100万回生きてみそ

2015-9871今日は彼岸の入りです。

21日の春分の日を中日とし、その前後3日間を彼岸と呼びますが、その彼岸ウィークの初日というわけで、春の到来を祝うその日にふさわしく、ここしばらく経験していなかったようなぽかぽか陽気です。

この期間にお寺さんなどで行われる仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼びますが、仏教が中国伝来だからといって、この彼岸会もそうだろうと思う人も多いでしょうが、これは日本独自の風習です。

浄土教という、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く民間宗教のような形で流行したものであり、がしかし「宗教」」と呼ぶほど格式は高くないため、「浄土思想」と呼ばれるほうが多いようです。

その思想の中身ですが、阿弥陀如来が治めている土地、これを「浄土」といい、西方の遙か彼方にあるとされ、これを極楽浄土、または西方浄土と呼びます。ようするに西方にあるパラダイスであり、生前に悪いことをしなければ死後にはここへ行って仏様になれる、という思想です。

なぜ西方かといえば、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むためです。陽が沈む=死、というわけで、この西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸会の始まりです。

極めて原始的な思想であり、従って宗教ごとというよりは、もともとは庶民の間で自然崇拝として流行った行事というふう捉えるほうが正しいようです。

それをなぜお寺さんで仏事としてやるようになったのか。その答えは簡単です。江戸幕府が定めた「寺請制度」により、人々は必ずどこかの寺の「檀家」として登録が義務付けられたため、庶民と寺は切っても切り離せない仲になったためです。

寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられ、現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされました。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招いたり、逆にお寺に行く、という慣習ができました。

従って寺院というのはいわば今の公民館のようなものであり、彼岸会のような年間行事もここに皆で集まり、寺側が総元締めとして取り仕切るようになりました。

寺受制度は、もともと江戸幕府が人々の戸籍を明確にして税収入を安定化させる目的でつくられた制度であり、また宗教統制の観点からは、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度でもありました。

法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、この際には「お布施」という形で寺院に一定の収入が与えられ、僧侶の生活が保証される形となりました。が、一方では檀家の信徒を指導統制する責務が負わされることになりました。

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こうして僧侶を通じた民衆管理が法制化され、寺院は事実上幕府の出先機関の役所と化しました。従って、本来の宗教活動がおろそかとなり、江戸期を通じて汚職の温床にもなりましたが、こうした腐敗に対する反感が明治維新を起こす原動力にもなったわけです。

ただ、民衆の側からすれば、死後の葬儀や供養、あるいは彼岸会のような行事などの七面倒くさいことはすべてお寺でやってくれるため、楽ちんということはあったでしょう。江戸期以前の戦国時代で破壊された多数の寺院は、その多数がこれら門徒の寄進によって再建されています。

それだけ人々の間には、菩提寺になる寺を求める要望が高かったということであり、寺院側にも地元の人々の間にも双方ともにメリットがあったために、寺請制度は社会へ定着していきました。

なお、神社については、江戸時代以前にはお寺と合体しているところも多く、神社なのかお寺なのかよくわからん、というものも多かったようです。従って隣接するお寺が受け元となって檀家となった信徒は、同時にその神社の氏子でもある、というケースがほとんどでした。

従って、神社の氏子もまたお寺の檀家として寺に管理統制されていたわけです。しかし、こうした制度も、明治維新後に政府が断行した廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)制度によって完全に打ち砕かれました。

仏教排斥を意図したものではなかったともいわれますが、まずはこれら寺社と人々の結びつきを払って、明治政府があらたに定めた戸籍制度上にひっぱってくることがその目的でした。

その目論見は確かに成功し、また仏教・神道以外のキリスト教のような宗教も解禁されたため、それまでのような民衆と寺社の絆はかなり弱まりました。

と同時に、神仏習合を廃止、すなわち同じ領地内にお寺と神社が一緒に祀られている、寺社をみつけると、これを分離するように政府は命じました。また仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭なども行われましたが、その結果、おびただしい数の仏像・仏具・神像や神具が破壊されました。

空前絶後の文明破壊ともいわれるほどの暴挙であり、明治政府が行った数々の改革は評価されたものも多い中での暗黒部分である、とは良く言われることです。

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この新制度によって、人々はお寺、あるいは神社から監視され、統制されることはなくなりました。が、今でも江戸時代の名残により寺院や神社との結びつきを保っている家庭は多く、こうした場合、彼岸会にはその菩提寺へ行って先祖の墓に参り、ついでにそのお寺で行われている法事に参加したりします。

ちなみに、上述のように彼岸はもともと遙か彼方の極楽浄土に思いをはせる原始宗教的なものでしたが、現代ではその性質が変わり、祖先を供養する行事に変わっており、彼岸といえばお墓まいり、というのが当たり前のようになっています。

死線を越えるのは自分だけではない、ということでいつのまにやら民間信仰としての彼岸会は、家族の中から出た死者をも弔う仏事になっていき、ひいては死んでいった祖先までをも供養する仏事として定着したわけです。

このように、現在の日本でこの仏事として定着しているものは、この彼岸会もそうですが、インドや中国を起源として伝来した元々の仏教には含まれておらず、日本独自の風習が仏教と習合したものです。

それぞれがくっつきやすい要素を持っていたから合体したわけですが、逆にオリジナルの仏教が持っていた思想でも日本には定着しなかったものもあります。

例えば輪廻転生という考え方。死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言うわけですが、「輪廻」の一語で使う場合は動物などの形で転生する場合も含み、「転生」だけだと間の形に限った生まれ変わりを指すようです。

両方を一緒くたにして輪廻転生として使われることも多いので、ここでもそうしますが、それにしてもなぜ定着しなかったか。

これは、釈迦に原点を発するオリジナルの仏教では、「解脱して成仏する」か、「輪廻転生という苦しみの中にいる」がその考え方の根本にあるからです。

この釈迦仏教では、成仏しなかった場合には死後49日を経ていれば生まれ変わり、別人として人間界に生まれ変わっていたり、動物界に生まれ変わって犬やネコになっているかも知れないということになります。

仏にならない限りは、常に生まれ変わりを果たしているのですが、一方、その後中国から入ってきて日本で普及した仏教は、死後の転生はなく、そのかわり信心さえしていれば死んでも必ず成仏する、とされています。従って、既に仏様になったご先祖様はこちらの世界に帰ってくることはなく、このため「先祖供養」なるものが成立しました。

そして、死者であるご先祖様がこちらに帰ってくるのは、輪廻転生ではなく、お彼岸のようなイベントがあるときだけであり、しかもその行事が終わると、あちらにお帰りになる、というわけです。

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しかし、元々のお釈迦様の教えによれば、何十年も前に死んだ血縁者の供養・先祖代々の供養などは全くのナンセンスであり、不必要なものということになります。さらに言えば、もはや死んだ本人は別の体を持って生まれ変わるわけですから、抜け殻である肉体や骨は用のないものであり、墓も必要ないということになります。

ところが日本人の信じる仏教では、先祖供養と墓がきわめて大切なものとされ、信仰の中心となっています。こうして考えてみると、シャカの説いた仏教と、日本人が信じる仏教は明らかに異なり、極論すれば、日本人はシャカの教えに反した仏教を信仰しているということにもなります。

これが、輪廻転生が日本では定着していない理由です。日本の仏教で常識となっている先祖供養や墓の存在は、シャカの教えとは矛盾しているためであり、日本における自称「仏教徒」は、「先祖供養」と「死後の救い」をこの宗教に期待しているわけです。

シャカの教えでは、成仏とは悟りを得て輪廻を卒業することであるわけですが、悟りを得られて真の仏になれるならば墓は不要だ、と唱えているようなお寺や宗派は日本には存在しません。

むしろ死んだら仏になれる、その仏を供養するためには墓が必要だよ、とせっせと寺の土地を法外な値段で切り売りしたりしています。お墓の中に魂はいません。千の風になって吹き渡っているはずです。

だからといって、古来からの先祖崇拝的風習をすべてやめてしまえ、などと言うつもりはありません。亡くなった人々を敬い、弔うという考え方は当然あってよろしく、そのひとたちのことを思い遣るという気持ちはいつの時代にも尊いと思います。

が、私自身は輪廻転生という考え方を信じており、死んだらすぐに仏様になる、という考え方は否定的です。今あるからだが滅びたあとその魂はいったんあちらの世界に帰り、そこでまた修業をするなりして、機会あらばまたこの世に降りてきます。

機会あらば、というのはそれほど人間に生まれ変わりたい魂が多いからです。そのすべてが実現すれば、この地球という環境がパンクしてしまいます。このため、選ばれた人しか生まれ変われない、というわけであり、機会あらばというのは、君が生まれ変わるのを優先していいよ、と言ってくれる他の魂が多い場合に限る、という意味です。

従ってこの世に生まれて今生きているというのは非常に貴重な体験であり、その体験を通じて学んだことが、その魂を成長させ、それが何度も何度も繰り返されることで、さらに上質な魂になっていくわけです。

そして、その行きつく先が、お釈迦様の言うところの仏であるわけです。

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この輪廻転生を描いた絵本があります。以前、このブログでも少し触れたかもしれませんが、「100万回生きたねこ」という童話です。

1977年に佐野洋子さんという方が書かれたもので、画も文章もご本人のものです。一匹の猫が輪廻転生を繰り返していく様を描いた作品で、ご存知の方も多いかもしれませんが、子供より大人からの支持を得ており、「絵本の名作」と呼ばれます。

仏教的な内容なのかといえばそういうことでもなく、読み手により宗教を超えた様々な解釈ができ、私も読んだあとちょっと考えさせられてしまいました。

生まれ変わるたび、それまで飼われていた主人には心を開くことなく、虚栄心のみで生きていた猫が、その最後の生まれかわりでは家族を持ち、大切な人を亡くすことで、はじめて愛を知り悲しみを知る、というストーリーで、非常にシンプルなのですが、奥が深い物語です。

そのあらすじをここで書こうかなとも思ったのですが、読んだことがない人にはぜひ読んでいただきたく、あらすじを書くとその最初の感動が失われてしまうかもしれませんのでやめておきます。

ただ少しだけ書いておくと、100万回生きて100万回死んだ主人公のオスネコは、最後には二度と生き返らなくなります。このエンディングのあと「めでたし、めでたし」と思う気持ちがある反面、さらに複雑なさまざまな思いが浮かんでくるのがこの本の不思議なところです。

今いくらするのかな、とおもったら税込で1512円もするようで、この値段の絵本が売れるというのは、やはり現在でもそれなりに人気があるからでしょう。が、それなりの価値はあると私は思います。

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著作者の佐野洋子さんというのは、作家、エッセイストであり、脚本家、詩人としても有名だった谷川俊太郎と結婚されていましたが、のちに離婚されています。

北京生まれで、7人兄妹の第二子、長女でしたが、幼少時に病弱だった長兄を亡くしており、これが後の作風、そしてこの作品にも影響を与えた、ということが言われているようです。

武蔵野美術大学デザイン科卒。ベルリン造形大学でリトグラフを学び、ここを卒業後、デパートで働いていましたが、すべての工程を自分で決めたいと、デザイン、イラストレーションの仕事を手がけながら、「やぎさんのひっこし」で絵本作家としてデビュー。

