年賀状は永遠に?

_DSC7975あわただしく、年末の総選挙が終わりました。

結果は……というと、だいたい予想通りのところであり、この結果を受けた株価もあまり変動しなかったようですが、選挙前には「結果は折りこみ済みだから」というコメントをする経済アナリストが多かったそうです。

投票率が低いであろうことも予想通りでしたが、それにしてもこれほど低いとは予想しませんでした。その理由はといえば、おそらく誰もが、「だいたい予想がつくような結果になるような選挙に行ってもな~」という気分になったからでしょう。

選挙権があることは大事であり、国政に参加するということは義務だ、棄権するなどもってのほかだ、と有識者たちは声を揃えて言います。が、独走を続ける自民党を止めることのできるような元気な野党もなく、興味がわかないものはわかないのであって、選挙が始まる前から興ざめしている人も多かったのではないでしょうか。

私もそうした気持ちがないわけではなかったのですが、やはり義務は義務ということできちんと役割を果たそうと思い、行きました。投票に。が、できれば、さぼりたいという気持ちに弾みをつけるために、散歩に行く「ついで」、という理由で自分を納得させ、行ってきました。渋り渋り。しかも夕方近くになってから……。

で、どこに票を入れたかですが、これについてはお察しいただければと思います。が、こんな時期に自己防衛の目的のためだけに、国民の迷惑を省みずに選挙に打って出た自民党でないことだけは確かです。

とはいえ、これでようやく、落ち着いて年末年始の支度に入れる、という方も多いかと思います。私も同じで、選挙があるというので何かとそわそわしていた気分が落ち着き、滞っている諸事をこれから動かそうかな、という気になっています。

その最たるものは、やはり年賀状であったりするわけですが、いったいいつから年賀状を書いているかな~と記憶を辿ってみると、小学校の低学年のころからもうクラスメートと年賀状のやり取りをしていたような気がします。

学校の「図画」の時間に彫刻刀の使い方を教える、という名目で手彫りの年賀状を作ったのが最初のことだろうと推察できますが、何を彫ったか、どんな出来だったのかはもうほとんど記憶にありません。

その後、年賀状を出す相手が増えるにつけ、版画年賀状はかなり面倒だということに気付き、それからは市販のスタンプなどを使った年賀状になりました。さらにのちには、「プリントゴッコ」なるものも出て、こちらのほうがよりオリジナリティーが高いものができる、ということで、しばらく長い間はこれを使って年賀状を作っていました。

ご存知の方も多いと思いますが、これは、熱を与えると孔が空く特殊な用紙に、カーボンを含む特殊インクで描きたい図柄を書き、これにフラッシュランプをあてて加熱し、図柄の部分だけを溶かして印刷原稿を造るというものです。

これに白い年賀状を重ね、「ガリ版」の要領で印刷するわけですが、違う色柄の原稿を何枚も造れば、カラフルなデザインもできます。1970年代後半に発売された当初は、少ない枚数でも安価に自由なデザインのものができるというので、年賀状だけでなく、暑中見舞い、その他慶弔のハガキの作成などにも使われ、急激に普及していきました。

このプリントゴッコは1987年(昭和62年)に年間最多の72万台もの売上げを記録し、累計売上台数は日本を含めた全世界で1050万台にものぼったそうで、まさに世界的な「ごっこ」となりました。

しかし、その後一般家庭でもパソコンの普及が進み、と同時にインクジェットプリンターの高画質化、低価格化が進んだため、これに伴いパソコン上で動作する年賀状作成ソフトが普及していき、これに伴いプリントゴッコを使う人は減っていきました。

プリントごっこは、印刷所に頼むよりもずっと安価でデザイン性の高いものができるということで、人気を博したわけですが、しかしパソコンで作った年賀状のようにフルカラーでしかも画数の多い漢字を小さくきれいに印刷することはできず、またプリンターで印刷した紙のように速く乾かすことができません。

このため、プリントゴッコで印刷が終わった大量の年賀状を乾かす場所が必要であり、日本のように狭小住宅が多い国では、どこの家庭でもこれを乾かす場所を確保するのが大変であり、私もここへ引っ越してくる前は手狭なマンションであったため、そのスペースを空けるのが一苦労でした。

こうしたこともあり、その後さらにパソコンとインクジェットプリンターが急速に普及するとともに売り上げが減少し、販売元の理想科学工業は2008年(平成20年)6月末ついにプリントゴッコの本体の販売を終了しました。

その後も消耗品の販売は続けていたようですが、2年前の2012年(平成24年)12月でプリントゴッコの関連商品の全ての販売を終了し、これで完全にこの世の中から消えました。

しかし、40年以上にもわたる長い期間に国民の多くが使ってきたこのシステムには私も大変お世話になりました。将来文化遺産にしてもいいのでは、思うほどであり、それが無理ならば、せめて機械遺産にでもしてよ、と文科省にお願いしたいところです。

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とはいえ、かく言う私も、十年ほど前から、年賀状はこのパソコンとインクジェットプリンターの組み合わせで作ることが多くなっています。最近はこれをデザインするソフトの性能もアップしており、かなりオリジナリティの高いものができるため、重宝しています。

しかし、かなり便利になったとはいえ、毎年夫婦合わせて200枚もの年賀状を刷るのは結構大変であり、またインク代もバカになりません。年賀状自体の購入価格も10000円を超えるわけであり、また今年からは消費税が上がっていて、これに400円を加えなくてはいけません。

400円くらい……とは思うのですが、400円あればかけそばの一杯も食えるわけですし、120円のマックバーガーなら3個も食べることができ、しかもおつりが来ます(腐った肉が入っているかもしれない商品にはあまり食指が動きませんが……)。

とはいえ、なかなかやめられないのがこの年賀状というものであり、なぜやめられないかといえば、それは年賀状をくれる相手というのは、長年のお付き合いのある人ばかりだからです。

長い間、しかも遠方にいて普段会うこともできないので、せめて年賀状の上だけでも、御挨拶したい、という日本人らしい細やかな気配りの気持ちから出ていることが多いでしょう。

この年賀状をやりとりするという風習が始まった時期ははっきりとはしないようですが、奈良時代ごろには既に、新年の年始回りという年始のあいさつをする行事がありました。

その後平安時代になると、貴族や公家にもその風習が広まりましたが、あいさつが行えないような遠方などの人への年始回りに代わるものとして文書による年始あいさつが行われるようになっていき、これが年賀状の起源のようです。が、無論この時代には、「ハガキ」などはなく、「書状」であり、年賀の本文は立派な包装紙に包まれていました。

さらにその後の武家社会においても文書による年始あいさつが一般化するようになり、江戸時代に入ってからは、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが一般的になりました。そして、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始あいさつの文書が運ばれるようになっていきました。

が、江戸時代の年賀状も簡易的になったとはいえ、まだ「書状」であり、本文を和紙でくるんだものが一般的でした。明治維新後の1871年(明治4年)、郵便制度が確立したのちも、しばらくは、年賀状は書状で送ることがほとんどで、しかもその数は決して多くはなかったといいます。

しかし、1873年(明治6年)にできたばかりの逓信省が郵便はがきを発行するようになると、これによって年始のあいさつを簡潔に、しかも安価で書き送れるということで葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていきました。そして、1887年(明治9年)頃には、国民の間で年賀状を出すことが年末年始の行事の1つとして定着しました。

かくして年賀状の枚数は毎年増え続けましたが、その後当分の間、これらの年賀はがきは「私製はがき」に普通の切手を貼ったものでした。その後もこうした私製ハガキの取扱量も増えていきましたが、現在の官製の年賀はがきの走りとなったのは、1935年(昭和10年)に私製ハガキの貼付用として発売された「年賀切手」でした。

この年賀切手はその後の時勢の悪化により1938年にいったん発行が中止されましたが、終戦後の1948年に復活し、この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになりました。

そして、1949年(昭和24年)「、お年玉付郵便はがき」が官製の年賀はがきとして初めて発行され、大きな話題を呼び大ヒットしました。これを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていき、こうして年賀はがきを年末に出すという「仕事」は毎年の国民の行事になっていきました。

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しかし、それにしても、毎年のように苦労して大枚の数を書いて出すこの年賀状の相手の中には、もう何十年もお会いしておらず、実質、社会的なお付き合いは消散しているような方もいます。

が、それでもやめられないのは、そうしたかつてお世話になった人達の最近の動向や暮らしぶりを、年賀状を通じて知ることができるというメリットがあるからでしょう。

また、お付き合いはないけれども、完全に縁を切ってしまうのは忍び難い、というのは誰でも思う気持ちです。さらに、元気ならばいいのですが、病気になったりした人の様子などは年賀状でそれとなく知れたりもします。また年賀状の前に来る、喪中欠礼のハガキによって、その人のご家族の状況がわかり、相手の様子を推し計ることもできます。

時にはご本人が亡くなることもあり、私の家にも先日、高校時代の同級生の裳を告げるものもあり、大変驚きました。まだ若いのに……と夫婦でその早すぎる死を悼んだものですが、年賀状のやりとりを続けているということはこうした生死の情報をももたらしてくれるわけです。

しかし、昨今は、インターネットの普及によって、年賀状を出さない人が増えているそうで、デジタルネイティブ世代も次々と成人化していくこともあり、それにつれて年賀ハガキの需要は今後も減少し、発行枚数も減っていくと見積もられているようです。

日本の郵便行政における年賀ハガキの発行は戦後すぐの1949年からだそうで、その当時の発行枚数は1億8000万枚。以後枚数を漸増させながら、1964年には10億枚、1973年には20億枚に届きました。発行枚数のピークは2003年の44億5936万枚もありましたが、それ以降は多少の起伏を見せながらも枚数は少しずつ減少。

