昆布と蝦夷と……

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今日は、5月18日、ということで、ファ(5=ファイブ)・イ(1)・バー(8)の語呂合せで「ファイバーの日」なのだそうです。

誰がそんなダジャレを思いついたのかと思えば、食物繊維に関する情報提供を行う学術団体だそうで、「ファイバーアカデミア」というものがかつてあったようです。

ファイバーはつまり、食物繊維のことです。体内の老廃物や毒素を吸着して排出する「解毒」として我々が生きて行く上で必須の素材であり、その正しい摂取方法などを提唱していく、ということを目的に、栄養学の専門家かドクターなどが2005年ごろに発足させた団体のようです。

そもそも食物繊維とは何ぞやということですが、これは人の胃などにある消化酵素によって消化されない、食物に含まれる難消化性成分の総称です。植物、藻類、菌類に多く含まれ、これらを食品として摂取した場合は、消化されないで、体外に排出されます。

このため、その昔は役に立たないものとされてきました。が、後に有用性がわかってきたため、日本人の食事摂取基準で摂取する目標量が設定されているようになりました。成人では、1日に必要な食物繊維の摂取目安量は20~27gとされていますが、現在の日本人の摂取量は1日14g程度だといわれています。

目標量に比べて不足している、というわけで、上述の団体がこの足りない分量の摂取を呼びかけていくことを目的に発足させた、ということのようなのですが、意図はわからなくはないにせよ、組織化までしたいったい何を目指していたのかよくわかりません。また、ホームページも閉鎖されており、関連記事もみつかりませんでした。

なので、どういった運営をしていたのかなどもどうかもよくわかりません。いまはもう解散してしまっているのではないでしょうか。もし存続していたとすると、大変失礼なことで、お詫びしなければなりませんが。

ま、それはともかく、食物繊維というのは、人間の体になくてはならないもののようです。その効用としては、脂質異常症予防、便秘予防、肥満予防、糖尿病予防などがあるようで、このほか動脈硬化の予防、大腸癌の予防、その他腸内細菌によるビタミンB群の合成、といった効能もあるようです。

食品中の毒性物質の排除促進等も確認されているということで、上述のとおり「毒消し」の効果もあります。さらに高齢者で食物繊維の摂取量が多いと、働き盛りの青壮年なみに胃の中にビフィズス菌等が優勢になるそうで、老人特有の有害菌が抑えこまれていることも実証されているそうです。

つまりは、老化防止になるわけであり、さらには腸内腐敗防止、免疫強化、腸内感染の防御、腸管運動の促進などなど、胃や腸にはいいことずくめです。

海藻、全粒穀物、豆などに食物繊維が多く含まれますが、とくに多いのが、ワカメやヒジキ、昆布などで、100グラム中に、それぞれ69g、61g、37gも含まれています。このほか、かんぴょう30 g、海苔26 g、切り干し大根21gなども多いようです。小豆18 g、大豆17 gなどの豆類も食物繊維の多い代表です。

ちなみに、私はワカメや昆布、海苔といった海藻が大好きで、今朝もワカメを食べました。そのためかどうかわかりませんが、総じてお通じはいいほうで、日々の生活で大の字が出ないという日は、ほぼありません。

……きたない話でスイマセン。しかし、ダイエットにもいいわけであり、食べてもよしで、私としては声を大にしてこうした海藻食をみなさんにお勧めしたいとおもいます。

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それにしてもワカメと昆布は何が違うのだろう、と疑問を呈するひともいるかもしれませんので、一応解説しておくと、ワカメも昆布もいずれも、「コンブ目」に属する同じ仲間の海藻です。ただし、ワカメは、コンブ目チガイソ科の海藻であり、コンブはコンブ目コンブ科に属します。

しかし、ワカメは北海道以南ではだいたいどこでも、生育していますが、コンブのほうは、北海道沿岸と三陸海岸などの寒い地域の海藻であり、寒流である親潮が流れ込む冷たい海でないと育ちません。また、ワカメはあまり大きなものないため手で摘むこともできますが、コンブは巨大になる物も多く、ときにその収穫には船は欠かせません。

が、いずれも古くは、食用の海草として「め」と呼んでいました。漢字では、古くは「軍布」(万葉集)、「海布」(古事記)、「海藻」(風土記)などと書かれ、とりわけ昆布を指しては「ひろめ」とか「えびすめ」と呼んでいたようです。「ひろめ」は幅の広いことで、すなわち広布、「えびすめ」は蝦夷の地から来たことに由来すると考えられています。

今のように「コンブ」と呼ばれるようになった理由にはいろいろ説があるようですが、最も有力なのは中国から輸入された言葉の「昆布」の音読みであるとする説です。この漢名自体は、日本ではすでに正倉院文書や「続日本紀」(797年)に確認できるそうです。

しかし、こうした文字で確認できる依然の縄文時代の遺跡からも、ワカメや昆布などの海藻の植物遺存体が見つかっており、かなり古い時代から食されていたようです。平安時代には陸奥で採れた昆布が朝廷に貢納されていた記録があり、さらに時代が下った戦国時代には、陣中食としても使用されていました。

江戸中期には、北海道から入ってくるコンブの中継地が敦賀となり、ここから大阪や江戸の各地に広がりました。しかし、敦賀から琵琶湖を経て陸路で京都経由でないと大阪までは届きません。一方、北前船なら日本海航路を通って下関へ行き、ここから瀬戸内海経由で大阪に昆布を運べます。

遠回りにはなりますが、大量に昆布を運ぶことができますし、だいいち昆布はすぐに腐るものではありませんから、こちらのほうが輸送方法としては尊ばれるようになりました。

その後蝦夷地の開発が盛んになると、北前船の航路の整備もさらに進み、出荷量がさらに増加して、全国に広まっていく事になります。このため大阪には多くの昆布問屋できるようになりました。

乾燥させた昆布を湿気の多い大阪で倉庫に寝かせておくと、熟成することで昆布の渋みが無くなり甘みがでてきます。安土桃山時代に農・乾物の一大集積地であった大阪は多湿な気候が功を奏して乾物や昆布の旨味を熟成させ、江戸時代にはこれらは大阪の味ともされました。

一方では、大阪の農産物が北前船で蝦夷に渡り、これと交換に蝦夷から運ばれた乾物は、昆布のほか、帆立貝、棒ダラ、身欠きにしんなどがありました。しかし昆布の輸送量は中でも断トツに多く、上方でその上質なものの大部分が消費されました。

このため、江戸へ回る昆布の量は少なく、その残りものだけが江戸で流通するようになりました。品種としては、数ある中でもとくに蝦夷での採取量が多かった日高昆布が主流でした。

しかし、江戸の水質は上方より硬度が高く、昆布のダシが出にくいものであったために相対的にはあまり普及せず、ダシの材料としては主に関東近辺でも入手しやすいカツオを使った「鰹節」が多く使われました。

このため、「だしの文化」として江戸はカツオ、大阪はコンブ、とはよくいわれることです。江戸では、このようにコンブの流通量が少なかったため、だしをとったあとのコンブも貴重品といえ、このため、出がらしのコンブを醤油などで煮しめて再利用しましたが、これが「佃煮」と呼ばれるものです。

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江戸時代も後期になると、こうした蝦夷地と上方間の北前船の運行によって、この昆布などで大儲けをする廻船業者も増えましたが、中でも最も有名なのが、高田屋嘉兵衛です。

明和6年(1769年)に淡路島の百姓・弥吉の長男として生まれました。22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出ますが、淡路で瓦船などに乗った経験のあった嘉兵衛はすぐに頭角を現し、船の進路を指揮する表仕、沖船頭(雇われ船頭)とすぐに昇格していきます。

その後カツオ漁などで儲けた彼は、これを元手に北前船を購入しましたが、この船はこの当時としては最大級となる千五百石積み(230トンほど)の船で、「辰悦丸」といいました。
そして辰悦丸を入手したのちは、蝦夷地まで商売の手を広げるようになりました。

兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという商売を行いますが、この商売は当たり、寛政12年(1800年)ころまでには、兵庫の西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛」の看板を掲げる店を開けるようにまでなります。

さらには、国後島と択捉島間の航路を開拓して、択捉島では17か所の漁場を開き、アイヌに漁法を教えることでさらに漁獲量を増やしていきます。そして享和元年(1801年)33歳のとき、択捉航路の発見・択捉島開拓の功により、嘉兵衛は幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許されました。

文化3年(1806年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛は漁場を次々開拓、蝦夷地経営で「高田屋」の財は急上昇していきました。このころから慈善事業にも取り組むようになり、文化6年の大火で箱館市街の半分が焼失した際には、被災者の救済活動と復興事業を率先して行ないました。

市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業も実施しました。文化7年(1807年)には箱館港内を埋め立て造船所を建設。兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造しましたが、現在の函館の隆盛の基礎はこの高田屋嘉兵衛が創ったといっていいでしょう。

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ところが、このころから日本はそろそろ幕末の激動期に入っていきます。文化元年(1804年)、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、外交官で商人でもあったニコライ・レザノフを日本に派遣し、日本との通商を要求しました。しかし江戸幕府はその信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示。

これを受けて長崎に向かったレザノフは、ここを拠点に半年にわたって江戸幕府に交渉を求めますが、その活動範囲は出島に留め置かれ、幽閉に近い状態を余儀なくされました。

その上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至ります。そして皇帝の指示も仰がないまま、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させました。

文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、ロシア兵が上陸。倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後放火したのち、逃走するという事件がおきます。

それ以前から幕府は危険を察知し、新津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約3,000名の武士が徴集して蝦夷地の要所の警護にあたっていましたが、このロシア側の行動に対してはなすすべもなく、利尻島では襲われた幕府の船から大砲が奪わるというようなこともありました。この襲撃は文化年間に起こったので、「文化露寇」ともいわれます。

この事件は、爛熟して文化の華が開き、一見泰平にみえた日本に、あらためて国防の重要性を覚醒させる事件となりました。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めるようになります。

文化露寇の後、日本の対ロシア感情は極めて悪化していましたが、そうした中、文化8年(1811年)、軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていた船が国後島の泊に入港した際、艦長で指揮者だったヴァーシリー・ゴローニンが、国後陣屋の役人に騙されて捕えられ、松前で幽囚の身となります。

ゴローニンはロシア帝国の海軍軍人で探検家でもあり、1807年から1809年にかけディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行なうなどの歴史的な偉業もあげ、ロシア国内でも高い評価を得ていた人物です。

このとき、目の前で艦長が連行されるのを目の当たりにした、ディアナ号の副艦長のピョートル・リコルドは一旦オホーツクに戻り、この事実を本国に報告しました。

ちなみに、現在のオホーツクは、ウラジオストックやナホトカよりはるか北にある小さな町ですが、このころはアラスカからの毛皮や水産物の交易でも栄え、露米会社の拠点でもありました。その後沿海州をロシアが獲得したことにより、ウラジオストックが極東ロシアの中心として繁栄し、オホーツクの重要性は失われました。

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その後、オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、文化露寇で捕虜となりシベリアに送られていた商人の中川五郎治(良左衛門)や文化7年(1810年)にカムチャツカ半島に漂着した摂津国の歓喜丸の漂流民を使うことを思い立ちます。そして彼等を牢獄から出し、同伴して国後島に向かいました。

国後島に着いたのちはまず漂流民を釈放し、さらに日本側からゴローニンの消息の情報を得るために良左衛門を解放し、幕府との仲介にあたらせました。その結果、幕府からはゴローニンは死んだと伝えられます。が、リコルドはこれを信じず、国後島沖に留まりました。そして、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと待ち受けました。

そこにたまたま通りかかったのが高田屋嘉兵衛の船です。嘉兵衛は官船・観世丸に乗り、干魚を積んで択捉島から箱館に向かう途中、公文書を届けるため国後の泊に寄港しようとしていたのでしたが、文化9年(1812年)の8月朝、国後島ケラムイ岬の沖合でディアナ号に拿捕されました。

嘉兵衛はこのころはもう苗字帯刀を許されており、北方の情報を幕府にもたらす情報エージェントとしても活躍しており、このためこのゴローニン事件のいきさつを知っていました。そしてゴローニンンの消息も知っていたため、リコルドにも彼が生きていることを伝え、さらには義侠心から自らが人質となってカムチャツカに行きたいと申し出ます。

嘉兵衛という人は、身銭を切ってまで慈善事業をやるような人であり、困っている人は外国人であっても助けようという博愛精神の持ち主だったようで、この当時の日本においては極めて稀有な存在といえるでしょう。

ディアナ号に拿捕され、虜囚の身となったにもかかわらず、リコルドとの会話のなかで彼等の困窮を聞くと、自らが捨石となることを決意します。そして、弟の嘉蔵・金兵衛に遺書を書き、食料と衣服をディアナ号に積み替え、ロシアへ連れて行くよう、逆にリコルドに申し出ました。

このとき、嘉兵衛と行動をともにしたのが、彼に心服していた水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治などであり、これに加えて前日にディアナ号に捕まっていたアイヌのシトカとともに、彼等はカムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに連行されました。