1990年、谷川俊太郎さんと結婚し、1996年に離婚したころに、沢田研二さん主演のミュージカル「DORA 100万回生きたねこ」がヒットしたことから人気が再燃したようです。無論、現在でも人生や愛について読者に深い感動を与える絵本として子供から大人まで親しまれて重版を重ね続けており、海外でも訳本があります。

エッセイストとしても知られ、「神も仏もありませぬ」で2004年度の小林秀雄賞を受賞。その後のエッセイの中で、がんで余命2年であることを告白しておられましたが、2010年11月5日、乳がんのため東京都内の病院で亡くなられました。72歳没。

まだ5年しか経っていないので、まだ転生は果たしていらっしゃらないと思いますがわかりません。あるいはもうすでに我々のすぐ近くのどこかに生まれ変わっておられるかも。

あるいは99万回生まれ変わったあとの最後の死だったかもしれず、既に仏になられているかもしれません。だとするとこのお彼岸には帰ってこられるのかもしれません。一度お会いしてお話を伺ってみたいものです。

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金沢あれこれ

2015-1130683北陸新幹線が開通しました。

首都圏から長野、新潟、富山を経て石川県へと、少々回りくどいルートのような気もしますが、それにもかかわらず2時間半ほどで古都金沢へ行けるとあって、とくに東京に在住の人は新たな旅の選択肢が増えたことを喜んでいることでしょう。

同じく古い都である京都へは2時間15分ほどで行けるようですので、こちらのほうが多少アクセスしやすいとはいえますが、盆地に囲まれた隘地である京都に比べ、金沢は海あり山あり、半島ありで、より盛りだくさんです。今後とも京都の大きなライバルになっていくことでしょう。

実は私もこの金沢には特別な思いがあります。というのも、私の祖先はこの地で代々呉服屋を営んでおり、明治の半ばごろまでは金沢駅前に店を出していました。その後曽祖父の代に商売に失敗して没落してしまい、今はその店もなくなりましたが、市内にはまだ先祖代々の墓があります。

最近とんとご無沙汰しているので、ひさびさに墓参りに行きたいな~と思ってはいるのですが、多忙なこともあり果たせていません。また、北陸新幹線ができても静岡に住む我々にとってはあまりメリットはありません。金沢へ行くのにわざわざ東京へ出るよりは、名古屋経由で向かったほうが速く着くためです。

それでも、東京の人、金沢の人、沿線の埼玉や群馬、長野、新潟、富山の人々は熱狂を持ってこの開業は受け入れているようです。

その計画が持ち上がったのは、1965年(昭和40年)で、この年の9月、金沢市の石川県体育館で「1日内閣」なるものが開催されました。これは後年に言うタウンミーティングのようなもので、当時の政府の現職閣僚が地方へ出向いて実情を聞く公聴会の側面もありました。

当時内閣総理大臣を務めていた佐藤栄作氏も出席したこの公聴会において、富山県代表の公述人である砺波商工会議所会頭、岩川毅(中越パルプ工業創業者)氏は、この会議で初めて政府に対して東京を起点とし金沢を経由して大阪に至る「北陸新幹線」の建設を求めました。

このときは、東海道新幹線の開業からわずか1年足らずの時期でしたが、そんな時期に早々と北陸新幹線の構想が提起されたわけです。この提案に、鉄道官僚出身でもあった佐藤総理も興味を示し、この「1日内閣」での新幹線構想の発表を新聞などのメディアも大きくとりあげたため、北陸における新幹線誘致の機運は大いに高まりました。

2年後の1967年(昭和42年)には、北陸三県商工会議所会頭会議において、北陸新幹線の実現を目指すことが決議され、その後、北陸新幹線建設促進同盟会が発足。

こうした動きを受け、1970年(昭和45年)には全国新幹線鉄道整備法が制定され、1972年(昭和47年)に東京都~大阪間を高崎・長野・富山・金沢経由で結ぶ「北陸新幹線」の基本計画が策定され、その着工は現実のものとなりました。

翌年の1973年(昭和48年)には整備計画決定および建設の指示がなされ、1989年(平成元年)にまず高崎駅~軽井沢駅間が着工され、1998年2月の長野オリンピックに合わせて前年の1997年(平成9年)には高崎~長野駅間が「長野新幹線」として開業しました。

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しかし、そこからが長かった……以後、17年もの歳月が過ぎ、高崎~軽井沢間で初めて着工されてからは実に27年、計画決定からは42年もかかって完成したわけですが、その背景にあるのはその途中でバブルの崩壊により税収が伸び悩み、建設スピードが著しく落ちたからでしょう。

しかし、この開通により、最速列車では東京駅~富山駅間が2時間8分となり、さらに東京駅~金沢駅は2時間28分となり、より一層北陸地方が近くなりました。

江戸~明治以降

そこで、改めて我が先祖代々の地である、この金沢という場所がどんなところかを今日は見ていきたいと思います。

金沢市は、石川県のほぼ中央に位置し、県庁所在地ではありますが、明治維新直後は旧石川郡および河北郡に属し、「金沢区」と呼ばれていました。1889年(明治22年)になって、この金沢区534町がすべて「市」に昇格し、金沢市として成立。その市域は10.40 km²です。現時点では人口約47万で「中核市」指定を受けています。

全国では43市がこの中核市に指定されていますが、これに指定される意味は無論のこと、中央政府から事務などの手続きなどが移譲されるなど、地方行政の実施にあたっての大きな権限が与えられるメリットがあるわけです。当然国の出先機関の主要なものはほとんどここにあり、政府中央とのつながりも強くなります。

江戸時代には、江戸幕府が、約800万石であったといわれるのに対して、大名中最大の102万5千石の石高を領し、「加賀百万石」の加賀藩城下町として栄えました。この人口規模は江戸・大坂・京の三都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市です。

最盛期の17世紀後半にはその人口は10万人を超え、日本第4位の都市として発達し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開きました。ただ、幕末から明治維新の頃からは人口が徐々に減退し、名古屋に次いで日本第5位にまで落ち込みました。

その後は産業・交通発達の基軸が太平洋側へと移り、明治20年頃には六大都市を形成することになる神戸や横浜にも人口で抜かれ、さらに活性化する他都市に次々と追い抜かれ、現在ではその順位は35位にまで落ち込んでいます。

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おそらくは明治時代に入ってか入らないかぐらいがこの街が一番賑やかだった時代であり、このころには金沢大学の前身である旧制第四高等学校が設けられたり、日露戦争の旅順攻囲戦で知られる陸軍第九師団が置かれたため、学生や軍人が多数在所していました。

このため、学都・軍都としての印象が強かったといえますが、その後工業などは隣の富山県の富山市のほうが栄えたため、軍事の重要施設などもそちらへシフトしていったようです。

ところが、これが幸いし、第二次世界大戦中は金沢はほとんど被害を受けませんでした。工業県としての圧倒的な実力の差が石川と富山の明暗を分けることになったわけで、富山市は1万2千7百発の焼夷弾を雨アラレと受け、11万人が焼け出され、2,776人の死者を出しました。

富山市の焼失面積は95%、焼失率全国一の焼け野原になり、また左隣の福井市なども焦土と化しましたが、石川県全体全体では空襲で60人以上の死傷にすぎず、金沢市もまた機銃掃射等があったものの大規模空襲を免れることができました。これが、金沢の市街地には未だ歴史的風情が今なお残っている理由です。

しかし、かつては軍都とまで言われた金沢になぜ空爆が無かったのかはいまだに謎とされます。米軍の資料によれば、金沢は、爆撃対象から除外されていたといい、その理由は明らかにされていません。

推測としては、金沢は第九師団がある軍都でありながら、当時師団が台湾に駐留していたため、兵卒はもぬけの殻であり、極めて戦略価値が低かったということがまず考えられます。しかし、金沢が空襲をまぬがれたのは、原爆投下の実験候補地として、無傷のまま残したかったから、という話しもあるようです。

その一方で、逆に米軍は、歴史的街並みを残す金沢や京都への爆撃をためらい、保護しようとしとの見方もあるようです。が、あの国宝姫路城のある姫路の町も焼夷弾にさらされているわけですから、金沢だけが空襲の対象外とは考えにくいところです。ちなみに姫路城はこの空襲で焼夷弾を受けながらも奇蹟的に炎上しなかったことで知られています。

このほかにも、爆撃機がここに至るためには白山が邪魔だったとか、空爆の予定はあったものの当日白山方面に雲が沸いて視程が悪かったため富山に変更されたとか、先導機が金沢と間違えて富山に行ってしまったとか、いろいろ言われているようですが、真相は藪の中です。

いずれにせよ、こうして金沢は京都と同じく古都としては空襲を免れた稀有な存在として残り、空襲による被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もない頃には来日するアメリカ市民の滞在先としても優先して使われたといいます。

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金沢市の発祥

この「金沢」という地名の出所ですが、その昔、現在の市南部に位置する「山科」という場所に住んでいたといおう通称「芋掘り藤五郎」という人物が掘り出した山芋を川で洗っていたところ、そこに砂金があるのを発見しました。このためその後そこは「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、それが金沢になった、という話があるようです。

伝説、伝承の域を出ない話ではありますが、場所は違えど、この「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りに現存し、今では「金城霊沢」と呼ばれているようです。

その開祖は、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政といわれます。天正8年(1580年)、戦国時代の本願寺派による一向一揆では、その拠点が尾山御坊(金沢御坊)と呼ばれた地でしたが、盛政はこれを攻め落とし、7年後の天文15年(1546年)に、この当時尾山城と呼ぶ城を築城しましたが、これが後に金沢城となりました。

その後、賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が秀吉からこの地を戦勝の褒賞としてもらい、この尾山城(金沢城)を居城とし、のちの加賀藩の原型が形成されました。城の周りには二重に堀が穿たれ、その背後の各所に曲輪が設けられ、城の外には環状に市民の町が形成されるという典型的な環濠都市となりました。

ただ、それまでもことあるご一向一揆の中心的な存在となってきた寺院だけは、金沢城から南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地の三ヶ所に集められました。それぞれは城の周辺を取り囲む武家屋敷などの外に留め置かれて警戒区域とされ、これらはのちに寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群と呼ばれるようになりました。

慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こりました。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国、能登国、越中国を有する大大名となります。

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第三代藩主前田利常の時代には、十村制や改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立しました。第五代藩主前田綱紀は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、多くの学者の招聘につとめ学問を振興しました。

また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから「加賀は天下の書府」と言われました。集められた書物や美術工芸品の収蔵品は尊経閣文庫と呼ばれ、現在では前田育徳会というNPO法人により保存管理されています。

その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなるわけですが、江戸時代の参勤交代の際、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来したといいます。

参勤交代は江戸幕府に対する恭順のあかしであり、その行事にそうした大枚をはたくことによって幕府からにらまれないようにすると同時に、そうした出費によって蓄財を吐きだしている、と思わせることが目的だったようです。

石高は高いものの外様大名であり、この外様の地位にあるのも豊臣政権下において家康と肩を並べる大名家だったからです。このため少しでも隙を見せればお取り潰しの憂き目を見ることなるため、こうしたパフォーマンスをしていたわけですが、その一方では警戒されないよう細心の注意を払いながら内向きの産業や工芸を奨励しました。

このため、これらの目立たない産業から得た利益はかなりの額になり、表向きはともかく、藩の財政にはある程度余裕がありました。得た収入を元手に京都などから職人を招聘し、さらには加賀友禅などのこの時代の最新かつ最高の技術を育成できました。

