ナルトのバルト

2014
気がつくと11月も終わりです。

明日から12月になるわけですが、日本では、年末になると各地で第九のコンサートが開かれます。最近では、単に演奏を聴くだけではなく、演奏に参加する愛好家も増えつつあるということなのですが、一体いつのころからこういうことになったのかな、と気になったので調べてみました。

すると、日本で第九が初めて年末に演奏されたのは、昭和15年(1940年)の大晦日、12月31日午後10時30分のことだそうです。

先日のブログ、「手をあげろ!」でも取り上げた、紀元二千六百年記念行事の一環として行われたのだそうで、このときは、ヨーゼフ・ローゼンシュトックという人が「新交響楽団」、すなわち現在のNHK交響楽団の前身の楽団を指揮し、この模様はラジオ生放送でも流されました。

ローゼンシュトックは、ユダヤ系のポーランド人で、ドイツやアメリカで活動していましたが、昭和11年(1936年)に来日してからは日本での音楽の普及活動にも尽力し、NHK交響楽団の基礎を創り上げた指揮者です。楽員からは「ローゼン」「ロー爺」「ローやん」と呼ばれ親しまれていたようです。

この演奏を企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三という人だったそうですが、彼は「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」とウンチクを語っていたそうです。

実際にドイツでも年末に「第九」を演奏することが今でも多いそうです。が、日本のように大晦日に、しかもこんな深夜遅くから演奏するような慣習はないといい、従って、この三宅氏が何らかの勘違いをしていたのではないか、ということが言われているようです。

このN響ですが、戦前はまだ日本人でもクラッシックを聞く人は少なく、戦後になってもまだそれほど人気があがらなかったため、オーケストラ収入が少ない貧乏楽団でした。

このため、楽団員が年末年始の生活に困ると言ったことも多く、こうした状況を改善するため、合唱団の中からも掛け持ちで演奏に参加する人もいたそうですが、そうした中でも数あるクラシックの演奏の中で、「第九」は「必ず客が入る曲目」であったといいます。

年末に「第九」が演奏されるようになった背景としては、このころ既に大晦日にN響の年末の定期演奏会が行われており、その演奏がラジオの生放送で流されるという慣習が定着していたということがあります。しかしその中でも第九は人気曲であり、その後は年末と言えば、「第九」ということになっていったようです。

さらにこれが定着するようになったきっかけは、1955年(昭和30年には、「群馬交響楽団」をモデルに制作された映画「ここに泉あり」(主演、小林桂樹、ほかに岸惠子などが共演)が公開されたことです。この映画はヒットし、翌年には文部省により群馬県が全国初の「音楽モデル県」に指定されました。

これを受けて、昭和31年(1956年)に群馬交響楽団が高崎で行った第九演奏会は大人気を博し、この成功によって全国でも頻繁に大晦日の演奏会が開かれるようになり、現在に至っています。

群馬県ではさら昭和36年(1961年)に、高崎市民の全面的な支援を受けて同市に群馬音楽センターが建設され、これを拠点としてさらに幅広い活動が展開されています。その後「移動音楽教室」なるものも設立され、多くの児童生徒がこれを鑑賞しているのをはじめ、県内各地で演奏活動が展開されていて、音楽は群馬県文化の象徴になっているそうです。

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この「第九」の作曲者である、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを知らない人はいないでしょう。日本では江戸時代に生まれ、幕末近くの1827年に亡くなっているドイツの作曲家ですが、バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、「楽聖」とも呼ばれるほどの人です。

1770年、現ドイツ領で、当時は神聖ローマ帝国の領土であったケルン大司教領のボンで、生まれました。ベートーヴェン一家は、代々宮廷歌手で、お父さんもまた選定歌手でしたが、類の酒好きであったため収入は途絶えがちでした。このため、元歌手でもあった祖父の支援により一家は生計を立てていました

お父さんが酒癖が悪く収入が少なかったため、ベートーヴェンはこの父からその才能を当てにされていたといい、幼少のころから、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたと伝わっています。

しかしその成果は表れ、めきめきと才能を開花させたベートーヴェンは、22歳のとき、演奏先のロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められました。弟子入りを許可されてすぐにウィーンに移住しその手ほどきを受けるようになりますが、やがてここでもピアノの即興演奏の名手として名声を博すようになりました。

ところが、20歳代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化。この当時は水道管に鉛が使われていて、鉛イオンが溶け出した水道水を長期間飲んだことによる鉛中毒説が有力視されているようですが、ベートーヴェンは28歳の頃には最高度難聴者となってしまいます。

聴覚を失うという音楽家としては死にも等しい絶望感から、32歳の時、遺書まで書いて自殺も考えたといいます。が、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て2年後の1804年に交響曲第3番を発表しました。これを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれました。

が、その後、40歳頃には全聾となり、以後、晩年の約15年間は、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へ移るようになりました。今年の2月、同じく全聾を装っていた佐村河内氏のウソがばれましたが、耳が聞こえないのに作曲ができるというのは、一般人にとってはまことに不思議なことです。

が、それができたというところが、やはり天才ということなのでしょう。しかもベートーヴェンはさらに、40を過ぎてからは神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられるようになったといい、そうした環境の中で傑作を生み出していったというのは、本当にすごい精神力といえます。

加えて、彼が後見人をしていた甥が、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどの問題を起こすようになり、こうした苦悩がつのって一時作曲が停滞した時期もありましたが、そうした中で生まれたのが、世に名高い交響曲第9番でした。

ベートーヴェンが実際に交響曲第9番の作曲が始めたのは、47歳のころだといわれていますが、部分的にはさらに以前までさかのぼることができるといい、現在のような旋律が作られたのは、最晩年であった52歳、1822年頃のことといわれています。

しかし、その後に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥すようになると、10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌年の1827年に肝硬変によりその56年の生涯を終えました。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなり、この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列したそうです。

第10番は断片的なスケッチが残されたのみで完成されなかったことから、この第九は彼の最後の交響曲です。副題として「合唱付き」が付されることも多く、その第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩「歓喜に寄す」が用いられます。そして第4楽章の主題はかの有名な「歓喜の歌」として最も親しまれている部分です。

私はクラシック音楽が苦手なのでよくわかりませんが、「古典派の以前のあらゆる音楽の集大成ともいえるような総合性を備えると同時に、来るべきロマン派音楽の時代の道しるべとなった記念碑的な大作」なのだそうで、第4楽章の「歓喜」の主題は欧州評議会において「欧州の歌」としてヨーロッパ全体を称える歌として採択されています。

また、欧州連合においても連合における統一性を象徴するものとして採択されているほか、ベルリン国立図書館所蔵のベートーヴェンの自筆譜は、2001年にユネスコの「世界記録遺産」リストに登録されたそうです。

このように、まぎれもなくベートーヴェンの最高傑作の一つであるわけですが、そのゆえんは、大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間のほか、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった、シンバルやトライアングルなどのティンパニ以外の打楽器を使用した独創性にあるといいます。

また、第3楽章は、「ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章」だそうで、このほか、従来の交響曲での常識を打ち破るかのような、独唱や混声合唱の導入などの大胆な要素を多く持ち、シューベルトやブラームス、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなど、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えました。

が、日本での圧倒的な人気の一方で、ヨーロッパにおいては、オーケストラに加え独唱者と合唱団を必要とするこの曲の演奏回数は必ずしも多くないそうです。

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日本においても最初に全曲演奏がなされたのは明治を通り越して大正なってからで、大正7年(1918年)の6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所でドイツ兵捕虜による演奏が行われたのが最初だといいます。

この事実はこの初演の2ヶ月後に板東収容所でこの「第九」を聴いた徳川頼貞が、戦前の昭和16年(1941年)に書いた「薈庭楽話」という随筆に書かれていたためわかったそうで、それによれば、このとき頼貞が聞いたのは第1楽章のみだったといいます。

徳川頼貞という人は、その名前からもわかるように、徳川御三家の子孫であり、紀州徳川家の第16代当主にあたります。母方の祖父徳川茂承が紀州藩主であり、楽譜や音楽文献、古楽器類の収集家として知られ、生きている間には「音楽の殿様」と称されました。

日本楽壇の進歩発展に尽力するなど、戦前における西洋音楽のパトロンとして果たした役割は大きいとされ、戦前は貴族院議員として、戦後は参議院議員として憲政にも携わり、これによって築いた人脈を駆使して音楽を普及させ、これを外交においても利用しました。

「薈庭楽話」は、そうした自分の歴史を綴った回想録のようですが、その中で明らかにされた板東収容所での演奏の件は、その後戦争に突入してしまったため、その事実は長い間忘れ去られるところとなり、1990年代になってようやく脚光を浴びるようになりました。

この板東俘虜収容所において第九が最初に演奏されたのは1918年ですが、収容所という環境から、これを聞いたの軍関係者だけです。それをこの初演の2か月後に徳川頼貞氏が聞いたということから、同じメンバーより頻繁に演奏されていことがうかがわれ、この時の演奏は徳川頼貞が慰問か何かに訪れていたためのときのものかと思われます。

また、この翌年の1919年12月3日には、福岡県の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)で演奏会が開かれたという記録が残っています。ただ、坂東収容所のメンバーではなく、別の久留米俘虜収容所のドイツ人オーケストラのメンバーによる出張演奏だったということであり、様々な曲に交じって「第九」が演奏されました。

ただ、第2・第3楽章だけだったといい、聞いたのも女学生達だけでしたが、収容所のスタッフ以外の一般の日本人が「第九」に触れたのはこれが最初だと言われています。さらにその2日後の12月5日には、久留米収容所内で合唱も加えられた演奏が行われており、このときには楽器編成もほぼ原曲どおりで全曲演奏がなされたといいます。

この板東俘虜収容所に代表される捕虜収容所ですが、これらが設置されることになった発端は、第一次世界大戦です。その一局面で日独戦争が勃発し、戦争終結後当時大阪市にありドイツ人捕虜を収容していた「大阪俘虜収容所」が手狭となったことからこれが閉鎖され、捕虜たちは他の場所に移転することになりました。

この「日独戦争」の経緯ですが、そもそもは、日露戦争に先立つ日清戦争で日本が勝利したのち、日本が遼東半島の所有を要求したことに始まります。ところが、同じく中国進出をたくらんでいたフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国は、日本のこの主張に対して猛烈なる異議を唱えました。

これがいわゆる「三国干渉」といわれた事件であり、これにより日本はやむなくこれらの国の勧告を受諾し、遼東半島を放棄する代償に3000万両(4500万円)を獲得しただけで我慢しました。

ところが、この三国干渉で中国に恩を売った形になったドイツは、他のフランスやロシアを差し置いて自分だけは大洋艦隊の寄港地となる軍港を中国沿岸に確保しようと企て、そこで渤海湾の湾口にあたる膠州湾一帯に目をつけました。

そして、1897年に自国の宣教師が山東で殺された事件を口実にここに上陸し、翌1898年(明治31年)には山東半島の南側、黄海に面した膠州湾を99年間の租借地としました。そしてその後この膠澳湾全体をドイツ東洋艦隊の母港とすべく軍港として整備し始めました。

ドイツはこの地を極東における本拠地とし、膠州湾租借地の行政中心地として、湾入り口東側の半島に「青島」を建設し、ここに要塞を建設しました。そして湾内には艦隊を配備し、さらには鉄道敷設権と鉱山採掘権なども確保してその背後の山東半島一帯を勢力下に置くようになりました。

この結果、その中心地となる青島にはドイツのモデル植民地として街並みや街路樹、上下水道が整えられるまでになりましたが、今なお残る西洋風の町並みはこのときに形成されたものです。ドイツ軍撤退後の今も、現地で製造されている「青島ビール」は、このとき彼らがもたらした技術に基づくもので、ドイツがこの町に与えた影響は大きいものでした。

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しかし、遼東半島の領有を反故にされた日本にとっては、そこからそう遠くもないこの地を盗られたというのはトンビにあぶらげ同然の行為です。到底許しがたいものであり、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、当然のごとく日本はドイツに宣戦布告し、青島の攻略に乗り出しました。

一方、このように日本海を隔ててすぐに大戦力を派遣できる日本に対して、極東の僻地にまで軍隊を派遣するのはドイツにとっては至難のわざです。青島はこのころかなり頑丈な要塞化がなされていましたが、それでも日本軍の猛攻撃をかわす手立てはないと目されたことから、ドイツ東洋艦隊は港内封鎖を恐れて膠澳湾を脱出することになりました。

このとき、マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊の大部分は脱出しましたが、青島には駆逐艦「太沽(タークー)」、水雷艇「S90」、砲艦「イルティス」、「ヤグアール」、「ティーガー」・「ルクス」が残り、膠州湾の湾口はこれを日本海軍の艦船が封鎖しました。

このとき、港内に残されたS90 は、夜間雷撃により果敢に出撃し、日本海軍の防護巡洋艦「高千穂」を撃沈しています。しかし、本国へ向かったドイツ東洋艦隊は、大西洋を越えて帰港を目指す中、1914年12月8日に起こったフォークランド沖海戦において、日本と同盟関係にあったイギリス海軍によって撃破され、多くの艦が海の底に消えました。

一方、この戦争では日本軍としては初めてのこととなる飛行機による空中戦が行われました。第一次世界大戦に参戦した各国軍隊もそうでしたが、日本軍も初めて飛行機を戦闘に投入したわけであり、ただこの当時の日本空軍の規模は極めて小さく、「モ式二型」と呼ばれる複葉機を4機、「ニューポールNG二型単葉1機」に加え、気球1という寂しさでした。

しかし、人員だけは348名も集められて臨時航空隊を編成し、さらには、日本海軍で初めてとなる、「水上機母艦」まで導入しました。「若宮」という船であり、元英貨物船でしたが、日露戦争時にはロシアがバルチック艦隊の輸送船として保有しており、これを日本軍が対馬海峡で拿捕して接収したものです。

のちに、沖ノ島丸と命名されましたが、さらに若宮丸と正式命名され、日本海軍の輸送船として活動していましたが、1913年(大正2年)に臨時に水偵機3機を搭載して演習に参加、翌年水上機母艦への改装工事を受けました。改装ではありますが、一応、日本初の航空母艦ということになり、主として上述の「モ式」を運用しました。

若宮搭載のモ式には、大型1機と小型1機があり、残りの小型2機は分解格納されていました。山崎太郎中佐を指揮官とする海軍航空隊は1914年(大正3年)9月5日に初出撃を行っており、これが日本空軍の史上初の航空隊の出動ということになります。が、この初出撃では大きな成果はあげられなかったようです。

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一方のドイツ軍は「ルンプラー・タウベ」という鳥の形をしたような不思議な飛行機を保有していました。タウベは鳩のことで、その名は、主翼と尾翼の形態が鳩の羽根のような形に由来しています。極めて安定性の高い飛行機で、運動性能は悪かったものの、単葉機だったため、日本軍の複葉機よりは性能は格段に優れていました。

しかし、青島のドイツ軍のタウベはわずか1機のみであったため、偵察任務に投入され、上空から日本軍陣地観察し、これによってもたらされたスケッチによって、ドイツ軍からは30㎝要塞砲によって正確に日本陣地に砲弾が撃ち込まれ、日本軍を悩ませました。

このため、日本軍はタウベが飛来するたびにその陣容を知られないよう、大砲などの兵器を隠すだけでなく人員をも隠れることを余儀なくされました。このため、日本空軍としては何としてもこのタウベを排除したく、「若宮」を出動させましたが、出航してすぐに触雷してしまい、日本への帰投を余儀なくされました。

このため、「モ式」は陸に降ろされ、砂浜からの出撃するハメになるなど大きく機動力を欠くところとなりましたが、1914年(大正3年)10月13日タウベを発見し、ニューポールNGとモ式3機の合計4機が発進し、空中戦を挑みました。