今年を含めた直近5年間は連続で前年比マイナス10%超を記録していて、現在発売中のハガキも前年比のマイナス10%を超えそうな勢いだということです。

その年に郵政省で扱った年賀状の総数を総人口で割った、「一人当たりが出す年賀状の数」も、ピーク時の2003年の平均枚数は約35枚だったものが、昨年の2013年では約25枚。10年で約10枚分減ったことになります。

無論この「総人口」には乳幼児や年賀状を出さない人も含まれているわけであり、年賀状を出す人の一人あたりの実態平均購入枚数は、もう少し上乗せされるはずです。が、それにしても、年賀状離れは加速していることは否めない事実のようです。

この傾向は年賀状を出す風習のない日本以外の海外諸国でも同じだそうです。海外では、年末年始に、「クリスマスカード」や、「グリーティングカード」と呼ばれるカードをクリスマスや新年などの年中行事に合わせて、友人や恋人など親しい人との間で交わします。意匠を凝らしたカラフルなカードで、通常、2つ折にして封筒に入れて郵送されます。

これが、近年はインターネットの発達によりやはり減ってきているということで、電子メールを利用したグリーティングカードに取って代わられる傾向が世界中で広まっているそうで、日本の年賀状もまたしかりです。年賀状をやめて、年末年始にグリーティングカードと称してメールを送る人は若い人を中心に急激に増えているようです。

デジタル媒体により作成され、電子メールにより取り交わされるため、紙を使用しないので、地球環境に優しいのが最大の特徴です。また、イラストや写真、アニメーションの追加や、一度にたくさんの人に送ることができるなど、年賀状にはない機能を備えており、その利用は広がっているといわれます。

スマホなどの携帯電話向けサービスも拡充されてきており、また、近年の電子グリーティングカードでは、ギフト券を兼ねているものもあり、挨拶状だけではなく、贈答品としての側面も見られるようになっているとのことです。

年賀状がこうした電子媒体に取って代わられる時代は早晩来るように思いますが、現在の「お年玉付き年賀はがき」もまた、「お年玉付き電子年賀はがき」のようなものになっていくのかもしれません。

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しかし、「手書き」にこだわる人や、毛筆で年賀状を書く人、また自作・市販のゴム判だけでなく版画やイモ判の味は捨てられない、という人も多く、手作りの年賀状の味も捨てがたいものがあります。

こうした人に対して、今年からもう紙の年賀状はやめて電子メールにしますから、と宣言するのも忍び難く、まただいいち、こうした人に限ってパソコンやスマホが使えなかったりします。

かくして今年もまた、紙を使った年賀状を出すことになるわけでしょうが、その一苦労の時間を作りだすのがこの年末という時期には難しいもの。いっそのこと、年が明けてからにしようか、などと思っているところです。

年賀状を年末に出さなければならない、というのは、正月の三が日くらいまでにはそれを相手に届けたい、というところから来ているのでしょうが、その昔は年賀状といえば、年が改まってから書いていたようです。

ところが、明治時代以降、年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着すると、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し、郵便取扱量が何十倍にもなってしまいました。

この当時、郵便事業に携わる人の数は限られていたため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していました。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていきました。

その対策として1890年(明治23年)に年始の集配数を減らす対策が講じられましたが、それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけませんでした。

また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていました。このため年賀状を出す側の心理としては、受付局か配達局のどちらかで「1月1日」の消印を押してもらおうとする気持ちが強くなります。

片方だけならまだいいのですが、間違ってもその両方が、「12月31日」になるのは避けたいものであり、これだと「年賀」の意味が失われてしまうからです。

このため、多くの人が1月1日のスタンプが押されるタイミングを図って年賀状を出すようになり、この当時の配達日数は、3~5日であったことから、12月26から28日あたりと1月1日当日に年賀状を出す人が集中するようになりました。

そこで1899年(明治32年)、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まりました。年末の一定時期、具体的には12月20から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みであり、翌1900年には、このシステムは全国の主要都市の郵便局に拡大されました。

さらに1905年(明治38年)には、全国どこの郵便局でもこの年末の特別扱いが実施されるようになり、以後、年賀状といえば年末に投函するもの、ということがこの社会のルールになりました。

「年賀」とは本来、正月に口上するものであり、このため年賀状も元日に書いて投函するものだったはずですが、この特別取扱をきっかけに年末に投函し元日に配達するようになったわけであり、いわば1月1日に年賀状をどうしても届けたいと考える国民の大多数の意見に郵政省(当時の逓信省)の役人が答えたシステムというわけです。

しかし、考えてみれば、今の時代、別に1月1日に年賀状が届かなければならない、と考える理由はなく、上述のように、長年会っていない人の動向を知るためだけのものになっているのであれば、別に1月7日に届こうが、15日に届こうがいいわけです。

正月三が日に年賀状が届かない、といって文句を言ってくるひとはまず皆無のはずであり、むしろ、遅れて届いた年賀状のほうが着目され、あれっ?何かあったのかな、と文面を読んでくれる確率が高いように思います。

極論すれば、1月中に届けばいいのではないか、と私などは思うわけで、なので、今年からは昔ながらのように、年賀状は正月に書くようにする、というのもよいかもしれません。年が明ければ明けたで、いろいろ忙しいのでしょうが……

さて、かくして2014年の12月は一日、一日と減っていきます。みなさんはもう年賀状はお書きになったでしょうか?

まだ?それならば、来年に回しましょう。

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ジョージと安二郎

LS--16今日、12月12日は、1と2ばかりで構成される日にちで、1と2を足せば、私の誕生日である3月3日ともつながるため、なんとなく親近感を覚えてしまいます。

ちなみに、嫁のタエさんは、12月21日生まれであり、今千葉の大学に通っている一人息子君は11月22日生まれと、まぁなんとも1と2ばかりの家族だろうかと、これも何かの因縁なんだろうなと、ついつい思ってしまいます。

ちなみに、今日生まれた人にどんな人がいるだろうか、と調べてみたところ、写真家の木村伊兵衛さんや歌手の舟木一夫さんの名前と並んで、映画監督の小津安二郎さんの名前もありました。

ところが、この小津安二郎の命日を見ると、なんと生まれた日と同じ、12月21日没(1963年(昭和38年))でした。

生まれた日に死ぬというのは、何か偶然を通り越した意味があるのではないか、とついついその理由を考えてしまいましたが、ひとつには、きっかりと12×5回のサイクルで計画立てた一生を過ごそうと、生まれる前にそう決めて、この世に出てきたのだろう、ということが考えられるかもしれません。

物事を理路整然と考え、何事も計画通りに済まそうとする人というのは、人生の設計においても、時間的なスパンがきっちりとしていないと、気が済まない、ということなのかもしれません。

12月12日という日が彼にとって何の意味があったのかわかりませんが、いずれにせよ、我々と同じく1と2という数字に深い関わりがある人だとわかり、がぜんその生涯に興味が沸いてきました。

この小津安二郎という人は、没後かなり時間が経っているために知らない、という人も多いと思いますが、「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出た知る人ぞ知る大監督・脚本家です。が、世界的にも高い評価を得ている人でもあります。

また、「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けましたが、その代表作にあげられる「東京物語」をはじめ、とくに原節子や笠智衆といった名優と組んだ作品群が特に高く評価されています。

1903年(明治36年)、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区深川)で五人兄弟の次男として生まれました。父寅之助は、伊勢商人「小津三家」の一つ小津与右衛門の肥料問屋「湯浅屋」の分家の六代目で、本家から日本橋の海産物問屋「湯浅屋」と深川の海産物肥料問屋「小津商店」の両方を番頭として任されていました。

従って比較的裕福な家庭に育ったようで、子供のころには、この当時まだ高価だったカメラを与えられており、幼いころからこうした最新の映像機器に慣れ親しんでいいたことが、その後の映画人としての人生を歩む上での下地となったのでしょう。

1913年(大正2年)、小津一家は父の郷里である松阪に移ったため、安二郎はここの三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)へ進学し、寄宿舎に入りますが、このころ初めて映画と出会っています。その中でも特に小津の心を動かした作品は、大正6年(1917年)に公開されたアメリカ映画「シヴィリゼーション」であったといいます。

監督は、トーマス・H・インスという人で、日本ではあまり知名度は高くありませんが、海外ではモンタージュやクローズアップなどの様々な映画技術を確立し、映画を芸術的な域へと高めたことで映画の父とも言われる、D・W・グリフィスと並び称されるほどの人だそうです。

「二挺拳銃」、「呪の焔」、「ツェッペリン最後の侵入」といった映画を残しているようですが、「シヴィリゼーション」は彼の代表作といわれます。この映画は、架空の国「ヌルマ」で勃発する戦争により運命に翻弄される人々が描いたパワーあふれる作品で、戦場のスペクタクルシーンは、初期の映画とは思えぬくらい圧倒的なリアリズムで表現されました。

1999年には「文化的、歴史的に重要な1本」として、アメリカ・ナショナルフイルムライブラリーに登録されており、この映画は当時学生だった小津安二郎に映画監督になる決意をかためさせたといわれていますが、このとき、何やらの啓示があったのかもしれません。

おそらくは、このとき安二郎少年は、ちょうど12歳のころと思われ、計画されたその人生である、12×5=60年のちょうど1スパン目が終了したときのことです。

人の一生を左右するような事件には、往々にしてあちらの世界の方々からのお導きがあることが多いといいますが、安二郎少年にもちょうどこのときあちらの世界からの何かの啓示があったのでしょう。

その後、商業の道に進んでほしいという両親の期待にこたえるべく、神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験しましたが落第。神戸の「神戸キネマ倶楽部」や地元三重の「神楽座」、その他名古屋の映画館などに入り浸って、多くの映画を観たのもこの時期です。

翌年の1922年(大正11年)に今度は三重師範学校(現在の三重大学教育学部)を受験しましが、この受験も失敗に終わります。両親は「二浪するよりはまっとうな仕事についてほしい」と考えたため、小津は三重県飯南郡(現在の松阪市飯高町)にある宮前尋常高等小学校(現存せず)に代用教員として赴任することにしました。

