イカはイカが?


台風一過と思いきや、また新たな台風が来ているそうで、週末から来週にかけてのお天気もいまひとつのようです。

先日の伊豆大島での土石流災害は、ここからはわずか30kmほど東へ離れたところで起こった出来事であり、とても他人ごとには思えません。

聞けばこの別荘地でも十年ほど前に小規模ですが崖の崩落があったとのことで、さらにその昔には、麓の熊坂一帯では狩野川台風による大被害があったこともあり、改めてこの伊豆地方というのはこうした水災害や土砂災害に弱い地域であるという印象を受けます。

安穏と住んでいるだけではなく、改めて災害への備えを怠らないように日ごろからの準備をしたいと思う次第です。

それにしても大島で亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。いまだ行方知らずの方もいらっしゃるようですが、なんとか奇跡が起こってほしいものです。

ところで、富士山が初冠雪したようです。冒頭の写真は今朝の8時半ごろに撮ったものです。昨年が9月12日ですから、5週間も遅い初冠雪ということになります。

遅かっただけに、去年は頂上付近がほんのり白くなっただけでしたが、今年はもういきなり6合目付近まで真っ白となり、宝永火山の火口部分も半分くらいが雪をかぶっています。

これからは毎日こうして白く雪をまとった富士山を見れると思うとなんだかうれしくなってきました。お天気はいまひとつですが、窓から白富士が見えるなら、まっいいか。そんな気にもなります。富士山をながめながら寝そべれるようにそろそろコタツでも出そうかしら……

が、コタツなどに入っていてはせっかくの秋なのにもったいことこの上ありません。せっかくなら、旅行にでも行きたいところですが、先立つものもないし、今新しい仕事を始めようとしていて忙しいので、近場でがまんしようかと思っています。

昨年のいまごろ出かけた南伊豆の細野高原が気になっていて、そろそろここのススキの原が見ごろになっているはずです。が、今年は夏が暑かったために、ススキの穂も開くのが少し遅れているようなので、今度の台風が過ぎてからでも遅くないかもしれません。再来週の天気を期待しましょう。

ところで、旅といえば、NHKのBS放送で火野正平さんが、日本中を自転車で旅してまわっている番組があるのをご存知の方も多いでしょう。

私も昨年くらいからこの番組に気付き、毎週土日にある総集編を録画して欠かさず見ています。今回の秋の旅は、北海道から東北を下って静岡まで来るらしく、現在は福島から茨城あたりを通過しておられるはずです。

その火野さんが先日、青森の大間におられ、ここでは青函トンネルの工事に携わった方からのお便りからそこに行かれたのでした。そのとき、大間港をバックにトークをされていたのですが、その背後に一艘のイカ釣り漁船が停泊しており、その船腹に「特牛港」と書いてあるのにふと気が付きました。

特牛というのは、普通の人はまず読めないと思いますが、これは「こっとい」と読み、山口県の北西部にある豊北町というところにある小さな港町です。

あぁ~山口からこんなところまでイカ釣りにやってきたんだーとちょっと驚いたのですが、おそらくは山口のイカ釣りの漁師さんもまた日本海側をイカを求めて北から南まで日常茶飯事のように行き交いされているんだろうな、と想像されました。

それにしてもこの船はイカにも小さく、せいぜい100トンあるかないかの大きさであり、こんな小さな船で山口県から青森まで来るとはびっくりです。

さらに調べてみると、このイカ釣りについては、資源保護のために「イカ釣り漁船」を名乗るためには、農林水産大臣の許可を得る必要があり、かつこうした船はだいたいが社団法人のイカ釣り漁業組合という組織に所属し、この協会によってイカを捕獲できるテリトリーが決まるようです。

同協会のホームページを覗いてみたところ、協会への所属船は、大きく二つのグループに分かれるようです。

一つのグループは、総トン数30トン以上185トン未満のいか釣り漁船であり、火野正平さんの後ろに見えたのは、どうもこのクラスの船のようです。

これらの漁船は、主に日本近海に回遊するスルメイカ、アカイカ、ヤリイカを漁獲するほか、日本海のロシア排他的経済水域でスルメイカや北太平洋に広く分布するアカイカを漁獲していることです。

現在の大臣許可隻数は121隻だそうで、私がテレビでみかけた特牛港所属のイカ釣り船もその一隻であり、おそらくは山口から青森まで出かけ、ここからロシア近海まで出漁してイカを捕獲しに行くのか、あるいは帰ってきたばかりだったのでしょう。

この協会に所属するもう一つのグループは、総トン数、185トン以上の大型のいか釣り漁船です。これらの漁船は、遠く南米太平洋側にまで出漁し、ここに分布するアメリカオオアカイカやニュージーランド周辺のニュージーランドスルメイカを主に漁獲して日本に帰ってくるのだとか。

さすがにここまで遠くなると小さな船では難しく、大型船にならざる得ないことから、現在の大臣許可隻数はたった12隻ということでした。

このいか釣り漁業の方法ですが、自動いか釣り機によりイカ針を海中に投入し、引き上げる時にイカを漁獲するというものです。イカ針そのものが「疑似餌」の役割をしているため、エサはいりません。昼間にも漁業は行われますが、夜間に大量の漁灯を点灯させると、この光にイカが集まってきやすいので、より漁獲が容易になります。

近年は自動いか釣り機の導入、船内冷凍設備の向上によって、釣り上げられたイカは一尾ずつ急速凍結し、鮨、刺身原料としての高い高品質を保てるようになっており、この急速冷蔵法は、一尾凍結法(IQF:Individual Quick Frozen)と呼ばれています。

凍結方法としては、このほかにも加工原料向けのブロック凍結法というのもあり、こちらはどちらかといえば品質の悪い、あるいは小型のイカを対象としています。

ちなみに、いか釣り漁業はいか釣り用の特殊なイカ針を使用するため、イカ以外の魚を混獲することが全く無いそうで、乱獲の恐れのない、環境や資源にやさしい漁法といえるようです。ただ、漁灯で集魚したイカのうち、漁獲できるのは僅か10%程度だそうで、これはこれであまり効率的な漁法とはいえません。

が、歩留まりがあるのはある程度やむをえず、むしろあまり獲れすぎて資源を枯渇させないほうが良いのでしょう。近年捕獲数が激減しているマグロの二の舞にならないよう、しっかりと資源管理をしていってほしいものです。

ちなみにこのイカの漁獲高が一番多いのは、やはり青森県の八戸漁港だそうで、次いで、宮城県の石巻漁港、北海道の羅臼漁港となり、第4位が鳥取県の境漁港です。山口近海ではやはり少ないようで、特牛からイカ釣りに来ていた船はやはり漁場としてイカの豊富な北方をめざしてきたのでしょう。

このイカというのは、生物学的には、「軟体動物」に分類され、その仲間にはウミウシ、クリオネ、ナメクジ、タコなどがいますが、イカも含めていずれもが、もともとは貝殻を持っており、それぞれの進化の過程で貝殻を喪失したものです。

現在も貝殻を持つ軟体動物としては、二枚貝として我々もよく知る、アコヤガイ、ホタテガイ、カキ、アサリ、ハマグリ、シジミなどがあり、また、アワビ、サザエ、タニシ、カワニナ、ホラガイといった巻貝類は、軟体動物の中ではもっとも種数が多いものです。

カタツムリやナメクジは、これらの巻貝のうち腹足の筋肉が発達したもので、ナメクジは進化の際に、その背中側に巻いた貝殻を捨ててしまいました。ほかにもアメフラシ、ウミウシなどがこの親戚であり、こちらも貝殻は持っていません。

イカやタコは、こうした貝殻を捨ててしまったものの中では、とくに活発な動物であり、その活動のために足が多数に分かれて触手になりました。眼が発達しているのが特徴で、今はもう絶滅しかかっていますが、オウムガイなどもそうであり、既にいなくなってしまった種としては、アンモナイトがその代表選手です。

ただ、イカは貝殻を捨ててしまいましたが、コウイカなどは軟甲と呼ばれる石灰質で船形の殻を体内に抱えており、これは貝殻の名残です。また、ヤリイカやスルメイカもその体内にはイカの骨と呼ばれる筋があるのを、イカをさばいたことがある人ならご存知でしょう。

日本ではまず目にすることはありませんが、トグロコウイカという種類は、その体内にオウムガイのように巻貝状で内部に規則正しく隔壁があり、浮力調整のためか、これらの隔壁によって細かい部屋に分けられ、それぞれにガスが詰まっているそうです。

イカは本来の心臓の他に、2つの鰓に心臓の機能があり、この「鰓心臓」は鰓に血液を急送する働きを担っています。これらの心臓から贈り出される血は、人間のように赤くなく、青色です。銅タンパク質であるヘモシアニンという物質を含んでいるためですが、捕獲後我々が食べるために捌くと黒っぽいのはこの物質が空気中の酸素と反応するためです。

ちなみに、ほとんどの脊椎動物では、血液中に含まれるのは鉄由来のタンパク質であるヘモグロビンであるために赤色をしています。同じ水中を泳ぐ多くの魚たち同じくその血液が赤いのは我々と同じといえます。

イカが他の貝類と違って水中で活発なのは、そのぶよぶよの体によって浮力を得ているからです。ただ、ぶよぶよだけだと流れに持っていかれるため、その体内には比重の重い液体を体液として含むことで浮力調整をしており、これによりほぼ海水と同じ比重になっています。

昨年、ダイオウイカを世界で初めて日本の科学者が動画撮影して話題になりましたが、このダイオウイカなどの一部の深海イカは、浮力を得るために、塩化アンモニウムを体内に保有しています。

普通のイカもこの塩化アンモニウムを持っているものが多く、そのため独特の「えぐみ」もありますが、普通はそのえぐみがおいしさの秘訣です。が、ダイオウイカの場合は、この塩化アンモニウムの量がハンパではなく、このためもし食べようとしても臭くて食えたものではないそうです。

また、イカが水中で活発でいられるもうひとつの理由はその大きな目です。体の大きさに対しての眼球の割合が大きいことから、その行動の多くは視覚による情報に頼っていると考えられており、この目があるからこそ、エサを見つけることも天敵から逃げることもできるわけです。

さらに、イカやタコの眼球は外見上は我々人間のような脊椎動物の眼球とよく似ていますが、この目は非常によく見える目だそうです。

一見我々の目とよく似ているようですが、実はまったく異なる発生過程を経て生まれた器官であり、我々の目では視神経が目の全面を覆っていますが、イカの場合は網膜の背面側を通っており、このため、視神経が視認の邪魔になりません。

このため人よりも数倍優れた視力があると言われ、またまんまるいため、正面360度にわたって文字通り「盲点」がありません。

イカは、全世界の浅い海から深海まで、あらゆる海に分布しますが、軟体動物でありながら、なぜか淡水域にはいません。原因はよくわかりませんが、その活動を活発化させるための体液を保つ成分が淡水域では得られにくいからでしょう。

我々はイカを食べる側なのであまり気にしたことがありませんが、イカは何を食っているかというと、やはり小魚、甲殻類や主食としているそうで、プランクトンを食っていると思っている人もいるようですが、これは間違いです。

ただ無論、喰われる側でもあり、その天敵はカツオやマグロなどの大型魚類や、カモメやアホウドリといった鳥類、アザラシ・ハクジラ類のイルカやマッコウクジラなどの海生哺乳類などなどであり、イカの渡る世間は鬼ばかりです。

しかし、やられているばかりでは種が絶滅してしまいますので、身を守る術は持っています。これらの敵から逃げるときは頭と胴の間から海水を吸い込み漏斗から一気に吹きだすことで高速移動することは有名であり、またさらに体内の墨袋(墨汁嚢)から墨を吐き出して敵の目をくらませることができます。

ちなみにタコの墨は外敵の視界をさえぎることを目的としているため、一気に広がるのに対して、イカの墨はいったん紡錘形にまとまってから大きく広がるそうです。紡錘形にまとまるのは自分の体と似た形のものを出し、敵がそちらに気を取られているうちに逃げるためと考えられているそうで、賢いですよね~。

イカは日本人にとっては食い物にほかなりませんが、ユダヤ教を信じるイスラム教徒は、鱗がない海生動物は食べることは禁じられています。これを「カシュルート」といい、「清くない動物」の意味です。

理由はよくわかりませんが、川・湖に住む生き物で、ヒレと鱗のあるものは食べてもよいのですが、エビやカニなどの甲殻類のほか、貝類・タコ・イカなどはヒレや鱗がないので食べられないことになります。また、ウナギには実は細かい鱗がありますが、これは非常に目立たちにくいのでウナギも食べてはいけないそうです。

なので、イスラム系の人にウナギをご馳走するときには、一応本当は鱗があることを説明したほうがよさそうです。ちなみに、鳥の中で食べてはいけないものがあり、これは、鷲・クマタカ・鳶・ハヤブサ・鷹などの猛禽類のほか、カラス、ダチョウ、フクロウ、カモメ、ハクチョウなどだそうです。日本人もこれらは、あまりというか、まず食べませんよね。

イカやタコはその他の欧米諸国でも同様に不吉な生き物とされて食されることは少ないようです。デビルフィッシュッなどと呼んで嫌うようですがが、同じヨーロッパでもギリシアなど正教徒が多い東地中海地方ではイカ料理がよく食べられますし、スペインでもおなじみのイカスミ料理が楽しめます。

が、日本人のように刺身などの生食で食べる習慣は、彼らにはないようです。日本の場合、刺身のほかにも、焼き・揚げ・煮物・塩辛・干物など実に多彩な食べ方があるのは、その周辺海域で食べることのできるイカがたくさん獲れることにほかなりません。

イカ焼きは、お祭り・海の家の屋台の定番となっている他、イカソーメン・イカめしなどは、収穫量の多い地域の特産品となっているほか、ある種日本の風物詩でもあります。

日本は世界第一のイカ消費国であり、その消費量は世界の年間漁獲量のほぼ2分の1(2004年現在・約68万トン)とも言われているそうです。とくにスルメイカは、ほかの魚介類を含めたなかでも、日本で最も多く消費される魚介類です。

