あなたの彼氏は左利き?


今年は、年初めに風邪をひいてしまい、それまで不定期ではありましたが続けていたジョギングをやめてしまいました。

しかし、梅雨明けの7月ごろからこれを復活させ、以後、ほぼ毎日早朝に30分を目安に走り続けています。

このため体調は悪くはないのですが、時にひざが痛くなることも多く、マッサージが欠かせません。この年齢になると関節の靭帯なども弱くなるので、ジョギングなどの膝に負担のかかる運動はあまりよくない、という話もあるようです。

ジョギングやマラソンよりは、関節に負担のかかりにくい自転車のほうが良い、という話もあるようなので、今後のことも考えて、そちらも検討しようかなと考え始めているところです。

ところで、先日も早朝からこの別荘地内を走っていたのですが、このときふと気が付いたことがありました。

それは、なぜか無意識にいつも道路の左側を走っていることです。ふだん徒歩で歩いているときも、道路交通法上は歩行者は右側、と決まっているにも関わらず、気が付くと左側を歩いていることが多いような気がします。

これは何故なんだろうなーと、自分なりに考えてみたのですが、その思考の行きついたところは、どうやら腕の右利きと関係があるのではないか、ということでした。

道路を歩いているときには、後ろからひっきりなしにクルマやバイクなどの危険が迫ります。万が一これらが自分を襲ってきた場合には、咄嗟に何等かの防衛体制をとらなければならなくなります。が、この時、利き腕の右側であれば、より対処はしやすくなります。

逆に左側をこれらが通過する場合のことを考えたとき、果たして咄嗟の反応で避けることができるか、と自問してみたところ、やはり、右側のほうが対処しやすいよな~と思うのです。

しかし、それにしてもなぜヒトには右利きが多いのだろう、と気になってきたので、今日はそのあたりのことについて、少し調べてみることにしました。

すると、まずわかったのは、そもそも左利きの人は一般的に右手に比べて左手をより多く使うけれども、全ての動作を左手で行うのではなく、実際には完全な左利きは少ないということでした。

文字を書く、箸を使うのは右ですが、ボールを投げたりするのは左を使うなど、動作によって使う手が決まっている場合もあり、また特にどちらの手と決まっていない動作も多いようです。

そうした意味では、左利きの人々は多くの動作で左手を使うことを「好む」というのが正しいようで、このため、「左利き」というよりは、むしろ「両利き」という言い方のほうが説明としては正しいようです。

では、なぜ左利きよりも右利きのほうが多いか、ですが、これには諸説あって、はっきりした理由はいまだにわかっていないようです。

ただ、だいたい成人人口の8%から15%が左利きでだそうで、わずかながら女性よりも男性の方が左利きが多いということです。しかもこの割合は古今東西を問わずほぼ一定だということです。

左利きが生まれるのは、人類の長い歴史の間に、文化・教育・食事などが変化し、その結果後天的に、右利きが多くなったのではないか、とする説もありますが、古代の壁画や石像を見ても右利きの方が圧倒的に多いこともわかっており、歴史の変遷の中で右利きが増えたという説は説得力がありません。

なぜ左利きが少数なのか、以下に左利きが発生する要因についてよく語られている意見を列挙してみましょう。

自然選択説

心臓は左半身にあり、右利きの戦士は右手に武器を左手に盾を持って戦う、左利きの戦士は左手に剣を持ち右手に盾を持って戦います。この結果左利きの戦士の方が心臓を危険にさらされて致命傷を負う確率が高くなります。従って右利きの人間が遺伝的にも多く生き残るという説で、最も主張が多い説です。

しかし、この説では心臓の位置が左半身という前提になっていますが、実際には心臓は身体のほぼ中央にあります。

また利き腕が遺伝することを前提としていますがが、利き腕に関わる遺伝子の存在は確認されていません。さらには、盾を使わない文化圏でも左利きが出ており、盾がまだない石器時代から左利きは少数であり、盾を使わない近代でも左利きは増えていません。

突然変異説

DNAや染色体異常などの突然変異により左利きが生まれるとする説です。しかし、右利きと左利きでDNAや染色体に変化がないことは証明されています。従って、この説は学術的な説ではなく民間で生まれた都市伝説に近いもののようです。

しかし、科学知識のない時代にはかなり信じる人も多く、この説が左手に対するマイナスイメージを生むことになりました。

種の自己防衛説

生物は多様化することによって未知の伝染病や急激な環境変化に遭遇しても全滅することを防ごうとします。左利きが生まれるのもこの多様化の一種であるとする説です。しかし、利き腕の差がその意味で効果があるかと言えば、これに関する傍証データはほとんどないようです。

脳の半球説

右利きの脳と左利きの脳の基本的な違いを脳スキャンで確認した結果、右利きの人はいろんな作業をしているとき、脳の特定部位がその作業のために使われていますがが、左利きの人にはこの集中化はみられず、むしろ分散しているそうです。

また、左利きの人が脳卒中の発作に見舞われた場合、右利きの脳卒中患者よりも復帰が早く、これは左利きの人の脳は、脳の各所に機能を分散する度合いが高く、特定の箇所に集中させる度合いが低いことがわかっています。

さらに、90%前後の右利きの人は言語を制御するのに脳の左半球を使っていますがが、左利きの人は左半球の場合と右半球の場合があり可変です。

以上は、なぜ右利きが左利きより多いか、という問いへの明確な答えにはなっていませんが、これらのことから、一般的な人では、言語と右半身の制御を司る左脳が発達し、このため右利きが多くなる、といったことなどが考えられます。左利きの人はこれらの制御のができ、両方の半脳を司る能力に秀でているということになります。

なお、他の霊長類は、人間のように言語を持たないため、脳の左右にこういった機能の違いはなく、従って利き腕の偏りは見られません。

遺伝によるとする説

イギリス王室の王族の多くは左利きであり、また女王エリザベス2世をはじめ、チャールズ皇太子、ウィリアム王子も左利きです。そのため利き手が遺伝する説の説明によく用いられますが、統計としては分母が少なすぎて参考にならないといいます。

胎内で決まるという説

近年のイギリスで妊娠中の女性1000人に超音波走査を実施した結果、10~12週間目の頃の胎児は左手の親指よりも右手の親指を頻繁に吸っているという結果が出ました。

これまでの説では、3歳から4歳の頃に利き手が決定されるものであるとされていましたが、このことから、10週間目の頃の胎内での手の動きと利き手の関連性についてが取沙汰されています。

しかし、現在のところ胎内において脳が手に対してそれらの命令を出しているという証拠はないようです。

以上を俯瞰すると、私的なジャッジとしては、やはり脳の半球説がもっともらしいかな、という気がしていますが、無論、医学的には何ら証明されているわけでもないようなので、ここで結論とするわけにもいきません。

が、人間が最も人間らしいのは言葉を話すからであり、それを司っているのが左脳であるならば、やはり普通の人なら左脳が制御する右半身のほうが発達する、と考えるのはごくごく自然でしょう。

と、右利きが何故多いのかについては一応自分なりに納得したので、ここで終わりにしても良いのですが、せっかくですから、左利きである人達のメリット・デメリットについてももう少し調べて書いてみましょう。

一般的には、右利きに比べて圧倒的に少ない左利きですから、一般の生活を送るにあたってそのデメリットは多いと思われ、とくに世の中の製品の多くは、右利きの人が利用することを前提に設計されているものが多く、これは左利きにとって不便なだけでなく、危険性が高い場合さえあります。

例えば、機械の操作ボタンの多くは右側に配置されていますし、机に引出しが付く場合はおおむね右側にあります。

刃物・工具の類も右手で使うことを想定した作りになっているものが多く、これらのデメリットに関しては枚挙のいとまもありませんが、私がとくに不便だろうな~と思うのは、文字はそもそも右手で書くことを前提としていることなどです。

例えば、学校では、教室で自分なりのメモを取る分には問題ありあませんが、いざテストになった場合には答案用紙は普通、右利きの人向きに造られおり、右利きの場合問題を見ながら書き込むことができますが、左利きでは問題文が自分の手で隠れてしまうので、いちいち手を浮かせて確認しなければならないという不便があります。

また、公共の場所で書きこむアンケートなどはたいていが横書きで、問が左、回答欄が右になっています。

このほか、一般に左利き用の製品は、右利き用に対して生産数の少ないことから高価となるので、経済的負担を強いられる場合があります。例えばギター、ゴルフクラブなどがあり、私が昔やっていた射撃などでも、左利き用の銃は高価であり、また実用面でも右利きの人のためにそもそも作られているため、その操作は時に危険を伴います。

例えば、多くの回転式拳銃では、回転式弾倉が左側に開くため、再装填しづらく、また、一般的な自動小銃を使用する際、左手で銃把を握った場合は薬きょうの排出口が顔が近くなるので、焼けた薬莢が顔にあたり怪我をする危険性があります。

さらにはこれらの製品を左利きで使ったことのある指導者や知合いが少ないというデメリットもあり、右利きの人の物を借りて使えないというもどかしさもあるでしょう。

また、単に個人で行動しているときには、道具の工夫などによって何等かの対処のしようもあるのですが、集団生活においては、例えば横に並んで食事をする、といったとき、左利きと右利きの利き腕がぶつかるといった問題があります。

建物設計でも、一般的な座席間の距離は、右利きの人だけが並んだことを想定していますし、軍隊などでも、古代ギリシアの槍部隊は全員右手に槍を持つことが前提となっており、左手で槍を持つことは許されなかったそうです。

現代の軍隊でも、上でも述べたとおり銃火器の構造上、標準とされている装備を使うにあたって左利きは不便ですし、日本の警察などでも警官の標準装備は拳銃が右・警棒が左の配置になっており、これは、左利きであっても変える事が認められていません。

こうしたことから、左利きの人は生活の多くの場面で右手や右手用製品を使わざるを得ないので、結果として右手用の物を左手で使うようになり、これが高じると長い間にはもし左利き用の物があったとしてもこれを使えなくなる、といったこともあるようです。

