ことたま

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今日は「バーゲンの日」だそうです。

1895年(明治28年)、現在も東京駅にある「大丸」こと、当時の「大丸呉服店」が冬物の大売出しを開催し、日本初のバーゲンを行ったことに由来しています。

大丸のことをご存知の方も多いでしょう。近畿発祥の老舗百貨店で、大阪では心斎橋・梅田にあり、このほか京都・神戸・東京・札幌などにあるのが主力店舗です。これら6店舗だけで単体の91%の売り上げを占めているといいます。

現在では、松坂屋、パルコなども併合し、「J.フロント リテイリング」というグループ会社になっています。上記以外にもあちこちに店舗を有し、従業員は3000人を超す大会社です。

創業者の「下村彦右衛門正啓(まさひろ)」は、1688年(元禄元年)京都伏見の生まれです。父・下村三郎兵衛兼誠(かねなり)は摂津国茨木の武将・中川氏の家臣の子孫で、大坂の陣後、商人になりました。正啓はその第五子であり、三男でしたが、上の兄が早逝したため後継ぎとなり、19歳の時に行商を始めました。

1717年(享保2年)、29歳のとき、生まれた伏見の京町に呉服店「大文字屋」を開業し、呉服業をスタートさせました。その後両替商なども兼営するようになり、38歳で大坂心斎橋筋に進出。その2年後の1728年(享保13年)に名古屋本町に名古屋店を開き、これをはじめて「大丸屋」と称しました。

しかし、京都で創業した当時の「大文字屋」の名は残し、大阪ほか各地に建てた大丸支店の総本店としました。1736年(元文元年)に、全店の「理念」を示しており、これは、「先義後利」というもので、その意味は、「義を先にして利を後にする者は栄える」というものです。

「義」とは商売における正しい道」「公共のために尽くす気持ち」を意味し、「顧客第一主義に徹すれば、利益は自ずからついてくる」という考え方です。

以後、店の者にはこの理念を徹底させるとともに、下村自身も毎年冬になると施餓鬼(せがき)として貧しい人に食べもの、古着やお金を施しました。また、人の集まる寺社に大丸マークつきの灯籠や、手ぬぐいを大量に寄付する等ボランティア活動で利益を社会還元していました。

このため、1837年(天保8年)に起こった百姓一揆、大塩平八郎の乱では、利を優先させた富豪や大商人はことごとく焼き討ちにあっていたのに対し、「大丸は義商なり、犯すなかれ」と大塩が部下に命じたため、焼き討ちを免れたと伝えられています。

この精神は、資本金200億円、売上高4700億円にものぼる大々会社に成長した現在も大丸の企業理念として継承されているといいます。

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創業時の「大文字屋」の名は、京都五山の送り火の「大文字」にちなんで付けられました。名古屋進出にあたって、「丸」の中に「大」の字をあしらった商標を使い始め、広く一般に「大丸」と呼ばれるようになりました。

「丸」は宇宙を表し、「大」の文字は「一」と「人」を組み合わせて成り立っていることから、 「天下一の商人になろう」という志を示したものだそうです。

その後江戸にも進出しましたが、この際には、このマークを染め抜いた萌黄地の風呂敷を大量につくり、商品を包んで運びました。その風呂敷が派手で非常に目立つものだったため、江戸っ子の間で話題となり、開店前から多くの人に認知されるようになっていました。

このため、風呂敷自体、江戸時代前期には銭湯に行く時にすら使われていなかったのにもかかわらず、江戸中で大流行することになりました。

大丸屋江戸店でのこの風呂敷の売上は1750年(寛延3年)には14,500枚でしたが、1828年(文政11年)には60,670枚と4倍に増加。商人ばかりでなく、一般庶民が品物を運ぶ際に使う当たり前の道具として定着することになりました。かくして、大丸屋は、越後屋(現三越)、白木屋(現東急百貨店)と並ぶ江戸三大呉服店と称されるまでになりました。

明治末期には、不況で屋台骨が傾いたこともがありました。しかし、このころの下村家当主が早稲田大学出身であった縁から、大隈重信の斡旋を受け、実業家として敏腕を振るっていた日本生命の社長、片岡直温が改革に乗り出し、店を再興しました。

1913年(大正2年)には、類似商標と区別するため、おめでたい「七五三」にちなんで、「大丸」の「大」の字のうち、「一」の左端に3本、「人」の字の下端左に5本、右に7本のひげをつける改定を行い登録。このロゴは、その後70年に渡って親しまれました。

その後も1914年(大正3年)には大阪店が不渡りの手形を出して京阪二店が休業するなど、呉服店から百貨店への転換過程では問題が続発しましたが、幾度もの困難を乗り越え、1928年(昭和3年)、「大丸」と改称してその近代化に成功しました。

高度成長期には三越と並び「西の横綱」といわれましたが、バブル崩壊後業績は低迷。トヨタ自動車社長・会長、日本経団連会長を歴任した奥田務が社長就任後、他の百貨店よりも一足早く1998年より事業構造改革に乗り出し、国内不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減に取り組みました。

結果として改革は成功し、収益力を業界首位級に押し上げました。2007年(平成19年)には松坂屋と経営統合し、持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立。2010年 (平成22年)には「株式会社大丸松坂屋百貨店」が設立され、フロントリテインイングの完全子会社になりました。

同社は、同グループの旗艦であり、百貨店事業を担いますが、フロントリテイニングは多角経営企業体であり、ほかにも割賦・信用事業、通信販売、不動産事業なども扱っています。2012年には、 森トラストが保有する「パルコ」の全株式を取得し、ファッションビル事業にも乗り出しています。

なお、大正から昭和に親しまれた大丸のマークは1983年に廃止され、シンボルマークは「孔雀(ピーコック)」をデザイン化したものに変更され、現在に至っています。

但し、正式な社章は現在も「七五三ひげの大丸」で、呉服の包装・一部店舗(心斎橋店・南館屋上や下関大丸など)の外装にも残されているほか、2010年に大丸松坂屋百貨店が発足したあとは、各店の正面入り口脇の店名の銘板の表示が、「丸に大」のマークと、「大丸 創業1717年」と記されるようになりました。

ちなみに、それ以前の銘板は上部に「丸に大」のマークが孔雀の羽で縁取られ、その下に「株式会社大丸 The Daimaru,Inc.」と記されていました。

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創業者の下村彦右衛門正啓は、1748年(寛延元年)に60歳で亡くなっています。背が低く、頭が大きく、耳たぶが垂れ下がるという風貌で、人情に厚く、商売を成功させたことから、「福助人形」のモデルではないか、といわれてきました。

この福助人形をご存知の方も多いでしょう。幸福を招くとされる縁起人形で、大きな頭とちょんまげを結った男が正座している像です。しかし、実は下村がモデルではなく、元々は、文化元年頃から江戸で流行した福の神の人形、「叶福助(かなえふくすけ)」が形を変えたものといわれています。

願いを叶えるとして茶屋や遊女屋などで祀られたもので、当時の浮世絵にも叶福助の有掛絵が描かれ、そこには「ふ」のつく縁起物と共に「睦まじう夫婦仲よく見る品は不老富貴に叶う福助」と書かれています。

この叶福助人形には、モデルとなった人物がおり、享和2年8月に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の「佐太郎」という男であるといわれています。従って、現在の福助人形のモデルもこの人物といってもいいかもしれません。

もともと身長2尺足らずの大頭の身体障害者であり、大頭だった原因は、現在でいうところの、水頭症ではなかったかといわれています。

脳の脊髄液の生産が異常を来たし、髄液が頭蓋骨の内側に貯まる病気で、先天性のものや感染症によるものがあります。佐太郎もこの病気にかかっていたとされますが、長生きだったことから先天性のものだったのでしょう。

子供のころ、近所の笑いものになることを憂い、他行をこころざして東海道を下る途中、小田原で香具師(やし)に見いだされました。香具師とは、軽業・曲芸・曲独楽などの神楽をして客寄せをする商売にのことで、後の世では露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする、いわゆる的屋(てきや)とよばれる商売人です。

一般には賤民(人別帳に記載のない人物、無宿人)であり、いわゆるヤクザに近い者たちでしたが、とまれ、この香具師に発掘されたことから佐太郎の人生は一変します。小田原の城下で見世物になることで生活の途を得た彼は、やがて人通りの多い鎌倉鶴岡八幡宮のある雪乃下でも見せ物に出るようになります。

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この見世物の評判は鎌倉でも非常に高く、その後さらに江戸にも進出するところとなり、両国でも大人気となったあげく、江戸中から人々がこの見世物を見にやってくるようになりました。

「不具の佐太郎」と呼ばれたことから、これをもじって「不具助」と呼ばれるようになり、さらに、いっそのこと「福助」にしたらどうかという香具師の助言に従って改名したところ、観客にも名前が福々しくて縁起がよいとますます見物は盛況となりました。

そうしたところ、見物人のなかに裕福な旗本某の子がいて、両親に遊び相手に福助が欲しいをとせがみました。そこで旗本某は福助を金30両で香具師から譲り受け、召し抱えることにしました。

それからというもの、この旗本の家は幸運続きだったといい、このため福助はおおいに寵愛され、旗本の世話で女中の「りさ」と結婚させてもらい、独立しました。そして芝増上寺の門前町、永井町で「深草焼」で人形を作り売り出しました。京都伏見の北東に位置する「深草」の地に由来する陶器で、その人形とは頭の大きい自分の容姿を模したものでした。

この人形は福助の生前にもかなり売れたようで、福助はその収入によって豊かになり、そのおかげで長寿を全うできたのでしょう。死後もこの人形はバカ売れに売れ、幕末の文化年間(1804~1818年)のころにかなりのマイナーチェンジを加えられて発売されたのが「叶福助」です。

その後も少しずつ形を変え、いわゆる「縁起物」として珍重され、だるまや、熊手、羽子板などとも肩を並べるようになり、江戸期の庶民に愛されるようになりました。

縁起五穀豊穣、大漁追福、商売繁盛、家内安全、無病息災、安寧長寿、夫婦円満、子孫繁栄、厄除祈念などなどに効力があるとされ、現在においてもおよそ「ハレ」にまつわる行事ではよくこの福助人形が飾られます。

また、祭礼や縁日や市などの寺社の参道や境内や門前町・鳥居前町などにおいて参詣者に販売されています。最近は招き猫のほうが多いように思いますが、レトロなところがいい、という人もいて根強い人気があります。あなたのお宅にもあるのではないでしょうか。

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ところで、この「縁起物」の「縁起」とは何かといえば、これはそもそも仏教用語であり、仏教の根幹をなす発想の一つです。「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指すものですが、これが転じて一般的には、良いこと、悪いことの起こるきざし・前兆の意味で用いられるようになりました。

「縁起を担ぐ」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」などとよくいいますが、「験を担ぐ(げんをかつぐ)」ともいいます。縁起を気にする事であり、ある物事に対して、以前に良い結果が出た行為を繰り返し行うことで吉兆をおしはかることです。また、良い前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にすることでもあります。

本来は「縁起を担ぐ」でしたが、江戸時代に流行った逆さ言葉で縁起を「ぎえん」と言うようになり、それが徐々に「げん」に変化したとする説が一般的です。また「験」には「仏教の修行を積んだ効果」や「効き目」などの意味があるそうです。

験担ぎに何をするかは人それぞれです。しかし、他人から見れば何の効果もなさそうに思える行為でも、当人が「これは験担ぎだ」と思って行っている行為ならばそれは験担ぎであるといえます。

ただ一般的に多いのが、塩を盛るとか、お茶を飲まない、といったことであり、このほか爪を切らない、というのがあります。親の死に目に会えなくなるから、とはよくいわれることですが、本来は爪を切らないでおくと運気が上がる、と言われたことに由来します。理由はよくわかりませんが、鷹などのおめでたい動物に由来があるのでしょう。

受験生に「すべる」や「落ちる」などの、受験に失敗することを連想させるような言葉を使わない、という験担ぎもあります。このほか、試験に関しては、「カツ丼を食べる(試験に勝つ)」、「五角形の鉛筆を使う(ゴカク→合格)」といった語呂合わせのものがあります。

このほか、ヒゲを剃らないとか、ラッキーなことがあったときに身に着けていたものを、ここぞという勝負事あがるときには身に付けていくとか、お守りを持って家を出る、といったことを験担ぎとして常用している人も多いでしょう。

