潜水艦のはなし

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今見ている歴史年表には、1776年9月7日、アメリカの潜水艇「タートル」がイギリスの戦列艦「イーグル」を攻撃した、とあります。

世界初の潜水艦と呼ばれるものは、これよりも156年前の1620年にイギリス海軍が開発したもので、櫂(かい)による人力推進という原始的なものだったうえに、実戦投入はされませんでした。

従って、戦争に用いられる戦闘艦、という意味では、事実上、このタートル(Turtle)なる潜水艦が、世界で初めての潜水艦と言ってよいでしょう。開発したのは、コネチカット州出身の、デヴィッド・ブッシュネルという人で、アメリカ独立戦争ごろに活躍した発明家です。

イェール大学在学中、火薬が水中でも爆発することを証明し、また、世界初の時限爆弾を作ったことでも知られています。1776年夏、その爆弾を使い、ニューヨーク港を封鎖していたイギリスの艦船の船体に穴を開けて爆弾を仕掛けようと考えましたが、その実行のために開発したのがこの潜水艦です。

現在2ドル札の裏面に使われている「アメリカ独立宣言「など歴史的場面を描いたことで有名な画家、ジョン・トランブルが、ジョージ・ワシントンにこのブッシュネルを推薦したと伝えられています。ワシントンは、このころまだ北軍の将軍でしたが、ご存知のとおり、のちの初代大統領です。

トランブルは、このころ、ブッシュネルの住むコネチカット州の知事を務めており、若き発明家としての彼の名声を聞き知っていたのでしょう。ワシントンは半信半疑ながらも、トランブルが勧めるまま、その「機械」の開発に資金と支援を提供しました。

ブッシュネルは提供された資金をもとに、全長2.4m、全高1.8m、全幅0.9mで、2枚の木製外殻にタールを塗り、鋼鉄製の帯で補強した潜水艇を完成させ、カメを思わせるその形状からこれを「タートル」と名付けました。

そして、この潜水艇を使って、イギリス軍の艦船に悟られないように近づき、船の船体に穴を開け、そこに59kgの火薬を詰めた樽を埋め込み、時限信管で爆発させることを想定しました。実戦に投入する前の試験は、兄弟エズラ・ブッシュネルがコネチカット川の水中で行ったとされます。

現代の潜水艦と基本原理は同じで、船底のタンクに水を引き込むことで潜水し、手動ポンプを回して排水することで浮上します。また、史上初めてスクリューで推進する方式を採用した船でもありました。さらに、91kgの鉛を装備しており、それを放つことで瞬間的に浮力を増すことができました。

ただ、哀しいかな、まだこの潜水艦もまた、動力は人力であり、しかも1人乗りでした。しかし、艇内の空気で約30分潜水でき、荒れていなければ1時間に5kmほど進むことができたといいます。

上部に6つの小さく分厚いガラス窓があり、そこからしか自然光が入ってきません。このため、ブッシュネルは艇内をもっと明るくしたいと考え、はじめロウソクを使おうと考えました。しかし、ロウソクに火が灯ると限られた酸素の消費が早まることがわかりました。

そこで、同じく発明家で科学者として名声を博していた、ベンジャミン・フランクリンに助けを求めました。ご存知のとおり、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにした人物です。

この実験はその後避雷針の発明に結びつきましたが、フランクリンはこのほかにも、フランクリンストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブなども開発しており、この時代のいわばエネルギー工学のエキスパートでした。

ブッシュネルからの相談を受けると、早速対処方法を考えましたが、その結果として、羅針盤と測深計を生物発光の燐光で照らすアイデアを思いつきました。その光は夜間の照明としては十分でした。しかし、予想していたよりもかなり薄暗かったといい、これは、船体が海水で冷やされるため、発光生物の代謝が低く抑えられたからです。

とまれ、タートルは一応の完成を見たことから、実戦に投入されることになりました。このころのアメリカは、イギリスからの独立戦争の真っただ中であり、イギリス軍はニューヨーク占領のために大陸軍をロングアイランドの戦いで破り、マンハッタン島に後退した総司令官ワシントン率いる大陸軍を追ってイースト川を渡ろうとしていました。

イースト川に浮かぶイギリス海軍艦隊は多数におよび、大陸軍に激しい艦砲射撃を浴びせかけ、上陸点を守っていた経験の足りないアメリカ側民兵はこれにおののき、逃亡しました。キップス湾と呼ばれる湾の海側から抵抗もなく上陸に成功し、この作戦はイギリス軍の決定的な成功に終わりました。

このため、この戦いは後世で「キップス湾の戦い」と呼ばれています。この戦いのさなかの1776年9月7日夜、キップス湾での戦闘を支援するため、タートル潜水艇はマンハッタンの真南にあるガバナーズ島に係留されていたハウ将軍の旗艦イーグルを攻撃しました。

この新鋭艦の操縦者に選ばれたのは、一兵卒でしたが、大陸軍の中でも勇猛果敢な人物として知られていた、エズラ・リーという男でした。しかし、この作戦は、失敗でした。リーは、目標とするイーグルの船腹にまで到達することには成功しましたが、その胴体に穴をあけることができませんでした。

一説によれば、銅版で船体が覆われていたためにリーが船体に穴を開けられなかったのではないかとされています。が、薄い銅版にドリルで穴を開けられなかったはずはなく、おそらくは、リーがタートル号の操縦に不慣れであり、揺れる波中で、船体の1カ所に集中してドリルを回し続けられなかったのではないか、ということが言われています。

このイーグルが停泊していたガバナーズ島近辺というのは、ハドソン川とイースト川が合流する位置にあり、流れが強く複雑です。このため、タートル号がこの場所に係留された船を攻撃できるとしたら、上げ潮と川の流れが釣り合った短時間だけだったと考えられます。おそらくはその持ち時間の中で穴をあけられなかったのでしょう。

また、イーグルを攻撃するためには、タートル号は潮流を横切る形で同船に近づく必要があり、人力が推進装置であるこの船を操船するエズラ・リーは、イーグルに接近したころにはかなり疲れきっていたと考えられます。

さらに悪い事に、リーの乗るタートル号は、その退却時にイギリス側に発見されてしまいます。このためイギリス軍の兵士がボートで追いかけてきましたが、彼は咄嗟の判断で、火薬を詰めた樽を放ちました。これを見た、イギリス側は何かの計略ではないかとひるみ、その隙にリーはなんとか逃れることができたといいます。

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しかし、この失敗にもめげず、リーは翌年の1777年、ふたたびタートル号に乗り、出撃しました。このときは、ナイアンティック湾に係留していたイギリスのフリゲート艦 HMS ケルベロスを浮遊機雷で攻撃しようとしました。今回の試みはある程度成功し、その爆発によって、同艦には数名の船員の死傷者がでました。

が、やはり船体に損傷を与えることはできませんでした。ただ、潜水艦として相手に攻撃を加えて成功した最初の例であり、その後世界中で運用されるようになるこの乗り物の歴史においては特筆すべきことでしょう。

その後、タートル号は、リー以外の搭乗員によって運用され、何度か出撃したようですが、最後は、ニュージャージー州フォートリーでイギリス側に発見され、沈められたと伝えられています。

ちなみにその後のリーは、独立戦争の緒戦のいくつかで戦いましたが、最後はニュージャージー州で戦われた、トレントンの戦いにおいて銃弾に倒れ、出身地のコネチカットにある、ダック墓地に埋葬されています。

数年後、この水没したタートルは、大陸軍によって回収されました。この事実はブッシュネルが、第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンへ宛てた手紙の中に記されているそうです。また、ブッシュネルはそれを解体し、おおまかな図面を残しました。

この図面を用い、1976年のアメリカ建国200周年においては、200周年記念事業として、このタートル号のレプリカが製作されました。コネチカット州知事、エラ・グラッソらによって進水式が行われ、コネチカット川で潜水試験も行われたそうです。

この複製品は現在、「コネチカットリバー博物館」に納められており、このほかにも地元の高校生が実動する複製を作ったものがあるそうです。

このタートル号が実戦投入されてから、以後およそ240年、潜水艦は目覚ましい発展を遂げました。耐圧構造の船体を持ち、潜航可能な軍艦は、現在でも潜水艦と呼ばれていますが、同様の構造の船でも、民間の海底探査船や水中遊覧用船などは潜水艇、潜水船などと呼ばれ、深海探査や救助用として別のかたちの発展を遂げました。

一方の軍用の潜水艦においては、その後同じアメリカでの南北戦争では、南軍が人力推進型の「ハンリー潜水艦」というものを開発しました。この船は、1864年に、サウスカロライナ州チャールストン港外で、同港を封鎖中の北軍木造蒸気帆船「フーサトニック」を外装水雷により撃沈しており、これは史上初となる潜水艇による敵艦撃沈記録でした。

また、同じ年、世界で初めて動力を使用した潜水艦が開発されました。フランス海軍の「プロンジュール」であり、これは12.5バールに加圧された圧縮空気をタンクに貯蔵し、これを利用するレシプロ式の空気エンジンで推進しました。80馬力を発揮し、4ノットの速度で5海里 (約9 km)航行できました。

最大潜行深度は10m、武装は衝角と電気発火式の外装水雷であり、さらに12人の乗員が脱出できるように、8×1mのサイズの小さな救命艇が装備されるという本格的なものでした。実戦には投入されませんでしたが、1867年のパリ万国博覧会にプロンジュールの模型が展示され、それを見たジュール・ヴェルヌが書いたのが有名なSF「海底二万里」です。

次いで、1867年には、スペインの技術者、ナルシス・ムントリオルがスペイン海軍の援助を受けて、潜水艦「イクティネオII」を非大気依存推進させることに世界で初めて成功しました。

非大気依存推進とは、ディーゼル機関などの内燃機関の作動に必要な大気中の酸素を取り込むために、浮上もしくはシュノーケル航走をせずに潜水艦を潜航させることを可能にする技術の総称です。ただし、いわゆる原子力潜水艦などの核動力を含まず、蓄電池や化学反応などによって内燃機関を補助・補完する技術を指します。