栄養も豊富で、ビタミンE・タウリンが多い他、亜鉛・DHA(ドコサヘキサエン酸)・EPA(エイコサペンタエン酸)も豊富であり、タウリンは、胆汁酸の分泌を促成し、肝臓の働きを促す作用があります。DHAは。健康増進効果があるとされ、EPAと同様にサプリメントや食品添加物として利用されていることはご存知の方も多いでしょう。

このほか、イカは消化しにくく、胃もたれの原因と思われがちですが、消化率は魚類と大差ないといいます。が、私はその昔、山県沖の飛島という島へ、ヤリイカの産卵調査に行ったとき、宿で毎日のように出されているヤリイカばかりを食っていたら下痢をした経験があります。もっとも、食い意地が張って食べ過ぎたのかもしれませんが……

このイカは、食材として役立っているだけでなく、最近は医学や工業といった分野でも着目されている生物です。

例えば、その神経細胞は、「巨大軸索」と呼ばれ、普通の生物に比べて極端に太く扱いやすい神経があり、これを利用して医学の分野では神経細胞や神経線維の仕組みや薬理作用の解明が進みました。

こうした実験で用いられるのはヤリイカが多いそうで、ただ、海で採れるもの以外を陸上で飼育するのは極めて難しいと言われていました。このため、大量に生きたヤリイカを飼育する方法が模索され、これに成功したのが、松本元さんという脳科学者です。

残念ながら、2003年に亡くなりましたが、神経細胞が巨大で観察しやすいこのヤリイカの人工飼育法の開発し、これを神経細胞の研究に生かし、さらには脳型コンピュータの開発を手掛けたことで有名です。

この業績は、オーストリアの動物行動学者で、近代動物行動学を確立した人物のひとりとして知られ、1973年にノーベル医学生理学賞を受賞した、コンラッド・ローレンツも絶賛したといいます。

コンラッド・ローレンツは、その研究上の必要性からいろんな生物の飼育を手掛けていたそうですが、イカについては「人工飼育が不可能な唯一の動物」と呼び、その飼育は極めて困難であるとしていました、

このため松本元がその飼育に成功したという話を聞いたとき驚き、そのの水槽で生きたヤリイカを見るために、わざわざ来日したそうで、実際にその目でみるまで、そのことが信じられなかったといいます。

来日後も、すぐに死ぬだろうからと信じず、イカが水槽内で生きている様を一週間もの間見届けてから、ようやく信じたといい、そのときこの松本博士が作った水槽を評して、「全ての水産生物の未来を変える」と断言したといいます。

こうして、巨大神経細胞が豊富に得られるようになった松本博士のグループは、その後次々と研究成果を挙げ、脳・神経科学の分野では世界的な業績を生み出しました。

所属していた電総研の地下にはヤリイカの水槽がいくつも設けられ、見学者に「色がきれいだろう」と紹介したりしていたそうですが、一方ではこのイカを使ってイカ焼きパーティーを行うといった茶目っ気のある人でもあったそうです。

ちなみに、イカの飼育は魚類などよりはるかに難しいため、一般人が趣味でアクアリウムとして飼うことはできにくいようです。水族館といえども難しいようです。ただ、滑川市の博物館「ほたるいかミュージアム」や魚津水族館で捕獲個体が展示されることもあるそうです。なので生きたイカを見たいひとは、富山県へ行きましょう。

その後、脳型コンピュータの開発を行うため理化学研究所に移り、脳科学総合研究センターのディレクターとして研究を行うなど活躍されましたが62歳でこの世を去っています。ノーベル賞こそ受賞はしませんでしたが、日本政府はその功績を称え、彼に正四位勲三等瑞宝章を贈っています。

このほか、イカの肝臓には、放射性物質が蓄積されやすいこともわかっており、このことからイカを使って海洋の放射性物質による汚染の状況を知ることもできるようになりました。水産庁の中央水産研究所では、蓄積量を継続的に調査しているといい、おそらくは福島原発沖の放射能の測定にもイカが使われていると思われます。

このほか、イカがあげた大きな功績としては、その内臓から「液晶」が作られたことです。
イカの肝臓から抽出したコレステロールを特殊な方法で化学反応させると、コレステリック液晶というものが作られ、これは通電することによって黒く変色します。

現在は、この化学反応の過程は解明されており、日本で用いられている液晶はほとんど化学的に合成されているため生きたイカは必要ありませんが、イカがなければこの組成も解明されなかったかもしれません。

このほか、イカは、古くはその墨がインクや絵の具に使われました。「セピア」というのは実はイカスミのことです。古代ギリシャ語では、コウイカのことをこう呼んでおり、地中海沿岸地方では古代よりイカが食材にされるとともに、このイカの墨がインクとして広く使用されていました。

イカ墨には悪臭があって色あせしやすいためにインクとしてはその後一旦使用されなくなりました、近世にはイカ墨をアルカリで溶かしたあと塩酸で沈殿させ、それを乾かして茶色の顔料として使うようになりました。

これが西洋全般に広まるようになり、これとともに”sepia”という単語も広まり、イカ墨やその顔料、そしてその色をも意味するようになったのです。

19世紀末には、セピアのインクが新聞や雑誌の印刷に使われることが流行り、この色は大人気になりましたが、その名残でこうした黒っぽい茶色がかったモノクロ写真を、現在でも「セピア調の写真」といいます。

「いか」の語源については、「いかめしい」形に由来するとの説などがあるそうですが、はっきりとしたことはわかっていないそうです。が、漢字としての「烏賊」の由来は、海に飛び込んでイカを食べようとしたカラスをイカの方が巻きついて食べてしまったとの故事に由来するとの説があるようです。本当だとすると、かなり馬鹿でかいイカですが。

大相撲の隠語で、「イカを決める」というのがありますが、これは勝負事や賭け事に勝ったまま勝ち逃げすることを意味するそうです。イカがスミを吐いて姿をくらますことに由来するようで、このほかにも大相撲では「しかをきめる」という隠語があり、これは、しらばっくれたり知らないふりをすることだそうです。

今日のブログもかなり長くなってきたので、そろそろしかをきめて、終わりにしたいと思いますが、逆に読者の方々からは「そうはいかの金玉」という声が聞こえてきそうです。

が、もうそろそろ終わりにしましょう。

南伊豆の細野高原は、このお天気ではこの週末は無理そうで、今度行くのは再来週になりそうです。南伊豆には下田もあり、もしかしたらおいしいイカも食べれるかも。みなさんもイカがでしょうか。

HOURGLASS

先日のこと、その昔買ったCDの整理をしていたら、女性ボーカリストのFayrayさんの“HOURGLASS” というCDが目に留まりました。

確か「砂時計」という意味だったよな……とながめているうちに、そういえば、うちにもひとつあったということも思い出しました。

タエさんに聞いたところ、リビングのサイドボードの中、とのことで言われたとおり探してみると出てきました。

緑色の砂の入った3分計で、どこで買ったものかな~と思い巡らせていたところ、砂時計の片側には ”NIMA sand museum” の文字が……

その瞬間、これは昔、家族で山陰地方に旅行へ行ったときに手にいれたものだと気がつきました。と同時に、この砂時計は、このとき立ち寄った「仁摩サンドミュージアム」で買い求めたもので、確かそのとき父も同じものを買い、そちらの砂の色はピンクだったということなどまで思い出しました。

この頃はまだ父や先妻も息災で、この旅行は、息子を連れて夏休みに帰郷した際、母も含めて5人で出かけた温泉旅行でした。かれこれもう12~3年前のことであり、改めて時の流れを感じるとともに、それを思いだせてくれたのが「時」を象徴する砂時計であったことの不思議さを感じてしまいました。

仁摩サンドミュージアムというのは、東西に細長い島根県の中ほどにある大田市の仁摩町にある「砂の博物館」です。

今はもうその名も懐かしい「ふるさと創生事業」の一環として仁摩町が建設したもので、建物はガラス張りの6つのピラミッド群からなっており、この町の名物である「琴ヶ浜の鳴き砂」をテーマの中心に据え、これと関係のある砂時計などを展示した施設です。

その目玉として総重量1tの砂を使用する巨大な「一年計砂時計」が準備され、これは「砂暦」と名付けられて1991年1月1日から稼働しています。おそらく今も動き続けているのではないでしょうか。

館内にはこの「砂暦」の展示のほか、さまざまな砂に関するオブジェの展示があり、「鳴き砂」についても詳細な解説がなされています。

鳴き砂というのは、踏みしめるとまるで砂が鳴くようにギュッギュッ音を立てる砂浜です。

この仁摩町にも鳴き砂の浜があり、これは琴ヶ浜といいます。1996年に日本の音風景100選と日本の渚百選に選ばれたこともある延長1.6kmほどの美しい浜であり、浜は全て海水浴場となっており、夏は多くの海浴客で賑わいます。

また、この地方はとりわけ夕日がきれいなところで、日本海に沈む夕日を見るためだけにここを訪れる人も多いようです。

「琴ヶ浜」という名前ですが、これはある平家の姫が、壇ノ浦の源平の戦に敗れこの地に流れ着いたことに由来しています。その時村人に助けられたお礼にと、姫は毎日琴を奏でていたといい、この姫が亡くなると、砂浜が琴の音のように鳴くようになったそうです。

それ以来その姫を琴姫、この浜を琴ヶ浜と呼ぶようになったといわれており、なんとももの悲しいかんじがします。

鳴き砂とは、鳴り砂ともいい、砂の上を歩くとギュッギュッ、またはグッグッ(聞きようによってはキュッキュッ)と鳴る砂をいいます。その呼び方は地方によって違うようですが、私が知っている限りでは「なき」と呼んでいるところが多いように思います。

鳴き砂には一般的には石英粒が多数含まれていて、砂浜を急激に踏み込んだとき、砂層に含まれる石英の表面で摩擦が生じ、音を出すといわれていますが、その詳細なメカニズムはまだ分かっていないそうです。

ただ、外部からの圧力が加わったとき、砂の塊を動きやすくなる面が生じ、このすべり面上で砂がこなごなに割れて粉体となり、これが振動するために音が出る、というような説を唱える学者もいるようです。

わかったようなわからないような説明ですが、こんな単純なことすらも解明されていないこと自体も不思議です。

鳴き砂に含まれている石英粒は、砂全体に対してだいたい65パーセント以上をも含んでいないとダメだそうで、しかもきれいに鳴るためには含まれているゴミも少ないほうが良いそうです。

また、砂粒の大きさも大事で、良い鳴き砂になるためには、粒度の範囲が限られていて、大きすぎたり小さすぎてもいけません。1mm以上の砂や200ミクロン以下の砂では音が出ないようです。

日本国内には、石川県にも同名の琴ヶ浜という鳴き砂浜があり、京都府にも似たような名前の琴引浜が、また宮城県の十八鳴浜(くぐなりはま)、などがあります。いずれもこの島根県の琴ヶ浜と同様に、鳴く砂にちなんで何等かの伝説や民話があるようです。

日本国外ではカナダ・プリンスエドワードアイランド州のBasin Head Beachが鳴き砂の浜として有名です。同州内には、他にも2ヶ所の鳴き砂の浜があるそうです。また、アメリカ合衆国をはじめ、世界各国の35の砂漠に鳴き砂があることが知られています。

が、国外では海岸にある鳴き砂は日本ほど多くはないようです。海外では、内陸部にある沙漠や砂丘の砂でのものが多く、砂漠の鳴き砂の場合、堆積した砂の山が強風によって崩壊したり人為的に砂山を崩壊させたときに砂が擦れて音を出すそうです。

また、英語では、鳴き砂のことを”singing sand”、”whistling sand “または”musical sand”といいますから、外国人には鳴くというよりも歌っているように聞こえるのかもしれません。

この鳴き砂は、海岸沿いに消波ブロックを設置したり、突堤を築いたりすると鳴らなくなることもあります。その周辺の海流が変化するため、砂に含まれる石英などの鉱物成分や粒度分布などが変わってしまうためです。

海岸に石英分を含む砂が多いということは、その浜の背後やその近辺には石英を多く含む花崗岩が多く分布するということであり、この島根県の琴ヶ浜の場合も石英を多く含んだ堆積層が海岸近くにみられます。

しかし、ただ単に堆積層があるだけでは鳴き砂できません。こうした堆積層を含む崖が波によって侵食されて石英粒が流出したり、もしくは川の上流で侵食された堆積層から細かい砂が水中に流れ出るといった条件が必要です。これが海では波によって攪拌され、「漂砂」となって運ばれ、波の穏やかな場所に漂着、均一化して堆積します。

それらの砂の表面がさらに長年のうちに波によって研摩されて鳴き砂になりますが、もうひとつ重要な要件としては、鳴り砂になるための材料の砂がその海岸から出入りしないことがあげられます。つまり琴ヶ浜なら、琴ヶ浜という1ブロックの海岸から砂の流出や他からの流入がないことが重要な条件のひとつです。

ちなみに私はこの島根の琴ヶ浜の鳴き砂を踏んだことはありませんが、石川県の輪島にある琴ヶ浜を訪れて、実際にその鳴き具合を試したことがあります。鳴き砂に音を出させるためには、砂の間で表面摩擦を起こさせる必要があるのですが、強く踏み込めばいいかというとそういうわけでもなく、うまく音を出すためにはちょっとしたコツが必要です。

その昔は、下駄を履いて摺り足で歩くと良く鳴るといわれたようですが、現代では下駄ばきの人はそう多くはありません。なので、靴履きならば、つま先をあげてかかとだけで歩くとうまく鳴るようです。

また、乾燥していたほうが鳴りやすいそうですが、仁摩町の琴ヶ浜の鳴き砂はかなり感度の良い部類だそうで、乾燥していなくてもとてもいい音がするようです。

ちなみに、人工的に作った珪砂をビーカーなどの器具の中で洗浄し続けると、やがて摩擦によって砂は沸騰するように熱くなり、それだけで珪砂の入った容器内がグーグーと鳴り始めるそうです。石英粒は研磨剤としてまとめて売られていることもあるようなので、もし入手できるようでしたらお宅で実験してみてください。