英語ではジンクス、ということばがありますが、こちらはどちらかといえば悪い方の意味で使われることが多く、縁起の悪い言い伝えに基づいています。欧米ではイエス・キリストの最後の晩餐に出席した人数が13人であったことから「13」を不吉な番号しますし、として、また「666」を悪魔の番号であるとして使用を控えることがあります。

日本でも、4は不吉な数字であり、これは「死」を連想するからで、9は「苦」に通じるといわれます。また、スポーツでも、2年目のジンクスというのがあり、1年目に活躍した選手は2年目に活躍できない、など、否定的に使われることが多いものです。

験担ぎのほうも、悪い予兆を否定するために使われることあるものの、どちらかといえば良い予兆を招くために使われることが多いようです。誰にでもひとつやふたつはあるものですが、私の場合は、寝る時に北を向いて寝る、という験を担ぎます。

いわゆる「北枕」というヤツであり、仏教の祖である釈迦が入滅の際、北の方角へ頭を置いて横になった故事に基づいており、日本では人が死ぬと頭を北へ向けて寝せます。

しかし、北枕は、心臓への負担を和らげるため体にいいとされる考えがあり、風水では頭寒足熱の理にかなった「運気の上がる寝方」とされています。またこの「頭寒足熱」説以外に「地球の磁力線に身体が沿っていることによって血行が促される」とする説も存在します。なので、あなたも今日から北枕で寝てみてください。

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この験担ぎのために「言霊」を発する、というのも古来からの日本の風習です。日本では昔から声に出した言葉には霊的な力が宿ると信じられていたため、良い言葉を口にすれば良い事が、悪い言葉を口にすれば悪い事が起こると言われています。

「言魂」とも書き、発音は、「ことだま」でも「ことたま」でもいいようですが、森羅万象がすべてことばによって成り立っているとされる「言霊学」という学問が、江戸時代までにはあったそうです。

声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされ、そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意されました。現在でも「忌み言葉」というのがあり、結婚式などのおめでたい行事には禁句とされます。

これも、言霊学に基づく、「言霊思想」によるものだといい、古くは万葉集にも日本のことを指して「言霊の幸ふ国」と言う、という文々が出てきます。歌人の柿本人麻呂や山上憶良の歌にも出てくるそうで、古代においては「言」と「事」が同一の概念だったといいます。

中国から漢字が導入された当初も、言と事は区別せずに用いられており、例えば、日本神話に登場する神さま、事代主神(ことしろぬし)は、「古事記」では「言代主神」と書かれています。

こうした古い時代には、自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられていました。

たとえば「古事記」においては、ヤマトタケルの命(倭建命)が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会いましたが、ミコトは「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした、という記述があります。

ところが、それがミコトの慢心によるものであったため、その後ミコトは神の祟りに遭い亡くなってしまったといわれています。すなわち、言霊思想は、心の「ありよう」を示すものであり、万物に神が宿るとするのは、すべてのものには「こと」という名称があり、その中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方です。

日本だけでなく、他の文化圏でも、言霊と共通する思想が見られ、例えば、「旧約聖書」の中にも「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる。」と言った表現があり、この「風」と表記されているものが「プネウマ」、すなわち日本で言うところの言霊です。

他の文化でも、音や言葉は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされることが多く、日本でも神道においては、「拍手(かしわで)」はそうした浄化作用があるとされますし、神事で叩かれる太鼓の音もそうです。

洋の東西を問わず、こうした考え方はあり、祭礼や祝い、悪霊払いではたいてい音を出す、という行為が行われます。カーニバルでの笛や鐘・太鼓、中華圏での春節の時の爆竹などがその一例です。

口に出して言う言葉も、呪文や詔としてその霊的な力が利用されます。ただし、その霊的な能力のある「こと(事)」が何であるか、ということについてはさまざまな見解があり、国により、また宗教によって異なります。

たとえば某宗教では「真理」である、とされますが、ではいったい真理とは何か、と問われると日本人には理解しにくいようです。「真理とは、巌(いわお)のように堅固なものである」といい、それゆえにヨーロッパでは岩山の上に教会を築くことが好まれる、という例などが示されればなんとなくわかったような気にもなります。

が、なぜ固いものがいいのか、別に土の上でもいいじゃないか、と土に竪穴を掘って住居を作るという縄文文化を受け継ぐ日本人はすぐ思いますし、固いことが真理の象徴というのは理解しにくいことです。

逆に言葉が魂である、というのはアミニズムを蔑視する欧米人には理解しがたいようです。アミニズムというのは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方で、日本には古来からあります。森羅万象すべてに神が宿っている、という考え方であり、日本人が信奉する神道の根本でもあります。

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神様が憑くものを「依り代」ともいいますが、こうした霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観は、日本以外でも世界的に広く宗教、習俗の中で一般に存在しています。しかし、原始宗教的な考え方ともいえ、キリスト教が先進のものと考える欧米人の視点からは、こうしたアニミズムは原始的な未開社会のものであると考えられています。

このため、彼等は「真実を知りたければ鏡に汝自身を映してみよ、それですべてが明らかになる」といいます。が、我々にはさっぱり意味がわかりません。むしろ日本人にとっての鏡はそれ自体が神様だったりするわけです。

このように「こと」が何であるのか、というのは日本と欧米では隔たりがあるわけです。巌や鏡のような例を用いれば実感として捉えられる、という彼等の主張は、それ以外のものすべてのものにも神が宿ると考える我々には理解しがたく、逆に彼等には言葉そのものに魂が宿るという考え方が理解できないようです。

このように「こと」が真理であるのか、魂であるのかについては、さまざまな文化により異なります。また時代によっても色々な変遷があります。さらには多数の宗教や人種が交錯する現代においては、独自の見解を持つ個人も増えてきており、「こと」自体は我々が知りえないものである、といった神秘論のままでいいではないか、という人もいます。

真理なのか魂なのかといった議論に結論を出す必要はないのかもしれません。とはいえ、日本という国に生まれ、その風土で育ち、万物に宿る神様に見守られて生きてきた我々日本人には、やはり言葉には魂が宿る、という考え方がしっくりくるような気がします。

「言葉の法則」というのがあるそうで、言葉自体には何等かのパワーがあり、良い言葉ならば繰り返し言い続ければ、幸せになれる、と唱える人もいます。

「斎藤ひとり」さんもその一人で、東京都江戸川区を所在地にする化粧品、健康食品を販売する会社「銀座まるかん」の社長です。毎年のように高額納税者公示制度(長者番付)の上位に名を連ね、総資産はン百億円だそうです。

観音信仰と経営体験に基づいた独自の人生観を持ち、それらを論じた人生訓・自己啓発に関する関連書籍などを出版しており、「言葉の法則」はそうした本の中でも書かれています。

ひとりさんによると、人の心の大きさは「コップ一杯程度」だそうで、私たちは「言葉」という水滴を一滴一滴、心のコップに垂らしているといいます。狭いコップの中の水ですから、良くない言葉を発すると、心のコップが濁ってしまいますし、良い言葉を使うと少しずつですが綺麗になります。

どんな言葉でも数多く唱えると、心のコップはその言葉の水滴でいっぱいになり、溢れ出します。そして、唱え続けた言葉は、思考の一部となり、私たちの人生を創り上げる材料になるといいます。

そして、どうせなら良いことばでコップの水をいっぱいにしたいものです。どんな言葉がいいか?

ひとりさんによれば、たとえば、「しあわせだなぁ」「ありがたいなぁ」「豊かなだなぁ」「やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。」などがイイとおっしゃっています。

たとえ現時点で「幸せじゃない」と思っていても、「幸せだなぁ」という言葉を発することに意味があるといい、何度も何度も繰り返し唱え、口癖になりそうなほど、唱えるようになると本当に幸せだと思える状況が創られるのだといいます。

目標は千回だそうです。千回、目標を達成した自分の姿、周りの状況を「現在形でイメージする」のだそうで、未来形「~したい」「~だったらなぁ」という形式ではなく、「にできる」「になる」という現在形がいいのだとか。

「ありがとう」「感謝しています」「ついてる」「うれしい」「楽しい」「幸せ」「許します」「愛しています」は、「天国言葉」というのだそうで、これらを口にしていれば、いつも幸せでいられるのだともいいます。

ものごとがうまくいかないと、ついつい「クソッ」とか「ちきしょう」とか言いがちですが、これを「やった!」「ラッキー」に置き換えると、幸せになれるような気になってきます。また、「疲れた~」を「金欲しい」に変えてもあるいはいいのかも。

あなたも、今日から実践してみてはいかがでしょうか。

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オシリスとセト

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星のきれいな季節になってきました。

「参宿」といっても何のことかわからないと思いますが、これは古代中国でのオリオン座の呼称です。

が、この中国の星座には、現在のオリオン座に含まれる7つの星以外にも、うさぎ座、はと座などの星々が含まれており、このように星座の範囲の定義はそれぞれの国によって違います。

現在我々がオリオン座(Orion)としているものは、ギリシャ神話における登場人物オリオンを題材とした星座です。中央に三つ星が並んでいるのがオリオンのベルトの部分であり、これを中心として上下左右に星々が展開します。

ベルトのラインの左上にあるのが最も明るいα星、ベテルギウスであり、このベテルギウスと、おおいぬ座のα星シリウス、こいぬ座のα星プロキオンとともに、冬の大三角を形成します。

また、オリオン座の右下にあるのが、β星のリゲルで、ベテルギウスほどは明るくないものの同じ1等星です。全天で21しかない1等星のなかのふたつもが、このオリオン座に含まれていることになります。秋から冬にかけてはもっとも目立つ星座といえます。

ベテルギウスは、赤い色をした星で、またリゲルは青白い光を放っており、対照的であることも目を引きます。実は、ベテルギウスの和名は「平家星」とされており、一方のリゲルは「源氏星」だそうです。つまり、赤と白の対比です。

岐阜県における方言が元となっているといわれており、ベテルギウスの赤色を平家の赤旗、リゲルの白色を源氏の白旗になぞらえたと解釈されています。そして、この源平それぞれを代表する色が日本の国旗を形成しているわけであり、オリオン座は日本のための星座といってもいいくらいです。

また、オリオン座の三ッ星は、毛利氏の家紋である「一文字に三つ星」の由来になっているともいわれています。「三本の矢」の逸話が有名なので、それを図案化したのだと思っている人が多いと思いますが違います。

元々は、中国では、この三ッ星を「三武」と呼び、将軍星と呼ばれて武人の象徴として信仰していました。

毛利氏の遠祖にあたる平城天皇の皇子、阿保親王のご落胤といわれる大江音人(おとんど)は、一品(いっぽん)親王と呼ばれていました。これにちなんで、その後胤にあたる毛利氏が一品の字を図案化し、これにこの三武の三つ星紋を加えて家紋として使うようになったものと伝えられています。

日本ではこのほか、この三つ星はそれぞれ、表筒男命、中筒男命、底筒男命という住吉三神とされることがあります。ご存知のとおり、海の神、航海の神であり、住吉三神を祀る神社は住吉神社という社名で、日本全国に約600社もあります。また、沖縄では、「黄金三星」(こがねみつぼし、クガニミチブシ)と呼び、こちらも神が住む星とされています。

ギリシャ神話では、巨人オリオン座が、「この世に自分が倒せない獲物はいない」と驕ったため、地中から現れたさそりに毒針で刺し殺され、さそりはともに天にあげられ星座となった、とされています。が、ギリシャ以外では、オリオン座の真ん中にある、三ッ星だけをとりあげて神話を作り上げている国が多いようです。

上述の中国の「参宿」の「参」も三ッ星のことであり、「宿」というのは星座です。つまり「三ッ星を持つ星座」、というほどの意味になります。

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古代エジプトでも、三ツ星とその南側のオリオン大星雲などの星々の一群を「サフ」と呼び、オシリスと同一視しました。

オシリスというのは、「生産の神」であり、太古にはエジプトの王として同国に君臨し、「トート」と呼ばれる知恵を司る神の手助けを受けながら、民に小麦の栽培法やパン及びワインの作り方を教えました。また人間界の法律を作って広めることにより人々の絶大な支持を得ていた、といわれています。

このオシリスには、セトという弟がいました。セトは、エジプトの民に大人気の兄をねたんでおり、ある日、オシリスが館を留守にしている間に72名の廷臣達と暗殺の謀り事を企みました。