「イクティネオII」では、2基のエンジンを搭載していました。水上航行用の1基目は従来通りに石炭を使用しましたが、水中航行用の2基目は燃焼ではなく亜鉛53%・二酸化マンガン16%・塩素酸カリウム31%を混合させた化学燃料棒を化学反応させる事で、エンジンを回しました。これにより必要熱とともに、副産物として酸素も発生できました。

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このエンジンの仕組みを調べてみましたが、よくわかりません。おそらくは化学反応で発生した熱で水を熱して気化させ、蒸気エンジンとしたものだと思われます。なお、酸素が発生することから、これにより乗組員の生命維持機能を持たせることもでき、20人もの搭乗員を乗せて、8時間以上も潜航航行できたといいます。

しかし、化学反応によって得られる程度の熱では、十分な推力は得られなかったとみえ、このため水中での推進力は、昔ながらの人力が併用されていました。それゆえ、水中での最大速力はわずか、2ノット(時速3.7km)でした。

とはいえ、いまから150年ほども前のこの時代に、世界に先駆けて非大気依存推進させることに成功したということは偉業といえます。1867年といえば、日本ではこの年、ようやく大政奉還が実現した年です。このため、実用的な潜水艦を発明したのはアメリカですが、本格的な潜水艦を世界に先駆けて発明したのはスペイン、とはよく言われることです。

その後、1888年には、フランス海軍が世界最初の電気推進の潜水艦「ジムノート(Gymnote)」を開発し、非大気依存推進の潜水艦の開発はさらに加速しました。

さらに、1900年になって、近代潜水艦の父と呼ばれた、スコットランド出身でのちにアメリカに帰化した造船技師、ジョン・フィリップ・ホランドによって設計された潜水艦「ホーランド号(水中排水量74t)」は、最初の近代的潜水艦として評価の高いものでした。

主機のガソリンエンジンと電動機の直結方式(ハイブリット)であり、内燃機関によって推進する近代潜水艦の元祖として知られます。また、「ホランド級潜水」として、アメリカのみならず、カナダ、イギリス、イタリア、オーストリア=ハンガリー帝国、オランダ、ノルウェー、ロシア帝国、そして日本までもがその模倣船を造りました。

ちなみに、この当時の大日本帝国海軍にとっては、初めての潜水艦がこのホランド級でした。アメリカで製造されたバラバラの部品を日本に輸送して完成させるという、いわゆるノックダウン方式で組み立てられ、「第一型潜水艦」とよばれ、都合5隻が建造されました。

純国産とされるものは、その2年後の1906年に起工されたもので、六隻目なので、「第六型潜水艦」と呼ばれました。アメリカから製造権を購入して建造されたもので、ホランドの設計に基づき、川崎造船所で2隻が建造されました。

コピーながら日本で初めての潜水艦建造でしたが、船体はホランド型よりも小型となっています。日露戦争には間に合いませんでしたが、第一次世界大戦後まで、主に練習艦として運用が継続されており、優秀な艦でした。

ちなみに、その後大日本帝国海軍は潜水艦を艦隊決戦における敵艦隊攻撃用に投入することを意図し、大型の「大海型潜水艦」と「巡洋潜水艦」の二系列を中心に建造しました。巡洋潜水艦は水上機を搭載したのが特徴で、航続力と索敵力に優れた偵察型でした。対して海大型は、水上速力と雷撃力に優れた攻撃型でした。

しかし太平洋戦争では、開戦前に想定されていた艦隊決戦は起こらず、目立った活躍はありませんでした。インド洋での通商破壊や、南方への輸送任務などに投入されましたが、米海軍艦艇の優秀な対潜兵器の前に多くが撃沈されていきました。

その日本と同盟国であったドイツは、第一次大戦期から開発していたUボートで世界の海を席巻し、これは名作とうたわれました。

第一次大戦では約300隻が建造され、商船約5,300隻を撃沈する戦果を上げました。また、第二次大戦では、1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげました。しかし、その引き換えに849隻のUボートが失われました。

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これに対し、連合国側のアメリカ海軍もドイツ同様、潜水艦を対日通商破壊に投入しました。高性能なレーダーやソナーなどにより、電子兵装の劣る日本艦船を次々と撃沈していきましたが、その活躍により日本商船隊は壊滅し、対日戦勝利に大きく貢献しました。

そのアメリカ海軍は、戦後10年を経て1955年に、世界初の原子力潜水艦、「ノーチラス」(排水量3,180t)を完成させました。原子炉と蒸気タービンを採用した、史上初の潜水艦であり、水中速力20ノットを誇り、潜航可能時間はなんと3ヶ月と驚異的なものでした。

この原子力主機登場により、その後、潜水艦の水中速力と水中航続力は大きく増大するとともに、戦闘能力も飛躍的な向上を遂げました。原子力潜水艦が大型水上艦艇を撃沈した例は、1982年のフォークランド紛争時に、イギリス海軍の「コンカラー」がアルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」を雷撃によって撃沈した事例が最初です。

「コンカラー」は「ヘネラル・ベルグラーノ」を24時間以上つけ回しましたが、全く気付かれなかったといい、この戦いにより、それまで水上艦に対し圧倒的に不利と思われていた原潜の有効性が証明されました。

世界初の原子力潜水艦ノーチラスの就航はまた、潜水艦の種類の分化にも寄与しました。とくに核を搭載する潜水艦は、米ソ冷戦時代に著しく進化し、弾道ミサイル潜水艦や巡航ミサイル潜水艦は、時代の花形となりました。

これらのほとんどは、原子力潜水艦です。長期間、敵国領海深くに潜み、いざとなれば核を放って相手の息を止める、というこの潜水艦建造技術は、アメリカのお家芸ともいえるものであり、ソ連がその技術を追いかけました。が、現在では米露以外でも、イギリス、フランス、中国、インドがそれぞれ建造に成功し、実戦配備しています。

そのほか、原子力潜水艦を保有しない国では攻撃型潜水艦、沿岸型潜水艦などが造られるようになりました。

沿岸型潜水艦というのは、哨戒型潜水艦とも呼ばれるものです。小型で航続力に乏しく、自国周辺海域での哨戒任務に使用されます。第二次大戦時までは、中型・小型の沿岸型潜水艦が多数建造されました。

しかし対潜兵器の進化した現代では、大洋の真っただ中である、「公海」で作戦行動するのは浅航行を必要としない原子力潜水艦が主力となり、これらの沿岸型潜水艦はなりをひそめました。

ただ、冷戦終結後にはソ連海軍を引き継いだロシア海軍の潜水艦部隊は財政状況が悪化し著しく不活発となったため、米海軍における原潜についても、従来の敵潜水艦や敵水上艦艇への攻撃及び味方機動空母の護衛のような任務は大幅に軽減されるようになりました。

しかしながら、冷戦終結と入れ替わり世界では地域紛争が頻発するようになり、アメリカの攻撃型原潜には別な任務が求められるようになりました。巡航ミサイルを装備するようになり、これを艦首の垂直発射システムから水中発射し、敵の重要目標へ対地攻撃します。

また、敵対国の沿岸に隠密に侵入して、偵察や情報収集活動を行ったり特殊部隊の投入や回収を行うことが可能な艦内構造に変化し、さらに敵潜水艦の発見追尾などの任務も担うようになりました。現在では索敵が原子力潜水艦の一番の任務であるといえます。

このため、仮に通常動力型の潜水艦が外洋で作戦行動をしても、こうした原子力潜水艦に容易に位置を察知され「無力化」されてしまいます。それゆえ、基本的に通常潜水艦は自国近海での哨戒任務にしか使用できず、このため、その多くは「沿岸哨戒型潜水艦」と呼ばれることも多くなっています。

しかし、沿岸といっても、自国の海岸線から200海里(370.4km)の範囲内である、排他的経済水域などのやや広い範囲で活動する潜水艦は、「攻撃型潜水艦」と呼ばれます。魚雷や機雷などを主兵装とし、領海に侵入してきた敵の水上艦艇や潜水艦などの攻撃を任務とする潜水艦です。略称は、米英海軍および海上自衛隊ではSSと呼ばれます。

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一方、原子力推進式のものも攻撃型潜水艦といえますが、この場合は核動力 (Nuclear) を表すNを付けてSSNになります。しかし、一般的に原子力推進のものは「攻撃型原子力潜水艦」と呼び、それ以外の推進力を持つ潜水艦は、単に「攻撃型潜水艦」と呼ぶようです。

かつての非原子力型の攻撃型潜水艦は、水上艦艇に比べ最高速力や防御力、電子装備、水中航続距離などの基本的能力が劣り、巡洋艦や駆逐艦とまともに戦闘するためには少々非力でした。このため、主に待ち伏せ攻撃、港湾での情報収集、特殊部隊投入、物資輸送、通商破壊などの対貨客船任務、などの任務に投入されました。

しかし第二次大戦以降、魚雷やソナー、各種電子機器、通信装置の性能が向上し、さらに原子力潜水艦で培われた技術を流用することでその攻撃性は画期的に向上し、現在では強力な戦闘力を持つ最強の軍艦として、かつての戦艦に匹敵する地位を獲得しました。

また、攻撃型潜水艦は敵水上艦船だけでなく敵潜水艦も攻撃目標とするようになりました。隠密性の高い潜水艦を探知し攻撃するのは、やはり同じ潜水艦のほうが有利だからであり、このため敵の戦略ミサイル潜水艦を攻撃する任務や、自国の艦隊を敵の攻撃型潜水艦から護衛する任務を与えられるようにもなりました。

このため、上述のとおり、日本が保有している潜水艦は、「沿岸哨戒型潜水艦」ともいえるわけですが、外洋に出て敵を威嚇または攻撃できる十分な能力持っていることから、「攻撃型潜水艦」といっていいでしょう。自民党はこの呼び方を嫌がるでしょうが。

