幽王

2015-81979年前の今日、2006年1月19日に、NASAのニュー・ホライズンズという冥王星探査機が打ち上げられました。

この探査機は長い長い旅を終えつつあり、木星の重力によるスイングバイを行って目的地の冥王星近づいており、今年の7月14日に冥王星に最接近します。しかし、観測は既に先週から始まっており、さらに接近する来月2月には本格的な探査が始まるといいます。

冥王星は質量が小さく地球からの距離が非常に遠いため、これまで探査機を送るのは非常に難しいとされてきました。このため、十分なデータが得られず、冥王星の直径と質量は発見後数十年間にわたって誤って過大評価されており、当初は実際よりもかなり大きく、質量も地球に匹敵すると考えられていました。

しかし、最近ハッブル宇宙望遠鏡のような解像度の高い望遠鏡の観測などにより観測が精密になったため、大きさのほか、とくにその推定質量は急激に下方修正されました。

太陽系全体を通じて見ると、冥王星はどの惑星よりも小さく、圧倒的に質量が少ないことがわかり、それだけではなく、地球の月と比較しても質量は0.2倍以下であり、太陽系には冥王星よりも質量が大きい衛星がほかにも7つもあることなども発見されました。

その7つの衛星とは、ガニメデ(木星の第3衛星)、タイタン(木星の第3衛星)、カリスト(木星の第4衛星)、イオ(木星の第1衛星)、月(地球の衛星)、エウロパ(木星の第2衛星)、トリトン(海王星の第1衛星)です。

かつて1977年に打ち上げられ、土星の観測に使われたたボイジャー1号においても、冥王星の探査を行おうという計画がありました。が、オペレーションチームは冥王星の観測を選択せず、その代わりに土星の衛星タイタンへの接近飛行を選んだため、冥王星への接近は果たせませんでした。

また、同じ年に打ち上げられたボイジャー2号も、土星の観測が主目的であり、そもそも冥王星に接近するような計画ではありませんでした。が、ボイジャー2号は人類史上初めて海王星に近づき、海王星の衛星を新たに6つ発見したほか、また、海王星にも環があること、その表面には大暗斑があることなどの大発見をしました。

ボイジャー2号は海王星以外にも天王星についても観測を行い、数々の成果をあげましたが、しかし結局、冥王星の観測は行われませんでした。

その後NASAはプルート・カイパー・エクスプレス (Pluto Kuiper Express)というミッションを新たに計画したこともありましたが、経費の増大や打ち上げロケットの開発の遅れなどのため、2000年に中止されました。

しかし、その数年後にアメリカ経済も回復基調になってきたことから、ニュー・ホライズンズの打ち上げが計画され、7億ドル(日本円で約800億円)の予算を獲得し、2006年の打ち上げに漕ぎつけることができました。

この打ち上げ費用には、ロケット製造費、施設利用費、装置開発経費及びミッション全体の人件費が含まれており、これから本格化する観測は、ジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所 (APL) のミッションチームが行っていく予定となっています。

このニュー・ホライズンズのミッションとは、冥王星とその衛星カロンの全体的な地質と地形の特徴を明らかにし、表面の組成の地図を作成し、冥王星の薄い大気とそれが流出する割合を明らかにすることです。このためための、画像撮影装置と無線科学調査ツール、さらに分光器とその他の実験装置を搭載しています。

こうした観測を行うにあたっては、当然動力源が必要になります。が、冥王星は太陽から遠く離れており、通常の観測衛星が使うような太陽電池を使えません。このため、原子力電池を搭載しています。

また、冥王星軌道からの地球へ届く電波も微弱となり、通信速度は僅か800bps弱となります。このため、一度に大量のデータを送ることはできず、このため64Gbit(8GB)相当のフラッシュメモリを搭載し、冥王星探査で取得したデータはメモリに蓄積して、数ヶ月かけて少しずつ地球へ送り届ける、という方法がとられます。

こうした観測用の機器の他には、星条旗が搭載されており、ほかにも公募した43万人の名前が記録されたCD-ROM、史上初の民間宇宙船スペースシップワンの機体の一部だったカーボンファイバーの破片が積まれています。また、1930年に冥王星を発見した天文学者、クライド・ウィリアム・トンボーの遺灰が搭載されています。

トンボーは、アメリカ・イリノイ州の生まれで、高校時代にこのころ西カンザスにあった自宅や農場が雹で壊滅し、大学進学を諦めざるを得なりました。彼は独学で学問を続け、20歳のとき、初めて天体望遠鏡を自作して天体観測を続け、観察した火星と木星の記録を、アリゾナ州フラッグスタッフのローウェル天文台に送りました。

そうしたところ、その力量が認められ、天文台に雇われることとなりました。1930年2月18日に冥王星を発見し、一躍時の人となりましたが、ローウェル天文台での観測ではこのほかにも数百の変光星、800近い数の小惑星、2個の彗星の他、29,000にも及ぶ銀河を発見しています。

トンボーはUFOにも関心を持っていたそうで、1950年代には軍の要請でUFOの調査をしていたといわれますが、1997年1月に、91歳の誕生日を迎える直前に、ニューメキシコ州の自宅で亡くなりました。このとき彼の遺灰の一部がニュー・ホライズンズのコンテナに納められ、そのコンテナには以下のような銘文が書かれていました。

「ここに納めるは、冥王星および太陽系 ”第三領域” を発見したアメリカ人、クライド・W・トンボーの遺灰である。 アデルとムーロンの息子、パトリシアの夫、アネットとオールデンの父、天文学者、教師、駄じゃれ好き、そして我らの友、クライド•W•トンボー(1906-1997)」。

このトンボーが冥王星を発見した方法というのは、当時最新の技術であった天体写真を用いたものでした。

空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影して、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行うというものであり、撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果、トンボーは1930年2月18日に、同年1月に撮影された2枚の写真乾板の間で動いていると思われる冥王星を見つけたのでした。

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日本語名の「冥王星」は、発見後すぐに日本人の野尻抱影という民族学者が提案した名称です。彼はこの名称を「幽王星」というもう1つの候補とともに雑誌「科学画報」の1930年10月号に紹介し、その後東京天文台でもこの言葉を使うようになりました。

野尻抱影は、英文学者、随筆家でもあり、古今東西の星座・星名を調べ上げたことから「和製アレン」とも呼ばれました。アレンというのは、リチャード・ヒンクリー・アレンのことで、アメリカのアマチュア博物学者であり、膨大な雑学知識を有していたことによって、友人たちからは「歩く百科事典」と呼ばれていました。

ギリシア・ローマ、アラブ、中国および他の多くの地域の星座と恒星に関する天文学の歴史を広範囲にわたって調査し、その結果は以後、星の名称についての重要な文献とされるようになり、現在でもプロ・アマを問わず、多くの天文学者が星名について当たる資料源となりました。

野尻抱影もまた星の和名の収集研究で知られており、日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多いようです。

この冥王星の発見から85年もの年月を経て、ついにそのベールがニュー・ホライズンズによって剥がれることになるわけですが、その観測ではまた、冥王星本体だけでなく、冥王星の最大の衛星「カロン」の表面の写真撮影も行われます。

カロンは直径が冥王星の半分以上あり、「二重惑星」ともみなされており、この「二重」の意味は、大きさの近いこの2つの惑星が同じ重心の周りを互いに公転している、ということです。

つまり、同じ円の中心をぐるぐると二つの衛星が回っていることになりますが、互いに同じ周期で回転しているため、カロンは常に冥王星に同じ面を向けており、冥王星もまたカロンに対して常に同じ面を向けています。

よって、仮に冥王星の表面からカロンを、あるいは、カロンの表目から冥王星を見たとするとそれぞれの相手は、空の一点から動かないように見えるはずです。

また、カロンにはかつて地下に海が存在した可能性が示唆されています。冥王星とカロンは常にお互いに同じ面を向け、安定した真円の軌道を回っていますが、この状態に至るまでにカロンは細長い楕円軌道を回っていた時期があったと考えられており、このような時期には潮汐変形で熱が発生し、内部に液体の海が存在していたかもしれないのです。

カロンは、現在では冥王星とともに準惑星とされています。これについては、その当時大騒ぎになったので、ご存知の方も多いと思いますが、冥王星は、発見から76年後の2006年8月に開かれた国際天文学連合(IAU)の総会で、惑星から準惑星に格下げになってしまいました。

冥王星は海王星までの8つの惑星と比較すると離心率や軌道傾斜角が大きいことから、発見された当初から「変わった惑星」だと考えられており、発見されてからしばらくの間は地球と同じ程度からその数倍の質量を持つと推定されていました。

ところが、上述のとおり、ハッブル宇宙望遠鏡やほかの近年の精度の高い観測により、実際はそれよりはるかに小さいことが明らかになり、組成や予想される起源から、太陽系外縁天体ではないかという意見が有力になっていきました。

また、冥王星の表面を覆う氷は彗星が持っている氷と同じ成分であることから、冥王星は太陽系を形成したときの微惑星の集合体だと考えられるようになり、このような研究の進展から、冥王星を惑星とみなすことに疑問を抱く声が高まっていきました。

さらには近年の望遠鏡の技術が進歩により、2000年代に入ってからはさらに多くの太陽系外縁天体が発見できるようになりました。その中には冥王星の大きさに匹敵するものも出てくるようになり、2005年7月29日、2003 UB313と呼ばれる天体が、冥王星と同じ太陽系の外縁で発見され、この星は2006年9月に「エリス」と命名されました。

太陽系の天体の明るさは、サイズとアルベド(反射率)から決定されます。エリスの場合も等級とアルベドを考慮に入れた計算が行われましたが、その結果、冥王星よりやや大きいと推測され、これは1846年の海王星の発見以来、太陽系内で最大の天体の発見でした。

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ただ、この発見のときはまだこの天体を惑星と呼ぶかどうかという議論は活発ではなく、天文学者の間でもこれを惑星と呼ぶ公式な合意は得られていませんでした。

にもかかわらず、発見者とメディアは当初これを「第10惑星」と呼び、10個目の惑星発見という報道もされたことから、これと同じ冥王星を果たしてそれまで通りに惑星と呼んでいていいのかどうか、という議論が巻き起こりました。

この結果、国際天文学連合((IAU)は世界中の天文学者の意見を募り、2006年8月14日からチェコのプラハで開かれた総会で、惑星の定義を決めるための議論が行われることになりました。