その謀りごととは、彼らが住まうビブロス宮殿における催しを利用しようというものでした。大工たちに「木棺」を作らせ、これにピッタリと体が入った者に褒美を贈るというイベントをやろう、というものでしたが、実は、この木棺はオシリスの体に合わせてセトらが作らせた物でした。

こうしてお祭りごとが始まり、その宴のクライマックスで、この余興が始まりました。次々と臣民たちが木棺に入っていきますが、彼等の多くは棺よりも体が大きすぎたり、また逆に小さすぎてなかなかピタリと棺に合う体を持つものが現れません。

ところが、終盤になって、何も知らないオシリスがこの棺に入ったところ、なんとピッタリと治まりました。そのあまりのフィットネス感に酔いしれたオシリスは、棺の中に気持ちよく横たわっていましたが、そこへすかさずセトに命じられた廷臣が、蓋をかぶせてしまいました。

そして、その隙間からは鉛が流し込まれ、オシリスは葬られてしまいます。棺はさらにナイル川に流されることとなりました。

こうして殺された王の死を知った、オシリスの妻であり妹でもあるイシスは悲しむとともに、復讐を誓います。イシスは、献身的な母や妻でありましたが、実は、父である太陽神「ラー」の資質を受け継ぐ魔女でもあり、その魔力を用いて復讐を果たそうとします。

ナイル川に流されたオシリスの棺ですが、その後流れ着いた場所で何も知らない民によって加工され、そのまま柱材として、ビブロス宮殿に運び込まれていました。これを知ったイシスは、セトの王妃の乳母に化け、宮殿に潜入し、柱となっていた棺を探し当てて見つけました。

そして、イシスは世話していた王妃の子供を炎の中に投げ入れ、自身はツバメに変身して柱の周りを飛び回って魔法をかけ、ただの一本の木片にしました。赤子の母親である王妃は泣き叫びましたが、これを尻目に、イシスはツバメの姿のまま木片を咥えて宮殿から持ち出し、秘密の場所に隠しました。

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王妃からこれを聞いたセトは、オシリスを流したナイルの川筋を辿ってそれが柱材として加工されたことを知り、計らずも自分の宮殿に戻ってきていたことを知り、驚きます。運び出されたものが実は自分が殺した兄であったことを知ったセトは、その後執念で棺を探し回りました。

その結果、森のはずれの洞穴の中にあった柱を見つけ、中にあった遺体ごと、今度こそは誰にもみつからないようにと、今度はこれを14の部分に切断し、砂漠にばらまいてしまいます。

これを知ったイシスは、またしても魔力で破片となった夫の体を探し出します。そして、繋ぎ合わせて復活させようとしました。

現在のエジプトの首都、カイロの南にあった、オクシリンコスという町にオシリスの断片を持ち込み、ここで自分の魔法を駆使した結果、なんとかオシリスの体を繋ぎ合わせることに成功しました。ところが、切断された体のうちの男根だけは、魚に飲み込まれていて失われていました。

このため、オシリスは復活を果たしたものの、不完全な体だったため現世には留まることができず、その後は「冥界の王」として蘇ることとなりました。

さて、そのころ宮殿では、別の復讐劇が進行していました。セトに殺されたオシリスとイシスの間には、ホルスという息子がいました。ホルスもまた、父を亡き者にしたこの叔父にあたるセトに対して強い憎悪の念を抱いており、復讐を決意していました。

やがて長じたホルスは父にも負けないほど聡明な青年となり、多くの廷臣たちの支持を得て宮廷内ではセトの強力なライバルとなっていきました。二人はやがてオシリスの後継の座を巡って熾烈な抗争を始めましたが、最終的には正当な後継者はどちらなのか、神々の間で評定を開いてもらおう、ということになりました。

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ところが、神々の筆頭である太陽神のラーは、実は娘のイシスとは不仲でした。イシスには、シューとテフヌトという兄がいましたが、あるとき二人が旅に出てなかなか帰って来ませんでした。ラーは彼らのことを大変心配しましたが、ようやく無事に二人が帰ってきたのを見て涙を流し、その涙から最初の人間が生まれたといわれています。

ところが、この人間たちはやがて自分を敬わないようになったため、ラーは今度は彼らを滅ぼうとしました。そのために、ライオンの頭を持つセクメトという怪女を送り込もうとしますが、このころまだ健在だったオシリスはラーが創り出した人間が大好きでした。このため、血に似せて造らせた赤いビールで彼女を酔わせ、殺戮を止めさせました。

ラーはこれを知って怒り、オシリスを罰しようとしました。ところが、妻のイシスがこれを知り、オシリスの垂らした唾液でこねた泥団子で毒蛇を創りました。そして蛇をラーの寝所に潜ませたため、ラーは毒蛇に噛まれてしまいました。

猛毒にもだえ苦しむラーは、その痛みに耐えかねて毒を解除してもらうことと引き換えに、自分自身を支配できる彼自身の本当の名前をイシスに教えました。

イシスはその名をオシリスの腹心である、トートに教え、これにより彼は「知恵司る神」となることができました。こうして、オシリスはトートを補佐役として、人間界に知恵をもたらす万能の王となることができたわけです。

こうした経緯があったことから、ラーは娘のイシスを嫌っており、このため、亡きオシリスの後継を決める神々の会議においても、イシスの息子のホルスに肩入れすることはなく、その政敵セトを支持していました。

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そこでイシスは老婆に化け、評定が行わる予定地であるナイル川の中の島への渡し守・アンティという女に、金の指輪を与えて騙し、島へ乗り込みました。

ここでイシスは今度は若い女性に化けました。そして、女好きのセトに近づき、色仕掛けで、こうささやきます。「神々の会議が始まったとき、”父の財産は息子が継ぐべきで、その財産を奪う者は追放すべきだ”と発言すれば、神たちは、あなたの寛容さに打たれてオシリスの正当な後継者として認めるでしょう。」

この計略にひっかかったセトは、翌日の会議の中で、わざわざ自らの正当性を否定させる発言を行ってしまいます。この結果、オシリスの後継者はホルスと決まりました。神々が自分の寛大なことばに心打たれると思っていた彼は、ここではじめて女の計略だったと知ります。そして怒り狂い、誰が女を中の島に導いたかを探し回りました。

その結果、手引きをしたのがアンティだとわかると、彼女の踵の皮を剥ぎ、二度とサンダルを履けなくしました。この結果、アンティはイシスから貰った金を呪うようになり、彼女の属する町ではその後、金は忌むべき物となったといわれています。

権力を奪われたセトは、さらに巨大な豚に姿を変えてホルスを襲おうとしました。ところが、神々の会議の場というのは、神聖な場所とされており、そこにブタが現れたのを見て、審判長であるラーは激怒しました。

そして、「豚は未来永劫、忌まわしい動物とせよ!」と叫びました。これがのちの世でイスラム教においてブタが禁忌とされるようになった理由のひとつといわれています。

ラーの怒りを買ったセトは元の体に戻りましたが、ホルスに王の座を奪われたことをどうしても許せず、ホルスにある提案をします。それは、この中の島からカバに変身して川に潜り、先に陸に上がった者が負けにしよう、という不可思議なものでした。

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しかし、若くて血の気の多いホルスはこの挑発を受けることにします。さっそく2人は裸になり、カバに変身してナイルに飛び込みますが、彼を心配した母のイシスは「生きている銅」で釣り針を作り、これを水中に投じてセトをひっかけ、ホルスを援護しようとしました。

ところが、最初の一投では、誤ってその釣り針を息子に引っかけてしまい、息子のほうが苦しみだしたので、驚いて針に命じて外させました。しかし、次の一投ではセトに針を引っかける事に成功します。形勢が不利とみたセトは「自分とお前は同じ母から生まれただろう」とイシスに言い放ちました。

実は、セトはイシスの異父弟であり、母はヌトという再生を司る、葬送の女神でした。これを聞いて情にほだされたイシスは、思わず釣り針を外してしまいます。しかし、セトは釣り針にひっかけられた余りの痛さに、先に陸に上がってしまい、この勝負はホルスの勝ちとなりました。

このとき、セトを助ける、という裏切り行為に出た母親を見たホルスは、逆上します。そして持っていた刀でもって彼女の首を刎ね落としました。その一部始終を見ていたトートは、イシスを哀れに思い、その死体をラーの元へ運び、イシスの体の上に雌牛の頭を置きました。そしてイシスはラーの魔力によってまたたくまに復活しました。

その一方でラーは、母親を殺めるという蛮行を行ったホルスに対しては、罰を下すこととし、ホルスの両目を奪って山中に埋めました。そののち、やがてその目からはロータスの花(蓮の花)が咲いたと伝えられています。

目を失ったホルスでしたが、その後愛と美と豊穣と幸運の女神である、ハトホルが彼の眼窩に雌アカシカの乳を与えたため、目を取り戻すことができました。

こうしてホルスは王として人間界に君臨するようになりましたが、その後もセトとの激しい戦いを繰り広げ、そのなかでホルスは再び左目を失ってしまいます。この左目は長い間、民を治めるためにエジプト全土を旅し、様々な知見を得たとされる大切な目でしたが、この度はトートが月の力を借りてその左目を癒しました。

その後、神々の助言によってホルスとセトは一時和解し、同居する、といったこともありました。しかし、その後ふたたびセトがホルスに危害を加えようとしたため、このとき助けに入ったイシスによってセトは両手を切り落とされてしまいます。

しかし、セトも長い戦いの間で魔力を持つようになっており、切り落とされた両手をナイルの水で洗って取り戻しました。こうしてさらに2人の戦いが続きますが、その戦いにもようやく終焉が訪れます。

その最後の戦いでセトはホルスに対して石の船を作ってレースで決着をつけるという勝負を持ちかけました。セトは自分で申し出たとおり、石の船を作りましたが、ホルスは今度こそはと一計を案じ、石のかわりに杉の木を漆喰で覆った船を作りました。

結果、この勝負ではセトの船は水に沈み、ホルスの船は水に沈みませんでした。しかしセトは、今度も得意の変身力を発揮し、再びカバに変身して水中から、槍でホルスの船の底をついて、彼を殺そうとします。

ところが、ホルスは逆に船上から水中のセトに槍を突き付け、彼の睾丸と片足を奪いました。さすがに急所を奪われたセトもこのたびは復活することができず、こうして最終的にホルスが勝利しました。そして長い間続いた父の仇討ちもまた、ようやく果たされることとなりました。

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こうして、このころ冥府の王となっていたオシリスは、トートとの相談の末、地上の王権をようやくホルスに譲位することができました。ホルスは名実とともに地上を統治する王と見なされるようになり、この王は代々「ファラオ」と呼ばれるようになりました。

ウィーン美術史美術館所蔵の「ホルエムヘブ王とホルス神座像」は、古代のエジプトの王、ホルエムへブ王と、この歴代のファラオのうちの最初の王である、ホルス神を同一の石から彫り抜いて並べたものです。

紀元前1570~1070年ころのエジプト新王国時代のうちの、第18王朝時代末期(紀元前1290年ころ)の作とされる石灰岩像ですが、そこには、ホルス神の名として神聖文字で「ホルス、父の仇を打つ者」と刻まれているそうです。

神聖文字とは、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの1つで、エジプトの遺跡に多く記されており、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられています。しかし、その後使われなくなり、読み方は忘れ去られてしまっていました。

ところが、19世紀になって、「古代エジプト学の父」と言われているフランスの考古学者、ジャン=フランソワ・シャンポリオンが、ロゼッタ・ストーンに書かれていた文字を解読したことから、この石像の文字も読めるようになりました。

また、ホルスとセトの戦いの際、ホルスが失った左目は、その後古代エジプトでよく見られる眼のシンボルとなり「ウジャトの目」と呼ばれています。ホルスがセトを撃退したことから魔除け的な意味を持つようになったもの、といわれていますが、こうしたこともロゼッタ・ストーンの解読によりわかるようになったものです。

睾丸と片足を失ったセトは、その後、地上の世界を去り地下世界に隠遁しました。地上には雷の声として響くだけとなりましたが、別の説によるとセトは天空にある神々の世界へ帰り、おおぐま座となりました。また、北斗七星はセトの片足である、という伝承もあります。