この「日本軍初の空中戦」となる空戦においては、タウベの機動性は日本軍のモ式を圧倒的に上回っていましたが、包囲されかけたため、二時間の空中戦の末に撤退しました。

9日後の10月22日にもニューポールNGとモ式がタウベを追跡しましたが、翻弄されただけで終わっており、その後ゼロ戦を初めとして名機を多数生み出すことになる日本空軍の初期のころの空戦とは、こんなほのぼのとしたものに過ぎませんでした。

その後日本軍は急遽、民間からニューポール機とルンプラー・タウベを1機ずつ徴用して青島に送りましたが、その運用が始まる前に停戦を迎えたため、これらの飛行機が戦果を挙げることはついにありませんでした。

本邦初といわれる空戦はこんな形で終わり、空の上での日独の戦いは、こうしたのんびりとしたものでした。がしかし一方陸地では「神尾の慎重作戦」と揶揄される程に周到な準備の上での作戦が日本軍により実施され、その結果華々しい成果があげられました。

神尾とは、約29,000名にのぼる兵員を有する第18師団と第二艦隊を率いる、「神尾光臣中将(後に大将)」のことで、これに対するドイツ軍兵力は約4,300名でした。

日本陸軍はドイツの青島要塞攻略にあたり、白兵戦で多数の死者を出すという大出血を強いられた日露戦争の旅順攻囲戦を教訓にして、砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要としました。このため、最新鋭の攻城砲四五式二十四糎榴弾砲をはじめ、三八式十五糎榴弾砲、三八式十糎加農砲など、多数の重火器を導入して、ドイツ軍要塞を砲撃しました。

この結果、青島要塞は無力化され、その砲台は日本陸軍の砲撃により、ほとんど破壊され尽くされました。11月6日、青島要塞総督ワルデック少将は、タウベに秘密文書の輸送を託し、タウベと2人の飛行士を出発させ、タウベは脱出に成功しました。そして、その翌日7日、ドイツ軍は白旗を掲げ、ドイツ側軍使による降伏状が日本側に手渡されました。

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こうして、両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落しました。その結果、ドイツ軍兵士約4700人が日本側の捕虜となりました。これに先立つ1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争の際、日本は大量に生じたロシア人捕虜に関する規定を定めていました。

日露戦争当時のロシア人捕虜の扱いは極めて人道的なものであったといわれており、これは1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定が適用された最初の例であり、このときの捕虜及び傷者の扱いは、赤十字国際委員会も認める、優良なものでした。

ただ、日露戦争では大量の捕虜が出たため、日本は当初その扱いでかなり手間取りました。この経験により、青島の件ではドイツ側降伏後すぐに東京で政府により対策委員会が設置され、当時の陸軍省内部に、保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する“俘虜情報局”が開設されました。

保護供与国とはドイツと国交のある国がドイツ兵士が捕虜になった場合にその援助をするという協定で、この当時はアメリカがそれでした。

ただ、今回の青島では、ドイツ側の降伏は予想以上に早いものであり、このため想定以上の人数を収容する必要が生じ、当初は捕虜受け入れの態勢が不十分で、捕虜たちは仮設収容所に収められることになりました。

捕虜たちは貨物船で同年の11月中に日本に輸送され、北海道を除く全国各地の都市に点在する収容所に振り分けられました。が、劣悪な環境が多く、食料供給も乏しく略奪や逃亡者も発生。将校クラスの者たちも特別待遇を受けることはありませんでした。しかし、新しい俘虜収容所の準備が整い次第、彼らは段階的に仮設収容所から輸送されていきました。

多くのドイツ軍捕虜は日本各地に設けられた14箇所の捕虜収容所に収容されました。俘虜収容所は全国各地につくられましたが、それらは最終的に6つに統合され、これは、似島俘虜収容所(広島)・久留米俘虜収容所(福岡)・板東俘虜収容所(徳島)・青野原俘虜収容所(兵庫)・名古屋俘虜収容所(愛知)・習志野俘虜収容所(千葉)でした。

中でも板東は似島はとともに最終的に整備された俘虜収容所であるため比較的整備が行き届き、1919年(大正8年)のヴェルサイユ条約締結まで長期にわたって運用されました。

ただ、この日独戦争終結後の1915年以降は、捕虜の脱走未遂発生のため戦争俘虜に関する規定が厳格化されており、現行の戦時国際法に反し、日本は脱走者に規則上のみならず刑法上でも処罰を課す方針をとりました。

このため、再捕捉された捕虜が有罪判決を受けることもあり、脱走計画の黙認、幇助も処罰の対象だったため、戦争捕虜を収容所する収容所の職員たちもまた日露戦争のときよりも管理体制を厳しくするようになっていました。

とはいえ、多くの虜収容所は捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとされており、とくに1917年に建設されたこの板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与しました。

板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流は、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野にわたっており、その後の両国の友好関係の発展を促したとも評価されています。

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青島で日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名がこの坂東に送られ、1917年から1920年まで、約2年10か月間ここで過ごしました。最初の年の1917年には丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から900人あまりが送られ、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、最終的に約1000名の捕虜が収容されました。

捕虜の収容に先立つ、1916年3月には保護供与国であるアメリカの駐日大使は同国の外交官サムナー・ウェルズを派遣し、捕虜らの処遇の調査目的で日本各地の収容所の視察を実施させました。

その争点は主に給食、医療処置であり、ほかに散歩の不足などにも及びましたが、状況は収容所によって様々でした。彼は詳細な報告書を作成し、それを元にアメリカ大使が東京であらゆる問題点に関して検討を重ね、日本側の代表に改善点を通達しました。

これにより、同年12月に行った二度目の収容所視察ツアーで、ほぼ全ての収容所に関して環境が改善したことを確認され、捕虜たちから未だ不満の声はあるものの、日本側も環境改善に尽力したという結論が出されました。

上述のとおり、陸軍省は、ハーグ陸戦条約の捕虜規定にもとづく捕虜に対する人道的な扱いを定めていましたが、一方では地域の駐屯軍の下にいる収容所の指揮官にその処遇の最終的なあり方をゆだねていました。このため、収容する側の日本人の印象とドイツ人捕虜内の待遇の感じ方は場所によって様々に異なっていたようです。

ただ、一次大戦当時の日本以外の他国の捕虜の扱いと比較しても、日本は収容総数がそれ程多くなかったこともあり、総じて日本側の待遇は十分耐えうるものであったとされていたようで、後述するように、その後保護供与国である他国の関係機関の指導などによりさらに環境の改善もなされていきました。

板東俘虜収容所の収容所長は「松江豊寿」陸軍中佐という人で、1917年以後は大佐に昇格しました。現在の会津若松市出身で、元会津藩士だった警察官の父のもとに生まれ、16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校入学後は、陸軍一筋に働き、日清・日露戦争にも従軍したのち、1914年(大正3年)に陸軍歩兵中佐となりました。

板東俘虜収容所において、松江はドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許しましたが、その背景には彼が会津出身であり、かつて幕末には賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟として生まれたという体験が、こうした良心的な対応に影響したといわれています。

ただ、板東俘虜収容所の宿舎は必ずしも新築ばかりではなく、もともとあった学校や寺院、労働者寮、災害用の質素な住居、元兵舎などで構成されていました。このため、トイレの不足や害虫・ネズミの発生、日本人向け住居ゆえの窮屈さ、寒さなどが問題点として報告されました。が、将校は単独で別個の家に収容され、一般兵より好待遇を受けていました。

また、この紛争当時、民間人として日本に滞在するドイツ人が少なからずおり、彼等は敵国人であるため経済活動は禁じられていたものの、生活の自由は保障されていました。このため、彼らは捕虜となったここのドイツ人兵士らのために援助委員会を組織し、これを介しての物品、金銭援助を行い、本や楽器のための寄付活動も組織しました。

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さらに、捕虜たちに階級差はあるものの、日本兵と同様に給料を受領しており、収容所周辺地での労働による収入もありました。1917年までドイツ政府は将校に月給とクリスマスボーナスも支給しており、これらの金はドイツにいる親類、以前の勤務先などからの振込みなどによって日本に届けられたため、金の調達には不自由しませんでした。

収容所内には日本人が経営する売店まで現れ、彼らは自由に買い物ができました。また収容所を出入りする商人からも同様に買い物ができ、アルコール類も生活必需品と同様に入手可能であり、レストランも完備されていました。捕虜の中には建築の知識を生かして小さな橋を作るものもおり、この「ドイツ橋」は、今でも現地に保存されています。

ただ、手紙や小包は没収、破棄されることもありました。郵便物の発着送は検閲官の管理下にあり、手続きは大変煩雑であったこともあり、発送を許可されたものはわずかで、規則を順守する形で送られるか、もしくは郵送手段が全て禁止されていました。また、使用言語が日本語・ドイツ語以外のもの(ハンガリー語など)は郵送は認められませんでした。

さらには、医学的処置は不十分だったようです。病気や怪我などの身体的苦痛と並んで、多くの入院患者は無為な日々と、閉所恐怖症によって引き起こされた精神障害に悩まされたといい、これは俗にいう“有刺鉄線病”であったといわれています。また、1918年の秋には世界中でスペイン風邪が猛威をふるい、収容所内でも多くの感染者が出ました。

しかし、松江はそんな閉塞空間に暮らす捕虜らを勇気づけるために、自主活動を奨励しました。

このため、板東俘虜収容所内には、多数の運動施設、酪農場を含む農園が造られ、農園では野菜が栽培され、ウイスキー蒸留生成工場までも造られました。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人であったため、彼らの中には家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋などがいました。

彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、文化活動も盛んでヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露しました。中でも同収容所内のオーケストラは高い評価を受け、この中でこれまで述べてきた、ベートーヴェンの交響曲第9番も演奏されたわけです。

音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行いましたが、収容所外では徳島市の立木写真館(写真家立木義浩の実家で、NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」のモデル)で開催されました。

さらには、演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなども結成され、その技術を生かして様々な自治活動を行いました。菜園管理だけでなく、動物の飼育までも行われ、厨房(酒保)やベーカリーを経営する者もあらわれました。

また、捕虜らに向けた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われ、収容所内に設けられた印刷所では、“Die Baracke”(ディ・バラッケ、「兵営」や「兵舎」の意味)と呼ばれる新聞が印刷されて刊行され、語学教科書やガイドブック、実用書なども発行されました。

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こうした活動は、板東俘虜収容所だけでなく、全国各地の他の収容所内や外部施設でも同様であり、収容所の外で、俘虜作品展覧会も頻繁に行われました。一部の収容所では、捕虜の持つ技能を日本に移植することを目的に、捕虜を日本人の経営する事業所に派遣して指導をおこなわせるところまでありました。

とくに、名古屋俘虜収容所の捕虜の指導で製パン技術を学んだ半田の敷島製粉所は、これをもとに敷島製パンへと発展することとなりました。1920年に敷島製粉所から敷島製パンが発足する際、元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘しており、また、現在も鳴門市内にパン店「ドイツ軒」が営業しています。

こうして、あしかけ3年にも及ぶドイツ兵の収容所生活は大きな問題もなく続いていきましたが、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で講和条約締結されました。

この条約の締結により長きに渡って収容されていたドイツ兵たちは解放されるところとなり、1919年12月末より翌20年1月末にかけて、捕虜の本国送還が行われました。

しかし、この解放後も、全国で約170人が日本に残りました。彼等は収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営むようになり、これらの中には上述の敷島パンの例のほか、現在もよく知られている、神戸市の製菓会社、ユーハイムがあります。

これを設立したカール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムは、広島の似島俘虜収容所のほうに収容されていましたが、その話は、今年3月に掲載した「原爆ドーム」に詳しいので、こちらも参照してみてください。

このほか、栃木県那須塩原市に本社を置く「ローマイヤ」は、元捕虜のアウグスト・ローマイヤーがハムやソーセージなどの製造・販売を中心とする食品会社として設立したもので、また、上述の通り、「フロインドリーブ」はハインリヒ・フロインドリーブが敷島製パン初代技師長を経て神戸市に設立したパン屋です。

敷島製パン初代技師長に就任したのち日本人と結婚し、同社を退職後、大阪のなだ万での勤務を経て、神戸でパン屋を開店して事業を拡大させました。1940年頃には神戸市内にパン屋、洋菓子店、レストランなどおよそ10の店舗を展開させるに至りましたが、第二次世界大戦期の神戸大空襲により店舗を失いました。

1977年(昭和52年)から1978年にかけて放送されたNHK朝の連続テレビ小説「風見鶏」のモデルとして知られ、フロインドリーブ役を蟇目良(ひきめりょう)さんが、妻役を新井春美さんがやったのを覚えている人も多いでしょう。

このように1919年に解放された後も日本に留まった元ドイツ人捕虜は多数にのぼりますが、このほか約150人は青島や他の中国の都市に、そして約230人はインドネシア(オランダ領東インド)に移住しました。一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎されました。

収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられます。

しかし、一方の日本では、ある意味優れた技能職人であると当時に友人でもあった彼等を失うことになりました。ヴェルサイユ条約批准日であった、1920年1月10日には、彼らが住んでいた収容所を失った板東町内がまるで葬式のような雰囲気になったといいます。

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それほどまでにこの街の人々に愛された板東俘虜収容所であっただけに、その後も施設は大切に扱われ、現在もその跡地のうち、東側の約1/3は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されているそうです。

また、近傍には元俘虜たちから寄贈された資料を中心に展示した「鳴門市ドイツ館」があり、当時の板東俘虜収容所での捕虜の生活や地元の人々との交流の様子を知ることができるといいます。

8棟あった兵舎(バラッケ)の建物のうち大半は解体され、民間に払い下げられ、倉庫や牛舎として再利用されていましたが、その後発見され、現在までに同様に再利用された建物は8カ所にのぼることが確認されています。また最初に再発見された2つのバラッケ(安藝家バラッケ・柿本家バラッケ)は2004年に国の登録有形文化財に登録されています。

このうち柿本家バラッケは2006年にドイツ館南側の「道の駅第九の里」に解体・移築され、店舗施設「物産館」として利用されているそうです。

この板東俘虜収容所エピソードは「バルトの楽園」として、松平健さんを主演に2006年映画化されました。「バルト」とはドイツ語で「ひげ」の意味で、板東収容所の所長だった松江豊寿やドイツ人捕虜の生やしていたひげをイメージしているようです。

そのロケセットはドイツ村公園とは別の、鳴門市大麻町桧に建設された「阿波大正浪漫 バルトの庭」に移され、同園は2010年4月25日にオープンしており、この敷地内にも現存する実際のバラッケ1棟が移築・公開されています。

鳴門といえば、鳴門海峡の渦潮が有名ですが、大鳴門橋を跨ぎ、淡路島を通ると神戸・大阪はすぐそこであり、逆に京阪神からは四国の玄関口となっています。「阿波大正浪漫 バルトの庭」のある大麻地区には四国八十八箇所霊場の1番札所である霊山寺もあり、季節を問わず、白衣を着た遍路の姿が絶えないそうで、このように鳴門は四国周遊の入口としても有名です。

が、私としては、そんな大旅行をしなくても、鳴門のうず巻きが語源となった、「ナルト」の乗ったおいしいラーメンが食べれれば今は満足です。今年の大みそかは、第九を聞きながら、年越しそばの代わりにラーメンを食し、新しい年を迎える、というのも良いかもしれません。

今年もあとひと月。さて、どんな師走になるでしょうか。

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鬼がいぬ間に……

2014-7591数日間、雨模様の日が続きましたが、今日は一転、青空快晴です。

伊豆の各地は紅葉の見ごろとなり、近隣の山々もすっかり色付きました。すぐちかくの修禅寺虹の郷では紅葉の夜間ライトアップをやっているようで、今月末までということなので、終わってしまう前に一度出かけねば、と思っています。

そのほか、麓の修禅寺温泉や、この別荘地の隣の修禅寺自然公園の紅葉などなど、訪れたいところはゴマンとあるのですが、いかんせん、忙しくてなかなか十分な時間がとれません。

高校時代の同窓会を兼ねた忘年会も企画しなくてはなりません。広島の高校時代の卒業生のうち、東京で就職している連中を中心に毎年のように行っているものですが、なぜか私が万年幹事ということになっており、今年もその案内を出すシーズンがやってきました。

しかし、今から募っていては年末はすぐやってきそうで、どうやら新年会にまでずれ込みそうなかんじです。

どうして毎年年末なるとこう忙しいのか、といつも思うのですが、いっそのこと、年賀状もやめ、大掃除もやらない、ということにすれば気も楽になるのでしょう。

が、やめられないんだな、これが。

かくして、いつもいつも12月の別名が師走であることを思い知らされるわけですが、この「師走」の由来は、年末は皆忙しく、普段は走らない師匠さえも走ること、というのはよく言われることです。

その昔は、年末になるとお坊さんが各家で経を読むという習慣もあったそうで、このため師(坊さん)が、馳せ走るため「師馳月(しはせつき)」というようになり、「はせ」がなまって「はす」になり、「しわすつき」になった、という説もあるようです。

ところが、さらに調べてみると、この走り回ることは、「趨走(すうそう)」という難しい言葉を使うようで、「師」が趨走することから、「師趨(しすう)」と呼ぶようになり、これが略式化されて「師走(しはす)」になったとされる説もあるそうです。

さらには、「年果つる月」の意味である、「為果つ月(しはつつき)」という言葉があるそうで、これつづまって「しはす」となり、「師走」はこの宛字だとする説もあるといいます。

このように、単に師走というのはエライ人が走り回るということからだけきているのかと思ったら、いろんな説があることは知りませんでした。

また、英語でのこの12月の呼び方、Decemberは、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来しており、「10番目の月」の意味だそうです。1月から起算すると10月になってしまいますが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では3月が起算だったそうで、3月から数えて10番目の12月が「decem」になります。ご存知でしたか?

