コークと呼ぼう!

ゴールデンウィーク明けの昨日、冷蔵庫の中身が乏しくなったので、買い出しに出かけました。

途中、修善寺温泉街を通ったのですが、つい先日までの喧騒とはうってかわって、人もまばらのひなびた温泉街に戻っており、あぁようやく静かになった……と、ホッとしたような寂しいような妙な気分になったものです。

観光地に住んでいるというのは、人に自分がどんなところに住んでいるかを説明する時にはわかりやすくて良いのですが、いざ実際に住んでみると、有名な場所であるがゆえの喧騒に巻き込まれることも多く、これはこれで大きなデメリットでもあります。

しかし、こうした観光地が人々の耳目を集めるというのはやはり、景色なり風情なりの何等かの「美」があるがためであり、そう考えると、今住んでいる土地柄がことさらのように誇らしく思えて来たりします。

こういうのが「地元意識」というのかなぁと、引っ越してきて1年あまりに過ぎないのですが、そうした自覚が芽生えている自分を最近不思議な気分でながめていたりします。

さて、今日の話題です。今日は、かの有名な清涼飲料水「コカ・コーラ」が誕生した日だそうです。

アメリカで薬屋を営んでいた、ジョン・ペンバートンという人が、カフェインとコーラの木の抽出液、そして多数のオイルを使って「発明」したもので、後年、その販売権を獲得したエイサ・キャンドラーが、1890年これを商標登録し、販売を開始しました。

1890年というと、日本では明治23年であり、この年、第1回衆議院議員総選挙が行われ、東京・横浜で、日本で初めて電話交換業務が開始された年であり、ようやく江戸時代の眠りから覚めて、文明国として本格始動をし始めたころのことです。

そんなころにもう、アメリカではこんなハイカラなものを飲んでいたのか、と思うのですが、実は、このコーラ、その5年ほど前に「薬用酒」として売り出されたものだったそうです。

発明したペンバートンは、ジョージア州、アトランタの人です。アトランタは、このときからおよそ20年前におこった南北戦争(1861~65年)が終結した土地でもあり、ペンバートン自身も、南部連合国の軍人でした。

戦後、ジョージア州のコロンバスで薬剤師を営むようになっていましたが、ペンバートン自身も南北戦争で負傷しており、その後遺症に苦しみ、モルヒネを常用するようになりました。

しかし、その飲みすぎから中毒になり、化学者でもあった彼は、ワインに「コカイン」と「コーラ」のエキスを調合した「フレンチ・ワイン・コカ」でこの中毒をコントロールすることを思いつき、その研究を始めました。

このころのアメリカは、南北戦争の戦後まもなくのことであり、退役軍人の間では、薬物中毒やうつ病、アルコール依存症が蔓延し、南部の女性は神経衰弱症で苦しむ人が多かったといいます。

そんな中で、彼の作ったこの「フレンチ・ワイン・コカ」は、特に女性や、神経衰弱や胃腸、腎臓の痛みに悩むデスクワーク従事者、神経強壮薬や刺激剤を必要とする人達などに効果があると宣伝され、「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博しました。

コカ・コーラの誕生

「コーラ」というのは、アフリカの熱帯雨林に植生するアオイ科の常緑樹で、アーモンドやコーヒーの樹に少し似ています。この木の種は、「コーラ・ナッツ」と呼ばれるもので、大きさはやや小さめのクリの実ほどの大きさで白色から赤色に変色します。

アフリカの部族ではその昔、族長や客に出される貴重品であり、実を少しずつ噛み砕いて楽しむ嗜好品として用いられました。噛むと強い渋みを感じますが、1~4パーセント程度のカフェインを含んでいるため、一時的に空腹感を減らすことが出来ます。

しかし、産地であるアフリカでは一般にはほとんど消費されず、嗜好品の多くが禁じられているイスラム文化においては、コーラ・ナッツだけは唯一許された興奮剤であったため、古くからサハラ交易によって中東に渡り、市場などで取引されていました。

一方、「コカイン」というのは、「コカ」というアメリカ原産の樹木の葉っぱから抽出できる、いわゆる麻薬です。現在でも南米諸国ではその葉を茶として飲用するなど、一種の嗜好品や薬用として昔から利用されています。

コカの葉自体は、コカイン濃度が薄いため依存性や精神作用は非常に弱いものです。しかし、コカを抽出し、精製して作られるコカインには、中枢神経を刺激して精神を興奮させる作用があります。

精神的な疲労を回復させる反面、アルコール飲料と同様に幻覚や妄想を生じ、精神毒性を示し攻撃性が増したりするとの説があり、コカの葉は、薬物依存を形成して常習化するとされて、多くの国で麻薬として扱われ、使用・所持・販売が規制されているのはご存知でしょう。

後年、このフレンチ・ワイン・コカの販売権を得たフランク・ロビンソン(Frank Mason Robinson)はこれに「コカ・コーラ」という名前を付けました。

この名前は前述の2つの主要な原料を示しているわけですが、その名前の中にコカインを連想させる言葉が入っていることは後年、議論を呼んだようです。

しかし、ペンバートンが最初に売り出したときには、多くの栄養機能表示を付け、「おいしくて、リフレッシュでき、スカッとして、爽快な」頭痛を癒し、疲れを取り除き、神経を落ち着ける飲み物として市場に投入しました。

この当時はコカインもアメリカの街中で普通に売られていたようですが、市中に出回っているコカの葉一枚に含まれるコカインが15~35mgだったのに対して、フレンチ・ワイン・コカのオリジナルのレシピには8.46mgと半分以下のコカインしか含まれていませんでした。

とはいえ、いくら表現をつくろってみても、コカインが含まれていることには間違いありません。

しかし、もともとはペンバートンが自らのコカイン中毒を緩和するために調合したものであるだけに、コカインの麻薬としての作用はコーラの実に含まれるカフェインによってかなり中和することができました。

このため、ペンバートンはむしろ開き直って、このコカ・ワインを、様々な効能の他に、モルヒネやアヘンの中毒の治療にも使えると宣伝していました。

ところが、少量とはいえやはり麻薬が含まれていることがやがて問題となるとともに、禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきました。

禁酒運動とは、その教義により基本的には刺激物の摂取をタブーとするキリスト教の教職者らによって、19世紀後半からヨーロッパを中心に起こってきた運動です。

アメリカ合衆国でも1869年に政党として禁酒党(Prohibition Party)が結成され、以後、大統領選挙では当選の見込みがないにもかかわらず、たびたび20万票台を集めるなどの広い支持を得ていました。

アメリカ全土で連邦禁酒法が施行されたのは、1919年からでしたが(~1933年まで)、南部各州ではそれに先立って禁酒法が制定され、1885年、アトランタでも禁酒法が施行されました。

このため、ペンバートンは、アルコールであるワインに代えて炭酸水を用い、これに風味付けをして、「シロップ」として売り出すことにしました。

これが、現在まで飲み続けられている「コカ・コーラ」の発祥であり、このとき、ペンバートンのビジネスに参加したのが、友人の印刷業者、フランク・M・ロビンソンであり、「コカ・コーラ」の名称もこの人が考案したものです。そして、その発売日こそが、1886年の今日、5月8日でした。

コカ・コーラ・カンパニーの誕生

ペンバートンのコカ・コーラはビジネスとして成功しました。しかし、このころ彼の健康状態はかなり悪化しており、そのわずか2年後には亡くなっています。

そして、生来あまりお金には執着のない性格だったのか、あるいはその死期を悟ってこの世にモノを残しても仕方がないと思ったためか、その生前、ペンバートンはコカ・コーラの権利をたった1ドルで売却してしまっていました。

その後、この当時のアメリカの商標権制度が未熟であったこともあり、この権利はこの後も数年人から人へと移り続け、裁判で争いになることもしばしばだったといいます。

結局、1888年にその権利は後にアトランタ市長になる「エイサ・キャンドラー」の手に落ち、キャンドラーはペンバートンの息子らと共に新会社を設立します。

これが現在も、“Coca-Cola”のロゴを有する、のちの「コカ・コーラ・カンパニー」の前身です。おいしく、さわやか(Delicious and Refreshing)をキャッチフレーズに一杯5セントという格安の値段で大量販売し、キャンドラーのコカ・コーラ社は多大の収益を得てその生産基盤をアメリカ中に広げていきました。

コカ・コーラがこれほどの収益をあげることができたその最大理由は、その原液のトレード・シークレットにあります。「フォーミュラ」もしくは「コーラレシピ」とよばれるその組成を社外に出すことを禁じ、厳しい機密保護に徹したことがその成功の要因でした。

コカ・コーラ社のフォーミュラいまだに非公開であり、フォーミュラについての文書は、1919年からはアトランタの某銀行の金庫に融資の担保として厳重に保管されていたといいます。

その後、コカ・コーラ・カンパニーでは、一度だけその味を変えて新しいコーラとして売り出そうとしました。そして、1984年に実施されたその「カンザス計画」と呼ばれるプロジェクトにおいては、フォーミュラが完全に変更された新しいコカ・コーラが実際に販売されました。

しかし、その新しい味は市場では受けいれられず、抗議運動まで起こったことから3か月で元に戻され、以後は現在に至るまでほんの小さな変更が一度だけ加えられただけです(後述)。

後年、その成分や内容については真偽不明の情報がしばしば出回るようになり、これらのレシピにより類似品も作られましたが、それでもコカ・コーラの味や香りを完全に再現することはできませんでした。

コカ・コーラの風味は、トップシークレットの香料7xと柑橘系およびスパイス系のフレーバー7~8種類程度の配合によるものと言われています。7xとは、レモン・オレンジ・ナツメグ・シナモン・ネロリ・コリアンダー、そして脱コカイン処理されたコカの葉の7種(またはコカの葉がない6種)をアルコールで抽出したものだと言われています。

7xとその他のフレーバーの配合レシピのことを「フォーミュラ」と呼び、この7xの成分こそがコカ・コーラ社のトップシークレットであり、成分を知っているのは最高幹部のみでした。

ところが、2011年2月、アメリカのThis American Lifeというラジオ番組が、このコカ・コーラ社の最高機密とされる香料「7x」の調合割合を発見したと公表して世界を驚かせました。

この番組のプロデューサーが、ザ コカ・コーラ カンパニーの本社のあるアトランタの地元紙The Atlanta Journal-Constitutionの記事をみつけて公表したもので、その1979年2月8日付けの記事には、コカ・コーラの発明者ジョン・ペンバートンが手書きしたレシピとされる写真が添えられていたそうです。

写真から読み取れるレシピは、以下の通りです。

コーラシロップ 米国薬局方コカ流エキス 3ドラム
クエン酸 3オンス
カフェイン 1オンス
砂糖 30(単位は不明瞭だが、おそらくポンド)
水 2.5ガロン
ライムジュース 2パイント (1クォート)
バニラ 1オンス
キャラメル
カラメル 1.5オンス(より着色するにはそれ以上)

7X 香料(5ガロンのシロップに対し、2オンス混ぜる) アルコール 8オンス
・オレンジオイル 20滴
・レモンオイル 30滴
・ナツメグオイル 10滴
・コリアンダー 5滴
・ネロリ 10滴
・シナモン 10滴

これを見て、自分でもコカコーラを作ってみようと思う人がどれだけいるかわかりませんが、本物かどうかは別として、これだけはっきりしたことが書いてあれば、調合してみようかという気にもなります。が、わけのわからんものも多いようです。「ネロリ」って何なのでしょうか?

