出航

厳島は、広島市内中心部から4kmほど西に行った場所の沖合にあります。「宮島」とも言いますが、どちらが正しい、とかいうのはないようです。学術的な文献や行政文書では「厳島」が多く使われ、観光地として指すときには「宮島」が多く使われるみたいですが、地元の人は「宮島」と呼ぶことのほうが多いかな。

私たちがこどものころの運動会では、「宮島さんの神主がぁ、おみくじ引いて申すには~、いーつも○○がぁ、勝ぁち、かーち、かっちかち!」という応援歌をよく歌っていました。○○のところには、紅(あか)か、白(しろ)が入ります。紅組か白組の応援歌としてこれをみんなで歌いながら応援するんです。

たぶん今も広島の小学校や中学校では歌っているんじゃないでしょうか。教師から教え子へ伝えつがれてきた歌です。高校野球の応援合戦のときにもこの曲を演奏しているのを聞いたことがあります。

それほど「宮島さん」といえば子供のころから慣れ親しんだ島。一番最初に行ったのは、たぶん幼稚園の遠足だったと思います。以後、小中高といずれの学年でも遠足の定番といえば宮島で、それ以外のプライベートでの渡島も数えると、おそらくは20回以上は行っているとおもう。広島育ちのわたしにとっては、こころのふるさと、と言っても過言ではない場所です。

そんな場所で結婚式を挙げようという話をタエさんがしたとき、ほんとうにそんなことができるのかしらん、と思ったものです。無論、神社には違いないので、結婚式を挙げる人もいないではなかろう。ただ、世界遺産にまで登録されるようになった今、ほんとにそんなところで結婚式挙げさせてくれるんだろうか、と私が疑ったのも無理もなからんとお思いではないでしょうか。

とはいえ、思い立ったが吉日、ということで、早速ネットで「宮島」「結婚式」と入力して検索してみると―― あるわあるわ、結構いろんな業者さんが「宮島ブライダル」とかなんとか名前をつけて、晴れある結婚式をぜひ、宮島で!と宣伝しているではありませんか。その数は結構多い。が、よく見てみると、結婚披露宴をやる式場を提供しているホテルや結婚仲介業者さんなどが運営しているサイトがほとんどで、さらにいろいろ調べてみると、式の予約などは宗教法人としての厳島神社社務所に直接申し込むということがわかりました。

気になる費用はいくらかな、と思ってみてみると、結婚式の費用として神社に収める玉串料が10万円ほど。これとは別途、式を挙げるときに神様に奉納する舞楽の費用がやはり10万円とのこと。舞楽のほうは、希望があれば、ということで、ようするに10万円払えば誰でも宮島で結婚式が挙げられるらしいのです。

おそらく、中には披露宴なんかいらない、結婚式だけ挙げればいいや、ということで、スーツ姿でシンプルな神前結婚を挙げる若い人も多いだろうと想像します。しかし、アラフィフにさしかかっていた二人としては、それまでの人生で関わった人たちも多く、たとえ自分たちが望まないとしても、そういう人たちへのお披露目という意味においては、きちんとした正装で臨むべきかなと思ったものです。

とはいえ、実はわたし自身は結婚式などにお金をかけるのはばからしい、と思うタイプ。結婚式をプリンスホテルで、とタエさんが提案したときも、即座に快諾したものの、できるだけお金のかからないシンプルなプランを・・・と考えていました。しかも、それでなくても一大観光地の宮島のようなところで式を挙げるということは、どれだけ多くの人の目にふれるんじゃろー(ここのところ広島弁)と、考えるだけでも顔が赤くなる思いでしたし、さらに、そのあとに結婚披露宴となると、例のたきしーど、とかいう洋風のちゃらちゃらしたのを着るんかい、いやじゃのー、と一時はずいぶん気おくれしたものです。

しかし、そうした経験することが、これからの人生の糧にもなるのよ、とわけのわからん理屈でタエさんにも諭されるうちに、えーい、どうせやるならパーッとやるかパーッとという気にだんだんとなっていきました。結婚式も披露宴もやらなければならないならば、ちまちましたものをやるよりは、どーんといいものをやって、記憶に残るものにしよう!と決めたのです。 いよっ、いい男! とタエさんが言ったかどうかはよく覚えていませんが、ともかく、式も披露宴もいっぱしのものをやることにし、次のステップに進むことに。

しかし、それにしても気になるのは、かの宮島での結婚式の予約状況。早速、電話で神社に確認したところ、予約が空いているのは、2ヶ月ほど先の6月とのこと。神社で挙式をする人は最近増えているとのことで、その中でもとくに人気の高い厳島神社だけのことはある。ずいぶん先だなーとは思いましたが、それでも、半年とか1年待ちとかいうわけでもなく、お互い晩婚だし、いまさら焦る必要もないか、とこれまたわけのわからぬ理由から、ともかく予約をすることにしました。