また、箸は左手を使うが筆記は右手を使うなど、用途によって使う手を変えるクロスドミナンス(交差利き、分け利きとも呼ばれる)になる人も多く、さらには努力を重ねて完全な両利きになる人もいます。

ただ、こうした不便からくるストレスや、器具の操作ミスによる事故を起こしやすいなどの理由から、左利きは右利きに比べて平均9年寿命が短いという説もあるそうです。

しかし、一方では逆に左利きであるからこそ生じるメリットもあり、そのひとつとしては、水道の蛇口や電球、機械類を組み立てるボルトなどの操作があります。

これらは通常、取り付けたあと時間の経過によって固着していきますが、いざ開けようとしたときには、締めつけるよりも大きな力が必要です。

一般に、これらに使われているネジは、右手の人用に造られているので、締め付けるときには、右手で右回転させてねじるほうが力が入りやすくなっています。しかしこれを逆に開けるときには、左回しとなり、このときには左利きのほうが力が入りやすくなるというわけです。

このほか、コンピュータのキーボード配列も、ブラインドタッチをする場合には、左手に割り当てられているキーのほうがわずかながら右手より多いそうで、多数の文字を打ち込むときには、厳密に言えばその差が出てきます。

さらに、ビデオゲームのコントローラは、業務用ゲーム・家庭用ゲームを問わず、方向キーやジョイスティックを左手で操作するものが標準となっており、ゲームの種類にもよるようですが、多くの場合、複雑・微妙な操作を要求されるのは左手のほうであり、こうしたシーンでも、左利きのほうが有利なのだそうです。

しかし、左利きの人のほうがメリットが出やすいといわれるのは、やはりなんといってもスポーツの世界でしょう。

左利きであることは、時にハンディになることもありますが、特に野球、ボクシング、相撲、柔道など直接人と勝負するスポーツや一対一で必ず対戦するようなスポーツにおいては左利きであることが有利に作用します。

これは、右利きと左利きの人口比のためであり、当たり前のことですが、左利きが右利きと対戦する機会が多いのに対して、右利きは左利きと対戦する機会が少なくなります。

その差は歴然で、右利きにとっては慣れないフォームの相手と戦う不利に加え、左利きによる逆方向・逆回転の攻撃に翻弄されることも多くなります。

このため、多くのスポーツで左利きを利点として戦う選手がトップクラスにおり、例えばボクシングの世界では、世界王座6連続KOを含む13度防衛の記録を持つ具志堅用高が左利きであることはよく知られています。

また、一般的にサッカーやアイスホッケーなど、相手側と対称のコートで行う球技の場合、右側には右利きの選手、左側には左利きの選手を配置するのが有利であるとされており、こうなると少数派である左利きの選手のストックをいかに多く持っているかが、いざという場面での勝敗の帰趨を制する大きな要因となり得ます。

左利きが珍重されるというのは、同じ集団スポーツである野球でも同じです。とくに野球においては右投げの投手に対して、左打ちは有利とされています。

また、投手の場合でも左投げ投手の人口が少ないため、打者はこうした左投げ投手に出くわす機会はそう多くなく(但し、最近ではサウスポーが優遇されているので必ずしもそうではありませんが)、これは左投手側にとっては有利に働きます。

プロにおいては左投手が優遇されているため対戦機会は多くなりますが、アマチュアでは少ない場合も多く、とくに投手有利とされます。

また、プロレベルになると、左で速球を投げる投手は右より速く感じられるといいます。これが私にはよく理解できないのですが、左ピッチャーに対して右バッターでは彼我の距離がより短く思える、ということなのかもしれません。

さらに、左投手は、セットポジションでマウンドに立つとそのまま一塁を見ることができるので、一塁ランナーの牽制もしやすいというメリットもあります。

近年では、左投手のこうした優位性が広く認識されているので、リトルリーグや中学校の野球部などでも、入部してきた部員が左利きだという理由だけで投手にされてしまうことも珍しくないそうです。場合によっては左利きである学生をわざわざ探して勧誘する、といったことまで行われることもあるそうです。

ただ、左利きの野球選手は、一般に守備位置の制限が大きく、守備範囲としては投手以外では、ほぼ一塁手か外野手に限られるそうです。これは、例えば二・三塁側の内野で捕球を右手、送球を左手で行った場合、一塁方向への送球はどうしても右手で送球するよりも遅くなってしまうことが理由です。

また、捕手になる場合でも、右バッターが多いので、左利きの捕手は送球に不利になります。このため左利き用のキャッチャーミットは都市部でも取り寄せでなければ入手困難だそうで、左利きの捕手の中には、どうしても左利き用のキャッチャーミットが見つからず、右利き用のミットを裏返しにして左利き用に改造したという事例まであるそうです。

ちなみに、左利きであるという有利を行使せず、左利きであっても右腕で勝負している選手も少なからずおり、シアトル・マリナーズの岩隈久志投手や、阪神の鳥谷敬内野手、ヤクルトの由規(本名:佐藤由規)投手、巨人の坂本勇人内野手などが左利きの右投げの選手として知られています。

相撲では、古くは江戸時代に無敵を誇った大関雷電、大正後期の土俵を支配した横綱栃木山、昭和の大横綱として知られる双葉山を筆頭に、柏鵬時代を作った大鵬と柏戸、「黄金の左」の輪島、モンゴル出身の朝青龍などの横綱陣の多くが左利きです。また、現役力士でも琴奨菊や舛ノ山、大岩戸など左利きの力士として知られています。

ただし、相撲の場合は、四つに組んだ状況では、右利きなら左四つ、左利きなら右四つに持ち込むのが有利なのだそうですが、こうした相手に有利な状況に持ち込まれた場合でも、利き腕をあえて下手にして対処する場合もあるので、必ずしも左利きが有利とかはいえないそうです。

それにしても大横綱に左利きが多いのは、やはり長い稽古の間で、左利きならではの長所は何かを考え、圧倒的に多い右利き力士への対処法を身を必死になって探す努力を重ねているからなのでしょう。

さらに、ですが、テニスのダブルスでは、ラケットを握る手が外側にくるように2人が立つ、すなわち、右利きの人が右側、左利きの人が左側に立つことによって、利き手が同じペアよりもカバーできる範囲が広がり有利だそうです。

これはしかし、卓球のダブルスにおいては逆であり、ラケットを振る手が中央にくるように2人が立つ、すなわち、右利きの人が左側、左利きの人は右側に立つほうが有利になるのだそうで、これは利き手を真ん中に集めることで、対戦相手を圧倒する攻撃力を中央に集中させやすいためでしょう。

以上のように、左利きの選手は、ことスポーツ界においては、むしろ優遇され、その結果として一流プレーヤーにまで上り詰める機会も多いようです。

じゃあ、スポーツ以外で左利きが有利な分野は?ということになると、なかなかこれといったものはないようです。

ただ、左利きは少数派であるというハンディを乗り越え、右手をも利き手にするよう努力した結果、両利きとなり、このために右手だけが利き手の人よりも多くの作業において有利になったという話はよく聞きます。

大人になるほど利き手の変更は困難を極めることになるため、こうした人達は子供のころから涙ぐましい努力を重ねて右手も使えるようになったわけですが、一方では、幼少時に周囲の人物が、強制的に利き手の変更を行なわせようとすることも多いようです。

洋の東西を問わず、かつては左利きを身体障害者と考える人・地域は多く、さらには知的障害の一種のように扱う人もいたため、利き手の矯正はかなり高い比率で、時には厳しい体罰を伴ってでも強制されていました。

イギリス国王ジョージ6世は幼少期から少年時代に、父ジョージ5世により左手に長いひもを結び付けられ、左手を使った時には父から乱暴に引っ張られていたそうで、この虐待によりジョージ6世は重度の吃音になってしまいました。

このため、後年、大英帝国博覧会閉会式で、父王ジョージ5世の代理として演説を行った際、吃音症のために悲惨な結果に終わり、聴衆も落胆します。しかしその後その治療にあたった植民地出身の平の言語療法士にも助けられ、のちにジョージ6世として戴冠式に臨む際には、見事なスピーチをして、観衆を沸かせるほどに回復しました。

この話は、2010年に映画化され、「英国王のスピーチ」として公開された結果、好評を博し、第83回アカデミー賞では作品賞など4部門を受賞したのは記憶に新しいところです。私もこの映画は、劇場にわざわざ出向いて鑑賞しましたが、なかなかの感動作でした。

このほか、漫画家の水森亜土や王貞治、ルイス・キャロル、ネルソン・ロックフェラー、ウィンストン・チャーチルも左利きでしたが、同様もしくは類似の虐待を受けており、水森亜土とルイス・キャロルはジョージ6世と同様、吃音に悩まされ、チャーチルもまた生涯後遺症に苦しめられたといいます。

こうしたことから、最近では利き手の変更には諸々の悪影響が出るということが認知されるようになり、事故によって負傷し利き手に重い後遺症が残ったという場合など以外では、よほどにやむを得ない事情が発生しない限りは利き手の変更はあまり行われないようです。

そもそも左利きであることが悪いことではなく、上述のスポーツの例をみてもわかるように、むしろ希少な優れた資質と考えるならば、強制的な利き手の変更のほうこそが考え直さなければならない風習といえます。

また、スポーツの世界だけでなく、音楽や演劇の世界でも左利きで大成した人も多く、ポール・マッカートニーは、左利き用のギターを使用していたギタリストとして最も有名ですし、チャーリー・チャップリンもまたヴァイオリンを左手で弾いていました。

アメリカの大統領には、左利きの人が多いことはよく知られている事実であり、2013年現在、直近の7人の大統領のうち5人までもが左利きです。

トルーマンの時代まで戻れば、12人のうち6人までもが左利きであり、1992年の大統領選挙では、有力候補であったジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントン、そしてロス・ペローの3人は全員左利きでした。