しかし、映画への愛着を捨てられず、この教員生活はわずか1年で終わります。教員をやめ、このころ東京に戻っていた家族の元へ帰りました。父親は初め、どうしても映画の仕事をしたいという小津の希望を聞かなかったそうですが、その熱意に負け、最終的にこれを認めました。

こうして小津は叔父が地所を貸していて縁のあった松竹蒲田撮影所に入社することになりましたが、この松竹蒲田はその後、現代劇の製作スタジオとして次々と優れた作品を生み出していく名撮影所となります。

俳優研究所も併設しており、ここからその後たびたび小津作品にも登場することになる、笠智衆ら新時代の映画俳優たちが生み出されていきました。撮影助手時代の小津はまず碧川道夫や酒井健三といったカメラマンの下につき、監督としては島津保次郎や牛原虚彦について映画製作を学んでいきました。

21歳のとき、当時の徴兵制度に従って一年志願兵として入隊しましたが、すぐ一年後の1925年(大正14年)に除隊しました。職場に復帰した小津は助監督として大久保忠素監督のもとにつき、現場で映画製作のノウハウを体得しながら、監督としての要件を学んでいきましたが、とくに監督として必須の作業とされたシナリオ執筆に励みました。

そのうちの一本「瓦版カチカチ山」が撮影所幹部の目にとまり、1927年8月、「監督ヲ命ズ、但シ時代劇部」という辞令によって、ようやく小津は子供のころからの念願の監督昇進を果たします。

特筆すべきは、この年、小津安二郎24歳であり、12×5=60年のその生涯において、ツースパン目が終わる時にその計画された一生の目的の一つが果たされたことでした。

こうして小津は初監督作「懺悔の刃」をクランクインしましたが、この映画は小津の長い監督歴の中で唯一の時代劇作品でした。

小津は撮影スケジュールの調整から初めて、セットづくり、俳優への演技指導と映画のすべての部分に気を配らないと気が済まないタイプの映画監督でしたが、念願の監督になったわけであり、20代前半とまだまだ若かったこの頃の彼は充実した毎日を過ごしたようです。

1927年には、松竹の時代劇部が京都に移転したため、蒲田撮影所は現代劇に特化することになりました。小津もこの方針に沿って次々に作品をつくりあげていきますが、このころには年間5本もの早いペースで撮影をこなしており、「一年一作」となった戦後の小津からは考えられないハイペースな製作でした。

1930年(昭和5年)には、これが1年間製作の最高本数になる7本の映画を作り上げていますが、翌年になると世界恐慌の影響もあって製作本数が減少、同年は3本、さらに20代最後の年の1932年(昭和7年)には4本の製作にとどまりました。

この時代から小津は「小市民映画」と呼ばれるジャンルにおける第一人者とみなされるようになっており、批評家からも高い評価を得るようになっていました。

1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。このころから日本はその後の暗い時代に突入していきます。34歳になっていた小津は、京都から東京に移って東宝で監督業をしていた親友の山中貞雄にも召集がかかったことで、身近にも迫る戦争の暗い影を感じ取るようになります。

この年の9月、小津にも召集がかかりましたが、迷うことなくも応召し、大阪から出航して中国戦線に向かいました。かつて志願兵として入隊した経験があったことから、小津は第二中隊に属する第三小隊で班長を務め、このとき伍長に昇進しました。

小津の部隊は南京総攻撃には間に合わず、陥落後の南京を越えて奥地へと進軍しました。6月には伍長から軍曹に昇進して漢口作戦に従事、以後も各地を転戦しました。1939年(昭和14年)6月、九江で帰還命令を受けて7月13日に神戸へ上陸、原隊に復帰して除隊しました。1年10ヶ月におよぶ戦場暮らしでした。

日本に帰った小津は、その翌年、36歳。これで人生の3スパン目が終了したわけで、このときは、長い戦場生活から解放されての休息のときであり、彼の人生にとってはまたしても節目の年だったことになります。

復帰第1作として1941年(昭和16年)に「戸田家の兄妹」をつくりました。この映画は小津作品として初めての大ヒットとなりました。

それ以前では1932年から1934年まで作品が3年連続キネマ旬報ベストテン第1位となるなど批評家からの評価は高かったものの、興行的な成功にはなかなか恵まれていなかったこともあり、小津にとっては大きな自信となりました。

しかし、次に取り組んだ作品「父ありき」(1942年4月公開)製作中に日米が開戦。1943年6月、小津は今度は軍報道部映画班に徴集されて福岡の雁の巣飛行場から軍用機でシンガポールへ向かいます。

シンガポールでは「オン・トゥー・デリー」という仮題のつけられたチャンドラ・ボースの活躍を映画化したものの製作に取り掛かりましたが、完成しませんでした。そしてこのシンガポールで終戦を迎えることになりましたが、同地では「映写機の検査」の名目で大量のアメリカ映画を見ることができたといいます。

その中には「嵐が丘」、「北西への道」、「レベッカ」、「わが谷は緑なりき」、「ファンタジア」、「風と共に去りぬ」、「市民ケーン」などが含まれていました。

やがて帰国。戦後すぐには脱力感に襲われ、なかなかメガホンを取る気にならない小津でしたが、度重なる催促に重い腰を上げて1947年(昭和22年)になってようやく戦後第1作「長屋紳士録」をつくりあげました。さらに2年後の1949年(昭和24年)、原節子を初めて迎えた作品「晩春」を発表。

この作品は、独自の撮影スタイルの徹底、伝統的な日本の美への追求、野田高梧との共同執筆、原節子と笠智衆の起用でいわゆる「小津調」の完成形を示し、戦後の小津作品のマイルストーンとなりました。さらに1951年(昭和26年)の「麦秋」が芸術祭文部大臣賞を受賞、これによって名監督としての評価を決定的なものとしました。

このとき小津48歳。ちょうど人生の4スパン目が終了したときでした。

その翌年、戦前に検閲ではねられた「お茶漬の味」を改稿し、このとき完成しなかったシナリオをもう一度練り直して作られたのが、名作中の名作といわれる「東京物語」(1953年(昭和28年))です。原節子と笠智衆をメインに据え、家族のあり方を問うたこの作品は小津の映画人生の集大成であり、誰に聞いても彼の代表作と言われるものです。

1958年(昭和33年)、10月にはこの「東京物語」が英国サザーランド賞を受賞。「彼岸花」で3度目の芸術祭文部大臣賞、さらにこれらの功績により紫綬褒章を受章しました。1959年(昭和34年)3月、映画人として初めて日本芸術院賞を受賞。小津56歳。

1960年(昭和35年)には芸術選奨文部大臣賞を受賞し、1962年(昭和37年)には、芸術院会員に映画監督としてただ一人選出されます。

1963年(昭和38年)を迎えた小津は、初めてテレビ用に書き下ろしたNHKのドラマシナリオ「青春放課後」を書きます。しかし、その直後に体調に異変を感じ、同年4月にがんセンターで手術を受けました。

その後、いったん退院しましたが、10月に東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院、12月12日自身の還暦の日、午後12時40分に逝去しました。60歳没。予定通り、その12×5年の人生をきっちりと終えました。生涯独身だったそうです。

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小津作品というと一般的に伝統的な日本文化の世界と捉えられがちですが、初期の小津はハリウッド映画、影響を強く受けた作品を撮っており、たとえば「非常線の女」(1933年)には、英語のポスターや磨き上げられた高級車、洋館ばかりの風景など当時のハリウッドのギャング映画さながらの世界が再現されています。

こうしたアメリカの影響を受けることになったのは、やはり上述のようにアメリカ映画「シヴィリゼーション」を幼いころにみたことが大きかっでしょう。このころまだ少年だった小津は絵が上手で、このころ既に、ベス単やブローニーといった当時の最新カメラを操る芸術家肌の少年だったといいます。

このブローニー(Brownie)というのは、フィルムのことだと思っている人も多いと思いますが、元はコダックが製造販売した写真機のシリーズ名です。ロールフィルムを用いた最初の「ブローニー写真機」は、1900年(明治33年)に発売されました。

これは「ザ・ブローニー(ブローニーNo.1)」と呼ばれ、画面サイズ「6×9cm判」の「117フィルム」を使用したものでした。その後日本にも導入されましたが、その最初のブローニーカメラが120フィルムを使用するものだったためか、日本では「ブローニー」ということばがこれに使われる120フィルムの名称や220フィルムを指すようになりました。

この120や220フィルムなどは、いまだに中判カメラ用のフィルムとして世界的にも流通していますが、日本人がブローニーと呼ぶのは和製英語であり、世界的には通用しません。

この「ザ・ブローニー」を開発したコダックは、世界で初めてロールフィルムおよびカラーフィルムを発売したメーカーとして知られています。また、世界で初めてデジタルカメラを開発したメーカーでもあり、本社はニューヨーク州ロチェスターにあります。

写真関連製品の分野で高いシェアを占めることで知られるほか、映画用フィルム、デジタル画像機器などの事業も行っています。が、自らが開発したデジタルカメラによってフィルムなどが売れなくなり、またその後自社でのデジタルカメラの開発はうまくいかず、このため日本のカメラメーカーに市場を席巻されて業績不振に陥りました。

2012年(平成24年)には、日本の会社更生法にあたる、アメリカ連邦倒産法第11章の適用をニューヨークの裁判所に申請。このとき、アカデミー賞授賞式会場でもある、コダック・シアターからコダックの名を削除するという憂き目にもあいました。

日本では医薬品や写真材料等の卸売事業を中心として社業を展開していた「長瀬産業」と提携して、1981年(昭和56年)に日本法人を設立後、1986年(昭和61年)に長瀬と統合してコダック・ナガセ株式会社を設立しました。が、1989年(平成元年)に提携関係を解消。