この発表に対して、コカ・コーラ カンパニーは「アトランタの銀行の金庫に保管されている本物のレシピと、写真のレシピは異なる」とコメントし、このレシピの真実性を否定したそうですが、仮に本物だったとしても、「本物ですよ、どうぞどうぞマネしてみてください」とは言わないでしょう。

その裏を読めば、本物なのかもしれませんから、みなさんもこれをもとに「マイ・コーク」を造ってみてはどうでしょう。

この「ネタバレ」?がショックだったためかよくわかりませんが、コカ・コーラ・カンパニーは、2011年12月、「創業125周年記念事業の一環」と称して、アトランタに新しいコカコーラの博物館を建設してここに金庫的な保管施設を造り、アトランタの某銀行からフォーミュラを取り戻してこちらに移しています。

従来の保管場所にはセキュリティの面で問題があり、誰かがそのレシピを秘密裡にコピーでもしたのかもしれず、この移転はそのためかもしれません。想像の域を出ませんがその可能性はあります。

「ワールド・オブ・コカ・コーラ」と呼ばれるこの博物館のその一角にその金庫室が今もあるそうですが、博物館を作ったからといってフォーミュラが公開されているわけではありません。しかし、これで盗まれる心配はないと判断したのか、この施設は一般人でも見学することが可能になっているそうです。

ところが、そのわずか数か月後、さらにその成分をめぐって、コカ・コーラ・カンパニーの土台を揺るがすような事件がおこります。

2012年3月、コカ・コーラ特有のあの黒い色を形成する、「カラメル色素」に発癌性物質が含まれていると発表されたのです。

カリフォルニア州法の発がん性物質リストに、4-メチルイミダゾールという物質が、摂取上限値29µg/dayとして追加収録されることになり、これが含まれている食品が調査されたところ、コーラ類飲料にも355ml缶1本につき100µg超が含有されていることがわかりました。

このため、コカ・コーラ・カンパニーでは、そのボトルに「リスク警告表示」をするか否かが議論されましたが、結局は、それは望ましくないと判断し、創業以来二度しか変えたことのないレシピの再変更を余儀なくされました。

実は、コカ・コーラは、創業以来、二度そのレシピを変更しています。二番目の変更は前述の1984年の「カンザス計画」ですが、最初の変更は1903年であり、このときの原因は、アメリカ国内でのコカイン販売が禁止されたことにありました。

このとき、創業者のキャンドラーはアメリカ食品医薬品局(FDA)とカフェインを入れる入れないをめぐって長きに渡る紛争を行っています。

FDAは、コカ・コーラに含まれているカフェインの毒性やボトリング工場の衛生の悪さを問題視し、その後、1909年には原液を押収した上で裁判に訴えるまでの事態に発展しましたが、結局のところ、FDA側の訴訟内容に問題があり、また証人の主張が余りに不適切に過ぎたことなどのため、キャンドラーとコカ・コーラ社はこの裁判に勝ちました。

しかし、この紛争は広くアメリカ中に知れ渡るところとなり、原液に多量の麻薬が含有されているとの噂が喧伝されることを恐れたコカ・コーラ・カンパニーは、このとき創業以来初めレシピを変更し、カフェインの量を減らしたのです。

新生コカ・コーラ・カンパニーの誕生

ところで、コカ・コーラがその販売当初から独占的にその販売を専守できたのは、このようにそのレシピの秘密の保護のためでもありましたが、その販売において、この時代ではめずらしい「瓶詰め方式」の販売方式を採用したこともその成功の要因であるといわれています。

1899年にコカ・コーラ社の顧問弁護士であったベンジャミン・フランクリン・トーマスとジョセフ・ブラウン・ホワイトヘッドが、キャンドラーに直談判してコカ・コーラの瓶詰めの権利を取得するように勧めます。

2人はそれぞれコーラを瓶詰めする専用会社「ボトリング会社(親ボトラー)」を創立し、その会社がさらに全米各地の「ボトリング工場(現地ボトラー)」とフランチャイズ契約することでコカ・コーラは広く全米に普及していきました。

ただ、最初のうちはボトリング技術の未熟から瓶が爆発する事故も頻発しました。このため、1913年には品質管理と訴訟対応のために「ボトラー協会」という組織をつくり、その対応を行わせるようになり、1916年にはそえまでは工場毎にバラバラだったコーラの瓶の形状も統一し、標準化を行いました。

最近では、コカ・コーラといえば缶入りが主流であり、ほとんど瓶入りのものを見ることはなくなりましたが、このコーラボトルを収集するマニアが世界中におり、この標準化前のコーラのボトルやその王冠はマニアの垂涎のもとといわれます。

いくらぐらいするのか真剣に調べたことはありませんが、初期のものだとン万円はするのではないでしょうか。

さて、FDAとの紛争に決着がつき、キャンドラー率いるコカ・コーラ・カンパニーは、第一次世界大戦下の砂糖相場の乱高下も無事に乗り切りました。

しかし、1919年に投資家の「アーネスト・ウッドラフ」がキャンドラーにコカ・コーラ社を売ってくれないかという話をもちかけます。

FDAとの抗争に明け暮れ、かなりうんざりしていたキャンドラーはこの話に乗り、多額のキャピタルゲインを得て経営から手を引き、こうして新たにウッドラフによってデラウェア州に新しいコカ・コーラ・カンパニーができ、キャンドラーが作った前身の会社から商標と全事業を引き継ぎました。

このため、現在のコカ・コーラ・カンパニーの社史でも、公式的にはその創立は1919年になっています。

この買収から4年後の1923年には、アーネストの息子の「ロバート・ウッドラフ (Robert W. Woodruff)」が父親の反対を押し切って社長の座に就きます。以後ロバートは60年以上も同社に君臨し、世界に名だたる現在のコカ・コーラ・カンパニーの礎を作っていくことになります。

その後、1930年代に入るころには、ライバルのペプシコーラが低価格路線で販売攻勢に打って出てコカ・コーラの地盤を脅かし始めました。

ペプシコーラもまた、1894年にノースカロライナ州の薬剤師、「ケイレブ・ブラッドハム」が消化不良の治療薬として売り出した飲料に起源とするコーラです。当初の処方では消化酵素のペプシンが含有されていたので、1898年にペプシンに因んでペプシコーラと名前を変更しました。

1890に発売されたコカ・コーラよりも8年遅い発売でしたが、歴史的にはほぼ同時代であり、その意味でもこの二社は永遠のライバルです。ペプシコーラについても、長い歴史がありますが、今日のところはあまりふれないでおきましょう。

こうした強力なライバルが徐々にシェアを伸ばしてきたことから、その後コカ・コーラは、海外へも進出するようになります。

コカ・コーラ本体が原液を製造・供給して、ボトラーが瓶詰めするというスタイルは海外でも採用され、特にドイツで売り上げを伸ばしました。1930年のベルリンオリンピックでは、コカ・コーラが「正式ドリンク」に採用されるなどのラッキーもあり、新しい飲み物として世界中に広まっていきます。

しかし、第二次世界大戦が勃発し原液の輸入が制限されるようになり、何とか原料をやり繰りしながら、乳清とフルーツの絞り粕を原料に新たに飲料を製造。これが「ファンタ」と名付けられ、後にコカ・コーラと並んで、コカ・コーラ・カンパニーの代表的な商品として世界的にヒットすることになりました。

第二次世界大戦が始まると、ロバート・ウッドラフは以下の様に宣言し、戦争への協力姿勢を示しました。

「我々は、軍服を着けた全ての兵士が何処で戦っていようとも、またわが社にどれだけの負担がかかろうと、5セントの瓶詰めコカ・コーラを買えるようにする」

これが、アメリカ国民の心情を強くうち、またロバートら経営陣が議会などでのロビー活動を熱心に行った結果、コカ・コーラは「兵士たちの士気高揚に果たす重要な役割」を持つ「軍需品」として認可されます。

戦時中も砂糖の配給制が免除されるなどの特典を受けることができ、さらには政府の出資で世界60ヶ所にボトリング工場が建設され、そこで働くスタッフは技術顧問として軍人同様の待遇が与えられました。

「戦争に寄与する企業」ということで、アメリカ軍部にも受けがよく、中でも連合軍の最高司令官であったドワイト・D・アイゼンハワーは、1943年6月に指揮下の陸軍参謀総長に、「300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし」という電報を送ったそうです。

指揮官ばかりでなく前線で戦う兵卒にも、コカ・コーラは大人気だったようで、イタリア戦線ではコカ・コーラ1瓶が4,000ドルの値をつけたこともありました。

さらに、コカ・コーラの空き瓶は、電気絶縁体の代用、戦闘機のタイヤをパンクさせるため、中に火薬を詰めて「爆弾」として使用されたほか、非常食とするウミガメを捕るための棍棒として使われたり、「小便器」としても使われたという記録があるようです。

このほか、戦場では瓶を詰めるケースは郵便箱や道具箱として重宝したようであり、コカ・コーラで歯磨きをする兵士まで現れ、兵士の中には戦場でできた恋人にコカ・コーラで「あそこ」を洗うのを薦める者もいたそうです。

さらには、ある将校が、カンヌの将校クラブでカトリック教会の神父相手に話をしていたおり、「コカ・コーラで法王に祝福を受けて貰えば?」と冗談交じりに話したところ、その後戦地に赴いていたその神父が、聖水の代わりにコカ・コーラで洗礼を施していたのが目撃された、というウソのような話まであるようです。

こうして第二次世界大戦でアメリカ軍の「軍需品」として世界に広まったコカ・コーラは、その後現在に至るまで、世界に名だたる飲料メーカーとして君臨し続けています。

ソビエト連邦への進出は1978年まで待たねばならず、中東でも進出が進みませんでしたが、中国へは、1978年にアメリカ企業として早々と進出を決めており、冷戦が終わった現在では、中東も含めたほぼ世界中でコカ・コーラは飲まれています。

コカ・コーラと都市伝説

これだけ、世界的な商品になりながら、今だにそのレシピが公開されていないという「謎」を抱えたまま大衆に迎合されたコカ・コーラは、「不思議な飲み物」として数多くの都市伝説を生んできました。民間伝承(フォークロア)とひっかけて、コカ・コーラに関する都市伝説は諧謔的に「コークロア」とも呼ばれています。

多くの都市伝説同様、コークロアもそのほとんどが部分的に真実を含んでおり、それを元に誇張されています。

例えば、「コカ・コーラの瓶は女性のボディーラインを参考にした」というのがあり、これは、コカ・コーラの独特の「くびれ」のある瓶(コンツアー・ボトル)は、女性のボディーラインを参考にデザインされたものと言われています。

無論、これは事実ではなく、こうした特徴的な形状にした理由は、暗闇で触ってもすぐにコカ・コーラとわかるようにするためと、無数のコカ・コーラの偽物が出回ったので類似品対策として複雑な形の瓶にしたためです。