その10日後、8月24日に採択された議決においては、それまで明確でなかった惑星の定義を定めるとともに、「dwarf planet」(準惑星)と「small Solar System bodies(太陽系小天体)」という二つの新しい分類を新設することが採択され、「惑星」、「準惑星」、「太陽系小天体」の3つのカテゴリが定義されることになりました。

そして、惑星の定義としても、はじめて次のように定めれらました。

1.太陽のまわりを公転していること。
2.自己の重力によって球形になるほど十分な質量を持っていること。
3.軌道上に他の天体がないこと(他の天体を排除していること)。

この定義の元では、冥王星は惑星としてのこの3つ目の条件を満たさないことになり、これによってIAUは、惑星の総数をそれまでの9つから8つとするとともに、冥王星を「準惑星」に再分類し、太陽系外縁天体内の新しいサブグループの典型例とみなすと決議をしました。

IAU が決議案採択の時点で dwarf planet の例として示したのは冥王星、エリス、ケレスの3個であり、2008年7月にマケマケ、9月にハウメアが追加されて5個となりました。

このうち、エリスのネーミングはトロイア戦争の遠因となったギリシア神話の不和と争いの女神の名をとったものであり、ケレスもまたローマ神話の女神ケレスから命名されたものです。

しかし、その後はギリシア・ローマ神話の神が残り少ないことを指摘されるようになり、その後発見されたマケマケ、ハウメアの命名では別の伝承の名前が提案されました。マケマケは、イースター島の創造神マケマケに因んで命名されたものであり、ハウメアは、ハワイ諸島の豊穣の女神ハウメアに因んで命名されたものです。

ちなみに、ケレスはイタリア人、ハウメアはスペイン人の天文学者によって発見されました。しかしエリスとマケマケは冥王星と同じくアメリカ人による発見であり、近年ではこうした新しい発見においては、アメリカにおける天体観測の技術が群を抜いているとよく言われます。

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いずれにせよ、このIAUの結果から、冥王星は準惑星に分類されることになりました。しかし、この総会においては、1万人以上いるIAU会員のうち総会の出席者は2千人余りに過ぎず、また、最終日の議決に参加したのはわずか424人であり、賛成票が約9割という圧倒的多数ではあったものの、この決議は無効だという抗議の声があがりました。

304人もの天文学者や惑星科学者がIAUに署名した意見書を提出しましたが、その大半は現在世界最先端の天体観測技術を持っているといわれるアメリカ人たちでした。

しかし、この意見書については、冥王星を発見したクライド・トンボーがアメリカ人であったことも関係しており、冥王星は1930年の発見以降長い間、アメリカ人が発見した唯一の惑星とされ、発見当初からアメリカ人の誇りと思われてきたという事情もあったようです。

ディズニーのキャラクターとして親しまれている「プルート」もまた、冥王星が発見された年に誕生しており、冥王星の英名、“Pluto“からきています。このこともあり、多くのアメリカ人は冥王星に特別な愛着を抱いてきており、アメリカ人のこの強い愛着が、冥王星が惑星であるか否かという議論を長らく混乱させる一因にもなりました。

2006年に結局冥王星が準惑星に変更されることが決まると、多くのアメリカ人からは失望や落胆、不満の声があがり、カリフォルニア工科大学やジェット推進研究所などがあるカリフォルニア州のパサデナでは、惑星に扮した8人の科学者が冥王星の入った棺と1,500人以上の会葬者を伴って街を練り歩く、という「珍事」も起きました。

しかし、冥王星を発見したのがアメリカ人なら、惑星でなくなるきっかけを作ったのもまた、アメリカの天文学者たちだったといえます。近年彼等によって格段に精度が高められた観測装置による観測によって、次々と冥王星のような準惑星が発見されたことを考えると、この結果はいかにも皮肉なかんじがします。

冥王星の発見者である、クライド・トンボーが後半生を過ごしたニューメキシコ州ではこのIAUの決議が行われた翌年の2007年に、また彼が生まれたイリノイ州では2009年に、冥王星の発見が報告された3月13日を「冥王星の日」と定めました。

そして、州議会は「州の上空を通っている間は、冥王星は惑星として扱われる」ことを決議したといいます。ただ、冥王星が天の北極に最も近づくのは2193年となりますが、その時点でも、冥王星はニューメキシコ州やイリノイ州の上空を通ることはないそうです。

それにしても冥王星は長きに渡り、惑星として扱われてきた、という事実は消えません。1970年代初頭に打ち上げられた宇宙探査機パイオニア10号とパイオニア11号に搭載されていた金属板には、冥王星が惑星として描かれています。

この金属板は、将来探査機が地球外知的生命体と遭遇した場合に、探査機がどこから来たかという情報を与えることを意図しており、太陽系の図も含まれていて、9つの惑星が描かれていることから、もし宇宙人がこれを見つけたら、あ~地球には惑星が9つあるんだ~と思うことでしょう。

同じように、前述の探査機ボイジャー1号とボイジャー2号にも黄金のレコードなどにもやはり冥王星は9番目の惑星と記録されています。

さらには、原子番号94番の元素はプルトニウム (plutonium)と名付けられており、これは冥王星の(Pluto)から取ったものです。

さらには、我々日本人が、惑星の名前を「水金地火木土天海冥」と覚えていますが、これは今後、「水金地火木土天海」となってしまい、なんだか尻すぼみになったような印象を受けます。

同様に、欧米人もこれを「My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas」などのようにして語呂合わせで覚える習慣があります。しかし、IAUの決議によって惑星が8個になってしまっため、このごろ合わせも変える必要があります。

これについてはアメリカでは具体的な動きがあり、逆に、新しく増えたものを加えた新しい語呂合わせを作ろうという運動が巻き起こりました。そして科学雑誌の「ナショナルジオグラフィック」で有名なナショナルジオグラフィック協会がケレスとエリスを含む11個の「惑星」を読み込んだ募集をしました。

その結果、モンタナ州の4年生の少女による「My Very Exciting Magic Carpet Just Sailed Under Nine Palace Elephant」という新しいごろ合わせが優勝したといいます。日本も同様に、新しく増えた準惑星を加えて新しいゴロ合わせをつくるかどうかですが、「水金地火木土天海」に加えてどんな漢字をあてるのがいいのでしょうか。

一方、音楽の世界では、グスターヴ・ホルストによる有名な組曲「惑星」というものがありますが、この曲は冥王星発見以前の1914年から1916年にかけて作曲されており、当時未発見の冥王星は含まれていません。なのでこれはこれで現在の状況に適応しているわけです。

しかし、ホルストは冥王星が発見されて以降、新たに冥王星の曲を作ろうとしたといいます。が、健康上の理由などから挫折したそうで、これを引き継ぎ、その後も他の人による補完の試みがありました。

そして、2000年になってコリン・マシューズという作曲家が作曲した「冥王星、再生する者」が作られたばかりでしたが、こうした努力も今になってみれば、むなしいかんじがします。

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さらには、占いが好きな人に気になるのが、西洋占星術では、冥王星が天蝎宮(さそり座)の支配星であることです。白羊宮(おひつじ座)の副支配星でもあり、星占いでは凶星であり、極限、死、再生を示し、原子力、エネルギーをも示唆するとされてきました。

古代の星占いにおいては、この時代には冥王星は発見されておらず、含まれていませんでしたが、発見以後は取り入れられ、重要な天体の1つとして数えられています。このため、ミャンマーのように、占星術がこれで首都移転を決めるほどの社会的影響力のある国においては少なくない影響があり、ミャンマーの占星術師の協会がIAUの決定を非難しました。

ただ、西洋占星術関係者の一部からは冥王星そのものが消えたわけではありませんし、新たに発見された準惑星も含めて支配星を再定義する必要がある、などの前向きな意見も出ています。そもそも占星術における惑星の定義は天文学的な定義とは異なるため、それはそれでいいんじゃない、と至って冷静に受け止めている占い師さんが多いようです。

とはいえ、このIAUの決定は、マスコミによるセンセーショナルな報道の影響もあって、発見から76年間も惑星として親しまれてきたものが「惑星でなくなった」ということに対して、マイナスのイメージを抱いてしまった人が非常に多いのもまた事実です。

この分類変更は、冥王星は惑星だと記載してきた世界の教科書出版業界にも衝撃と混乱をもたらしており、また多くの国の政治家も「この結論は歴史的なものである」といった趣旨の発言をしているようです。

日本においても、日本学術会議が、2007年に前年のIAU総会で決まった新たな分類の日本語名称を提言しようとしました。しかし、「dwarf planet」についてはその定義にあいまいな部分があり、混乱を招く可能性があるとの結論を出し、この結果、日本では学校教育などの分野では当面、冥王星を準惑星とすることは推奨しないとしています。

私としてもアメリカ人ほどこの変更における著しい憤りは感じておらず、これまで通り、「水金地火木土天海冥」でいいじゃん、というかんじです。

惑星が、天文学上は準惑星扱いされるようになっても、別に冥王星の存在価値そのものが否定されたわけでもなく、天文学の進展によって、より詳しいことがわかった結果である、と考えればよいわけです。今後その詳細が明らかになるにつれ、冥王星はさらに新しい科学文明の象徴のような存在になっていくに違いありません。

がしかし、ニュー・ホライズンズがまだ冥王星に接近していない現時点においては、その詳細はまだ不明の点ばかりです。冒頭でも述べたとおり冥王星には未だに探査機などが接近観測を行ったことがないためでもありますが、冥王星が遠すぎるために地球から詳細に観測することも難しいためです。

冥王星の見かけの等級は14等級以下であり、従ってその観測には必要となる望遠鏡の口径は少なくとも約30cm以上が望ましいといいます。

非常に巨大な望遠鏡で観測しても、冥王星の角直径はわずか0.15″しかないため、恒星と同じように点状にしか見えず、また冥王星の色はごくわずかに黄色がかった明るい茶色である、といったことぐらいしかわかりません。

地球から望遠鏡で観測することにも限界があり、現在世界最高の分解能を持っているといわれるハッブル宇宙望遠鏡でも、その宇宙から撮影した画像からは表面の明暗や模様などがわずかに分かる程度だといいます。

