魚→鳥→人


急に暖かく……というか、日中は汗ばむこともあるほど気温が高くなってきました。

新聞やらテレビのニュースでは、長良川の鵜飼いが始まったと報じられており、そういう話を聞くと、あぁ今年もアユが川を遡る時期になったんだなアと思わず季節感を感じてしまったりします。

我が家のある山の麓を流れる狩野川にもアユが遡ってきます。この狩野川は、アユの「友釣り」の発祥の地なのだそうで、今でも友釣りが盛んで、「狩野川を制すれば全国を制す」と評されているとか。

えらい大げさな言いようだなと思うのですが、どういう意味なのでしょう。アユ釣りをやったことがないのでよくわかりませんが、友釣りをするには結構難しい条件があるのかもしれません。

確かに川幅が広く、どこにアユがいるのかよくわかりにくそうだし、流れも場所によっては結構急にみえます。アユは縄張りを持っていて、自分のテリトリーに他のアユが入ってくるのを嫌いますから、その縄張りを見極めて、「友」を投入する場所やタイミングを見つけるのが大変なのかもしれません。

友釣りは釣ろうとしている「野アユ」の縄張り内に、釣り人が用意した「囮(おとり)」のアユ、これが「友釣り」といわれるゆえんですが、掛針をつけた状態で投入し、これを嫌がった野アユがこれを追い払おうとして体当たりしてきたところをうまく針で引っ掛けて釣る、という漁法のようです。

調べてみると、「川読み」という技術が必要なようで、これは、野アユがどこに縄張りを作っているか、アユの習性を考えて予測することらしいです。この的確な予測が釣果をあげるポイントだそうで、かつ友釣りの醍醐味なのだとか。

アユは石についた藻類を主食としますが、これを削ぐように、その鋭い歯でがりがりと石の表面を食べるため、石には「ハミ」跡と呼ばれる跡が残ります。私も狩野川やほかの川に下りたことが何度かありますが、確かにアユのいる川には、バーコードのようなハミ跡がついた岩があちこちにあります。

これがアユの大小や多寡を知る目安となるというのですが、素人目には、どのハミ跡が大きいアユが食べた跡なのかさっぱりわかりません。しかし、ハミ跡が多いか少ないかぐらいはわかります。

昨年も狩野川には多くのアユ釣りを楽しむ人達が入漁してきていましたが、色々ある釣場の中でも、やけに釣り人達がやけに集中しているなという場所が、2~3カ所はたいがいあり、こうした場所がポイントです。

ところが、このポイントはまた時間によって変化し、アユの好む場所も変わっていくのだそうで、これを察するのもひとつの技術なのだとか。

さらには、アユの習性だけでなく、ほかの釣り人がどこをポイントとしているかを見定めることも技術も必要なのだそうで、これは釣り人がいた場所は当然アユが減るため、アユの量が均一化するまで時間がかかります。このタイミングを見極めるのも結構難しいのだそうです。

こうしてみると、友釣りの技術というのは結構奥深いんだなーと感心してしまいますが、私自身としては、釣りといえども、動物を「殺める」という感覚がそもそも性分にあわないのであまりやりません。

海が好きなので、若いころには海釣りにはよく行きましたが、歳をとってくると、長時間紫外線を浴びるのもなんだかなーと、ずいぶんひ弱になっていることも関係しています。

とまれ、「狩野川を制すれば全国を制す」というのは、アユを捕える場所としては、かなり高度な技術が必要とされる場である、ということのようで、その道を極めた人達だけがこの川に入る資格がある……まではいわないにせよ、どうやらかなりの上級者が入るアユ釣り現場ということなのでしょう。

狩野川が友釣りの発祥の地とされている理由としては、伊豆国の代官として世襲してきた江川家に伝わる史料群「江川文庫」に、狩野川でアユの友釣りが盛んになったことを伝える記述があることが根拠になっているようです。

「頼書一礼之事」と題した1832年(天保3年)に書かれた文書が残っているそうで、これは伊豆大仁村の名主だった杉浦家の当主が、韮山の代官所に提出した書状の控え集のようです。

これには「梁漁を請け負っているが、”友釣り”が流行って収入が上がらなくなり、梁漁に伴う税金も納められなくなるため、友釣りを禁止してほしい」と書かれており、地元の村々の役人が友釣りによるアユの乱獲をやめさせてほしいと韮山代官所に訴える内容です。

つまりはそれだけ従来の漁法よりもたくさんアユが釣れたということなのでしょう。またこの文書には、友釣りが「新規の漁事」として、「天野堰所」で2年ほど前に始まった、とも記述されているそうで、この堰はどうやら現在の大仁神社のすぐ下を流れる狩野川付近にあったようです。

このため、大仁神社の境内には、「友釣りの発祥の地」と書かれた伊豆の国市の説明板も掲げられていて、同神社の手水のオブジェは、なんと鮎の形をしています(冒頭の写真)。

この文献以外にも狩野川における友釣りの始まりが天野堰所だったと複数の記録に残っているそうで、他にも、修善寺から下田方面に2kmほど下った「大平」という場所にあったという瀧源寺(ろうげんじ)の虚無僧で、尺八の名手であった法山志定(1780年(安政9年)没)が発案したという記録もあるそうです。

これによれば、この法山坊主が、狩野川の大岩の上で尺八の練習をしている時、水中のあちこちで餌場争いをしているらしいアユたちをみかけ、これをよくよく観察してみると、どうやら尻ビレめがけ口を開けて攻撃しているらしいことに気がつきます。

そしておとり鮎に掛け針を付けて釣る方法を考えつき、自分でやってみたところ、結構釣れたので、その釣り方を地元の漁師たちにも教えるようになったのだとか。

この瀧源寺そのものは、昭和36年ごろに土砂崩れで潰れてしまい、そのとき寺の建物やこの古文書も失われてしまったということで、この伝承も地元の古老達により語り伝えられてきたことだそうです。ちなみに、現在大平には、「金龍院」という寺があるようなので、同じ「龍」の字が使ってあることから、この瀧源寺を再建したものなのかもしれません。

友釣りの発祥についてはこのほか、京都説や茨城県説もあるようであり、本当に狩野川が発祥の地なのかや、はっきりした年代は定かになっていません。しかし、各地で行われるようになったのは、明治から大正にかけてです。

とはいえ、昭和初期までは友釣りをする釣り人はさほど多くなかったようです。が、戦後しだいに多くなり、昭和中期以降、友釣りをする人が増え釣り場も友釣り専用区が作られるようになりました。

さらには、カーボンファイバーやグラスファイバーの出現によって竿の軽量化が進み、長竿が作られるようになったり、糸の張力増加による細糸・ウエットスーツなども色々開発・発売される中で、友釣りは全国的に広まっていきました。

近年はさらに軽量化できるチタン製のものまで使われているそうで、友釣り用の竿は、長さと軽さが求められるため、このチタン製のものなどは、もともと成形しにくい物質であることもあり、その製造にはかなり高度な技術が必要になるみたいです。

軽くなればなるほど高価になり、9.5m(!この長さだけで驚きですが)の竿で300g未満になると価格は概ね10万円を超え、250g未満のものは30万円以上になるということです。

とはいえ、友釣りの技術そのものは、多少形は変わったとはいえ、江戸時代の昔からそのスタイルは変わっておらず、釣り上げたアユを捕獲するタモ(網)や、おとりアユを生きたまま入れておく「オトリ缶」、「引き舟」とよばれる川中でオトリのアユや釣ったアユを入れておくための道具などは、昔ながらのものです。

おとり缶や引き舟も合成樹脂などの新しいものも出ているようですが、昔ながらの木製のほうがアユの粋がいいということで、人気があるようです。

ところで、昔ながらといえば、この項の冒頭でも話題にした鵜飼いもまた、昔からある伝統的なアユ漁法です。

日本でしかやられていないのかなと思ったら、この鵜飼、中国でもさかんに行われているということであり、ヨーロッパでもその昔16世紀から17世紀の間、スポーツとして流行った時期があったのだとか。

鵜飼いそのものの歴史は、日本が最も古く、6世紀ごろには既に行われていましたが、中国ではこれを日本で目撃した中国人が母国にこの漁法を持ち帰り、その後流行するようになったようです。

紀元600年ころに書かれた、中国の史書「隋書」には、日本を訪れた「隋使」が「変わった漁法を見た」という記述がみられるそうで、そこには、「小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る」と書かれているそうです。

しかし、その後中国に伝わって広まった鵜飼いは、日本のそれとは少し違うようです。まず、使用される鵜の種類が、日本ではウミウであるのに対し、中国ではカワウを使用します。また、日本では漁のための鵜は成鳥を捕獲してこれを訓練して鵜飼いに使いますが、中国では完全に家畜化されている鵜を使うのだとか。

また、魚を飲み込めないように鵜の喉に輪を装着するのは日本も中国も同じですが、中国では日本のように鵜を綱に繋がず、魚を捕らえた鵜は自発的に鵜匠の元に戻ってくるよう訓練されているそうです。賢いですよね。

このほか、日本では鵜飼いは様式化して伝統漁法として残るようになり、捕る魚もアユのみですが、中国では一般漁法として現在も普及しているとのことで、鵜が捕る魚も喉を通過する大きさのありとあらゆる魚を捕ることができるということです。

一方、ヨーロッパでの鵜飼いは、16世紀末から17世紀初めにかけての一時期、スポーツとして広まりました。

主には、イギリスとフランスの宮廷行事として広まったようで、1609年、皇太子だったルイ13世の前で鵜飼いが実演されたという記録があります。また、1618年にもジェームズ1世が漁用に飼っていたウ・ミサゴ・カワウソのための飼育小屋と池をウェストミンスターに作ろうとした記録が残っているそうです。

イギリスの動物学者たちは、ヨーロッパに鵜飼いを持ち込んだのはオランダ人であろうと推測しており、この技術が東アジアからオランダ人によってもたらされたものである可能性があるそうです。

1600年代初頭といえば、江戸幕府による鎖国が実施される前であり、このころ頻繁に日本に入国していた外国人の中にはオランダ人宣教師も多く、彼らから鵜飼いの技術がヨーロッパへ伝えられたのでしょう。

しかし、ヨーロッパで行われた鵜飼いは日本や中国で行われていたものとは少し違うものだったようです。「鷹狩り」の手法の延長で行われたそうで、鵜は目隠しをされたまま漁場に連れてこられ、漁の時だけ目隠しを外されたといいます。

鵜の運搬も革手袋をつけた飼い主の手の上に大事に乗せられて行われたということで、日本のように縄で引っ張って強引にアユを捕らせるという形ではなく、アユを捕ってくるとナデナデと褒めてやる、というようなものだったのでしょう。ヨーロッパの鵜飼いはあくまで貴族のものであり、スポーツだったことがこのことからもわかります。

このほか、南米ペルーでも鵜飼いが行われたらしく、5世紀ごろ行われたと思われる鵜飼いの様子を記した土器がペルーのチャンカイ谷という場所から出土しており、リマ市にある博物館に収蔵品されているそうです。

これが本当だとすると、鵜飼は、日本とペルーでほぼ同時期に発生したということになります。しかし、ペルーは日本の裏側であり、このころにペルーからその技術が輸入されたということは考えにくく、おそらくは地球の表裏でほぼ同じ時期に鵜飼いによる漁法が発明されたということになるのでしょう。

さて、日本の鵜飼の方ですが、現在は、岐阜県、愛知県、京都府、愛媛県、大分県、福岡県など11府県、13箇所でしか行われていません。

さきほど600年ころに書かれた中国の書物に日本の鵜飼いのことが書かれていたと書きましたが、日本の文書で鵜飼いについて書かれたもっとも古いものは720年ごろに成立したとされる「日本書紀」です。

この神武天皇の条には「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、宮廷で、鵜を養っていた部門のことが書いてあるそうです。

日本書記とほぼ同じ時期にかかれた「古事記」にもこの「鵜養」のことを歌った歌謡が載っているそうで、このころから既に宮中行事として鵜飼いが成立していたことがわかります。

その後も、延喜年間(901~923年)には、時の天皇が長良川河畔の鵜飼たちにアユを献上させた記録があります。

源頼朝も平治の乱で敗走し、長良川河畔をさまよっていたとき、鵜飼の長の家で食べた鮎すしに感激し、その後1192年(建久3年)右大将として上洛したときにはこの長をわざわざよびだして恩に報い、また毎年鮎すしを鎌倉に送るよう命じたといいます。

織田信長もまた1564年(永禄7年)に長良川の鵜飼を見物してこれを賞賛し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称をさずけ鷹匠と同様に遇したといい、徳川家康も1615年(元和元年)、鵜飼を見物し、石焼きのアユに感賞したそうです。

家康に至っては、以来、江戸城に毎年アユを献上させるほどアユ好きになり、このころの鵜匠によるアユの献上の際には、老中の三判証文をもって継立て江戸まで2昼夜で送致させるほど珍重しました。

その後、江戸時代に入ると鵜飼はおとろえ、1805年(文化2年)には鵜匠の家は12戸にまで減少したそうです。が、その12戸に毎年120石、532両2分を給与するなどして厚遇したため、江戸末期までには鵜匠の家の数もかなり回復しました。

明治維新によって、鵜飼いは衰退するかにみえましたが、明治天皇の代によって待ったがかけられ、その後は鵜匠は「大膳職」に任命された上、明治23年(1890年)からは、岐阜県内の長良村古津やその他のアユの漁場で総延長1471間(約2.7km)が宮内省の鮎漁の「御猟場」に編入されています。

鵜飼漁がこれほど昔から珍重される理由、それはこの漁法で獲れる魚には傷がつかないためです。

ウがアユを「ウッ」といって飲み込むのか、「ウー」と飲み込むのか、実際にじっくり観察したことがないのでよくわかりませんが、いずれにせよ、その食道をアユが通過するとき、ギュッと体全体が締め付けられ、これによって、一瞬にして気絶してしまいます。

これがアユに傷をつけずに、鮮度を保つことができる理由であり、このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重され、安土桃山時代に前述のように信長に珍重されて以降は、以後の幕府および各地の大名によってそれ以前よりもさらに鵜飼は手厚く保護されていったようです。

鵜飼いをやること自体が宮廷との関わりを保ち、中央政府である幕府との関係を保つ儀式となっていったため、鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わる非常に重大なものでした。

しかし、一匹の鵜が咥えられるアユの数は知れています。このため鵜飼はとても漁獲効率のよい漁法とはいえず、明治維新後にはそれまで鵜飼いを保護していた大名がいなくなってしまったため、だんだんと減少していき、現在では、宮中行事として実施される以外で鵜匠をやる家はかなり減り、規模を縮小しています。

その昔は、鵜匠も多く、この漁法によるアユの収穫量も全国的にはそれなりにあったでしょうが、現在の鵜飼は、漁による直接的な生計の維持というよりはもっぱら、観光事業として行われています。

その多くが客が屋形船に対価を払い、船の上からその様子を見て楽しませるということで成り立っており、こうした観光事業としての鵜飼いは、愛媛県大洲市の肱川で、戦後の昭和32年(1957年)に「大洲観光うかい」として始まったものが発祥のようです。

実は、私はこの大洲市の生まれです。父がダム屋だった関係で、この地に赴任してきたときに生まれた子であり、その後すぐに父が広島に呼び返されたことから、私も生後一年半ほどここにいただけのことであり、全く記憶にはありません。

が、自分が生まれた場所ということで子供のころからそれなりの関心はあり、テレビなどで肱川の鵜飼いの様子が映し出されたりすると、自分の生まれたところの住民はこんなことで生計を立てているのか、なさけなや……などと勘違いしていたものです。

鵜匠たちのいでたちも独特であり、風折烏帽子に古風な漁服、胸あて、腰蓑を身に着けたその様子は、やはり何度見ても時代錯誤の感があります。しかし、これが宮中行事として行われる際にもこれが正装なのだといわれると、ははぁ~っという気になるから不思議です。

もっとも、宮中行事のほうは、岐阜県の長良川で行われている鵜飼いだけです。岐阜市と関市の長良川河畔において行われているのがそれであり、このための「宮中職員」としての鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人いるそう、これらは全て世襲制です。

もともと長良川の鵜飼は1300年ほど前の江戸時代において、徳川幕府および尾張家の庇護のもとに行われていたものを現在まで踏襲してきたものです。

前述のとおり、明治維新後は明治天皇の命令により、一時有栖川宮家(江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家で伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。第2代良仁親王は皇統を継ぎ、後西天皇となった)の御用となりました。

しかし、1890年(明治23年)には、宮内省にその管轄が移され、「主猟寮」という部門の所属となり、長良川鵜飼は正式に、宮内省(現宮内庁)の「御料鵜飼」となりました。ということはつまり、皇室御用の鵜飼であり、毎年5月11日から10月15日まで行われる漁のうち特に宮内庁の御料場で行われる8回の漁すべてが皇室行事ということになります。

おそらく毎年のようにこのころになるとテレビのニュース映像で流れるのは、この長良川での御料鵜飼の様子でしょう。ここで獲れた鮎は皇居へ献上されるほか、明治神宮や伊勢神宮へも奉納されるといいますが、どんな味がするのでしょう。体に傷をつけないように捕獲する特別なものということですから、きっと格別においしいに違いありません。

