虹のプレゼント ~旧土肥町(伊豆市)

久々の三連休が終わりましたね。夏休みが終わって以来の大型連休ということで、高速道路をはじめとして、あちこちでかなりの渋滞が見られたようですが、ここ伊豆も他県ナンバーの車であふれかえっていました。

我々のところには、初日の15日に、広島の神職、Sさんご夫婦とそのお友達、合わせて四人の来客があり、久々ににぎやかな笑い声であふれかえりました。Sさんご一行の今回のご訪問の目的は、土肥の海岸で、地震鎮め、火山鎮めなどのお祈りをされることでした。

Sさんによれば、最近、阿蘇などの九州の山々の火山活動が活発化しており、これと連動して、富士山などの関東地方の山もその活動が活発化する可能性もあるとのこと。また、南海地震などが起こる可能性もあることから、これら自然災害が起こることを防ぐため、富士山のふもと、駿河湾岸のどこかで、清めのお祈りをしたいという、かねてからのご希望でした。

実は、Sさんご夫婦は、5月の半ばにも我が家にいらっしゃり、そのときのことは、5月のブログ「日と月」にも書きました。このときは、この9月の地震鎮めのお祈りの候補地探しでしたが、今回はその時に選んだ場所で実際にお祈りをするためにいらっしゃったのです。

5月に決めた場所、それは、西伊豆、土肥(とい)の海岸でした。Sさんによれば、今年、2012年は地震や火山噴火、風水害などが非常に起こりやすい「特異年」ということで、今回の伊豆の海でお祈りをされるのに先立ち、4月には、大阪の淀川で、また6月には、四国の剣山でも同様の祈りをささげられています。

今回の土肥でのお祈りが終了すれば、川、山、海での祈りが終了したことになり、あと秋にもう一度、阿蘇の草千里でお祈りをされるそうで、これは、「草原」ということになります。山、川、海、草原、とこの国を形成する地形すべての神に祈りを捧げることで、この国を襲う災害を未然に防ごうという試みですが、今回のお祈り会もそうですが、これまでの会も全国からこれに賛同する「有志」が大勢参加されています。

すべてボランティアによる活動で、Sさんとともに無償で祈りをささげられてきましたが、今回も30人余りが参加され、我々二人も今回、初めてのことですが、参加させていただきました。

……と、ここまで書いてくると、なにやらいかがわしい宗教団体のお祭りでは……と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、Sさんらの「お祈り会」のメンバーは、とくに会の名称や会員規則があるわけでもなく、何の宗教団体でもありません。

サラリーマンや主婦、自営業者さん、あるいは無職の方たちといった、ごくごく普通の人たちが、Sさんらの呼びかけで、自然に集まっただけのもので、中核になる人たちはいるものの、集まるメンバーすら毎回違います。

中にはプロの写真家やお医者さんもいらっしゃるなど、社会的ステータスはさまざまです。有名なところでは、「ユダヤ人大富豪の教え」をはじめとする多くのベストセラー本を執筆している本田健さんもそうです。

作家でもありますが、経営コンサルティング会社、ベンチャーキャピタル会社など、複数の会社を経営する「お金の専門家」であり、独自の経営アドバイスで,今までに多くのベンチャービジネスの成功者を育ててきた人でもあります。

本田健さんもそうですが、この人たちの共通点としては、有名、無名に限らず、ただ、ごくごく自然に、この国を魂レベルで救うことができれば、と考えている人たちです。

従って、いわゆる「スピリチュアル」とはどういうことか、を理解しているという点において、それを信じていない人たちとは少し違うといえば違うでしょうか。Sさんご自身もその方面でのご造詣は当然深く、「ソウル・クリーニング」という本まで出版されています。

Sさんご自身は「神職」がご職業なのですが、いわゆる霊能力を持った霊能者でもあり、「自動筆記」によって、あちらの世界の方のご宣託を一般の人に知らしめることができる方です。

自動筆記とは、オリジナルの英語では、オートマティスム(Automatism、Automatic writing)といい、これを日本語に直すと「自動筆記」「自動記述」という意味になります。自分の体をあちらの方に貸す、俗な言い方をすると、「憑依」させることで、その方の霊界での知識を文字として書き出し、その内容を我々に知らしめることができます。

憑依というと何やら悪いものを想像してしまいますが、無論、悪い霊が取りつくこともあるようです。しかし、仮に悪霊が取りついてしまったとしても、ご自分でそれを浄化することができる能力がおありなため、自分の体を貸すことができるわけで、霊媒体質の方なら誰でもできるというわけではありません。やはりそれなりの修業をされた方、選ばれた方でなくてはこういうことはできないと言われています。

そのSさんは、広島に在住なのですが、もともと生まれや育ちは神戸だそうです。それがまたなぜ広島にお住まいになっているかというと、そうした心霊能力により、あちらの方から、広島の原爆で亡くなった大勢の方の霊をなぐさめるようメッセージを得たから、といいます。

以来、もう広島に十年近くお住まいということですが、これまでに原爆で亡くなられた方々の霊を慰めるため、数千もの水晶の玉(月晶)を広島市内のあちこちの土の中に埋め、お祈りをささげる活動をしておられ、また全国あちこちでの地震鎮めのためにも、各地に月晶を埋めてお祈りをする、というボランティア活動を長年やっていらっしゃいます。

Sさんご自身、その昔は実業家で、アパレル関係の会社を経営されていたことがあり、このときに蓄えた財をそういう活動のために、無償でつぎ込まれているようです。なかなかできることではありません。

そういう無償・無私の活動が、その行為を知る人の心を動かさないわけはなく、その賛同者は年々増え続けており、いまやSさんご自身が出向くことができないとき、あるいは出向くことのできないような場所でも、その賛同者さん達がSさんに代わって、お祈りをささげるようにまでになりました。

Sさんも今年もう73才。そういう年齢とはわからないほどお元気で若々しいお姿です。しかし、さすがにおひとりで、全国津々浦々飛び回るとうわけにはいかず、このように賛同者が増え、同じお気持ちからあちこちで祈りが捧げられるようになったことは大変喜ばしいことです。

そのSさんが、自ら参加されるお祈り会はいつもなぜか、晴れるといいます。前回剣山で行われた会では、前々日から雨模様で、当日も当然雨という予報でしたが、お祈りを催す時間になったとたんに、晴れ渡ったそうです。

今回のお祈り会でも、前日の天気予報では、台風接近の影響もあり、朝から終日雨、という予報でした。ところが、お昼を過ぎるころから、日が射すようになり、会が始まった3時半すぎには、なんとピーカンのお天気になり、ギラギラした太陽が浜を照らすまで天候が回復したのです。

実は、Sさんはこのことを「予言」されていました。我が家にお泊りになった前日の夜のこと、私が、明日はどうやら雨模様のようですよ、とSさんに申し上げたところ、「前回の剣山もそうだったけれども、今回も晴れるよ」と割に簡単におっしゃったのです。が、私は、そんなに都合よく晴れるわけない、と本音では思っていました。

ところが、ほんとうに晴れたのにはびっくり。雲の切れ間から太陽が……とかいうのならわかるのですが、この日は朝から曇りがちで、予報通り午後から雨が降るのでは、というような雲行きでした。それなのに、お昼を少し回ったころから、晴れ間が見えはじめ、現地の土肥に到着したころには、まるでお祈り会に合わせたように見事な晴れ間が広がったではありませんか。

Sさんに限らず、これまで他にも霊能者と呼ばれる方々に接してきた我々ですが、こういう人たちが何気なくおっしゃることでも、たいがい当たっているのにはいつもびっくりさせられます。今回も予言通り晴れ、Sさんはやっぱりただ者ではない、と思ったものです。

今回、お祈りの会(集会派でもなく、他に呼びようがないので、あいかわらずこう呼んでいます)が持たれたのは、土肥の町の中心街にほど近く、海岸沿いに建てられた「マリンホテル海音亭」の前のビーチ。

それにしても、数ある伊豆の海の中でも、なぜ土肥を選ばれたのか、という疑問ですが、これは、先の5月にSさんご夫婦がその候補地を探すために、西伊豆へ来たところ、この土肥の海岸で、突然憑依を受けたことに由来します。