今回のニューホライズンの接近により、人類は初めてその素顔を見ることになるわけですが、今後の予定としては、2月14日ごろから本格的な観測を開始し、今年の4月後半には、送られてきた画像の画質が、ハッブル宇宙望遠鏡による最良のものと同等になるといいます。

そして、6月初旬には全ての観測機器が常時観測体制に入り、7月14日の午前11時47分に最接近し、冥王星と衛星カロンを撮影する予定です。最接近時の距離は13,695kmだそうで、このときの通過予定速度は14km/sという比較的ゆっくりとしたものです。が、これは時速に換算すると50,400km毎時というとてつもないスピードです。

そして、8月後半には、接近後の探査終了し、来年からはかつてのボイジャー1・2号と同じように、果てしない永遠の宇宙の旅を続けることになるようです。

今年の7月、これまで人類の見たこともない冥王星の雄姿を垣間見ることができると考えると、楽しみです。

今年はこのことも含めて、楽しいことがたくさんある一年であることを祈りたいところです。

2015-8324

エンマ vs ボサツ

2015-8422今日は、「初閻魔」だそうで、これは1年で最初の閻魔様の縁日です。

縁日というと、近代以降では、神社仏閣などで露店などが多く出るお祭り、というイメージがありますが、本来は、神仏との縁がとくに深くなる日、~これを有縁(うえん)といいますが~ そうした日です。

神仏と縁が深くなる、というと不思議な感じもしますが、これはその昔は神仏の降誕や何等かの示現があったり、逆に人間側から、例えば災害予防や疫病退治のための誓願などを行ったりすることを「縁がある」、といったものです。従って、こうした神仏と縁(ゆかり)のある日を記念日として選び、祭祀や供養を行ったなごりと考えれば良いでしょう。

この日に神社仏閣に参詣すると、普段以上の御利益があると信じられたものであり、特に、年の最初の縁日を、天神様なら初天神、観音様なら初観音、お不動さまなら初不動などと呼びました。また逆に年の最後の縁日を納め(おさめ)または終い(しまい)といい、納めの天神、終いの観音というふうに呼んでその年の御利益を感謝しました。

明治以前の日本では、現在のようにテレビやインターネットもなく、芸能の種類が少ない中で、こうした縁日が新聞に一覧表で「縁日欄」として載るほどであり、同じく人気のあった娯楽である寄席の情報を指し示す「寄席欄」と共に多くの読者に楽しみにされる情報でした。

そして、閻魔様に関しては、毎月16日が縁日とされており、とくに1月16日と7月16日は、閻魔王の休日とされていました。

この日は奉公人も仕事を休んで実家に帰ることができ、これを「藪入り」といいました。藪入りの語源には諸説ありはっきりしませんが、藪の深い田舎に帰るからという説、「宿入り」(実家へ帰る)からの転訛などの説があります。

また、関東から中部地方にかけては、7月1日は「地獄の定休日」として罪人を煮る釜のふたを開き、亡者を苛む(さいなむ)のを休んだということから「釜蓋朔日」と呼び、この日から盆入りとしました。

一方では、通常の月の16日も閻魔の縁日であることには変わりはなく、その昔はこの日に閻魔様を祀ってある神社仏閣へ行ってお祈りをするとより一層閻魔様の御利益がある、とされました。

エッ?地獄の裁判官である閻魔様に詣でる!?と思われる方も多いでしょうが、一般には延寿、災難除去、病気平癒の御利益があるとされています。また、日本仏教においては閻魔様は、「地蔵菩薩」と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされていますから、閻魔さまというよりも菩薩様に詣でるのだと考えれば、より納得がいきます。

この地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である「菩薩」の一尊であり、仏教の発祥の地、インドでは、大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う神様とされていました。

日本に入ってきてからは、民間信仰で道祖神としての性格を強め、また「子供の守り神」として信じられ、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれるようになり、このため、お地蔵さんには、子供が喜ぶお菓子がよく供えられています。

が、元々はお釈迦様のれっきとした弟子であり、毎朝禅定に入って修業に励んだとされています。ところが、お釈迦様の入滅してしまったため、その後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間は、現世に仏が不在となってしまうとされました。

このため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救うために、「菩薩」という存在になったとされています。

その地蔵菩薩がなぜ閻魔様と同じになったか、ですが、これは、元々インドでは、釈迦によって仏教が成立する前に、既にあった古代宗教の中で死者の国の王様だったのが、閻魔であった、ということと関係します。

人間の祖ともされ、閻魔は、サンスクリット語では、「ヤマ(Yama)」と発音されていました。このヤマとその妹ヤミーが兄弟姉妹婚により最初の人類が生まれ、ヤマはその後人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となりました。インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるこのヤマの国に行くとされていたといいます。

天界というと、現在の我々はまばゆい光にあふれた天国を想像しますが、この当時のインドでは必ずしも明るいイメージではなく、暗いイメージだったようです。ヤマは時として“死”と同一視され、死者の楽園の王、死んで天界にある祖先を支配する神と考えられていました。

後に赤い衣を着て頭に冠を被り、手に捕縄を持ち、それによって死者の霊魂を縛り、自らの住処・国に連行すると考えられ、またさらに下界をも支配して死者を裁き、地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になり、ついには単なる死神としても描かれる様になりました。

ただ、一説によれば、ヤマはこのとき二つに別れ、下界の暗黒世界、すなわち地獄界の王となったのが、すなわち閻魔であり、一方、上界の光明世界である天国では夜摩天、あるいは焔摩天と呼ばれる存在になりました。

閻魔はYamaと発音されたのに対し、夜摩・焔摩はYaamaあるいはYaamaa(ヤーマ、ヤーマー)とされ、本来は別モノですが、発音が似ているため、後の世では混同され、同一視されるようになった、という説もあります。日本においても、閻魔大王のことを焔摩大王と書いたりするのはこのためです。

その後このYamaという存在は、中国にも伝わりましたが、この時には既に天国の神様ではなく、地獄専門の王様になっていました。道教における冥界である「泰山地獄」の主とされ、「泰山府君」と呼ばれましたが、のちに閻魔王、あるいは閻羅王という別名も得ました。

やがては地獄の裁判官の一人とされるようにもなり、数ある裁判官の中でもその中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となりました。現在閻魔様の容姿としてよく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、このあたりで成立したもののようです。

ただし、中国的な発想では、閻魔の尊格は永遠なものではなく、生者が選ばれて任命され、任期が過ぎれば、新たな閻魔と交替するのが当然と考えられていました。このため、唐代や明代に流行った説話には、冥界に召喚されて、閻魔となった人間の話が時々出てきます。

清廉潔白で国家を支えた優秀な官吏が、死後閻魔になったという説話もいくつかあります。例えば、北宋の政治家で能吏であったために生前から庶民に人気があった「包拯(ほうじょう)」という役人がいましたが、没後もその名声・名誉はさらに加速し、死後は閻魔大王になったと信じられていました。

このようにインドから中国に伝わった閻魔は最初から冥界の王として広まりました。ところが、日本では、原作のインドそのままに下界の盟主である閻魔と天界の盟主である焔摩天の二種が伝えられました。中国に伝わったものは最初からこの二つがひとつの閻魔大王に習合されましたが、日本ではそれぞれ別モノとして伝わったわけです。

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ただ、これが伝わった奈良時代では、現世利益優先の傾向が強く、天界の存在である焔摩と閻魔のどちらもこの当時の世相のもとではあまりもてはやされませんでした。

しかし、やがて時代が下がって平安時代になると、末法思想が蔓延するようになりました。末法思想というのは、釈迦が生きていた時代と違って、その次の世は最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のことです。

この時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつありました。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃しており、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想が蔓延していました。

このため、こうした末法濁世の世では、阿弥陀仏の本願力によってのみ人々は救済される、と各宗派の僧侶たちが説くようになり、仏像の前での念仏の普遍性が強調されるようになりました。このため、平安後期には焔摩や閻魔の存在は、貴族、一般民衆と広く支持されるようになります。

鎌倉初期には「地蔵菩薩発心因縁十王経」(略して「地蔵十王経」)が生み出され、この中ではじめて、焔摩を地蔵菩薩と称して閻魔と同一の尊格であるという考え方が出てきました。

この中では、地蔵菩薩は地獄と浄土を往来出来るとされ、三途の川や奪衣婆が登場し、「別都頓宜寿(ほととぎす)」と鳴く鳥が描写され、いわゆる「あの世」、「他界」についての情報が飛躍的に増えました。それまでは、黄泉国というのは、あいまいな他界観にもとづく死後の世界であり、漠然と死後ただ行く世界でした。

それに対し、この「地蔵十王経」では、中国から伝えられた情報をもとに、死した後の世界を詳細に定義付けており、この地獄の他界観は人々に新鮮に受け止められました。また、道教と儒教の影響を色濃く受けたこの観念は、人一人一人に対し大変に厳しいものでした。

例えば、その後広く信じられるようになった「地獄」という世界では、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされます。

地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあります。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされました。

閻魔王の法廷には浄玻璃鏡という鏡が設置されていて、死者の生前の善悪の行為をのこらず映し出すとされました。地獄を守護する閻魔が亡者の裁判で亡者の善悪の見極めに使用する水晶製の鏡であり、この鏡には亡者の生前の一挙手一投足が映し出されるため、いかなる隠し事もできません。

もしこれで嘘をついていることが判明した場合、閻魔に舌を抜かれてしまうといい、また、これで映し出されるのは亡者自身の人生のみならず、その人生が他人にどんな影響を及ぼしたか、またその者のことを他人がどんな風に考えていたか、といったことまでがわかるともいわれました。

また、一説によればこの鏡は亡者を罰するためではなく、亡者に自分の罪を見せることで反省を促すためのものともいわれています。

嘘をついた者は、地獄で閻魔に舌を引き抜かれる刑に処されるという俗説はその後も広く浸透しましたが、とくにこの話は聞き分けのない子供には大変効果があり、子供を叱る際によく使われるようになりました。このため、より説得力を持たせるため、和釘を引き抜くのに使われた、やっとこ形の釘抜きを「えんま」と称しました。

このように、末法思想が流行った当時は、地獄という具体的な他界観がクローズアップされ、それまでのあいまい模糊とした冥界とは異なり、明確な情報をもった仏教的他界が示されました。そしてこうした具体的な情報提供により、地獄というものの存在が人々により身近に感じられ、広く受け入れられる結果となっていった、というわけです。