現在、長良川以外で鵜飼いが行われているのは、以下の川です。

山梨県笛吹市(笛吹川)
小瀬鵜飼 愛知県犬山市(木曽川)
京都府宇治市(宇治川)
京都府京都市(大堰川)
和歌山県有田市(有田川)
広島県三次市(馬洗川)
島根県益田市(高津川)
山口県岩国市(錦川)
愛媛県大洲市(肱川)
大分県日田市(三隈川)
福岡県朝倉市(筑後川)

中部地方以西ばかりですが、これはこれらの多くが琵琶湖産の稚鮎が遡上したものを目当てにしたものであり、その地方の環境が生まれた場所の気候に比較的近いためです。アユの養殖時の飼育適温は15~25℃であり、このほかの生産地も、滋賀県、徳島県、和歌山県、愛知県、静岡県など、中部以西の地方ばかりです。

このアユの生態の話は、昨年10/27の「アユのお話」に詳しく書いてあるので、ご興味のある方はこちらをどうぞ。

さて、今日はアユの話に始まり、鵜飼いの話に至りました。この「鵜」についての生態も書き足りない気もするのですが、今日はもうやめておきましょう。ただ、鵜は、中国ではペリカンを意味し、その通り、ペリカンの仲間です。

どおりで魚を飲み込むのが得意なわけですが、日本の鵜はアフリカやアメリカ大陸にいるように魚が蓄えられるほど嘴(くちばし)は発達してません。日本ではカワウ(川鵜)とウミウ(海鵜)がいますが、鵜飼いに使われるのはウミウのほうで、中国ではカワウを使うというのは前述しました。

日本でウミウがよく使われるのは、カワウよりやや大きく、また日本ではどこへ行っても海岸からはあまりそれほど距離はありませんから、カワウは入手しやすい環境です。しかし、中国では内陸に行けばいくほどウミウが入手しづらく、カワウのほうが手に入りやすくなります。

我が家の近くの狩野川にもたくさんのカワウがいて、ときおり集団でいるのを水辺でみかけることもあり、まるで会議でもやっているようです。そのうち、一匹つかまえてきて調教し、鵜飼いをさせてみようかとも思うのですが、我が家のテンちゃんが嫌がるかもしれないのでやめておきましょう。

鵜飼いはやはり見て楽しむもの。静岡では残念ながら見れないようですが、岐阜まではそれほど遠くないので、そのうち、機会あれば見物に行ってみたいものです。そして、もし可能ならば傷がついていないという絶品の「鵜飼いアユ」も食してみたいもの。

近いうちに実現するでしょうか。ま、無理かもしれませんので、今年も釣り人が捕ったアユで我慢しましょう。……などと書いていたら、急にアユが食べたくなりました。もう売っているでしょうか…… お昼ご飯にアユ飯。いいかもしれません。

北の国から ~松崎町


今年も母の日が近づいてきました。

我が家でも毎年、山口にいる母に、たいてい花やら何やらをプレゼントするようにしています。

今年は、何にしようかな~と思っていましたが、先日母が「来豆」してきたとき、前にあげたバラを枯らしてしまったと言っていたのをタエさんが覚えており、じゃぁ、その代りのバラにしようか、ということになり、昨日、長泉町のサントムーンで、薄いオレンジ色のバラをみつけ、これを贈ることにしました。

花好きの母のことですから、きっと喜んでくれることでしょう。

ところで、花といえば、先日松崎町の花畑のお話を少し書きかけました。町の有志達が、毎年のように休耕田を利用して、ここに色とりどりの花を植えて観光客に開放しています。

春先に那賀川のサクラを見に行ったときにも、咲き誇っていましたが、今はまた季節が進んで、矢車草やひなげしといったまた別の花々がたくさん咲いていました。

休耕田は、連休明けから本来の目的である田んぼとして使われるため、この美しい花々は連休までの命ということで、我々が行ったその日が、その雄姿をみれる最後の日。どうせ翌日からは刈ってしまうから、ということで、観光客が自由に摘んでもかまわない、と自由な立ち入りが許されており、このため花目当ての多くの人たちで賑わっていました。

このとき持ち帰った花々は、両手で持ち抱えるほどあり、これをタエさんがほとんど半日かけて剪定。今、我が家のあちこちで、その蕾が開き、実に華やかです。いつまでももってくれればいいのですが、花の命は短くて……であり、今月一杯もたせるのはさすがに難しいでしょう。とはいえ、精一杯咲いてくれている花たちに感謝感謝です。

この松崎での「花狩り」の際には、そのすぐ近くにある道の駅、「花の三聖園」で昼食をとりました。タエさんの頼んだざるそばには、松崎の海岸で採れる岩のりを使った小丼と、本物のワサビまでついてきて1000円弱という安さ!しかも味も上等で、私は暖かい山菜そばを頂いたのですが、こちらも大変よかったです。

道の駅の食事には嗜好をこらしたものを出すところも多く、この「道の駅三聖園」もそのひとつであり正解だったと思います。みなさんもごひいきにしてあげてください。

依田勉三のこと

さて、以前このブログでは、この「花の三聖苑」の名前の由来になった「松崎三聖人」について触れました(3/27「松崎にて」)。

この道の駅の敷地内には、「大沢学舎」という古い建物がありますが、これはその松崎三聖人の一人である「依田佐二平(さださじべい)」が私財を投じて開校した公立小学校です。

依田家の先祖はもともと信州におり、武田信玄の子の武田勝頼に仕えていた重臣でしたが、武田家の滅亡後、一族がこの地に落ちのび、その後この地で商家として栄えるようになりました。

明治初頭にこの依田佐二平の代になってからは、群馬県の富岡製糸工場に習って製糸産業を振興したところこれが成功し、依田家は更に発展するとともに、これによってその当時の松崎は日本三大製糸の町とまで言われるほどになったことなどを先般のブログで書きました。

この三聖人の残り二人ですが、一人は、幕末松崎の漢学者で「土屋三余(つちやさんよ)」という人物。松崎のこの地の名門の武士の家に生まれ、江戸で漢学を学び帰郷し、「三余塾」を開き、この当時としては「士農の差別をなくす」という革新的な思想をもって、農家の子弟をも教育しました。

この結果、門下生に数多くの逸材が育つようになり、依田佐二平はその一人です。そして、この佐二平の弟が、三聖人のもう一人、「依田勉三(よだべんぞう)」になります。今日は、この依田勉三について、書いていきたいと思います。

本州ではあまり馴染のない人物です。北海道では札幌にある「北海道神宮」の末社である「開拓神社」の祭神にまで祭りあげられていますが、だからといってそれほど知名度の高い人物ではありません。

ちなみに、この北海道神宮というのは、北海道では一番大きな神社のひとつです。が、その歴史はそれほど古くはなく、明治時代に創建されたものです。この当時、北海道の開拓当時樺太・千島に進出を進めていたロシアに対する守りのために建てられたということで、その大鳥居が北東を向いています。

明治4年(1871年)6月14日に勅旨によって「札幌神社」と命名され、国幣小社に列せられました。国幣小社というのは、式内社(10世紀初頭には朝廷から「官社」として認識されていた由緒ある神社)としては、官幣大社、国幣大社、官幣小社に次ぐ一番下の社格でしたが、翌明治5年(1872年)には一つ上の官幣小社に昇格しています。

北海道の開拓にあたって、明治天皇は北海道鎮護の神を祭祀するように明治2年にわざわざ勅を発しており、これによって、北海道開拓の守護神として、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三神が「開拓三神」として奉ぜられるようになりました。

これ以前にも北海道の各地に神社はありましたが、各地方の人々の個々の信仰に拠って建立されたものにすぎなかったため、この札幌神社ができて以降は、北海道で公式に認可される神社は日本の祭政制度にのっとって建てられるようになりました。

また、その後二次大戦前までには北海道だけでなく、全国的に国民統制のための国家神道が行われるようになりましたが、北海道においてもこの札幌神社がその中心地となり、札幌神社内には皇典講究所の分所が設けられ、北海道内の神職の養成や教布が行われるようになりました。

戦後の昭和39年(1964年)、明治天皇を合祀し、社名を現在の「北海道神宮」へと改めました。現在北海道では一番大きな神社として、多くの参拝客を集めています。祭神には、前述のように北海道開拓の守護神として三神が選ばれていますが、境内には数々の「末社」があり、ここには、北海道開拓で功績のあった人達も祀られてます。

その一つが「開拓神社」であり、ここには依田勉三だけでなく、間宮林蔵ほかの北海道開拓の功労者が数多く祀られているのです。

北海道開拓に至るまで

さて、伊豆で生まれた依田勉三が、なぜこの北海道で開拓をするように至ったのかについてみていきましょう。

依田家は、前述のように甲州武田氏の流れを汲む伊豆国那賀郡大沢村(現松崎町)の豪農で、1853年(嘉永6年)、勉三はこの家の三男として生まれました。長兄は依田佐二平です。次男は幼くして亡くなったため、勉三が戸籍上は次男となりました。

幼名を久良之助といい、三聖人の一人、土屋三余や、西郷頼母(保科酔月)などから漢籍を教わっています。西郷頼母というのは、今NHK大河ドラマで放映されている八重の桜にも登場する会津藩の元家老のことです。

幕末の動乱のあと、依田佐二平に請われて伊豆へやってきて、多くの師弟を育てたことは、3/28のブログ「頼母のこと」でも書きましたので、詳しくはそちらを読んでみてください。

佐二平と勉三の兄弟は7つ離れています。兄弟は、勉三が12歳のときに母を亡くしていまが、さらにその母の後を追うように2年後には父が死去したため、依田家は、兄の佐二平が後を継ぐことになりました。勉三が14歳ですから、兄の佐二平は21歳になっており、当主としては若いながらも申し分のない年齢でした。

しかし、若くして当主となったため、主としてはもっと学をつけさせるべきと周囲が見なしたためか、弟の勉三とともに、那賀村から3kmほど離れた松崎町にある土屋三余の私塾であった「三余塾」で学ぶようになります。

「三余」とは、塾頭の土屋が「士農の差別をなくすためには、業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と彼が子弟に説いたことにより、この三余を土屋は自らの名前としても使っています。ちなみに、「三余」とは、一年のうちでは冬、一日のうちでは夜、時のうちでは雨降りのことです。

ここで、国学や儒教などの基本的な学問を習得した勉三は、19歳の時に上京します。1872年(明治4年)のことであり、維新の動乱も終わり、ようやく世の中が開明に向かって動き出そうとしていた時代でした。

この上京で、勉三は、はスコットランド出身の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840~1901)という人物が営んでいた英学塾に学ぶようになります。

勉三がこのワデルをどうやって知り得たのかについては詳しくはよくわかりませんが、兄の佐二平はこのころ、地元のリーダーとして殖産興業に励むようになっており、欧米諸国への輸出品を研究しており、その関係から兄を通じて在日外国人の情報を得たのかもしれません。

兄の佐二平はその後製糸業に注目し、これを地域の産業基盤にすべく、この当時官営だった上州(現群馬県)の富岡製糸工場に6人の子女を派遣したりしています。

彼女達が2年間の技術習得を終えて帰郷したあと、明治8年に松崎に設立された製糸工場はその後大きな繁栄をしていくことになりますが、こうした欧米の技術を導入する関係から、多くの外国通や欧米人とも知り合ったと想像され、弟の勉三が上京するにあたっては、その人脈を活用したと考えられます。

とまれ、こうして勉三は、維新後まもない東京で勉学に励むようになり、このワデルの英学塾では、後に開拓の同志となる鈴木銃太郎や渡辺勝とも知り合っています。

こうして勉強に励んだ甲斐あって、その後慶應義塾に進むことができ、さらに当時の新知識を吸収。慶応義塾の創設者、福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てるようになります。

ところが、慶応義塾に在学して2年が経ったころ、胃病を患うようになり、しかも脚気にかかってしまったことから、義塾を中退して郷里の伊豆に帰ってきてしまいます。

そして、しばらくは療養に専念していましたが、兄の佐二平が洋学校を設立したいと言いだしたためこれに協力することにし、自らもこの学校で教師として働くことを決めます。そして、ワデルの英語塾時代に知り合ったに渡辺勝に働きかけ、彼を伊豆に招致することにも成功します。

明治12年(1879年)、渡辺を教頭として下田の北側にあった蓮薹寺村に私立「豆陽学校」を開校。この学校は後に郡立中学豆陽学校と名称を変更したのち、昭和24年(1949年)4月に静岡県立下田北高等学校となります。同校の同窓会は現在でも豆陽会を名乗っています。

そもそも依田佐二平は、製糸業で成功する前から地元の青年の教育に熱心であり、明治維新直前の1864年(元治元年)には、自邸内に塾をひらき村民への新しい時代へ対応するための啓蒙運動をはじめています。これが、三聖園に現在移築されている「大沢学舎」(大沢塾)です。

大沢塾では地元の識者を招いて、主として儒学を教えていましたが、やがて明治維新が起こるとその内容も古くさくなっていたため、明治5年(1872年)にはこの大沢学舎をさらにグレードアップさせた、「謹申学舎」を設立しています。

ちなみに、松崎にはこのほかにも、1880年(明治13年)に竣工し、伊豆地域では最古の小学校として知られる岩科学校(いわしながっこう)があり、この学校は1975年(昭和50年)には国の重要文化財に指定され、現在では有名な観光地になっています。

実は、先日の「花狩り」に行った際に我々もここへ行きました。木造の寄棟造で二階建瓦葺の立派な建物であり、その外観の大きな特徴としてはなまこ壁が挙げられます。室内には「千羽鶴」の「鏝絵(こてえ)」などがあり、この鏝絵の作者は左官の名工として名高い工芸家で、松崎町出身の「入江長八」です。

正面玄関の「岩科学校」扁額は、最後の太政大臣、内大臣正一位大勲位公爵、三条実美の書ということであり、学校を作るにあたっては、東京の有名人などからも寄付やこうした協力が寄せられました。総工費の4割余りを住民の寄付でまかなうという地元の厚い熱意にも支えられて、1880年(明治13年)竣工。

この寄付をした住民の中には、当然のことながら依田佐二平も含まれていたはずです。これによって佐二平はその生涯において、「大沢学舎」「謹申学舎」「豆陽学校」「岩科学校」の四つもの学校の創設に関わっていたことになり、このことからも彼がいかに教育というものに関心が深かったのかがわかります。

この岩科学校は、国の重要文化財に指定されるまでは、学校としても使われた時期もあったようですが、その後すぐ隣に新校舎の松崎町立岩科小学校が建てられたため、学校施設としてはもはや使われることはなくなりました。

ちなみにこの隣接する岩科小学校も少子化によって2007年3月に廃校しており、我々が行ったときもガランとした広い校庭に遊ぶ子供たちの姿はありませんでした。

その後、岩科学校は老朽化も進んでいたことから、2年かけていったん解体され、1992年(平成4年)までに元の形に復元され、復元工事の終了とともに博物館として公開されています(有料)。

1875年(明治8年)、松崎町内に岩科商社として建設され、その後、岩科村役場として使用されていた建物も校庭内に移築されており、現在は「開花亭」という名前の休憩所兼お土産物屋さんとして利用されています。

さらにちなみにですが、この岩科学校の教員に「山口磐山」という人物がいたらしく、この人は会津藩の九代藩主松平容保のもとで働いていたそうです。どういう身分の人だったのかはよくわかりませんが、1877年(明治10年)、岩科学校の創案者であり岩科村戸長でもあった佐藤源吉の招きによって岩科学校の教員となったようです。

山口は岩科学校に隣接する天然寺で慎独塾も開いていたそうですが、病に倒れたため慎独塾は他人の手に渡り、1881年(明治14年)に明道義塾と改称されています。1883年(明治16年)死去。門下生によってほど近くの天然寺に墓が建てられているといいます。

このように、西郷頼母もこの山口磐山も会津の殿様に近い人だったというあまり知られていない事実があり、これらのことから伊豆と会津というのは、その昔からかなりの人物交流があったことがうかがわれます。確かほかにも会津から来た人がいたという記録を読んだことがあります。

が、今日のところはまた話が脱線中のことでもあり、そのことに触れるのはやめておきましょう。また調べてみて面白いことがわかったら、アップしたいと思います。

北海道へ

さて、ずいぶん話が飛んでしましました。こうして、東京から郷里の伊豆に戻り、病を治しながらも兄の佐二平の学校づくりに協力していた勉三ですが、その後病気もようやく癒えたのか、明治12年(1879年)、26歳のとき、同じ村出身の従妹のリクと結婚しています。

北海道開拓の志を固めたのはどうやらこのころのことのようです。なぜ、北海道だったのか、という点についていえば突拍子もない感じもするのですが、幕末から明治のはじめにかけての伊豆では、二宮尊徳の影響が色濃く、農本思想(報徳思想)と呼ばれる思想が学校でも子供たちに強く植え付けられていたようです。

土屋三余の塾でも繰り返しこの思想が教えらえていたようで、この報徳思想では、二経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説いています。

