ユーレカ

2014-1937最近、昔撮影された内外の古い写真を収集しているのですが、アメリカのサイトを探していたら、その中に完成直前のゴールデンゲートブリッジの写真が掲載されているものがありました。

かつて私もフロリダ留学からの帰国途中に立ち寄ったことのあるこの橋は、サンフランシスコのゴールデンゲート海峡に架かる吊り橋で、橋の建設は1933年に始まり、1937年に竣工しました。主塔の高さは水面から227メートル、主塔間の長さ(支間)は1,280メートルあり、全長は2,737メートルあって、この当時はスパン世界一の吊り橋でした。

この橋の初期の設計を行ったのは、ジョゼフ・シュトラウスという橋梁専門の技術者で、彼はそれまでに400本以上の「はね橋」の建設に携わってきた人物だったといい、またそのアールデコ調のデザインと色彩を決めたのは、アーヴィング・モロー、という建築家でした。

モローは、この橋のデザインを決めるにあたって、自然との調和、濃霧時の目視性などを考慮し、「インターナショナルオレンジ」という現在もこの橋の最大の特徴である鮮やかな朱色が選ばれました。

また、名称に「ゴールデン」とつけたのは、ジョン・チャールズ・フリーモントという人です。フレモントは、元アメリカ陸軍将校で探検家でしたが、のちに共和党の最初のアメリカ合衆国大統領候補者となり、カリフォルニア州の先任上院議員を、1850年日から1851年まで務めました。

冒険家時代の1846年春、フレモントは国務省の命を受けてロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニアに到着。現在のサンフランシスコ付近を探索して、ここにある海峡をゴールデンゲート海峡と命名しました。

このゴールデンゲート(金門)という名は、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)にある有名な湾、金角湾にちなんだものだったといい、金門海峡はサンフランシスコ湾への入り口であり、金角湾も黒海への入り口であることから、その類比だったと思われます。また湾の入り口がちょうど門のようにみえたこともその命名の由来だったようです。

橋は南のサンフランシスコから北のマリン郡方面へ抜ける唯一の道であり、6車線の道路と歩道を持ち、ここの中央分離帯は、上り下りの交通量によって移動するしくみで、朝の通勤時間帯であれば南行きが4車線となります。

歩道は自転車の通行も可能で、通常時は東側が歩行者用、西側が自転車用の道路となります。通行料を取ります。南行き(サンフランシスコ方面)の自動車の通行料はキャッシュで6.00 米ドル、ETC 払いの場合は、5.00 米ドルです。

えっアメリカにもETCがあるの?ということなのですが、アメリカでは、基本的に高速道路は無料ではあるものの、一部有料道路もあり、そのほか橋、トンネルなど通行料金を設定している所でETCと同様のシステムを導入しています。 ただ、全米統一システムはなく、各州が独自に幾つかの箇所でこのシステムを導入しているだけです。

ETCという呼び名も日本とは異なり、カルフォルニアでは「Fas Track」、フロリダでは「Sun Pass」とといい、その他のニューヨーク州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、などの東海岸の各州で導入されているのは「E-ZPass」と呼びます。

ただどれも日本のETC方式のような高度なシステムではなく、料金所にはバーがなくクレジットカードや車に特別な装置を設置することもありません。その代りにナンバーをカメラで読み取ったり、専用のタグをフロントガラスに貼り付けるだけのものであり、後日登録した預金口座から引き落とされるか請求書が自宅に届くしくみです。

ゴールデンゲートブリッジは、自殺の名所でもあります。2014年までの統計では、1653名もの人がこの橋から飛び降りているといいますが、この人数は飛び降りたところを目撃され、遺体が回収されたケースのみの数であり、実際にはもっとたくさんの人が飛び降りているのではないかと言われ、「世界一飛び降り自殺の多い建造物」の称号を持っています。

飛び降りる橋げたから水面までの高さは約67mもあり、このため水面での終末速度は時速130kmにもなり、ほとんどコンクリートに叩きつけられたのと同じ状態になります。このため、過去の落水事故のうちの生存者はわずか19名だそうで、死亡率は実に98%にもなります。

その対策のため2005年から防護柵を設ける提案がなされているそうですが、その費用は4,000万から5,000万ドルにもなるといい、また景観を損ねるであろうこと、大型の防護柵を設置したことによる暴風の影響などの観点から反対意見も少なくなく、実現には至っていません。

このため、現状の対策としては、自殺中止を呼び掛けるホットラインのポスターの掲示や、スタッフによるパトロール、夜間における歩行者の通行禁止などにとどまっています。

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ゴールデンゲートブリッジの「ゴールデン」は、かつてこのカリフォルニアで起こった「ゴールドラッシュ」と何か関係があるのではないか、と思っている人も多いようですが、上述の通り、これはチャールズ・フリーモントによる命名であり、ゴールドラッシュとは無関係です。

が、1849年にカリフォルニアで金鉱が発見されると、多くの人がこの土地に殺到しました。とくに外国からやってきた中国人労働者のように、海を渡ってきた人々にとっては、この海峡はまさに「金への門」であり、このフリーモントの命名は、予言的な意味をもつことになりました。

このゴールドラッシュですが、そもそもの発端は、1848年1月24日に農場主ジョン・サッターの使用人ジェームズ・マーシャルがサクラメント東方のアメリカン川で砂金を発見したことがきっかけです。

これと前後してカリフォルニアを始めとした西部領土がメキシコからアメリカに割譲されたこともあり、文字通り新天地となったカリフォルニアには東海岸から大勢の人々が押し寄せ、金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到することになりました。そして特に1849年に急増したことから、彼らはフォーティナイナー(forty-niner)と呼ばれました。

結果、サンフランシスコは1846年に人口200人ほどの小さな開拓地だったものが1852年には約36,000人の新興都市に成長し、この年にカリフォルニア全体の人口は20万人まで急増し、西部の開拓が急進展することになりました。

一方ではこの「開拓」は別の見方をすれば、多くのインディアン部族に対する民族浄化でもあり、元々の原住民でここに住んでいたヤナ族などは、金鉱目当てに入植した白人たちによって根絶やしにされ、絶滅させられてしまいました。

また、このカリフォルニアのゴールドラッシュにより、金を求めてヨーロッパ中からも多くの人がアメリカに移住したため、この時代にはヨーロッパから人がいなくなったともいわれます。当時の記録を見ると、農民、労働者、商人、乞食や牧師までもが、一攫千金を夢見て新大陸を目指したことが記されています。

また、1840年からのアヘン戦争の結果、清国(中国)は開国した上に香港がイギリスに割譲され、マカオがポルトガルの支配下になりました。この結果、香港・マカオが帰属していた広東省からも多くの中国人がアメリカへ渡り、鉱山や鉄道建設現場で働くようになり、その後の広東人を主体とするチャイナタウンの形成につながっていきました。

当初、これらの採掘者達は選鉱なべのような単純な技術で小川や川床の砂金を探しましたが、後には金探鉱のためのより洗練された技術が開発され、この技術は後に世界中で採用される技術となっていきました。

一方、採金技術は進歩したものの、そうした最新の技術を使うためにはそれなりの資金が必要となりました。このため、個人の採掘者は駆逐され、豊富な資金源を持つ会社組織の探鉱の比率が増していきました。

これらの会社は今日の米ドルで数百億ドルにもなる金を得ることができ、極少数の者には莫大な富をもたらしましたが、一方では零細な個人の採掘者の多くは、カリフォルニアにやってきた時と大してかわらない貧乏のまま故郷に帰るハメになりました。

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しかし、このゴールドラッシュによりカリフォルニア中に道路、教会、学校および新たな町が建設され、現在までに受け継がれるインフラの礎が築かれました。1849年には州憲法が起草され、知事や州議会議員が選挙で選ばれ、1850年協定の一部としてこの年にカリフォルニアはアメリカ合衆国31番目の州として迎え入れられることになりました。

新しい交通体系も発展し、蒸気船が定期運航され、鉄道が敷かれ、カリフォルニアの次の成長分野となった農業が州内で広く始められました。しかし、その一方で原住民のインディアン達は駆逐され、また金の採掘で川や湖など環境が汚されました。

1850年ころまでには、人力で容易に掘り出すことのできるような場所の金は大方なくなってしまい、さらに難しい場所から金を掘り出すことに関心が向けられるようになりました。また、金脈が尽きはじめたのに気付いたアメリカ人にとっては、外国人労働者は邪魔者となり、これら外国人の排除を始めました。