また、「コカ・コーラには辛口と甘口がある」というのもあります。コカ・コーラのガラス瓶には、側面下部に四角型または丸型のへこみが刻印されており、この刻印が四角型の瓶は炭酸の強い「辛口」であり、刻印が丸形の瓶は炭酸の弱い「甘口」であるという、都市伝説がかつてありました。

実際には、この「刻印」はボトルを製造するプロセスでボトルを機械が保持するための「手掛かり」であり、瓶製造メーカーの工場設備によってそれぞれ丸型・四角型などの色々な形状のものがあっただけのことでした。製造工場ごとに異なる刻印がなされたため、ボトラーによる回収再使用過程において、刻印の異なる瓶が混ぜられて出荷されたのです。

ちなみに日本では、丸型が石塚硝子製、四角型が日本山村硝子製となっています。当然ながら、同じコーラの風味に、甘口・辛口とされるような違いがあるわけはありませんが、こういう噂が広まれば、そういえば昨日のコーラは辛かったな、などと思う人もいたかもしれません。

「サンタクロースが赤い服を着ているのはコカ・コーラのCMが元祖」というのもあります。

この都市伝説によれば、サンタクロースはもともとの伝承では緑の服を着ていましたが、コカ・コーラ・カンパニーが看板のCMで、現在のコカ・コーラのシンボルカラーである赤い色の服を着たサンタクロースを登場させたため、赤い服のサンタクロースが広まったことになっています。

しかし、実際には、ニューヨークの画家で、トーマス・ナストという人が19世紀に描いた聖ニコラウス像において、ニコラウスが赤いマントを羽織っていたため、このマントが変化してサンタクロースの赤い服になったのが史実だということで、コカ・コーラの宣伝とは全く関係ありません。

さらには、「コカ・コーラは民主党、ペプシコーラは共和党」というのがありますが、これはまったく根拠がないわけではありません。コカ・コーラ社はロビー活動の関係から民主党に親しい議員が多く、ペプシコーラ社のほうは、共和党とつながりが深いというのは事実のようです。

しかし、「米大統領が代わると、ホワイトハウスのコーラも代わる」というのは行き過ぎであり、あくまで噂の範囲を出ません。前述のとおり、共和党出身の大統領だったドワイト・D・アイゼンハワーは、戦時中にコカ・コーラを推奨しています。

このほかにも、コカ・コーラ社が香料のレシピを公開していないことから、原材料に関してもさまざまな都市伝説が生まれており、そのひとつには、コカ・コーラのレシピを知っているのは2人の重役だけというのもあります。

2人であるその理由は、1人が突然事故などで死んでももう1人が知っているので存続できるというものであり、それゆえこの2人が同じ飛行機に搭乗することはないというのですが、これも、レシピは金庫に大事にしまってあるわけであり、そんな必要があるとは思えません。

また、ブタの血が材料に含まれているという噂が流れたときには、ブタの食用を禁じるイスラム教徒への売り上げが激減したといい、オーストラリアでは、アポロ計画で月から中継された映像で、宇宙飛行士がコカ・コーラの瓶を蹴っていたという噂が流れました。

このほかにも、1970年代から1980年代前半頃には「コカ・コーラを飲むと骨が溶ける」というのが流行したため、この当時コカ・コーラ社では、この噂のためにわざわざパンフレットまで作成して配布しています。

その中では、「確かに魚の骨をつけておくと溶けてしまう」ことをあっさりと認めており、しかし、魚の骨は人間の骨と成分が違うこと、通常人に飲用されたコカ・コーラは消化器官を経由し、骨に触れるころには別な成分に変質しているため、コカ・コーラを飲み続けると、骨がもろくなったり、溶けることはないと説明していたといいます。

さて、このあと、日本におけるコカ・コーラ……と書こうと思いましたが、はっと気が付くともうかなりの分量をかいてしまっています。そろそろ終わりにしましょう。

窓の外をみると、今日は昨日降った雨のせいか、空気が清浄なようで、富士山がくっきり見えます。

先週まではゴールデンウィークということで、活動を「自粛」していましたが、そろそろ動きだそうかな……という気になってきています。庭の手入れもしないといけませんが、あとひと月もすれば、うっとうしい梅雨が来ることを考えれば、今のうちに行けるところへは行っておこうかなという気にもなります。

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。休み明けで少しだるいな~と思っている人も多いかと思いますが、あともう少しでまた週末です。お天気がよければまた、伊豆方面へもお出かけください。こちらも良い情報があればまたアップしてみたいと思います。

ディーゼルって、なぁに?

ゴールデンウィークも今日で終わりです。

連休中の伊豆は、どこもかしこも他県ナンバーがひしめいていて、やはり交通量はふだんより倍増しています。人ごみが大っ嫌いな私は、この連休中はなりをひそめ、家に引きこもろうと考えていたわけですが、あまりにも連日お天気が良く、とうとうあきらめて?、昨日は松崎まで行ってきました。

町内を流れる那賀川沿いのサクラのレポートを先月したばかりですが、この桜並木のすぐ脇にある休耕田に、地元の有志によって植えられているお花畑が、昨日5日限りで閉鎖になり、今日からは本来の目的である田んぼに供するために、お花が刈り取られます。

その最後の日には、毎年、自由に植えられたこのお花を切り取ってもらってかまわない、というサービスがあり、これをネットでみつけたタエさんが、行きたそーにヨダレを流していたので、しょうがないなー、じゃあ行くか、としぶしぶ腰を上げたのでした。

そのレポートを今日しようかとも思ったのですが、まだ写真の整理がつかないのでまた今度にしようと思います。お花畑から摘み取ってきた、矢車草やポピーなどの大量の花の束が、洗面所のバケツに生けられている、とだけ今日は書いておきましょう。

さて、先日の日経新聞に、こんな記事がありました。

“マツダや欧州の自動車大手は日本国内でディーゼルエンジン車の市場を本格的に開拓する。マツダは2014年に全面改良する「デミオ」に同エンジンを搭載、他の車種と合わせ年間10万台の販売をめざす。 欧州勢を含め、今後2年間に5種以上のディーゼル車が発売される見通しで、年間販売台数は、国内市場の1割に近くに達する可能性がある。”

クルマ好きの私は、本屋に行くと、必ずこれからどんな車が出るかを見るために、各モーター誌をざっとぜんぶ拾い読みするほどですが、新聞でもこんな記事をみると、あぁこれからはいよいよディーゼルエンジン車か……と思ったりもします。

トヨタのプリウスの成功以来、ホンダを始め、自動車メーカー各社ともハイブリッド車の開発に力を入れていますが、ここへ来て、ディーゼル車ががぜん注目を集めはじめているようです。

日本ではまだまだ普通乗用車にディーゼルエンジンを積んでいるモデルはあまり多くありませんが、ヨーロッパでは既にかなりのシェアを占めています。

西ヨーロッパ全体では、新車乗用車販売に占めるディーゼル車のシェアは2007年に53.3%にも達したそうで、ベンツなどを輸出する自動車大国のドイツでも、1995年のシェアはわずか15%だったものが、2005年には、42.7%に急上昇、その後も拡大を続けています。

ほかにも、イギリス 36.7%、イタリア 58.4%、スペイン 68.4%、フランス 69.1%など、先進国の多くではディーゼルエンジンが主流を占めています。

それにしても、ディーゼルエンジンというのは、よく聞く名前ではありますが、そもそもガソリンエンジンと何が違うのか、なぜこれまでは乗用車にはあまり積まれてこなかったのか、ということに疑問を抱いている人は多いのではないでしょうか。

私もディーゼルといえば、軽油や重油を使い、やけにうるさいエンジン、というぐらいの知識しかなく、ガソリンエンジンとの違いもはっきりとは理解していなかったため、改めてスタディしてみることにしました。

ディーゼルエンジン (diesel engine)とは、ディーゼル機関とも呼ばれ、ドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルが発明した内燃機関です。1892年に発明され、その翌年にディーゼルはこの技術で特許を取得しています。

ピストンによって円筒形の筒(シリンダー)の中の気体を圧縮し、燃料となる軽油などと混ぜて着火、その爆発力でピストンを回す仕組みなのですが、ガソリンエンジンでは、シリンダーの中に最初から空気とガソリンを混ぜた混合気体を入れて圧縮するのに対し、ディーゼルエンジンでは、はじめに空気だけを圧縮します。

そしてシリンダー内の空気が圧縮されてかなり高温になったところで、あとからここに燃料を噴射して一気に燃焼させる、というところがガソリンエンジンと根本的に違います。

その利点は後述しますが、このしくみにより、ディーゼルエンジンは、ガソリンエンジンなど、他の実用的な内燃機関と比べても、もっとも熱効率に優れる種類のエンジンとなり、また、ディーゼルエンジンには軽油や重油しか使えないと思っている人が多いようですが、普通のガソリンなどの他にも、さまざまな種類の液体燃料の使用が可能となります。

こうした汎用性の高さから、これが開発されて以来、小型高速機関から巨大な船舶用低速機関までさまざまなバリエーションが作られるようになり、またたくまに世界中で使われるようになりました。

「ディーゼル」の名は、無論、発明者にちなむものですが、日本語表記では一般に普及した「ディーゼル」のほか、かつては「ヂーゼル」「ジーゼル」とも表記されたようです。

日本の自動車整備士の国家試験では、いまだに正式名称を「ジーゼルエンジン」としているそうで、商標としても「ヂーゼル機器」「○○デイゼル工業」などとしているメーカーもあるようです。

ディーゼルエンジンは内燃機関の中で最も優れているといわれるその最大の理由は、さきほども述べたように最初に空気だけを圧縮するという点です。はじめから燃料を加えて圧縮しないため、燃料消費量を少なく抑えることができ、つまりは熱効率に優れ、しかもあとから加える燃料も低精製のものでOKです。

しかし、圧縮によって吸気を高温にする、というのはかなり高い技術が必要であり、とくに高圧縮比(シリンダ内の最初の容積と圧縮後のシリンダ内容積の比)が要求されます。高い圧縮比を求めようとすれば、当然機械的にも高い強度が必要です。

部品を丈夫にしようとすれば嵩ばるだけではなく、また、エンジンを動かす各部の部品の重量も重くなり、機械的損失も大きくなりますし、コストもかかります。

デトネーションとノッキング

しかし、吸入した空気を圧縮し、その中に燃料を噴射して自分で発火させる「圧縮着火方式」であるため、空気をチャージする、これを「過給」といいますが、過給を行なってもガソリンエンジンで問題となるノッキングやデトネーションがディーゼルエンジンでは起こりません。

ガソリンエンジンでは、燃焼前のシリンダーに混合気を吸入し圧縮するため、過給に伴うデトネーションが避けられず、その対策として圧縮比を下げることなどの対策が必要になりますが、ディーゼルエンジンでは空気だけの圧縮のためこうした問題がほとんどありません。

ノッキング(knoking)やデトネーション(detonation)というのは、ガソリンと空気を一緒にし、霧状にした気体を圧縮する際に異常燃焼が起きることで生じるガソリンエンジン特有の現象です。

