ノーベル賞と妾

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今日明日は、「寒露」と呼ばれる季節のようです。

「露が冷気によって凍りそうになるころ」ということで、雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、コオロギなどが鳴き始めるころだとされます。

このあと、さらに月末ころには「霜降」となり、紅葉が始まるとともに木枯らしが吹きはじめます。

毎年、この時期になるとノーベル賞の各賞が発表になります。そして今年は、昨日、一昨日と二人の日本人が受賞し、歓喜の声で列島が揺れています。

このあと、今日にはノーベル化学賞の発表があり、何人かの日本人候補の受賞が取沙汰されているようです。さらにはノーベル文学賞の候補、村上春樹さんの受賞もあるのではないかと噂されており、そのいずれかでまた受賞が実現すれば、トリプルでの受賞となり、本邦初となります。あるいは、4人とも同年受賞という快挙もありうるかも。

それにしてもこれまでいったい何人の日本人が受賞しているのかな、と改めて調べてみると、今回の受賞を含めて過去に25人もの受賞者がおり、この数は非欧米諸国の中で最も多いそうです。

自然科学系に限れば22人となり、この数は、欧米もすべて含めたすべての順位では、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに次いで5位であり(2014年まで)、アメリカの250人、イギリスの78人は別格としても、フランスの31人に迫る勢いです。

ちなみに、人文文化系の3人は、文学賞の川端康内と大江健三郎、平和賞の佐藤栄作になります。日本がこれまで受賞したことのないのは、ノーベル経済学賞だけです。

なぜ、日本人はいつも経済学賞を受賞できないかについて調べてみたところ、賞に値する人は日本にも何人もいるものの、たまたま受賞のタイミングがこれまでなかっただけで、いつ日本に来ても不思議ではないという見方があるようです。その一方で、日本のこれまでの経済学者は、欧米の学者の追随者や解説者が多いからだという意見もあります。

今日の世界が直面している根源的な経済現象に対し、独創的な分析や解決法を理論的に提示し得ていないからではないか、ということがいわれているようですが、なるほど借金の額は世界一だし、長びいている不況から抜け出せないのも、アイデアに優れた経済学者がいないからなのかもしれません。

一方の、科学部門で日本人が実際に受賞したのは、第二次世界大戦終結後の湯川秀樹が初めてであり、敗戦直後の日本国民に大いに自信を与えました。以後、毎年とはいいませんが、自然科学部門では数年に一回の受賞を繰り返すようになり、21世紀に入ってからはほとんど毎年のように誰かが受賞するといったペースとなり、現在に至っています。

これほどまでに受賞のラッシュが起こっている理由としては、それはやはり科学技術に対する長年の投資効果が最近になってようやく出てきたからだろう、というのがもっぱらの見方のようです。

また、ノーベル賞受賞の基準としては、ノーベル委員会は、最低20~30年以上の累積的な業績を見るそうで、日本の場合、ようやくその基準に合致してきたということがあるようです。お隣の韓国では金大中氏が2000年に平和賞を受賞した以外、科学部門では受賞がありません。

これは、科学技術開発の歴史はあまりにも短い、ということがいわれているようです。韓国の場合、1966年の韓国科学技術研究所(KIST)の設立からわずか50年足らずということもあり、国の研究開発事業費規模の面でも80年代初頭まで100億ウォン(約10億円)水準にとどまっていたそうです。

基礎研究ではなく、産業化のために取り急ぎ目先の技術に関する開発研究だけが急がれていたことなども、ノーベル賞受賞者を輩出できていない理由のようです。

これは中国や台湾も同じであり、台湾は3人の科学部門の受賞者、中国は一人だけです。中国は他に2人の受賞者がいますが、このうち一人は、体制側の文学者、莫言(モー・イエン・文学賞受賞)であり、もう一人は、反体制派の活動家、劉暁波(リュウ・シャオボー・平和賞)氏です。

劉氏に至っては、2010年に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり、現在も遼寧省錦州市の錦州監獄で服役中です。

ノーベル平和賞の選考で劉が候補となった時点で、中国政府はノルウェーのノーベル賞委員会に対して「劉暁波に(ノーベル平和賞を)授与すれば中国とノルウェーの関係は悪化するだろう」と述べ、選考への圧力と報道されていました。

このように、平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがわりと多く、このため、その度に受賞者の国の政府から反発を受けています。ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキーもしかり、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフもしかりです。

かつて中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世の受賞に、中国が反発したということもありました。また、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチーも政府によって弾劾されています。

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ま、それはともかく、こうした文系部門を除いた自然科学分野においては、日本は既にノーベル賞自体の提唱国、スウェーデンの受賞者数を抜き去っており(2014年時点、スウェーデンは自然科学部門で16人)、ほかにスイスやオランダ、イタリアやオーストリアといった先進国よりも多くの受賞者を出しています。

これからも科学技術の国、として胸を張って世界に名乗っていけるでしょうし、他国もそうした優れた人材を多数輩出している我が国の技術力を認め、尊重してくれるに違いありません。私もかつては技術者の端くれでしたから、大変名誉なことに思います。

ところで、昨日、ニュートリノに質量があることを突き止めたことでノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章さんは、東大大学院時代、2002年に同じく物理学賞を受賞した小柴昌俊さんの研究室の一員でした。

その後、加速器実験に興味を持ち、卒研にいそしみながら、ニュートリノ施設「カミオカンデ」の開発に携わり、カミオカンデでは建設作業に汗を流し、現場でケーブルの敷設などを行っていたそうです。

修士論文もカミオカンデの装置がテーマだったそうで、1998年、スーパーカミオカンデでニュートリノ振動を確認し、ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて示した戸塚洋二さんは、ともに小柴博士の弟子でした。梶田さんの兄弟子ともいえる存在で、同じくスーパーカミオカンデの完成に尽力した人です。

梶田さんとともに、有力なノーベル賞候補と目されていましたが、2008年に直腸ガンのため亡くなりました(66歳没)。師匠の小柴さんは、その戸塚さんの告別式での弔辞で「あと十八ヶ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と発言しており、ノーベル賞受賞のノミネートを期待されながら亡くなったその早い死去を惜しみました。

しかし、今回、もう一人の愛弟子、梶田さんがノーベル物理学賞を受賞したことで、戸塚の果たせなかった夢を実現させる形となりました。生前受賞できなかったことは、ご本人もさぞかし残念だったことでしょうが、あちらの世界でさぞかし喜んでおられることでしょう。

それにしても、このように亡くなった人にはノーベル賞は与えられないのかな、と調べてみました。

そうしたところ、やはりノーベル賞は「本人が生存中」が受賞条件なのだそうです。かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、実際、そうしたケースもあったようです。1931年の文学賞、1961年平和賞の2例があります。

しかし1973年からは、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要がある、とされました。が、さらにその後、ノミネートされていれば、発表があった時点で死亡していても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されませんでした。

また、2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人がほんの3日前に死亡していたことが判明しました。しかし、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになりました。