こうした希少な条件によって成立する鳴き砂海岸は、ほんのちょっとした条件変化で鳴かなくなってしまうことがあります。その地域の海洋汚染によって鳴らなくなってしまうこともあり、かつてNHKのドキュメンタリー番組の企画では汚染によって鳴らなくなった砂を再度鳴かせる実験が行われたそうです。

このときは、長時間にわたる洗浄によって砂の汚れを完全に落としたそうで、その結果ある程度の音が回復したようです。ただ、海洋汚染ではなく、海流の変化などによって砂浜の粒度や構成成分が変わってしまった場合には、長時間洗浄しても回復の望みはないといいます。

石英分を多く含んだ海岸というのは、日本ではわりと多いようで、前述のような有名な鳴き砂海岸以外にも全国でだいたい200ヶ所くらいはあるのではないかという統計もあるようです。しかし、これらの多くが海洋汚染を受け、現在でも音を発する地域150ヶ所くらいに減ってきているとのことです。

ただ、浜が鳴くというのは町おこしにもつながりますので、近年こうした鳴き砂浜を探す自治体や愛好家もおり、これにより新たに発見される鳴き砂浜もあるようです。

一例としては、2006年に、宮城県亘理町の阿武隈川河口の汽水湖「鳥の海」付近で、3kmにもわたって国内最大級の鳴り砂が新たに発見されたそうです。

この鳴き砂の「鳴き」の起因となる石英粒は、とくにその含有量が多いものは珪砂(けいさ)とも呼ばれ、ガラスの原料としても用いられます。英語では、quartz sandと呼ばれ、時計にも使われるクオーツの語源はこれです。また、石英を主体とした珪化物からなる鉱石は珪石と呼ばれています。

冒頭でも述べた砂時計によく使われるのもこの珪砂です。いわずもがなですが、砂時計とは透明な中空の管に入れた砂の落下で経過時間を計る装置で、一般的には細かい時刻までは計測できません。

しかし、仁摩サンドミュージアムの一年時計は、一年が経過すると自動的に上下がひっくり返されるしくみになっており、その誤差も流れ落ちる砂の量が器械的に精査されて補正されるしくみになっているみたいです。

が、無論一般的にはこうした仕組みまで入れた自動砂時計といったものは存在しません。従って、普通は時計というよりも、タイマーとして使われることが多いようです。

砂時計の本体部分は、ガラスの成形上の理由から丸底のものが多く、このままだと転がってしまうので、普通これを保持するために木製の外枠がついています。この外枠の形状やデザインに工夫を凝らしたものも多く、古いものは結構アンティークとして重宝がられ、美術品の扱いを受けるものまであるようです。

砂時計の命は、やはりなんといってもそのガラス容器中央にあるくびれでしょう。これをどの程度にするかによって、砂が落ちる速度が決まってくるため、その成型方法はかなり微妙です。このくびれはその形がハチに似ていることから、専門家の間では「蜂の腰」と呼ばれています。

中身の砂の質や量も時間計測には大きく影響します。砂の量とくびれの傾斜や細さ、そして砂の質で時間が決まりますが、一定の時間、例えば3分時計を作る場合に、誤差が出る場合などには砂の質や粒状をいじることによって調整します。

一般に「砂」と呼ばれてはいますが、珪砂以外にも砂鉄などが使われる場合もあります。砂鉄の場合は、とくに 普通の砂よりも粒子が整っており、時間調整がしやすいため、より砂時計に適しているといいます。

また、乾燥材として使われるシリカゲルで代用されることもあります。こちらも粒形を丸くできかつ均一な砂を作れるので、スムーズに流れ落ちるため、砂時計に向いています。

他に、ガラスビーズなども使うこともあり、その昔は貝殻や大理石を粉砕したものも使われました。小学校の理科の時間などで、小さなガラスビーズを使って砂時計を作る実験をした経験がある人も多いのではないでしょうか。

カラフルな色のビーズを使うときれいな砂時計ができます。教材ではなく、一般向けにこうしたものを市販しているかどうか知りませんが、キットか何かにして売り出せば、結構売れるかもしれません。

ちなみに、砂時計とよく似た機構を持つものに、オイル時計というのもあります。

水と油のように、比重が異なり、混じり合うことのない2種類の液体をガラスなどの容器内に封入した時計で、内部に仕切りなどを設けてここに複数の穴をあけ、穴のうちのひとつから比重の大きい水を下部に滴下させ、もう一方の穴から比重の軽いオイルが上部に逃げるようになっています。

すべての水とオイルが分離したら、ワンサイクルが終りで、再度計測するためには砂時計と同様にひっくり返します。水と油は区別が付くように着色されていることが多く、これもかなりカラフルなものが作れることから、インテリアや贈答品として喜ばれているようです。

水と油のかわりに、比重の大きい液体と、比重の小さい粒体を用いて、逆に「砂」が上っていくように見える砂時計もあるそうで、これはみるからに楽しそうです。そのほかいろんなバージョンがあるようなので、ネットでいろいろ探してみてください。

この砂時計の起源は、古代ギリシャ、ローマとも中国ともいわれているようですが、どこが本舗かどうかははっきりわかっていないようです。

11世紀頃までには、航海用の時計として使われていたという記録もあるようです。いったい何に使ったのかと思ったら、航海した経過時間を計測することなどに使ったようです。

地球一周をしたマゼランは18個の砂時計を船に積み込み、その合計時間と移動距離などから速度などを計算したそうで、その時刻補正には、正午に太陽が天頂にくることを利用していたといわれています。

無論、あまり実用性がないので、その後機械式の時計が発明されたことで、ほとんど使われることはなくなりました。

しかし、砂時計は庶民の手軽なタイマーとしてヨーロッパにおいてはよく普及しました。死の伝統的シンボルでもあり、墓石の図柄として用いられることがありますが、これは砂時計が命の刻限が次第に減っていくことへの暗示とされていたためです。

その関連からか、中世に置いては死をもたらす地獄の使者、海賊のシンボルとしても使われるようになり、海賊旗にも砂時計をあしらったものが多かったそうです。

この砂時計によく使われることの多い珪砂の原料である石英は砂時計以外にもいろんな用途に使われます。その粉末は古くは水晶末と呼ばれ、顔料として使用されたほか、火打石としても使われました。

現在では、ローパスフィルタと呼ばれるデジカメ用の光学フィルタによく用いられ、このほか、石英を材料とした石英ガラスは、耐熱性・透明度に優れるため、化学器具や光学機器に用いられます。光ファイバーに使われるのも石英ガラスです。

石英は、地殻を構成する非常に一般的な造岩鉱物で、火成岩・変成岩・堆積岩のいずれにもしばしば含まれており、このため世界中で手に入ります。

どこにでもあるため、砂埃にも石英が含まれています。そのモース硬度は7で、プラスティック・金属・車の塗装などはこうした砂埃で容易に傷ついてしまいます。このため、宝石は石英を基準としてこれより硬度の高いものが選ばれます。宝石として身につけるものが、砂埃などで簡単に傷ついたりしては困るからです。

日本国内でとくにまとまって産出する箇所として有名なのは、山梨県の甲府市、岐阜県中津川市、愛知県春日井市などです。

これらの中でも山梨県は一番有名で、甲府市近郊の金峰山一帯にはかつて、武田氏が管理する幾つもの水晶鉱山が存在し、明治に入ってからはこれらの鉱山からは工学ガラスや珪石資源として盛んに石英が採掘されました。

この石英の結晶体がいわゆる「水晶」であり、宝石としても扱われます。古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、水晶は永久的に凍ったままの氷だと信じており、これに由来してか、ヨーロッパでの水晶の宝石としての「石言葉」は「完璧・冷静沈着・神秘的」だそうです。

宝石として珍重されるほか、その昔は代表的な圧電体でもあるため、初期のレコードプレーヤーのピックアップに使われたりもしました。

無色透明な水晶は地球の大陸地殻ではそれほど珍しい鉱物ではありませんが、石英が水晶になるためにはさらに高温高圧が必要であるため、これは花崗岩質のペグマタイト(水晶などの大きな結晶を含む火成岩の一種)や今話題の海洋熱水鉱床などから産出されます。

国内では先述の石英の産地、甲府市、中津川市、春日井市などでは、その昔は水晶もたくさん採掘されました。このほか岩手県矢巾町にある南昌山では宮沢賢治が水晶を採集していたことで有名です。

また工業用途にも利用されるため、人工的に生産することが可能であり、大きくて無色透明な水晶を作ることも比較的容易です。が、一般的には電気部品などに使われる小型のもののほうが生産量が多いようです。

圧力が加わると電気が発生して規則正しく振動することから、「水晶振動子」としても使われ、精度の高い周波数を必要とする電子部品や時計に「クォーツ」としても使われます。

同じ原理を利用して、水晶微量天秤と呼ばれる微量質量を正確に測定するための装置の研究も行われており、今や水晶は我々の生活には欠かせないもののひとつです。

ただ、国内の自然な水晶は掘りつくされた感があり、現在稼動している水晶鉱山は皆無です。ただ、甲府市では昇仙峡等の観光地があるため、お土産用の水晶の採掘が今でも行われており、かつて市内には日本で唯一の宝石博物館がありました(現在は富士河口湖町に移転)。

宝石としての水晶は、やはり「水晶玉」が最も人気があり、大きなものは占いの道具として重宝がられるほか、小さなものは数珠にして使われることも多いようです。が、それなりの硬度もあるため、球状だけでなく、カットしてジュエリーに使われることもあります。

水晶の中には、色つき水晶と呼ばれるものもあり、これは水晶に不純物が混じり色のついたものですが、透明なものよりも逆に人気があり、準貴石として扱われることも多いものです。

紫水晶、黄水晶、煙水晶、黒水晶のなどがあり、このほか、水晶内部にインクルージョンといって何等かの鉱物などが入り込んだものもあり、これは「変わり水晶」としてとくにコレクターに人気があります。

インクルージョンとしては、金紅石(ルチル)の針状結晶が入っているため細い金色の針が入り込んだように見える「針入り水晶」や、電気石などの柱状の鉱物が混入してまるでススキのように見える「ススキ入り水晶」などが人気があるようです。

水晶の中にもう一つの水晶が含まれるように見え、その形が山のようにみえることから、「山入り水晶」と呼ばれるものもあり、これはファントムクォーツ(幽霊水晶)とも呼ばれて特に珍重されているようです。

しかし、最近は水晶は宝石としてよりも、「パワーストーン」として珍重される向きが多くなってきました。

これは江原啓之さんらによってスピリチュアリズムというものが世に広く知られるようになり、江原さんのような霊能者たちが水晶玉にはパワーがあるとしたことなどに起因するものと思われます。

水晶玉にパワーがあるという説は古くからあり、マヤ文明およびその地域の原住部族においては、透明水晶を「ザストゥン」と呼び、まじない石として大切に扱っていました。また、オーストラリア先住民の神話の中では、水晶は最も一般的な神の思し召しの物質、「マバン」とされていたそうです。

日本国内でも水晶玉は古くから作られてきましたが、いつ頃から作られだしたのかは定かではないようです。ただ、2000年前の奈具岡遺跡(京都府京丹後市)は水晶をはじめとする貴石を数珠状にする細工工房であったことがわかっています。

天然であっても人工であっても、水晶は比較的硬い鉱物であるなどの理由で曲面に加工するのが難しいことから、これを球状に加工したものにはとくに希少性が高くなります。

このことから、水晶を球形に加工する技術は、少なくとも弥生時代中期まで下らないと完成されなかったと考えられています。古代の人々は、これを主に装飾品として用いていたようですが、呪術的な力を持つものとしても扱っていたようで、その伝統が現在にまで受け継がれ、水晶がパワーストーンとして珍重されている理由です。

ヨーロッパでも古くから占いの道具として用いられ、儀式魔術では霊的存在の姿を確認したり、「あちら」の方から未来へ向けたヴィジョンを受け取るときのツールとして用いられました。

これらの儀式には水晶だけでなく、ガラス、水など、ある種の光学特性をもつ物体が使用されました。しかし、水晶球を用いた方法はとくに、クリスタルゲイジング (crystal gazing)と呼ばれ、gazeとは視線を意味しますから、水晶は霊視をするための特別な道具として使われたものと考えられます。

よくアラビアンナイトなどを扱った映画で、妖しい女呪術師が水晶玉を用いて、未来が見える~とか言っている場面が出てきますが、あれがクリスタルゲイジングです。

水晶にほんとうにこうした未来を透視したりできる力があるかどうかについては、何ら信憑性のあるデータがあるわけではなく、また水晶から何等かのパワーが得られるといったことについても科学的な証明がなされているわけではありません。

ただ、前術のとおり、水晶がクォーツ時計に使われるなど、我々はその力を利用して、正確な時刻を刻むことができます。つまり、水晶を使うことで規則正しい生活ができるというわけです。

よく「気」が乱れるといいますが、これはある種の周波数が乱れていると同じことであり、こうした乱れた気、すなわち乱れた周波数を水晶はその安定した周波数で「同調・安定」させることができるといわれています。

このことから、よく水晶には「浄化パワー」があるといういい方をしますが、浄化というよりも安定や調和、ひいては平穏・平和・を生みだす力があるといったほうが正しいかもしれません。

また、水晶は物理的な性質として、独特の二重螺旋構造を持っています。ここでは詳しくは説明しませんが、その最小パーツの並び方は螺旋を描いていて、この構造によって水晶には「旋光性」という性質があります。このため、特殊な装置を使って水晶玉を上からみると渦巻き状の模様が見ることができます。

しかもこの回転には、右回りの水晶と左回りの水晶があります。右回りのものを右水晶、左回りを左水晶といい、左巻きの結晶構造の水晶は、エネルギーを集め、右巻きの水晶はエネルギーを放出するといわれています。

宇宙全体もまた、こうした左右の螺旋エネルギー(陰陽)で出来ていると言われており、水晶もまた、そのエネルギーの結晶体としてこの世に出てきた物質というわけです。

このため、「右巻きの水晶はエネルギーを放出する」わけですから、これを身につければ、負の感情などを放出してくれて、浄化する働きが強くなります。また「左巻きの水晶はエネルギーを集める」わけですから、宇宙の良い気を繋ぎ留めてくれます。