ガソリンエンジンの圧縮行程では、高温になった空気+ガソリンの混合気が予定していた点火前に自然発火してしまうことがあり、これは主として燃料のムラなどからシリンダー内に非常に高速な、いってみればプラズマのような高温の火炎が生じてしまう異常燃焼現象が起きることがあります。これがデトネーションです。

古い車を運転したことがある人は経験があると思いますが、デトネーションが起きると、エンジンは小刻みな「小振るい」をしはじめ、ついには止まってしまうか、あるいはガクッガクッと、まるでクルマ全体がロデオにでものっているような「しゃっくり」をはじめます。これが「ノッキング」といわれる状態であり、その原因がデトネーションです。

その原因は、空気と燃料の混合気における燃料の薄すぎなどによる燃料ムラなどのほか、圧縮比が高すぎた場合、エンジンと相性の悪いガソリンを使用したことなどの原因で発生します。

こうした異常燃焼が発生すると、ピストンが溶けるなどエンジンに致命的損傷を受けることすらあり、古いガソリンエンジンではこうしたトラブルがしょっちゅう発生していました。最近の車ではほとんどなくなりましたが、経験された方も多いのではないでしょうか。

デトネーションを避けるためには、燃料のムラを解消し、エンジンにあったガソリンを選ぶなどの対策が必要であるほか、その場しのぎでは圧縮比を下げるという対策も有効です。

最近は技術の向上により、燃料ムラは解消され、また、ガソリンの種類を選ばずにエンジンがこれに対応できるようになったため、ほとんどこうした現象はみられなくなりましたが。

これに対して、ディーゼルエンジンでは、空気を圧縮したあとにガソリンを注入して即座に着火する方式なので、デトネーションを起こしません。圧縮するのも空気だけなので、これを圧縮する過給機にも異常が起こりにくく、このため「過給」というプロセスとも相性がよいといわれます。

過給器とは

ここで、過給機についても説明を加えておきましょう。

前述のとおり、過給機とは、エンジンのシリンダー内へ空気を強制的に送り込む装置です。ジェットエンジンなどにも同じものが圧縮機として用いられますが、こちらは、過給機そのものがエンジンといってよく、クルマのエンジンについているものとは少し違います。

違いますが、空気を圧縮するための装置という意味では原理は同じです。過給機は英語では、“super charger”と書きます。その響きからも、すごい圧力で空気を「チャージする」機械だということが伝わってくるでしょう。

その圧縮の方法は基本的には二つあります。そのひとつは、いわゆる「タービン」を用いたもので、「排気タービン式過給機」または、「エキゾーストタービンスーパーチャージャー(Exhaust turbine super charger)」と呼びます。

またもうひとつは、砂時計のような形の「カム」などの機械部品を組み合わせて駆動させる、機械駆動式の過給機であり、こちらは、「メカニカルスーパーチャージャー(Mechanical super charger)」と呼ばれます。

一般的には、前者は、ターボチャージャー(turbo charger)、と呼ばれ、後者がスーパーチャージャー(Super charger)と呼ばれます。

機械式のほうが最初に発明されたため、「スーパーチャージャー」を過給機全体の呼称として使われることが多くなっていますが、もともとはこの過給機のひとつである、機械式のものをスーパーチャージャーと呼んでいたのです。

スーパーチャージャー(機械式)は、エンジンの燃焼室で空気を圧縮するピストンに付いている「クランクシャフト」の動きを利用して動かされ、このクランクシャフトからベルトなどを介して取り出した動力によって圧縮機(コンプレッサー)を駆動し、空気を圧縮するしくみになっています。

元々は溶鉱炉などの「送風機」として開発された方式で、初期のものは砂時計、あるいはヒョウタンのような形の二つのローターがかみ合うことで送風する形式でした。最初は、二葉式でしたが、次第にねじれた三葉式のものが用いられるようになるなど次第に複雑化し、近年では四葉のものも開発されています。

実際にモノを見てみないとわかりにくいでしょうが、それほど複雑なものではなく、このことからも想像できるように、高圧過給には向いていません。このため、過給圧を高めるため、同じ過給機を二つ使った二段式の過給式などが作られ、これらはレース用のエンジンなどにも使用されました。

一方のターボチャージャー(turbo charger)はタービン(turbine)を用いた過給機です。タービンとは、よく聞く名前ですが、飛行機に乗ったときに、そのエンジンをみたことがある人も多いでしょう。薄い羽根が同心円状にぐるりと取り付けられていて、エンジンが始動しはじめると、これがクルクルと回り始めます。

これは、空気のような流体の運動エネルギーを、機械の回転運動のエネルギーへ変換するための仕組みです。流体の多くは気体ですが、このタービン翼(羽根車)を回すためには、別に液体でも良いわけであり、その代表的なものは、ダムなどの水力発電で使われているものがそれです。

これがなぜ過給機になりうるかは、ちょっと考えればすぐにわかります。羽根車は、風が吹くと回ります。それは空気の流によって回るのであって、その逆に羽根車のほうを何等かの動力で動かしてやれば空気の流れ、すなわち風が起こります。扇風機とおなじです。

タービン翼の回転運動から、空気の流体の流れを生み出すことができ、これを密室の中で行ってやれば、空気は逃げ場を失うことになり、圧縮されていきます。つまり、タービンを用いたターボチャージャーの仕組みはこれだけです。もっとも、飛行機などもそうですが、羽根車は一枚だけは圧縮効果が薄いので、何枚も重ねられて使われます。

ちなみに、「蒸気タービン」というのがありますが、これは、石油や石炭などの燃料で水を沸騰させて蒸気を発生させ、この蒸気の力でタービンエンジンを回して動力を得るものです。このようにエンジンの外で燃料を燃やすエンジンなどを「外燃機関」といいます。

これに対して、ディーゼルエンジンやガソリンエンジンは、エンジンそのものの内部で燃料を燃やして動力を得るために「内燃機関」と呼びます。こういうことは、中学校あたりで習っているはずですが、多くの人が忘れているかもしれません。よく思い出してみましょう。

飛行機に用いられるジェットエンジン(engine)とは、外部から取り込んだ空気に燃料を燃やした熱エネルギーを与えることで噴流(ジェット)を生み、その反作用で飛行機の推力を得るものであり、ガスタービンエンジンともいわれます。

こちらも内部で燃料を燃やし、タービン翼を回す内燃機関であり、同じ内燃機関である自動車のエンジンと共通する部分も多く、このため、飛行機のエンジンを作っている会社の中には、かつて自動車のエンジンメーカーだったころの流れを組むものも多いのです。ロールスロイス社などがそれです。

騒音と振動の原因

さて、この自動車用のタービン過給器、すなわち、ターボチャージャーは、内燃機関から捨てられる排気ガスのエネルギーを利用して動かします。

前述の機械式過給機がクランクシャフトの動力を用いて作動するのと同じく、エンジンの動作というものはこのように、すべからく無駄が生まれないよう、できるだけある部分で生まれた動力を他の部分でも使えるように合理的に設計されたものが多いのです。

しかし、ディーゼルエンジンでは過給機を普通に使いますが、ガソリンエンジンでは過給機を備えていいないものもあります。シリンダー内に空気とガソリンを混ぜた混合気体を注入するため、低い圧縮率でも燃料に着火させることができるためです。

しかし、最初に空気を圧縮して使う、ディーゼルエンジンでは、かなり高圧にしないとあとで混ぜた燃料に火がつかないので、ほぼ100%過給器と組み合わせて使われます。

ディーゼルエンジンではシリンダー内の高温高圧になった空気中に、液状の燃料が高圧で噴射されます。ただ、この燃料噴射によってシリンダー内に入ったガソリンが入れてすぐに瞬間的に自発発火するわけではなく、注入されたガソリンが圧縮された空気と混合して燃えやすい状態へと変わった後に、発火することになります。

この注入から発火までの時間には微妙なズレがあり、この遅れ時間を「着火遅れ」と呼びます。着火遅れの間、シリンダー内は静かです。しかし、遅れて火が付くときには、一気に爆発的な燃焼が起こります。

このため、シリンダー内が急激に高温、高圧となりますが、このように、「遅れ」「爆発」「遅れ」「爆発」の繰り返しが、あのディーゼルエンジン特有の騒音と振動の原因を生み出します。よく、信号待ちなどのときに、隣に大型のトラックなどが止まり、その騒音をうるさく感じた人も多いと思いますが、あれがディーゼル特有の騒音です。

しかし、最近の技術開発により、このディーゼルエンジン特有の騒音や振動はかなり抑えられるようになっています。

また、従来のディーゼルエンジンでは、注入された燃料がシリンダー内に広がり切る前に自発発火することも多く、これが燃料の無駄を生んでいましたが、1990年代の後半あたりからは、この燃料噴射を電子制御でコントロールする技術が開発されるようになり、燃料を超高圧で自由なタイミング、かつ自由な回数噴射できるようになりました。

この燃料のシリンダーへの注入も、その昔はエンジンの駆動力の損失を引き起こしやすい「機械式噴射ポンプ」が用いられていましたが、近年はこれに代わって、「コモンレール」と呼ばれる、金属製の頑丈なパイプ(レール)に高圧燃料を蓄えて、電子制御の噴射を行う)方式などが使われるようになり、いまや燃料噴射は完全に電子制御化されています。

このようなシステムを用いることで、ディーゼルエンジンでも非常に高度な燃焼制御が可能となり、ディーゼルエンジンの燃費や出力は飛躍的に向上するとともに、騒音や振動なども低くなり、かつ排出されるNOxなどのエミッションも低く抑えられるなど環境対策に関してもかなりの改善が加えられるようになりました。

なぜ軽油?

それにしても、先般、ディーゼルエンジンの燃料は多様なものが使用できると書きましたが、実際にはガソリンなどが使われることはほとんどなく、一般的には軽油や重油が使われるようですが、これは何故なのでしょうか。

軽油は、主要成分が200~350℃での沸点を持つのに対して、ガソリンエンジンで使用されるガソリンは30~220℃程度のより低い沸点を持っています。沸点というのは、液体が気体に変わるときの温度です。

このことから、ガソリンは軽油に比べて揮発しやすくより危険なものであることがわかり、ガソリンが揮発し、火がつきやすくなる温度、すなわち「引火点」もまたガソリンのほうが低く、軽油の方が高くなります。

「引火点」とは、物質が揮発して空気と可燃性の混合物を作ることができる最低温度です。この温度で燃焼が始まるためには点火源(火花など)が必要です。しかし、引火点ぎりぎりでは、いったん引火しても点火源がなくなれば火は消えてしまいます。

燃焼が継続するためにはさらに数度高い温度が必要で、これを「燃焼点」といいますが、さらに高温になると点火源が無くとも自発的に燃料が燃え出して燃焼が始まります。この温度を「発火点」といいます。

ところが、軽油での発火点は、引火点とは逆にガソリンより低いのです。このことから、ガソリンは揮発しやすいので、火に近づけるだけで危険ですが、発火点は高く、なかなかみずからは燃えはじめません。逆に、軽油はかなり温度が高くならないと揮発せず、引火点が高いので火を近づけてもすぐには燃えませんが、ガソリンよりも低い温度で自発的に燃え始めます。