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しかしこうした献身的な行為にロシア側も善意で答えます。ペトロパブロフスクでの扱いは罪人のそれではなく、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎があてがわれ、さらにはここでリコルドと同居しました。

このとき、嘉兵衛は、オホーツク生まれの少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだとも伝えられており、現地での行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞うなどしてそれぞれの親交を深めました。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛もこれら諸外国の商人と交流しています。

しかし翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが相次いで病死すると、嘉兵衛は精神不安定になりました。そして、早く日本へ行き、自分たちを交渉材料にゴローニンの解放を求めるようリコルドに迫りました。

リコルドは、このときカムチャツカの長官に任命されていましたが、嘉兵衛の懇請を受けて改めて日露交渉に赴くこととしました。こうして国後沖の拿捕からおよそ9ヶ月後の1813年5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かいました。そして、泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送りました。

次いで嘉兵衛自らが陣屋に赴き、事の経緯を説明し、交渉のきっかけを作りました。このとき、幕府側(松前奉行所)からはロシア側が自分たちの非を認めればゴローニンを釈放する旨を記した説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」が起稿され、嘉兵衛はディアナ号に戻り、これをリコルドに手渡しました。

その後、ディアナ号の国後島到着の知らせを受けた松前奉行所は、吟味役・高橋重賢を国後島に送り、交渉にあたらせました。ただし、直接ロシア側と会談はせず、嘉兵衛を高橋の代理に立てて交渉を行いました。

その結果、リコルドはロシア本国からの了解を取りつけるために、いったん本国へ帰ることになり、ディアナ号で極東の拠点、オホーツクへ向け国後島を出発しました。

そしてその後、嘉兵衛は高橋重賢とともに松前に向かいます。高橋は松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告、これを受けた幕府の指示があり、こうしてゴローニンはおよそ2年と4ヶ月ぶりに牢から出されました。

一方のリコルドは、オホーツクでイルクーツク知事とオホーツク長官による松前奉行宛の釈明(実質は詫び状)が書かれた書簡を受け取ると日本に向かい、エトモ(現・室蘭)に到着。箱館で待機していた嘉兵衛はディアナ号を途中で出迎え、箱館に入港しました。

その後、嘉兵衛は日露間を往復し、会談の段取りを整えるなどの活躍をしています。その甲斐もあって、その後リコルドと高橋重賢ら松前奉行側の役人との会談が実現し、リコルドはオホーツク長官からの書簡を日本側に提出しました。松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、既に釈放していたゴローニンをリコルドたちに引き渡しました。

こうして1813年(文化10年)9月29日、嘉兵衛たちが見送る中、ディアナ号が箱館を出港し、ゴローニン事件が終結しました。

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嘉兵衛はその後、外国帰りのため、しばらく罪人扱いされていました。松前から箱館に戻ってからは称名寺という寺に収容され監視を受けることとなり、ディアナ号の箱館出港後も解放されませんでした。が、その後体調不良のため自宅療養を願い出てこれを許され、自宅で謹慎するようになります。

翌文化11年には再び松前奉行所に呼び出されましたが、その場において出国したのはロシア船に拿捕されたためであることを釈明し、奉行所側もゴローニン事件での交渉にあたって彼の功があったことを認めたため、晴れて無罪が申し渡されました。しかもそののちにはゴローニン事件解決に尽力したことへの褒美として、幕府から金5両が下賜されました。

その後嘉兵衛は、兵庫の本店に戻りましたが、今度は大坂町奉行所から呼び出され、宗門関係の調べを受けました。ロシアの宗教に染まっていないかどうかの確認の意味でもありましたが、このころ頻発する外国船対策のこともあり、嘉兵衛がこれまでに知るところのロシアの状況についての情報収集が目的でした。

このため、この奉行所の取り調べに引き続いてさらに、大坂城代・大久保忠真にも召し出されて、ここでもゴローニン事件について詳しく質問されています。

その後4年が経ちました。すでに49歳になっていた嘉兵衛もそうでしたが、妻のふさも病気がちになっており、このため二人して淡路島に帰っています。しかし、やはり大阪のほうが住みやすかったのか、再度ここへ戻り、大阪城の西にある野田の地に別荘を建てて、ここに逗留するようになりました。

しかし翌年の文政7年(1824年)にはついに隠居を決め、淡路島に帰ります。以後はここで暮らし、灌漑用水工事を行ったり、都志港・塩尾港の整備に寄付をするなど地元のために財を投じています。

文政9年(1826年)、57歳になった嘉兵衛は、徳島藩主・蜂須賀治昭からそうした功績を称えられ、小高取格(300石取りの藩士並)の待遇を受けています。そして、この翌年の早春には、その御礼のため徳島に行き、藩主にも拝謁しています。しかし、同年、背中にできた腫物が悪化、4月に59歳で死去。

亡くなったのは郷里の淡路島でしたが、その後亡骸は北海道に移され、墓は函館山の北方の船見町にある称名寺内にあります。上述のとおり、嘉兵衛が一時幽閉されていた寺です。

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その後、ペリーの来航に続いて日米修好条約が結ばれると、諸外国との交流はさらに活発化し、ついには幕府が瓦解し明治を迎えることになるのは周知のとおりです。しかし、明治に入ってからもこの嘉兵衛の功績は讃えられ続け、とくに函館などの北方開拓の功績をが評価されたため、死後にも関わらず明治44年(1911年)には正五位が追贈されました。

昭和13年(1938年)には、北海道札幌市中央区にある北海道神宮の敷地内にある開拓神社の祭神にもなりました。ちなみに、この神社では、同じく北海道開拓に偉業があった伊能忠敬や、黒田清隆、間宮林蔵も祭神となっており、ここ伊豆から彼の地に渡り、帯広などの開拓に功があった依田勉三も祭神のひとりとなっています。

高田屋は、嘉兵衛の生前に弟・金兵衛が跡を継ぎ、松前藩の御用商人となりました。このため、兵庫にあった本店を文政7年には箱館に移しています。しかし、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、突然、幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられます。

そして評定所で吟味が行われたところ、ゴローニン事件のときに嘉兵衛がロシア側と取り決めた「旗合わせ」を隠していたことを咎められます。これは、高田屋の船がロシア船と遭遇した際、高田屋の船を襲撃することを避けるため、高田屋が店印の小旗を出し、それに対しロシア船が赤旗を出し、相手を確認した、という嫌疑です。

要は、ロシア側と以前より密貿易をしていたのではないか、と疑われたわけですが、この審問の結果、高田屋は闕所および所払いの処分となりました。闕所とは土地などを没収する財産刑であり、江戸時代では重罪の者に付加刑として位置づけられ、田畑、家屋敷、家財を根こそぎ没収のうえ、お上の財産にされるというものであり、処払いは追放です。

このため、すべてを没収された高田屋は没落しました。しかし、その後、子孫の代になり闕所が解かれ、日高昆布場所を拓くなど、高田屋は明治時代に昆布業界で活躍しました。

なお、嘉兵衛の叔母の夫・和田屋喜十郎の弟は、この事件の以前から本家から暖簾分けされて店を持ち、伯耆・八橋(やばせ、現・鳥取県琴浦町)に本店を構え、伯耆と兵庫を結ぶ廻船を営んでいました。のちには鳥取藩御用達となり、苗字帯刀を許され、内山姓となりましたが、通常は屋号で通し、登城時に内山喜兵衛と名乗っていました。

また、嘉兵衛の生前には、辰悦丸建造、高田屋独立時の協議に加わっており、兵庫で財を築いたことから、堺屋喜兵衛とも称していました。寛政7年(1795年)からは本家から高田屋を名乗ることを許され、以後伯耆高田屋とよばれるようになり、自らも高田屋喜兵衛と名乗りました。

嘉兵衛の弟・金兵衛が、幕府から嫌疑をかけられ没落したとき、この喜兵衛の店も高田屋を名乗っていたため疑われましたが、ロシアとの交易には関わっていないことが証明され、こちらは闕所を免れました。このため没落した本家高田屋の面々の受け皿となり、嘉兵衛の兄弟らも世話したと伝えられています。

現在、函館山の麓、高田屋屋敷跡を通る高田屋通(護国神社坂)のグリーンベルトには高田屋嘉兵衛像あります。北海道出身で、昭和時代の彫刻家、挿絵画家の梁川剛一氏作で、銅像の高さは3m、台座が7.5mです。昭和33年、箱館開港100周年を記念して建てられました。そしてその傍には、平成12年に建てられた「日露友好の碑」もあります。

一方のロシアでは、2006年、ゴローニンとリコルドの子孫が彼の地に嘉兵衛の名を残そうと尽力しました。ロシア地理学会とサンクト・ペテルブルグの貴族会を通じて、カムチャツカ州政府に提案したもので、この結果、ナリチェヴォ自然公園内にある名前が付いていなかった3つの山に、嘉兵衛の名も含めた名前が与えられました。

その名も、「ヴァシリー・ゴローニン」(1333m)、「ピョートル・リコルド」(1205m)、そして、「タカダヤ・カヘイ」(1054m)です。

一連の事件では一番功績のあったはずの、嘉兵衛の山がもっとも低いのが気になりますが……

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反射炉のこと

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韮山反射炉の世界遺産への登録が決まりそうです。

お隣の伊豆の国市の産業遺産ということになりますが、とりあえずは「伊豆国」住民としてお喜びを申し上げたいと思います。

この反射炉ですが、再三の報道で皆さんご存知でしょうが、金属融解炉の一種です。18世紀から19世紀にかけて鉄の精錬に使われました。が、20世紀以降も、鉄以外の金属の精錬には一部の特殊な分野で使われています。銅製錬、再生アルミニウムなどがそれです。

が、鉄鋼の精錬では転炉など他の方式に取って代わられ使われることはなくなりました。熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴です。燃焼室で発生した熱を天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させます。

そしてその炉を形成するためには大量のレンガが使用されます。また、排煙設備も必要となり、そのための煙突にもレンガが使用されたため、炉床や燃焼室と合わせてああいう特殊な形状の構造物が形成されるわけです。

幕末に、このような反射炉がバタバタ作られたきっかけは、欧米各国の船舶の、和親通商を求めての頻繁なる来航です。このため、日本近海に外国船の出没が増え、海防の必要性が問われるようになりました。

薪や水の提供を求める彼等は強引に上陸することもあり、住民とのトラブルも急増しました。鎖国政策をとっていた幕府は、沿岸防備の重要性を痛感し、朝令として「お寺の梵鐘を毀して銃砲を作れ」という命令を各藩に下します。こうして、各藩は、鐘を鋳つぶして青銅砲の製作にかかりました。

しかし、産銅の減少や、数量、費用的な面からすぐに鋳鉄製とする必要に迫られるようになります。外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い洋式砲が必要とされましたが、そのためには鉄製が最適でもありました。しかし従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、そこで、外国式の溶解炉に活路を求めました。

各藩ではいろいろこの溶解炉について研究を始めます。そしてその結果、オランダの技術書により反射炉というものがあることを知ります。しかし、外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもあり、佐賀藩の鍋島直正、伊豆韮山代官の江川英龍、などは、オランダの技術書を翻訳し、「鉄熕鋳鑑図」として、これを参考に自前で反射炉を作り始めました。

この書物はその後他藩にももたらされ、さらに他の藩でも反射炉の製造を始めましたが、その製作年代順としては、最初が佐賀藩、薩摩藩、ついで伊豆となります。さらに技術水準は低かったものの、これに追従したのが、水戸藩、鳥取藩、萩藩(長州藩)などでした。

これらの各藩は、当初すべて幕藩体制に取り込まれていました。順番にみていくと、このうち、佐賀藩は別名、肥前藩ともいわれ、薩摩、長州、土佐ともに維新に貢献した藩です。明治以後の藩閥、薩長土肥の一角を占める藩であり、藩主の鍋島直正の主導で、反射炉を完成させました。そして、最も先進的な技術を持っていた藩です。

薩摩の反射炉。これは、英明な藩主として高名な島津斉彬公の英断により作られたものです。しかし、試行錯誤の途中で斉彬が死去したため完成しませんでした。その後、薩英戦争で灰燼に帰したため、遺構としては鹿児島市の仙巌園内に反射炉の土台のみが残ります。

伊豆国は幕府直轄領です。直轄の代官所、韮山代官所のエリート官僚であった韮山代官の江川太郎左衛門の主導で佐賀藩の助けも得ながら、反射炉を完成させることができました。その詳細は、とりあえず置いておくとしましょう。

水戸藩。これも徳川将軍を出す家柄であったので、佐幕派です。しかし、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱などが相次ぎ、藩論統一と財政難を克服することができず、結局、反射炉を完成できませんでした。なお、茨城県ひたちなか市那珂湊には1937年に復元されたものがありますが、これは本物ではありません。

鳥取藩は、幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとっていました。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになりますが、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊「山国隊」などを率いて転戦しました。

資金難で喘いでいた鳥取藩での反射炉の建造は、同藩で廻船業を営む「武信家」に委ねられ、ここに養子に入った武信潤太郎という町民ながら砲術家であった人物の主導で製作され、なんとか完成に至っています。鋳造された砲は、幕末には外国勢力への牽制として、また、戊辰戦争などでも使用されましたが、残念ながら反射炉の遺構は残っていません。