その昔はまた、このクソ忙しい12月に、「正月事始め」という行事があったそうです。これは、正月を迎える準備を始めることです。旧暦の12月13日だそうで、その後の改暦されて新暦になっても、この正月事始めは12月13日のまま行う、ということになっているようです。

昔はこの日に門松やお雑煮を炊くための薪など、お正月に必要な木を山へ取りに行く習慣があったそうで、なぜこの日になったかといえば、江戸時代中期まで使われていた「宣明暦(せんみょうれき)」という暦では、12月13日が「鬼」に相当するからだそうです。

宣明暦とは中国暦の一つで、正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言うそうですが、日本に輸入されて以降、中世を通じて823年間も継続して使用され、史上最も長く採用された暦だそうです。

この暦では、ひと月を「二十七宿」に分割し、それぞれに意味を持たせましたが(ほかにも、危、心、角、女、昴など色々ある)、このうちの12月の13日に当たる日が「鬼」になります。この「鬼の日」は婚礼以外は全てのことに吉とされているそうで、このため、正月の年神様を迎えるのに良いとして、この日が選ばれたようです。

今年の12月13日は土曜日であり、週末なので、この日に結婚式を行うカップルもいるかもしれませんが、「婚礼以外」は吉ということのようなので、もう予定を入れているとしたら、今からキャンセルしたほうがよいかもです。

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鬼といえば、来年のことを言うと、鬼が笑う、とよく言いますが、これもなんでこういうのかなと調べてみました。そうしたところ、ある用語解説サイトでは、「明日何が起こるかわからないのに、来年のことなどわかるはずはない。将来のことは予測しがたいから、あれこれ言ってもはじまらないということ」と書いてありました。

それなら別に来年のことではなく、来月のことでも、「いいじゃないの~」とツッコミたくなるのですが、年をまたぐ、というのは色々な意味で、大きな境界を越えるという意味を持つわけです。

その昔は、栄養状況もよくなく、医療も整っていなかったため、人の寿命も短かく、ひと昔前には人生50年と言われた時代もあったわけですが、そうした時代では一年一年を無事に過ごすのもやっとでした。

そうした時代において、「鬼」は正に対し邪を意味するものであり、また生に対しての死を象徴するものでした。このため死者の所在のことをさし、鬼籍に入ったと言いますが、来年迎えられるかどうかもわからない、もしかしたらそれまでに死んでいるかもしれない、という思いを込め、この死の象徴である鬼に来年のことを言うと笑われる、というようになったわけです。

年内一杯は来年のことを考えず、一生懸命生き抜かなくては、ダメよダメダメ~というわけです。

また、この鬼は「閻魔大王」の手下だという説もあります。閻魔様は死者を裁く裁判官であり、年内の訪問予定者、つまり死亡者が書き込まれている閻魔帳を持っています。そして、ここに自分の名前があるとも知らずに来年の予定を夢や希望をもって語っていると、その手下の鬼に失笑されてしまう、という話もあるようです。

元々は死霊を意味する中国の鬼(キ)が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだという説もあるようですが、「おに」の語は「隠」が転じたものという説があり、これは「おぬ」と読みます。元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味したようで、そうした意味では、死者の霊ということになります。

しかし、古代の人はそこに人知を超えたものを感じるようになり、やがて「隠」は人の力を超えたものの意となりました。目に見えないもの、というものは恐ろしいものであり、これはさらに後に、人に災いをもたらす存在となり、やがてはこれを具象画化する者が現れ、そのひとつとして頭に角の生えたあの強面のオッサンのイメージが定着しました。

さらには、平安時代以降に流行し陰陽思想や浄土思想と習合し、ここで説かれていた地獄における閻魔大王配下の獄卒が、この鬼であるとされるようになったものといわれています。

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この鬼は、「おぬ」「おに」と呼ばれる時代以前には、「もの」と読んでいたそうです。奈良時代の記録書の「仏足石歌」では、「四つの蛇(へみ)、五つのモノ、~」という記述があるそうで、また「源氏物語」にも「モノにおそはるる心地して~」という記述があり、これらの「モノ」は怨恨を持った怨霊であり、邪悪な意味で用いられていました。

単なる死霊ではなく、「祟る霊」であり、非常にタチの悪い輩です。この時代には「目1つ」の姿で現されていたということで、「片目」という神印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説もあるようです。

いずれにせよ一つ目の鬼は単なる死霊と言うより民族的な「恐ろし神」の姿が想起されます。日本書紀などでは、この「邪しき神」を得体の知れぬ「カミ」や「モノ」として取り扱っていましたが、その後伝来した仏教にに含まれていた獄鬼、怪獣、妖怪などの類の概念が日本人の想像力で変形し、人を食う凶暴な鬼のイメージが成立していきました。

普段は見えない、ということはつまり「闇」の世界の住人であり、平安の都人がいかにこの闇に恐怖を感じていたかが想像されます。鬼とは安定したこちらの世界を侵犯するそうした闇の世界、異界の存在であり、また社会やその時代の法を犯す反逆者はこの闇の世界にいつも逃げ込んで姿をくらましていました。

この異界の住人は、やがて姿を変え、人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪などなどに変わっていき、人々の想像を膨らませて際限なくそのイメージは広がっていきました。

が、考えてみれば、テレビやインターネットがないこの時代においては、その想像そのものが娯楽、といった一面もあったでしょう。現在でもホラー映画を好きな人がいますが、それと同じ感覚かもしれません。

平安から中世になると、この時代の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼となりました。有名な話としては、大江山の酒呑童子の話があります。酒呑童子は「童子」といいながら鬼の姿をしており、都から姫たちをさらって食べていました。

大江山は異界に接する山として著名ですが、これは京都の北の果てにあります。大江山の位置するこの丹後地方は古くから大陸との交流が深く、帰化人は高度な金属精錬技術により、ここで金工に従事、多くの富を蓄積していたことに由来するといわれます。

これに目を付けた都の勢力は兵を派遣、富を収奪し、彼等を支配下に置きましたが、外国からやってきた彼等は彼等なりに自分たちは優れた技術者だという自負があり、自分達を正当化、美化しようとしました。

そうした思いから、自分たちは鬼退治をやって都の人を守っているんだという酒呑童子の話が出てきたようですが、この地方には似たような話しとしてこのほかにも、「土蜘蛛退治」といった話が残っているようです。

ただ、帰化人が山賊化し非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もあり、こうした山に接する地域には日本人には受け入れられなかった外国人が住まうことが多く、やがては山賊化して巣くうことも多くなったためか、京都周辺の山間地を中心に鬼伝承は多いようです。

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また、京都の町にも鬼の話は数多く残っています。ここを舞台にした貴族の物語である「伊勢物語」には、夜にある男が女をつれて逃げる途中、鬼に見つかって女を一口で食べられる話があり、ここからこの時代には危難にあうことを「鬼一口」と呼んでいた一時期があったということです。

ただ、無論のこと、実際に鬼がいたわけではありません。ある学者さんによれば、これはこの当時京都などの機内を中心に多数発生した戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で頻出する人の死や行方不明を、異界がこの世に現出する現象として解釈したものだといいます。

人の体が消えていくというリアルな体験を、この世に現れた鬼が演じたものとしたわけであり、鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔であったわけです。

一方では、福を残して去る神にする例もあり、昔話の一寸法師に出てくる鬼や、瘤取り爺さんの鬼がそれです。一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(182cm)になり、娘と結婚し、さらには金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたといいます。

瘤取り爺さんのほうの話のほうも説明はいらないでしょうが、子供のころに聞いた話を思い出してみてください。

これは頬に大きな瘤のある正直者の爺さんがある日、鬼に遭遇した、という話で、請われるまま踊りを披露すると鬼は感心して酒とご馳走をすすめ、翌晩も来て踊るように命じ、そのとき返してやると翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまいました。

これを知った隣の業突く張り爺さんも自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけ踊りを踊ります。

が、出鱈目で下手な踊りを披露したので鬼は怒ってしまい、「瘤は返す。もう来るな」と言って昨日の翁から取り上げた瘤を意地悪な翁のあいた頬にくっつけたため、意地悪ジジイはそれから瘤が二つになり、一生難儀するハメになった、という話です。

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このほか、鬼の形態の歴史を辿れば、その昔の初期のころの鬼というのはみんな、女性の形をしており、鬼の実体は女であるとする向きも多いようです。

「源氏物語」に登場する鬼も女性の形で出てきます。この中に鬼が渡辺綱という武将に切られた自分の息子の腕を取り返すために女に化け、綱のところへ来て「むすこの片腕があるだろう」と言い、それを見せてくれと言うなり奪い取るくだりがあります。

いわゆる「般若」の面も鬼女を表したものといわれ、一説には、「般若坊」という僧侶が作ったところから名がついたといわれています。が、上の「源氏物語」には、光源氏の最初の正妻の葵の上が、夫の不倫相手の六条御息所の嫉妬心に悩まされ、その生怨霊にとりつかれた、という話が書かれており、こちらが元祖という説もあります。

このとき、葵の上は、般若経を読んで御修法(みずほう)を行いこの怨霊を退治したと源氏物語には書かれており、この故事をもとに、この女の嫉妬の醜い形相を形に表したものが般若面の姿になったともいわれているようです。

以来、「嫉妬や恨みの篭る女の顔」として能などの演芸でよく使われるようになりましたが、このように女性が宿業や怨念によって化したものこそが鬼とされ、中でも若い女性を「鬼女」といい、老婆姿のものを「鬼婆」といいます。

鬼婆の話のひとつとしては、福島県二本松市にある「黒塚」という墓は鬼婆の墓といわれています。これはこの地にある安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆」の墓として伝わっているものです。

この話はその後、土佐に伝わったとのことで、高知県には「土佐お化け草紙」という妖怪譚が伝えられており、この話にも「鬼女」が登場し、これは身長7尺5寸(約230cm)、髪の長さ4尺8寸(約150cm)の鬼女が妊婦の胎児を喰らったというお話です。

ちなみに、背の高い人の多いバレーボール選手でも、女子の平均的な身長は、180~190cmくらいのようで、2mを越える選手はほとんどいないことから、この230cm鬼婆というのはやはりドデカく、本当にいたら大迫力でしょう。

一方の若い女性の鬼、鬼女の話は、源氏物語のような古典以外にも、昔話、伝説、芸能などに頻出し、有名なものとしては、信州戸隠(現・長野市鬼無里)の紅葉伝説、鈴鹿山の鈴鹿御前などがあります。

この紅葉伝説というのは、子供に恵まれなかった夫婦が、魔王に祈った結果、呉葉(くれは)という鬼の女児を得る、というところから始まります。呉葉は、長じて紅葉と名を改め、源経基という貴族に見初められて妾となり、経基の子供を妊娠します。

ところが、あるときのこと、経基の御台所が病懸かり、この病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、信州戸隠鬼無里の地に追放されてしまいました。

この地で経基の子、」経若丸を生んだ紅葉でしたが、京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、都の暮らしを恋しく思うようになります。このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るため一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになります。

この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わり、このため平維茂という武将が鬼女討伐を任ぜられ出撃しますが、紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあいます。

しかし、維茂の夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かり、これでの神剣を振るったところ、さすがの紅葉もこれにかなわず、その一撃に首を跳ねられるところとなりました。呉葉、若干33歳の晩秋のことでした……。

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一方の鈴鹿御前の方の話というのは、もう少し複雑です。話が長くなるので端折りますが、この話では鈴鹿御前は鬼神に憑りつかれ、都への年貢・御物を奪い取っていた盗賊として登場し、これを憂えた帝から、武将の俊宗という人物にその討伐の命が下ります。ところが、遠征先で2人は夫婦仲になってしまい、娘までもうけます。

その後紆余曲折を経ますが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力によって彼女に憑りついていた鬼神は退治されます。が、その反動で、元鬼だった鈴鹿は25歳で死んでしまいます。しかし、その後俊宗が冥土へ乗り込んで彼女を奪い返すことになっており、俊宗はこの元鬼嫁と2人でその後も幸せに暮らす、というのが大筋です。

この紅葉伝説、鈴鹿御前などの例のように、鬼が女性に化けて、人を襲うという話が伝わる一方で、人の心に巣くう憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化したとする話も多く、鬼女の話をすればキリがないほどです。有名な能の「鉄輪」や「紅葉狩」といった演目も、こうした嫉妬心から鬼と化した女性の話です。

ただ、一方では、母親が持っている自分の子供を守りたいとする母性が、これを奪い去ろうとする戦や災害に対する憎悪のようなものが鬼の姿に変化したものだとも受け取れ、子孫を残すためには何でもやる、といういわば本能の変化したものとする見方もできるでしょう。

とはいえ、古今東西、鬼のように心の酷い女性は幾多も現れ、彼女たちもまた鬼女ともよく呼称されます。先日来毎日のように報道されている、京都の女性もまた鬼なのかもしれません。夫も含めた複数の男性殺害の疑いが持たれているようですが、事実だとすると、現代における鬼女です。

さて、世の恐妻家たちは、「ウチの鬼嫁が」などとよく言います。そして女の本質が鬼であるとするならば、我が家にもひとり鬼がいることになります。

その嫁は今週末から一人で広島に数日間帰省だそうで、この「鬼のいぬ間」に何をして暮らそうか、というのが目下の私の課題です。

女性といえば、もうひとり我が家にはメス猫のテンちゃんがいます。このテンちゃんと一緒に鬼ごっこをする、というのも一つの手かもしれません。

が、忘れてはなりません。師走です。こんなブログを書いている暇があったら、仕事をしましょう。

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手をあげろ!