ということは、もし、火がない環境でこれら2つの温度を上げてゆくと、先に自ら火が着くのは軽油であり、つまり、軽油は、給油などの際には揮発しにくく火がつきにくい性質を持ちますが、実際にエンジンなどで燃焼させて使う際には自発的に火がつきやすい、ということになります。

この軽油の引火点の高さ、発火点の低さがディーゼルエンジンでの使用を容易にしている最大の理由です。

前述のように、ディーゼルエンジンでは、空気を圧縮して高温にし、これに燃料を混ぜて発火させますが、燃料を混ぜて高い発火点で回すガソリンエンジンに比べ、もし仮に同じ燃料を使う場合にはより高い圧縮を行わなければなりません。

が、より低い発火点を持つ軽油を使うことで、比較的低い圧縮率でエンジンを回すことができるのです。つまり、軽油を用いることで、圧縮工程の負担をかなり低減できるわけです。

これが、ディーゼルエンジンでは軽油や重油が主に使われる理由です。重油も軽油と同じく、ガソリンよりも低い発火点と高い引火点を持っています。

ただし、戦車や装甲車など軍用のディーゼルエンジン搭載車両では、敵の攻撃などによって被弾したときのことを考え、その安全性からガソリン同様に発火点の高くした特殊な軽油ともいうべき、「ジェット燃料」が使われています。

ガソリンエンジンとの比較

さて、そんなディーゼルエンジンは、ガソリンエンジンと比べて勝っているのでしょうか、それとも劣っているのでしょうか。

結論としては、エンジンとそれを搭載する乗り物が大型であればあるほど、ディーゼルエンジンの長所が目立ち、短所が目立たなくなる傾向があります。これはすなわち小型軽量の自動車のような乗り物では、その短所が目立ちガソリンエンジンが有利になるということです。

このため、小型車はガソリンを用い、大型車はディーゼルになることが多く、船舶や鉄道など大型機関を搭載した大量長距離輸送手段はディーゼルの独擅場になっています。

それにもかかわらず、冒頭で述べたように最近、ヨーロッパを中心としてディーゼルエンジンの乗用車がもてはやされているのは何故でしょうか。

その理由のひとつは、ディーゼルエンジンで用いられる軽油はガソリンに比べ単位質量あたりの熱量が高く、同じ体積から取り出せる熱エネルギーが2割以上も大きいことがあげられます。

熱効率が高いため、燃料消費率が低く、同じ仕事に対する二酸化炭素の排出量が少なく、つまり端的にいえば、燃費は良くなります。これがヨーロッパでのディーゼルシフトの最大の要因です。

しかし、一方では、軽油を用いているがゆえに、高い圧縮比でエンジンを回す、つまり高回転での運転には不適であり、同排気量あたりのガソリンエンジンと比較しても表示上の最高出力は低くなります。

低い圧縮比でガソリンと同じ出力を得ようとすれば、当然シリンダーなどの直径を大きくする必要があり、エンジンは重く大きくなります。大きくなればなるほど、熱効率はよくなり、ついにはガソリンエンジンの性能を凌駕します。これが、大型であればあるほど、ディーゼルエンジンの長所が目立ち、短所が目立たなくなると書いた理由です。

しかし、普段我々が車を使うことが多いのは街中であり、いつも高速道路を走っているわけではありません。

こうした日常車を使うときのような低速での利用、すなわち実用利用では、低い回転数でも高いトルクが得やすいディーゼルエンジンのほうがガソリンエンジンよりも有利です。また、実用回転域が低いということは、機械的な損失も少なくて済むということであり、これがまた燃費の向上にも寄与します。

このことはいったん脇に置いておくとして、ところで、トルクとはなんでしょうか。これは分かりやすくいえば、クルマのタイヤを回すための力です。感覚的に分かり易くするため自転車を例にあげると、トルクとはペダルを押す力です。

トルクが大きいというのは、ペダルを押す力が強いという事です。ではペダルを押す力が強いと、どうなるでしょう?そうです、自転車の出だしがよくなる。すなわち加速が良くなります。また登り坂でも軽々進む事ができます。

一方、トルクとは別に「馬力」というものがあります。その違いは何でしょうか。

トルクはあくまでも瞬間的な力なので、その力を持続する事によってどの程度の仕事を行なえるのかを表すために考えられ指標(ものさし)が馬力です。より正確に言うと、ある決められた時間内に、どれだけ重い荷物を、どれだけ遠くまでに運べるかを、馬何頭分に当たるかで表示したのが馬力というわけです。

自転車の場合、ペダルを踏む力に、ペダルの回転数をかければ馬力は簡単に計算できます。馬力=回転数×トルクです。

最近の車にはたいてタコメーターがついていますが、そのタコメーターの単位はrpmで、これは“revolution per minute”または“rotation per minute”であり、これはすなわちエンジンの回転数を示しています。エンジンが1分間に回る回数であり、ディーゼルエンジンならばこのメーターを指す針の値が小さくても高いトルクが得られます。

自転車において、ペダルを強く踏んで、なお且つ一生懸命回すとどうなるでしょう?そうです、スピードが速くなります。もし自転車、または馬に荷物を乗せていたとすると、人が担いで運ぶより短時間で遠くに運べますので、これが馬の力=馬力になります。

つまり、トルクとは瞬間的な力であり、大きければ大きいほど出だしの速度、つまり「加速」が良くなります。一方、馬力とは継続的な力であり、大きければ大きいほどスピードが出て、荷物を早く遠くへ運ぶ事ができます。

一般的に馬力が大きいクルマほど加速いいいと思われていますが、加速に影響するのはトルクの方だというのは、この自転車の例からわかるかと思います。もっと感覚的に例えると、トルクは短距離走に必要な瞬発力のようなものであり、馬力とはマラソンの時に必要な持久力のようなものです。

クルマの運転においては、アクセルを踏むと加速します。この加速感がトルクになり、達した最高速度が馬力の結果になります。自分のクルマのトルクがアップした場合の体感方法ですが、例えば一般道を走っていて、長めの下り坂に差し掛かったとします。

そうするとクルマはゆっくり加速しますが、更にアクセルを踏むと平らな道より軽々と加速するのが体感できると思います。これこそがまさにトルクアップの効果で、どんなに重いクルマであってもトルクが大きければ軽々と進める、つまり加速できることが実感できます。

これを逆に言うと、どんなに軽いクルマであっても、トルクが無ければ気持ち良く加速できません。馬力=トルク×回転数ですから、もし回転数が一定であれば、トルクが上がれば馬力も自動的に上がります。

以上のことから、ガソリンエンジンよりも低い回転数でのトルクの大きいディーゼルのほうが、街中などでの実用域での回転数での馬力が大きくて使いやすい、ということがご理解いただけるのではないでしょうか。しかも燃費がいいというのが、近年原油価格が高騰しているなかで、ディーゼルエンジン車がヨーロッパでもてはやされる理由です。

しかもディーゼルエンジンは、デトネーションやこれを起因とするノッキングの発生なども予混合気を使用したガソリンエンジンと比べてほとんどなく、また、全回転域で高い排気圧を得られることから、この排気圧を利用して作動させるターボチャージャーとの相性も良好です。

さらに、ガソリンエンジンには、シリンダーの中でガソリンと空気を混合させて燃やす方式であることから、常に爆発的なエネルギーを繰り返し発生させることになり、強度の面からもシリンダーの直径をあまり大きくできません。

しかし、ディーゼルエンジンは基本的には空気を圧縮したあとの一瞬だけ点火する方式であるため耐久性が高く、ある程度シリンダーなどを大型化しても大丈夫です。

圧縮後に燃料を混ぜて発火させますが、瞬間的なものであり、またガソリンエンジンよりも低い圧縮率で爆発させるためにシリンダーへの負荷も小さく済むわけです。

また、ガソリンエンジンでは、シリンダーを大きくできないため、その数を増やす、これを「多気筒化」といいますが、これによって排気量を確保して高トルクを得るか、または、高回転化で出力を上げなければならないのに対し、ディーゼルエンジンでは1シリンダーあたりの大容積化が可能であり、全体でみればより構造が単純化できます。

余計なシリンダーを減らすことができるために、全体的な機械部品の摩耗の増加も抑えられ、また、大型化することでより熱効率が高まり、低い圧縮比でも馬力が出せ、さらにシステム全体の効率が良くなります。

ディーゼルエンジンは大型化すればするほど、長所が多くなるというのは、こうした意味もあるわけです。

しかも、燃料に使う軽油や重油はガソリンに比べて安全性の高いものであるため、爆発・火災事故に対する余裕も大きく、さきほども書きましたが、この点では被弾することを前提とした軍用車両ではとくにこのメリットが大きいため、近年での軍用車両のエンジンはほとんどがディーゼルです。

ただし、燃料はより安定性が高く有害成分の少ないJP-8とよばれるジェットエンジン用のものが多用されています。これも先般書きました。

ディーゼルエンジンの短所

ところが、このように長所ばかりかと思われるディーゼルエンジンにも欠点があります。

それはその構造上、堅牢性が求められることによる経済的なデメリットと、その発火システムに伴う騒音や振動、そして排出物の問題です。

ディーゼルエンジンは、大型化に伴い、シリンダーヘッド、シリンダーブロック、ピストン、コネクティングロッド、クランクシャフトなどなどの各部品に高い強度と剛性が求められ、噴射ポンプや過給機などが加わることで重量が嵩みます。

さらに、燃料噴射システムに高精度・高耐久性が求められ、コスト高となります。しかも、エンジンが重くなれば重量出力比が悪くなるため、軽量化を要求される航空機ではほとんど採用されていません。

自己着火に必要な高温を高圧縮で作り、これを一気に燃料と共に「爆発」させるため、振動や騒音が大きくなったり、乗用車のような小排気量エンジンの場合はとくにエネルギーロスも多く、吸排気系の振動や騒音が大きくなります。

さらに、燃焼室内は、その発火システムのために窒素過多になることが多く、このため窒素酸化物が発生しやすく、燃料を後から加えて拡散させる燃焼方式なので均一燃焼が難しく、黒煙や粒状物質 (PM) も発生しやすくなります。

従来の噴射量や噴射時期制御システムでは、ガソリンエンジンより有害排出物が多く、欧州メーカーのディーゼル車の中には、NOx値の規制が厳しい現在の日本や米国の排出ガス規制を満たしていないものもあります。

ただし、欧州で主流とされる北海産の石油は硫黄含有量が少なく、精製された軽油による排ガスも比較的きれいであるため規制面では有利であるという裏事情もあり、これが不純物の多い中東産の石油を使うことの多い日米に比べ、欧州の車にディーゼルが多いもうひとつの理由でもあります。

振り返って日本国内をみると、特に大都市周辺での大気汚染への関心が高く、ディーゼル車は好感されないことも多く、東京都などでは前石原知事の音頭取りで、日本一厳しい窒素廃棄物抑制基準が課されたことは記憶に新しいところでしょう。

ヨーロッパでディーゼル車が多いのは、前述のように硫黄分の少ない軽油が使用されているせいもありますが、こうした排出物を低減するための酸化触媒技術が卓越していることや、優れたフィルターが普及しているためでもあります。

また欧州の各自動車メーカーでは、超低PM排出ディーゼル車や、スーパークリーンディーゼル車といわれるような、技術革新により音の低減や煤煙、有害な排気ガスを著しく軽減したディーゼル車を開発してきています。