萩藩。これは、長州藩の別名です。藩庁は長く萩城に置かれていたためにこう呼ばれていましたが、幕末には山口の山口政事堂に移ったために、周防山口藩とも呼ばれます。

反射炉に関しては最もその開発が遅れました。のちに討幕派となった佐賀藩などに技術者を送って技術を学ばせましたが、結局反射炉の製作は試験段階で終わりました。というか途中で開発をあきらめました。幕府に立ち向かうためにいちいち反射炉など作っている暇はない、というのが理由で、戊辰戦争ではもっぱら輸入した大砲でこれを戦いました。

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以上が、日本で開発された反射炉の概要です。このうち、ほぼ原形をとどめているのが伊豆の韮山反射炉と、不完全ながらかろうじて残っているのが萩反射炉です。

韮山反射炉の建設計画は、1853年(嘉永6年)に持ち上がりました。この年の黒船来航を受けてのことであり、江戸幕府直営の反射炉として築造が決定されました。同年、伊豆下田にて築造開始。ところが翌年、下田に再入港したペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入し、その存在が露見しかけたため、築造場所が韮山に変更された、という経緯を持ちます。

製造を主導した韮山代官江川英龍は、1840年(天保11年)に勃発したアヘン戦争に危機感を覚えました。そして幕府に提言する海防政策の一つとして、鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設をあげ、その築造許可を得ました。

しかし、その完成には四苦八苦し、結局、江川英龍はその生前にはこれを完成させることができませんでした。1855年(安政2年)、江川英龍が死去すると、跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、1857年(安政4年)にようやくこれを完成させています。

製作開始から3年後の1857年(安政4年)のことであり、しかし築造途中だったこの炉の完成のためには、佐賀藩の技師田代孫三郎・杉谷雍助以下11名を招き、技術協力を得ています。以後、1864年(元治元年)に至るまで、ここでほぼ7年間操業され、大砲数百門を鋳造してその役目を終えました。

ただ、実際には、製造された大半が青銅鋳砲で、鋳鉄砲は、ほとんど作られなかったといいます。それでも大小数百の砲は、江戸湾防備のために品川台場に設置されました。しかし、1863年に続けた起った薩英戦争、下関戦争などでは、こうした国産大砲はイギリスなど外国船の大砲に比べて全く使えないことがわかりました。

もうひとつ遺構が現存する萩の反射炉。しかしこれは遺構として残っているのはほとんど煙突部だけです。しかも実用炉ではなく試験炉とされます。萩市の東側、椿東(ちんとう)というところにその遺構がありますが、これは松下村塾からもほど近い場所です。

江川太郎左衛門と同様、長州藩もアヘン戦争や黒船来航によって海防強化の必要性を感じていました。このため、西洋式の鉄製大砲を鋳造するために必要な金属溶解炉として反射炉の導入を計画し、藩士の山田宇右衛門にこれを命じました。

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山田宇右衛門という人は、山田氏の養子になって家督を継いた人で禄高100石ほどの家柄の武士でした。大組という比較的身分の高い家柄で、これは、別の藩では馬廻組と呼ばれるほどの役職です。長州内の各地の代官などを歴任していましたが、のちに尊王攘夷運動にも参加しています。ただし藩政においては当初、中立派に属していました。

ところが、元治元年(1864年)の正義派によるクーデター(功山寺挙兵)によって討幕派が藩政を握りました。ちなみにこの前年とこの年には2度に渡って長州は、下関において欧米の艦隊と砲火を交えており、激動期の真っただ中にありました。

山田はこのとき参政首座となって、木戸孝允とともに藩内における指導的立場となり、軍備拡張を推進するなど藩政刷新に尽力しました。残念ながら維新前に病没しましたが、山鹿流兵学は吉田大助について学び、大助の養子である吉田松陰の後見役でした。あまり知られていませんが、歴史の陰に隠れた維新の立役者のひとりです。

史実によれば、この山田宇右衛門らは、藩命により1855年(安政2年)7月、反射炉の操業で先行していた佐賀藩に指導を仰ぐために同藩に赴き、教えを乞いました。しかし、その交渉の段階で技術供与を受けることに失敗しています。

このとき、佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否したようです。おそらくは福岡藩を挟んでほぼ隣国といえるような位置関係にある長州藩に最新の技術を渡すことに脅威を覚えたのでしょう。そこで長州藩は、翌8月、今度は小沢忠右衛門という人物を再度佐賀藩に派遣しました。

小沢は武士ではなく、大工の棟梁でした。山田に代わって小沢のような職人を派遣したのは、佐賀藩の警戒心を解くためだったでしょう。さらに長州藩は、自力で開発した、「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」という器械の模型を山田に持参させており、これは、その上に大砲を載せる装置で、「回転式砲台」の原型です。

現在では特段珍しいものではありませんが、砲台を回転させる部分などに秘訣があったのでしょう。これをみて喜んだ佐賀藩は、小沢に反射炉の見学を許可します。小沢はそのスケッチを作成して持ち帰ることに成功し、こうして長州でも反射炉の製作が始まりました。

長州藩における反射炉の製作では、村岡伊右衛門という人物が、御用掛に命じられました。こちらも藩の重臣だったようですが、「雛形は経費をかけずに造ったが、正式な建設には莫大な経費が必要で、当分中止しては」といった伺いを藩主に立て、認められています。

このため、実際に完成した反射炉を使って鉄製大砲の鋳造がされた、という事実はなく、雛型による本操業も行われず、試験炉に終わったのではないかとされています。

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それにしても、そもそも、韮山の反射炉も萩の反射炉も、世界的にみれば、このころにはもう時代遅れの技術でした。これらが作られた同時期には、ヨーロッパではさらに生産性の高い「転炉 (convertor) 」が出現しており、反射炉のように一度に少量しか鋼鉄が製造できない融解炉はほとんど使われなくなっていました。

このため、欧州にも反射炉の遺構は現存しますが、日本のもののように重要視はされてはいません。今回韮山と萩の反射炉が評価されたのは、あくまで幕末から明治にかけての勃興期における日本全体の工業力が「歴史的に」評価されたためであり、反射炉そのものの機能が評価されたわけではありません。

だとしても、この当時の日本では、せいぜい数百メートルしか砲弾が飛ばせない青銅製の大砲を作る技術しかなかったため、より飛距離を伸ばせる鉄製の大砲を作ることのできる融解炉を持つということは夢のような話でした。

そしてその最先端の技術を、西洋のものと比肩できるほどの実用化技術として高めていたのは唯一佐賀藩だけでした。伊豆の江川太郎左衛門も、長州の山田宇右衛門も反射炉の製造にあたっては佐賀藩の指導を仰いだ上で、これを完成させており、この当時の佐賀藩の技術がいかに高かったかがわかります。

佐賀藩は、肥前国佐賀郡にあった外様藩です。肥前藩ともいいますが、鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩という俗称もあります。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたります。
幕末における藩主は、鍋島直正といいました。号は閑叟(かんそう)といい、この名のほうが有名かもしれません。佐賀の七賢人の一人ともいわれ、英明な人物だったようです。

他の6人は、佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信であり、佐賀の乱をおこして討伐された島と江藤を除けば、全員が維新後に大きな業績を残しています。

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鍋島直正は、「精錬方」という科学技術の研究機関を創設しました。ここでは、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発が行われ、そのほとんどが実用化に成功し、これによって佐賀藩は幕末期における最も近代化された藩の一つとなりました。

反射炉に関しては、鍋島直正はまずオランダのヒュギューニン著「ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」という技術書の翻訳を命じました。また、理論や仕組みについては、幕府直轄の理科学研究所的な役割を果たしていた、伊豆の江川塾、これは上述の江川太郎左衛門が創設した学校ですが、ここの協力も得て研究を進めました。

また、「大銃製造方」という役所を城下に置き、ここに藩内外からの俊英を集め、研究させることによって日本最初の洋式反射炉を1851年に完成させました。日本最初の製鉄所といわれることもあるようです。集められたのは武士だけでなく町民も含まれており、ペリー来航の2年も前のことです。いかに閑叟の先見性があったかがうかがわれます。

反射炉内は高温になるために耐火レンガが必要ですが、この品質が悪いと、高温でレンガが熔けて、不純物として鉄に混じることになります。同時期に開発を試みた薩摩や水戸で反射炉が成功しなかったのは、レンガの質が悪かったからでした。

「大銃製造方」においてはこの問題を解決するために、地場産業である有田焼の技術を活用しました。レンガ製作では瓦職人、反射炉の築造には左官などを徴用し、有田焼で培われた在来技術が活用されました。最初に完成した反射炉で試行錯誤を繰り返しながら、7回目の鋳造でようやく実用に耐えうる砲身を鋳出できたといいます。

ヒュギューニンの著書では、この砲身に砲道をくり抜くために動力が蒸気機関の旋盤を使用していました。ところが、当時の日本に蒸気機関は存在していなかったため、水車を動力としてドリルを動かしました。かなり原始的な方法ではありましたが、ともかく一門の鉄製砲を完成させて長崎砲台に設置し、一年後には36ポンドカノン砲も完成させています。

こうしてでき上がった大砲の信頼性は高く、以後幕府からの大量発注がくるようになりました。このため、城下の多布施川沿いにもう2基の反射炉を増築、量産体制を整え、更に幕府の海防用にと技術提供してできたのが伊豆の反射炉です。韮山反射炉は結局ペリー来航後3年も経ってからできましたが、佐賀藩はそれ以前にこれを完成させていたわけです。

無論、この技術供与は自藩の反射炉の開発において協力をしてくれた伊豆の江川塾に敬意を払ってのものです。こうした成功に自信をつけた佐賀藩はさらに大砲だけでなく、造船業を興して蒸気軍艦の製造を行い、ガラス製造など重工業部門においても、日本の近代工業黎明期に最も先駆的な役割を果たしました。

この日本最初の実用蒸気船は「凌風丸」といいましたが、その製造にあたっては領内に「三重津海軍所」という海軍まで造っており、ここで、慶応元年(1865年)に完成したこの船はその後有明海内の要人輸送などに用いるとともに、海軍練習艦としても活用されました。

同海軍所の遺構跡地には、日本最古のドライドックの痕跡もあり、様々な規格の多量の鉄鋲(リベット)とボルトなども出土していて、海員(士官・水夫)教育や蒸気缶製造等の西洋船運用に関る施設群が存在していたものと考えられているそうです。

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佐賀藩ではまた、慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲を輸入して研究し、藩の洋式軍に配備したといわれています。アームストロング砲とは、イギリスの発明家、ウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲です。

後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では十分の一にまで短縮されました。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量でした。しかも銃身内に旋条(ライフル)が施されていたため高い命中精度と飛距離を誇りました。

このような特徴から、同時代の火砲の中では断トツの優れた性能を持っており、1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなどイギリスが誇る最新兵器として期待されていました。

しかし、薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発するという事故が起こりました。

その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しやすかったことにあります。そのため信頼性は急速に失われ、イギリスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られて過渡期の兵器として消えていきました。

しかし、一部のアームストロング砲はその後、南北戦争中のアメリカへ輸出されました。そして、このときは欠点もかなり克服されていました。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却されましたが、中でも江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注しました。しかし彼は討幕派に与したため引き渡しを拒絶し、幕府の手には届きませんでした。

一方、反射炉の開発に一度失敗した長州藩では、こうした最新式の大砲を独自開発するのをあきらめ、これを輸入に頼ろうとしました。このため幕府が手に入れられなかったこれらのアームストロング砲をグラバーを通じて入手しています。

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長州藩の軍総督、大村益次郎が江戸城開城のあと、さらに抵抗しようとした彰義隊殲滅を成功させた一因として、この最新式のアームストロング砲があったためといわれています。

上野戦争とよばれるこの幕府残党の掃討戦では、大村はこのアームストロング砲の使用の機会を十分に計算していたといわれます。戦闘が午後を過ぎても終わらず、官軍の指揮官たちは夜戦になるのを心配しましたが、夕方近くになって突然加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えてアームストロング砲による上野山の砲撃を指示しました。

彼は前線には立たず、江戸城内で指揮をとっていたため、その戦果を知る由もありません。しかし、平然と柱に寄りかかり懐中時計を見ながら「ああもう何時になりますから大丈夫。心配するに及ばない。夕方には始末もつきましょう。少しお待ちなさい。」と言いました。

やがて江戸城の櫓から上野の山に火の手が上がるのを見て「皆さん、片が付きました。」と戦況も見ずに告げたといい、その直後に戦勝を告げる伝令が到着しました。このとき一同全員が大村の頭脳に感服したと伝えられています。

この話は司馬遼太郎さん小説、「花神」に書かれていますが、大村の頭脳もさることながら、彼がこの砲にいかに全幅の信頼を置いていたかがわかります。この小説の中で、当時の最新最高の兵器とし紹介されたことからアームストロング砲が有名になりました。ただ、その威力に関してはかなり誇張されており、史実ほどは大活躍していない、ともいわれます。