二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などの学問と、農業の実践とを組み合わせた思想であり、「豊かに生きるための知恵」として、「至誠・勤労・分度・推譲」を行うことが大事と説いており、これによって物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるということを思想の根本に置いています。

要するに社会のために、私利私欲を捨てて生きろ、ということであり、このころまだ未開拓であった北海道の大地を切り開き、国民の利益のために供することこそが、勉三にとっての報徳思想の実践と考えられたのでしょう。

色々な史料にざっと目を通しところ、どうやらこうした開拓精神は既に幼少時代から勉三に植えつけられていたらしく、東京で学び、伊豆へ帰ってきて子弟に教育をしている間にもその理想は熟成されていき、やがては未知の北海道の荒野へ自らを投入することに憧れを抱いていくようになっていったのではないでしょうか。

また、勉三は慶応義塾で福沢諭吉の薫陶を受けています。福沢諭吉は独立自尊を説き、人口激増・食料不足を補うために北海道を大いに開拓すべきであるということを、その門人たちに語っていたようです。

これによって勉三はしだいに開拓報国の念を強くしていったとも考えられ、とくに明治8年(1875)に発表された北海道開拓の全体構想を示した「ケプロン報文」に出会い、北海道開拓に生涯を賭ける決意を固めたともいわれています。

ケプロンというのは、アメリカのマサチューセッツ州出身の元米国農務省長官(農務局長)であった、ホーレス・ケプロン(1804~1885)のことであり、1870 年(明治3 年)に開拓次官となった黒田清隆らが、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求め、開拓使顧問として招聘した人物です。

1869 年(明治2 年)、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、その2年後の1871 年(明治4 年)に来日し、開拓使顧問に就任。当時67歳でした。同年、このケプロンの指導で、東京の青山・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作、家畜の飼育や農業技術者の養成などが行われています。

その後ケプロンは3年10ヵ月もの間日本に滞在し、この間3回にわたり、北海道内各地の視察・調査しており、このときに作成したのが「ケプロン報文」です。

「報文」は、北海道の基本的な開発計画を提案したものであり、札幌を首都とすること、農業開発のために高等教育機関を設置することなどを明治政府に進言しています。このケプロンの進言により、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・S・クラークが学長に迎えられ、明治9年に札幌農学校が開校しています。

ケプロンの提言は、すべて、北海道開拓の基礎事業、開発すべき諸産業の振興に関するものであり、その後の北海道の開拓・開発の重要な指針となるものであったといわれています。

若き日の依田勉三もまた、その報文を目にし、幼いころから身についていた開拓精神にこれが火をつけたに違いありません。

開拓の開始

こうして、結婚してわずか二年後の明治14年(1881年)、とりあえずは妻をも連れず単身で現地へ渡ることを決め、北海道の中でもとくに人跡未踏といわれるほど険しい原野ばかりであった「十勝」へ向かうことになります。

明治14年(1881年)8月17日に北海道に渡った勉三は函館から胆振、函館に戻り根室に向かい釧路国・十勝国・日高国の沿岸部を調査し、苫小牧・札幌を経て帰途につきます。

さらに翌15年(1883年)、かつて英学塾で同学だった旧上田藩士族・鈴木銃太郎に声をかけ、賛同を得ると彼を連れて再び北海道に渡った勉三は、開拓の目標をいよいよ十勝に定め、当時札幌県に属することになっていた現地で、土地貸し下げの申請まで行っています。

そしていったんは伊豆へ帰郷して、兄の佐二平に十勝の将来性を力説します。このころには製糸業で成功を収めていた佐二平もまたこの弟の熱意に心を打たれ、農場建設のため、自らを社長とする「晩成社」を設立して彼に協力することにします。

社名は「大器晩成」にちなんだもので、たとえ長い年月がかかろうとも、かならず成功させたいという、兄弟の意気込みがうかがわれます。

こうして晩成社を設立した勉三らは、まずは政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け開墾しようと考え、渡辺と鈴木、そして鈴木の父らとともに横浜港から北海道に向かい札幌県庁にて開墾の許可を願い出ます。

この鈴木銃太郎の父は親長といい、英学塾でも親しかった渡辺勝とその妻のカネも含めて全員が洗礼を受けた熱心なクリスチャンだったそうです。勉三だけはクリスチャンではなかったようですが、生涯にわたって勉三の盟友となった彼らの篤い信仰心は、その後の未開地入植において大きな精神的支柱になったようです。

勝と結婚したカネは横浜の共立女学校(ミッションスクール)の英学部を出た才媛で、入植後は、熱心に社員とアイヌの子供たちにも読み書きを教え、「十勝開拓の母」と称されているそうです。

こうして十勝へ向かった彼らは、十勝国河西郡下帯広村(現帯広市)を開墾予定地と定めましたが、この頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだったといいます。

この地に鈴木銃太郎と鈴木親長を残し、勉三は今度はここで働く人材を集めるため、いったん渡辺勝とともに伊豆へ帰り、移民の募集を開始します。その呼びかけによって、13戸27人を集めることができた勉三らは、明治16年(1883年)4月に彼らとともに横浜港を出港しました。

函館に着いた一行は海陸二手に分かれ帯広に向かい、1ヶ月後の5月に帯広に到着。かねてよりの念願であった帯広の開拓を開始しました。

しかし、その開拓への道のりはなまやさしいものではありませんでした。帯広に入った一行をまず鹿猟の野火が襲い、次にはイナゴの大群が襲います。食糧としてアワを蒔き付けますが、天候の不順に見舞われ、ウサギ・ネズミ・鳥の被害に遭い殆ど収穫はできません。

明治17年(1884年)になっても、天候が優れず開墾は遅々として進まず、開拓団の間には次第に絶望が広まっていきます。勉三は内地から取り寄せた米一年分を帯広南部の海岸沿いにある街、大津(現在の豊頃町)に貯蔵しましたが、内陸部にある帯広への輸送が困難な状況でした。

このため食糧不足を打開するため、大津のすぐ近くにあった当縁村生花苗(おいかまない、現在の広尾郡大樹町)で今度は、牧畜を主とした主畜農業を始めます。明治18年(1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指しました。

また、馬鈴薯澱粉などの栽培の研究も始め、農耕の機械化を試みました。しかし始めた事業はどれもうまくいかず、当初13戸あった移民住宅はついには3戸にまで減少してしまいました。

しかし、その後も努力を続けた結果、明治25年(1892年)頃までには、ようやく色々手がけた試みが効を奏するようになり、食糧事情は徐々に好変し、とくに小豆・大豆などの収穫が少しずつ多くなってきました。

とはいえ、当初晩成社の設立に当たっては15年で1万町歩の土地を開墾しようとの目標を掲げていましたが、9年を経たこの時点では目標には遠く及ばず、わずか30町歩を開墾するのにとどまっていました。

兄の佐二平はそんな弟を責めることなく援助を続け、自らの製糸業は好調であったことから、叙勲を受けたのを機会にさらに強気に晩成社の事業を拡大しようとします。そして、会社組織を合資会社とし、社名も「晩成合資会社」と改めました。

函館に牛肉店を開業し、札幌北部の石狩にある当別村に畜産会社を新たに創設。帯広にも木工場を作るとともに、帯広に近い然別村(現在の音更町)には新たな牧場も開くなど、むしろ事業をどんどんと拡大していきました。

明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると、思いがけなく多くの移民が殺到しました。これを追い風として、明治35年(1902年)にはバター工場を創業。他にも缶詰工場・練乳工場等も造るなど、内地での佐二平の財にモノを言わせて、考えられる限りのありとあらゆる事業に進出していきました。

しかし、結局のところ、晩成社が手掛けたこれらの事業は何れも成功することはありませんでした。彼らが手を着けたこれらの事業は、現在の十勝・帯広地方を育む重要な地場産業に成長しましたが、佐二平、勉三が育てた晩成社の経営は、その多角化が裏目に出、やがていずれもが芽を出すこともなく、じり貧に追い込まれていきました。

大正5年(1916年)には、とうとう主な収益源であった売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却せざるを得ないほど業績は悪化し、これを皮切りに他の事業も次々と閉鎖に追い込まれ、晩成社の活動は事実上休止することになります。

それから4年の歳月が過ぎました。この間、なおも勉三は細々ながら帯広開拓を続けていたと思われます。農場経営等の事業は相変わらずも厳しいながら、大正9 年には、現帯広市南部に新たに開いた「途別農場」ではそこそこの収益を上げることができ、その一応の成功を記念して関係者を集めた祝宴を開いています。

久しぶりに鈴木銃太郎や渡辺勝など晩成社同志12人が顔を合わせて、勉三の成功を心から祝ったといわれ、この時、勉三は68 歳になっていました。苦難つづきの晩成社の開拓の歴史の中で、この日だけは最良の日であったと勉三は後年述懐しています。

しかし、その後も経営難をかかえたまま事業を継続せざるを得ず、晩成社の所有地売却などを行いながら、なんとかしのぎを削って生活を続けていました。

そんな中、大正14年(1925年)、勉三は中風症に倒れます。その勉三を献身的に看病をしたのは、二番目の妻のサヨでした。

最初の妻のリクは、勉三とともに当初から帯広で開拓の手伝いをしていましたが、無理が祟って体を壊したため、伊豆へいったん帰国させました。そして明治22 年(1889)に4年間の伊豆療養から帯広に戻りますが、やがて病気が再発。

このため、明治27 年(1894)、勉三はリクと「愛ある離婚」を決意。その療養のため泣く泣く伊豆へ帰しています。その後世話する人があって、再婚したのが翌年函館生まれで、二人の娘を持つ馬場サヨでした。

勉三・サヨの間に千世という男子が生まれますが、わずか二ヶ月で病死。リクと間にも子供を設けなかった勉三は、結局実子には恵まれていません。

しかし、このサヨもまた、勉三への献身的な看病が祟り、大正14年(1925年)の9月に死去。この年の10月には、兄の佐二平も亡くなりました。

そして、その2か月後の12月、勉三もまた、彼らの後を追うように、帯広町西2条10丁目の自宅で息を引き取りました。享年73。

勉三は、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」といいながらこと切れたといいます。

勉三の死後、昭和7年(1932年)には晩成合資会社は解散し、まるでこれと入れ違いのように、翌年の昭和8年(1933年)帯広が北海道で7番目の市制を施行しました。

晩成社設立当初の15 年間の償還期間はその後25 年に延期されましたが、事業が順調に推移しなかったことから、借金も雪ダルマ式に増えていきました。

佐二平の配慮によってさらにこの開拓目標期間は50 年に引き延ばされましたが、それでも成功せず、昭和7年、創業50年満期となったため、莫大な負債をかかえたまま倒産同様に解散したのです。

晩成社員に残された土地も、出資者への配当もなく、勉三所有の土地も一坪もなかったそうで、すべて借財の返済にあてられました。

しかし、勉三が若き日、慶応義塾の福沢諭吉の薫陶を受け・ケプロン報文に出会って北海道開拓の決意を固めた決意は、入植以後約半世紀すこしも揺るがず、十勝開拓の先駆者としてその名をこの地に残しました。

開拓済民の使命感をもって困難な開墾作業にあたり、さらに役所の手続き、農作物の種子肥料・牛馬豚の買い付け、小作人集めなどに東奔西走した苦闘の生涯は、現在でもあらゆる十勝産業の基盤整備の「礎」として高く評価されています。

「ますらをが心定めし 北の海 風吹かば吹け 浪立たば立て」という歌は、依田勉三が若き頃詠った歌とされています。「ますらを」とは、「益荒男」と書き、りっぱな男、勇気のある強い男を意味します。

勉三が北海道入植を決意した際、その強い志を周囲に示すために歌ったものであり、現在でもこの歌だけは、入植者の心意気を示した歌として帯広市民だけでなく、道内では広く知られているようです。

勉三の死後から、16年後の昭和16年(1941年)帯広神社前に銅像が建立され、この銅像は戦時中に金属応召によって供されましたが、昭和26年(1951年)7月に銅像が再建されています。

昭和29年(1954年)9月には北海道開拓神社(現北海道神宮)に勉三は合祀されました。

帯広市の菓子メーカー六花亭が作るお土産物として有名なお菓子、「マルセイバターサンド」は勉三等の晩成社を記念したものだそうです。

このように、帯広開拓を通じての勉三の生涯はけっして平坦なものではなく、その結果も本人に報いるようなものではありませんでしたが、彼の苦闘の生涯は多くの開拓民の中にあっても代表的なものとして数多く記録に残され、その後の北海道を形成した開拓精神を培った人物として高く評価する人も多いようです。

その出身地である伊豆においても、昭和60年(1985年)の4月、出身地である松崎町では勉三と兄の佐二平、土屋三余の3人の偉業を讃え、第1回中川三聖まつりが開催されました。以後毎年4月第1日曜日に開催され、現在に至っています。

北海道でも、平成元年(1989年)に、明治26年(1893年)から大正4年(1915年)頃まで勉三が当縁村生花苗で住んだ住居が復元され「依田勉三翁住居」として大樹町の史跡の一つになるなど、もうすぐ死後100年になろうとしている昨今、その業績を再評価する動きも高まっているようです。

10年ほど前の平成14年(2002年)には、勉三が十勝の開拓を始めた開基120年を記念して、勉三の生涯を綴る映画「新しい風 – 若き日の依田勉三」が製作され、この作品は第38回ヒューストン国際映画祭でグランプリに輝いたそうです。

勉三役は北村一輝さんだそうで、無論私もこの映画はみたことがありませんが、今度TSUTAYAででも探してみようかと思っています。みなさんもビデオ屋さんでみかけるかもしれませんので、気に留めておいてください。

さて、今日も今日とて長くなりました。この項は終わりにします。

明日はひさびさの雨模様のようです。せっかくの週末なのに……ですが、あさってには回復するとのこと。このあいだ行けなかった、奥の院にも行かなくてはいけません。新緑は始まったばかりかと思っていましたが、日に日にその緑も深くなりつつあります。

手遅れにならないうちに、思う存分、新緑狩りに出かけることにしましょう。

コークと呼ぼう!

ゴールデンウィーク明けの昨日、冷蔵庫の中身が乏しくなったので、買い出しに出かけました。

途中、修善寺温泉街を通ったのですが、つい先日までの喧騒とはうってかわって、人もまばらのひなびた温泉街に戻っており、あぁようやく静かになった……と、ホッとしたような寂しいような妙な気分になったものです。

観光地に住んでいるというのは、人に自分がどんなところに住んでいるかを説明する時にはわかりやすくて良いのですが、いざ実際に住んでみると、有名な場所であるがゆえの喧騒に巻き込まれることも多く、これはこれで大きなデメリットでもあります。

しかし、こうした観光地が人々の耳目を集めるというのはやはり、景色なり風情なりの何等かの「美」があるがためであり、そう考えると、今住んでいる土地柄がことさらのように誇らしく思えて来たりします。

こういうのが「地元意識」というのかなぁと、引っ越してきて1年あまりに過ぎないのですが、そうした自覚が芽生えている自分を最近不思議な気分でながめていたりします。

さて、今日の話題です。今日は、かの有名な清涼飲料水「コカ・コーラ」が誕生した日だそうです。

アメリカで薬屋を営んでいた、ジョン・ペンバートンという人が、カフェインとコーラの木の抽出液、そして多数のオイルを使って「発明」したもので、後年、その販売権を獲得したエイサ・キャンドラーが、1890年これを商標登録し、販売を開始しました。

1890年というと、日本では明治23年であり、この年、第1回衆議院議員総選挙が行われ、東京・横浜で、日本で初めて電話交換業務が開始された年であり、ようやく江戸時代の眠りから覚めて、文明国として本格始動をし始めたころのことです。

そんなころにもう、アメリカではこんなハイカラなものを飲んでいたのか、と思うのですが、実は、このコーラ、その5年ほど前に「薬用酒」として売り出されたものだったそうです。

発明したペンバートンは、ジョージア州、アトランタの人です。アトランタは、このときからおよそ20年前におこった南北戦争(1861~65年)が終結した土地でもあり、ペンバートン自身も、南部連合国の軍人でした。

戦後、ジョージア州のコロンバスで薬剤師を営むようになっていましたが、ペンバートン自身も南北戦争で負傷しており、その後遺症に苦しみ、モルヒネを常用するようになりました。

しかし、その飲みすぎから中毒になり、化学者でもあった彼は、ワインに「コカイン」と「コーラ」のエキスを調合した「フレンチ・ワイン・コカ」でこの中毒をコントロールすることを思いつき、その研究を始めました。

このころのアメリカは、南北戦争の戦後まもなくのことであり、退役軍人の間では、薬物中毒やうつ病、アルコール依存症が蔓延し、南部の女性は神経衰弱症で苦しむ人が多かったといいます。

そんな中で、彼の作ったこの「フレンチ・ワイン・コカ」は、特に女性や、神経衰弱や胃腸、腎臓の痛みに悩むデスクワーク従事者、神経強壮薬や刺激剤を必要とする人達などに効果があると宣伝され、「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博しました。