江戸時代初頭には金箔などの箔打ちは幕府に独占されていました。が、加賀藩はこれにも手を出し密造を続けた結果、その技術では幕府を凌駕するようになります。ついには幕府も真似できないレベルになったためついに幕府もその製造を許すようになりました。湿度が高いため金箔の製造には向いており、他にも伝統工芸の漆塗りの製造にも適した地です。

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現在の金沢

現在でも金沢市の金箔の製造は全国シェアの98%、銀箔は100%であり、このほかにも江戸時代には絹織物でもその品質は他国のレベルの遥か上を行っており、ほかにも長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸があります。

こうした工芸、手工業を基盤として、明治時代には繊維工業や染織加工業が発達ましたが、
繊維製品の生産に必要な織機の製造は現在でも衰退しておらず、金沢の主要な産業になっているほか、近年では、パソコン周辺機器に関する企業群が急速に成長しています。

市内で創業したパソコン周辺機器大手のアイ・オー・データ機器などが有名で、この会社はマイコンを利用した工場制御用の周辺機器開発からスタートした企業ですが、織物用の柄を修正するディスプレイ装置の開発といった繊維工業への貢献も行っています。

ホールや劇場、スポーツ施設も充実しているほか、教育施設も金沢大学を始め、多数あり、2009年にはユネスコの創造都市に認定されました。また北陸地方を管轄する国の出先機関や大企業の「北陸支社」「北陸支店」が置かれ、北陸地方の中心的な都市としての機能も担っています。

北陸地方では二番目に大きな卸、小売業販売額をあげる商業都市でもあり、百貨店・大型ショッピングセンターを有します。市中心部の香林坊・片町から堅町にかけてはとくに賑やかな一角で、約1500もの飲食店がある北陸最大の歓楽街となっており、若い女性向けのブランド・ショップが入るビルや多数の路面店が軒を連ねています。

このように金沢市は「商業の町」といった趣が強い街ですが、かといって大阪のようにごちゃごちゃした印象にはなく、これは上述のように戦禍を免れたことが最大の理由であり、残された町並みが綺麗に保存されていて独特の風情を楽しむことができます。

日本三名園の一つとして知られる兼六園を知らない人はいないでしょうからここであえて説明はしませんが、このほかこの兼六園から百間堀を隔てた金沢城跡には、当時の建造物のうち一部である石川門や三十間長屋などが現存しています。

この跡地には城の中の大学として金沢大学のキャンパスがあり、その昔私が学生だったころには中に入れませんでしたが、現在では郊外へ移転したため、その後一部の櫓が当時の技術のままに復元され、一般に公開されているようです。

このほか、金沢の観光といえば、加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ「金沢百万石まつり」が有名で、毎年6月に行われるこの祭りでは、前田利家の金沢入城を模したメーンイベントである「百万石行列」行列が街の中を練り歩きます。

この行列の利家役には毎年男性有名人が選ばれていて、今年6月6日に行われるこの行列では前田利家公役に内藤剛志さん、正室、お松の方役は菊川怜さんが選ばれました。

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市内中心部にあるこの金沢城を中心としてその西に広がる長町には石畳に整備された路地に並ぶ武家屋敷跡が各所に残ります。これを挟み込むようにして、その北側には浅野川、南側には犀川という二つの川が流れており、これがこの街の景観の大きなアクセントになっています。

このうちの浅野川の北側の川沿いの東山周辺は、ひがしの茶屋街と呼ばれ、その昔は「東の郭」といわれていた遊郭地帯であり、遊び場だった当時の古い町並みが残ります。

その一部は内部を改装して飲食店やショップなどに利用されており、こことその対岸の主計町は重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。また、一方の犀川沿いには、にし茶屋街があり、こちらは昔「西の郭」と呼ばれています。こちらも雰囲気があっていいところですが、料亭が軒を連ねていて、あまり観光客は行かないようです。

このほか、金沢城の北東部、浅野川の北側には、卯辰山という標高141mの小高い丘があり、ここからは市街地から遠く日本海までを見渡すことができます。また、2004年に開館した金沢21世紀美術館は金沢城の真南、市役所横に立地し、現代美術をテーマとした展示を行っています。

かなり前衛的な展示物がウリで、開館1年で地方都市の公立美術館としては驚異的な157万人の入館者を集め、5周年にあたる2009年には累計入館者数700万人を突破し、兼六園と並ぶ新たな観光資源として注目されています。

こうした観光地を巡るための交通も充実していて、バリアフリーのバスが数多く運行しているほか、観光用のボンネットバスがあり、これで金沢周遊ができ、さらに、金沢駅から「兼六園シャトル」が20分間隔で走っています。また自転車のレンタル・シェアリングも開始されており、これにより、市内のより細かい部分を見歩けるようになりました。

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浄土真宗の町金沢

上述のとおり、市域の南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地は、それぞれ寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群となっていて、これ例外にも各所に古刹が点在することから、金沢は非常に寺社が多い町、という印象もあります。

市内には、仏教寺院が390余りあるほか、神社も330余りあって、これらの仏教寺院を宗派別に見ると、寺院全体の半数を超える210寺が浄土真宗であり、その内の192寺が真宗大谷派です。他宗派が17世紀からほぼ横ばいなのに対して、これら浄土真宗の寺は3倍あまり増加しているといいます。

この浄土真宗とは、鎌倉時代初期の僧である親鸞が宗祖とされる教団であり、親鸞の没後にその門弟たちがこれを善国に広め、発展させました。

その本拠地として戦国の混乱の時期に創設されたのが、京都の「本願寺」です。親鸞の死後、文永9年(1272年)、親鸞の弟子や関東の門徒の協力を得た覚信尼(親鸞の末娘)により、親鸞の墓所として建立された「大谷廟堂」が本願寺のはじまりです。

この寺は、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となりましたが、この間に、教勢は著しく発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたります。

この本願寺の前身である大谷廟堂の、「大谷」は、親鸞が入滅したとされる、京都鳥部野北辺の地名「大谷」にちなんでおり、親鸞はこの地に葬られました。

この親鸞が葬られた後に造られた墓を管理・護持する僧たちの代表は、「留守職」(るすしき)」と呼ばれ、こののちこれが代々浄土真宗の代表の役割を担っていくようになります。天文23年(1554年)、第10代の留守職である「証如」の入滅にともない、「顕如」がこの大谷廟堂こと本願寺を継承し第十一世留守職となりました。

この顕如のころからは、留守職は「宗主」とも呼ばれるようになり、のちの西本願寺では「門主」とも呼ぶようになりますが、この顕如のころはまだ宗主であり、彼がその地位についてからのおよそ100年間は、戦国混乱の時期にあたります。

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顕如が宗主の座についてから16年後の元亀元年(1570年)には、天下統一を目指す信長は、この当時の一大勢力となっていた浄土真宗門徒の攻略にとりかかります。本願寺は「証如」の宗主であった時代の天文2年(1533年)に、本願寺教団の本山を大阪の石山の地に移し、ここを本拠地としていました。

この地は、ご存知の方も多いでしょうが、その後の大阪城が築造され場所です。淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でした。この地に建設された「石山本願寺」は、堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していきました。

次第に城郭化していき、いつの日からか「摂州第一の名城」と言われるほどになり、石山本願寺城とも呼ばれるようにもなり、これは本制覇を目ざす信長にとっては当然目障りであり、排除されるべき存在でした。このため、本願寺に対して退去を命じますが、寺側はこれに反発し、以後約10年にわたる「石山合戦」が始まりました。

合戦当初、顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦しますが、戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する穏健派と、徹底抗戦を主張する強硬派とに分裂していきました。この教団の内部分裂が、のちの東西分派の遠因となっていきます。

天正8年(1581年)、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、信長と和議が成立しました。顕如は穏健派と共に石山本願寺から紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠しましたが、子の教如は、信長を信用せず徹底抗戦を主張しました。このため顕如は、教如を義絶していますが、教如は実父に絶交された後も「石山本願寺」に籠城します。

しかし、重ねての信長の圧力に屈し、ついには同年8月、教如も近衛前久の説得に応じ「石山本願寺」から退去、信長に寺を明け渡しましたが、その直後に信長はこれに火を放つことを命じたため、城郭は灰燼と化しました。

これを見た教如は怒り、この後も強硬派への支持を募りつつ反抗の機会をうかがっていましたが、それから2年後の天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり、信長は自害。このときの天皇、後陽成天皇は信長を継承した秀吉などに顕如に教如の赦免を提案します。顕如はこれを受け、これにより親子は一応和解しました。

赦免後教如は、顕如と共に住し、寺務を幇助するようになり、これで反目し合っていた親子の間も元の鞘に戻ったかに見えました。

翌天正11年 (1583年)には、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築かれますが、本願寺の内部抗争が治まったと判断した秀吉は8年後の天正19年(1591年)に本願寺に対して現在の本願寺のある場所の寺地の寄進を申し出ます。

こうして、翌年の天正20年(1592年)、阿弥陀堂などが新築された現在も京都駅の北西部にある「本願寺(西本願寺)」が完成します。しかし、秀吉の知らないところで、この教団の内部分裂は継続しており、文禄元年(1592年)11月24日、顕如の入滅にともない、教如が本願寺を継承すると、その内紛がたちまち表面化しました。

この時、新宗主となった教如は、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったといい、これが教団内の対立に拍車をかけました。これに対して、穏健派と顕如の室如春尼(教如の実母)は、顕如が書いたという「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の准如に継職させるよう直訴。

この訴えを受けた秀吉は、文禄2年(1593年)、教如を大坂に呼び、この譲渡状は信憑性があるとの見解などを示した十一か条の条文にまとめたものを教如に示し、10年後に弟の准如に本願寺宗主を譲るよう、命じました。

このため、いったん教如はこの命に従おうとしましたが、周辺の強硬派坊官たちが、秀吉に異義を申し立て、譲り状の真贋を言い立てました。これが秀吉の怒りを買い、「今すぐ退隠せよ」との命が教如に下されると、同年9月、弟の准如が本願寺宗主を継承し、第十二世となりました。

教如は本願寺北東の一角に退隠させられ、「裏方」と称せられるようになりましたが、引退後も教如は精力的に布教活動にいそしみ、なお本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行っており、のちの本願寺分立の芽はさらに着々と育っていきました。

慶長3年(1598年)8月18日、秀吉歿。関ヶ原の戦い後、かねてから家康によしみを通じていた教如はさらに彼に接近し、4年後には後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領の寄進を受けます。またこれを機会に教如は本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移しここを本拠とするようになります。

ここに「本願寺の完全分立」が成立。これにより本願寺教団も、「准如を十二世宗主とする本願寺教団」となり、これが現在の浄土真宗本願寺派となり、また「教如を十二代宗主とする本願寺教団」が誕生し、これが現在の真宗大谷派になりました。

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慶長8年(1603年)、この大谷派は、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え入れ、これを本尊として、これを大谷派本願寺とします。これは七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになります。

一説によると、これに先立ち家康は、この両者を和解させ、本願寺を一本化させようと考えていたともいいます。関ヶ原の戦いに際して准如は西軍側についており、これを理由に准如に代えて教如を宗主に就けようとしましたが、教如自身がこれを受けなかったといいます。

また、この時、家康の側近の本多正信は、両者を無理に一本化する必要はなく、分裂させたままにしておけばその勢力を削ぐことができる、との意見を述べたともいわれており、このため教如への継職を止め、別に寺地を与えることに決したのだともいいます。