というのも、日本で輸入使用されたのは主に6ポンド軽野砲であり、口径は64mmに過ぎませんでした。これは当時の日本で主力洋式野戦砲だった四斤山砲(口径86.5mm)よりも小口径であり、射程や発射速度は上回るものの威力で特段優るわけではありませんでした。

ただ、この当時は、世界最先端といわれた砲であったことは間違いなく、もしさらに大口径のものが大量に使われていたら、明治初期の動乱はもっと早く治まっていたでしょう。

ところで、上述のとおり、史実では、大村益次郎が使ったアームストロング砲は輸入ものとされているようですが、一説によれば、当時の日本で最先端の技術力を持っていた佐賀藩がこれを反射炉を使って完成させていた、という話もあります。

しかし、アームストロング砲の製造にはパドル炉、圧延機、加熱炉、蒸気ハンマーなどの大規模な設備が必須です。当時のイギリスですら最新最高の設備を持った工場でしか生産できないような物だったのに対し、大砲に穴をあけるのに水車を使っていたような当時の佐賀藩がイギリスに匹敵するほどの設備を持っていたとは俄かには考えにくいことです。

ただ、佐賀藩の精練方に勤めていた「からくり儀右衛門」こと「田中久重」は、佐賀藩がアームストロング砲の製造に成功したと記しています。上述の鉄製の元込式の6ポンド砲がそれであるとしており、32本の施条が刻まれていたとまで明記しています。

この田中久重は武士ではありません。筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師の長男として生まれました。幼い頃から才能を発揮し、近所の祭礼で当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判をとりました。

20代に入ると大阪や江戸でも興行を行い、その成功により日本中にその名を知られるようになりました。当初町民だったため、田中の苗字はなく儀右衛門と名乗っていました。

35歳で上方へ上り、大坂船場に居を構えると、ここで折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案し「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになりました。さらには京都へ移り、ここで天文学を学ぶために土御門家に入門。

天文学の学識も習得した田中は、革新的和時計の須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作し、50歳を過ぎたこのころからは、蘭学にも挑み、様々な西洋の技術を学びはじめます。このころには季節により文字盤の間隔が全自動で動くなどの世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させています。

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その後、再び西下して佐賀に移住した儀右衛門は、鍋島直正に認められ佐賀藩の精煉方に着任しました。このとき田中の名前を拝領し、同時に名も久重と改めました。日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造したのはこの後すぐであり、その後の反射炉の設計と大砲製造にも大きく貢献しました。

が、彼自身が果たしてアームストロング砲の製造にまで関わったかどうかについてははっきりしません。記録としては、上述の彼自身の手記と、加賀藩の史料にこの砲の製造を試みた、という記述があるだけです。しかしそこにも田中の関与は書いてありません。

また、佐賀藩がームストロング砲を完成したかどうかもまたはっきりはわからないわけですが、仮にそれが事実だとしても、実際に製造された砲が、西洋から輸入したアームストロング砲と同等の性能を持っていたかどうかについては、同定する資料がありません。

これは、戦時中の金属類回収令により、佐賀藩製造とされていたアームストロング砲が供出で失われたためです。ただ、写真は残っています。戊辰戦争で活躍したとされる佐賀藩製のアームストロング砲とされるもので、おそらくは上述の大村益次郎が上野戦争において、彰義隊攻撃に用いたものだろうといわれています。

Sagahan_Armstrong_gun_used_at_the_Battle_of_Ueno_against_the_Shogitai_1868

佐賀藩が自前でアームストロング砲の製造に成功していたのかどうか、その真偽のほどは歴史の闇の中です。が、それにしてもこのように当時の日本における最先端技術を持ち、日本有数の軍事力と技術力を誇った佐賀藩は、実は幕末にはそれほど活躍していません。

藩主の鍋島直正はこれらの技術を行使することを嫌い、というか禁じ、幕末においては中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けました。

その理由は、彼はもともと佐幕派にかなり近い路線にいたためです。水戸藩士に暗殺された大老の井伊直弼とは盟友だったといわれており、彼が桜田門外で横死した後の、激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置きました。

このため、「肥前の妖怪」と警戒され、参預会議や御所会議などでの発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、政治力・軍事力ともに発揮できませんでした。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、「鎖国藩」といわれるもとをつくりました。

しかし1867年(明治元年)には、次男の直大が藩主となり、このとき新政府からは佐賀藩には北陸道先鋒に立つように命令が下りました。これに対して直正は異を唱えず、このため佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上し、上述の上野戦争などで戦いました。

その結果として、維新後、佐賀藩からも明治政府に多数の人物が登用されました。明治維新を推進させた立役者として「薩長土肥」に数えられ、上述の佐賀七賢人である副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らが活躍しました。

ところが、征韓論問題に端を発して下野した前参議江藤新平らはその後、島義勇ら旧佐賀藩士を中心として反乱を起こしました。しかし、その後討伐に向かった政府軍に同調する藩士も多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは浸透しませんでした。

佐賀の乱における佐賀軍の総兵数は詳しくはわかっていませんが、戦死者数が200人以下であることなどから推定して6000人程度ではなかったかといわれているようです。大阪鎮台、広島鎮台などを中心に組織された政府討伐軍に圧倒され、戦闘は一週間ほどで終わり、江藤新平は捕縛後わずか3週間で処刑され、島も1ヶ月を待たずして処刑されています。

この佐賀の乱が、その後維新政府において活躍する佐賀出身の逸材の活躍の場を奪ったかといえば、それほどの影響はなかったようです。佐賀の七賢人のひとり、大隈重信はその後2度に渡って総理大臣を務め、死後には国葬まで行われています。

また、副島種臣は外務卿、内務大臣に就任、大木喬任も東京府知事を勤めたあと、初代文部卿、司法卿、元老院議長などを歴任。佐野常民も大蔵卿になるなど、佐賀の人材はその後の明治の時代を担いました。鍋島閑叟は明治維新後は議定に就任し大納言の位を受け、最晩年には北海道開拓使長官となりますが、任地に赴くことなく1871年(明治4年)死去。

また直正が重用した田中久重ほかの技術者の多くも日本の近代化に貢献しました。県内でも工業が勃興し、殖産興業の一環として杵島や唐津一帯の炭鉱では機械の導入による増産が進められ、鉄道の建設がそれを後押ししました。

1916年(大正15年)には佐賀市に佐賀紡績(後の大和紡績)が設立され、この会社は1920年には従業員1,500の工場へと拡大するなどの発展を遂げています。

ただ、現代の佐賀県は工業集積が進んでいません。太平洋戦争末期の空襲の被害も近県に比べて少なかったものの、戦災を免れた故に都市基盤が旧態依然で戦後の発展も著しいものではなかったのが理由といわれています。商業の発展があったものの、従事者や生産額ともに依然として第一次産業の比率が比較的高い農業県となっています。

しかし、かつて佐賀県が排出した技術者たちの多くは日本の産業の育成に大きく貢献しました。とくに田中久重は、明治6年(1873年)に東京に移ったあと、75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区に電信機関係の製作所・田中製造所を設立しました。

明治14年(1881年に82歳で死去しましたが、久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉(2代目久重)が引き継いで芝浦に移転し、これが、後に東京電気株式会社と合併して、東京芝浦電気株式会社となり、現在の「東芝」となりました。

高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである。」との言葉を残しています。

反射炉をはじめとし、日本の近代を築く技術の礎を形成した、佐賀藩とこの藩が輩出した多くの人材に敬意を表し、「佐賀藩バンザイ!」と唱えたいと思います。

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U-2

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ちょっと前の首相官邸へのドローンの侵入事件以来、最近、ドローン、ドローンとやたらに無人飛行機の話題が目につきます。

この「無人飛行機」には全幅30メートルを越える大型から手の上に乗る小型までの様々な大きさのものが存在し、固定翼機と回転翼機の両方で軍用・民間用いずれも実用化されています。操縦は基本的に無線操縦で行われ、機影を目視で見ながら操縦するものから衛星回線を利用して地球の裏側からでも制御可能なものまで多様です。

飛行ルートを座標データとしてあらかじめプログラムすることでGPSなどの援用で完全自律飛行を行う機体も存在します。大きな機体ではガスタービンエンジンを搭載するものから、小さなものではガソリンエンジンを搭載し、極小の機体ではバッテリー駆動されます。

元々は軍用に開発されたものであり、このため最近では偵察だけでなく、攻撃能力のある機体も増えています。

機体そのものに人間が搭乗しないため、撃墜されたり事故を起こしたりしても操縦員に危険はなく、また、衛星経由で遠隔操作が可能であるため、操縦員は長い期間戦地に派遣されることもなく、任務を終えればそのまま自宅に帰ることも可能です。

しかし、無人機の活用を推し進めるアメリカ軍では、こうした無人機を操縦する兵士の負担がむしろ増しているといいます。というのも、無人機の操縦というものは、有人機の操縦以上に神経を使うものであり、しかも、年間平均飛行時間は有人機では200~300時間ですが、無人機では900~1100時間にも上るといいます。

想像以上に無人機の操縦士は酷使されており、労働時間は平均で1日14時間、週6日勤務となっており、人手も不足しているとのことで、アメリカ軍ではこうした状況を打破するための改善策を検討中だといいます。

また、攻撃機として使われる場合は、操縦者が人間を殺傷したという実感を持ちにくい点も問題視されています。敵を殺傷する瞬間をカラーテレビカメラや赤外線カメラで鮮明に見るということは、ほとんどゲームをやっているのと変わらず、それだけに事後に自分がやってしまったことの後悔がじわりじわりと沸いてきます。

従来の軍事作戦では有り得ない生活を送るわけであり、いつミサイルを発射してもおかしくない状況ながら、その直後に家に帰って家族と普通に食事する、ということもあり得るわけです。平和な日常と戦場を行き来する、といったアンバランスな生活は操縦者にさまざまな精神的問題を引き起こすといい、操縦員に大きな精神的ストレスを与えます。

イラク戦争のときなどには、実際にイラクに展開している兵士よりも無人機のパイロットのほうが高い割合で心的外傷後ストレス障害を発症していたというデータもあるようです。

それなら、いっそのこと有人偵察機に戻せばいいじゃないか、という意見もあるようですが、しかし、元々撃墜される可能性を想定しての無人機開発であったはずであり、それでは本末転倒です。

ただ、無人飛行機全盛のこの時代にあって、有人の偵察機が未だに使われているという事実は意外に知られていません。

ロッキード U-2(Lockheed U-2)はロッキード社がF-104をベースに開発した、そうした有人のスパイ用高高度偵察機であり、初飛行はなんと、今から60年も前の1955年です。公式ではありませんが、ドラゴンレディ(Dragon Lady)という愛称があり、また、その塗装から「黒いジェット機」の異名もあります。

CIAの資金により開発されたU-2は、1955年(昭和30年)8月4日、1号機が進空したのに続いて計55機生産され、冷戦時代から現代に至るまで、アメリカの国防施策にとって貴重な情報源となりました。

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U-2は高度25000m(約82000ft)以上と成層圏を飛行することができます。その並外れた高高度性能は、要撃戦闘機による撃墜を避けるため、敵機が上昇し得ない高高度を飛行するためのものです。旅客機は通常10000m(約33000ft)程度なので、その2倍以上ということになります。

外観は誘導抵抗を減らすためのグライダーのような縦横比の大きな主翼形状が特徴で、軽量化と非常に小さな空気抵抗により目的の性能を生み出しています。

軽量化を徹底した結果、車輪が胴体前部と後部の2箇所にしかありません。離陸時には翼の両端に地上から離れるときに外れる補助輪をつけ滑走します。着陸時には車がU-2と並走して翼が地面につかないよう指示を出しつつ十分に低速になったところで翼端を地面にすりつけ着陸、その後補助輪を装着され滑走路から移動を行います。

パイロットは高高度を飛行するため、特殊な与圧スーツを着用します。それはまた高高度で脱出する際に必要不可欠な装備でもあります。このスーツは宇宙服とほぼ同様で、違いは色と生命維持装置が付いているかいないか、及び宇宙空間での推進装置が無いだけであるといいます。

このスーツのヘルメットには数個の穴があり、ヘルメットを脱がずにチューブ入りの食料を摂取できます。また、呼吸と排泄のためのチューブが、外付けの機械と繋がっています。

U-2は、偵察用の特殊なカメラを積み、冷戦時代はソ連など共産圏の弾道ミサイル配備状況をはじめとする機密情報を撮影してきました。当初、CIAとアメリカ空軍、台湾空軍で使用されていましたが、1970年代にCIAと台湾空軍はU-2の運用を取りやめたため現在ではアメリカ空軍のみで運用されています。

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無人機全盛のこの時代になぜ、こうした有人偵察機が使われて続けているか、ですが、理由はいろいろあるなかで、そのひとつには無人機では判断できない高度な情報収集が有人飛行ならできる可能性があります。

例えば傍聴した音声の内容を機械は正確には理解できません。器械に組み込まれたコンピュータプログラムによる反応には限りがあり、咄嗟の判断といった人間臭い判断は大の苦手です。

特殊な状況下においては、生身の人間ならば即座に判断して、もっと別のソースから情報を得るといった、臨機応変の対応ができる可能性があります。昨今は自動車の自動運転の技術がかなり高度化していますが、まだ実用にほど遠いのは、いざというときの判断がまだ機械には委ねられないからであり、同じ理屈です。