神社のほうで予約が空いている日は複数あったのですが、同じ日に披露宴をやる予定の広島プリンスホテルのほうの予約状況も確認する必要があり、両者に確認。その結果、午前中に宮島で式を挙げ、午後ホテルで披露宴ができるパターンとしては、6月20日の金曜日がよかろう、といことになりました。遠方から来ていただく方にとっては土日のほうが都合が良いのでしょうが、そうなるとかなり予約は先になってしまいます。それなら、できるだけ週末に近いほうにしようということで、金曜日に挙式をすることを決めたのでした。

それからは、「目標」に向かって二人して着々と準備を進めました。まずは、会場の下見とホテル側の担当者さんとの打ち合わせに始まり、宮島とホテルで着る貸衣装の選択と寸法合わせ。式に呼ぶ人のリストの作成と案内状の作成・・・

結婚式をやったことがある人はおそらくみなさん同じような手順を踏まれるだろうと思いますので、そこのところの詳細は割愛しましょう。しかし、とくに印象的で記憶に残っていることは、それらの準備のお手伝いをしてくださった方々のこと。とくにプリンスホテルの式場担当者のOさんは、テキパキと仕事をこなし、キレのよい会話と気配りのできる御嬢さんで、元アナウンサーでタレントの夏目三久にちょっと似た感じのなかなかの美人さん。宮島での式から始まって式最後のお見送りまでのすべてのスケジュールに目をくばり、およそスキのない手配をしてくださいました。

このほか、貸衣装屋さんのコーディネーターのお姉さんもとてもセンスのある人で、タエさんの長所を生かした素敵なウェディングドレスを選択してくれました。私といえば、男性はどちらかといえば「添え物」的な対象なので、ごく普通のタキシードを選択するんかなと思いましたが、案に反して私の年齢に合ったシックな衣装を選択。自分で言うのもなんなのですが、結構おしゃれな「髭男爵」が誕生することになったのです。

もう一人、忘れてはならないのは、式当日のメイクなどをお願いしたYさん。この人はタエさんの昔からの友人で、広島市内でマッサージ店を経営している方ですが、コスチュームコーディネーターやメイクアップアーティストもこなす、ばりばりのキャリアウーマン。式当日は、披露宴会場の裏方として、衣装替えのたびに衣装や髪形を整えたり、メイクを直してくださったりしました。実はスピリチュアル的なことのお話もできる方で、タエさんとは海外旅行にも一緒に行ったことのある親友。この方は、なかなか面白いといっては失礼ですが、いろんなエピソードを持った方なので、いずれまた機会があればそうしたことも詳しく書いてみたいと思います。

結婚式当日の前の夜はここプリンスホテルに宿泊し、あちこちの地方から来られた親戚や友人たちと食事をしたり、お話をしたりで、ふだんはなかなかできない貴重な時間を過ごしました。

・・・そして式の当日。かねてからの予報により、天気は良くないとは知っていたものの、その日は朝からもう少しなんとかならんかいなーというほどの、どしゃ降り。あー、こりゃあ日頃からの行いのせいかなー、とか思ったもんですが、ともかくその日の早朝から私は羽織はかま、タエさんは金襴緞子に着替え、ホテル一階のロビーに向かいました。

広島プリンスホテルは、広島市内中心部から南へ4kmほど離れた「元宇品公園」という半島の先端にあります。もともとは島だったもので、間の海を埋め立てて今は半島になっており、小高い山を中心にしたその島全体が公園になっていて、島を一周する散策道がついています。広島市民のよき散策の場所でもあり、デートスポットでもあるこの場所は、私も子供のころからしょっちゅう遊びに行っていました。そんな場所で結婚式を挙げることになろうとは、不思議な気分・・・

その半島の先端にそびえたつ瀟洒なデザインの広島プリンスホテル。場所が場所だけに、一階のラウンジからも海が見えますが、さらに上の階にいくと、瀬戸内海の島々が見える絶景に恵まれていて、観光客にとても人気があるようです。広島市民も何かとイベントがあるたびにこのホテルを利用しているようで、結婚式の会場としても人気があります。

ここから、宮島までは直線で15kmほど。この日の午前中は、厳島神社本殿で結婚式を挙げる予定だったのですが、では、なぜ宮島から離れたプリンスホテルへ? と思われる方もいるでしょう。実は、我々のプランは、式に参加する方々をここプリンスホテルから宮島まで船で直接送り迎えしようというもの。式には遠方から来られる方も多いので、海から見る宮島を見てもらい、観光客としての気分も味わってもらおう、という配慮もあったのです。

しかし、あいにくのどしゃ降り。船は大丈夫かなーと思いましたが、幸い、雨はすごいものの、波はほとんどなく、予定どおり船は出向できるとのこと。衣裳部屋で、私は紋付袴。タエさんは金襴緞子に着替えて出発です。