コカ・コーラの誕生

「コーラ」というのは、アフリカの熱帯雨林に植生するアオイ科の常緑樹で、アーモンドやコーヒーの樹に少し似ています。この木の種は、「コーラ・ナッツ」と呼ばれるもので、大きさはやや小さめのクリの実ほどの大きさで白色から赤色に変色します。

アフリカの部族ではその昔、族長や客に出される貴重品であり、実を少しずつ噛み砕いて楽しむ嗜好品として用いられました。噛むと強い渋みを感じますが、1~4パーセント程度のカフェインを含んでいるため、一時的に空腹感を減らすことが出来ます。

しかし、産地であるアフリカでは一般にはほとんど消費されず、嗜好品の多くが禁じられているイスラム文化においては、コーラ・ナッツだけは唯一許された興奮剤であったため、古くからサハラ交易によって中東に渡り、市場などで取引されていました。

一方、「コカイン」というのは、「コカ」というアメリカ原産の樹木の葉っぱから抽出できる、いわゆる麻薬です。現在でも南米諸国ではその葉を茶として飲用するなど、一種の嗜好品や薬用として昔から利用されています。

コカの葉自体は、コカイン濃度が薄いため依存性や精神作用は非常に弱いものです。しかし、コカを抽出し、精製して作られるコカインには、中枢神経を刺激して精神を興奮させる作用があります。

精神的な疲労を回復させる反面、アルコール飲料と同様に幻覚や妄想を生じ、精神毒性を示し攻撃性が増したりするとの説があり、コカの葉は、薬物依存を形成して常習化するとされて、多くの国で麻薬として扱われ、使用・所持・販売が規制されているのはご存知でしょう。

後年、このフレンチ・ワイン・コカの販売権を得たフランク・ロビンソン(Frank Mason Robinson)はこれに「コカ・コーラ」という名前を付けました。

この名前は前述の2つの主要な原料を示しているわけですが、その名前の中にコカインを連想させる言葉が入っていることは後年、議論を呼んだようです。

しかし、ペンバートンが最初に売り出したときには、多くの栄養機能表示を付け、「おいしくて、リフレッシュでき、スカッとして、爽快な」頭痛を癒し、疲れを取り除き、神経を落ち着ける飲み物として市場に投入しました。

この当時はコカインもアメリカの街中で普通に売られていたようですが、市中に出回っているコカの葉一枚に含まれるコカインが15~35mgだったのに対して、フレンチ・ワイン・コカのオリジナルのレシピには8.46mgと半分以下のコカインしか含まれていませんでした。

とはいえ、いくら表現をつくろってみても、コカインが含まれていることには間違いありません。

しかし、もともとはペンバートンが自らのコカイン中毒を緩和するために調合したものであるだけに、コカインの麻薬としての作用はコーラの実に含まれるカフェインによってかなり中和することができました。

このため、ペンバートンはむしろ開き直って、このコカ・ワインを、様々な効能の他に、モルヒネやアヘンの中毒の治療にも使えると宣伝していました。

ところが、少量とはいえやはり麻薬が含まれていることがやがて問題となるとともに、禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきました。

禁酒運動とは、その教義により基本的には刺激物の摂取をタブーとするキリスト教の教職者らによって、19世紀後半からヨーロッパを中心に起こってきた運動です。

アメリカ合衆国でも1869年に政党として禁酒党(Prohibition Party)が結成され、以後、大統領選挙では当選の見込みがないにもかかわらず、たびたび20万票台を集めるなどの広い支持を得ていました。

アメリカ全土で連邦禁酒法が施行されたのは、1919年からでしたが(~1933年まで)、南部各州ではそれに先立って禁酒法が制定され、1885年、アトランタでも禁酒法が施行されました。

このため、ペンバートンは、アルコールであるワインに代えて炭酸水を用い、これに風味付けをして、「シロップ」として売り出すことにしました。

これが、現在まで飲み続けられている「コカ・コーラ」の発祥であり、このとき、ペンバートンのビジネスに参加したのが、友人の印刷業者、フランク・M・ロビンソンであり、「コカ・コーラ」の名称もこの人が考案したものです。そして、その発売日こそが、1886年の今日、5月8日でした。

コカ・コーラ・カンパニーの誕生

ペンバートンのコカ・コーラはビジネスとして成功しました。しかし、このころ彼の健康状態はかなり悪化しており、そのわずか2年後には亡くなっています。

そして、生来あまりお金には執着のない性格だったのか、あるいはその死期を悟ってこの世にモノを残しても仕方がないと思ったためか、その生前、ペンバートンはコカ・コーラの権利をたった1ドルで売却してしまっていました。

その後、この当時のアメリカの商標権制度が未熟であったこともあり、この権利はこの後も数年人から人へと移り続け、裁判で争いになることもしばしばだったといいます。

結局、1888年にその権利は後にアトランタ市長になる「エイサ・キャンドラー」の手に落ち、キャンドラーはペンバートンの息子らと共に新会社を設立します。

これが現在も、“Coca-Cola”のロゴを有する、のちの「コカ・コーラ・カンパニー」の前身です。おいしく、さわやか(Delicious and Refreshing)をキャッチフレーズに一杯5セントという格安の値段で大量販売し、キャンドラーのコカ・コーラ社は多大の収益を得てその生産基盤をアメリカ中に広げていきました。

コカ・コーラがこれほどの収益をあげることができたその最大理由は、その原液のトレード・シークレットにあります。「フォーミュラ」もしくは「コーラレシピ」とよばれるその組成を社外に出すことを禁じ、厳しい機密保護に徹したことがその成功の要因でした。

コカ・コーラ社のフォーミュラいまだに非公開であり、フォーミュラについての文書は、1919年からはアトランタの某銀行の金庫に融資の担保として厳重に保管されていたといいます。

その後、コカ・コーラ・カンパニーでは、一度だけその味を変えて新しいコーラとして売り出そうとしました。そして、1984年に実施されたその「カンザス計画」と呼ばれるプロジェクトにおいては、フォーミュラが完全に変更された新しいコカ・コーラが実際に販売されました。

しかし、その新しい味は市場では受けいれられず、抗議運動まで起こったことから3か月で元に戻され、以後は現在に至るまでほんの小さな変更が一度だけ加えられただけです(後述)。

後年、その成分や内容については真偽不明の情報がしばしば出回るようになり、これらのレシピにより類似品も作られましたが、それでもコカ・コーラの味や香りを完全に再現することはできませんでした。

コカ・コーラの風味は、トップシークレットの香料7xと柑橘系およびスパイス系のフレーバー7~8種類程度の配合によるものと言われています。7xとは、レモン・オレンジ・ナツメグ・シナモン・ネロリ・コリアンダー、そして脱コカイン処理されたコカの葉の7種(またはコカの葉がない6種)をアルコールで抽出したものだと言われています。

7xとその他のフレーバーの配合レシピのことを「フォーミュラ」と呼び、この7xの成分こそがコカ・コーラ社のトップシークレットであり、成分を知っているのは最高幹部のみでした。

ところが、2011年2月、アメリカのThis American Lifeというラジオ番組が、このコカ・コーラ社の最高機密とされる香料「7x」の調合割合を発見したと公表して世界を驚かせました。

この番組のプロデューサーが、ザ コカ・コーラ カンパニーの本社のあるアトランタの地元紙The Atlanta Journal-Constitutionの記事をみつけて公表したもので、その1979年2月8日付けの記事には、コカ・コーラの発明者ジョン・ペンバートンが手書きしたレシピとされる写真が添えられていたそうです。

写真から読み取れるレシピは、以下の通りです。

コーラシロップ 米国薬局方コカ流エキス 3ドラム
クエン酸 3オンス
カフェイン 1オンス
砂糖 30(単位は不明瞭だが、おそらくポンド)
水 2.5ガロン
ライムジュース 2パイント (1クォート)
バニラ 1オンス
キャラメル
カラメル 1.5オンス(より着色するにはそれ以上)

7X 香料(5ガロンのシロップに対し、2オンス混ぜる) アルコール 8オンス
・オレンジオイル 20滴
・レモンオイル 30滴
・ナツメグオイル 10滴
・コリアンダー 5滴
・ネロリ 10滴
・シナモン 10滴

これを見て、自分でもコカコーラを作ってみようと思う人がどれだけいるかわかりませんが、本物かどうかは別として、これだけはっきりしたことが書いてあれば、調合してみようかという気にもなります。が、わけのわからんものも多いようです。「ネロリ」って何なのでしょうか?

この発表に対して、コカ・コーラ カンパニーは「アトランタの銀行の金庫に保管されている本物のレシピと、写真のレシピは異なる」とコメントし、このレシピの真実性を否定したそうですが、仮に本物だったとしても、「本物ですよ、どうぞどうぞマネしてみてください」とは言わないでしょう。

その裏を読めば、本物なのかもしれませんから、みなさんもこれをもとに「マイ・コーク」を造ってみてはどうでしょう。

この「ネタバレ」?がショックだったためかよくわかりませんが、コカ・コーラ・カンパニーは、2011年12月、「創業125周年記念事業の一環」と称して、アトランタに新しいコカコーラの博物館を建設してここに金庫的な保管施設を造り、アトランタの某銀行からフォーミュラを取り戻してこちらに移しています。

従来の保管場所にはセキュリティの面で問題があり、誰かがそのレシピを秘密裡にコピーでもしたのかもしれず、この移転はそのためかもしれません。想像の域を出ませんがその可能性はあります。

「ワールド・オブ・コカ・コーラ」と呼ばれるこの博物館のその一角にその金庫室が今もあるそうですが、博物館を作ったからといってフォーミュラが公開されているわけではありません。しかし、これで盗まれる心配はないと判断したのか、この施設は一般人でも見学することが可能になっているそうです。

ところが、そのわずか数か月後、さらにその成分をめぐって、コカ・コーラ・カンパニーの土台を揺るがすような事件がおこります。

2012年3月、コカ・コーラ特有のあの黒い色を形成する、「カラメル色素」に発癌性物質が含まれていると発表されたのです。

カリフォルニア州法の発がん性物質リストに、4-メチルイミダゾールという物質が、摂取上限値29µg/dayとして追加収録されることになり、これが含まれている食品が調査されたところ、コーラ類飲料にも355ml缶1本につき100µg超が含有されていることがわかりました。

このため、コカ・コーラ・カンパニーでは、そのボトルに「リスク警告表示」をするか否かが議論されましたが、結局は、それは望ましくないと判断し、創業以来二度しか変えたことのないレシピの再変更を余儀なくされました。

実は、コカ・コーラは、創業以来、二度そのレシピを変更しています。二番目の変更は前述の1984年の「カンザス計画」ですが、最初の変更は1903年であり、このときの原因は、アメリカ国内でのコカイン販売が禁止されたことにありました。

このとき、創業者のキャンドラーはアメリカ食品医薬品局(FDA)とカフェインを入れる入れないをめぐって長きに渡る紛争を行っています。

FDAは、コカ・コーラに含まれているカフェインの毒性やボトリング工場の衛生の悪さを問題視し、その後、1909年には原液を押収した上で裁判に訴えるまでの事態に発展しましたが、結局のところ、FDA側の訴訟内容に問題があり、また証人の主張が余りに不適切に過ぎたことなどのため、キャンドラーとコカ・コーラ社はこの裁判に勝ちました。

しかし、この紛争は広くアメリカ中に知れ渡るところとなり、原液に多量の麻薬が含有されているとの噂が喧伝されることを恐れたコカ・コーラ・カンパニーは、このとき創業以来初めレシピを変更し、カフェインの量を減らしたのです。

新生コカ・コーラ・カンパニーの誕生

ところで、コカ・コーラがその販売当初から独占的にその販売を専守できたのは、このようにそのレシピの秘密の保護のためでもありましたが、その販売において、この時代ではめずらしい「瓶詰め方式」の販売方式を採用したこともその成功の要因であるといわれています。

1899年にコカ・コーラ社の顧問弁護士であったベンジャミン・フランクリン・トーマスとジョセフ・ブラウン・ホワイトヘッドが、キャンドラーに直談判してコカ・コーラの瓶詰めの権利を取得するように勧めます。

2人はそれぞれコーラを瓶詰めする専用会社「ボトリング会社(親ボトラー)」を創立し、その会社がさらに全米各地の「ボトリング工場(現地ボトラー)」とフランチャイズ契約することでコカ・コーラは広く全米に普及していきました。

ただ、最初のうちはボトリング技術の未熟から瓶が爆発する事故も頻発しました。このため、1913年には品質管理と訴訟対応のために「ボトラー協会」という組織をつくり、その対応を行わせるようになり、1916年にはそえまでは工場毎にバラバラだったコーラの瓶の形状も統一し、標準化を行いました。

最近では、コカ・コーラといえば缶入りが主流であり、ほとんど瓶入りのものを見ることはなくなりましたが、このコーラボトルを収集するマニアが世界中におり、この標準化前のコーラのボトルやその王冠はマニアの垂涎のもとといわれます。

いくらぐらいするのか真剣に調べたことはありませんが、初期のものだとン万円はするのではないでしょうか。

さて、FDAとの紛争に決着がつき、キャンドラー率いるコカ・コーラ・カンパニーは、第一次世界大戦下の砂糖相場の乱高下も無事に乗り切りました。

しかし、1919年に投資家の「アーネスト・ウッドラフ」がキャンドラーにコカ・コーラ社を売ってくれないかという話をもちかけます。

FDAとの抗争に明け暮れ、かなりうんざりしていたキャンドラーはこの話に乗り、多額のキャピタルゲインを得て経営から手を引き、こうして新たにウッドラフによってデラウェア州に新しいコカ・コーラ・カンパニーができ、キャンドラーが作った前身の会社から商標と全事業を引き継ぎました。

このため、現在のコカ・コーラ・カンパニーの社史でも、公式的にはその創立は1919年になっています。

この買収から4年後の1923年には、アーネストの息子の「ロバート・ウッドラフ (Robert W. Woodruff)」が父親の反対を押し切って社長の座に就きます。以後ロバートは60年以上も同社に君臨し、世界に名だたる現在のコカ・コーラ・カンパニーの礎を作っていくことになります。

その後、1930年代に入るころには、ライバルのペプシコーラが低価格路線で販売攻勢に打って出てコカ・コーラの地盤を脅かし始めました。

ペプシコーラもまた、1894年にノースカロライナ州の薬剤師、「ケイレブ・ブラッドハム」が消化不良の治療薬として売り出した飲料に起源とするコーラです。当初の処方では消化酵素のペプシンが含有されていたので、1898年にペプシンに因んでペプシコーラと名前を変更しました。

1890に発売されたコカ・コーラよりも8年遅い発売でしたが、歴史的にはほぼ同時代であり、その意味でもこの二社は永遠のライバルです。ペプシコーラについても、長い歴史がありますが、今日のところはあまりふれないでおきましょう。

こうした強力なライバルが徐々にシェアを伸ばしてきたことから、その後コカ・コーラは、海外へも進出するようになります。

コカ・コーラ本体が原液を製造・供給して、ボトラーが瓶詰めするというスタイルは海外でも採用され、特にドイツで売り上げを伸ばしました。1930年のベルリンオリンピックでは、コカ・コーラが「正式ドリンク」に採用されるなどのラッキーもあり、新しい飲み物として世界中に広まっていきます。

しかし、第二次世界大戦が勃発し原液の輸入が制限されるようになり、何とか原料をやり繰りしながら、乳清とフルーツの絞り粕を原料に新たに飲料を製造。これが「ファンタ」と名付けられ、後にコカ・コーラと並んで、コカ・コーラ・カンパニーの代表的な商品として世界的にヒットすることになりました。

第二次世界大戦が始まると、ロバート・ウッドラフは以下の様に宣言し、戦争への協力姿勢を示しました。

「我々は、軍服を着けた全ての兵士が何処で戦っていようとも、またわが社にどれだけの負担がかかろうと、5セントの瓶詰めコカ・コーラを買えるようにする」

これが、アメリカ国民の心情を強くうち、またロバートら経営陣が議会などでのロビー活動を熱心に行った結果、コカ・コーラは「兵士たちの士気高揚に果たす重要な役割」を持つ「軍需品」として認可されます。

戦時中も砂糖の配給制が免除されるなどの特典を受けることができ、さらには政府の出資で世界60ヶ所にボトリング工場が建設され、そこで働くスタッフは技術顧問として軍人同様の待遇が与えられました。

「戦争に寄与する企業」ということで、アメリカ軍部にも受けがよく、中でも連合軍の最高司令官であったドワイト・D・アイゼンハワーは、1943年6月に指揮下の陸軍参謀総長に、「300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし」という電報を送ったそうです。

指揮官ばかりでなく前線で戦う兵卒にも、コカ・コーラは大人気だったようで、イタリア戦線ではコカ・コーラ1瓶が4,000ドルの値をつけたこともありました。

さらに、コカ・コーラの空き瓶は、電気絶縁体の代用、戦闘機のタイヤをパンクさせるため、中に火薬を詰めて「爆弾」として使用されたほか、非常食とするウミガメを捕るための棍棒として使われたり、「小便器」としても使われたという記録があるようです。

このほか、戦場では瓶を詰めるケースは郵便箱や道具箱として重宝したようであり、コカ・コーラで歯磨きをする兵士まで現れ、兵士の中には戦場でできた恋人にコカ・コーラで「あそこ」を洗うのを薦める者もいたそうです。