取りついたのは、土肥にその昔あった、「土肥金山」で亡くなった人夫の方々の一人だったそうで、霊能力のあるSさんは、その霊をお祈りで鎮めて除霊されたそうですが、このとき、はじめて土肥金山で大勢の方々が亡くなったという事実を知ったということ。

なので、そのとき、9月に伊豆で地震鎮めのお祈りをするときには、この土肥金山で亡くなった方々の慰霊のお祭りも同時にやって、霊を安んじようと思ったそうなのです。また、東日本大震災で亡くなった方の大半も津波に襲われ、海で亡くなっています。

なので、今回の伊豆のお祈り会では、地震鎮めが主目的ではありますが、同時に海で亡くなった東北の方々の霊と土肥金山で亡くなった方々の霊も同時に鎮めて、あちらの世に導いてあげたい、というSさんの願いがあったのです。

今回のお祈りの会の参加者はこうして、Sさんからの呼びかけに応じ、「マリンホテル海音亭」のロビーに集合しました。その大半はここに当日宿泊されましたが、今回の参加者は広島在住の方々がほとんどで、東京からの方が4~5人。そして、伊豆在住の我々になります。

我々は当日、日帰りで修善寺へ帰るので、宿泊はしませんでしたが、他のメンバーは、お祈り会のあと、Sさんを囲んで食事をしたあと、「ディクシャ」と呼ばれる自己ヒーリングの訓練のためのセミナーレッスンを受ける予定とのことでした。

タエさんは、前に広島で、このSさんのディクシャセミナーに参加したことがあるとのことで、それによると、セミナーの内容は主に、瞑想のようです。これによって、より霊的なエネルギーを受け取りやすくできるよう、自分をコントロールできるように訓練していくとのことで、そのコントロールの方法を学ぶセミナーのようです。

ディクシャによって、自己をより高次元にコントロールできるようになると、自己の体と魂が活性化し、より愛や喜びに満たされた状態になったり、より高次元にある霊体と一体感を感じることができるようになるといいます。

残念ながら、我々二人はこのホテルに宿泊予定がなかったため、このセミナーは受けませんでしたが、また今度受ける機会があれば参加して、その効果などをレポートしてみたいと思います。

さて、お祈り会のほうですが、3時に始まる予定のものが、東京方面からお越しになった
メンバーが、高速道路の渋滞に巻き込まれたため到着が遅れ、30分ほど遅れでスタートしました。

今や雨が降るどころではなく、かんかんと照りつける太陽光によって、浜の気温は一気に30度以上にも上がっており、参加メンバー一同の顔やひたいからは、だらだらと汗が流れ出ます。

そんな中、Sさんたちから配られたプリントに書かれた、「み祭りの言葉」をみながら、Sさんたちに従いながら、皆でお祈りをとなえていきます。以前のブログ、「日と月」でも書きかましたが、このみ祭りの言葉は、昔ながらの古い日本語を近代風に直したもので、それでも古語には違いなく現代人にはわかりにくいため、漢字の部分はわざとひらがなにしてあったり、読みにくい漢字にはふりがなが加えてあります。

その読み方も普通に棒読みで読むわけではなく、神にささげる歌として、独特の抑揚があり、なんというのでしょうか、神社で結婚式を挙げられた方は分かると思うのですが、神官が神に向かって、「かしこみ、かしこみ~」とお祈りの捧文を読み上げる、あの独特の言い回しです。あるいは、百人一首を読むときの読み方がこれに近いかもしれません。

たとえば、「月の神の祈り」というのがありますが、これは、

ぬばたまの、闇の夜わたる現し世(うつしよ)に
いましもえいずる 真(ま)なひかり
うすろ うすろ に輝きて
闇のとばりも 打ち払い
うなにおわすもろやから
まこの姿に しずもらせ給えと
乞いのみまつる

というもので、これは、「夜空に輝く月がその闇の世界を打ち払ってくださるように、暗い闇に閉ざされているような我らのこの世界をお救いください」というような意味ですが、お祈りでは、これを古文そのままに、抑揚をつけて読み上げていくのです。

今回のお祈り会では、「浄めの祈り」「天地の祈り」「真大神の祈り」「日の神の祈り」「月の神の祈り」「風神の祈り」「四十八柱龍神の祈り」「火の大神の祈り」「鎮めの祈り」などの一般的なお祈りを全員で読み上げ、「地震鎮め」のお祈りとしました。

文字にすると、簡単なように思えますが、これだけでだいたい1時間ぐらいかかったでしょうか。これを終えると、今回は特別に火山噴火を防ぐための「火難除けのみ祭り」と土肥金山で亡くなられた方々へのお祈りがささげられました。これは全員でお祈りの言葉をとなえながら、全員で火山噴火封じのための月晶、そして、「土肥金山犠牲者の慰霊」のためのお札をビーチのあちこちに埋めるのです。

そしてさらに、「東日本大震災で身罷った御霊」を慰めるためのお祈りがささげられましたが、これは、全員が海に入って身を清めながら、東日本大震災で亡くなった方の霊をなぐさめるために、月晶を沖に向かって投げ込むというもの。

ちなみに、浜に埋めたお札ですが、Sさんは土肥金山で亡くなった方を慰めるため、このお札に土肥金山で亡くなられた方々の御霊を意味する言葉を筆書きしようとしたそうですが、これを書くとき最初、「犠牲者」と書こうとしたところ、どうしても書くことができず、やむをえず「功労者」としたら書くことができたといいます。

土肥金山で亡くなった方々は自分たちは、「犠牲者」ではないのだ、この国を潤わせた、むしろ「功労者」なのだ、という思いが強いようだ、とSさん。鉱山で亡くなった方々は、いやいやながら連れてこられて働かされていたのではなく、自らが志願し、この国を富ませるために金を掘りつづけていたところ、落盤などの不慮の事故で亡くなった……ということのようです。

なので、自分たちは犠牲者ではない、むしろ功労者だ、という強い主張が感じられるというのです。亡くなった方々の残留思念というものはそれほど強いものなのでしょうか。

ビーチには、我々以外にも、三連休を過ごすために伊豆にやってきて砂遊びなどをしている家族連れなども、何組かいらっしゃいましたが、我々が声を合わせてお祈りの言葉をとなえはじめると、びっくりしたようにこちらを見られる方もいました。おそらく、この人たちからみると、何か変な宗教団体がお祈りをしている、ぐらいにしか見えなかったと思います。

私自身、初めての体験だったので、ヘンな目で見られているんだろうなーと、ひやひやしていたのですが、「み祭りの言葉」を読み上げているうちに、だんだんと気にならなくなり、しかも、この国のためにやっているんだ、という使命感のようなものも沸いてきて、最後のほうでは、かなり意地になって、大きな声でみ祭り言葉を読み上げていました。

最後の東日本大震災の犠牲者と土肥金山で亡くなられた方々の慰霊の段では、Sさんの奥様にお神酒を吹きかけられた上で、海に入っていき、肩までつかって身を清めてから、月晶を海に投げ入れるのですが、正直、これも気恥しさはありました。

しかし、海に入り、祈りをとなえたあと、水晶玉を投げ入れながら、津波に飲み込まれた人たちのことを思いはじめると、不思議と気恥しさやら見栄やらはなくなってしまい、遠くに見える水平線の上に浮かぶ夕日に向かってごく自然に合唱している自分いました。

一行は、そのあとSさんからの最後のご挨拶を受け、解散しましたが、そのご挨拶の中で、Sさんは、今年いっぱいはまだまだ震災や火山噴火が起こる可能性が高い、ということをおっしゃいました。

次回は今年のこの会の締めくくりとして、阿蘇山でのお祈り会がとりおこなわれる予定ですが、それが終わってはじめて、「災害の当たり年」であり、「特別な年」とSさんが呼ぶ今年の危機を避けるお祈りがすべて終了します。

今現時点では、阿蘇のお祈りが終わっていないため、地震よりも火山の噴火のほうがまだ起こる可能性が高いとのことです。が、今回の祈りで、せめて富士山は噴火しないよう歯止めがかかってほしいもの。願わくば、地震も火山噴火も未来永劫起こってほしくないものです。

今回の経験は、非常に特異な経験でしたが、「無私」ということがどういうことなのかを自ら体験させてもらえることができ、大変勉強になりました。みなさんにも同じ体験をしてみてください、などと言うつもりはありませんが、こうした活動をしている人たちがいる、ということを知り、その活動を奇異な目でみず、理解していただけるよう最後にお願いしたいと思います。

