤慨したノタルバルトロの遺族たちは独自で調査を行った結果、マフィアであった容疑者を探しだし、彼等を裁判にかけることを要求しました。こうして、イタリア本土で裁判が行われることとなりましたが、その中で政治家であるパリッツォーロにも有罪判決が下りました。

ところが、マフィアと親交があったとはいえ、イタリア政府の一員でもあった政治家に有罪判決が出たことに対しシチリアの有力者たちは激怒しました。

そして彼らが結成した「親シチリア委員会」は、「シチリア人が迫害されている! シチリア人を陥れようとしている者達が我々にマフィアというレッテルを張ろうとしている!」とのキャンペーンを展開し、裁判のやり直しを要求します。

その結果、再度裁判が行われる事となり、1904年にパリッツォーロらは無罪放免となりました。シチリア人たちは公権力に勝利したとして大いに満足しましたが、ある意味悪の権力に肩を貸したことになり、引いてはマフィアに加担したことになりました。

その結果として、シチリアの住民は自分たちが下したこの決断を恥じるようになり、その自戒からこれ以来「マフィア」という言葉は公然と使わなくなり、禁句となっていきました。

つまり、表向きはマフィアという存在を出さない、そんなものはいない、という雰囲気が生まれたということであり、この事件以降、マフィアはイタリア社会の地下深くへともぐりこみ、更に暗い裏社会を形成するようになっていきます。

8a06710u-2

イタリア国外への進出

こうして19世紀から20世紀にかけて、マフィアたちの勢いはさらに増していきました。それまでは主に農村地帯が彼らの本拠地でしたが、パレルモなどに代表されるような都市部へもその勢力を拡大していきました。

そして、19世紀末、アメリカでのゴールドラッシュによりヨーロッパからの移民が増加し始めると、彼等イタリア・マフィアも海を渡り始めました。これが映画「ゴッドファーザー」で知られるアメリカ・マフィアの起こりであり、彼等マフィアはアメリカ大陸においてもイタリアと同様の犯罪結社を作り定着していくようになっていきます。

しかし、こうしたイタリア人達の渡米は、18世紀から19世紀前半までにアメリカに渡り定着したイングランド人やドイツ人などプロテスタント移民に大きく遅れての入植でした。時期としては、19世紀末から20世紀初頭になってであり、かなり遅れてアメリカへ入ってきた後発移民集団といえます。

後発組であった彼らは、このためアメリカ社会の底辺に置かれるようになり、やがては同郷出身者同士の協力関係を築くようになります。こうした中から生まれた「アメリカマフィア」もまた、本来イタリア系移民の中で結ばれたこうした相互扶助の形式から発達したものでした。

このアメリカマフィアのほとんどは南イタリア出身であり、当初はニューヨーク等の東海岸に居住しましたが、次第にシカゴやアメリカ南部等へも広がっていきました。

実は、ニューヨークの暗黒街には、19世紀末から20世紀にかけて、既に様々なギャング団が存在していました。彼らはアイルランド系、ユダヤ系など民族ごとに集団化し、賭博・売春等を稼業としながら、お互いの縄張り争いをしていました。

アメリカに入植してきたイタリア人の犯罪者たちも、これをお手本にし、彼らのように犯罪集団を作り始めましたが、その中でも有名なのが「マーノ・ネーラ」、通称「黒い手Black Hand」と呼ばれるギャング達でした。

彼らは主に商店への強請りを生業としており、相手に手紙を送り金を払わなければ殺すと脅す手口で勢力を拡大していきましたが、いつもその手紙に黒い手形のマークをつけていたことが、彼らの名の由来です。

1890年10月15日、アメリカ南部にある町ニューオーリンズで警察署長だったデイブ・ヘネシーが何者かに暗殺されるという事件が発生しました。

犯人は、この当時ニューオリンズの支配権をプロベンツァーノ・ファミリーと争っていたマトランガ・ファミリーという、イタリア系移民のマフィアでしたが、彼らはヘネシー署長が敵対していたプロベンツァーノ・ファミリーを庇護していると思い、彼を殺害したのでした。

捜査の結果、マトランガの手下が犯人として逮捕されましたが、1891年3月13日、彼らに証拠不十分で無罪の判決が下りました。この判決に対し、ニューオリンズ市民は激怒し、「犯人を出せ!」と叫び、犯人であるマトランガの部下が収監されていた刑務所に押し入り、彼らを集団リンチしました。

この事件はその中核にいたのがイタリア系移民だったため、そのニュースはアメリカはおろかヨーロッパにまで知れ渡りました。

また、当時の大統領だったベンジャミン・ハリソンがイタリア政府に謝罪するまでの事態に発展し、結局アメリカ政府はイタリアにいる犠牲者の遺族らに賠償金を支払いました。そしてこの事件がアメリカでのマフィアによる初の抗争事件といわれています。

その後、1901年には、元イタリアのマフィアの、「ヴィト・カッショ・フェロ」という男がシチリアからアメリカへ渡り、ニューヨークのイタリア系アメリカ人の犯罪組織であるマーノ・ネーラと手を結びました。

ニューヨークにおいてマーノ・ネーラ達と接触し、犯罪組織としては未熟だった彼らに「マフィア流の商売」の仕方を教え、やがては指導者のような存在になっていきました。

彼こそがアメリカマフィアの創造者とまでいわれた人物であり、もともとイタリアにも基盤があったことから、ヴィト・カッショ・フェロはやがて、シチリア=アメリカ間のマフィア・ネットワークを強化する要となっていきました。

組織を強化するためフェロが手始めにやったのは、伊米間で密貿易を行い、手先から保護料取立てることであり、これによって財を成し、やがては20世紀初期の大物マフィアとしてその権勢を誇るようになっていきました。

そんな矢先の1903年、フェロらの一味の幹部が、アメリカの警察官ジョゼッペ・ペトロジーノによって逮捕されてしまいます。

捕えられたのは、ボス格であるヴィト・カッショ・フェロやジュゼッペ・モレロであり、このほかにもシチリアでノタルバルトロ侯爵殺害に加わったジュゼッペ・フォンターナなども含まれていました。ところが、彼等はその後は証拠不十分で釈放されました。そしてその裏には彼等マフィアと検察の癒着があったことも指摘されています。

このように警察や検察内部にも通じ、野放しにされたままの彼らは更に問題を引き起こしていきます。1907年、彼らは当時、人気を博していたイタリア人歌手エンリコ・カルーソーに脅迫状を送りました。このため、ペトロジーノはイタリア系犯罪組織に関する調査を進めるため、1909年、はるばるアメリカからイタリアに渡航します。

ところが、彼が調査活動を始める前にその動きは事前にマスコミ等に漏れていた為、パレルモに到着して間もなく、ペトロジーノはフェロの手下により暗殺されてしまいました。

以降、イタリアのシチリア・マフィアとアメリカのマーノ・ネーラは緊密な関係を保ったまま、強大なマフィアとしての性格を強めていき、ニューヨークにおいては商店主への保護料要求、闇賭博、売春等の操作で富を得て、アメリカンマフィアは犯罪組織としてさらに成長していきました。

3c13719u-2

禁酒法時代

その後、アメリカでは1920年代に禁酒法時代に突入しますが、このころイタリアでは、ムッソリーニ政権による強力なマフィア取締が始まっており、大物ボス達までが出国してアメリカに渡り、密造酒製造・販売に携わり巨万の富を築くようになっていました。

そして、ファミリー同士で熾烈な戦争を起こすようになっていきますが、その中でも最大の抗争といわれる「カステランマレーゼ戦争」において勝利したサルヴァトーレ・マランツァーノという男が「ボスの中のボス(Capo di tutti capi,boss of all bosses)」を名乗ったときに、自らの組織名を初めて、「コーサ・ノストラ」と命名しました。

コーサ・ノストラ(La Cosa Nostra)とは、イタリア語で「我らのもの」を意味します。ボスを頂点とするピラミッド型の構造を持ち、忠誠心と暴力による恐怖支配によって組織を維持した秘密結社でもあり、組織について沈黙を守るよう定める血の掟によって、その実態が表面化することはほとんどありませんでした。

彼らが自らの組織を呼ぶ際には「名誉ある社会」と表現し、そして、個人の場合は「名誉ある男」という言葉を好んで使いました。また、マフィアと一般人を区別する為、単に「我々」という言葉も使われました。

例として「彼は我々の友人だ」の場合は、彼もマフィアの一員であるという意味合いで使われ、「彼は私の友人だ」の場合は彼はマフィアの一員ではないという意味があります。

コーサ・ノストラの親分の中には、その後アル・カポネなどの派手な大物ボスが現れたため、世間の脚光を浴びるようになり、このことから、アメリカ政府の集中取締りを受けるようになっていきました。映画、「アンタッチャブル」はこの時代のマフィアとこれを取り締まる警察官との戦いを描いたもので、ご覧になった方も多いでしょう。

この映画でも描かれましたが、その後警察の中でもマフィアとの癒着を浄化しようという動きがあり、これによって取り締まりが強化され、その余波を受けてアル・カポネは投獄されてしまいます。この事件によって組織が大きく生まれ変わったといわれており、結果として最も勢力を伸ばしたのが、組織力に優れたチャールズ・ルチアーノでした。

“Lucky” ラッキー・ルチアーノとも呼ばれた彼は、組織の潜在化に努め、ニューヨークの縄張りを五大ファミリーに固定化するなど各地のイタリア系組織を整理・統合し、他国系移民の犯罪組織とも連携して犯罪シンジケートを構築し、この時代にはさらに政治との癒着も深めていきました。

8a15717u-2

ファシスト政権時代

一方のイタリアのシチリアにおいては、第一次世界大戦の勃発後、ここが軍用火薬の原料となる硫黄の産出地でもあったために戦争景気が訪れ、硫黄鉱山を保有していた「カロジェロ・ヴィッツィーニ」というマフィアなどが、大いに私腹を肥やすようになっており、イタリアンマフィアは全盛期に入っていました。