日本では、海上自衛隊自衛艦隊に所属する、「潜水艦隊」を保有しており、潜水艦隊の司令部は神奈川県横須賀市に置かれています。ここをヘッドとして、呉基地の第1潜水隊群、横須賀基地の第2潜水隊群が主力です。このほか、潜水艦教育訓練隊、第1潜水訓練練習隊、横須賀潜水艦教育訓練分遣隊があります。

潜水艦隊には、現在、16隻の作戦用潜水艦、2隻の訓練用潜水艦の計18隻の潜水艦があります。呉市にある第1潜水隊群が10隻、横須賀市の第2潜水隊群が8隻を保有しています。

第1と第2潜水隊群は、もともと並列で運用されていました。が、それでは有事に指揮系統がバラバラになりかねないとの危惧があり、昭和55年の法律改定により、潜水艦群の作戦運用は、横須賀の本部で一元化され、「潜水艦隊」として統一されることになりました。

これら一連の潜水艦群の中でも最新型のものは、「そうりゅう型潜水艦」です。海上自衛隊初の非大気依存推進(AIP)潜水艦であり、13中期防の4年度目にあたる平成16年度(2004年度)予算より取得を開始した潜水艦(SS)であることから、16SSとも呼ばれています。

最近、ニュースでオーストラリア海軍への技術供与が可能かどうか、が話題になっているのはこの艦です。

オーストラリアは、世界一のウラン埋蔵量を持っており、世界有数のウラン輸出国ですが、国内に原子力発電所はひとつもありません。放射性廃棄物の処分に有効な手立てがないことなどを理由に、国民の多くが原発に対してノーといっているためです。

また、火力発電の燃料でもある石炭も世界有数の埋蔵量を誇ることから、エネルギー安全保障の観点から原子力政策を打ち出すことが困難な状況です。そうしたこともあって、原子力潜水艦についても根強い反対意見があり、オーストリア海軍は、コリンズ級という潜水艦を6隻ほど持っていますが、すべて通常動力型潜水艦です。

ただ、このコリンズ級潜水艦は、ほとんどが1996~2003年に建造されたもので、少々老朽化しており、加えて、最近中国海軍のアジアにおける活動の活発化を鑑みて、コリンズ級潜水艦の代替として4,000トンクラスの大型潜水艦の導入を計画するようになりました。

ドイツの216型潜水艦の他にスペイン、フランスの潜水艦の調査が行われていましたが、2011年に日本が武器輸出三原則政策を緩和したため、そうりゅう型も検討対象に加えられた、というわけです。

ただ、オーストラリアのアボット政権は、公約で次期潜水艦を国内で建造すると表明しており、そうりゅう型の完成型を輸入することは、この公約に反することになります。このため、オーストラリア内で反発が強まる恐れがあり、また、日本政府にも、機密性の高い潜水艦を他国に輸出することに慎重論があります。

しかし、アボット首相は国内での潜水艦の建造が国内経済へ与える効果については懐疑的であるともいわれ、あくまで軍事的な観点から判断するとしています。なお、日本の潜水艦は、インドも高い関心を持っており、その他の国からも高い評価を得ていることから、HⅡロケットと同様に、潜水艦技術を輸出する時代が来るかもしれません。

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原子力潜水艦より劣るのでは、というのが一般的な見方ですが、原子力潜水艦の欠点は、電動機推進時(エンジンは停止)のディーゼル・エレクトリック方式の潜水艦に比べ、静粛性が劣ることです。原子力機関では、高速回転する蒸気タービンの軸出力で低回転のスクリューを回すため、ギヤで減速装置を回しますが、これが大きな騒音発生源となります。

これは沿岸に潜んで敵を待ち伏せる、という目的のためにはネックとなります。オーストラリア海軍もまた日本と同じように、公海にまで出て他国潜水艦を探査したり、攻撃を加えるような必要性はあまりないため、従来型の通常動力潜水艦で十分、というわけです。

こうしたことを受け、昨年の2014年10月には、オーストラリアのジョンストン国防相が、江渡聡徳防衛大臣との会談で、オーストラリアが計画する潜水艦建造への協力を正式に要請しました。まだ、実際に技術供与が行われるかは五分五分のようですが、中国の海洋進出が進む西太平洋の現在の状況をみると、可能性はあるのではないでしょうか。

この「そうりゅう」の能力ですが、高速力を発揮する際には、従来通りのディーゼル・エレクトリック方式が用いられますが、哨戒や索敵、あるいは情報収集といった静粛行動の際には、「スターリングAIPシステム」という特殊なエンジンを駆動します。

いわゆる「スターリングエンジン」というヤツで、非常に複雑なシステムです。が、熱効率が高く排ガスを出さず、かつ静粛性が高いのが特徴です。ただ、出力が低いので低速(4~5ノット=7.4~9.3km/h)です。が、航続性能は著しく高く、詳細データは公表されていませんが、このエンジンで電気を作り、3週間程度の水中行動ができるといわれています。

また、最高潜航深度は5~600mとも700mを超えるとも言われており、いずれにせよ潜航能力に関しては間違いなく、世界トップクラスのようです。アメリカもこの深度を潜れる原潜を数隻持っていますが、試験段階のようで、量産型原潜の潜航深度は4~500m程度にすぎません。

また、自衛隊に実戦配備されている89式長魚雷という「深深度魚雷」は、静粛性を重視し、長距離航走を可能としています。速度は55ノット(約100㎞/h)と劣るものの、射程は約40㎞と通常魚雷の約4倍、特筆すべきは最大潜航深度900mでも発射できることです。

もっとも、魚雷を射出するためにはその深度まで潜らなければなりませんが、実際そこまで潜航できるかどうかは、日本だけでなく、各国とも最高位の軍事機密です。

一方、アメリカでは、Mk50魚雷と呼ばれる深深度魚雷が最高深度を持っているようですが、それでも580メートルにすぎず、かつ高価です。加えてアメリカは近年、深深度に潜行する潜水艦よりも、浅深度における潜水艦を主要な脅威とみなすようになり、こうした高価・複雑な深深度向け魚雷の採用には積極的ではありません。

敵を攻撃するためには、ミサイルのほうが有利と考えているのもその理由のようです。ミサイル発射の時は安全深度まで浮上しなければならず、さもなければ射出時に不具合が起きたり、射出できても水圧により圧壊の可能性があるそうです。

従って、アメリカの原潜の多くは、潜航深度4~500mといわれており、原潜本体においても、近年ではこれより深く潜れるものは税金の無駄遣いとして敬遠されているようです。こうしたことから、アメリカが潜水艦に求める性能は、浅い海を長く潜れて広い範囲を行動でき、かつ高い攻撃能力を持つこと、ということになります。

これに対して、日本の攻撃型原潜に求められるのは、深い海をそこそこの時間潜航できて、かつできるだけ敵に悟られないように相手を追い詰めて仕留める、という点であり、このため「深さ」という点においてこだわりがあるようです。従って、この点については、そうりゅう型は世界のトップクラス、といえそうです。

さらには、情報処理システムも最高レベルのものが導入されています。これこそトップシークレットのようなので、詳しくはわかりませんが(私に詳細な知識がないこともありますが)、武器管制システムおよび魚雷発射指揮システムは、二重の光ファイバーによるLANによって構築されています。

そして、これらのネットワーク化システムによって生成された情報を意思決定に反映するためのインタフェースも充実しています。例えば、センサー情報や航海情報などの情報表示装置なども迅速性、広域性が確保されているといいます。

さらに、他の艦とのネットワーク構築も進んでおり、そうりゅう型の7番艦で最新鋭の「じんりゅう」からは新たなXバンド衛星通信装置が装備されたようです。

Xバンド通信は8GHz以上の高周波数帯域を使う通信のことで、携帯電話通信や地上デジタル放送などよりもはるかに高い周波数で通信するため、従来の衛星通信と比較して、気象などの影響を受けにくい、高速・安定通信が可能である、といった特徴があります。

ただ、聞きかじった範囲では、潜水艦の耳ともいえるソナーシステムについては、基本的にはアメリカ海軍の開発した技術を模倣している、といった状況のようです。世界最高レベルではあるものの、能力的に以前のものからさほど進歩していないようであり、将来へ向けての新技術への挑戦が必要、といったことが取沙汰されているようです。

とはいえ、かつての造船大国日本として培った最高の技術が蓄積された潜水艦であり、それをオーストラリアのような他国に売っていいかどうか、という議論はまだまだ続きそうです。

なお、最新鋭艦のじんりゅうの建造費は545億8千万円だそうです。先日公表された新国立競技場の建設費用が、1550億円ですから、これ一隻でその費用の3分の1が賄うことができます。

国威高揚のための国際大会も、国を守るための装備もどちらも大事です。が、1000兆円を超える借金でいまや国民1人あたりの負担額は830万円にもなっており、はたしてそんなムダ遣いばかりしていていいのか、と少々複雑です。

今の日本にとって、本当に必要なものに対する精査が必要になってきている時代のように思えます。

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あさが来る

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私が日常で手放せないもののひとつに、「リップクリーム」があります。

どうも唇が渇きやすいたちのようで、年から年中、冬でも夏でもいつも胸ポケットに1本入れていて、カサカサ感があると、ついつい手がでます。

今もその一本が手元にありますが、商品名は「メンターム薬用スティック」とあります。製造会社は「近江兄弟社」となっていますが、そういえば、メンターム意外に、「メンソレータム」というのもあったよな、とふと思い出しました。

違いはなんだろう、と調べてみると、「メンソレータム」のほうは、ロート製薬のものだそうです。ところが、この「メンソレータム」も、元々は近江兄弟社が世に出したものだったということがわかりました。

最初に作った近江兄弟社のほうが、その後業績不振に陥り、販売権を手放したものをロート製薬が買取りました。が、その後兄弟社が自主再建の足がかりをつかみ、残っていたメンソレータムの製造設備などを活用して新たに製造・販売した塗り薬が、「メンターム」です。