天然水晶の中から左水晶と右水晶を一つ一つ鑑別し、右回転と左回転の結晶構造の水晶を交互に配列して置くと、ネガティブな気の影響をキャンセルし、人体に有益な気の場を作る事が可能となるといわれており、これをゼロ・フィールドクリスタルと呼びます。

従って、水晶をブレスレットやネックレスにして身に着ける場合は、右回りと左回りの球体の水晶を交互に並べると、良い浄化システムとして機能するそうです。このほかにも左手に左螺旋水晶をつけて、より高いエネルギーを大地から吸収し安くし、右手に右螺旋水晶をつけ、エネルギーの流れを高めるという方法もあるようです。

また、人間もまたそのDNAが二重らせん構造を持っていることから、同じく二重らせん構造を持つ水晶には、人の意識を容易に投影することができるといわれています。

意識を向ければ向けるほど、水晶も強いエネルギーを記憶していくといわれており、何かを強く意識したとき、それが水晶にも投影されるので、「人の意識の力を増幅」することができるともいわれています。

つまり、人が何かを強く思ったとき、その意識はパワーストーンに記憶され、人の意識がパワーストーンに「投影」されることでパワーストーンも同じような意識を持つことになります。

良好で不純でない意識を向ければ向けるほど、水晶も強いエネルギー を記憶していくと言われ、この力をうまく用いれば願望成就ができるともいわれています。よく水晶が「願望成就」の象徴といわれる理由はここからきています。

水晶は、透視占いや予知、呪術などのオカルティックな用途に使われるものと思われがちですが、こうした特質を持つものとわかれば、たとえ科学的に説明されていなくても、多少身近なものに感じることができるのではないでしょうか。

ちなみに我が家には、各部屋のいたるところに水晶玉が貼り付けてあります。また、鬼門の方向にある東北の角部屋には、ある方から頂いた7つの水晶が置いてあって、これらが邪気を鎮めるとともに家の運気を高めてくれています。

水晶は、心の痛みや実際の痛みも和らげてくれるといいます。純粋でなんの穢れもない水晶は見ているだけでも、癒されるような気がします。

パワーのあるなしを信じる信じないは別として、あなたもおひとつ、水晶玉を手に入れられてはいかがでしょうか。

決起!


つい先日、所要で湯河原へ行く機会がありました。

神奈川県最西部の町であり、そのすぐ西隣はもう静岡県の熱海市、すぐ北側には芦ノ湖という位置関係です。箱根火山の外輪山の南麓にできた平地であり、相模灘に挟まれた低地に町の中心域があります。

平地とはいいますが、厳密にいえばそのほとんどが傾斜地であり、太古にあった湯河原火山が、著しく浸食されて形成された地形の多くを町域としています。

真鶴町と接する東北域には、緩やかな山麓部があり住宅地とミカン畑が混在して広がるのんびりとした場所で、東海道線の駅もあるため東京からの来客も多い古くからの温泉町です。

鎌倉時代には、相模国土肥郷と呼ばれており、その名のとおり、土肥(どい)という豪族が支配していました。そのひとりで、鎌倉時代以前にこの土肥郷を本拠とし、相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していたのが、土肥実平(どひさねひら)という人物です。

この土肥実平は、伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝の反平家の旗揚げの際につき従った一人で、のちにその功が認められて鎌倉幕府の軍奉行となり、この湯河原のすぐ裏手にある山上に城を築き、これは現在も土肥城跡、ということで現存しています。

今日のブログの冒頭の写真は、この土肥城跡のすぐ近くにある展望所から撮ったものです。展望所は「椿台」といい、湯河原から芦ノ湖へ上る「椿ライン」という県道沿いにあり、コンクリート造りの立派な展望所とトイレ、駐車場などもあります。

ここからは、うっそうと茂った樹木のため、残念ながら東側の湯河原市街や鎌倉方面の展望はありませんが、すぐ南側の伊豆半島東側と、伊豆の山々をはるか遠くまで見渡すことができ、遠くには利島や大島も見通せ、すぐ足元には熱海沖の初島なども見えます。

この地に立つと、伊豆半島というのはなるほど南北に長い半島だなということが実感でき、その昔ここを統治していたという土肥氏は、ここを拠点として伊豆方面と鎌倉方面のふた方向に睨みを利かせることができていたということがよくわかります。

そうした要衝に城を設けることを許されたということは、それなりに頼朝にも信頼された人物だったと思われます。調べてみると、頼朝の挙兵後も、日本各地で行われた平家との数々の戦いに参戦しており、壇ノ浦の戦いの後には長門国と周防国の惣追捕使(守護のこと)として長府に居城したとされています。

長府というのは、下関にもほど近い山陽側の城下町ですが、伊豆にもほど近いこんなところに私の郷里である山口との接点がある武将がいたのかと、思わずうれしくなってしまいました。

ところで、この土肥実平の主君の源頼朝の平家打倒の戦いについては、そのクライマックスシーンの壇ノ浦の戦いなどについてはある程度は知っているものの、初戦の「石橋山の戦い」という戦さについては、あまり詳しくは知りませんでした。

なので詳しく調べてみようと思い、まずその場所を調べてみようと地図検索してみたところ、この石橋山というのは、なんとこの土肥城の麓からすぐ近くだったことがわかりました。

小田原市と湯河原のちょうど中間地点ぐらいに、今も「石橋」と呼ばれている場所があり、「山」というのでかなり山奥のイメージを持っていたのですが、このあたりは古箱根火山の溶岩流が海岸線のすぐ際まで流れ込んで形成された土地であり、古くには切り立った崖のすぐ下に波が寄せるような場所だったと思われるところです。

現在はこの海岸線沿いに国道135号が走っていますが、現在もこの海側は崖状になっていて、「石橋山古戦場」とされるものは、どうやらこの国道の山側の斜面一帯だったようです。

斜面といっても比較的緩やかなものであり、こうした伊豆や神奈川県西部の山麓ではミカンやお茶が栽培されていることが多いのですが、ここにもミカン畑が広がっており、その間を網の目のように農道が走っています。

が、この当時は溶岩流が山谷を形成する合間にぼうぼうと草が生えたような不毛地帯だったに違いなく、ただ見通しはよさそうなので、騎馬を主体とする敵味方の軍隊がここで遭遇して刀槍を振り回すには都合がよかったのでしょう。

ここから1kmほど山側に分け入った場所には箱根ターンパイクが走っていますが、無論その当時にはこうした山上に近い一帯はその昔は人馬も通れない樹海に近い場所だったに違いなく、関東方面からやってきた平家の軍勢と伊豆からの頼朝らが海岸線沿いに移動してきた結果、この山と海岸線で囲まれた狭隘な地で敵対することになったと思われます。

この石橋山の戦いで頼朝らは、伊豆国の豪族である伊東祐親や相模国(現県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)に勢力を持っていた大庭景親らの軍勢と戦って敗れていますが、実はこの戦いが初戦ではなく、最初の戦いは「山木館の戦い」といい、この小競り合いともいえる小戦さでは頼朝は勝利を収めています。

この戦さが行われた場所は、現在の伊豆市の韮山にある、のちの江川太郎左衛門の屋敷のすぐそばで、頼朝が幽閉されていた蛭ヶ小島にもほど近いところであり、我々が住んでいるところからもそう遠くはなく、私としてはこれもかなり意外でした。

このように、このあたりの位置関係やら頼朝を巡る彼我の人間関係については、どうもあやふやな知識しか持っておらず、ここはちょっと一度整理しておいた方がいいな、と思ったので、今日は改めてこのあたりのことを分かりやすく整理していこうと思います。

さて、ことはそもそも源氏と平氏というこの時代の武家の二大勢力の権力争いに発する、ということは誰でも知っているところでしょう。

源頼朝の父の源義朝は若かりしころ、そのころ坂東と呼ばれていた関東地方に畿内から下向し、この地の武士たちを手なづけることに成功し、坂東でもとくに南坂東の豪族達に強い影響力を有していました。

義朝は、朝廷内での皇位継承権争いに端を発して起こった保元の乱、平治の乱では、自らの勢威の及ぶこれらの坂東の豪族を引き連れ戦いましたが、結局は破れました。そして、平家と朝廷に敵対する謀反人となった義朝は都を落ち延びる道中、尾張国で家人に裏切られ謀殺されてしまいます。

このとき、源氏一族のほとんどは平家によって粛清されていますが、義朝の三男であった頼朝だけは、まだ幼かったことから平清盛の温情を受けることができ、伊豆韮山の蛭ヶ小島に流罪になったのでした。

頼朝は流人の身のまま20年以上を過ごし、その間読経に精進していたと言われていますが、この間に、こともあろうに頼朝の監視役であった北条一族の首領、北条時政の娘政子と親しくなり、彼女と駆け落ちしてしまいます。

この駆け落ちした場所が、熱海にある伊豆大権現という神社であり、これは明治維新の神仏分離令により寺を分離して現在のように「伊豆山神社」と称するまでは、天台宗や真言宗と関わりの深い神仏習合の神社でした。また、箱根にある箱根大権現とともに、この地域における修験道者のメッカとして有名な場所でした。

このとき頼朝はこの伊豆大権現の修験者たちの協力を受けることができ、二人を捕えようとして追ってきた北条時政らの軍勢を退けています。

この北条時政は、その後、頼朝の側近となり、平家打倒のために立ち上がるようになります。その背景としては、このころ伊豆東海岸の伊東を中心に勢力を持っていた伊東祐親らの伊東一族と対立していたことがあげられます。

伊東祐親はこのころ、親平家派の武将として伊豆での権勢を誇っており、同じく平家に頭を下げる北条氏とはライバル関係にありました。伊東家もまた頼朝の監視役を平家から命じられおり、この二家がともに頼朝の監視役を仰せつかったのは、平家にはこの両者を競わせる意図があったためでしょう。

近隣の者同士を頼朝の監視役につかせることで、お互い落ち度がないかどうかを報告させあっていたのであり、また両者を競わせることで、その勢力を削ぐ目的があったと考えられます。

ちなみに頼朝はこの伊東祐親の娘とも懇ろになったことがあり、その娘、八重姫との間には一男を設けています。しかし、これを知った父の祐親が頼朝との間にできたこの子を殺してしまったために八重姫は嘆き、川に身を投げて死んでしまっています。

その菩提寺は、今も伊豆長岡にあり、真珠院という名前で親しまれています。

北条時政が頼朝を擁して平家と戦おうと思ったきっかけは無論、娘の政子が頼朝と駆け落ちしてしまったことだったでしょうが、時政としてはこれを機会に伊東祐親を駆逐し、伊豆の実権をその手に握りたいと考えたのでしょう。

頼朝の父の義朝は、かつて坂東武者たちと昵懇であり、平家の天下となったこのころでも彼等は源氏に対しては親近感を持っており、いざ事があらば、源氏の頭領にもなりうる彼の元へ駆けつける豪族も多かろうという計算が時政にはあったに違いありません。

事実、その後頼朝は緒戦では破れはしたものの、その後坂東に逃げ延び、彼らの助力を得て勢力を盛り返し、その後の平氏の打倒に結びつけることに成功しています。

頼朝はその後政子との間に一女をもうけており、北条氏と血縁関係になることでますますその関係性を強めます。頼朝の庇護者となった北条家は、その後樹立された鎌倉幕府においては逆に源氏を駆逐し、執権としてその後長年にわたって君臨するようになることは周知のとおりです。

治承4年(1180年)のこと、京都でついに頼朝挙兵の契機となる事件が勃発します。

この頃の朝廷は、新興勢力である平家に牛耳られており、そのトップであった後白河法皇はことあるごとに平家と対立していました。そんな中、後白河法皇の三男にあたる「以仁王」が、摂津源氏の源頼政とともに平家打倒の挙兵を決意。諸国の源氏、藤原氏に令旨を送り平家打倒のための蜂起を促したのです。

源頼政は平治の乱以降、平家に忠誠を尽くす数少ない源氏として逆に平家に重宝がられていましたが、このころには平家からかなりの不遇を受けるようになっており、この決起はその憤懣が爆発したことが原因だったといわれています。

このとき、伊豆への使者となったのが頼朝の叔父の源行家でした。この年の4月末、行家は、伊豆韮山の北条館を訪れ平家打倒の令旨を頼朝に手渡すと、さらに相模湾一帯の他の豪族にも同様の令旨を届けるべく旅立っていきました。

ところが、その翌月、頼政と以仁王の挙兵計画は、平家に恭順する源氏一族の一人の密告により発覚してしまいます。全国の武将を集めた上で挙兵をしようと考えていた二人は、このため準備不十分のまま挙兵を余儀なくされることとなります。

しかし、やはり準備不足が祟り、平家の追討を受けて、二人ともあいつで戦死してしまいます。

こうした京での状況は、伊豆の北条館に居住する頼朝に届けられ、またこれをきっかけに平家が坂東諸国の武士たちに命じて源氏を追討しようとしているとの情報も入ってきました。

それを裏付けるようにやがて、このころ伊豆にいた源頼政の孫の源有綱の追捕の命令が、相模の国(現神奈川県)の北部を領地とする、大庭景親に下されたとの情報も入ってきました。

このころ、それまでの伊豆国の知行国主は、源頼政でしたが、彼がクーデターで敗死したため、平清盛の義弟の平時忠がこれを継ぐこととなりました。これによって伊豆国の実権は、この時忠と親しかった伊東祐親が握ることとなり、これがまた時政と頼朝の危機感をつのらせました。

このころ、北条時政と源頼朝の側近中の側近としては、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉などの面々がいました。

このうち、工藤茂光は、狩野茂光ともいい、工藤家はもともと狩野家の一族でした。狩野家というのは、修善寺の少し南側の山間地に居城を持つ豪族であり、古くから伊豆の中央部分の覇権は彼らが握っていました。現在のこの地を流れる狩野川は、無論この狩野家にその由来を発するものです。