もともとは経済性での有利からシェアを伸ばした西ヨーロッパでのディーゼル車ですが、近年は日本の自動車メーカーが得意とするハイブリッド車に対峙する選択肢としての低公害車として宣伝されるようにもなってきています。

ところが、アメリカでは車の燃料と言えばガソリンで、ディーゼル車はトラックなどの商用車以外ではほとんど普及していません。ガソリン価格が日本の二分の一以下と安いことがその理由ですが、一方では、アメリカでは軽油の価格はガソリン価格のおよそ2割ほども高くなっています。日本ではその逆ですよね。

このように、ディーゼル車の普及の状況は、ヨーロッパとアメリカ、そして日本ではそれぞれ全く異なったものとなっています。

特に日本では、まだディーゼル車といえば、黒い煤煙を吐きだしながら走るクルマという印象が強く、軽油は安いので興味はあるけれども、今はまだ音もうるさいし、環境に優しくない、というイメージが定着してしまっています。

ディーゼルの未来

しかし、現在では、ガソリンエンジンにも、直噴式エンジンが登場するようになっています。あらかじめ燃料と空気を混合させてシリンダー内に送り込む従来式のものではなく、シリンダー内に直接ガソリンを吹き込む形式のエンジンであり、これにより、燃費などがかなり軽減されます。

そうなると、ディーゼルとどこが違うのか、ということになってくるのですが、そのとおりです。

この両者の区分けは技術上はかなりあいまいになってきており、最近のディーゼルエンジンのほうも、過給器や吸気バルブの開閉タイミング操作なども電子制御化され、従来に比べて格段にエンジン出力を調整しやすくなり、混合気体を扱うため、こうした面で調整がやりやすいガソリンエンジンとほとんど同じではないかというものも出きています。

さらには、なんと軽油に「水」を添加することで、ディーゼルエンジンの欠点のひとつであった窒素酸化物の排出を抑え、NOx値を下げることのできるデュエット・バーン・システムと呼ばれる装置なども開発されており、こうした技術の開発により、将来的には燃料の違いによる区分けすらも必要なくなるのではないかとまでいわれています。

しかし、現在のディーゼルエンジンとガソリンエンジンが同じ燃料を使い、同様のものになるにはまだまだかなり時間がかかりそうです。最近話題になっているシェールガスやメタンハイドレードの実用化が難航しているのをみればわかるように、燃料そのものの性質を統合し、その供給システムすらも変えるのはそうそう容易ではないからです。

現在でのディーゼルエンジンの最大の問題点、すなわち、エンジン製造コストがガソリンのそれに比べて高いというデメリットもまだ当分解消されそうもありません。

高くなる要因は、エンジン自体の重量がガソリンエンジンと比べて一般に重くなりやすいことと、この問題をクリアーしつつ厳しい日本の排出ガス規制をクリアーするための技術開発がなかなか進まないことなどがあげられます。こうした問題を解決する過程では当然、そのコストは嵩み、エンジン価格はどんどん高くなっていきます。

しかし、ディーゼルエンジンの小型化は年々進歩しており、また、もうひとつのネックの排気のクリーン化も進んできています。

ディーゼルエンジンは、少ない燃料で運転する必要性があることから、常に酸素過多の状態(リーンバーン)で運転される必要性があり、このためガソリンエンジンのような比較的簡単な有害排出ガス抑制システムが使えず、熱効率を追求し完全燃焼させると排気ガス中の窒素酸化物 (NOx) が増えるという難点があります。

しかし、これらがディーゼル自動車の決定的な欠点とは言いにくく、軽量化を進め、排気をきれいにする努力は各メーカーで進められており、冒頭で述べたマツダ以外で、現在ハイブリット車を中心としたクルマ開発を行っているトヨタやホンダなどの各メーカーも規制に対応したディーゼル乗用車の開発を進めています。

2008年(平成20年)9月、日産自動車は、新長期規制を飛び越し、ポスト新長期規制をもクリアするエクストレイルの「クリーンディーゼル車」を発表。それ以前には、国土交通省の厳しい規制によって、長らくなりをひそめていた、日本のディーゼル乗用車もついに復活を遂げました。

2008年(平成20年)10月には三菱自動車も現行の新長期規制に対応したディーゼルエンジンのパジェロを発売しており、2012年2月、マツダは、後処理装置を使用せず、ポスト新長期規制に適合できるエンジンを搭載したCX-5を発売しました。その後のマツダにおけるディーゼルエンジンへの意気込みは、冒頭の記事でもわかるとおりです。

日本は窒素化合物を有害視するのに対して、ヨーロッパでは二酸化炭素の排出量を重要視しています。

ディーゼルのほうが混合した燃料の燃焼効率が悪いと書きましたが、乗用車用のガソリンエンジンとディーゼルエンジンを比較した場合では、小型では不利といわれるディーゼル車でも、同じ排気量ならばその燃焼効率が良くなるため、リッターあたり走れる距離数が多く、また二酸化炭素の排出量が少ないという利点があります。

このため、ヨーロッパでの燃料価格はガソリンと軽油とでは同一、もしくは軽油の方が高い、という状況ではありながらも、車両価格のリセール・ヴァリューは、ディーゼルの方が人気が高いといいます。

また、ヨーロッパでは多くの人が年間2万キロはあたりまえに乗用車に乗るため、低燃費ならば元がとりやすい事、低速からのトルクが太く日常使用では乗りやすいこと、といった使用環境上の理由からもディーゼル車の購入層が増えているようです。

こうしたヨーロッパでのディーゼル乗用車の好調ぶりをみると、次世代排出物規制の問題や騒音・震動などの問題をクリアーした新型エンジンを積んだ日本のディーゼル車の未来は、ヨーロッパに比べて軽油価格も安く、かなり明るいように見えます。

ただ、価格面の問題は依然残り、これをどこまで安くしていけるかにかかっているようです。ガソリン車に比べて高出力が得られない、排気ガスもきたなくうるさい、といった従来の間違った印象をどうやって払拭していくかも大きな課題です。

ハイブリット車では出遅れたマツダや三菱などのメーカーがHVで先行するトヨタやホンダにディーゼル車の投入によってどこまでこれを追従していけるかによって、日本におけるディーゼル車の未来は大きく変わってきそうです。

日本の自動車界も面白くなりそうで、楽しみです。今後ともディーゼル自動車の開発と販売の状況からは目が離せそうもありません。

さて、今日は、ゴールデンウィーク特集のつもりで、いつもより少々長く書いてしまいました。明日からは、多くの人が通常の生活に戻っていくのでしょうが、連休中になりをひそめていた我々は、そろそろ行動を開始しようかな、というところです。

普段は人が多くてあまり行く気がしなかったところへも行ってみたいと思っています。また良い経験ができたら、このブログでも公表しましょう。

あれに見えるは…… ~伊東市


今日は八十八夜です。立春を第1日目として88日目、つまり、立春の87日後の日で、あと3日後にはもう「立夏」となりますが、このころには、遅霜が発生することもあり、事実、伊豆地方は昨日からかなり涼しくなっています。

「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」という言葉があるそうで、これは遅霜の発生によって、昔から泣いても泣ききれないほど農作物の被害が発生したことからできたことばのようです。

従って、そもそも八十八夜というのは、農家に対して遅霜がありうるよ、という注意を農家の人々に対して注意を促すために作られたこよみなのです。

ところで、八十八夜といえば、「あれにみーえるは、ちゃっつみじゃないか」ということで、この季節の風物詩、お茶をどうしても連想してしまいます。

静岡に代表されるお茶の産地では、この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれています。

茶の産地として有名なのは、静岡のほか、埼玉県の狭山、京都の宇治などですが、これらの地域ではこの日、新茶を配るサービスやもみ茶・茶摘みの実演などのイベントが行われ、ニュースになることもしばしばです。

我が家では、水道水がおいしいので、あまりお茶だけを飲むという風習はないのですが、お客さんに出すお茶や、お土産に持っていってもらうお茶を何にするかといったことについては、やはり静岡在住ということで気を遣ったりしています。

あまり飲まないとはいえ、「深蒸し茶」で有名な伊東の「ぐり茶」は以前知人から教えてもらって知り、伊東市内にある「ぐり茶の杉山」というお店までわざわざ買いに行ったこともあります。

生葉をじっくり時間をかけて茶葉の芯まで蒸す「深蒸し茶製法」は、通常の煎茶との違って、その製造工程で茶葉の形を整えるために細かく茶をもむ、「精揉」という工程がないのが特徴で、その結果、生葉を傷めず茶の成分が浸出し易く、渋みを抑えて茶本来の味を引き出すことができるといいます。

実際、お店で試飲させてもらったところ、その美味しさにびっくり。結構高いものかと思ったら、そうでもないリーズナブルなものもあり、自宅用、客用、お土産用などと使い分けるのにも便利です。そのお味は私も保証しますから、みなさんも一度試してみてはどうでしょうか。

この茶ですが、いわゆる「チャノキ」という植物の葉や茎を加工して作られる飲み物です。「茶樹」ともいい、主に熱帯及び亜熱帯気候で生育する常緑樹ですが、品種によっては海洋性気候でも生育可能であるため、イギリスの北部やアメリカでも北のほうに位置するワシントン州で栽培されています。

世界中栽培されているため、いろんな種類があるのかと思ったら意外とその品種は少なく、「シネンシス」と呼ばれる中国種と「アッサムチャ」と呼ばれるアッサム種の2種だけです。

中国種のほうは、かなり寒い地方でも栽培が可能であり、一度植えれば100年程度でも栽培可能といいます。

比較的カテキン含有量が少なく、酸化発酵しにくいことから、一般に緑茶向きとされています。日本で生産されているのは、ほとんどがこの中国種であり、このほか原産国である中国のほか、イラン、グルジア、トルコなどの中東諸国やインドのダージリン、スリランカでも栽培されています。

一方のアッサム種は、日本のお茶のような低木ではなく、単幹の高木であり、放っておけば6~18メートルの高さにも達するといいます。しかしこれではお茶を摘むことができないので、適当な高さに刈り込みながら育て、こちらもだいたい40年程度は持つそうです。

日本で栽培されている中国種と違って、カテキン含有量が多く、酵素の活性が強いので、紅茶向きとされています。インドのアッサム地方が代表的な産地ですが、このほか、スリランカの低地やインドネシア、ケニアなどで栽培されています。プーアル茶(黒茶)もアッサム種から作られます。

いずれのお茶の木も地域によって成長の度合いや時期が違いますが、その収穫方法は同じであり、新芽が成長してくると摘採するだけです。しかし、採取時期が遅れると収量は増えるものの、次第に葉っぱが固くなり、主成分であるカフェインやカテキン、アミノ酸といった栄養分も急激に減少するため、品質が低下します。

このため、品質を保ちながら収量を確保するため、摘採時期の見極めが必要といい、この見極めの技術が結構モノをいいます。

以前、松本清張さんの小説に書いてあったのを読んで覚えているのですが、戦前、日本のお茶の技術がタイに輸出され、タイ北部の高原地帯では、さかんにお茶の栽培が行われるようになったそうです。