しかし、主原料・効能、容器のデザインはほぼ同じです。メンソレータムの名前の由来は、メンソールとワセリン(ペトレータム)を組み合わせたもので、この名前はロート製薬が商標登録してあったものを入手したため、再起した近江兄弟社側は使えず、やむなく「メンターム」の名で売り出したものです。

それにしても、両方とも似たようなリップであり、濃い緑色の表装です。が、中身をよく見ると、メンソレータムが黄色ワセリンを使っていて少し黄ばんでいるのに対し、メンタームは白ワセリンを使用しているため白く、色合いは若干異なります。

また、メンソレータムのマスコットは、「リトルナースちゃん(小さな看護婦さん)」であるのに対し、メンタームのほうは、「メンタームキッド」です。

リトルナースは、元々、米国メンソレータム社が雑誌広告と金属容器に一時期使用していたキャラクターで、モデルはかつて天才子役として世界的に人気のあった女優シャーリー・テンプルではないかとの説があります。

近江兄弟社の前身である「ヴォーリズ合名会社」が、明治時代にこのアメリカのメンソレータム社から販売権を譲り受け、日本国内向けに販売、その後、製造も手がけるようになったときに、このリトルナースの商標権も買取りました。その後、若干の修正を加えており、このときオリジナルは右向きの顔で描かれていたものを、日本版では左向きにしました。

一方、メンタームのキャラクター、メンタームキッドはギリシャ神話の医術神アポロンをモデルとして描かれました。さすがに同じナースちゃんではまずいと思ったのでしょう、女の子に対抗して男の子をイメージキャラクターにしたわけです。

この近江兄弟社というのは、滋賀県近江八幡市に本社を置く医薬品メーカーです。明治38年(1905年)に滋賀県八幡商業学校に赴任してきた建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが、造った会社です。

ヴォーリズは明治40年(1907年)に教師として来日しましたが、布教もその来日の目的のひとつであり、八幡基督教青年会館という布教所を建設してバイブル・クラスを開設しました。

ところが、この八幡というところは、豊臣秀次(秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男)が建造した八幡城を中心に楽市楽座で栄えた町で、特権商人組織、いわゆる「近江商人」の発祥地でもある保守的な町でした。

その排他的な気風は明治になってもかわっておらず、このため、ヴォーリズは、町民の反感を買うようになり、やがて無理やり教師を解職させられてしまいます。しかたなく翌年には京都に移動し、ここにあった京都YMCA内にヴォーリズ建築事務所を開き、学校、教会、病院などの設計・建築を行うようになりました。

明治43年(1910年)には、宣教活動の為に確固とした経済的基盤を築こうとし、信徒の協力を得て創った会社が「ヴォーリズ合名会社」になります。大正9年(1920年)には株式会社に改変し、「近江セールズ株式会社」となり、さらにその後改名して「近江兄弟社」となりました。

主力商品は、アメリカ合衆国の「メンソレータム社」の製品であり、同社から日本での製造・販売・商標権やマスコットのリトルナースちゃんの使用権を得て、日本国内での製造販売を手がけるようになりました。しかし、創業者のヴォーリズの亡きあと、原材料費の高騰に加えて他社の競合品に食われました。

そればかりか、土地ブームにあやかって滋賀県内の別荘地分譲に手を出したために経営が苦しくなり、自主再建を断念し、1974年には会社更生法を申請し事実上の倒産。同時にメンソレータムの販売権もアメリカの本社へ返上しました。その翌年の1975年にメンソレータムの販売権はロート製薬が取得。

さらに1988年にはメンソレータム社本体もロート製薬に買収されました。一方の近江兄弟社は、その後大鵬薬品工業(現在は大塚HDの傘下)の資本参加で再興をはかることになりましたが、米メンソレータム社からは商品供給を断られたことから、主力商品を失った同社の再建は絶望視されるようになりました。

メンソレータム社が協力をしぶったのは、近江兄弟社の経営破たんをもたらして以来の経営陣のふがいなさに不信感を抱いていたことなどが原因だと取沙汰されています。

このため、メンソレータムの製造設備を利用してオリジナルの類似製品を販売するにあたり、メンソレータムの略称として従前より商標登録してあった「メンターム」を商品名として用いることにしました。おそらく、日本人には「メンソレータム」は発音しにくいと考え、略称として別途用意していたものでしょう。

そして1975年9月から、新たに主力商品として「メンターム」の製造を始め、自社の主力ブランドとして育て、今に至っている、というわけです。

ちなみに、近江兄弟社の「兄弟」とは、創業者のヴォーリスが、人類が皆兄弟のように助け合ってほしいとするキリスト教精神から名づけたものだそうです。その後同社が八幡市に根付いて同市を代表するような会社になってからはクリスチャンが増えました。

その関係からか、近江八幡の市民には、メンソレータムを選ぶかメンタームを選ぶか、としたときに、メンタームを選ぶ人が多いそうです。また、地元企業でもあることから、地域の患者さんからも、名指しの指定が多いそうで、このため、薬局などでも近江兄弟社のものを揃えている店が多いといいます。

かといってロート製薬のメンソレータムもある程度販売されており、近江兄弟社の本拠地にあっては、そこそこ健闘している、といえるでしょう。

なお、かつてはメンタームは医薬品、メンソレータムは医薬部外品とされていましたが、今日ではいずれも医薬品(主に第3類医薬品)とされる製品があるそうです。ただし、両者とも医薬部外品のものも販売しており、今、私の手元にある近江兄弟社のリップを確認すると、これも医薬部外品でした。効能として、どこがどう違うのかよくわりませんが。

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ところで、このメンソレータムを日本に普及させた、ウィリアム・メレル・ヴォーリズというのはどういう人かといえば、まず、生まれは、1880年10月28日、アメリカのど真ん中、カンザス州のレブンワースという町で生を受けました。

上述のとおり、は教師として来日し、八幡に居を構えて布教をしようとしましたが、うまくいかず、京都に移って、数多くの西洋建築を手懸けるようになりました。ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立はその副業に過ぎず、本来目的の布教においては、YMCA活動を中心とし、また「近江ミッション」というキリスト教伝道団体を設立しました。

信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事しました。もっとも、「宣教師」と紹介されることが多いものの、プロの牧師ではなく、単に「伝道者」であったとされます。しかし、讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かったといわれています。

建築のほうの知識は、コロラド州・コロラドスプリングスにある歴史的な有名校、コロラド・カレッジに進学したときに得たもので、来日後の1908年(明治41年)、京都で設立した建築設計監督事務所で活動を始め、以来、学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、多種多様な建築に関わりました。

しかし、その後京都から、滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点を移し、上のメンソレータムなどの販売といった実業家としての側面も見せたことから、地元では「青い目の近江商人」と称されるまでになりました。

太平洋戦争時には、スパイ容疑をかけられてしまい、夫人とともに自身の別荘のあった軽井沢でひっそりと暮らしていたといいます。しかし、太平洋戦争終戦後は自由に行動できるようになり、このとき、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと、戦後すぐに入閣して国務大臣になった近衛文麿との仲介役を果たしました。

そのおかげで、天皇ご自身は戦犯として裁かれなかったといわれており、「天皇を守ったアメリカ人」とも称されます。ちなみに近衛自身は、戦争中末期に、天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えたにもかかわらず、戦争を始めた張本人とみなされてA級戦犯となり、裁判中に服毒自殺をしています。

ヴォーリズは、71歳のとき、こうしたそれまでの功績から、藍綬褒章を受章しており、また、81歳のときには、建築業界における功績から黄綬褒章を受章しています。さらに、78歳になった1958年には、近江八幡市における名誉市民第1号に選ばれていました。

しかし、その前年の1957年には、くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入っており、この受賞と黄綬褒章の受章は病床でのことでした。1964年、近江八幡市内の自邸2階の自室において永眠。83歳でした。この自宅は、現在「ヴォーリズ記念館(一柳記念館)」として公開されています。

その葬儀は、近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬として執り行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)に収められています。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章も受章。近年、彼の残した建築物が再評価され、昨年2014年には、神戸女学院大学の建物群がヴォーリズ建築として初の重要文化財に指定されました。

彼が亡くなった自邸が、「一柳記念館」と呼ばれるのは、彼の日本名が、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)というものだからです。無論、この「めれる」というのはミドルネームからとったものです「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落でもあったようです。

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一方、一柳という姓は、1941年(昭和16年)に日本に帰化したのち、華族の一柳末徳子爵の令嬢、満喜子と結婚したことに由来します。

この一柳満喜子夫人は、ヴォーリスより4つ年下の1884年(明治17年)生まれ。兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、一柳末徳の三女として誕生しました。末徳は、維新後、貴族院議員、子爵となっており、いわゆる華族にあたります。

神戸女学院音楽部卒。その後渡米し、途中に立ち寄ったハワイでは、このころまだメカニック芸術大学と呼ばれていたハワイ大学の学長の勧めもあり、米本土での留学先をペンシルベニア州の名門校、ブリン・マー大学(Bryn Mawr College)に定めました。

彼女がここを選んだのは、日本で最初の女子留学生、津田梅子や大山捨松が卒業後、アメリカの大学ではこうした東洋女性を受け入れようとするところも多くなり、この大学もそのための奨学金制度を持っていたためでした。

ブリン・マー大学在学中は、その大山捨松が下宿していた家の娘で、その後アメリカでも有名な女性教育家となっていた、アリス・ベーコンの教育実践活動にも参加しました(アリスベーコンと大山捨松の関係は、「巌と捨松」を参照)。また、留学中の1910年、26歳のとき、ブリン・マー長老教会で洗礼を受け、その後は敬虔なクリスチャンになりました。

しかし、元々彼女の母親もクリスチャンであり、満喜子自身が通っていた築地の櫻井女学校(現・女子学院)はミッション系の学校でした。この母は栄子といい、満喜子の幼いころ亡くなりましたが、日本で最初に洗礼を受けた華族夫人の一人で、日本基督教・婦人矯風会が太政官に訴えた「一夫一婦制運動」などに賛同するなど、先駆的な女性でした。