これがどういう理由によるものなのかを分析した学者もおり、それによれば、左利きの人たちは広範囲に物を考えることができるといい、こうした素質は大統領だけではなく、多くの分野でも有効であり、ノーベル賞受賞者や作家、画家などもどちらかといえば左利きが多いという調査結果もあるようです。

左利きの人のうち7人に一人は、言語を脳の両方を使って処理していますが、一般的な右利きの人々の場合、その両方を使える人は20人に一人にすぎないという研究結果もあるようで、両脳を使って言語を操れる人はいろんな分野での器用さに秀でるということもいわれているようです。

脳内で言語に割り当てられる場所が増加することは、コミュニケーション能力の高さにつながるといわれており、これを説明できるデータもあるそうなので、レーガン、クリントン、そしてオバマのような歴代の大統領が雄弁なのはそのためなのかもしれません。

また、両方の半脳球において言語を処理することできる左利きは、より訓練を重ねることでさらなる複雑な論理的思考が可能になることも明らかになりつつあるそうです。

左利きの人は右利きに適している世界でうまく暮らしていかなければならず、そのことがさらなる精神的な回復力を生むのではないかと指摘する学者もおり、マイノリティであることこそが、そのタフネスを生み出すのかもしれません。

ちなみに、全く関係のない話ですが、インドやイスラム諸国では、その昔、トイレでの排泄行為後の処理は、手桶の水を流しながら左手で汚れを洗い落とすのが習慣だったそうです。

なので、現在のように水洗が普及して、シャワーホースを使って水洗いすることが普通になったのにもかかわらず、かつての習慣から左手は衛生面でも不潔(不浄)な手とされるようになりました。

このため、食事の際には左手を隠し、右手でつかんで食べる文化があるのであり、現在でも、公の食事の席では左手を出すのは無礼な行為とされているそうです。

ただしインドやイスラムでも左利きの人はいるはずなので、こうした人達はどうしているのかなと思ったら、やはり食事だけは右手で食べ、その他の動作は左で行っているそうで、たとえ左利きであっても、その手は不浄という原理は変わらないようです。

左手が不条理というのは、こうしたイスラム教の世界だけの話であり、今や左利きは右利きを上回る能力を持つ人々として、注目されつつあるのです。

もしあなたが左利きだとしたら、それを憂う必要はありません。むしろ胸を張ってその能力を誇りましょう。

ところで、「わたしの彼は左利き」という曲が大昔流行りました。歌い手は浅丘めぐみさんだったと思います。

あなたの彼氏は左利きですか?

お伊勢講と無尽蔵


一昨日、伊勢神宮の内宮で20年に一度の式年遷宮が行われ、テレビや新聞等でも大きくとりあげられました。

さらに先の5月には、島根の出雲大社でも60年に一度の遷宮(正確には修造遷宮)が行われており、今年は日本中が「遷宮フィーバー」で盛り上がった年でもあります。

伊勢神宮の遷宮は、明日5日に外宮の遷御(せんぎょ)も行われ終了しますが、巷ではさらに引き続きこのニュースで盛り上がるに違いありません。

ところで、この伊勢神宮というのを、「内宮(ないくう)」と「外宮(げくう)」の2つのお宮の総称、と思っている人も多いようですが、「伊勢神宮」というのは、この二つを含め、紀州を中心に125も存在する関連神社の総称です。

内宮、外宮のほかに、14所の「別宮」、43所の「摂社」、24所の「末社」、42所の「所管社」があって、合計125社であり、これらは伊勢神宮のある伊勢市を中心とした周囲の4市2郡に位置しています。

これらの神社をすべて合わせた総敷地面積は、約5,500万平方メートルもあるそうで、これは東京の世田谷区の大きさにも匹敵します。

ただ、これらすべての遷宮をするとさすがに大変なので、引越しをするのは、この内宮と外宮のほかに、14の別宮と、宝殿、外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎だけです。「だけ」、といってもかなりの規模なのですが、このほかにも、神官の装束や神宝も新調し、宇治橋等も造り替えられているそうです。

神宝(かむだから)というのは、元々は、剣、玉、鏡といった神器のことをさします。ただ、こうしたものを造りかえるのはさすがに大変なので、神様が使う日用品、すなわち手箱、碗、化粧用具、衣服といったより身近なものを新しくするようです。

「内宮」の正式名称は「皇大神宮(こうたいじんぐう)」、「外宮」の正式名称は「豊受大神宮(とようけだいじんぐう)」で、それぞれに違う神様が祀られています。

内宮には、日本の総氏神である「天照大御神」が、外宮には五穀豊穣の神「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」がお祀りされていて、これは日本中の神社の中の神社、つまり、
“Mr.&Mrs 神社”ともいえる存在です。

式年遷宮が行われる理由は、ニュースなのでさんざん流されているのでご存知だと思いますが、これはこうした古式ゆかしい神殿や神宝の「造り」の技術を正しく伝承していくためだと言われています。

しかし、古くなった神殿を新しくしてお祭りすることで、祀られている神様も永遠に若々しく光り輝く存在であり続けてほしい、という思想も受け継がれてきており、これは「常若(とこわか)」という言葉で説明されています。20年ごとに生まれ変わることで、日本という国が新しい命を得て永遠に発展することを祈るわけです。

ちなみに今回の遷宮にかかる総工費は約570億円だそうで、これはこの付近だと小田原市や富士市などの中堅都市の年度予算に匹敵します。莫大な金額ではありますが、1300年も続く伝統を途絶えさせないためには必要な金額なのかもしれません。

そのお金をどう工面するかですが、当然税金などはあてにできません。なので、資金獲得のためには、神宮の信者を増やし、この信者さんたちからの寄付によってまかなうことになります。

仏教の場合はこの寄付のことをお布施といいますが、神道ではこれを「奉幣」といいます。
奉幣の対象となるのは、現在のようにお金ばかりではなく、古くは布や衣服、武具、神酒、神饌(供物)などでした。

そもそも伊勢神宮は、もともとは皇室の氏神として造られたものであるということはご存知だと思いますが、このため伊勢神宮では、当初は天皇以外の奉幣は禁止されていました。これを「私幣禁断」といいます。

中世になり、朝廷への、そして皇室とその氏神への崇拝から、伊勢神宮は日本全体の鎮守として全国の武士から崇敬されるようになり、神道においては最高神とされるようになりました。

こうして全国的にも知名度が高まったのは、外宮で度々行われていた一種の勉強会である「講」で奉じられた「伊勢神道(度会神道)」という教えのためでもあり、これは度重なる戦乱によって荒廃した古代の日本人にとっては心の拠り所となっていきました。

お陰参り

こうした戦乱は、やがて神宮側にも及ぶようになり、その神宮領が侵略され、経済的基盤を失ったため、式年遷宮が行えない時代もありました。このため、伊勢神宮としてはその存続の資金獲得のため、私幣禁断を捨て、神宮の信者を増やして彼らから奉幣を募るようになりました。

そのためには各地の講を組織する指導者が必要であり、このために「御師(おし)」という人達が台頭し始めます。

こうした御師たちの努力もあり、伊勢神宮の人気は高まる一方となり、近世になると、いわゆる「お伊勢参り」も流行するようになります。このお伊勢参りは、「おかげ様」を文字って「お蔭参り」ともいいます。

また、伊勢神宮そのものも、庶民らは親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ぶようになり、江戸時代には、弥次さん、喜多さんの「東海道中膝栗毛」でも語られるように、多くの民衆が全国から参拝するようになりました。

このお蔭参りは、無論毎年のように行われていましたが、年によっては、その規模が数百万人にも及ぶこともあり、これはほぼ60年周期毎に発生し、こうした年は「おかげ年」と呼ばれていました。江戸時代には都合、5回ほど発生しています。

その5回とは、元和3年(1617年)、慶安年間(1648年~1652年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年・天保元年(1830年)であり、これらの間隔はほぼ等間隔で60年周年です。

このうちの1705年(宝永2年)のお蔭参りはとくに大きく、これが本格的なお蔭参りの発端となったといわれており、「宝永のおかげ参り」とも呼ばれています。

主な発生地域は京都といわれ、たった2ヶ月間に330万~370万人もの人が伊勢神宮に参詣しています。このことを本居宣長が書き残しており、それによると、4月上旬から1日に平均で2~3千人が松阪を通ったといい、最高はなんと1日23万人もの人がここを通過したとか。

当時の日本総人口が2770万人ほどだったといいますから、全人口の一割以上の人がお伊勢参りをしたことになります。

明和8年(1771年)のお陰参りの参拝者数も比較的多く、このときの主な発生地域は山城の宇治でしたが、およそ200万人もの参詣者が伊勢に殺到しました。このときには、宇治から女・子供ばかりの集団の参加も多かったといい、彼女たちは仕事場であった宇治の茶山から無断で仕事を離れ、着の身着のままやってきたといいます。

このときのピーク時には、地元松坂では自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町中を通ったといい、参詣者らは口々に「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いていったそうです。

集団ごとに幟を立てる者も多く、最初はこの幟に出身地や参加者を書いていただけでしたが、段々とこれがエスカレートして滑稽なものや卑猥なものを描いたものすら増えてきました。

「おかげでさ、ぬけたとさ」というお囃子も、これにつれて卑猥なものに変わっていったそうで、これを若い人達だけでなく、老人や女性たちも口にするようになり、文字通り老若男女がこれを声高に叫ぶようにして通っていくさまは、滑稽を通り越してちょっと不気味にさえ見えたことでしょう。

このとき、この人出による経済効果もまた大きく、人々が通る街道沿いの物価はかなり高騰したそうで、白米1升が50文が相場のこの時代に、これが4月18日には58文に上昇し、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がったそうです。

お伊勢参りの必需品でもあった、わらじの値段も高騰し、5月3日で8文だったものが、5月7日には13~15文になり、5月9日には18~24文に急上昇しました。

このときは、街道沿いの富豪による「施行」も盛んに行なわれたといい、これが市中への大量の金の流通を促し物価が上昇したわけですが、そのおかげで無一文で出かけた子供が、逆に銀を貰って帰ってきたといった事もあったそうです。