日本のお茶の樹の苗木を彼の地に持ち込んで植えて育て上げ、ここを緑茶の一大産地にすべく、その栽培技術をタイ人に教えるため、静岡から多数のお茶の栽培技術者が渡り、そこに居住していたということです。

戦後、その技術とお茶畑は残り、日本人は撤退してしまいましたが、その後、この地で育てられたお茶は紅茶用の茶の樹として使われるようになり、現在では紅茶の産地として栄えているとのことであり、日本茶の高い栽培技術が今でもこの地で受け継がれています。

このことからもわかるように、基本的には日本で栽培されているお茶の樹を使っても紅茶を作ることはできます。エッと思われる方も多いかもしれませんが、基本的には緑茶も紅茶も原料はチャノキであり、その製造過程が違うために出来上がるものが違ってくるだけです。

無論、紅茶のほうは前述のようにアッサム種のほうが適しているのですが、中国種を使った紅茶というのも世界各国で実際に作られており、意外と知られていない事実です。タイに日本の緑茶づくりの技術が伝わり、これが現在のような紅茶の産地として有名になったということには、歴史的な面白さを感じさせます。

そのお茶の製造過程をざっとみてみていきましょう。

まず、お茶摘みですが、成熟した茶樹の新芽のうち、摘採するのは上部数センチメートルの葉と葉芽だけです。4~5月の時期に芽を出したものを摘むのが新茶ですが、この最初の摘採後7~15日経ってから生えてきた葉はその後ゆっくりと成長していき、より風味豊かな茶になります。これらを摘んだのが二番茶、三番茶と呼ばれるものです。

日本国内における茶期区分は、だいたい次のとおりです。必ずしも新緑のころだけというわけではなく、さまざまな季節に摘採されていることがわかります。

一番茶…3月10日ごろから5月いっぱい
二番茶…6~7月
三番茶…8月から9月の中旬ごろまで
四番茶…9月中旬から10月の中下旬
秋冬番茶…10月下旬から年内一杯
冬春番茶…正月から3月はじめ

もっとも、一番風味が良いといわれているのが、一番茶、二番茶であり、日本においては、各地でその製法を工夫していろいろな味わいのものが開発されています。

また、前述のとおり、お茶は発酵のさせ方により、いろんな種類のものができます。日本以外の海外では、酸化発酵を行わせた「紅茶」が多く作られますが、日本では発酵をさせない「緑茶」がほとんどです。

この「発酵」ですが、お茶には「酵素」が含まれており、この作用により、茶葉の中のカテキンやクロロフィル(葉緑素)などの300種類以上の成分が反応し、テアフラビンという物質などが生成されます。

テアフラビンというのは、もともと植物が持っている色素や苦味の成分であり、植物細胞の生成、活性化などを助ける働きを持ちますが、酵素によってこれが更に増え、その多さや質によってその後に製造されるお茶の味や香りが左右されます。

ついでながら、酵素とは植物や人間などの「生き物」を「機関」に例えると、「組立て工具」に相当します。

生体の遺伝子の形成を行う「ゲノム」が設計図に相当するのに対し、酵素には、生体の体内に取り込まれるべきいろんな物資の選択をしたり、その生体が必要とする目的の反応だけを進行させる性質があり、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こさせます。

お茶の場合も、この酵素を内部に人工的に発生させることによって、もともとの茶葉が違った性質のものに変化します。これを活性化させるかさせないかによって、紅茶と緑茶の違いができてくるというわけです。

じゃあ、発酵させるのと発酵させないのではどちらがいいの?という話になりかねないのですが、人体に及ぼす影響については実はまだよくわかっていないことが多いようです。紅茶や緑茶の効用というのは良く取沙汰されることではありますが、そのほんとうのところの効果はというところはまだ究明されていないのが現状のようです。

いずれにせよ、お茶を発酵させるかさせないか、あるいは発酵させるにしても、その程度の加減によって、このカテキンやテアフラビンの量はかなり異なり、このためこれによって造りだされるお茶の味や香りは色々変わってきます。

しかし、酸化発酵を進めれば進めるほど、クロロフィルも酸化するため、お茶の色は緑から暗色に変化するなど見た目にも変化し、その味わいも変わってきます。このため、中国種のチャノキを使って作ったお茶は、大きく分けて6種類もあります。

緑茶や紅茶以外のものは、青茶、黒茶 白茶、黄茶などであり、それぞれ、以下のような特徴があります。

緑茶:不発酵のお茶です。中国では、摘採後、発酵が始まらないうちに速やかに釜炒りした後、入念に揉み上げ、乾燥して仕上げますが、日本茶では、釜炒りではなく茶葉を「蒸」したあと、揉み上げていわゆる「煎茶」をつくります。

紅茶:紅茶は、完全に発酵させたお茶です。紅茶の場合は、摘んだあとすぐに加工せず、しばらく放置することこれをある程度しおらせます。これを「萎凋」といい、このあとに揉み上げ作業をおこないます。揉み上げの前にひと手間加えることで茶葉の細胞組織をより壊し、酸化発酵を進行させることができます。

そしてさらに、温度、湿度、通気を調整し、茶葉が赤褐色になるまで急速な酸化発酵をおこさせ、最後に乾燥・加熱して仕上げます。

青茶:我々が「烏龍茶」として良く知るお茶です。これは、「半発酵茶」です。紅茶と同じく、萎凋を行いますが、その途中で茶葉をひっくり返して撹拌する「揺青」という工程を加えることにより、発酵を助長させます。

そして、釜の中で炒って酸化発酵を止めたあと、茶葉の香りと味を引き出すため揉捻し、さらに最後に鍋に入れて水分が無くなるまで加熱する、すなわち焙じ(ほうじ)をして仕上げます。

黒茶:これは中国雲南省を中心に作られ、プーアル茶として日本でも良く知られています。こちらは、「後発酵」させてつくります。緑茶と同様、摘採後すぐに加熱して酸化発酵を止め揉捻しますが、その後、高温多湿の場所に積み上げて置いておき、これにより微生物発酵をさせます。

微生物の力を借りるという点が、茶葉自体に含まれる酸化酵素の働きにより発酵させる緑茶や紅茶、烏龍茶などと異なる点です。放置発酵後、再び揉捻した後、乾燥させて仕上げます。

花茶:花茶は、文字通り花で茶に香りを付けたものであり、緑茶、青茶、黒茶、紅茶などの茶葉に花自体を混ぜたもの、花の香りだけを移したものがあり、ジャスミン茶(茉莉花茶)が有名です。

白茶や黄茶は日本人にはあまり馴染のないものです。白茶は弱発酵茶で、中国福建特産であまりたくさん作られない希少なお茶です。その違いは原料にあり、茶葉の芽に白い産毛がびっしりと生えているため「白毫」と呼ばれています。摘採後、萎凋のみを行い、火入れして酸化発酵を止めて仕上げます。

この白茶ですが、香り・味わい・水色ともに上品で後味がとてもよく、また甘みがあるといいます。また、二日酔い、夏ばてに効くといった効能や解熱作用があると言われているようです。

日本ではあまり飲まれることもなく、スーパーマーケットなどでもあまりみかけませんが、最近では、アサヒ飲料や大塚ベバレジといった飲料メーカーが、商品化して発売しているそうで、「白いお茶」とか「白烏龍」のような名前で出ているようです。もともとが高いお茶なので、「白烏龍」のほうは白茶と烏龍茶のブレンドのようですが。

インドやスリランカでもここ数年、差別化・ブランド化の一環として白茶生産を開始する事例が出てきているそうなので、産量が増えれば日本にもたくさん輸出されるようになり、烏龍茶のように流行るようになるかもしれません。

黄茶もまた、白茶同様に希少なお茶として知られています。萎凋をせずに加熱処理を行いますが、この加熱工程が難しく、低い温度から始め、徐々に温度を上げ、その後徐々に温度を下げるなどの複雑な作業が必要です。

その後、高温多湿の場所に置いて発酵させますが、その発酵は、酸化酵素や微生物の働きによるものでなく、高温で多湿という特殊環境でポリフェノールやクロロフィルを重点的に酸化させるというものであり、その過程では「牛皮紙」でこれを包みます。

この工程は「悶黄」と呼ばれる独特なものであり、ポリフェノールやクロロフィルがは酸化することによって茶葉は水色がうっすらと浮いた美しい黄色になります。どんな味がするのか試してみたいところですが、黄茶は清朝皇帝も愛飲したといわれ、中国茶の中でももっとも希少価値が高く、100グラム1万円を超えるものも珍しくはないそうです。

お金持ちのあなた、一度試してみてそのお味を教えてください。

ところで、我々日本人にとって最も馴染のある緑茶の製造方法を上ではさらっと、たった2~3行で書いてしまいましたが、日本茶の製造過程は実はそんなに簡単ではありません。

その多くは、「蒸す」ことで加熱処理をして酸化・発酵を止めたのち、揉んで乾燥させる製法をとりますが、揉まないものもあり、これらを総称して「煎茶」といいます。蒸す代わりに釜で炒る加熱処理を用いる場合もあり、これは「釜炒り茶」といいます。九州の嬉野(うれしの)茶などが有名です。

煎茶の製造工程を簡単に説明しておきましょう。

まず、手摘み煎茶の場合はお茶の枝、1芯につき2~3葉、機械摘みの場合は1芯4~5葉を採ります。

「番茶」というのを良く聞くと思いますが、これは煎茶を摘採した後の硬い茶葉を摘採・加工したものであり、ようは「廉価版」です。安い番茶をスーパーで安売りをしているのをみかけることがありますが、これは貧乏人、いやそのぉ……リーズナブルな生活をしたい方々が飲まれるお茶です。

煎茶用に摘んだ生葉は、まだ生きていて呼吸をしているため、これを大量に重ねるとすぐに発酵が始まり、熱が発生します。番茶用の茶葉もそうですが、新茶のほうがより「生きがいい」のでより多くの熱を発します。このため、網の上にのっけて上下から扇風機を当てるなどして湿度の高い空気を送って、水分の保持と呼吸熱の低下を図ります。

次いで、蒸します。「蒸熱」と言われる工程であり、酸化酵素の働きを止め、茶葉の色を緑色に保たせながら青臭みを取り除くため、圧力のない蒸気でまんべんなく蒸します。このときの蒸し時間の長さによって、「味・香り・水色」の基本的な性格が決まるといわれています。

蒸熱は、緑茶の色と品質に決定的な影響を与える工程で、蒸し時間が長いほど、この後の工程で茶葉の細胞膜が破壊されやすくなるために濁った水色になります。しかし、色沢は明るくなり、渋みと香気は少なくなります。

熱した茶葉を高温のまま放置すると、鮮やかな色あいが失われ香味も悪くなります。そこで今度は、強い風を扇風機で送り込み、室温程度までムラのないように急速冷却することで、茶葉の色沢および香味の保持を図ります。

こうして、熱が無くなったお茶に対して、ここからようやく「揉み」の工程に入っていきます。その最初の工程は、「葉打ち」といい、乾燥した熱風を送り込みながら、お茶を叩いて打圧を加えて軽く揉みこみます。このとき、茶葉表面の蒸し露を取り除いて、乾燥効果を高めます。これにより、茶葉の色沢と香味の向上が図られます。