新しいカリフォルニア州議会は外国人坑夫の税金を月20ドルに設定する法律を成立させ、アメリカ人探鉱者は特にラテンアメリカ系や中国の坑夫に組織的な攻撃を始めました。

また、このころにはまだ金脈が底を尽き始めたことを東部人は知らず、相変わらず多くの人が押し寄せていました。が、これら大勢の新参者は、さらにインディアンを迫害し、彼等の伝統的猟場、釣り場および食物採集地域を奪っていきました。

しかし、やがて本当に金は底を尽き、ゴールドラッシュはようやく終わりました。しかし、金の亡者たちはその後もさらに金回収をしようとし、カリフォルニアのセントラルヴァレーやその他の金埋蔵地域(シスキュー郡のスコット・バレーなど)の平たい川底や砂洲に洗い落とされた金を探査し、これを回収しようとしました。

1890年代までには、その浚渫技術もかなり進み、これが後の世における河川浚渫技術の礎にもなりました。この方法により発見される金もそれなりに多くなり、浚渫で2,000万オンス(620トン)以上の金が回収されたと推計されていますが、これは現在の価値で約120億ドルにも相当します

ゴールドラッシュ後の数十年間に、これらの「落穂ひろい」を目指した金探求者達は「硬岩」の探鉱にも関わりました。すなわち、従来の技術では難しかった、金を含む岩(通常は石英)を砕き、ここから金を直接抽出する方法であり、石英の鉱脈を探り当てては、これを掘削した後に爆破し、薬品で溶かして金を回収しました。

この硬岩探鉱法はゴールデンラッシュ後には最大の金抽出方法となりましたが、このように岩を潰し、金を選別する際に用いられたヒ素や水銀は、大きな環境汚染を起こしました。

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しかし、このようにいわば金脈を絞り出すようにしてまで行った金採掘もさすがに行われなくなり、ゴールドラッシュ時代とこのポストゴールドラッシュ時代後に残ったのは、この地の愛称である「金の国(Gold Country)」という言葉だけとなりました。

ゴールドカントリーは、またマザーロード・カントリーとも呼ばれ、このロード(lode)とは鉱脈を意味します。現在のカリフォルニア州の中央部から北東部に掛けての地域の呼称であり、このゴールドカントリーには現在のカリフォルニア州の12の郡が含まれています。

すなわちアマドール郡、ビュート郡、カラベラス郡、エルドラド郡、マリポサ郡、ネバダ郡、プレイサー郡、サクラメント郡、シエラ郡、トゥオルミ郡、プラマス郡およびユバ郡などの郡がそれです。

これらのゴールドカントリーにおける、富と人口の増加はまたカリフォルニアと東海岸との交通を著しく改善させました。1855年には、パナマ地峡を横切るパナマ地峡鉄道が開通しました。それまで大西洋から太平洋に出るには南アメリカのマゼラン海峡を航路で経由する遠回りを強いられていましたが、この鉄道がこれを解消しました。

太平洋郵便蒸気船会社が所有する蒸気船などがパナマとサンフランシスコの間で定期便を運行し、パナマ西岸(正確には南岸)に着きました。そしてここからはパナマ地峡鉄道で大西洋側へ人や物資の運搬し、カリブ海、フロリダ南岸を通ってアメリカ東海岸の各州への行く定期便が組まれました。

つまり二つの航路の間に鉄道を挟む形で東海岸へのアクセスのショートカットが可能になったわけです。

一方、アメリカ東海岸やヨーロッパからアメリカ西海岸へ向かう者にとっては、マゼラン海峡を航路で経由するルートは高額な船賃がかかることから、むしろロッキー山脈の駅馬車越えのほうが主流でした。しかし、駅馬車ルートやはり日数がかかり、道も不安定で治安の問題もありましした。

この問題もまたパナマ地峡鉄道ルートの完成により解消し、この鉄道経由の船舶ルートのほうが、費用は若干高かったものの、短時間かつ安全に西海岸に行くことのできるルートとして重宝されるようになりました。

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しかし、一部鉄道を用いることができるようになったとはいえ、東西の往復に船を使うのはまだまだ危険な旅でした。1857年には、SSセントラル・アメリカ号がカロライナ海岸沖でハリケーンに遭い、この船が積んでいた推計3トンのカリフォルニア金と共に沈没し、これがこの年から始まった1857年恐慌の引き金となりました。

このため、ゴールドラッシュが終わった1860年代初頭には、大陸横断鉄道を建設しようという機運が生まれました。1863年には、最初の大陸横断鉄道西部部分の起工式がサクラメントで行われ、この鉄道は6年後の1869年に完成。その資金の一部にはゴールドラッシュ時代の金が使われました。

こうして、カリフォルニアとアメリカ合衆国中部および東部は、陸路によって結ばれ、これによってようやく東西が一体になった感がありました。それまで船と鉄道の両方をかけて何週間も何ヶ月も掛かっていた旅が、この時から数日で成されるようになったのです。

このようにゴールドラッシュは、アメリカ国内の交通網を充実させるとともに、その結果として経済をも活気づけましたが、と同時にこの景気は世界中の経済をも刺激しました。

チリ、オーストラリアおよびハワイの農夫は、カリフォルニアに集まる人々の「食」に対する巨大な新市場をみつけることとなり、またイギリスで生産される製品はフォーティナイナーに広く受け入れられました。

さらには、彼等の衣類やプレファブの家屋までもが中国から運ばれたため、アジアにも景気をもたらしました。これらの商品に対しては、産出された大量の金が代金として支払われ、世界中で物価を上げ、投資を刺激し、さらなる雇用を創出しました。

また、オーストラリアの探鉱技術者でエドワード・ハーグレイブスという人物は、カリフォルニアと母国の地形の類似性に注目し、オーストラリアに戻って金を発見し、オーストラリア・ゴールドラッシュにも火を付けました。

こうして、カリフォルニアの名前は永久にゴールドラッシュと結びつけられるようになり、その結果、「カリフォルニア・ドリーム」ということばができました。カリフォルニアは新しいことの始まる場所として世界中に認識されるようになり、一生懸命働くことと幸運があれば大きな富となって返ってくると考えられるようになりました。

歴史家のH・W・ブランズはゴールドラッシュの後の時代にカリフォルニア・ドリームがアメリカ合衆国の他地域に拡がり、これが、のちの世の「アメリカン・ドリーム」と呼ばれるものに発展していったと述べています。

現在もアメリカでの多くの人々が夢見るこの「アメリカン・ドリーム」は、この国における「成功」の概念と等しく、均等に与えられる機会を活かし、勤勉と努力によって勝ち取ることの出来るものとされ、その根源は独立宣言書にも「幸福追求の権利」として記されています。

アメリカンドリームの体現者として実際に成功させた人物に対する伝記は枚挙に暇がありませんが、その中でも最も有名なのは、弁護士、イリノイ州議員、上院議員を経て、第16代アメリカ合衆国大統領に就任したエイブラハム・リンカーンであり、また一代にして巨万の富を築き上げたジョン・ロックフェラーの二人でしょう。

貧しい開拓民の息子だったリンカーンは、独学で法律を学び、アメリカ大統領の地位に上り詰めましたが、奴隷解放を宣言し、南北戦争による国家分裂の危機を回避した英雄であり、アメリカの平等と理想、努力と勤勉によって成功が得られることを見事に体現させた一人であるといえます。

また、商人の家に生まれたジョン・ロックフェラーはペンシルベニア州で掘られた油田に目をつけ、クリーヴランドにて石油精製業をはじめ、1870年にスタンダード・オイル社を設立し、全米の石油精製業の95%を独占、世界最大の間接権力を手に入れました。

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この二人に代表されるように、多くのアメリカへの移民が何世代にもわたってカリフォルニア・ドリーム、引いてはアメリカンドリームを体現していきました。カリフォルニアを中心として農業、石油採掘業者、映画制作者、航空機製造業、さらに近年ではドットコム・ビジネスにおいて開拓者たちがその夢をかなえています。

カリフォルニアにおけるゴールドラッシュはまた、この州のニックネームである「ゴールデン・ステート」にも名残を残しており、またこのカリフォルニア州のモットー(標語)「ユリーカ(ユーレカ)」もまた、ゴールドラッシュの名残でもあります。