さらには、ある将校が、カンヌの将校クラブでカトリック教会の神父相手に話をしていたおり、「コカ・コーラで法王に祝福を受けて貰えば?」と冗談交じりに話したところ、その後戦地に赴いていたその神父が、聖水の代わりにコカ・コーラで洗礼を施していたのが目撃された、というウソのような話まであるようです。

こうして第二次世界大戦でアメリカ軍の「軍需品」として世界に広まったコカ・コーラは、その後現在に至るまで、世界に名だたる飲料メーカーとして君臨し続けています。

ソビエト連邦への進出は1978年まで待たねばならず、中東でも進出が進みませんでしたが、中国へは、1978年にアメリカ企業として早々と進出を決めており、冷戦が終わった現在では、中東も含めたほぼ世界中でコカ・コーラは飲まれています。

コカ・コーラと都市伝説

これだけ、世界的な商品になりながら、今だにそのレシピが公開されていないという「謎」を抱えたまま大衆に迎合されたコカ・コーラは、「不思議な飲み物」として数多くの都市伝説を生んできました。民間伝承(フォークロア)とひっかけて、コカ・コーラに関する都市伝説は諧謔的に「コークロア」とも呼ばれています。

多くの都市伝説同様、コークロアもそのほとんどが部分的に真実を含んでおり、それを元に誇張されています。

例えば、「コカ・コーラの瓶は女性のボディーラインを参考にした」というのがあり、これは、コカ・コーラの独特の「くびれ」のある瓶(コンツアー・ボトル)は、女性のボディーラインを参考にデザインされたものと言われています。

無論、これは事実ではなく、こうした特徴的な形状にした理由は、暗闇で触ってもすぐにコカ・コーラとわかるようにするためと、無数のコカ・コーラの偽物が出回ったので類似品対策として複雑な形の瓶にしたためです。

また、「コカ・コーラには辛口と甘口がある」というのもあります。コカ・コーラのガラス瓶には、側面下部に四角型または丸型のへこみが刻印されており、この刻印が四角型の瓶は炭酸の強い「辛口」であり、刻印が丸形の瓶は炭酸の弱い「甘口」であるという、都市伝説がかつてありました。

実際には、この「刻印」はボトルを製造するプロセスでボトルを機械が保持するための「手掛かり」であり、瓶製造メーカーの工場設備によってそれぞれ丸型・四角型などの色々な形状のものがあっただけのことでした。製造工場ごとに異なる刻印がなされたため、ボトラーによる回収再使用過程において、刻印の異なる瓶が混ぜられて出荷されたのです。

ちなみに日本では、丸型が石塚硝子製、四角型が日本山村硝子製となっています。当然ながら、同じコーラの風味に、甘口・辛口とされるような違いがあるわけはありませんが、こういう噂が広まれば、そういえば昨日のコーラは辛かったな、などと思う人もいたかもしれません。

「サンタクロースが赤い服を着ているのはコカ・コーラのCMが元祖」というのもあります。

この都市伝説によれば、サンタクロースはもともとの伝承では緑の服を着ていましたが、コカ・コーラ・カンパニーが看板のCMで、現在のコカ・コーラのシンボルカラーである赤い色の服を着たサンタクロースを登場させたため、赤い服のサンタクロースが広まったことになっています。

しかし、実際には、ニューヨークの画家で、トーマス・ナストという人が19世紀に描いた聖ニコラウス像において、ニコラウスが赤いマントを羽織っていたため、このマントが変化してサンタクロースの赤い服になったのが史実だということで、コカ・コーラの宣伝とは全く関係ありません。

さらには、「コカ・コーラは民主党、ペプシコーラは共和党」というのがありますが、これはまったく根拠がないわけではありません。コカ・コーラ社はロビー活動の関係から民主党に親しい議員が多く、ペプシコーラ社のほうは、共和党とつながりが深いというのは事実のようです。

しかし、「米大統領が代わると、ホワイトハウスのコーラも代わる」というのは行き過ぎであり、あくまで噂の範囲を出ません。前述のとおり、共和党出身の大統領だったドワイト・D・アイゼンハワーは、戦時中にコカ・コーラを推奨しています。

このほかにも、コカ・コーラ社が香料のレシピを公開していないことから、原材料に関してもさまざまな都市伝説が生まれており、そのひとつには、コカ・コーラのレシピを知っているのは2人の重役だけというのもあります。

2人であるその理由は、1人が突然事故などで死んでももう1人が知っているので存続できるというものであり、それゆえこの2人が同じ飛行機に搭乗することはないというのですが、これも、レシピは金庫に大事にしまってあるわけであり、そんな必要があるとは思えません。

また、ブタの血が材料に含まれているという噂が流れたときには、ブタの食用を禁じるイスラム教徒への売り上げが激減したといい、オーストラリアでは、アポロ計画で月から中継された映像で、宇宙飛行士がコカ・コーラの瓶を蹴っていたという噂が流れました。

このほかにも、1970年代から1980年代前半頃には「コカ・コーラを飲むと骨が溶ける」というのが流行したため、この当時コカ・コーラ社では、この噂のためにわざわざパンフレットまで作成して配布しています。

その中では、「確かに魚の骨をつけておくと溶けてしまう」ことをあっさりと認めており、しかし、魚の骨は人間の骨と成分が違うこと、通常人に飲用されたコカ・コーラは消化器官を経由し、骨に触れるころには別な成分に変質しているため、コカ・コーラを飲み続けると、骨がもろくなったり、溶けることはないと説明していたといいます。

さて、このあと、日本におけるコカ・コーラ……と書こうと思いましたが、はっと気が付くともうかなりの分量をかいてしまっています。そろそろ終わりにしましょう。

窓の外をみると、今日は昨日降った雨のせいか、空気が清浄なようで、富士山がくっきり見えます。

先週まではゴールデンウィークということで、活動を「自粛」していましたが、そろそろ動きだそうかな……という気になってきています。庭の手入れもしないといけませんが、あとひと月もすれば、うっとうしい梅雨が来ることを考えれば、今のうちに行けるところへは行っておこうかなという気にもなります。

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。休み明けで少しだるいな~と思っている人も多いかと思いますが、あともう少しでまた週末です。お天気がよければまた、伊豆方面へもお出かけください。こちらも良い情報があればまたアップしてみたいと思います。

ディーゼルって、なぁに?

ゴールデンウィークも今日で終わりです。

連休中の伊豆は、どこもかしこも他県ナンバーがひしめいていて、やはり交通量はふだんより倍増しています。人ごみが大っ嫌いな私は、この連休中はなりをひそめ、家に引きこもろうと考えていたわけですが、あまりにも連日お天気が良く、とうとうあきらめて?、昨日は松崎まで行ってきました。

町内を流れる那賀川沿いのサクラのレポートを先月したばかりですが、この桜並木のすぐ脇にある休耕田に、地元の有志によって植えられているお花畑が、昨日5日限りで閉鎖になり、今日からは本来の目的である田んぼに供するために、お花が刈り取られます。

その最後の日には、毎年、自由に植えられたこのお花を切り取ってもらってかまわない、というサービスがあり、これをネットでみつけたタエさんが、行きたそーにヨダレを流していたので、しょうがないなー、じゃあ行くか、としぶしぶ腰を上げたのでした。

そのレポートを今日しようかとも思ったのですが、まだ写真の整理がつかないのでまた今度にしようと思います。お花畑から摘み取ってきた、矢車草やポピーなどの大量の花の束が、洗面所のバケツに生けられている、とだけ今日は書いておきましょう。

さて、先日の日経新聞に、こんな記事がありました。

“マツダや欧州の自動車大手は日本国内でディーゼルエンジン車の市場を本格的に開拓する。マツダは2014年に全面改良する「デミオ」に同エンジンを搭載、他の車種と合わせ年間10万台の販売をめざす。 欧州勢を含め、今後2年間に5種以上のディーゼル車が発売される見通しで、年間販売台数は、国内市場の1割に近くに達する可能性がある。”

クルマ好きの私は、本屋に行くと、必ずこれからどんな車が出るかを見るために、各モーター誌をざっとぜんぶ拾い読みするほどですが、新聞でもこんな記事をみると、あぁこれからはいよいよディーゼルエンジン車か……と思ったりもします。

トヨタのプリウスの成功以来、ホンダを始め、自動車メーカー各社ともハイブリッド車の開発に力を入れていますが、ここへ来て、ディーゼル車ががぜん注目を集めはじめているようです。

日本ではまだまだ普通乗用車にディーゼルエンジンを積んでいるモデルはあまり多くありませんが、ヨーロッパでは既にかなりのシェアを占めています。

西ヨーロッパ全体では、新車乗用車販売に占めるディーゼル車のシェアは2007年に53.3%にも達したそうで、ベンツなどを輸出する自動車大国のドイツでも、1995年のシェアはわずか15%だったものが、2005年には、42.7%に急上昇、その後も拡大を続けています。

ほかにも、イギリス 36.7%、イタリア 58.4%、スペイン 68.4%、フランス 69.1%など、先進国の多くではディーゼルエンジンが主流を占めています。

それにしても、ディーゼルエンジンというのは、よく聞く名前ではありますが、そもそもガソリンエンジンと何が違うのか、なぜこれまでは乗用車にはあまり積まれてこなかったのか、ということに疑問を抱いている人は多いのではないでしょうか。

私もディーゼルといえば、軽油や重油を使い、やけにうるさいエンジン、というぐらいの知識しかなく、ガソリンエンジンとの違いもはっきりとは理解していなかったため、改めてスタディしてみることにしました。

ディーゼルエンジン (diesel engine)とは、ディーゼル機関とも呼ばれ、ドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルが発明した内燃機関です。1892年に発明され、その翌年にディーゼルはこの技術で特許を取得しています。

ピストンによって円筒形の筒(シリンダー)の中の気体を圧縮し、燃料となる軽油などと混ぜて着火、その爆発力でピストンを回す仕組みなのですが、ガソリンエンジンでは、シリンダーの中に最初から空気とガソリンを混ぜた混合気体を入れて圧縮するのに対し、ディーゼルエンジンでは、はじめに空気だけを圧縮します。

そしてシリンダー内の空気が圧縮されてかなり高温になったところで、あとからここに燃料を噴射して一気に燃焼させる、というところがガソリンエンジンと根本的に違います。

その利点は後述しますが、このしくみにより、ディーゼルエンジンは、ガソリンエンジンなど、他の実用的な内燃機関と比べても、もっとも熱効率に優れる種類のエンジンとなり、また、ディーゼルエンジンには軽油や重油しか使えないと思っている人が多いようですが、普通のガソリンなどの他にも、さまざまな種類の液体燃料の使用が可能となります。

こうした汎用性の高さから、これが開発されて以来、小型高速機関から巨大な船舶用低速機関までさまざまなバリエーションが作られるようになり、またたくまに世界中で使われるようになりました。

「ディーゼル」の名は、無論、発明者にちなむものですが、日本語表記では一般に普及した「ディーゼル」のほか、かつては「ヂーゼル」「ジーゼル」とも表記されたようです。

日本の自動車整備士の国家試験では、いまだに正式名称を「ジーゼルエンジン」としているそうで、商標としても「ヂーゼル機器」「○○デイゼル工業」などとしているメーカーもあるようです。

ディーゼルエンジンは内燃機関の中で最も優れているといわれるその最大の理由は、さきほども述べたように最初に空気だけを圧縮するという点です。はじめから燃料を加えて圧縮しないため、燃料消費量を少なく抑えることができ、つまりは熱効率に優れ、しかもあとから加える燃料も低精製のものでOKです。

しかし、圧縮によって吸気を高温にする、というのはかなり高い技術が必要であり、とくに高圧縮比(シリンダ内の最初の容積と圧縮後のシリンダ内容積の比)が要求されます。高い圧縮比を求めようとすれば、当然機械的にも高い強度が必要です。

部品を丈夫にしようとすれば嵩ばるだけではなく、また、エンジンを動かす各部の部品の重量も重くなり、機械的損失も大きくなりますし、コストもかかります。

デトネーションとノッキング

しかし、吸入した空気を圧縮し、その中に燃料を噴射して自分で発火させる「圧縮着火方式」であるため、空気をチャージする、これを「過給」といいますが、過給を行なってもガソリンエンジンで問題となるノッキングやデトネーションがディーゼルエンジンでは起こりません。

ガソリンエンジンでは、燃焼前のシリンダーに混合気を吸入し圧縮するため、過給に伴うデトネーションが避けられず、その対策として圧縮比を下げることなどの対策が必要になりますが、ディーゼルエンジンでは空気だけの圧縮のためこうした問題がほとんどありません。

ノッキング(knoking)やデトネーション(detonation)というのは、ガソリンと空気を一緒にし、霧状にした気体を圧縮する際に異常燃焼が起きることで生じるガソリンエンジン特有の現象です。

ガソリンエンジンの圧縮行程では、高温になった空気+ガソリンの混合気が予定していた点火前に自然発火してしまうことがあり、これは主として燃料のムラなどからシリンダー内に非常に高速な、いってみればプラズマのような高温の火炎が生じてしまう異常燃焼現象が起きることがあります。これがデトネーションです。

古い車を運転したことがある人は経験があると思いますが、デトネーションが起きると、エンジンは小刻みな「小振るい」をしはじめ、ついには止まってしまうか、あるいはガクッガクッと、まるでクルマ全体がロデオにでものっているような「しゃっくり」をはじめます。これが「ノッキング」といわれる状態であり、その原因がデトネーションです。

その原因は、空気と燃料の混合気における燃料の薄すぎなどによる燃料ムラなどのほか、圧縮比が高すぎた場合、エンジンと相性の悪いガソリンを使用したことなどの原因で発生します。

こうした異常燃焼が発生すると、ピストンが溶けるなどエンジンに致命的損傷を受けることすらあり、古いガソリンエンジンではこうしたトラブルがしょっちゅう発生していました。最近の車ではほとんどなくなりましたが、経験された方も多いのではないでしょうか。

デトネーションを避けるためには、燃料のムラを解消し、エンジンにあったガソリンを選ぶなどの対策が必要であるほか、その場しのぎでは圧縮比を下げるという対策も有効です。

最近は技術の向上により、燃料ムラは解消され、また、ガソリンの種類を選ばずにエンジンがこれに対応できるようになったため、ほとんどこうした現象はみられなくなりましたが。

これに対して、ディーゼルエンジンでは、空気を圧縮したあとにガソリンを注入して即座に着火する方式なので、デトネーションを起こしません。圧縮するのも空気だけなので、これを圧縮する過給機にも異常が起こりにくく、このため「過給」というプロセスとも相性がよいといわれます。

過給器とは

ここで、過給機についても説明を加えておきましょう。

前述のとおり、過給機とは、エンジンのシリンダー内へ空気を強制的に送り込む装置です。ジェットエンジンなどにも同じものが圧縮機として用いられますが、こちらは、過給機そのものがエンジンといってよく、クルマのエンジンについているものとは少し違います。

違いますが、空気を圧縮するための装置という意味では原理は同じです。過給機は英語では、“super charger”と書きます。その響きからも、すごい圧力で空気を「チャージする」機械だということが伝わってくるでしょう。

その圧縮の方法は基本的には二つあります。そのひとつは、いわゆる「タービン」を用いたもので、「排気タービン式過給機」または、「エキゾーストタービンスーパーチャージャー(Exhaust turbine super charger)」と呼びます。

またもうひとつは、砂時計のような形の「カム」などの機械部品を組み合わせて駆動させる、機械駆動式の過給機であり、こちらは、「メカニカルスーパーチャージャー(Mechanical super charger)」と呼ばれます。

一般的には、前者は、ターボチャージャー(turbo charger)、と呼ばれ、後者がスーパーチャージャー(Super charger)と呼ばれます。

機械式のほうが最初に発明されたため、「スーパーチャージャー」を過給機全体の呼称として使われることが多くなっていますが、もともとはこの過給機のひとつである、機械式のものをスーパーチャージャーと呼んでいたのです。

スーパーチャージャー(機械式)は、エンジンの燃焼室で空気を圧縮するピストンに付いている「クランクシャフト」の動きを利用して動かされ、このクランクシャフトからベルトなどを介して取り出した動力によって圧縮機(コンプレッサー)を駆動し、空気を圧縮するしくみになっています。

元々は溶鉱炉などの「送風機」として開発された方式で、初期のものは砂時計、あるいはヒョウタンのような形の二つのローターがかみ合うことで送風する形式でした。最初は、二葉式でしたが、次第にねじれた三葉式のものが用いられるようになるなど次第に複雑化し、近年では四葉のものも開発されています。

実際にモノを見てみないとわかりにくいでしょうが、それほど複雑なものではなく、このことからも想像できるように、高圧過給には向いていません。このため、過給圧を高めるため、同じ過給機を二つ使った二段式の過給式などが作られ、これらはレース用のエンジンなどにも使用されました。

一方のターボチャージャー(turbo charger)はタービン(turbine)を用いた過給機です。タービンとは、よく聞く名前ですが、飛行機に乗ったときに、そのエンジンをみたことがある人も多いでしょう。薄い羽根が同心円状にぐるりと取り付けられていて、エンジンが始動しはじめると、これがクルクルと回り始めます。