とはいえ、今回の受賞に先立ち、7年も前に亡くなっている戸塚さんの場合では、亡くなった当時にはノミネートもなく、残念ながらこの規定により、受賞は認められません。

各国の軍隊などでは死後にその階級が特進する、といったことがあり、また、日本の勲章も死後に授与されることもあるようですから、このように長年の研究に身を捧げて亡くなった研究者に対して何等かの救済措置はないのかな、と思ったりもします。

ノーベル賞では、現段階ではそうした仕組みはないようですが、賞を与える理由についても長年の間に少しずつ変わってきているようなので、将来的にはそうしたことも考慮に入れられるようになるのかもしれません。

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しかし一方では、このように日本人が受賞を逃す要因として、研究者側にも問題がないとはいえないようです。

ノーベル委員会が一次選考で受賞候補者を探す際、その候補者がいる国の研究者や過去の受賞者に、推薦状を出してくれるように依頼をするのだそうですが、それに対する返信率が、日本の場合は他国と比べて非常に低いのだといいます。それだけ、日本人の場合はノミネートに対して無頓着だ、という現実があるということのようです。

こうしたことがあまりにも多いので、いつだかノーベル委員会委員が来日した際、日本の科学技術審議会にこの点について苦言を呈したそうです。日本の研究者は、せっかく世界最先端の研究をやっているのだから、もう少しその研究内容をアピールする、ということを覚える必要があるのかもしれません。

が、これについては、かつての日本人研究者は英語などの外国語が苦手であった、ということなども関係しているのかもしれません。日本も一応、英語は義務教育で教えられてはいますが、外国のように日常的にこれを使って生活する、というレベルにはまだありません。

ところが、最近の日本人の受賞者の中には自分の専門を深めるために諸外国へ出かけて行って研鑽する人が多く、このため英語を初めとする外国語に堪能な方も多いようです。最近、急に受賞率が高くなってきている理由のひとつには、このように日本人研究者の国際化がより進んでいる、ということも関係しているのかもしれません。

これに対して、昔の研究者はいかにも外国語が苦手、という人が多くいました。かつて、1970年に北海道大学理学部の化学第二学科助教授だった、大澤映二さんという人がいました。

彼は、それまで存在が確認されていなかった、フラーレン (fullerene C60) という、数十個の原子からなる構造を単位とする炭素の同素体の存在を理論的に予言したものの、英語論文にせず邦文でのみ発表しました。そのため、1996年のノーベル賞を逃したといわれています。

この顛末は、この当時のイギリスの科学雑誌「ネイチャー」にも掲載されたといい、こうした日本人の英語下手は、かなり有名な話のようです。また、世界初のビタミンB1単離に成功した鈴木梅太郎も、ドイツ語への翻訳で「世界初」が誤って記されなかったため注目されず、1929年のノーベル賞を逃したといわれています。

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ただ、これよりさらに以前のノーベル賞候補者と言われるような優秀な日本人の多くは、語学にも堪能な人が数多くいました。

たとえば、1915年に世界初の人工癌発生に成功した、日本の病理学者、山極勝三郎は、28才でドイツに留学しており、このため非常にドイツ語に堪能でした。

帰国後に東京帝大医学部教授に就任。病理解剖学を専攻し、特に癌研究では日本の第一人者でした。ウサギの耳にコールタールを塗布し続け、人工癌の発生に成功し、ノーベル賞候補といわれました。が、1926年のノーベル賞は癌・寄生虫起源説のヨハネス・フィビゲルに授与されました。

ノーベル賞委員会では、当初、共同受賞、という意見もあったようですが、フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、「発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、当初の意見を変更し、フィビゲルの単独受賞を決めました。

選考委員の一人、フォルケ・ヘンシェンは、その後1966年に来日し、東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱した者です。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」と述べたそうです。

このときの会見でヘンシェンはまた、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々となされていたことも明かしたといいます。

すなわち、この当時には、語学力云々よりも、日本人に対する偏見のようなものが多少なりともあったことがノーベル賞の受賞を阻む原因であった、ということなどが推察されます。

日本人としての初受賞は、1949年(昭和24年)の湯川秀樹博士ですが、その後23年もの間受賞がもたらされなかったのも、かつてはこうした偏見があり、それがぬぐえなかった、ということが実際にあったことなのかもしれません。

湯川博士は、戦前から既にその受賞理由である、中間子の存在の予言をしていましたが、そんな中の1935年(昭和10年)、すでに日中戦争中であった当時に、物理学の国際会議の最高峰、ソルベー会議に招かれ、このときにアインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つに至り、国際的に評価されたことが受賞原因になったともいわれています。

湯川博士の次にノーベル賞を受賞したのは、1965年の朝永振一郎博士(量子電気力学分野での基礎的研究で受賞)ですが、朝永博士もまた、ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学ぶなどの国際派でした。

湯川博士や朝永博士以降もぽつぽつと受賞者は出ていますが、あいかわらず日本人の国際化は進んでいなかったとも思われ、かつそうした内気な性格が国際的な偏見を解消するために支障となっていた、ということは確かにあるかもしれません。

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しかし、実は日本人としては、湯川博士以前にもノーベル賞の候補者が出たことがあります。

第1回のノーベル賞がそれで、既に北里柴三郎や野口英世などが候補としてエントリーされていました。しかし、受賞には至らず、野口に至っては、3度もノミネートされたのに、結局受賞を逃しました。

最初と2二度目に候補とされた時は、当時最大の成果とされた梅毒スピロヘータの純粋培養の追試に誰も成功せず、業績に疑問が持たれた事が影響したようです。また、エクアドルでの黄熱病研究が認められたのは3度目に候補とされた時ですが、この時も過去の研究との不一致から疑問が持たれた、とされています。

そして、同じくノーベル賞候補といわれた北里もまた、共同研究者であったベーリングが受賞し他のにもかかわらず、受賞を逸しました。

北里は、1890年(明治23年)に血清療法をジフテリア(ジフテリア菌によって起こる上気道の粘膜感染症)に応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。

これにより、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里の名前が挙がりましたが(15名の内の1人)、結果は抗毒素という研究内容を主導していた彼ではなく、共同研究者のベーリングのみが受賞しました。

北里が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や、選考に当たったカロリンスカ研究所が、北里は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイデアはベーリング単独で創出したと見なしたためでした。

賞創設直後の選考であり、のちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなども要因としてあげられています。が、このほかにも、北里に対する人種差別があったのではないかといわれており、野口英世が同じく受賞を逸した最大の理由は東洋人への差別意識であったのではないか、と取沙汰されています。

この北里柴三郎も野口英世も、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物です。野口英世に至っては、2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっているほどです。

実は二人は懇意の間柄であり、野口は北里研究所に研究員として勤務したことがあり、柴三郎とは形式上師弟関係です。

ともに幕末から明治初めの激動の時期に生まれており(北里は1853年(嘉永5年)、野口は1876年(明治9年))、明治人の気質を多分に持った人です。医学界の巨匠とも言える2人ですが、共通点があり、意外なことにそれは「女好き」という点です。