ユーレカ(Eureka)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州北部ハンボルト郡の都市の名でもあり、同郡の郡庁所在地です。現在の人口は27,000人あまりで、サンフランシスコ市からは北に270マイル (432 km) に位置し、カリフォルニア州北部海岸の政治、医療、交易および芸術の中心として機能する港湾都市です。

世界最高の樹木であるコースト・レッドウッド(セコイア)の広大な保護区域やそれに関する多くの公園に近く、カリフォルニア州立公園システムの北海岸セコイア地区やシックスリバーズ国立の森の本部が市内にあります。

豊富な漁獲が得られる太平洋に面し、豊富なセコイアの森に近いという環境はこの街に豊かな資源を提供し、150年以上前から鉱山師、林業者および漁師がこの地に入植していましたが、金探鉱者が近くのトリニティ地域で金脈を発見したことで、この街をさらに豊かにしました。

そして、この「ユーレカ」とはギリシャ語で「私がそれを見付けた」という意味であり、この地で金を採掘する鉱山師たちにとっては期待を持たせる合言葉となりました。そして含蓄のあるこの言葉がそのままこの街の名前になり、かつ現在カリフォルニア州の公式モットーにもなっている、というわけです。

ユーレカの賑やかな商業地区や、水際に近いビクトリア様式建築物は、ゴールドラッシュ時代の大きな繁栄を反映したものであり、これらの建築物の多くが今日も残っていて、その多くは全面改装されたものの、幾つかは当時の優美さや華麗さを留めてきています。

19世紀に繁栄した町の中心であるオールドタウンは、現在改修されて活発な芸術の中心になってきており、このオールドタウン地区はアメリカ合衆国国家歴史登録財によって歴史地区にも指定されています。

この文化地区に残っているビクトリア様式建築の多くは、家屋として使われていなければ、宿泊所、レストランおよび小さな商店に転換されており、そこにある硝子器から薪ストーブまで、また地元で創られた多様な芸術作品まですべて手作りだといい、これはかつてのゴールドラッシ時代に隆盛になった木造家屋産業の名残だといいます。

まさにユーレカ自体がカリフォルニア州の歴史史跡であるといえ、この街は「アメリカの小さな芸術町ベスト100」では第1位に推奨されたこともあるそうです。

毎月ある文化と芸術の行事「アーツ、アライブ」は地域最大の行事だそうで、このほか毎月第1土曜日に80以上の事業所と画廊が公開されており、地元の料理や飲料と共に地域のバンドなど様々な分野の生公演があるといい、また幾つかの劇団が一年中公演を行っているそうです。

ハワイを離れてからもう何十年もアメリカを訪れていませんが、いつかは再び彼の地を訪れ、そのときにはぜひ、このカリフォルニア・ドリームの名残であるこの町をぜひ見に行きたいものです。

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そうだ 風船とばそう!

2014-109077911月になって、まだ一週間ほどしか経っていませんが、早々と年末年始の予定が目白押しに入ってきて、騒がしい限りです。

今年ももう終わりか~というには少々気が早すぎるかもしれませんが、この時期になるとこの後のどんどんなくなってくる時間のこともある程度予定に入れて日々行動しがちになります。このため、年の瀬になってあわてふためく、ということになりたくないという予防措置の心理が働くためか、何かと早め早めにやろうという気になってきます。

年賀状の印刷もさることながら、クリスマスのプレゼントの思案、大掃除の準備や知人への忘年会の案内、はたまた年明けのお節料理の心配などをそろそろし始める時期でもあり、せわしいことばかりではあるのですが、これがまた楽しかったりして、人間心理とは摩訶不思議なものです。

小さいお子さんをお持ちの家庭では、11月15日に七五三があることから、そちらの心配でもなお忙しいでしょう。7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う年中行事ですが、これは江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の息子の徳川徳松という人の健康を祈って始まったとされる説が有力だそうです。

綱吉の長男でもあり、徳川将軍家の世嗣でしたが、天和3年(1683年)、5歳で夭折しておおり、「七五三」の祝いは、この徳松の生前の天和元年11月15日に彼の健康を願って行われた催しがその嚆矢といわれます。

しかし、なぜ15日だったかですが、これは旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日であり、これは「鬼が出歩かない日」のことです。このため何事をするにも吉であるとされており、これがこの日が選ばれた理由のようです。

さらには旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月でもありました。そしてこの月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るという神事が古来から行われていたそうです。

以来、江戸では11月15日は、子供成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事を執り行う日となり、元来は関東圏だけの地方風俗でしたが、その後全国的に広まっていきました。明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになりましたが、現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土・日・祝日に行なうことも多くなっているようです。

発祥とされる関東地方では、数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置きの儀」とし、男女ともにお祝いを行います。江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、これはそれを終了する儀式です。また、数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴儀」とし、これは男子が袴を着用し始める儀式です。

そして、数え年7歳(満年齢6歳になる年)のときに行う儀式を「帯解きの儀」といい、こちらは女の子だけが行います。これは女子が「幅の広い大人」になるという意味を込め、大人と同じ帯を結び始める儀式です。

このように、七五三と言えば、男女共に3歳、5歳、7歳で行うお祝いと勘違いしている人もいるようですが、本来、3歳以外では、5歳と7歳は男女それぞれ別の儀式です。ただ、3歳、5歳、7歳を子供の厄として、七五三を一種の厄祓としている地方もあるようです。

もともとは、正装に準じた晴れ着で臨んでいましたが、最近では洋服の場合も多いようです。が、親バカのご両親の中には、わざわざ大枚をはたいてこの日のためだけに和服を買いそろえる人も多いようで、その金をじいちゃんばあちゃんが出してくれる、というジジバカ、バババカの家庭も多いようです。

埼玉県、千葉県、茨城県南部地方では、七五三のお祝いをホテルなどで結婚披露宴並に豪華に開催し、自分たちの宴会にしてどんちゃん騒ぎをすることもあるそうで、ここまでくると、誰のためのお祝いなのかわからなくなってきます。

しかし、そもそも七五三の意味は、その昔の日本では、現在の開発途上国と同様に、栄養失調や、健康への知識不足・貧困などが常に隣り合わせであり、これらが原因で乳幼児が成人するまでの生存率はきわめて低かったことに由来しています。

このことから、乳幼児の生存を祝う節目として定着してきたものであり、男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもありますが、医療技術が発達する現代までは女児よりも男児の生存率が低かったためです。

「七歳までは神のうち」ともいわれ、数えで七歳くらいまでは疫病や栄養失調による乳幼児死亡率も高く、まだ人としての生命が定まらない、という考え方が一般的でした。またその昔は生活の苦しい家庭も多かったことから、生まれてきた子が障害を持っている場合などには7歳になる前に「神隠し」として行う「間引き」も大っぴらに行われていました。

7歳までの子供は、「あの世とこの世の境いに位置する存在」とされ、「いつでも神様の元へ帰りうる」魂と考えられており、このため、一定の成長が確認できるまでは、人別帳にも記載せずに留め置かれ、七歳になって初めて正式に氏子として地域コミュニティへ迎え入れられました。

また、胎児・乳幼児期に早世した子供は、境い目に出て来ていた命がまた神様の元に帰っただけで、ある程度の年数を生きた人間とは異なると考えられていました。

このため早く亡くなる子供は現世へのしがらみが少なく速やかに再び次の姿に生まれ変わろうとするのだと考えられていて、転生の妨げにならぬよう、墓を建てたりする通常の人間の死亡時より扱いが簡素な独特の水子供養がなされたりもしました。

そうした生命観から、乳幼児の間引きとともに堕胎も、「いったん預かったが、うちでは育てられないので神様にお返しする」という感覚が普通であったようです。特に、飢饉時の農村部の間引きや堕胎は、多数の子供を抱えて一家が共倒れで飢えるのを回避するためであり、養う子供の数を絞るのはある程度やむを得ないと考えるのが普通でした。

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七五三とはそんなふうにして、七歳になるまで大切に子供を見守る、という意味で始まった風習なわけですが、最近では医療も発達し、7歳までに亡くなるというようなことは昔ほどにはなくなりました。しかしやはり乳幼児のうちはまだまだ心配であり、お参りだけは欠かさずやって人並みに成長して欲しいという思いはどの親も同じでしょう。