これは、空気のような流体の運動エネルギーを、機械の回転運動のエネルギーへ変換するための仕組みです。流体の多くは気体ですが、このタービン翼(羽根車)を回すためには、別に液体でも良いわけであり、その代表的なものは、ダムなどの水力発電で使われているものがそれです。

これがなぜ過給機になりうるかは、ちょっと考えればすぐにわかります。羽根車は、風が吹くと回ります。それは空気の流によって回るのであって、その逆に羽根車のほうを何等かの動力で動かしてやれば空気の流れ、すなわち風が起こります。扇風機とおなじです。

タービン翼の回転運動から、空気の流体の流れを生み出すことができ、これを密室の中で行ってやれば、空気は逃げ場を失うことになり、圧縮されていきます。つまり、タービンを用いたターボチャージャーの仕組みはこれだけです。もっとも、飛行機などもそうですが、羽根車は一枚だけは圧縮効果が薄いので、何枚も重ねられて使われます。

ちなみに、「蒸気タービン」というのがありますが、これは、石油や石炭などの燃料で水を沸騰させて蒸気を発生させ、この蒸気の力でタービンエンジンを回して動力を得るものです。このようにエンジンの外で燃料を燃やすエンジンなどを「外燃機関」といいます。

これに対して、ディーゼルエンジンやガソリンエンジンは、エンジンそのものの内部で燃料を燃やして動力を得るために「内燃機関」と呼びます。こういうことは、中学校あたりで習っているはずですが、多くの人が忘れているかもしれません。よく思い出してみましょう。

飛行機に用いられるジェットエンジン(engine)とは、外部から取り込んだ空気に燃料を燃やした熱エネルギーを与えることで噴流(ジェット)を生み、その反作用で飛行機の推力を得るものであり、ガスタービンエンジンともいわれます。

こちらも内部で燃料を燃やし、タービン翼を回す内燃機関であり、同じ内燃機関である自動車のエンジンと共通する部分も多く、このため、飛行機のエンジンを作っている会社の中には、かつて自動車のエンジンメーカーだったころの流れを組むものも多いのです。ロールスロイス社などがそれです。

騒音と振動の原因

さて、この自動車用のタービン過給器、すなわち、ターボチャージャーは、内燃機関から捨てられる排気ガスのエネルギーを利用して動かします。

前述の機械式過給機がクランクシャフトの動力を用いて作動するのと同じく、エンジンの動作というものはこのように、すべからく無駄が生まれないよう、できるだけある部分で生まれた動力を他の部分でも使えるように合理的に設計されたものが多いのです。

しかし、ディーゼルエンジンでは過給機を普通に使いますが、ガソリンエンジンでは過給機を備えていいないものもあります。シリンダー内に空気とガソリンを混ぜた混合気体を注入するため、低い圧縮率でも燃料に着火させることができるためです。

しかし、最初に空気を圧縮して使う、ディーゼルエンジンでは、かなり高圧にしないとあとで混ぜた燃料に火がつかないので、ほぼ100%過給器と組み合わせて使われます。

ディーゼルエンジンではシリンダー内の高温高圧になった空気中に、液状の燃料が高圧で噴射されます。ただ、この燃料噴射によってシリンダー内に入ったガソリンが入れてすぐに瞬間的に自発発火するわけではなく、注入されたガソリンが圧縮された空気と混合して燃えやすい状態へと変わった後に、発火することになります。

この注入から発火までの時間には微妙なズレがあり、この遅れ時間を「着火遅れ」と呼びます。着火遅れの間、シリンダー内は静かです。しかし、遅れて火が付くときには、一気に爆発的な燃焼が起こります。

このため、シリンダー内が急激に高温、高圧となりますが、このように、「遅れ」「爆発」「遅れ」「爆発」の繰り返しが、あのディーゼルエンジン特有の騒音と振動の原因を生み出します。よく、信号待ちなどのときに、隣に大型のトラックなどが止まり、その騒音をうるさく感じた人も多いと思いますが、あれがディーゼル特有の騒音です。

しかし、最近の技術開発により、このディーゼルエンジン特有の騒音や振動はかなり抑えられるようになっています。

また、従来のディーゼルエンジンでは、注入された燃料がシリンダー内に広がり切る前に自発発火することも多く、これが燃料の無駄を生んでいましたが、1990年代の後半あたりからは、この燃料噴射を電子制御でコントロールする技術が開発されるようになり、燃料を超高圧で自由なタイミング、かつ自由な回数噴射できるようになりました。

この燃料のシリンダーへの注入も、その昔はエンジンの駆動力の損失を引き起こしやすい「機械式噴射ポンプ」が用いられていましたが、近年はこれに代わって、「コモンレール」と呼ばれる、金属製の頑丈なパイプ(レール)に高圧燃料を蓄えて、電子制御の噴射を行う)方式などが使われるようになり、いまや燃料噴射は完全に電子制御化されています。

このようなシステムを用いることで、ディーゼルエンジンでも非常に高度な燃焼制御が可能となり、ディーゼルエンジンの燃費や出力は飛躍的に向上するとともに、騒音や振動なども低くなり、かつ排出されるNOxなどのエミッションも低く抑えられるなど環境対策に関してもかなりの改善が加えられるようになりました。

なぜ軽油?

それにしても、先般、ディーゼルエンジンの燃料は多様なものが使用できると書きましたが、実際にはガソリンなどが使われることはほとんどなく、一般的には軽油や重油が使われるようですが、これは何故なのでしょうか。

軽油は、主要成分が200~350℃での沸点を持つのに対して、ガソリンエンジンで使用されるガソリンは30~220℃程度のより低い沸点を持っています。沸点というのは、液体が気体に変わるときの温度です。

このことから、ガソリンは軽油に比べて揮発しやすくより危険なものであることがわかり、ガソリンが揮発し、火がつきやすくなる温度、すなわち「引火点」もまたガソリンのほうが低く、軽油の方が高くなります。

「引火点」とは、物質が揮発して空気と可燃性の混合物を作ることができる最低温度です。この温度で燃焼が始まるためには点火源(火花など)が必要です。しかし、引火点ぎりぎりでは、いったん引火しても点火源がなくなれば火は消えてしまいます。

燃焼が継続するためにはさらに数度高い温度が必要で、これを「燃焼点」といいますが、さらに高温になると点火源が無くとも自発的に燃料が燃え出して燃焼が始まります。この温度を「発火点」といいます。

ところが、軽油での発火点は、引火点とは逆にガソリンより低いのです。このことから、ガソリンは揮発しやすいので、火に近づけるだけで危険ですが、発火点は高く、なかなかみずからは燃えはじめません。逆に、軽油はかなり温度が高くならないと揮発せず、引火点が高いので火を近づけてもすぐには燃えませんが、ガソリンよりも低い温度で自発的に燃え始めます。

ということは、もし、火がない環境でこれら2つの温度を上げてゆくと、先に自ら火が着くのは軽油であり、つまり、軽油は、給油などの際には揮発しにくく火がつきにくい性質を持ちますが、実際にエンジンなどで燃焼させて使う際には自発的に火がつきやすい、ということになります。

この軽油の引火点の高さ、発火点の低さがディーゼルエンジンでの使用を容易にしている最大の理由です。

前述のように、ディーゼルエンジンでは、空気を圧縮して高温にし、これに燃料を混ぜて発火させますが、燃料を混ぜて高い発火点で回すガソリンエンジンに比べ、もし仮に同じ燃料を使う場合にはより高い圧縮を行わなければなりません。

が、より低い発火点を持つ軽油を使うことで、比較的低い圧縮率でエンジンを回すことができるのです。つまり、軽油を用いることで、圧縮工程の負担をかなり低減できるわけです。

これが、ディーゼルエンジンでは軽油や重油が主に使われる理由です。重油も軽油と同じく、ガソリンよりも低い発火点と高い引火点を持っています。

ただし、戦車や装甲車など軍用のディーゼルエンジン搭載車両では、敵の攻撃などによって被弾したときのことを考え、その安全性からガソリン同様に発火点の高くした特殊な軽油ともいうべき、「ジェット燃料」が使われています。

ガソリンエンジンとの比較

さて、そんなディーゼルエンジンは、ガソリンエンジンと比べて勝っているのでしょうか、それとも劣っているのでしょうか。

結論としては、エンジンとそれを搭載する乗り物が大型であればあるほど、ディーゼルエンジンの長所が目立ち、短所が目立たなくなる傾向があります。これはすなわち小型軽量の自動車のような乗り物では、その短所が目立ちガソリンエンジンが有利になるということです。

このため、小型車はガソリンを用い、大型車はディーゼルになることが多く、船舶や鉄道など大型機関を搭載した大量長距離輸送手段はディーゼルの独擅場になっています。

それにもかかわらず、冒頭で述べたように最近、ヨーロッパを中心としてディーゼルエンジンの乗用車がもてはやされているのは何故でしょうか。

その理由のひとつは、ディーゼルエンジンで用いられる軽油はガソリンに比べ単位質量あたりの熱量が高く、同じ体積から取り出せる熱エネルギーが2割以上も大きいことがあげられます。

熱効率が高いため、燃料消費率が低く、同じ仕事に対する二酸化炭素の排出量が少なく、つまり端的にいえば、燃費は良くなります。これがヨーロッパでのディーゼルシフトの最大の要因です。

しかし、一方では、軽油を用いているがゆえに、高い圧縮比でエンジンを回す、つまり高回転での運転には不適であり、同排気量あたりのガソリンエンジンと比較しても表示上の最高出力は低くなります。

低い圧縮比でガソリンと同じ出力を得ようとすれば、当然シリンダーなどの直径を大きくする必要があり、エンジンは重く大きくなります。大きくなればなるほど、熱効率はよくなり、ついにはガソリンエンジンの性能を凌駕します。これが、大型であればあるほど、ディーゼルエンジンの長所が目立ち、短所が目立たなくなると書いた理由です。

しかし、普段我々が車を使うことが多いのは街中であり、いつも高速道路を走っているわけではありません。

こうした日常車を使うときのような低速での利用、すなわち実用利用では、低い回転数でも高いトルクが得やすいディーゼルエンジンのほうがガソリンエンジンよりも有利です。また、実用回転域が低いということは、機械的な損失も少なくて済むということであり、これがまた燃費の向上にも寄与します。

このことはいったん脇に置いておくとして、ところで、トルクとはなんでしょうか。これは分かりやすくいえば、クルマのタイヤを回すための力です。感覚的に分かり易くするため自転車を例にあげると、トルクとはペダルを押す力です。

トルクが大きいというのは、ペダルを押す力が強いという事です。ではペダルを押す力が強いと、どうなるでしょう?そうです、自転車の出だしがよくなる。すなわち加速が良くなります。また登り坂でも軽々進む事ができます。

一方、トルクとは別に「馬力」というものがあります。その違いは何でしょうか。

トルクはあくまでも瞬間的な力なので、その力を持続する事によってどの程度の仕事を行なえるのかを表すために考えられ指標(ものさし)が馬力です。より正確に言うと、ある決められた時間内に、どれだけ重い荷物を、どれだけ遠くまでに運べるかを、馬何頭分に当たるかで表示したのが馬力というわけです。

自転車の場合、ペダルを踏む力に、ペダルの回転数をかければ馬力は簡単に計算できます。馬力=回転数×トルクです。

最近の車にはたいてタコメーターがついていますが、そのタコメーターの単位はrpmで、これは“revolution per minute”または“rotation per minute”であり、これはすなわちエンジンの回転数を示しています。エンジンが1分間に回る回数であり、ディーゼルエンジンならばこのメーターを指す針の値が小さくても高いトルクが得られます。

自転車において、ペダルを強く踏んで、なお且つ一生懸命回すとどうなるでしょう?そうです、スピードが速くなります。もし自転車、または馬に荷物を乗せていたとすると、人が担いで運ぶより短時間で遠くに運べますので、これが馬の力=馬力になります。

つまり、トルクとは瞬間的な力であり、大きければ大きいほど出だしの速度、つまり「加速」が良くなります。一方、馬力とは継続的な力であり、大きければ大きいほどスピードが出て、荷物を早く遠くへ運ぶ事ができます。

一般的に馬力が大きいクルマほど加速いいいと思われていますが、加速に影響するのはトルクの方だというのは、この自転車の例からわかるかと思います。もっと感覚的に例えると、トルクは短距離走に必要な瞬発力のようなものであり、馬力とはマラソンの時に必要な持久力のようなものです。

クルマの運転においては、アクセルを踏むと加速します。この加速感がトルクになり、達した最高速度が馬力の結果になります。自分のクルマのトルクがアップした場合の体感方法ですが、例えば一般道を走っていて、長めの下り坂に差し掛かったとします。

そうするとクルマはゆっくり加速しますが、更にアクセルを踏むと平らな道より軽々と加速するのが体感できると思います。これこそがまさにトルクアップの効果で、どんなに重いクルマであってもトルクが大きければ軽々と進める、つまり加速できることが実感できます。

これを逆に言うと、どんなに軽いクルマであっても、トルクが無ければ気持ち良く加速できません。馬力=トルク×回転数ですから、もし回転数が一定であれば、トルクが上がれば馬力も自動的に上がります。

以上のことから、ガソリンエンジンよりも低い回転数でのトルクの大きいディーゼルのほうが、街中などでの実用域での回転数での馬力が大きくて使いやすい、ということがご理解いただけるのではないでしょうか。しかも燃費がいいというのが、近年原油価格が高騰しているなかで、ディーゼルエンジン車がヨーロッパでもてはやされる理由です。

しかもディーゼルエンジンは、デトネーションやこれを起因とするノッキングの発生なども予混合気を使用したガソリンエンジンと比べてほとんどなく、また、全回転域で高い排気圧を得られることから、この排気圧を利用して作動させるターボチャージャーとの相性も良好です。

さらに、ガソリンエンジンには、シリンダーの中でガソリンと空気を混合させて燃やす方式であることから、常に爆発的なエネルギーを繰り返し発生させることになり、強度の面からもシリンダーの直径をあまり大きくできません。

しかし、ディーゼルエンジンは基本的には空気を圧縮したあとの一瞬だけ点火する方式であるため耐久性が高く、ある程度シリンダーなどを大型化しても大丈夫です。

圧縮後に燃料を混ぜて発火させますが、瞬間的なものであり、またガソリンエンジンよりも低い圧縮率で爆発させるためにシリンダーへの負荷も小さく済むわけです。

また、ガソリンエンジンでは、シリンダーを大きくできないため、その数を増やす、これを「多気筒化」といいますが、これによって排気量を確保して高トルクを得るか、または、高回転化で出力を上げなければならないのに対し、ディーゼルエンジンでは1シリンダーあたりの大容積化が可能であり、全体でみればより構造が単純化できます。

余計なシリンダーを減らすことができるために、全体的な機械部品の摩耗の増加も抑えられ、また、大型化することでより熱効率が高まり、低い圧縮比でも馬力が出せ、さらにシステム全体の効率が良くなります。

ディーゼルエンジンは大型化すればするほど、長所が多くなるというのは、こうした意味もあるわけです。

しかも、燃料に使う軽油や重油はガソリンに比べて安全性の高いものであるため、爆発・火災事故に対する余裕も大きく、さきほども書きましたが、この点では被弾することを前提とした軍用車両ではとくにこのメリットが大きいため、近年での軍用車両のエンジンはほとんどがディーゼルです。

ただし、燃料はより安定性が高く有害成分の少ないJP-8とよばれるジェットエンジン用のものが多用されています。これも先般書きました。

ディーゼルエンジンの短所

ところが、このように長所ばかりかと思われるディーゼルエンジンにも欠点があります。

それはその構造上、堅牢性が求められることによる経済的なデメリットと、その発火システムに伴う騒音や振動、そして排出物の問題です。

ディーゼルエンジンは、大型化に伴い、シリンダーヘッド、シリンダーブロック、ピストン、コネクティングロッド、クランクシャフトなどなどの各部品に高い強度と剛性が求められ、噴射ポンプや過給機などが加わることで重量が嵩みます。

さらに、燃料噴射システムに高精度・高耐久性が求められ、コスト高となります。しかも、エンジンが重くなれば重量出力比が悪くなるため、軽量化を要求される航空機ではほとんど採用されていません。

自己着火に必要な高温を高圧縮で作り、これを一気に燃料と共に「爆発」させるため、振動や騒音が大きくなったり、乗用車のような小排気量エンジンの場合はとくにエネルギーロスも多く、吸排気系の振動や騒音が大きくなります。

さらに、燃焼室内は、その発火システムのために窒素過多になることが多く、このため窒素酸化物が発生しやすく、燃料を後から加えて拡散させる燃焼方式なので均一燃焼が難しく、黒煙や粒状物質 (PM) も発生しやすくなります。

従来の噴射量や噴射時期制御システムでは、ガソリンエンジンより有害排出物が多く、欧州メーカーのディーゼル車の中には、NOx値の規制が厳しい現在の日本や米国の排出ガス規制を満たしていないものもあります。