次いで、茶葉を柔らかくし、内部の水分を低下させるため、乾燥した熱風を送り込みながら打圧を加え、今度は少し本格的に摩擦・圧迫しながら揉みんでいきます。これを「粗揉(そじゅう)」といいます。

「揉み」の工程はこれだけではなく、さらに茶葉をひと塊にし、加熱せず圧力を加えて揉み込む「揉捻(じゅうねん)」を加えます。粗揉工程での揉み不足を補い、また、茶葉の組織を破壊して含有成分を浸出しやすくして水分の均一化を図るためです。

さらに、このあとには、「中揉(ちゅうじゅう)」「精揉(せいじゅう)」という揉み工程がはいります。 揉捻(じゅうねん)後の茶葉は萎縮し、形も不揃いで水分含有量もまだ多いため、乾燥した熱風を送りながら打圧を加えて揉みこむのが「中揉」であり、茶葉を解きほぐし、撚れた形を与えるのが「精揉」の工程です。

中揉で整形しやすいよう乾燥させた茶は、精揉工程で緑茶独特の細く伸びた形に整えられます。茶葉内部の水分を取り除いて乾燥を進めながら、人間が手で揉むように一定方向にだけ揉みます。

この精揉工程を経た茶葉には、まだ水分が10~13%も含まれています。これを熱風乾燥で5%程度にまで下げます。これでようやく煎茶の完成です。これにより、長期の貯蔵に耐えるようになり、さらにあの日本茶特有のおいしい香りが出てくるのです。

ちなみに、私は学生のころ、このお茶づくりの工程の一部を手伝うアルバイトをしたことがあります。それは、お茶摘みの工程と、「蒸し」の工程でした。一番茶は、手で摘むので結構年期が入った人でないと任せられないということで、我々にはやらせてもらえませんでしたが、二番茶、三番茶は機械で摘むので素人でもOKです。

やや軽めの芝刈り機、というのかバリカンの大きなものとでも言うのでしょうか、独特の形をした摘み取り器があり、これで茶摘みをしていくのですが、なかなか重労働です。

また、蒸したお茶は、すぐに発酵しそうになるので、常に風を当ててひっくり返さなければなりません。山のように積まれた蒸し茶をフォークを使ってひっくり返しては風にあてるという作業を一晩中続ける、というのが私がやったもうひとつのアルバイトで、これは結構良い収入にもなりましたが、さすがにきつい仕事だったのを覚えています。

その後の「揉み」の作業になると、これはもうアルバイトに任せるわけにはいかない、ということで、どこのお茶工場でもそれ専門の年期の入った農家の方がその工程を手掛けるようです。

あれから30年以上経っているので、少しは技術的に進歩したかもしれませんが、おそらくは揉みの工程には、今でも機械は入っていないのではないでしょうか。いずれにせよ、日本茶づくりというのは本当に手間暇のかかるものです。

ところで、我々が普段使っている「煎茶」という言葉には、ふたつの意味があるようです。そのひとつは、お茶のランクに関しての使いかたであり、この場合、「煎茶」とは、高級品である玉露と、リーズナブルな生活を営まれている方々がお飲みになる番茶の中間に位置づけられます。

なので、フツーの人が飲んでいるのが煎茶、お金持ちが飲むのが玉露ということになりますが、玉露といえども、中国の黄茶のように100g一万円もしたりはしないので、ごく普通の生活をしている人でも飲んだことはあるでしょう。無論、私も飲んだことがあります。頻繁にではありませんが。

一方、中世までに確立した茶道における「抹茶(挽茶)」に対して、茶葉を挽かずに用いるお茶一般に与えられる総称もまた、「煎茶」と呼ばれます。つまり、いわゆるフツーのお茶である煎茶のほかに、玉露、番茶、ほうじ茶、玄米茶などの「不発酵茶」全体をひっくるめて指す用語であり、場合によって挽いて使う抹茶を含める場合もあります。

これは、中国で飲まれている烏龍茶(青茶)や黒茶などの「発酵茶」と区別されるためにほかならず、前述までの説明のとおり、緑茶は学術的には「不発酵茶」であり、日本で一般に緑茶といった場合には、こうした不発酵の緑茶をさして「煎茶」ということが多いのです。

このあたり、混同している人も多く、私も日本茶のことを緑茶と言ってみたり、煎茶といったりで、統一性がなく、煎茶というのはどういうときに使う呼び方なのかな、と思っていました。

結論からいえばどちらでも良く、シチュエーションによって使い分ければよいわけで、国内のお茶だけを話題にしている場合には「煎茶」は玉露と番茶の中間品質のお茶の意味で、中国とのお茶貿易のお話をしている場合の煎茶は日本茶全体を意味する、ということになるでしょうか。

このお茶がいつ中国から日本に伝わったのかについては、はっきりしていないようですが、最近の研究によればすでに奈良時代に伝来していた可能性が強いと言われているようです。

平安時代初期の806年に、空海が唐へ留学していた帰りに種子を持ち帰って、日本に製法を伝えたのが最初ではないかといわれており、815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇が近江行幸の際、滋賀県の大津にある梵釈寺というお寺で、ここの僧がお茶を煎じて献上したという記録が残っているそうです。

しかし、庶民の飲み物として普及するにはさらに時間がかかり、まず最初は、中国よりもたらされた茶道具を雅に使う「作法」を身につけるため、武家や公家などの身分の高い人達の間でたしなまれて普及しました。

この「作法」はやがて場の華やかさよりも主人と客の精神的交流を重視した独自の「茶の湯」へと発展していきました。

当初は武士など支配階級で行われた茶の湯でしたが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせるようになり、お茶の葉っぱを挽いて飲む煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期です。

茶の湯は明治時代に「茶道」と改称され、ついには女性の礼儀作法のたしなみとなるまでに一般化しました。

明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が輸入されるようになり、緑茶とともに普及していくことになりましたが、最初はこれが同じチャノキから作られものであるということを、日本人はもしかしたら気が付いていなかったかもしれません。

このころから現代に至るまでには、緑茶はごく普通に一般人の飲み物として飲まれるようになり、国内にも多くの産地ができ、いろんなブランドが普及するようになりました。

日本では我が静岡県が無論断トツ一位の産量を誇りますが、同じ静岡でも安倍川の奥地でできる「本山茶」や、川根町の「川根茶」などが有名です。が、無論、その他県下のあちこちで栽培されており、ときにはエッこんなところにまで、と思われるようなところ、例えば公園の中みたいなところでもみかけることがあります。

意外にも第2位の産地は鹿児島県なのだそうです。しかし、この事実は一般にはあまり知られていません。

これは、宇治茶や狭山茶のようなブランド名で売られている有名茶には、実はこうした鹿児島産などの他県のお茶などを混入することが許されているためであり、産地銘柄を表示する場合は、当該府県産原料が50%以上含まれていればよいそうです。これらの茶のブレンド用の産地としては鹿児島茶に限らず全国どこの産地でもよいわけです。

また、ペットボトルなどの緑茶飲料製品に使われているのもこうしたお茶であり、現在、日本全国で栽培されている茶樹の9割が「やぶきた」という同じ品種であり、どこで採れたとしても採摘した段階ではほとんどその品質にばらつきがありません。

従って栽培しやすければどこでも良いわけであり、全国の茶葉の出荷額の40%を占めるといわれる静岡茶もそのほとんどが「やぶきた」です。

しかし、これを栽培しやすい気候風土があるのと同時に、江戸時代からの長きにわたって、ここでお茶が栽培され、培われてきた高い製造技術がその生産量を支えています。

一般にお茶の栽培には、水はけ、日当たり、風通しが良い場所が適地とされ、地形はとくに平野部がよく、ここでは、機械導入などにより収益性を高めた大量生産を行うことができます。静岡は南側に開けた平地が多く、お茶の栽培には適した土地が多いのです。

こうした静岡以外にお茶の栽培に適した温暖な適地が多いのは九州であり、その結果、出荷額は鹿児島の2位のほか、宮崎県が4位、福岡県が6位など九州の各県が上位を占めています。このほかでは、「伊勢茶」で有名な三重県が3位、同じく「宇治茶」で有名な京都が5位となっています。

が、お茶の産出にあっては、お茶の木の量の多寡というよりも、その製造には手間暇がかかるものでもあり、その確かな技術が確立されているところの産量が多いということのようです。

静岡の場合、長い歴史があり、古くからお茶の栽培を営む農家によってその確固たる技術が守られ続けた結果が、現在における地位を築いたと言っても良いでしょう。

お茶は霜に弱いことから、その霜害を防ぐため、畑に電柱を立て、この一番上に下へ向けた扇風機を取り付けて、その送風により霜がつくのを防ぐということが日本各地で行われています。ところがこの装置は意外と金がかかります。お茶栽培の耕地面積が多ければ多いほどこれに対する投資額はばかになりません。

このため、この霜取りファンの取り付け補助金が各産地とも県や市町村から出ていますが、その補助金の金額が、静岡県では全国的にみても断トツに多いと聞いています。「お茶王国」静岡の存続のため、県などの自治体もこれに手を貸しているのです。

しかし、静岡以外の県においても、暖差が激しく、朝霧が掛かるなどの自然条件を活用し、あるいは手もみ製法や無農薬栽培、伝統的な製法を継承するなどして品質に付加価値を付け、静岡のような大規模産地と差別化を図ろうとしているところもあります。

例えば、埼玉県の狭山市は、茶産地としては寒冷なため、摘採回数の少ないなどのハンディを押しのけるため、独特なお茶の製法を生み出しました。味を濃くするために火入れを行うなどがそれであり、その努力が報われ、近年そのブランド名「狭山茶」は全国的に知られるようになりました。

また、愛媛県北部の、川之江市や伊予三島市、新宮村などが合併してできた四国中央市では、「新宮茶」というお茶を作っています。このお茶は完全無農薬有機農法によって栽培され、 第55回農業コンクールで名誉賞をとり、また第2回国際銘茶品評会で金賞を受賞するなどの栄誉を受け、全国的に有名になりました。

さらに、高知県の四国山地に近い山奥にある村、大豊で作られている「碁石茶」は、日本では珍しい発酵茶です。現地では消費されず、もっぱら瀬戸内の島嶼部などに茶漬用として送られていましたが、近年、健康茶として注目を浴びるようになり、通販で入手する人も多くなるなど人気を集めています。

お茶といえば静岡、というイメージが定着していますが、長く不況が続く中、お茶という最も日本人にとっては最もポピュラーな食材にも焦点をあてて、これに新しい息吹を加えようという農家が日本各地に増えているようです。お茶王国の静岡といえども、うかうかしておれない時代に入ってきているのかもしれません。

さて、今日もまた長くなりました。お茶の項は終わりにしたいと思います。今日は曇りの予報でしたが、今外を見ると晴れ間が広がってきており、もうじき富士山も見えそうな雰囲気です。一年で最もおいしいお茶が摘めるという八十八夜の今日、静岡の各地でお茶摘みが行われているに違いありません。

もしそのお茶が入手できたら、そのお味をまたこのブログでもご紹介しましょう。みなさんもまた、連休中、静岡へ来られたら美味しいお茶をめしあがってください。