ちなみにこの狩野家の中からは江戸時代を代表する日本画の宗家、狩野流の流派が輩出されています。このことはかなり前ですが、このブログでも書きました。

また、土肥実平は前述のとおり湯河原を拠点とする豪族であり、岡崎義実は、そのすぐ近くにある三浦半島を拠点とする三浦氏の一族でした。相模国大住郡岡崎(現平塚市岡崎・伊勢原市岡崎)を領していたため、岡崎氏を称していました。

古くからの源氏の家人で、義実は平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡に菩提を弔う祠を建立しています。

また、天野遠景は、もともとは平家の家人でしたが、その拠点の天野郷が蛭ヶ小島に近かったこともあり、幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち、親交を深めるようになった人物です。

ちなみに天野郷とは、この修善寺からすぐ近い伊豆長岡の山すそにあり、遠景の墓もここにあります。権謀術数に優れていたといわれ、戦さよりも暗殺が得意だったという説もあり、どちらかといえばダーティなイメージのある武将です。

残る二人の佐々木盛綱、加藤景廉は、もともと伊豆の人ではありません。佐々木盛綱は近江が出身であり、源頼朝が伊豆に流されてきたときから、その側近として常に側にいた人物です。

加藤景廉のほうも、元々は伊勢国を本拠として源氏に付き従っていましたが、平治の乱で義朝が敗れると、父の加藤景員に従って伊豆国に下り、このとき工藤茂光らの協力を得て土着勢力となった人です。従って、佐々木盛綱、加藤景廉とも昔ながらの源氏の忠臣ということになります。

こうした頼朝の側近といわれた面々をみると、伊豆中部から相模の海岸沿いにその拠点を持つ勢力が多く、彼らと伊豆東部を拠点としていた伊東氏、および同じ相模でもより北側に拠点を持つ大庭景親らの勢力が結託して、この両者の争いの中から石橋山の戦いが起こったという構図がみてとれます。

一方、このころ坂東(関東)各地では平清盛の義弟の平時忠が伊豆の新知行国主就任したのにともない、平氏の家人の勢力が強くなり、かつては源頼政が伊豆の知行国主だったころに彼と親しかった豪族達が圧迫されるようになってきていました。

彼等の中には、相模国東部(現横浜付近)に本拠を持つ佐々木秀義、房総半島の安西景益、上総広常、千葉常胤、坂東北部を拠点とする豊島済元、足立達元、などがおり、彼らは後に頼朝に呼応して、こぞって平家に対抗していくようになります。

こうして、平家による伊豆や坂東支配によって閉塞感を感じていた頼朝は、京都に源家累代の家人をスパイとして侵入させ、平家の動向を探らせようとします。

「源平盛衰記」にはその報告のひとつが記載されており、そこには「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」と平家の一派が嘲笑したことなどが書かれており、このころ平家側はかなり源氏をみくびっていたことがわかります。

ところが、あるとき突然、頼朝と敵対していたはずの大庭景親の兄の大庭景義が、源氏側につくことを表明します。また三浦半島を拠点としていた三浦家はそれまでは中立の立場をとっていましたが、その当主、三浦義明もまた源氏への味方に賛意を示すなど、次第に頼朝側に風が吹いてきました。

こうした情勢を伝え聞いた坂東の千葉常胤、上総広常らもまた、源氏につくことを表だって公言しはじめ、頼朝らには、これら三浦氏、千葉氏、上総氏という大勢力を背景に旗揚げをする機運が生まれてきました。

こうして、治承4年(1180年)8月、頼朝はついに挙兵することを決め、まず手始めに伊豆目代(現地に下向して執務しなければならない人物の代理として派遣された代官)の山木兼隆を討つことにしました。

山木兼隆はもともと、京にあって検非違使少尉(裁判官)をしていましたが、理由はよくわかっていませんが、実父によっておとしめられて罪を得、伊豆国山木郷に流されてきていました。

この山木郷とは前述のとおり、のちの江戸時代に活躍する江川太郎左衛門の居宅のあった韮山にある農村地帯です。

もともとは流人だったわけですが、このころ伊豆の知行国主となった平時忠とは京都時代に面識があり、懇意にしてもらっていた経緯があり、伊豆へ来てからも目代にしてもらったため、その後急速に伊豆で勢力を振るうようになっていました。

平家方がひいきにしていた目代であるがゆえに、源頼政による旧知行国主系の工藤氏や北条氏にとっては、平家の権勢を借りて幅を利かす山木兼隆は仇同然であり、このため頼朝の挙兵の際に最初に血祭りにあげる相手としては格好の人物でした。

挙兵を前に、頼朝は前述の、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、加藤景廉といった側近を一人ずつ私室に呼んで密談を行っており、このときそれぞれの面々に「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言ったと伝えられており、このため彼らは自分だけが特に頼りにされていると喜び奮起したといいます。

こうして、頼朝が平家打倒の旗印をかかげる、治承4年(1180年)8月17日(新暦9月8日)がやってきました。彼等は、三島に集結し、ここで相模国東部(現横浜付近)に居住する佐々木盛綱を待ってから南下して山木館のある韮山をめざそうと考えていました。

ところが、その挙兵の前日になっても、佐々木定綱とその兄弟たちが伊豆に到着せず、頼朝は、すわ佐々木一族に計画を漏らしたがやはり寝返ったかと、悔いたといいます。が、挙兵当日に彼らが到着すると、涙を流してねぎらったといいます。

実は、この日は大雨であり、伊豆に馳せ参じるにあたって佐々木盛綱らは酒匂川の洪水などによってこれを超えることができなかっただけだったのですが、こうした事実からも、のちに弟の義経を謀殺することになる、疑い深い頼朝の根暗な性格がみてとれます。

また、このころ頼朝の家のある下女が山木兼隆の下男と恋仲であり、この日もその男が頼朝の三島の野営所に逢引きに来ていました。

このため彼をそのまま山木邸に返すと、多くの武者の集まっていると注進される恐れがあるため、頼朝は用心のために彼を生け捕らせた、といった細かい話も残っています。こうしたエピソードもまた頼朝という人物の非常に細やかというか、神経質な性格をうかがわせるものです。

佐々木兄弟たちの遅参は、実は朝駈けによる山木邸の襲撃を考えていた頼朝らの計画をくるわせることになり、結局頼朝は明朝を待たず、その日の深夜に山木館を襲撃しています。

その襲撃にあたっては、「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん」と決意を述べたと伝えられており、その直後に韮山へ向かっての進撃が開始されました。

このとき時政は「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭島通を通ってはどうか」と進言しましたが、頼朝は「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。大道を通るべし」と命じたといいます。

牛鍬大路(うしぐわおおじ)というのは、三島方面から国道136号線を通って伊豆の国市に入り、駿豆線の原木(ばらき)という駅の手前付近の場所であり、現在の国道136号よりもやや東側にあった街道のようです。

また蛭島通(ひるがしまどおり)というのは、頼朝が幽閉されていた蛭ヶ小島付近を通っていた間道であり、牛鍬大路よりもさらに山側を通っていた人通りの少ない道でした。幼少時から20年来この地に住んでいた頼朝にとっては勝手知ったる地元であったわけです。

こうして深夜の子の刻、つまり午前零時ごろに山木館に一行は山木館に到着しました。この戦闘は、佐々木兄弟の一人である、佐々木経高が館に放った矢によって始まり、「吾妻鏡」ではこれを「源家が平家を征する最前の一箭なり」と記しています。

すぐに山木館の郎従が応戦して矢戦になりましたが、佐々木軍はやがて矢を捨てて太刀を取って突入。両者太刀を取っての組み合いになりましたが、ついには、有力武将の堤信遠などを討ち取ります。堤信遠は山木兼隆の後見役でもあり、このころ田方郡に勢力を築きつつあり、北条・佐々木軍にとっては競合関係にある最も手ごわい豪族でもありました。

やがて時政らの本隊もまた、山木館の前に到着すると矢を放ちはじめました。前述のとおり、この夜にはちょうど三島神社の祭礼があり、このため兼隆の郎従の多くが参詣に出払っており、現在の沼津市内にある「黄瀬川の宿」などに集まって酒宴を行っていたと伝えられています。

しかし、館に残っていた少数の兵は意外にも激しく抵抗。信遠を討った佐々木兄弟も加わり、激戦となりますが、容易に勝敗は決しませんでした。

このとき、頼朝は山木館の方角を遠望する北方に陣を構え、火の手が上がるのを待っていましたが、なかなか狼煙はあがりません。焦燥した頼朝は警護に残っていた側近の佐々木盛綱のほか、加藤景廉、堀親家といった武将たちを山木館へ向かわせます。

特に加藤景廉には長刀を与え、これで兼隆の首を取り持参せよと命じました。景廉、盛綱は山木館に乗り込み、遂に兼隆を討ち取り、館に火が放たれると、明々と夜空にその炎が上がります。

燃え続ける山木館を背後にしながら襲撃隊は払暁までには三島に帰還し、頼朝は野営地で持ち帰った兼隆主従の首を検分したといいます。

その翌日の19日、頼朝は山木兼隆の親戚である史大夫知親という人物が伊豆国で行っていた非法を停止させる命令の旨が記された勅令を発しており、「吾妻鏡」はこれを頼朝による「関東御施政の始まりである」と特記しています。

こうして、平家の目代である山木兼隆は倒されましたが、なお頼朝の兵力のみで伊豆一国を掌握するにはほど遠く、とくに伊豆の東側一帯を牛耳る伊東氏は源氏の再興の前に立ちはだかる大きな障害であり、彼らの撃破は最重要課題でした。

頼朝は相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦一族を頼みとし、彼らの参入とともに伊東領を攻略しようと考えていましたが、この山木館の襲撃のあとも、三浦一族は遠路のためか、なかなか参着してきませんでした。

8月20日、頼朝はわずかな兵で伊豆を出て、土肥実平の所領の相模国土肥郷(前述の湯河原町)まで進出。ここから反転して伊東へ向かう予定でした。

ところが、ちょうどこのころ、平家方の相模北方に領地を持つ大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実といった武将らが3000余騎もの軍勢を率いて、湯河原に陣取る頼朝の迎撃に出向いてきました。

これに対して、頼朝はわずか300騎をもって石橋山に陣を構え、かつて京で旗揚げをした以仁王からもたらされていた令旨を御旗に高く掲げさせました。これが8月23日のことです。

このとき、石橋山の起伏の激しい地形にある谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。ところがここになって、懸念されていた伊豆国の伊東祐親が約300騎を率いて、頼朝が陣取る石橋山の陣地の後山まで進出して頼朝の背後を塞ぐ陣形をとりました。

この日は大雨でした。このため、増援に来る予定の三浦軍は、先日の山木館の襲撃の際に佐々木盛綱兄弟らが酒匂川の増水によって足止めされたのと同様、頼朝軍への合流がすぐにはできませんでした。

しかし、その前日に三浦一族は頼朝と合流すべく既に進発しており、その途中、相模湾沿いにあった大庭景親の党類の館に火を放つなどして、既に戦闘を始めていました。これを石橋山から遠望していた景親は三浦勢が到着して頼朝に合流する前に雌雄を決すべしとし、頼朝勢に夜戦を仕掛けることにしました。

こうして、闇夜の暴風雨の中を大庭軍は谷一つ隔てた頼朝の陣に襲いかかります。

「平家物語」によると、このとき合戦に先立って、北条時政と大庭景親が名乗りあい「言葉戦い」をしたとされています。

景親は自らが後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫であると名乗り、これに時政がかつて源義家に従った景正の子孫ならば、なぜ頼朝公に弓を引くと言い返し、これに対して景親は「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と応じたといいます。

頼朝軍は力戦しますが、3000という多勢に対してその十分の一の劣勢ではかなわず、たちまち岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗しました。しかしこのとき、佐奈田与一(真田余一)はかなりの奮戦をしたと伝えられており、今もこの石橋山の地にはこのとき与一を祀るために創建された佐奈田霊社が残されています。

大庭軍は勢いに乗って頼朝を追撃しましたが、このとき頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義という武将の手引きによって頼朝らは辛くも土肥の裏山にある椙山(のちの土肥城が築かれる山。現城山)に逃げ込むことができました。

この飯田家義は、もともとは大庭景親と仲が悪く、所領争いの末、鎌倉郡飯田郷(現横浜市泉区)という小領を治めていましたが、このとき頼朝を救出したことが評価され、のちの鎌倉幕府では重用されました。

のちの富士川の戦いでは源氏軍として武勲をあげ、またこのときの石橋山での頼朝の救援の件により頼朝の信任厚く、論功行賞において平氏側だった者では家義だけが飯田郷を安堵され、地頭に任ぜられました。

さらに、その後の1200年(正治2年)には、執権の北条義時の命を受け、かって石橋山の戦いでともに頼朝を救った仲である梶原景時(後述)を倒し、駿河国大岡(沼津市)の地頭職を得ています。晩年を過ごした飯田郷には、現在、富士塚城址公園が作られ、ここには当時彼が築いた城の空堀の跡などが残されています。

こうして飯田家義の助けによって、からくも大庭軍から逃れた頼朝一行でしたが、翌24日も大庭軍は追撃の手を緩めなかったため、逃げ回る頼朝軍の残党と彼らの間では山中で激しい戦闘が行われました。

頼朝も自らが弓矢をもって自ら戦ったといわれ、蛭ヶ小島に在住のころに鍛えたその弓術の能力はいかんなく発揮され、百発百中の武芸を味方に見せたといいます。

大庭軍によってちりぢりになった頼朝軍の武士たちはおいおい頼朝の元に集まってきたため、頼朝は彼等を集めて軍議を行いました。このとき、土肥実平は、人数が多くてはとても逃れられない、ここは自分の領地であり、頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れて雪辱の機会を期そう、と進言します。

この意見に反論する者はなく、皆これに従うことに同意して涙を流しつつも別れましたが、このとき北条時政と二男の義時は甲斐国へ向かいました。また、嫡男の宗時は別路を向かいましたが、彼は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしています。

大庭軍は山中をくまなく頼朝勢の残党を捜索しましたが、このとき大庭軍に所属していたのが、前述の梶原景時であり、頼朝が潜伏する洞窟の前を通過したとき、ひとり、その居場所を察知しました。