「日本コダック」になった1993年(平成5年)には、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)のユニフォームスポンサーを1998年まで務め、また、Jリーグオールスターサッカーのスポンサーを1998年まで努めるなど、一時期は羽振りがよかったようです。しかし、アメリカ本社が斜陽になると、やがてその影響を受けるようになりました。

アメリカ本社が連邦倒産法第11章の申請を受理されて会社存続が決まった2013年(平成25年)には2009年(平成21年)にコダック株式会社へ商号変更していたものを再度変え、「コダック合同会社(Kodak Japan, Ltd.)となり、アメリカのイーストマン・コダックの日本法人、同社の完全子会社となりました。

最近、コダックのカメラやフィルムが市場から見えなくなっていたな、と思う人が多いと思いますが、以上のように、この会社のここ10数年ほどの間には、こうした紆余曲折があったわけです。

そのイーストマンコダック社は、もともとジョージ・イーストマンによって1880年(明治13年)に創業された写真乾板製造会社でした。彼は、1854年、ニューヨーク州ウォータービルで、両親がここに購入した10エーカーの農場の末っ子として生まれました。

貧しかったため、ほとんど独学で学びましたが、8歳になるとロチェスターの私立学校に通い始めました。13歳のとき、父が脳障害で死去。ジョージはこの頃通っていた高校をやめ、働き始めます。20歳のころ写真に興味を持ちましたが、この当時の写真はまだガラス板に感光乳剤を塗って、乾く前に撮影する方法でした。

その後写真の研究に没頭するようになり、25歳のころ、苦労の末についに乾式の写真板(乾板)を開発し、イギリスとアメリカでの特許を取得。1880年に写真の事業を始めました。さらに1884年には、写真の基材をガラスから乳剤を塗ったロール紙に換える特許を取得しました。

34歳になった1888年にロールフィルム・カメラの特許を取得。「あなたはシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります(”You press the button, we do the rest”)」の宣伝文句は一大センセーションを起こしました。

無論、宣伝文句も人々の心をつかむものでしたが、商品にも独特の工夫があり、これは顧客はカメラを送り返して10ドルを払えば、フィルムを現像し100枚の写真と新しいフィルムを装填してくれる、という斬新なもので、この新システムで彼はアメリカの写真市場を席巻するようになっていきました。

1888年9月4日、イーストマンはコダックの商標を取得し、世界最初のロールフィルムカメラ「No.1コダック」を発売。翌年の1889年にはセルロースを使った透明な写真フィルムを発明。1896年までにこれを搭載した100台のコダックのカメラが売れたといいます。

しかし、商業的にはまだ成功したとはいえなかったため、イーストマンは更に知恵をめぐらせ、1900年にはブローニーシリーズを1ドルで発売する、という大ばくちを打ちます。そしてこれは大ヒットを飛ばし、以後、アメリカの隅々にまで写真とカメラが行きわたるようになり、写真という新しい文化を一気に開花させることとなりました。

その後、コダック社はイーストマンの指導のもと、1921年には「シネコダック」と称して、同社初の小型映画の規格「16mmフィルム」を発表。これは、その後世界的にも普及することになる「8ミリ」の原型ともなり、小型カメラにおける嚆矢となりました。

1925年、71歳になったイーストマンはさすがによる年波には勝てず、引退。しかし、経営には死去まで関与し続け、特に研究開発部門の社員には影響を与え続けました。ブローニーシリーズが大ヒットして会社が大きくなった1911年には、Eastman Trust and Savings Bankという銀行を創設して金融業にも乗り出しましたが、これに対して社員は組合を作って反発しました。

イーストマン自身はこれを快く思っておらず組合活動を抑制しようとしたようですが、しかし、従業員の福利厚生の充実を図るなど、会社の発展には努力を惜しみませんでした。

抜け目のない実業家でもあり、カメラ業界の競争が激しくなってきたとき、フィルム製造に重心を移したことは、その後のコダック社の発展に大きく寄与しました。

高品質のフィルムを大量生産することで他のカメラ製造業者を事実上のビジネスパートナーに転換することができたわけであり、このシステムを真似たのが、日本の富士フィルムだといわれています。

引退後の、1932年(昭和7年)、イーストマンが78歳の年、コダックは、「シネコダック8」として、のちに「ダブル8」と呼ばれる小型映画の規格を発表。これはのちの8ミリの原型となります。このころから脊椎管狭窄症と見られる症状に苦しむようになり、立つことも難しく、すり足でゆっくりとしか歩けなくなりました。

イーストマンはこれに先立つ53歳のとき、母がを亡くしていますが、彼女の存在は彼の人生の大きな部分を占めており、その死はジョージに大きな衝撃を与えました。この母は晩年に子宮がんの手術を受けていますが、手術は成功したものの最晩年の2年間は車椅子を使用しており、この母親も同じ脊椎管狭窄症だったかもしれないと言われています。

イーストマンはこの母が晩年に苦しむ様子を目にしており、自らも彼女と同じような症状を発したことから、次第に強まる痛みに不安を覚え、身体の衰えからますます憂鬱になっていったようです。

そして、ついにその苦しみに耐えられなくなったのか、1932年3月14日に自邸でピストル自殺。その77年の生涯を終えました。遺書には、To my Friends, My work is done. Why wait? (私の仕事は終わった。友よ、なぜ待つのか?)と書かれていました。

小津安二郎の生涯が計画通りのものだったとすれば、イーストマンの一生は、ハプニングだらけのものだったようにも思え、ことさら対比して考えてしまいます。

次々と特許を取得して発明家としての一面をも持っていた彼は、日常の中の思いがけない出来事に発想を得るようなタイプの人物ではなかったかと推察されますが、その死もまた突拍子もないものでした。。

イーストマンは、早くから慈善家として知られており、早くからフィランソロピー活動を始めています。日本では聞き慣れないことばですが、このフィランソロピー(Philanthropy)活動とは、基本的な意味では、人類への愛にもとづいて、人々の「well being」、つまり、幸福、健康等を改善することを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指します。

あるいは慈善的な目的を援助するために、時間、労力、金銭、物品などをささげる行為のことであり、日本語では「慈善活動」「博愛」「人類愛」などとも呼ばれ、日本的には「チャリティー」に近いでしょうか。

philanthropyというのは、ギリシャ語のphilosフィロス(=愛、愛すること)と、ánthrōposアントロポス(=人類)という言葉から成っている表現であり、基本的に「人類を愛すること」という意味があり、フィランソロピーを実践している人はフィランソロピストと呼ばれます。日本語で「篤志家」という呼び方もするようです。

そのフィランソロピストであったコダックは、莫大な事業の収益の一部を教育機関や医療機関の創設にあてており、例えば、1901年にはロチェスター工科大学の前身である力学研究所に62万5千ドルを寄付しているほか、1900年代初めには他にマサチューセッツ工科大学に寄付し、同大学のキャンパス建設なども支援しています。

さらには、生まれ育ったロチェスターやマサチューセッツ州ケンブリッジ、南部の黒人を受け入れている2つの大学、ヨーロッパ各地の都市などの様々なプロジェクトに1億ドル以上を寄付しているほか、無料で歯科診療を行うイーストマン歯科診療所創設の資金を提供やロチェスター大学のイーストマン音楽学校の創設資金を寄付しています。

また、ロチェスター大学の医歯学部の創設資金を寄付したほか、1915年にはロチェスターにてCenter for Governmental Researchという地方自治の研究施設を創設しており、特に医療機関創設に尽力した彼が施した慈善活動の数は枚挙のいとまがありません。

1925年に引退宣言をしてからはとくにこの慈善活動に注力するようになり、アンドリュー・カーネギーやジョン・ロックフェラーに次ぐ篤志家として知られるようになりましたが、けっしてそれを宣伝に利用しようとはしませんでした。さらに晩年の1926年から亡くなるまでには、アメリカ優生学協会に毎年22,050ドルを寄付しています。

その生前の総寄付額は、1億ドルともいわれており、その大部分はロチェスター大学とマサチューセッツ工科大学に対して贈られたものであるため、ロチェスター工科大学にはイーストマンの寄付と支援を記念して彼の名を冠した建物があります。

また、MITでは、記念銘板が設置されており、浮き彫りになった肖像の鼻を触ると幸運が訪れるという言い伝えがあるそうです。

死後、その遺産もまたロチェスター大学に全額遺贈されました。同大学にはイーストマンの名を冠した中庭もあります。ロチェスターにあるイーストマンの住んでいた家は1949年、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真映画博物館として開館され、アメリカ合衆国国定歴史建造物にも指定されています。

小津安二郎の人生が、12×5年、60年きっちりと生きることが目的だったとすれば、イーストマンの一生は、自分で稼いだ金でもって、人に奉仕する、ということろが目的だったような気がします。

彼の死後、彼が創業したコダック社は1965年(昭和40年)新しい小型映画の規格「スーパー8」を発表。1932年(昭和7年)に発表されたダブル8の改良版として発売されました。

ダブル8との相違点はパーフォレーションを小さくし、その分、画像面積を約1.5倍に拡大、また16コマ/毎秒が標準であったフィルム走行速度を18コマ/毎秒と早めたこと、さらに高級機種においては24コマ/毎秒という商業映画と同じ滑らかな動きの撮影・映写を可能としたことなどでした。

一般ユーザー向けの製品であり、この2年前の1963年(昭和38年)に亡くなっていた小津は無論使っていませんが、これ以前にコダック社が開発した数々の映画製作用カメラは当然、小津も使っていたはずです。

1921年(大正10年)にシネコダックとして、小型映画の規格として制定された「16mmフィルム」や、1932年(昭和7年)のシネコダック8として、のちに「ダブル8」といった小型映画の規格は、小津も携わった映画製作にも少なからず影響を与えたでしょう。

今日は、映画監督と実業家という、まったく別の人生を歩んだ二人の生涯についてみてきたわけですが、縁もゆかりもなさそうに見えるこの二人の間にも、「カメラ」という共通点があったことになります。