ホテルの裏には宮島行きの不定期便の専用桟橋があり、船はここから出ます。降りしきる雨の中を着物の裾をからげて、ホテルスタッフに差し出された傘に守られながら船へと向かう二人。船にはこのほか、親しい友人や親戚が乗りこみ、ほぼ予定時刻に、桟橋を離れました。船から陸のほうをみると、さきほどまで傘を貸していてくれたホテルスタッフさんたちが総出で、傘をあげ、手を振ってくれています。なかなか心のこもったサービスに感激。そして・・・船は宮島へ宮島へと進んでいきます・・・

・・・少々長くなったので、今日のところはここまでにしたいと思います。次はいよいよ結婚式本番について書こうと思います。が、その前に、もしかしたら、二人の奇跡的な出会いについても触れるかも。30年ぶりに出会ってそこからスタートした我々二人が結婚に至るまでに、今思えば本当に不思議なことが数々ありました。そんなスピリチュアルなお話も交え、この項を綴っていくのも面白いかも。修善寺の日常のことなども書いていきたいので、不定期になるかもしれませんが、お時間のある方は、時々のぞいてみてくださいね。それでは今日のところはこれまで。

ジューンブライド

そろそろ梅雨の季節です。沖縄はもうすでに4月28日に梅雨入り、九州地方も今週あたりから突入予定とか。ここ、修善寺の空気も、気持ち湿ってきたような気がします。今朝はよく晴れていますが、夕べも一雨あった様子。庭の土が濡れています。

最近庭造りと塀づくりに追われていて、なかなか遠出ができませんが、テレビのニュースによれば、あちこちでバラが満開になっているようです。伊豆東海岸の下田にほど近いところに河津(かわず)という町があります。本州では一番早く咲く「河津桜」で有名な町ですが、ここに河津バガデル公園というのがあって、今桜ならぬ、バラが見ごろだそうです。まだ一度も行ったことがないので、今やっている塀づくりが終わったらぜひタエさんと行ってみようと思います。

ご存知の方も多いと思いますが、バラは一年に2回花季があって、最初は6月ごろ、次いで秋口の10月が見ごろです。その6月に結婚式を挙げると、幸せな結婚生活が送れるというので、梅雨のさなかであっても、6月に式を強行する人も多いと思います。

いわゆるジューンブライド(june bride)ですが、ネットで調べてみると、そもそもこの風習は、欧米からきたらしい。おもわず、また欧米か!と突っ込みたくなりますが、日本ではいつごろから定着したのかなと思ったら、流行りだしたのは意外と遅く、どうやら戦後の昭和40年代くらいかららしい。

それ以前は、結婚式といえば桜の咲く春や、天気がよく空の晴れ渡った秋にやる、というのがふつうだったらしいのですが、どうして雨の時期にやるようになったのかな~とさらに調べてみると面白いことがわかりました。なんでも、昭和40年代ごろからは高度成長期に合わせて日本人もいろいろ贅沢になり、テレビや冷蔵庫、洗濯機の「三種の神器」の普及に加え、電車やクルマなどの公共交通機関では冷房が導入されはじめたらしいです。催し物をやるホールや会場など、一カ所に人がたくさん集まるところでは費用対効果も抜群、ということで、エアコンが導入されるところも次第に多くなってきたとのこと。

結婚式場も例外ではなく、これまで気候がいい春や秋の利用が多かったのに対し、雨の日や暑い日でも冷房のおかげで快適な結婚式ができるようになるということで、一気に需要が加速。ふだん、あまりお客の多くない、真夏や真冬でも快適な結婚式ができますよ、ということで結婚式業者も式場費用を割り引いたことから、さらに利用者が増えていったそうです。

しかし、さすがに天気が悪くて湿気も多い、梅雨の時期にはお客はあまり増えなかった。なんとか梅雨のじめじめした季節でもお客を増やしたいなーとおもっていたところ、おっ!こ、これだー と誰かが思いついたんでしょう。欧米ではジューンブライドというのがあって、この季節に結婚すると、幸せになれるという言い伝えがある。そうだ、こいつをキャンペーンに使ってお客を倍増しよう、エッヘッヘ・・・と言ったかどうかは知りませんが、6月に結婚すれば、どんなブスな・・・いえ月並みなお顔のあなたでも幸せな結婚ができますよ~~ とか、きっと宣伝を打ったんだと思う。

これが当たりにあたって、6月に結婚する人が一気に増えた・・・というのがことの真相のようです。なにやらバレンタインでーとかホワイトデーを流行らせた菓子業界の陰謀と似ていますが、欧米風の結婚にあこがれる世の乙女たちにはおおいに受けたようで、かくしてジューンブライドは全国津々浦々にまで定着していったのでした・・・

全国津々浦々と書きましたが、6月には早々と梅雨の明ける沖縄や梅雨のない北海道ではどうだか知りません。でも6月に北海道で結婚式を挙げる人は多いみたいですね。

ところで、ヨーロッパでなぜ、ジューンブライドが定着したか、については諸説あるみたいです。その昔、ヨーロッパでは、3、4、5月の3ヵ月間は結婚することが禁止されていて、結婚が解禁になる6月になっていっせいにカップルたちが結婚したからとか、ヨーロッパの6月は1年中で最も雨が少なく良いお天気が続くためとか、6月には復活祭があるから、とかとかです。