お祈り会が終わり、我々は修善寺に引き上げましたが、翌日のこと、Sさんご夫婦とともに我が家に泊まられ、お祈りの会にも我々と同行したNさんからタエさんにメールが届きました。

そのメールには、翌日の朝、Nさんたちが、浜でディクシャをし、お祈りをしていたところ、海のかなたに虹がかかった、という驚きの言葉が書かれていました。それも一度だけではなく、二度、三度かかっては消え、都合4回ほども虹を見ることができたそうです。これだけ、何度も虹がかかるというのは珍しいことです。

おそらく、我々の祈りによって、解放された土肥金山や東日本大震災の霊たちが、あの世に旅立っていく途中、お礼にと、虹をプレゼントしてくれたのではないでしょうか。あるいは、虹そのものが、あの世に旅立っていく霊たちの「渡り橋」だったのかもしれません。

祈りは天に通じる、という言葉がありますが、信じる、信じないは別として、そういうことがある、ということを改めて実感でき、つくづく参加できてよかった、と思った私なのでした。

富士マイカー登山 ~富士山

昨日、富士の高嶺にはまた雪が降ったらしく、ほんの少しですが白っぽくなっています。これから涼しくなっていくにつれ、ますます白くなっていくのでしょう。そんな様子が毎日見れるのは楽しいことです。

この我が家から見える富士、すなわち静岡県側からみえる富士山は、通称「表富士」というのだそうで、逆にその裏側、つまり山梨県側からみえるのは「裏富士」と呼ぶようです。

富士吉田市にある正福寺というお寺に保存されている、「八葉九尊図」という地図絵(伝1860年作)には、「するが口表」という表記があるほか、江戸時代に甲府に派遣されていた幕府の役人が書いた地誌、「甲斐国志(1814年完)」でも、「南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…」と書いてあり、このように、江戸時代にはすでに富士山の南側が表、北側が裏とする考え方は一般的な認識だったようです。

これとは別に「裏富士」という言葉もあり、かの有名な葛飾北斎の「富嶽百景」では「裏不二」という作品や、同じく北斎の「冨嶽三十六景」の中にも「身延川裏不二」という作品があります。このほかにも、歌川広重の「不二三十六景」「甲斐夢山裏富士」などがあり、江戸の絵師たちにも、南側が表で、北側がが裏だという認識が浸透していたようです。

ま、山梨県側の方からすると、裏だ裏だと言われるのはなにやら不愉快なかんじがあるのではないかと思うのですが、世間一般の通称だと思っていただき、納得してもらうしかしかたがありませんね。とはいえ、山梨県民はあまり、「裏富士」という言葉を使わない、ということを聞いたことがあります。やはりそれなりにコンプレックスを持っていらっしゃる方も多いのではないかと拝察……

あまり山梨県の方の県民感情を逆なでにするような話題はやめましょう。

さて、歩いて富士山に登ることのできるシーズンもそろそろ終わりということで、これから先は、クルマで五合目まで行くことしかできなくなります。

しかし、富士山にクルマで登れるルートっていくつあるんだろう、また、冬になったら閉鎖されるんだろうが、いつまで登れるんだろう、と気になったので調べてみました。

すると、まず、登山口としては、吉田口、河口湖口、富士宮口、須走口、御殿場口の五つがあるようです。

吉田口というのは、富士山北西部にある富士吉田市から延びる有料道路、「富士スバルライン」の起点で、河口湖口というのは、同じく富士スバルラインへアクセスする道路が河口湖付近から出ているのでそう呼ばれているだけで、実質、この二つの登山口から登るルートは一つで同じです。

富士宮口というのは、富士山の南西部に位置する富士宮市から北東へ延びる、県道180号線の起点で、ここを発するルートは、通称「富士スカイライン」と呼ばれています。また、富士山南東部の御殿場口から延びる県道23号線(途中から県道152号線)も「富士スカイライン」と呼ばれていて、このふたつは富士山のほぼ真南にある「十里木高原」付近でぶつかりあい、ここから一緒になって北へ方向を変え、富士山五合目に向かいます。

この合流点から、富士山五合目までは、県道152号線という名称になっていますが、これも通称は「富士スカイライン」です。富士宮口からの180号線も富士スカイライン、御殿場口からの23号線(途中から152号線)も富士スカイライン、なので、ややこしくて仕方ありません。

実は、御殿場市と富士宮市を結ぶ区間と、この途中から富士山五合目まで向かう道路は全部合わせて、「表富士周遊道路」と呼ばれ、かつてのその愛称が「富士スカイライン」でした。かつては有料道路でしたが、公団の債務が完了したので、県に払い下げられ、無料区間になりました。

御殿場と富士宮を結ぶ区間を「周遊区間」と呼び、23号(152号)と180号の合流地点の富士山二合目から新五合目に至る区間は「登山区間」と呼ばれています。富士宮側、御殿場側、どちらから登っても五合目に到着できますから、あとはお住まいの場所次第で出発点を決めていただくことになります。

次の須走口。これは、富士山の東側を南北に走る、「東富士五湖道路(有料)」の須走インターチェンジあたりを始まりとするルートの起点で、このルートは「ふじあざみライン」こと、県道150線です。当然無料。

御殿場口。これはさきほど説明しました。御殿場市内から西へ延びる23号線を辿ると、西から来る180号線とかち合い、ここから五合目まで登れます。

なお、富士山南麓にある「富士サファリパーク」のすぐ北側からは、「南富士エバーグリーンライン」という有料道路があり、これは、東側の御殿場から来る県道23号線まで伸びており、23号線こと、富士スカイラインに合流できます。

その起点には、富士サファリパークや「富士山こどもの国」などのレジャー施設があり、富士市や裾野・三島市あたりから、これらの施設目当てにやってきた観光客を富士山に誘うための道路みたいです。名古屋方面から来る人にとっては、サファリパークなどで遊んだあと、御殿場まで行かずに富士スカイラインに行ける「バイパス道路」的な存在なので、時間を節約したいときは便利かもしれません。

以上を整理し、途中の行程距離、到達できる富士山五合目の高さを調べてみました。以下のとおりです。

吉田口(河口湖口)通称・富士スバルライン(有料) 約30km 2305m
須走口 県道150号、通称・ふじあざみライン、約12km 2000m
富士宮口 県道180号、途中から152号 通称・富士スカイライン、約36km、2400m
御殿場口 県道23号、途中から152号、通称・富士スカイライン約33km 2400m

ただし、吉田口は、河口湖起点、須走口は、富士五湖周遊道路・須走IC付近起点、富士宮口は、富士宮市内起点、御殿場口は御殿場市内起点です。富士宮口起点と御殿場口起点のルートは最終的には同じ場所まで行きますので、到達できる標高は同じです。

こうしてみると、一番距離が短いのは、ふじあざみラインということになりますが、須走へ行くにはどのみち御殿場や富士吉田を通らないといけないので、これらを起点とするとあまり距離は変わらなくなります。しかも、到達できる高さは2000mまでです。この高さだと、関東平野は見えないかもしれませんね。もう少し標高が欲しいところです。到着点の駐車場は駐車可能台数が少ないそうで、注意が必要です。

吉田口の富士スバルラインは、2300m付近まで登ることができます。位置的には富士山のほぼ北側になるので、南アルプス連峰や八ヶ岳などがきれいに見えるらしいです。行ったことがないのでよくわかりませんが、関東地方は見えないのではないでしょうか。マイカー規制のない週末は大渋滞を起こすことがあるそうなので、行くなら平日がよさそうです。

富士スカイラインは、一番高い標高までクルマで登れて、しかも無料というのがうれしいですね。しかもこの標高、2400mは自家用車で行ける日本最高地点だそうです。アクセス距離はそれなりに長くなり、ロングドライブになるでしょうが、おそらく眼下には駿河湾や伊豆半島が一望に見えるのではないでしょうか。もしかしたら、箱根山も見えるかも。

新五合目には約500台分の無料駐車場や、トイレ・土産物売場・食堂などの施設、山麓とを結ぶ登山バス(富士急)のバス停があるそうです。ただし、この登山道、一応全線二車線なのですが、中盤辺りからヘアピン状のカーブが連続するとかで、運転には注意が必要です。また、この道路も週末は大渋滞を起こすことがあるそうなので、これを通るならば、行く日を選んだほうがよいでしょう。