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さらに時代が下り、江戸時代になると、地獄の王たちをそれぞれ仏と相対させるようになりました。悪の対辺には必ず良がある、とする考え方に基づくもので、いわゆる勧善懲悪の考え方にも通じるものです。最初は閻魔大王=地蔵菩薩などのわずかでしたが、時代が下るにつれ、その数も増え、「十三仏信仰」なるものが生まれるに至りました。

冥界の審理に関わる13の仏様であり、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩がそれです。

これらの仏様には、それぞれ地獄の裁判官としての役割が定められ、地獄における13王としての名前も決められました。例えば不動明王には地獄の裁判官としては「秦広王」という名前があり、薬師如来は「泰山王」であり、また地蔵菩薩はやはり「閻魔大王」とされています。

現在でも、これらの考えに基づき、十三体の仏が転じて地獄の王となった姿を描いた江戸時代の絵が多くのお寺さんで残されており、法要をはじめあらゆる仏事にはこの掛軸を飾る風習が伝えられています。

そして、これらの仏は地獄と浄土を往来出来るとされ、地蔵菩薩については、天国におわせば菩薩ですが、地獄に行けばこれが閻魔様になると言った具合であり、こうした「あの世の仕組み」が具体的に流布された結果、閻魔様は地蔵菩薩の化身と広く認識されるようになっていきました。

と同時に地蔵菩薩は地獄においては、人々を救う唯一の希望的存在と考えられるようになっていきました。浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まりましたが、地蔵菩薩については、これを地獄における責め苦から救ってくれるヒーローとみなすようになっていったのです。

とくに地蔵菩薩は弱い子供の救済者とされました。例えば、仏画などでは、賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿がよく描かれるようになりました。また、中世に流行ったといわれる「仏教歌謡」でもそうした姿が唄われるようになり、これが幼くして亡くなった子供を祀る「水子供養」に発展し、ここでも地蔵信仰が集まりました。

冒頭で閻魔様の縁日は、16日であると書きましたが、地蔵菩薩の縁日は毎月24日とされています。閻魔様=地蔵菩薩なら同じ日でもよさそうなものですが、縁日というのはいわばお祭りですから、お楽しみごとはそれぞれ別の日にして増やしたほうが良いわけです。

それにしても、こうした縁日の振り分けがどういういわれで取り決められたかはよくわかりませんが、ほかにも薬師如来の縁日は毎月8日、虚空蔵菩薩は、毎月13日といったふうにそれぞれの縁日同士がかぶらないようになっており、仏教界においてある時期、そうした交通整理が行われたのでしょう。

この地蔵菩薩の縁日はまた「地蔵盆」ともいいます。通常の月の地蔵菩薩の縁日の24日は、地蔵会(じぞうえ)、地蔵祭と呼ばれていましたが、旧暦7月24日についてはお盆期間中であり、それにちなんで地蔵盆と呼ばれるようになったことから、通常月の地蔵会も地蔵盆と呼ばれるようになったものです。

ただ、この地蔵盆は一般には寺院に祀られている地蔵菩薩を対象とした祭りではなく、路傍あるいは街角の地蔵が対象となっています。これは地蔵菩薩が道祖神と習合したためです。

習合とは、地元に定着している宗教信仰と新しく来た宗教が接触した場合に、類似する要素がいくつかあったりした時に起こる現象のことです。日本の多くの田舎では地蔵菩薩も道祖神も同じく崇め奉る存在であり、長い年月の間に二つが習合してしまい、このため日本全国の路傍で道祖神の代わりに地蔵像が数多く祀られるようになりました。

とくに、大阪や兵庫、奈良・京都といって近畿地方では、この地蔵様をお祀りする風習が根強く残っており、上述の水子供養とも関連して、地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、地蔵盆が盛んに行われるようです。

一方、関東地方や東北地方では地蔵信仰自体が浸透していないため、地蔵盆も行われません。地蔵盆が当たり前の近畿地方出身者にとって、「地蔵盆は全国区ではない」ということは関東などへ移って驚くことの一つだといいます。

この地蔵盆を祝う風習があるためか、地蔵菩薩の対角線上にある閻魔様を祀る有名な神社仏閣も比較的関西に多いようです。例えば、京都府大山崎町の宝積寺には、閻魔・司録・司命が居並ぶ地獄の法廷を再現した鎌倉時代の木像があり、重要文化財に指定されています。

また、大阪市浪速区には、閻魔を祀った西方寺閻魔堂というのがあり、これは正式には「合邦辻閻魔堂西方寺」といいます。創建は聖徳太子であるという説もあります。

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一方の関東では、鎌倉に円応寺というお寺があって有名なようです。ここの「初江王坐像」はすなわち閻魔様の姿をしています。笑っているようにみえることから「笑い閻魔」と呼ばれ、円応寺で赤ちゃんの名をつけてもらうと丈夫に育つということから「子育て閻魔」とも呼ばれています。

また、東京・文京区の源覚寺には、こんにゃくを供えれば眼病を治すという「こんにゃくえんま」像があります。鎌倉時代の作といわれ、運慶派の仏師が造立した仏像として文京区指定有形文化財にもなっています。

閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴だそうで、この右側の目が濁っている原因としては、次のような伝承が残っています。

宝暦年間(1751~1764年)に一人の老婆が眼病を患い、この閻魔大王像に日々祈願していました。そうしたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたといいます。

この閻魔大王の満願成就が何だったのかはわかりませんが、その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたといわれています。

以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めるようになり、現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多いそうです。

この伝承からか、閻魔様はコンニャクが大好物であるとされるようになったようで、このため、閻魔様の縁日には各地にある閻魔堂で「こんにゃく炊き」の行事が行われるところも多いようです。

ところで、この閻魔様はこんにゃくが大好きと言われるゆえんとなった源覚寺は、徳川家の崇拝も篤く、とくに徳川秀忠、徳川家光から篤い信仰を得ていたそうです。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれています。

しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れ、明治時代には再建も果たされましたが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れました。そしてこのお寺には、別名「汎太平洋の鐘」といわれる鐘があります。

元禄3年1690年に完成し、元々当寺院所有のものでしたが、昭和12年(1937年)に当時日本領だったサイパンの南洋寺に搬出され、サイパンの人々に時を告げる鐘として使われていました。

しかし、第二次世界大戦が勃発し、サイパンは戦禍に飲み込まれ、この鐘も行方不明になっていました。ところが、戦後の1965年に米国・テキサス州にてこの鐘が発見され、その後、1974年になって当寺院に返還されました。

その返還の模様はマスコミにも取り上げられ話題となりましたが、以後毎年のようにこの鐘は除夜の鐘として用いられ、大晦日に突かれています。

その除夜の鐘から早、半月が過ぎました。今年もまた足早に時間が過ぎていこうとしていますが、今年一年が果たしてどういう年になるのか、今はまだ想像もつきません。

が、どんな一年になろうとも、あちらの世では地獄に落とされ、閻魔様に舌を抜かれるような悪いことはしないよう、むしろ善行を敷いて天上の焔摩天に愛され、どこまでも高く空に上がっていければいいな、と思う次第。

このブログを無償で綴って行くのもその善行のひとつと考え、できるだけ長く続けていきたいとは思います。が、どこまで続くことやら。続けていけるのは読んでくれる方がいつづけること、そして増えること。

ご来訪者は神様です。仏様です。今年もまた、そうした神仏のような皆様のご支持とご加護をお願いしたいと思います。

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ヨーガは良いか?

2015-8441正月以来の三連休が終り、今日から心身ともに本格始動、という人も多いでしょう。

私は、というと、この連休はなぜか家の中の整理整頓をしており、その余波もあって、今日はやや休みたいな~という気分です。

なぜ正月早々から家内整理かというと、これはかねてよりの課題でした。伊豆へ引越してきてから、以来今年で4年目に入りますが、引越し当初はこのだだっ広い家の勝手がよくわからず、持ち込んだ家具の配置なども適当に決めていました。

そのおかげで日々生活する上においては、あるべきところにあるべきモノがなく、なくても良いところに邪魔な収納物があったりして、結果として家全体の空きスペースをかなり無駄に使っている、という結果になっていました。

例えばこれまで2階の洗面所の脇にはなぜか冷凍庫が置いてありました。一階のキッチンにおける十分なスペースがなかったため、それなら同じ水回りのある2階へということになったわけですが、幅も奥行も結構あるため、他の家具とのバランスを取る上でもネックになっていました。

しかも、この冷凍庫は引越し以来一度も使ったことがなく、文字通り宝の持ち腐れ状態でした。捨てればよさそうなものですが、そこは二人とも貧乏性なところがあり、もしかしたらいつかは使えるかもと思い、そのままにしていたわけです。

そこで、当面はこれを一階の階段下にある倉庫に押し込むこととし、冷凍庫があった場所にはその代りに本箱を持ってきました。洗面所に本箱?と思われるかもしれませんが、薄型のこの箱は収納にはかなり便利であり、その本箱が元あった場所のスペースも空いて、かなり効率よくその部屋が使えるようになりました。

以後、あとはドミノ倒しのように2階にあった家具を移動しまくり、その結果として各部屋とも広大なるスペースを生み出すことに成功しました。いったいどこにこんな空間があったのよ、という変わりようであり、テレビ東京のビフォーアフターを地でいったような気分ともなり、自分でも大いに満足できました。

それにしてもなぜ正月早々……と疑問を持たれる向きもあると思いますが、こうした家具の移動というのは、結構体力も使い、しかも暑い時期の作業は汗もかきやすく億劫になりがちです。

涼しい時期であれば汗をかかないし逆に体も温まり、しかも一年の初めにそうした面倒くさいことをやっておけば、あとの生活も楽になるであろうし、快適に暮らせます。今年は早々から自分にカツを入れていこうと思っており、そうした意味でもやるなら今しかない、本格的に仕事を始める前に終わらせておこう!と思い立ったというわけです。

しかし、家内整理が終わって思っての最大の反省点は、やはり今回も大がかりな「断捨離」はできなかったな……ということ。

前述の冷凍庫もそうですが、今回の模様替えで出たゴミというのはほんの僅かであり、とくに始める前には大量にある書籍類にも手をつけようと思っていたのですが、結局は本棚の移動に伴い、そのままこれも場所から場所へ移しただけで終わってしまいました。