2014-1020792年末だというのに、解散総選挙だそうで、いったい何を考えているんだ、と巷では非難轟轟です。

なのに、安倍総理は涼しい顔でアベノミクス解散だと、うそぶいています。いっそのこと自民党は大敗して、何年か前のようにまた地獄を見ればいいのに、と私なども思うのですが、選挙に負けるもなにも、これを負かせるほど強い相手もなく、低い投票率のまま選挙は終わり、現状のまま来年になだれ込んでいくのが目に見えるようです。

先日の国会では、間違ったタイミングでの万歳があったそうですが、国民の合意も得ないままの集団的自衛権の閣議決定など国政もフライングばかりだし、解散もまたフライングかいというわけで、不意打ち解散とか色々言われているようですが、「不正スタート解散」とかなんとかのほうが似つかわしいと思うのですが、どんなもんでしょう。

ところで、この万歳とはそもそも何ぞや、ということで、コピッと調べてみたのですが、一般的には「喜びや祝いを表す動作」を指していう言葉ということのようです。「万歳」の語を発しつつ、両腕を上方に向けて伸ばすし、ときには喜びを強調して、これを繰り返します。

万歳三唱ということで、三回繰り返すのが定番のようですが、普通の人が万歳三唱をする機会というのは、一生涯でもそうたびたびはないでしょう。私もほとんど記憶がないのですが、忘年会などの会社の行事か何かで、半分お遊びで万歳三唱をしたことがあるくらいでしょうか。

書き言葉では、「万歳」だけでは喜びが表現しきれないためか、「万々歳(ばんばんざい)」という表現がなされることもしばしばですが、こちらはどちらかといえばあまり良い意味ではなく、なんとかうまくおさまりがついた、という安堵の気持ちを表す時によく使います。

この「万歳」というのは、元々は中国において使われていた言葉のようで、「千秋万歳」から来ているようです。

秋や歳はともに年のことで、千や万は歳月の非常に長いことを表し、ようは千年、万年の非常に長い年月の間、元気でいることを祝う意味です。用例としては、「千秋万歳、君が代の唱歌にもさざれ石の巌となりて苔こけのむすまで、と申してございます」といったふうに使うようです。また「万歳」は「ばんぜい」「まんざい」と読むこともあります。

なお、中国において万歳とは「一万年」の寿命を示す言葉であり、皇帝にしか使わなかったそうで、皇帝より身分の低い臣下が長寿を願うときは「千歳(せんざい)」を使っていたそうです。

このため、明の時代に権勢を誇った宦官(かんがん)の魏忠賢(ぎちゅうけん)という男は、「万歳」は皇帝にしか使えないため自分の長寿を配下の者たちに祝わせるときには「九千歳!」と唱和させていたといいます。また、各地に自らの像を収めた祠を作らせるほどの権勢を誇りました。

が、あまりにも傍若無人の振る舞いが過ぎたために、のちに部下らから弾劾され、24もの罪状で糾弾されると、首を吊って自殺しました。が、それだけでは民衆の怒りは治まらず、その遺体は磔にされ、首は晒し者にされ、彼の一族も皆殺しにされたといいます。

万歳は朝鮮語では「萬歲」と書き、韓国・北朝鮮では「マンセー、マンセ」と叫び、また中国語では「ワンスイ、ワンソェー(wànsùi)」と叫ぶそうです。

従って、もし小笠原沖で珊瑚を密漁している中国船が嵐で沈没しかけているのを見かけたら、ぜひこの言葉を三唱してお見送りしましょう。

さて、上述のとおり、万歳とは、元々は長寿を祝う言葉だったようですが、日本に入ってきてからは、いわゆる「雅楽」の題材ともなり、「「千秋楽」と共に「万歳楽」という曲が作られました。いずれも君主の長久を祝うめでたい曲として作曲されたもので、のちにはこれが民衆へも伝播し、伝統芸能の「萬歳」に発展しました。

めでたい正月のお祝いに芸人さんを呼んで、チャンチキ・どんどんのお囃子とともにお祝いに発する「話芸」として発展したもので、やがては全国で興るようになり、さらに「万才」と略字で示されるようになり、やがてこれがのちの「漫才」につながっていきました。

平安時代頃すでに芸能として成立していましたが、萬歳は日本各地でそれぞれの風土を背景に独自に発展し、これらには、秋田萬歳、会津萬歳、加賀萬歳、越前萬歳、三河萬歳、尾張萬歳、伊勢萬歳、大和萬歳、伊予萬歳などがあって現在まで伝えられています。また、このうち、越前、三河、尾張の各萬歳は、重要無形民俗文化財に指定されています。

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とはいえ、テレビで見る漫才はともかく、こうした文化財にもなるような萬歳を現在の我々が目にすることはめったにありません。いったいどういったものだろう、ということなのですが、この萬歳というものは、基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の2人が1組となるものが基本となるそうです。

現在の漫才もノリとツッコミをそれぞれが担当するコンビで行われますが、これもこの古き時代の萬歳の名残です。しかし、現在でも3人以上の大勢で取り組む漫才師さんもいるように、この当時にも3人以上から、多いもので十数人の組で行うものもあったようです。

基本的には正月に行うおめでたい行事なのですが、家の中にまで呼び込むとなると演じる側も接待する側も大変なので、「門付け(かどづけ)」といって門前で済ますことも多かったのに対し、3人以上でやるものは、それなりに大がかりになるので座敷などに上げてもらって披露されていたようです。

その演技の多くでは、「中啓」という扇が使われ、これは能楽などで使う扇の一種で、閉じた状態を横から見た時に先がややラッパ状に広がっているものです。また楽器については、基本は才蔵が持つ小鼓だけですが、演目によってはさらに三味線と胡弓を加えたり、太鼓・三味線・拍子木を使用するものもあるようです。

各地の萬歳によって、その演技の内容はかなり異なるようですが、例えば越前萬歳と加賀萬歳は小太鼓を細い竹の撥で擦るように鳴らす「すり太鼓」というものが用いられ、また、尾張萬歳には、「御殿万歳」というのがあり、これは太夫1人に才蔵が4人から6人が付く万歳です。

これは、正月だけでなく例えば新築のときに行われるもので、才蔵らが、鶴と亀を演じるとともに、家の柱一本ごとに各地の神々を呼び込んで回ります。さらには七福神が現れて新しい家の建築を祝うといったもので、厳粛な中にもめでたさと面白さを盛り込んだ内容となっています。

新築であるがゆえに、「御殿が建つ」という意味から「御殿万歳」と呼ぶようになったようで、舞台芸としての華やかさと笑いを強調した祝福芸として、尾張や三河に広まっていきました。尾張は現在の愛知県西部で、三河は愛知県中・東部になりますが、これらの地域の万歳に取り入れられ演じられていき、やがては全国にも広がりました。

さらに、尾張萬歳には、三曲万歳とういのもあり、これは、鼓・三味線・胡弓の三楽器を用いることから三曲万歳と呼ばれるものです。いわゆる歌舞伎などからの演目をも取り入れて芝居を演じる者もおり、この演じ手と楽器の弾き手がそれぞれ舞台上で立ち回るために芝居万歳とも呼ばれました。

また、なぞかけ問答やお笑いで進める「音曲万歳」というものもできるようになり、さらには3人がそれぞれ鼓・三味線・胡弓を持ちながら謡うという形のものも現れましたが、これらは、現在にも伝わる漫才コンビや漫才トリオの元祖であり、また萬歳とは別に発展した「落語」の寄席の席などでも度々演じられるようになりました。

この萬歳の日本におけるはっきりとした起源や発生時期は定かではないようです。が、上述のようにお祝い言葉として我が国に入って来たのち、奈良時代には「踏歌(とうか)」という行事に変化しました。

これは宮中などにおいて春を寿ぐ雅楽の行事で、男女の踏歌の舞人が足を踏み鳴らして舞うという原始的な舞楽であり、男子の踊り手の場合は「万春楽(ばんすらく)」、女性の場合には千春楽(せんずらく)と称しました。

のちにこれらはさらに君主の長久を祝うめでたい音楽として発展し、萬歳楽(まんざいらく)という謡となり、これとは別に千秋楽という謡も作られ、両方を合わせて千秋萬歳(せんずまんざい)となりました。そして、これをのちに略して呼称するようになったのが、「萬歳」だといわれます。

が、このほかにも、新年になると万歳師が庶民の家々を訪れて寿福を授けるという民間信仰より来たものがその由来だとする説もあるようです。これらの萬歳師は、自らを「歳神」として称して自らを「神の依代(よりしろ)」だと唱えて巷の人に祝福を与え歩いていました。

依代とは、「憑代」とも書き、要は神が憑依することによってその言葉を人々に伝える祈祷師の類です。最初は庶民のためだけのものでした。が、やがては宮中にも招き入れられるようになり、高貴な人のために、豊年の秋を千回万回と迎えられるようになると、「千秋萬歳」と長寿を祝う言葉を唱えるようになりました。

天皇や貴族などの身分の高い人のお祝い事があったときにこれらの万歳師が宮中に繰り出してこのお祝いを述べるわけですが、やがてはこれに演奏が入って雅楽の様相を呈するようになり、これらは11世紀には職業として成り立つようになりました。

当時の芸能や世相の一端を書き記した「新猿楽記」には既に、この萬歳師に関する記述があり、平安時代頃すでに芸能として成立していったことがうかがわれます。

ただ、この当時はまだ雅楽の域を出ず、舞楽の装束をした太夫がは鳥兜(とりかぶと)をかぶって演舞を行うだけでした。鳥兜とは、鳳凰の頭部を形どったものとされ、ヘルメットのような形をしています。が、縦に長く、後の首周りには「しころ」と呼ぶ首の後ろを守るパーツが付いていました。

消防士さんがかぶるヘルメットとその首の後ろに垂れている布垂れを想像して貰えばだいたいわかると思いますが、広島の宮島での奉納舞ではいまだにこの古式ゆかしい鳥兜をかぶって舞が行われます。

やがて室町時代になるとこれに代わって侍烏帽子(さむらいえぼし)をかぶるようになり、才蔵役の舞手は、この当時の標準服である直垂(ひたたれ)に平袴姿に、大黒頭巾風のものをかぶり、大袋を背負う、という格好が普通でした。竹取物語のおじいさんが、大黒様の恰好をしたようなものを想像するといいでしょう。

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平安時代の末期には、この千秋萬歳は貴族の間での毎年正月慣習行事となりましたが、鎌倉時代以降貴族の衰退と入れ替わるように武家が権力を持つようになると、萬歳師は寺社や武家など権門勢家を訪れるようになりました。そして、室町時代になると、一般民家にも門付けしてまわるようになりました。

この頃の千秋萬歳の主流はやはり中央政権のある大和(奈良県)でしたが、のちに京の都でも行われるようになり、やがては尾張、三河へと伝わり、さらに全国各地に広まっていきました。が、越前萬歳(野大坪万歳とも呼ぶ)については、約1500年前の皇家に伝わる行事が伝わったとする説もあるようです。

江戸時代に入ると、とくに三河万歳は、同じ三河出身の徳川家によって優遇され、このため萬歳師には武士のように帯刀、大紋の直垂の着用が許されたそうです。また各地に広まった萬歳は、能や歌舞伎などの要素を取り入れてさらに多様化し、とくに衣装については非常にバラエティに富むようになりました。

そして、上述のように全国各地でその地名を冠した万歳が興るようになり、また衣装や歌舞のみでなく、言葉の掛け合いや、小噺、謎かけ問答を芸に加えて滑稽味を出す萬歳師も増えていきました。

この中でもとくに尾張萬歳は娯楽性が高いものとして発展し、中には通年で興行として成立するものも現れました。やがて明治時代になると、大阪では、寄席演芸で行われるこれら尾張萬歳が、「万才」と呼ばれるようになりましたが、これは尾張萬歳の中でも三曲萬歳をベースにしたものでした。

三曲萬歳は胡弓・鼓・三味線による賑やかな萬歳で、初期の万才もこれに倣って楽器伴奏を伴っていました。やがてこれら明治初期の万才の芸人の中からは、喋りだけで場を持たすパイオニア的な万才師も出てくるようになり、今も歴史に名を残す、玉子屋円辰・市川順若や、砂川捨丸・中村春代の万才コンビなどがそれです。

ボケとツッコミというのは、このうちの玉子屋円辰が「曽我物語」を演じた際に、順若の代役の太鼓敲きとアドリブで行ったやり取りが起源といわれているそうで、これが今日の近代漫才の嚆矢のようです。

ただ、これより少し前の江戸時代の寄席演芸は落語が中心であり、まだまだ万才は添え物的な立場でしかありませんでした。その後、万才の演目の中には、「俄(にわか)」というものが増えてきました。宴席や路上などで行われた即興の芝居ことで、またの名を茶番(ちゃばん)といいます。

現在もよく使う「茶番劇」という言葉の原語となったもので、俄とは「俄狂言」の略です。俄とは、つまり「素人」のことであり、一説によればこうした素人が路上で突然、狂言を初めて衆目を集めたために、その素人を指す言葉としてこう呼ばれるようになりました。

やがては、俄かは「にわかに始まる」という意味そのままとなり、こうした突然劇を「俄」とも呼ぶようになっていきましたが、その内容は歌舞伎の演目の内容を再現したものや、滑稽な話を演じるものなど色々でした

江戸時代には遊廓などで、多くは職業的芸人でない素人によって演じられたものですが、明治時代になってからは、さらに「一人俄」から転じて2人で落語を演じる形式の軽口噺に発展し、さらには浪曲の要素が混ざり合うようになりました。

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そして、1912年(明治45年)には、かの有名な「吉本興業」が創立されました。その始まりは吉本吉兵衛という男とその妻、「せい」の夫婦であり、二人が大阪市北区天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、寄席経営を始めたのがその始まりでした。

1915年(大正4年)に二人は無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派からなる劇団を結成し、「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから、自らのグループを「花月派」と称しました。

1921年(大正10年)ころまでには、主流、非主流の浪花落語寄席のほとんどを買収して上方演芸界全体を掌握し、その後大阪だけでも20あまりの寄席を経営しました。また、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開していきましたが、そんな中、大正末期に横山エンタツ・花菱アチャコのコンビが入社します。

この二人が、万才を会話だけの話芸「しゃべくり漫才」として成立させたといわれており、当時人気のあった東京六大学野球をネタにした「早慶戦」などの「しゃべくり漫才」で人気を博しました。

これは、早稲田側応援席から投げ込まれたリンゴを慶應三塁手・水原茂が投げ返した事に端を発した乱闘事件、「水原茂リンゴ事件」をネタにしたもので、この事件では試合終了と同時に早大応援団は慶大ベンチ・応援席になだれ込んでの大乱闘となり、警官隊が出動する騒ぎとなりましたが、そのプロセスを面白おかしく語ったものでした。

その後二人は「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業するようになり、この当時、絶大な人気を博しましたが、これを契機に万才はさらに全国的なブームとなっていきました。

しかし、昭和初期までは、基本的に「万才」は、「萬才」あるいは「萬歳」の略字という認識が一般的でした。が、このように人気が出てきたことから、新しい時代にふさわしい名前にしようとこの当時の吉本興業の宣伝部門を統括していた橋本鐵彦(のちに社長)が一般公募で呼び方を募集しました。

その結果、「滑稽コント」「ユーモア万歳」「モダン万歳」「ニコニコ問答」などの公募がありましたが、橋本を納得させるものがなく、結局は自らが考案して「漫才」と漢字表記だけを変えました。

そして、1933年(昭和8年)に吉本興業内に宣伝部が創設され、この宣伝部が発行した「吉本演藝通信」の中で、はじめて「漫才」と表記を改称することが公表されました。

エンタツ・アチャコ以降、この漫才は急速に普及して他のスター漫才師を生みだし、秋田實など、漫才のネタを専門に作る作家も活躍するようなりました。東京ではエンタツ・アチャコと懇意にしていた柳家金語楼が触発されて、自らの寄席で門下の「梧楼」と「緑朗」という弟子に高座で掛け合いを演じさせました。

この二人は、のちに「リーガル千太・万吉」と名を改めて東京で漫才を演じるようになり、これが今日の東京漫才の祖とされています。しかしその一方で、東京ではお囃子を取り入れた古典的なスタイルを崩さなかった漫才師もまだこの時代にはたくさんいました。

このため、漫才はやはり西高東低のまま大阪中心に発展していきましたが、その後太平洋戦争が勃発したため、これらの漫才師たちもまた出征を余儀なくされました。戦後は、相方の戦死・病死・消息不明などに見舞われたコンビも多く、このため大打撃を受けた吉本興業は映画会社へ転身を図り、ほとんどの専属芸人を解雇しました。