ちなみに、「五合目」と呼ばれているのは、富士スバルラインの終点だけで、富士あざみラインと富士スカイラインの終点は、どちらも「新五合目」と呼ばれています。なんで、新五合目がふたつもあるんだよ、と突っ込みたくなります。あとから出来上がったので、「新」なのでしょうが、どっちが先にできたのかは知りませんが、それならややこしいから、どちらかが「新々五合目」にすればよかったのに、と思うのですが。

いずれの登山道も、最近の富士山ブームで、週末にはとくに混雑が激しいようです。とくに、7月からの山開きのあとは、五合目でクルマを止めて、そこから頂上を目指すハイカーが多いことから、7・8月の特に混雑する時期には、マイカーでの登山を禁止しています。

たとえば、富士スバルラインでは、今年、7月14日~16日までの連続3日間と、8月4日~15日までの連続12日間、マイカーでの登山を禁止し、この間は、シャトルバスを運行しました。

富士スカイラインの富士宮口からのルートと、ふじあざみラインも、今年、7月13~16日、20~22日、7月27~8月19日、8月24日~26日と、マイカー規制しています。富士スカイラインの場合、マイカー規制時には、御殿場区間にある水ヶ塚駐車場より登山バスおよび登山タクシーが新五合目まで運行されます。

これらの夏季のマイカー規制は、例年実施日が違うようなので、注意が必要です。

さらに、いずれの登山道も、冬季になると積雪が多くなるため、いずれの登山道も、11月の下旬から4月の下旬までは、登山道の起点を閉鎖し、クルマが入山できなくなるようにしています。

冬の間は空気が透き通って、眺めがよさそうで、この時期がみなさん、ほんとうは一番登りたいときなのでしょうが、場所が場所だけに仕方がないところです。

さて、自分でドライブがてら富士山に登ってこようかな、などと考えていたので、いろいろ調べていたら、それだけで結構な分量になってしまいました。みなさんのご参考にもなりましたでしょうか。もし、これを読んで、富士山まで行ってみようと思われる方は、あとは、地図をしっかり見くらべてみていただき、どのルートで行くか決めてください。

あ、そうそう、五合目は寒いですよ。9月のこのころでも、最高気温は14~15度くらいのはずです。朝夕はもっと寒いでしょう。さらにこれが、10月、11月になると、0度近くにもなります。くれぐれも温かい恰好をしていってくださいね。風邪をひかないように、いってらっしゃーい。

沼津 ~沼津市

中央に見えるのは、沼津港大型展望水門「びゅうお」

昨日、沼津NEOPASAのことを話題にしましたが、私にとって、沼津というのは何かと縁のある土地です。学生時代に2年間を過ごした町であり、また初めての自動車免許を取ったのもこの町。さらに30数年を経て伊豆に住むようになり、何かと沼津に出かける機会も多くなりました。

この「沼津」という町の名前は、この地が富士山からの地下水のために、沼が多かったことに由来しているといい、「津」は港のことですから、沼の多い港、ということのようです。沼津市内に、浮島という地名の場所があり、現在でも水田の広がる農業地帯ですが、弥生時代(3世紀)にはここも沼地であり、そこを開発して、原始的な稲作が行われていたようです。

水が豊富であるということは、つまりは地盤が緩いということでもあり、このため東海道新幹線は沼津市内を通ることなく、東海道本線よりも北側の愛鷹山麓のほうに造られることになりました。

沼津は、港に適したなだらかな海岸線を持っており、このなだらかな海岸線に沿って道路ができ、かつ狩野川河口近辺の比較的水深のある海は漁港として発展したころから、陸運と海運の拠点として人の集まるところとなりました。

7世紀には既に郡衙や国衙(律令政治の元、政務がとりおこなわれた役所)があり、やがて「沼津宿」と呼ばれる宿泊街が形成され、近年になって周辺地域との合併により現在の姿になりました。

東京や横浜からも比較的近く、高速道路を使えば、一時間半から二時間で都内へ出ることができます。伊豆の入口の町としては熱海と同様に知名度が高く、海産物が豊富なので、ぶらっと東京から沼津へクルマを飛ばしてやってきて、おいしいお魚を食べて帰る、なんてことが比較的簡単にできることから、日帰り観光地として昔から人気のある町でした。

バラエティの大御所、タモリさんも、かつては沼津のマリーナに自家用のヨットを持っていて、休日になると来ていたようです。今はどうやら東京のほうのマリーナに舟を係留されているようで、かつてほど頻繁に沼津には来られないようですが、ご自分の船を操船されて沼津まで航海されたこともあるようです。

かつて、タモリさんの船が置いてあった沼津マリーナでは、「タモリ茶碗(カップ)」なるヨットレースが毎年のように開催されていて、今年もその4回大会が8月19日に開かれました。

タモリさんはこの大会の「言いだしっぺ」だそうで、今も「名誉会長」を務められており、今年の大会にも顔を出されたようです。過去には沼津市の観光親善大使もおやりになったことがあり、今も沼津にはよく来られるようで、町のどこに何があるかもよくご存知で、テレビでも何度か沼津の様子を語られるのを聞いたことがあります。

このタモリカップ、今年は過去最多の80艇が参加したそうで、そのエントリーは6種に分かれていて、そのネーミングはちょっと笑えます。

1. いいともAクラス 「大会主旨を正しく理解している船」
2. いいともBクラス 「まあまあ普通に走れそうな船」
3. いいともCクラス 「ちょっとだけ早そうな船
4. いいともDクラス 「そこそこ早そうな船」
5. イグアナクラスA 「わりと早そうな船」
6. イグアナクラスB 「速そうな船」

前夜祭や表彰式のときに一般公開のパーティも催されていて、事前に申し込めば参加できるみたい。今年は、「日本一のサルサバンド」なる催しもあったみたいで、楽しそうですね。来年もあるなら、参加してみようかしら。

芸能人としては、このほか山田邦子さんのお父さんが沼津出身だそうで、その関係で山田さんも過去に沼津の観光大使を務めています。

このほか、沼津に縁が深い人としては、作家の井上靖などもいます。井上さんは沼津出身ではありませんが、天城湯ヶ島の出身で、その出身校が旧制沼津中学校(戦後の静岡県立沼津東高等学校)であったそうで、2003年の文化勲章受章時に、沼津の名誉市民賞が授与されています。

初期の作品に「夏草冬涛」というのがありますが、これは沼津の学校に通っていたころの井上さんご自身の経験をもとに書き下ろされた青春記です。

このほか、太宰治も、1932年に、沼津南部の、静浦というところに滞在して「思ひ出」を執筆しており、また、1947年には西伊豆の三津で「斜陽」の第一章から第二章を執筆したそうで、沼津とは縁の深い作家のひとりです。

政治家では、総理大臣を務めた宮沢喜一さんが、戦前、大蔵省の官僚だった若かりしころ、沼津税務署の所長を務めており、政界に入ったのはこの沼津税務署長を辞したすぐあとだったようです。

また、明治時代の海軍大将で、西郷隆盛の弟の西郷従道も沼津に縁あります。太宰治が宿泊していた沼津南部の静浦あたりに別荘を持っており、このため、この近くにある瓜島という島は今でも地元の人から、西郷島と呼ばれているとか。

ちなみに、この静浦には、かつて皇室の沼津御用邸もあって、これは大正天皇のご療養のために建てられたもの。今は「沼津御用邸記念公園」という海浜公園として整備され、一般公開されています。

面白いところでは、漫画「サザエさん」のお母さんの「磯野フネ」は、沼津出身という設定になっているそうで、原作者の長谷川町子さんは、沼津といえば「魚の町」というイメージを持っていたのではないでしょうか。

このように、沼津という場所は、東京在住の人にとっては、「ちょっと」遊びに行ったり、気分転換に行ったり、あるいは療養に行ったりするにはちょうど良いほどの距離の場所にあるようです。

かといって、熱海や伊東のようにとりたててめぼしい温泉街があるわけではなく、温泉と言えば、沼津市の最南端にある「戸田温泉」がやや有名な程度。

このほかの観光スポットとしては、伊豆三津シーパラダイス、淡島マリンパークなどの水族館のほか、東名沼津インターチェンジを出たところの道路の両側に広がる、「沼津ぐるめ街道」などが有名なところ。