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この断捨離ですが、改めて説明をする必要もないでしょう。4~5年前から流行り始めた言葉で、元は「やましたひでこ」さんという人が書いた「新・片づけ術『断捨離』(マガジンハウス、2009年)」がヒットしたことからブームに火がつきました。

この人は、石川県在住の主婦のようで、早稲田大学文学部に在学中に入門したヨガ道場がきっかけで、ここで断捨離の基礎を学び、その後、それを自身の家内の片付けに応用し、「断捨離」という造語を生み出しました。

そして、46歳だった2001年よりクラターコンサルタントとして断捨離セミナーを全国で開始。クラターとは、clutter、 散乱したモノ、ガラクタのことで、これを片付けるお手伝いをするコンサルタント、ということのようです。

以後、断捨離の第一人者としてその名を知られ、多くの著書も出版していますが、この断捨離を実践する人のことを「ダンシャリアン」と呼ぶそうです。やましたさんがセミナーを開始したのが2001年なので、その道10年以上のプロフェッショナルダンシャリアンということになります。

やましたさん自身、若いころは片付けが苦手で、ずっとモノが減らない状態になっていたんだとか。ヨガの行法を習ってから、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を知りました。

これを応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術として確立したのが「断捨離」です。

やましたさんによれば、

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる

ということで、これは単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引くといいます。日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があり、これはこれでひとつの考え方・価値観ですが、この考え方が行きすぎると、物を捨てることができなくなります。

そして、すでに使わなくなったモノ、将来も使うはずがないモノなどが、家・部屋の中に次第に増えてゆきます。

やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて、心身の健康を害するほどになってしまいます。

断捨離は、こうした「もったいない」という固定観念や思い込みにとりつかれて凝り固まってしまった心を、ヨガの行法を応用して解きほぐし、知らずに自分自身で作り出してしまっている重荷からの開放を図り、快適な生活・人生をとりもどすための方法だといいます。

やましたさんのこの著書の後、様々な著者によって、断捨離の考え方を扱った本が出版されるようになり、さらに自分と物との関係だけでなく、仕事のすすめかたや人間関係にも断捨離を実践することをすすめる書物などもなども出版されるようになりました。

ちなみに「断捨離」という言葉は商標登録されているそうなので、この言葉を冠した商品やサービスを出すのはご法度です。が、2010年の流行語にも選ばれたほどであり、普通に現代用語として使われています。いまや断捨離と聞いて何のことだかわからない、という人はほとんどいないのではないでしょうか。

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私もこの教えに従い、断捨離を実行したいと常々思ってはいるのですが、なかなか思うことを実行に移すというのは難しいものです。しかしまあ、かねてより気になっていた家内整理を年初め早々から終わらせることができた、というのは気分的には大きく、これから本格化させる予定の仕事の上でも大きな効果を与えるような気がしています。

ところで、このやましたさんも学んだという、ヨーガというヤツですが、改めてその起源を調べてみました。すると、元々は、古代インド発祥の修行法であり、英音表記の“Yoga”は、「馬にくびきをかける」という意味の動詞のインド語「yuj」から派生した名詞だそうです。

つまり語源的に見ると、馬を御するように心身を制御するということを示唆しているようです。「ヨガ」と呼ばれることも多いようですが、サンスクリット語では「o」は長母音として発音するそうで、「ヨーガ」のほうが正しいようです。

明確な起源は定かではないようですが、紀元前2500~1800年のインダス文明に起源をもつのではないかということが言われており、同文明の都市遺跡のモヘンジョ・ダロからは、坐法を組み瞑想する神像や、様々なポーズをとる陶器製の小さな像などが見つかっているそうです。

ヨーガに関する最も古い記述は、紀元前800~500年の「タイッティリーヤ・ウパニシャッド」という本だそうで、この本は、「真我」と「宇宙」の合体という難しい哲学について書いてある本のようです。

真我というのは、原語では「アートマン」といい、人間の意識の最も深い内側にある「個」の原理のことです。一方、宇宙を支配する原理のことを「梵(ブラフマン)といい、個人を支配する原理である「我(アートマン)」とが同一であることを悟ることを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」といいます。

この悟りを得ることは、永遠の至福に到達することだとされており、古代インドにおける究極の悟りとされています。私のような凡人にはよくわかりにくい理屈ですが、自分の心と宇宙を合体させれば幸せになれる、という解釈なのでしょう。

紀元前350年~300年頃に成立したとされる「カタ・ウパニシャッド」という書物には、これらについてのより詳しい説明が書いてあるそうで、かつこれがヨーガの最古の説明だとされているものです。

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その後、2~4世紀ごろまでには、「ヨーガ学」なるものが成立し、その理論や実践方法が「パタンジャリ」という学者によってさらに「ヨーガ・スートラ」という本にまとめられました。

この本は、「解脱」への実践方法として体系づけられたもので、解脱とは、煩悩による繋縛から解き放たれて、全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することを指します。

そして、どうやらこの辺の理屈が、断捨離につながっていくようです。

このパタンジャリという人は、古代インドの文法学者で、その著書である「ヨーガ・スートラ」は、心身の調和と健康の増進を目的としたヨーガの哲学的根拠であり、世界的にもポピュラーな古典とされているようです。

内容としては主に観想法(瞑想)によるヨーガであり、これは「静的なヨーガ」であり、「ラージャ・ヨーガ」(王様のヨーガ)」と名付けられています。

8つの段階からなっており、これは、ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(座法)、プラーナーヤーマ(調気法、呼吸法を伴ったプラーナ調御)、プラティヤーハーラ(制感、感覚制御)、ダーラナー(精神集中)、ディヤーナ(瞑想、静慮)、サマーディ(三昧)です。

なんだかどんどん難しくなっていきますが、「ヨーガ・スートラ」では、その要諦として、「ヨーガとは心素の働きを止滅することである」と断じています。

「純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる」とも書かれているといいますが、余計にわからなくなります。私的な解釈としてはあれこれと色々考えすぎず、心を落ち着けて「考える」ということから自己を解き放てば物事が見えてくる、ということを言っているのではないかと思います。

その後、12~13世紀には、この静的なヨーガに対して、動的なヨーガが出現し、これは「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるようになりました。「力のヨーガ」という意味だそうで、現在世界中に普及している、体を動かすヨーガはこのハタ・ヨーガを基礎としているようです。

内容としては坐法(アーサナ)や調気法(プラーナーヤーマ)を重視しており、テレビの「ヨーガ講座」などで取り上げられているのは主にこれらです。

インドではこれらのヨーガに対して、科学的な研究を行っており、1920年代には、インドマハーラーシュトラ州ロナワラ市に、「カイヴァルヤダーマ・ヨーガ研究所」という研究所が開設されました。

インド政府はその後、8校の“ヨーガと自然療法医科大学”をはじめ30校を超える大学にヨーガ学科を設置してきており、その内の1つであるスワミ・ヴィヴェーカナンダ研究財団の教育部門には大学院大学もあり、ここで修士号・博士号をも取得できるそうです。

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このヨーガを日本に伝えたのは、大同元年(806年)に唐への留学から帰国したのち真言宗を広めた「空海(のちの弘法大師)」です。日本では瑜伽(ゆが)として紹介しました。

東京の世田谷区に東急田園都市線の用賀駅を中心とした「用賀」という場所がありますが、これはこの地にある「眞福寺」という真言宗のお寺の山号が「瑜伽」であり、これが「用賀」に転じたのだそうです。

このように瑜伽は、その後も日本の仏教界に定着し、空海が開いた真言宗だけでなく、天台宗などにもその作法が伝わり、これらは「護摩」などとして現在にも伝わっています。

護摩というのは、炉に細長く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れるというものです。火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうというものであり、近年では、真言宗や天台宗の流派には属さない寺社でも「お火焚き」「火祭り」などの別称を用いて実施されているものです。

このほか、「阿字観」とういものもあります。これは「阿」という梵字(ぼんじ)を軸装したものを目の前に掲げて、観想(瞑想)するというもので、「阿」という字を観するので「阿字観」と呼ぶわけです。この作法を修すると、一切の煩悩を除くことになるといい、「阿」とうい文字は、万物の不生不滅の原理の意味だとされているものです。

護摩ほどポピュラーではありませんが、真言宗や天台宗のお寺では今でも阿字観に参加しませんか、と座禅と同じような感覚での修養を勧めているところもあります。この禅宗に伝わっている「座禅」もまた、ヨーガ・スートラ記述されているもので、語源は「ディヤーナ」といいます。

このように、現在我々はインド発祥とは意識していませんが、巷で流行している健康法の中には、昭和に入ってから元々はヨーガだったものが、名を変えて広く普及するようになったものも多いようです。ひところ世間を大いに騒がせたオウム真理教もまた、伝統的ヨーガを導入した新興宗教団体だったことは記憶に新しいところです。

しかし、一連の事件によって多くの罪を犯したため、そのあおりを受けてヨーガ自体も一時下火になった時代もありました。ところが、2004年頃から健康ヨーガは再びブームとなり、ダイエット方法の1つとして上述のハタ・ヨーガがテレビで紹介されたり、CMで使用されることが増えてきました。

フィットネスクラブなどでは、エアロビクスと同じようなスタジオプログラムの1つとして行なっているところもあります。ただ、この流行は日本で自発的に起こったものではなく、アメリカ、特にニューヨークで流行ったり、ハリウッドの有名人が実践しているということで日本人もこれを真似するようになったものです。

現在でもハタ・ヨーガはアメリカで大人気であり、あちらでは、ヨーガを習う人の数は1,650万人を超えているといいます。無論、日本での人気も続いているようで、芸能人の中にはこれを実践してダイエットに成功した、という人もいて、このためさらにブームに拍車をかけているようです。

“ハタ”はサンスクリット語で「力」(ちから)、「強さ」といった意味の言葉です。教義の上では、「太陽」を意味する“ハ”と、「月」を意味する“タ”という語を合わせた言葉であると説明され、したがってハタ・ヨーガとは陰(月)と陽(太陽)の対となるものを統合するヨーガ流派です。

元々は悟りに至るための補助的技法として取り入れられたものです。従って「霊性」を磨くために修行に取り入れるならば、非常に有効ですが、生半可の理解でこれを習得しても効果は得られません。肉体的操作ばかりに重きがおかれるばかりで精神の修養にはまったく効果がないようであり、元々のハタ・ヨーガの可能性を極端に狭める結果になります。

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新年を始めるのにあたって、このハタ・ヨーガを始めるのも良いかもしれません。しかし、私的には、同じヨーガ発祥の健康法としては座禅のほうに興味があります。

その昔、実践していたこともあり、その時は技術士の試験を受けるための精神修養を行うつもりで始めたのですが、直後に試験にも受かり、大いに効果があったように感じています。

その後子育てやら仕事にも追われ、膝を組む機会も減ってしまっていますが、今年このような形で家内を整理でき、落ち着いたスペースができたこともあり、再び座禅を組んでみようか、という気になってきました。

麓の温泉街にある修禅寺はその名の通り禅寺であり、週に一回程度一般向けの座禅会も開催しているようです。こちらに参加してみるのもいいかもしれません。

しかし無論のこと、座禅をするには何も必要なく、どこでもいつでもできます。自宅でもできるわけであり、その際は、富士山の方向を向いて、静かに時を過ごす、というのもいいかもしれません。

みなさんもひとつどうでしょう。身の回りで断捨離を実践し、清涼で落ち着いたスペースを作ってそこで座禅を組んでみる、というのはなかなかよさげです。

身辺の整理のみならず、心の中もリフレッシュして新しい一年にチャレンジしてみる、というのは今年一年の初めにたてる抱負としてもなかなか良いアイデアだと思いますが、いかがでしょうか。

2015-8448下田・爪木崎にて

どんと行ってみよう!