一方、教如側である現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示しています。

いずれにせよこの東西本願寺の分立により、戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされたという見方もあります。が、教如の大谷派が平和裏に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させたという面もあるようです。

現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒は、中国地方に特に多く、広島などのいわゆる「安芸門徒」などに代表されるのに対し、大谷派(東本願寺)では、東海地方に特に多くなっています。いわゆる「尾張門徒」「三河門徒」などですが、北陸地方にも多く、今日諸介している金沢においても「加賀門徒」が多くなっています。

これは元々加賀門徒である大谷派に属する僧侶などが中心となり、前田家などの政権に対してしばしば一向一揆を起こしていたこととも関係があると思われ、石山合戦では信長に反旗を翻した籠城した教如の影響力が強かった土地柄ということになるようです。

食のパラダイス金沢

しかし、金沢城下では前田家の治世以後、一揆などによる著しい混乱は少なく、江戸の太平の時代に豊かな文化が育まれ続けました。

金沢は、食の文化でも有名であり、とくに加賀料理として有名なのが治部煮であり、これは鴨肉を小麦粉にからませ、ダシ汁で煮たものです。ほかにも、蕪で鰤の塩漬けを挟んで発酵させた熟れ鮨の一種の「かぶら寿司」、ゴリ料理、鯛の唐蒸し、鱈の白子、笹寿司くるみの佃煮、河豚の卵巣の糠漬けなどなど、ヨダレの出そうな料理が目白押しです。

金沢市の海に面した地域である大野地区は醤油の産地としても有名で、今でも醤油蔵が立ち並んでおり、加賀料理の味の引き立て役として欠かせないものです。他のメーカーに比べ、くどさがあまりなく、甘いのが特徴です。

観光都市として注目を浴びるようになってからは、台湾を始めとした日本国外からの観光客も増えており、仏ミシュランの2009年3月発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009」では、兼六園が3ツ星、金沢21世紀美術館と長町武家屋敷跡の野村家が2ツ星を獲得しています。

金沢は和菓子でも有名です。市民1人当たりの和菓子購入額全国第1位であり、これは加賀藩が茶菓子作りを奨励したためです。京都や松江と並ぶ「日本三大菓子処」として知られており、市民の多くは日常的に食べる和菓子の種類によって季節を感じるほどだといいます。

その菓子作りを題材にしたNHKの朝ドラが始まるようです。タイトルは「まれ」だそうで、現在の「マッサン」に代わり、3月30日から半年をかけて放映される第92作目です。

パティシエの世界一を目指し都会にやってきたヒロイン、津村希(まれ)が夢を諦め、育った故郷で小さなケーキ屋を開き、再び夢を取り戻していく物語だそうで、能登地方の輪島市と横浜市を舞台に繰り広げられるといいます。

このヒロインは2020人が応募するオーディションによって選考されたそうで、土屋太鳳(たお)さんというそうです。主人公が活発なイメージということから、役作りのためにロングヘアをバッサリと40cmも切ったといい、元気な役作りが期待できそうです。

輪島市や珠洲市がメインの撮影地だそうですが、このほか金沢の懐かしい風景が流されるに違いありません。しばらく行っていない彼の地が見れそうで楽しみです。

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人間五十年、下天のうちを比ぶれば

2015-9870伊豆では、そろそろ梅の季節が終り、河津桜の樹間にも緑葉が混じる頃になってきました。

あと一週間もすれば南伊豆ではソメイヨシノが咲き始めるところも出てくるでしょう。今この原稿を書いている場所から少し離れた通り沿いのサクラの木も、気のせいか少しピンクがかってきたような気がします。

それを眺めながら、去年咲いたその桜の色などを思い出したりもしているのですが、あれからもう一年経ったか、と改めて時間の過ぎるスピードの速さを感じています。

再三このブログでもボヤいていることではあるのですが、齢をとると時間の経過が早くなります。

同じことを何度も何度も繰りかえしてきたために、年齢を重ねれば重ねるほど、そのひとつひとつの所作に要する時間が効率よく短くできるようになります。そのために経過時間が短く感じられるのだ、という人もいるようです。確かに一理あるかもしれません。

人生は経験の連続なので、経験を積めば積むほどいろんなことができるようになるため、それらに要する時間も短くて済む、というわけですが、しかしと同時にこなすことができる仕事も増えるので、一層多忙になります。

忙しいときにはやはり時間の経過などかまっていられなくなるわけであり、これもまた時間が速く過ぎるように感じる要因なのでしょう。

実際、会社勤めをしている人達、とりわけ50代の人たちの仕事量というのはかなりのものではないでしょうか。20代の若い人に比べれば格段に効率的な仕事ができるのはもちろんのこと、30代、40代の後身の管理もしつつ、対外的には営業にも出ていかなければならないし、社内的にも重要なポストに就くことも多くなり、それだけ会議も増えます。

それだけに心労も多く、仕事のストレスによってうつ病などの心因性の病気にかかったりもします。アトピーやじんましんといった症状は精神的なものから来ることも多いといい、痔ろうについてもまたしかりです。また、タバコや酒など体によくないものに走りがちです。

なので、仕事ができる反面、このころから急速にふける人も多く、あなた、ホントに50代?という、どうみても70代にしか見えないオッサンや淑女がいたりします。

その昔は、人生50年といわれた時代もあったようなのですが、これは現在のように疫病対策やさまざまな病気の治療方法が確立していなかったためであり、昔の日本と同じくらいこうした対策が十分でないアフリカの諸国の多くは、現在でも45~55歳が平均寿命のようです。

片や、今の日本人の平均寿命は82.6歳で世界一であり、女性の平均寿命は日本が85.99歳で世界一、男性の平均寿命は3位で、79.19歳となり、いまや人生50年どころではなく、人生80年の時代です。

が、その昔は50年も生きれば十分、さらに60にもなろうものなら、それはそれは長寿ということで、いわゆる還暦のお祝いをしたりして大はしゃぎをしたわけです。赤色の頭巾やちゃんちゃんこなどを贈り、その長寿を祝ったりしますが、これはかつては魔除けの意味で「産着(うぶぎ)」に赤色が使われていたためです。

60歳は、12干支×5サイクルの終点であり、この時点で、生まれた時に帰るという意味でこの慣習があるわけですが、欧米でも、ダイヤモンドを60周年の祝いに贈って60周年の象徴とする風習があるようです。

では、50歳になったら何かお祝いをするのか、といえば特にそうした風習はないようです。ただ、中国では、50歳のことを「杖家(じょうか)」と呼び、この年になると家の中で杖を用いることが許されるといい、ほかに天命、もしくは知命という言葉があって、これは「五十にして天命を知る」という意味で、天が自分に与えた使命を自覚することです。

50にして立つ、という言葉があるかどうかは知りませんが、それだけ責任が重い年齢に達したということでもあり、天から与えられた使命を知ったからには、その齢からはさらにその天命を全うすべく日々身を大切にして生きよ、というわけです。

有名な話しとして、織田信長が、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」という「敦盛(あつもり)」という謡を口ずさみながら舞うのが好きだったという逸話があります。

この「人間」は「じんかん」とも読むそうですが、人間の寿命は50年でしかない、という意味だと思っている人も多いようですが、実は意味が少し違うようです。

このあと、「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と続くため、人の一生は50年ほどにすぎず、一度世を受けたものは、この年齢ほどにもなると死んでしまうのが常だ、ああ無常、というふうに解釈しがちですが、違うようです。

信長が生きていた16世紀には、「人間」を「人の世」の意味で使っていたといい、それゆえ「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年という歳月は、下天のうちのほんの少しの時間にすぎない」という意味になります。

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そもそも、「下天」と何か。これは、本来は「化天」と書き、仏教でいうところの、「六つの欲」の5段階目のことです。

仏教には、「六道」という世界観があり、これは、一番底辺にある地獄界から始まって、餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界というふうに続きます。これらはすべて欲望に捉われた世界、つまり「欲界」でありこの六道の世界を経て、ようやく仏様が住むさらに上の世界へと進める、とされています。

一般に人間界の上にある天上界には欲はない、と思いがちですが、この天上界にも欲界があり、ただし、これは人間の欲に比べれば限りなく欲が薄く、物質的な「色界」と精神的な「無色界」の二つに分けられています。

この色界と無色界の下に、我々の住む5番目の人間界があるわけですが、この世界は別名を、「化楽天(けらくてん)」または、楽変化天(らくへんげてん)といい、これを略したのが「化天」です。

「天」というのは仏教でいうところの「世界」のことであり、この天に住む者は、自己の五境、すなわち眼・耳・鼻・舌・身(色・声・香・味・触)の五感を駆使して、その世を娯楽する、とされています。

要するに、この五感を使わなければ生活できない我々が棲んいるのが人間界というわけですが、この六道のうちの、第5段階の化天では、ここに棲む住人の寿命は8,000歳とされています。

えっそんなに長く生きれるわけないじゃん、と思うでしょうが、そこは仏教の説話の話です。この化天住人の一昼夜は人間の800年に当たり、その寿命は8000年ですから、人間に換算すると、800×365×8000=2,336,000,000年も生きる、ということになります。

が、いくらなんでもそれだけの期間き続けることはできませんから、この間、何度も生まれ変わることになります。輪廻転生です。

従って、人間の人生を仮に50年とすると、4672万回ほど人間は生まれ変わる、ということになります。「100万回生きたネコ」という童話がありますが、それ以上です。もっとも、日本では最近寿命が長くなっているため、総平均すると、この生まれ変わり回数はもう少し少なくなるはずです。

つまり、上の「人の世の50年の歳月は、下天のうちのほんの少しの時間にすぎない」の「下天のうち」は「化天のうち」であり、化天住民である我々にとっては50年の人生は長いようであるが、これは23億歳の寿命を全うするうちの、ほんのわずかな時間にすぎない、という意味になります。

ところでこの化天がなぜ下天に変わったか、ですが、織田信長が舞った「敦盛」には、その原点になった「幸若舞」という舞があり、その初期のころの演目ではこれは「化天」となっていたようです。

その後、敦盛が人気演目になるに従い、「下天」に変わっていったわけですが、そう変わった理由はおそらくはあの世を意味する「天上」という言葉と対比させやすかったためでしょう。

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が、ややこしいことに、実はこの下天というのは、実は上述の天上界も含めた「六道」それぞれに住む王様のうちのひとり(正確には一グループ)が住んでいる場所の名前です。

この6人(6組)の王の住む世界は、依然として欲望に束縛される世界であるため、それぞれを「六欲天」とも呼びます。そして、ここにいる王様とは、天上界から順番に、他化自在天(天魔波旬)、化楽天、兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん)、夜摩天(焔摩天)、忉利天(三十三天)、そして四大王衆天、となります。

この四大王衆天というのは、四天王のことで、これは我々が仏教彫刻でよく目にする、持国天・増長天・広目天・多聞天などです。この四天王がいる場所が実は、「下天」であり、六道の中では地獄界に相当する世界です。

上述のとおり、「化天」は欲界の上から2番目の世界ですが、その一番下の界のことを下天というわけで、ランクが4段階も違うわけです。そして、このランク付けでは、一番下の住民の寿命が一番短く、上に行くほど長くなります。

下天は一番下の階層になるため、ここの住民の寿命はかなり短くなり、500歳しかありません。「化天」では8000歳でしたから、地獄界の住民はその十分の一以下しか生きられないわけです。