ところが、このイタリア・マフィアは1920年代から1930年代にかけて徹底的に弾圧され壊滅的な打撃を受けるようになっていきました。

政治家や有力者を取り込み、邪魔者は徹底的に排除し、沈黙の掟で守られた彼らも、壊滅状況に追い込まれた時代が到来しました。1922年から始まったベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権が主導する時代がそれです。

ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱したファシズムは大流行し、反自由・反共産・反保守でしかも過激な軍国主義という、いわゆる「ファシスト」が暗躍するようになり、その中で彼等は似たような性質を持つマフィアたちを敵視するようになっていきます。

1924年5月、ムッソリーニがシチリアを訪問した際には、自分のことは棚に上げ、「ここは、すべてが悪党どもの集団で、動くたびにマフィアの悪臭がする」と秘書に述べていたとも伝えられています。

ムッソリーニはさらにシチリア中央部にあるピアーナ・デイ・グレージという町を訪問しましたが、このとき、この町の町長でありマフィアのボスでもあったフランチェスコ・ドン・チッチョは、ムッソリーニに対し「警察に護衛してもらう必要などない。私がいれば何も問題ない」と護衛を減らすよう求めたといいます。

ところが、ムッソリーニは、この町長の求めを無視しました。町長はこのムッソリーニの態度に激怒し、町の住人に対しムッソリーニの演説を見に行くなと命じた結果、ムッソリーニの演説集会には誰も集まりませんでした。

不審に思ったムッソリーニが部下に調べさせてみたところ、実はチッチョがマフィアであるという事実を知ります。これを知るや否やムッソリーニは怒りまくり、そしてマフィア撲滅を宣言します。

そして、1925年、部下のチェーザレ・モーリをシチリアに派遣し、マフィアの掃討を始めますが、このモーリのマフィア狩りは苛烈を極め、ちょうどこのころイタリアに帰国していた、上述のイタリア系アメリカマフィア、「ヴィト・カッショ・フェロ」を含む多数のマフィア構成員を刑務所に送り込み、マフィアを壊滅状態に陥れました。

しかし、このモーリはどちらかといえば正義感の強い人であったようで、マフィアに次いで、やがてはその追求の矛先をムッソリーニらのファシスト政権の要人にまで伸ばすようになったため、1929年に罷免されました。しかし、モーリらの掃討により、イタリアのマフィアたちは大打撃を受け、その後しばらく息を潜めるようになっていきました。

ところが、その後ムッソリーニ率いる軍国主義国家としてのイタリアは第二次世界大戦において連合国に破れました。ムッソリーニは国外へ脱出しようとしましたが、イタリア北部のコモ湖付近でパルチザンに捕えられ、後日銃殺されました。

これにより、大戦終結後の1946年に行なわれた共和制への移行を問う国民投票では、共和制移行が決定し、ウンベルト2世は廃位され、君主制は廃止され、現在のイタリア共和国が成立しました。

これを受けて1947年以降、シチリアにも主権が与えられるようになりましたが、長期間続いた外国による支配と彼らの失政とその後も続いたファシストたちの支配によりボロボロ状態であり、かつて地中海の自然の恵みを受け農業が盛んであったシチリアの国土は荒れるにまかせるままになっていました。

やがては、山賊等の無法者がはびこる島となり、このため島の住人たちは公権力に対して強い不信感を持つようになりました。シチリア人にとって、公権力に頼ることや公権力に協力することは非常に不名誉なことであるとされるようになり、「公権力に頼らず、自分の力で問題を解決していくこと」が名誉ある生き方と考えられるようになっていきました。

こうした時代背景から、一旦衰退していたマフィアが復活し始めます。第二次世界大戦中、アメリカ政府は、ムッソリーニ率いるファシストの攻略のためイタリアマフィアを利用していましたが、このときその連絡のためにアメリカ政府が利用したのが、かつてイタリアからアメリカに渡って形成されたアメリカマフィアでした。

そして戦後、このアメリカマフィアは、逆に続々とイタリアに里帰りするようになり、いわば逆輸入される形で息を吹き返すことになります。

3c20805u-2

第二次大戦後

少し話が遡りますが、アメリカでは禁酒法が1920年代に終わって以降もマフィアは賭博業、売春業、麻薬取引、労働組合などで大きな収入を得ていました。1930年代に入っても、労働組合などは、組織力に優れたラッキー・ルチアーノなどのマフィアに食い物にされており、大手自動車会社フォードも被害に遭っていました。

ところが、トーマス・デューイという警察官がルチアーノを追いつめ、ついに逮捕に成功します。ルチアーノが投獄されたため、組織には大きなダメージを与えたかに見えましたがしかし、投獄後もルチアーノは権力を保ち続け、刑務所からをも組織を指揮することができたといわれています。

しかも、第二次世界大戦中の1943年、シチリアに連合軍が上陸すると、連合軍は刑務所にいたルチアーノファミリーの主だったメンバーを解放してしまいます。

さらに連合軍は知ってか知らずしてか、マフィアのカロジェロ・ヴィッツィーニをヴィッラルバ村の村長に任命し、同じくマフィアのヴィト・ジェノヴェーゼをアメリカ海軍司令部付の通訳に任命するなどして、多くのマフィア構成員を町長や村長等の政府関係者に任命しました。

こうしてファシスト政権崩壊後、イタリアのマフィア達は完全復活し、政治的にはこの当時の亜流であったキリスト教民主党との関係を深めていくようになります。

第二次世界大戦後、アメリカでは、監獄に入っていたラッキー・ルチアーノが恩赦により出所しましたが、すぐにイタリアに強制送還されました。しかし、残った大幹部のベンジャミン・シーゲルは、1946年、ギャンブルが合法とされていたネバダ州のラスベガスにフラミンゴホテルを完成させます。

このホテルは開業当時は赤字続きでしたが、彼は経営手腕に優れ、徐々に経営が軌道に乗ると、これを見たフランク・コステロなどの大物マフィアもこれを手本とし、次々とラスベガスにカジノをオープンさせていきました。

一方、イタリアでは、第二次世界大戦後もほとんどのマフィア・ファミリーは農村地帯に本拠を置いていましたが、1950年に大土地所有制度が廃止されたのと、イタリアに「奇跡の経済復興」と呼ばれる復興景気が訪れたのを機会に、マフィアたちは都市部へと本格的に進出し始めました。

そして彼らは建築ブームに乗じて政治家達と手を組み、公共事業の入札を支配し、建築業者から現金を脅し取る等して大きな利益を上げるようになりました。

この好景気において、イタリアで大きく勢力を伸ばしたのが、サルヴァトーレとアンジェロのバルベーラ兄弟と、グレコ・ファミリーとコルレオーネのボス、ルチアーノ・リッジョなどのイタリアンマフィアでした。彼らは共にタバコ・麻薬密輸・公共事業への介入で勢力を拡大していきました。

1957年10月10日、アメリカ・マフィアの大ボス、ラッキー・ルチアーノの提唱により、イタリア・パレルモにある高級ホテル「グランド・ホテル・デ・パルメ」において、はじめてアメリカのマフィアとシチリアのマフィアの大ボス達が集まり、史上初の伊米マフィアの合同会議が開かれました。

議題は、シチリアでの最高幹部会(コミッションまたはクーポラと呼ぶ)の創設と、麻薬に関する双方の取り決めでした。4日間続いた会議の結果、最高幹部会の結成とアメリカへの麻薬密輸等はシチリア側が取り仕切り、アメリカ側はその利益の一部を受け取るということに決まりました。

そして、彼等はこのころからイタリアマフィアの中においても「シチリアマフィア」とよばれて一目置かれるようになり、アメリカへの麻薬密輸に本格的に乗り出していく事となりました。そしてその手始めにマルセイユ経由のフレンチ・コネクションに対抗し、シチリアからアメリカ、ヨーロッパへのルートを確立させました。

このため、ヘロイン工場がシチリアで多く作られましたが、これらの麻薬はオリーブオイルの缶に詰められ、年間3~4トンにも上る量がアメリカへ送られたといいます。

そして、冒頭で述べたとおり、1957年11月14日、その幹部たちがニューヨーク州アパラチンで大会議を開くに至りますが、ここに集合した際、FBIにより、彼等は大量検挙され、この事件からマフィアの名がアメリカのメディアにも登場するようになっていきました。

このときに捕まったジョゼフ・ヴァラキという男が政府側に寝返り、それまで長い間「沈黙の掟」によって守られていた組織の詳細が明らかになりましたが、この話は、映画にもなりました。

ヴァラキは、1963年にアメリカ上院調査小委員会で「コーサ・ノストラ」という正式名を明らかにし、その内幕を暴露しましたが、ヴァラキは小物だったので組織の上層部のことまでは解らなかったといいます。

3d02355u-2

第一次・二次マフィア戦争

1962年12月、イタリアでは、麻薬取引のもつれから、ラ・バルベーラ兄弟らとグレコ・ファミリーとリッジョらの抗争が始まりました。抗争は約半年間続き、結果的にはグレコ側の勝利となりました。

1963年6月30日、グレコの自宅近くにある不審な車を調査していた7名の憲兵隊員が、車に仕掛けられていた爆弾により死亡しました。彼らは車に仕掛けられている爆弾にもうひとつ仕掛けが施されているのに気づいていなかったのです。

この事件を重く見たイタリア議会は「反マフィア委員会」を設立し、多くのマフィア構成員らを逮捕しました。しかし、主立ったマフィアのボス達は次々と逃亡し、行方をくらませ、逃亡したボス達は海外または国内の潜伏地から組織を操作し続けました。

そして、1960年代から1970年代にかけて、南米からトルコに至る世界的な麻薬ネットワークを確立し、組織を肥大させていきました。

しかし1970年代になると、マフィア内部に不穏な空気が流れるようになっていきます。ルチアーノ・リッジョ率いるコルレオーネシ(Corleonesi)がシチリアマフィアの頂点に立つという野望を抱いて、その勢力を拡大し始めたためでした。

ボスのリッジョは1974年に逮捕されましたが、彼は獄中から、配下のサルヴァトーレ・リイナに指令を出し、まず、1978年に、コミッションの議長だったガエターノ・パダラメンティを追放し、後釜にミケーレ・グレコを据えました。

