関東管領 ~旧中伊豆町(伊豆市)

最勝院裏手、龍若丸墓地へと続く道

新緑の色が一段と濃く成ってきました。日中の気温は連日25度を超えるようになり、梅雨にも入っていないのに、もう夏といってもよいくらいの陽気です。

そんな中、お天気も良いし、花が散ってしまってからは遅い、ということで、河津のバカテル公園へ行ってきました。先日も松崎の岩科学校へ行ってきたばかりであり、最近は南伊豆方面へ出かけることが多くなっています。夏が本格化すると、伊豆は観光客でごったがえすので、今のうちに……という気持ちもあるからですが……

今日は、そのバカテル公園のバラの様子を書こうかとも思ったのですが、先日最勝院のことを書き、その中で、「関東管領」のことを書きかけてやめてしまったので、引き続きこのテーマに本格的に取り組もうと思います。

関東執事・関東管領の誕生

さて、そもそも関東管領とは何なのでしょうか。

鎌倉幕府を倒して、室町幕府の初代将軍の座についた足利尊氏は、当初嫡男の義詮(後の二代将軍)を鎌倉の主に据えましたが、その後彼を手元に置いて自分の後継として育てようと考え直し、京都へ呼び戻しました。

しかし、足利家の不在によって関東地方が荒れるのを恐れ、嫡男の代わりに次男の亀若丸(足利基氏)を関東統治のために鎌倉へ派遣しました(1349年、正平4年/貞和5年)。これが、「鎌倉公方」のはじまりです。

ただ、基氏はまだ幼かったため、これを補佐するために「執事」と呼ばれる補佐を置きました。これが後年の「関東管領」になっていきます。

しかしこのころ、京都にも将軍を補佐する役割の武士がおり、これも執事と呼ばれていたため、これと区別するために、鎌倉のほうの執事は「関東執事」と呼ぶことにしました。

当初は2人指導体制で、上杉憲顕、斯波家長、次いで高師冬、畠山国清といった複数の関東の有力武将が任じられましたが、次第にこのうちの上杉氏が一番力を持つようになり、最終的には一人枠の執事職(関東管領)を、上杉氏が世襲していくことになります。

上杉氏というのは、元々は天皇家に仕える公家でしたが、鎌倉時代後期、親王の将軍就任に従って鎌倉へ下向して武士となった一族です。

上杉家には諸家があり、このうちの山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)が一番力を持っていました。山内上杉家は、足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家です。

名前の上に「山内」が付くのは、鎌倉の山内(鎌倉市山之内、現在でも「管領屋敷」の地名がある)に居館を置いたことにちなみます。

当初、山内上杉氏は上野国(こうづけのくに、現栃木県を中心とした地域)を中心とした地域だけに勢力を持っていましたが、関東管領に任じられるようになってからは次第に勢力を拡大し、のちに伊豆半島の守護も任されるようになります。これが、関東管領と伊豆のつながりの始まりです。

「上杉憲顕(のりあき)」は、この上杉家として一番最初に関東執事になった人です。しかし他の関東勢と執事任命を巡っての権力争いに一度は破れて失脚し、越後に隠遁して過ごしていました。が、鎌倉公方の足利基氏に請われて、1362年(正平17年/貞治元年)に復職します。

関東執事としては四代目になりますが、このときから、関東執事は「関東管領」と呼ばれるようになります。

関東管領と鎌倉府の対立

このころに関東管領の守備範囲は、上杉家の勢力範囲でもある上野国(主に現栃木県)を中心とした北関東一円でした。ところが、その後、鎌倉公方の足利基氏が急死。このため、鎌倉公方が主に治めていた南関東の武蔵の国一帯にたびたび反乱がおきるようになります。

このため、室町幕府から関東管領の上杉家にこれらの反乱の鎮圧の要請があり、これを見事に遂行した上杉管領家は、その後、南関東の鎌倉公方の直轄領をも管理下に収めるようになっていきます。そして、代々関東管領の職を独占するようになり、以後関東管領が消滅するまで、上杉家の世襲制になりました。