沼津の名産品といえば「干物」ということになるようで、このグルメ街道には、干物を売りにするお土産物屋さんと、大小の食事処が立ち並んでいて、ここへ来るだけのために東名を飛ばしてくる人もいるようです。

最近狩野川への津波の侵入を防ぐために造られた、沼津港大型展望水門「びゅうお」も最近の沼津でのメジャーな観光スポットです。このすぐ近くにある「沼津市場」には海産物のお土産品のお店やお食事処が立ち並ぶ一角があって、観光客で賑わっているそうです。残念ながら私はまだ行ったことがないので、今度行く機会があれば、またレポートしてみましょう。

このほかの観光スポットといえば、昨日レポートしたNEOPASAくらいでしょうか。

先日、このブログでも紹介した「大瀬崎」は、ダイビングをやる人にとってのメッカですが、一般観光客向けかどうかといえば少し疑問。でも、海水浴場としてはよく賑わっているようです。富士山もよくみえるポイントなので、隠れた観光スポットといえるかも。

また、山好きの人には、市の南西部にある香貫山という小高い山から南につらなる、通称「沼津アルプス」とよばれる山々は、手ごろなハイキングコースとして人気があるようです。これも以前、このブログで紹介しましたネ。こちらも私自身まだ未経験ですが、もう少し涼しくなったらチャレンジしましょう。

……と、ここまで沼津の「観光大使」になったつもりで、せいぜい頑張って沼津のアピールをしてきましたが、正直言って、伊豆や静岡県内にあるほかの観光スポットに比べて地味なイメージが強い町です。

しかし、地元に住んでいる人にとっては、そこそこ、というかかなり住みやすい町のようで、その要因のひとつとしては、やはり、第三次産業がさかんで、それに群がる大小の商業施設が多いこと、そして市の収入も大きく税金なども比較的安いことなどがあげられるでしょう。

戦後まもなく大手電気機械メーカーが多数進出したため、これが市の産業の核になり、もともと「海軍の町」として栄え、ここで育った中小企業が近年の大手メーカーの進出を支えることで、調和の取れた産業構造が形成されました。

首都圏の100km圏内である事や、沼津ICや国道1号などのメジャーな交通インフラが整っていることも有利であり、浮島沼辺りの国道1号沿いに倉庫街があって、こうした物流施設は地域の商業を支えています。

鉄道でも東海道本線と御殿場線の分岐点であり、交通の要衝です。新幹線駅そのものはないものの、隣接する三島市と富士市には駅があり、その中間位置にあることから、鉄道による県外からのアクセス性も良好です。

ただ、西湘バイパスが小田原箱根道路と直結するなど、競合する相模湾岸の道路の整備の結果、首都圏から沼津を経由しないで伊豆半島へのアクセス人が増えているといい、そのへんが観光地として今一つぱっとしない理由なのかもしれません。

このほか、全国紙の支局、郵便事業の統括支店、東京電力の支店が置かれ、金融機関もスルガ銀行と静岡中央銀行の2行が本店を設置しています。百貨店や大規模な商店街などがあり、商業の売上高も静岡や浜松に次ぐ規模であり、三島市や裾野市、駿東郡清水町、長泉町と市街地が連続し、都市圏を形成することで、静岡県東部の拠点都市として発展してきました。

ただ、沼津市の中心部、沼津駅の周りは、最近なんだか元気がありません。沼津駅の南に少し離れて位置する「アーケード名店街」は、かつては高級商店の並ぶ通りだったといいますが、今は「シャッター通り」化しています。個人経営の店が多いことや、最近西隣の富士市のほうが元気になり、あちらへ人が流失しているということで、沼津市全体の人口が減少しているためのようです。

先日も、沼津駅の南側に長年鎮座していた、「西武百貨店」が撤退するという発表がなされたばかりで、沼津中心街の地盤沈下は歯止めがきかない格好で、その活性化などは遠い夢物語のように思えます。

とはいえ、大規模な工場や商業施設が多いためか、市の財政状態至って健全なようで、人口減少に伴う衰退化を防ぐために、周辺市町と政令指定都市構想の話も出てはいるものの、周りの市町もこれまた財政が健全なために、合併なんて必要ないじゃん、という雰囲気になっているみたいです。

県内外の他の市町村では財政も悪化しているところが多くなっている中、なんとも贅沢なことです。

南海地震の発生により、駿河湾一帯の町が壊滅的なダメージを受ける可能性もあることなどが、取沙汰されていることでもあります。必ずしも政令指定都市になる必要はないかもしれまんが、今のうちに、協力できるところは協力しておいて、来るべきときのための備えをするとともに、お互いの「町おこし」を協力してやる、という機運が生まれてほしいもの。

せっかく第二東名という大きなインフラが整備されたのですから、これを機に津波被害の出るおそれのある現在の町の中心部を、東名高速や第二東名のある、より山側へ移転し、新たなる地域活性化を図る、なんてのもいいんじゃないでしょうか。

もっともあんまり沼津の中心街が北へ行くと、修善寺に住む我々のアクセスがしずらくなります。しかし、もっとおしゃれな町ができるなら、少々遠くなっても大歓迎です。沼津市長さん、少し考えてみてもらえませんか?

NEOPASAにて ~沼津市

昨日、私が見た富士山の初冠雪はやはり本物でした。昨年よりも12日も早く、平年と比べても18日も早いということです。過去でもっとも遅かったのが、1956年の10月26日、逆に最も早かったのが、2008年の8月9日だそうです。

富士山の初冠雪が早いときには、厳冬になることが多いのだそうで、今年の冬支度は早めにしっかりとしておきましょう。

NEOPASAへ

さて、先日、今年の4月に開通した、第二東名の「駿河湾沼津NEOPASA」へ行ってきました。沼津市街を1号線を使って西に行くこと10分ほどいったところの交差点を右折、昔の「根小屋街道」という愛鷹山のふもとを東西に走っている道をめざします。

この街道沿いに「井出橋」というバス停があるのですが、そのやや東側に愛鷹山方面に登って行く道があり、これを延々と登っていくと、目的地に着きます。

実は、この根小屋のすぐ近くに私は学生時代に下宿していて、このあたり一帯は非常に懐かしい場所。なので、どこからアクセスできるのかは、だいたいわかっていました。しかし、初めて行く人には、これはわかりにくいかなー。

根小屋街道には一応看板は出ているし、一号線から右折する場所さえ間違えなければ、たぶん初めての人でも行けると思います。が、そのかんじんの一号線には案内看板はなかったように思います。

さらに、根小屋街道から山を登って行く、アクセス道路の狭さはなんとかならんのでしょうか。周囲りには茶畑がたくさんあって、この茶畑の手入れをする農家の方の農道も縦横に走っているのですが、この農道と比べても大差ないほどの広さ。下ってくる車とはすれ違うのもやっとという場所もあり、運転が得意でない人にとっては、結構な難所です。

たぶん、このアクセス道路の所有者は静岡「県」なのだと思いますが、せっかく国(NEXCO)が大規模な施設を整備してくれたのだから、そのアクセス道路ぐらいもっとお金を出して、お客さんを呼ぶ工夫をしてはどうかと思うのですが。

もっとも、道路をきれいにしてお客さんが増えても、儲かるのはNEXCOばかりで、県にはたいしてお金が入らないので、整備を渋っているのかもしれませんが……

さて、根小屋街道から山を登ることやはり10分ほどで、目的地のネオパーサが見えてきます。このサービスエリア、第二東名の上り線と下り線の別々に作られていて、それぞれ独立しています。

従って、高速道路利用者は、上下どちらかのサービスエリアしか利用できません(歩いて行けば行けます)が、ふもとから上がってくる一般利用者は、両方のサービスエリアにクルマを乗り入れて利用できます。

山道を登り切ったところのT字路には、「上り方向SA方面」と「下り方向SA方面」の矢印看板がありました。上り方向のSAのほうが、より高い標高の場所にあるため、我々もまず、こちらへ行ってみることに。

第二東名の上下線の下を通るトンネルを抜けてすぐのところには、ふもとからの一般客向けの駐車場スペースがありましたが、そもそも地元のお客さんの来客は期待していないのか、駐車スペースは高速道路利用者のものに比べるとかなり小さいようです。