一方で、セトはその類い希なる武力から、ラーの乗る太陽の船の航行を守護する神としてもエジプトの民の信仰を受け続けるようになりました。

また、太陽の船を転覆を狙う、暗闇と混沌を司る悪魔神=大蛇アポピスを打ち倒すことから、軍神としても信仰されました。「王の武器の主人」という称号もあり、ファラオに武術を教える神としても信仰を受けるようにもなりました。

今晩夜空を見上げてオリオン座を目視したら、いつも聞き慣れているギリシャ神話の巨人伝説ではなく、今日これまでに書いてきた、こうしたエジプトの伝説も思い出してみてください。

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キノコおいし

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10月も半ばとなりました。

今日は「きのこの日」だそうで、10月はきのこ類の需要が高まる月のため、その月の真ん中の15日を記念日としたのだそうです。「日本特用林産振興会」というのがあるそうで、この組織が1995年に制定しました。

「特用林産」というのは、森や林から得られる産物のことで、キノコや山菜は代表的なものですが、そのほかにも炭や漆、檜皮(ひわだ)や木蝋、和紙といったものもあります。こうした林産物の普及を図るための業界団体、ということのようですが、おそらくは農林水産省の外郭団体でしょう。

それはともかく、このキノコというのは不思議な物体です。植物ではなく、「菌類」ということで、カビと同じく胞子で増えます。酵母も菌類であり、植物寄生のものが多く、農業上重要なものも多いようです。

その語源はおそらく「樹の子」もしくは「木の子」でしょうが、当然ながらキノコを形成しているのは菌類の細胞であり、キノコを生じる菌類はすべて糸状菌です。その構造は、菌糸と呼ばれる1列の細胞列からなり、いかに大きなキノコであっても、それらはすべてこのような微細な細胞列によって構成されています。

傘をもち、地面からスッくと立っているものをキノコと呼ぶことが多いわけですが、カビに見えたり酵母状であるものもあり、枯れ枝の表面などに張り付いていたり埋もれていたりする微小な点状のものも、分類上はキノコと見なすようです。

ま、しかし一般的は「キノコ」と言えばより大きい、傘状になるものを指します。このような点状の子実体を持つものは和名も「カビ」とも呼称される例があるようなので、通例どおりキノコは形のはっきりしたもの、という認識でいいのでしょう。

日本語のキノコの名称には、キノコを意味する接尾語「~タケ」で終わるものが多くなっています。ところが、「~ダケ」と濁点で濁る呼び方は、実は間違いであり、「えのきだけ」、「ベニテングダケ」は誤表記がであり、キノコを表わす「タケ」は本来はけっして連濁し
ません。

キノコ図鑑を開いてみると、「~ダケ」で終わるキノコは一つもないことからもこれがわかります。ところが、一応名前としては、「~タケ」とつけられてはいるものでも、そのキノコが果たしてなんであるか、といったキノコ類の同定は、簡単ではありません。

傘やひだの色や形、柄の状態などからその名前に相当するキノコに一応分類はされており、それを頼りに同定するわけですが、元来キノコは菌類であり、カビと同じような微細な仕組みの生物です。

それが多数積み重なって肉眼的な構造を取ってはいるものの、カビと同様に微生物としての目に見えない部分は実は違っているという場合があり、たとえば胞子や担子器などを顕微鏡で見なければ本当に正しい同定はできないものと考えるべきなのだそうです。

もちろん、キノコの同定に熟練したその道の「キノコ博士」ならば、顕微鏡を使わずとも、大抵の同定を正しく行えますが、これはその地域に出現するであろう類似種や近似種の区別をすでに知っているからできることです。

従って、別の地域に行ったらそうしたベテランも間違うこともあるそうで、ましてや我々のような素人が、外形の写真だけの図鑑など同定すると、種類を間違えてしまう可能性は高いわけです。

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間違うとどうなるか。当然毒キノコである場合には、大変なことになります。猛毒を持つキノコを食べると死に至りますし、中程度の毒を持つものでは、神経系に異常をきたす場合もあり、そうでなくても胃腸系に障害をきたすことが多いようです。

毒キノコによる中毒の症状は様々ですが、一般的には摂取によって、嘔吐、腹痛、下痢、痙攣、昏睡、幻覚などの症状を生じます。自然界には毒性の不明なキノコが多数存在し、従来から食用とされてきたキノコであっても、実際には毒キノコであることが判明する場合があるそうです。

たとえば、2004年に急性脳炎が多数報告されたスギヒラタケは、その前年の法改正によって急性脳炎の患者が詳しく調べられるようになり、このために初めて毒性が明らかになっており、元々毒キノコだった可能性も指摘されています。

ある種の毒キノコは調理によって食用になる場合もありますが、これらは例外であって、ほとんどの毒キノコはどう調理しても食用になりません。「ナスと一緒に食べれば中毒しない」といった説もあるが、迷信です。

また、エノキタケの廃培地からも発生するコレラタケは「食用キノコを収穫した後に生えるから大丈夫」と誤解され、食中毒を起こすおそれが高いそうです。

「たてに裂けるキノコは食べられる」「毒キノコは色が派手で地味な色で匂いの良いキノコは食べられる」「煮汁に入れた銀のスプーンが変色しなければ食べられる」「虫が食べているキノコは人間も食べられる」といった見分け方もまた、何の根拠もない迷信です。

食用か毒かを判断するには、そのキノコの種、さらにはどの地域個体群に属するかまでを顕微鏡などを使って同定した結果に基づくべきである、というのが専門家さんの見解だそうで、図鑑などをみただけで、安全だ、と素人判断するのは危険な行為のようです。

このため、最近の植物図鑑やキノコ類の資料においては、従来食べられる、とされてきたようなキノコにおいても、「毒キノコの中では比較的毒性が弱い」というような科学的に正確な記述に置き変っているそうです。当然ながら、弱い毒性であれ人体に有害なのは事実です。

ベニテングタケなどが、その代表で、従来は湯通しして毒を浸出させるれば食べられるとされてきましたが、場合によっては嘔吐、痙攣、眠気、幻覚等の症状を引き起こします。また、ヒトヨタケなどは、特殊な処理なしで食べることができますが、アルコールとともに摂取すると毒性を示すそうです。

最近では、秋のキノコ採集シーズンにおいて、各地域のキノコ愛好家団体によって、こうした「同定会」としてキノコ狩りが開催されることも多くなっています。公立試験研究機関や大学のキノコ関連の研究室が開催している場合もあるそうで、同定会に参加すれば、判定するための試薬や顕微鏡といった資材が利用できます。

また、複数の経験者により的確な判断が得られることなど、安全さと正確さを確保することができる上、自分で採集したキノコ以外を観察することもできます。単なる食・毒の判断にとどまらずキノコ全般や現地の自然環境についての知識を養うことができる、ということでこうした同定会は大人気だそうです。

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それにしても人類はキノコを食べることが好きです。こうした菌類を食べることを英語では、“mycophagy”といい、これは「菌類嗜食」と邦訳されています。そうした名称があるほど、キノコを食べることは古くより行われてきました。

キノコを食用とした確かな証拠が初めて見られるのは、紀元前数100年の中国だそうで、中国人は、キノコを食品として扱うと同時に医薬品としても価値を置いていました。また、古代ローマ人や古代ギリシア人などは、上流階級がキノコを愛用していたようです。

もっとも、世界中の多くの文化においては、キノコを食用として用いてきただけでなく、医薬用として採取してきた経緯があります。

民間療法としての「医薬用キノコ」というものが存在し、現在の日本においても、一部のキノコには、薬用とされるものも存在します。日本薬局方には、マツホド(ブクリョウ)とチョレイマイタケ(チョレイ)は生薬材料として収載されており、漢方方剤の原料として用いられています。

マツホドは「松塊」と書き、サルノコシカケ科の菌類ですが、利尿、鎮静作用等があります。またチョレイは、「猪苓」で、こちらは消炎、解熱、止褐、利尿薬として用い、有効成分は明らかになっていないが、最近は抗腫瘍効果があるとする研究も公表されています。

この他、霊芝や冬虫夏草などが、局方外で漢方薬の材料とされることがあり、シイタケ、カワラタケ、スエヒロタケ等からは抗腫瘍成分が抽出され、医薬品として認められているものもあるそうです。

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一方では、ベニテングタケなどの幻覚性キノコをシャーマニズムなどの幻覚剤などとして用いる文化もあります。シャーマニズムとは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称です。

このシャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在、すなわち霊、神霊、精霊、死霊などと交信する現象を起こすとされる職能・人物のことで、主として極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般をこう呼びます。

日本でも、北海道・樺太などにその文化が残り、ほかにシベリア・満州・モンゴル・朝鮮半島を中心とした北方文化圏でもシャーマニズムはあります。さらに、沖縄(琉球)にもあるほか、台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏にも存在します。

しかし、シャーマニズムには、日本を含めたこうした北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める、という説もあります。キノコが世界中で獲れることを考えると、後者のほうが正しいのかもしれません。もっとも、シャーマニズムで使う薬物はキノコだけとは限らず、他の植物なども併用されることも多いようです。

シャーマニズムにおいて、「超自然的存在」と交信する方法としては、二つある、といわれています。「脱魂」と「憑依」がそれであり、どちらを基本と捉えるかについても、研究者の間で意見が分かれています。「脱魂」というのは、「魂が肉体から離れたエクスタシー状態において、神仏などの霊的存在と直接接触したり交流する」とされる現象であり、「エクスタシー」とも呼ばれます。

肉体から離れた霊魂は、遊離魂とも呼ばれ、我々がよく見る夢は、睡眠中に霊魂が身体を離脱し、あちらの世界に行って経験したことである、とはよく言われることです。

一方、憑依のほうは「憑霊」ともいい、「つきもの」ともいいます。神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいい、とりつく霊の種類によっては、悪魔憑き、狐憑きなどと呼ぶ場合もあります。ある種の霊力が作用し、人の精神状態や運命に影響を与える、と信じられています。

脱魂においては、シャーマンは、トランス状態の中で、自らの魂が行動するのでトランスが解けた後で体験内容を説明することができます。これに対して、憑依ではシャーマンに憑依した精霊や死霊が活躍するのでトランスから覚めても彼は何事が生じたのか説明できません。

脱魂は自分の魂が抜けることであり、憑依は自分以外の何者かがとりつく、という違いがあるわけですが、そのどちらをシャーマニズムの本質とするかについては、地域・民族・文化などによって異なります。

一般にはシベリアなど北東アジアは脱魂を重視し、東南アジアや南米では憑霊が重視されるといい、日本や朝鮮半島のシャーマニズムでは憑霊が多いものの、その両方、もしくは折衷説をとる傾向があるそうです。

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ここで、「トランス」とはいったいどういう状態なのか、といえば、これは日常的な意識状態以外の意識状態のことであり、心理学的には「変性意識状態」といいます。

いかがわしいものではなく、科学的にも説明されていて、通常、我々が起きているとき、すなわち覚醒時のときに脳から発せられるベータ波などがトランス状態では出なくなることがわかっています。一方では、トランス状態においては脳ではアルファ波が優勢になることが知られています。

一時的な意識状態であり、個人だけでなく複数の人々がトランス状態において同じ体験を共有することも可能であることなどがわかっており、社会学分野におけるひとつの研究対象となっているようです。

この変性意識状態においては、「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを感じられるといい、その体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われます。

こうした体験は、精神や肉体が極限まで追い込まれた状態、すなわち激しいスポーツをした場合や、死に瀕するような肉体的・精神的な危機に追い込まれたような場合にすることができるといいます。また、薬物の使用などによってもたらされるとされており、毒キノコがシャーマニズムで象徴的に使われるのはそのためです。

しかし、そうした危険なものを用いずとも、瞑想や催眠等による、非常にリラックスした状態になれば、トランス状態を醸し出すことも可能とされます。1960年代に展開されはじめた、心理学の新しい潮流で「トランスパーソナル心理学」とうのがありますが、この分野ではこれを人間に肯定的な効果をもたらすものとして研究します。

新しい学問領域であるため、科学的ではないという意見もあるようですが、臨床では一定の効果が認められつつあります。精神疾患に対する有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されるようにもなってきているようです。

トランス状態に入るのにはさまざまな方法があり、こうした研究において用いられることが多いのは催眠術です。これによって表層的意識が消失して心の内部の自律的な思考や感情が現れるとされます。