その後、多くの芸人は千土地興行や新生プロダクション、上方芸能といった新しく結成された興行主の元へ身を寄せましたが、これらは後に合併して「松竹芸能」となり、その後演芸興行を再開した吉本興業と並んで、上方演芸界の二大プロダクションといわれるようになりました。

このころもまだ漫才は寄席で行われる演芸でしたが、落語とは一線を画した演芸として発展していきました。マスメディアとの親和性にも優れており、ラジオ番組やテレビ番組でも多く披露されていき、現在までには、テレビをつけると、どこの番組でも元は漫才芸人さんばかりという時代になりました。

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さて、その一方では、元々年賀のお祝い言葉とされた、「万歳」のほうは、いつからか、公的な場所ではあまり使われることはなくなっていきました。

おそらくは、江戸時代までにも口に出して万歳三唱をする、といったことはなかったと思われます。しかし、明治に入ってからこれは復活しました。記録に残っている限りでは、バンザイと公的な場で発せられたのは、1889年(明治22年)2月11日の日本帝国憲法発布の日、青山練兵場でのことだったようです。

この日、臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが歴史残る「バンザイ」の最初だといいますが、実はこの最初の万歳三唱は完結しませんでした。

というのも、当初の予定では、「万歳、万歳、万々歳」と唱和するはずであったものが、人々の最初の「万歳」の掛け声で天皇が乗った馬車の馬が驚いて立ち止まってしまったのでした。このため二声目の「万歳」は小声となりましたが、三声目の「万々歳」はついに言えずじまいに終わってしまったそうです。

当初は、こうした式典を仕切るのは文部省であり、この当時の文部大臣であった森有礼が、発する語としては「奉賀」を提案していたそうです。が、連呼すると、ホウガ、ホウガ、ホウガとなり、これが聞きようによっては「ア・ホウガ」と聞こえ、これはつまり「阿呆が」につながるという理由から却下されました。

また、奉祝の言葉としての「万歳」は、「バンセイ」あるいは「バンゼー」という発音であり、このため「マンザイ」と読ませる案もあったようです。が、「マ」では「腹に力が入らない」との指摘があったため、バンザイとしてはどうかという意見が出ました。

この意見を述べた人は、謡曲・高砂の「千秋楽」には、「千秋楽は民を撫で、萬歳楽(バンザイラク)には命を延ぶ」というフレーズがあることを引き合いに出してこの案を進めようとしました。が、このバンザイという発音は、漢音と呉音の混用になるとの反対意見もあったようです。

また、「マンザイ」では演芸の萬歳とも混同しやすく、また、バンザイのほうが力強く発せるため、結局は「万歳(バンザイ)」が慣例となりました。以後、「天皇陛下万歳」というように、天皇の永遠の健康、長寿を臣下が祈る言葉として使われるようになり、近年でも即位の礼や在位記念式典において公式に使われます。

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皇居における一般参賀などの場面において、万歳三唱する市民も多いようですが、冒頭で述べたとおり、政治の世界でも国事行為として衆議院を解散する権限を持つ天皇に対しての敬意を表し、議会の解散などでこれを斉唱します。

慣例として、衆議院解散時に議長より詔書が読み上げられ、解散が宣言されたとき、その瞬間失職した衆議院議員たちが「万歳!」と三唱するわけですが、国会においてこれがいつのころから発せられるようになったのかは、はっきりわかっていないようです。

いつのまにか、議院議員たちが選挙戦に「突撃」してゆく気概を表しているのだと言われるようになり、また、万歳三唱をすると次の選挙で落ちないというジンクスもできてきました。ただ「失職するのに何が万歳なんだ」といって万歳三唱をしない議員もいるようで、今回の解散でも小泉新次郎議員や何人かの自民党議員はバンザイしませんでした。

太平洋戦争中の日本軍は、玉砕を覚悟して「バンザイ突撃」を繰り返しましたが、この日本軍兵士の「バンザイ突撃」は「バンザイ・アタック」として、連合国軍将兵に少なからぬ恐怖を与えました。その記憶はまだ欧米人には残っているようで、先日の日銀から金融緩和策が発表された際、欧米人記者の中から、こんな質問が出ました。

それは、「英米の市場関係者の間では、追加緩和による事実上の国債全額買い取りという明確なマネタイゼーションと、増税延期という組合せをバンザイノミクスという国債暴落政策として懸念する見方も出ているが……」というものでした。

この「バンザイノミクス」は、第2次安倍内閣による経済政策の通称である「アベノミクス」に、バンザイ突撃の無謀さを掛けた造語とみられています。

いまの時代にまだ、昔の名残の万歳三唱を国会の場でやる必要があるのかどうかという議論も数々あるようであり、今回この時期の解散もさることながら、二度もやり直してまで万歳三唱をやるなんて無意味だと私自身も思います。

そもそも、万歳三唱をやらなければならないという法律があるわけでもなく、これはあくまで慣習にすぎません。ところが、1990年代には「万歳三唱令」と題した偽書が官庁を中心に広まり、平成22年には、これを信じ込んだ自民党の木村太郎衆議院議員が、この当時の鳩山首相に正式の万歳の作法が違っている、と難クセをつけるという事件がありました。

内閣に対する質問書において、天皇陛下御在位二十年記念式典で行われた鳩山由紀夫内閣総理大臣の所作が「手のひらを天皇陛下側に向け、両腕も真っ直ぐに伸ばしておらず、いわゆる降参を意味するようなジェスチャーのように見られ、正式な万歳の作法とは違うように見受けられた」と難じたものです。

また、木村議員は、「日本国の総理大臣として、万歳の仕方をしっかりと身につけておくべきと考えるが、その作法をご存知なかったのか、伺いたい」と問いましたが、これに対して後日内閣は、「万歳三唱の所作については、公式に定められたものがあるとは承知していない」と答弁しています。

それにしても、この偽の「万歳三唱令」というのはよく出来ていて、これは明治時代に施行された太政官布告の体裁を取っており、「万歳三唱の細部実施要領」なる詳細な作法まで記述された文書でした。が、無論、そのような内容の太政官布告その他の法令が公布・施行された事実はなく、類似の法令や公式文書等もありません。

世間に出回った「万歳三唱令」の文言は以下のような内容になっています。

萬歳三唱ノ細部實施要領

一 萬歳三唱ノ基本姿勢ハ之直立不動ナリ
而シテ兩手指ヲ真直下方ニ伸ハシ身体兩側面ニ完全ニ附著セシメルモノトス
二 萬歳ノ發聲ト共ニ右足ヲ半歩踏出シ同時ニ兩腕ヲ垂直ニ高々ト擧クルヘシ
此際兩手指カ真直ニ伸ヒ且兩掌過チ無ク内側ニ向ク事肝要ナリ
三 萬歳ノ發聲終了ト同時ニ素早ク直立不動ノ姿勢ニ戻ルヘシ
四 以上ノ動作ヲ兩三度繰返シテ行フヘシ
何レノ動作ヲ爲スニモ節度持テ氣迫ヲ込メテ行フ事肝要ナリ

誰が作ったのか知りませんがよくできてます。それにしても、そもそも万歳の仕儀などというモノがあること自体が不可思議で、過去に衆議院などの公式行事で議員さんが行った万歳三唱を行った写真記録などをみても、掌の向きは前であったり内側であったり、はたまた握られていたりとまちまちだそうです。

正式な万歳の所作というようなものは、歴史的にも慣例上も定まっているものは一切なく、バンザイといえば、「おおむね、威勢よく両手を上げる動作」のが所作と解されているだけです。

そんなものにこだわっている人達が国政を操っていることを考えると、ますます今度の選挙には行きたくなくなってきているのですが、さて、みなさんはどうお考えでしょうか。

選挙に行くか、大掃除をするか、それともすべてお手上でおバンザイするか、です。

答えは簡単に出るような気もしますが……

2014-1020810

芸能の日

2014-7520高倉健さんが亡くなりました。

好きな役者さんの一人だっただけに、大変残念なことですが、今生でのお役目を立派に終えられたことをご本人も満足されていることでしょう。私的にも公的にも高い評価を得るに値する方だっただけに、こういう人は前世においても社会的に認められる人物だったに違いありません。

が、必ずしも役者だったとは限らず、その引き締まった容貌からは武士だった前世もお持ちかもしれません。実際、そのご先祖は鎌倉時代の執権北条家の人だったということをご本人も生前から公表されていたようです。

北条家とは、改めて説明する必要もないかもしれませんが、源頼朝を助けて鎌倉幕府開闢をなしとげた、北条時政を中興の祖とする一族で、ここ伊豆が発祥の地です。時政の死後も5代に渡って源家を補佐する執権の座につきましたが、この北条家には分家が多く、その一門には、「名越北条家」というのがありました。

名越流北条氏は、鎌倉幕府2代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とする一族で、祖父は北条時政になります。時政は鎌倉幕府に仕えている間、鎌倉の名越(なごえ)という場所に邸を構えていましたが、孫の朝時は、この名越の家を継承しており、このことにより、名越北条と称するようになり、代々北陸や九州の国々の守護を務めました。

この名越という地は、神奈川県鎌倉市大町にある旧地名で、位置的にはJR横須賀線の鎌倉駅の南東部にあたります。

海岸からはやや奥まった場所にあり、かつての三浦半島方面への旧道である三浦往還(現在の県道311号)沿いにあり、名越という呼称は、このあたりの坂及び切通しが難所であったことから、「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われています。

その名越北条氏の始祖とされる朝時の孫にあたるのが、北条篤時(とくとき)でやはりこの鎌倉名越に居を構えていました。さらに篤時の孫にあたる名越時如(ときゆき)の代あたりから名越の姓を名乗るようになったようで、その子孫は山口の大内氏に仕えるようになり、さらには九州北部に住みつくようになりました。

江戸時代の初めのころではなかったかと思われますが、太平の世になったこともあってか、このころの名越の主は武士の身分に見切りをつけ、代々冠してきた北条の名も捨てて「小松屋」の屋号で両替商を営むようになりました。

この商売は大きく当たったようで、この地を当地していた筑前福岡藩の黒田家の藩主から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになりましたが、この小田家の子孫が、高倉健さんということになります。

このため健さんの本名も小田剛一といい、この江戸時代に両替商をしていたという小田家の本家は、北九州市から20kmほど西方にある福岡県中間市にあったようです。

明治時代から昭和時代にかけて、この地で産出される石炭がこの街を栄えさせ、明治大正時代に中間は炭鉱の町として全盛を誇りました。健さんは、1931年(昭和6年)にこの地生まれましたが、父はこの家に代々伝わる商売を継がず、その道を捨てて旧海軍の軍人になったようです。

退役後は、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていたといい、またお母さんは学校の教員だったということでもあり、割と厳格な家庭であったのではないかと推測されます。

太平洋戦争が既に始まっていた1943年(昭和18年)に福岡県立東筑中学校に入学。しかし、途中、学徒動員にかりだされるなど勉強をやっているような状況ではなかったようです。戦後すぐに福岡県立東筑高等学校の商業科へ進みましたが、これは先祖が両替商などの商売をやっていたことと無関係ではないでしょう。

しかし健さん自身は世界を渡り歩く貿易商を目指していたようで、高校卒業後は明治大学商学部商学科へ進学。しかし、卒業後は戦後間もなくのことであり、大学卒業後も思ったような就職先がなく一旦帰郷し、このころ採石業をやっていたお父さんの仕事を手伝うことになりました。

23歳だったこのころのある日、「このままではダメになる」と思い、集金で持っていたお金を持ち出して家出同然の再上京。持ち出したお金も使い果たした頃に、大学の恩師から「新芸プロ」のマネージャー見習いの紹介をうけます。

喫茶店で面接テストを受けましたが、たまたまその場に居合わせていた東映の東京撮影所の所長で映画プロデューサー、マキノ光雄氏にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社することになりました。

翌年、1月に24歳でいきなり主演映画でデビュー。「電光空手打ち」というタイトルでしたが、これは、空手道に青春をかける青年の役で、舞台はこの青年の出身地である沖縄から始まり、他派との抗争に巻き込まれながらも夢を追いかけて上京してここで成長する、という青春ものだったようです。

この映画はヒットしたようで、1週間後には続編が公開されたそうです。その後は、アクション・喜劇・刑事・ギャング・青春もの・戦争・文芸作品・ミステリなど、幅広く現代劇映画に出演しました。

さらにその後1963年に出演した「人生劇場 飛車角」もヒットし、それ以降、仁侠映画を中心に活躍。1964年から始まる「日本侠客伝シリーズ」、1965年から始まる「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝シリーズ」などの主演でスターとしての地位を不動のものとしました。

以後の活躍は、連日のようにテレビや新聞で報道しているので、これ以上の説明は必要ないでしょう。

今年の8月26日に亡くなった米倉斉加年のお別れの会が10月13日に開かれた際に、故人に宛てて弔電を発したのが公の場での最後の活動だったそうで、去る11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。

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……と、ここまで書いてきて色々調べていたら、この11月10日という日には高倉健さんだけでなく、いろんな有名人、しかも俳優さんが同日亡くなっている、という意外な一致をみつけました。

例えば、2009年のこの日には、森繁久彌さんが亡くなっており、一昨年の2012年には女優の森光子さんが亡くなっています。これだけでも驚きなのですが、1974年には小笠原章二郎という俳優さんも亡くなっています。

私も含め、若い世代の人は誰も知らないと思いますが、この人は、日本映画黎明期の大正時代デビューした人で、当初の芸名は「楠英二郎」だったようですが、昭和時代に入り「小笠原章二郎」に改名。戦前は二枚目俳優として知られた人で、戦後は端役まで数多くの作品に出演し、テレビ放送が始まるとテレビドラマにも出演していたそうです。

晩年の1970年代まで活動しましたが、1954年の「和蘭囃子」という新東宝の映画では、顔を白塗りにした殿様をコミカルに演じたそうで、この演技が、後世の志村けんのコント「志村けんのバカ殿様」に繋がる「バカ殿」の原型になったといわれているようです。

さらに、です。1965年には、歌舞伎役者で、十一代目 市川團十郎さんが11月10日に亡くなっています。

この人は、一昨年の2013年(平成25年)2月3日に亡くなった、十二代目市川團十郎のお父さん、つまりニュースキャスターでタレントの小林麻央と結婚し、2010年に西麻布の飲食店で暴行を受け顔面を負傷した、十一代目市川海老蔵のおじいさんにあたります。

この十一代目 市川團十郎さんは、歌舞伎の世界に入る前の20代後半には、東宝劇団でも活動した人で、東宝との契約終了後の1939年(昭和14年)、市川宗家の十代目市川團十郎に望まれ、市川宗家の養子となり、翌年に九代目市川海老蔵を襲名しました。

この海老蔵時代、「花の海老様」として空前のブームを巻き起こすようになり、品格ある風姿、華のある芸風、高低問わずよく響く美声などを売り物として戦後歌舞伎を代表する花形役者の一人となっていきました。

1962年(昭和37年)、53歳のとき、十一代目團十郎を襲名。これは59年ぶりの大名跡復活だったということで、このときお披露目として興行された「勧進帳」は「一億円の襲名」と言われたそうです。

しかし、團十郎襲名からわずか3年半経った1965年(昭和40年)11月10日、胃癌で死去。56歳の若さでした。

その長男で十二代目 市川 團十郎さんのことはご記憶の方も多いでしょう。父が早世した後は自らの努力で芸を磨いた人で、スケールの大きい骨太な芸格が魅力で、重厚な存在感がありながらも、独特な愛嬌がありました。

市川宗家お家芸の歌舞伎十八番はもとより、荒事、世話物、義太夫狂言、新歌舞伎と多彩な役々を演じ分ける器用な人でしたが、2004年に長男が十一代目の市川海老蔵襲名した前後ごろから白血病を発症。