ただし、欧州で主流とされる北海産の石油は硫黄含有量が少なく、精製された軽油による排ガスも比較的きれいであるため規制面では有利であるという裏事情もあり、これが不純物の多い中東産の石油を使うことの多い日米に比べ、欧州の車にディーゼルが多いもうひとつの理由でもあります。

振り返って日本国内をみると、特に大都市周辺での大気汚染への関心が高く、ディーゼル車は好感されないことも多く、東京都などでは前石原知事の音頭取りで、日本一厳しい窒素廃棄物抑制基準が課されたことは記憶に新しいところでしょう。

ヨーロッパでディーゼル車が多いのは、前述のように硫黄分の少ない軽油が使用されているせいもありますが、こうした排出物を低減するための酸化触媒技術が卓越していることや、優れたフィルターが普及しているためでもあります。

また欧州の各自動車メーカーでは、超低PM排出ディーゼル車や、スーパークリーンディーゼル車といわれるような、技術革新により音の低減や煤煙、有害な排気ガスを著しく軽減したディーゼル車を開発してきています。

もともとは経済性での有利からシェアを伸ばした西ヨーロッパでのディーゼル車ですが、近年は日本の自動車メーカーが得意とするハイブリッド車に対峙する選択肢としての低公害車として宣伝されるようにもなってきています。

ところが、アメリカでは車の燃料と言えばガソリンで、ディーゼル車はトラックなどの商用車以外ではほとんど普及していません。ガソリン価格が日本の二分の一以下と安いことがその理由ですが、一方では、アメリカでは軽油の価格はガソリン価格のおよそ2割ほども高くなっています。日本ではその逆ですよね。

このように、ディーゼル車の普及の状況は、ヨーロッパとアメリカ、そして日本ではそれぞれ全く異なったものとなっています。

特に日本では、まだディーゼル車といえば、黒い煤煙を吐きだしながら走るクルマという印象が強く、軽油は安いので興味はあるけれども、今はまだ音もうるさいし、環境に優しくない、というイメージが定着してしまっています。

ディーゼルの未来

しかし、現在では、ガソリンエンジンにも、直噴式エンジンが登場するようになっています。あらかじめ燃料と空気を混合させてシリンダー内に送り込む従来式のものではなく、シリンダー内に直接ガソリンを吹き込む形式のエンジンであり、これにより、燃費などがかなり軽減されます。

そうなると、ディーゼルとどこが違うのか、ということになってくるのですが、そのとおりです。

この両者の区分けは技術上はかなりあいまいになってきており、最近のディーゼルエンジンのほうも、過給器や吸気バルブの開閉タイミング操作なども電子制御化され、従来に比べて格段にエンジン出力を調整しやすくなり、混合気体を扱うため、こうした面で調整がやりやすいガソリンエンジンとほとんど同じではないかというものも出きています。

さらには、なんと軽油に「水」を添加することで、ディーゼルエンジンの欠点のひとつであった窒素酸化物の排出を抑え、NOx値を下げることのできるデュエット・バーン・システムと呼ばれる装置なども開発されており、こうした技術の開発により、将来的には燃料の違いによる区分けすらも必要なくなるのではないかとまでいわれています。

しかし、現在のディーゼルエンジンとガソリンエンジンが同じ燃料を使い、同様のものになるにはまだまだかなり時間がかかりそうです。最近話題になっているシェールガスやメタンハイドレードの実用化が難航しているのをみればわかるように、燃料そのものの性質を統合し、その供給システムすらも変えるのはそうそう容易ではないからです。

現在でのディーゼルエンジンの最大の問題点、すなわち、エンジン製造コストがガソリンのそれに比べて高いというデメリットもまだ当分解消されそうもありません。

高くなる要因は、エンジン自体の重量がガソリンエンジンと比べて一般に重くなりやすいことと、この問題をクリアーしつつ厳しい日本の排出ガス規制をクリアーするための技術開発がなかなか進まないことなどがあげられます。こうした問題を解決する過程では当然、そのコストは嵩み、エンジン価格はどんどん高くなっていきます。

しかし、ディーゼルエンジンの小型化は年々進歩しており、また、もうひとつのネックの排気のクリーン化も進んできています。

ディーゼルエンジンは、少ない燃料で運転する必要性があることから、常に酸素過多の状態(リーンバーン)で運転される必要性があり、このためガソリンエンジンのような比較的簡単な有害排出ガス抑制システムが使えず、熱効率を追求し完全燃焼させると排気ガス中の窒素酸化物 (NOx) が増えるという難点があります。

しかし、これらがディーゼル自動車の決定的な欠点とは言いにくく、軽量化を進め、排気をきれいにする努力は各メーカーで進められており、冒頭で述べたマツダ以外で、現在ハイブリット車を中心としたクルマ開発を行っているトヨタやホンダなどの各メーカーも規制に対応したディーゼル乗用車の開発を進めています。

2008年(平成20年)9月、日産自動車は、新長期規制を飛び越し、ポスト新長期規制をもクリアするエクストレイルの「クリーンディーゼル車」を発表。それ以前には、国土交通省の厳しい規制によって、長らくなりをひそめていた、日本のディーゼル乗用車もついに復活を遂げました。

2008年(平成20年)10月には三菱自動車も現行の新長期規制に対応したディーゼルエンジンのパジェロを発売しており、2012年2月、マツダは、後処理装置を使用せず、ポスト新長期規制に適合できるエンジンを搭載したCX-5を発売しました。その後のマツダにおけるディーゼルエンジンへの意気込みは、冒頭の記事でもわかるとおりです。

日本は窒素化合物を有害視するのに対して、ヨーロッパでは二酸化炭素の排出量を重要視しています。

ディーゼルのほうが混合した燃料の燃焼効率が悪いと書きましたが、乗用車用のガソリンエンジンとディーゼルエンジンを比較した場合では、小型では不利といわれるディーゼル車でも、同じ排気量ならばその燃焼効率が良くなるため、リッターあたり走れる距離数が多く、また二酸化炭素の排出量が少ないという利点があります。

このため、ヨーロッパでの燃料価格はガソリンと軽油とでは同一、もしくは軽油の方が高い、という状況ではありながらも、車両価格のリセール・ヴァリューは、ディーゼルの方が人気が高いといいます。

また、ヨーロッパでは多くの人が年間2万キロはあたりまえに乗用車に乗るため、低燃費ならば元がとりやすい事、低速からのトルクが太く日常使用では乗りやすいこと、といった使用環境上の理由からもディーゼル車の購入層が増えているようです。

こうしたヨーロッパでのディーゼル乗用車の好調ぶりをみると、次世代排出物規制の問題や騒音・震動などの問題をクリアーした新型エンジンを積んだ日本のディーゼル車の未来は、ヨーロッパに比べて軽油価格も安く、かなり明るいように見えます。

ただ、価格面の問題は依然残り、これをどこまで安くしていけるかにかかっているようです。ガソリン車に比べて高出力が得られない、排気ガスもきたなくうるさい、といった従来の間違った印象をどうやって払拭していくかも大きな課題です。

ハイブリット車では出遅れたマツダや三菱などのメーカーがHVで先行するトヨタやホンダにディーゼル車の投入によってどこまでこれを追従していけるかによって、日本におけるディーゼル車の未来は大きく変わってきそうです。

日本の自動車界も面白くなりそうで、楽しみです。今後ともディーゼル自動車の開発と販売の状況からは目が離せそうもありません。

さて、今日は、ゴールデンウィーク特集のつもりで、いつもより少々長く書いてしまいました。明日からは、多くの人が通常の生活に戻っていくのでしょうが、連休中になりをひそめていた我々は、そろそろ行動を開始しようかな、というところです。

普段は人が多くてあまり行く気がしなかったところへも行ってみたいと思っています。また良い経験ができたら、このブログでも公表しましょう。

あれに見えるは…… ~伊東市


今日は八十八夜です。立春を第1日目として88日目、つまり、立春の87日後の日で、あと3日後にはもう「立夏」となりますが、このころには、遅霜が発生することもあり、事実、伊豆地方は昨日からかなり涼しくなっています。

「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」という言葉があるそうで、これは遅霜の発生によって、昔から泣いても泣ききれないほど農作物の被害が発生したことからできたことばのようです。

従って、そもそも八十八夜というのは、農家に対して遅霜がありうるよ、という注意を農家の人々に対して注意を促すために作られたこよみなのです。

ところで、八十八夜といえば、「あれにみーえるは、ちゃっつみじゃないか」ということで、この季節の風物詩、お茶をどうしても連想してしまいます。

静岡に代表されるお茶の産地では、この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれています。

茶の産地として有名なのは、静岡のほか、埼玉県の狭山、京都の宇治などですが、これらの地域ではこの日、新茶を配るサービスやもみ茶・茶摘みの実演などのイベントが行われ、ニュースになることもしばしばです。

我が家では、水道水がおいしいので、あまりお茶だけを飲むという風習はないのですが、お客さんに出すお茶や、お土産に持っていってもらうお茶を何にするかといったことについては、やはり静岡在住ということで気を遣ったりしています。

あまり飲まないとはいえ、「深蒸し茶」で有名な伊東の「ぐり茶」は以前知人から教えてもらって知り、伊東市内にある「ぐり茶の杉山」というお店までわざわざ買いに行ったこともあります。

生葉をじっくり時間をかけて茶葉の芯まで蒸す「深蒸し茶製法」は、通常の煎茶との違って、その製造工程で茶葉の形を整えるために細かく茶をもむ、「精揉」という工程がないのが特徴で、その結果、生葉を傷めず茶の成分が浸出し易く、渋みを抑えて茶本来の味を引き出すことができるといいます。

実際、お店で試飲させてもらったところ、その美味しさにびっくり。結構高いものかと思ったら、そうでもないリーズナブルなものもあり、自宅用、客用、お土産用などと使い分けるのにも便利です。そのお味は私も保証しますから、みなさんも一度試してみてはどうでしょうか。

この茶ですが、いわゆる「チャノキ」という植物の葉や茎を加工して作られる飲み物です。「茶樹」ともいい、主に熱帯及び亜熱帯気候で生育する常緑樹ですが、品種によっては海洋性気候でも生育可能であるため、イギリスの北部やアメリカでも北のほうに位置するワシントン州で栽培されています。

世界中栽培されているため、いろんな種類があるのかと思ったら意外とその品種は少なく、「シネンシス」と呼ばれる中国種と「アッサムチャ」と呼ばれるアッサム種の2種だけです。

中国種のほうは、かなり寒い地方でも栽培が可能であり、一度植えれば100年程度でも栽培可能といいます。

比較的カテキン含有量が少なく、酸化発酵しにくいことから、一般に緑茶向きとされています。日本で生産されているのは、ほとんどがこの中国種であり、このほか原産国である中国のほか、イラン、グルジア、トルコなどの中東諸国やインドのダージリン、スリランカでも栽培されています。

一方のアッサム種は、日本のお茶のような低木ではなく、単幹の高木であり、放っておけば6~18メートルの高さにも達するといいます。しかしこれではお茶を摘むことができないので、適当な高さに刈り込みながら育て、こちらもだいたい40年程度は持つそうです。

日本で栽培されている中国種と違って、カテキン含有量が多く、酵素の活性が強いので、紅茶向きとされています。インドのアッサム地方が代表的な産地ですが、このほか、スリランカの低地やインドネシア、ケニアなどで栽培されています。プーアル茶(黒茶)もアッサム種から作られます。

いずれのお茶の木も地域によって成長の度合いや時期が違いますが、その収穫方法は同じであり、新芽が成長してくると摘採するだけです。しかし、採取時期が遅れると収量は増えるものの、次第に葉っぱが固くなり、主成分であるカフェインやカテキン、アミノ酸といった栄養分も急激に減少するため、品質が低下します。

このため、品質を保ちながら収量を確保するため、摘採時期の見極めが必要といい、この見極めの技術が結構モノをいいます。

以前、松本清張さんの小説に書いてあったのを読んで覚えているのですが、戦前、日本のお茶の技術がタイに輸出され、タイ北部の高原地帯では、さかんにお茶の栽培が行われるようになったそうです。

日本のお茶の樹の苗木を彼の地に持ち込んで植えて育て上げ、ここを緑茶の一大産地にすべく、その栽培技術をタイ人に教えるため、静岡から多数のお茶の栽培技術者が渡り、そこに居住していたということです。

戦後、その技術とお茶畑は残り、日本人は撤退してしまいましたが、その後、この地で育てられたお茶は紅茶用の茶の樹として使われるようになり、現在では紅茶の産地として栄えているとのことであり、日本茶の高い栽培技術が今でもこの地で受け継がれています。

このことからもわかるように、基本的には日本で栽培されているお茶の樹を使っても紅茶を作ることはできます。エッと思われる方も多いかもしれませんが、基本的には緑茶も紅茶も原料はチャノキであり、その製造過程が違うために出来上がるものが違ってくるだけです。

無論、紅茶のほうは前述のようにアッサム種のほうが適しているのですが、中国種を使った紅茶というのも世界各国で実際に作られており、意外と知られていない事実です。タイに日本の緑茶づくりの技術が伝わり、これが現在のような紅茶の産地として有名になったということには、歴史的な面白さを感じさせます。

そのお茶の製造過程をざっとみてみていきましょう。

まず、お茶摘みですが、成熟した茶樹の新芽のうち、摘採するのは上部数センチメートルの葉と葉芽だけです。4~5月の時期に芽を出したものを摘むのが新茶ですが、この最初の摘採後7~15日経ってから生えてきた葉はその後ゆっくりと成長していき、より風味豊かな茶になります。これらを摘んだのが二番茶、三番茶と呼ばれるものです。

日本国内における茶期区分は、だいたい次のとおりです。必ずしも新緑のころだけというわけではなく、さまざまな季節に摘採されていることがわかります。

一番茶…3月10日ごろから5月いっぱい
二番茶…6~7月
三番茶…8月から9月の中旬ごろまで
四番茶…9月中旬から10月の中下旬
秋冬番茶…10月下旬から年内一杯
冬春番茶…正月から3月はじめ

もっとも、一番風味が良いといわれているのが、一番茶、二番茶であり、日本においては、各地でその製法を工夫していろいろな味わいのものが開発されています。

また、前述のとおり、お茶は発酵のさせ方により、いろんな種類のものができます。日本以外の海外では、酸化発酵を行わせた「紅茶」が多く作られますが、日本では発酵をさせない「緑茶」がほとんどです。

この「発酵」ですが、お茶には「酵素」が含まれており、この作用により、茶葉の中のカテキンやクロロフィル(葉緑素)などの300種類以上の成分が反応し、テアフラビンという物質などが生成されます。

テアフラビンというのは、もともと植物が持っている色素や苦味の成分であり、植物細胞の生成、活性化などを助ける働きを持ちますが、酵素によってこれが更に増え、その多さや質によってその後に製造されるお茶の味や香りが左右されます。

ついでながら、酵素とは植物や人間などの「生き物」を「機関」に例えると、「組立て工具」に相当します。

生体の遺伝子の形成を行う「ゲノム」が設計図に相当するのに対し、酵素には、生体の体内に取り込まれるべきいろんな物資の選択をしたり、その生体が必要とする目的の反応だけを進行させる性質があり、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こさせます。

お茶の場合も、この酵素を内部に人工的に発生させることによって、もともとの茶葉が違った性質のものに変化します。これを活性化させるかさせないかによって、紅茶と緑茶の違いができてくるというわけです。

じゃあ、発酵させるのと発酵させないのではどちらがいいの?という話になりかねないのですが、人体に及ぼす影響については実はまだよくわかっていないことが多いようです。紅茶や緑茶の効用というのは良く取沙汰されることではありますが、そのほんとうのところの効果はというところはまだ究明されていないのが現状のようです。

いずれにせよ、お茶を発酵させるかさせないか、あるいは発酵させるにしても、その程度の加減によって、このカテキンやテアフラビンの量はかなり異なり、このためこれによって造りだされるお茶の味や香りは色々変わってきます。

しかし、酸化発酵を進めれば進めるほど、クロロフィルも酸化するため、お茶の色は緑から暗色に変化するなど見た目にも変化し、その味わいも変わってきます。このため、中国種のチャノキを使って作ったお茶は、大きく分けて6種類もあります。

緑茶や紅茶以外のものは、青茶、黒茶 白茶、黄茶などであり、それぞれ、以下のような特徴があります。

緑茶:不発酵のお茶です。中国では、摘採後、発酵が始まらないうちに速やかに釜炒りした後、入念に揉み上げ、乾燥して仕上げますが、日本茶では、釜炒りではなく茶葉を「蒸」したあと、揉み上げていわゆる「煎茶」をつくります。

紅茶:紅茶は、完全に発酵させたお茶です。紅茶の場合は、摘んだあとすぐに加工せず、しばらく放置することこれをある程度しおらせます。これを「萎凋」といい、このあとに揉み上げ作業をおこないます。揉み上げの前にひと手間加えることで茶葉の細胞組織をより壊し、酸化発酵を進行させることができます。