このため、毎年この時期になるとどこの神社でも晴れ着を着た子供で賑わうわけですが、当事者である子供たちにとっては、なんも面白くもない大人の行事に付き合わされるだけで、何か面白いことのひとつもあってほしいと願うものです。そして、このために考え出されたのが、「千歳飴」というヤツです。

親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっています。だいたい直径約15mm以内で、長さは30~50cmほどのようですが、長いほうがいいということで1mほどもあるものもあって、さらには縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されています。また松竹梅、夫婦松などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられています。

水飴と砂糖を材料とし、煮詰めたものを冷却して何層にも折り返し、手または機械で細長く伸ばして適当な長さで切ったものですが、その製法には一定のセオリーがあるそうで、伝統や格式を重んじる菓子屋ではその手順を正しく経たものだけを千歳飴と称して神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べるそうです。

ところが、ある時期から菓子メーカーの不二家が「ミルキー」を棒状にしたものを「千歳飴」として毎年この時期に発売するようになったことから、こちらのほうがお手軽でおいしい、ということでこちらに走る家庭も多くなっているようです。

しかし、甘いモノが氾濫しているこの時代にあって、子供側からすれば、そんなもんじゃ騙されんぞ~ということで、神社に同行してやるから何か買って~ということになり、甘い親やお爺ちゃんおばあちゃんはすぐにこれに答えて、人形やら合体ロボを買ってやってしまいます。

が、まだまだ日本全体が貧しかった明治や大正の時代にはそうしたものはなく、七五三でのご褒美としては千歳飴の他に「風船」を子供にやることが多かったようです。

寺院の祝祭やお祭りなどに出店する的屋などによる露天商のゴム風船販売は古くから行なわれており、露天商用語ではゴム風船をチカ、それに派生しガス風船はアゲチカ、水ヨーヨーはスイチカ、棒付き風船はタテチカ、毛笛はナキチカ、棒でつり下げた風船はボウチカといわれ、ゴム風船販売が露天商の取扱商品の一つのジャンルをなしていました。

ただ、かつての露天商におけるゴム風船販売では一般に、風船単体での販売は行なわれませんでした。空気で膨らまして棒を付けたものが多く、この風船には水素やヘリウムなどの浮揚ガスを入れられ、リボンと女の子の顔が描かれた太陽柄の印刷ものが多く出回っていました。

また、鳥の形状や大きな二つの耳が特徴のウサギ風船など様々な形状の変形風船の販売行われており、タコ顔の丸い風船の上部に細長い風船を巻き付けた風船などもありました。こうしたバルーンを専門に作る職人さんもおり、こうした可燃性の水素ガスを注入した風船は昭和末期ころまで広く販売されていました。

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しかし、水素の発火の危険性は日本でも明治初期からすでに指摘されており、昭和30年代から50年代にかけての日本の高度経済成長下で、水素入りのガス風船やアドバルーンの発火爆発事故が多発しました。このため、消防署が「ガス風船がタバコなどの火を引き爆発するもの」として消費者に注意を促すようになりました。

このことからガス風船の販売は減少しはじめ、浮揚ガスの不燃性のヘリウムガスへの転換とともに1980年代には非ゴム素材としてポリエチレンなどが使われるようになり、これは「マイラーバルーン」と呼ばれています。

現在の露店などでも棒の先にハート型や星形、アニメキャラなどの様々なポリエチレン製の風船が売られているのをご覧になることも多いと思いますが、これは1970年代後半にアメリカ・ニューヨーク・シティ・バレエ団の公演用で使用されたものが最初といわれ、その後、日本にも導入され、普及するようになったものです。

ゴム製の風船のようにパン!と破裂しないし、空気よりも軽いガスを入れれば「風船とばし」にも使えます。さらに野球やサッカー、バレーボールなどのスポーツ観戦の際の応援グッズとして使えるものが1999年(平成11年)ごろ登場し、2005年(平成17年)以降に急速に普及してきています。

以後、マイラーバルーンはそのデザインの多様性というメリットを武器にゴム風船を席巻し、またより薄い素材が開発されるとともに密封性も向上したことから浮揚時間がゴム風船よりも長くなり、このため飛ばし風船用としても普及しました。

このため、露天商におけるかつてのガス風船販売はゴム風船からマイラーバルーンが主流となっており、1990年代にはタコ風船、2000年前後にはウサギ風船も姿を消し、太陽柄風船も作られてはいるものの露店では目にする機会はめっきり少なくなりました。

しかし、旧来のゴム風船も捨てたものではなく、いわゆる「バルーンアート」としての需要は根強いものがあります。複数のヘリウム入り風船をブーケのように束ねて形成したものは、店舗のディスプレイ、結婚披露宴の卓上装飾に用いられたりしますし、直接装飾に用いられるほか、贈答品として用いられることもあります。

複数の風船を柱(コラム)状に形成した「バルーンコラム」といった装飾もあり、これはイベント会場や店舗の入口の両脇に設置されているのをよく目にします。複数の風船をアーチ状に形成した装飾は、イベント会場の入口や結婚披露宴における高砂の背後などにもよく用いられます。

複数のヘリウム入りゴム風船を天井に揚げて敷き詰めるなどした「バルーンシーリング」という装飾もあり、色違いの風船を組み合わせて模様を描いたりすることもあります。また、結婚披露宴で行った場合は、宴会後、来場客が自由に風船を持ち帰れるようにすることもあるようです。

ちなみに「シーリングバルーン」とは、もともと気象観測で上空の雲の高さを観測する測雲気球のことです。

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このゴム風船は、言うまでもなく天然ゴムを原料に作られた伸縮性の大きい風船の総称で、バルーン業界ではラテックス風船・ラテックスバルーン(Latex balloon)、もしくはラバーバルーン(Rubber balloon)と呼ばれることのほうが多いようです。

日本国内に出回るバルーンアート用をはじめとするゴム風船の多くは、国産ではなく、海外のバルーンメーカーのブランド製品が多用されているそうで、また多くの製造拠点も海外にあることから、ふくらませた後の横幅をインチ単位、また大型の風船はフィート(単位でヤード・ポンド法表記されることが多いようです。

市場には9インチ(約23cm)から11インチ(28cm)程度の大きさの風船が最も出回っているそうです。また市場に出回ることは多くはありませんが、ハンドメイドで製造されるゴム風船もあり、これはゴムの厚みなどにばらつきが出やすいものの、その一方ではアート作品として使う場合などには微調整が効くので重宝がられているといいます。

このゴム風船の歴史は古く、まず1805年に、イギリス人の科学者ガJ. Gough(ガフ)という人が、がゴムを断熱的に伸張すると発熱し、圧縮すると冷却する現象「ガフ-ジュール効果」を発見したことにはじまります。

それから15年経った1820年には、同じくイギリス人のトマス・ハンコックにより木製の「ゴム用密閉型混練機」が製作され、未加硫の生ゴムによる糸ゴム製造が実用化されました。

加硫(かりゅう)とは、生ゴムなどのゴム系の原材料を加工する際に、弾性や強度を確保するために、硫黄などを加える行程のことで、現在のゴム風船はほとんどこれによって造られていますが、この当時はまだこの技術はありませんでした。

さらに1823年にはスコットランドのマッキントッシュにより素練した生ゴム原料による未加硫ゴムで作られた防水布が実用化されます。

そして、その翌年の1824年には、イギリス人の化学・物理学者マイケル・ファラデーが水素ガスの特性を見る実験のための袋として2枚の未加硫のゴムシートに打ち粉をして貼り合わせたゴム気球を製作。これが、ゴム風船製造の嚆矢とされています。

そしてその翌年には前述のイギリスのトマス・ハンコックが、Thomas Hancock社を設立し、生ゴム入りボトルとシーリング材入り注射器がセットされた購入者製作型の風船キットを発売。以来、ヨーロッパ全土にこの手作りゴム風船が普及していきました。

日本では、江戸時代の天保5年(1834年)に、宇田川玄真、宇田川榕菴という薬学者が、その執筆本に、水素が可燃性で気球を浮かせる浮遊ガスであることを記してはいるものの、ゴム風船そのものが初めて輸入されたのは明治元年(1868年)のことのようです。この年、横浜と大阪でゴム風船の販売にまつわる新聞記事が相次いで掲載されています。