それでも、50台分ぐらいの容量はあるでしょうか。もしかしたら、混雑時には、高速道路利用者用の駐車スペースを少し解放するのかもしれません。

この駐車スペースは、ネオパーサ沼津の上り線の山の手側にあるため、ネオパーサにはその裏口から入ることになります。

ソラノテラス

早速、中に足を踏み入れてみると、もう夏休みも終わり、9月に入っていることもあり、お客さんはそれほど多くありません。お昼時を少しすぎた1時ころの入場でしたが、レストランやフードコートもそれほど混雑しておらず、我々が入ったレストラン、「ソラノテラス」でも窓際席に座ることができました。

このレストラン、窓際に座ると窓から駿河湾が一望に見え、左手には沼津市街とそれに続く伊豆半島の大瀬崎あたりまでの海岸線が長々と見える、なかなかの眺望。右手に目をやると、富士市方面から清水方面の弧をえがいた海岸線もその一部が見え、夕方にくると、きっとロマンチックな夕日がみえることでしょう。

レストランメニューはというと、それほど豊富とはいえませんが、「産直」を意識して地元産の肉や魚を使った「中流以上」のメニューが並びます。私はおなかがすいていたので、メンチカツカレー、タエさんはハーブ風味の鳥肉サラダ?だったかな、正式名称は忘れましたが、ヘルシーメニューを注文。

感想としては、メンチカツカレーのほうは、まあまあ……かな。特段おいしいというわけでもなく、まずくもなく。ですが、期待していたメンチカツが予想以上にしょぼかったのが残念。カレーのルーは普通です。

一方、タエさんのほうの鶏肉料理はおいしかったらしく、おいしいおいしいを連発していました。彼女のほうは満足のいく味だったようで、こいうところへ来たら、やっぱり看板メニューを選ぶべきだったか、と少し後悔しました。

店の雰囲気もよく、店員さんたちの応対もよく教育されているな、と感じられて好印象。ただ、高速道路にあるレストラン、ということで、高級すぎてもお客さんに敬遠されるし、低俗すぎても評判は得られないだろうし、ということで悩んだ末にこうなった、というかんじで、なんとなく中途半端。

お店の雰囲気としては、「中流以上」を目指したかったのでしょうが、高速道路の利用者が全員こぎれいな恰好をしているはずもなく、店内では「普通」の恰好をした人がほとんどで、その中には、時折サンダル履きのおじさんや、短パンにTシャツの若者もいたりして、「ちょっといい食事」をしに来た方には少々興醒めかも。

別にそういう方々が悪いわけでもなんでもないのですが、所詮は高速道路のレストランです。そもそも高級レストランを意識する必要もないのでは、と個人的には思いました。そうそう、書き忘れれるところでしたが、このレストラン、値段も結構高級でした。入口で値段を見た人はあっ、これはやや高めのお店だな、とすぐに感じると思います。

その高めのメニューを見た時点で、サンダル履きのおっさんや、Tシャツの若者が入るのを遠慮してくれればいいのですが、そういう人たちを拒めないのが、こういうお店の宿命かな。いずれにせよ、私的にはちょっと疑問符……のお店でした。

施設雑感

その後、レストランを出て、施設全体を見回しました。できたばかりのこの施設、すべてが新しくてなかなか雰囲気の良いものでしたが、ただ、全体的な構成としては、これまでのSAとは大きくは変わらないかんじ。

一階にフードコートがあって、ここでは「庶民向け」の麺類や丼物、パスタなどの洋食モノ屋さんがずらりと並びます。すぐその隣にはお土産物屋さんがあり、地元の野菜などの直売コーナーもありましたが、このスタイルはどこのSAでもあるもので、特段珍しいものではありません。

お買いものをしない人の無料休憩スペースや、建物の外でアイスクリームやたこ焼きなどのファーストフードのお店があるというパターンもこれまでのものと同じで、あまり目新しさは感じられません。

コンビニやカフェレストラン、ドックランなどの施設も併設されていて、これまで全国のあちこちにあるSAで採用された施設すべてが、ここに「洩れなく」網羅されているかんじ……。

NEXCOさんとしては、このネオパーサ沼津は、満を持して開通した第二東名の目玉的な施設であるだけに、これまで培ってきた技術の集大成、としたかったのだと思いますが、その意気込みはまあ認めるとして、しかし、何か目新しさがあるか、と聞かれたら、何ら新しいものがないのが非常に残念でした。

もっとも、高台にあって、駿河湾が一望に見えるという立地はすばらしいもので、三階の一部には展望台が設けられており、ここからの眺めは秀逸でした。しかし、この展望台もなぜ、ここだけなのか疑問。ほかにも眺めを楽しめる場所はたくさんありそうなのに、そういう場所は閉鎖されていて、お客さんが登れるのは畳6畳分ほどのスペースのこの展望台だけなのです。

……というわけで、全体的にみた印象は、かなり残念。私としてはやはりもっと、「目新しさ」を出してほしかったかな。これまでのSAにはないものを!と期待していただけに、正直言って失望しました。

ただ、駿河湾の眺めは秀逸なので、閑があれば、また来てもいいかな、とも思うのですが、ここへ来ておいしいものを食べ、ショッピングを楽しんで、というレジャー施設として最も重要な要素にいまひとつインパクトがないだけに、それだけが目的とすると、わざわざここまでくる必要はないな、と思いました。

下り車線側NEOPASA

さて、ネオパーサ上り線はだいたい見たので、これを後にし、帰りにはネオパーサ下り線のほうも訪れてみました。こちらは、上り線が二階建だったのに対して、一階平屋建てになっていて、その分、建物面積はかなり広くとってありました。

レストランとフードコート、お土産物屋さんを中心とした構成は上り線とほぼ同じでしたが、レストランのほうは、ステーキ・ハンバーグが中心のどちらかといえばファミリー向けのお店が入っていて、好印象。フードコートのほうも、食べてみたい、と思うお店がこちらのほうが多く、全体的に上り線よりもバランスが取れているような気がしました。

二階を廃したことで、SA全体も広々としたかんじがあり、上り線ではそのすぐ真下に広大な駐車場が見えて、せっかくの駿河湾の眺めがスポイルされたかんじがありましたが、下り線側では、邪魔な駐車場は建物の西側に配されているので、レストランなどの窓からはすぐ目の前に広がる茶畑とその先に広がる駿河湾が一望にみえて、開放感があります。

さらに西側に広がる駿河湾の海岸線も、この下り車線側SAからのほうがよく見え、ここからは季節によっては、夕日が水平線に沈むのも見えそうです。

上下線で、こんなに違いがあるのか~、それなら、下り線側に最初にくればよかったと思ったのですが、後の祭り。しかし、そうだとしても、下り線側もそれほど目新しいものがあるわけではなく、グルメやショッピングを楽しむために地元の人が大勢訪れるか、というと疑問符を出さざるを得ないところは、上り線側と同じです。

私なら……

私なら、ここをどうするかな~と考えてみましたが、私にもし、ここを改良する権限が与えられたならば、やはりもっと「一般」のショッピングができるモールを作るでしょう。お土産もの売り場など、他のSAと競合するようなものは最小限にしてしまい、アウトレットモールのようなものを目指すのではないかな。

また、食べ物屋さんも、モールに合わせてもっとバラエティに富み、よりおしゃれな専門店を増やしましょう。ショッピングとグルメ、これはどんな施設でも最も大事なアイテムだと思います。

その上で、子供向けの小さな遊園地や動物園みたいなものもあってもよいし、ともかく広大な土地があるのですから、もっと知恵を絞ればかなり面白いものになるのではないでしょうか。

駿河湾と伊豆半島の雄大な眺めもウリです。もっと展望台を増やし、「撮影スポット」として全国のアマチュアカメラマンにも宣伝できるような場所にすれば、その方面からのお客さんも呼び込めます……

思うに、NEXCOさんは、民営化された以後もかつての道路公団のお役人体質から脱却しきれていないように思います。せっかくの国有財産をタダで?使わせてもらっているのですから、もう少しその資産を有効活用すべきです。

全国にある高速道路のSAがどこもかしこも金太郎飴みたいに同じ、というのは解せない話。中日本、西日本、東日本と三つの会社に分割されたのに、それぞれの独自性を生かした経営をしているかといえば、あいかわらず、その前身の道路公団の体質をひきづったままというのでは、国民は納得しませんよ。

高い高速道路代を払ってSAを利用している人もけっして満足してはいないのではないでしょうか。もっとも、これまでのSAと同じレベルなので、こんなもんかな、とみなさん思っていらっしゃるでしょうが。かといって、これはすごい!また来たい、という利用者がどれほどいるかと思うとはなはだ疑問です。

……と、今日は、少し辛口のブログになってしまいました。期待していた施設が思ったほどではなかった、というのはよくある話ですが、それにしても役人、もしくは元役人が作ったものにはそういう施設が多いような気がするのは私だけでしょうか。

案外と、そういう施設の全国的な見直しが、この国の活性化につながっていくのかも。今度NEOPASAに行って、少し改善がみられたらまたレポートしましょう。今のところ、次にいつ行こうかなどと、さっぱり考えてはいませんが……

初冠雪?