そしてさらに、温度、湿度、通気を調整し、茶葉が赤褐色になるまで急速な酸化発酵をおこさせ、最後に乾燥・加熱して仕上げます。

青茶:我々が「烏龍茶」として良く知るお茶です。これは、「半発酵茶」です。紅茶と同じく、萎凋を行いますが、その途中で茶葉をひっくり返して撹拌する「揺青」という工程を加えることにより、発酵を助長させます。

そして、釜の中で炒って酸化発酵を止めたあと、茶葉の香りと味を引き出すため揉捻し、さらに最後に鍋に入れて水分が無くなるまで加熱する、すなわち焙じ(ほうじ)をして仕上げます。

黒茶:これは中国雲南省を中心に作られ、プーアル茶として日本でも良く知られています。こちらは、「後発酵」させてつくります。緑茶と同様、摘採後すぐに加熱して酸化発酵を止め揉捻しますが、その後、高温多湿の場所に積み上げて置いておき、これにより微生物発酵をさせます。

微生物の力を借りるという点が、茶葉自体に含まれる酸化酵素の働きにより発酵させる緑茶や紅茶、烏龍茶などと異なる点です。放置発酵後、再び揉捻した後、乾燥させて仕上げます。

花茶:花茶は、文字通り花で茶に香りを付けたものであり、緑茶、青茶、黒茶、紅茶などの茶葉に花自体を混ぜたもの、花の香りだけを移したものがあり、ジャスミン茶(茉莉花茶)が有名です。

白茶や黄茶は日本人にはあまり馴染のないものです。白茶は弱発酵茶で、中国福建特産であまりたくさん作られない希少なお茶です。その違いは原料にあり、茶葉の芽に白い産毛がびっしりと生えているため「白毫」と呼ばれています。摘採後、萎凋のみを行い、火入れして酸化発酵を止めて仕上げます。

この白茶ですが、香り・味わい・水色ともに上品で後味がとてもよく、また甘みがあるといいます。また、二日酔い、夏ばてに効くといった効能や解熱作用があると言われているようです。

日本ではあまり飲まれることもなく、スーパーマーケットなどでもあまりみかけませんが、最近では、アサヒ飲料や大塚ベバレジといった飲料メーカーが、商品化して発売しているそうで、「白いお茶」とか「白烏龍」のような名前で出ているようです。もともとが高いお茶なので、「白烏龍」のほうは白茶と烏龍茶のブレンドのようですが。

インドやスリランカでもここ数年、差別化・ブランド化の一環として白茶生産を開始する事例が出てきているそうなので、産量が増えれば日本にもたくさん輸出されるようになり、烏龍茶のように流行るようになるかもしれません。

黄茶もまた、白茶同様に希少なお茶として知られています。萎凋をせずに加熱処理を行いますが、この加熱工程が難しく、低い温度から始め、徐々に温度を上げ、その後徐々に温度を下げるなどの複雑な作業が必要です。

その後、高温多湿の場所に置いて発酵させますが、その発酵は、酸化酵素や微生物の働きによるものでなく、高温で多湿という特殊環境でポリフェノールやクロロフィルを重点的に酸化させるというものであり、その過程では「牛皮紙」でこれを包みます。

この工程は「悶黄」と呼ばれる独特なものであり、ポリフェノールやクロロフィルがは酸化することによって茶葉は水色がうっすらと浮いた美しい黄色になります。どんな味がするのか試してみたいところですが、黄茶は清朝皇帝も愛飲したといわれ、中国茶の中でももっとも希少価値が高く、100グラム1万円を超えるものも珍しくはないそうです。

お金持ちのあなた、一度試してみてそのお味を教えてください。

ところで、我々日本人にとって最も馴染のある緑茶の製造方法を上ではさらっと、たった2~3行で書いてしまいましたが、日本茶の製造過程は実はそんなに簡単ではありません。

その多くは、「蒸す」ことで加熱処理をして酸化・発酵を止めたのち、揉んで乾燥させる製法をとりますが、揉まないものもあり、これらを総称して「煎茶」といいます。蒸す代わりに釜で炒る加熱処理を用いる場合もあり、これは「釜炒り茶」といいます。九州の嬉野(うれしの)茶などが有名です。

煎茶の製造工程を簡単に説明しておきましょう。

まず、手摘み煎茶の場合はお茶の枝、1芯につき2~3葉、機械摘みの場合は1芯4~5葉を採ります。

「番茶」というのを良く聞くと思いますが、これは煎茶を摘採した後の硬い茶葉を摘採・加工したものであり、ようは「廉価版」です。安い番茶をスーパーで安売りをしているのをみかけることがありますが、これは貧乏人、いやそのぉ……リーズナブルな生活をしたい方々が飲まれるお茶です。

煎茶用に摘んだ生葉は、まだ生きていて呼吸をしているため、これを大量に重ねるとすぐに発酵が始まり、熱が発生します。番茶用の茶葉もそうですが、新茶のほうがより「生きがいい」のでより多くの熱を発します。このため、網の上にのっけて上下から扇風機を当てるなどして湿度の高い空気を送って、水分の保持と呼吸熱の低下を図ります。

次いで、蒸します。「蒸熱」と言われる工程であり、酸化酵素の働きを止め、茶葉の色を緑色に保たせながら青臭みを取り除くため、圧力のない蒸気でまんべんなく蒸します。このときの蒸し時間の長さによって、「味・香り・水色」の基本的な性格が決まるといわれています。

蒸熱は、緑茶の色と品質に決定的な影響を与える工程で、蒸し時間が長いほど、この後の工程で茶葉の細胞膜が破壊されやすくなるために濁った水色になります。しかし、色沢は明るくなり、渋みと香気は少なくなります。

熱した茶葉を高温のまま放置すると、鮮やかな色あいが失われ香味も悪くなります。そこで今度は、強い風を扇風機で送り込み、室温程度までムラのないように急速冷却することで、茶葉の色沢および香味の保持を図ります。

こうして、熱が無くなったお茶に対して、ここからようやく「揉み」の工程に入っていきます。その最初の工程は、「葉打ち」といい、乾燥した熱風を送り込みながら、お茶を叩いて打圧を加えて軽く揉みこみます。このとき、茶葉表面の蒸し露を取り除いて、乾燥効果を高めます。これにより、茶葉の色沢と香味の向上が図られます。

次いで、茶葉を柔らかくし、内部の水分を低下させるため、乾燥した熱風を送り込みながら打圧を加え、今度は少し本格的に摩擦・圧迫しながら揉みんでいきます。これを「粗揉(そじゅう)」といいます。

「揉み」の工程はこれだけではなく、さらに茶葉をひと塊にし、加熱せず圧力を加えて揉み込む「揉捻(じゅうねん)」を加えます。粗揉工程での揉み不足を補い、また、茶葉の組織を破壊して含有成分を浸出しやすくして水分の均一化を図るためです。

さらに、このあとには、「中揉(ちゅうじゅう)」「精揉(せいじゅう)」という揉み工程がはいります。 揉捻(じゅうねん)後の茶葉は萎縮し、形も不揃いで水分含有量もまだ多いため、乾燥した熱風を送りながら打圧を加えて揉みこむのが「中揉」であり、茶葉を解きほぐし、撚れた形を与えるのが「精揉」の工程です。

中揉で整形しやすいよう乾燥させた茶は、精揉工程で緑茶独特の細く伸びた形に整えられます。茶葉内部の水分を取り除いて乾燥を進めながら、人間が手で揉むように一定方向にだけ揉みます。

この精揉工程を経た茶葉には、まだ水分が10~13%も含まれています。これを熱風乾燥で5%程度にまで下げます。これでようやく煎茶の完成です。これにより、長期の貯蔵に耐えるようになり、さらにあの日本茶特有のおいしい香りが出てくるのです。

ちなみに、私は学生のころ、このお茶づくりの工程の一部を手伝うアルバイトをしたことがあります。それは、お茶摘みの工程と、「蒸し」の工程でした。一番茶は、手で摘むので結構年期が入った人でないと任せられないということで、我々にはやらせてもらえませんでしたが、二番茶、三番茶は機械で摘むので素人でもOKです。

やや軽めの芝刈り機、というのかバリカンの大きなものとでも言うのでしょうか、独特の形をした摘み取り器があり、これで茶摘みをしていくのですが、なかなか重労働です。

また、蒸したお茶は、すぐに発酵しそうになるので、常に風を当ててひっくり返さなければなりません。山のように積まれた蒸し茶をフォークを使ってひっくり返しては風にあてるという作業を一晩中続ける、というのが私がやったもうひとつのアルバイトで、これは結構良い収入にもなりましたが、さすがにきつい仕事だったのを覚えています。

その後の「揉み」の作業になると、これはもうアルバイトに任せるわけにはいかない、ということで、どこのお茶工場でもそれ専門の年期の入った農家の方がその工程を手掛けるようです。

あれから30年以上経っているので、少しは技術的に進歩したかもしれませんが、おそらくは揉みの工程には、今でも機械は入っていないのではないでしょうか。いずれにせよ、日本茶づくりというのは本当に手間暇のかかるものです。

ところで、我々が普段使っている「煎茶」という言葉には、ふたつの意味があるようです。そのひとつは、お茶のランクに関しての使いかたであり、この場合、「煎茶」とは、高級品である玉露と、リーズナブルな生活を営まれている方々がお飲みになる番茶の中間に位置づけられます。

なので、フツーの人が飲んでいるのが煎茶、お金持ちが飲むのが玉露ということになりますが、玉露といえども、中国の黄茶のように100g一万円もしたりはしないので、ごく普通の生活をしている人でも飲んだことはあるでしょう。無論、私も飲んだことがあります。頻繁にではありませんが。

一方、中世までに確立した茶道における「抹茶(挽茶)」に対して、茶葉を挽かずに用いるお茶一般に与えられる総称もまた、「煎茶」と呼ばれます。つまり、いわゆるフツーのお茶である煎茶のほかに、玉露、番茶、ほうじ茶、玄米茶などの「不発酵茶」全体をひっくるめて指す用語であり、場合によって挽いて使う抹茶を含める場合もあります。

これは、中国で飲まれている烏龍茶(青茶)や黒茶などの「発酵茶」と区別されるためにほかならず、前述までの説明のとおり、緑茶は学術的には「不発酵茶」であり、日本で一般に緑茶といった場合には、こうした不発酵の緑茶をさして「煎茶」ということが多いのです。

このあたり、混同している人も多く、私も日本茶のことを緑茶と言ってみたり、煎茶といったりで、統一性がなく、煎茶というのはどういうときに使う呼び方なのかな、と思っていました。

結論からいえばどちらでも良く、シチュエーションによって使い分ければよいわけで、国内のお茶だけを話題にしている場合には「煎茶」は玉露と番茶の中間品質のお茶の意味で、中国とのお茶貿易のお話をしている場合の煎茶は日本茶全体を意味する、ということになるでしょうか。

このお茶がいつ中国から日本に伝わったのかについては、はっきりしていないようですが、最近の研究によればすでに奈良時代に伝来していた可能性が強いと言われているようです。

平安時代初期の806年に、空海が唐へ留学していた帰りに種子を持ち帰って、日本に製法を伝えたのが最初ではないかといわれており、815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇が近江行幸の際、滋賀県の大津にある梵釈寺というお寺で、ここの僧がお茶を煎じて献上したという記録が残っているそうです。

しかし、庶民の飲み物として普及するにはさらに時間がかかり、まず最初は、中国よりもたらされた茶道具を雅に使う「作法」を身につけるため、武家や公家などの身分の高い人達の間でたしなまれて普及しました。

この「作法」はやがて場の華やかさよりも主人と客の精神的交流を重視した独自の「茶の湯」へと発展していきました。

当初は武士など支配階級で行われた茶の湯でしたが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせるようになり、お茶の葉っぱを挽いて飲む煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期です。

茶の湯は明治時代に「茶道」と改称され、ついには女性の礼儀作法のたしなみとなるまでに一般化しました。

明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が輸入されるようになり、緑茶とともに普及していくことになりましたが、最初はこれが同じチャノキから作られものであるということを、日本人はもしかしたら気が付いていなかったかもしれません。

このころから現代に至るまでには、緑茶はごく普通に一般人の飲み物として飲まれるようになり、国内にも多くの産地ができ、いろんなブランドが普及するようになりました。

日本では我が静岡県が無論断トツ一位の産量を誇りますが、同じ静岡でも安倍川の奥地でできる「本山茶」や、川根町の「川根茶」などが有名です。が、無論、その他県下のあちこちで栽培されており、ときにはエッこんなところにまで、と思われるようなところ、例えば公園の中みたいなところでもみかけることがあります。

意外にも第2位の産地は鹿児島県なのだそうです。しかし、この事実は一般にはあまり知られていません。

これは、宇治茶や狭山茶のようなブランド名で売られている有名茶には、実はこうした鹿児島産などの他県のお茶などを混入することが許されているためであり、産地銘柄を表示する場合は、当該府県産原料が50%以上含まれていればよいそうです。これらの茶のブレンド用の産地としては鹿児島茶に限らず全国どこの産地でもよいわけです。

また、ペットボトルなどの緑茶飲料製品に使われているのもこうしたお茶であり、現在、日本全国で栽培されている茶樹の9割が「やぶきた」という同じ品種であり、どこで採れたとしても採摘した段階ではほとんどその品質にばらつきがありません。

従って栽培しやすければどこでも良いわけであり、全国の茶葉の出荷額の40%を占めるといわれる静岡茶もそのほとんどが「やぶきた」です。

しかし、これを栽培しやすい気候風土があるのと同時に、江戸時代からの長きにわたって、ここでお茶が栽培され、培われてきた高い製造技術がその生産量を支えています。

一般にお茶の栽培には、水はけ、日当たり、風通しが良い場所が適地とされ、地形はとくに平野部がよく、ここでは、機械導入などにより収益性を高めた大量生産を行うことができます。静岡は南側に開けた平地が多く、お茶の栽培には適した土地が多いのです。

こうした静岡以外にお茶の栽培に適した温暖な適地が多いのは九州であり、その結果、出荷額は鹿児島の2位のほか、宮崎県が4位、福岡県が6位など九州の各県が上位を占めています。このほかでは、「伊勢茶」で有名な三重県が3位、同じく「宇治茶」で有名な京都が5位となっています。

が、お茶の産出にあっては、お茶の木の量の多寡というよりも、その製造には手間暇がかかるものでもあり、その確かな技術が確立されているところの産量が多いということのようです。

静岡の場合、長い歴史があり、古くからお茶の栽培を営む農家によってその確固たる技術が守られ続けた結果が、現在における地位を築いたと言っても良いでしょう。

お茶は霜に弱いことから、その霜害を防ぐため、畑に電柱を立て、この一番上に下へ向けた扇風機を取り付けて、その送風により霜がつくのを防ぐということが日本各地で行われています。ところがこの装置は意外と金がかかります。お茶栽培の耕地面積が多ければ多いほどこれに対する投資額はばかになりません。

このため、この霜取りファンの取り付け補助金が各産地とも県や市町村から出ていますが、その補助金の金額が、静岡県では全国的にみても断トツに多いと聞いています。「お茶王国」静岡の存続のため、県などの自治体もこれに手を貸しているのです。

しかし、静岡以外の県においても、暖差が激しく、朝霧が掛かるなどの自然条件を活用し、あるいは手もみ製法や無農薬栽培、伝統的な製法を継承するなどして品質に付加価値を付け、静岡のような大規模産地と差別化を図ろうとしているところもあります。

例えば、埼玉県の狭山市は、茶産地としては寒冷なため、摘採回数の少ないなどのハンディを押しのけるため、独特なお茶の製法を生み出しました。味を濃くするために火入れを行うなどがそれであり、その努力が報われ、近年そのブランド名「狭山茶」は全国的に知られるようになりました。

また、愛媛県北部の、川之江市や伊予三島市、新宮村などが合併してできた四国中央市では、「新宮茶」というお茶を作っています。このお茶は完全無農薬有機農法によって栽培され、 第55回農業コンクールで名誉賞をとり、また第2回国際銘茶品評会で金賞を受賞するなどの栄誉を受け、全国的に有名になりました。

さらに、高知県の四国山地に近い山奥にある村、大豊で作られている「碁石茶」は、日本では珍しい発酵茶です。現地では消費されず、もっぱら瀬戸内の島嶼部などに茶漬用として送られていましたが、近年、健康茶として注目を浴びるようになり、通販で入手する人も多くなるなど人気を集めています。

お茶といえば静岡、というイメージが定着していますが、長く不況が続く中、お茶という最も日本人にとっては最もポピュラーな食材にも焦点をあてて、これに新しい息吹を加えようという農家が日本各地に増えているようです。お茶王国の静岡といえども、うかうかしておれない時代に入ってきているのかもしれません。

さて、今日もまた長くなりました。お茶の項は終わりにしたいと思います。今日は曇りの予報でしたが、今外を見ると晴れ間が広がってきており、もうじき富士山も見えそうな雰囲気です。一年で最もおいしいお茶が摘めるという八十八夜の今日、静岡の各地でお茶摘みが行われているに違いありません。

もしそのお茶が入手できたら、そのお味をまたこのブログでもご紹介しましょう。みなさんもまた、連休中、静岡へ来られたら美味しいお茶をめしあがってください。