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ただ、ゴム風船の製法技術が日本に伝わったのは明治30年代以降のことのようで、一方のヨーロッパでは、これよりも20年以上前の1847年に、イギリス・ロンドンのJ.G.イングラム社により、現在のような既製品タイプの最初のゴム風船が製造されていました。

明治4年(1872年)にはこのヨーロッパから輸入されたゴム風船が「球紙鳶(たまだこ)」という名前で流行し、明治7年(1875年)には、旧開成学校(現東京大学)の製作学教場で教師の市川盛三郎という人が赤ゴムの小球を作り、水素ガスを満たして飛揚させています。

そしてこれが流行に火をつけ、翌年以降、東京で露店や縁日での子どもの玩具として売り出されるようになりました。明治30年(1898年)ころには、とくにドイツ製ゴム風船が流行し、流通量が30万グロス(1グロスは12ダース(個))を超えました。

一方でこの頃まで国産のゴム風船作りにはヨーロッパで主流とされていた硫黄などを加える「加硫法」が伝わっておらず、製法技術が未熟なため輸入品と違い、色が黒くゴムの伸びも悪く浮揚ガスを入れても浮きにくい、といったことがありました。このため、国産品よりも「舶来品は上等」といわれました。

その後明治38年(1905年)には、日露戦争の終結後の戦勝祝いにゴム風船が使われたため、玩具としてのゴム風船の普及はさらに普及し、全国で販売されるようになりました。そして、大正期以降には俳句の春の季語として「ゴム風船」が登場するまでになりました。

この明治38年になってようやく日本でもドイツ製ゴム風船を模倣した「加硫法」の技術が導入され、大阪市外に「伊藤護謨風船工場」が創立され、はじめて良質の国産ゴム風船が製造され始めるようになりました。

この加硫法(冷加硫法)による風船製造は現在にも伝えられ、この時代に広く知られるようになって以降、日本国内にゴム風船工場が乱立するようになっていきました。

大正元年(1912年)には、日本国内のゴム風船の生産量の急増により、初めてゴム風船が海外に輸出されるようになり、その5年後の大正6年(1917年)には、日本国産のゴム風船の輸出が50万グロスに達しました。一方で、かつてはヨーロッパにおけるゴム風船の一大産地だったドイツは第一次世界大戦の戦場となったため、製造量が激減しました

以後、ゴム風船作りは日本お家芸のようになっていき、1934年(昭和9年)ごろからはゴム風船の海外への輸出が激増するようになりました。しかし、やがて1937年(昭和12年)に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開戦すると、ゴムタイヤなどの軍需需要が増えました。

このため、翌年の1938年(昭和13年)には日本国内で数多くの日用ゴム製品の製造が禁止されるようになり、さらに日本海軍による真珠湾攻撃により第二次世界大戦に発展するとさらに民間へのゴム製品の供給は減りました。しかし、一方で戦時中は兵士に配るためのゴム製のコンドームの製造だけは休止されなかったといいます。

そして終戦。ゴム風船の製造が再開されブームとなり、戦後の混乱の中で子どもの風船玩具として文房具店に50万個、玩具店に10万個が出回るまでにゴム風船の需要は回復しました。

1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックでは、1万個のゴム風船が飛ばされ、また、1970年(昭和45年)の大阪万博(EXPO’70)では、600発の花火とともに3万個のゴム風船が飛ばされました。さらに、1972年(昭和47年)の札幌オリンピックでも1万5千個のゴム風船が飛ばされました。

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しかし、1987年11月に、 岡山県倉敷市の祭りのイベントで、風船飛ばし用の水素入りゴム風船が爆発すると、これをきっかけに、1990年代に入ってから風船飛ばしの反対運動が起きるようになります。

とくに1990年代初頭にかけては、落ちたゴム風船を野鳥が誤って食べて窒息死したという報告が相次ぎ、このことにより野外でのゴム風船の使用は減っていきました。

日本バルーン協会は、ラテックスを使用しているゴム風船は自然界で分解されるためにそのような事故が起きる可能性はきわめて低いと反論しましたが、欧米では、複数の公的な環境調査により野生生物への影響が大きいことが指摘されました。

日本近海にも生息し絶滅が危ぐされるオサガメの死体調査では、胃の中から主食のクラゲを誤飲したと思われるビニール袋のほかゴム風船が見つかり、こうした膜状人工物を消化管に詰まらせたことが死因である可能性が高いとされました。

また、飛ばしたゴム風船の大体5~10%が破裂することなく原形をとどめたまま地上や海に落下するといわれており、海岸に打ち上げられる漂流・漂着ゴミとしてのゴム風船の近年の急増傾向も指摘されるようになりました。

自然環境にこうした人工製造物を大量に放出する行為は、海鳥や海棲哺乳類などの野生生物の生命を脅かすおそれがあり、このため欧米ではビニール袋の投棄禁止とともに商業的な大量の風船飛ばしの行為に反対する生物学者、生物・鳥獣保護団体、環境保護団体、環境教育機関が少なくありません。

アメリカやシンガポール、オーストラリアなどでは条例により商業目的の風船飛ばしの1日もしくは行為1回ごとの数量規制および超えた場合の罰金制度が行われているそうです。

また、イスラエルでは宣伝用のゴム風船がレバノン南部まで到達し、住民が化学兵器と思いパニックとなったこともあるそうで、ヘブライ語の文字が印刷された薄い緑色で吹き口が互いに結ばれて10個を1組にしてあったこの風船は、現地爆発物処理班により畑に移動後、爆破されたといいます。

こうした世界的な「反ゴム風船」の潮流を受け、日本でも1991年(平成3年)ごろからは、風船飛ばしに配慮した紙などを原料とする環境風船が各社から発売されるようになりました。従って、現在では少なくとも風船とばしに使う風船としてゴム製のモノが使われることはほとんどないようです。

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このように最近では風船とばしは、環境面への配慮から自粛傾向が強いのが現状ですが、最近このゴム風船を宇宙にまで飛ばそう、という取り組をやっている人がいて話題になっています。

先日の、9月24日には、テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」でも紹介され、この番組を見た人も多いと思いますが、これはゴム風船を超高高度まで上げてここから地球や宇宙を撮影しようという試みです。

北海道大学の学生さんがやっているもので、「ふうせん宇宙撮影」というサイトまで立ち上げて、他にもこれを試す人が増えることを呼びかけています。

岩谷圭介さんという、福島出身で現在28歳の大学院生?のようで、彼によれば、風船によって飛行機では絶対に到達できない上空30~50㎞の高さまで上ることが出来るといいます。
実際に「ナニコレ珍百景」でその映像が流されていましたが、風船に取り付けたカメラには、まがうことなく成層圏からの青い地球が撮影されていました。

30~50㎞の高さまでの高度となると、気圧は100分の1~1000分の1まで低下で人間は宇宙服を着ないと死んでしまいます。が、無人のゴム風船ならこれが可能となり、また空気が無視できるほど薄いため、国際宇宙ステーションから見る景色とほとんど大差ない景色を見ることができます。

浮力を得るためには化学的に安定して安全なヘリウムガスを使用しており、機体重量は300g以下になるように設計されていて、また降下時させるときには、時速20km以下になるように設計しているそうです。

この重量の物体が時速20km以下で落下してくる場合でも、ソフトテニスボールでキャッチボールし受け止める程度の衝撃しかないので人体に無害だそうですが、念のために最大6億円までの賠償責任保険にも加入して実施しているといいます。

また、風船の打上の際には国内法を順守しており、航空法に基く各種手続きを行った合法的な打上であるとともに、位置情報知るためのGPS装置なども搭載しているため電波法にも配慮しているそうです。

風船を飛ばすのは、天候の安定した夏場に行うのがベストだそうで、だいたい5~8月に実施しますが、天候の安定した時期とはいえ、打上ができない日もあり、自然に逆らわず、法則に則って実施することが成功への秘訣だそうです。

撮影される景色は天候により大きく異なるようですが、これがまた一興だといい、同じ空模様の日は絶対にありえないので、打ち上げる度に違った地球の顔を見せてくれるのだといいます。

上空の風が強くなる冬季には向かないようですが、ゴム風船を飛ばすのがタブーとされるようになった昨今、こうした夢のある取組はさらなる広がりを持って行ってほしいものです。既にこれに同調した高校生などが打ち上げを行っているようですが、一般の方の中にも自分の飛ばしたゴム風船から地球を見てみたい、という人は出てくるに違いありません。

私もぜひやってみたいものですが、みなさんもいかがでしょうか。ゴム風船から撮影した地球の写真を部屋に飾る、というのはなかなか素敵なことだと思います。

が、来年の目標のひとつとして、年が明けてから具体的に考え始めることとし、今週末はさらに忙しくなる前に年末の大掃除の算段でもしはじめようか、と思っているところです。みなさんはどうでしょう。大掃除のこと、そろそろ考え始めていますか?