まさか、小津の命日である12月12日が、ジョージ・イーストマンの命日と同じ、などということはないよな、と調べてみたところ、イーストマンの命日は1932年3月14日でした。

が、ここであっ、と思ったのはその生まれは、1854年7月12日であり、月こそ違え、誕生日は小津安二郎と一緒です。

もしかしたら、前世からの因縁のある二人だったかもしれず、それならば今ごろあの世で一緒の二人はきっと、また映画や写真などの映像技術の開発に関わっているかも、などと想像してしまいます。

さて、今年も嫁の誕生日が近づいてきました。今年は何をねだられることでしょう。

オハイオ川を越えて

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最近、ネットを中心として、古い写真を集めています。

その理由は、自分も写真をやっており、より美しい表現とは何かを探求していく上において参考にすべきものも多いためですが、もうひとつ、こうした古い過去の映像というものは、もう二度と見れないものであり、その昔の世界を垣間見ることによる、一種のタイムスリップ感覚を感じることができる、ということは大きいと思います。

現在にまで伝えられて残っているものも多く、それを見聞きすればそれで十分ではないかという向きもあるでしょう。

が、100年以上も前の一枚の写真に写っているものが、例えば建築物であればそれが建造された当時の初々しい様子を伝えてくれ、またそこに写りこんでいる人々はもうすでに亡くなっているわけで、二度と取戻しがきかないものばかりであり、現在もう見れなくなっているこれらを実際に目で見て確認できるというのは素晴らしいことです。

それを写した写真によってその当時の様子を推測できる、という歴史学的な価値もあるでしょうし、希少なこうした写真を単に見て感銘を受けるだけでなく、その写真そのものが失われてしまう前に保全することというのは、デジタル技術が発達してそれが容易になったこの時代においてはとくに重要なテーマではないでしょうか。

この写真というものは、19世紀のはじめに発明されて以降、一般大衆に広まるのは1884年に、ニューヨークのジョージ・イーストマンという人が、現在のフィルムの原型となる、紙に感光材料を塗布する方式を開発してからのことになります。

翌年の1885年に紙フィルムを製造し始め、3年後の1888年7月、イーストマンの設立したコダックカメラ、すなわち、「イーストマン・コダック」が、「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」との触れ込みでセルロイドフィルムを導入した新式のカメラを発売しました。

この結果、その後は現像サービス企業なるものが登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなりました。

さらに、1900年に、イーストマンはスナップショットの概念を提供した単純で非常に安価な箱型カメラ「ブローニー」を発売すると、これも大人気を博し、以後、同様なものが改良・開発され、アメリカにおいては写真といえば最も身近な娯楽となっていきました。

ただ、残念なことに、こうした初期のころの写真はすべてが白黒写真であり、カラー写真が普及するのは、1930年代に多層乳剤方式のカラーフィルムが同じコダック社で開発されて以降のことになります。

とまれ、このカメラによって、アメリカではさらに写真の大衆化が更に進むと同時に、様々なカメラが次々と発売にされるようになったため、アメリカでは1900年代に入ってから素人さんが残した写真はゴマンとあります。

対する日本においては、1894年(明治27年)、日清戦争において陸軍の従軍写真班のカメラマンが、従来の乾板に代わりフィルムを使用した撮影を行ったのがフィルム使用の最初ではないかといわれているようです。

しかし、アメリカにおいて写真は一般大衆化し、日常の生活の様子などを記録・撮影したスナップ写真などが普通の人に撮られたのに対し、日本では、いわゆる「芸術写真」としての普及のほうが進み、とくに1900年頃から1930年代にかけては、ごく一部の愛好家による絵画的な写真ばかりが撮られました。

この日本における芸術写真は、欧米のピクトリアリスムの大きな影響を受けつつも、日本画的要素を取り入れ、特に自然を撮影した風景写真に特化したモノが多く、また日本人らしく叙情性を重視するといった独自な特徴を持っています。

ただ、日本ではこの当時カメラそのものが大変高価なものであっために、お金持ちしか所有できず、普通の人が気軽に写真を撮る、ということはなかなかにできませんでした。

従って、公共的な建物や風景、軍艦や飛行機などの軍事的なものは記録写真として数多く残されているものの、この年代の一般大衆の様子を撮影したものは、日本においてはかなり少ないわけです。

これに対して、アメリカの1900年代の写真というのは、本当にありとあらゆる分野のものが残っており、これは安価なカメラを手にした庶民が残したものが多いということもありますが、一方では「写真家」なる人々も多数輩出され、また出版社などもこぞってこの時代のアメリカを撮影したものを雑誌など掲載したことも寄与しています。

例えば、冒頭の美しい写真は、アメリカの五大湖に隣接する町、デトロイトに本拠を置いた、デトロイト・パブリッシング・カンパニーという出版社が撮影したものであり、この会社では雑誌向けの写真を提供するために多数の有名写真家を抱え、主に米国北東部における25,000枚以上の風物の写真を残しています。

この写真はそのうちの一枚ですが、アメリカ東部・五大湖のうちのエリー湖の南側に位置する、オハイオ州の南西部にある街、シンシナティ市内を流れる、「オハイオ川」を航行する外輪船の写真です。

100年以上前の写真であるため、原本はカビだらけであり、あちこちに傷が入っていたものを、私のラボで最新のデジタルソフトを使って修復したものです。

はっきりとした撮影年はわからないようですが、1900年から1920年の間のいずれかの年に撮影されたということであり、右手奥に見えるのがシンシナティの町のようです。

オハイオ川に蒸気船が就航したのは、1811年のことだったそうで、さらに南北戦争が終結するのは1865年のことですから、この写真が撮影されたのはこの戦争による痛手もようやく癒え、シンシナティが工業都市として発展を続け始めたころの写真でしょう。

アメリカ合衆国拠点都市のひとつであり、総人口は32万弱の中堅都市です。日本人にはあまりなじみのない街かもしれませんが、プロクター・アンド・ギャンブル、すなわちP&Gの本社がある町であり、この会社の製品である、紙おむつのパンパース、化粧品のマックスファクターなどの名を聞くと、あぁあれか~という人も多いでしょう。

野球の大リーグのチーム、シンシナティ・レッズの本拠地でもあり、このチームにこれまでに日本人は所属したことはないようですが、最近は日米野球や米大リーグの試合などの模様がよく放送されるので、こうした機会にシンシナティの名を耳にする人も多いことでしょう。

このシンシナティの市域は、この当時の大統領ジョージ•ワシントンの指示により、その部下たちによって買収・開発され、創設は1788年です。市名は古代ローマの政治家で執政官と独裁官を務めたキンキナトゥス(Cincinnatus)という共和政ローマ前期に登場する伝説的人物にちなんでおり、この名の意味は、彼の特徴である「巻き毛」のことだそうです。

学と勇がある人だったようですが、普段は農業をやり、農民のような暮らしをしていたようで、当時ローマは対外的に周辺部族と緊張関係にありましたが、この外敵が攻めてくると、キンキナトゥスは元老院より独裁官に指名され、ローマ軍を率いてこの敵を打ち破りました。

しかし、敵を打ち破ると、独裁官の任期が半年もあるにもかかわらず、たった16日間でその地位を返上してまたもとの農民に戻ってしまったそうです。ところが、今度はローマにおいて平民階級による反乱がおこり、このときにもキンキナトゥスは独裁官に就任するよう要請されました。

そしてこのときも、反乱を抑えますが、この戦いが終わると再びその地位を返上して農作業を行う身に戻ったといい、こうした彼の謙虚な行動は広くローマ中に広まるとともに、その人徳はその後もローマ社会で長く語り継がれるようになっていきました。

あくまで伝説の域を出ない話のようなので、本当に実在した人物かどかも怪しいところではあるのですが、このローマの偉人の名を冠することになったシンシナティは、アメリカ北東部、五大湖のすぐ南東のオハイオ州にあります。

また、その東側のペンシルバニア州ピッツバーグに端を発し、ここからアメリカ中部に向かって南西部に向かって流れる「オハイオ川」の中流に位置します。

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オハイオ川の流域面積は490,603平方キロもあり、これは日本国土の約1.3倍にあたります。その流域はアメリカ合衆国中東部の大部分を占め、南部諸州にもかかりますが、実はアメリカ中央部を南北に流れる「ミシシッピー川」の支流でもあります。

このミシシッピー川の流域面積は3,250,000平方キロとオハイオ川のおよそ7倍にもなり、全長は3779kmで、これはアメリカ合衆国内においては一番長い川です。

かつては世界最長の川と考えられていたそうですが、アメリカ大陸を南北に貫いているため、鉄道が敷かれるまでは、水運を担う重要な水路となっていた時期があり、冒頭の写真にもあるような蒸気船が航行する姿はアメリカ発展史における象徴的存在でした。

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その支流である、オハイオ川もまた、アメリカ開拓時代には、重要な水路として機能し、その水量は、ミシシッピ川の全支流中最大の水量を有します。またその流路のほとんどは現在のペンシルベニア州、オハイオ州、ウェストバージニア州、ケンタッキー州、インディアナ州、イリノイ州などのアメリカ中東部の主要な州の州境を形成しています。

ヨーロッパ人が入植するはるか以前から、オハイオ川はネイティブ・アメリカンたちにとっての重要な水上交通路でしたが、ヨーロッパからの入植者たちにとっても西へと流れるこのオハイオ川は、アメリカ中西部開拓のために都合の良い川でした。

入植者たちはこの川を利用してペンシルベニア植民地西部から下流である南西部へと船を進め、ミシシッピ川との合流点に達すると、今度はここからミシシッピー川を北上して、ミズーリ川とミシシッピ川が合流するセントルイスを目指しました。