野口は、会津若松で書生をやっていた若いころ、洗礼を受けたキリスト教会で出会った6歳年下の女学生、山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送っていますが、女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受けています。

また、渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となりました。さすがにアメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚したあとはその素行は直ったようですが、若いころは女遊びが大好きでした。

清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった際、国際防疫班に選ばれましたが、このとき用意された支度金96円(現在価値で40万円ほど)はすべて放蕩、すなわち花街での女遊びで使い果たしてしまっています。

一方、「日本の細菌学の父」として知られ、現在の東京大学医科学研究所や、北里大学北里研究所病院の創立者でもある北里も、実は大の女好きだったといわれています。新橋の近江屋とん子こと小川かつという、22歳の芸者を大金で身請けしており、当時は飯倉四ツ辻といわれていた、現在の港区飯倉に家を借りて住まわせ、ここに足しげく通っていました。

その後麻布町二番地丹羽五郎の旧宅を3千円(現・約1200万円)も払って購入して妾宅としており、下女まで雇って養っていたそうです。

もっとも、明治の初めのころまでは妾は法的にも認められていました。1870年(明治3年)に制定された法律では、妻と妾は同等の二等親と定められており、妻と妾が同等の権利をもった、ということではありませんが、「妾」の存在が公認されていました。

当時は、貧しい親が借金と引き換えに、娘を「芸妓・酌婦・娼妓」として「売る」という行為は合法でした。売られた彼女たちは、借金を返すためには売春をしなければならず、契約書には「借金返済のため、雇い主からの指示があれば、醜業を嫌がらずにします」という条項がありました。

こうした契約が法的にも認められていたわけですが、この法律はその後、1880年(明治13年)の改正でこの「妾」に関する条項が消えたため、その後認められなくなりました。

が、それ以前に入籍した妾は「すべて以前の通り取り扱う」とされて認められており、妾が全廃されるのは、1898年(明治31年)に戸籍法によって戸籍面からも完全に妾の字が消えてからです 。

しかし、法律が全廃されてからも明治から大正ころまでには、まだ妾を持っていてもまぁいいじゃないか、という雰囲気がありました。

妾を持つというのは、政治家や高級官僚のほか、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主などでしたが、庶民からはかけ離れた所得や資産を持つ人でもあり、お殿様のような存在でもあったので、「まあまぁ、許される行為」とみなされていたようです。

高い地位にあるとされるような人は、むしろ堂々と妾を持つ、という雰囲気すらあったようであり、妾を持つことが成功のステータスというところもあったでしょう。研究者として成功し、かなりの財をなしていた北里もそうした一人でした。

しかし、その一方で日清戦争や日露戦争後の不況で苦しむ人々にとっては、女遊びや妾といった行為を好意的に見ようはずもなく、陰では彼等を成り上がり者として嫌い、蔑んだ目で見ていました。

上述の北里の妾に関する情報も、ジャーナリストの先駆けといわれる、黒岩涙香による「万朝報(よろずちょうほう)」という新聞におけるゴシップ記事によって庶民にもたらされたものです。毎号、こうした上流階級のスキャンダルが報じられるたびに同誌はバカ売れしたといいます。

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北里がその後この妾をどうしたのか、二人の間に子を設けたかどうか、といった情報をネットで探してみましたが、出てきませんでした。

北里と野口という医学界の巨匠がこうしたスキャンダルによってノーベル賞を逸したか、といったことも調べてみましたが、そんな話もないようです。

が、2015年の現在においては、賞を与えるにあたっての素行調査もあるでしょうし、過去において女性スキャンダルあるような人達をノーベル賞候補にあげる、といったことはとんでもないことなのかもしれません。

しかし、だからといって彼等の業績が揺るぐものではありません。

北里は、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)の創立者であり、また初代所長並びに北里大学の学祖でもあります。先日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した、大村智さんは、北里の創立した北里大学の教授を長く勤め、ここでその受賞の要因となる研究の基礎を仕上げました。創設者の北里柴三郎の恩恵を受けた一人といえるでしょう。

また、福沢諭吉とも親交の深かった北里は、その晩年には、福沢との長年の恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となっています。

さらに明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらでしたが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会を誕生させました。

しかし、1931年満78歳で脳溢血により没。1931年には、勲一等旭日大綬章を受けています。しかし、その功績の割には、野口ほど人気がないのはなぜでしょうか。あるいは、比較的裕福な家に生まれ育った上、厳格な人だったようなので、野口英世ほどの人間味が感じられないからかもしれません。

一方の野口英世はわずか51歳の若さで亡くなっていますが、その若いころの奔放なエピソードなども語り継がれ、貧しかった家庭から努力して偉人になった人、として敬われています。渡米して、海外で実績を上げた、という点では、最近のノーベル賞受賞者のような国際派の先駆けともいえます。

北里柴三郎もまた、ドイツベルリン大学へ留学してコッホに師事し業績をあげており、国際的にも認知度の高い人でした。現在のように日本人が海外へ積極的に出かけて行って実績を作る、という雰囲気を作ったのは、もしかしたらこの二人の功績なのかもしれません。

なので、今後もし、日本版のノーベル賞ができたとしたら、この二人はぜひともその受賞者に推薦したいところです。

女好き、という欠点があったとしても……ですが、その点、日本人が世界にも認めてもらえるようになったこの時代には、日本ルールとして認めてもらってもいいのかもしれません。日本ノーベル賞候補者は、二人まで妾を持つことが許される、あるいは持つことを受賞条件とする……とか。

……さて。

このあとさらなるノーベル賞の発表も控えているようですが、日本人の受賞はあるでしょうか。期待したいところです。

が、私としてはもっと気になるのは、今晩の広島×中日のセリーグ最終戦。広島は果たしてクライマックスシリーズに進出できるでしょうか?

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レモンよりウメ?