初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたようですが、さらには徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり、感謝もしなくなって中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきたといいます。

そして、三度目のピークの1830年(文政13年/天保元年)の「文政のお蔭参りでは」この過去の2回を上回る最大のフィーバーが起き、このときはたった3箇月の間で、約430万人もの人が伊勢に押し掛けました。

このときには既に過去の経験から、人々は60年周期の「おかげ年」を意識していたといい、それがこの騒動を後押しした形となりました。それにしてもこの当時の日本総人口は約3200万人ほどだったといいますから、全人口の13%もの人が殺到したことになります。

現在の日本ならば1600万人以上に匹敵しますから、これは東京と名古屋を合わせた人口にほぼ等しいことになります。すごいことです。

この文政のお蔭参りの特徴としては、大商人がこの参詣に賛助したことで、彼らは参詣者に対して店舗や屋敷を解放し、弁当・草鞋の配布を行ったそうです。

発生地は、四国の阿波が中心だったようで、その伝播地域は、明和のときよりも狭かったようですが、参加人数は逆に大幅に増えました。

前回の明和8年のときのフィーバーでも幟を立てたり、卑猥なことばを口にしながら行進するというヘンなことが流行りましたが、今回の参拝者たちは、なぜか参詣するときに、手に手にひしゃくを持って行き、しかも伊勢神宮の外宮の北門にこれを置いていくということが流行ったそうです。

これは、巡礼の際に柄杓を持って出かけるという風習がこの当時の阿波にはあり、阿波の人達が始めたことを、ほかの地域の人達も真似るようになったためのようです。

このときのお蔭参りによる経済効果も大きく、その額はおよそ86万両以上だったといわれています。これは現在の貨幣価値に換算すると200億円近い数字になります。このときも著しい物価上昇が起こっており、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されています。

以後、幕末に至るまでこれほど大きなお蔭参りは発生していませんが、1867年(慶応3年)には、有名な「ええじゃないか」が起こっています。

これは、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動で、「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という話が広まるとともに、民衆たちが仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊るというものでした。

人々が向かう先はとくにお伊勢さんとは限らなかったため、歴史的にはお蔭参りとは考えられていませんが、それまでのお蔭参りの影響を受けていることは確かのようです。

なお、近畿や四国などの西日本圏では、ええじゃないか、という掛け声が見られたものの、東海地方ではそうした掛け声はなく、「御札降り」を巡って民衆が踊り狂っただけでした。

こうした、江戸時代に流行したお蔭参りの最大の特徴としては、奉公人などが主人に無断で参詣する、といった一種の「掟破り」が横行したことであり、このほか子供であっても親に無断で参詣したというケースも多かったようです。

このため、お蔭参りは「抜け参り」とも呼ばれ、子供であっても旅ができたのは、大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しをうけることができたためでした。

伊勢神宮へは、江戸からは片道15日間、大阪からでも5日間、名古屋からでも3日間かかり、しかも東北や九州からも参宮者があり、無論彼らは歩いて参拝しました。

岩手の釜石からは徒歩で100日もかかったと言われており、そこまでして全国的にお蔭参りが流行ったのは、伊勢神宮が、天照大神の神社として全国に公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていたためです。

前述したとおり、中世の伊勢神宮では、戦乱の影響で領地を荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃しましたが、その伊勢神宮を建て直すため、もともとは神宮で祭司を執り行っていた御師が活躍しました。

御師たちは、外宮に祀られていた「豊受大御神」を全国にアピールし、伊勢へ足を運んでもらえるようにするため、神宮の「伊勢暦」を各地の農民にタダで配ったといいます。

度重なる戦乱によって現世に失望していた人達は、はじめのころは来世の幸福を願って近所の寺院へばかり巡礼していましたが、やがてこれらの御師たちの活躍によって「神社」が強烈にアピールされるようになり、とくにその総本山である伊勢神宮への注目度がアップしました。

また、秀吉によって天下が統一されると街道の関所なども撤廃されたことから、参詣への障害が取り除かれ、他国の神社仏閣への巡礼も可能となり、中でも農民たちに配られていた伊勢暦の出所である伊勢神宮まで足を延ばす人も増えました。

さらに江戸時代になると、五街道を初めとする交通網が発達し、この参詣はさらに以前より容易となります。

そして世の中が落ち着いてきたため、巡礼の目的も来世の救済から現世利益が中心となり、伊勢への参拝の目的には観光も含まれるようになります。

加えて、米の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物の収穫量が増え、農民でも現金収入を得ることが容易になり、商品経済の発達により現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する本も発売されるようになりました。

当時、幕府は庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限を課していましたが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮がありました。特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあったため、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていました。

また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物であるお守りやお札などを持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていました。

庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には京や大坂などの見物を楽しむ者も多かったといいます。

ただ、このお伊勢参りは本州、四国、九州などのおおむね全域に広がりましたが、北陸などでは広まりにくかった傾向があります。これはこの地では真宗がさかんであり、仏教徒が神宗の風習であるお伊勢参りに出かけることがはばかられたためです。

このため、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受けたといった話がこの地には多く残っており、それらの中で一番多いのは、「おふだふり」です。村の家々に神宮大麻と呼ばれるお札が天から降ってきたといい、これは伊勢信仰を民衆に布教した御師たちが、真宗門徒をけん制する目的でばら撒いたものだと考えられています。

しかし、全国的にみれば北陸のようなケースはむしろ稀であり、他国の庶民にとってはたとえ仏教徒であっても伊勢神宮参詣は一生に一度とも言える大きな夢でした。

お伊勢講

それにしても、遠路はるばる伊勢まで出かけるのには、徒歩とはいえその旅費は相当な負担であったはずです。無論、沿道からの施しもあったでしょうが、お伊勢参りする人の全部が全部をまかなうことはできなかったはずであり、一般人の日常生活ではそれだけの大金を用意するのはかなりの困難だったと思われます。

いったいどうやってそのお金を工面したのでしょうか。

ここで考え出されたのが「お伊勢講」という仕組みであり、この講には次のようなしくみがありました。

まず、「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合います。そして長い間には、それらのお金の合計は、伊勢に一人分を派遣することができるほどの旅費として貯まります。

こうして一人もしくは複数の人が旅行できるほどの金額が貯まったら、その「講」の中で誰が代表者となって伊勢に行くかを「くじ引き」で決めます。

ただ、何度もこのくじ引きに参加すると、複数回伊勢に行くことができる人ができてしまうため、一度このくじに当たった人は、次回からはくじを引けなくなるようにしました。こうして、「講」の所属者は順番にこのくじに当たることとなり、全員がいつかはお伊勢参りが当たるように工夫がなされていたわけです。

くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになります。その旅の時期は、農閑期が多かったようです。また、「講」の代表者は道中の安全のために2~3人程度のグループで行くのが通常でした。

出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われました。また地元においても道中の安全が祈願されます。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪や京都の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産を購入して帰ります。

この物産品としては、長い道中に邪魔にならないよう、軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われたといいます。

無事に帰ると、講をあげて帰還の祝いが行われ、その席でお土産を渡してみんなで盛り上がります。規模にもよりますが講に集まる人の数には限りがあり、貯まるお金にも限度があったでしょうから、そうそう度々あるお祝いではなかったでしょう。しかし、それだけに、さぞかし賑やかなお祝いだったに違いありません。

このように、江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、こうした「講」の仕組みによるところが大きかったわけです。

またこの「お伊勢講」は平時においては、神社の氏子の協同体としても役立っていました。お伊勢様に近い、畿内では室町中期ごろから普通に見られた集いだったようですが、全国的になったのは、街道が整備され、日本中が安全になった江戸以降からのことのようです。

一方では、「お伊勢講」が無かった地域でも、周囲からの餞別(せんべつ)を集める、という形で旅費を集めるということが流行っていたようです。

無論、タダで餞別を貰うのは心苦しいことですから、手ぶらで帰ってくる事がはばかられ、この場合には、それ相応のお土産を持って帰ることが必須でした。しかし、これにより、講だけでなく、講に入っていない一般人もお伊勢様に行くことができ、これがときにブームとなると、60周年に一度という大規模な「お蔭年」が発生したのでした。

また、お蔭参りの実施は、この当時、最新情報の発信地であったお伊勢さんで知識や技術、流行などを知りことにもつながり、これを持ち帰ることは地域にとって大きなメリットとなり、また本人にとっても見聞を広げるために大いに役立ちました。

お蔭参りから帰ってきた者によって、最新のファッション、といってもこの時代のことですから、最新の織物の柄などが伝えられ、ほかにも最新の農具や、新しい品種の農作物のタネや苗がもたらされました。とくに、伊勢神宮の神田には全国から稲穂の種が集まり、参宮した農民は品種改良された新種の種を持ち帰ることができました。

箕(みの)は、脱穀などで不要な小片を吹き飛ばす平坦なバスケット状の選別用農具ですが、これに代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する「唐箕」という器械が全国的に広まったのもこのお伊勢参りのお陰だといわれています。このほかにも、音楽や芸能情報も伝えられ、「伊勢音頭」に起源を持つ歌舞も各地に広まりました。

御師の活躍

こうしたお伊勢講を広めるのにとくに活躍したのは、前述の御師たちです。御師は当初、数名ずつのグループに分かれて各地に散らばり、農村部で伊勢暦を配ったり、豊作祈願を行ったりして、その年に収穫された米を初穂料として受け取る事だけで生計を立てていました。

江戸時代も中頃になると、農業技術の進歩により、農家の中に現金収入を得られる者が増え、単にお伊勢参りに出かけるだけでなく、これを機会として新たな知識や見聞、物品を求めて旅をしようと思い立つ者が現れるようになりました。

しかし、農民の移動に規制があった江戸時代に旅をするにはそれなりの理由が必要であり、その口実としては、「伊勢神宮参詣」というのは非常にもっともらしい名目でした。

当時、他藩の領地を通るために必要不可欠な通行手形の発行には厳しい制限がありましたが、伊勢神宮参詣を目的とする旅についてはほぼ無条件で通行手形を発行してもらえたのです。