しかし、戦闘機や地対空ミサイルの能力が向上した現在、撃墜される危険のある地域を強行偵察することはやはり困難です。ただ、電子/光学センサーの進歩は著しいものがあり、U-2に搭載されている重量約1.36tの探査センサーを使えば、直接敵国上空を飛行しなくとも、かなりの情報収集が可能になるといいます。

敵国の付近を飛ぶだけでも、通常高度500~600kmの低軌道に位置する偵察衛星に比べれば遥かに近い距離からの偵察であり、より精度の高い情報収集が可能です。従って、日本の領海に上空にとどまりながら、北京の政治状況を探る、といったことも場合によっては可能になるようです。

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U-2には後継機があり、これはステルスタイプのSR-71という偵察機でした。ロッキード社が開発しアメリカ空軍で採用された超音速・高高度戦略偵察機です。愛称はブラックバード。実用ジェット機としては世界最速のマッハ3で飛行できました。

ところが、このSR-71は機体の特殊性ゆえの運用コスト高や偵察衛星の進歩により、アメリカ議会でその高コストは軍事費削減の格好のターゲットになり、1990年に退役しました。

しかし、U-2は現在でも、湾岸地域やボスニアでは有力な情報収集手段となっており、現役で活躍中です。アメリカ空軍はコクピット等のアビオニクスの機能を向上させ、エンジンをF118-GE-101(推力8390kg)に換装した性能向上型U-2Sへの改修計画を進めています。

アビオニクス(Avionics)というのは、航空機に搭載され飛行のために使用される電子機器のことで、通信機器、航法システム、自動操縦装置、飛行管理システムなどです。こうした機器の多くは組み込み型コンピュータを内蔵しており、最近の最新鋭戦闘機の価格の80%はこうしたアビオニクス関連だといわれています。

SR-71が退役後もU-2が生き残った理由はただ一つ。安価だからです。SR-71は高高度を音速で飛ばすという高性能が求められたため、全体の93%にチタンが使用され、高性能のターボジェットエンジンを搭載するためにかなり高価になりました。

対してU-2はジュラルミン製のペラペラの機体であり、スピードも最高速度はせいぜいマッハ0.8ですが、ともかく製造コストが安く、これなら偵察機としていざというときに残しておいても金はかからなくて済む、というわけです。

失速して、揚力を失っても頭部を下げれば再び揚力を回復できるなで、安定性が高いといわれ、また、徹底した軽量化は燃費に優れ、長い航続距離と飛行時間を確保できます。

しかし、空気の薄い高高度を飛行するため、SR-71と同じく極めて操縦が難しい軍用機といわれます。万一失速した場合、高度を下げる事になるので、そのこと事態が即墜落に結びつくわけではありませんが、作戦行動中であれば被撃墜リスクは高まります。

その昔は高々度を飛んでさえいれば撃墜は不可能だといわれましたが、最近は高性能の対空ミサイルの発達により、ちょっとでも高度が下がれば比較的撃墜がしやすくなったともいわれます。

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1960年5月1日にはソ連領空内にCIA所属のU-2偵察機が領空侵犯をし、偵察飛行をしていたところ、ソ連軍の放ったS-75地対空ミサイルによる迎撃を受け、撃墜される、という事件がありました。これは、ミサイルが直撃したのではなく、ミサイルが付近で爆発した際の爆風で機体が破壊され、墜落したものでした。

地対空ミサイルの威力が強かったのではなく機体外壁がとても薄く作られていたため、衝撃波に耐えられなかったためであり、このとき高高度から墜落した機体は、大破と言うよりは潰されたような形で発見されました。

軽量で大柄な機体のために空気抵抗が大きくなり、落下速度があまり速くならなかったためであり、ミサイルによる直接破壊ではありません。これは、「U-2撃墜事件」として知られる事件です。偵察の事実が発覚したことから、この当時予定されていたフランスのパリでの米ソ首脳会談が中止されるなど大きな影響がありました。

激化していた米ソ冷戦が、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相の訪米などで一時期緩和されていた時期のことでもあります。ちょうどこのころのアメリカではソ連にミサイル・ギャップ(技術格差)をつけられたという認識が高まっていました。

ソ連の戦略ミサイルを徹底的に監視することで安全保障を確保する方針を固め、当時、ロッキード社で開発されたばかりのこのU-2偵察機による高高度偵察飛行によりソ連領内のミサイル配備状況などの動向を探っていました。

同機はアメリカ国内でもその存在は秘密にされるほどのトップシークレットであり、いわんや外国にもその姿を見たことがある人間はほとんどいませんでした。ところが、事件が起こる前年の1959年9月、厚木基地配置のWRSという分遣隊に所属するその一機が、燃料切れにより藤沢飛行場へ緊急着陸するという事件を起こします。

事件当日は飛行場でグライダー大会が行われており、このため多数の親子連れがU-2を目撃する事態となってしまいました。U-2撃墜事件が起こる前の当時、当然同機は日本でも完全に秘密扱いされていました。

このため、厚木からアメリカ軍がU-2を回収しにやって来るまでにU-2を目撃した民間人は無論のこと、日本領土内に住む日本人であるにもかかわらず、不時着機の写真を撮影した人物はすべてアメリカ軍による家宅捜索を受け、アメリカ軍の守秘義務誓約書にサインさせられました。

日本ではこの事件は、のちに「黒いジェット機事件」と呼ばれてその事実が明るみに出ましたが、事件が起こった当時は、読売新聞や産経新聞、朝日新聞などの全国紙もこの事件を一切報道せず、わずかに翌25日付で神奈川新聞が小さく報じたのみでした。

しかしその後、1959年12月1日の第33回国会衆議院本会議で日本社会党の飛鳥田一雄によって採り上げられ、一般に知られるようになりました。マスコミにおける「黒いジェット機事件」の名称はこの時以来のものです。

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このU-2の厚木基地への配備は、ソ連領内のミサイル配備状を探るためでした。アメリカ空軍はこのU-2を定期的に飛ばしていましたが、対するソ連側も成層圏飛行で領空侵犯してくるU-2のことに気がついており、その何度目か以降には連防空軍はMiG-19P迎撃戦闘機などで幾度となく迎撃を行うようになっていまし。

しかし、当初のソ連の戦闘機での迎撃は高度が足らず実質的に不可能であったため、その後新型のSu-9迎撃戦闘機の完成を急ぐと共に新型の地対空ミサイルの開発も進めました。その結果、この黒いジェット機事件が発生したころには、U-2のような高高度偵察機を撃ち落せる能力のあるミサイルが実戦配備に就くようになっていました。

そして、パリ・サミット開催予定の2週間前の1960年5月1日、パキスタン・ペシャーワルの空軍基地を離陸し、ソ連領内で偵察飛行中のU-2に対し、ソ連側が地対空ミサイルをスヴェルドロフスク州の第1ミサイル部隊から発射し、これを撃墜することに成功した、というわけです。

ちなみに、この際1機のSu-9迎撃戦闘機も迎撃に上がりましたが、迎撃に失敗しています。この事件の際有名になったソ連の迎撃ミサイルはS-75といい、その後ベトナム戦争でも多くのアメリカ軍機を撃墜することで西側にも認知されるようになりました。

このときのU-2のパイロットの名前は、フランシス・ゲーリー・パワーズといいました。彼はパラュートで脱出し、スヴェルドロフスク州コスリノに着地し一命を取り留めました。

自殺用の硬貨内蔵の毒薬を所持していましたが、これを使用しませんでした。このことは、のちに彼がアメリカに帰国したときに明らかにされましたが、一部からはこのCIAの作った自殺用毒薬を使用しなかったという批判もなされました。

また、撃墜後、ソ連側に逮捕される前に彼がU-2機密情報や偵察写真、部品を自爆装置を用いて処分することを怠った、という非難も起きました。

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とまれ、行き延びた彼は村民に捕らわれ、その後ソ連側により公開裁判にかけられました。やがて、スパイ行為を行っていたことを自白し、こうしてアメリカ側のスパイ行為の実態が明るみに出るところとなりました。

その当時、アメリカ軍機による頻繁な自国領空侵犯の報を受けやきもきしていた、この当時の首相、ニキータ・フルシチョフは、事件がおこった当日、モスクワ赤の広場でのメーデーパレードに参加しており、その開始直後にこのアメリカ軍偵察機撃墜成功の報告を受けました。

首相はすぐに、アメリカ政府に対し事件に関する謝罪を要求。このため、パリ・サミットは崩壊し、フルシチョフは5月16日に会談を一方的に打ち切られるという政治的な余波がありました。

さらにフルシチョフはこの事件を、「アメリカによる犯罪行為」として大いに反米プロパガンダに利用しました。これに対して当初アメリカ政府は、「高高度での気象データ収集を行っていた民間機が、与圧設備の故障で操縦不能に陥った」という嘘の声明を発表します。

しかし、パワーズの自白が明らかになると態度を一変し、当時のアメリカ合衆国大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは、「ソ連に先制・奇襲攻撃されないために、偵察を行うのはアメリカの安全保障にとって当然のことだ。パールハーバーは二度とご免だ」と開き直り、スパイ飛行の事実を認めました。

パワーズは8月19日にスパイ活動で有罪と判決され、禁固10年シベリア送りを宣告されました。しかし、ソ連側がシスキンKGB西欧本部書記官を、アメリカ側が顧問弁護士のドノバンをそれぞれ代理で出し、二人の会合の結果、両国は東ベルリンのソ連大使館でスパイを交換釈放することで合意しました。

1年9ヶ月後の1962年2月10日、自首し亡命を申し出た別のスパイの供述を元にFBIが逮捕したソ連のスパイ、”マーク”、ことルドルフ・アベル大佐ほか一名とベルリンのグリーニケ橋で交換されました。なお、この橋は東西ドイツの国境であり、度々スパイ交換が行われた場所でした。

パワーズは、帰国後に撃墜から拘留中の出来事についてCIA、ロッキード社、空軍から事情聴取を受けたあと、1962年3月6日、上院軍事委員会に出頭しましたが、結局上院軍事委員会はパワーズは重要な機密は一切ソ連側に洩らしていないと判断しました。

その後、彼は1963年から1970年までロッキード社にテスト・パイロットとして勤務し、1970年、事件における自身の体験を綴った“Operation Overflight”を出版しました。この本の中でパワーズは、かつてソ連に一時亡命したアメリカの諜報員がソ連側に渡したレーダー情報がU-2撃墜事件につながったと指摘しています。

その後彼は、1977年、ロサンゼルスでKNBCテレビのレポーターとしてヘリコプターに搭乗中、墜落死しました。事故原因は燃料計の故障でした。遺体はアーリントン国立墓地に埋葬され、今もここに眠っています。

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ちなみに、交換されたソ連側のスパイ、ルドルフ・アベル大佐は、本名ウィリアム・フィッシャーといい、イギリス生まれでした。が、両親は共にロシア人であり、このため彼もソ連に忠誠を誓っていました。英語が堪能であったため、長じて統合国家政治局(OGPU)という秘密機関に採用され、欧州諸国で非合法活動を行っていました。

独ソ戦勃発後、破壊工作とパルチザン活動に従事する部隊に志願。この期間、後の彼の偽名となるドイツ人パルチザン、ルドルフ・アベルと知り合いました。二次大戦中、フィッシャーは、ドイツ軍の占領地に派遣された他のパルチザン及び諜報員のための無線手を養成したりしていたといいます。

終戦後、非合法諜報に復帰。1948年、アメリカの原子力施設からの情報入手のために、アメリカに派遣され、このとき、コードネーム「マーク」が与えられ、ルドルフ・アベルの名で画家を装い、活動を開始していました。

1949年5月末までにはかなりの成果を上げ、母国からは赤旗勲章を授与され、その後も7年間に渡って諜報活動を続けていました。が、あるとき、ブルックリンで大きなミスを起こします。新聞配達少年が客の誰かから新聞代として受け取った5セント硬貨を落とし、その中からマイクロフィルムが出てきたのです。その落とし主こそが彼でした。

FBIは、ニューヨーク市にアメリカの核情報を探るスパイがいるとして捜査を開始し、その結果、1957年、自称画家であったマークが浮上。FBIによって逮捕されました。当時、ソ連当局は、彼によるスパイ行為への関与を否定し、またフィッシャーは、死んだ友人の名前「ルドルフ・アベル」で押し通し、自分はドイツ人であると主張し続けました。

さらにスパイ行為への関与を否定し、裁判での証言を拒否し、アメリカ当局からの買収の申し出も撥ね付けたため、裁判では死刑判決が出るところでした。そこを、元アメリカ軍の諜報機関出身の弁護士に助けられ、その弁護によって禁固30年に減刑され、ニューヨーク刑務所、後にアトランタ刑務所に収監されていました。

東西ベルリンの境界であるグリーニケ橋においては、U-2パイロットのゲーリー・パワーズ、もう一人、スパイ容疑で拘留中であった留学生フレデリック・プライヤーと交換される形で解放されました。ソ連への帰国後は、諜報部に復帰し、非合法諜報員の教育に当たっていましたが、1971年、68歳で死去。