次にステファノ・ボンターデとサルヴァトーレ・インゼリッロらを巧みな策略で孤立に追い込み、彼らのファミリーの構成員を少しずつ消していき、最後にボスのステファノとサルヴァトーレも1981年に暗殺しました。

この暗殺事件により、コルレオーネシらと敵対するイタリアンマフィア・ファミリーとの抗争が本格化。年間200人以上の死者を出した抗争は「第二次マフィア戦争」と呼ばれました。

一方のアメリカではその後、1970年代に制定されたRICO法(組織犯罪対策法)に基づくFBIの主導による組織犯罪対策が活発化していました。さらに1980年代に入るとFBIはコーサ・ノストラの壊滅を目指してボスら大物幹部の一斉起訴に踏み切ります。

その後は当局へ投降するものが相次いだこともあり、アメリカンマフィアは現在ではほぼ壊滅状態となり、隆盛を誇った20世紀中盤頃までの面影はもはや存在しません。

しかし、イタリアではまだまだマフィアは君臨しています。1992年に、その生涯をマフィア撲滅運動に捧げていたジョヴァンニ・ファルコーネ判事が、シチリア島のパレルモを車で移動中にサルヴァトーレ・リイナ指揮下のマフィアによって高速道路に仕掛けられた爆弾によって暗殺されるという事件が発生しています。

ちょうどこのころ、彼の盟友の治安判事パオロ・ボルセリーノも相前後してマフィアの手で暗殺されており、両者はマフィアに対する捜査を率いて国民的人気を得ていました。

ただ、逆にこの事件が発端で、その後マフィアに対する取り締まりが強化しされるようになり、近年では殺人などの凶悪犯罪は減ってきているとされます。

しかし、その一方では、逆にアメリカ側でのマフィアの動きが活発化し、生粋のシチリア人マフィアを招聘して、世代を経て薄らいだ意識のテコ入れを図っているとされており、イタリアマフィアが凋落すれば、アメリカマフィアが勃興するという、イタチごっごが続いています。

2011年1月20日にFBIはニューヨーク周辺にてコーサ・ノストラの大量摘発を行い、127人のメンバーを逮捕したという事件もあったばかりですが、このようにアメリカとイタリアの両国においては、今もマフィアとの戦いが続いており、これからもまだまだ続いていくでしょう。

ひとまずは、イタリアンマフィアとアメリカンマフィアのお話はこれで終わりにしたいと思います。

3c01816u-2

そして日本

ちなみに、日本にもかつてマフィアは存在しました。戦後間もない時期にアメリカ領フィリピンのマニラの賭博師だったテッド・ルーインやシカゴのチェーソン・リー(中国系でアル・カポネの子分)が、連合国占領下の東京に進出。ルーインは銀座に「マンダリン」という店を出して闇賭博場を開いたことがあるとされています。

この当時の読売新聞がこの銀座にあったという賭博場について「東京租界」というタイトルで特集を組み、彼らや中国系ギャングの活動を取り上げたといいます。その後ルーイン一派は帝国ホテルでダイヤ強奪事件と呼ばれる犯罪を引き起こしたようですが、次第に先細りになり、最後は日本を離れています。

こうして日本にはマフィアはいなくなったわけですが、彼等が駆逐されたのは、日本には暴力団がおり、彼等の勢力のほうが強かったためと考えられます。

この日本の暴力団は江戸時代の町火消から始まったという説があり、祭礼の周辺で商業活動を営む者を“的屋”または“香具師”(やし)と呼び、丁半などの博打を生業とする者を”博徒”と呼んでいました。

江戸時代においては、これらの者達は一般社会の外の賤民的身分とされていましたが、明治時代に入ってからは、新たに肉体労働組合も加わる事になり、急速な発展と同時に膨大な労働力が必要となったことで、炭鉱や水運、港湾、大規模工事現場には、農村や漁村から屈強な男性達が集まってきました。

これらの男性達の中から、力量ある男性が兄貴分として中心になり、「組」を作っていきましたが、労働者同士によるいさかいも多く発生しました。しかし、警察の手が足りない状況であったため、自警団的な役割を持った暴力団組織が結成されるようになっていったと考えられています。

また、太平洋戦争終結直後は、日本が連合国に敗戦し国土も焦土と化したことで物資が不足し闇市が栄えていく事になりました。特に露店を本職としているテキ屋系団体が勢力を増していき、また、敗戦による社会の荒廃により戦後の日本の治安は極めて悪かった中で、警察に代わって暴力団が治安維持の実力集団として機能するようになりました。

こうして新たに戦後の混乱の中で形成された“愚連隊”などの不良集団から暴力団が誕生していきました。その後、日本の急速な経済復興に伴い沖仲仕、芸能興行など合法的な経済活動にのみ従事する「企業舎弟(フロント企業)」も生まれました。

現代の一般社会からは、的屋も博徒も同じ「暴力団」と見なされているのが現状です。現代の暴力団は的屋の系譜を継ぐ団体(的屋系暴力団)、博徒の系譜を継ぐ団体(博徒系暴力団)の両方が存在しますが、明確な区別は建前上でしかなく、様々な非合法活動を行っています。

1992年に暴力団対策法が制定されるようになってからは、暴力団でも公然的活動はし辛くなり、堂々と組の看板を出して事務所を開く事も出来なくなっています。

日常生活においても、暴力団関係者であるだけで金融機関から融資を受けることもできなくなり、2013年に発覚したみずほ銀行暴力団融資事件では、自動車を購入した暴力団員へのローンにかかわったみずほ銀行の塚本隆史会長、佐藤康博頭取らが退任する事態となったことは記憶に新しいところです。

アメリカ合衆国のマフィアにイタリア系や中国系のマイノリティが多いのと同様に、日本におけるこの暴力団の巨大化も、特定の社会集団に対する差別が原因の一つだという説があります。

学校や会社でのいじめや、さまざまなハラスメントも差別の一種です。日本におけるマフィアの勃興を避けるためにも差別をなくしていかなくてはならない、と思う次第です。

今日は長くなりました。終りにしたいと思います。

3c00607u-2

ユーレカ

2014-1937最近、昔撮影された内外の古い写真を収集しているのですが、アメリカのサイトを探していたら、その中に完成直前のゴールデンゲートブリッジの写真が掲載されているものがありました。

かつて私もフロリダ留学からの帰国途中に立ち寄ったことのあるこの橋は、サンフランシスコのゴールデンゲート海峡に架かる吊り橋で、橋の建設は1933年に始まり、1937年に竣工しました。主塔の高さは水面から227メートル、主塔間の長さ(支間)は1,280メートルあり、全長は2,737メートルあって、この当時はスパン世界一の吊り橋でした。

この橋の初期の設計を行ったのは、ジョゼフ・シュトラウスという橋梁専門の技術者で、彼はそれまでに400本以上の「はね橋」の建設に携わってきた人物だったといい、またそのアールデコ調のデザインと色彩を決めたのは、アーヴィング・モロー、という建築家でした。

モローは、この橋のデザインを決めるにあたって、自然との調和、濃霧時の目視性などを考慮し、「インターナショナルオレンジ」という現在もこの橋の最大の特徴である鮮やかな朱色が選ばれました。

また、名称に「ゴールデン」とつけたのは、ジョン・チャールズ・フリーモントという人です。フレモントは、元アメリカ陸軍将校で探検家でしたが、のちに共和党の最初のアメリカ合衆国大統領候補者となり、カリフォルニア州の先任上院議員を、1850年日から1851年まで務めました。

冒険家時代の1846年春、フレモントは国務省の命を受けてロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニアに到着。現在のサンフランシスコ付近を探索して、ここにある海峡をゴールデンゲート海峡と命名しました。

このゴールデンゲート(金門)という名は、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)にある有名な湾、金角湾にちなんだものだったといい、金門海峡はサンフランシスコ湾への入り口であり、金角湾も黒海への入り口であることから、その類比だったと思われます。また湾の入り口がちょうど門のようにみえたこともその命名の由来だったようです。

橋は南のサンフランシスコから北のマリン郡方面へ抜ける唯一の道であり、6車線の道路と歩道を持ち、ここの中央分離帯は、上り下りの交通量によって移動するしくみで、朝の通勤時間帯であれば南行きが4車線となります。

歩道は自転車の通行も可能で、通常時は東側が歩行者用、西側が自転車用の道路となります。通行料を取ります。南行き(サンフランシスコ方面)の自動車の通行料はキャッシュで6.00 米ドル、ETC 払いの場合は、5.00 米ドルです。

えっアメリカにもETCがあるの?ということなのですが、アメリカでは、基本的に高速道路は無料ではあるものの、一部有料道路もあり、そのほか橋、トンネルなど通行料金を設定している所でETCと同様のシステムを導入しています。 ただ、全米統一システムはなく、各州が独自に幾つかの箇所でこのシステムを導入しているだけです。

ETCという呼び名も日本とは異なり、カルフォルニアでは「Fas Track」、フロリダでは「Sun Pass」とといい、その他のニューヨーク州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、などの東海岸の各州で導入されているのは「E-ZPass」と呼びます。

ただどれも日本のETC方式のような高度なシステムではなく、料金所にはバーがなくクレジットカードや車に特別な装置を設置することもありません。その代りにナンバーをカメラで読み取ったり、専用のタグをフロントガラスに貼り付けるだけのものであり、後日登録した預金口座から引き落とされるか請求書が自宅に届くしくみです。

ゴールデンゲートブリッジは、自殺の名所でもあります。2014年までの統計では、1653名もの人がこの橋から飛び降りているといいますが、この人数は飛び降りたところを目撃され、遺体が回収されたケースのみの数であり、実際にはもっとたくさんの人が飛び降りているのではないかと言われ、「世界一飛び降り自殺の多い建造物」の称号を持っています。