しかし、ネットで調べたところ、いろんな結婚業者さんの解説で一番多かったのは、英語の6月の意味のJuneに由来するもの。ギリシャ神話の主神ゼウスのお妃ヘラというおばさん女神は、ローマ名でユノ、英語名Juno。JuneはこのJunoがなまってできたことばだそうです。ヘラは女神の中でも最高位の女神なんだそうで、結婚・出産を司り、家庭・女性・子どもの守護神と云われているとか。

さぞかしこわい顔立ちのゴットねーちゃんなんだろうな、と思って画像検索してみたところ、昔の絵画や彫刻では、なかなかシックでおしとやかなおばさん、いや淑女として描かれているようです。それにしても、なんで昔の絵や彫刻に出てくる女神ってみんな裸なんでしょうか。服を着ていると人間と間違われるからかしら。人間ではない、ということは、トイレには行かんのかな~ とか妄想は膨らむ・・・

さて、なんで6月がJuneなのかというと、このヘラおばさんが守護している月が6月のためなんだそうです。ちなみに、私の誕生月3月の神様は農業の神マルスで、Marchはここからきたみたい。ほかにも5月の神はゼウスの子供のマイアが語源で、マイアから派生してMayになったみたいですね。12カ月分の神様を全部調べると日が暮れそうななんでこのへんでやめますが・・・

で、結論としては、ヨーロッパでは、6月の神様、ヘラを祭る祭礼が6月1日に催されたことから、結婚式を6月に挙げると女神ヘラの加護を受けて生涯幸せになれると云われる習慣ができたんだとか。

で、なんでここまでジューンブライドにこだわっているのかというと、かくいう我々夫婦が4年前に結婚式を挙げたのも6月だからです。が、実は、当初とくに6月に結婚式を挙げる予定はなく、式場の予約の関係からそうなっただけ。

法的な婚姻手続きである入籍そのものは、それに先立つところの2月14日に広島の五日市区役所で済ませていたものの(バレンタインデーというのも結構、ミーハーですが)、それじゃあ結婚式をどこで挙げようか、という話になったのは、そのあとだったかな。

その頃は、とくにどこでやらなければならないというのはなく、どうせやるなら、こぎれいなところがいいね~ という程度の話。タエさんのご両親は、お父さんが神社の宮司さんの息子だったこともあり、その神社、島根柿本人麻呂神社で結婚式を挙げています。なので、お二人にあやかって、どこかの神社という手もあるね、という話は出ていたかと思います。

一方、二人が交際を始めたころ、ちょっと海辺でお茶でもしようか、ということで立ち寄ったのが、広島市内の最南部、「宇品(うじな)」にある広島プリンスホテル。このホテルの一階ラウンジで二人でお茶をしながら、ぼんやり海を見て過ごした、という一時がありました。

結婚式をやるならあそこがいいんじゃない、と言い出したのはタエさん。入籍後にどこで結婚式をやるかを相談していたときのことです。私としても、すぐ目の前に海が広がるそのホテルの眺望は最初に訪れたときから気に入っていたので、タエさんの提案に、即、あ!いいね! と賛成。

そして、タエさんの提案はさらにエスカレート。ねえ、披露宴はプリンスホテルでやるとして、結婚式そのものは、宮島でやらない? と。

エッ、宮島!? と結構びっくりしたのを今でも覚えています。それもそのはず、宮島といえば、今や世界遺産にまでなっている広島でも一番有名な観光スポット。天橋立、松島とともにその名を全国にとどろかせている、日本三景のひとつです。

確かに、広島プリンスホテルは、海に面していて、そこからも目と鼻の先に宮島が見えます。宇品港から宮島へ向けての定期観光船も出ていて、タエさんの言うように、宮島で結婚式を挙げ、披露宴をプリンスホテルでやる、というのは不可能ではないのかもしれません。

その時は、まだそれが実現するとは思っていなかったのですが、やがてあれよあれよとそれが実現していくことに・・・

・・・ということで、今月は結婚記念日月間ということで、ムシャ&タエのこの結婚式にまつわるエピソードを紹介していこうと思います。世界遺産、厳島での結婚式。なかなか体験できるものではありません。今ふりかえると、いろいろ面白いエピソードもあったかと思うので、そのころのことを思い出しつつ、我々の結婚式にまつわるよもやま話を綴っていきたいと思います。乞うご期待。

 世界遺産 厳島神社

王様とわたし

庭造りが進行しています。一昨日までに、庭中にあった、切り株をほぼ全部取り除き、そのあとを平地にして、ようやく庭全体の形が見えてきました。昨日はその平らになった庭先のお隣との境界に板塀をとりつける準備を始めました。出来上がれば、総延長13mもある、過去の人生で一番長い塀になります。