その後は壮絶な闘病生活を送り、妹から骨髄移植を受けたことでその後しばらくは舞台にも立てるほど回復されましたが、一昨年の2013年2月に肺炎のため死去。66歳でした。

その子である、十一代目市川海老蔵さんは、そうした父親の姿だけでなく、亡くなった祖父の十一代目 市川團十郎さんからも強い影響を受けたと語っています。少年時代の一時期、厳しい稽古に反発を繰り返していた折に、立ち直ったきっかけとなったのが、生前の祖父・十一代目團十郎のフィルムを見たことだったそうです。

海老蔵さんはこのときフィルムに映る祖父の勇姿と芸の美しさに感銘を受けたといい、その祖父のDNAを受け継ぎ、以後は古典の大役に挑み、初役を多くつとめ、高い評価を得るようになりました。そしてその姿に「海老さま」と人気のあった十一代目市川團十郎に重ね合わすファンも多いといいます。

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さて、このように、11月10日という日は、有名な役者さんがたくさん亡くなっているわけですが、さらに調べてみると、実は、皇室ともゆかりの多い日ということもわかりました。1915年にはこの日に、大正天皇の即位礼が京都御所の紫宸殿で挙行され、1928年にも同じ日に昭和天皇の即位礼が同じく紫宸殿で挙行されています。

皇室典範・登極令制定後、初めてとなったこの大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われましたが、一般には公開されず、皇室関係者以外では貴族院議員などの国のトップだけを集めて行われました。

一方の昭和天皇の即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上もの参列者がありました。

1928年(昭和3年)11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かいましたが、京都へ向かうこの天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車、皇后の乗る4頭立て馬車、皇族代表の内大臣牧野伸顕の乗る馬車、内閣総理大臣田中義一の馬車と続く壮麗なものでした。

全長600メートルにも及んだというこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていたそうで、一行が京都に到着したあと続いて11月10日に行われた式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱して昭和の時代が幕を開けました。

ところが、11月10日に行われた皇室の行事は、これだけにとどまりませんでした。さらには、1940年の11月10日、皇居外苑で「紀元二千六百年式典」が実施されており、このときは日本各地で皇室2600年を祝う記念行事が盛大に行われました。

西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年に当たるとされたことから、これを記念して行われた行事であり、日本政府はこれに遡る5年前の1935年(昭和10年)から既に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、初代天皇とされている神武天皇が祀ってある橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進してきていました。

1937年には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」を創設。時代はそろそろアメリカとの関係があやしくなろうとしている時期でもあり、国民の意識を「神国日本」に向け、その国体観念を徹底させようという動きが強められていた時節柄でした。

「紀元二千六百年式典」は極めて神道色の強いものであり、敬神思想の普及のために「神祇院」なる組織まで設置され、奈良の橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕しました。

また外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進されましたが、日本政府は、こうした活動により日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示しそうとしました。

しかし、その一方で日本政府には、このころ既に始まっていた日中戦争の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、こうした様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしていたわけです。

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こうした中で迎えた1940年の「紀元二千六百年」は、年初めの橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催されました。そして、11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催されました。

宮城外苑寝殿造の会場で挙行された内閣主催のこの「紀元二千六百年式典」の式次第では開会の辞を近衛文麿首相が読み、君が代奉唱、近衛首相による寿詞を首相が引き続いて奏上、天皇から勅語が下賜されたのち、軍楽隊・東京音楽学校による紀元二千六百年頌歌斉唱、万歳三唱されましたが、この模様は日本放送協会によりラジオで実況中継されました。

が、天皇の勅語の箇所だけはカットされたそうで、これは、ラジオの聴取者がどのような姿勢・体勢で放送を聴いているかがわからないため、不敬とされる状況が生じるのを避けるための措置であったといいます。天皇の肉声が正式なプログラムとして初めてラジオで流れるのは、その後1945年のポツダム宣言受諾を伝える玉音放送でした。

11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達し、式典に合わせて作曲された「皇紀2600年奉祝曲」は日本各地で演奏されました。

この曲は一曲だけではなく、紀元2600年を祝うために作曲された数々の曲の集合体であり、日本国内で作曲されたものもありますが、なんと欧米各国の作曲家に委嘱して作られました。アメリカ、イギリス、イタリア、ドイツ、フランス、ハンガリーなどに依頼されましたが、アメリカはこのころ悪化していた対日関係を理由にこれを断りました。

結果、アメリカを除く5ヶ国から曲が提供されましたが、その後イギリスもアメリカと同様に敵性国家になったため、結局イギリスから提供された作品は演奏されませんでした。奉祝曲演奏会は、1940年12月7日・8日に東京の歌舞伎座において行われ、日本の著名な指揮者により演奏がなされました。

この演奏会は続いて12月14日と15日に一般向けの演奏会が行われたほか、大阪歌舞伎座でも一般向け演奏会が開かれ、その合間を縫ってラジオでも演奏の模様が全国放送されました。

各国の作曲家への返礼として、このときスタジオ録音されたSPレコード、印刷された楽譜、また、織物などが各作曲者に送られたそうですが、この翌年には太平洋戦争に突入したため、これらの贈り物を積んだ船は撃沈され、結局は届かなかったというエピソードも残っています。

ただ、友好国であったドイツの作曲家であったリヒャルト・シュトラウスには、その後作曲料の代わりに、この当時彼がコレクションとして収集していた「鐘」が代わりに送られ、これをシュトラウスは大いに喜んだそうです。

こうして、1940年11月10日の「紀元二千六百年式典」は無事に終わりましたが、この当時既に始まっていた日中戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、行事終了後には、大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」のポスターがあちこちに貼られるようになりました。

この標語の如く、その後戦時下の国民生活は引締めムードが強くなり、翌年の太平洋戦争への突入と共にますます厳しさを増していくことになっていきました。

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終戦後、この11月10日に何等かの皇室の重要行事が行われたという話はないようですが、上で述べたような数々の式典が行われてきたことなどをみると、いまだもって皇室と非常に縁が深い日という印象があります。

そしてこの日に亡くなった森重久弥さんは、その皇室から、紺綬褒章(1964年)、紫綬褒章(1975年)、勲二等瑞宝章(1987年)、文化勲章(1991年)などなどの賞を受けており、2009年には従三位を受け、さらにはその没後に国民栄誉賞(2009年)まで受けています。

森光子さんもまた、1984年(昭和59年)11月、紫綬褒章を授与されており、1992年(平成4年)には、勲三等瑞宝章を授与されたほか、森重久弥さんと同様に文化勲章を受け、国民栄誉賞は生前に受賞しています。また従三位は死後に遺贈されています。

高倉健さんはといえば、この人も1998年に紫綬褒章を受けており、2006年には文化功労者とされ、2013年には文化勲章を受章しました。おそらくは、その死後にも何等かの栄誉が遺贈されるのではないでしょうか。

このように、皇室においてもハレといわれるような日に亡くなったということを考えると、どうしても神前に召されたのでは、と思ってしまうのは私だけではないでしょう。戦前の皇室は神格化された存在であり、現在も数々の問題をはらんでいますが、日本で一番古いファミリーであり、神に最も近い存在とも言われます。

まさか人身御供というわけでもないでしょうが、人身御供は、実は「神隠し」を起源とするものである、という説もあるようです。

神隠しとは、人間がある日忽然と消えうせる現象で、神域である山や森で、人が行方不明になったり、街や里からなんの前触れも無く失踪することを、神の仕業としてとらえた概念です。古来用いられてきた用語ですが、現代でも唐突な失踪のことをこの名称で呼ぶことがあり、天狗隠しともいいます。

なぜ、人身御供の起源といわれているかといえば、かつては神隠しとは神が人を食うために行われていた行為だと人々が考えていたためです。民俗学者の柳田國男によれば、日本では山で狼が子供を食ったという話が多く伝わっているということで、このオオカミがその後「山神」に転じ、これが子供をさらっていくと考えるようになったのだといいます。

そしてこのことが神隠しの起源となり、その後小児が失踪することをそう呼ぶようになっただけでなく、やがては荒ぶる神を抑えるために、こちらから人身御供を差し出す、というふうに変化していきました。

古代社会では人命は災害や飢饉によって簡単に失われる物でした。このため、気紛れな自然に対する畏怖のため、人身を捧げる風習が発生したと考えられ、自然が飢えて生贄を求め猛威を振るっているという考えから、大規模な災害が起こる前に、適当な人身御供を捧げて祈願することで、災害の発生を未然に防止したわけです。

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特に日本では、あちこちの河川が度々洪水を起こしてきましたが、これは河川のありようを司る水神(龍の形で表される)が生贄を求めるのだと考えられ、このため河川の護岸工事などにおいては、人身御供の形で生贄が出されました。

人柱とも言われ、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言いますが、事実であったかどうかは別として、人柱の伝説は日本各地に残されています。

また、城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多く、実際に城郭の遺跡を発掘したところその基礎から人骨が出てくるケースは結構あるようです。また、かつてのタコ部屋労働のように、不当労働や賃金の未払いから「どうせなら殺してしまえ」という理由で人柱にされてしまった例もあるといいます。

が、生きたままの人間を犠牲にする、というのは非常に世間体が悪いわけです。このため、一般にはこれを「神隠し」と称して神にさらわれたのだとし、そしてその神隠しにあった人たちは、岩や山、海や川などの神の宿る場所に行ったと人々に思い込ませました。

自然に存在する「依り代」のもとに行ったのだとされたわけですが、この依り代とは、憑代とも書き、神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことです。神体などを指すほか、神域を指すこともあり、その場所と現世との端境でもあるという意味で、そこに「社(やしろ)」、すなわち神社を造って祀るようになりました。

そして、その神域とその外の境を「結界」と呼びました。鎮守の森や森林や山や海や川や岩や木などは、禁足地である場所も多く、現世の端境の向こうにある世界とし、そこに結界の象徴として社や境内を作ったわけです。

そして、その結界には、白い紙や布を吊るしたり張ったりしてそこが神域であることを示しましたが、この慣わしはその後家庭にも持ち込まれるようになり、現在でも神棚を白い紙や布を吊るしたり覆ったりするのはそのためです。

人身御供もその結界のかなたへ行き、表向きこれは神隠しとされました。災害を防ぐという大きな見返りを得るために、理不尽にもかかわらずその犠牲になるわけですが、いわば神という権力者に対して通常の方法ではやってもらえないようなことを依頼するための生贄だったわけです。

が、今回亡くなった高倉健さんをはじめ、これらの優れた役者さんたちは、けっして人身御供や生贄としてあの世に召されたわけではありません。それどころか、我々の世界においてはその演技を通じて多くのことを我々に教えてくれる貴重な存在であり、むしろ神によってその才能を望まれてあちらの世界に帰ったと考えるべきでしょう。

そして、今度はきっと神に奉仕するような存在になるに違いなく、あるいはより神様に近い存在になっていくのかもしれません。

古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われたものが「舞」であり、これがもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となりました。そして、そこからは歌舞伎などが生まれ、やがてはそれが現在の芸能になっていきました。

その芸能を一生の生業にした健さんたちもまた、その俳優・女優業を通して知らず知らずにその活動を神に奉納していたのかもしれず、その生涯を終える日として、日本では最も神に近いとされる天皇家にゆえんのある日を選んだと考えることもできるかもしれません。

ですから、いっそのこと、11月10日を「芸能の日」とかいった記念日にでもしたらどうか、などと私などは思うのですが、そんな突拍子もないことを考えつつ、秋の日は更けていきます。

今年もあと一ヶ月あまり。その最後に毎年発表される墓銘録の中に、高倉健さんの名前も刻まれることを考えると少々寂しいかんじがします。

ご冥福をお祈りしたいと思います。

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イタリア発アメリカ

4a19703u-2おとといの11月14日に、アメリカ合衆国ニューヨーク州の町オウェゴ(Owego)の郊外アパラチン(Apalachin)というところで、「アパラチン会議」という会議が開かれました。

といっても、これは60年ほども前の1957年のことであり、会議の名前からすると政治家の集まりか何かな、と思いきや、これはアメリカのマフィアのボスたちの秘密会談でした。

ニューヨークのジェノヴェーゼ・ファミリーのボスであるヴィト・ジェノヴェーゼが全米のボス達とコミッションを開く事を提案したもので、彼の呼びかけにより、全米よりマフィアのボス達約100人が、フィラデルフィア北東部一家のボス、ジョゼフ・バーバラの所有する邸宅に集まりました、

会議中にはこの片田舎の家に多数の高級車が並び、高級スーツを身にまとった大勢の男たちが集まりましたが、こんな片田舎にこれだけの紳士が集まっているのはどうみても不審です。案の定、街の住人から通報があり、このため多数の警察官がかけつけ、この会議場に踏み込みました。

驚いたマフィア達は周囲の森などに逃亡しましたが、このとき数多くの名うてのマフィア幹部達が逮捕・起訴されました。それらの中には、ジョゼフ・ボナンノ(ボナンノ一家)、ジョゼフ・プロファチ(プロファチ一家)、サント・トラフィカンテ(フロリダ州、キューバ)、ジェームズ・シベーロ(ダラス)といった大ボスもおり、65人が逮捕されました。

この事件は、この当時マスコミにより大々的に報道され、これによって初めてアメリカ国内にも大規模な犯罪組織が存在していることが全米に知れ渡りました。警察はそれまでこうしたマフィアの大組織が存在を否定していましたが、これを契機にこのときのFBI長官であったジョン・エドガー・フーバーは組織犯罪撲滅の開始を宣言しました。

この「マフィア」というのは、もともとイタリアを起源とする組織犯罪集団です。その発祥の地は、シチリア島といわれ、この島は地中海のほぼ中央に位置しています。イタリアとチュニジアを結ぶ中間点にあることから、古代から近世にかけて様々な民族による侵略を受け、長年にわたり諸外国の勢力下に置かれていました。

その後18世紀にはこの地においてシチリア王国が成立しましたが、当然のことながら王による絶対支配であり、その後も近年に至るまでシチリアには自治行政府は存在せず、このため住民たちは数世紀にわたり大土地所有制度の下、貴族などの権力者によって住人達は抑圧されてきました。

実は、こうした住民側に立ち彼等を擁護する、という立場から登場してきたのがマフィアです。しかし、19世紀ごろから次第に凶暴化して恐喝や暴力により勢力を拡大するようになり、1992年段階では186ものグループに膨れ上がり、これらのマフィアのグループは「ファミリー」と呼ばれました。

この当時既に総勢で約4000人ものメンバーがいたといいますが、マフィアの一部はその後、19世紀末より20世紀初頭にアメリカ合衆国にも移民し、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなど大都市部を中心に勢力を拡大していきました。

1992年段階でアメリカ全土には27ファミリー・2000人の構成員がおり、ニューヨークを拠点とするものはコーザ・ノストラと、シカゴを拠点とするアウトフィットがそのうちでもとくに大きなファミリーでした。

今日は、このように19世紀から現在にかけてまでイタリアとアメリカの裏社会において君臨してきた「マフィア」という存在の歴史をさらに詳しくみていこうと思います。

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マフィア・その黎明期

マフィアの起源は、中世シチリアの「ガベロット」と呼ばれる農地管理人であるといわれています。彼らは農民を搾取する大地主でもありましたが、一方では自分たちの農地を守るため武装して守り、また政治的支配者と密接な関係を結んでいました。

この「マフィア」という言葉の語源ですが、諸説はあるものの定説はありません。が、アラビア語で採石場を意味するマーハ(mafie)、空威張りを意味するマヒアス(Mā Hias)から来たというものが有力といわれています。

イタリアのシチリアでは9世紀から11世紀までイスラム教徒のアラビア人が支配しており、支配に反抗した者や犯罪者がしばしば採石場に逃げ込んだといいます。またイタリアの国語辞典にはシチリア方言で「乱暴な態度」という意味であるとの記述があるようです。