飛び降りる橋げたから水面までの高さは約67mもあり、このため水面での終末速度は時速130kmにもなり、ほとんどコンクリートに叩きつけられたのと同じ状態になります。このため、過去の落水事故のうちの生存者はわずか19名だそうで、死亡率は実に98%にもなります。

その対策のため2005年から防護柵を設ける提案がなされているそうですが、その費用は4,000万から5,000万ドルにもなるといい、また景観を損ねるであろうこと、大型の防護柵を設置したことによる暴風の影響などの観点から反対意見も少なくなく、実現には至っていません。

このため、現状の対策としては、自殺中止を呼び掛けるホットラインのポスターの掲示や、スタッフによるパトロール、夜間における歩行者の通行禁止などにとどまっています。

2014-42

ゴールデンゲートブリッジの「ゴールデン」は、かつてこのカリフォルニアで起こった「ゴールドラッシュ」と何か関係があるのではないか、と思っている人も多いようですが、上述の通り、これはチャールズ・フリーモントによる命名であり、ゴールドラッシュとは無関係です。

が、1849年にカリフォルニアで金鉱が発見されると、多くの人がこの土地に殺到しました。とくに外国からやってきた中国人労働者のように、海を渡ってきた人々にとっては、この海峡はまさに「金への門」であり、このフリーモントの命名は、予言的な意味をもつことになりました。

このゴールドラッシュですが、そもそもの発端は、1848年1月24日に農場主ジョン・サッターの使用人ジェームズ・マーシャルがサクラメント東方のアメリカン川で砂金を発見したことがきっかけです。

これと前後してカリフォルニアを始めとした西部領土がメキシコからアメリカに割譲されたこともあり、文字通り新天地となったカリフォルニアには東海岸から大勢の人々が押し寄せ、金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到することになりました。そして特に1849年に急増したことから、彼らはフォーティナイナー(forty-niner)と呼ばれました。

結果、サンフランシスコは1846年に人口200人ほどの小さな開拓地だったものが1852年には約36,000人の新興都市に成長し、この年にカリフォルニア全体の人口は20万人まで急増し、西部の開拓が急進展することになりました。

一方ではこの「開拓」は別の見方をすれば、多くのインディアン部族に対する民族浄化でもあり、元々の原住民でここに住んでいたヤナ族などは、金鉱目当てに入植した白人たちによって根絶やしにされ、絶滅させられてしまいました。

また、このカリフォルニアのゴールドラッシュにより、金を求めてヨーロッパ中からも多くの人がアメリカに移住したため、この時代にはヨーロッパから人がいなくなったともいわれます。当時の記録を見ると、農民、労働者、商人、乞食や牧師までもが、一攫千金を夢見て新大陸を目指したことが記されています。

また、1840年からのアヘン戦争の結果、清国(中国)は開国した上に香港がイギリスに割譲され、マカオがポルトガルの支配下になりました。この結果、香港・マカオが帰属していた広東省からも多くの中国人がアメリカへ渡り、鉱山や鉄道建設現場で働くようになり、その後の広東人を主体とするチャイナタウンの形成につながっていきました。

当初、これらの採掘者達は選鉱なべのような単純な技術で小川や川床の砂金を探しましたが、後には金探鉱のためのより洗練された技術が開発され、この技術は後に世界中で採用される技術となっていきました。

一方、採金技術は進歩したものの、そうした最新の技術を使うためにはそれなりの資金が必要となりました。このため、個人の採掘者は駆逐され、豊富な資金源を持つ会社組織の探鉱の比率が増していきました。

これらの会社は今日の米ドルで数百億ドルにもなる金を得ることができ、極少数の者には莫大な富をもたらしましたが、一方では零細な個人の採掘者の多くは、カリフォルニアにやってきた時と大してかわらない貧乏のまま故郷に帰るハメになりました。

2014-

しかし、このゴールドラッシュによりカリフォルニア中に道路、教会、学校および新たな町が建設され、現在までに受け継がれるインフラの礎が築かれました。1849年には州憲法が起草され、知事や州議会議員が選挙で選ばれ、1850年協定の一部としてこの年にカリフォルニアはアメリカ合衆国31番目の州として迎え入れられることになりました。

新しい交通体系も発展し、蒸気船が定期運航され、鉄道が敷かれ、カリフォルニアの次の成長分野となった農業が州内で広く始められました。しかし、その一方で原住民のインディアン達は駆逐され、また金の採掘で川や湖など環境が汚されました。

1850年ころまでには、人力で容易に掘り出すことのできるような場所の金は大方なくなってしまい、さらに難しい場所から金を掘り出すことに関心が向けられるようになりました。また、金脈が尽きはじめたのに気付いたアメリカ人にとっては、外国人労働者は邪魔者となり、これら外国人の排除を始めました。

新しいカリフォルニア州議会は外国人坑夫の税金を月20ドルに設定する法律を成立させ、アメリカ人探鉱者は特にラテンアメリカ系や中国の坑夫に組織的な攻撃を始めました。

また、このころにはまだ金脈が底を尽き始めたことを東部人は知らず、相変わらず多くの人が押し寄せていました。が、これら大勢の新参者は、さらにインディアンを迫害し、彼等の伝統的猟場、釣り場および食物採集地域を奪っていきました。

しかし、やがて本当に金は底を尽き、ゴールドラッシュはようやく終わりました。しかし、金の亡者たちはその後もさらに金回収をしようとし、カリフォルニアのセントラルヴァレーやその他の金埋蔵地域(シスキュー郡のスコット・バレーなど)の平たい川底や砂洲に洗い落とされた金を探査し、これを回収しようとしました。

1890年代までには、その浚渫技術もかなり進み、これが後の世における河川浚渫技術の礎にもなりました。この方法により発見される金もそれなりに多くなり、浚渫で2,000万オンス(620トン)以上の金が回収されたと推計されていますが、これは現在の価値で約120億ドルにも相当します

ゴールドラッシュ後の数十年間に、これらの「落穂ひろい」を目指した金探求者達は「硬岩」の探鉱にも関わりました。すなわち、従来の技術では難しかった、金を含む岩(通常は石英)を砕き、ここから金を直接抽出する方法であり、石英の鉱脈を探り当てては、これを掘削した後に爆破し、薬品で溶かして金を回収しました。

この硬岩探鉱法はゴールデンラッシュ後には最大の金抽出方法となりましたが、このように岩を潰し、金を選別する際に用いられたヒ素や水銀は、大きな環境汚染を起こしました。

2014-04352

しかし、このようにいわば金脈を絞り出すようにしてまで行った金採掘もさすがに行われなくなり、ゴールドラッシュ時代とこのポストゴールドラッシュ時代後に残ったのは、この地の愛称である「金の国(Gold Country)」という言葉だけとなりました。

ゴールドカントリーは、またマザーロード・カントリーとも呼ばれ、このロード(lode)とは鉱脈を意味します。現在のカリフォルニア州の中央部から北東部に掛けての地域の呼称であり、このゴールドカントリーには現在のカリフォルニア州の12の郡が含まれています。

すなわちアマドール郡、ビュート郡、カラベラス郡、エルドラド郡、マリポサ郡、ネバダ郡、プレイサー郡、サクラメント郡、シエラ郡、トゥオルミ郡、プラマス郡およびユバ郡などの郡がそれです。

これらのゴールドカントリーにおける、富と人口の増加はまたカリフォルニアと東海岸との交通を著しく改善させました。1855年には、パナマ地峡を横切るパナマ地峡鉄道が開通しました。それまで大西洋から太平洋に出るには南アメリカのマゼラン海峡を航路で経由する遠回りを強いられていましたが、この鉄道がこれを解消しました。

太平洋郵便蒸気船会社が所有する蒸気船などがパナマとサンフランシスコの間で定期便を運行し、パナマ西岸(正確には南岸)に着きました。そしてここからはパナマ地峡鉄道で大西洋側へ人や物資の運搬し、カリブ海、フロリダ南岸を通ってアメリカ東海岸の各州への行く定期便が組まれました。

つまり二つの航路の間に鉄道を挟む形で東海岸へのアクセスのショートカットが可能になったわけです。

一方、アメリカ東海岸やヨーロッパからアメリカ西海岸へ向かう者にとっては、マゼラン海峡を航路で経由するルートは高額な船賃がかかることから、むしろロッキー山脈の駅馬車越えのほうが主流でした。しかし、駅馬車ルートやはり日数がかかり、道も不安定で治安の問題もありましした。

この問題もまたパナマ地峡鉄道ルートの完成により解消し、この鉄道経由の船舶ルートのほうが、費用は若干高かったものの、短時間かつ安全に西海岸に行くことのできるルートとして重宝されるようになりました。

2014-25896

しかし、一部鉄道を用いることができるようになったとはいえ、東西の往復に船を使うのはまだまだ危険な旅でした。1857年には、SSセントラル・アメリカ号がカロライナ海岸沖でハリケーンに遭い、この船が積んでいた推計3トンのカリフォルニア金と共に沈没し、これがこの年から始まった1857年恐慌の引き金となりました。

このため、ゴールドラッシュが終わった1860年代初頭には、大陸横断鉄道を建設しようという機運が生まれました。1863年には、最初の大陸横断鉄道西部部分の起工式がサクラメントで行われ、この鉄道は6年後の1869年に完成。その資金の一部にはゴールドラッシュ時代の金が使われました。

こうして、カリフォルニアとアメリカ合衆国中部および東部は、陸路によって結ばれ、これによってようやく東西が一体になった感がありました。それまで船と鉄道の両方をかけて何週間も何ヶ月も掛かっていた旅が、この時から数日で成されるようになったのです。

このようにゴールドラッシュは、アメリカ国内の交通網を充実させるとともに、その結果として経済をも活気づけましたが、と同時にこの景気は世界中の経済をも刺激しました。

チリ、オーストラリアおよびハワイの農夫は、カリフォルニアに集まる人々の「食」に対する巨大な新市場をみつけることとなり、またイギリスで生産される製品はフォーティナイナーに広く受け入れられました。

さらには、彼等の衣類やプレファブの家屋までもが中国から運ばれたため、アジアにも景気をもたらしました。これらの商品に対しては、産出された大量の金が代金として支払われ、世界中で物価を上げ、投資を刺激し、さらなる雇用を創出しました。