今朝、庭木の水やりを終え、なにげなく富士山を見たら、何か様子がヘンです。なんだろうなーと思ってよく見ると、どうやら山頂のあたりが白くなっています。えっ!?これってもしかして初冠雪? と家の中に戻ってテレビをつけてみましたが、特段ニュースでは触れていません。もしかしたら気象庁が定めるところの「初冠雪」の定義に至らないほどの少量の積雪だったのかもしれませんが、雪は雪です。

巷ではまだまだ猛暑が続いているようですが、富士山の上にはもう冬が迫っているんだなと、季節の移ろいの速さを思います。

ちなみに、昨日11日で、我々が伊豆へ引越ししてきてちょうど、半年が過ぎました。季節の移ろいもさることながら、時の経つことの速さも、齢を重ねるごとにより一層感じるようになってきました。

京浜急行

さて、お話は変わり、先日、テレビで横浜や横須賀のグルメ特集をやっているのをみていました。その中で、横須賀在住の方が、「横須賀って、都内から遠いように思うけど、意外に近いんだよね。一時間もかかんないはずだよ。確か45分くらい。」とのたまわっていました。

へえー、ほんとかなーと思って調べてみると、確かに、京浜急行で横須賀中央から品川までは、だいたい45分ぐらいで着くみたいです。これに対して、JRの横須賀線経由で、品川へ行くとすると、1時間10分ほどもかかるようです。

ただ、横須賀線の場合、横須賀を出るとやや西北に進路を変え、鎌倉経由で東京方面に向かうので、距離の面ではやや分が悪いのは確か。

とはいえ、神奈川の片田舎(横須賀在住の方、すいません)から、都内までは50km以上あるはずですから、その距離をわずか45分でも都内へ出れるというのは、やはり早い!と思わざるを得ません。

ほかに何かからくりがあるのかな?と思ってちょっと調べてみました。

すると、京浜急行が速い理由のひとつとしては、横須賀から品川までの停車駅が少ない、いわゆる特急列車が多いためのようです。JR横須賀線の場合、成田エクスプレスや湘南ライナーがこの路線を走っていますが、特急・快速電車のため、横須賀には停車しません。

普通列車の場合、やはり鎌倉を経由するのがネックとなり、品川まで一時間以上かかるみたいで、こうなると、地元の人はやはり京浜急行しか使わないですよね。JRは運賃も高いみたいですし。

と、にわか横須賀市民になって、そんなことを調べてみていたところ、あるサイトで、JRなどのほとんどの列車が「狭軌」のレールを使っているのに対し、京浜急行が走っている線路は「広軌」を使っている、というお話が掲載されていました。

どうやら京浜急行の線路の幅は、JRの線路幅よりも広い、「広軌」と呼ばれるもののようで実際の線路幅は、広軌軌道のほうが1435mm、JRの狭軌軌道のほうが1067mmと、結構差があり、なんと35.8cmも違うではないですか。

だから、何ナノ?という話ですが、一般に、鉄道路線というのは、線路の幅が広ければ広いほど、スピードの出る電車を走らせやすいのだそうです。いまや九州、鹿児島まで伸びた、新幹線の線路もこの広軌軌道だそうで、なるほど京浜急行が速いのもそれが理由かな?と思ったりもします。

じゃあなんで、JRの在来線ももっとスピードの出る広軌軌道にしないんだろう、そもそも、レールの幅ってJRと他の私鉄ではなぜ違うんだろう、ということなのですが、これには話せば長いお話があるようなのです。

鉄道ことはじめ

そもそもの話は、明治時代のはじめ、日本に初めて鉄道が敷かれたときにさかのぼります。

江戸時代の末には既に、薩摩藩や佐賀藩、江戸幕府などがそれぞれのテリトリーで鉄道を走らせることを計画していたようですが、いずれの計画も幕末の動乱でとん挫し、実際に具体的な計画がまとまったのは明治維新が始まってからになります。

この当時、日本を含むアジアでは、欧米列強諸国がこれら東洋の国を植民地化しようと虎視眈々と狙っていましたが、明治政府の方針としては、敵に弱みを見せないためには、自分を強く見せることが一番、というわけで、いわゆる「富国強兵」政策を推し進め、できるだけ早く列強のような工業力をつけることを国家目標としていました。

しかし、明治の初めのころの日本人というのは、そのまえの250年以上に及ぶ江戸時代の鎖国政策のために、外国人を見たことがあるなどという人は、人口比率からすると、皆無に近い状態でした。ましてや、海外の文物といえば、ゾウやトラが見世物になるくらいで、一般庶民が見ることができたものといえば、せいぜい西洋ガラスの器ぐらい、という時代です。

浦賀に黒船が入ってきたのを見ただけで、国中をあげての大騒ぎになったくらいですから、そんなところに、西洋でも最新式の鉄道なんかを持ってきたら、みんな驚きでぶっ飛んでしまうのではなかろうか、と凡人の私などは思うのです。

ところが、時の権力者、大隈重信・伊藤博文らの偉人が私と違うのは、逆に、こういう最新式の西洋の道具を日本に持ち込めば、みんなその先進性にびっくりし、こういうもんか~へへーと恐れ入るに違いない、と踏んだのです。

逆に国民に西洋というものがはっきりと目に見えるようにするほうが、文明開化が進めやすいだろう、という逆転の発想?で鉄道の建設を行うことにしたらしいのです。

とまあそれは表向きの理由で、実際のところは、それまでの日本では海運が物流の中心でしたが、今後国を栄えさせていくためには、陸上での貨物や人員の輸送量を効率的に増やす必要があると考えたようです。

で、鉄道の導入を決めたものの、まず最初にどこにしようかと考えたところ、最初は、東京と京都・大阪・神戸などの関西の間を結ぶ路線と、その途中の米原から日本海側の貿易都市である敦賀へ至る路線が候補にあがりました。

ところが、これだけの距離に鉄道を敷設しようとすると莫大な金がかかります。明治新政権は、このころ実施した、版籍奉還と廃藩置県に伴って必要になるお金、約2400万両(現在の価値でおよそ5600億円)を、各藩に代わって肩代わりしており、多額な負債をかかえていました。

そんなところへ、長距離の鉄道の建設に回すお金なんてあるわけがない、ということで、大蔵省からは建設予算が下りませんでした。一方、「富国強兵」を実現するためには軍隊の整備も進める必要があり、鉄道なんてちゃらちゃらしたもんより、先にそちらの強化をおこなうべきだ、と西郷隆盛などを中心に反対の声も上がっていました。

民間からの資本を入れてでも建設をおこなうべきだという声もあるにはありましたが、とりあえず、庶民に実際に鉄道を見せれば、その素晴らしさが理解され、お金を出そうという人も増えてくるに違いない、ということで、とりあえずのモデルケースになる区間を決めようということになりました。

そして、首都東京と港がある横浜の間、29kmの敷設を行うことが1869年(明治2年)に決定されます。

で、この日本初の鉄度の敷設にあたっては、その線路の規格を決めなくてはなりません。当然、すべての基本となる、線路幅を決めるのが先、ということになります。ところが、その線路の幅を、なぜ欧米で主流だった1435mm(標準軌=広軌)にせず、これよりかなり狭い1067mm(狭軌)にしたのかについては、はっきりした理由を示した公的文書は残っていないんだそうです。

ただ、当時新政府の財政担当だった大隈重信が、「軌間」というものの重要性を理解しておらず、そのころの新政府の技術顧問だったお雇い外国人が、「予算や輸送需要を考えれば、狭軌を採用して鉄道を早期に建設すべきだ」と主張したという事実があるようです。