従って、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」の「下天」のところを「化天」とするか否かによって、その時間スパンは異なることになります。

が、いずれせよ、人間の寿命に対して、それはそれは長い時間ですよ、ということを謡っているわけですから、どちらを使っても、人の一生は、化天界(下天界)を通じての寿命よりも遙かに短くはかない、というもともとの意味を逸脱するものではありません。

「人間五十年、“下天”の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」「人間五十年、“化天”の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」でもどちらでもよく、人間の人生50年は、地獄界の500年、化天界の8000年というスパンを考えると、ほんの一瞬にすぎないね、だからくよくよするなよ、ということが言いたいわけです。

この人生50年を詠う、敦盛の原点となった、幸若舞というのは、中世から近世にかけて、能とは別に武家達に愛好された芸能です。能というのは、猿楽とも呼ばれ、明治時代以降は狂言とともに能楽と総称されるようになったもので、発祥の地の中国では、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていました。

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幸若舞もこの能に発想のヒントを得て生み出されたことは想像に難くないのですが、能と違って日本独自の舞であり、また武家の中から出てきたところが宮廷で発達した能と異なり、その題材も武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多いようです。

後に武家政権である鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たる、「源義家」から10代後の子孫に、「桃井直詮」という人物がおり、この人が始祖といわれます。そして幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が出たといわれています。ちなみに「幸若」のよみは「こうわか」です。

幸若丸は越前国、つまり現在の富山県に住んでいましたが、父の没後、比叡山の稚児となりました。生まれつき歌舞音楽に優れた才があり、草子に節をつけて謡ったのが評判になって「幸若舞」と呼ばれるようになったとのことで、彼の出身地が越前であることから、「越前幸若舞」とも言われます。

信長が愛したように、敦盛が代表的なものです。が、我々がよく知る敦盛は、信長の舞に代表されるような一場面にすぎませんが、実はそのストーリーはもっと長いものです。

これは、1184年(元暦元年)の源平合戦、またの名を「治承・寿永の乱」の際、須磨の浦における「一ノ谷の戦い」での出来事を描いたもので、この乱のとき、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめました。

このとき、平清盛の甥の平経盛の子で、若き笛の名手でもあった「平敦盛」は、退却の際に愛用の漢竹でしつらえた横笛を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいます。この笛は「小枝(さえだ)」という名品で、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛(清盛の父)が鳥羽上皇から賜ったものだといいます。

敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚上で馬を飛ばしますが、退却船の武士たちもこれに気付いて岸へ船を戻そうとします。しかし逆風で思うように船体を寄せられません。敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり、馬を上手く捌けずにおり、いたずらに時間のみが過ぎようとしていました。

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将に違いない、と見極め、敦盛のところまで来て一騎討ちを挑みました。敦盛は当初これを受けあいませんでしたが、直実はしつこく将同士の一騎打ちを迫り、これに応じないならば、兵に命じて矢を放ちかけさせるぞ、と脅しました。

退却船からは大勢の仲間が見ており、多勢に無勢な中、一斉に矢を射られて殺されてしまうような無様な姿をみせるくらいなら、と、敦盛は直実との一騎討ちについに応じてしまいます。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまいます。

必死に抵抗するも組み伏せられてしまいますが、直実がいざその頸を討とうと、もとどりを掴んでグイとその顔を上げさせると、その立派な鎧姿からかなりの年配者と思っていたその武将は、なんと元服間もないようにも見える紅顔の若武者であることを知ります。

重ねて名と齢を尋ね、これに答えた敦盛は、名は名乗らず、しかしわずか数え年16歳だとだけ答えました。実は、直実は、この一ノ谷合戦の最中に長男を討死させたばかりであり、我が嫡男と同い年だというこの少年の哀れな姿をみているうちに、ついつい亡くなったその息子の面影を重ね合わせてしまいます。

生かしておけばまだ将来あるであろうこの若武者の将来を思い、討つのを惜しんでためらうのは当然であり、このまま討とうかそれとも何か理由をこじつけて助けようかと心の中での逡巡が始まります。

この姿を見ていた同道の源氏諸将は、次第にこれを訝しみはじめ、ついには、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めました。ここまで言われては仕方がないと、ついに直実は心を痛めながらもついに敦盛の頸を討ち取りました。

別に伝わっている話では、息子を失った直実がその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだとき、直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と健気に答えたとなっています。

これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしましたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切ったとされます。このとき敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答えたとも伝えられています。

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いずれにせよ若き敦盛はこれによって短い生涯を終えますが、心ならずも息子と同年齢のこの若者を討ったことがその後も長く直実の心を苦しめるようになります。

結局この一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりましたが、敦盛以外めぼしい武将を討ち取ることのできなかった直実には、合戦後の論功行賞も芳しくなく、同僚武将との所領争いも不調でした。

翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実はやがて世の無常を感じるようになり、ついには出家を決意して世をはかなみながらその残りの人生を送るようになります……。

と、謡の敦盛のストーリーはここまです。が、敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実はその後、出家の方法もわからず方々を放浪したといいます。

やがて高僧として名を知られていた「法然」の存在を知り、救いを求めたいとその弟子に面会を求めました。面談を初めていきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、ようやくそこへ法然が現れました。

このとき直実は法然に対して「後生」について真剣にたずねたといい、このとき法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり」と応えました。これは罪には軽い重いはない、念仏を唱えすれば必ず救われる、というほどの意味でしょう。

この言葉を聞いて直実は、さめざめと泣いたといい、実は刀を研ぎ始めたのは、法然の前で切腹するか、手足の一本ほども切り落とそうと思っていたのだといいます。

この法然や熊谷直実も、史実の上でも実在した人物であり、こうした話の信憑性は高いようです。法然の父は、押領使という宮廷の警察長官のような官吏だったようですが、法然が9歳のとき、土地争論に関連して敵対する武士に襲われて重傷を負いました。

やがて傷が悪化して瀕死となりますが、その死に際に法然に仇討ちはならぬと釘を刺したため法然もこれを断念し、母方の叔父の僧侶もとに引き取られ、自らも仏道を進むことになりました。そしてのちに浄土宗の開祖と仰がれるようになる人物です。

一方の直実の家も武家であり、その祖父は若いころは源氏の武将として名を馳せたとされます。実はこの熊谷家は平家の流れを汲む家柄であり、そのあととりである祖父はその名を「平盛方」といいました。

上皇の身辺を警衛したり御幸に供奉した北面武士であり、天皇家を操る平清盛の父で、清盛に反発していた平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑されました。このため熊谷家は没落しました。

このとき赤子であった息子の平直貞は、乳母に抱かれて武蔵国に落ち延びたといい、成長後も所領もない寄寓の身でした。が、あるときその育った坂東の地において見事な熊退治を行い、これが領主の目に留まり、ようやく所領を得ることができた、といます。

そしてこの平直貞こそが、熊谷直実の父となります。この所領を得たとき、平の名を捨てて熊谷家の養子となっており、熊谷家は源氏に仕えていたことから父の直貞も直実も源氏方の武将になりました。が、元は坂東平氏の血を引く流れであったわけです。

時代が変わって立場も変わり、同じ平氏の若者を討たざるを得なかった、というところが、この「敦盛」という演目により悲哀を与え、と同時により深みを与えているわけで、当時の武将たちが好んでこれを舞ったというのは分かる気がします。

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その後の直実がどうなったかといえば、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家し、法名を法力房 蓮生(れんせい)としました。

出家から2年後には鎌倉で昔の同僚の頼朝と再会していますが、このときは泣いて懐かしんで頼朝と語り合ったといい、武骨な人柄で知られていた直実こと蓮生が頼朝にとつとつと仏法を語ったことは周囲を驚かせたといいます。

その後この頼朝の庇護を受けるようになった蓮生は数多くの寺院を開基していますが、その後、京都に戻り、建久8年(1197年)、錦小路東洞院西にあった、父・貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して1「法然寺」を建立し、さらに翌年には粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基しました。

さらにその後生まれ故郷の関東に帰った蓮生は、そこに小さな庵を建て、念仏三昧の生活を送ったといいます。しかし、建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれる、すなわちその日に死する、と予告する高札を武蔵村岡の市に立てました。

ところが、その春の予告往生は果たせなかったため、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われています。享年66。

直実の遺骨は遺言により、京都粟生の光明寺の念仏堂に安置されましたが、この直実の墓は師匠である法然の廟の近くにあります。また一ノ谷で亡くした直家の墓もこの直実の墓に並んであるそうです。

高野山にも直実の墓があるといい、これはおそらく分骨したものでしょう。敦盛の墓と並んでいるそうで、直実は建久元年(1190年)に法然の勧めにより、ここで敦盛の七回忌法要を行っています。

直実が晩年暮らした庵は、その跡に天正19年(1591年)幡随意白道上人という人が寺を建て、これは「熊谷寺」として現在も地域の人々に親しまれています。また、熊谷直実の「熊谷」の苗字は、そのまま、この寺のある埼玉県「熊谷市」にその名を残しています。

ところで、敦盛において一ノ谷の戦いで死んだとされる、直実の嫡男直家の戦死は実は脚色だそうです。

謡では死んだことになっていますが、実際には刀傷を受けて重体になったのをなんとか生き延びたようです。その息子の怪我を見舞った直後にちょうど敦盛が現れ、平家憎し、と憤った直実が一騎打ちをしかけた、というのが真相のようです。

この直家は、直実が出家してしまったためこれに代わり、家督を継いで53歳で死去しており、これは人生50年、という当時の平均寿命をほぼ全うした年齢といえます。

その父子はその後何回生まれ変わりを遂げ、今、何回目の生まれ変わりを経験しているでしょうか。もしかしたら、あなたの隣人がその人かもしれず、またあなたも何度も何度も繰り返し生まれ変わり、23億年あまりをこの人間界で過ごす中で、同じ人物に何度か遭遇しているに違いありません。

しかし、何度生まれ変わってもその一生は昔ならたかが50年、そして今は80年にすぎません。

若いころには時間はいくらあっても構わないと思うものですが、齢を重ねるにつれ、その次に控えている次の人生を考えれば、時の流は速ければ速いほど良いと無意識に思うようになるものなのかもしれず、23億年という途方もない時間を過ごすためにも、死期が近づけば近づくほど時の流れを速く感じるようなしくみになっているのかもしれません。

できれば一度その時間の流れを止めて、これまでの旅の経過を味わい、またこれからの行先を見極めたいと思うのですが、なんとかならないものでしょうか。

2015-9930

震災の日に

2015-1170984今日は、4年前に東日本大震災が起こった日です。

国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録する巨大地震により、地震動・液状化などによる被害だけでなく、巨大津波によって東北地方から関東地方までの太平洋沿岸一帯が壊滅状態になったことはいまだ記憶に新しいところです。

加えて福島第一原子力発電所事故を誘発し、日本は地震、津波、原子力災害というトリプルパンチを受けたわけですが、いまだその後遺症から抜け切れていません。今日という日を迎える前から再三テレビ報道などで復興の状況が伝えられていますが、それらの進捗が思わしくないことは、みなさんもご存知のとおりです。

この震災当時、我々家族は多摩地方のマンション住まいであり、ここも震度3強ほどの揺れに見舞われました。が、幸い私も含め家族全員が怪我をするようなこともなく、家の中の器物も棚から電球が一個落ちてこわれたぐらいの被害だけで済みました。