また、オーストラリアの探鉱技術者でエドワード・ハーグレイブスという人物は、カリフォルニアと母国の地形の類似性に注目し、オーストラリアに戻って金を発見し、オーストラリア・ゴールドラッシュにも火を付けました。

こうして、カリフォルニアの名前は永久にゴールドラッシュと結びつけられるようになり、その結果、「カリフォルニア・ドリーム」ということばができました。カリフォルニアは新しいことの始まる場所として世界中に認識されるようになり、一生懸命働くことと幸運があれば大きな富となって返ってくると考えられるようになりました。

歴史家のH・W・ブランズはゴールドラッシュの後の時代にカリフォルニア・ドリームがアメリカ合衆国の他地域に拡がり、これが、のちの世の「アメリカン・ドリーム」と呼ばれるものに発展していったと述べています。

現在もアメリカでの多くの人々が夢見るこの「アメリカン・ドリーム」は、この国における「成功」の概念と等しく、均等に与えられる機会を活かし、勤勉と努力によって勝ち取ることの出来るものとされ、その根源は独立宣言書にも「幸福追求の権利」として記されています。

アメリカンドリームの体現者として実際に成功させた人物に対する伝記は枚挙に暇がありませんが、その中でも最も有名なのは、弁護士、イリノイ州議員、上院議員を経て、第16代アメリカ合衆国大統領に就任したエイブラハム・リンカーンであり、また一代にして巨万の富を築き上げたジョン・ロックフェラーの二人でしょう。

貧しい開拓民の息子だったリンカーンは、独学で法律を学び、アメリカ大統領の地位に上り詰めましたが、奴隷解放を宣言し、南北戦争による国家分裂の危機を回避した英雄であり、アメリカの平等と理想、努力と勤勉によって成功が得られることを見事に体現させた一人であるといえます。

また、商人の家に生まれたジョン・ロックフェラーはペンシルベニア州で掘られた油田に目をつけ、クリーヴランドにて石油精製業をはじめ、1870年にスタンダード・オイル社を設立し、全米の石油精製業の95%を独占、世界最大の間接権力を手に入れました。

2014-1906

この二人に代表されるように、多くのアメリカへの移民が何世代にもわたってカリフォルニア・ドリーム、引いてはアメリカンドリームを体現していきました。カリフォルニアを中心として農業、石油採掘業者、映画制作者、航空機製造業、さらに近年ではドットコム・ビジネスにおいて開拓者たちがその夢をかなえています。

カリフォルニアにおけるゴールドラッシュはまた、この州のニックネームである「ゴールデン・ステート」にも名残を残しており、またこのカリフォルニア州のモットー(標語)「ユリーカ(ユーレカ)」もまた、ゴールドラッシュの名残でもあります。

ユーレカ(Eureka)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州北部ハンボルト郡の都市の名でもあり、同郡の郡庁所在地です。現在の人口は27,000人あまりで、サンフランシスコ市からは北に270マイル (432 km) に位置し、カリフォルニア州北部海岸の政治、医療、交易および芸術の中心として機能する港湾都市です。

世界最高の樹木であるコースト・レッドウッド(セコイア)の広大な保護区域やそれに関する多くの公園に近く、カリフォルニア州立公園システムの北海岸セコイア地区やシックスリバーズ国立の森の本部が市内にあります。

豊富な漁獲が得られる太平洋に面し、豊富なセコイアの森に近いという環境はこの街に豊かな資源を提供し、150年以上前から鉱山師、林業者および漁師がこの地に入植していましたが、金探鉱者が近くのトリニティ地域で金脈を発見したことで、この街をさらに豊かにしました。

そして、この「ユーレカ」とはギリシャ語で「私がそれを見付けた」という意味であり、この地で金を採掘する鉱山師たちにとっては期待を持たせる合言葉となりました。そして含蓄のあるこの言葉がそのままこの街の名前になり、かつ現在カリフォルニア州の公式モットーにもなっている、というわけです。

ユーレカの賑やかな商業地区や、水際に近いビクトリア様式建築物は、ゴールドラッシュ時代の大きな繁栄を反映したものであり、これらの建築物の多くが今日も残っていて、その多くは全面改装されたものの、幾つかは当時の優美さや華麗さを留めてきています。

19世紀に繁栄した町の中心であるオールドタウンは、現在改修されて活発な芸術の中心になってきており、このオールドタウン地区はアメリカ合衆国国家歴史登録財によって歴史地区にも指定されています。

この文化地区に残っているビクトリア様式建築の多くは、家屋として使われていなければ、宿泊所、レストランおよび小さな商店に転換されており、そこにある硝子器から薪ストーブまで、また地元で創られた多様な芸術作品まですべて手作りだといい、これはかつてのゴールドラッシ時代に隆盛になった木造家屋産業の名残だといいます。

まさにユーレカ自体がカリフォルニア州の歴史史跡であるといえ、この街は「アメリカの小さな芸術町ベスト100」では第1位に推奨されたこともあるそうです。

毎月ある文化と芸術の行事「アーツ、アライブ」は地域最大の行事だそうで、このほか毎月第1土曜日に80以上の事業所と画廊が公開されており、地元の料理や飲料と共に地域のバンドなど様々な分野の生公演があるといい、また幾つかの劇団が一年中公演を行っているそうです。

ハワイを離れてからもう何十年もアメリカを訪れていませんが、いつかは再び彼の地を訪れ、そのときにはぜひ、このカリフォルニア・ドリームの名残であるこの町をぜひ見に行きたいものです。

2014-1923

そうだ 風船とばそう!

2014-109077911月になって、まだ一週間ほどしか経っていませんが、早々と年末年始の予定が目白押しに入ってきて、騒がしい限りです。

今年ももう終わりか~というには少々気が早すぎるかもしれませんが、この時期になるとこの後のどんどんなくなってくる時間のこともある程度予定に入れて日々行動しがちになります。このため、年の瀬になってあわてふためく、ということになりたくないという予防措置の心理が働くためか、何かと早め早めにやろうという気になってきます。

年賀状の印刷もさることながら、クリスマスのプレゼントの思案、大掃除の準備や知人への忘年会の案内、はたまた年明けのお節料理の心配などをそろそろし始める時期でもあり、せわしいことばかりではあるのですが、これがまた楽しかったりして、人間心理とは摩訶不思議なものです。

小さいお子さんをお持ちの家庭では、11月15日に七五三があることから、そちらの心配でもなお忙しいでしょう。7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う年中行事ですが、これは江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の息子の徳川徳松という人の健康を祈って始まったとされる説が有力だそうです。

綱吉の長男でもあり、徳川将軍家の世嗣でしたが、天和3年(1683年)、5歳で夭折しておおり、「七五三」の祝いは、この徳松の生前の天和元年11月15日に彼の健康を願って行われた催しがその嚆矢といわれます。

しかし、なぜ15日だったかですが、これは旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日であり、これは「鬼が出歩かない日」のことです。このため何事をするにも吉であるとされており、これがこの日が選ばれた理由のようです。

さらには旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月でもありました。そしてこの月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るという神事が古来から行われていたそうです。

以来、江戸では11月15日は、子供成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事を執り行う日となり、元来は関東圏だけの地方風俗でしたが、その後全国的に広まっていきました。明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになりましたが、現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土・日・祝日に行なうことも多くなっているようです。

発祥とされる関東地方では、数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置きの儀」とし、男女ともにお祝いを行います。江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、これはそれを終了する儀式です。また、数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴儀」とし、これは男子が袴を着用し始める儀式です。

そして、数え年7歳(満年齢6歳になる年)のときに行う儀式を「帯解きの儀」といい、こちらは女の子だけが行います。これは女子が「幅の広い大人」になるという意味を込め、大人と同じ帯を結び始める儀式です。

このように、七五三と言えば、男女共に3歳、5歳、7歳で行うお祝いと勘違いしている人もいるようですが、本来、3歳以外では、5歳と7歳は男女それぞれ別の儀式です。ただ、3歳、5歳、7歳を子供の厄として、七五三を一種の厄祓としている地方もあるようです。

もともとは、正装に準じた晴れ着で臨んでいましたが、最近では洋服の場合も多いようです。が、親バカのご両親の中には、わざわざ大枚をはたいてこの日のためだけに和服を買いそろえる人も多いようで、その金をじいちゃんばあちゃんが出してくれる、というジジバカ、バババカの家庭も多いようです。

埼玉県、千葉県、茨城県南部地方では、七五三のお祝いをホテルなどで結婚披露宴並に豪華に開催し、自分たちの宴会にしてどんちゃん騒ぎをすることもあるそうで、ここまでくると、誰のためのお祝いなのかわからなくなってきます。

しかし、そもそも七五三の意味は、その昔の日本では、現在の開発途上国と同様に、栄養失調や、健康への知識不足・貧困などが常に隣り合わせであり、これらが原因で乳幼児が成人するまでの生存率はきわめて低かったことに由来しています。

このことから、乳幼児の生存を祝う節目として定着してきたものであり、男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもありますが、医療技術が発達する現代までは女児よりも男児の生存率が低かったためです。

「七歳までは神のうち」ともいわれ、数えで七歳くらいまでは疫病や栄養失調による乳幼児死亡率も高く、まだ人としての生命が定まらない、という考え方が一般的でした。またその昔は生活の苦しい家庭も多かったことから、生まれてきた子が障害を持っている場合などには7歳になる前に「神隠し」として行う「間引き」も大っぴらに行われていました。

7歳までの子供は、「あの世とこの世の境いに位置する存在」とされ、「いつでも神様の元へ帰りうる」魂と考えられており、このため、一定の成長が確認できるまでは、人別帳にも記載せずに留め置かれ、七歳になって初めて正式に氏子として地域コミュニティへ迎え入れられました。