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今日は、「レモン記念日」だそうです。

1938年のこの日に、彫刻家で詩人の高村光太郎の妻・智恵子が亡くなり、亡くなる数時間前に彼女がレモンをかじる姿を光太郎がうたった、「レモン哀歌」にちなんでいます。

「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた・・・私の手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと噛んだ 」という有名な詩で、その後出版された光太郎の詩集、「智恵子抄」の中に収められています。

これに続いて、「トパアズいろの香気が立つ その数滴の天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にした あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ」と続きます。

統合失調症、つまり昔よく言われていた精神病に罹っていた彼女は、最後にこうして正気に返り、その直後に51歳という若さで亡くなりました。

光太郎と同じく芸術家だった彼女は、夫の彫刻家としての仕事を優先し、画家になるという自分の夢をあきらめた、というのは有名な話です。

しかし、夫の彫刻もまるで売れず、結婚後は、金銭的に苦しい窮乏生活を送っていましたが、32のとき、実家の酒屋、長沼家が破産したあと、一家離散するなどしたために心を痛めました。また、結婚以前から病弱(湿性肋膜炎)であったこともあり、このころから統合失調症の兆候が現れるようになりました。

その後長らく療養生活を送っていましたが、46歳のとき、大量の睡眠薬を飲み自殺を図ります。しかし、これは未遂に終わり、3年後にその一生の最後の地となる東京・品川にあった、ゼームス坂病院に入院しました。

この病院では、その病状は多少の改善を見せ、彼女はかつての絵画に代えて、多数の切り絵(紙絵)を創作するようになりました。これは、時折見舞いに訪れる光太郎を驚かすとともに、喜ばせたといいます。しかし、1938年10月5日、ついに粟粒性肺結核のため亡くなりました。

その最後のときを、光太郎は、上述のレモン哀歌でこう書いています。

「それからひと時 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関ははそれなり止まつた」

また、その後しばらく時を経た心情をも綴っており、「写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光つレモンを今日も置かう」とも書いています。

たしかに、レモンの酸味や香りは非常に印象的であり、最後に智恵子ががりりと噛んだその端からレモン汁が飛び散った様子などを光太郎は鮮やかに記憶していたのでしょう。この詩を創るにあたっても、最愛の亡き妻を表すシンボルとしてぴったりだと思ったにちがいありません。

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このレモンという果実ですが、この実がなる木の原産地はインド北部のヒマラヤで、樹高は3mほどにもなります。ミカン科ミカン属の常緑低木で、この手の柑橘系の木によく見られるように、枝には棘があります。紫色の蕾を付けますが、咲いた花は白が多いものの、ピンクのものもあります。

果実はご存知のとおり、ラグビーボール形で、先端に乳頭と呼ばれる突起があるのが特徴です。レモンは柑橘類の中では四季咲き性の強い品種であり、鉢植え・露地植えのいずれでも栽培が可能ですが、早期の収穫を目指す場合は鉢植えの方が早く開花結実するそうです。

棘のない種類もあるようですが、日本では棘有りのリスボン種とユーレカ種と呼ばれる種類を栽培する農家が多いようです。国内での生産量1位は、広島県であり、尾道市の瀬戸田町など島嶼部での栽培が多く、「瀬戸内・広島レモン」として、全国に出荷されています。

広島県だけで国内生産シェアの51%を有しますが、ついで生産量が多いのは愛媛県であり、両県だけで日本国内におけるレモン生産量の74%を占めています。

しかし、輸入ものも多く流通しており、主な輸入国はアメリカ合衆国です。このほかチリからも輸入しており、この2国からの輸入が97%を占めます。チリは南半球にあるため、日本の農家が栽培できない冬場にチリ産のレモンの輸入量が増えるようです。

その果汁は独特で、砂糖と合わせるとさわやかで甘酸っぱい味となり、製菓材料としても好まれます。ジュースやレモネード、レモンスカッシュなどの清涼飲料水に加工したり、レモンゼリーやレモンタルト、レモンメレンゲ・パイなど、レモンを使用した菓子は数多く存在します。

また、レモンに含まれるビタミンCは、人間の体にとっては必要不可欠なものです。ビタミンCを含まない食事を約60 ~90日間続けた場合、体内のビタミンCの蓄積総量が300 mg以下になり、出血性の障害をもたらす「壊血病」を発症すると言われています。

出血性の障害が体内の各器官で生じる病気で、脱力感を感じたり、体重減少、鈍痛に加え、皮膚や粘膜、歯肉の出血およびそれに伴う歯の脱落、変化があります。また、感染への抵抗力が減少し、古傷が開くキズが治りにくくなるほか、貧血になる、といった症状にも見舞われます。

1日に2.5mgのビタミンCしか摂取しない期間が約3年間続くと老化が速く進行し、死亡する人が出てくる可能性もあるそうです。同じビタミンでも、ビタミンB1が欠乏すると、いわゆる脚気(かっけ)になることも知られており、これもビタミン欠乏症の一つです。こちらも心不全と末梢神経障害をきたして死に至る場合もあります。

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このビタミンCを人間は自分の体の中では生成できません。ヒトを含むサル目の一部やモルモットなどだけであり、その必要量をすべて食事などによって外部から摂取する必要があります。かつては人類も体内でビタミンCを生成できたそうですが、進化の過程でその機能を失いました。

ビタミンC合成能力を失ったにもかかわらず継続的に生存し得た最大の理由は、果物、野菜等のビタミンCを豊富に含む食餌を日常的に得られる環境にあったためです。なお、鳥類は現在でもビタミンCの合成能力があるそうで、キツネザルなどの一部の哺乳類でもビタミンC合成能力があるそうです。

レモンはこのビタミンCを大量に含んでいることはよく知られており、農林水産省はかつて「ビタミンC含有菓子の品質表示ガイドライン」によって定めていました。しかし、このガイドラインはなぜか2008年に廃止されており、このため各メーカーとも、「レモン何個分のビタミンC含有」などと、結構いいかげんな表示をしているようです。

が、過剰摂取したからといって体に悪いわけではなく、体内で吸収されなかった余剰のビタミンCは尿中に排出されます。しかし、数グラムレベルで一度に大量摂取すると、下痢を起こす可能性があるそうなので、注意が必要です。

逆に、ビタミンCが足りないほうが大きな問題であり、このため、その昔は壊血病対策として船にレモンを積み込むことが盛んに行われていました。

16世紀から18世紀の大航海時代には、壊血病の原因が分からなかったため、海賊以上に恐れられていました。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の航海においては、180人の船員のうち100人がこの病気にかかって死亡しています。

1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドは、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特にミカンやレモンを摂ることによってこの病気の予防が出来ることを見出しました。

その成果を受けて、1768~ 1771年のキャプテン・クックの南太平洋探検の第一回航海では、ザワークラウトや果物の摂取に努めたことにより、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられました。

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ザワークラウト(Sauerkraut)は、ご存知の方も多いでしょうが、ドイツ発祥のキャベツの漬物で、いわゆる「すっぱいキャベツ」です。この酸味は乳酸発酵によるものであり、しんなりとしたキャベツの食感も熱を加えたものではありません。このため、大量のビタミンCが残ります。

当時の航海では新鮮な柑橘類を常に入手することが困難だったことから、ザワークラウトに目が付けられたわけですが、このほかにもイギリス海軍省の傷病委員会は、抗壊血病薬として麦汁、ポータブルスープ、濃縮オレンジジュースなどをクックに支給していました。

ところが、これらのほとんどは、今日ではまったく効果がないことが明らかになっています。

たとえば、濃縮オレンジジュースは加熱されることによって、ビタミンCの多くを失います。レモンも同様であり、加熱すると空気中の酸素や水分との反応が促進されて分解しやすくなります。このため、近年では、レモン果汁100%の加熱型濃縮還元ジュースでは、超音波による果汁濃縮が主流となっています。