しかし、それにしても、庭づくりの過程で発生した切り株や根っこを掘り出した大量の木ゴミをどうしようか、とかねがね悩んでいました。そうしたところ、家をリフォームするときにお世話になり、今も門回りのアプローチを作ってもらっている大工のTさんから、ウチの敷地に捨てるところがあるから、持って行ってあげるよ、というお申し出がありました。

これぞ渡りに船。ということで、早速早朝からTさんの軽トラックで木ゴミを出すことにし、Tさんにも手伝っていただいて、トラックに積み込みをはじめました。中には、切り株だけでなく、長さ2m、太さも15cmほどもある根っこや、高さ3mほどの切り倒した木などもあり、運びだしには結構難儀しましたが、Tさんにも手伝ってもらってなんとか全部運び出しに成功。搬出した木ゴミは軽トラックの荷台に山積みになるほどもあり、えー、これ全部自分で掘り起こしたんだ~ と感心。自分のことながら、人間、コツコツやればなんでもなんとかなるもんだな、と改めて思った次第です。

これで庭の隅に大量に盛り上げてあったゴミ捨ても終了し、あとは塀を作れば、本格的なガーデニングを始めることができるようになります。梅雨に入る前にある程度形になればいいや、と考えていたので、前倒しで作業がはかどった分、得した気分。それにしても、いつもいつも何かにつけ、助け舟を出してくださるTさんには頭が下がります。感謝感謝です。

ゴミの問題が片付き、ちょうどお昼になったので、ダイニングの椅子にどっこいしょと腰をおろしていたら、タエさんが話しかけてきました。去年の今頃は何をしていたのか、知っている? というのです。見ると、愛用の手帳を片手に去年の出来事を反芻していたご様子。えー、なんだっけかなーと、考えていると、この6月のはじめには、長野の伊那にあった物件にご執心で、そこを移住先としてほぼ決めかけていた時期のようです。これまでも何度も書いてきたように、その後、結局はその物件はあきらめ、伊豆地方に目を向けなおして新たに移住先探しを始めようとしていた時期・・・・・

あれからもう一年経ったのか、と思うと、感慨もひとしお。と同時に時の過ぎる速さにあらためてびっくり。でも、昨日書いたように、ここ一年の間に起こった出来事はあまりにも記憶に鮮明に残るようなできごとばかりだったので、今後ともきっと長らく思い出し、逆にあのときは長かったなー、などと思うのでしょう。

そしてもうすぐ、6月の20日を迎えます。この日は、何を隠そう私たちの結婚記念日。二人の故郷の広島、厳島神社で結婚式を挙げてから、今年で4年にもなるのです。結婚4年目は、「花婚式」というのだそうで、花が咲き、実がなるように、という意味が込められているそうです。ということは、今年はなんか花が咲くんかな~ とぼんやり考えてみたりするのですが、どうもイメージがわかん。が、今やっている庭造りが終われば、花も植えられるようになるし、なるほど花婚式にふさわしい年になるのかも。どんな花が咲く庭になるんでしょう。楽しみです。

ところで、先日から引っ張っているタエさんとの前世のかかわりのことです。ちょうど結婚式の話題になったので、このあたりで触れておこうかと思います。

わたしの前世はその昔、どこかの国のスパイだった、というお話はすでにしました。霊能者Sさんによれば、シルクロードなどを通って行商をしながら敵国の情勢をひそかに探っていたとのことで、そのときの人生は、どこかで掻き消えるように終わったようです。時期としては、11~13世紀のアラビアンナイトの時代だったとのこと。現在でいう、イランとかイラクあたりが拠点だったのでしょうか。こうしたわたしの前世にかかわるタエさんの前世はどういうものだったのか。気になるところです。

話は、先の結婚式に先立つちょうど一年ほど前、今から数えると5年ほど前のこと。わたしがSさんに初めてお会いしたときのことです。そのときSさんには、タエさんと私の前世を別々にリーディングしていただきました。わたしのリーディングが終わったあとに、タエさんの前世をみていただいたのですが、そうしたところ、Sさんが、突然、あーなるほどね、とおっしゃいました。

なんだろうなあ、と怪訝なふたり。おそるおそる聞いてみると、どうやらこういうことのようでした。

すなわち、タエさんの前世は、私がスパイをしていた同時代にある国を治める王様だったそうで、なんと、私はその王様のじきじきの家臣だったというのです。野心家?だったタエ王?は、その当時、領土を広げ、戦争をするために敵国の情勢を知る必要がありました。そのため、敵国のいろいろな情報を誰かに集めさせる必要があり、白羽の矢が当たったのが私。そして、密命を与え、敵国情勢を探るよう旅立たせたのです。