このあたりのことは、地図を見ながらでないとなかなかわかりにくいのですが、このミシシッピー川の支流であり、かつ数ある支流の中でも最大の流域面積を誇るこのミズーリ川は西側に位置するロッキー山脈が源流です。そしてこのロッキー山脈を越えればもうそこはアメリカ西部の州であるユタ州やネバダ州です。

その先には太平洋に面するカリフォルニア州がある、というわけで、つまりアメリカ東部からオハイオ州を下り、ミシシッピ川とミズーリ川を遡ることで、入植者たちははるばると西部へとその開拓の駒を進めることができたわけです。

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したがって、その旅の発端ともなるオハイオ川というのは非常に重要な川であり、アメリカの開拓が始まったすぐの18世紀末から19世紀にかけてはもうすでに、オハイオ川では通商目的の船が行き来していました。

ただ、この頃はまだ主に竜骨船が用いられており、19世紀初頭、河岸のイリノイ州ケイブ・イン・ロック(Cave-In-Rock)には、海賊の本拠が置かれ、海賊たちはこの竜骨船を操っては川を行き交う船を襲い、乗組員を殺して積荷を奪い、その船を川に沈めていたそうです。

オハイオ川を下りきった船は、ミシシッピ川の合流点からさらに南下して、アメリカ南部の海岸にまで達することもでき、その末端にあるニューオーリンズの港もまたその後、中南米との交易港として発展しました。

ニューオーリンズからさらにメキシコ湾を渡れば、南アメリカ大陸のほかの港へ達することもでき、ここからヨーロッパへと船を進めることも可能でした。このように、とくにアメリカ中央部におけるオハイオ川とミシシッピー川の役割は特に重要であり、この二つの川における水上交通の発達により、アメリカは発展したと言っても過言ではないでしょう。

入植した白人はその河岸にいくつもの河港をつくり、都市を建設して水上交通の拠点とし、流域の豊富な鉄鉱石や石炭を利用して産業を興しましたが、とくにオハイオ川の中流域にあるシンシナティ周辺では石炭がたくさん採れたことから、古くからその交易都市として栄えました。

畜産業における集散地でもあったため、「豚肉の町」とも呼ばれていた時代もあったようですが、その後石炭交易のほうが中心となり、今日でも工業都市として知られるほど各種の工業が興りました。P&G以外では、機械、鉄鋼、化学、食品工業の大手企業がここにひしめきあっており、更に近年ではIT産業や出版・印刷業も発達してきています。

外国籍企業の進出も多く、日系自動車企業の工場も比較的近距離の他州にあるため、多くの日系企業もシンシナティや周辺他地域に点在しています。こんなところに日本人がいるのかと思う人も多いでしょうが、日本人補習校が成り立っているくらい相当数の日本人が住んでいるということです。

このシンシナティはまた、南北戦争前は、南部から逃亡してオハイオ川を渡った黒人奴隷をさらに北へ逃がす組織が拠点を置く重要な町でもあり、南部の黒人奴隷にとってこの川を渡ることは「自由への道」を意味していました。

アメリカではこの黒人奴隷の扱いをめぐって、これに反対する北部の州と南部の州が争い、その後南北戦争という市民戦争が勃発したわけですが、オハイオ川から北のオハイオ、インディアナ、イリノイなどの北部各州は奴隷制度反対の州でした。

一方、ここから南の州は奴隷制度促進派であり、このため両者の境界線であるこの川は、そのまま北部の自由州と南部の奴隷州の境界線でした。

南部の黒人奴隷たちは自由を求めてこの川を船で渡りましたが、冬季にはこの川は凍るため、徒歩でまたは橇で渡ってこれら3州へ逃げ込みました。特にオハイオ州の河岸には、こうして川を渡ってきた奴隷たちをかくまう、「地下鉄道」と呼ばれる秘密組織の拠点となっていた町がいくつも存在していました。

これらの地下鉄道の運動家に助けられた彼等は、これらの諸州に居着くことも多かったようですが、白人の迫害を決して受けない自由な大地を求めてさらに北へ、時にはカナダへまで逃げ込むことも多かったようです。

この「地下鉄道」は英語では、Underground Railroadと表記されますが、鉄道に例えられてできた用語であり、この用語を使えば、一見普通の鉄道について会話しているように聞こえるため、秘密を守るために使われるようになったようです。

組織内には隠語があり、例えば車掌(conductors)は、奴隷たちを誘導した人々であり、駅、停車場(stations)といえば、奴隷の隠れ家、駅長(stationmasters)とは、自分の家に奴隷をかくまった人々であり、乗客(passengers)、貨物(cargo)とは、逃亡中の奴隷たちを指す言葉でした。

さらに奴隷たちは「切符」(ticket)を入手しなければならなかったといい、これはおそらく、匿う人が組織内での誰であるか、何をしている人であるか、といった内部事情の知識などのことだったかと思われ、友達のいる友達(a friend with friends)という秘密の合い言葉の「友達」とは黒人そのものであり、またその庇護者の白人でもあるわけです。

地下鉄道は主に、秘密の通過道、乗り物、待ち合わせ場所、隠れ家、そして奴隷制度廃止論者たちによる誘導や補助で構成されており、奴隷制度廃止論者たちは、地域ごとの小さな班に分けられ、自分たちの地域だけにおける地下鉄道の詳細な情報を知るという慣わしでした。

ひとつの「停車駅」から次の「停車駅」へ、黒人たちは停止地点ごとに違う人々の補助を借りて目的地まで進みましたが、これによって、誰ひとりとして逃亡中の奴隷たちの目的地までの道のりの全容を知ることがなく、地下鉄道の秘密と奴隷たちの安全が確保されました。

秘密を守るため、隣り合った「停車駅」同士は、親戚の関係でつながっていたということも多かったといい、奴隷制度廃止論者である白人、生まれつき奴隷でない「自由黒人」、過去に奴隷だった黒人、そしてアメリカ先住民などの人種に属する人々が、この「線路」上で「車掌」として、逃亡中の黒人たちを手助け・誘導しました。

フレンド会、会衆派教会、メソジスト教会、バプテスト教会などの宗教的な機関も、この地下鉄道に大きく貢献したといい、また、奴隷制度廃止派の考えは書物、新聞などを通して出版され、合衆国中に広められていきました。

逃亡中、奴隷たちは通常、昼間は隠れ家にかくまってもらい、夜中に次の「停車駅」へと旅をしましたが、ただし、毎晩、泊まる所があったわけではなく、森や沼地に隠れなければならないこともありました。

本当の鉄道を利用して逃げようとした奴隷もまれにいたようですが、通常は歩いたり荷車で移動し、捕まえようとする追っ手を撒くために、うねりくねった経路をたどりました。逃亡者の大多数が、40歳以下の農民の男だったと言われていますが、これは逃亡の旅道は、女性や子供には険しく危険すぎたためです。

ただ、地下鉄道を通して逃亡し自由な生活を確立した奴隷たちは、その後自分たちの妻や子供を主人から買い取り、その後一緒に暮らせることもあったといい、奴隷制度も末期になるとかなりタガは緩んでいたようです。

ただ、そうした物分かりの良い主人ばかりではなく、逃亡したと知るとオハイオ川などの境界にまで何が何でも奴隷を取り戻そうと追ってくる白人も多かったようです。働き盛りの屈強な黒人は、元の主人たちにとって投資した動産であり労働力であり、いったん手に入れた奴隷の逃亡は家業の衰退を招きかねなかったためです。

南部の新聞には、逃亡奴隷についての情報が頻繁に掲載され、捕まえた者には主人から賞金が出されたといい、このような賞金稼ぎを職業とした奴隷捕獲人は、遠くはカナダまで奴隷を追い、捕まえようとしました。

このように逃亡する黒人たちも必死ならば、追う者も必死であり、このため逃げる側からすれば地下鉄道の詳細な情報はけっして公的には流出してはならないものでした。このため、道筋や隠れ家の場所などの情報は全て口頭で伝えられたといいます。

こうしてこの地下鉄道が最も頻繁に「使用されていた」、1810年から1850年の間にはおよそ3万人から10万人の人がオハイオ川を越えて奴隷状態から逃れたと推測されています。

その後、奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった南北戦争(Civil War)が起こったのが、1861年、そしてそれが終結したのが1865年です。

この戦争終結によって「奴隷解放宣言」が出され、南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放されました。しかし、南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、KKKなどの過激的な黒人排除運動を生み出す土壌となりました。

南部では現在もなお、南北戦争は「北部による侵略戦争」であったと主張する白人もいるくらいで、この国における白人対黒人の構図は、まだまだ続いていきそうです。

昨今、白人警察によって黒人が虐待されたり、殺害されたりと言った事件を発端にアメリカ中が騒然となっていますが、こうして奴隷から解放されたかに見える黒人たちへの偏見は未だに続いており、このころから既に120年近くも経っているというのにその和解の道は見えていません。

現在のアメリカでもこの当時の「地下鉄道」という言葉は、黒人にとって「自由」を称揚する象徴的な表現であり、その白人至上主義反対運動においても、時として使われることがあるそうです。

ただその舞台となり、この当時奴隷解放のための象徴的存在だった~いわば東西ベルリンの壁のような~オハイオ川自体は、現在ではただ単に五大湖周辺の州と南部の州とを分ける境界線としてのみ認識されているようで、とくにここにモニュメントを作って、奴隷解放運動の拠点にしよう、というような動きはないようです。

シンシナティを初めとするアメリカ東部の町を、ビジネスだけでなく観光で訪れる日本人も増えており、オハイオ川を見る機会も増えているかと思いますが、過去に何もなかったかのように滔々と流れるこの川にもそうした歴史があったのだと認識しておくことが、この国に対して持つべき敬意のひとつかとも思います。

つくづく、一枚の写真から紐解ける歴史的事実は多いものだと実感する今日このごろです。

新党立ち上げ?