ちなみにこの当時、伊勢神宮参拝だけでなく、善光寺参詣や日光東照宮参詣など、寺社参詣目的の旅についてはおおむね通行手形の発行が認められていました。

通行手形の発行は、在住地の町役人・村役人など集落の代表者または菩提寺に申請していましたが、これらの中でも伊勢神宮参拝を口実にした人がとくに多かったのは、伊勢講の御師たちが各地の農民に対して熱心な伊勢神宮参詣の勧誘活動を行っていたことと無関係ではありません。

このため、伊勢に向かい、伊勢神宮でお参りした人達の多くは、この伊勢滞在時にはたいてい、自分達の集落を担当している御師のお世話になっていました。御師の中には伊勢参拝に来る人をもてなすため、自分の家で宿屋を経営している人も多かったといいます。

これは、今年世界遺産になった富士山を信仰する「富士講」の御師たちの家が宿屋も兼ねていたことと同じです。この富士講の御師たちも自宅を講の人達に提供しており、現在まで残されたそれらの住宅のうちの「旧外川家」や「小佐野家住宅」が、今回の世界遺産登録ではその対象となりました。

こうした御師の宿屋では、盛装した御師によって豪華な食器に載った伊勢や松坂の山海の珍味などの豪勢な料理や歌舞でもてなし、農民が住んでいる所では使ったことがないような絹の布団に寝かせる、など、参拝者を飽きさせないもてなしを行ったといいます。

また、伊勢神宮や伊勢観光のガイドも勤め、参拝の作法を教えたり、伊勢の名所や歓楽街を案内して回りました。この時には、豊受大御神が祀られている外宮を先に参拝し天照大御神が祀られている本殿の内宮へ向かうしきたりだったといい、こうした作法をとくに「外宮先祭」と呼んでいたそうです。

こうして、最初は豊作祈願に対する対価や初穂料だけで生計を立てていた御師たちは、宿屋の主あるいは観光ガイドとしての収入を増やし、かなり裕福な暮らしをするものも増えていきました。

無尽講から現代へ

こうした御師たちによって支えられていたお伊勢講は、江戸時代が過ぎてもその仕組みが残り、これは「無尽講」という名称に変わりました。

しかし戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより、その多くは解散させられました。とはいえ、地域によってはそれまでと同様の活動を続けていた伊勢講もあり、伊勢神宮参拝は数年に一度行うのみとして、簡素な宴席のみを毎年行う習慣が残存しながら、その組織を維持している講も多かったようです。

一方のお伊勢参りに関しては、民衆の神宮への参拝熱は冷めてしまっており、今ではもうお伊勢参りに行くことが一生一代の大事というような風潮はありません。

これは明治に入り、明治天皇が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、大昔の「私幣禁断」の時代にさえ遡るような風潮が出てきたためであり、さらには明治政府が御師の活動を禁じたためでもあります。

このようにお伊勢参りが衰退する一方で無尽講だけは根強く生き残るかたちとなり、明治時代のおわりごろにはまだ、大規模で営業を目的とする無尽業者がまだたくさんありました。

中には会社組織として営業無尽をするものも現われ、これらの事業者には脆弱な経営、詐欺的経営や利用者に不利な契約をさせる者も出てきました。

が、当時は、これを規制する法令がなかったため、大正になってから1915年(大正4年)にはこれを取り締まる旧「無尽業法」が制定され、こうした業者は免許制となり、悪質業者は排除されていきました(現在の「無尽業法」は1931年に改めて制定)。

ただ、この法律は住民や職場などで、業者を関与させずに無尽をする行為を禁止するものではなかったので、その後も裏社会では無尽は続けられ、現在に至っています。このことは後述します。

こうして一応法律ができ、取締りは厳しくなったものの、戦前には、世界恐慌が起こったことなどから、こうした無尽会社の勢いが復活してかなり発展した時代もありました。銀行に相当するほどの規模を持つものまで現れ、やがてこの当時の日本の経済を担う金融機関の一つとなっていきました。

しかし、太平洋戦争終結後、GHQは、無尽を賭博的でギャンブル性の強いものであると見ており、これを廃絶しようとしました。ところが、戦災復興のために各方面から無尽会社を残したいとの声が政治家の間からあがるようになり、GHQと対立し始めました。

このため、政府は当時の銀行並の業務を可能としつつも、無尽の取扱が可能とし、そのかわりこれを制度・監督上で厳しく制御できる金融機関制度を企画し、その規模も比較的小さいものに限定したものだけを設立可能としました。

こうして1951年(昭和26年)に誕生したのが、「相互銀行法」です。そしてこの法律を受け、現在も残る「日本住宅無尽株式会社」の一社を除く、無尽会社の全社が「相互銀行」へと転換しました。

ちなみに、日本住宅無尽株式会社というのは、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県・茨城県・山梨県を対象に土地や建物の給付を行っている会社です。現在は三菱東京UFJ銀行系列の会社として知られていますが、「無尽」の名前を残しているのは全国広しといえども、ここだけです。

このように、かつて我々が「下町の金融機関」として親しんでいた「相互銀行」とは、実はその歴史を遡れば伊勢神宮にお参りする人々が作った「お伊勢講」の名残だったというわけです。

無論、相互銀行と呼ばれていたものがすべてお伊勢講の名残である無尽会社の流れを汲むものであったかといえばそうではありません。

相互銀行法の成立に伴い、新たに相互銀行として設立された株式会社も含まれており、例えば現在の神奈川銀行がそうであり、かつて長野相互銀行と呼ばれていた現長野銀行、そして、りそな銀行もまたその当時は三栄相互銀行と言っていました。

こうした相互銀行は、主に中小企業などを対象にしていて、無尽から発展した「相互掛金」を主な商品として取り扱うことができました。また、長い間一社当たりの営業範囲が、ほぼ一都道府県内に限定されていました。

しかし、その後、「金融機関の合併及び転換に関する法律」が成立し、その後ほとんど全ての相互銀行が普通銀行に転換し、現在では「第二地方銀行」と呼ばれるようになりました。

ただ、一部の相互銀行は既存普通銀行へ吸収合併されており、例えばかつて日本本相互銀行と呼ばれていた銀行は、このとき太陽銀行へと名前を変えており、これはその後太陽神戸銀行~太陽神戸三井銀行~さくら銀行を経て、現在の三井住友銀行となっています。

そして、最後の1行であった東邦相互銀行が1992年4月1日に伊予銀行へと吸収合併されたことで消滅し、その直後に相互銀行法も廃止され、相互銀行は法的にも消滅した企業形態となりました。

こうして、かつての無尽講の名残であった相互銀行は完全に消滅し、現在も昔のような賭博性の強い商品を扱っている銀行は皆無となりました。その業務はこれより大規模な普通銀行と変わりはありません。その多くはまっとうな商売をしており、世間の批判を浴びるような銀行はそう多くはないでしょう。

一方では、こうしたまっとうな組織に形を変えた銀行を横目でみつつ、21世紀となった現在でも、日本各地に、「無尽」の名をそのままとし、あるいはその名を「頼母子」とか「模合」に変えた非合法の小さな会や組織が存在しています。

これらはとくに農村・漁村地域に多いそうで、これらの組織では、メンバーが毎月金を出し合い、積み立てられた金で宴会や旅行を催す場合もあれば、くじに当たった者が金額を総取りする形態のものもあるといいます。

多くは実質的な目的よりも職場や友人、地縁的な付き合いの延長としての色彩が強く、中には一人で複数の無尽に入っている人もいるそうで、とくに沖縄県では県民の過半数が参加していると言われるほか、九州各地や山梨県、福島県会津地方などでもよく行われているといいます。

民間においては、現在でも親しい仲などが集まり小規模で行われていて、近所付き合いや職場での無尽、同窓会内で行われる無尽などもあります。

毎月飲み会を主催する「飲み無尽」や定期的な親睦旅行を目的とした無尽など、本来の金融以外の目的で行われているものも多いそうで、そうしたものは一見、ご近所のご老人の寄合いとあまり変わりがありません。

甲府市にはいまだに「無尽会承ります」などの看板が掲げられ、まるで老人介護サービスのような無尽向けサービスまで行っているところもあるそうです。

これらについては、ご近所づきあいの域を出ないと思われ、多少の賭博性があるからといって、そうそう目くじらを立てる必要もないかもしれません。

しかし、同じ山梨県では「地縁血縁選挙」が今もさかんであり、昨年の衆議院議員総選挙で当選した、同県選出のある女性代議士さんの最大支持基盤は無尽であると言われています(現在は、自民党山梨県第1選挙区支部長)。

会費の扱いなど政治資金規正法上グレーな部分が多く、政治と無尽の関係が近年は問題視されているそうで、本当だとするとあまり好ましいことではありません。

とはいえ、「無尽」の行為自体に関する法律は現在までいまだに存在しません。このため、例えば石川県加賀市の特に山中温泉地区、山代温泉地区では預金講(「よきんこ」と呼ばれる)という無尽が今も盛んだそうで、これは見方を変えれば一種の消費者金融です。

この預金講がそうだとはいいませんが、その他の無尽の中には金融機関から融資を受けられなかった社会的マイノリティー層に今も利用されている民間金融もあり、ときにこれらは暴力団などの犯罪組織とリンクする可能性もあります。

時々街中の看板で「ローンが借りれなかった人」向けの融資を語る看板をみかけることがありますが、こうした融資金の出所はこのような民間無尽にプールされたお金であることも多いようです。

一方では、こうした金が町内会や商店会などで運用される場合もあるそうで、これは平時には宴会、旅行目的の会と称してお金を集めており、メンバー本人あるいはその身内に不幸があった場合は葬儀を業者に頼らず、預金講仲間が取り仕切ります。