大隈重信といえばご存知のとおり、早稲田大学を創設した人物ですが、もともとは国学が専門で、憲法論などには詳しかったものの、技術とか科学とかは専門外です。所詮は「教育者」にすぎず、バリバリの文系人間ですから、そんな人間に、鉄道の幅の広い、狭いがその後の国是にどう影響してくるか、といった想像力あるわけがありません。

結局、大隈重信は、これらの外国人のもっともらしい説得に押されてしまいますが、後年、日清戦争や日露戦争が勃発したとき(このときもうすでに大隈は下野していましたが)、大陸で広軌の鉄道が大量の物資を運搬する実情を見聞きし、国内では狭軌を採用した当時のことを述懐して、「一生の不覚であった」と述べているそうです。

もっとも、当時の日本政府の財政事情を考えれば、ヨーロッパやアメリカの本線用の車両を購入して輸送することはかなりの無理があり、必ずしも日本政府の判断が誤りだったとはいえません。しかし、このときのあやまりが、まさか150年以上も経った現代の日本まで持ち越されようとは大隈も考え及ばなかったでしょう。

あいかわらず狭軌鉄道

それにしても、こうして最初の決断で決められてしまったレール幅1067mmの狭軌鉄道は、スピードや輸送力では、欧州など多くの国の鉄道で採用されていた広軌1435mm鉄道に劣るものとなってしまいました。

その後もこの1067mm軌間を1435mmという世界標準に改めようという運動が何回か起こりましたが、度重なる戦争や、戦後も政争や予算の問題でなかなか実現せず、結局、日本において標準軌を採用した国鉄路線が生まれるのには、1964年の東海道新幹線開業まで待たねばなりませんでした。

東海道新幹線が最初に計画されたとき、この新線についても当初、単純に東海道本線を複々線化すればよいとか、狭軌新線にすべきだという案が出ていましたが、戦前に広軌化計画に携わったことのある官僚で「十河信二」という人が総裁に就任していたこと、また、鉄道技術研究所のメンバーが標準軌新線ならば東京~大阪間の3時間運転が可能であると公表したことなどが影響し、標準軌高規格新線での敷設が決定しました。

その後はご存知のとおり、いまや九州は鹿児島まで新幹線軌道が造られ、北海道まで伸びるのは時間の問題という時代になっています。

しかし、新幹線以外の日本の大多数の路線は、今日に至るまで、あいかわらず1067mmの狭軌のままです。1067mmは、3フィート6インチなので、一般に「三六軌間」とも呼ばれています。

明治初頭の大隈重信の決断後、今の国鉄の前身の「鉄道院」の時代には、その総裁になった後藤新平の指示で、標準軌への改軌の技術的な検討もされたようですが、狭い軌道のままのほうが、列車が通っていない地方へ鉄道を延伸しやすく、これを指示する地方代議士が多かったため、こうした政治的な理由から、一ランク低い規格のまま、全国的な鉄道網の建設が続行され続けました。

しかも、「地方鉄道法」という法律が1919年(大正8年)にでき、使用できる最大の線路幅が狭軌に制限されてしまったため、私鉄にも狭軌が広がりました。この地方鉄道法は、民間の会社が敷設した鉄道を、あとで政府が買い上げ、国有鉄道に一体化することを前提にして作られた法律でした。

国有鉄道が狭軌であったことから、戦争などが勃発した場合などに大量の貨物輸送を行う必要が生じた場合、国有鉄道から私鉄への貨車の直接乗り入れが可能になるように、ということでこの法律が定められたのです。

関西では広軌軌道が主流

ところが、地方鉄道法が定められたあとの、1921年(大正10年)には、「軌道法」という新しい法律が制定されました。この法律は、「道路に敷設される鉄道」についてのきまりごとを示したもので、元来は主として路面電車を対象としたものでした。この法律は現在も生きており、近年ではモノレールや新交通システム等にも適用されています。

この、軌道法を、拡大解釈して、地方鉄道法によらず、広軌(標準軌)を数多く敷設したのが関西の鉄道会社です。当時の私設鉄道法では標準軌の路線敷設は認められておらず、地方軌道法により狭軌の鉄道しか建設できませんでしたが、この軌道法ができたことで、路面電車に本来適用される軌道法を拡大解釈して路線を建設したのです。

一説によると軌道法の監督省庁である内務省が、関西の電鉄事業に好意的であったということです。道路に作るんなら、幅が広い鉄道でもいいよ、と逃げ場を作ってやったのです。

広軌路線であっても、車両の大きさの限界は国鉄と同じか、それ以下に制限されていましたので、逆にこのことで、トンネル断面積や駅の設備などは、狭軌のものと同じにすることたでき、あまり建設コストに差がでないという結果になりました。

この結果として、関西では軌道法による1435mmのレールを高速で走る「路面電車」が続々と開業しました。また、関西だけでなく、全国の地下鉄路線も「路面電車」として1435mmの広軌で敷設されるようになりました。

関西で広軌を採用した私鉄の中でもとくに高速化の技術を発展させたのは、京阪電気鉄道(現阪急鉄道)で、とくに新京阪線(現:阪急京都本線)は、鉄道が完成した当初、その当時の国鉄最高の特急列車「燕」を山崎付近で追い抜いたという逸話が存在するほどでした。

近畿日本鉄道も当初は、狭軌を採用していましたが、伊勢湾台風により名古屋線が壊滅的打撃を受けたのを機会に、当時の社長が周囲の猛反対を押し切って、路線を復旧させるときに、標準軌化を断行しました。

関東での広軌鉄道

一方、関東圏では、この二つの法律ができる前から、広軌鉄道による鉄道を敷設していた会社がありました。それが、1899年(明治32年)、六郷橋~大師間に路面電車を開業させた大師電気鉄道で、これが現在のの京浜急行電鉄の「大師線」です。

京浜急行は、国鉄の標準軌への改軌を見越して、広軌鉄道を敷設したといわれています。法律改正によって、地方鉄道は狭軌にしなければなりませんでしたが、京浜急行は「路面電車」であったため、「軌道法」の適用になり、国鉄の改軌が行われなかったことを尻目に、その後も、電気鉄道・路面電車・地下鉄の分野それぞれで1435mm軌間を急速に普及させました。

このほか、かつては東京のあちこちで見られた路面電車を保有していた、東京都電(現在はほとんどが廃止され、路面電車は荒川線だけ。一部は地下鉄として現存)は、1372mmという、狭軌以上広軌以下、という中途半端なサイズの路線を採用。このため、広軌を採用していた地下鉄と昭和中期に相互直通運転を行う際の対応で苦慮しました。

また、東京都電に乗り入れていて、同じく1372mmゲージを採用した京王帝都電鉄(現:京王電鉄)も、都営新宿線との相互乗り入れを行う際に広軌への改軌を東京都から打診されたものの、当時の急激な沿線の発展による乗客の急増に対応するのに手一杯で結局実現できず、今もあいかわらず、1372mmという特異な軌間を使い続けています。

このほか、以下に示す、関東地方の私鉄は、今もJRと同じ1067mmの狭軌を採用しています。

東京地下鉄(銀座線、丸ノ内線を除く)
関東鉄道(全線)
京王電鉄(井の頭線)
東京急行電鉄(世田谷線を除く)
小田急電鉄
江ノ島電鉄
箱根登山鉄道(小田原駅~箱根湯本駅間のみ)
西武鉄道
東武鉄道
秩父鉄道
相模鉄道
東京都交通局(都営三田線)
東京臨海高速鉄道(りんかい線)
首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス線)
富士急行

わが伊豆を南北に走る、伊豆急行、伊豆箱根鉄道も狭軌路線です。富士山や海を臨みながらのんびりとゴトゴトと走るその景色は、田舎の風景にはぴったりですが、東京都内を走る電車のほとんどが、今もこうした古い時代に決められた幅のレールの上を走っているのは、なにやら時代遅れのようなかんじもします。

京浜急行のようにスパッ、と広軌に切り替えられないものなのでしょうか。お金はかかるでしょうが、広軌化による時間の短縮は、この国の活性化にもつながるのでは。

新しい総理大臣が誰になるのかわかりませんが、そのへんのこと、ちょっと考えてみてもらいたいものです。