2014-1寒い夜が続くと、酒が恋しくなります。

飲みすぎは禁物なのですが、この時期になるとやはり忘年会だのクリスマスだのが続き、酒を飲む機会が増えてきます。

今のように誰でも自由に酒が買えて飲める、というのは私のような酒好きにとってはたまらなく良い時代なわけですが、その昔、アメリカにはなぜか、「禁酒法」なるものが施行されていた時代がありました。

この禁酒法が制定された背景には、19世紀末から20世紀前半にかけては欧米諸国で社会改善運動や道徳立て直し運動が起こると同時に「禁酒運動」も盛り上がりを見せたことが背景にあります。

禁酒運動の動機は運動により様々であり、政治的理由や宗教的理由などが考えられますが、政治的理由としてはアルコールによる健康への害を減らそうというものや、人心や家庭や社会の荒廃を防ごうとするもの、家庭や社会の無駄な出費を減らそうというものなどがあり、一方ではキリスト教やイスラム教など宗教上の信念に基づくものなどがあります。

ヨーロッパでは1829年にアイルランドで禁酒運動団体が発足し、1830年代にはスカンジナビア諸国、スコットランド、イングランドでも団体が発足しました。また、英国では1835年に「全国絶対禁酒教会」が発足、プロテスタント教会が集会を開き、アルコールの代替として紅茶が奨励され、紅茶が広まる、といったこともありました。

さらに19世紀後半には、スイスやドイツ、フランス、ロシアなどでもキリスト教の教職者らによる禁酒団体が成立するなど、禁酒運動はそれなりの広がりを見せましたが、アメリカのように「禁酒法」にまで踏み込んだ国はありませんでした。

しかし、なぜかアメリカでは、この禁酒運動が異様な高まりを見せ、これによる相当な圧力の下で、禁酒法が成立し、これが制定された1920年から1933年までの間は、消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が全面的に禁止されました。

この期間は、法律制定から失効まで、正確には13年10ヶ月19日7時間32分30秒間にも及んだとされ、「高貴な実験(The Noble Experiment)」とも揶揄された悪法でした。

ただ、アメリカでこの法律が施行される前には、既にいくつかの州議会では州としての禁酒法を既に立法化していました。

このうち、1881年に州憲法でアルコール飲料を禁止した最初の州であるカンザス州では、激烈な禁酒主義活動家、キャリー・ネイションという人物がバーに乱入し、客を叱って、酒のボトルを手斧でたたき割るという事件も起き、このことはアメリカ全土にセンセーションを起こしました。

この事件以前、彼女はチャールズ・グロイド博士という人物と出会い、結婚していました。ところが、このグロイドは疑いようもなく重度のアルコール中毒者であったため、敬虔なクリスチャンであった彼女はこれを理由に離婚しました。グロイドはそれから一年も経たないうちに亡くなったといいます。

彼女は後年、自分が酒との戦いに情熱を傾けるようになったのは、この失敗に終わった第一の結婚を原因だとしており、その反動もあってか、その後は熱烈な禁酒活動家になっていきました。

彼女の禁酒主義活動のやり方は、初めは単なる抗議程度でしたが、だんだんとエスカレートしてゆき、街中の飲み屋見入っていき、そこのバーテンダーに「お早うさん、魂の壊し屋さん」といった、当てつけがましい嫌みを込めた挨拶をするようになりました。

次いで、酒場の常連客に向かって手回しオルガンで賛美歌を奏でるようになっていきましたが、さらには、「天啓に従って行う行為」と称して、石塊を集めてカイオワ郡のある酒場へ赴きました。彼女はこれを「粉砕用具」と呼び、「飲んだくれの末路から皆さんを救うために参りました」と宣言し、石塊を取り出すとこの酒場にあった酒瓶に投げつけました。

こうしてこの酒場の在庫のすべてを破壊しつくし、さらに同様の方法で、彼女の住まうカイオワ郡の酒場二つを完全破壊しました。当然、器物損壊罪に問われることであり、有罪行為であるため、そのたびにシェリフが呼ばれ、彼女は逮捕されました。

が、この過激なオバハン、キャリーはその後もカイオワ郡だけでなく、カンザス州中で破壊活動を続け、そのたびに逮捕され続けた結果、こうした蛮行が実は大好きなアメリカ人の間では評判となり、逮捕記録の伸びと共にその「名声」もうなぎ上りに高まっていきました。

彼女はこうした破壊行為を大っぴらに行うようになる少し前に、デイヴィッド・A・ネイション博士という、弁護士で牧師の男と再婚していました。

ある日、カイオワでのある酒場での襲撃の後この夫が、次回は最大限の損害を与えるためにまさかりを使ってみてはどうか、と冗談を言ったところ、キャリーは「結婚以来で一番まともな助言だわ」と真顔で応えました。

上述のように、バーに乱入し、酒のボトルを手斧でたたき割るという蛮行を実行し、新聞に取り上げられて全米で話題になったのはこれからすぐのことでした。

キャリー・ネイションは大柄な女性で、身長は6フィート(180cm)近く、体重は175ポンド(80kg)近くあったといい、彼女は自らを「キリストの足元を走り、彼が好まないものに対して吠え掛かるブルドッグ」だと述べ、バーの破壊による禁酒主義の推進を「神聖なる儀式」であるとまで主張していました。

さらにキャリーは婦人を集めて「キャリー・ネイション禁酒法グループ」を組織し、他の活動家もバーに入って、歌い、祈り、マスターにアルコールを販売することを停止するよう訴えました。こうして、彼女の「活躍」は徐々に効を奏し、アメリカでは南部の州を中心とした各州および個々の郡で禁酒法が制定されるようになっていきました。

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禁酒法に与するこうした勢力は、その後1840年代から1930年代への州における地方政治の重要な勢力となっていきました。彼等の活動は民俗宗教的な性格も持っており、こうしたローカルな主教を生活の一部のようにして暮らしていた民衆の多くがやがてこの活動に加わるようになっていきました。

とくに茶商や炭酸飲料メーカーといった、アルコールに敵対する製品を販売していた業者にとっては、禁酒運動は彼等自身の販売品の売上高を増加につなげてくれる活動であり、このため、積極的に禁酒法に賛同しました。

この当時、禁酒法は「ドライ(Dry)」と呼ばれる、敬虔なプロテスタントの宗派によって支持されており、これは、飲酒に対して「ドライ」(冷ややか)な態度を示す人々、という意味であり、一方、禁酒法に反対する一部のプロテスタント宗派の人々は「ウェット」と呼ばれました。

彼等の活動はやがて政治にも影響を及ぼすほどになり、アメリカ議会においても、民主党・共和党両党共に「ドライ」・「ウェット」両派閥ができるまでになりました。1917年に前年行われた大統領選挙後に召集された議会では、「ドライ」は民主党で140:64、共和党で138:62とそれぞれ「ウェット」より多かったといい、ドライ派はそこまで勢力を伸ばしました。

このころ、アメリカにおける大手ビール製造会社のほとんどがドイツ系(アンハイザー・ブッシュ、クアーズ、ミラー、それにシュリッツなど)だったせいもあり、こうした禁酒活動の活発化により、「ビール=ドイツ=悪」と言う単純かつ悪意の満ちたイメージがまかり通るようになっていました。

このため、その後第一次世界大戦が勃発し、アメリカが帝政ドイツに宣戦布告すると、反禁酒法の主要勢力であるドイツ系アメリカ人は多くの地域で発言力を失い、抗議活動も無視されました。

また、アルコール業界内でもビール業界がウィスキーを諸悪の根源だと決め付け規制から逃れようとするなど内部での足の引っ張り合いが横行しており、「アルコール業界」として統一した動きが取れなくなるなどの要素があり、これが禁酒派を大いに勢いづかせる原因ともなっていきました。

こうして、1917年2月に米国全土で禁酒法を達成するための憲法修正決議が議会に提出され両院を通過しました。2年後の1919年にこの修正決議は48の州の内36州で批准され、同年10月には「酔いをもたらす飲料」が定義され、0.5%以上アルコールを含有しているものが規制対象となりました。

そして、1920年1月16日に修正第18条が施行され、禁酒法時代が始まり、こうして映画、「アンタッチャブル」で有名な、エリオット・ネスら合計1,520名の連邦禁酒法捜査官が飲酒を取り締まる任務に就くようになりました。

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当時アルコールは治療目的のために医師によって広く処方されていて、禁酒法の問題は医療従事者の間で論争の一つとなったため、議会は1921年にビールの薬としての効能についての公聴会を開きました。米国中の医師が禁酒法撤廃を求めてロビー活動を行ったりもしましたが、禁酒法は撤廃されることもなく、逆に薬用酒にも適用されるまでになりました。

また、禁酒法が施行されたため、アルコールの製造、販売と輸送は基本的には違法となりました。ところが、ニューヨークを例に取っても1万5千にすぎなかった酒場が、禁酒法以降は多数のもぐり酒場を生む事になって3万2千にと倍増し、これらの酒場で飲まれた酒の量も禁酒法以前の10パーセントも増加しました。

また、飲酒運転の摘発数も増え、禁酒法施行後の1年間に較べ、1927年には467パーセントもの増加をみるなど、禁酒法の導入によっていわば、社会反動ともいえる「酒ブーム」が起こりました。

ただし、禁酒法では1年につき最高200ガロン(750リットル)の「酔わない程度の」ワインとリンゴ酒が国内の果物で作ることが許可され、自身の家庭で使用するブドウを栽培するブドウ園作りは許されていました。

また、禁酒法は実はアルコールの摂取そのものは禁止しておらず、アルコールの販売だけが違法となる法律だったため、家庭でこっそり酒を飲むのは違法ではありませんでした。

それにしても販売されていない酒をどうやって入手したかですが、これは法律が施行される少し前に、多くの人が今後の飲用のためにワインと酒を買い溜めしていたためであり、いわゆる闇の酒というのはアメリカ中どこにでも存在していました。