しかし実際には人々の受け止め方は違い、マフィアという言葉が出される場合は、肯定的な意味で使用されることが多く、とくに農民はガベロットの支配下にはあったものの、自分たちを守ってくれる彼らを「美しさ、優しさ、優雅さ、完璧さ、そして名誉ある男、勇気ある人、大胆な人」と考え、マフィアという言葉にその意味を込めました。

この言葉が初めて公文書に使われたのは1656年、この当時スペイン人の統治下にあったイタリアのシチリア島北西部に位置する都市パレルモでの異端尋問においてであり、異端とされたイタリア系キリスト教信者のリストの中で初めてこの言葉が使用されています。

その後、18世紀になるまで、シチリアに領地を持っていた貴族や地主らは、ナポリやパレルモ等の都市部に居住していたため、一般の小作農民との接点はなく、また地主らもまたガベロットに土地管理を任せたままにしていたため、自分たちが所有する土地やそこに住み農民への関心は薄いままでした。

このため、地主らから広大な農地を貸与されてたガベロットたちは、こうした地主たちの無関心を利用して、そこでの収益を地主に不正申告し、余った金を小作農民達に法外な利子をつけて貸しつけたり、また当時は非常に儲けの大きかった家畜泥棒等をして私腹を肥やしていきました。

そして裕福になったガベロッとたちは、本来の自分たちの仕事を、農地監視人(カンピエーレ)という人達に任せるようになり、彼等に山賊や盗賊から守る為の仕事をやらせました。一方では、徐々に地主達からその権利を奪い取り、さらに、貴族、政治家、警察、教会などの上流階級や小作農民や山賊らをも取り込んでいき、勢力を拡大していきました。

こうして彼ら農地管理人と農地監視人は共存共栄の癒着関係となっていき、こうした彼らがのちのマフィアと呼ばれる犯罪組織の母体となっていきました。しかしこの当時のマフィアはまだ、国の支配者たちから自分たちの権益を守る自衛組織的なカラーが強いものでした。

その後の1860年、イタリアはスペイン人を追い出しシチリア島を併合してイタリア王国が設立されましたが、これがマフィアたちにとっても歴史の変換点となりました。

イタリア民族自らが権力者を選ぶ王国になったとはいえ、政権に集まった人間の中身は右翼から左翼までばらばらであり、このためとくに伝統的に中道であった大地主たちは次第に王政に不信感を抱くようになりました。

さらにシチリア人達は、それまでの数世紀にわたるシチリア王国以前のフランス人やスペイン人といった外国人支配者による政治的な圧迫の記憶から、政治や政府そのものに対して強い不信感があり、住民同士での互助組織を通じてその時々の外国人支配者に対して抵抗してきましたが、そんな中でマフィアを頼りにするようになったという歴史があります。

そこへきてこれら外国からの圧迫から解放され、王国ができたわけですが、その政治が乱れに乱れたことから、マフィアが台頭することとなり、彼等は主に労働運動などを扇動し、デモなどを通じて会社や政治への関係を強めていくようになり、次第に裏社会を操る「必要悪」といわれるような存在となっていきます。

とくに現代のような犯罪者としての意味合いの強い「マフィア」という言葉が広く知られるようになったのは1862年に制作された「ヴィカーリア刑務所のマフィア構成員たち」という喜劇がパレルモのサンタンナ劇場で上演され大ヒットし、イタリア各地で巡演されてからといわれています。

このマフィアの扇動により、住民だけでなく、大地主も含めたシチリア王国の大部分の住民は中央政府に対する反発を強めるようになり、さらには保守的な宗教勢力による運動、労働運動なども勃興するようになります。つまり、このころのマフィアはもうすでに、人々を守るような存在ではなく、後世のような「悪魔」に変身していたのです。

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イタリアンマフィアの誕生

こうした風潮の中で、悪賢いマフィアたちは、シチリアの住人に対して「無能で高圧的な公権力に対し、誇り高く名誉ある男として振る舞う男たち」というイメージを刷り込んでいきました。そしてシチリアの大衆もそんな彼らに幻想を抱き、救いの手を求めるようになっていきます。

ところが、このように住民たちが受け入れたマフィアは、救世主でもなんでもなく、やはり悪魔でした。

マフィアが起こした事件で最初に世界を震撼させたのは、1877年に起きた「ジョン・フォスター・ローズ誘拐事件」でしょう。この事件は1877年11月にジョン・フォスター・ローズというイギリスの銀行家が自分の所有しているシチリアの土地を見に訪れたときにレオネというマフィアのボスに誘拐された事件です。

レオネはローズ家に莫大な身代金を要求しましたが、払えないという返事が来るとローズの耳と鼻をそぎ落とし、送りつけました。この事件の収集は結局当事者だけでは収まらず、イギリスの新聞が募金を呼びかけて集まった金をレオネに払い、ようやくローズが解放されるという結果になりました。

しかし、イギリス政府は自国民のこの遭難を看過しませんでした。イタリアに対しレオネを逮捕するよう要求し、逮捕が行われなければ軍隊を上陸させるとまで通告したともいい、これを受けてイタリア政府は1年かけてレオネを逮捕しました。彼は裁判で終身刑を受けましたが、その後脱獄し、アルジェリアに逃げたといわれています。

ところがこのころまでには既に多数の住民の支持を得ていたマフィアはかなりの大組織に成長しており、たちまち彼等の逆襲が始まりました。彼等は政治家にも取り入り、政治にも介入していくようになっており、そんな彼らが起こした象徴的な事件として、1893年2月1日に起こった「ノタルバルトロ侯爵殺害事件」というものがあります。

この事件では、元シチリア銀行頭取エマヌエレ・ノタルバルトロ侯爵が殺害され、その犯人として、政治家であったラファエレ・パリッツォーロと彼の友人であるマフィアのボスが浮上しました。

事件の発端は、彼が手形を偽造して銀行から融資を受けていたことを、ノタルバルトロに感づかれてしまったことでした。しかしあらかじめマフィアが各方面に手を回していたこともあり、当局はこのことに関して調査しようとせず、この事件を捜査しようとした捜査官らは左遷され、直接殺害に関与したマフィア達もまともに審議されずに釈放されました。

これに憤慨したノタルバルトロの遺族たちは独自で調査を行った結果、マフィアであった容疑者を探しだし、彼等を裁判にかけることを要求しました。こうして、イタリア本土で裁判が行われることとなりましたが、その中で政治家であるパリッツォーロにも有罪判決が下りました。

ところが、マフィアと親交があったとはいえ、イタリア政府の一員でもあった政治家に有罪判決が出たことに対しシチリアの有力者たちは激怒しました。

そして彼らが結成した「親シチリア委員会」は、「シチリア人が迫害されている! シチリア人を陥れようとしている者達が我々にマフィアというレッテルを張ろうとしている!」とのキャンペーンを展開し、裁判のやり直しを要求します。

その結果、再度裁判が行われる事となり、1904年にパリッツォーロらは無罪放免となりました。シチリア人たちは公権力に勝利したとして大いに満足しましたが、ある意味悪の権力に肩を貸したことになり、引いてはマフィアに加担したことになりました。

その結果として、シチリアの住民は自分たちが下したこの決断を恥じるようになり、その自戒からこれ以来「マフィア」という言葉は公然と使わなくなり、禁句となっていきました。

つまり、表向きはマフィアという存在を出さない、そんなものはいない、という雰囲気が生まれたということであり、この事件以降、マフィアはイタリア社会の地下深くへともぐりこみ、更に暗い裏社会を形成するようになっていきます。

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イタリア国外への進出

こうして19世紀から20世紀にかけて、マフィアたちの勢いはさらに増していきました。それまでは主に農村地帯が彼らの本拠地でしたが、パレルモなどに代表されるような都市部へもその勢力を拡大していきました。

そして、19世紀末、アメリカでのゴールドラッシュによりヨーロッパからの移民が増加し始めると、彼等イタリア・マフィアも海を渡り始めました。これが映画「ゴッドファーザー」で知られるアメリカ・マフィアの起こりであり、彼等マフィアはアメリカ大陸においてもイタリアと同様の犯罪結社を作り定着していくようになっていきます。

しかし、こうしたイタリア人達の渡米は、18世紀から19世紀前半までにアメリカに渡り定着したイングランド人やドイツ人などプロテスタント移民に大きく遅れての入植でした。時期としては、19世紀末から20世紀初頭になってであり、かなり遅れてアメリカへ入ってきた後発移民集団といえます。

後発組であった彼らは、このためアメリカ社会の底辺に置かれるようになり、やがては同郷出身者同士の協力関係を築くようになります。こうした中から生まれた「アメリカマフィア」もまた、本来イタリア系移民の中で結ばれたこうした相互扶助の形式から発達したものでした。

このアメリカマフィアのほとんどは南イタリア出身であり、当初はニューヨーク等の東海岸に居住しましたが、次第にシカゴやアメリカ南部等へも広がっていきました。

実は、ニューヨークの暗黒街には、19世紀末から20世紀にかけて、既に様々なギャング団が存在していました。彼らはアイルランド系、ユダヤ系など民族ごとに集団化し、賭博・売春等を稼業としながら、お互いの縄張り争いをしていました。

アメリカに入植してきたイタリア人の犯罪者たちも、これをお手本にし、彼らのように犯罪集団を作り始めましたが、その中でも有名なのが「マーノ・ネーラ」、通称「黒い手Black Hand」と呼ばれるギャング達でした。

彼らは主に商店への強請りを生業としており、相手に手紙を送り金を払わなければ殺すと脅す手口で勢力を拡大していきましたが、いつもその手紙に黒い手形のマークをつけていたことが、彼らの名の由来です。

1890年10月15日、アメリカ南部にある町ニューオーリンズで警察署長だったデイブ・ヘネシーが何者かに暗殺されるという事件が発生しました。

犯人は、この当時ニューオリンズの支配権をプロベンツァーノ・ファミリーと争っていたマトランガ・ファミリーという、イタリア系移民のマフィアでしたが、彼らはヘネシー署長が敵対していたプロベンツァーノ・ファミリーを庇護していると思い、彼を殺害したのでした。

捜査の結果、マトランガの手下が犯人として逮捕されましたが、1891年3月13日、彼らに証拠不十分で無罪の判決が下りました。この判決に対し、ニューオリンズ市民は激怒し、「犯人を出せ!」と叫び、犯人であるマトランガの部下が収監されていた刑務所に押し入り、彼らを集団リンチしました。

この事件はその中核にいたのがイタリア系移民だったため、そのニュースはアメリカはおろかヨーロッパにまで知れ渡りました。

また、当時の大統領だったベンジャミン・ハリソンがイタリア政府に謝罪するまでの事態に発展し、結局アメリカ政府はイタリアにいる犠牲者の遺族らに賠償金を支払いました。そしてこの事件がアメリカでのマフィアによる初の抗争事件といわれています。

その後、1901年には、元イタリアのマフィアの、「ヴィト・カッショ・フェロ」という男がシチリアからアメリカへ渡り、ニューヨークのイタリア系アメリカ人の犯罪組織であるマーノ・ネーラと手を結びました。

ニューヨークにおいてマーノ・ネーラ達と接触し、犯罪組織としては未熟だった彼らに「マフィア流の商売」の仕方を教え、やがては指導者のような存在になっていきました。

彼こそがアメリカマフィアの創造者とまでいわれた人物であり、もともとイタリアにも基盤があったことから、ヴィト・カッショ・フェロはやがて、シチリア=アメリカ間のマフィア・ネットワークを強化する要となっていきました。

組織を強化するためフェロが手始めにやったのは、伊米間で密貿易を行い、手先から保護料取立てることであり、これによって財を成し、やがては20世紀初期の大物マフィアとしてその権勢を誇るようになっていきました。

そんな矢先の1903年、フェロらの一味の幹部が、アメリカの警察官ジョゼッペ・ペトロジーノによって逮捕されてしまいます。

捕えられたのは、ボス格であるヴィト・カッショ・フェロやジュゼッペ・モレロであり、このほかにもシチリアでノタルバルトロ侯爵殺害に加わったジュゼッペ・フォンターナなども含まれていました。ところが、彼等はその後は証拠不十分で釈放されました。そしてその裏には彼等マフィアと検察の癒着があったことも指摘されています。

このように警察や検察内部にも通じ、野放しにされたままの彼らは更に問題を引き起こしていきます。1907年、彼らは当時、人気を博していたイタリア人歌手エンリコ・カルーソーに脅迫状を送りました。このため、ペトロジーノはイタリア系犯罪組織に関する調査を進めるため、1909年、はるばるアメリカからイタリアに渡航します。

ところが、彼が調査活動を始める前にその動きは事前にマスコミ等に漏れていた為、パレルモに到着して間もなく、ペトロジーノはフェロの手下により暗殺されてしまいました。

以降、イタリアのシチリア・マフィアとアメリカのマーノ・ネーラは緊密な関係を保ったまま、強大なマフィアとしての性格を強めていき、ニューヨークにおいては商店主への保護料要求、闇賭博、売春等の操作で富を得て、アメリカンマフィアは犯罪組織としてさらに成長していきました。

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禁酒法時代

その後、アメリカでは1920年代に禁酒法時代に突入しますが、このころイタリアでは、ムッソリーニ政権による強力なマフィア取締が始まっており、大物ボス達までが出国してアメリカに渡り、密造酒製造・販売に携わり巨万の富を築くようになっていました。

そして、ファミリー同士で熾烈な戦争を起こすようになっていきますが、その中でも最大の抗争といわれる「カステランマレーゼ戦争」において勝利したサルヴァトーレ・マランツァーノという男が「ボスの中のボス(Capo di tutti capi,boss of all bosses)」を名乗ったときに、自らの組織名を初めて、「コーサ・ノストラ」と命名しました。

コーサ・ノストラ(La Cosa Nostra)とは、イタリア語で「我らのもの」を意味します。ボスを頂点とするピラミッド型の構造を持ち、忠誠心と暴力による恐怖支配によって組織を維持した秘密結社でもあり、組織について沈黙を守るよう定める血の掟によって、その実態が表面化することはほとんどありませんでした。

彼らが自らの組織を呼ぶ際には「名誉ある社会」と表現し、そして、個人の場合は「名誉ある男」という言葉を好んで使いました。また、マフィアと一般人を区別する為、単に「我々」という言葉も使われました。

例として「彼は我々の友人だ」の場合は、彼もマフィアの一員であるという意味合いで使われ、「彼は私の友人だ」の場合は彼はマフィアの一員ではないという意味があります。

コーサ・ノストラの親分の中には、その後アル・カポネなどの派手な大物ボスが現れたため、世間の脚光を浴びるようになり、このことから、アメリカ政府の集中取締りを受けるようになっていきました。映画、「アンタッチャブル」はこの時代のマフィアとこれを取り締まる警察官との戦いを描いたもので、ご覧になった方も多いでしょう。

この映画でも描かれましたが、その後警察の中でもマフィアとの癒着を浄化しようという動きがあり、これによって取り締まりが強化され、その余波を受けてアル・カポネは投獄されてしまいます。この事件によって組織が大きく生まれ変わったといわれており、結果として最も勢力を伸ばしたのが、組織力に優れたチャールズ・ルチアーノでした。

“Lucky” ラッキー・ルチアーノとも呼ばれた彼は、組織の潜在化に努め、ニューヨークの縄張りを五大ファミリーに固定化するなど各地のイタリア系組織を整理・統合し、他国系移民の犯罪組織とも連携して犯罪シンジケートを構築し、この時代にはさらに政治との癒着も深めていきました。

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ファシスト政権時代

一方のイタリアのシチリアにおいては、第一次世界大戦の勃発後、ここが軍用火薬の原料となる硫黄の産出地でもあったために戦争景気が訪れ、硫黄鉱山を保有していた「カロジェロ・ヴィッツィーニ」というマフィアなどが、大いに私腹を肥やすようになっており、イタリアンマフィアは全盛期に入っていました。