また、胎児・乳幼児期に早世した子供は、境い目に出て来ていた命がまた神様の元に帰っただけで、ある程度の年数を生きた人間とは異なると考えられていました。

このため早く亡くなる子供は現世へのしがらみが少なく速やかに再び次の姿に生まれ変わろうとするのだと考えられていて、転生の妨げにならぬよう、墓を建てたりする通常の人間の死亡時より扱いが簡素な独特の水子供養がなされたりもしました。

そうした生命観から、乳幼児の間引きとともに堕胎も、「いったん預かったが、うちでは育てられないので神様にお返しする」という感覚が普通であったようです。特に、飢饉時の農村部の間引きや堕胎は、多数の子供を抱えて一家が共倒れで飢えるのを回避するためであり、養う子供の数を絞るのはある程度やむを得ないと考えるのが普通でした。

2014-1080008

七五三とはそんなふうにして、七歳になるまで大切に子供を見守る、という意味で始まった風習なわけですが、最近では医療も発達し、7歳までに亡くなるというようなことは昔ほどにはなくなりました。しかしやはり乳幼児のうちはまだまだ心配であり、お参りだけは欠かさずやって人並みに成長して欲しいという思いはどの親も同じでしょう。

このため、毎年この時期になるとどこの神社でも晴れ着を着た子供で賑わうわけですが、当事者である子供たちにとっては、なんも面白くもない大人の行事に付き合わされるだけで、何か面白いことのひとつもあってほしいと願うものです。そして、このために考え出されたのが、「千歳飴」というヤツです。

親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっています。だいたい直径約15mm以内で、長さは30~50cmほどのようですが、長いほうがいいということで1mほどもあるものもあって、さらには縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されています。また松竹梅、夫婦松などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられています。

水飴と砂糖を材料とし、煮詰めたものを冷却して何層にも折り返し、手または機械で細長く伸ばして適当な長さで切ったものですが、その製法には一定のセオリーがあるそうで、伝統や格式を重んじる菓子屋ではその手順を正しく経たものだけを千歳飴と称して神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べるそうです。

ところが、ある時期から菓子メーカーの不二家が「ミルキー」を棒状にしたものを「千歳飴」として毎年この時期に発売するようになったことから、こちらのほうがお手軽でおいしい、ということでこちらに走る家庭も多くなっているようです。

しかし、甘いモノが氾濫しているこの時代にあって、子供側からすれば、そんなもんじゃ騙されんぞ~ということで、神社に同行してやるから何か買って~ということになり、甘い親やお爺ちゃんおばあちゃんはすぐにこれに答えて、人形やら合体ロボを買ってやってしまいます。

が、まだまだ日本全体が貧しかった明治や大正の時代にはそうしたものはなく、七五三でのご褒美としては千歳飴の他に「風船」を子供にやることが多かったようです。

寺院の祝祭やお祭りなどに出店する的屋などによる露天商のゴム風船販売は古くから行なわれており、露天商用語ではゴム風船をチカ、それに派生しガス風船はアゲチカ、水ヨーヨーはスイチカ、棒付き風船はタテチカ、毛笛はナキチカ、棒でつり下げた風船はボウチカといわれ、ゴム風船販売が露天商の取扱商品の一つのジャンルをなしていました。

ただ、かつての露天商におけるゴム風船販売では一般に、風船単体での販売は行なわれませんでした。空気で膨らまして棒を付けたものが多く、この風船には水素やヘリウムなどの浮揚ガスを入れられ、リボンと女の子の顔が描かれた太陽柄の印刷ものが多く出回っていました。

また、鳥の形状や大きな二つの耳が特徴のウサギ風船など様々な形状の変形風船の販売行われており、タコ顔の丸い風船の上部に細長い風船を巻き付けた風船などもありました。こうしたバルーンを専門に作る職人さんもおり、こうした可燃性の水素ガスを注入した風船は昭和末期ころまで広く販売されていました。

2014-1080017

しかし、水素の発火の危険性は日本でも明治初期からすでに指摘されており、昭和30年代から50年代にかけての日本の高度経済成長下で、水素入りのガス風船やアドバルーンの発火爆発事故が多発しました。このため、消防署が「ガス風船がタバコなどの火を引き爆発するもの」として消費者に注意を促すようになりました。

このことからガス風船の販売は減少しはじめ、浮揚ガスの不燃性のヘリウムガスへの転換とともに1980年代には非ゴム素材としてポリエチレンなどが使われるようになり、これは「マイラーバルーン」と呼ばれています。

現在の露店などでも棒の先にハート型や星形、アニメキャラなどの様々なポリエチレン製の風船が売られているのをご覧になることも多いと思いますが、これは1970年代後半にアメリカ・ニューヨーク・シティ・バレエ団の公演用で使用されたものが最初といわれ、その後、日本にも導入され、普及するようになったものです。

ゴム製の風船のようにパン!と破裂しないし、空気よりも軽いガスを入れれば「風船とばし」にも使えます。さらに野球やサッカー、バレーボールなどのスポーツ観戦の際の応援グッズとして使えるものが1999年(平成11年)ごろ登場し、2005年(平成17年)以降に急速に普及してきています。

以後、マイラーバルーンはそのデザインの多様性というメリットを武器にゴム風船を席巻し、またより薄い素材が開発されるとともに密封性も向上したことから浮揚時間がゴム風船よりも長くなり、このため飛ばし風船用としても普及しました。

このため、露天商におけるかつてのガス風船販売はゴム風船からマイラーバルーンが主流となっており、1990年代にはタコ風船、2000年前後にはウサギ風船も姿を消し、太陽柄風船も作られてはいるものの露店では目にする機会はめっきり少なくなりました。

しかし、旧来のゴム風船も捨てたものではなく、いわゆる「バルーンアート」としての需要は根強いものがあります。複数のヘリウム入り風船をブーケのように束ねて形成したものは、店舗のディスプレイ、結婚披露宴の卓上装飾に用いられたりしますし、直接装飾に用いられるほか、贈答品として用いられることもあります。

複数の風船を柱(コラム)状に形成した「バルーンコラム」といった装飾もあり、これはイベント会場や店舗の入口の両脇に設置されているのをよく目にします。複数の風船をアーチ状に形成した装飾は、イベント会場の入口や結婚披露宴における高砂の背後などにもよく用いられます。

複数のヘリウム入りゴム風船を天井に揚げて敷き詰めるなどした「バルーンシーリング」という装飾もあり、色違いの風船を組み合わせて模様を描いたりすることもあります。また、結婚披露宴で行った場合は、宴会後、来場客が自由に風船を持ち帰れるようにすることもあるようです。

ちなみに「シーリングバルーン」とは、もともと気象観測で上空の雲の高さを観測する測雲気球のことです。

2014-1080219

このゴム風船は、言うまでもなく天然ゴムを原料に作られた伸縮性の大きい風船の総称で、バルーン業界ではラテックス風船・ラテックスバルーン(Latex balloon)、もしくはラバーバルーン(Rubber balloon)と呼ばれることのほうが多いようです。

日本国内に出回るバルーンアート用をはじめとするゴム風船の多くは、国産ではなく、海外のバルーンメーカーのブランド製品が多用されているそうで、また多くの製造拠点も海外にあることから、ふくらませた後の横幅をインチ単位、また大型の風船はフィート(単位でヤード・ポンド法表記されることが多いようです。

市場には9インチ(約23cm)から11インチ(28cm)程度の大きさの風船が最も出回っているそうです。また市場に出回ることは多くはありませんが、ハンドメイドで製造されるゴム風船もあり、これはゴムの厚みなどにばらつきが出やすいものの、その一方ではアート作品として使う場合などには微調整が効くので重宝がられているといいます。

このゴム風船の歴史は古く、まず1805年に、イギリス人の科学者ガJ. Gough(ガフ)という人が、がゴムを断熱的に伸張すると発熱し、圧縮すると冷却する現象「ガフ-ジュール効果」を発見したことにはじまります。

それから15年経った1820年には、同じくイギリス人のトマス・ハンコックにより木製の「ゴム用密閉型混練機」が製作され、未加硫の生ゴムによる糸ゴム製造が実用化されました。

加硫(かりゅう)とは、生ゴムなどのゴム系の原材料を加工する際に、弾性や強度を確保するために、硫黄などを加える行程のことで、現在のゴム風船はほとんどこれによって造られていますが、この当時はまだこの技術はありませんでした。

さらに1823年にはスコットランドのマッキントッシュにより素練した生ゴム原料による未加硫ゴムで作られた防水布が実用化されます。

そして、その翌年の1824年には、イギリス人の化学・物理学者マイケル・ファラデーが水素ガスの特性を見る実験のための袋として2枚の未加硫のゴムシートに打ち粉をして貼り合わせたゴム気球を製作。これが、ゴム風船製造の嚆矢とされています。

そしてその翌年には前述のイギリスのトマス・ハンコックが、Thomas Hancock社を設立し、生ゴム入りボトルとシーリング材入り注射器がセットされた購入者製作型の風船キットを発売。以来、ヨーロッパ全土にこの手作りゴム風船が普及していきました。

日本では、江戸時代の天保5年(1834年)に、宇田川玄真、宇田川榕菴という薬学者が、その執筆本に、水素が可燃性で気球を浮かせる浮遊ガスであることを記してはいるものの、ゴム風船そのものが初めて輸入されたのは明治元年(1868年)のことのようです。この年、横浜と大阪でゴム風船の販売にまつわる新聞記事が相次いで掲載されています。

2014-1080230

ただ、ゴム風船の製法技術が日本に伝わったのは明治30年代以降のことのようで、一方のヨーロッパでは、これよりも20年以上前の1847年に、イギリス・ロンドンのJ.G.イングラム社により、現在のような既製品タイプの最初のゴム風船が製造されていました。

明治4年(1872年)にはこのヨーロッパから輸入されたゴム風船が「球紙鳶(たまだこ)」という名前で流行し、明治7年(1875年)には、旧開成学校(現東京大学)の製作学教場で教師の市川盛三郎という人が赤ゴムの小球を作り、水素ガスを満たして飛揚させています。

そしてこれが流行に火をつけ、翌年以降、東京で露店や縁日での子どもの玩具として売り出されるようになりました。明治30年(1898年)ころには、とくにドイツ製ゴム風船が流行し、流通量が30万グロス(1グロスは12ダース(個))を超えました。