レーニン勲章、赤旗勲章3個、労働赤旗勲章、一等祖国戦争勲章、赤星勲章を受章したほか、1990年には、ソ連郵政当局が発行した顕彰切手には、アベルの肖像写真が使われています。

この事件以後、アメリカのミサイル技術もソ連以上に格段に向上し、敵のミサイルなどの軍事技術を偵察する意味も薄れたため、U-2によるソ連領内の高高度偵察飛行が行われることはなくなりました。

が、ソ連同様、アメリカと対立する国々へのU-2による高高度偵察飛行は依然として続けられてきたと考えられ、キューバ危機の際にもU-2が対空ミサイルで撃墜されるまで頻繁に続けられていたことがわかっているほか、現在までにも中国や北朝鮮に対するスパイ飛行が行われているようです。

少し前までは、中国に対してのスパイ飛行はアメリカより台湾空軍に供与された機体で行われていました。CIAの支援の下で台湾空軍内にU-2を運用する、通称「黒猫中隊」が創設され、1959年から2機のU-2が中国奥地への偵察に従事したとされます。

当然、中国政府が支配している地域への領空侵犯をしながらの危険な任務であり、中国空軍による迎撃で5機を失い3名のパイロットが戦死、任務中や訓練中の事故で6名のパイロットが殉職しました。

しかし、黒猫中隊のもたらした情報は、中ソ国境での軍事的緊張をキャッチし、中ソ対立が深刻化していることを明らかにし、また中国の核開発の情報をもたらしました。しかし、1972年にニクソン大統領の中国訪問で米中両国間の国交が樹立され、米中両国間の緊張関係が緩和されると中国への偵察任務は停められ、1974年に黒猫中隊は解散となりました。

アメリカや台湾側はこの件に関して当然のことながら沈黙を保ち続けてきましたが、中国側はソ連より供与されたSA-2により数機を撃墜し、残骸を北京の軍事博物館に並べて一般公開しています。

その後、中国側によってU-2が再び撃墜されたという記録はありません。しかし、おそらくは、さらに性能をアップし、現在もU-2は日本海の上、遥か高高度を飛び回り、周近平主席らの言動を嗅ぎまわっているに違いありません。

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渋谷新宿界隈

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さて、大型連休が明けました。

これから先というもの、7月20日の海の日まで休日はなく、しかも6月、8月とまったく休日のない不毛地帯が続きます。

今日から久々の仕事を再開、という方も多いと思いますが、この先の長丁場の中、頑張りすぎて体調や精神面でのバランスを崩さないよう、気をつけていただきたいと思います。

季節的には初夏から梅雨に向かい、しかも私の大嫌いな暑い夏がやってきます。一年で一番憂鬱な時期ではあるのですが、この地の涼しさにも助けられ、昨年まではあまり嫌な思いはせずに済みました。

それにしても、ほんの4年ほど前まで東京に住んでいたことが夢のようです。それまでに住んでいた街のことなどをつれつれ思い出すにつけ、なぜ東京に住まうようになったかな~と述懐してみます。

すると、そのきっかけは、大学を卒業して最初に勤めた会社が渋谷にあったからでした。この会社への入社を初めとして、その後日本橋や半蔵門などの東京各所の職場を転々としましたが、毎朝それらの職場を目指すにあたってのベースとして選んだのは、やはり土地勘のある、東京以西の多摩地方や神奈川県地方でした。

最初は、相模大野、次いで、杉並区の阿佐ヶ谷に移り住み、その後は田園都市線の鷺沼などにも住みましたが、最終的に家を買ったのは多摩であり、結局そこに20年以上住むことになりました。

その東京暮らしにおける最初の記念すべき居住地は相模大野でした。ここを選んだのはほかならず、ここに就職した会社の寮があったからでした。ここから毎朝毎朝小田急線に揺られて都心に向かい、途中で千代田線から銀座線と乗り継いで外苑前駅に降り立ちます。

そこから、神宮球場のほうへと昇っていく通りは、通称キラー通り、といいます。1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに向けて着工された「外苑西通り」の一部で、青山通りと交わる南青山三丁目交差点の前後約1キロメートルを指します。

この呼称は、作家・堺屋太一さんによる命名であり、「キラー(Killer)」は、沿道にある墓地(青山霊園)、激しい交通、当時流行していた「ピンキーとキラーズ」などから連想されたものであるといいます。

堺屋氏の知人であるデザイナー、コシノジュンコが1970年(昭和45年)、この通りに店を開店する際の案内状にこの名を書いたことから世間に広まることとなりました。通りの北端には、ビクターの青山スタジオがあり、道路の両脇にはちょっとこじゃれたブティックや喫茶店なども散見されたりして、神宮外苑のなかなかおしゃれな通りという印象です。

サザンオールスターズはデビュー以来、レコーディングをこのスタジオで行っており、2005年(平成17年)に発売されたアルバムのタイトルは「キラーストリート」で、そのジャケットにはキラー通りの風景イラストが描かれていました。

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外苑駅前からの道のりはやや緩やかな昇りになります。そして、峠を越えて、ビクタースタジオの手前約200mのところの左手にあったこの会社には、その後アメリカに留学するまで結局5年間お世話になりました。

現在は、フィットネスクラブ、レストラン、オフィスからなる複合ビルに建て替わっており、一部はイギリスの高級車、ジャガーの青山店になっているようです。が、ここにかつて東京オリンピックの際の選手宿舎として建てられた三角形の形をした変わったビルがありました。

12階建だったと思います。最上階は役員室などが主であり、私の勤務先はその階下の11階にありましたから、職場としてはこの会社の最上階に位置していたことになります。

建築されたのは、東京オリンピック前ですから、昭和37~38年ころでしょう。当時のこのあたりはまだ開発も進んでおらず、一般民家も多数ありましたから、当時としてもかなり目立つ斬新なデザインだったでしょう。その後キラー通りが現在のように賑やかになってからも、この地域でもかなりシンボリックな建物としてみなされていたようです。

各階三ヶ所にある非常階段への扉を開けたところにある踊り場は、仕事が行き詰ったときの息抜きの場所でもあり、ここから見える新宿副都心の変わりゆく姿をみながら、5年間を過ごしました。

会社勤めを始めたころはまだこの西新宿にある高層ビルはそれほど多くなく、新宿住友ビル、新宿三井ビル、新宿野村ビル、新宿センタービルなどの5つか6つぐらいだったと思います。が、私がここへ勤めている間に次から次へと新しいビルが建っていき、かなり様相が変わっていきました。

調べてみると、私がこの町で日々の大部分を過ごした1980年代には、「超高層ビル」と呼ばれるものが9本建っており、以後、1990年代には10棟、2000年代にも10棟が完成しています。現在進行形の2010年代にも既に3棟が完成しており、今後とも新宿のランドスケープはさらにさらに変わっていきそうです。

ちなみに、こうした都会の風景を「スカイライン」といいます。本来は山岳の稜線などが描く輪郭線のことですが、近代では都市の高層建築物と空や大地が醸し出す風景のことを指します。これは以前にもこのブログでも書きました。日本ではクルマの名前のほうが有名ですが、欧米では普通にこうした都市景観のことをスカイラインと呼びます。

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こうした新宿のスカイラインは、1960年代まではまったくの地平線、といっていいほど凸凹が少ないものでした。いわゆる60mを超すような超高層ビルというものはなく、高いといっても、私が勤めていた会社のようなせいぜい10階建て前後の30~40m前後の建物が普通でした。

いわんや、江戸時代以前には、新宿はまだ何もない原野のようなところでした。おそらくは狐狸の住むような藪だけのような土地だったと思われます。そこへ、ようやく宿場町ができました。1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府を樹立してから約100年ほども経った1698年のことです。

信州は高遠藩の藩主、内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として設けられたもので、このため、この宿は当初、「内藤新宿」と呼ばれました。その本陣は、甲州街道と鎌倉街道が交差していた現在の新宿二丁目付近だったようです。

その後、江戸から甲府までの主要街道として開かれた「甲州街道」の整備が整うにつけ、宿場町としてさらに発展していくことになり、やがて、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展していきます。

非公認の売春宿、岡場所などもできてさらに繁盛するようになり、「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」という狂歌も詠わるようになりました。「馬の糞」というのは活発な馬の往来のことをさし、「あやめ」は飯盛女・遊女を意味します。歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえます。

ところが、明治維新によって武士が没落したため、武家地が多かった新宿もここに住まうものがいなくなり、荒廃し始めました。そこで、とくに広大な敷地を誇った内藤新宿は大蔵省によって買い上げられ、海外から持ち込まれた動植物の適否を試験する「内藤新宿試験場」となりました。

1879年には宮内省の所轄となり、これが現在の「新宿植物御苑」、通称「新宿御苑」になります。また、1885年(明治18年)には山手線が開通し、新宿駅が宿場の西はずれに作られ、続いて現在のJR中央線にあたる甲武鉄道や、路面電車の東京市街鉄道などがこの新宿駅に乗り入れるようになりました。

1915年(大正4年)には京王電気軌道、現京王線が乗り入れ、ターミナル駅としての姿を見せ始め、さらなる発展を遂げていきましたが、その流れをさらに加速したのが、実は、1923年(大正12年)に起きた関東大震災でした。

この地震によって、表層地盤の弱い都心部の銀座や東部の浅草などの下町エリアの繁華街は全滅しましたが、新宿などの東京西部のいわゆる「武蔵野台地(山の手台地)」と呼ばれる地域は地盤が固く、この地震でもほとんど被害を受けませんでした。

このため、同じく武蔵野台地に位置していて被害の少なかった、南側の渋谷、北川の池袋といった他のターミナル駅とともに、大震災後の復興を担う町として一躍時代の表面に躍り出てきました。

それまでは東京の中心といえば皇居のある旧江戸城を中心とした東側や南側だったわけですが、これらの地域の壊滅後には、より安全な地域と人々に目されるようになり、新たな繁華街が形成されるようになりました。

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また、中央線の整備も進み、京王線もどんどんと西進を続けたため、東京西部の郊外人口も急増しました。多摩地方のあちこちには住宅街が形成されるようになり、これらの人が京王線や中央線を使って大量に東京に入ってきます。そしてその際、人々が最初に降車する町として、新宿駅周辺には繁華街が形成されるようになりました。

とくに当時の中央線は西郊から都心に乗換えなしに行ける唯一の鉄道であったことから利用が多く、さらに昭和の初めには小田急線、西武鉄道も乗り入れ、新宿に交通が集中するようになると、新宿は東京駅周辺や銀座とも1~2位を争う繁華街となっていきます。

伊勢丹デパートや中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といった名物をはじめ、武蔵野館、新歌舞伎座、帝都座、ムーランルージュ新宿座などの映画館、劇場、カフェーなどが集中し人々で賑わうようになったのも、この昭和初期の時代です。

しかし、その後の太平洋戦争では、新宿もまた東京大空襲により大きな被害を受けました。ただ、このときも浅草などの東部の下町と比べれば人的被害も物的被害も少なかったほうで、このため、新宿駅周辺には戦後間もない頃から闇市が建ち並ぶようになりました。

良きにつけ悪しきにつけ、戦後の東京における復興の先駆けとなり、東口の中村屋横にできたハーモニカ横丁では「カストリ」と呼ばれる模造焼酎が売られるようになりました。また、これを真似て、統制外の粗悪紙を用いて濫造された、低俗な内容の雑誌なども流行るようになり、これらを総称して「カストリ文化」の名も生まれました。

ただ、その後政府によってこうした闇行為の撲滅運動が始まると、1950年頃までには新宿から闇市は姿を消していきました。小売店も次々と再開または新規開店し、新宿駅を中心とした商店街は東口を中心に戦前にも増して活気で満ちあふれました。

1952年には新宿駅が日本一乗換駅が多い駅となり、さらに、昭和30年代にかけて、丸井、小田急、京王などの百貨店が続々と進出し、現在見られるような新宿駅の西、東の商業地の風景が形成されました。

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そして、高度成長時代です。昭和30年代に入ると人々の心にもゆとりが生まれ、新宿は商業の急激な発展とともに、娯楽・演劇の拠点としても戦前以上の賑わいをみせるようになります。そして、その中心となったのが、戦災で焼失した新宿駅北方の地の一角、すなわち、歌舞伎町でした。

歌舞伎町を中心に数々の映画館が建ち並び、1956年には新宿コマ劇場がオープンし大衆の人気を集め、1964年には紀伊國屋ホールが開場し若手演劇人の登竜門となりました。そしてこの頃から、いわゆる「アングラ演劇」も盛んになり、新宿は独自のサブカルチャーの発信地としての地位を確立していきます。

新宿のジャズ喫茶、歌声喫茶などの喫茶店には多くの若者が交流の場を求め、集まるようになりましたが、と同時にこうしたサブカルチャーの余波は隣接する渋谷にも押し寄せました。

1970年頃までは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば、何といっても新宿でした。しかし、1973年(昭和48年)に渋谷でPARCOの開店があり、これを機に日本における若者文化の歴史が大きく変化したといわれます。そして、その流れは「新宿から渋谷、または原宿を含めた渋谷区全体へ」と移り変わっていきました。