こうした風習は、1990年代までは地域の「常識」であったようですが、現在では地区の高齢化率の高さと地区住民の多くが従事する地場産業の疲弊ゆえにこうした葬儀の際の互助組織という役割は廃れつつあります。

とはいえ、地域の人々のためとはいえ、現在においてもこうしたグレーな金が巷で流通しているという現実をみると、いかにも日本ではまだまだ昔ながらのムラ社会続いているのだなと思ってしまいます。

ちなみに、無尽講の無尽は、「無尽蔵」に由来します。もともとは、中国唐代に長安にあった「無尽蔵院」という名前の寺院の名称であり、ここでは民衆から集められた財貨が、広く中国全土の寺院の修築に供されたそうです。

その後この無尽蔵院は、唐の時代の玄宗皇帝の勅命によって破壊されましたが、この「無尽」という考え方はその他の仏教宗派に広まって、お布施等で集められた財産を広く民間に貸し出して利潤を得るシステムとなりました。

これが、日本でも大勢で小額の金銭を出し合い、必要な時やくじ引き順で一定量の金銭を構成員各員が受け取る無尽、無尽講の用語として使われることになったわけですが、それ以前の歴史としては、これまで述べてきたようにその背景にお伊勢講があったわけです。

このように、仏の世界では無尽蔵であったはずの功徳を施すはずのシステムは、いまや神式のしきたりであった伊勢講をいわば乗っ取るような形で取って代わり、現代社会に至るまでにグレーな金融システムに変化し、今の日本社会にも大きな影響を与えています。

戦前の日本で発達した悪しき金融システムの名残ではありますが、だからといって、その前身であったお伊勢講もまた古き時代の悪しき風習だったかといえばそうではなく、ましてやこ今行われようとしている伊勢神宮の式年遷宮の価値を卑しめるものでもありません。

これはこれ、日本の伝統を守るよき習慣としてこれからも続けていってほしいものです。

次の20年後には私ももう、70ウン才です。多分まだ生きているとは思うので、次回の遷宮はぜひ見物に行きたいものです。

皆さんもご一緒にいかがでしょうか。

手旗信号


10月になりました。

夜空を見るには絶好の季節でもあります。中秋の名月の旧暦8月15夜は終わってしまいましたが、今月では引き続いて9月13夜の満月があり、これは今年は10月17日です。

家に望遠鏡や双眼鏡がある人は、これを使ってのお月見もまた楽しいでしょう。

この望遠鏡ですが、イタリアのナポリの「ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ」という人が、発明したとの記述が、1589年の「博学史」という歴史書に掲載されており、文献上はこれが最古ということになるようです。

1611年に出版されたヨハネス・ケプラーの「屈折光学」にもデラ・ポルタが20年前に望遠鏡を発明したと記述されていることから、この記述が正しければその発明は、1591年ころということになります。

また、オランダ南西部の都市、ミデルブルフの眼鏡職人ツァハリアス・ヤンセンがこの、デラ・ポルタが作ったと思われる望遠鏡を真似て、1604年に2枚のレンズを組合わせた「顕微鏡」の原型を発明したとされています。

ご存知のとおり、顕微鏡はさかさまにすれば望遠鏡として使えます。当人もおそらくはこれを知っていたでしょう。この顕微鏡は筒の両端にレンズがついただけのものでしたが、倍率は9倍ほどはあったようです。

そしてさらにその後の1608年、同じくオランダのミデルブルフの職人、ハンス・リッペルスハイが、このヤンセンの望遠鏡のアイデアを流用して、望遠鏡を製作し、これを「発明」したとして、オランダ総督に特許申請を出しました。

この日が10月2日、すなわち今日であったことから、この日が「望遠鏡記念日」ということになっているようです。

さらに、ガリレオ・ガリレイはハンス・リッペルスハイの発明を知った後、自らも望遠鏡を製作し、1609年の5月に1日に、世界で初めて天体観測を行った、とされています。このときの望遠鏡では正立像を得ることができましたが、倍率はかなり低く、10倍程度だったようです。

しかし、その後はさらにこれを改良して20倍のものも製作しており、これを使って月を観測し、月面に凹凸やそして黒い部分、すなわち現代ではクレーターや月の海として知られるものを発見しています。また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれています。

その後望遠鏡は、各種の光学の要素技術開発にともない、屈折式望遠鏡に加えて反射望遠鏡などの様々な種類の天体望遠鏡が開発され、これらに加えて、地上で使うフィールドスコープ、双眼鏡等なども開発されていきました。

この望遠鏡が日本にもたらされたのは意外に早く、ハンス・リッペルスハイの特許申請からわずか5年後の1613年(慶長18年)には、イギリスのジェームズ1世の使いのジョン・セーリスが徳川家康に献上しており、これは現在、愛知県名古屋市にある徳川美術館に所蔵されています。

以後、望遠鏡は軍事用にも重要な役割を果たすと考えられるようになり、平戸や長崎などから競って輸入されるようになり、やがて国内でも生産されるようになります。

このころ日本で製作された望遠鏡は屈折望遠鏡がほとんどで、「遠眼鏡」と呼ばれていましたが、最初にこれを製作したのは長崎の浜田弥兵衛という人物だと言われています。

江戸時代初期の寛永の頃までは、日本では朱印船貿易が盛んでした。このため長崎の貿易商・末次平蔵の朱印船の船長として雇われた弥兵衛は、幕府の後援をうけて、高砂(台湾)を朱印船貿易の基地としようとしました。

この頃の高砂は、オランダ東インド会社が進出してこれを占領(1624年)しており、ゼーランディア城という城を建てこの地を経由する交易には一律10%の関税をかけはじめていました。

日本にとって高砂は、日本の交易先の一つであった明国との貿易を円滑に行うための拠点として重要な土地であり、このため浜田弥兵衛らは、高砂を急襲してここのオランダ総督ピーテル・ノイツを人質にしました。そして、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂を自由貿易地にすることに成功しました。

浜田弥兵衛が眼鏡製作技術を習得したのはちょうどこのころのことであり、「長崎夜話草」という歴史書には、彼が、「眼鏡細工、鼻眼鏡、遠眼鏡、虫眼鏡、数眼鏡、磯眼鏡、透眼鏡、近視眼鏡」などの製作技術を「蛮国」へ渡って習得したと書かれています。

弥兵衛には新蔵という弟がおり、この「長崎夜話草」には、「共に蛮船に乗て世界を周覧せし折節、日本の東南海なる大人国に至り」と書いてあるため、どうやらオランダ船か、このころオランダに敵対していたポルトガル船にでも乗ってヨーロッパまで行き、ここで望遠鏡などの製作技術を学んだものと考えらえます。

が、長崎夜話草以外にこれらの渡航について詳しく記した記録がないため、どこまでが真実かはわかりません。

とまれ、この浜田弥兵衛が習得した技術はその後日本国内に伝えられ、次いで大阪の岩橋善兵衛という商人がこの技術を習得しました。

岩橋善兵衛は、1756年に現大阪府貝塚市脇浜新町の商人(魚屋)の家に生まれました。眼鏡の玉磨きを家業として独立し、その後自然科学に興味を持ったことから、渡来品の研究を行うようになり、この中で遠眼鏡の技術を知ったようです。

寛政2年(1790年)、34歳になったときに、これを自作しましたが、この遠眼鏡はたちまち高い評判を得るようになります。この時造った望遠鏡は、八角筒で直径八・九寸(30cm程度)であり、彼はこれを「窺天鏡」と名づけ、自らが時の知識人たちに太陽、月、木星、アンドロメダ銀河、ミザール等を披露したといいます。

善兵衛の造った「窺天鏡」には天体の姿が鮮明に映し出され、その評価はかなり高いものであったといい、これを追い風として彼はその後は望遠鏡の大量生産に着手しました。

善兵衛自らがレンズを磨いて製作したといい、これらの望遠鏡は当時の日本の天文学者・高橋至時や間重富に用いられたほか、若年寄堀田正敦摂津守をはじめ多くの大名たちにも用いられました。

自らも太陽、月、星の運行を観測しており、その後も干満を計算する「平天儀」などを製作しました。精密な日本地図を製作した伊能忠敬の望遠鏡もまた善兵衛により作られたものです。

「平天儀」に関しては「平天儀圖解」などの著述もあり、これを製作していたころには学者としても高名で、多くの知識人とも交流していたようです。

その後善兵衛は55歳で没しまたが、その没後も岩橋家は四代にわたって望遠鏡の製作・販売を続け、この商売は維新後までも継続し、明治38年には大阪の心斎橋に店を構えていたという記録が残っています。

現在でも、岩橋家の銘のある望遠鏡は現在も多数残っており、千葉県香取市の伊能記念館、善兵衛ランド(大阪府貝塚市)、高樹文庫(富山県射水市)、彦根城博物館(滋賀県彦根市)および、新潟県柏崎市の「とんちン館」などに現存します。

ところで、日本にもたらされたこの望遠鏡は、江戸時代には、「旗振り通信」という米相場などを遠方に伝える技術にも応用されて使われていました。

「旗振り通信」とは、旗などを用いた通信システムであり、大型手旗信号の一種ともいえ、この当時は「気色見(けしきみ)」、「米相場早移(こめそうばはやうつし)」、「遠見(とおみ)」などとも呼ばれました。

旗振り通信は江戸時代中期以降、全国の米価の基準であった大坂の米相場をいち早く他の地域に伝達するため、また逆に地方の相場を大坂に伝えるために考案されたもので、この旗振り通信の補助用具として望遠鏡も利用されました。

その起源は紀伊国屋文左衛門が江戸で米相場を伝達するために色のついた旗を用いたことにあるといわれており、旗振り通信に関する記述として最も古いものは、1743年(寛保3年)の戯曲「大門口鎧襲」とされています。

岩橋善兵衛が望遠鏡を初めて製作したのが、1790年(寛政2年)ですから、これよりも50年以上も前であり、このころにはまだ望遠鏡は使われていなかったか、これに先立って輸入されていたオランダ製のものが使われていたのかもしれません。あるいは浜田弥兵衛が初めて製作したものの派生形がこのころ既に流通していた可能性もあります。