さらに、当然この法律はアメリカ国外では何の影響も持たず、多くのアメリカ人がアルコール飲料を飲むために国境を越えるようになったため、カナダ、メキシコ、それにカリブ海などの近隣諸国の蒸留所と醸造所は大いに栄えたといいます。

そして、後年、「狂騒の20年代」として知られるようになる1920年代に入ると、酒はこれらの国から米国にますます不法に輸入されるようになり、特にシカゴのように、禁酒法をごまかす者のための避難所として有名になった地域もありました。

このシカゴにおいては、1920年までのマフィアの主な活動はギャンブルと窃盗に限られていましたが、禁酒法時代に入ってからは無許可で酒を製造販売することが大きな収入源となり、彼等を大いに繁栄させました。

アルコールのブラック・マーケットはマフィアの重要な資金源となり、彼等のギャンブルの実施などの活動資金ともなりましたが、もともとはヤクザ者であるだけにそのエネルギーを金儲けだけに使うだけでなく、他の組織との抗争にも使うようになり、このため暴力沙汰も頻繁に起こるようになっていきました。

強大なギャングは法執行機関にも取り入って彼等に賄賂を手渡して腐敗させ、最終的には恐喝するまでして、自分たちの商売を邪魔させないようにしました。

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こうしてギャングたちは酒の密輸でますます利益を上げ、と同時に、禁酒法により酒に飢えた人々の需要に答えるべく、さらに強い酒を密輸したため、とくにウィスキーなどの高濃度の酒の人気は高く、その価格は急騰しました。

アル・カポネとその敵対者バグズ・モランなどのシカゴにおいても、最も悪名高いギャングの多くは、こうした違法なアルコールの売り上げを通して何百万ドルもの大金を稼いだといわれており、その過程で他の組織を潰す必要から殺人を含む犯罪の多くが行われ、シカゴの町は荒廃していきました。

このギャング間の抗争はかなり激しいものであり、一説によるとギャングの平均寿命が禁酒法施行前は55歳だったものが、施行後には38歳にまで下がったといいます。またFBIの禁酒局捜査官もギャングとの銃撃戦で500名もの殉職者を生んでおり、この当時ギャングだけでなく市民も含めておよそ二千人以上もの人が死亡したと言われています。

しかし、市民の犠牲者が増えるようになると、さすがにこうしたマフィアをのさばらす原因にもなっている禁酒法に対する反感が広まるようになり、シカゴだけでなくその他の大都市でも次第に禁酒法の撤廃を望む意見が出るようになっていきました。

そして、1932年の大統領選挙では禁酒法が中心的争点となり、失業対策と農家救済が叫ばれる中、フランクリン・ルーズベルトがこれに加えて禁酒法の改正を訴えて勝利しました。

大統領となったルーズベルトは1933年に禁酒法の修正案に署名し、これによって重量にして3.2%、容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造・販売が許可されるようになりました。修正案に署名をしたルーズベルトは「これで私もビールを飲むという楽しい時間を持つことができるようになった」とひそかに語ったといいます。

さらに、禁酒法に関連していた憲法の条項自体も、世論の高まりにより1933年12月に廃止されることになり、これにより多くの州がこの憲法修正の批准に応じたため、この憲法改正に賛同した州では、禁酒法も違憲状態となってその役目を終えることになりました。

しかし、モルモン教徒の多いユタ州などでは、熱烈な禁酒主義者が多く、この処置への反発も高いままでした。しかし、そのユタ州議会がこの憲法修正に批准し、ユタ州が改憲を成立させた36番目の州になると、その他の禁酒に強硬な州でもこれに順応するようになりました。

ユタ州と同様に禁酒主義活動家の多かったペンシルベニア州やオハイオ州でも憲法修正案が批准され、ほとんどの州で禁酒法が撤廃されていきましたが、しかし、この憲法修正条項では、州にアルコールの輸送を制限するか、「禁止する権利を委ねる」と明記されただけであったため、憲法改定に賛同した後も禁酒法を実施し続ける州もありました。

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とくに1907年に禁酒法を作ったミシシッピ州は、その後も1966年まで禁酒法を廃止せず、最後まで禁酒法が残る州となり、さらにカンザス州では1987年まで、バーの様な屋内の中で酒類を提供することを許可せず、今日でも酒の販売を制限したり禁止する「ドライ」な郡や町が多数残っているといいます。

禁酒法が導入される前には、アルコールの税金で毎年5億ドルの税収があったといい、禁酒法は政府財源に悪影響を及ぼしました。しかし、これが廃止されたことで、再び政府は大きな財源を得ることができるようになり、しかも、マフィアの撲滅に向けての動きが加速されるかのように見えました。

実際、安価なアルコールとの販売競争に敗れ、多くの州で闇市場でのアルコールの売り上げを失った結果、一時はマフィアも鳴りをひそめ、街中での抗争も減った時期もあったようです。

しかし、禁酒法時代に大きな財力を蓄えたマフィアたちはその後も暗躍を続け、アルコール販売に代わって、賭博業、売春業、麻薬取引、などで大きな収入を得るようになり、その後1930年代には労働組合などを食い物にしてさらなる繁栄を続けていきました。

これら、マフィアの歴史については、先月掲載したブログ、「イタリア発アメリカ」に詳しいので、こちらものぞいてみてください。

このように禁酒法の存在はマフィアという勢力を大きく育てましたが、その撤廃によっても彼等の消滅は実現しませんでした。また、禁酒法は、その施行により民間の企業に大きな影響を与えましたが、とくに大きな影響を受けたのは、誰あろう、アルコール醸造業界でした。

長期にわたって、アルコールの販売が禁止された結果、廃業に追い込まれた業者も少なくありませんでしたが、なによりも長期にわたって蔵元が閉鎖されたため、禁酒法の撤廃後もウィスキー造りなどでは酒造りに必要なピートの調達が間に合わず、ブレンド用の酒が不足するなどの影響が出ました。

しかし、禁酒法が廃止された後、かつて存在していた醸造所の半分だけは営業を再開することができ、以後は現在でも米国で主流となっている新たなブランドのビールなども作られるようになりました。

バドワイザーやクアーズなどに見られるようなアメリカンラガースタイルのビールがそれであり、ほかにもバーボンやウィスキーなどの新ブランドが次々と新しく生産されるようになっていきました。

しかし、ビールやウィスキーはともかく、禁酒法以前に未熟ながらも育ちつつあったワイン産業はほとんど壊滅状態になっていました。禁酒法の導入により生産性の高いワイン品質のブドウの木は、家庭醸造用販売のための輸送に適した実の皮の厚い低級品質の品種と取り替えられたためであり、大事な種木の多くが失われる結果になっていたのです。

また、禁酒法時代の間に醸造者は他国に移住したり廃業してしまったため、業界の知識の多くも失われました。いわゆる「ロストテクノロジー」というヤツで、日本でも仏教の影響により、平安時代以前にはあった乳飲料を飲用する習慣がなくなり、このためバターやチーズといったものの製法が絶えるということがあったのと同じです。

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ただ、上述のとおり、禁酒法時代においても、「酔わない程度の」ワインの製造が許可されていたため、とくにカリフォルニアでは、ワインの醸造を細々と続けた結果、その伝統が残った醸造元がありました。

とくにカリフォルニア州の北部は、現在でも極上ワインの生産地として知られる地域ですが、この当時から「ワインカントリー」して知られ、品質の良いぶどう栽培を生み出す農場とワイン醸造所が多数あります。

ワイン用ぶどうは、こうした標高の高いで栽培されるのが常ですが、この地域の生態系や地質はとくにワイン造りには向いているといわれ、その環境がこの高品質を作っているゆえんです。

メキシコの植民地となった19世紀半ば以降、ヨーロッパ人開拓者がこのワインカントリーの地に積極的な形で農業を持ち込み、その中にあったのが、ここでのぶどうの栽培とワイン作りでした。

禁酒法時代にはその醸造元の数は著しく落ち込みましたが、この間にも細々と醸造を続けていた人々の努力により解禁後は復活しました。

現在、サンフランシスコより北のこのワインカントリーには現在400以上のワイン醸造所があり、その大半はナパ郡のナパ・バレーやソノマ郡のソノマ・バレー、アレクサンダー・バレー、ドライクリーク・バレーおよびルシアンリバー・バレーなどバレーと呼ばれる地域に位置しています。

観光客が大勢集まる観光地であり、これらの醸造所ではワインの試飲だけでなく、ハイキング、自転車乗り、熱気球および歴史史跡探求のためにこの地域を訪れる人も多く、また良いワイン造りができることから、アメリカ中から料理人が集まるところとなり、このため様々な料理も楽しめるといいます。

多くの著名なシェフがここでレストラン経営しており、こうした魅力の他にも温泉浴、化石化した樹木といった、この地ならではの自然の資源も豊富にあり、大変美しいところだということです。私もサンフランシスコには行ったことがあるのですが、この地まで足を延ばすことはなかったので、いつかは行ってみたいものです。

さて、選挙も近づいています。

この禁酒法が施行される以前の1869年、アメリカでは政党として禁酒党(Prohibition Party)なるものが結成され、大統領選挙では当選の見込みがないにもかかわらず度々20万票台を集めたといいます。

今度の選挙では野党はからっきし元気がなく、自民党有利というのがもっぱらの下馬評のようです。ならば、年末でもあることから、酒を飲む機会も多いことでもあり、「飲酒促進党」というのを創って立候補者をたくさん出すというのはどうでしょう。

民主党に対抗して、「認酒党」というのもいいかもしれません。

そして、今年忘年会に参加する人は必ずこの党に投票する、というきまりを作って、みんなでここからの立候補者に投票すれば、もしかしたら、一党独裁政治を打破できるかもしれません。

私が立候補したいところですが、今のところ忙しくてそれどころではありません。どなたか、いまからでもいいから創ってくれませんでしょうか。

今晩何の酒を飲もうかと考えているあなた、いかがでしょうか。

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