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箱根の坂を下れば

2014-1060080先週から、地区内の草刈、組合の理事会、自治会の秋祭り、仕入れのための横浜行き……と盛りだくさんのイベントが続き、嵐のような日々でしたが、今日はようやく少し落ち着いています。

ただ、今日は昨日ほど天気がよくなく、疲労も溜まっているかんじで、気分的にもあまりぱっとしません。こんな日は、仕事などせずに、ゆっくりすればいいのに、と自分でも思うのですが、気がつけば机に向かっています。

気分転換にどこかにぶらりと出かけたいのですが、この天気ではあまりスカッとした気分にはなれそうもなく、今のところは気乗りしません。朝方の天気予報では、晴れ間も出るといっていたのですが、いまのところ天気はよくありません。が、夕方回復したら、少し散歩でもしてみようかと思っています。

昨日の横浜行というのは、商売道具の額縁を買うためのIKEAへのドライブだったのですが、その途中に箱根の峠を越えました。標高1438mの神山を頂点とするこの箱根山は約40万年前に噴火が始まり、何度もこれを繰り返して、約25万年前に標高2,700m にも達する富士山型の成層火山になりました。

しかし、これはいわば巨大なミルフィーユケーキのようなものであり、その中身はスカスカでした。このため、その重みに耐えかね、空洞化したその山塊が約18万年前にドカンと陥没して巨大なカルデラが誕生しました。このとき周りに取り残されたのがいわゆる箱根外輪山であり、また中心部には元の成層火山の名残が残りました。

この中央部分は「中央火口丘」とも呼ばれ、現在では神山のほか、冠ヶ岳 (1409m)、箱根駒ヶ岳 (1356m)、上二子山 (1091m)、下二子山 (1065m)、早雲山 (1153m)などの峰々の集合体となっています。

昨日通過したこれらの山々はいずれも今、紅葉がまっさかりといったところであり、おそらくは今週末あたりからピークを迎えるのではないかと思われます。なので、この秋紅葉狩りをまだしていない人で、箱根を見てみたいという人はそろそろ急いだほうが良いかもしれません。

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この箱根を舞台・背景とした作品は過去にたくさん作られていますが、その中に司馬遼太郎さんの長編歴史小説で「箱根の坂」というものがあります。1982年(昭和57年)~83年に読売新聞に連載されていたもので、1984年に講談社から単行本として出版されました。

箱根の坂を越えて小田原城を攻略し、後北条氏の祖となり戦国時代の火蓋を切った北条早雲の生涯を描いたもので、このころ既に大学を卒業して社会人になっていた私は、司馬ファンでもあったことから、出版されるとすぐに購入してこれを読んでみました。

あらすじとしては、若いころにはまだ伊勢新九郎と称していた後の北条早雲は、見た目は凡庸な男で、日々仕事としていた鞍作りに精を出し、それ以上を望まず平穏な人生を願っていました。しかし、鞍を売るために日本各地を歩き回るうちに、時代の変化を敏感に嗅ぎ取り、いずれは戦乱の世の中になるに違いないと考えはじめます。

そして生来の機略を生かし、そのころ三河の領主だった今川氏に取り入って家来となり、ここで手柄を立てて小規模ながら領主となります。税を抑えるなどして民衆の信頼を得ますが、時代はやはり彼が見立てたとおり戦国の世、そして下剋上の世へと移り変わっていき、その中で彼もまた今川氏と協力しながら他国を切り取っていきます。

そして、関東に進出すべく小田原を攻めるのですが、そのとき通らなければならない大きなが壁が箱根であり、ここからは関東平野が一望に見て取れます。そしてこの峠に立ち、ここから関東制覇のための野望を誓うわけですが、この物語ではこのように箱根峠が象徴的にクローズアップされています。

で、この小説が面白かったか、と聞かれると、正直なところ、司馬さんの若いころの作品ほど、物語の展開に弾むような面白さがなく、やたらに理屈が多すぎて、物語に入り込んでいけない、というところがあったように思います。

司馬さん最晩年の作品のためか、「元気がない」といったかんじで、この作品のあとがきで「早雲が箱根の坂を越えたときは、作者も一緒に疲れた」と語っているように、ご本人もこれを書いた当時精力的に書くためのエネルギーを既に失いかけていたことをうかがわせます。

このためか、「竜馬がゆく」「関ヶ原」「坂の上の雲」のような若い頃に書かれた作品ほどの勢いが感じられないのが残念で、であるがためか、私もまた長い間この小説の主人公である北条早雲という人にはあまり興味が沸きませんでした。

ところが、ここ伊豆に越してきてからというもの、あちこちに出かけるたびに出くわす事物には北条早雲にゆかりのあるものばかりであり、例えばここからすぐ近くにある韮山には早雲が晩年まで本拠地としていた居城がありますし、今これを書いている窓の外遠くに見える城山(じょうやま)も早雲が拠点のひとつにしていた城があったようです。

史実によれば、伊豆に拠点を持った早雲は、明応4年(1495年)に箱根の山を越え、小田原の大森藤頼を討ち、藤頼の居城である小田原城を奪取しました。

大森氏は、室町幕府の征夷大将軍が関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方に代々仕えた一族で、もともとこの地にあった土肥氏を滅ぼして相模・伊豆に勢力を広げ繁栄していました。

小田原城を築城したのは、藤頼の祖父の大森頼春で、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した「上杉禅秀の乱」が応永23年(1416年)発生した際、この乱を鎮圧した功により、箱根山一帯の支配権を与えられました。そして応永24年(1417年)頃、前領主土肥氏の拠点があった小田原に築いたのが小田原城です。

伊豆からこの小田原に至るためには熱海峠を越えて湯河原経由で向かう道が現在はありますが、この当時は険しい山道であり、このころ既に三島から、箱根カルデラを縦貫する箱根路が開かれており、こちらの方が早道でした。

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早雲は家来をこの箱根道を通って小田原に派遣し、大森藤頼にたびたび進物を贈るようになりましたが、この懐柔策により、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになりました。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許しますが、早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れます。そしてその夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちました。

このとき、おびえた小田原城の人々は数万の兵が攻め寄せてきたと大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出したため、早雲は易々と小田原城を手に入れたといいます。典型的な城盗りの物語といえますが、後世に早雲の子孫である後北条氏の一族が編纂した「北条記」による記述であり、どこまで真実か分かりません。

実は、この早雲が小田原を攻めた1495年には明応地震が起こっており、これは南海トラフ沿いに起きた巨大地震であり、このとき発生した津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、駿河湾沿岸では10m近い津波が押し寄せました。

伊豆半島の東側や小田原においても局所的に大規模な津波が襲来していたと考えられ、早雲はこの津波に乗じて小田原城を攻めた、という話もあるようです。

これから6年のちの明応10年(1501年)の記録文書には、早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点ではもう早雲は小田原城を出城代わりに使って関東制覇を開始していたと考えられています。

が、早雲自身は終生、伊豆韮山城を居城としており、小田原城を後北条氏の本城とするのは、早雲の嫡男の氏綱の時代からです。

その後、早雲に追い出された元の小田原城主であった藤頼は、縁戚で三浦半島を拠点とする三浦義同の支援を受けて大住郡実田城(真田城、現在の神奈川県平塚市)に逃れて戦いましたが、明応7年(1498年)に敗れて自殺したといわれています。

実はこの真田城で自殺したのは藤頼ではなく別人であり、その後も藤頼が生きていたと言う説もあるようで、大森氏の菩提寺であった静岡県小山町の乗光寺の記録では文亀3年(1503年)没とあり、これより更に5年後です。真偽のほどはわかりませんが、いずれにせよ、北条氏の台頭により小田原一帯の相模において大森氏は駆逐されました。

しかし、一族の末裔が後北条氏に仕えた後、徳川氏に仕え江戸幕府の寄合旗本として存続したという記録もあり、確認はしていませんが、東京大田区の大森は、その旗本の大森家由来の土地かもしれません。