無論、鎌倉公方は廃止されたわけではなく、3代鎌倉公方には足利満兼という人物がおり、鎌倉に鎮座しています。しかし、実質権力は関東管領が握っており、鎌倉公方は有名無実の公方となりさがっていました。

このころ、室町幕府の将軍は三代目の足利義満になっていましたが、将軍権力を強化するため、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強するとともに、有力守護大名の弱体化を画策していました。

とくに、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね、貿易により財力を有する強大な勢力であり、周防・長門(現山口県)を拠点として勢力を伸ばしていた山内義弘を当主とする、「山内家」の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘っていました。

そして、義満が金閣寺の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めとき、山内義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わなかったことなどを理由に、義満は山内義弘から和泉、紀伊などの守護職を剥奪しようとするなどの動きを見せます。

また、義満は度々義弘へ上洛を催促するようになりましたが、「上洛したところを誅殺される」などの噂が流れたことから、追い込まれた義弘はついに、室町幕府に反旗を翻すことを決め、美濃の土岐詮直や近江の京極秀満、比叡山・興福寺衆徒などと連絡をとり共に挙兵することをうながしました。

そして、あろうことか、このころ三代目鎌倉公方となっていた足利満兼がこの山内義弘の誘いに乗り、いざ事あらば呼応するとの密約を結んでしまいます。

もっとも、鎌倉公方は、初代の足利基氏、二代目の氏満代、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになってきており、三代目の満兼の代でも京都との緊張関係が続くという背景がありました。

こうして、1399年(応永6年)、大内義弘は軍勢を率いて和泉に着き、ここで挙兵・篭城しましたが、この動きに、義満は自ら指揮をとって、3万の軍勢で出陣。河内国(大阪府)堺に籠城する大内勢と激戦となりましたが、数では圧倒的に劣る大内勢は最初から苦戦してしまい、また、幕府側に寝返るものも出てきて次第に義弘は孤立。

そして、およそ1ヵ月半の激闘を繰り広げた後、義弘はついに打って出て戦死してしまいます。

このころ、上杉家では、上杉憲顕から数えて既に7人の関東管領を出しており、「上杉憲定」(在任1405~1411年)の代になっていました。そして、この大内義弘が挙兵した応永の乱において、上杉憲定は義弘に呼応して挙兵しようとした3代鎌倉公方足利満兼を厳しく諫言しました。

これに反発しつつも足利満兼は結局挙兵を思いとどまりましたが、やがて上杉憲定をも疎んじるようになり、以後関東管領と鎌倉公方の関係も急速に冷え込んでいきました。

山内上杉家の台頭

しかし、満兼が1409年(応永16年)に死去するとその子供の、「足利持氏」が四代目の新公方になります。

このとき、足利持氏の信任を得たのは、山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家の「上杉氏憲」であり、このため上杉憲定は失脚するところとなり、その代わりに関東管領に就任したのは氏憲でした。

そして氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆や満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近し、若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとしはじめます。

ところが、1415年(応永22年)の評定で、氏憲はまだ子供だと思っていた足利持氏から手厳しい反論に合い、その後この二人の仲は険悪になっていきます。

やがて氏憲は関東管領を更迭され、その後任には、敵対する山内上杉家の上杉憲基(憲定の子)が就任します。

このため、氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、犬懸上杉家と姻戚関係にある一族や地方の国人衆なども加え、翌1416年(応永23年)に、鎌倉公方、足利持氏と上杉憲基への反乱を起こしました。

これが、「上杉禅秀の乱」と呼ばれる内乱であり、禅秀とは、このころ出家していた上杉氏憲の法名になります。

上杉禅秀一派の足利満隆は、鎌倉の御所近くの宝寿院に入り、氏憲と共に持氏と上杉憲基を拘束しようとしましたが、両者はともに家臣に連れられて既に脱出していたため、事なきを得ました。