2015-8362今日は、「正月事納め」とされています。

正月行事の期間といえば、これを「松の内」とか「注連(しめ)の内」などと呼びますが、この日をもって正月は終わり、と宣言するわけです。その昔は、15日ごろまでが正月期間でしたが、現在は7日までとする家庭や職場が多いようです。

「松の内」や「注連の内」は、「門松」や「注連縄(しめなわ)」が飾られている期間というところからこう呼ばれるようになったものです。門松は元々は神様がこれに宿るとされる「依代(よりしろ)」であり、不老長寿の象徴として常緑の松が選ばれました。が、地方によっては、榊、竹、椿などの場合もあります。

また、注連縄といえば、我々が普段、神社に掛けられたものを見るあれとお同じです。元々は神社などの聖域の範囲を示す「結界」に張られた縄でした。正月の期間に一般家庭でも注連縄をつけるようになったのは、この期間は一般家庭にも神様がやってこられ、家自体が聖域となる、という考え方からです。

従って、まとめると、正月には門松を飾ってこれに神様に宿っていただき、その神様が今はこのうちにいらっしゃる、ということを内外に指し示すための結界として注連縄を飾るわけです。家は元々生活の場ですが、松の内、注連の内の間だけは日常の生活の場が変じ、神聖な場所となっているわけです。

従って、正月事納めの日というのは、この神の依代であった門松を片付け、聖域であることを示す正月飾りを取り外すことによって、家を聖域から普段の生活の場に戻すという意味があります。

その昔はこの松の内の期間は15日まででした。ところが、明暦三年(1657年)に江戸で発生した、「明暦の大火」では、江戸市街の大半が焼き尽くされ、死者は 3~10万人といわれており、これがこの正月期間を短縮する原因となりました。

別名「振袖火事」とも呼ばれます。これは、江戸・麻布の裕福な質屋の娘が、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れしてしまった、とされるエピソードから始まる伝承です。

娘は16歳で梅乃といいましたが、この日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくして寝込んでしまいます。娘の身を案じる両親は彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作りましたが、梅乃はこの振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれ続けました。しかしやがて病は悪化して若くして亡くなりました。

両親はせめてもの供養にと、娘の葬式を本妙寺で行うことにしますが、その葬礼の日、娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやりました。

ところが、この当時こうした遺品は寺男たちがもらっていいことになっており、振袖も娘と共に埋葬されることなく寺男の所有するところとなり、やがては転売されます。そして、別の娘がこの振袖を手にしますが、この娘もしばらくの後に病となって亡くなります。

そしてまた振袖は彼女の棺にかけられて転売されますが、更に別の娘にもらわれたあげく、この娘もほどなく病気になって死去。振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきました。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにしました。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移しました。

たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、炎は湯島へ駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった……というのが、この明暦の大火が「振袖火事」とゆえんです。

梅乃という女性が本当にいたのかどうか、また振袖を手にした少女が次々と怪死していったという事実が実際にあったのかどうかもわかりません。が、おそらくは後年に作られた創作話でしょう。この時代の火事には放火が多かったといわれており、実際のところは大名屋敷からの失火ではなかったかとも言われているようです。

とまれ、この明暦の大火は江戸の大半を破壊しつくすほどの大災害になったことから、江戸幕府はこの教訓から、このときより火事を防ぐための様々な方策を打ち出すようになります。その一つが町火消などの消防組織であり、放火を防ぐための火付け盗賊改めなどの役職の設置もそうした対策のひとつです。

また、正月に江戸の家々の門前に飾る門松を飾る期間を短縮させよう、という対策も取られました。常緑の松とはいえ、門松は年末から半月以上も飾っておくわけですから、正月半ばともなれば、大分枯れて乾燥しています。沢山の油分を含んだ松は枯れてしまうと非常に燃えやすくなります。

そうした危険物が家々の門前に飾られていたら、それこそ放火犯にとっては格好の標的であり、また一旦火災になると、実際にこれが元で延焼拡大となる可能性もあります。

というわけで、明暦の大火から 5年後の寛文二年(1662年)に松飾りは「七日には片づけるように」との町触れ(まちぶれ)がなされ、これ以後江戸の町では松飾りは正月七日までとなりました。

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それにしても、それ以前にそもそもなぜ松の内を15日としていたのか、についてですが、これは中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日、つまり満月の日を月初としていたことの名残りと考えられています。

ご存知のとおり満月は約15日をかけて痩せていって真っ黒になりますが、江戸期より以前は、正月はじめの満月から月夜がなくなるまでの15日を正月の目安としていたわけです。この15日のことをよく小正月(こしょうがつ)といいますが、これに対して、7日までの正月行事が数多く行われる期間のことを大正月(おおしょうがつ)と呼びます。

元日から15日までの小正月までの15日間を正月として祝っていたわけですが、これを明暦の大火以後は、徳川幕府の命により7日の大正月までとされました。ところが、このお触れは江戸では浸透しましたが、関東地方以外には広まりませんでした。

従って、関東を中心とする地方では現在でも正月は7日までというところが多く、多くの会社や役所でも7日を過ぎるともう仕事仕事、といったかんじなのですが、地方へ行けばいくほど、いやいや正月は15日までだから、もう少しのんびりしようや、という気分のところが多いようです。

1999年までは毎年1月15日が「成人の日」でしたが、この日が成人の日とされたのも、この日が小正月であり、かつて元服の儀が小正月に行われていたことによるといわれています。さらには、1月15日は大学の共通一次試験が行われていた時代もありました。

もっとも、15日の共通一次試験はその後廃止され、また成人の日は、2000年からは毎年、1月第2月曜日に行われるようになったこともあり、15日が正月の終わりという感じはさらに薄れつつあり、やはり正月は7日まで、と考える人が現在では多いようです。

この小正月には、小年(こどし)といった呼び方もあり、また二番正月、若年、女正月、花正月といったさまざまな表現があります。

江戸期以前、この日の朝には小豆粥(あずきがゆ)を食べる習慣がありました。米と小豆を炊き込んだ粥であり、小正月に邪気を払い一年の健康を願って食べます。

中国の伝説として、「蚕の精」のために粥を作って祀れば100倍の蚕が得られるというものがあり、冬至の際にこの小豆粥が食せられたといい、これが日本に伝わったと考えられています。江戸時代の太陰太陽暦では、15日ころが満月、「望(もち)の日」であったため、小豆粥に餅を入れて食べる風習もあったといいます。

今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥を炊き、これに餅を入れた小豆雑煮で祝う風習のある地方があちこちに存在します。私が知っている限りでは、鳥取県では正月には小豆雑煮が定番です。

なお、逆に、東北地方の一部の農村などでは、元日から小正月の期間中に小豆や獣肉を含む赤い色をした食べものを食することは禁忌だそうです。理由はよくわかりませんが。

年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となります。一方、この15日ごろには、火祭りの行事、いわゆる「どんど焼き」が行われます。

私も知らなかったのですが、実はこのどんど焼きには正式名称があり、左義長(さぎちょう、三毬杖)というのだそうです。地方によって呼び方が異なりますが、日本全国で広く見られる習俗です。

単に「とんど」と呼ぶ場合や「とんど焼き」と“焼き”をつける場合、同様に、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼きなど、様々な呼び様があります。「爆竹」と書いて「とんど」と読ませる古い文献もあるようで、青竹を燃やす際にこれが爆発する音から来ている、という説もあるようです。

歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域では、だいたいどこでもどんど、どんとなどと呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられています。

歳徳神(としとくじん、とんどさん)というのは、その年の福徳を司る神です。年徳、歳神、正月さまなどとも言いますが、ある年にこの歳徳神のおわす方位を恵方(えほう)といいます。

「恵方巻き」のあれです。吉方、兄方、または明の方(あきのかた)とも言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされます。かつては、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があり、これを「恵方詣り」ともいいました。

歳徳神は姿の美しい姫神さまですが、その由来には諸説あり、牛頭天王の后・八将神の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるなどさまざまです。この歳徳神のおわす方角は毎年代わりますが、近年、関西を中心として立春の前日の節分の日にこの恵方を向いて「太巻きの丸かぶり」が行われるようになり、2000年頃から日本各地でも広まりました。

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どんど焼きもまた、広く全国で行われることが多い行事ですが、その起源は、現在のような火祭りではなく、蹴鞠(けまり)のようなものだったようです。

平安時代当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」と言う杖で毬をホッケーのように打ち合う遊びがあり、小正月に宮中の清涼殿でこれを行ったとする記録があります。毬杖には、木製の槌がついており、さながら最近のゲートボールのスティックのようなものだったようです。

この木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む遊びですが、杖には色糸をまとっていたため玩具の趣もあり、平安時代に童子の遊びとして始まり、後に庶民の間に広まりました。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、「ひだりぎっちょう(ひだりぎっちょ)」の語源とする説もあります。