一方、シャーマニズムなどにおけるトランス状態は、宗教的修行によって、外界との接触を絶つことで、法悦状態が得られるとされます。トランス状態に入るのにはさまざまな方法があり、それは社会ごとに定型化されています。たとえば日本のイタコの場合は祭壇で呪文などを唱えますが、沖縄のユタの場合はそれとは異なった手順を経ます。

また、西アジアのシャーマンのように特殊なものを火に注いでその煙を吸う例もあるようです。こうしてトランス状態になったシャーマンが担う役割は文化によってさまざまです。

脱魂型のシャーマンの場合、霊魂が身体を離脱して霊界に赴き、諸精霊を使役してもろもろの役割を果たすとされ、それによって体が弱った人を助けたり、病を治したりする、とされます。

一方、憑霊型のシャーマンでは、神霊・精霊を自らの身体に憑依させ、人格変換が行われ、シャーマンはその憑依した神霊自身として一人称で「語る」ことが多いようです。彼等には神霊の姿見え、同時に神の声が聞こえるといい、その神霊の意思を三人称で語りますが、その語りの中には数々の「予言」が含まれることも多々あります。

日本の場合、若い頃は単にその神の言葉を語るだけの「霊媒」にすぎなかったものが、年齢を重ねるにつれて能力があがり、やがて「予言者」となり、最後には「見者(賢者)」へと変わっていくタイプのシャーマンが多いようです。

日本では、古来、「巫女」と呼ばれる職能者が政治や軍事などの諸領域で活躍したことはよく知られており、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国女王の卑弥呼が用いたという「鬼道」もシャーマニズムと言われています。

また、古代神話のアマテラスオオミカミ、古代日本の皇族、ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めたといわれる、神功皇后などもシャーマンだといわれます。

現代でも、アイヌの「トゥスクル」、下北半島の恐山におけるイタコ、沖縄県周辺のユタなど、各地域にシャーマンが残ります。また、日本の宗教信仰の基底にもシャーマニズム的な要素があると考える研究者も多く、最近の新興宗教の集団の形成や基盤にも影響を与えているといわれます。

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それにしても、誰でもがシャーマンになれるかといえば、そういうわけにはいかず、沖縄県周辺の「ナライユタ」、日本の東北の「イタコ」などは、修行・学習を積んだうえでシャーマンになるといいます。ただし、こうした人たちのなかには、生まれつき盲目である、などの身体的理由を持つ人も多く、また経済的事情からシャーマンになる人もいます。

一方では、ある日突然心身の異状をきたし、神霊によって選ばれたものと見なされるようになる人もいます。巫病(ふびょう)といい、ユタ、ノロ、イタコなどの日本のシャーマンの中には、巫女になる過程の重要なステップと位置づけられている場合もあります。

思春期に発症することが多く、具体的には発熱、幻聴や神様の出てくる夢、重度になると昏睡や失踪、精神異常、異常行動などが症状として現れるといいます。こうした症状を発する人は日本だけでなく、世界的にいるそうで、症状はどの地域でも似通っているといいます。

巫病は精神病理学でも病例として取り上げられており、医学的にはノイローゼ、偏執、てんかん、錯乱などの精神症の一種と考えられていますが、医学的原因は明らかではありません。

こうした人々の間では、シャーマニズムは一種の信仰であり、その信仰においては、巫病は神がシャーマンになることを要請しているのだと捉えるのだそうです。これは本人の意志で拒絶することが困難であり、拒んだために異常行動により死亡するという例も散見されるといいます。

そのため、巫病になった者は、たいていの場合がその社会の先輩のシャーマンから、神の要請に従うことをアドバイスされるといいます。巫病は、夢で与えられる神の指示の通りにすることや、参拝や社会奉仕などを行っていくうちに解消されていくとされ、巫病を克服することによって、シャーマンとして完成すると信じられています。

医学的にも、巫病の症状が本人の信仰への帰属によって軽減されていくことが確認されているそうです。

選ばれようと願っていてもなれるものではありませんが、選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することも困難である、というのは何やら悲しいかんじがします。

このほか、シャーマンの中には、血統により選ばれる世襲的ものもあり、こうした人は生まれつき、父母から受け継いだ霊的資質を持ち、人格をも先祖から継承されている、と考えるようです。沖縄県周辺のノロなどがその代表です。

このようにシャーマンになれる人はある程度限られており、また努力してなろうとしてもそれなりの修業が必要、ということになるようです。

無論、毒キノコを食べた、というだけでもなれるわけではありませんが、少なくともトランス状態にはなれるかもしれない、ということでこれを幻覚剤、として用いる輩も少なくありません。

マジックマッシュルームというメキシコ原産のキノコがあり、1950年代にLSD などの薬物などともに、アメリカで流行しました。日本では、露店でも「観賞用」と称して構わず販売されていましたが、十数年前に人気男優の伊藤英明さんがこれを食べたことで幻覚症状を起こし、病院に運ばれるという事件がありました。

これをきっかけに、社会問題化したため、その翌年からはすぐに規制されて現在では販売は摘発対象となっていますが、第3次小泉内閣時の2005年10月に、首相官邸の植栽に生えているのが発見されて大騒ぎになりました。

マジックマッシュルームと同種の成分を含む、ヒカゲシビレタケという日本固有種で、胞子はどこかから飛んで来たか、持ち込んだ土に含まれていたと考えられています。日本ではふつうに自生しているので、このような場所での発生が確認されること自体は特に不自然なことではないといいます。

とはいえ、これを読んで探してみよう、という人がいたら困るので、念のために言っておきますが、日本では麻薬取締法の対象物となっており、持っているだけで違法とされて、逮捕されてしまいますから注意が必要です。

キノコを摂取するなら、せいぜい普通の毒キノコぐらいにしていただいて、けっして麻薬中毒者にならないよう、ご留意ください。

昨今かなり夜も冷え込むようになってきました。これを書いていたらキノコ鍋などが食べたくなってきました。晩御飯のメニューにいつも悩んでいる奥様方。あなたも今晩のメニューは、それでいかがでしょうか。

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ナマズおいし

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ようやく富士が初冠雪しました。

9月のおわりごろから比較的お天気の良い日が続き、毎日のように富士が見えていたのですが、それにしてもいつまでもこの真っ黒な姿のままでいるのだろう、と気を揉んでいたので、なにやらホットしたようなかんじも……

また、何やらずいぶんと待たされていたような気もするわけで、なので、去年より5日早いとのことなのですが、ことさら早い初冠雪とも思いません。平年より11日遅いと聞くと、あっ、なるほどなっ、というかんじです。

これからの富士は、さらに厚化粧になっていくはずですが、同時に季節は進み、秋も深まっていきます。カメラマンとしては、一年で一番創作意欲が沸く季節でもあるわけで、なにかと外出が多くなります。活動的になればなるほど腹も減る、ということで、食欲の秋とはよく言ったものです。

狩野川の清流を眺めながら、ウマいうな丼でも喰いたいな、と思ったりもするのですが、昨今の漁量不足から、高騰が続いており、なかなか気軽に食べる、というわけにもいきません。聞こえてくる巷の鰻屋の値段は2000円後半ならかなり安いほうで、国産ならだいたいが3000円代、高いところなら5000円以上するようです。

うまい!と評判の、三島広小路の桜屋さんのウナ丼が、3000~4000円くらいだそうで、おいしいといわれても、うーん、どうしようかな~と考えこんでしまう値段であり、よほど何かおめでたいことでもなければ足が向きません。

そこへきて、最近、うれしい話題が入ってきました。クロマグロの養殖に成功した近畿大学が、今度は同様に絶滅が危惧されるウナギの代用品となるナマズを開発した、というこのおはなしは、テレビのニュースなどで見知った方も多いでしょう。

東京や大阪などでかば焼きをテスト販売したところ、相次ぎ完売したそうで、食べた人は口々に「ウナギと区別が付かない」と言っているそうです。ナマズを改良したのは、近大農学部水産学科の若手の先生で、ウナギの激減が指摘される中、「ウナギのかば焼きは日本人が大好きな味。何とかできないか」と考えたそうです。

5年がかかりで、ウナギの養殖業者が使っている施設を流用して、ナマズが養殖できるようにしました。ナマズは、世界でもっとも食べられている養殖淡水魚ですが、日本ではあまり受け入れられないのは、その独特の泥臭さです。

その原因は、河川の中にいるバクテリアであるようで、これを除去するために地下水で育てるようにしたところ、まず臭みを消すことができました。さらに、餌にエビなどの甲殻類を多く与えることで、ウナギそっくりの弾力感を得ることに成功しました。

とはいえ、ナマズはウナギよりも少々淡泊な味なのだそうで、このため、調理法としては、そのぽやっとした味を補うために、かば焼きにする場合には、ウナギより甘く濃いタレを使うことにしたそうです。

結果、鰻に勝るとも劣らない?かどうかはわかりませんが、かなり鰻の味に迫ることができたようで、もし、今後も評判が上々のようならば、各地でさらに改良品種を作成した上で、全国販売も視野に入れるとのことです。

気になる値段も、ウナギの半額程度に抑えられる見通しだということで、長いあいだ、ウナギ欠乏症に悩んでいる庶民にとっては朗報になりそうです。

ここ静岡も三島だけでなく浜松などで大量の鰻を消費しており、「うどん県」ならぬ、「ウナギ県」と命名してもいいくらいだと思うのですが、こうしたナマズの導入も含めて、「かば焼き県」として立国していってもいいのではないか、と個人的には思ったりもします。

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ところで、このナマズというヤツですが、ナマズ目ナマズ科に属する種類は、だいたい全世界で100種類ほどもいるそうです。口がでかくて、ヒゲがあり、ぬるっとしている、といった特徴は同じですが、日本をはじめとして、中国・朝鮮半島・台湾など、東アジアの河川や湖沼に生息する種類は、「マナマズ」と呼ぶようです。

日本に生息するマナマズは、正確にはさらに3種の「ナマズ属」に分けられるそうで、北海道と沖縄などの離島を除く全国各地の淡水域に幅広く分布しているのは、やはり「マナマズ」、または「ニホンマナマズ」と呼ばれており、これは中国など他の東アジアに広域に生息するのとほぼ同じです。

ニホンナマズという呼称は、2005年に特定外来生物に指定されたアメリカナマズと区別して、こう呼ばれるようになったものです。

これに対して、他の2種は、ビワコオオナマズ、イワトコナマズという種類であり、これは琵琶湖とその関連水系のみに生息する日本固有種です。

といっても、素人が見てもおそらくはほとんど見分けがつかないだろうと思われます。とはいえ、ビワコオオナマズはやや大きく、イワトコナマズとともに琵琶湖周辺の機内にだけ生息する種類です。そして、その他の地域で普段我々が目にするのは、たいてい「マナマズ」ということになるようです。

おそらく、上述の近大が開発している養殖ナマズも、このマナマズなのでしょう。雑食性であり、日本古来からいる在来魚としては数少ない大型の肉食魚でもあります。貪欲な食性を特徴としますが、どんなものを食っているかといえば、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエルなどの小動物を捕食しています。

ナマズを捕食するほどの生物は、ほとんど水中にはいないと考えられることから、日本の淡水域の生態系では、食物連鎖の上位に位置するとみられます。大きな体をくねらせてゆったりと泳ぎ、長い口ヒゲを持ちますが、このヒゲは感覚器として発達しており、これを利用して餌を探します。

この口ヒゲは、2本しか持っていない、と思っている人も多いでしょうが、上顎と下顎に1対ずつ計4本あります。仔魚の段階では下顎にもう1対あり、計6本の口ヒゲをもっていますが、成長につれて消失します。

頭は上下につぶれたように平べったく、鱗がなくて体表はぬるぬるとした粘液で覆われています。近くによってよく観察すればわかりますが、斑紋があり、この紋や体色は、個体によってさまざまであり、かなりバラエティに富んでいます。

基本的に夜行性で、昼間は流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底において、岩陰や水草の物陰に潜んでいます。全国に生息していますが、平均的には5~6月が繁殖期であり、水田や湖岸など浅い水域にある水草や水底に産卵します。たった2~3日で孵化し、仔魚は孵化の翌日にはミジンコなどの餌をとるようになります。

また、雄は2年、雌は3年程度で性成熟に達するといい、かなり繁殖力は強い種と言えます。全長60cm程度にまで成長しますが、一般に雌の方がやや大きいといいます。調べてみたのですが、かば焼きにするのは♂♀どちらがおいしいのかどうかまではよくわかりません。どちらもあまり差がないのかもしれませんが……