また、父で元播磨小野藩主、一柳末徳も上京して慶応義塾に学んだあと、ヘボン式ローマ字で有名な、ジェームス・ヘボンや、開成学校(後の東大)などの設立に関わったヘルマン・フルベッキ(オランダ人、のち米国に帰化)などから、西洋事情の教えを受けました。このときキリスト教にも関心を抱いていたことが、娘の栄子にも伝染したのでしょう。

満喜子が帰国した1919年(大正8年)、鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった加島屋(明治後、広岡家と改姓)に婿養子として入っていた、兄の一柳恵三(婿養子となり広岡恵三)は、その自宅の新築設計に建築家ヴォーリズを指名。ちょうどその設計の相談のために、ヴォーリスを招いていたところ、満喜子と運命的な出会いを果たしました。

恵三の母、広岡浅子の後押しもあってやがて二人は結婚。ヴォーリズの主宰する近江ミッションに加わり、その後の生涯を近江八幡で生涯を過ごし、この間、その語学力を生かして、夫とともに数多くの海外の宣教団体との交流をしました。

そうした団体員の一人で、満喜子に直接取材し、この頃の事を書いた、米国の女流作家グレース・ニース・フレッチャーの「Bridge of Love」は、戦後のアメリカでベストセラーになりました。また、満喜子は、当時皇太子だった少年時代の明仁親王(今上天皇)の家庭教師をしたことで知られる、エリザベス・ヴァイニング夫人とも交流がありました。

彼女が地元の未就学児童を対象として始めた「プレイ・グラウンド」という集いはその後、「清友幼稚園」に発展、今日の「近江兄弟学園」へと発展しています。滋賀県近江八幡市にある、近江兄弟社グループの学校法人で、幼稚園・保育園(認可外)・小学校・中学校・高等学校があります。

満喜子は、1969年(昭和44年)、ヴォーリズが逝去して5年後に85歳で永眠。夫の眠る北之庄町の恒春園にともに葬られました。 夫婦の間に子供はありませんでした。

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ところで、ヴォーリズがかつて自宅の設計を行ったことのある、一柳満喜子と兄の広岡恵三(一柳恵三)母、広岡浅子(あさ子)は、実は、この秋から始まる、NHKの朝ドラ、「あさが来た」のヒロインのモデルとなった人物です。

こちらもお嬢さん育ちで、その出自は、あの天下の「三井家」です。1849年(嘉永2年)、山城国京都(現・京都府京都市)・油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の四女として生まれました。

幼名は照(てる)。幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持ちましたが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられていたといいます。

17歳で、上述の大坂の豪商、加島屋の第8代、加島屋久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と結婚。のちに間にできた娘、亀子の婿として迎えたのが、広岡恵三ということになります。
ややこしいので、略図化してみると、以下のようになります。

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この加島屋への嫁入りは、あさ(後にあさ子)がまだ2歳のときに決まっていたようで、小石川三井家から、加島屋広岡家には、それまで既にあさ子の母と祖母の2人が嫁いでおり、あさ子で三代続けて、という重縁だったようです。

時代は、動乱期であり、大政奉還が行われて幕府の威信が失墜すると、三井家や加島家など全国の大両替商などが大名へ貸し付けていた900万両(およそ1兆2千億円相当)という金は返済されず、証文は紙切れ同然になりました。

このため、大阪においても、天王寺屋、和泉屋、平野屋、茨城屋大名といった主だった豪商たちは次々に潰れていくという時代であり、三井家や加島家も同様に存亡の危機に立たされていました。

あさ子の夫となった信五郎は、優しい性格の男でしたが、世間知らずの坊ちゃん育ちであり、「わしゃ金儲けにはむかん」と仕事は手代に任せっぱなしで、三味線などの風雅に興じているような人物だったようです。

加島屋の危機をみかねたあさ子は、簿記や算術などを独学するようになり、融資先である諸藩の屋敷に出向いては、逃げまわる悪家老や重役方を追まわし、少しでも返済してくれるように頼みました。が、武士は崇高、男尊女卑の時代であり、町人ふぜいの若い女が武士に向かって何をいうか、と逆ギレされる始末。

しかし、幼いころから漢学になどにも興味を持ち、元々学問が好きだった彼女は、漢学や経学、儒学までも独学でマスターし、その後は、逃げ回る役人を捕まえては、物事の道理から武士道まで徹底的に論破しては、納得いく答えが返ってこないと、「恥を知りなさい」と責め立てたといいます。

そして、明治維新。20歳になったあさ子は、家運の傾いた加島屋を救うために、みずから実業界に身を投じることを決めます。そして、このころようやく事の重大さに気が付いた、夫の信五郎、加島屋当主である第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、と共に、加島屋の立て直しに奔走するようになります。

これを助けたのが実家の三井家でした。実父の三井高益は、新政府が中央主権化をめざして、東京に遷都すると先読みし、経済もやがては東京に移っていくと考えて、東京に本店を移しました。やがてその読みは的中し、東京が新時代の中心になっていく中、政府要人に取り入り、政府ご用達の金融業者となりました。

1872年(明治5年)には家業のひとつであった、呉服業を分割して金融業の三井組を設立し、1893年(明治26年)に「三井家同族会」と「三井元方」を設立して、その後の「三井財閥」の礎をつくりました。

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一方、娘が嫁いだ加島屋に対しても、事業を整理することを勧め、自らと同じ銀行業を始めることを進言します。こうして、加島屋にものちに加島銀行(現・三菱東京UFJ銀行など)となる金融部門が設立されました。

久右衛門はほかにも、大阪株式取引所の理事などを受けて、業界での発言力を増しましたが、こうした業界への働きかけや、銀行業の実質的経営を行っていたのは、あさ子でした。しかし、あいかわらず、女性が相手にされない時代であったため、表向きは夫や久右衛門を社長として立てていました。

1884年(明治17年)、35歳になったあさ子は、このころから、知人から九州の廃れた炭鉱の視察を頼まれたことをきっかけに、炭鉱事業にも参画するようになります。このころの炭鉱というのは、荒くれ者の住処のようなところがあり、気の強いあさ子も、さすがにたじろいだといいますが、持ち前の負けん気でこの話も快諾。

買収した、筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)には自ら乗り込んで、居並ぶ男たちを前に檄を飛ばしたといい、その際、万が一のためにと、拳銃2丁を携行していたといいます。懐にそのピストルを抱きつつ、坑夫らとともに寝起きしたとも伝えられており、時には現場視察のため、滴の落ちる真っ暗な坑道にも足を踏み入れたそうです。

最初は、若い女が何を言うかと馬鹿にしていた男たちも、そうした姿を見るにつけ、やがて彼女に帰依するようになり、最後には「姐御」と慕われるまでになりました。しかし、単に男たちを睥睨(へいげい)していただけでなく、彼等の労働条件や待遇を改善し、かつ大胆な投資によって次第に事業を軌道に乗せて行きました。

1888年(明治21年)には、それまで加島屋の一金融部門にすぎなかったものを切り離して「加島銀行」として独立させるとともに、その後も1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど(いずれも夫の信五郎が社長)、加島屋は近代的な金融企業として、大阪の有力な財閥となっていきました。

また、1899年(明治32年)には、 尼崎の有志と大阪財界の出資により有限責任尼崎紡績会社を創立。1904年(明治37年)には、「尼崎紡績株式会社」と改称しますが、これがのちの「ユニチカ」の前身になります。

この時代、もうひとつ女性社長によって切り盛りされていた会社に「鈴木商店」がありますが、これは夫を亡くしてその経営を引き継いだ「鈴木よね」によって運営されていた会社であり、のちの総合商社「双日」のルーツになります。

この鈴木よねと、同じく銀行業で名を馳せた、峰島喜代子(尾張屋銀行)、広岡あさ子は、明治期における三大女性実業家と称されています。

あさ子はまた、幼いころに自ら学ぶことを禁じられていたということに対する反動からか、女性も十分な教育を受けるべき、ということに対しても熱い思いを持っていました。

1896年(明治29年)、大阪府豊中にある、ミッション系の学校、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、このとき贈呈された彼の著書、「女子教育論」がその教育熱に火をつけました。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つあさ子は、成瀬の説く女子高等教育機関設立の考えに大いに共鳴し、自ら納得のいく教育機関を創生することを決意します。

成瀬と行動を共にして政財界の有力者に呼びかけ、金銭の寄付のみならず、法制面からも学校創立の協力をしてくれるように要請。また、実家の三井家一門にも働きかけた結果、三井家から目白台の土地を寄付させるに至ります。こうして、1901年(明治34年)に生まれたのが、日本女子大学校(現 日本女子大学)です。

初代校長は、無論、成瀬仁蔵であり、現在では、「ぽんじょ」、日女(にちじょ)、「目白のじょしだい」と呼ばれて親しまれるこの学校は、日本で初めての組織的な女子高等教育機関として生まれ、その後日本の女性教育において、多大な影響を与えていきました。

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1904年(明治37年)、あさ子55歳のとき、夫の信五郎が死去。あさ子より5歳年上のこの夫の享年はちょうど60歳でした。これを機に、あさ子は、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲り、社会貢献事業に専念するようになります。

ちょうどこの年に始まった日露戦争では、愛国婦人会に参加し、中心的人物として活動。60歳のときに胸部に腫瘍手術から無事生還できたことをきっかけに、回復後の1911年(明治44年)日本組合基督教会の指導者、宮川経輝によって受洗。婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次ぐ女性雑誌に多数の論説を寄せ、女性奮起の機運に火をつけました。

また、「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による「心霊の覚醒」や自らの宗教的信条を記した「一週一信」を出版して日本のキリスト教化に励みました。

キリスト教を基盤に世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進めることを目的とした、YWCAの活動も積極的に行い、日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長などを務めています。