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こうして滅びた大森氏から小田原城を引き継いだ早雲ですが、その後さらに改築が重ねられ、3代当主北条氏康の時代までには難攻不落、無敵のお城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えました。その後の秀吉による小田原攻めの際にもかなり長い間持ちこたえましたが、その最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。

現在の小田原高校のある八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後に秀吉によって築城される大坂城の惣構を凌いでいたそうです

しかし、その後この豊臣家を滅ぼした徳川家康は、1614年(慶長19年)、自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを取り壊し、撤去させています。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたためといわれています。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心にこの当時の遺構が残っています。

北条氏没落後、江戸時代にこの城の城主として家康に任命されたのは、大久保忠世(ただよ)でした。徳川十六神将の1人に数えられる猛将で、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても大活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられました。

天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、秀吉の命もあって小田原城に4万5千石を与えられましたが、その後の徳川の世でも引き続き小田原の領主であることを安堵されました。

ところが、子の2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、大久保氏は一度改易の憂き目にあっています。その後、城代が置かれ、城主不在の時もありましたが、その後阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏が領主となり、その後再興された大久保氏が再び入封されました。

江戸期の中後期の小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であり、その城下町・小田原宿は東海道の沿線ということもあり、箱根の山越えのための前線基地として栄え、東海道五十三次中最大の規模を誇りました。

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その中心である小田原城は、江戸時代を通して1633年(寛永10年)と1703年(元禄16年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けています。天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続しました。

明治時代の解体は、1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけて行われ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられました。また1901年(明治34年)には、旧城内に小田原御用邸が設置され、皇族の別荘として使われるようになりました。

ところが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により、この御用邸は大破し、その後廃止され、このとき現存していた二の丸平櫓は倒壊、石垣も大部分が崩壊しましたが、12年後の1935年(昭和10年)にその一部が復興されました。

1950年(昭和25年)関東大震災で崩壊した天守台の整備を開始し、と同時に小田原城址は小田原城址公園として整備され、1960年(昭和35年)には天守が鉄筋コンクリート構造によって復元されました。

現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画しており、2006年(平成18年)に日本100名城(23番)に選定されたのをきっかけに、城址の完全復興を目指すようになりました。手始めにそれまでも行われていた東西南北の各所の門の復元ほかの修復が進められており、現在では八幡山にあった古い曲輪の復元なども計画しているようです。

昨年2013年には天守の木造復元を目指すNPO法人「みんなでお城をつくる会」が設立されています。RC構造を取り壊して木造とするのは相当難しそうですが、昨今旧来の木造城郭を復活させようとする動きが全国的にもあり、小田原城ももしかしたら将来的には元のままのものが復元されるかもしれません。

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一方の小田原の城下町のほうは、一時期は東京のベッドタウン化したとも言われ時代もありましたが、長期不況で人口動態が減少に転じ、一時は20万人を超えた人口も20万を割り込みました。

ただ、市が新幹線通勤定期代に対する補助制度を設けるなど人口確保のための政策を実施した結果、少しずつ持ち直しており、駅周辺の再開発、および郊外での住宅、都市開発も少しずつ進んでいます。

小田原といえば、ちょうちんとかまぼこであり、このほかにも梅、オシツケ等の特産地として全国的に有名です。最近では小田原バーガーや小田原どん、スミヤキ、オリーブを売り出すなど、各種の観光開発も進んでおり、城址の再整備とともに、観光立地を目指して町の中央部を中心として美化も進んでいます。

今回は小田原の中心部には足を踏み入れませでしたが、ちょっと前に用事があって出かけたときには、街中の区画整理がずいぶんと進み、垢抜けたいい街になったな、という印象を持ちました。

小田原城は、市の南東部の海岸から500mほど内陸にありますが、その天守閣の内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっており、その標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができ、必見です。

ただ、来年7月から再来年の3月まで天守閣の耐震工事が行われるため、ここへは入館できなくなるため、注意が必要です。

秋の日の一日、箱根の山への紅葉狩りの前後にぜひ小田原にも一度立ち寄ってはいかがでしょうか。

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元気がない

2014-694211月に入りました。

実は昨日、この別荘地の自治会主催の、秋祭りがありました。「ふれあいフェスタ2014」と銘打ち、朝からのべ100人ほどが集まったかと思いますが、この催しもそうなのですが、11月はやたらに公的イベントが多く、また、私的にもいろいろ課題を抱えていて目が回りそうです。

が、朝起きてからやることがある、というのはある意味ありがたいことであり、世の中には毎日が日曜日、というリタイア組もたくさんおられるようで、そうした人達は毎日何をやって過ごそうか……と考えあぐねているうちに、さらに齢を重ねていくようです。

もう亡くなっていますが、私の父もそうであり、公務員であった30数年ののちもしばらくは民間会社で働いていましたが、そこを退職して山口に引っ込んだ晩年は、とくに趣味というものもなく、日がな家の周りのことばかりやっていたようです。

家の周りのことというのは、すなわち植物いじりや日曜大工的なことなわけですが、そこから創作されて出来上がってくるものは、他人様の評価を受けるようなものでもなく、あくまで自己満足の世界の中の産物です。

それをなんとか人にこれは!と言わせるようなものにしてこそ、自己表現だろうと思うのですが、その意欲を失わせていくものが、やはり「老い」というものなのでしょうか。

昨日行われたこの別荘地での秋イベントにおいても、ついついそうしたここに住まう人々の「老い」を感じてしまいました。

実は私は、今年の春からこの地域の役員を仰せつかっており、この秋祭りイベントの企画などにも関わったのですが、その中において、住民側からいろいろ自主的にやってもらう類のメニューも考える、ということもやりました。

例えば、ステージに上がって何か持ちネタ、例えば歌とか手品とかなんでもよいのですが、そうしたものは誰でもとはいいませんが、中には「芸達者」な人もいるものです。この別荘地にも該当者が誰かいないか、と声をかけたわけですが、誰一人手を上げるものはなく、結局、まずこの「芸達者さんあつまれ」イベントは露と消えました。

それなら、フリーマーケットはどうか、と思いつき、これも集ってみたところ、手を上げる人はまったくおらず、結局やめようか、という話になりました。ところが、後で聞いた話ではその昔の秋祭りでは「バザー」なるものをやったことがあるそうで、その時はたくさんの品物が集まったそうです。

このときのバザーでは、そうして集まったたくさんの古着や陶器などを地区の役員さんたちが自分たちで仕分けし、値段をつけて売るというあんばいだったようですが、そうした自分たちがあまり手を貸さず、誰かがやってくれるとう仕組みには参加する人が多かった、ということのようです。

ところが、フリーマーケットを自分でやるとなると、品物を揃え、値札もつけ、実際の販売においてもお客さんとのやりとりも含めてそれなりに手間暇がかかります。実際、今回の秋祭りでは、我々夫婦と以前から親しくしている一軒のご近所さんとともにフリマを出してみたのですが、その準備やら片づけやらで結構大変でした。

ところが、このフリマもまたこの別荘地ではるか昔に行われたことがあるらしく、これは昨日の我々のショップを訪れた一人の居住者から聞きました。

このことから、おそらくはバザーもフリーマーケットも過去に何回か開催されたことがあり、それを我々は知らされていなかった、あるいは、今年の執行委員たちも知らない、覚えていない、ということだったようです。

いずれにせよ、実際にこうしたショップの運営を自分たちで行ってみると、その大変さがわかり、とくにフリーマーケットは個人運営であるためその負担が増します。

それがゆえに、結局は開かれなくなっていったと推察され、バザーもまた、役員さんたちの労苦が大変ということで廃止され、やがてはバザーもフリマも、その他の住民が自主的に行動を起こすような行事はあまり行われない秋祭りになっていったということのようです。

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さらについでに言えば、同じくこの別荘地で「文化祭」をやろうとう企画も出しました。お年寄りならば一つや二つ何かの趣味を持っているはずであり、短歌でも絵手紙でも絵画や写真でも持ち寄ればちょっとした展覧会はできそうなものだと思ったわけです。

ところがこれについても反応は薄く、ここでもやはり芸達者さんやフリマの募集といったイベントと同じような壁を感じてしまいました。

こうした状況を俯瞰して、ちょっと考え込んでしまったのですが、ようするに、自分で手を動かして能動的にやろう、できるという人が少ないということなのだろうと推測され、そして、そうした活力を奪っているものこそが、やはり「老い」なのだろうか、と思うわけです。