清涼殿の東庭で青竹を束ねて立てこの毬杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたといい、これをもってその年の吉凶などを占いました。

代々内蔵頭を輩出して朝廷財政を運営した公家の中には、公家中の公家といわれる「山科家」という家があります。この山科家などから進献された葉竹を束ねたものが清涼殿東庭に打ちたてられ、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、これが天覧に供されました。

烏帽子、素襖(すおう・この当時の礼服)を着た複数の陰陽師らが謡い、鬼の面をかぶった童子1人が金銀で巻いた短い棒を持って舞い、面をかぶり赤い頭をかぶった童子が大鼓を持って舞い、小さい鼓を打ち鳴らしながら舞い、さらに笛、小鼓で打ち囃すといった賑やかなものでした。

毬杖3本を結んだオブジェの前で舞い踊ることから「三毬杖(さぎちょう)」とも呼ばれ、吉田兼好の随筆「徒然草」にも記載があることから、鎌倉時代には既に民間に伝わり、広く一般向けの行事としても普及していたようです。

現在では「左義長」という字があてられ、これを「どんど」と呼称することも多いようですが、なぜこの漢字になったのかは、不明だそうです。

この「三毬杖」こそが現在のどんど焼きのルーツだというわけですが、現在では毬杖は供えられなくなり、もっぱら青竹や葉竹などが積み上げられ、これに正月飾りなどを放り込んで燃やします。

昔は、1月15日の成人の日が祝日だったので、この日に行われることが多かったようです。が、その後成人の日が1月15日から1月の第2月曜日に変更されたことに伴い、地域によっては左義長を1月の第2日曜日または第2月曜日に実施する、というふうに変更したところも多いようです。

が、福井県の勝山市にの勝山左義長は毎年2月最終土・日に行われており、これは300年以上前から続いているもっとも古いどんど焼きだといわれます。色とりどりの長襦袢を着て太鼓を打ち浮かれ踊るというもので、「勝山左義長ばやし」と呼ばれているそうです。

このほか、国の指定文化財に認定されるなど有名なものもあります。

例えば滋賀県近江八幡市の左義長まつりでは、担ぎ手の男性が信長の故事によって化粧し、「チョウヤレ、マッセマッセ」のかけ声高く実施されます。三角錐の松明に、ダシと言われるその年の干支にちなんだ飾り物を付けて練り歩き、地区毎に左義長を持ち、町中で左義長同士が出会うと、ぶつけ合う喧嘩が始まるという勇壮なものです。

国選択無形民俗文化財に選択されています。ただなぜかこれも3月14・15日に近い土・日曜日に行われるそうです。

一方、神奈川県大磯町の左義長もまた国指定の重要無形民俗文化財ですが、こちらは毎年1月14日近辺に大磯北浜海岸で行われています。

セエノカミサン(道祖神)の火祭りとして、松の内が過ぎると子どもたちは正月のお飾りを集めて歩き回り、青年たちは、オンベという竹を芯にして「セエト」と云われる松や竹で作った塔をつくります。

集められたお飾りや縁起物とともに浜辺に運ばれ、9つの大きな円錐型のサイトが作られ、日が暮れるとセエノカミサンの宮元や宮世話人が、その年の恵方に火をつけます。

このほか、国の文化財の指定は受けていないものの、仙台の大崎八幡宮のものは20万人以上が訪れるというもっとも盛大なもので、仙台市の無形民俗文化財に指定されています。「裸参り」と称し、男衆がふんどし姿で練り歩く行事も行われ、この裸参りには、女性の参加も増えているといいます。ちなみに女性はさらしを巻くそうです。

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その他の多くの地方でも、どんど焼きは毎年恒例の行事ですが、現在では夕方から行うことが多くなっています。しかし、その昔は1月15日の朝、もしくは前日の14日の夜に行っていました。刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼きます。

その火で焼いた餅を食べると風邪をひかない、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われていた、といったことなどは今と同じです。

が、その昔は書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達するとも言われていたようです。また、松の燃えさしを持ち帰って屋根に載せておくと火災除けのまじないになる、という地方もあります。

民俗学的な見地からは、道祖神の祭りを起源とする地域が多いとされ、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされます。お盆にも火を燃やす習俗がありますが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられています。

現在では、多くの地方で小学校などでの子供会の行事として取り込まれる「子供の祭り」となった趣があります。笹などの準備は町内会の大人が行いますが、注連飾りなどの回収や組み立てなどは子供が行うというところが多いようです。

地方によって焼かれるものの違いがあり、その主たる違いは、「だるまを焼くかどうか」です。だるまは縁起物であるため、これを祭りで焼く事により、それを天にかえすのだ、という地方もあれば、だるまを焼くと目がつぶれるとされ、祭りでは一切焼かない、とする地方もあります。

私が住まうこの別荘地では、どんど焼きは行われません。どんど焼きをできるほどの広場はあるのですが、消防法の関係から消防署に来てもらう必要があるから、とのことのようです。従来住んでいた町では、それでも消防署員に御足労願って行うことが多かっただけに少々寂しいかんじはします。

が、今年初詣に出かけた広瀬神社の境内には、こうしたお札を焼くスペースがあり、古い飾り物はおみくじの焼却は既に済んでいます。あとは、松の内が解ける15日ころに、今年の恵方に向かって今年の歳徳神さまに向かってお祈りをすることにしましょう。

ちなみに、今年の歳徳神は、「乙・庚」の方向にいらっしゃるとのことで、これは西南西やや西、方位角としては255°で真西ではないものの、やや南よりの西だそうです。

偶然ですが、先日来、我が家ではこの西側に面した部屋をきれいに片づけ、居室として使えるようにしたばかりであり、きっとこの部屋からは多くの福の神が訪れてくれるに違いありません。

みなさんも松の内明けにどんど焼きでその年の病を除いたら、今度は西側の窓を開け、歳徳神さまに祈ってください。きっと良い一年になること請け合いです。

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下田 白濱神社にて

玉音

2015-1170784今日は、暦の上では、「六日年越し」というのだそうで、明日の正月七日を「七日正月」として祝うため、これを前日から祝すのだといいます。

じゃあ、そもそも7日は何でお祝いするのよ、ということなのですが、これは、中国から輸入された風習のようです。古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていました。

そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていたといい、これが「人日の節句」として日本に伝わり、五節句のひとつとなりました。

人日の節句を含めた五節句とは、以下のようになります。この日に合わせて食する食べ物も示しました。

人日(じんじつ)1月7日  七草の節句 七草粥
上巳(じょうし)3月3日 桃の節句・雛祭 菱餅や白酒など
端午(たんご)5月5日 菖蒲の節句 菖蒲酒 関東では柏餅、関西ではちまき
七夕(しちせき)7月7日 七夕(たなばた)裁縫の上達を願い素麺が食される
重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句 菊を浮かべた酒など

いずれもが中国から伝来したものですが、9月9日の菊の節句だけは、あまり日本では知られていないようです。陽の数である奇数の極である9が2つ重なることから、中国では「重陽」と呼ばれ、たいへんめでたい日とされます。

邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていました。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣もあったそうです。

明日の七草粥もまた、最近では習慣としてこれをたしなむ家庭もあまり多くないでしょう。本来、中国ではこの日に7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七草がゆとなったものです。

室町時代の汁物が原型ともされており、江戸時代より一般に定着しました。江戸期には人日を含む、上述の五節句が江戸幕府の公式行事となっており、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝ったそうです。

春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、その一年の無病息災を願って食べます。正月の間中、祝膳や祝酒で弱った胃を休める為に普及したとも言われています。

また、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われているそうなので、風邪をよく引く人は試してみてはいかがでしょうか。

そして、1月7日といえば、忘れてはならないのが、この日が昭和天皇が崩御された日だということです。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により87歳で身罷られました。歴代の天皇の中では最も長寿でした。

そして同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元号から採り昭和天皇と追号し、2月24日には、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵にその遺体は埋葬されました。昭和天皇の崩御後は、即日に明仁親王が即位し今上天皇となり、新元号が「平成」と発表されました。

法律的には、元号法に基づき1989年(平成元年)1月8日に改元がなされたことになっており、1月7日までが「昭和64年」ということになります。

このわずか7日間に産まれた人がどのくらいいるか、が気になったので調べてみましたが、正確なところの人数はわからないようです。

ただ、1989年の出生数は「1,246,802」人であることから、これを365日で割り、7掛けすると、およそ2万4千人ほどにすぎず、けっして多い人数ではありません。この年生まれという称号を持つ人は、結構レアものということになります。

崩御時の昭和天皇の全財産は、18億6千900万円、および美術品約5千点で、この美術品は1点で億単位の物も多数だったといいます。また、皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有しており、日本銀行をはじめとする大手銀行各社の証券を始め、日本郵船、大阪商船、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主でした。

こうした皇室の財産も課税対象であり、昭和天皇崩御のときには香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の今上天皇が4億2800万円の相続税を支払われています。また、皇居のある千代田区には住民税を納めていらっしゃいます。ただ、残された古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に皇居東御苑内にある「三の丸尚蔵館」が開館しました。

この美術館は、1993年(平成5年)に開館して以来、2014年11月には入館者が500万人を超えました。宮内庁はこうした当館入館者の増加傾向を受け、新館建設により展示スペースを拡充させることを考えているそうですが、具体的な建設計画については今後公表される予定だといいます。

昭和天皇といえば、その長い在位中に太平洋戦争という大きな出来事があり、その激動に巻き込まれた方であるだけに非常に多くの逸話の多い人ですが、やはりその中でも誰しもが一番印象深く思い出すのが、「玉音放送」のことでしょう。

それまで誰も聞いたことない、天皇の肉声、すなわち「玉音」が一般の人向けに放送されたということで、なおさらのこと印象が深かったわけですが、これは1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、その最初の放送が社団法人日本放送協会(当時のNHK)によって流されたものです。

正式には、「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)」といい、その内容は大東亜戦争(太平洋戦争)における日本の降伏を国民に伝えるものでした。

この放送が行われる前日の8月14日、日本は御前会議において内閣総理大臣・鈴木貫太郎が昭和天皇の判断を仰ぎポツダム宣言の受諾を決定しており、これはいわゆる「聖断」と呼ばれています。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において日本が全面降伏することを意味しました。