しかし、いろいろ情報を集めたあげく、自国へ帰る前、私は砂漠のどこかで客死してしまいます。こうして、わたしの帰りを今日か明日かと待っていた王様にはとうとうその情報は届かずじまい。その結果、タエ王の戦争がどういう結果になったかまではリーディング結果ではわかりませんでした。しかし、敵国情報をつかむことができなかったその国は、もしかしたら滅んでしまったのかもしれません。

このように、その前世での私とタエさんとの関係は主従関係ということだったようですが、Sさんによれば、その前世では、私が客死してしまったので、タエさんは私の能力を使い切れなかった。そのため、今生ではその能力を思う存分に使いたいと思っている。また、私はその情報を伝えることを果たせなかったため、それを今生で果たしたいと思っている、ということでした。

前世で主従関係だった二人。その時代から7~800年もたった現生で夫婦になるというのはどういう意味があるのだろう、と考えさせられてしまいます。そして、今日まで起こってきたことなどを踏まえ、その意味を改めて考えてみると、いろいろ思い当たるふしもあります。

そのひとつは、ここ伊豆へ移住してくるまでの家さがし。情報収集の得意な私は、せっせせっせと不動産情報を集め、それを整理してタエさんに提供。吟味して最終的な結論を出したのは二人の共同作業です。しかし、なんとなくタエさんの意見に従って決めたような気がしないでもない。

それから、引越しの作業にあたっての廃棄ゴミの処理、持ち込むべき荷物の選定、各種業者の選定と、後処理などなど。これもほとんどすべて私がやりましたが、おそらくタエさん一人では無理だったでしょう。もとスパイだった私を使うべくして使い、思う存分働かせている、と考えることができます。

このほかにも、私がいろいろ調べて彼女に報告、彼女が決定、というパターンは結構あるような気がする。うーん、前世おそるべし。

それにしても、男としては女にあごで使われている、というのはあまりいい気持ちではありませんが、前世でそういう主従関係だったふたりが夫婦になったのは、それが一番前世のカルマを解消する上で自然だったからだと思います。なぜ夫婦なのか、前世と同じ主従関係でもよかったのでは、とも思うのですが、今生で二人が出会ったタイミングや場所などを考えると夫婦という形が一番都合がいいのでしょう。夫婦のほうが、タエさんも私を使いやすいし、私としてもそういう関係のほうが、使われやすい。そう二人で相談し、今生に生まれてきたのだろう、と推察します。

タエさんにそのことをどう思うか聞いたことはありませんが、私自身、今世で彼女のために働いていることを楽しんでいる、という部分もあるように思いますので、確かに、Sさんのお見立ては当たっているように思うのです。

今後、さらに何十年も彼女と暮らし、そしてどちらかが死んでその関係が終わったとき、前世から持ち越したカルマは消化されるのでしょうか。おそらくはこれからも何かにつけ、タエさんに情報を渡し、それを彼女が消化して役立ていく・・・といった生活が続いていくのでしょう。それは私も楽し。タエさんも楽し、なのだと思います。そしてその関係が終わったあと、前世からの宿題はようやく終わるのです。そして、来世でもまたタエさんと関わる人生があるのかどうか、はたまた来世もまた、この地球に戻ってくるのかどうか・・・それは今まだわかりません。

が、これだけはいえそうです。現時点でも私はタエ王に十分な情報を届けることに成功していると・・・

伊豆∞フロリダ

6月になりました。あとひと月で、今年の前半戦も終わりかと思うと、時の速さを改めて感じます。歳を重ねるにつれ、時間が早く過ぎるように感じやすくなる、とテレビでタモリさんが言っていましたが、それって本当かもしれません。ただ、ここ伊豆へ来てからの時間の経過は、東京へ住んでいたころよりは少し緩やかになったような気がします。引っ越し後、少し落ち着いてきて、気持ちに余裕が出てきたからかもしれません。が、実はここ伊豆では、過去の火山活動が原因で時空にゆがみができており、それが原因で時間の流れがより遅い・・・なーんて、そんな妄想をしてみたりもする。んな、わけありませんが、ただ伊豆の空気を感じていると、それも本当のようにさえ思えてくる・・・

昔話の浦島太郎は、竜宮島に滞在した主人公が実は何百年もそこで過ごしていたことを知らず、地上に帰ったら白髪のジイさんになってしまった、というストーリーでした。そうすると、もしかして、あと2~3年後に東京へ帰ったら、その変化にびっくりする・・・なんてこともあるかも。そういえば、数年前にはなかったスカイツリーが今や現実のものとして存在し、ついこの間までは戦災の影響でボロボロだった東京駅は、もうすぐ新しく生まれ変わる。新宿駅南口のバスターミナルの完成も間近と聞きます。東京の時間の流れは、ほかの地域よりも確かに早いかもしれません。

そう考えると、時の経つ速さは、その住んでいる場所によって違う・・・ということはあるのかもしれませんね。その昔住んでいたハワイには3年半ほど滞在していましたが、それが長かったか短かったかと問われると、ずいぶん長いこといたなー、という印象。