ごたぶんにもれず、この街の高齢化は進んでおり、しかも別荘地という土地柄もあり、リタイア組が多いのは当然です。

ただ、この別荘地は比較的交通の便がよく、このため最近は一般住宅化している地域も増えてきており、これを反映して若い世代も少しずつ増えてきています。

我々も含めて40代、50代の若い人達も少なくなく、こうした人達の奮起も期待できないわけではないのですが、しかしやはり私も含め、やはりリタイア前には日々が忙しく、そうしたお年寄りたちの御面倒ばかりみているわけにもいきません。

さすれば、やはり老人たちは老人たちなりに自分のコミュニティを活発化させていくためには自助の努力をしていただくのがしかるべき道だろうと思うのですが、やはり寄る年波にはかなわぬ、というところなのでしょう。

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想像するに、これと同様の現象は伊豆だけでなく、全国各地にあり、やはりどこの町でもお年寄りばかりが増えて次第に活力がなくなってきている、というのが現状なのでしょう。

いわゆる「高齢化社会」であり、この高齢化の定義とは、一般に総人口に占めるおおむね65歳以上の老年人口の比率で表され、その率が7%以上のものをこう呼びます。一般に高高齢化率7~14%が普通の高齢化社会ですが、これが21%を超える超高齢社会と呼び、日本では2007年(平成19年)に21.5%となり、見事に超高齢社会となりました。

昨年の統計では、65歳以上の人口は3186万人となり、総人口に占める割合は25.0%と過去最高を更新し、これは人口の4人に1人が高齢者ということになります。日本は、平均寿命、高齢者数、高齢化のスピードという三点において、世界一の高齢化社会といえ、その原因はやはり少子化が原因です。

出生数が減り、一方で、平均寿命が延びて高齢者が増えているためにほかならず、1947-1949年(昭和22-24年)の第一次第1次ベビーブームのいわゆる団塊の世代が、2012年から2014年にかけて相次いで65歳に到達したため、高齢化のスピード加速したものです。

来年以降は、このピークが終り、高齢化のペースは徐々弱まる見通しですが、相変わらず少子化が改善されない限り、2020年(平成32年)には高齢化率は29.1%、2035年(平成47年)には33.4%に達し、やがては人口の3人に1人が高齢者になる、というお先真っ暗な状況です。

昨年、日本人の平均寿命は男性80.21歳、女性86.61歳で、いずれも過去最高を更新したと厚生労働省が発表しましたが、おそらくは更に日本人の寿命は延びていくのでしょう。

が、高齢であるということが決して悪いわけではなく、齢を重ねても元気であり、人さまのお世話にならずに生きていければいいわけです。しかし、やはりそういうわけにもいかず、年を重ねればそれまで自分でできたこともできなくなる人も多く、上でも述べてきたように、何につけても自分で能動的に何かをやろうという活力が失せてきます。

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つまり、やる気がない、ということであり、このやる気は、動機づけ、ともいい、英語ではモチベーションです。何等かの行動を始め、目標に向かって維持・調整する能力のわけですが、人間を含めた動物は、その行動を起こすためにさまざまなその方向性を定めるいくつもの要因を持っています。

生命を維持し、種を保存させるための生得的な動機。飢え、睡眠、排泄、身体的損傷回復などは、「生理的動機づけ」といい、義務、賞罰、強制などといった社会活動によってもたらされ動機づけを「外発的動機づけ」といいます。

たとえばテストで高得点を取るためにする勉強や、昇給を目指して仕事を頑張る場合などがそれにあたり、自己の価値観や人生目標と一致している場合はより、効果の高い外発的動機づけとなります。

また、こうした人生目標を持つ、などのように他人さまから与えられる動機づけではなく、自分の好奇心や関心・興味によってもたらされる動機づけもあり、これはで「内発的動機づけ」といい、賞罰に依存しないものです。

外発的動機づけは内発的動機づけと両立しうるものであり、人さまからぶら下げられたバナナを食べたい、と思う気持ちはまさにそれで、何かいいことをやるとバナナという褒美がもらえる、という外発的動機づけと、自分が食べたいいう内発的動機づけが同時に進行するわけです。

つまり、「欲」があるからその行動を起こすわけであり、欲とは、何かを欲しいと思うことや、そう感じている状態であり、ヒトや動物が、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じるのが「欲」という感覚です。

よく、齢をとると「欲」がなくなる、といいますが、これはつまり高齢になればなるほど、いろんな刺激を受けてきたそれまでの人生以上の刺激がなくなるということでもあり、自発的動機付けや外発的動機付けを起こさせようとする「欲」がなくなること自体が、気力がなくなる原因と考えられます。

人間は、ある欲求が満たされると、より高次の欲求を満たそうとします。これらの欲求には、「生理的欲求」「安全への欲求」「社会的欲求」「自我欲求」「自己実現欲求」などがあり、この5つの順番はそれぞれ低次元から高次元までに向かっており、低次元の欲求が満たされて初めて高次元の欲求へと移行するといわれています。

最も次元の高い「自己実現欲求」は「成長欲求」とも呼びますが、人は食や住居などを得ることによって生理的な欲求や安全が確保されると、次は、社会的な欲求を満たすために仕事に出、その中で自我を押さえつつ納得し、さらにはそこに自分の成長を見出して満足します。

こうして多くの人は働き盛りの時代を終え、年金を貰うような年齢になると、社会的欲求に満足し、自我的にも自己成長をも達成したがゆえに、それ以上自分を高める意義を失ってしまいます。それがつまり、欲のなさにつながり、さらにはやる気が出ない、ということになり、やがては活力のないボケた人達になっていくのでしょう。

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仏教では、欲そのものは人間に本能的に具わっているものであり、悪いものとしていませんが、基本的には無欲を善として推奨し、修行や諸活動を通じて無欲に近づくことを求めています。この仏教が普及している日本では、こうした教えもあり、自然と欲からの解放を求めている、という傾向があるような気がします。

先の東北の大震災で被災した日本人は、自らが手ひどいダメージを受けているにもかかわらず配給の列に整然と並んで世界から賞賛を浴びましたが、これもこうした仏教の教えに基づいて身についた無欲の心から来ているもの、とも考えられます。

さすれば、今のような高齢化社会を迎えた日本での活力を失わせているものもまた、この無欲の精神なのかもしれません。よく日本人はおとなしいといわれますが、齢をとるにつけさらに欲がなくなり、というよりもさらに欲をなくして仏様のようになろうとし、であるがゆえに、やる気がなくなっていく、という気がするのです。

で、あるならば、齢をとっても元気でいるためには、やはり何かにつけ「欲」を持つことが一番ということになります。リタイアによって自己実現の目標を失った人も、何等かの新たな目標を持つということがすなわち、欲を満たす行為に向かうということであり、元気を取り戻すということにほかならないのではないでしょうか。

無論、齢をとると体力が要るような目標は立てられません。三浦雄一郎さんのように80歳になってからエベレスト登頂に成功する、といった人は稀有でしょう。が、それほどではないにせよ、80歳なのにスゴイ、というわれる老スポーツマンはたくさんいます。

ましてや、文筆や文芸その他の芸術活動であれば、齢を経てもやれることはそれ以上に多いはずであり、さらには長い年月の間に重ねて経験によって若い人よりもずっと上達するのが早い、といった分野もあるに違いありません。

齢をとっても欲を持ち、自分が達成できる目標を持つ、持たせるということが高齢化が進む今の日本にもっとも求められているような気がします。

さて、振り返ってみるに、我が町のジジババ、いや失礼。私の町の愛するお年寄りたちにいかに欲を持たせるかが問題です。

まずはどんなものが欲を引き立てるか、というところから考え始めねばなりませんが、色々と考えているうちに、そうしたモノが思い浮かんでくるように思います。

まさかカジノやお色気バーをやるわけにはいかないでしょうが、それほど刺激が強くなくても齢を重ねたお年寄りの欲望を掻きたてるような何かがあるに違いありません。強烈すぎて昇天されても困りますが……

来年の秋祭りにはそうしたよくばり爺さんや婆さんばかりの町になっていることを願い、今日の項の筆を折りたいと思います。

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