一方でこの頃まで国産のゴム風船作りにはヨーロッパで主流とされていた硫黄などを加える「加硫法」が伝わっておらず、製法技術が未熟なため輸入品と違い、色が黒くゴムの伸びも悪く浮揚ガスを入れても浮きにくい、といったことがありました。このため、国産品よりも「舶来品は上等」といわれました。

その後明治38年(1905年)には、日露戦争の終結後の戦勝祝いにゴム風船が使われたため、玩具としてのゴム風船の普及はさらに普及し、全国で販売されるようになりました。そして、大正期以降には俳句の春の季語として「ゴム風船」が登場するまでになりました。

この明治38年になってようやく日本でもドイツ製ゴム風船を模倣した「加硫法」の技術が導入され、大阪市外に「伊藤護謨風船工場」が創立され、はじめて良質の国産ゴム風船が製造され始めるようになりました。

この加硫法(冷加硫法)による風船製造は現在にも伝えられ、この時代に広く知られるようになって以降、日本国内にゴム風船工場が乱立するようになっていきました。

大正元年(1912年)には、日本国内のゴム風船の生産量の急増により、初めてゴム風船が海外に輸出されるようになり、その5年後の大正6年(1917年)には、日本国産のゴム風船の輸出が50万グロスに達しました。一方で、かつてはヨーロッパにおけるゴム風船の一大産地だったドイツは第一次世界大戦の戦場となったため、製造量が激減しました

以後、ゴム風船作りは日本お家芸のようになっていき、1934年(昭和9年)ごろからはゴム風船の海外への輸出が激増するようになりました。しかし、やがて1937年(昭和12年)に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開戦すると、ゴムタイヤなどの軍需需要が増えました。

このため、翌年の1938年(昭和13年)には日本国内で数多くの日用ゴム製品の製造が禁止されるようになり、さらに日本海軍による真珠湾攻撃により第二次世界大戦に発展するとさらに民間へのゴム製品の供給は減りました。しかし、一方で戦時中は兵士に配るためのゴム製のコンドームの製造だけは休止されなかったといいます。

そして終戦。ゴム風船の製造が再開されブームとなり、戦後の混乱の中で子どもの風船玩具として文房具店に50万個、玩具店に10万個が出回るまでにゴム風船の需要は回復しました。

1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックでは、1万個のゴム風船が飛ばされ、また、1970年(昭和45年)の大阪万博(EXPO’70)では、600発の花火とともに3万個のゴム風船が飛ばされました。さらに、1972年(昭和47年)の札幌オリンピックでも1万5千個のゴム風船が飛ばされました。

2014-1080225

しかし、1987年11月に、 岡山県倉敷市の祭りのイベントで、風船飛ばし用の水素入りゴム風船が爆発すると、これをきっかけに、1990年代に入ってから風船飛ばしの反対運動が起きるようになります。

とくに1990年代初頭にかけては、落ちたゴム風船を野鳥が誤って食べて窒息死したという報告が相次ぎ、このことにより野外でのゴム風船の使用は減っていきました。

日本バルーン協会は、ラテックスを使用しているゴム風船は自然界で分解されるためにそのような事故が起きる可能性はきわめて低いと反論しましたが、欧米では、複数の公的な環境調査により野生生物への影響が大きいことが指摘されました。

日本近海にも生息し絶滅が危ぐされるオサガメの死体調査では、胃の中から主食のクラゲを誤飲したと思われるビニール袋のほかゴム風船が見つかり、こうした膜状人工物を消化管に詰まらせたことが死因である可能性が高いとされました。

また、飛ばしたゴム風船の大体5~10%が破裂することなく原形をとどめたまま地上や海に落下するといわれており、海岸に打ち上げられる漂流・漂着ゴミとしてのゴム風船の近年の急増傾向も指摘されるようになりました。

自然環境にこうした人工製造物を大量に放出する行為は、海鳥や海棲哺乳類などの野生生物の生命を脅かすおそれがあり、このため欧米ではビニール袋の投棄禁止とともに商業的な大量の風船飛ばしの行為に反対する生物学者、生物・鳥獣保護団体、環境保護団体、環境教育機関が少なくありません。

アメリカやシンガポール、オーストラリアなどでは条例により商業目的の風船飛ばしの1日もしくは行為1回ごとの数量規制および超えた場合の罰金制度が行われているそうです。

また、イスラエルでは宣伝用のゴム風船がレバノン南部まで到達し、住民が化学兵器と思いパニックとなったこともあるそうで、ヘブライ語の文字が印刷された薄い緑色で吹き口が互いに結ばれて10個を1組にしてあったこの風船は、現地爆発物処理班により畑に移動後、爆破されたといいます。

こうした世界的な「反ゴム風船」の潮流を受け、日本でも1991年(平成3年)ごろからは、風船飛ばしに配慮した紙などを原料とする環境風船が各社から発売されるようになりました。従って、現在では少なくとも風船とばしに使う風船としてゴム製のモノが使われることはほとんどないようです。

2014-1080237

このように最近では風船とばしは、環境面への配慮から自粛傾向が強いのが現状ですが、最近このゴム風船を宇宙にまで飛ばそう、という取り組をやっている人がいて話題になっています。

先日の、9月24日には、テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」でも紹介され、この番組を見た人も多いと思いますが、これはゴム風船を超高高度まで上げてここから地球や宇宙を撮影しようという試みです。

北海道大学の学生さんがやっているもので、「ふうせん宇宙撮影」というサイトまで立ち上げて、他にもこれを試す人が増えることを呼びかけています。

岩谷圭介さんという、福島出身で現在28歳の大学院生?のようで、彼によれば、風船によって飛行機では絶対に到達できない上空30~50㎞の高さまで上ることが出来るといいます。
実際に「ナニコレ珍百景」でその映像が流されていましたが、風船に取り付けたカメラには、まがうことなく成層圏からの青い地球が撮影されていました。

30~50㎞の高さまでの高度となると、気圧は100分の1~1000分の1まで低下で人間は宇宙服を着ないと死んでしまいます。が、無人のゴム風船ならこれが可能となり、また空気が無視できるほど薄いため、国際宇宙ステーションから見る景色とほとんど大差ない景色を見ることができます。

浮力を得るためには化学的に安定して安全なヘリウムガスを使用しており、機体重量は300g以下になるように設計されていて、また降下時させるときには、時速20km以下になるように設計しているそうです。

この重量の物体が時速20km以下で落下してくる場合でも、ソフトテニスボールでキャッチボールし受け止める程度の衝撃しかないので人体に無害だそうですが、念のために最大6億円までの賠償責任保険にも加入して実施しているといいます。

また、風船の打上の際には国内法を順守しており、航空法に基く各種手続きを行った合法的な打上であるとともに、位置情報知るためのGPS装置なども搭載しているため電波法にも配慮しているそうです。

風船を飛ばすのは、天候の安定した夏場に行うのがベストだそうで、だいたい5~8月に実施しますが、天候の安定した時期とはいえ、打上ができない日もあり、自然に逆らわず、法則に則って実施することが成功への秘訣だそうです。

撮影される景色は天候により大きく異なるようですが、これがまた一興だといい、同じ空模様の日は絶対にありえないので、打ち上げる度に違った地球の顔を見せてくれるのだといいます。

上空の風が強くなる冬季には向かないようですが、ゴム風船を飛ばすのがタブーとされるようになった昨今、こうした夢のある取組はさらなる広がりを持って行ってほしいものです。既にこれに同調した高校生などが打ち上げを行っているようですが、一般の方の中にも自分の飛ばしたゴム風船から地球を見てみたい、という人は出てくるに違いありません。

私もぜひやってみたいものですが、みなさんもいかがでしょうか。ゴム風船から撮影した地球の写真を部屋に飾る、というのはなかなか素敵なことだと思います。

が、来年の目標のひとつとして、年が明けてから具体的に考え始めることとし、今週末はさらに忙しくなる前に年末の大掃除の算段でもしはじめようか、と思っているところです。みなさんはどうでしょう。大掃除のこと、そろそろ考え始めていますか?

2014-1080248

箱根の坂を下れば

2014-1060080先週から、地区内の草刈、組合の理事会、自治会の秋祭り、仕入れのための横浜行き……と盛りだくさんのイベントが続き、嵐のような日々でしたが、今日はようやく少し落ち着いています。

ただ、今日は昨日ほど天気がよくなく、疲労も溜まっているかんじで、気分的にもあまりぱっとしません。こんな日は、仕事などせずに、ゆっくりすればいいのに、と自分でも思うのですが、気がつけば机に向かっています。

気分転換にどこかにぶらりと出かけたいのですが、この天気ではあまりスカッとした気分にはなれそうもなく、今のところは気乗りしません。朝方の天気予報では、晴れ間も出るといっていたのですが、いまのところ天気はよくありません。が、夕方回復したら、少し散歩でもしてみようかと思っています。

昨日の横浜行というのは、商売道具の額縁を買うためのIKEAへのドライブだったのですが、その途中に箱根の峠を越えました。標高1438mの神山を頂点とするこの箱根山は約40万年前に噴火が始まり、何度もこれを繰り返して、約25万年前に標高2,700m にも達する富士山型の成層火山になりました。

しかし、これはいわば巨大なミルフィーユケーキのようなものであり、その中身はスカスカでした。このため、その重みに耐えかね、空洞化したその山塊が約18万年前にドカンと陥没して巨大なカルデラが誕生しました。このとき周りに取り残されたのがいわゆる箱根外輪山であり、また中心部には元の成層火山の名残が残りました。

この中央部分は「中央火口丘」とも呼ばれ、現在では神山のほか、冠ヶ岳 (1409m)、箱根駒ヶ岳 (1356m)、上二子山 (1091m)、下二子山 (1065m)、早雲山 (1153m)などの峰々の集合体となっています。