無論、3年半というのは、確かに長い時間だとは思うのですが、感覚的には、もっとそれ以上いたような感じがするのです。

その理由をあれこれと考えてみたのですが、その理由は気候でしょうか? ご存知のとおり、ハワイは日本ほど四季の変化が顕著でなく、一応冬めいた季節はあるのですが、せいぜい薄手のセーター一枚あればなんとか過ごせる程度の寒さ。当然曇りや雨の日もありますが、長続きはせず、日本のように梅雨の季節はありません。このためか、いまその当時のことを思い出しても、一年中さんさんと太陽が降り注ぐ安定した天気の中を過ごしていたようなイメージがある・・・

つまり、気候変化が少ないということは、時の流れを感じるための季節変化という尺度が明確でない、ということになります。しかし、季節の移ろいが時間の経過を長く感じるか否かに関係するか? と聞かれると、ウーン、関係あるような気もするし、関係ないような気もする・・・

確かに季節の変化があまりないので、ハワイで起こった出来事がいつごろのことだったか・・・と思い出そうとすると、その前後関係がよくわからなくなります。大学に入ったときと卒業したときは、別の季節だったはずですが、同じような花が咲いていたような気もする・・・

なので、もしかしたら、季節変化が小さい場合には記憶があいまいになる、ということはあるのかもしれません。が、はっきりとした相関があるのかどうかと聞かれると、あまり自信がありません。

そうすると、実際より長くいたような気がするのはなぜ? とさらに考えてみたところ、ハワイで新たに経験したことがあまりにも多かったからではないか、というところに行き当たりました。

実際、ハワイへの渡航にあたっては、引越しの手続きから入国、大学でのレジストレーション、英語の研修などなどから始まって、いろんな国からの留学生や先生との出会いと交流、数々の授業。そして辛く長い勉強の日々・・・。 と、それまでの人生とはうってかわったような日替わりメニューでのストレスの連続。とはいえ、面倒なことや苦しいことばかりではなく、楽しいこともあり、そうしたことの積み重なりを思い出すと、かなり密度の濃い毎日だったとように思います。風光明媚な土地柄にも触れ、きれいなところへもいっぱい行ったし、日系2世、3世のアメリカ人との交流、同じアパートに住む外国人留学生とのつどい・・・などなど楽しいものも多く、そういう記憶が、次から次へとよみがえってきます。まさに、走馬灯のように・・・

だとすると、時間の経過を長く感じるか短く感じるかは、場所によって違うというよりも、もしかしたら、その時々で起こった事象の数が多いかどうかで決まる、と考えるべきなのかもしれません。同じ時間スパンならば、そのときに起こったことが多ければ多いほど、その時間が長く感じる・・・もっともらしい理論じゃあありませんか。

そういえば、ビルやがけなどの高いところから落ちた経験のある人が、その落ちる間のわずかな時間に過去に起こった出来事を次々と思い出し、その落ちている瞬間は数秒にすぎないのに、まるで何分か何十分かもかかったような気がする、と話していたのをテレビか何かで何度か聞いたことがあります。

さらに考えてみると、ハワイでの滞在のような長期間ではなく、たかが一泊二日ほどのショートトリップの旅行でも、その時間がものすごく長く感じられる、ということがよくあります。たかが二日ほどで季節変化が起こるわけはなく、旅行中ずーっと晴れていたり曇っていたりということはよくあることですから、時間の経過が長く感じられることに季節変化や天候の変化は関係ない、ということがわかります。

そういうふうに考えていくと、過去の人生においても、ずいぶん長いことかかったな、と思える時期には、いろんなことが重なっていたように思います。わたし自身は、8年ほど前に先妻を亡くした時期を挟んで、その前後合わせての数年が人生で一番長かったように思う。人生の岐路にさしかかったときは、さまざまな変化が起こりうるもので、その積み重ねはやはり時間の経過をゆるく感じさせるものなのかもしれません。

話は変わりますが、実は、ハワイへ行く前に、フロリダにも住んでいたことがあります。もともとはフロリダにある大学の大学院へ進学するつもりで渡米したのですが、その前に英語をシェープアップしておく必要があり、フロリダ北部にある州都、ゲインズビルという町に9か月ほど滞在したのです。当初はそのまま、フロリダで目的を達しようと考えていたのですが、その後思ったより短い期間で英語が上達したのと、フロリダの気候があまりにも体にあわず、結局フロリダからは撤退。いったん日本に引き上げて再検討した結果選んだのがハワイというわけです。

このフロリダなのですが、アメリカ人にとっては、老後の人生を送る最高の土地、ということで、みなさん歳をとると退職金などをすべてつぎ込み、南へ南へということでやってきます。フロリダ南部では、町中がジイサンバアサンでひしめいているんだぜぇ、と友達から聞いていたので、ウソだろーと思いましたが、行ってみたら本当でした。とあるリゾートタウンなんぞは本当に老人の数が多く、町中歩いていても建物の中に入っても、どこへ行っても年寄ばかりなのです。