ところが、このとき咄嗟に梶原景時は部下に対して、ここに人跡はなく、向こうの山が怪しいとウソを言ってこの場所と通過するように命じ、このため大庭景親らも頼朝を発見することがありませんでした。

このとき、頼朝の命を救った梶原景時の顔を頼朝主従は覚えていたといい、このことが縁でその後、景時もまた頼朝から重用されることになりました。

が、前述のとおり、のちには鎌倉幕府の内紛から北条義時によって幕府から追放され、景時は一族とともに京都へ上る道中で東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで飯田家義らに発見されて襲撃を受け、このとき連れていた子らと一族郎党が討たれ、一族は滅亡しました。

この土肥の椙山で頼朝が潜んでいた洞窟は、「しとどの窟」と呼ばれ、現在もこのエピソードにまつわる伝説の地として保存されています。冒頭で述べた椿ラインの展望台のすぐ近くにあります。

この石橋山の戦いの際、頼朝と合流すべく所領の三浦半島を出てきていた三浦義澄とその一族である和田義盛らの軍勢500騎は、酒匂川(このころ丸子川と呼ばれていた)の辺りまで来ていましたが、先述のとおり、豪雨の増水のために渡河できずにいました。

そうしたところ、やがて頼朝軍の敗北がもたらされたため、やむなく引き返すことを決め、三浦半島に帰ろうとしていました。

その帰路のこと、三浦一族の軍勢は、鎌倉の由比ヶ浜で、はるばる坂東北部からここまで進軍してきていた畠山重忠の軍勢と遭遇し、戦闘が始まりました。

この戦は、「由比ヶ浜の戦い」といいますが、この三浦一族と畠山重忠の一族は、同じ東国武士でもあり、見知った仲で縁戚も多く、一時は和平が成りかかりました。

ところが、三浦半島から遅れてやって来て事情を知らない和田義盛の弟の和田義茂が、まさに和平調停が成り立たとうとしていたときに、畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって再び合戦となってしまいました。

これによって、双方に少なからぬ討ち死にしたものが出ましたが、お互い知ったモノ同志ということでやがては再び停戦となり、このときは双方が兵を退いた形で戦が終わりました。

しかし、その後畠山重忠は、河越重頼、江戸重長といった部下たちの注進により思い返し、これらの諸将を連れて三浦半島に押し寄せることを決めます。

26日、押し寄せる畠山軍に対して三浦一族は本拠の衣笠城で防戦しましたが、先の合戦で疲労していたこともあってどうしても軍を支えることができず、城を捨てて船で海上へ逃れることにしました。

このとき、一族の長で89歳になっていた三浦義明は「源氏累代の家人として、その再興に立ち会うことができた。これ程の喜びはない。武衛(頼朝)のために我が老命を奉げて子孫の勲功を募らん。皆は彼の生死を確かめよ」と言って、ひとり城に残り、討ち死にしたといいます。

このころ、頼朝、土肥実平一行は、大庭郡の魔の手からようやくのがれ、芦ノ湖まで逃げ延びて、ここの箱根大権現社の別当にかくまわれました。この箱根権現は伊豆権現とも交流があり、頼朝を匿う十分な理由があったようです。

やがてここでほとぼりがさめるまで潜伏した一行は、その後箱根山を下りて真鶴半島へ逃れ、ここから船を仕立てて、半島の先端にある真鶴岬から出航。別の場所に逃げていた時政らも引き返してここから船を仕立て、海上に逃げていた三浦一族と合流しました。

こうして小さな船団を組んだ頼朝一行は、相模湾を横断し、その東にある安房国(現千葉県)を目指して落ち延びていきました。

9月、安房において頼朝は再び挙兵し、このとき、安西氏、千葉氏、上総氏などの房総の諸侯に迎えられて房総半島を進軍し、西進してこの当時武蔵国と呼ばれていた東京へ入りました。

武蔵国では、ここの平氏方目代に圧迫されていた、千葉氏、上総氏などの東国武士が平氏方豪族を打ち破りながら、あれよあれよというまに続々と参集してくるようになり、1か月もたたないうちに、頼朝軍はて数万騎の大軍に膨れ上がります。

その後も武蔵国の諸豪族を味方にし続け、10月6日に頼朝は鎌倉に入ります。こうしてその後およそ150年もの長きの間繁栄しつづけた鎌倉時代が幕をあげました。

その後、武田信義らの甲斐源氏らとも同盟し、二週間後の10月20日に勃発した「富士川の戦い」においては、京から派遣された平維盛の軍勢を撃破し、この後、佐竹氏、新田氏などの頼朝に従わない豪族達との対立を制し、頼朝は坂東での覇権を徐々に確立していくことになります。

石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親と伊東祐親はその後、京からやってきた平家方に合流しようとしましたが失敗し、景親は降参しますが許されずに斬られ、祐親は捕えられ自害しました。

こうして伊豆もまたその後長きに渡って鎌倉幕府の直接的ともいえる統治を受けるようになり、とくにその後の執権の北条氏を輩出した土地柄として、鎌倉府とは切っても切れない縁を築いていくことになりました。

その統治は、やがて足利家による室町幕府にバトンタッチされ、さらにはその後の北条早雲による堀越公方の追放に端を発する戦国時代の幕開へと続いていきますが、それらのことについてはまた別の機会に書いてみたいと思います。

伊豆山神社より

バミューダより愛をこめて

10月だというのに、連日気温の高い日が続きます。

富士山の初冠雪も遅れており、いまだにその頂は真っ黒のまま。いつもの年ならば多少は残雪が見えるはずですが、今年は猛暑の影響なのか、白い部分は一切ありません。

もうすぐ秋のはずなのですが、何やら足止めされた感があり、庭からはキンモクセイの甘い香りはしてくるものの、いまひとつこの空気感と合わないかんじがします。

そんな気候なので、外出しよういう気にもあまりならず、先週から家の中の片づけを初めています。引っ越し後、一年半を経てもなお片付いていない荷物があり、それらを押し込んでいた小部屋を整理し始めたのがきっかけで、いざ始めてみるとスイッチが入ってしまい、その他の部屋の中の荷物も片づけ始める始末……

しかし、そのおかげで普段目にすることのない、古い写真なども発掘されるところとなり、その中にはかつて若かりし頃にフロリダへ留学していた時代の写真集もありました。

あぁ~これは懐かしい、と思わず見入ってしまいましたが、さすがに四方を海に囲まれているフロリダであるだけに、その中には美しい海岸線を撮ったものなどもたくさん含まれていました。

フロリダ半島最南端にあるキーウェストに旅行に行ったときのものもあり、そこにはフロリダ半島から離れ、島から島へと延々とさんご礁の海の上を走るにかかる「オーバーシーズ・ハイウェイ」と呼ばれる国道US-1号線の写真などもありました。

42もの橋を渡っていくこの道路はアメリカ合衆国で最も美しいハイウェイであるといわれており、途中、全長6.765マイル(10.887km)もある有名なセブンマイル・ブリッジも渡ります。

このキーウェスト付近一帯を三角形の一角として、東へ放射線状に広がる海域は、いわゆるバミューダトライアングル(Bermuda Triangle)、または「魔の三角地帯」とも呼ばれており、これはここキーウェストと大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域です。

昔から船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが消えてしまうという伝説があることで有名であり、通過中の船舶や飛行機が突如何の痕跡も残さず消息を絶つ海域とされ、100年以上前から100を超える船や飛行機、1000以上の人が消息不明となっているとされています。

しかし、多くの場合はハリケーンなどの悪天候時に起こったものや操縦ミス、計器の確認ミスではなかったかと現在では考えられており、統計上も船や飛行機などの遭難件数が他の一般的な海域よりも多いという事実はないというのが実際のようです。

私もフロリダに9か月ほど滞在していたため経験しましたが、この地域は霧の多発地帯として有名であり、このほかハリケーンの通過も多く、これらの遭難事件はこうした自然現象に遭遇して遭難したと証明されている案件も多いようです。

一例として、1945年12月5日にアメリカ海軍のアヴェンジャー雷撃機5機が訓練飛行中に消息を絶った事件については、それ以降、典型的なバミューダ・トライアングルでの超常現象として取り扱われるようになりましたが、この事故は悪天候に加えてパイロット達の訓練不足による方向亡失によるものではなかったかと現在では考えられているようです。

単に自然現象によるものだけでなく、この海域では周辺に目印となる島や構造物が非常に少ないため、遭難しても救助されにくいといったこともあり、特に強力なメキシコ湾流が流れており、短時間で航空機や船舶の残骸が遠くに流されるという事も考えられるようです。

そうしたことをいいことに、晴天時においてもある日突然乗組員のみが消えてしまうといった、事実を誇張または歪曲して語られる事件も増え、これがやがて「伝説」として、広く知られるようになっていったものと考えられます。

さらにはこの海域から数百キロ、あるいは1000キロ以上も離れた場所で起きた事故や遭難であっても、あたかもバミューダトライアングルでの事件であるかのように語り継がれるようになり、実際にこの地域で起きた事故を遙かに上回る数の遭難が関連付けられるといったこともあるようです。

発生現場が遠く離れた太平洋であるにも関わらずこの事例に入れられたものまであるようで、これらはますます「伝説」の信憑性が増すという悪循環を引き起こし、「事故や遭難が多発する地帯である」という誤った認識が広まってしまったようです。

ただ、この海域には、近世以降探検家たちに恐れられた「サルガッソ海」があり、ここは多くの船舶が沈没したり行方不明になる「魔の海」「船の墓場」であるという伝説で知られています。

伝説では、風が吹かず帆船が何週間も動けずにいる間に船体に海藻が絡みつき、風が吹いたときには既に動けなくなっており、ボートで船を引っ張ろうとしてもそのボートのオールに海藻が絡み付く、あるいはスクリューが海藻に絡み付くなどして船が航行できず、船乗り達は水と食糧の不足でしばしば全滅した、などと言われます。

また、無人となった船は、その後も幽霊船となって長い間この海域をさまよいますが、やがて帆が腐り、マストが倒れ、最後には海藻に付着して一緒に流されてきたフナクイムシに船体を食い荒らされて沈んでいき、無数の船がこの粘りつく海に捕まり脱出できぬまま沈んでいくと信じられてきました。

ところが、実際にはこの海域の特異性を原因とした明確な遭難記録は皆無なのだそうです。
この海域は、たしかに貿易風と偏西風の狭間に位置する高気圧帯のため、帆船の航行に適した良風が吹きにくいという事実はあるようです。

このため、貿易風や偏西風を利用して大西洋を航海していた帆船時代、この海域に進入すると船の速度は著しく落ち、凪の状態になった場合には身動きがとれなくなるといったことも実際にあったようです。

魚がほとんど捕れない海域でもあり、船乗りは乗員の食糧保全のため、積荷の馬を食料とせざるを得なかったことから、その昔は、このサルガッソ海を含む北緯30度付近の大西洋中央海域のことは「ホース・ラティテューズ(Horse Latitudes, 馬の緯度)」と呼ばれていました。

このようにサルガッソ海は、本来の大西洋横断航海コースから外れた風の弱い海域であり、当時の船乗りにとって忌避すべき海域であったことは確かであり、またこの海域は海流の澱みのようになっているため、他の海域に比べて浮遊性の海藻が集まりやすくなっています。

しかし実際には、ホンダワラ類などに代表される表層浮遊性の海藻はほとんどが単に海面上を浮遊しているだけであり、海底に根は持っていません。従って外洋航海用に作られた船舶がそれにより航行不能に陥る事はあり得ませんし、また、海面下数メートルに位置するスクリューに、表層を漂うだけの海面上の海藻が絡み付くこともまずありえません。

従って、このサルガッソ海もまた魔の海でもなんでもなく、単に風や海流などの擾乱といった激しい海象が起こりにくい海域、というだけのことのようです。

しかし、バミューダ・トライアングルだけでなく、ここから遠く離れている海域などでも、過去には何の消息も残さず、海や空の上で突如として「消えた」と思わせるような事件は何件か起こっており、解決できないまま終わっているものもあることも確かなようです。

その一例として有名なものに、メアリー・セレスト号事件というのがあります。

メアリー・セレスト号とは、1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された船であり、発見当時、船内のデッキは水浸しでしたが、操船可能な状況であったにもかかわらず、誰も乗っていませんでした。なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされています。

1872年といえば、日本では明治4年のことであり、少々古い出来事でもあるためその信憑性が疑われるところですが、アメリカ船籍の船であり、記録としてはしっかりしたものが残っています。

その出航は、1872年11月7日のことであり、船長ベンジャミン・ブリッグズの指揮下、メアリー・セレスト号は工業用アルコールを積み、ニューヨーク港からイタリア王国のジェノヴァへ向けて出航しました。船には船員7人のほか、船長とその妻サラ・E・ブリッグズ、娘ソフィア・マチルダの計10人が乗っていたそうです。

メアリー・セレスト号は、全長103フィート(約31メートル)、282トンの2本マストの帆船で、もともとは1861年に建造された「アマゾン号」という船だったようですが、その後数回にわたって所有者が変わり、1869年にメアリー・セレスト号と改称されたことなどもわかっています。

当初からいわく付きの船だったようで、建造中におびただしい数の事故が発生したとも伝えられています。

発見されたのは、ニューヨークを出港してからほぼ1か月後の1872年12月4日のことであり、発見したのはメアリー・セレスト号の7日後にニューヨーク港を出港した、同じくアメリカ船籍のデイ・グラチア号という船でした。

その船長モアハウスという人物は、メアリー・セレスト号の船長ブリッグと親しい間がらであったといい、出港前に会食をしています。このことは、その後船長二人の共謀による詐欺疑惑を招いたそうですが、結局はモアハウスが罪に問われるということはありませんでした。

デイ・グラチア号の乗組員はメアリー・セレスト号を発見したときすぐに接近せず、2時間ほどこれを観察したのち、遭難信号を掲げていないのでおそらく漂流中なのだろう、と判断しました。

そして、実際に乗り込んで確かめるべく、一等航海士のオリバー・デボーが小さなボート数隻を率い、メアリー・セレスト号に向かっており、このときのことをデボーは「船全体がびしょ濡れだ」という表現で報告しています。