超音波加湿器と同じ原理であり、果汁液の水分のみを飛ばすことによって果汁を濃縮するシステムです。加熱式にくらべ、エネルギー効率が良く、工場の冷房費用もかからないため主流となったようです。しかし、この方式でも加熱殺菌は行われるため、やはりビタミンCは壊れてしまいます。

そのため高栄養価を謳う野菜ジュースは別途、合成抽出したビタミン類などが添加されている場合も多いようです。

このように、クックが持って行った多くの食材に含まれるビタミンCも、熱を加えることによってほとんど壊れており、結局、おもにザワークラウト以外のものはほとんど役に立ちませんでした。

にもかかわらず、クックはこの航海からの帰還後に、麦汁なども壊血病に効くとして推薦したりしたものですから、その後も長期航海における壊血病の根絶はなかなか進みませんでした。

1920年になってようやく、イギリスの生化学者、ジャック・ドラモンドがオレンジ果汁から抗壊血病の予防となる因子を抽出に成功し、これをビタミンCと呼ぶことを提案しました。 また、1933年には、ポーランドの化学者、タデウシュ・ライヒスタインが、世界で初めて、有機合成によるビタミンCの合成に成功しました。

この功績だけではなく、その後ライヒスタインは、副腎皮質ホルモンに関する研究などにより、ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

レモンのその他の利用方法としては、レモンの葉っぱは調味料として用いられることがあり、中国の広東料理の蛇スープでは定番の薬味となっています。また、レモンには大量のクエン酸(4%から8%)が含まれており、これを利用して水垢や汚れを落とすことができます。このため、家庭内で掃除に用いられることがあるようです。

さらに、このクエン酸の効果により、リンゴなどの切り口が褐色に変色しやすいものにレモン汁をかければ、変色を抑えることができます。酸性が強く、またビタミンCを多く含むことから美白、美顔用の材料にも用いられることがあります。

が、実はその効果は科学的には証明されていないそうで、むしろ、皮膚炎を起こすリスクもあるといいますからこちらも注意が必要です。

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そのほか、レモンの皮にはリモネンという成分が含まれており、天然物由来の溶剤としてよく利用されています。具体的には、油汚れを落とすための洗浄剤や、ガム剥がし用の溶剤の成分として使用されるほか、発泡スチロールをよく溶かすため、発泡スチロールのリサイクルに利用されています。

意外なことに、レモンからは油もとれます。果皮を低温圧搾、または水蒸気蒸留することで精油を抽出することができ、これを湿布薬や、咳止め薬の成分として利用します。また、この精油は、ほかに香料として使える可能性があります。

しかし、抽出法によって成分組成は異なるそうで、低温圧搾法で得られる精油の香りは、非常に短時間しか持続しないという欠点があるようです。このため、この精油から「テルピン油」の素材となる「テルペン」という物質を取り除く、という二重の操作を加えたものはある程度長持ちすることがわかっています。

これは「レモン油」として販売もされており、食品、飲料に香料として添加されています。しかし、毒素が含まれている場合があるので、皮膚への使用は推奨されません。ただ、香りだけ楽しむのなら有害作用はなく、リラックス作用があることが脳波の計測などによって示されています。

その芳香は目を覚ますほどのきついものですが、慣れると虜になってしまうような魅力があります。またその味わいも、酸味の中のほのかな甘みがあり、こちらのほうでもとりこになってしまう人も多いようです。

このため、レモンといえば、恋愛、とくに初恋と関連づけられることが多いものです。「ファーストキスはレモンの味」という表現は現在では古臭いといわれてしまいそうですが、実際、そうしたレモンの味に淡い初恋感を感じてしまう人は多いでしょう。

フレッシュなイメージがあるため、「ザ・テレビジョン」という雑誌では、その表紙に登場する人物が必ずレモンを持たせているそうです。レモンの花言葉は、花言葉は、「心からの思慕」「香気」「誠実な愛」「熱意」などだそうで、まさに若さや幼い恋の象徴です。

ところが、レモンにこうしたいい印象を持っているのは、日本だけのようで、英語圏ではむしろイメージは悪く、一般には、「無価値」、「不完全」を示す言葉になっています。

アメリカでは、レモンといえば、中古車、というイメージを持つ人が多く、「レモンカー」といえば中古車を示すスラングです。

こうした中古車の市場においてはよく、「情報の非対称性」ということがいわれます。これは、例えば、「売り手」と「買い手」の間において、「売り手」のみが専門知識と情報を有し、「買い手」はそれを知らないというように、双方で情報と知識の共有ができていない状態のことを指す経済用語です。

ある市場において、それを売ったり買ったりする各取引団体が持っている情報に差がある場合、いわゆる、売り手市場や、書い手市場といった不均衡が生まれます。つまり、情報の非対称性があるときには、一方に不利益がもたらされることもあり、中古車市場では、一般にクルマの知識に乏しい買い手が不利、とはよく言われることです。

アメリカでは、中古車市場のことを、「レモン市場」ともいうそうで、これはつまり、売られている中古車は玉石混淆だ、ということです。よく知らないままに、セールスマンに騙されて買ったレモンは、実は腐っていた、ということもあるわけです。

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調べてみると、この「レモン市場」という言葉は、その昔、フォルクスワーゲンのビートルがアメリカで販売されたときの、意見広告から派生した言葉のようです。このときの、広告写真には、大きなVWビートルの写真が掲げられ、その下にはこうした意味のことが書かれていました。

「我々は粗悪なレモン(低品質な車のこと)を摘む。そしてあなた方消費者は、プラム(梅)を得るだろう。」

レモンというのは、収穫したときには大きさも不揃いなものが多く、また痛んでしまうことも多いため、出荷のためには品質の良いものの選別作業が欠かせません。これに対してプラムは小粒ながらも大きさのそろっているものが多く、一般に痛みもそう多くありません。

つまり、この当時の粗悪な品質のアメリカ車を揶揄し、これをつまんで捨てる代わりにより小粒で品質の整った梅を選ぶ、すなわちアメ車よりも性能の良いドイツ車を買うことを勧めた広告であったわけです。

この広告は評判を呼び、その後アメリカでのVWビートルの売り上げは爆発的に増えたそうです。アメリカだけでなく、その他の国へもこのビートルは多数輸出され、1950年代から1970年代にかけて大きな成功を収め、おびただしい外貨獲得によって、戦後の西ドイツ経済の復興に大きく貢献しました。

そして、その後世界に冠たる自動車メーカーにのしあがりましたが、そこへ今回の不正問題です。

米環境保護局(EPA)はフォルクスワーゲンが排ガス規制逃れのために一部ディーゼルエンジン車に違法ソフトウエアを搭載していたと告発し、意図的に規制当局を欺こうとしていたとみており、2兆円以上の罰金を科される可能性もあるといいます。

売り物にしてきた「クリーン」なブランドイメージを裏切ったVWは高い代償を支払う形になったわけであり、自らがかつて意見広告したように、自社製品もまた「レモンカー」であることがバレてしまったわけです。