昨日通過したこれらの山々はいずれも今、紅葉がまっさかりといったところであり、おそらくは今週末あたりからピークを迎えるのではないかと思われます。なので、この秋紅葉狩りをまだしていない人で、箱根を見てみたいという人はそろそろ急いだほうが良いかもしれません。

2014-1000240

この箱根を舞台・背景とした作品は過去にたくさん作られていますが、その中に司馬遼太郎さんの長編歴史小説で「箱根の坂」というものがあります。1982年(昭和57年)~83年に読売新聞に連載されていたもので、1984年に講談社から単行本として出版されました。

箱根の坂を越えて小田原城を攻略し、後北条氏の祖となり戦国時代の火蓋を切った北条早雲の生涯を描いたもので、このころ既に大学を卒業して社会人になっていた私は、司馬ファンでもあったことから、出版されるとすぐに購入してこれを読んでみました。

あらすじとしては、若いころにはまだ伊勢新九郎と称していた後の北条早雲は、見た目は凡庸な男で、日々仕事としていた鞍作りに精を出し、それ以上を望まず平穏な人生を願っていました。しかし、鞍を売るために日本各地を歩き回るうちに、時代の変化を敏感に嗅ぎ取り、いずれは戦乱の世の中になるに違いないと考えはじめます。

そして生来の機略を生かし、そのころ三河の領主だった今川氏に取り入って家来となり、ここで手柄を立てて小規模ながら領主となります。税を抑えるなどして民衆の信頼を得ますが、時代はやはり彼が見立てたとおり戦国の世、そして下剋上の世へと移り変わっていき、その中で彼もまた今川氏と協力しながら他国を切り取っていきます。

そして、関東に進出すべく小田原を攻めるのですが、そのとき通らなければならない大きなが壁が箱根であり、ここからは関東平野が一望に見て取れます。そしてこの峠に立ち、ここから関東制覇のための野望を誓うわけですが、この物語ではこのように箱根峠が象徴的にクローズアップされています。

で、この小説が面白かったか、と聞かれると、正直なところ、司馬さんの若いころの作品ほど、物語の展開に弾むような面白さがなく、やたらに理屈が多すぎて、物語に入り込んでいけない、というところがあったように思います。

司馬さん最晩年の作品のためか、「元気がない」といったかんじで、この作品のあとがきで「早雲が箱根の坂を越えたときは、作者も一緒に疲れた」と語っているように、ご本人もこれを書いた当時精力的に書くためのエネルギーを既に失いかけていたことをうかがわせます。

このためか、「竜馬がゆく」「関ヶ原」「坂の上の雲」のような若い頃に書かれた作品ほどの勢いが感じられないのが残念で、であるがためか、私もまた長い間この小説の主人公である北条早雲という人にはあまり興味が沸きませんでした。

ところが、ここ伊豆に越してきてからというもの、あちこちに出かけるたびに出くわす事物には北条早雲にゆかりのあるものばかりであり、例えばここからすぐ近くにある韮山には早雲が晩年まで本拠地としていた居城がありますし、今これを書いている窓の外遠くに見える城山(じょうやま)も早雲が拠点のひとつにしていた城があったようです。

史実によれば、伊豆に拠点を持った早雲は、明応4年(1495年)に箱根の山を越え、小田原の大森藤頼を討ち、藤頼の居城である小田原城を奪取しました。

大森氏は、室町幕府の征夷大将軍が関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方に代々仕えた一族で、もともとこの地にあった土肥氏を滅ぼして相模・伊豆に勢力を広げ繁栄していました。

小田原城を築城したのは、藤頼の祖父の大森頼春で、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した「上杉禅秀の乱」が応永23年(1416年)発生した際、この乱を鎮圧した功により、箱根山一帯の支配権を与えられました。そして応永24年(1417年)頃、前領主土肥氏の拠点があった小田原に築いたのが小田原城です。

伊豆からこの小田原に至るためには熱海峠を越えて湯河原経由で向かう道が現在はありますが、この当時は険しい山道であり、このころ既に三島から、箱根カルデラを縦貫する箱根路が開かれており、こちらの方が早道でした。

2014-1000247

早雲は家来をこの箱根道を通って小田原に派遣し、大森藤頼にたびたび進物を贈るようになりましたが、この懐柔策により、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになりました。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許しますが、早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れます。そしてその夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちました。

このとき、おびえた小田原城の人々は数万の兵が攻め寄せてきたと大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出したため、早雲は易々と小田原城を手に入れたといいます。典型的な城盗りの物語といえますが、後世に早雲の子孫である後北条氏の一族が編纂した「北条記」による記述であり、どこまで真実か分かりません。

実は、この早雲が小田原を攻めた1495年には明応地震が起こっており、これは南海トラフ沿いに起きた巨大地震であり、このとき発生した津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、駿河湾沿岸では10m近い津波が押し寄せました。

伊豆半島の東側や小田原においても局所的に大規模な津波が襲来していたと考えられ、早雲はこの津波に乗じて小田原城を攻めた、という話もあるようです。

これから6年のちの明応10年(1501年)の記録文書には、早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点ではもう早雲は小田原城を出城代わりに使って関東制覇を開始していたと考えられています。

が、早雲自身は終生、伊豆韮山城を居城としており、小田原城を後北条氏の本城とするのは、早雲の嫡男の氏綱の時代からです。

その後、早雲に追い出された元の小田原城主であった藤頼は、縁戚で三浦半島を拠点とする三浦義同の支援を受けて大住郡実田城(真田城、現在の神奈川県平塚市)に逃れて戦いましたが、明応7年(1498年)に敗れて自殺したといわれています。

実はこの真田城で自殺したのは藤頼ではなく別人であり、その後も藤頼が生きていたと言う説もあるようで、大森氏の菩提寺であった静岡県小山町の乗光寺の記録では文亀3年(1503年)没とあり、これより更に5年後です。真偽のほどはわかりませんが、いずれにせよ、北条氏の台頭により小田原一帯の相模において大森氏は駆逐されました。

しかし、一族の末裔が後北条氏に仕えた後、徳川氏に仕え江戸幕府の寄合旗本として存続したという記録もあり、確認はしていませんが、東京大田区の大森は、その旗本の大森家由来の土地かもしれません。

2014-1090411

こうして滅びた大森氏から小田原城を引き継いだ早雲ですが、その後さらに改築が重ねられ、3代当主北条氏康の時代までには難攻不落、無敵のお城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えました。その後の秀吉による小田原攻めの際にもかなり長い間持ちこたえましたが、その最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。

現在の小田原高校のある八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後に秀吉によって築城される大坂城の惣構を凌いでいたそうです

しかし、その後この豊臣家を滅ぼした徳川家康は、1614年(慶長19年)、自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを取り壊し、撤去させています。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたためといわれています。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心にこの当時の遺構が残っています。

北条氏没落後、江戸時代にこの城の城主として家康に任命されたのは、大久保忠世(ただよ)でした。徳川十六神将の1人に数えられる猛将で、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても大活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられました。

天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、秀吉の命もあって小田原城に4万5千石を与えられましたが、その後の徳川の世でも引き続き小田原の領主であることを安堵されました。

ところが、子の2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、大久保氏は一度改易の憂き目にあっています。その後、城代が置かれ、城主不在の時もありましたが、その後阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏が領主となり、その後再興された大久保氏が再び入封されました。

江戸期の中後期の小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であり、その城下町・小田原宿は東海道の沿線ということもあり、箱根の山越えのための前線基地として栄え、東海道五十三次中最大の規模を誇りました。

2014-1090428

その中心である小田原城は、江戸時代を通して1633年(寛永10年)と1703年(元禄16年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けています。天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続しました。

明治時代の解体は、1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけて行われ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられました。また1901年(明治34年)には、旧城内に小田原御用邸が設置され、皇族の別荘として使われるようになりました。

ところが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により、この御用邸は大破し、その後廃止され、このとき現存していた二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分が崩壊しましたが、12年後の1935年(昭和10年)にその一部が復興されました。

1950年(昭和25年)関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始し、と同時に小田原城址は小田原城址公園として整備され、1960年(昭和35年)には天守が鉄筋コンクリート構造によって復元されました。

現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画しており、2006年(平成18年)に日本100名城(23番)に選定されたのをきっかけに、城址の完全復興を目指すようになりました。手始めにそれまでも行われていた東西南北の各所の門の復元ほかの修復が進められており、現在では八幡山にあった古い曲輪の復元なども計画しているようです。

昨年2013年には天守の木造復元を目指すNPO法人「みんなでお城をつくる会」が設立されています。RC構造を取り壊して木造とするのは相当難しそうですが、昨今旧来の木造城郭を復活させようとする動きが全国的にもあり、小田原城ももしかしたら将来的には元のままのものが復元されるかもしれません。

2014-1090429

一方の小田原の城下町のほうは、一時期は東京のベッドタウン化したとも言われ時代もありましたが、長期不況で人口動態が減少に転じ、一時は20万人を超えた人口も20万を割り込みました。

ただ、市が新幹線通勤定期代に対する補助制度を設けるなど人口確保のための政策を実施した結果、少しずつ持ち直しており、駅周辺の再開発、および郊外での住宅、都市開発も少しずつ進んでいます。

小田原といえば、ちょうちんとかまぼこであり、このほかにも梅、オシツケ等の特産地として全国的に有名です。最近では小田原バーガーや小田原どん、スミヤキ、オリーブを売り出すなど、各種の観光開発も進んでおり、城址の再整備とともに、観光立地を目指して町の中央部を中心として美化も進んでいます。

今回は小田原の中心部には足を踏み入れませでしたが、ちょっと前に用事があって出かけたときには、街中の区画整理がずいぶんと進み、垢抜けたいい街になったな、という印象を持ちました。

小田原城は、市の南東部の海岸から500mほど内陸にありますが、その天守閣の内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっており、その標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができ、必見です。

ただ、来年7月から再来年の3月まで天守閣の耐震工事が行われるため、ここへは入館できなくなるため、注意が必要です。

秋の日の一日、箱根の山への紅葉狩りの前後にぜひ小田原にも一度立ち寄ってはいかがでしょうか。

2014-1090416