この反乱の報に接した京都幕府は、駿府の今川範政らや、宇都宮氏らに満隆・氏憲の討伐を命じました。そして翌1417年(応永24年)の戦いで氏憲や満隆らは善戦しましたが、配下の武将達が次々と離反するに及んで遂に力尽き、応永23年(1417年)1月10日、満隆や持仲と共に鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自害して果てました。

この乱で敗北した事により、犬懸上杉家は事実上滅亡しました。ただし、氏憲の子の何人かは出家することにより存命し、幕府の庇護を受けています。

これにより、以後、関東管領は、上杉家の中でも、山内上杉家が代々世襲していくことになります。そして、「上杉憲実」が1419年(応永26年)、父である上杉憲基に変わって関東管領に就任しました。関東管領としては、実に19代目になります。

以後、山内上杉家は、主に関東地方一帯の守護及び地頭の管理に当たるようになり、関東一円の武士を掌握し次第に鎌倉府以上の力を持つようになります。しかしこうして権力の頂点に至ったことにより、さらに鎌倉公方との対立が深まっていくことにもなりました。

鎌倉府の閉鎖と復活

一方、京都の足利幕府の6代将軍に就任した足利義教と、鎌倉公方の足利持氏は上杉禅秀の乱が終わったあと、再び対立し始めます。

実質関東地方一円を治める実力者となった山内上杉家でしたが、京都の室町幕府から関東の管理を任されているにすぎず、所詮は鎌倉公方の補佐です。このため、京都の幕府からの指令には抗えない立場であり、このためことあばら京都幕府ともめごとを起こそうとする持氏を上杉憲実はたびたびいさめています。

ところが、反対に持氏に逆ギレされ、持氏が自分を暗殺しようとしているという風説まで流れるようになったため、いったんは管領職を辞して上野国に逃れます。そして、実際に持氏が憲実追討のために持氏が兵を起こそうとする動きを見せたため、武蔵府中に陣を構えました。

そして、京の将軍足利義教とも呼応して、鎌倉を攻め、持氏を自害させることに成功します。こうして、およそ90年間にわたって続いてきた鎌倉府(鎌倉公方)はここにきていったん閉鎖されることになりました。1438年(永享10年)のことであり、この乱は「永享の乱」と呼ばれています(ただし、鎌倉府は後年復活)。

ところで、この鎌倉府を閉鎖に追いやった人物、上杉憲実こそが、先日我々が訪れた最勝寺を創建した人物です。祖父の上杉憲栄(管領職は拝領せず)の追善供養のためこの寺を開いたといわれています。

この上杉憲栄(うえすぎのりよし)は、1422年(応永29年)に没した人で、初期のころの上杉関東管領として活躍したあの上杉憲顕(前述の山内上杉家の始祖)の実子になります。

父が没した跡を受けて越後守護となり、在京して幕府のために長い間働きましたが、28歳という若さで出家して遁世し、但馬(現兵庫県北部)で坊さんの修業を積んだあと、山内家の所領であった伊豆にやってきました。そして、「八幡(はつま)」という場所に隠棲し如意輪寺というお寺を創建します。

調べてみたところ、この八幡というのは、修善寺から伊東へ行く県道12号の途中にある字で、現在の伊豆市役所の中伊豆支所のある地域一帯をさすようです。如意輪寺がどんなお寺だったのかといった細かいことはわかりませんが、今はもう本堂などは残されておらず、ただ寺跡らしい後だけは残っているようです。

上杉憲栄はこの寺で父の上杉憲顕の菩提などを弔っていたようですが、この如意輪寺で72歳で亡くなっています。

上杉憲実がなぜ、この祖父の憲栄の菩提寺を同じこの八幡の近くの大見に建設したのかはよくわかりません。最勝寺の寺伝によると創建は、1433年(天文元年)ということであり、これが事実だとすると、上述の永享の乱の5年ほど前ということになります。