かつて、このVWと提携を目指していて、この事件発覚直前に提携を解消していた、日本の自動車メーカー、スズキは、これを「神回避」した、とネット上で大きな話題となっているそうです。

もともとスズキの軽自動車のノウハウと、VWのディーゼルエンジン技術の技術交換による提携とも言われていたそうです。結局のところVWから技術の提供が行われなかったことが提携解消の裏側にあったと言われているようですが、実はクリーンディーゼル技術が嘘だったため提供することができなかったのが正直なところでは?との噂もあるそうです。

日本国内では軽自動車の好調を支え、リードしてきたスズキですが、もしVWグループ傘下に残っていた場合、売却など多かれ少なかれダメージを負っていたのは確実です。VWの大量のスズキ株を取り戻したタイミングといい、まさに危機一髪の神回避といえるでしょう。

願わくば、VWのようなレモンカーが生まれるような芽を今後とも摘んでいただき、今後もプラムのような素晴らしい車を作り続けていただきたい、とも思う次第です。

ちなみに、梅の花言葉は、「高潔」「忠実」「忍耐」だそうです。自動車界にあって孤高の旅を続ける、スズキにぴったりのイメージではないでしょうか。

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天までのぼれ

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10月になってしまいました。

再三このブログでも書いていますが、今年は何もいまだに「何も成し遂げていない感」があり、不完全燃焼気味です。

が、いらついたところで、時は過ぎるのは待ってくれません。自嘲気味に、今年はもう何もやらないぞ!と思ってみたとしても、生きている以上何もしないわけにはいきません。

じっと座っていても息はしているわけで、目に見えなくても新陳代謝で古い細胞は新しい細胞に入れ替わっていっているはずです。呼吸はしない、新陳代謝もしない、というのは仙人以外はありえず、さもなくば死人になってしまいます。

ならば、せめて何も考え事をしないために、ひたすらに「寝る」というのも一手ではあるのですが、悲しいかな、人間はある一定時間睡眠をとると、あとはどうしても目が覚めてしまいます。

なので、諦めて今生きている時間こそを一生懸命生きる、というのが正しいあり方なのでしょうが、そんな道徳の時間に教えられそうなことをいわれても、今さら納得できません。

過去にこんなときはどうしていたかな~と考えてみます。すると……こういうときはたいてい旅に出ていたように思います。旅がだめなら、近所でもいいから散歩をする、ハイキングに行く。それだけでもかなり気分が変わってきます。

旅には目的地のある旅と無い旅がありますが、目的地のない旅です。旅の目的地としてどこそこへ行く、と決めて出かける人も多いいでしょうが、あてもなくぶらりと家を出て、その移動プロセスを愉しむ旅もあり、そこで何らかのインスピレーションを得ることを目的とする旅もあります。

私も過去に色々な所へ行きましたが、そうした旅のほうがむしろ印象に残っているような気がします。また目的地だけでなく期間も定めず、あてどもなく長期の旅に出る人もいますが、これは旅というよりもむしろ「放浪」です。

古来より遊牧民は生活のために放浪を繰り返してきましたが、これは牧畜(遊牧)のために移動しているのであって、生活のためです。が、そうではなく、人生とは何ぞや、といった哲学的な観点から何かを求めて放浪をする、という場合もあります。

とくに何の意図持たず、目的もなく放浪を繰り返す人々のなかには、その放浪の体験やそこから得た印象を元に、優れた文学や絵画を生み出す人も多く、音楽などその他芸術でも放浪体験によってより昇華した作品を生み出すことができた、という芸術家は多いようです。

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日本語では「放浪」ですが、英語ではローム(roam)、ノマド(nomad)、バガボンド(vagabond)、ストレンジャー(stranger)、ストロール(stroll)、ドリフター(drifter)などなどいろいろな表現があります。

ロームとは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ノマド(ノーマッド)は牧歌的放浪、ストロールとは、散歩などの場合に使用され、日本語では「ぶらつく」といった程度の意味です。

が、おそらく一番日本語の「放浪」に近いのは、ドリフターもしくは、バガボンドでしょうか。ドリフターといえば、おなじみドリフターズの語源ですが、ロームに比べるとより長期間ぶらりと旅に出ることをさします。また、バカボンドは漂泊者、すなわちアウトローのことです。

井上雄彦さんという漫画家さんによる同名の漫画がありますが、これは剣豪・宮本武蔵が戦国から江戸時代の転換期に真の剣術とは何かを求めて、日本中を漂白する物語です。

また、ボヘミアンというのがありますが、これは伝統や習慣にこだわらない、あるいは世間に背を向け、自由奔放な生活をしている人達のことです。ボヘミアン・アーティストといえば、そうした奔放な生活のなかで美を追求する芸術家や作家を指します。

もともとは、北インド起源の移動型民族であるジプシーのことを指していましたが、彼等は、現在のチェコにあたる、ボヘミア地方からやってきたことから、「ボヘミア人」=ボヘミアンと呼ばれるようになりました。最近では、こうしたジプシーたちは、自分たちのことをロマ(単数形はロム)と呼んでおり、こちらのほうが欧米では定着しているようです。

伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている人達が多く、「簡素な暮らしで、高尚な哲学を生活の主体としている」という評価がある一方で、「奔放で不可解。貧困な暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」とされるひとたちもいるようです。

過去には、パリやロンドンでこうしたロマたちのコミュニティーがたくさんあったようですが、最近では縮小し、北米やオーストリアにその中心が移っているようです。そして、彼等はヒッピーとも呼ばれるようになりました。

現在、アメリカでは、ニューヨークやワシントン、カナダのモントリオール・トロントなどにこうしたかつてのボヘミアンこと、ヒッピーたちのコミュニティーがあります。

さて、だからといって私もヒッピーになって放浪の旅に出たいか、といえばそこまでの意気地はなく、せいぜい小旅行に出かけるくらいのものでしょう。今の生活を捨ててまで芸術心や美的感覚を養いたいか、といえばそうでもありません。

が、結局は安定した生活にしがみついているだけじゃないか、といわれればそうなのかもしれません。おそらくはそのあたりに最近の不振の原因があるのでしょう。

なので、何も考えずぶらりと一ヶ月でも二カ月でも旅をしてきたい、などと思ったりもするのですが、いかんせん先立つモノが……

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仮に金に糸目をつけずにどこへ行ってもイイよ、と言われた場合、どこへ行きたいか、と問われれば、できれば宇宙旅行をしてみたいと思ったりもします。

現在では、既に旅行先としては、宇宙も選択肢のひとつになっています。宇宙へ行く行為というのは、通常は、国家政策や科学的研究を目的と宇宙開発のために行われものですが、宇宙旅行、すなわちSpace tourismといえば、もっぱら個人的な興味や関心のもとに宇宙空間に行くことをさします。

SFの世界では、1865年にフランスのジュール・ヴェルヌによって「月世界旅行(De la Terre a la Lune)」という小説が出されて人気を博しました。また、ヴェルヌは4年後の1869年にも、この小説の後編として、にあたる「月世界探検(Autour de la Lune)」を発表しています。