御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言が確定し、詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、「大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書」として正式発布されました。

そして、日本からポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイス及びスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合国側に即刻伝えられました。

こののち、昭和天皇がこの詔書を朗読してレコード盤に録音し、これをラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることになったわけですが、果たしてこれが天皇自らの意思だったのかどうか、については諸説あるようです。

神州不滅などといったスローガンを掲げ、悪化の一途を辿る戦局を無視して戦争続行を鼓舞していた政府にとって、国民に降伏を伝えることはまさに一大事であり、場合によってはクーデターも起こる可能性がありました。

そこで、昭和天皇がこの帰服が自分の意思によって決定されたことを国民に示す必要が生じたわけですが、玉音放送自体は法制上の効力を特に持つものではありません。しかし、この戦争における最高司令官自らが敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたといえます。

そして、この点については、天皇自らがとくにその重要性を強く認識しており、国民の前に立っても良い、とのご発言があった、との説が有力なようです。

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ところが、玉音放送が流される前には、成功こそしませんでしたが、当初心配されたクーデターまがいの事件が実際に起きており、陸軍の一部では徹底抗戦を唱え、放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがありました。これは現在では「宮城事件」として知られています。

8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件であり、日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠しました。

しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、日本の降伏表明は当初の予定通り行われました。

前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われました。

当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電される措置までとられ、また当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置が採られました。

放送は正午に開始されました。初めに日本放送協会のアナウンサー・和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求め、続いて情報局総裁・下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、君が代の演奏が放送され、その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送されました。

この放送はアセテート盤のレコード再生によるものでした。アセテート盤とは、録音において、レコードの生産の前段階に使用される「参照用」のオーディオディスクであり、録音された音が最終的にどのようにレコードに移されるかを決定するかどうかを決めるための試験的なレコード盤でした。

例えばこのアセテート盤で録音したものを再生した上で、低音のボリュームを変更するなどの操作が行われ、最終的なマスターディスク(金型)が作られました。

従って、何度も修正のための再生が必要になるため、安価で製造できる素材が使われました。しかし、音質はそれほど悪くなく、素早く高音質で制作できるため、プロモーション用の盤として宣伝目的のためにも利用されることもありました。

ただし、いかんせん、後に全盛となる塩化ビニール製のレコードよりも強度が弱く、湿度や経年変化により表面剥離などが起きやすい素材でした。アセテートというのは、我々の良く知る塩化ビニール製のレコードとは違って、なかなかイメージがしにくいのですが、現在もたばこのフィルターなどでよく使われているので、なんとなく想像できるでしょう。

熱を加えても嫌な臭いを出さないという性質もあり、たばこの味を変えない素材として利用されているわけですが、原料であるアセチルセルロースが難燃性を持つことから、他の素材と組み合わせて防火カーテンなどにも利用されています。

戦前における日本では、石油を原料とするビニール素材などは入手しがたく、木材パルプ(セルロース)を原料に、酢酸を反応させたアセチルセルロースより作られるアセテート繊維質などが唯一の音声記録媒体でした。

玉音放送をはじめとする有事の放送音源などもアセテート盤で残されており、日本で、ビニール盤が登場するのは敗戦後しばらくたったあとの1950年代の話です。

そして、玉音放送は、1945年8月15日に行われましたが、この放送が一回しか行われなかったと思っている人も多いでしょうが、実際には、下記のように予告も含めて6回も行われるという、念の入れようでした。

午前7時21分(9分間・予告)
正午(37分半、玉音放送を含む)
午後3時(40分間)
午後5時(20分間)
午後7時(40分間)
午後9時(18分間)

なお、午前7時21分の予告放送と同じものは、14日午後9時のニュースでも行われています。

内容としては「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後一時頃に配達される所もあること」などでした。

このように繰り返し放送された玉音放送でしたが、詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人が多く、直後のアナウンサーによる終戦詔書の朗読や玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気、玉音放送の後の解説等で事情を把握した人が大半でした。

とはいえ、上述のとおり、アセテート盤で録音されたそもそものレコードの音質そのものはそれほど悪くなかったようです。が、それにしてもこの時代のラジオの放送品質は現在と比べても極めて音質が悪く、天皇の朗読に独特の節回しは、宮中祭祀の祝詞の節回しと同じような悠長なものでした。

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しかしそれにしても、それまではほとんどの国民が「現人神」である昭和天皇の肉声を聴いたことなどありませんせした。このためこの天皇の声の節回しと言い、声の甲高さといい、本当にこれが天皇の声か?と疑った人も多かったといいます。

沖縄で玉音を聞いたアメリカ兵が日本人捕虜に「これは本当に天皇の声か?」と尋ねた際には、答えられる者は誰一人いなかったというエピソードもあるようです。

ただ、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分だけはよく聞きとることができ、これによって日本が敗戦したのだと察する人は多かったようです。

この国民の大多数にとっては非常にわかりにくい古典的な漢文訓読体の「終戦詔書」の大まかな内容を起草したのは、内閣書記官長・迫水久常という人です。これをさらに内閣嘱託の漢学者・川田瑞穂が手を加え、さらに同じく顧問の陽明学者で思想家の安岡正篤(まさひろ)が監修したものが、14日に天皇に提示され、裁可されました。

その校正は、秘密裡に作業が行われたため、起草、正本の作成に充分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣・阿南惟幾が細心の注意を払って最終段階まで字句の修正を加えました。

例えば「戦局日ニ非ニシテ(戦局はかなり悲観的の意)」が、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、がそれです。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は天皇の押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべきところを、一行多い4行が書かれていました。

このため、文末の印の部分に十分な余白がないまま無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅になってしまっています。

玉音盤への録音作業は宮殿の事故などを想定して、「内廷庁舎」において行われました。天皇がお政務や接見をされるのに省内に設けられた特別室です。ここの拝謁間に予備含む計4台、録音機2組など録音機材が用意され、マイクロホンが隣室の政務室に用意されました。

録音の用意は16時には完了し、18時から録音の予定でしたが、前述のとおり詔書の最終稿の修正もあって録音はずれ込み、詔書裁可後の23時20分頃から録音作業は始められ、2回のテイクにより玉音盤は合計2種4枚が製作されました。

2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の声が低かったためといわれ、さらに接続詞が抜けていたことから天皇から3度目の録音をとの話もありましたが、結局はこれは実施されませんでした。

玉音放送は、のちにDENON(デンオン)とよばれるこの当時の日本電気音響の「DP-17-K可搬型円盤録音機」というもので、同じく日本電気音響製のSP盤に録音されました。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間分の玉音放送は2枚にわたって録音されました。これが2回繰り返され、ゆえに合計2種4枚ということになります。

この録音は、翌日1時頃までかかって終了。情報局総裁・下村宏及び録音班は坂下門から出ようとしましたが、上述のとおり、陸軍幹部によるクーデター未遂事件がこのとき起こりました。

玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長・佐藤好弘大尉らによって下村らは拘束・監禁され、録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀・古賀秀正少佐の指示によって、宮城内での録音盤の捜索が行われ、のちにこれは「宮城事件」と呼ばれるようになりました。

このとき結局彼等は録音盤を見つけることはできませんでしたが、くだんの録音盤は録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫にほかの書類に紛れ込ませる形で保管されていたのでした。

その後、このときの玉音盤がどうなったかですが、戦後しばらくは所在不明とされ、玉音放送の資料音声は公式には現存していないことになっていました。これについては、真偽のほどは不明ながら、放送を恥辱と考えた宮中筋が、これを隠匿したとする隠匿説などもまことしやかにささやかれました。

本物はその後も長らく発見されていなかったようですが、どうやらそのうちの一組はアメリカ軍がその後押収したようです。ところが、玉音放送から1年後、これを押収したアメリカ軍がこれの複製を製作しようとしました。そしてその際、幸運にも当時の担当のNHKの技師がこのオリジナルから自己用の複製を内密に製作していました。

これにより玉音放送の「原音」が完全に散逸されることは免れるところとなり、その後この複製盤はNHKに寄贈されました。その当時の再生技術で当時の磁気テープに記録された音源が現在でも継続使用されているものであり、我々が現在テレビのニュースや報道番組でよく耳にするものもこのコピー版ということになります。

ただし、現在通常に流布しているこの音源は、複製盤製作時のオリジナルの玉音盤に比べて再生速度と複製盤の回転速度と再生速度、磁気テープの再生速度の誤差などにより一様に遅く、音声が低いとされています。

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一方、NHKに残されたもう一つのオリジナルの玉音盤は、その後発見されたようです。その発見の経緯については、NHKのHPやこの玉音盤が保存されているNHK放送博物館のHPにも何も書かれていません。

が、もしかしたらその昔の発見当時、何等かの新聞報道があったかもしれません。おそらくはアメリカ軍が接収したあとのもう一組をNHK側で極秘に保存していたものが出てきたのだと思われます。

現在は「入念な修復作業を経て現在は保存ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている」とのことで、窒素ガスを封入したシールドケースに入れ、紫外・赤外線カットのガラスを使い、常時4℃シーを保つ恒温ケースで展示されています。

ただし、完成から1年で劣化するアセテート盤なので状態は悪く、実際の再生は困難であるといいます。

この玉音放送から、44年後の1月7日、昭和の時代が終り、そして現在に至る平成の時代が始まりました。

それから既に今年で27年。大正天皇の在位をはるかに越え、今上天皇は昨年12月23日に81歳の誕生日を迎えられました。

失礼かもしれませんが、平成の世がこの後も20年も30年も続くというのは少々考えがたく、昭和天皇の在位年を越えることはまずありえないでしょう。

しかしまた今年すぐにそのXデーがやってくるとも考えがたく、できればせめて次回の東京オリンピックまではお元気でいていただきたいものです。

今年は、8月6日に広島で8月9日に長崎でともに70回目の原爆の日を迎えるという節目の年でもあります。と同時に8月15日には、 第二次世界大戦終結後70回目の終戦記念日を迎えることにもなります。

日本にとってその節目となるにふさわしい、良き一年でありますように祈り、今日の項を終えます。

なお、玉音放送の、口語訳を以下に示しました。改めてその内容をかみしめてみてください。

終戦の詔勅-玉音放送-(1945.8.15正午) 口語訳

私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。

私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。

そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。

なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。

考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。

ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。

あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

2015-1170749