新宿における若者の街、若者文化などは、渋谷へ向けて大移動を始め、渋谷は新宿に代わって新たな流行の発信地となりましたが、と同時に隣接する原宿も若者の集まる街として人気を集め、渋谷プラス原宿、そして表参道といった渋谷区の中心に大きな変化が訪れるところとなりました。

このころから、渋谷原宿と言えば若者の町、といわれるようになり、新宿はどちらかといえば大人の町と呼ばれるように変わっていきました。そして、私が大学を卒業して渋谷にある会社に就職したのはそうした「文化大移動」が終結して定着しつつあった1980年代の初頭ということになります。

既に若者の町としての渋谷は完成されつつあり、渋谷パルコ劇場、クラブ・クアトロ、シネセゾン渋谷、スタジオパルコなど、ライブハウスや劇場、映画館群が形成されたのもこの時代です。若者は皆、手に手に「ぴあ」を持ち、これらの劇場群をはしごするようになります。

さらには、PARCO・OIOIの進出やシブヤ109が誕生し、渋谷は若者のファッション文化の発信の地ともなりました。原宿とともにファッションの町としての地位を確立していった時代であり、いわゆる「竹の子族」なる人種が湧き出たのもこのころです。

ファッションの最先端ということで、当然芸能人たちもこぞってこの町で遊ぶようになり、この時代、私も夜になるといわゆるアイドルと言われるような人やタレントさんをよく見かけたものです。

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が、私といえば、こうした若い喧騒のある渋谷より、落ち終いた雰囲気のある新宿のほうがどちらかといえば好きでした。戦後の西新宿の開発は、1971年(昭和46年)に京王プラザホテルが建設されたのを皮切りに本格化し、次々と200m超の高層ビルが建設され、東口とは趣の異なる、オフィス街として熟成されていきました。

しかし、文化都市の側面もあり、熊野神社を含む広大な中央公園もあったり、あちこちには、ギャラリーや画廊なども散見されます。私も休日などには新宿のあちこちにあった(現在もあるでしょうが)フォトギャラリーで、有名な写真家さんの写真を見て歩くのが趣味で、その後待ち合わせた友達と飲みに行くこともありました。

が、私はどちらかといえば人とつるむのは好きでなく、アパートに帰りひとりでその余韻にひたるほうが好きでした。また、今でこそ映画館は各回の総入れ替え制ですが、このころは映画は何度でも最初に払った値段で見ることができたため、お気に入りの映画で休日を過ごすこともままありました。

また週末の土曜日などには一晩で4本も5本もの映画を連続上映するテアトル系の映画館もあり、ここで映画を見てからの朝帰り、というのもよくやりました。朝方映画館を出て、朝焼けの中でぼんやりと遠くに見える西新宿の高層ビル群がやたら綺麗に見え、いつかああゆう超高層ビルで仕事をしたいな~、と思ったりもしたものです。

とはいえ、最初に就職したこの会社での仕事は、慣れるにつけ何かと楽しく、また周辺が渋谷新宿という「行楽地」でもあり、大いに青春を謳歌できた感があります。なんというか、時代の最先端にいる、という気分があり、日々が楽しかったことが思いおこされます。

しかし、そうした生活にも時間の経過とともに「慣れ」が生じます。就職して5年目を迎えるころになると、オレの一生はこのままでいいのだろうか、と思い出しはじめましたが、結局はそうした「気分」がエスカレートするところとなり、長年お世話になった、その会社を辞めることになりました。

そして、フロリダ~ハワイにつながる長い海外生活に入ることになるわけですが、当初は2年程度で帰ってくるつもりが、結局はその倍の足掛け4年ほどの海外生活を送ることになりました。このため、その後、この間の新宿や渋谷の変わりようは目にしていません。

1990年代はじめに日本に帰ってきたころは、ちょうど東京都庁が完成したころであり、この新宿西側の様相も相当に変わっていたように記憶しています。また、渋谷にあったかつての勤務先のビルも取り壊されており、ある日その跡地を訪れたときは新しいビルが既に建っており、もうここは自分の居場所ではないな、と強く感じたのを覚えています。

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新宿や渋谷は、今でも仕事とプライベートの両方でたまに訪れることがあります。が、あのころのように自分の町、という感覚は既になく、ただの通過点になってしまっています。

しかも今、そこから遠く離れた伊豆の空の下にいて、そこで日々を送っているのが何やら不思議でしょうがありません。

彼の地で日々を送った生活から流れた時間を数えると早、30数年。この間の新宿渋谷の町の変遷を、今流行りのタイムラプスで見てみたいと思うのですが、どこかにそうした映像はないでしょうか。

もしあったとして、おそらくその映像の中で変わらないのは背景にある富士山くらいなのかもしれません。たしか、新宿駅西口からは、高層ビル群越しに富士山が見えたはずです。富士を中心にして撮影したそうした時間の流れをぜひ見てみたいものです。が、それはかなうはずもありません。

しかし、人は死ぬとき、その一生の映像を一瞬で見ることになる、といいます。映像と共に過ごした月日の良きこと悪きこともすべて見させられるともいいますが、そんな中でこの若かりし時代はどんなふうに見えるのかな~と想像したりもします。

更に思いかえすと、あの時代には、楽しかったことだけでなく、悲しかったことも多々あり、浮沈さまざまな気分を味わいましたが、と同時にこの町で過ごした日々はやはり人生で一番ワクワクしていた時代だったかな、とも思います。

1980年代というのは、バブルに向かう時期でもあり、渋谷や新宿の町が日本でも一番ダイナミックな変遷を遂げていたこの時期をそこで過ごせたのは少しくラッキーだったかな、とも。

少なくとも、5年経っても10年経ってもおそらくはあまり変わり映えしないであろう、この伊豆の地に住んでいたことよりも、新しい経験ができた時代であり、良い時代であった、と人生の最後には思うのかもしれません。

連休が終わり、また都会の喧騒に帰っていくみなさんも、そうした目で今過ごしている時間をみてみてはいかがでしょうか。

連休の間の楽しさは失せ、いやな仕事やノルマが待ち受けているかもしれません。が、その世界はのちに振り返ることになる長い人生の中においては、もしかしたら実は変化に満ちた驚きの時代であるかもしれない、ぜひ、そういう可能性についても考えてみて頂きたいと思います。

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かぶき者慶次のこと

2014-1763連休が終わりました。

……といっても、今日明日も休んで超豪華長期休暇にする、なんて人もいたりするわけで、今日から仕事という人も2日会社に行けばまた休み、というのが普通でしょう。なので、多くの人はまだまだ連休気分は抜けていないのではないでしょうか。

本格的な始動は来週からにして、今週は仕事もそこそこにしておこう、というのが大方の気分でしょうが、かくいう私も同じです。

が、連休といってもとくに遠出をすることもなく、近くの山の登山に出かけたくらいであり、連休の合間である明日あたりは観光地の伊豆も多少人が減るでしょうから、ここぞとばかりにどこかへ出かけようか、と目論んでいる次第です。

ところで、4月から、NHKで面白い時代劇をやっています。「かぶき者慶次」というドラマで、主人公の前田慶次こと、前田利益を演じるのは、渋い役者さんとして高名な藤竜也さん。

実は、この「慶次モノ」というのはこれが初出ではなく、NHKとしては、2002年の大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」で、慶次を登場させており、このときは及川光博さんが演じたようです。ほかの民放でも放映されているほか、小説でも多くの作家さんが慶次のことを書いており、時代劇好きの人にはおなじみのキャラのようです。

しかし、今回の慶次は石田三成の遺児を育てる養父という、奇抜なキャスティングでストーリーが組み立てられており、これまでの作品とはちょっと違った雰囲気です。

昔の作品を全部みているわけではないので、どこがどう違うかとはいえないのですが、登場させている役者さんの顔ぶれや前宣伝などをみるとNHKとしても大河ドラマ並の力の入れようのようです。

実は私は、主人公役を演じる藤竜也さんをじかに見たことがあります。その昔、ハワイに留学していたおり、ワイキキのホテルでシンポジウムか何かがあった際に、エスカレーターで下から上がってくる藤さんと、すれ違いました。

何かの撮影のためにハワイに訪れたのか、白い上下のスーツで、上着の下には赤っぽいシャツを着ておられました。ポケットに片手を突っ込んでホテルの中を眺めながらエスカレーターを昇ってこられたかと思いますが、さすがにかっこえーな~とほれぼれするようなお姿でした。

現在73~74歳になられているかと思いますが、私がハワイにいたのが、27~28年前ですから、その当時50歳前で、役者さんとしても脂の乗り切ったころだったでしょう。現在はそのころにも増して演技に円熟味が出てきて、「かぶき者」を演じるにも最適なキャスティングと思えます。NHKの目の付け所に拍手したいと思う次第です。

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「かぶき者」というのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、とくに江戸や京都などの都市部で流行しました。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのことを指し、当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だったのに対し、彼等は概して派手好みでした。

色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだといわれ、立髪や大髭、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、を差すなどの異形・異様な風体が流行しましたが、その代表選手が、ご存知、織田信長です。

しかし、かぶき者になるのは、一般には若党、中間、小者といった身分の低い武家奉公人が多かったようで、本来は武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定でした。

徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働いたので、多くの人に嫌われました。

自分の武勇を公言することも多く、それが元でケンカや刃傷沙汰になることもあり、辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていたといいます。

しかし、こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあり、彼らは、仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていたといわれます。

その男伊達な生き方は人々の共感と賞賛を得てもいたようで、このため武家奉公人だけでなく、町人や武士である旗本や御家人がかぶき者になることもありました。

このNHKのドラマの前田慶次もそうした一人であった、という設定ですが、時代背景も関ヶ原直後のころを想定しており、かぶき者全盛のころ、ということで一致しています。

ちなみに、その後1603年(慶長8年)に出雲出身といわれる、出雲阿国(いずものおくに)がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、これが、のちの歌舞伎の原型となったといわれています。

かぶき者の文化は江戸時代の初めのこうした時代に最盛期を迎えましたが、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消していくことになります。が、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに引き継がれ、さらにその美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていくことになりました。

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さて、この前田慶次という人物ですが、実在したかどうかということになると、答えはイエスのようです。そのモデルになったのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将の前田利益(とします)だといわれています。自らも慶次と名乗っていたようですが、利益のほかにも宗兵衛、慶次郎、利貞など時期によって異なる名前を用いていたようです。

養父の前田利久は、前田利家の長兄です。つまり、加賀百万国の創始者、前田利家の義理の甥ということになります。利久は現在の古屋市中川区にあった、尾張国荒子城主であり、長男であったため、本来は前田家を継ぐ身分でした。が、主君・織田信長の命により家督を弟の利家に譲っています。

その理由は、利久に実子がなく、病弱だったからのようで、このため、同じく信長に仕え、織田家の重臣だった滝川一益の一族の子である、利益を養子として迎えました。一説に一益の従兄弟、あるいは甥といった説が存在するようです、が、利家よりも年上だったようなので、年齢的にみて一益の兄か弟ではなかったか、という説もあります。

しかし、滝川家には非常に多くの支流や系譜があり、利益の出自が本家なのか分家からなのかもよくわかっていません。それでは、この一益とはどういった人物だったか。

これは、信長に付き従い、長島一向一揆と石山合戦、武田討伐と次々に武勲を挙げて、信長のお気に入りだった武将の一人です。

柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉と並んで四天王の一人に数えられた人物で、信長の命により数々の戦功をあげ、関東を鎮定以後、それまでの功により伊勢の地を拝領するとともに、引き続き、関東周辺の地の鎮定に邁進しました。

そして、当初、現在の群馬県高崎市箕郷町にあった上野箕輪城、次に群馬県前橋市にあった厩橋城に入り、ここで当面鎮定した関東の治世にあたることになりました。

ところが、信長が本能寺の変によって横死すると小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)を初めとする北条勢が北関東にまで押し寄せてきました。一益はこれを迎え討ちましたが、のちに和平を結び、これによって信長の死後ようやく織田の領国である美濃国に入ることができました。

このとき、一益は清洲にて信長の嫡孫、三法師(織田秀信)に拝礼、伊勢に帰ったといいますが、しかしこの途上に、秀吉の遺臣たちによる事後処理会議、いわゆる清洲会議が開かれ、これに一益は出席できませんでした。このため、織田家における一益の地位は急落。

清洲会議後、三法師が織田氏の後継者となりましたが、これに信長の三男・織田信孝は不満を持っていたため、事態は三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展していきます。

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一益は勝家側に与して自国の伊勢で、秀吉との戦端を開きましたが、伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市長島町)にあった自城の長島城では、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に粘り、織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を釘付けにしました。ところが、柴田勝家はその後賤ヶ岳の戦いで敗れ、琵琶湖北部、北ノ庄において自害してしまいます。

残った一益は更に長島城で籠城し、孤軍奮闘しますが、やがて降伏。これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、かつての同僚、丹羽長秀を頼り越前で蟄居生活に入りました。