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上の近畿大の養殖の成功によって一躍脚光を浴びるようになったナマズですが、実は古代から食用魚として漁獲されています。ナマズ食の歴史は古く、平安時代末期の著作「今昔物語」には既に調理をして食した、といった記述があるほか、江戸時代にも商取引が行われていたようです。

マナマズはウナギと同じく、白身を持つため、かば焼きのほか、天ぷらにして食されたほか、たたき・刺身などの生食でもいけるようです。ただし、寄生虫がいる場合があります。顎口虫症といって、顎口虫(がくこうちゅう)という寄生虫がいるナマズを生食をした場合、からだに浮腫み(むくみ)ができたり、場合によっては心筋梗塞を起こすといいます。

とはいえ、まずしい農村部などでは貴重なタンパク源であり、江戸時代よりも前から自家消費のための小規模なナマズ漁が行われていたようです。現在でも、琵琶湖周辺の滋賀県や京都府、濃尾平野、埼玉県南東部など特定の地域で、漁業対象種として捕獲が行われているそうです。

ナマズを釣りの対象とする場合、その貪欲な性質を利用した「ぽかん釣り」と呼ばれる方法が用いられます。これは小型のカエルなどを釣り餌として片足から吊り下げる形で釣り針に通して付け、水面で上下に動かすことでナマズを誘うという釣り方です。ハツやササミといった肉類などでもわりと簡単に釣れます。

私の子供のころ、食用にもなるウシガエルを同様の方法でよく釣っていましたが、極めて簡単に釣れ、ぽか~んていたのを覚えています。ルアーの疑似餌でも釣れるようなので、今度一度試してはいかがでしょうか。釣ったあとに実際に食するかどうかはお任せしますが。

群馬県の邑楽郡(おうらぐん)板倉町にある雷電神社への参道には、複数県の「ナマズ茶屋」があり、てんぷらや「たたき揚げ」と称する揚げ物、洗いや刺身などが頂けるようです。また、鳥取の吉岡温泉でも同様のナマズ料理が食えるほか、埼玉の吉川でも市が率先してナマズ料理をアピールしており、「なまずの里よしかわ」を売りにしているようです。

さらに、茨城県東部、霞ヶ浦の東側にある行方市周辺では、外来種である、アメリカナマズ(チャネルキャットフィッシュ)のハンバーガーを「行方バーガー」として販売しているそうで、ご当地グルメとして有名になりつつあるようです。

とはいえ、その他の県で、ナマズを食するという話はあまり聞いたことがなく、現代の日本では必ずしも一般的な食材とは言えません。上述の3種のうち、一番一般的なマナマズを筆頭に、やはり臭さが敬遠されるためであり、これを使ってナマズ料理を提供しているところは、綺麗な水の池などで長い間飼育してから捌いたりしているようです。

ただし、まあなんとか食せるレベルにはあるようです。岩礁域に暮らすイワトコナマズが、泥臭さが少なく最も美味だそうで、マナマズはこれに次いで味が良いとされるようです。一方、ビワコオオナマズは大味で独特の臭みがあり、ほとんど利用されることはないといいます。

こうしたナマズの食味や利用に関しては江戸時代にも研究されていますが、やはりあまり評判はよろしくなく、「本草学」すなわち、現在の薬学に関する著述、「本朝食鑑(1697年)」によれば、ナマズは、膾(なます)やカマボコくらいにしか利用できない、と書いてあるそうです。

また、シーボルトが記した「日本動物誌(1850年)」にも、この当時のナマズはあまり食用にされず、むしろ薬用に用いられると書いてあるといいます。

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このように、ウナギといえば、一応食えはするものの、それほどウマいもんじゃないよ、というのが古くからの一般認識のようです。とはいえ、繁殖力が強く、どこの川に行ってもいるので、日本人にとっては非常に身近な魚ではあるわけです。

その外観がまず極めてユニークです。その独特な姿もあって古くから親しまれ、さまざまな文化・伝承に取り込まれてきました。また、日本では、地震の予兆としてナマズが暴れるという俗説が広く知られており、地面の下は巨大な大ナマズがおり、これが暴れることによって大地震が発生するという迷信は古くから信じられてきました。

ナマズが地震の源であるとする説は、江戸時代中期にはすでに民衆の間に広まっていましたが、そのルーツについてはっきりしたことはわかっていないようです。ただ、「日本書紀(720年に完成)」には、すでにナマズと地震の関係について触れた記述があるそうで、1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状にもそうした表現があります。

この書面で秀吉は、「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示をしているそうです。しかし、おそらくナマズが地震を起こすと多くの人々が信じるようになったのは、江戸時代の安政年間に頻発した地震のころからだと思われます。

「安政見聞録」という書物には安政大地震前にナマズが騒いでいたことの記述があり、これ以後の江戸後期にはこの地震による社会不穏を背景として、鯰絵や妖怪などを描いた浮世絵も流通するようになりました。

この「安政見聞録」は、1855年11月11日(安政2年10月2日)の夜10時頃に発生した地震の様子を記録した書物で、この地震の翌年の安政3年に刊行されました。著者は服部保徳、挿絵は一梅斎芳晴(歌川芳春)によって描かれ、地震時の教訓を多く盛り込んだ内容になっているといいます。

この服部保徳という人物が、どういう人物かはよくわかりませんが、忍者ハットリ君のモデルといわれる服部半蔵の一族なのかもしれません。歌川芳春は、この当時の人気絵師ですから、そうした絵師を使った自費出版をできた、というのはそれなりの権力とカネを持っていたのでしょう。

挿話は全部で 17 編に及んでおり、自分の子孫に対して、この本によって地震での教訓から多くを学び、忠孝義に励め、といった少々教訓くさい内容となっているそうです。

この「安政の大地震」ですが、多くの人は、これは一回っきり起こった者だと思っていると思いますが、実は、これは江戸時代後期の安政年間に、日本各地で連発した大地震の総称です。

現在では、このうち、とくに1855年に発生した安政江戸地震を指すことが多くなっていますが、この前年に発生した南海トラフ巨大地震である「安政東海地震」および「安政南海地震」も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めたのが「安政の大地震」です。

時系列的にみると、一番最初に起こったのは、1854年7月9日の「伊賀上野地震」であり、次いで「安政東海地震(1854年12月23日)」であり、その約32時間後に発生したのが、「安政南海地震(1854年12月24日)」です。さらに、安政南海地震の2日後には豊予海峡で「豊予海峡地震」が発生しています(1854年12月26日)。

そして、その翌年に起こったのが、一連の地震の中では最大の安政江戸地震(1855年11月11日)になります。この翌年には、東北八戸で安政八戸沖地震(1856年8月23日)が起こり、3年後には、越中・飛騨国境(現在の富山・岐阜県境)でも大地震が発生しており、これが飛越地震(1858年4月9日)となります。

伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は、発生したのが、嘉永7年=安政元年であったことから、本来は「嘉永の大地震」と呼ぶべきですが、同じ年に安政に改元されたため、安政江戸地震と、その3年後に発生した飛越地震も含め、ひとくくりにして安政の大地震と呼ぶようになったものです。

これら一連の地震は、南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として江戸時代に発生したものですが、この南海トラフ付近では、これに先立つ250年ほど前に起こった慶長9年(1605年)には「慶長地震」が起こっており、また150年ほど前の宝永4年(1707年)には「宝永地震」も起こっており、地震の巣窟といわれています。

2015年の現在は、この一連の安政大地震から、ちょうど150年あまりが経つ時期であり、同様に南海トラフにおける地震の発生が危ぶまれているわけです。

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実は、この安政の大地震は、幕末の動乱にも大きな影響を与えた、ということもいわれているようです。安政の大地震における一連の最初の地震が起こった、1854年の前年の1853年(嘉永6年)には、6月に黒船が来航しており、また同年8月にはロシアのディアナ号が来航するなど、ちょうどいわゆる幕末の動乱が始まった時期と重なります。

これら一連の外国船の来訪により、江戸幕府は相次いで開港を迫られところとなり、時代は急転直下の勢いで回転していきますが、「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で旧幕府と新勢力の争いに呼応するかの如く連発した大地震であった、ということは間違いなくいえるわけです。

ディアナ号で来航したプチャーチンは、来日したその翌年にこの「嘉永の大地震」に遭遇していますが、その直前の前年、来日してすぐの11月1日には下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し、下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていたといいます。

安政の大地震のうち、二番目に起こった「安政東海地震」では、巨大な津波が発生しました。房総半島沿岸から土佐まで激しい津波に見舞われ、下田から熊野灘までが特に著しい津波に襲われました。とくに、伊豆半島沿岸では潮が引くことなく津波の襲来に見舞われており、引き潮から始まった駿河湾西側や遠州灘よりもさらに大きな被害を出しました。

伊豆半島において昼過ぎまでに何十回となく襲来した津波では、大きな波は3回打寄せ、そのうち第二波が最大であったといい、ロシア軍艦ディアナ号の記録では、下田において地震動の後、15~20分後に津波が到達し、2回目に押し寄せた津波の高さは、5~6mあったとされます。

ディアナ号は浸水により何回も回転して大破し、津波が収まった後、修理を試みようと戸田港へ廻航されました。しかしその途中、暴風雨も重なり流されて11月27日の夜、田子の浦沖で座礁し、漁船でけん引中、12月2日の昼過ぎに沈没しました。

下田の町では、昼過ぎまでに7~8回も押し寄せ、多数の家屋を流出させたため、壊滅的な状態となりました。しかし、津波で荒廃したあとの再建は早く、下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となりました。津波の翌年の1856年には、早くもハリスが着任してきており、開国に向けての幕府との交渉にあたりました。

ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされます。

この安政東海地震による津波被害以後に頻発した安政年間の地震のあいまあいまでは、ほかにも歴史的な出来事が数多く起こっています。

そもそも、元号を嘉永から安政に変えたのも、こうした地震などの一連の災害のためであったといわれており、このほかにも1854年には、内裏(宮城における天皇の私的区域)が炎上する、という事故もありました。

しかし、改元しても天変地異は続き、改元してすぐの、1855年2月7日(安政元年12月21日)には日露和親条約締結が結ばれましたが、その直後の2月26日に飛越地震が起きています。また、ハリスが下田に総領事として着任した18566年8月21日の二日後に安政八戸沖地震がおきました。

そのハリスが、下田御用所におい幕府側との通貨交換率などの交渉をしている間にも、江戸や駿河、芸予などでも小規模な地震が続いており、吉田松陰が萩で松下村塾を開いた1857年の末から4ヵ月後に起こったのが飛越地震です。

しかし、この飛越地震を最後に、安政年間の地震は徐々に沈静化が進みます。その後、1858年7月29日には、日米修好通商条約が締結され、これに続く蘭、露、英、仏と五カ国条約も締結されました。1858年10月には安政の大獄がはじまりますが、1860年3月の 桜田門外の変(井伊直弼暗殺)で安政年間は終了します。

そして、安政以後の1867年11月の(慶応3年10月)の大政奉還、1868年4(慶応4年3月)の 勝・西郷会談(江戸無血開城)と続いていくことになります。

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こうした幕末という一番物騒な時期に巨大な地震が重なったということは、当然のことながら人々への心理へも影響を与えました。大地震などの災害が、天罰として世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が広まり、安政江戸地震直後にはおびただしい数の瓦版や「鯰絵(うなぎえ)」が巷に出回りました。

これは、ナマズを題材に描かれた錦絵(多色刷りの浮世絵)であり、大鯰が地下で活動することによって地震が発生するという民間信仰に基づいています。鹿島神宮(現在の茨城県鹿嶋市)の祭神である武甕槌大神(タケミカヅチオオノカミ)が要石によって大鯰を封じ込めるという言い伝えに基づいている、というのが定説です。

鯰絵の種類は確認されているだけで250点を越え、実際はそれを大きく上回る点数の鯰絵が発行されたと考えられています。当時の書籍や浮世絵は幕府の検閲を受けていましたが、鯰絵はほぼすべてが無届けの不法出版であり、取締まり逃れのため作者や画工の署名が無いものがほとんどでした。

地震の発生直後から出版が始められた鯰絵は身を守る護符として、あるいは不安を取り除くためのまじないとして庶民の間に急速に広まり、流行が収束するまでのおよそ2ヶ月の間に多数の作品が作られたとされます。