この日私はちょうど自宅で仕事をしていたので、その後の経過をテレビで注視していましたが、巨大津波によって次々と飲み込まれていく東北の各都市の惨状をみつつも、これは本当に現実なのだろうかと、なかば茫然としていました。

現在のようにメディアが発達してくると、こうした遠く離れた場所での災害の様子や事故の経過などを簡単に茶の間で見ることができ、そうした状況が現実の生活とあまりにも違うためにそのギャップを頭が整理しきれないためにああなったのだろうと思います。

こうした震災もそうなのですが、現在中東で起きているような戦争の状況などもまたこうしたメディアで目にするにつけ、なんと自分は無力なのだろう、といつも思うのですが、その無力感を埋めてくれるようなものはなかなか見つかりそうもありません。

地球全体を見渡した時、こうした災害や戦争がいったいどのくらい同時進行しているのだろう、とぼんやり思ったりもするのですが、さすがにメディアがいくら発達していても、また現在のようにインターネットが普及していても、それらすべてを同時把握する術はありません。

が、神様はすべてお見通しなのだろうな、と思うわけで、改めて人知を超えたそうした存在への畏敬の思いが沸いてきたりもします。

おそらくはこうした災害や戦災をも司った上で、別の場所では恵みをもたらし、全世界のバランスを取っていらっしゃるのだろうな、と推察するわけですが、さすると、こうした人類へ与える脅威の意味は何のだろう、と逆に改めて哲学的な思考に走ったりもします。

私は否定的ですが、大勢の人が死に、怪我をしたり、家を失ったりすることに意味があるとすれば、それは神様の警告であり、戒めである、という考え方をする人もいます。

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1923年に発生した関東大震災後も、こうした災害は天譴(てんけん)によるものだ、という思想が流行したそうです。

東日本大震災が起こる前には、この関東大震災が、この当時の日本人にとっては直近の大災害であり、当時の人々の中にも異常な心理的反応が起こったのは当然のことですが、なぜこの、「天譴」という聞き慣れないことばが流行ったのかを調べてみました。

すると、「天譴」という思想はもともと儒教主義に基づくものであり、奈良・平安の王朝時代に既にこのことばは使われていたようです。本来の意味は「為政者に対する天の譴責」、すなわち、国の指導者に対する天の戒めということのようです。

このことばが何故この大正時代に再びよみがえったかといえば、これはそれ以前に起こった日清戦争や日露戦争による連戦連勝のためです。これらの戦争によって、一応日本は豊かになりましたが、その一方では戦争成金国として人々の心が傲慢になり、道徳心が極端にまで弛緩していた、ということが言われているようです。

震災前のわずか1~2か月間に、情死、姦淫、背任、背徳といった事件が相次いでいたといい、日本の国民生活はまったくもって無反省な、無省察な空虚なものになりつつあった、と指摘する人もいて、ここに大天災が起こって、国民の惰眠を覚醒させた、というわけです。

つまり浮かれすぎ、堕落した人々を懲らしめ、あるいは目をさまさせんがために天が地震を起こしたというのが、この大正版の「天譴論」です。

懲らしめのために天が地震を起こすなどということが実際にあると当時の人々が真底から信じたかどうかはともかくとして、戦争に次ぐ戦争、そしてそこでの勝利という背景を通じて、この「天譴論」に共感を示す人が、大震災体験者たちのうちに数多く含まれていたということは確かのようです。

たとえば内村鑑三は、その日記の中で次のように記しています。「東京は一日にして、日本国の首府たる栄誉を奪われたのである。天使が剣を提げて裁判を全市の上に行うたように感ずる。時々斯かる審判的大荒廃が降るにあらざれば、人類の堕落は底止する所を知らないであろう。」

北原白秋などは、この「天譴」という言葉にその歌心まで揺すられたようで、いくつかの「天譴和歌」を作っています、その一つは、「世を挙り心傲ると歳久し天地の譴怒いただきにけり」であり、また「譴」という言葉は出てきませんが、「大御怒避くるすべなしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る」というのもあります。

このような「天譴」という考えに、知識人を含め当時の多くの人たちが心を引きつけられ賛意を示したということは、東日本大震災を経験した我々にも重要な示唆を与えてくれるように思えます。

今回の震災においても、これは天が我々の素行の悪さを見抜き、これを戒めたのだと考える人は少なくないのではないでしょうか。

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しかし、この「天譴論」の本質は反省と自戒を含めた自罰的、あるいは自虐的な気分が人々を支配したものといえ、よくよく考えてみればその時々の時勢に乗ったいわば「気分」にすぎず、著しく合理性を欠いたものであるのは明白です。

「天譴」を振りかざす人々の間に強い自己反省の意識が含まれているのは確かであっても、そのことは、「天譴論」の軽薄さを薄めるものではありません。我々日本人が今回のような大災害を前にしたときいかに非合理的観念、態度に陥りやすいかを、教訓としてこの大正時代の事例は教えてくれているわけです。

ただ、この天譴論だけでなく、日本人はこうした災害に出会うとまず悲観的になり、そしてとかく自暴自棄になる傾向があるようで、このほかにも「災害は文明、人間存在のはかなさの証明である」というのがあります。

芥川龍之介は、この関東大震災のあと、「丸の内の焼け跡を歩いた時にはざっとああ云う気がしました」と書いており、「ああ云う気持ち」というのは、「人間のはかなさ」のことです。

芥川以外の文人も、たとえば安倍能成は「この大震災,大火災に面して誰しも直に感ずることは、絶大な自然の暴力に対する人間の無力である……」と書いています。

ほかにも、「みな等しく過ぎし世の夢ではなかったのか(室伏高信)」、「我々の営みの果敢なさを感じない訳に行かなかった(宇野浩二)」などがあり、これらはやはり人間の無力さ、文明のはかなさを嘆ずる声です。

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我々日本人がこの「はかなさ」に含ませているのは、死んだ人に対する「悔やみ」のことばであり、この「悔やみ」というものは死者に対するひとつの「免罪符」としての意味を持ちます。

「悔やみ」を口にすることによって、人は死者に対する関係を絶ち切り、生き残った者が死んだ者に対して感ずる「うしさめたさ」に似た気持ち解消することができます。

ところが、この「悔やみ」の中には、その死を生かそうとかこれを契機により強い意思を持って生きようとかいった意味合いは含まれておらず、それゆえこの「悔やみ」の意味を包含する「人間の存在のはかなさ」という考え方もまた、いかにも後ろ向きな考え方であることがわかります。

「われわれにできることは、あきらめることだけだ」というのもあります。

和辻哲郎は、「“きれいにあきらめること”が日本人の心的特性であり、淡白に忘れることは,日本人が美徳としたところである」と述べています。

こちらは「開き直り」とも受け止められます。「あきらめ」というのは開き直りの極地でもあり、一見高い妥当性をもっているように思われます。良い悪いは別として、「あきらめの境地」は自我の放棄であり、それそのものは上述の天譴のように批判されるべきものではありません。

「今さらどうこうしても仕方がない。ただあきらめるしかしようがない」という考え方をする人は、今回の震災体験者などの間でもかなり多いのではないでしょうか。

武者小路実篤もまた、その手記で関東大震災のあと次のように書いています。

「随分恐ろしい出来事だったと思った。死んだ人の話なぞには正視できないようなことがいくらでも起ったことを知った。しかし皆過ぎてしまったことである。もう自分達には如何とも出来ない。勿論前に知っていたとしても、逃げることより他、別にいい知恵が自分にあるとも思わない。」

まさに「あきらめの境地」であり、自然の脅威に対してなすすべはないという自分の思いを武者小路実篤のような大文人ですらも素直に吐露しているわけです。

とはいえ武者小路はまた、「すぎてしまえば、生き残った者は生きのこったよろこびを味わって生きてゆこうと努力するより仕方がない。」とも書いており、災害に対する無力感をただ開き直るだけでなく、それを生きるためのエネルギーに転換しようと考えていた点は共感できます。

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開き直りといえば、「災害など意味をもたない」というのもあります。関東大震災直後に書かれた知識人の手記・体験記の類の中には、史上稀な大災害を経験したにもかかわらず、比較的冷静な反応を示したものが意外と多いようです。

例えば、寺田寅彦は地震発生後2か月ほどあとに知人に宛てた手紙の中で次のように書いています。

「地震の災害も一年たたない内に大抵の人間はもう忘れてしまって此の高価なレッスンも何にもならない事になる事は殆んど見えすいて居ると僕は考えて居ます、来年あたりから段々人気は悪く風俗も乱れ妙な事になって来るだろうと予想して居ます。」

「唯市街が幾分立派になるかも知れんがそれも結局は従来と大した変りもなく、チャゴチャとしたものになり、今後何十年か百何年かの後に、すっかりもう人が忘れた頃に大地震が来て又同じような事を繰返すに違いないと思って居ます。……いつ迄たっても人間は利口にならないものだと思って居ます」

「此の高価なレッスンも何にもならない」といった表現は、災害の発生の意味の否定であり、また「又同じような事を繰返すに違いない」「人間は利口にならない」は、災害に対する備えという努力についての拒否とも受け止めることができます。

正宗白鳥も、震災後の「週刊朝日」へのインタビューの中で「災厄に面した際には、これが世の末だと思っても、少し日数がたつと、太平楽を唱えて元気のいい所を見せるのは、文学者ばかりではないのである」と語っています。

また、「災厄に会って今更らしく無常を感じて、道徳によって無常が消え失せるように思ったりするのは滑稽に見える」という意味のことも語っており、寺田と正宗のこうしたことばの共通点は、自然災害に対するあきらめの意識や無力感の先にある、「災害など大した意味をもたない」という気分のようです。

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このように、自然災害に直面した場合の日本人の対応・反応の特徴は、天譴のような非合理的な思考であり、あるいは「はかなさ」「無力感」ですが、ときにこれは「あきらめ」のような「開き直り」となり、究極は「意味を持たない」となるわけです。

自然災害というものに対して人それぞれが感じることであり、そのひとひとつをって正しいとか悪いとかいうつもりはありませんが、総体的にみて多くの日本人が感じるこうした感情はいかにも後ろ向きな感じがします。

とはいえ、これが自然災害に対する日本人の心理的・精神的対応であり、こうした日本的災害観イコール日本人特有の人生観・世界観なのでしょう。

恐らくは、震災後の復旧においても、日本人は全般にこうした人生観、世界観に基づいて行動していると思われ、東日本大震災後に世界を驚かせたような、整然とした対応はここから来ているものだと考えてよいのではないでしょうか。

天譴や「災害など意味を持たない」はあまりにも両極端な気がしますが、その両方に振れすぎないように、うまく、「はかなさ」「無力感」「あきらめ」の気分の中で自分たちをコントロールしているようにも見え、そこが逆に日本人が持っている素晴らしい特性のような気がします。

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日本は地震や津波だけでなく、火山の噴火や台風といった災害に常にさらされているといっても過言ではなく、そう考えると、こうした自然災害に対する「気分」は「文化的な現象」である、という見方もできるでしょう。

自然災害は日本固有の文化と深く結びついており、日本人の人生観・世界観はそこから形成されている、と考えるならば、自然災害そのものが日本文化を形成しているとまで言えるかもしれません。

今回の震災や阪神淡路大震災も含め、それが起こった理由を一言で言うならば、それは天譴などではなく、日本人の文化を形成するために必要なものだった、ということがいえるのかもしれません。