このころはまだ鎌倉公方と幕府の対立は始まっていないころであり、上杉家が関東管領を務める関東地方の情勢も比較的安定し、財も相当蓄えていた時代であると考えられることから、この機会に戦乱の影響が及びにくい山里に先祖の菩提寺を建立しようとしたのかもしれません。

上杉憲実は、上野・武蔵・伊豆守護を司る関東管領として務めるかたわら、室町幕府将軍義教と持氏の融和にも努力した篤実な人物であったようです。またそれだけでなく、足利学校や金沢文庫を再興した文化人としても知られています。

足利学校(あしかががっこう)は、下野国足利庄(現・栃木県足利市)にあった、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関です。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であったといいます。

また、金沢文庫(かねさわぶんこ、かなざわぶんこ)は、鎌倉中期の歴代の執権北条氏を影で支えた「北条実時」が建設した武家の文庫です。日本の初期における私設図書館とも位置付けられており、その創建は1275年(建治元年)ごろではないかといわれていますが、上杉憲実のころにはかなり荒れ果てていたらしく、彼がこれを再建したと伝えられています。

さて、少し寄り道しましたが、本題に戻りましょう。

鎌倉府と足利幕府との争いに巻き込まれ、そのため一時関東管領を辞していた上杉憲実ですが、1440年(永享12年)に下総の結城氏などが持氏の遺児を奉じて再び幕府に反抗する反乱を起こすと、その鎮定に協力するために復職します。

その後しばらくして再び管領職を辞するなどの出入りを繰り返していますが、その後1447年(文安4年)に、幕府の命により鎌倉府が再興されるまでは、この憲実率いる上杉家がしっかりと東国支配を行っていました(約9年間)。

古河公方と堀越公方の誕生

しかし、幕府は関東管領の権力が大きくなりすぎるのを警戒したのでしょう。その命により、鎌倉府を復活させます。すると再び、関東管領である上杉家と鎌倉府の対立が起こるようになり、持氏の別の遺児、足利成氏が鎌倉公方となると、1454年(享徳3年)に成氏は関東管領上杉憲忠(憲実の長男)を暗殺しています。

自らが鎌倉公方を復活させておきながら、この争いをゆゆしき事態だと考えた室町幕府は、駿河守護であった今川範忠によって、足利成氏を攻めさせます。これによって鎌倉府を追われた成氏は、古河(現茨城県の西端)を本拠とするようになり、以後自らを「古河公方」と名乗るようになります。この一連の乱は世に「享徳の乱」と呼ばれています。

いったん、鎌倉から古河へ追い込まれたような形になった成氏ですが、その後は盛り返し、鎌倉周辺の相模国内だけでなく、下河辺荘(しもこうべのしょう・現茨城、千葉、埼玉県の一部)などを経済的基盤として、関東一円に大きな影響力を持つようになります。

一方、京都の足利将軍家はこうして不安定になる一方の関東地方の情勢をなんとかしようと、その一族である「足利政知」を新たな鎌倉公方とし、新しい風を吹き込むために彼を鎌倉に派遣します。

しかし、享徳の乱を起こして幕府と敵対状態にあった古河公方、足利成氏の勢力は強大であったため、足利政知は関東管領の上杉家の力を借りても鎌倉に入ることができず、とうとう仕方なく、伊豆の長岡に逗留することにします。そして、この地が「堀越」という名前であることから、古河公方と区別するため、「堀越公方」と呼ばれるようになったのでした。

なお、この際に政知の補佐役として上杉教朝・渋川義鏡という人物が補佐として任命されましたが、既にあった鎌倉公方補佐の関東管領と区別するため、旧称である「関東執事」を一時的に復活させています。