鯰絵には多種多彩な構図が用いられましたが、大鯰を懲らしめる庶民の姿を描いた合戦図の形式、あるいは両者の対立を描いたものが特に知られています。上のタケミカヅチオオノカミがナマズと対決する役柄として鯰絵にもしばしば登場しているほか、ナマズが地震を起こしたことを謝罪したり、震災復興を手伝ったりするユニークなパターンもあります。

いわゆる「世直し鯰」の構図としてもさまざまな作品が作られましたが、これらは幕末の動乱と地震の関連性をうかがわせるものであり、両者によって多くの人々の不安が掻き立てられていたことを示すものです。鯰絵の中には「世直し鯰の情」として被災者を助ける様子を描いたもの、大工や庶民に小判、銭あるいは米俵を投げ与えるものなどもあります。

このほか、江戸などでは地震による倒壊家屋が多かったため、地震後の復興景気により大工や木材商が莫大な利益を上げたことを風刺し、これらの職人や商人がナマズに感謝する姿を題材にしたものもありました。

このような地震により損をした者、得をした者の対比は多くのバリエーションで描かれ、「三人生酔」、すなわち、笑い上戸・泣き上戸・怒り上戸の三者の姿を通じて立場の違いを表す、などの手法によって人々の喜怒哀楽が表現されました。

なお、鯰絵と同じく大量に発行された瓦版には地震によって混乱した情報を、市民らにもたらす、といった役割もありました。瓦版の中に、国元の縁者に自身や親子兄弟の安否を刷り込み知らせるものも多くありました。

また、京都・大坂・江戸の三都に店舗を抱える大商人らもまた、相次ぐ地震で経済網が寸断され、情報を失いました。このため、飛脚屋を雇って情報を収集させ、被害情報を一枚摺にして発行しました。無論、自分たちのための情報収集だったわけですが、こうした情報は一般庶民にも役立ちました。

地震の後に流布した鯰絵はさまざまなモチーフで描かれましたが、これらは必ずしもオリジナルの画題・構図で描かれたわけではなく、地震以前に知られていた浮世絵や民画をパロディ化したもので、当時流行していた世俗の文化を取り入れたとみられるものが多数あります。

鯰絵の前身と言える絵画の一つに「大津絵」があり、これは琵琶湖のほとりの大津宿を中心に描かれた民俗絵画です。

大津絵の中でも最も有名なのは、室町時代の画僧如拙により描かれた国宝「瓢鮎図」(ひょうねんず・鮎は鯰の古字)があり、これはつるつるの瓢箪でぬめるナマズを押さえつけるにはどうするかという禅問答をモチーフとした絵です。大津絵ではこのほかにも猿が瓢箪で鯰を押さえようとする滑稽図などがあります。

鰻絵と合体したこうした古くからの描画手法は、その後さまざまな分野に影響を与え、地震の被害状況や復興の様子を各地に伝える瓦版の中でも描かれ、その後の日本文化に大きな影響を与えました。明治以後に流行した「錦絵」にも多大な影響を与えており、鰻絵をベースに幕末に創作された、「はしか絵」、「あわて絵」などがその原型といわれます。

「はしか絵」は疱瘡絵とも呼ばれるもので、幕末に江戸で麻疹が広まった際に描かれた一連のはしか絵では、ナマズを打ち据える民衆を描いた鯰絵における大鯰を麻疹の神に置き換えたものが基本です。

これをもとにさらに別のバリエーションも創られ、金太郎、桃太郎、鍾馗、源為朝などが、疫病神の嫌う色・赤色のみで描かれるものも刷られるようになり、また、1863年(文久3年)の生麦事件から薩英戦争に至るまでには、この当時の江戸における混乱を描いた「あわて絵」が流行しました。

この年、横浜ではイギリス軍による幕府への威嚇砲撃があり、本格攻撃を恐れた庶民が江戸から郊外へと一斉に避難する騒ぎがありました。この様子を滑稽に描いたのが「あわて絵」であり、はしか絵と同じく鯰絵の構図を多く用いています。

その後、こうした「はしか絵」「あわて絵」で培われた技法は、明治になって「開化絵」や「新聞錦絵」に引き継がれ、さらには日清戦争や日露戦争以後の「戦争絵」として受け継がれました。しかし、明治の終わりごろまでには、活版印刷などの新技術の導入などの時勢の流れに逆らえず、衰退していきました。

しかし、こうした浮世絵にルーツを発した鰻絵ほかの日本の伝統の版画による「風刺画」の描写手法は、欧米のいわゆるポップカルチャーにおける「風刺漫画」に比べてはるかに高いレベルにあり、現在でも美術品として高く評価されています。

さて、長くなってきたので、そろそろ終わりにしましょう。

地震とナマズの関係は、これまで書いてきたように俗信とされてきたわけですが、最近の研究では、一般に魚類は音や振動に敏感で、特にナマズは電気受容能力に長けており電場の変化にも敏感であることなどがわかってきているそうです。

なので、本当に地震予知能力があるのかもしれず、それが確認されれば、一家に一匹といった「愛玩ナマズ」なども流行るかもしれません。

ちなみにナマズは、飼いやすいそうで、直射日光を避け、静かで安定した場所に設置した水槽ではよく育つそうです。ただ、与える餌にもよりますが、肉食性で糞の量も多いため、性能の良い濾過装置を用意したほうがいいとのことで、このほか、塩素を含んだ通常の水道水では炎症が起こすことがあるといいます。

飼育水のカルキ抜きは必須だとのことで、やはりきれいな沢水などで育てるのがいいようです。また、夜行性であるということをお忘れなく。ストレスを与えないため、体の半分以上が隠れる管などを入れる必要があるそうです。

そうして大事に育てたナマズは、やはりきっと美味に違いありません。

秋の日にその蒲焼を食べることを夢見て、あなたも一匹とはいわず、飼ってみてはいかがでしょうか。

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運動会の季節です

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明日から3連休でOFFという人も多いでしょう。

10月10日は、従来体育の日でしたが、「ハッピーマンデー制度」の適用により、10月の第2月曜日となったためです。2000年(平成12年)から適用されています。

そもそもなぜ10月10日だったか、ですが、これはこの日に1964年(昭和39年)に行われた東京オリンピックの開会式が行われたことを記念して、国民の祝日としたものです。オリンピックの2年後の1966年(昭和41年)から実施されていました。

その昔、私が子供のころには、運動会といえば、この体育の日か、11月3日の文化の日などの秋の日に行われることが多かったのですが、最近は春に行う学校のほうが多いようです。

これはどうやら秋には修学旅行や文化祭等の行事が行われることも多く、できるだけこちらと重ならないよう、行事は年全体に振り分けたい、という意向からきているようです。

かくいうウチの息子君の小学校中学校の運動会も春さきに行われていました。こどものころに秋の運動会を経験してきた私にとっては、春に運動会というのもなんだかな~と思ったものです。が、春にやる運動会が普通になっている最近の子供たちも、大人になってから、秋の運動会?それもなんだかな~と逆に思うのかもしれません。

それにしても、この運動会、海外にもあるのかな、と調べてみたところ、そもそもスポーツというものは欧米が発祥の地なので、各国で特定種目の競技会が行なわれているほか、それらを複合させたスポーツ競技会のようなものはあるようです。

ただ、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技を行う形式の体育的行事はなく、また、ダンスや応援合戦といった「お遊戯ごと」まで含めた、お祭り的な雰囲気のものはないようです。

とはいえ、それぞれの国における伝承ごとに基づく伝統的なまつりのようなもの、たとえばハローウィンのようなものは当然ありますし、このほか運動会とはいえないかもしれませんが、日本の遠足に近い「ピクニック会」といったものはあるようです。ただし、もちろん運動会や競技会とは切り離されており、それだけが単独で行われます。

日本の運動会のように参加者全員がまとまって同一の競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育的行事」といわれ、始まったのは、明治時代です。ただし、当初は「競闘遊戯会」「体操会」「体育大会」などと呼ばれていました。その後1883年から東京大学で定期開催されるようになったものから「運動会」と呼ばれるようになりました。

こうした体操会、運動会は、日本画近代国家を形成する過程において、運動会は大きな役割を果たしたといわれます。明治期以降、地方自治制度の整備がすすむとともに、産業化も進展すると、そのなかでかつての伝統的な地域社会も再編成が必要となりました。

こうした村と村が合体する、といった統合が進む中で、運動会は人々を繋ぎ合わせる役割を担うようになり、学校に通う生徒だけでなく、その親や親せきなどの地域の大人たち、しかも子供を学校に通わせていない大人たちをも含めて運動会に積極的に参加するようになりました。

そうすることで学校を中心とする地域社会の連帯が再確認できたわけであり、これにより、地域のつながりはさらに強固となっていきました。そうした意味では運動会は地域社会の統合に不可欠なものでもあったわけです。

また、運動会は、従来村々で別々に行われていたお祭りを統合したような性格も持っています。従来のムラにおける「ハレ」の場に代わる役割を果たすようになり、それがまた地域社会の連帯感の強化に役立ったわけです。

日本で最初に行われた運動会は、定説によれば1874年3月21日、海軍兵学校で行われた競闘遊戯会であるとされます。イギリス人英語教師フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によって行われたとされ、ストレンジは後に異動先の東京大学予備門でも運動会を開催しています。

ただし、別の説もあり、1868年に幕府の横須賀製鉄所において技術者・職工らによって行われたものが最初だと主張する人もいるようです。

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いずれにせよ、明治初期のことであり、クラーク博士で有名な札幌農学校でも、1878年5月25日に「力芸会」と称する運動会が開催されました。ただし、クラーク博士は1876年に来日し、農学校での滞在はわずか8か月でしたから、この催しには参加していないと思われます。

その後、この力芸会は、わずか数年で北海道内の小中学校に広がったといわれます。そして、上述のとおり1883年からは東京大学で「運動会」が定期開催されるようになりました。その後、一橋大学を創設した初代文部大臣・森有礼も、こうした体育の集団訓練を大学で行うことを推奨しただけでなく、小中学校でも行うよう奨励しました。

この森有礼(ありのり)という人は、元薩摩藩士です。幕末には藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講するなどの英語通で、慶応元年(1865年)には、薩摩藩第一次英国留学生として、五代友厚らとともにイギリスに密航、留学しました。

維新後はその語学力を生かして外交官となり、明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京教育大学を経て現在の筑波大学となる、東京高等師範学校を創設しました。

この東京高師を「教育の総本山」と称して日本の教育改革を行うなど、現在にまで至る日本の教育政策の基礎を築いた人として知られています。とくに女性の教育に力を入れたことで知られ、現在の「指導要領」の元といわれる、「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配ったほか、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであるとの声明を出しています。

ただ、こうした森の急進的な考えは、この当時の大衆が受け入れるには少々早く、庶民の感覚とは乖離したものがありました。このため、森が設立した、日本最初の近代的啓蒙学術団体「明六社」にちなんで、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもしました。

しかし、近代国家としての教育制度の確立に尽力したその功績は大きいものがあります。

明治19年(1886年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、教育令に代わる一連の「学校令」の公布に関与し様々な学校制度の整備に奔走しました。しかし明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者・西野文太郎に切りつけられ、この傷が元で翌日死去。43歳の若さでした。

この森のおかげで日本の教育制度の改革は一気に進んだといえますが、その中で運動会についても奨励したため、全国の小中学校でもさかんに行われるようになりました。

大正以降、日本統治を経験した韓国、北朝鮮、台湾や中国東北部の学校でも、こうした運動会が開かれるようになり、現在においてもこの日本時代の名残で運動会が存在しているところが多いようです。

第二次世界大戦中は運動会の種目においても戦時色が強まり、騎馬戦・野試合・分列行進などが行われました。ただし、戦争末期には食糧難から運動場が農地化するなどして実施ができなくなったところが大半でした。

戦後も地域の人々を結びつける「祭り」としての機能は失わず、戦前にもまして盛んに開かれるようになりましたが、その中で、行われる競技の種目もかなり増えました。運動会と言えば、定番はかけっこ、といわれるくらい徒競走をやる学校が多いようですが、その派生競技として2000mもの距離を走る長距離走や、リレー走が生まれました。

リレーではまた、二人三脚、多人多脚リレーといったお遊戯的なものも生まれ、このほか障害走系競技としては、障害物競走、借り物競走、パン食い競走、ムカデ競争なども定番競技となりました。