従来米相場の伝達には飛脚(米飛脚)・挙手信号・狼煙などが利用されていましたが、江戸時代末期ころまでには、この旗振り通信がさかんに行われるようになり、この旗の視認には望遠鏡が大変役にたちました。最初は単眼の望遠鏡だけでしたが、のちには双眼鏡も開発され、江戸末期ごろにはこれも用いられていたようです。

旗の大きさはその視認が天候によって左右されるため、晴天時は横60cm×縦105cmか、これよりやや大ぶりの横100cm×縦150cmが用いられ、これは「小旗」と呼ばれました。

また、曇天時は横90cm×縦170cmまたは横120cm×縦200cmと大きくなり、これは「大旗」と呼ばれました。この大旗については、さらに大きな180cm×180cmのものが用いられていたという記録もあります。

ちなみに、これらの旗をとりつける竿の長さは、240cmないし300cmほどもあったといいますから、大旗を振るためにはかなりの力を要したことでしょう。

旗振りを行う場所のことは「旗振り場」といい、この間隔は、長いもので3里半(14km程度)から5里半(22km程度)もあったそうです。当然天候が悪く見通しの低い時には見えにくくなるため、この中間の低地にも臨時の旗振り場が設けられることがありました。

旗振り場が平地の場合には櫓(やぐら)が建てられ、また山頂や山腹では丸太や石で造った旗振り台や小屋が設けられ、こうした場所では旗を差し込むための穴が岩などに穿かれました。畿内の山間部には、現在でもこうした岩に開いた穴や、通信方向の目印をつけた岩などが残されているそうです。

また、旗振り場となった山は旗振山、相場振山、相場取山、相場山、旗山、高旗山、相場ヶ裏山、相場の峰などの名称がつけられ、これらはそのまま現在も地名または山の名前として残っています。

とくに、「相場」という呼称が含まれる山はかつての正式な旗振り場であったことの証明だということです。また「旗」が含まれていない場合でも、「旗」が「畑」に転じている場合もあり、これらは「畑山」、「高畑山」などになっている可能性もあるということです。

近隣にもしこうした名前がつけられた山があれば、その歴史を探ってみてください。

さて、その通信方法ですが、これは旗を振る位置・回数・順序に意味を込め、情報を伝達するというものでした。単純なデータならば、旗を振る向き(前後左右)だけで示すことができ、桁数、回数などはこの方法によって数字を伝えることができます。

しかし、米相場というのはその利ザヤで飯を食っている商売人にとっては重要情報であり、その内容を第三者に知られてしまうというのは死活問題となるため、この単純な情報をより複雑化して送る必要がありました。

このため、例えば「上げ相場」を伝えるのに旗を上下させるのではなく、「左横上で二振」とし、これに対して「下げ相場」は「右横下で二振」とするなどの手が加えられました。

このほか、「1銭」ならば、「右横斜下」、2銭ならば、「右横」、10銭は「直立二振」、50銭「直立前倒、直立上下二振」、そして、1円は「直立、大きく左右に振る」などなどです。
無論、これは一例であり、相場師によってはこれらのパターンも種類も異なります。

さらに通信方法に間違いがないかどうかを確認するためには、あらかじめ通信者どうしで申し合わせて決めていた数字などをあわせて通信しました。これを「合い印」といいます。例えば、これからパターン3の方法でデータを送るから、そのように理解せよ、という意味を送るために、本番のデータを送る前に、「パターン3」を示す信号を送るわけです。

その後に送られてきた本番の信号は、あらかじめ決められていた暗号表によって解読されますから、他人がこの通信を盗み見ることへの対策となります。

このほかにも旗で通信する数字を実際よりも増減させることをあらかじめ決めておき、他人が盗み見ても役に立たないようにするということも行われ、これは「台付」と呼ばれていました。

つまり、例えば送られたデータが6であったとしても、これからあらかじめ2を指しいた4が本当の値であると両者で暗黙に取り決めておけば、データ泥棒には、これは6としてしか伝わらず、本当の数字はわからないわけです。

このように、この時代にすでに暗号による情報伝達技術が確立されていたこと自体が驚くべきことですが、こうした技術は、明治以後も帝国陸海軍などの「手旗信号」などへの応用として伝承されていきました。

しかし、こうして米相場を送る場所は、山頂などの山合いが多く、このためたとえ望遠鏡を使ったとしても、雨やガスの出現などにより視界不良によって旗が見えなくなることもしばしばでした。

このため、雨天時など視界が悪く旗振り通信が使えない場合は、視界が回復するまで待つしかなく、どうしても情報を伝達したい場合には、時間がかかっても飛脚を使うしかありませんでした。

ただ、天候の良い場合には、例えば大阪の米相場は、数時間を待たずして畿内から江戸などへ伝えられていたといいます。

気になるその伝達速度ですが、熟練した者によってスムーズに旗振りが行われた場合、1回の旗振りを約1分で行うことができたと考えられるそうです。

このため、旗振り場の間隔を3里(約12km)とした場合、通信速度は60×12で時速720kmということになります。これをもとに計算すると、大阪から和歌山までは、十三峠経由でおよそ3分、天保山経由で6分で情報が伝達できたことになります。

また、京都までは4分、大津まで5分、神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、広島まで27分で通信できたともいわれています。

ただし、江戸までは箱根の剣を超える必要があり、この際に飛脚を用いても登り際にはやはりロスが多く、結局1時間40分前後かかったといいます。

なお、現代の1981年(昭和56年)には、旧来の旗振り通信を真似た情報伝達実験が行われており、このときには大阪・岡山間での情報伝達に2時間あまりを要しています。

この実験は、1981年(昭和56年)12月、西宮市在住の会社員たちが中心となって行われたもので、大阪市堂島と岡山市京橋との間に25の中継点を設定し、旗振り通信が再現されました。

このときの実験では、スモッグによる視界不良を原因とする中断を挟みつつ、この間の約167kmもの距離の情報伝達に2時間17分もかかりましたが、なんとか通信でき、通信内容が正確に伝えられたといいます。

この実験ではあまり視界がよくなかったために、中継点の数を増やさざるを得なかったといいますが、そのことを割り引いたとしても、この江戸時代当時の大阪・岡山間の伝達速度15分はたいしたものであり、当時の相場師がすぐれた情報伝達技能を有していたことがうかがえます。

こうした旗振り通信は、明治の初めころまで実用技術として続けられており、明治になってからは政府公認の仕事となり、これに携わる職業人は相場師、めがね屋などと呼ばれていました。しかし、1893年(明治26年)3月に大阪に電話が開通すると、以降は次第に電話にとって代わられるようになり、1918年(大正7年)ころまでには完全に廃れました。

じつはこの電話が開通するまでには、このころヨーロッパで発達していた、「腕木通信」という技術の導入が一度検討されたことがありました。

「腕木通信(semaphore)」というのは、文字コードを表示する信号機を遠方から望遠鏡で読み取る方法で、その技術は、日本で発達した旗振り通信とも似ています。

これは、18世紀末から19世紀半ばにかけて主にフランスで使用されていた視覚による通信機であり、あるいはその通信機を用いた通信網のことをさし、その視認に望遠鏡を用いる点は旗振り通信と同じです。

が、読み取るのは旗ではなく、「腕木」のあらわす文字コードや制御コードであり、これをバケツリレー式に情報伝達するというものでした。

フランス式のこの腕木通信に触発され、欧米各国ではそれぞれの形式の通信機が用いられるようになり、これら各種通信機を用いたシステム全体は、”optical telegraphy”と呼ばれていましたが、腕木通信そのものは「テレグラフ(telegraph)」と呼ばれていました。

どこかで聞いたことがあるような……と誰もが思うでしょう。これはもともと、ギリシャ語のテレ・グラーフェン(遠くに書くこと)という言葉に由来しており、当初腕木通信を指す固有名詞だったわけですが、後に一般名詞化して「電信」を表すことばになりました。

また、一般の人は余りご存知ないでしょうが、現代のコンピュータプログラムなどで使われる用語に「セマフォまたはセマフォア(semaphore)」というのがあります。これはこのテレグラフの類似品として作られた視覚通信機の固有名詞だったものが、のちの世にコンピュータ用語として使われるようになったものです。

その内容はややこしくなるのでここでは説明しません。

ちなみにこの視覚通信機は、その後さらに鉄道の信号機の名称となり(後述)、これらをかつての大日本帝国海軍が「セマホア」と表記しており、後代においても、セマフォではなく「セマホア」と表記されることもあります。が、無論、「スマホ」とは全く関係がありません。

さらには、かつて使われた国際的な手旗信号には、「セマフォア信号」というのがあり、これもまた腕木通信のころの用語の名残です。

さて、余談がすぎましたが、この腕木通信は、1793年にフランス人のクロード・シャップという人によって発明されました。

その原理は大型の手旗信号とも言えるもので、木などで作った腕木と呼ばれる数メートルの3本の棒を組み合わせた構造物をロープ操作で動かし、この腕木を別の基地局から望遠鏡を用いて確認することで情報を伝達するというものでした。

旗と同様、原始的な方式ながらも伝達速度は意外に速く、一分間に80km以上の速度で信号伝達さたといいます。

また、腕木の組み合わせによって手旗信号よりも精密かつ多彩なパターンの信号を送信できるため、短い文書を送れるだけの通信能力があり、基地局整備によって数百km先まで情報伝達することができました。夜間には腕木の端部や関節部に灯りをともして信号を送ることも試みられたといいます。

フランス革命期からナポレオン時代にかけ、フランス国内ではこれが総延長600kmにわたって整備されました。とくにナポレオンはこの腕木通信の活用に熱心で、国内を中心とする幹線通信網の整備に取り組みました。