こうして、関東地方は、ほぼ全域を古河公方が実質支配し、幕府の鎌倉府は存在はしていたものの実質機能しておらず、伊豆の長岡に封じ込められた状態となってしまいました。

一方、幕府の手先として旧来からの関東管領を務めていた山内上杉家は、堀越公方の権力を復活させるべく鎌倉方面にもしばしば出向き、古河を拠点とするようになった古河公方、足利成氏と何度も戦いますが、その都度負け、次第に勢力を落としていきました。

その結果、上杉家傍流の「扇谷上杉家」が山内上杉家に迫る勢力を得るようになり、両家の間でも内紛が勃発。18年続いたこの戦いは結局、山内上杉家の勝利に終わりましたが、享徳の乱で古河公方が登場して以降、通算して50年にわたる戦乱が続き、この結果関東地方はすっかり荒廃してしまっていました。

後北条家の登場と関東管領の滅亡

この情勢につけいり、関東地方に乱入してきたのが、北条早雲です。この当時、まだ伊勢宗瑞と名乗っていた早雲は、初代の堀越公方の足利政知が1491年(明応元年)に病没すると、その後継に選ばれていた次男の潤童子を母もろとも殺し、二代目の堀越公方に就任していた異母兄の茶々丸を攻めます。

1495年(明応4年)、早雲は苦労の末、堀越公方の居城であった伊豆長岡の堀越御所を攻め落として茶々丸を追放すると、山内上杉家との戦いで疲弊していた扇谷上杉家に近づきます。そしてこれが、その後の関東地方における早雲を初代とする「後北条氏」の台頭のきっかけになりました。

こうして早雲亡きあとも、後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大していくようになります。一方の山内上杉家は、扇谷上杉家との争い以降も内紛が続き、2度にわたる家督争いによって自らの勢力をさらに後退させていきます。

その後も後北条氏の勢いは止まらず、どんどんと関東地方の諸豪族は後北条氏になびいていきます。こうなるともう、古河公方としても関東管領の上杉家や堀越公方と争っている場合ではない、ということになります。

北条早雲を関東地方に導いてしまった、扇谷上杉家もようやくその脅威に気付くようになったのです。

そして、共通の敵を打つべく、古河公方足利晴氏、関東管領の上杉憲政(上杉憲実の孫にあたる)、扇谷上杉家当主の上杉朝定の三者で連合軍を結成。

1546年(天文15年)、武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で後北条軍と激突しますが、戦上手の後北条、北条氏康に敗北。古河公方、山内上杉家とも大打撃を受け、扇谷上杉家は朝定が討死し、滅亡してしまいます。

その後、上杉憲政は上野国などを拠点として北条氏へ抵抗しようとしますがうまくいかず、現群馬県藤岡市にあった居城の平井城を失うと越後へ向かい、元は家臣筋であり外戚でもあった越後の長尾氏を頼りました。

これが、1551年(天文20年)のころのことだったようです。その10年後の永禄4年(1561年)に憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を、この長尾家の当主長尾景虎に譲りましたが、これが誰あろう、かの有名な「上杉謙信」になります。

ここで伊豆と越後がつながることになります。その後も江戸時代に至るまで続いていくことになる上杉家は、その家督を伊豆の守護職、山内上杉家から譲られて成立した家だったのです。

景虎はこの時その名を政虎(後に輝虎・法名は謙信)と改め、関東管領に就任しますが、しかし既に関東管領は実質的には機能しておらず、謙信の死をもって終焉を迎えることになります。

つまり、最後の関東管領は上杉謙信だったということになります。

上杉謙信を最後の関東管領とするならば、最初に関東執事が誕生してから229年、また上杉憲政がその職を謙信に譲ったのが最後とするならば、212年、いずれにせよ200年以上続いた関東管領は、ここについに消滅することになりました。

山内上杉一族の滅亡

一方、越後に亡命した上杉憲政は、1578年(天正6年)に謙信が死去すると、謙信の2人の養子景虎と景勝との家督をめぐる争いに巻き込まれます。旧山内上杉家臣に北条氏との関係を重視する意見もあって、憲政は景虎を支持しましたが、山内杉山家の旧臣の大部分は景勝方につきました。