それが、今日のおまえの「論文」の結論か、といわれればかなり貧弱なロジックだと思いますが、ひとまずこれで逃げさせていただくとしましょう。

実は、今日3月11日というのは我々夫婦にとっても特別な日です。3年前の今日、東京を離れてこの伊豆の地に越してきたその日であり、いわば「引越し記念日」です。

たまたまその日は震災記念日でもあったわけですが、その日が我々の特別な日であったということもまた必然なのでしょう。この日を自分たちの日だとだけ考えるのではなく、震災に遭われた人々のために何ができるかも考えろ、と神様がおっしゃっておられるような気もします。

4年目に突入する今年、その何かが何であるかを見極めたいところですが、それが実現するかどうかもまた天の思し召しと考え、何が起こってもそれは教訓、今後も自然体のままでいよう、それこそが我々の文化だ、と心に誓って行きたいと思う次第です。

2015-1180098

東京赤坂 豊川稲荷別院にて

メッセージ・イン・ア・ボトル

2015-9670今朝方、妙な夢を見ました。

家の中を整理しているというシチュエーションの中で古い封書が出てきたのですが、不思議なことに開封されておらず、開けていいものかどうか迷いつつ、やっぱり開けよう、いやいや待てよと、延々と逡巡を繰り返す、といったものです。

どういう意味があるのかな~と紐解いてみようと思うのですが、結論が出るような話でもなく、朝食を終えて、今こうして机に向かってそのことを書き始めた次第。ネットで夢占いのサイトを探して読んだところ、古くボロボロになった手紙を受け取る夢を見たら、昔の恋人との再会や、疎遠になっている友達との交流復活がありそう、とのことでした。

受け取ったわけではなく、自分で見つけたんだったよな~と改めて自分が見た夢とは少々違うことが気になったのですが、しかし解釈を変えれば、自分自身が昔の友人か誰かを発掘する、ということなのかもしれません。

ここ静岡には、昔大学のとき沼津や清水に住んでいたころにできた地元の友人も何人かおり、疎遠になっているものの、確かに連絡を取れば再会できる可能性があります。そうした人と連絡を取れば何か良いことがあるかもよ、という夢だったのかもしれません。

この夢が正夢かどうかはいずれわかるでしょうが、それにしても、手紙というものはなかなか捨てられないものです。

先日、といっても正月過ぎのことですが、実際に押入れの中を整理していたところ、古い手紙の束が出てきました。すっかり忘れていたそのひとつひとつに目を通すと、往時のその手紙の相手との関係性が改めて思い起こされ、そのころの気持ちや情景があざあざと目に浮かんできて懐かしく思ったものです。

いわば「タイムカプセル」のようなものであり、それゆえに古い手紙は捨てられないのだろうと思います。ご存知のとおり、カプセル状の容器にその時代のものを入れて地中に埋め、ある年月後に開ける、というものですが、それにしても、この長い時間を封じ込める装置は一体いつごろからあるのでしょう。

調べてみたところ、まず「タイムカプセル」という用語が初めて使われたのは、1939年のニューヨーク万国博覧会のときのことだったようです。

この博覧会の目玉のひとつとして、文明が崩壊しているかもしれない5000年後(=6939年)のための「時限爆弾(タイムボム)」を埋めることが提案されました。が、爆弾はぶっそうだというので、より穏当な「タイムカプセル」という言葉に置き換えられたようです。

このタイムカプセルは、ウェスティングハウス社が製作し、魚雷型で長さ2.2m、直径20センチほどだったそうで、ケースだけで重さ360キロあまりもありました。7つの鋳鉄の円筒がアスファルトで結合されたもの。内側は耐熱ガラスが張ってあり、真空にされたうえで、窒素が充満されたといいます。

中には、糸巻、人形、本、主な穀物の種を入れた小瓶、顕微鏡、15分間のニュース映像、通信販売カタログや約14000語をふくむ辞書や年鑑を撮影したマイクロフィルムなど日用雑貨や当時の記録が収められ、万博が始まる前の1938年9月23日ニューヨーククイーンズのフラッシング・メドウズ公園の会場内の地下15mに埋められたそうです。

ほかにも、5000年後に欠乏しているであろう石炭や、このカプセルがいかにして成り立ったかその発見方法・英語発音に関する注意書きなども封入されたそうですが、当然のことながらこれが開封されるころには、これを埋めた人も、またその事実を記している私も含めた現在の人類はすべて生きていないでしょう。

日本で知られるものとしては、1970年の日本万国博覧会の年に、当時の松下電器(現・パナソニック)が毎日新聞により企画、製作され大阪城公園に埋められたタイムカプセルがあります。こちらも5000年後の6970年開封予定だそうで、我々が生きている間に中身を見ることはかないません。

そんな埋めた当人が見れないようなものを埋めてどうすんじゃー、という意見は当然あるでしょうし、私もそう思います。が、そうしたものを埋めて未来の人に残す、というロマンなのだよ、君は理解できないのかな~とまことしやかに言われると、まっいいか、誰が損をするわけでもないし、と思ったりもします。

が、こうしたイベントで作られるタイムカプセルには大枚な金が投入されることも多く、しかもその投資額は投資者が生きている間には当然回収されることもないわけですから、その費用をだれが持つのか、という問題は当然出てきます。

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ロマンなんだから金の心配なんかすんな~という声も聞こえてきそうですが、そうだとしても実際には完璧と思われたタイムカプセルの密封度が十分でなく、中身が保存予定期間の間に失われてしまう可能性も指摘されています。

とくに酸化による劣化は、長期保存を行うタイムカプセルの内容物にとっては重大な脅威であり、このほかマイクロフィルムや磁気テープなど記録する媒体自体が時間と共に劣化し再生できなくなる可能性も大です。5千年後に媒体内にあるデータを読み取る機器や規格が廃れる可能性もあり、このほか記録した言語が滅びてしまうことだってあるでしょう。

価値も分からなくなり結局無価値になるものを金かけてわざわざ埋めるんかい、という批判はおこって当然であり、実際にも短期間で掘り出されたタイムカプセルにはこうした問題が発生しています。

例えばアメリカのオクラホマ州で、この州の合衆国加入の記念行事の一環として、加入50年目の1957年の記念行事で設置されたタイムカプセルは、「核攻撃にも耐える」堅牢な地下室構造のものだったそうです。この中には、当時の人気自動車プリムス・ベルヴェデアの他、50年後の石油資源の枯渇も考慮しガソリンの缶詰も内部に納められました。

華々しいセレモニーが行われる中、埋設されたこのカプセルは予定通り、50年後の2007年に予定どおり開封されましたが、いざ実際に地下室から取り出された自動車は、その原型こそ保たれていたものの、往時の見る影もなく鉄屑も同然に赤錆びており、もはやスクラップにでもするしか使い道の無い有様であったといいます。

地下室は厳重に封印はされていたものの気密性が低く、長い年月の間に徐々に地下水が地下室に染み込んでゆき、これが原因で腐食してしまったようです。同様な話は、日本などでも散見され、学校においての卒業記念や、会社の創業記念、建物竣工記念などでつくられものが掘り出されたときのトラブルは後を絶たないそうです。

そもそも埋設地の目印がなかったため、場所が突き止められなかったというケースは案外と多く、このほか、後年にその場所が駐車場や道路として舗装されてしまっていたり、直上に建物などの構造物が建てられてしまったケースもあります。

教育機関や公共施設では、人事移動や退職の際にタイムカプセルの件について引き継ぎがされず、やがて埋設の当時を知る職員がいなくなり、目印が撤去されたり施設が改築されるなどした結果、埋めた場所が判然としなくなるというケースもあるようです。

少子化に伴う学校統廃合などにより施設が廃止され、その跡地が企業に売却されたり住宅用地として分譲されるケースもあり、後年になってから騒動となるケースもあるようで、このほか、過疎地域では、過疎化の進行などでコミュニティ自体が事実上崩壊し、そのまま忘れ去られてしまう、といったことも起きているようです。

未来の人類に対するメッセージとしての夢もある一方、こうして意図的に作られたタイムカプセルは金がかかるばかりでちっとも歴史的資料にならない、といった批判が後を絶ちません。作った人の日常生活が分かるもの、たとえば日記帳、スナップ写真、書類などのほうがより歴史的価値が上がるだろうとする学者も多いようです。

突然の火山噴火によって埋もれたポンペイ遺跡のような「意図せざるタイムカプセル」には、往時の落書きなどが豊富に残り、古代ローマの日常生活について知る重要な手がかりになっているといいます。タイムカプセルに入れるものとしては、あまり奇抜なものは避け文書や映像などの基本的なものにすべきだという声も多いようです。

日本では、経典を後世に残すために陶・石・金属などで作られた容器を造り、さらにそれを石・陶製の外容器に入れた「経筒」を木炭などの除湿剤とともに埋納する「経塚」が太古に多数作られており、近年こうしたものが発見されて話題になるとともに、貴重な史料として高い評価を得ています。

木星探査機、パイオニア10号・11号に取り付けられた金属板には、これを地球外知的生命体に発見させ、内容が解読されることを期待して設置された金のレコードが取り付けられており、このレコードに電子的なメッセージを入れています。

115枚の画像と波、風、雷、鳥や鯨など動物の鳴き声などの多くの自然音のほか、様々な文化や時代の音楽、55種類の言語のあいさつ、カーター大統領と国際連合事務総長クルト・ヴァルトハイムからのメッセージ文なども加えられ、このうちの画像はアナログ形式でコード化され、残りの音声情報は16と3分の2回転で再生できるようにしてあります。

宇宙では酸化はありえないため、宇宙の果てを延々と飛び続けるパイオニア10号・11号が他の星の知的生命体に発見された場合には、これを解読して貰える可能性は高く、同じタイムカプセルでもこうした形のほうがより合理的です。

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しかし、このパイオニア計画におけるメッセージは、私たち自身が見ることはできないわけであり、そこが最大の問題です。そこで、我々の子孫が見ることができるようにする、「宇宙タイムカプセル」をロケットで打ち上げよう、という計画があります。

現在の地球の人々から、カプセルが大気圏再突入する5万年後の人類に対して贈られるメッセージを搭載した衛星を打ち上げようというもので、当初2003年に打ち上げを予定されていましたが、2006年、2007年、2010/2011/2012年と延期され、今のところ、今年2015年にこれが予定されているということです。

KEO衛星といい、この名前は、口語で最も頻繁に使われている3つの音であるKとEとOに由来するそうで、国際連合の教育科学文化機関や欧州宇宙機関、中国の大手通信事業グループ、ハチソン・ワンポアやその他の組織に支援されています。

搭載されるメッセージは、プロジェクトのウェブサイトか郵便によって誰でも投稿することができるそうで、世界中の全ての文化や人種が代表できるように、子供、老人、非識字者の人からもメッセージを集めることが目的とされています。

なぜ5万年後かといえば、これは人類が洞窟の壁に絵を描き始めてから今までとほぼ同じ期間だからだそうです。

この衛星は、全ての地球人約60億人以上から集めたメッセージを搭載するのに十分な容量を持っているといい、衛星が打ち上げられた後も、ウェブで自由にそのメッセージを見ることができるといいます。無論、衛星搭載の本文の書き換えはできないのでしょうが。

KEOにはこのほか、ランダムに選んだ人の血液、空気、海水、土を封入したダイヤモンドも載せられる予定だといい、このダイヤモンドにはヒトゲノムのDNAも埋め込まれているそうです。