ちなみに、前述のヴォーリズが建築事務所を創ったのは京都YMCA内です。婿として迎えた一柳恵三の妹、満喜子と結婚したヴォーリズとも親しくしていたためです。

日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。このときの参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいました。

花岡は、「赤毛のアン」の翻訳者として知られ、あさ子と同じく、NHKの朝ドラ「花子とアン」のヒロインのモデルとなった人物です(「ルーシーと花子」参照)。

1919年(大正8年)、東京にて死去。「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われます。生前から「子孫には、不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していそうです。浅子の功績を称え、日本女子大学では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催しました。

今月末から始まるNHKの朝ドラ、「あさが来た」のモデルは、言うまでもなくこの広岡あさ子です。その生涯を描いた古川智映子の「小説 土佐堀川」を原案とし、NHKのみならず民放ドラマの作家として人気のある、大森美香が脚本を手掛けます。代表作は、映画化もされた「ネコナデ」でしょうか。

ヒロイン、今井あさ役は、最近人気急上昇中の波瑠(はる)さんで、そのエキゾチックな顔立ちから、ハーフに間違われるときもあるそうですが、純粋な日本人です。このヒロインの人選は「マッサン」と同様に、公募オーディションで行われ、応募2590人の中から彼女が選ばれたそうです。

夫の白岡新次郎こと、広岡信五郎役は、玉木宏さんで、新次郎の父、白岡正吉(加島屋久右衛門)役は、近藤正臣さんだそうです。満喜子やヴォーリスまで登場するのかどうかはまだわかりませんが、実話の人物・企業・団体名などを改名して大幅に脚色してはいるものの、フィクションとして制作されるそうなので、可能性はあるかと思います。

既に、6月から、NHKの大阪局でスタジオ撮影がスタートしており、このとき、朝ドラ史上最も裕福な家に生まれた設定のヒロイン「あさ」の実家・今井家の豪華セットが公開されたそうです。

タイトルの「あさが来た」は、「あさ(朝)が来ると新しい世界が始まる、そんな社会を明るくするようなドラマにしたい」という思いが込められているそうです。

この秋以降、毎日待ち遠しい「朝」になることを期待したいと思います。

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激突!

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9月になりました。

旧暦9月を「長月」と呼びますが、その由来は、「夜長月」の略だとする説が最も有力だそうです。

確かに日が短くなり、長い夜を過ごすようになります。あれほど燦燦と照らしていた太陽の陽射しも柔らかくなり、気温も下がってきて過ごしやすくなります。今年の夏は例年よりも暑かったこともあり、この冷んやりとした空気は何にも増してありがたく思えます。

が、9月は秋雨の季節でもあります。ここ数日は、列島は大荒れで、昨日も下関沖でいたましい事故がありました。これからは台風も訪れやすくなり、天候不順な日が続く可能性もあるようです。暑いのはきらいだけれども、雨の日が続くのも嫌という人も多いでしょう。

その昔、太田裕美さんの「九月の雨」という歌がありました。1977年9月に発売された、9枚目のシングルで、彼女にとっては「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」に次ぐ3番目のヒット曲となりました。私が大学生のころに流行った曲で、このころは太田さんの歌は若い人に大人気でした。

私も太田さんの歌が好きで、よく聞いていました。が、学生でお金がなかったこともあり、レコードは買えず、ラジオの特集番組をエアチェックして、録音して聞く、ということをやっていました。この「エアチェック」という言葉も既に死語になりつつありますが……

この歌は、同年末の「第28回NHK紅白歌合戦」でも披露されました。太田さんは2回目の出場で、この時はキャンディーズ、山口百恵、しばたはつみ、桜田淳子がそれぞれ傘を差しながらバックダンサーを務めていたそうです。

このときの放送はまだモノラル音声放送だったそうですが、これはこの回が最後で、翌年からはステレオ放送になりました。両軍司会は4年連続で佐良直美・山川静夫が担当。4年連続同一コンビは史上唯一であり、また、この回を含めて佐良さんの紅組司会通算5回は、黒柳徹子さんに並び史上最多記録だそうです。

紅白でのキャンディーズとピンク・レディーの同年出演が唯一実現した回でもありました。キャンディーズはこの歌合戦よりも少し前に既に「普通の女の子に戻りたい」と解散を宣言しており、翌年4月4日、後楽園球場でのコンサートをもって解散したため、これが現役最後の紅白出演でした。

また、ピンク・レディーも今回が解散前唯一の紅白出場であり、以後、出場はなく、1981年3月31日に解散しました。ただし、その後4度再結成をしており、これにより再出場を何度か果たしています。

紅組のトリは、八代亜紀、白組トリおよび大トリは五木ひろしでした。優勝は白組。優勝旗授与は審査員の市川染五郎(現:松本幸四郎)が行いました。優勝旗を受け取った山川は佐良に対し、「佐良さん、これで来年は安心してお嫁に行ってください」と言ったそうです。

4年続いた佐良・山川のコンビによる両軍司会は今回が最後となりました。ちなみに佐良さんはその後も結婚しておらず、現在も独身のようです。現在70歳。一方の山川さんは82歳になられましたが、ご健在のようです。月日の流れをかんじます。

この1977年という年は、実にいろいろな事件があった年でした。皮切りは、前年12月〜本年2月にかけて全国的に大雪となったことで、これは五二豪雪(昭和52年豪雪)と呼ばれました。また、1月には青酸コーラ無差別殺人事件が発生、2月には、東京駅八重洲地下街で毒入りチョコレートが放置され、以後も様々な毒物殺人未遂事件が続きました。

また、1月末にはロッキード事件丸紅ルート初公判、全日空ルート初公判が行われ、戦後最大の疑獄事件が暴かれ始めました。6月には和歌山県有田市で集団コレラが発生し、8月には、32年ぶりに有珠山が噴火活動を開始しました。

9月には日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生。引き続き10月には長崎バスジャック事件が起きました。これに先立つ3月には、仙台空港行きの全日空機がハイジャックされる事件が続けて2件発生(犯人はそれぞれ別)しており、これらを教訓に、11月にはハイジャック防止法が成立しました。

同じ11月には、プロ野球ドラフト会議でクラウンライターが法政大学の江川卓を指名するも、江川本人が拒否して、その後巨人軍に入団するといういわゆる江川事件も起きています。このほか、9~10月には、「芸能界マリファナ汚染事件」があり、研ナオコ、内藤やす子、にしきのあきら、美川憲一、井上陽水、上田正樹らが逮捕されています。

新潟市で横田めぐみさんが、下校途中に北朝鮮の工作員に拉致されたのも、この年の11月であり、いかにも事件満載の年でした。しかし、国内では大きな事故は発生しておらず、強いていえば、お隣の韓国で11月に大規模な列車爆発事故があったくらいです。これは現在の益山市の裡里(イリ)駅で高性能爆薬が爆発したもので、死者59人を出しました。

海外ではこの年は事故の当たり年で、このほか1月にはオーストラリアでグランヴィル鉄道事故が発生、死者83名、重軽傷者210名以上の大惨事になったほか、11月にはポルトガル航空425便墜落事故が発生し、131人が死亡しています。

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しかし、その中でも最大のものは、3月27日、カナリア諸島でジャンボ機同士の衝突事故が発生し、乗客乗員583人が死亡した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」です。生存者は乗客54人と乗員7人にすぎず、死者数においては史上最悪の航空事故でした。死者数の多さなどから「テネリフェの悲劇、テネリフェの惨事」とも呼ばれています。

事故を起こした一機は、ロサンゼルス国際空港を離陸し、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に寄港したのち、テネリフェ空港(ロス・ロデオス空港)に着陸していたパンアメリカン(パンナム)航空1736便で、機体はボーイング747-100、クリッパー・ヴィクター号と命名されていました。

一方のKLMオランダ航空4805便はオランダからの保養客を乗せたチャーター機で、事故の4時間前にアムステルダムのスキポール国際空港を離陸し、同じくテネリフェ空港に着陸しました。機体は若干の形状は異なるものの同じく747で、型番はパンナム機の747-100よりも少し新しい747-200Bであり、こちらはライン号と命名されていました。

どちらの便も、最終目的地は大西洋のリゾート地であるグラン・カナリア島のグラン・カナリア空港(ラス・パルマス空港)であり、テネリフェ島はこの島からわずか100kmほど隔てた場所にあります。両島は、アフリカ北部のモロッコの西側およそ800km西の大西洋上にあり、スペイン領のカナリア諸島の一部を構成する島々です。

最終目的地はすぐそこにありましたが、パンナム機はそこへの最終的なアプローチをそろそろしようか、といったときに、ラス・パルマス空港で爆弾テロ事件が発生する可能性がある、との報に接しました。このため、同空港は臨時閉鎖されてしまいました。

しかし、その後空港閉鎖が長くは続かないだろうという見通し情報も入り、燃料も十分に残っていたため、着陸許可が出るまで旋回待機したいと申し出ました。しかし、結局、他の旅客機と同様に近くのテネリフェ島のテネリフェ空港に代替着陸するよう指示されました。KLM機も同様の理由でテネリフェへの臨時着陸を指示され、先に着陸していました。

テネリフェ空港は島中央部に位置するテイデ山の南麓に位置する、1941年開港の古い地方空港です。1本の滑走路(ランウェイ)と1本の平行誘導路(タクシーウェイ)および何本かの取付誘導路を持つだけの規模で、地上の航空機を監視する地上管制レーダーはありませんでした。

事故当日、空港は同じくテロ事件騒ぎで代替着陸を余儀なくされた旅客機でごったがえしていました。KLM機が着陸した時点で、エプロン(駐機場)のみならず、平行誘導路上にまで他の飛行機が駐機している状態だったので、管制官はKLM機に平行誘導路端部の離陸待機場所への駐機を命じました。