この結果、フランス国内を縦断する550kmのルートを通じ、8分間で情報伝達することを可能にしたといいます。この当時、フランスでは政府の公用通信業務のほか、余裕があれば民間からの通信需要にも応えており、通信料金は極めて高価でしたが、日本の旗振り通信の利用目的と同様、特に迅速性の求められる相場情報などにしばしば活用されました。

ちなみに、ナポレオンが総裁政府を倒した軍事クーデターである、「ブリュメールのクーデター」が起こった1799年11月9日には、この腕木通信網によってその成功が、ナポレオン・ボナパルトに伝えられました。

また、その後ナポレオンがイタリアを支配するようになると、リヨン~ヴェネツィア間の通信網もこの腕木通信で行うようになり、そのための設備が整備されました。このとき、このアルプス山脈を超える通信網を確立するための工事は難航し、工事担当者は、何度もナポレオンから催促を受けながら二年余りを費やしてこれを完成させたといいます。

さらに後年、ナポレオンが最初の退位後に追放されたエルバ島を脱出し、フランスへ上陸したときの行動もまたこの腕木通信で即日パリへ通報されたといいます。

このようにフランスを中心として腕木通信はその利便性が注目され、最盛期にはヨーロッパのみならず世界中で総延長1万4000kmにも達しました。近代的な電気通信網が発明されるまでは、情報伝送量、通信速度と通信可能距離の3点において、最も優れた通信手段でもありました。

フランス通信社の創業者であるシャルル=ルイ・アヴァスはこの軍事用の腕木通信のメッセージを解読してどこよりも早い新聞の速報記事を出すことでフランス通信社を発展させました。どのような手段で解読していたのかは謎ですが、何らかの手段で軍事関係者から解読表を入手していたのではないかと言われています。

しかし、腕木通信は、要員を常駐させねばならないこと、悪天候時は使用できないことなどの欠点があり、より迅速性と確実性に富んだ、モールス信号を利用した有線電信の登場により、1840年代以降は先進国から急速に衰退しました。1880年代にスウェーデンの離島で運用されていたのが最後の使用例とされています。

こうして優れた通信技術として当時着目され、欧米では一定の発達を見せた腕木通信システムでしたが、日本でもまた導入されることはありませんでした。

前述のとおり、日本では江戸時代中期から米相場などの情報を伝えるために、大型手旗信号である「旗振り通信」が存在していました。

その後、幕末から明治維新期にかけて徐々にヨーロッパの通信技術導入が始まりましたが、この腕木通信技術が伝えられるころには、すでにこれは前時代の技術となっており、日本では腕木通信を飛び越して電信技術を導入することになったのです。

また明治初期に始まった電信・電話通信はそのコストが高く、これを嫌った民間の相場師の通信需要は伝統的な旗振り通信で十分に満たされており、電信通話よりも安価とされながらも固定設備設置・維持の手間が掛かる腕木通信は用いられませんでした。

結局、日本の通信手段は、長距離電報・電話の通信料金が下がって需要がそちらに移行することになる大正7年(1918年)頃までは、視覚通信である旗振り通信が中心でした。

しかし、この腕木を用いて情報を伝送する方式は、意外な形で後世まで残りました。

それは、鉄道用の腕木式信号機です。

この鉄道用の腕木式信号機は1840年代に従来の腕木通信の技術を使って発明され、すぐに広範囲で使われる鉄道用の機械式信号機として普及しました。

鉄道用の機械式信号機は、鉄道の線路脇に設置されて前方の状況を運転士に伝える装置です。信号機は、運転士に列車が安全に進行できる速度を指示し、または停止を指示し、運転士は信号機の現示を確認してそれに従って運転を行います。

夜間に列車を運転できるようにするために、その後この機械式腕木信号機にもオイルランプなどによるライトが備えられるようになり、腕木による情報伝達以外にも点灯している色つきランプのとの組み合わせで、信号が伝えられるようになりました。

運転士は、これらの昼間の現示と夜間の現示を組み合わせて覚える必要がありましたが、色や腕の形で情報を伝達できるこの信号機は重宝がられました。

初期には、腕木式信号機は「リンク機構」により制御されていました。信号扱所に「てこ」が設置されており、てこからリンク機構により繋がっている線路の分岐器と信号機を動かしており、また電動機や油圧によって駆動されるものもありました。

この信号機はフェイルセーフになるよう設計されており、駆動する動力が失われたりリンク機構が破損したりすると、例えば重力により腕が水平の位置に移動するようになり、この信号下では列車はストップするように決められていました。

しかし、やがて電球が発明されると、純粋的な機械的な信号機は色灯式信号機に置き換えられたり、場合によっては路側に信号機を必要としない信号システムに置き換えられたりして、次第に消滅していきました。

日本でも古くは腕木式信号機がたくさん用いられていましたが、日本国内で現存するものはわずかであり、現在ではほとんどが色灯式信号機に移行しています。

なお、現代の色灯式信号機の多くは、コンピュータ制御の自動信号機となっており、これは閉塞や連動装置、列車の現在位置などの状況に応じて人間の手を介さずに自動的に信号現示を表示できるもので、これによって格段に安全性が向上しています。

2005年6月には、JRで最後まで腕木式信号機が残っていた八戸線陸中八木駅の腕木式信号機が色灯式に置き換えられJRのすべての駅から腕木式信号機が消滅しました。

しかし、腕木式信号機はわずかに残存しており、それは津軽鉄道、福島臨海鉄道、黒山駅分岐新潟東港専用線などの数駅です。大手私鉄の大都市近郊にある路線でも近鉄長野線などが1960年代中頃まで使用していましたが、同線の腕木式信号機はATS化までに色灯式に置き換えられ消滅しています。

しかし、わずかとはいえ、日本やヨーロッパでかつて使われていたアナログな信号伝達装置がいまだ残っているというのも驚きです。

今後こられの器械が復活するということはありえないでしょうが、太陽フレアの暴走による地球規模の通信障害などが起こる可能性なども指摘されており、こうした大災害の場合には、案外とこうした旧式の通信手段が生かされることもあるかもしれません。

かつて江戸時代に使われた「旗振り通信」の技術もまた、かなりその形態は変わってしまっていますが、「手旗信号」として現在も使われています。

日本で手旗信号が最初に考案されたのは海軍においてであり、既に旗振り通信が過去のものになりつつあった1893年(明治26年)頃、のちの海軍中将となる釜屋忠道という人が、その部下とともに考案したとされています。

カタカナの裏文字を両手を使って書いて見せ、ほぼ誤りなく読み取ることができたことから、近距離の通信では実用信号として使えると判断した釜屋忠道がこれを海軍に進言し、正式に採用されたもので、これは「海軍手旗信号法」に呼ばれていました。

その後、海軍で覚えた信号法を商船でも海軍手旗信号法を準用して使うようになり、1936年に海軍と統一した「日本船舶手旗信号法」として定められました。

戦後になり、海軍が消滅したことなどもあり、海軍が規定していた発光信号とまとめる形で1952年(昭和27年)に運輸省告示により「日本船舶信号法」が制定され、手旗信号は引き続き採用されることになりました。

もともとは旧帝国海軍で発祥したことから、主に海上自衛隊や海上保安庁など、船上で通信を行う際に用いられることが多く、現在では商船で使われることはほとんどないようです。

また、日本には「海洋少年団」というのがあり、これは元国土交通省及び文部科学省の共管により、少年少女に対して海洋に親しむ機会を与え、健全な育成を図る活動を行う団体です。

海におけるボーイスカウトのようなものですが、ここに入団すると、海上生活に必要な技術を教えてくれ、この中には手旗信号を不自由なく使えるよう訓練も含まれています。

習得した手旗信号技術は、全国大会などの大会競技で競われるといったことも行われており、また陸上のボーイスカウトでも手旗信号技術の習得は必須とされ、その携帯品の一つに信号用の紅白旗が含まれています。

しかし、これらの手旗信号は、あくまで日本でだけしか通用しません。国際的に通用するのは、モールス符号を旗手または徒手にて送信する「欧文手旗信号」だけです。

1961年に政府間海事協議機関(現在の国際海事機関)により国際信号書の改定計画が立案、承認され、1968年からは、モールス符号を旗手または徒手にて送信する方法が定められました。

ただし、緊急時にこの手旗信号で悠長に信号を送っていたのでは、急な海難事故などのときには間に合いません。

このため、船舶用には、「国際信号旗」というのがあり、国際信号旗によって発せられる信号のことを「旗りゅう信号(旗旒信号、Flag Signalling)」と呼びます。

旗りゅう信号旗は、中世のヨーロッパで船舶間の通信を行うために発達し、トラファルガーの海戦でも通信に使用されるなどの歴史をもち、1857年に定められた国際信号書の中でもこの国際信号旗が採用されています。

が、通信技術の発達により、現在はモールス信号のほうが正式な信号とされており、こちらは廃止はされていないものの、その利用範囲が限定されています。

とはいえ、昔からあるこの旗りゅう信号は、船乗りならば知っておくべき必須の知識であり、現在も電気通信が行えないような場合にはこちらが使われることも多いようです。

1つの旗が一つのアルファベット、数字(またはひらがな)に対応していて、さらに符字として、1つの旗にある特定の意味をもたせている点が特徴であり、例としては、ダイビング支援船は“A旗”を掲げて、自船が現在潜水作業を実施している旨を他船に知らせる、といった具合です。

このほか、D旗は、「注意せよ。本船は操縦が困難である」であり、J旗は、「本船を十分に避けよ。本船は火災中で、積荷に危険物がある」、O旗は「海中への転落者あり」W旗は「医療の助力を求む」などなどです。

通信技術が発達し、どこへ行っても携帯電話が通じるこの世の中ですが、海上や極地、はたまた山奥では必ずしもこうした文明の利器の恩恵を享受できるとは限りません。東北の津波大震災では、通信がズタズタにされ、現場での被害状況などの情報伝達が回復するまでにかなりの時間がかかったことなども記憶に新しいところです。

ここはあなたもひとつ、手旗信号を習っておくのも良いかもしれません。

さて、いつものことですが、今日も長くなりました。終りにしたいと思います。