ヴェルヌは270mの巨大な大砲を用いて宇宙空間に到達する方法を科学的説得力のある内容で描いており、赤道付近に発射場を設置することなど、一世紀以上先に実現されることになる宇宙開発の基礎をいくつかの点で言い当てています。

また1901年には、イギリスのハーバート・ジョージ・ウェルズによって「月世界最初の人間」が発表され、これを元に翌年ジョルジュ・メリエスによって製作された、同名のモノクロ・サイレント映画も有名です。こちらも宇宙旅行のためには、砲弾型ロケットが用いられ、大砲で発射されて月へ向かいます。

この映画では、月は擬人化されており、このロケットはこの人面の月の右目に着弾。無事に着陸した6人は月面を探検しますが、月は思いのほか寒いところで雪まで降っていました。寒さに耐えられなくなった彼等は洞窟の中へ避難しますが、そこへ月人が現れ、彼等は捕えられてしまい、月の王様のもとに突きだされ…というコメディータッチの作品です。

その後、月旅行を扱った映画としては、かの有名なアーサー・C・クラーク原作の映画「2001年宇宙の旅」があります。こちらも地球から月に向かう宇宙旅行が描かれていますが、飛行船は「ロケットプレーン」に進化しており、地球軌道上の宇宙ステーションにランデブーした後、月着陸船に乗換え、月に向かうというものでした。

この映画はコメディーなどではなく非常にまじめなもので、宇宙での機内食、客室添乗員の履くグリップシューズ、宇宙トイレなど、綿密な科学考証のもと、宇宙旅行の様子が詳細に描かれたもので、映画史上不朽の名作、とはよくいわれることです。

この映画が公開されたのは、1968年ですが、“人類が宇宙を旅する”という広義の宇宙旅行まで含めるならば、すでにこれより7年前の1961年には既にソ連のユーリイ・ガガーリン少佐がボストーク1号に乗って地球を1周しています。

ただ、この時の「旅」はわずか108分にすぎませんでした。しかし、人類初の有人宇宙飛行であることには違いなく、「地球は青かった」という名言もまた歴史に刻まれました。が、これはあくまで国家政策によって行われた宇宙開発の一環での宇宙旅行であり、その後もソ連および米国で行われた宇宙行もまたすべて国家事業です。

「旅行」というのは、個人的な関心によって行われたものであり、であるがゆえに旅行費用も自己負担でなくてはなりません。そうした意味では、人類初の宇宙旅行が実現したのは、2001年にアメリカの大富豪がソユーズの定期便に乗せてもらう形で実現した例が嚆矢とされます。

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全額自己負担で宇宙に旅立つ、という世界初の試みを実現したのは、デニス・チトーという人です。実業家として成功した人ではありますが、元々宇宙開発関係の技術者でもあったようで博士号を持ち、米航空宇宙局(NASA) ジェット推進研究所に勤めていました。

彼は国際宇宙ステーション (ISS) に人員と物資を補給するソユーズの定期便でロシアから旅立ち、2001年4月28日から5月6日までISSに滞在しましたが、この間、数々の実験業務にも携わりました。

それに続き、翌年には、2002年には南アフリカ共和国の実業家マーク・シャトルワースが宇宙旅行を実現しています。ケープタウン大学でビジネス科学の学位を取得し、卒業後に設立した電子認証サービス会社を成功させ、その資金を元手にベンチャーキャピタルとアフリカの教育を促進する非営利組織 (NPO) シャトルワース財団を設立しました。

2001年にロンドンへ移住。その後、アフリカ人として世界初の宇宙飛行を行うために、嘗てソ連時代に、ガガーリン宇宙飛行士訓練センターがあり、現在でもロシアの宇宙飛行士の訓練機関が集中する、モスクワのスターシティという場所で訓練を受けました。

2002年4月25日に打上げられたロシアのソユーズTM-34に、民間人の宇宙飛行関係者として約2000万ドルを支払い搭乗し、2日後、ソユーズ宇宙船は国際宇宙ステーションにドッキングしました。彼もまた、デニス・チトーと同様に、この宇宙ステーション滞在中に種々の実験に携わっており、おもに、エイズとゲノム関連の研究に参加しました

11日の滞在後、ソユーズTM-33で地球に帰還しましたが、この宇宙旅行の成功で世界的にも有名になりました。この宇宙滞在中、ネルソン・マンデラ南アフリカ元大統領と交信をした際に、同席していた14歳のミカエル・フォスターという、南アフリカ人少女がシャトルワースにプロポーズをする、というハプニングもありました。

この少女は癌に罹った末期患者であり、こうした生命に関わる病気と診断された少年少女の夢を叶える活動している団体からの支援を受けて実現した交信であり、この交信の24日後に亡くなりました。

シャトルワースは亡くなる前の週に少女と会うことを予定していましたが、すでに症状が悪化しており実現していませんでした。が、思いもかけず宇宙で彼女と対面することになりました。とはいえ、さすがにプロポーズを受けるというわけにはいかず、シャトルワースは「大変名誉なことですが……」とユーモアで返しました。

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一方、日本人で初の宇宙旅行をしたのは誰か、といわれれば、これはやはり元TBSのアナウンサーだった、秋山豊寛さんでしょう。秋山さんは、上述の二人のように科学者、もしくは科学に造詣が深い人ではなく、TBSのワシントン支局長を務めるなど、純粋に報道人でした。

が、1989年にTBSが、日本人のミール訪問に関する協定をソビエト連邦の宇宙総局と調印すると、TBSが社内で募った公募に応募し、8人の応募者の中から選ばれました。が、この「旅行」もまた、日本人として初めて宇宙から報道を行う、ということを目的とした仕事であり、厳密には旅行とはいえないかもしれません。

上の二人と同じくモスクワ郊外のスターシティの宇宙飛行士訓練センターで訓練を行い、1990年12月2日にソビエト連邦のソユーズTM-11に搭乗、打ち上げは成功し、宇宙ステーションミールに9日間滞在しました。これにより、世界で初めて宇宙空間に到達したジャーナリストとなりましたが、同時に日本人初の宇宙旅行を体験した人物となりました。

予定では、日本人初の宇宙飛行として宇宙開発事業団に所属する毛利衛さんが秋山より先に宇宙へと旅立つ事となっていました。しかし、チャレンジャー号爆発事故の影響で毛利のフライトが延期され、結果として日本人初の宇宙飛行は民間人である秋山さんとなりました。

秋山さんは、科学者ではありませんでしたが、宇宙ステーションでは睡眠実験などの科学実験にも参加し、日本から持ち込んだカエルを無重力環境に置くとどうなるか、扇子で扇いで移動できるかといった実験にも取り組みました。