また、いくつかのパルサーの現在の回転速度を示す天文時計、全ての文化の人々の写真、現在の人類の知識をまとめている百科事典の抄録等も載せられ、これらのメッセージと図書は、ガラス製の放射線耐性能を持つDVDに記録されるといいます。

未来の人類がDVDプレーヤーを作成できるように、何通りかの図形での説明が加えられているといい、衛星自体は直径80センチメートルの中空球で、球には地球の地図が掘られ、アルミニウム層、耐熱層、真空で接着されたチタンやその他の重金属製の何枚かの層で覆われています。

宇宙線、大気圏再突入、宇宙塵との衝突等に耐えられるように設計されており、打ち上げられたあと、高度8,700マイル(1,400km)の地球軌道を回るように設計されています。軌道上で幅10メートルの1対の翼のような太陽電池を広げ、これにより通信機能や飛行高度を維持する動力などを得るように設計されています。

かなり大きな翼であることから、遠い未来の地球からの観測者も見つけやすいといい、5万年間ぐらい漂ったあと、主電源が落ちるようになっていて、大気圏に突入するようプグラミングされています。また、この再突入時には、表面の耐熱層が燃焼して人工のオーロラを作るようにもなっているともいいます。

そのオーロラを見た未来人があれは何だ!と見つけてくれるのを期待してのことなのでしょうが、果たしてそううまくいくのかどうか。が、仮に発見されなくても強化合金で本体は保護されているため、無事に地上へ落下するはずだといい、また万一海に落ちた場合でも浮力があるため、漂っていられるそうです。

そうすると、仮に未来人に発見されることなく海に落ちた場合は、長らく「ボトルメール」状態になるわけであり、酸化の心配のない宇宙ならまだしも、塩分も多い海の上でホントに大丈夫なの?と疑い深い私などはついつい思ってしまいます。

がまあ、遠い未来の地球人たちはそうした地球外からの飛来物を探知する技術を持っているやもしれず、地上に接近したらこれをキャッチできるに違いなく、また海の上でも探しだすことのできる能力を持っているに違いありません。

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片や、現在における人類は、この「ボトルメール」ですら探知する能力はありません。放流されるやいなや海の上を漂い続けるだけのものであり、放流しても誰が拾ってくれるのか、また本当に拾ってくれるかどうかもわかりません。

日本語では「漂流ビン」などと表現されることも多く、“ボトルメール”という表現はあまりなじみがないかもしれません。

和製英語であり、ボトルメールは英語では、“message in a bottle”といいます。その名も、「メッセージ・イン・ア・ボトル」という映画が、1999年にケビン・コスナーが主演で公開されたため、その呼び名を知っている人も多いでしょう。

この映画は、ノースカロライナ在住の主人公が亡くなった恋人への哀悼のために流したボトルメールを、遠く離れたマサチューセッツの海岸で別の女性が拾い、そのことがきっかけで二人がめぐり合う、というラブストーリーですが、私も見た記憶があります。

無論、架空の物語なのですが、実際、長い年月を経てこうしたボトルメールが発見されることがごくたまにあり、この映画に近い哀話が事実として存在します。

1914年、第一次世界大戦のさなか、あるイギリスの兵士が妻に宛てた手紙を緑色のボトルにつめてイギリスの海峡で投げ込んだといい、その彼は2日後、フランスにおける戦いのさなかに死んでしまいました。

ところが、これから85年も経った1999年になって、漁師がテムズ川でそれを拾い上げたといい、宛先の女性はすでにこれより20年前の1979年に亡くなっていたそうです。が、この手紙はその後、ニュージーランドに住んでいる、女性の娘に届けられたそうで、この話はその当時全世界的なニューとして流れたようです。

また、ロバート・クラスカーという、オーストラリア人 カメラマンが1977年に記した本には、日本人の漂流者がやはりボトルメールを残した、という記事があります。

それによれば、1784年、日本人の「マツヤマ・チウノスケ(おそらくは松山千代之介)」とその43人の仲間が太平洋諸島へ財宝探しに行こうと海にのりだしましたが、嵐に遭い珊瑚礁に座礁し近くの島に避難せざるを得なくなりました。

しかし、その島で飲料水と充分な食糧を見つけることができず、そこで得られるココナッツや蟹だけを食べているうちに脱水症と飢餓で死亡者が出始めました。そこで千代之介は自分が死ぬ前に、自分たちの旅で起きたことをココナッツの木の断片に書き、それを瓶につめて海に流したところ、これがおよそ151年後の1935年に日本に漂着しました。

見つけたのは、日本のワカメ採りの漁師だったといい、その場所はなんと千代之介の故郷の海岸だったというのですが、なぜこのカメラマンがその事実を知っているのか、なぜ日本側には記録がないのが少々不思議です。が、戦前の話であるため、往時の記録は戦争のため日本側では焼失してしまったということは考えられるでしょう。

また、戦争前でありまだ日豪の交流があった時期のことであったとすれば、在日していたオーストラリア人の誰かがこの話を母国に持ち帰ったのかもしれません。

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が、実話かどうかわからないためか、ギネス世界記録に登録されている、「回収された事のある最古のボトルメール」の記録としては、1914年6月10日に海に流され、2012年4月に発見された手紙となっています。これは、グラスゴー航海学校のC・ハンター・ブラウンという人が流した合計1890本の瓶のうちの一本だそうです。

北海の深層海流を調査する目的で放流されたものであり、海底付近を流れるように特別な錘が付けられていといい、これによってこの瓶は、流地点からわずか約15kmの地点でトロール船によって網で引き上げられたといいます。ビンの中には「646B」という番号が振られた紙が入っていたといい、これによってその出所が確認されたというものです。

最近では、1913年、ドイツのバルト海に投げ入れられたボトルメールが101年目にあたる昨年の2014年3月に海底から回収され、送り主の孫娘が特定される、ということがあったようです。上述の航海学校よりも古い記録なので、現在はもうギネス記録が更新されているのではないでしょうか。

以後、ボトルメールが投函された記録を古い順に見ていくと、1916年2月には、ドイツの飛行船、ツェッペリンL 19に乗っていた乗員が海に投げ入れたボトルメールが、6カ月後にスウェーデンの漁師によって6カ月後に発見されました。

このL-19は天候悪化のため、海上に墜落して乗員全員が死亡。その後遺体や機体の一部が発見されたようです。このボトルメールを出した乗員はその手紙の中で、この飛行船がエンジントラブル3回繰り返したのち、故障したことなどを記しており、「最後のメッセージ」と記していたことから、この後のトラブルを予想した遺書だったことがわかっています。

さらに1945年12月には、第二次世界大戦中、アメリカ軍人が乗船していた船の上から投げたところ、これをアイルランドの女性が拾い、これをきっかけに二人は7年間も手紙の交換を行うようになりました。しかし、国際的な報道合戦の中で、彼らはこのロマンスをうまく全うすることができませんでした。

一番最近では、2005年5月には80人ものコスタリカの難民が漂流中に瓶の中にSOSメッセージを入れて流したところ、運よくこれを漁船が見つけて彼等は救出されたそうです。が、このケースは本当に稀なケースであり、通常なら何年かかって漂着するかわからないようなものに自分の命を託すということはありえません。

過去に長い歴史の中で、ボトルメールが実際に届いたとされる記録は上述までのようにかなり少なく、確かにロマンを感じる行為ではあるのですが、実際に誰かに拾ってもらえるというのは、かなり確率が低いことと認識せざるを得ません。

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ましてや、遭難救助のために流すというのはまず正気の沙汰とはいえません。それでふと思い出しのですが、1989年に、北海道の大雪山系で黒岳から旭岳に向かう途中に行方不明になった登山者を捜索していた北海道警察のヘリコプターが、登山ルートから外れた場所で倒木を積み上げて造られたSOSという文字を発見する、という事件がありました。

行方不明だった登山者はそこから2、3キロ北で無事救助されたそうですが、このSOSの文字については本人は知らないと話したため、別の遭難者がいたと見た北海道警察は、翌日改めてヘリコプターを派遣し、調査を進めました。

その結果、動物により噛まれた痕のある人骨の破片とSOSと叫ぶ若い男の声が記録されたカセットテープレコーダーなどが収容され、最終的には、行方不明者のリストや遺留品から1984年頃に遭難した男性と特定されました。

遺留品のカセットテープレコーダーには男の声で「エースーオーエース、助けてくれ。崖の上で身動きとれず、ここから吊り上げてくれ」と吹き込まれていましたが、聞いている者がいないのになぜこのような事を絶叫し遺したのかについてはかなりの疑義を呼びました。

一つの推測として、テープレコーダーに大声で録音したものをボリューム最大で再生すれば、地声による「SOS」よりも誰かの耳に止まる可能性が高いと考えたということがあげられます。また、ヘリコプターが飛んでいるのを見て声を出して動いている際、バッグの中で偶然カセットテープレコーダーの録音スイッチが入ったのでは、との説もあります。

が、いずれにせよご本人が死亡しているため、その真相は闇の中にあります。2012年には、ロシアで同じような事件があり、このときは、コケモモを求めて山中奥深くに入り込んだ男女3人が遭難。シラカバの幹でSOS文字を作り、救助を待ったところ、たまたま森林火災の消火を行っていた航空機がこれを発見しました。

遭難から5日という短い期間で救助されたといい、上述のコスタリカ難民よりも効率がよかったわけですが、それにしてもたまたま運がよかっただけといえ、海でも山でも人気のない場所で遭難という危機に瀕したときのこうした対策は全くあてにはなりません。

この北海道の遭難者が残したテープには、ほかにこの当時のアニメ人気作、「超時空要塞マクロス」と「魔法のプリンセス ミンキーモモ」の主題歌などが収録されていたといい、かなりのオタク少年ではなかったのかという憶測もこの当時さかんにマスコミや週刊誌が流したようです。

が、プライバシーの問題もあり、その後この人物の詳しいプロフィールの公開は行われなかったようです。それにしても北海道のこんな僻地に何しにいったのかは今もって謎です。オタク少年を魅了するような何かがこの土地にあったのでしょうか。

オタクといえば、こうしたアニメのほかにゲームの大好きな最近の若年層向けに、ボトルメールを模したソフトウェアが開発されているようです。ボトルを流した者同士でボトルを拾いあい、互いのデータを自動的に交換できるしくみだそうです。

実際のボトルメールは不確実性があるのに対し、こちらはある程度確信的な手紙交換といえ、ボトルメールという言葉自体がしっくりこないような気もします。が、ネット全盛のこの時代とはいえ、ついに電子上でもボトルメールが登場したかと、少々呆れてしまいます。

このほかネット上を「漂流する」メールを開発した会社もあって、こちらはさすがにすぐに廃止になったようです。すわスパムメールか、と思う人も多いことから当然といえば当然ではあります。が、ある日突然、何十年前のメールが届く、といったことがもしもあったとしたら、多少のロマンを感じないでもありません。

が、不気味なことでもあり、セキュリティの事を考えればあってはならないことでもあります。

それでも、寂しい時代です。こうしたボトルメールを欲しがる人もいると思われ、日本でも高齢化が進み、一人暮らしのお年寄りが多い中、ボトルメールでもいいから、こないかな、と思っている人は案外と多いかもしれません。

あなたはいかがでしょうか。振り返ってみて、それでもボトルメールがやはり欲しい、と思ったら、それはもうすでにあなた自身の高齢化が進んでいる証しかもしれません。

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