ところが、このイタリア・マフィアは1920年代から1930年代にかけて徹底的に弾圧され壊滅的な打撃を受けるようになっていきました。

政治家や有力者を取り込み、邪魔者は徹底的に排除し、沈黙の掟で守られた彼らも、壊滅状況に追い込まれた時代が到来しました。1922年から始まったベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権が主導する時代がそれです。

ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱したファシズムは大流行し、反自由・反共産・反保守でしかも過激な軍国主義という、いわゆる「ファシスト」が暗躍するようになり、その中で彼等は似たような性質を持つマフィアたちを敵視するようになっていきます。

1924年5月、ムッソリーニがシチリアを訪問した際には、自分のことは棚に上げ、「ここは、すべてが悪党どもの集団で、動くたびにマフィアの悪臭がする」と秘書に述べていたとも伝えられています。

ムッソリーニはさらにシチリア中央部にあるピアーナ・デイ・グレージという町を訪問しましたが、このとき、この町の町長でありマフィアのボスでもあったフランチェスコ・ドン・チッチョは、ムッソリーニに対し「警察に護衛してもらう必要などない。私がいれば何も問題ない」と護衛を減らすよう求めたといいます。

ところが、ムッソリーニは、この町長の求めを無視しました。町長はこのムッソリーニの態度に激怒し、町の住人に対しムッソリーニの演説を見に行くなと命じた結果、ムッソリーニの演説集会には誰も集まりませんでした。

不審に思ったムッソリーニが部下に調べさせてみたところ、実はチッチョがマフィアであるという事実を知ります。これを知るや否やムッソリーニは怒りまくり、そしてマフィア撲滅を宣言します。

そして、1925年、部下のチェーザレ・モーリをシチリアに派遣し、マフィアの掃討を始めますが、このモーリのマフィア狩りは苛烈を極め、ちょうどこのころイタリアに帰国していた、上述のイタリア系アメリカマフィア、「ヴィト・カッショ・フェロ」を含む多数のマフィア構成員を刑務所に送り込み、マフィアを壊滅状態に陥れました。

しかし、このモーリはどちらかといえば正義感の強い人であったようで、マフィアに次いで、やがてはその追求の矛先をムッソリーニらのファシスト政権の要人にまで伸ばすようになったため、1929年に罷免されました。しかし、モーリらの掃討により、イタリアのマフィアたちは大打撃を受け、その後しばらく息を潜めるようになっていきました。

ところが、その後ムッソリーニ率いる軍国主義国家としてのイタリアは第二次世界大戦において連合国に破れました。ムッソリーニは国外へ脱出しようとしましたが、イタリア北部のコモ湖付近でパルチザンに捕えられ、後日銃殺されました。

これにより、大戦終結後の1946年に行なわれた共和制への移行を問う国民投票では、共和制移行が決定し、ウンベルト2世は廃位され、君主制は廃止され、現在のイタリア共和国が成立しました。

これを受けて1947年以降、シチリアにも主権が与えられるようになりましたが、長期間続いた外国による支配と彼らの失政とその後も続いたファシストたちの支配によりボロボロ状態であり、かつて地中海の自然の恵みを受け農業が盛んであったシチリアの国土は荒れるにまかせるままになっていました。

やがては、山賊等の無法者がはびこる島となり、このため島の住人たちは公権力に対して強い不信感を持つようになりました。シチリア人にとって、公権力に頼ることや公権力に協力することは非常に不名誉なことであるとされるようになり、「公権力に頼らず、自分の力で問題を解決していくこと」が名誉ある生き方と考えられるようになっていきました。

こうした時代背景から、一旦衰退していたマフィアが復活し始めます。第二次世界大戦中、アメリカ政府は、ムッソリーニ率いるファシストの攻略のためイタリアマフィアを利用していましたが、このときその連絡のためにアメリカ政府が利用したのが、かつてイタリアからアメリカに渡って形成されたアメリカマフィアでした。

そして戦後、このアメリカマフィアは、逆に続々とイタリアに里帰りするようになり、いわば逆輸入される形で息を吹き返すことになります。

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第二次大戦後

少し話が遡りますが、アメリカでは禁酒法が1920年代に終わって以降もマフィアは賭博業、売春業、麻薬取引、労働組合などで大きな収入を得ていました。1930年代に入っても、労働組合などは、組織力に優れたラッキー・ルチアーノなどのマフィアに食い物にされており、大手自動車会社フォードも被害に遭っていました。

ところが、トーマス・デューイという警察官がルチアーノを追いつめ、ついに逮捕に成功します。ルチアーノが投獄されたため、組織には大きなダメージを与えたかに見えましたがしかし、投獄後もルチアーノは権力を保ち続け、刑務所からをも組織を指揮することができたといわれています。

しかも、第二次世界大戦中の1943年、シチリアに連合軍が上陸すると、連合軍は刑務所にいたルチアーノファミリーの主だったメンバーを解放してしまいます。

さらに連合軍は知ってか知らずしてか、マフィアのカロジェロ・ヴィッツィーニをヴィッラルバ村の村長に任命し、同じくマフィアのヴィト・ジェノヴェーゼをアメリカ海軍司令部付の通訳に任命するなどして、多くのマフィア構成員を町長や村長等の政府関係者に任命しました。

こうしてファシスト政権崩壊後、イタリアのマフィア達は完全復活し、政治的にはこの当時の亜流であったキリスト教民主党との関係を深めていくようになります。

第二次世界大戦後、アメリカでは、監獄に入っていたラッキー・ルチアーノが恩赦により出所しましたが、すぐにイタリアに強制送還されました。しかし、残った大幹部のベンジャミン・シーゲルは、1946年、ギャンブルが合法とされていたネバダ州のラスベガスにフラミンゴホテルを完成させます。

このホテルは開業当時は赤字続きでしたが、彼は経営手腕に優れ、徐々に経営が軌道に乗ると、これを見たフランク・コステロなどの大物マフィアもこれを手本とし、次々とラスベガスにカジノをオープンさせていきました。

一方、イタリアでは、第二次世界大戦後もほとんどのマフィア・ファミリーは農村地帯に本拠を置いていましたが、1950年に大土地所有制度が廃止されたのと、イタリアに「奇跡の経済復興」と呼ばれる復興景気が訪れたのを機会に、マフィアたちは都市部へと本格的に進出し始めました。

そして彼らは建築ブームに乗じて政治家達と手を組み、公共事業の入札を支配し、建築業者から現金を脅し取る等して大きな利益を上げるようになりました。

この好景気において、イタリアで大きく勢力を伸ばしたのが、サルヴァトーレとアンジェロのバルベーラ兄弟と、グレコ・ファミリーとコルレオーネのボス、ルチアーノ・リッジョなどのイタリアンマフィアでした。彼らは共にタバコ・麻薬密輸・公共事業への介入で勢力を拡大していきました。

1957年10月10日、アメリカ・マフィアの大ボス、ラッキー・ルチアーノの提唱により、イタリア・パレルモにある高級ホテル「グランド・ホテル・デ・パルメ」において、はじめてアメリカのマフィアとシチリアのマフィアの大ボス達が集まり、史上初の伊米マフィアの合同会議が開かれました。

議題は、シチリアでの最高幹部会(コミッションまたはクーポラと呼ぶ)の創設と、麻薬に関する双方の取り決めでした。4日間続いた会議の結果、最高幹部会の結成とアメリカへの麻薬密輸等はシチリア側が取り仕切り、アメリカ側はその利益の一部を受け取るということに決まりました。

そして、彼等はこのころからイタリアマフィアの中においても「シチリアマフィア」とよばれて一目置かれるようになり、アメリカへの麻薬密輸に本格的に乗り出していく事となりました。そしてその手始めにマルセイユ経由のフレンチ・コネクションに対抗し、シチリアからアメリカ、ヨーロッパへのルートを確立させました。

このため、ヘロイン工場がシチリアで多く作られましたが、これらの麻薬はオリーブオイルの缶に詰められ、年間3~4トンにも上る量がアメリカへ送られたといいます。

そして、冒頭で述べたとおり、1957年11月14日、その幹部たちがニューヨーク州アパラチンで大会議を開くに至りますが、ここに集合した際、FBIにより、彼等は大量検挙され、この事件からマフィアの名がアメリカのメディアにも登場するようになっていきました。

このときに捕まったジョゼフ・ヴァラキという男が政府側に寝返り、それまで長い間「沈黙の掟」によって守られていた組織の詳細が明らかになりましたが、この話は、映画にもなりました。

ヴァラキは、1963年にアメリカ上院調査小委員会で「コーサ・ノストラ」という正式名を明らかにし、その内幕を暴露しましたが、ヴァラキは小物だったので組織の上層部のことまでは解らなかったといいます。

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第一次・二次マフィア戦争

1962年12月、イタリアでは、麻薬取引のもつれから、ラ・バルベーラ兄弟らとグレコ・ファミリーとリッジョらの抗争が始まりました。抗争は約半年間続き、結果的にはグレコ側の勝利となりました。

1963年6月30日、グレコの自宅近くにある不審な車を調査していた7名の憲兵隊員が、車に仕掛けられていた爆弾により死亡しました。彼らは車に仕掛けられている爆弾にもうひとつ仕掛けが施されているのに気づいていなかったのです。

この事件を重く見たイタリア議会は「反マフィア委員会」を設立し、多くのマフィア構成員らを逮捕しました。しかし、主立ったマフィアのボス達は次々と逃亡し、行方をくらませ、逃亡したボス達は海外または国内の潜伏地から組織を操作し続けました。

そして、1960年代から1970年代にかけて、南米からトルコに至る世界的な麻薬ネットワークを確立し、組織を肥大させていきました。

しかし1970年代になると、マフィア内部に不穏な空気が流れるようになっていきます。ルチアーノ・リッジョ率いるコルレオーネシ(Corleonesi)がシチリアマフィアの頂点に立つという野望を抱いて、その勢力を拡大し始めたためでした。

ボスのリッジョは1974年に逮捕されましたが、彼は獄中から、配下のサルヴァトーレ・リイナに指令を出し、まず、1978年に、コミッションの議長だったガエターノ・パダラメンティを追放し、後釜にミケーレ・グレコを据えました。

次にステファノ・ボンターデとサルヴァトーレ・インゼリッロらを巧みな策略で孤立に追い込み、彼らのファミリーの構成員を少しずつ消していき、最後にボスのステファノとサルヴァトーレも1981年に暗殺しました。

この暗殺事件により、コルレオーネシらと敵対するイタリアンマフィア・ファミリーとの抗争が本格化。年間200人以上の死者を出した抗争は「第二次マフィア戦争」と呼ばれました。

一方のアメリカではその後、1970年代に制定されたRICO法(組織犯罪対策法)に基づくFBIの主導による組織犯罪対策が活発化していました。さらに1980年代に入るとFBIはコーサ・ノストラの壊滅を目指してボスら大物幹部の一斉起訴に踏み切ります。

その後は当局へ投降するものが相次いだこともあり、アメリカンマフィアは現在ではほぼ壊滅状態となり、隆盛を誇った20世紀中盤頃までの面影はもはや存在しません。

しかし、イタリアではまだまだマフィアは君臨しています。1992年に、その生涯をマフィア撲滅運動に捧げていたジョヴァンニ・ファルコーネ判事が、シチリア島のパレルモを車で移動中にサルヴァトーレ・リイナ指揮下のマフィアによって高速道路に仕掛けられた爆弾によって暗殺されるという事件が発生しています。

ちょうどこのころ、彼の盟友の治安判事パオロ・ボルセリーノも相前後してマフィアの手で暗殺されており、両者はマフィアに対する捜査を率いて国民的人気を得ていました。

ただ、逆にこの事件が発端で、その後マフィアに対する取り締まりが強化しされるようになり、近年では殺人などの凶悪犯罪は減ってきているとされます。

しかし、その一方では、逆にアメリカ側でのマフィアの動きが活発化し、生粋のシチリア人マフィアを招聘して、世代を経て薄らいだ意識のテコ入れを図っているとされており、イタリアマフィアが凋落すれば、アメリカマフィアが勃興するという、イタチごっごが続いています。

2011年1月20日にFBIはニューヨーク周辺にてコーサ・ノストラの大量摘発を行い、127人のメンバーを逮捕したという事件もあったばかりですが、このようにアメリカとイタリアの両国においては、今もマフィアとの戦いが続いており、これからもまだまだ続いていくでしょう。

ひとまずは、イタリアンマフィアとアメリカンマフィアのお話はこれで終わりにしたいと思います。

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そして日本

ちなみに、日本にもかつてマフィアは存在しました。戦後間もない時期にアメリカ領フィリピンのマニラの賭博師だったテッド・ルーインやシカゴのチェーソン・リー(中国系でアル・カポネの子分)が、連合国占領下の東京に進出。ルーインは銀座に「マンダリン」という店を出して闇賭博場を開いたことがあるとされています。

この当時の読売新聞がこの銀座にあったという賭博場について「東京租界」というタイトルで特集を組み、彼らや中国系ギャングの活動を取り上げたといいます。その後ルーイン一派は帝国ホテルでダイヤ強奪事件と呼ばれる犯罪を引き起こしたようですが、次第に先細りになり、最後は日本を離れています。

こうして日本にはマフィアはいなくなったわけですが、彼等が駆逐されたのは、日本には暴力団がおり、彼等の勢力のほうが強かったためと考えられます。

この日本の暴力団は江戸時代の町火消から始まったという説があり、祭礼の周辺で商業活動を営む者を“的屋”または“香具師”(やし)と呼び、丁半などの博打を生業とする者を”博徒”と呼んでいました。

江戸時代においては、これらの者達は一般社会の外の賤民的身分とされていましたが、明治時代に入ってからは、新たに肉体労働組合も加わる事になり、急速な発展と同時に膨大な労働力が必要となったことで、炭鉱や水運、港湾、大規模工事現場には、農村や漁村から屈強な男性達が集まってきました。

これらの男性達の中から、力量ある男性が兄貴分として中心になり、「組」を作っていきましたが、労働者同士によるいさかいも多く発生しました。しかし、警察の手が足りない状況であったため、自警団的な役割を持った暴力団組織が結成されるようになっていったと考えられています。

また、太平洋戦争終結直後は、日本が連合国に敗戦し国土も焦土と化したことで物資が不足し闇市が栄えていく事になりました。特に露店を本職としているテキ屋系団体が勢力を増していき、また、敗戦による社会の荒廃により戦後の日本の治安は極めて悪かった中で、警察に代わって暴力団が治安維持の実力集団として機能するようになりました。

こうして新たに戦後の混乱の中で形成された“愚連隊”などの不良集団から暴力団が誕生していきました。その後、日本の急速な経済復興に伴い沖仲仕、芸能興行など合法的な経済活動にのみ従事する「企業舎弟(フロント企業)」も生まれました。

現代の一般社会からは、的屋も博徒も同じ「暴力団」と見なされているのが現状です。現代の暴力団は的屋の系譜を継ぐ団体(的屋系暴力団)、博徒の系譜を継ぐ団体(博徒系暴力団)の両方が存在しますが、明確な区別は建前上でしかなく、様々な非合法活動を行っています。

1992年に暴力団対策法が制定されるようになってからは、暴力団でも公然的活動はし辛くなり、堂々と組の看板を出して事務所を開く事も出来なくなっています。

日常生活においても、暴力団関係者であるだけで金融機関から融資を受けることもできなくなり、2013年に発覚したみずほ銀行暴力団融資事件では、自動車を購入した暴力団員へのローンにかかわったみずほ銀行の塚本隆史会長、佐藤康博頭取らが退任する事態となったことは記憶に新しいところです。

アメリカ合衆国のマフィアにイタリア系や中国系のマイノリティが多いのと同様に、日本におけるこの暴力団の巨大化も、特定の社会集団に対する差別が原因の一つだという説があります。

学校や会社でのいじめや、さまざまなハラスメントも差別の一種です。日本におけるマフィアの勃興を避けるためにも差別をなくしていかなくてはならない、と思う次第です。

今日は長くなりました。終りにしたいと思います。

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