乗組員兼ジャーナリストとして宇宙飛行士たちの「日常」生活をリポートしましたが、滞在中はひどい宇宙酔いに悩まされたといい、同乗したロシアの宇宙飛行士は、「あんなに吐く人間は見たことがない」と述べています。同年12月10日に、先にミールとドッキングしていたソユーズTM-10で帰還し、カザフスタンのアルカリクに無事着陸。

8日間の宇宙生活を終え、帰還した直後、マイクを向けられた秋山さんは「お酒が飲みたい。タバコが吸いたい」と話しました。地球帰還後は、TBS報道総局次長などを歴任したほか、バラエティ番組などにも出演していましたが、53才になったとき突然TBSを退職。

宇宙飛行士だったということから、次第に会社での居場所がなくなっていったことを、退社した理由の1つに挙げています。が、推測するに、「日本人初の宇宙飛行士」となったのが、本来は「正規の宇宙飛行士」である毛利衛さんではなく、民間人の彼だったことで、いろいろな誹謗中傷があったのではないでしょうか。

その後福島へ移住し、無農薬栽培をてがけるなど農業をやっておられましたが、福島原発の事故を受けて2012年からは、京都府内へ移住。ここで京都造形芸術大学の芸術学部教授に就任されているようです。

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その後、2006年には、アメリカの起業家、グレゴリー・オルセンが、ソユーズ飛行船により、史上3人目の自費での国際宇宙ステーションへの民間人宇宙旅行を果たし、また、2006年には、同じくアメリカ・テキサス州のIT企業の創業者でCEOのアニューシャ・アンサリが、女性初の民間宇宙旅行者となりました。

しかし、2000年代には、コロンビア号の事故などの宇宙航空事故がいくつか起こったことで、宇宙開発には危険が伴う、ということが改めて認識されるようになり、また、宇宙旅行には多額な費用がかかることから、気軽に民間人が宇宙旅行をする時代が来た、とは言い難い状況でした。

これら民間人の宇宙旅行者が利用したのはすべてロシアのソユーズです。当時ロシアは国家経済の事情で民間企業にソユーズの座席を売ることで打ち上げ資金を確保していた状況であったのが、こうした民間人の宇宙旅行が実現した理由でもありました。

一方のアメリカは、あいつぐスペースシャトルの事故の発生により、こうした宇宙旅行に消極的であり、こうした宇宙開発熱の冷え込みがロシア発の宇宙旅行を加速させた、という側面もあります。NASA(アメリカ航空宇宙局)ですらも、コロンビア号の事故以来宇宙開発に自信を失い、ソユーズにISSの維持に必要な物資の輸送を頼っていたほどです。

こうした中、アメリカでは、次第に民間機関の中で、NASAに変わって宇宙開発に取り汲もうという機運が生まれてきました。

米国の旅行会社「ゼグラム社 (ZEGRAHM)」は、ジェット機の背に搭載されたロケットプレーンを高度16kmで切り離し、そこからはロケットエンジンで高度100kmまで上昇し、地球を見ながら弾道飛行による2分半の無重力状態を体験できるという宇宙旅行を企画しました。

ペプシコーラを日本で販売するサントリーは、懸賞でこのロケットプレーン搭乗券をプレゼントするというキャンペーンを行い、当初は2000年に実現予定でしたが、ロケットプレーンの開発の遅れなどから、現在も実現には至っていません。

一方、これに先立つ1996年には、民間による宇宙船開発に対する賞金制度であるX-prizeが発足していました(現在、Ansari X Prizeに名称変更)。

3人以上の乗員(乗員1名と、2名の乗員に相当する重量のバラストでも可)を高度100km以上の弾道軌道に打ち上げ、さらに、2週間以内に所定の再使用率を達成し、同じ機体で再度打ち上げを達成した非政府団体に賞金1000万ドルが送られるというものです。

かつては、地球一周旅行をはじめ、多くの長距離旅行の壁はこうした資本家による賞金制度をきっかけに実現されてきました。しかし、このX-prizeは資金面のみならず、法律面でも発射試験に漕ぎつけるまでにはかなりの問題を含んでおり、脱落者が続出しました。

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その中でスケールド・コンポジッツ社の有人宇宙船「スペースシップワン」は2004年6月21日に高度100キロの試験飛行に成功し、続けて賞金獲得のための本飛行も2004年9月29日と2004年10月4日に2度目の飛行を行いました。

このスペースシップワンは、運搬用航空機により吊り下げられた状態のまま、高度約15キロまで上昇後、切り離され、その後はロケットエンジンに点火し音速の3倍まで加速。ロケットの燃焼終了後は慣性で放物線を描くように弾道飛行し、高度100kmへの到達を果たしました。

そして3分間余りの無重量状態での宇宙飛行を経て、大気圏に再突入し、無事帰還。9月29日のフライトにおいては一時機体が不安定になるなどのトラブルがあったものの、いずれも乗員1名とバラストを載せた飛行を達成し、同社は賞金を獲得しました。

その後、、イギリスの多国籍企業、ヴァージングループが設立した宇宙旅行会社「ヴァージン・ギャラクティック」はスペースシップワンからの技術供与を受け、宇宙旅行ビジネスを開始することを発表、同飛行のスポンサーとなりました。

スペースシップツーによる宇宙旅行ビジネスの実現を目標とし、当初、2012年からのサービス開始を目指していました。2005年にはクラブツーリズムがヴァージン・ギャラクティック社の公式代理店となり、日本での販売を開始。最初の宇宙旅行者として100人が世界中から選ばれ、ファウンダーと呼ばれています。

日本人では外資系IT企業に勤める、32才の稲波紀明(いなみのりあき)さんが、世界最年少のファウンダーに選ばれています。しかし、2014年には試験中に墜落事故を起こすなどのトラブルにより計画は遅延中であり、2015年時点でも実現には至っていません。

しかし、かつてのスペースシャトルのような、地上と軌道上とを繰り返し往復する、いわゆる「宇宙往還機」は、運航経験や過去の研究状況から、使い捨てロケットより経済的ではない、といわれており、こうした「簡易型飛行船」であるスペースシップワンの改良型の成功は、今後とも期待されています。

一方、宇宙旅行をより簡便な物にする手段として、静止衛星と地上とをケーブルで結ぶ軌道エレベーターが考案されており、現在は実現に向けた具体的な動きも見られる様になってきています。

この話は前にもとりあげました(宇宙エレベーターのお話)が、2012年には大手ゼネコンの大林組が宇宙エレベーターの開発に乗り出したと発表しており、2050年の実現を目指すと報道されました。

いずれの方法でもいいから、早く実現してほしいと思う次第なのですが、しかし、私が乗り込もうと思っても、いかんせん先立つものが……

やはり、当面は地上において、放浪の旅に出るしかなさそうです。

今朝までには爆弾低気圧も去り、そろそろ青い空も見えてきました。幸い週末のお天気はよさそうなので、伊豆の山中でも彷徨うことにしましょう。

もしかして、その先で伊豆へご出張中の皆さんにお会いしましたら、わけありですので、けっして声をかけないよう、お願いいたします。

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