話が脱線しましたが、アメリカ人の間でフロリダが人気なのは、ずばりそこが気候が温暖だからです。国土の広いアメリカですが、海に面していて気温が高いという場所は、フロリダなどの東南海岸諸州とカリフォルニア、そしてハワイだけ。カナダに近い北のほうでは寒冷な地も多く、老後はそうした寒さが身に染みる・・・だからこそ歳をとるとみんなこぞって南を目指すというわけです。なかでもフロリダは風光明媚なところが多く、地価も安いため、とりわけアメリカ人には人気があるようです。

そんなフロリダですが、私が気に入らなかったのはその湿気です。ハワイ同様、温かくて、太陽サンサンのイメージがありますが、温かいというのにも限度があります。夏場の一番暑いときには40度というのはざらで、それ以上になることもしばしば。そしてその暑さに加え、5月から9~10月にかけての雨季には夕方になると、ほぼ毎日のようにスコールが来ます。当然、暑いところへ来ての雨ですから、その蒸し暑さは筆舌に尽しがたいものです。暑いのも、湿気が多いのも苦手な私は、本当に参りましたが、それ以外にも水がまずいということもありました。高い山のないフロリダでは、平地にた貯めた(貯まった)水の循環が悪く、カルキなどの添加物を入れないと飲めない、ということのようでした。生水は絶対飲むな、と言われていたのを忘れてそのまま飲んだところ、何日も下痢をした、なんてこともありましたっけ。

そんなわけもあって、結局フロリダに住むことはあきらめたのですが、初めての海外滞在でもあったその9か月間は、その後長い間記憶に残るものになりました。暑くて湿気が多いという難点はあるものの、大西洋に面したきれいな砂浜や、スペイン統治時代の数々の史跡。アメリカならではの広大な畑とはるか水平線まで続く水路や、湿地帯。そのところどころに湧き出す清水と、そこに生息するジュゴン。ディズニーランドにNASAのあるケープカナディラル、そしてキーウェスト、と数えればきりのないほどの観光資源を持っており、その多くを私も留学中訪れました。

通っていたフロリダ大学の英語教室では、ヨーロッパやアフリカ、中南米などの多彩な国からの留学生との交流もあり、こうした人たちとの異文化交流は実に新鮮でしたし、国による考え方の違いというものがあることも知り、いわゆる国際感覚、というものがこのときかなり身に着いたように思います。

フロリダの気候の悪口ばかり書きましたが、秋になると、この地獄のようなフロリダの町が大変身します。フロリダの州都、ゲインズビルの町の秋色は本当に美しく、色づいた紅葉の木々と、地面に落ちた枯葉のコントラストは、本当に絵に描いたようでした。ゲインズビルには、町中のあちこちでリスをみかけます。かさこそと落ちた枯葉の中を走り抜け、気によじ登って木の実を食べるリスたちの姿は愛らしく、アメリカ南部の町であることを忘れ、ヨーロッパのどこかへタイムスリップしたようなかんじ。はっと息を飲む・・・という景色にどれほど出会ったでしょうか。

さらに、フロリダ大学には、日本からの留学生も多く滞在しており、留学生同士で仲良くなった人たち同士で、旅行へ行ったり、パーティをやったりもしました。その中には今も親友として親しく付き合っているK君や、結婚したりまた別の国へ行ってしまって連絡がとれなくなった友人たちもいましたが、K君をはじめ、日本への帰国後も連絡がとれる人たちとはいまも交流が続いています。

このように、楽しい思い出も多かったためでしょうか、フロリダにいたその9か月は、今もとても長いものだったように感じられます。

やはり、時の長さとは、その時経験したことの多さに比例する、改めてそう感じるのです。

さて、長くなったので、今日の項もそろそろ終えましょう。最後にまたまた話が変わりますが、我が家の庭には、「マンリョウ」という木がたくさん生えています。冬になると赤い実をつけ、「万両」とも書いて縁起がいいので、正月などには縁起物として飾られたりします。実ができるのは主に冬、ということなのですが、我が家のある場所の標高が高いためか、今年の冬が寒かったせいかわかりませんが、庭のあちこちのマンリョウはいまだ赤い実がつけており、目を楽しませてくれています。

ところが、このマンリョウについてネットで調べてみたところ、アメリカのフロリダ州では、有害な外来種として厄介者扱いになっている、ということがわかりました。江戸時代には、園芸植物として江戸庶民の人気を博し、多様な品種群が栽培されたとそうなので、そうした珍しいものの一部が渡米し、かのフロリダの地で広まったのかもしれません。

我が家の庭にあるマンリョウと、かつて過ごしたことのあるフロリダとのちょっとしたつながり。不思議なかんじはしますが、案外とハワイ同様、フロリダもまた私にとっては、「猿の惑星」なのかもしれません。

 伊豆でもつつじが満開です 修善寺自然公園にて