およそ30分後に着陸したパンナム機もこの離陸待機場所のKLM機後位に他の3機とともに駐機しました。このため、平行誘導路は4機が鈴なりになる恰好で塞がれており、このあと離陸する飛行機は、管制塔からの指示待ちで、順番に滑走路をタクシングして離陸開始位置まで移動する必要がありました。

パンナム機着陸のおよそ2時間後、ラス・パルマス空港に対するテロ予告は虚偽であることが明らかになったため、同空港の再開が告知されました。乗客を機外に降ろさず待機していたパンナム機は離陸位置へ移動する準備ができていましたが、その前には待ち順が先のKLM機がおり、これより先駆けすることは許されませんでした。

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しかもこのとき、KLM機は、給油をしようとしており、そのための燃料補給車が並行滑走路にいました。乗客を乗せていたパンナム機とは異なり、先に到着していたKLM機はこのとき既に一旦乗客を降ろしており、機長の「ファン・ザンテン」は、乗客の再招集にある程度の時間がかかることもあり、このテネリフェでの給油を決めたのでした。

しかし、ラス・パルマスは目と鼻の先であり、本来はこの時点で給油は必要ではありませんでした。テロ騒動があったために時間的な余裕ができたために給油をしたわけですが、このとき給油した燃料がのちに、2機が衝突する際に、大着火剤になろうとは機長は無論のこと、誰もが予想していませんでした。

給油が開始されたのは、ちょうどラス・パルマス空港再開の一報の5分ほど前であり、目前でそれを見ていたパンナム機はいつでも離陸できる状態にありました。いらいらしたパンナム機の機長は、無線で直接KLM機にどれくらい掛かるかを問い合わせましたが、同機からは詫びるでもなく「35分ほど」と回答されました。

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パンナム機のほうの機長は、ヴィクター・グラブスといいました。57歳のベテランパイロットでしたが、気が短い性格だったらしく、長引くKLM機の給油にしびれを切らし、何とかKLM機の横をすり抜けられないかと、副操縦士と機関士の2人を機外に降ろして翼端間の距離を実測させました。が、ギリギリで不可能だと知ります。

仕方なくパンナム機がKLM機の給油を待ちましたが、747よりも小さな他の3機は、いらつくパンナム機の機長の眼前で、KLM機の脇を楽々と通り過ぎて行き、離陸していきました。このほかにも他の平行滑走路で駐機していた航空機が次々と離陸し、10機以上がそれぞれの目的地に向かっていきました。

さんざん待たされたあげく、ようやく給油が終わったため、KLM機は先にエンジンを始動しタクシングを開始しました。16時58分、管制塔の指示に従い、KLM機は滑走路を逆走して端まで移動し、180度転回し、その位置で航空管制官からの管制承認(離陸許可)を待ちます。

ところが、これら一連の移動の最中、霧が発生し、1000フィート(300mほど)しか視界が利かなくなり、管制官は滑走路の状況を目視できなくなりました。

17時2分、一方のパンナム機はKLM機に続いて同じ滑走路をタクシングし始め、KLM機とは別の端の滑走路端まで行って停止。この時点で両機は、長い滑走路の端と端でお互いに対面する形になっていました。

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しかし、先に飛ぶ権利はKLMにあるため、管制塔がパンナム機に対して出した指示は、滑走路をさらに進んで途中の「3番目の出口(C3)」まで行き、滑走路を左に出て平行誘導路にいったん入り、そこでKLM機の離陸を待つように、というものでした。

ところが、このC3出口というのは、滑走路上をタクシングし始めたパンナム機にとっては、進行方向に向かって鋭角に開いた出口でした。C3出口に到達したパンナム機クルーはこの出口を出るためには左に135度も転回しなければならず、さらにもう一度平行誘導路から出て本滑走路に戻るためには再度右に135度転回しなければならないことに気付きました。

ようするに「N字」型のルートを巨大な747を移動させなくてはならず、通常はこのような大型機にこうした困難な進路指示は出されることはありません。ところが、この当時ボーイング747は最新鋭の大型機であり、地方の小さな空港の管制官はそういう新型機を見る機会も少なく、そうした知識はありませんでした。

一方のパンナムクルーにすれば、こうした小さな滑走路で747急転回をするのはかなり難しいというのは常識であり、このため管制官は、鋭角に曲がる必要のあるC3出口ではなく、45度の転回で済むC4出口で左へ曲がって、並行誘導路に出るように指示したのに違いないと思い込みました。

また、このとき管制官は、明確にC3出口と指定したのではなく、「3番目の出口」という言い方をしました。このとき、パンナム機はちょうどC1出口を越えたところにおり、このため、C1出口から数えて、C2、C3、C4と3つ目にあたるC4出口を指示されたものと、二重の思い込みをしました。

こうして、C3出口を通り過ぎ、C4出口に向けて滑走路を進み続けましたが、このとき、KLM機のファン・ザンテン機長はまさに、ブレーキを解除し離陸滑走を始めようとしていました。ところが、副操縦士が管制承認(離陸許可)が出ていないことに気づき、17時6分6秒、管制官に管制承認の確認を行いました。

これに対して、12秒後の17時6分18秒、管制官は「離陸を認める」と言った表現の管制承認を出しました。しかし、この「管制承認」というのはこの当時、管制官と交信しフライトプランの確認を行い、「離陸後に目的地までフライトプランどおりの航路を飛ぶための承認」を得るものにすぎませんでした。

あくまで「離陸のスタンバイ」であり、「離陸を始めてよい」という承認ではありませんが、管制官が承認の際に「離陸」という言葉を用いたためKLM機はこれを「離陸を始めてよい」という許可として受け取りました。

17時6分23秒、副操縦士はオランダ訛りの英語で「これから離陸する(We are at take off)」、もしくは、「離陸している(We are taking off)」と、どちらとも聞こえる回答をしました。管制塔はこの聞き取れないメッセージに混乱し、KLM機に「OK」のあと、約2秒無言後に、「待機せよ、あとで呼ぶ」とその場で待機するよう伝えました。

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実は、この「OK」とそれに続く2秒間の無言状態がその後大きな問題となりました。一方、並行誘導路に向かうべくC4出口を目指していたパンナム機は、同じく無線でこの両者のやりとりを聞いており、この会話に即座に不安を感じました。そして、「だめだ、こちらはまだ滑走路上をタクシング中」と無線でKLM機に警告しました。

ところが、このパンナム機からの無線送信は、上記2秒間の無言状態の直後に行なわれたため、ちょうど管制官が喋った「待機せよ、あとで呼ぶ」と完全にダブり、混信してしまいました。このため、KLM機では「OK」の一言だけが聞き取れ、管制官からの待機を促す指示は聞こえませんでした。

その後発見されたボイスレコーダにも、このときの通信には、混信を示すスキール音しか記録されていません。スキール音というのは、タイヤと舗装路が激しく擦れ合う、「キャー」や「ピャー」など悲鳴に似たような音であり、非常に大きく甲高い音です。

また、「OK」のあと、2秒間も無言状態が続いたことから、パンナム機は管制官からKLM機への送信は終わったと判断して、KLM機への警告のために送信ボタンを押したのでしたが、管制官のほうはこのときはまだKLM機に向けての指示のために送信ボタンを押したままでした。この結果、双方の発信が混信したわけです。

こうして、航空管制官、パンナム機、KLM機の三者ともこのとき、混信が生じたことに気付かきませんでした。これにより、パンナム機の側では、「自分たちの警告がKLM機とATCの双方に届いた」と考え、航空管制官の側では「KLM機は離陸位置で待機している」と考えました。

そして、KLM機のほうは、「OK」の一言だけが聞こえたため、「離陸許可が出た」と勘違いしました。というか、離陸OKと「確信」し、離陸推力を得るためにスロットルを全開にしました。ところが悪い事に、このとき霧のためKLM機のクルーはパンナムのB747がまだ滑走路上にいて自分たちの方向に向かって移動しているのが見えませんでした。

加えて管制塔からはどちらの機体も見ることができず、さらにこの空港では、滑走路に地上管制レーダーは設置されていいませんでした。これは、空港地表面の航空機や車両等の動きを監視するものです。非常に短い波長の電波を利用した高分解能レーダーで、レーダースクリーン上には航空機の形がはっきりと現れます。

低視界のときや夜間の管制業務に使用しますが、小さな地方空港にすぎない、テネリフェ空港にそんなものはありませんでした。ところが、衝突を回避するチャンスはもう一度ありました。上記交信のわずか3秒後に改めて航空管制官は、パンナム機に対し「(並行誘導路に移動して)滑走路を空けたら報告せよ」と伝えたのです。

これに対して、パンナム機も「OK、滑走路を空けたら報告する」と回答しましたが、このやりとりはKLM機にも明瞭に聞こえていました。これを聴いたKLMの機関士はパンナム機が滑走路にいるのではないかと懸念を示し、機長に「まだ滑走路上にいるのでは?」と聞きました。

これに対して機長は、KLM機長が「何だって?」と聞き返したため、KLM機関士は繰り返して「まだパンナム機が滑走路上にいるのでは?」と再度問いかけました。が、これに対して機長は、強い調子で「大丈夫さ!」と答えました。

ファン・ザンテン機長はKLMでも最上級の操縦士で、747操縦のチーフトレーナーでもあり、KLM所属のほとんどの747機長/副操縦士は彼から訓練を受けていました。事故当日の同機内の広告には彼の写真が掲載されていたほどで、機関士は彼の経験と権威の手前もあり、上司でもある彼に対してそれ以上重ねて口を挟むのをためらったと考えられます。

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こうして、悲劇は起こりました。このとき、KLM機に警告を与えたと思っていたパンナム機のコックピットでは、長らく待たされたあげくようやく解放されたグラブス機長が「こんなところとはさっさとおさらばしよう」と無駄口をたたいていました。

これに対して、機関士も「ええ、KLMは離陸を急いでいるんでしょうね」と言い、続けて「あれだけ我々を待たせたくせに、今度はあんなに大急ぎで飛ぼうとするなんて」といった会話がボイスレコーダーに残されていました。