当初は拮抗していたこの家督争いでしたが、やがて越後の国人勢力や武田勝頼に支持された景勝のほうが有利になり、景虎は憲政の居館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされるようになります。

1579年(天正7年)、憲政は景虎の嫡男道満丸と共に和睦の交渉のため、春日山城の景勝のもとに向かいましたが、このとき2人は景勝方の武士によって不意打ちに遭い、陣所で討たれました。享年57だったといいます。一説には包囲され、自刃したともいわれますが、詳細は記録されていません。

憲政の居館を退いた景虎はその後、鮫ヶ尾城という城に篭りますが衆寡によって敵を退けることができずやはり自刃。これら憲政や景虎と景勝との内乱は後年、「御館の乱」と呼ばれるようになりました。

その後、越後上杉家は、上杉景勝によって運営されるようになります。ちなみに、その家臣にはかの有名な直江兼続(なおえかねつぐ)がいます。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」で、妻夫木聡さんがその主役を演じたのをご記憶の方も多いでしょう。

なお、憲政のお墓は、越後領内の寺にあったといいますが、のちに景勝が転封されたため、この寺も移動し、現在は、米沢市の照陽寺というお寺に移されているといいます。

ところで、この憲政は、越後に亡命前、3人の子をもうけていたといわれています。憲藤、憲重、龍若丸という名前だったそうで、このうちの憲藤と憲重の二人は父憲政の越後入りに従い、上述の御館の乱で討死したようです。

そして、父憲政につき従って憲藤、憲重は越後に入る一方で、その一番下の子であった龍若丸は、どうやら、そのとき逃げ遅れたようです。

一説によると、部下の裏切りにあい、後北条に捕縛されたといい、このとき裏切った家臣もまた処刑されたといいます。拘束されたのちには、小田原へ運ばれる予定だったようですが、監視の目を盗んで逃亡し、伊豆の湯ヶ島方面に向かったようです。おそらくは堀越公方の館があった伊豆長岡から、天城山の方面を目指していたのではないでしょうか。

しかし、とうとう捕捉され、切られてしまいます。あるいは、自刃したという話もあるようですが、状況からみてどちらであっても不思議ではありません。そのとき、龍若丸の亡きがらを葬ったのが最勝院といわれており、そこへ運ぶ途中に峠があり、これが先日のブログでも紹介した「国士峠」になります。

この道沿いにはこの史実を記した説明看板が立てられているそうで、峠名の由来として「1551年(天文20年)、上杉憲政の子、龍若丸が自刃し、そのこうべを湯ヶ島から大見村最勝院まで輿に提げ運んだことから、輿提げ峠=国士峠となった」と書いてあるそうです。このことは先日書いたばかりです。

現在も最勝院の本堂堂裏手には、そのお墓として五輪塔が据えられており、ここが龍若丸の終焉の地であることの説明看板が立てられている、ということも先日も書いた通りです。

上杉憲政やその二人子は御館の乱の際に上杉景勝方の兵士により討たれて亡くなり、また、龍若丸も亡くなったため、山内上杉家の一族はこれで断絶したかと思われました。

ところが、この亡くなった三兄弟のほかに、憲景という人物がいたという記録があり、御館の乱でも討死したようですが、一子があり「家房」という名前だったといわれています。実際、憲政の孫・曾孫達としてその存在が江戸時代に確認されているそうで、そうすると、歴代の関東管領の子孫たちは今のこの世にも実在している可能性があります。

その子孫が今日まで生き残っているかどうかはよくわかりませんが、もしかしたらひっそりと、関東管領の子孫だと自覚しつつ、今も静かに世をおくっていらっしゃるのかもしれません。