織田対豊臣の戦いはこれで終わりかと思われましたが、天正12年(1584年)、今度は信長の次男、織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げます。これがいわゆる「小牧・長久手の戦い」の始まりで、このとき一益は隠居に身でしたが、娘婿である滝川雄利は信雄の家老を務めており、本来ならば老骨鞭打って出馬し、家康につくべきところでした。

ところが、ここが一益のエライところで、時代を読み切っていたのか、隠居生活を送りつつ秀吉に接近していました。秀吉のほうも一益の能力を高く評価していたことから、この戦では秀吉の誘いに応じ、秀吉方となりました。

結果、この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略するなどの功があったため、秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられました。しかし、そのわずか2年後の天正14年(1586年)に死去。享年は62と云われます。

一益には4人の息子がおり、長男の一忠は小牧・長久手の戦でも父と行動を共にしていましたが、尾張国南西部における秀吉陣営と織田・徳川陣営の間で行われた蟹江城合戦での不手際を秀吉に責められ、追放処分となりました。

また、次男の一時は滝川家の家督を継ぎ、豊臣氏の家臣として1万2千石を与えられていましたが、後に請われて徳川家康にも仕えることとなり、徳川方より2千石を与えられ、合計1万4千石の大名となりました。

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しかし、一時は慶長8年(1603年)に35歳で死去。その際、豊臣氏から与えられていた1万2千石は没収され2千石の旗本とされました。また、一時の嫡男・一乗は幼年であった為、叔父の一忠の子で米子藩主中村氏に仕えていた滝川一積が呼び戻され名代となり、その後、家督と750石が一乗に返却され、滝川本家として存続しました。

その他、一益には三男に辰政、四男に知ト斎という二人の息子がいました。このうち辰政は、大坂の陣で戦功を挙げ1千石を加増され、合計3千石となり、その子孫は池田氏の移封に伴い、備前岡山藩士となりました。また、知ト斎は因幡鳥取藩池田氏に仕え、それぞれの子孫は岡山と鳥取の池田氏に仕えました。

いずれにせよ、往時の信長の代にあって大大名といわれた一益が興した滝川家は、相次ぐ戦乱の波に飲まれ、没落は避けられたものの、その後の徳川の世では、旗本、もしくは小大名になりさがるところとなりました。

さて、少々前置きが長くなりましたが、前田利益は、この滝川家の中興の祖、滝川一益の一派から出ました。前田家に養子に出されたわけですが、時代背景をみると、どうやら一益がまだ信長の四天王として活躍し、関東や北関東を鎮定しつつあったころかと思われます。

滝川家から前田家に養子に出された、という事実をみると、おそらくは滝川家の流れを汲む名門家の出であったとしても、嫡男としてではなく、次男三男がその出自だったと思われます。

この前田家の始祖の、前田利家もまた一益同様信長に信頼されていた人物です。利家は、はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持つほどの武将であり、その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、連勝しました。こうした功績が信長に認められ、のちには能登一国23万石を拝領して大名になっています。

同じく重臣の滝川一益とどこまで仲がよかったかどうかまではよくわかりません。が、勘気の強い信長の元でいつまで続くかもわからない乱世の中、できるだけ重臣同士は縁戚関係になり、敵を作らないようにしていたと考えられ、昔ながらのよしみで、利益を養子にしてやってよ、ということだったのではないでしょうか。

ところが前述のとおり、利益の義理の父となった、利家の兄、利久には子供がなく、病弱のため、その後信長から「武者道御無沙汰」、つまり武士としては甲斐性がない、と判断され、隠居させられてしまいました。そして、前田の家は、弟の利家が尾張荒子2千貫の地(約4千石)とともに継ぐことになりました。

これによって利久は没落し、このため利益は養父に従って、一旦は尾張の荒子城から退去し、浪人の身分になったとされます。しかし、さすがに食えなかったのか、その後利家は累進し能登国一国を領する大名となると、利久と利益は利家を頼り、これを許されて能登で仕える事になります。

このとき利家から利久・利益親子には7千石が与えられたといい、そのうち利久は2千石にすぎず、利益には5千石が与えられました。弟の利家からもよほど能力がないと思われていたのか、あるいはこのとき利益に家督を継がせることが決まっていたのでしょう。

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ところが、天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が起きます。その二年後には、天下人の継承をめぐって、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で、上述の小牧・長久手の戦いが起こりますが、この時、利家は秀吉側についており、当然、利益も彼の手先となりました。

彼らが住まう加賀・能登へは、徳川方の佐々成政が侵攻してきましたが、このとき利益は、佐々らに攻められた能登の末森城の救援に向かい、徳川方と交戦しました。この戦いは結局秀吉側の勝利に終わり、徳川は秀吉の一大名に成り下がりました。

叔父の利家は、末森城の戦いに勝ったのに続いて隣の越中国へも攻め込んで勝利し、越後の上杉景勝と連絡をとって北陸を平定、また秀吉の弟・羽柴秀長に従って四国へ進出してここを制しました。これによって前田家の地位は豊臣政権にあって不動のものとなり、利久と利益親子もまた利家に帰依していたため、それなりの恩賞を受けたと考えられます。

しかし、小牧・長久手の戦いから3年後の天正15年(1587年)には、義父利久が没しました。このとき、利益は家督を嫡男の正虎に与え、また利久から貰い受けた2千石をも正虎に与え、引き続き利家に仕えることになりました。

こうして、利益は実質、隠居状態になります。このとき57歳であり、年齢的にももう戦はご免、という時期だったでしょう。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので、利益もこれに従うよう命令が下ります。

また、次いで利家が陸奥地方の検田使を仰付かったときにも、利益はこれに随行しており、隠居の身とはいえ、利家が頼りにするほど、その知力にはまだまだ余裕があったことがうかがわれます。

しかし天正18年(1590年)以降、利益は突如として利家と仲が悪くなります。理由ははっきりわかりませんが、利益に長年付き従ってきた部下が利家の嫡子である利長と不仲だったからと伝えられています。このとき既に家督は長男の正虎に譲っており、養父の利久も亡くなっていることから、前田家と縁がなくなったと判断した彼は、出奔を決めます。

金沢を飛び出した利益は、その後は京都で浪人生活を送りながら、連歌師の里村紹巴・昌叱父子や学者の九条稙通、武将ながら茶人でもあった古田織部ら多数の文人と交流したといいます。40代後半のころにはすでに京都での連歌会に出席していた、という記録が残っており、この出奔以前から京都で文化活動を行っていたようです。

なお、このとき、利益の嫡子である正虎は当然のことながら、妻や他の子供なども一切この出奔には随行せず、そのまま金沢の利家の元に残りました。NHKのドラマ「かぶき者慶次」の中では、この妻を江波杏子さんが演じており、その名は「前田美津」となっており、また娘のひとりは、左乃(西内まりや)などとして描かれています。

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この京都では、同じく信長の家臣であった、細川幽斎とも親交があったようで、彼が出席した連歌会でたびたび顔を合わせている、という記録もあります。細川幽斎とは、初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力しますが、後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となった人物です。

後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川氏の祖となりましたが、若かりしころは明智光秀とも親しい間柄でした。信長の薦めによって嫡男・忠興と光秀の娘・玉を結婚させており、この玉こそ、のちに細川ガラシャといわれる人物です。のちに夫忠興が家康に組したことで、その留守に石田光成に襲われ、城ごと焼死することになります。

この細川幽斎のような大物中の大物と親しかったという利益もまた、かなりの人脈があり、有名人が多数出席するような連歌の会に出席していたことなどから、教養がある人物であったことは容易に想像できます。

この京都への出奔後、しばらく遊び暮らしたのちに利益は、越後の上杉景勝に仕官しています。この上杉景勝は、豊臣政権の五大老の一人で、前田利家とも親交がありました。

豊臣政権下では、前田家、上杉家とも格の上では同じくらいであり、両者とも乱世を生き抜き、家を江戸まで存続させたという点で共通点があります。同じ北陸地方ということで親近感もあったでしょうし、そこへ仕官したというのもうなづけます。

が、仕官というよりも、家格からしておそらくはどちらかといえば食客として迎えられた、というのが正しいと思われます。時期としては、関ヶ原の2年前の慶長3年(1598年)のころのようです。実は、この年は、上杉家は、秀吉の命により120万石に加増された上で、会津に移封された年であり、このとき当主の上杉景勝は、「会津中納言」と呼ばれました。

利益は既に65歳になっており、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1000石を受けています。

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この上杉家への入封においては、主君景勝のブレーン、直江兼続のとりなしもあったことがわかっており、兼続が利益のために屋敷を建ててやれ、と部下に命じる書状なども残っています。その後も兼続とは何かと親交が深かったそうで、このほか上杉二十五将の1人といわれた安田能元とも親しく、2人での連歌が今に残っています。

利益が上杉家に入ってから、1年後の慶長4年(1599年)には、叔父の利家が61歳で亡くなっています。叔父とはいえ、義理であり、利益よりも年下であったことからもその関係性がうかがわれます。利家にとっては結構けむたい甥だったのではないでしょうか。

前田家は彼の死により嫡男の利長が継ぐところとなりましたが、このころまでには既に秀吉は死んでおり、天下は徳川と旧豊臣派が真っ二つにわかれて睨みあう情勢になっていました。前田家は元々親豊臣でしたが、利長の代に、結局は家康の脅しに屈服し、利家の死から一年後に勃発した関ヶ原合戦では東軍に与しました。

一方、上杉家は打倒家康の闘志をむき出しとして徳川方と抗いました。関ヶ原の前哨戦ともいわれる山形盆地で行われた「長谷堂城の戦い(慶長出羽合戦)」では、徳川方の最上義光・伊達政宗率いる東軍と激戦を行っています。

このとき、利益は直江兼続の傘下に入って伊達軍と戦い、数々の功を立てたとされ、そうした奮闘もあって一時は上杉が優勢でした。しかし、この戦いの途中で、主君の景勝が参加していた関ヶ原の戦いで西軍が敗れたとの報が入ります。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの、このとき彼を諌めたのが、利益だったといわれています。

利益に説得された兼続は、撤退を決断します。が、最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転。上杉軍が撤退を開始する中、最上伊達連合軍が追撃した結果、上杉方は大勢の兵を失いましたが、兼続らの首脳陣は命からがら越後へ逃げ帰りました。

結果、上杉家は会津120万石を没収された上、30万石に減封された上で米沢に移されることになり、利益もこれに従って米沢藩に仕えるところとなりました。そして、米沢近郊の堂森(現、米沢市万世町堂森、慶次清水と呼ばれる)において再び隠居生活に入りました。利益はこの時すでに68歳になっていました。

隠棲後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わっています。そして、慶長17年(1612年)6月4日に79歳で、堂森で没したとされます。子は一男三女(五女とも)をもうけたとされますが、その後の生涯は不詳です。

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NHKドラマでは、この晩年の米沢時代の利益を描いているわけですが、しかし、これまで書いてきたような史実の中には、劇中にあるような、石田光成の子供を預かったというような事実は見えてきません。

ただ、前田家、上杉家とも秀吉の五奉行を命じられていたころから、同じく五奉行だった石田三成と親しかったことは確かでしょう。

三成には、3男3女もしくは2男5女がいたとされます。しかし、うち、長男と三男は関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命されたものの出家させられて坊主になっており、可能性のあるのは次男の「石田重成」という人物です。

しかし、米沢に渡ったという事実はなく、関ヶ原の戦い後、津軽信建という津軽氏の武将の助力で畿内を脱出。津軽氏に匿われ、のちに、「杉山源吾」と名を変え、津軽藩の家老職となっています。その子孫は津軽家臣として数家に分かれており、従って、NHKのドラマではこの事実をかなり脚色しているものと思われます。

利益の亡骸は米沢の北寺町の一花院に葬られたとされますが、一花院は現在廃寺となっており、当時の痕跡は残っていません。また堂森の善光寺というお寺には供養塔が残っているそうですが、こちらの供養塔は昭和55年(1980年)に建てられたものです。

利益の残した足跡としてもうひとつ残っているものとしては、山形県米沢市の宮坂考古館に利益の甲冑とされるものが展示されています。また、2009年、山形県川西町の掬粋巧芸館で、もう一つ利益のものとされる甲冑の40年ぶり2回目の特別公開があったそうです。

もともと非公開だっただけに、保存状態は極めて良いといい、これが、本物かどうかは不明ですが、上杉家に伝わった甲冑をまとめた「御具足台帳」には利益所用の甲冑は3領のみだったと記されているそうです。この残されたふたつが3つのうちの二つということになるのかもしれません。が、真偽のほどはわかりません。

それにしても、「かぶき者慶次」とよばれるような本当にユニークな人物だったのだろうか、というところが気になります。それについても今日書いていこうかと思ったのですが、前置きが長くなりすぎ、紙面も押してきたので今日のところはもうやめにしましょう。

史実によれば、確かに、利益には「かぶき者」と呼ばれるような傾向があったようで、常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖があり、また、いたずら癖、奇行の持ち主だったようです。

が、そろそろ晩飯の支度をしなければなりません。そのことはまた別の機会に書きましょう。今晩夜8時のドラマの放映が楽しみです。

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