17時6分45秒、ようやく滑走路のC4出口に差し掛かったところで、突然、パンナム機のグラブス機長が離陸しようとするKLM機の着陸灯が接近してくるのを視認し、こう叫びました。「そこを!あれを見ろ!畜生!…バカ野郎、来やがった!!」と同時に「よけろ!よけろ!よけろ!(Get off! Get off! Get off!)」と副操縦士。

衝突直前、パンナム機の操縦士たちは出力全開で急速に左ターンを切ろうとしましたが、あまりにも時間がなく機首を45度ほど曲げるのが精一杯でした。一方のKLM機は、この時既に「離陸決心速度」を超えており停止制動はできず、さりとて「機首引き起こし速度」には達していなかったため、衝突を避けようと強引に機首上げ操作を行いました。

17時6分48秒、滑走路に20 mにわたって機尾をこすりつけつつ、急上昇を試みますが、このとき、ファン・ザンテン機長は衝突の瞬間まで「上がれ!上がれ!上がれ!(Come on! Come on! Come on!)」と叫び続けました。

17時6分50秒、KLM機はわずかながら浮き上がりましたが、胴体下部は、滑走路上で斜め左へ転回中だったパンナム機の機体上部に接触し、そのまま覆いかぶさるような形で激突しました。

機首はパンナム機の上を超えたものの、機尾と降着装置はパンナム機の主翼の上にある胴体の右側上部に衝突し、右翼のエンジンはパンナム機の操縦席直後のファーストクラスのラウンジ部分を粉砕。一時は空中へ浮揚しましたが、パンナム機との衝突により第一エンジン(左翼外側)が外れました。

また、第二エンジン(左翼内側)もパンナム機の破片を大量に吸い込んだため、あっという間に操縦不能の状態に陥り失速し、衝突地点から150m程先で機体を裏返しになって墜落し、滑走路を300mほど滑ったあと、ほぼ満タンだった燃料に着火して爆発炎上しました。胴体上部を完全に粉砕されたパンナム機のほうも、その場で崩壊し、爆発しました。

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KLM機の乗客234人と乗員14人は胴体の変形が少なかったにも関わらず、脱出できず全員死亡。パンナム機は396人のうち335人(乗客326人と乗員9人)が死亡しました。死傷原因は、衝突時に漏れた燃料による爆発と炎、煙でした。このパンナム機の犠牲者には映画女優・イヴ・メイヤーが含まれていました。

メイヤーは、1950年代にピンナップモデルとして評判となり、プレイメイトとしてPLAYBOY誌の表紙を飾るほどの美人さんで、女優としては2本ほどの映画に出演しました。しかし、あまりヒット作に恵まれず、60年代から70年代には、映画プロデューサーとして活躍し、女性実業家として成功していました。が、この事故で命を落としました。

一方のパンナム機のほうには生存者がいました。グラブス機長、ロバート・ブラッグ副操縦士、ジョージ・ウォーンズ機関士のクルー3人も生き残り、彼等を含む乗客54人と乗員7人が生存者でした。機長らは救出されるまで、KLM機に対して激怒し、怒りのことばをぶつけ続けていたといいます。

爆発炎上したパンナム機でしたが、KLM機と衝突して機体が左右に引き裂かれた際、その衝突場所と反対側の機体左側と、コクピットのある機首部分は炎上しなかったため、この部分にいた乗員乗客は助かったのでした。

火災を免れた彼等は、機体にできた穴から滑走路上に逃げ出しましたが、その際、パンナム機から外れ落ちたエンジンがフルパワーの推力をほぼ保ったまま暴走し、同機からの脱出直後で滑走路にいた者の1人を直撃して死亡させました。

また、折しも濃い霧のため、消火に近づいた消防士たちは、燃えているKLM機にばかり気を取られ、霧に紛れたパンナム機の生存者に気づきませんでした。このために手当が遅れ、亡くなった犠牲者もいたようです。

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過去最悪の航空機事故となったこの大惨事後、KLM機の所属するオランダと、パンナムのアメリカ合衆国、そして空港管制塔を管理するスペインから派遣された70人以上の航空事故調査官および両機を運航していたパンナム、KLMの両航空会社が事故調査に入りました。

明らかになった事実は、事故当時パイロットや管制などの間に、誤解や誤った仮定があったことであり、生き残ったクルーへの聴取とボイスレコーダーの調査から、管制塔がKLM機は滑走路の端で静止して離陸許可を待っているとの確信を持っていた一方で、KLM機パイロットのほうでも離陸許可が出たと確信していたことなどが明らかになりました。

この結果として、スペインの調査団が出した結論では、KLM機に責任があるとされました。
しかし、オランダの調査団は、事故は複合要因によるものという結論を出したため、総合的な結論の公表は持ち越されました。

たしかに、事故原因は、さまざまな要因が複合的に重なりあった結果ともいえました。このため、オランダの航空当局は当初、KLM機のクルーの責任を認めようとしませんでしたが、最終的にはKLMが事故の責任を受け容れ、逸失利益に応じて遺族にそれぞれ、58,000ドルから600,000ドルを支払いました。

しかし、この事故を巡っては、このほかにも事故につながった可能性のあるさまざまな要因が憶測されており、そのひとつは、管制塔からの送信音声のバックにはサッカー試合のテレビ放送の音がはっきり混じっていた、というものです。

これは、スペイン側の事故調査報告書では一切触れられていませんが、オランダ側の事故調査報告書では指摘されていた事実です。すわわち、スペインの管制官は管制塔内で管制中にサッカー試合を視聴しただけでなく、サッカー試合に気を取られ管制がおろそかになった可能性があるわけです。

また、KLM機に乗っていて死亡したファン・ザンテン機長はKLMでも最上級の操縦士で、747操縦のチーフトレーナーでもあり、彼は6年間フライトシミュレーションで新人パイロットを訓練する担当者になっていました。この間は月平均21時間しか飛行しておらず、またこの日の飛行前12週間は1度も飛んでいないなど、現役バリバリではありませんでした。

このことから勘が鈍っていたのでは、という見方がある一方で、管制官を含み、機長や副操縦士、機関士を含むシミュレーターの中のすべての役割を行ってきた結果、全ての権限は彼の掌中にあると錯覚するようになり、管制官の指示を軽視したのではないか、と指摘する専門家もいます。

また、オランダは交通上の安全規制が厳しいことでよく知られており、クルーの勤務条件がきちんと守られていないと、法令に抵触するとして、航空会社が罰則を受けます。本来は安全確保のために労働時間の規制をしたわけですが、それがかえって足かせになってしまった可能性がある、ともいわれています。

これはどういうことかというと、このとき、悪化する気象条件(濃霧)は視界不良による滑走路閉鎖の可能性が高く、一刻も早く離陸しないとロス・ロデオス空港に留まらざるを得なくなっていました。上級パイロットとしてKLMの経営にも関わる立場にあった機長にとっては、勤務時間の超過は規則違反であり、看過できない立場にあったというわけです。

このため、急いで離陸してしまおうと、逸る気持ちがあったのではないかと言われており、また、こうした規則により離陸できないとなると、さらに誘導路への移動などで、パンナム機を待たせることになります。給油によりパンナム機を散々待たせたあげく、さらに待たせることにもなり、気の毒だと思ったのではないか、ということも指摘されています。

さらには、その際に乗客の宿泊代などのKLMの金銭負担が増える結果になることなどもあり、機長としては何が何でも離陸したかったのではないか、ということも言われています。

この事故の結果として、その後、飛行機そのものや国際航空規則に対し全面的な変更がなされました。世界中の航空に関する組織に対しては、聞き違いを防ぐために標準的な管制用語を使用し、共通の作業用語には英語を使うよう要請がなされるようになりました。

例えば、今回の事故で問題となった、離陸許可における「take-off」(離陸、テイクオフ)という用語は、実際の離陸許可を下ろす時にしか絶対に口にしてはならなくなりました。

また、「フライトプランの承認」にすぎない管制承認も、離陸許可と混同されるのを防ぐため、コクピット内でも管制塔でも「departure」(出発)という用語を使わなければならなくなりました。

さらに、指示の際に、「OK」(オーケー)や「Roger」(ラジャー)といった口語表現単独、あるいは「イエス」「ノー」単独で承認を行ってはならず、「Affirm」(肯定だ=イエス)「Negative」(違う=ノー)といった決められた用語を使用し、指示の核心部分を復唱(read back)させることで、相互に理解したことを示さなければならなくなりました。

加えて、またコックピット内の手続きや規則も変わり、上意下達よりも、相互の合意による意思決定が強調されるようになりました。クルーメンバー間の厳格な上下関係は、クルー間の意思疎通や情報交換を妨げヒューマンエラーを引き起こす要因になるとして、なくす方向に向かったわけです。

これは、現在の航空業界ではCRM(crew / cockpit resource management、人的資源の管理)として知られているもので、いまではすべての航空会社の基礎的な安全管理方式や訓練体系となっています。

その後、テネリフェ島では、島北部の空港のある地域には頻繁に危険な霧が発生することから、島南部に新たな空港が建設されることになりました。これがレイナ・ソフィア空港です。しかし、悲劇の現場となった旧テネリフェ空港(ロス・ロデオス空港)はカナリア諸島内部やスペイン本土からのフライト用に今も使用されています。

アムステルダムには犠牲者の墓地および記念碑が作られています。またカリフォルニア州オレンジ郡ウェストミンスターの墓地にも同様の記念碑があります。

2007年には、事故30年を機にオランダやアメリカなどに住む遺族や、事故当時の救急に当たった島の人々が合同で慰霊祭を開かれました。また、事故後25年が経った2002年には、テネリフェ空港を見下ろす北部の高台に、18mの高さを持つ国際慰霊碑(International tenerife monument)が建てられています。

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この場所からは、眼下に事故現場となった空港が見えるほか、遥かかなたには、青い青い大西洋が見えます。私もいつの日か、慰霊を兼ねてこの地を訪れてみたいものです。

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