ポンプは一基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3フィート半(約1.1メートル)にわたって浸水していましたが、船は他の点では良好な状態であり、操船も可能でした。が、不思議なことに、船内にはひとっこひとりいませんでした。

ただ、前ハッチも食料貯蔵室も共に開いており、掛時計は機能しておらず、羅針盤は破壊されていました。しかも六分儀とクロノメーターは失われており、このことから船員がこれらを持って故意に船から脱出したことなどが想像されました。

その証拠にこの船唯一の救命ボートが失われており、このボートを降ろした場所近くの3箇所の手すりには血痕が付着し、また1つの手すりには説明のできない引っかき傷があったそうです。

結局原因のわからぬまま、メアリー・セレスト号はデイ・グラチア号に牽引されて、当初の目的地のジェノヴァに到着し、積荷の1700樽のアルコールもここで降ろされました。

その後の船内臨検では、このうちの9樽が空であることがわかりましたが、それ以外の6か月分の食料や水はそのまま残されていたそうです。船内の書類は、船長の航海日誌以外は全く見つかりませんでしたが、その最後の日誌の記入は11月24日の、アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれていました。

この場所はその翌日には、そのすぐ近くにあるセント・メアリー島という島に到着できる位置であり、そんな近くで船を放棄したことも大変不思議なことでした。

その後メアリー・セレスト号は、デイ・グラチア号の乗組員によって、スペイン西部のジブラルタルまで曳航されました。

このとき、ジブラルタルの海事裁判所事務官はアルコールの9樽の中身がなくなっていたことなどから、デイ・グラチア号の乗組員が不正行為を行っていたのではないかと疑い、彼らによる海難救助の申請を事実上の裁判として扱いました。

しかし結局、裁判所はメアリー・セレスト号を発見、牽引してきたデイ・グラチア号の功績を認め、乗組員に船体と積荷の価格の15%に相当する賞金を与えました。

メアリー・セレスト号はその後修復され、12年間さまざまな所有者により利用され、最後の船長は保険金を得るため、故意に船を沈めようとしたそうですが、リーフ上だったために座礁しただけに終わりました。

その船の残骸は、2001年8月9日に有名な海洋冒険作家のクライブ・カッスラーとカナダの映画プロデューサーのジョン・デービス(カナダECO-NOVA Productions社長)が率いる調査隊によって発見されています。

メアリー・セレスト号が遭難したその翌年の、1873年初めには、スペイン沿岸に2隻の救命ボートが上陸したと報じられました。

1隻には1人の遺体とアメリカ合衆国国旗が、もう1隻には5人の遺体があったそうですが、これがメアリー・セレスト号の乗組員とその残留物であったか否かについての照合が行われたかどかの記録は残されていません。しかし、失われた救命ボートは1隻だったはずであり、このことは事実とあいません。

これらのことから、この発見された遺体などもメアリー・セレスト号と関連付けるのは無理があると思われます。それ以降、メアリー・セレスト号の乗組員と、同乗していた船長の家族は、共にその消息は全くわかっていません。

このため、彼らの運命を巡っていろんな憶測が飛び、それらの中には興味本位に虚構を織り交ぜたような話もあります。

有名なものとしては、デイ・グラチア号の船員がメアリー・セレスト号に乗り移ってみると、船内には食べかけの朝食がまだ暖かいまま残っており、ほんの一瞬前まで全員が何事もなく乗船していたようであった、というものです。

しかし実際にはデイ・グラチア号の船員は、後の調査でそのような事は全く無かったと証言しており、これは後付されたデマです。救命ボートがすべてそのまま残っていたとする話も伝えられていますが、これも後に創作されたものです。

この事件で最大の謎とされるのは、なぜ船長の家族を含む乗組員が船を放棄して行方不明になったかという点です。

その謎を説明するために、世俗的なものから、ファンタジックなもの、もっともらしいものに至るまで、いくつもの説が提出されてきましたが、最も有力で信憑性のある説としては、その積荷がアルコールの樽であったため、船長らがこれを危険と考え、それから離れようとした、という説です。

もし、失踪した9つの樽からアルコールが漏れていたとし、アルコールが樽から激しく吹き出したため船長は船が爆発すると考え、全員に救命ボートに移るよう命令した、という説であり、このとき急ぐあまり、彼らは丈夫な引き縄で船と救命ボートを適切に結びつけることができなかったのではないか、と推定されます。

しかし、その後海上が荒れ、風雨が激しくなったため、船は救命ボートから離れてしまい、やがては命綱が切れて、ボートに乗った者は溺れたか、あるいは海上を漂流して飢え、渇き、死んだのではないか、というのです。

このアルコール漏れ説は、その後、実際にそういうことがあった場合に引火爆発の危険性があるかどうかについて実験まで行われており、その結果、船倉内のアルコール蒸気が燃焼すれば十分に船員たちに畏怖の念を抱かせるほどの爆発は起こり得ただろうとの結論が得られています。

このほか、海賊の襲撃があったのではないかとする考えもありましたが、海賊なら、頑丈な船とその船荷を残しておく事はなかっただろうと推察され、また、船員らを誘拐して身代金を取ろうとしたということもなかったことから、海賊説もまた否定されています。

しかし、結局このメアリー・セレスト号事件の乗組員の失踪の理由については、現在までも確固たるものは特定されていません。

船そのものが十分に操船できる状態で発見されたにも関わらず、乗組員が発見されないという怪異な事件は過去にはなく、またこれほど物証が数多く残っているにも関わらず、原因がわかっていないというものも他に例をみません。

しかし、過去に起こった海難事故の中には、遺留品がまったく発見されない、といった例はゴマンとあります。

遺留品が発見されない場合、これらの単なる遭難事故を「怪事件」に仕立て上げてしまうことは簡単であり、そのつどいろんな「専門家」現れて原因仮説をたてたがります。

それらの中には、バミューダ海域には宇宙で見られるようなブラックホールが密かに存在し異世界と通じていて、それに飲み込まれてしまうと戻れなくなるのだろうという「ブラックホール説」や、宇宙人がUFOを使い、航空機や船舶そのものや乗客・乗員をさらったという「宇宙人説」など、ちょっと行き過ぎではないの?というのもみられます。

しかし、れっきとした大学教授などによってたてられた「メタンハイドレート説」のように、本当にあるかも、と思わせるようなものもあります。

これは、オーストラリアのメルボルンにあるモナッシュ大学ジョセフ・モナガン教授らによって2003年にアメリカの物理学雑誌に発表された説で、海底のメタンハイドレートによってメタンの泡が大量に噴出し、これに船舶などが瞬時に飲み込まれ、浮力を失うことで沈没するという、説です。

また、航空機の場合でも、エンジンが大気中を上昇したメタンを吸い込むことで酸欠が生じ、これによって不完全燃焼を起こし、出力低下から揚力を失い墜落することもある、とモナガン教授は説明し、この現象はレシプロ、タービンエンジン両方でも説明が可能であるとしています。

ただし、「メタンハイドレート説」の矛盾としては、この海域で過去に生じた失踪事件がもしこれが原因だとすれば、多数の残骸が残るはずなのに実際には残骸が残っていない、という点です。

海流で流されたと考えられなくもありませんが、まったく痕跡を残さず残存物が消え去るということはありえず、何らかの形で残る物もあるはずですし、また生存者が全く無いというのもいささか不自然です。

このほか、メタンハイドレートは世界中の海底に存在し、特にこの海域にのみ多いというわけではないようで、メタンハイドレートを多く産出する日本近海でも起こってもおかしくなさそうですが、過去にそういう事実はなさそうです。

このほか、海洋上に発生した大量の冷気の塊が海面に落下し、バースト(破裂)したように強風を引き起こす「マイクロバースト説」をとなえる学者もいて、これは従来のレーダーに捉えられず、短期間で収まるため、消滅事件の原因としては十分にありえるとして注目されたこともあります。

ただ、マイクロバーストは低空でしか発生しないため、高空を飛行する飛行機で事故が発生する理由は説明できていません。

このようにバミューダ・トライアングル、というものが実際にあるかどかは別として、それ以外の海域も含めて、そこでの船舶や航空機の失踪事件を完全に説明することについては今のところ、これといった決定打はなさそうです。

ま、海だけでなく、陸上でも未解決な失踪事件は多数あり、それをすべて解決するというのはどだい無理な話です。

ただ、これを超常現象と考えれば、フィクションの題材としては大変面白いので、これまで多くの作品が発表、出版、上映されてきており、それはそれで我々の想像力をゆたかにする材料であり、これらがこの世に存在することを否定されるものでもないでしょう。

バミューダ・トライアングルが登場する作品としては、小説やアニメ、漫画、ドラマ、ゲーム、音楽と幅広く、これらの作品の中には、我々のインスピレーションを大いに刺激してくれるものも多数あります。

少々古いですが、シンセサイザー奏者として有名な冨田勲さんが1978年に発表した「バミューダ・トライアングル」は、バミューダの海底にあるといわれている巨大なピラミッド型隆起を舞台に、メドレー形式で進んでいくといった内容であり、なかなか壮大なミュージックでした。

秋の夜長にこうした壮大な音楽を聞きながら、バミューダ・トライアングルの謎を自分なりに解いてみるのもまた一興かも。

この世には不思議なことが満ち満ちています。が、それがすべて解決してしまったら、この世もあまり面白い世界とはいえないかもしれません。少しくらい、現在科学をもってしても解決不能なことがあっても良いでしょう。それゆえに人間の探究心が育てられるといった側面もあるでしょうから。

さて、今、あなたにとって一番の不思議はなんでしょうか?

私にとって今一番の不思議は、夜な夜な減っていく酒瓶の中身です……

古代コンクリートをつくろう

先日のこと、以前人気のあった男性お笑いタレントさんが、高速道路での事故により亡くなったとの訃報が入ってきました。

スカート丈の長いセーラー服、竹刀、ロングのパーマかつらといったいでたちで現れ、そのネタの内容は、初めに数名の観客を指名し、ご本人のボケに対して指定された言葉を観客にツッコませるというもので、このお笑いは一時大人気でした。

ところが2年ほど前、一部の新聞等で、この芸人さんが傷害事件を起こしたとの報道があったそうで、それをきっかけにこのタレントさんはテレビからは姿を消していました。

ご本人はブログにて「事実無根の内容が一部報道されている」と述べ、弁護士を通じて警視庁の捜査関係者あてに名誉毀損を訴える法的措置を取る意向を明らかにしていたそうですが、テレビへの復帰もままならないままに不帰の人となってしまいました。

事実関係のほどがどうだったのかはいまとなってはよくわかりませんが、実際には書類送検まで進むこともなく終わり、仮にそうしたことがあったとしても、ご本人もこの世界から締め出されるなど十分に制裁を受けていることから、もう時効にしてあげても良いのではないかという気はします。

聞くところによると、日本大学の芸術学部映画学科演技コースを卒業されており、役者を目指していた一時期もあり、声優などの仕事もこなすなど幅広い分野で活躍されていたようです。

才能ある人だったように思うだけに、大変残念なことですが、いまはただご冥福をお祈りしたいと思います。




ところで、この芸人さんが亡くなったのは、山口県の美祢市を通る中国自動車道上でのことだったそうです。

この美祢市は、山口県中央部にある市であり、市といいながらもその中心部は山合いに囲まれた小さな町といった風情の場所です。私も何度もここを通ったことがありますが、なんというか、のんびりしたというか、ひなびたというか、住んでいらっしゃる方には大変失礼ですが、まぁ田舎です。

市名の「美祢」の由来も山(峰)に囲まれていることから、峰が美祢に転訛した、というのが定説のようで、日本海側の長門市・萩市との間に中国山地が横たわっている関係から、冬季は凍結や積雪も比較的多い場所です。

2008年(平成20年)に、それまでは、旧美祢市の東側にあった美祢郡美東町と秋芳町と呼ばれていた町々を吸収合併し、新市制によって美祢市となりました。

この秋芳・美東地域は、秋吉台国定公園を中心とした観光業が主たる産業であり、秋吉台・秋芳洞をはじめとする観光資源が多数存在することで知られており、行ったことがある方も多いのではないでしょうか。

秋吉台は日本最大のカルスト台地であり、地表には無数の石灰岩柱とともに石灰岩が水で侵食されてできた多数のドリーネと呼ばれる穴が点在しており、こうした地形は、地質学的には、「カッレンフェルト」と呼ばれています。

その地下には秋芳洞、大正洞、景清穴、中尾洞など、400を超える鍾乳洞があり、その数と規模は日本最大ともいわれており、近年も次々と新しい洞窟が発見されているそうです。これらの鍾乳洞の多くは、観光路が整備されて公開されており、その主だったものを見るだけでも丸一日はかかるでしょう。

一方、旧美祢郡美東町のほうには、長登(ながのぼり)地区と呼ばれる場所に、7〜10世紀の頃が最盛期だったわが国最古の銅山があり、これは「長登銅山」と呼ばれていました。

ここで採掘された銅は、京都へ運ばれ、奈良の大仏鋳造に献納されたことが確認されており、「長登」という地名も「奈良登り」の訛と伝えられています。美東町ではこの大仏さんを町のマークとして登録するなどして、「大仏の町」としての地域おこしを図っており、「道の駅みとう」を中心に内外へその観光要素のアピールを行っています。

この地域ではやはり農業が主要産業です。ゴボウ・ホウレンソウが特産であり、このほか特に秋芳町では、「秋芳梨」と呼ばれる梨が特産で、これは他地域産のものよりもみずみずしくてなかなか美味です。つい先日も山口の母がこれを送ってくれたものを、夫婦二人でほおばり、秋を感じたばかりです。

一方、市の西部にある旧美祢市は、どちらかといえば工業の町として栄えてきました。明治維新後に「無煙炭」の採掘がおこなわれるようになり、これによって「大嶺炭鉱」が設立されたほか、セメントの材料となる石灰石もの産出も行われるようになり、特に大嶺炭鉱の無煙炭は、戦前の軍艦などの燃料として重宝されました。