このほかの定番競技としては、玉転がし、スプーンレース、棒倒し、玉入れ、騎馬戦、綱引き、バケツリレー、長縄跳び、などなどがありますが、フォークダンスなどの各種ダンスなどを演技目としてメニューに入れている学校も多いようです。地方によってはこれらに更にアレンジが加えられ、その地域独特の運動会になっているものもあります。

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ただ、これほど運動会が広まった現在でも、昔ながらに踏襲されているのが、「紅白」ということであり、これは、参加者は赤(紅)色と白色の「対抗する2組」に分かれて競技を行う、というルールです。

この「紅白戦」のルーツは源平合戦といわれており、源氏が白旗を、平氏が紅旗を掲げて戦った際に用いられた配色が起源といわれます。対照的な色合いでもあることから、日本において、伝統的に対抗する配色として用いられるようになりましたが、と同時に日本の国旗の色でもあります。

これすなわち、日本では紅白はハレを意味し、縁起がいいとされたためです。現在でも祝いの席の紅白幕や紅白餅、紅白饅頭などの縁起物に用いられています。運動会もまたハレの場であり、この色を使うということは、やはりこの日がめでたいお祭りの日とみなされているからです。

このほかにも紅白の組み合わせは日本では至るところで見られます。水引の結びは紅白であり、また、お祝い事には、紅白餅や紅白幕はつきものです。また、NHK紅白歌合戦などでも紅白が使われ、野球やサッカーなどの練習試合も紅白戦で行われます。

さらに、たいていの小学校では、運動会に紅白帽を生徒に着用させます。生地の表面と裏面が赤と白の2色で分けられており、リバーシブルで使用でき、なんといってもただの布であるため安価です。

実はこの紅白帽は、昭和の中期・後期に活躍した喜劇俳優にして落語家で発明家でもあった「柳家金語楼」が発案したものです。彼が実用新案として登録したのが始まりといわれ、金語楼人気もあって、当初から全国に広く普及しました。

今日の日本においてもほとんどすべての小学校で採用されており、多くの生徒がこの紅白帽子をかぶり、体操着を着て運動会に参加します。ところが、日本以外の国では、体操着を着用する、という概念はありません。むしろ欧米では、こうした「制服」は人権に抵触する行為であり、「強要」であるとして否定的です。

また、日本と同じく運動会が行われるところの多い韓国では、赤という色が共産主義を想起させるため、もっぱら青と白で区別されているそうです。また、リバーシブルのものはないようです。このような紅白帽というものは、世界的にもめずらしく、日本独自のものといえるようです。

もっとも最近は、この紅白帽を使わず、鉢巻で済ます学校も増えており、また帽子を着用するとしても、赤色に代えて黄色・オレンジ色・ピンク・紫・紺色・青・水色・緑・茶色などさまざまな別の色が使われることもあり、これらは総じてカラー帽子と呼ばれています。

小学校や中学校ではまだ一般的ではありませんが、幼稚園や保育園で採用されていることが多いようです。

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このほか、近年の運動会の特徴としては、応援合戦や、マスゲーム、組体操が行なわれることもあります。応援合戦は、学年単位やクラス単位、団単位で行う競技であり、BGMに併せて歌う、踊るなど、多様なパフォーマンスをし、チームやクラスを応援します。

紅白戦においては、こうしたパフォーマンスを得点に入れる場合と入れない場合があります。得点に入れる場合の採点基準は、声の大きさやその演目の難易度などを父兄や先生が評価することによりますが、応援合戦の場合、得点を争う、というよりも、チームの士気高揚を図る、団結力を生徒が自覚することが目的でもあります。

応援合戦のパフォーマンスの優劣を競う学校の中には、優秀なチームには賞が与えられる場合もあります。このため、生徒のなかにはこの賞を得たいがために、目指して放課後や休み時間まで練習して運動会に臨む子たちもいます。私も中学校のころに練習したような記憶がありますが、これはこれでなかなか楽しいものです。

こうしたパフォーマンスは、学校によっては、「マスゲーム」に代えるところも多いようです。これは、多人数が集まって体操やダンスなどを一斉に行う集団演技です。同調性の高い動作を行うことを特徴とし、集団における連帯性の高さを来場者に示す演目として実施する学校が増えています。

マスゲームは、ドイツ語のMassenturnen(マッセントゥルネン)が語源であり、これは「大規模な体操」を意味します。が、日本でいうところのマスゲームは、多人数を表す「マス(mass)」 と「ゲーム(game)」 を合わせた和製英語です。ところが、この和製英語は最近ではmass gameとして、国際的にも認知されるようになりました。

マスゲームというと、北朝鮮で何かのお祭りのときに行われるアレがすぐに思い浮かびます。10万人もの人を動員して1時間半にわたって行われるなど、特に大規模なことで有名ですが、こちらはもともと金日成の誕生や日本による植民地支配に対する抵抗を表すものとして創作されたという歴史を持ちます。

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しかし、上述のとおり、もともとは、19世紀のドイツにおいて、効率の良い体操指導法として、号令によって一斉に体操する合同体操が普及したのが始まりです。

体操の有意義さを訴え、体操を普及させるためのツールとして、見せ物としてのマスゲームが発展したものですが、これが旧チェコスロバキア、オーストリア、スイスなどの外国にも広がり、ひいては世界的に行われるようになっていきました。

演技は多岐にわたり、整列や円陣などの態勢で、器械体操、組体操、新体操、バトントワリングなどや様々なジャンルのダンス、民族舞踏、人文字を作る、といったものを包括してマスゲームと呼ぶようです。

欧米の農業祭などでの行事として、馬に乗って行われるものもあり、ルールに従って馬を操り、統制の取れた動きを演じるほか、スペインのセビリア祭で行われるものも有名です。オリンピックなどの大規模なマスゲームでは、巨大ディスプレイなどの大道具や様々な小道具を使い、ストーリーを持たせた大規模なものとなります。

その昔、ルーマニアのチャウシェスク政権やティトーのユーゴスラヴィアといった社会主義国でも共産党員に共通意識を持たせる、といった意味合いで奨励されるようになりました。そして、同じ共産国である北朝鮮にもこれが伝わって、現在のようなものになりました。

一方の日本では、学校の運動会で行われるマスゲームも、一般には北朝鮮のものとおなじような、組体操やダンスを組み合わせたものです。ただ、日本の場合は、統一性を高めるため、体操着を着用し、体操帽をかぶるのが特徴です。

もっとも体操帽は脱げやすいので、最初からかぶらない学校もあります。また、内容によっては裸足になったり男子が上半身裸になって行う場合もあります。裸になる、というマスゲームは他国にはなく、これもやはり日本的なものです。

ところで、このマスゲームと組体操は何が違うのでしょうか。どちらも同じような気がしますが、どこが違うのか調べてみたところ、体操を基礎にして、「道具を使用せず人間の体を用いて行う集団芸術」という定義ではどちらも同じもののようです。

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日本では組体操は、「マスゲームの一種」とみなされることが多いようで、その他のダンスなどと合わせて運動会でも「マスゲーム」として紹介されることが多いようです。

別名は「組み立て体操」または略して「組み立て」といい、体育の授業の一環として単独でも行われます。

ただ、歴史的な成立経緯をみると、ドイツが発祥のマスゲームよりも古いようです。初歩的な組体操は、紀元前2000年の古代エジプト文明の壁画に観察できるそうで、中国でも漢の時代の土偶にそれが見られるそうです。また、ヨーロッパでは中世以後のイタリアで祭日などに披露されたものが、組体操だといわれています。

19世紀にドイツで行われるようになったマスゲームはこれらを基にしているといわれており、日本でいわれているように、組体操はマスゲームの一種、という定義は少々違うようです。

ただ、日本でも元々は組体操という言葉が一般的だったわけではなく、明治期には、倒立や回転運動を含むものをタンブリングやピラミッドと呼んでいました。これが戦前までには「回転運動、組み立て運動」と呼ばれるようになり、床運動を基礎とした集団で行う近代リズム体操を加えて、「団体徒手体操」と呼ぶようになりました。

この床運動は、女子6人から30人位で行われていましたが、日本で生まれ世界に広がった男子新体操は、これを元にしたものです。男子6人程度で行われますが、これも組体操の一種といっていいでしょう。

この「組体操」に相当する統一された英語表現はまだないようですが、上述のマスゲームが、「mass game」とよばれるため、これと区別されるために、「mass gymnastic」という表現がアメリカの一部のマスコミで使用されることがあるようです。

ただ、これは集団で行われる体操であり立体的な組み立てを必ずしも含まないのでマスゲーム「mass game」に近い表現です。

だんだんと話がややこしくなるので、整理すると、マスゲームとは、ダンブリングやピラミッドといった立体的な組み合わせを含まないもの、また組体操とは、そうした立体的体操を含むもの、ということでいいのではないでしょうか。

ウィキペディアの記述にもそのあたりの混乱があるようなので、両者の違いについては、いまここで結論を出すのはやめましょう。一応ここでは、従来から日本でいわれているように、「マスゲームは組体操を包含する」ということにしておきましょう。

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ところで、この組体操は、演目上の性質として高所からの落下、及びその衝撃で上肢切断、歯牙障害、せき柱障害などの事故事例が多発していることがわかっています。1983~2013年度の31年間に、学校の組体操において障害の残った事故が88件発生し、そのうち2012年度までの10年間で後遺症が残る事故は20件発生しています。

2012年度に小学校で起きた組体操による事故は6533件だそうで、さらに2013年度での事故事例は8500件超となっています。

静岡のある中学校では、ピラミッドを組んだあとに崩れ、下敷きになった生徒が頚椎骨折したため、両親が学校を相手に訴訟を起こしたこともありました。同様に各地で同様な事故が起こった結果、裁判沙汰に発展し、裁判所が学校側に賠償金の支払いを命ずる、という事例も増えてきました。

日本では国家賠償法に基づき、教員が国又は地方公共団体の公務員で、その職務を行うにあたって、故意又は過失によって違法に児童や生徒に損害を加えたときは、損害賠償責任を負うことになっています。ただし、損害賠償金を払うのは学校ではなく、国又は地方公共団体ということになります。

日本スポーツ振興センターによると、2013年度に組体操中の事故で災害共済給付制度で医療費が支給された件数は、全国の小学校で6349件、中学校で1869件、高校で343件にものぼっています。

学校側の責任問題にも発展するため、組体操を中止した学校も多く、相次ぐ事故の報告を受け、今年6月に文部科学省は全国の教育委員会に事故防止の対応を求める通知を出したばかりでした。

ところが、その矢先の先日の9月27日、八尾市立大正中学校で行われた体育大会で、10段ピラミッドが崩れ、下から6段目の男子生徒が右腕を骨折する、という事故がおきました。これにより、組体操に対する安全性が最近になって急にクローズアップされてきた感があります。

国際的には、五段を含めそれ以上のピラミッドの一斉崩落は事故の危険を伴うので、肉体的技術的訓練が高度に進んだメンバーしか披露できないそうです。が、日本ではこれに近い段数を生徒に強要しているところもあるようです。

人間ピラミッドは運動会の華、と言った向きもあるのでしょうが、危険を伴う人間ピラミッドを幼い生徒に行なわせることについては、父兄などからの反対意見も多数出てきており、組体操そのものも否定する向きも増えてきているようです。

そもそもは、高度に統率、指導された集団教育の成果を発表する目的で行われるものであり、教育の一環として行われてきたものがなくなるのは惜しい気がします。が、最近の子供は、バランスや筋力・筋持久力が衰えているのではないか、という意見もあり、そう聞くとなるほど事故が多いのはそのためか、とも思ってしまいます。

ただ、組体操すべてを廃止してしまうのではなく、これを団体で行わせることの意義や効果についての意見交換を学校関係者のあいだでしっかりとしたうえで、本当に危険なものは排除し、有益と思われるものは残すといった取捨選択をすればいいのだとも思います。

人間ピラミッドは、マスゲームの花形として世界中で行われており、スペインやブラジルのように子供の育成のために有効なものとして推奨しているような国もあります。

日本のこどもは人間ピラミッドもできないほどひ弱になった、といわれることのないよう、新しくできたスポーツ庁などでも、その存続に関しての議論を尽してもらいたいと思うしだいです。

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