石灰石に関しては、現在もなお全国有数の国内シェアを誇っており、大嶺炭鉱が閉山したことで一時期かなり町の人口が減りましたが、現在でも宇部興産や太平洋セメントといった大企業による石灰石の産出は続いており、市としても工業団地の誘致などの政策をとりつつ工業都市としての面目を保ち続けようとしています。

さまざまな化石が産出されることでも知られており、これは、美祢市や美東町、秋芳町といったこの地域全体がその昔は海の底にあり、これらの化石を含んだ岩石は太古の珊瑚の海であった名残であることのあかしです。

珊瑚は死化すると石灰岩になることで知られています。このため、この地域の土地の大部分は石灰質であり、あちこちの主要道路沿いに石灰層を見ることができ、また場所によっては石炭層を見ることもできます。

美祢市で石灰石の産出が始まったのは、明治のはじめのことであり、1881年(明治14年)に、笠井順八により小野田セメントセメント製造会社が設立され、これは会社設立の年月では最も古い企業とされています。

小野田セメントは、1994年に秩父セメントと合併して秩父小野田となり、さらに1998年には浅野セメントから改名した日本セメントとも合併し、「太平洋セメント」になりました。

2012年(平成24年)現在、太平洋セメントは、子会社254社、関連会社110社で構成される「太平洋セメントグループ」として今もセメント業界におけるトップとして君臨し続けています。

一方、1897年(明治30年)には、山口県南部の宇部市に石炭や石灰石の採掘を目的として「沖ノ山炭鉱組合」という組織が設立され、これが後の「宇部興産」になりました。

宇部興産もまた小野田セメントと同じく、美祢市内の伊佐地区で石灰石を採掘していましたが、創業当時は宇部地区にあった沖ノ山炭鉱のほうがどちらかといえばメインでした。現在では化学製品の生産を中心とした事業展開を行っていますが、現在も化学製品だけでなく、石灰石、セメント類、石炭を供給しています。

社名にある「興産」には、「地域社会に有用な産業を次々に興す」という意味が込められており、この社名から読み取れるとおり、同社は創業時より各々の事業だけでなく、教育機関や港湾、ダム、上水道の整備等を通して、山口という地域の社会資本整備に大きな役割を果たしてきました。

旧三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)をメインバンクとする企業から構成されるみどり会の主要構成企業であり、かつては日立造船、帝人とともに三和御三家と呼ばれていたほどの企業で、その関係上、宇部市には山口県内唯一の旧UFJ銀行(現在は三菱東京UFJ銀行)の支店が存在しています。




この宇部興産がすごいのは、山口県での生産拠点が宇部地区と美祢市の伊佐地区に分散していたことから、両工場を結ぶ全長28kmにも及ぶ企業専用道路を作ってしまったことで、これは「宇部興産専用道路」と呼ばれ、日本一長い「私道」として知られています。

宇部市内ではこの道路が宇部港に架かる1kmの橋梁に接続しており、この「興産大橋」もまた、「私橋」として有名です。

「宇部興産専用道路」では、美祢市伊佐と宇部市大字小串の宇部セメント工場を結び、伊佐石灰石鉱山で採掘した石灰石と、伊佐セメント工場でつくったセメントの半製品などを専用トレーラーで宇部港まで運搬しています。

この道路は、私道であるため、工場構内などと同じ扱いであり、道路運送法・道路交通法・道路運送車両法の適用を受けないことから、使用されるトレーラーは専用道路向けの専用仕様であり、二連・三連のこの超弩級のトラックの姿を近くでみると驚かされます。

無論、ナンバープレートはとりつけられておらず、この道路でしか走れないものです。法規に基づかないため、舗装も分厚く、道路幅員も普通よりも広くとってあり、一部の区間(宇部市内)で一般道と平面交差しているため、一般道の交通遮断と誤進入防止のために鉄道の踏切警報機まで設けられています。

この踏切は、人気番組の「ナニコレ珍百景」(テレビ朝日系)などのテレビ番組で紹介されたことがあるそうです。また、道路自体も1994年(平成6年)に開催された広島アジア競技大会で自転車のロードレース競技用として用いられたことから、記憶しておられる方もいるのではないでしょうか。

一方の興産大橋のほうは、宇部港内(厚東川河口)をまたぐ橋として1982年(昭和57年)に開通したものです。宇部港内への船舶の航路を確保するために36mもの高さがあり、これは、東京ゲートブリッジの55mよりは低いものの、一企業が作った橋梁としてはかなり大きいものです。

航路の確保もさることながら、宇部港沖の海苔漁場に影響を与えずに建設する必要があったため、その基礎は鋼管杭を海底に打ち込んで建設されており、この杭の重量だけでも6,400tもあったそうです。

しかも、上部の橋の部分も10,000tもある巨大なもので、4つの部分に分けて工場で製作され、現地で一つに組み立てられ、本州四国連絡橋の架橋用に建造された世界最大級(3,000トン)のフローティングクレーン船「武蔵」で吊り上げて宇部港まで運搬、一括架橋するという工法が採用されました。

これら一連の工事は、21ヶ月間で無事故のうちに完工し、開通した1982年(昭和57年)には、日本鋼構造協会の業績賞を受賞し、さらに翌1983年(昭和58年)には民間企業発注の橋としては初めて土木学会田中賞を受賞しています。

現在も宇部興産の専用の橋として使われていますが、以前私が地元の建設コンサルタントさんに聞いた話では将来的には民間にも公開共用される予定なのだそうで、今は専用道路と同じく一般車両は通過できませんが、いずれ帰郷した際にここを通る機会ができるかもしれません。

ところで、こうした太平洋セメントや宇部興産といった山口県を代表する企業が美祢市で採掘している「石灰岩」は、セメントだけではなく、ほかにもいろんな用途に用いられていることをご存知でしょうか。

その一つは製鉄であり、銑鉄を作る高炉の中に入れる鉄鉱石・コークスと一緒に石灰岩が入れられています。これは鉄鉱石中に含まれる雑多な岩石類などの不純物を、石灰岩が熱分解して生じる塩基性の生石灰(酸化カルシウム)と反応させ、溶融状態で高炉の外に取り出しやすくするためです。

また、石灰岩を高温で焼くと、生石灰が得られ、この生石灰に水を加えると消石灰が得られます。消石灰は、グラウンドなどに白線を引くラインパウダーによく用いられるほか、火力発電所の排ガス中の硫黄酸化物の除去、酸性化した河川や土壌の中和剤、凝集剤としても用いられます。また、生石灰は漆喰の原料としてもよく使われています。

このほか、石灰岩の粉末は土壌改良剤としても使われます。生石灰(炭酸カルシウム)は弱アルカリ性であり、酸成分を中和する作用があります。このため化学肥料や有機物の分解で酸性に片寄った土壌を中和させるために石灰岩の粉末が使われるのです。

さらに石灰は、ガラスの原料や陶磁器を造る際の白色の顔料の素材としても使われており、今や我々の生活にとっては必要不可欠の材料と言っても良いほど、いろいろな分野で使われている材料です。

しかし、我々の生活にとっておそらく一番寄与しているのはやはり、セメントとしての利用でしょう。

セメント(Cement) とは、一般的には、水や液剤などにより水和や重合し硬化する粉体を指し、一般的にはモルタルやコンクリートとして使用される、「ポルトランドセメント」や「混合セメント」といった水を加えることで硬くなる「水硬性セメント」が有名であり、これらを通常は「セメント」と我々は呼んでいます。

セメントの利用は古く、古代ローマの建築物の中にモルタルとして使用されたセメントを使用したものが数多く残っています。が、この当時のものは水と混ぜる度合いが少なく、現在のもののようにドロドロとはしていませんでした。

現在のように、水酸化カルシウムとポゾラン(火山土や軽石)を混合し、これと水を混ぜた「水硬性セメント」が発見されたのがいつごろなのかは不明です。が、古代ギリシアや古代ローマの時代にはすでに、凝灰岩の分解物を添加した初期の水硬性セメントが水中工事や道路工事などに用いられていたようです。

現代我々が普段使っているポルトランドセメントは、これらの古代セメントを更に使いやすく、かつ高い強度が出るように長い時間をかけて改良したものです。

その歴史を書いているとそれだけで終わってしまいそうなのでやめておきます。が、簡単にその性質だけ述べておくと、この現代のセメントは、固まった直後にはそれまでの化学反応によってアルカリ性が強い性質を持っていますが、やがて時間が経つとともに空気中の二酸化炭素によって炭酸化し、これによって表面から中性化していきます。

このため、時間が経過すればするほどしだいに強度を失っていき、施工方法や添加剤の有無などにもよりますが、一般的なコンクリート建造物の寿命は、およそ50年程度と言われています。

従って1969年に行われた東京オリンピックに合わせて造られた首都高速道路などはそのほとんどがコンクリート製ですが、そろそろその耐用年限に近づいており、今から7年後のオリンピックでは50年以上となり、非常に危険です。

そのことは国土交通省や東京都も重々ご承知でしょうが、今からもう造りかえるか何等かの修復措置をとらないと、次回のオリンピックのときに次々と事故が起こり、大会を中止せざるを得なくなる、なんてこともあり得ない話ではありません。

昨年の12月に起きた、中央自動車道の笹子トンネルの天上板落下事故と同じような事故が起こってしまっては遅すぎます。今からなんとしても根本的な対策をたててほしいものです。

ところで、古代にローマなどで造られたコンクリート建造物は、未だに劣化せずに残っています。これは何故なのでしょうか。

こうした古代のコンクリートで造られた構造物としては、その代表的なものとして、ローマのカラカラ浴場などがあり、このほかにもローマ水道やローマ橋の多くは、コンクリートの構造を石で覆っており、同様の技法はコンクリート製ドームのあるパンテオンでも使われています。

このパンテオンは「ローマン・コンクリート」というコンクリートを用いており、これを使った建築物としてはおそらく最も有名なものであり、内径43m、天窓の直径9mという巨大建築物です。BC25年に創建されたといいますから、その歴史は優に2000年を超えています。

ローマン・コンクリート (Opus caementicium) とは、生石灰のほかに、軽石などの骨材を加えて水で練ったものであり、このほか「ポッツオーリの土」と呼ばれるポゾランという火山灰が加えられたことなどがわかっています。

ローマ建築に広く使われたこの古代のコンクリートは、建築史上の画期的革命をなしたともいわれており、無論、古代ローマ人にとっては革命的な材料であり、この発明によってはじめて石やレンガに制限されない自由で斬新な設計の建築が可能となりました。

アーチやヴォールト(かまぼこ状の天井様式)やドームの形状にすると素早く固まって剛体になり、石やレンガで同様な構造を作ったときに問題となる内部の圧縮や引っ張りを気にする必要がありません。

最近の評価によると、ローマン・コンクリートは現代のポルトランドセメントを使ったコンクリートと比較しても、圧縮に対する強さは引けを取らない(約200 kg/cm2)といわれています。

ただ、鉄筋が入っていないため、引っ張りに対する強さははるかに低く、また、現在のコンクリートは固まる前に流動的で均質であるため型に流し込むことができますが、ローマン・コンクリートでは骨材として瓦礫を使うことが多く、手で積み重ねるようにして形成する必要がありました。

ローマのパンテオン

これを現在使うためには相当いろいろな工夫が必要と考えられますが、これらの弱点を現在の技術でうまくカバーできれば、より長期に渡って使えるコンクリートができそうです。

こうした古代コンクリートは、地殻中の堆積岩の生成機構と同じ「ジオポリマー」という反応によって結合して「ケイ酸ポリマー」という物質を形成するため、強度が数千年間保たれているといわれており、これは「無機質プラスチック」と同じようなものだといいます。

ウクライナの科学者のビクトール・グルホフスキーという人が、これを発見したとされており、彼は古代のセメント製造法を調べ、この「ジオポリマー」反応を起こすためには、アルカリ活性剤を加えることを発見しました。

この研究に影響を受けたフランス人の化学エンジニアでジョセフ・ダヴィドヴィッツという人はその後、古代セメントの結合構造であるジオポリマーの化学的構造を解明しました。

ダヴィドヴィッツ博士はさらに、エジプトのピラミッドの外殻に使われている石灰岩は自然石を切り出したものではなく、これもまたジオポリマー石灰石コンクリートの一種である人造石で造られたとする説を発表しています。

このほか、高句麗国の将軍塚などのエジプトのピラミッドと共通の外観を持つ石積みの古墳や、同様の大陸式山城の石組みを用いた、日本の神籠石(こうごいし)と呼ばれる巨石(九州から瀬戸内地方にみられる)によって築かれた山城にも同じジオポリマ-技術が使われていることが、顕微鏡を用いた分析からも確認されているといいます。

近代日本でも鹿児島大学の先生が桜島から噴出する「シラス」の有効活用のために同様の研究をしているといい、また、美祢市のある山口県の山口大学工学部でも地球温暖化防止と鉱物質廃棄物処理に対応させるため、ジオポリマー技術の有用性が研究されているそうです。

最近の研究の成果から生まれたジオポリマーで作られたコップは、コンクリートの床に落としても、陶器のように割れることなく跳ね返るなど、極めて強靭な性質を備えているといいます。




このように近年、この古代コンクリート技術は徐々に見直されつつあり、強度が高く、強度発生までの時間が短いため、軍事面での応用や研究も行われているそうです。また、鉄道の枕木、下水管、滑走路や石造りの建築物の補修など、広範囲の用途で試験的に使われる向きも既にあるそうです。

現在東京だけでなく、全国各地で戦後造られたコンクリート構造物はその使用限界を迎えようとしています。それらを新たに建て替えるとき、従来のポルトランドセメントを用いるのではなく、こうした古代コンクリートを用いるのもまた一つの方法です。

現在これまでに造られたものが、半世紀ともたず、いずれはゴミとなり、「負の遺産」となっていくのに対して、こうした新技術を使った構造物は、我々の世代以降の遠い未来の子孫たちにとって文字通り「遺産」となっていくに違いありません。

手間や弱点があるのは当然ですが、なんとかそれを克服して、次回のオリンピックまでに日本の誇るべき技術として開発してみてはどうでしょうか。

国土交通省さん、いや阿部総理、いかがでしょう。