もしかなうことなら、お会いしたものです。フィギアスケートの織田信成選手のように、かつての戦国武将の面影を残した人物であるかもしれないのです。

さて、今日も長くなりました。が、関東管領って何?古河公方と堀越公方、はたまた鎌倉公方との関係は??とよくわかっていなかった人には、少しはわかっていただけるよう、整理できたのではないでしょうか。

整理した私もしかりです。すっきりしました。また改めて、こうした難しい課題にチャレンジしてみたいと思います。が、疲れたので、今日のところはこれまでにて。

最勝院のはなし 旧中伊豆町(伊豆市)

先週のこと、伊東へ買い物へ出かけるため、県道12号を通って、冷川峠方面へ向かっていました。いつも通る道なのですが、その途中の白岩と呼ばれる一帯はのどかな田園地帯であり、昔ながらの里山風景が望まれ、何度通っても気持ちの良いところです。

この白岩から冷川峠に行く途中、「国士峠」方面を指す標識に出くわします。これを右折すると県道59号に入り、その先は湯ヶ島に至ります。かつて川端康成も逗留して伊豆の踊り子を書いたといわれるあの有名温泉です。

この59号線沿いに、「伊豆大見の郷 季多楽」という道の駅のような施設がある、と前から聞いていたので、ちょっと気になり、伊東へ行く途中に立ち寄ってみることにしました。

この道の駅?は、12号を右折して数百メートルも行かないうちにすぐに見つかりました。すぐそばに「大見城」という中世の城跡があり、静岡県がここを整備するとき、観光の目玉とするためか、そのすぐそばを走る県道12号沿いに作ったのが、「季多楽」のようです。

この「伊豆大見郷」は天城山の北麓に位置し、伊豆半島の中央を流れる狩野川の支流・大見川沿いにあるひなびた里です。良質の源泉を湧出し、古くから湯治場として、また近年は大手の病院が進出して温泉を利用した治療などが行われています。

しかし、伊豆半島の中でも、観光開発がほとんど行われてこなかったところで、またあまり目立った観光スポットもありません。ところが、最近この大見城の城跡が整備されて以降、少しずつ脚光を浴びているようで、この「季多楽」の駐車場にも平日にもかかわらず、県外ナンバーの車が何台か止まっていました。

「季多楽」には小さな売店が併設されています。通常の道の駅ほどの規模はありませんが、この大見の里の地場産の農産物や、天城わさび、天城椎茸、その他の野菜、あるいはこれらの加工品である漬物、つくだ煮類を販売していました。

なかなかリーズナブルなお値段だし、ほかにも花卉類も販売していて、「ちょっと伊豆へ行ってきました」的なお土産を買うにはなかなか良い場所かもしれません。

駐車場にはすぐそばの大見城の見取り図と散策コースを表示した看板が掲げられていました。もう夕方の4時近く、城跡は小高い山を上らなければならないようでもあったため、この日はここを散策するのはやめましたが、富士山も見えるようなので、今度晴れた日を選び、時間を作ってじっくり見学したいと思います。

この「季多楽」をチェックするという当初の目的を達したので、そのまま伊東へ向かおうとも思ったのですが、これまで来たことのない、大見郷、という場所がどんな場所なのかもう少し見てみようと思い、そのまま12号を東進してみることに。

すると、山間を流れる大見川を中心として開けた山里であることがわかりました。谷を流れる大見川を中心として、ひなびた集落が点在し、県道の両脇には棚田、またあちこちにはワサビ田らしいものも散見されて、ここにもまた美しい伊豆の原風景が見られ、良い目の保養になりました。想像以上です。

1kmほど走り、もうそろそろ伊東へ行かなくちゃ、と思っていたところ、道路脇の看板に「最勝院」と書かれている文字が目に入りました。ちょっとだけのぞいてみようか、ということになり、側道にクルマを乗り入れ、数百メートルも走ったところ、何やら山門が見えます。

すぐ脇にある駐車場に車を止めて、道路脇にある案内看板をみると、そこには、この最勝院は曹洞宗のお寺である説明書きなどが書いてありました。

山門のほうを見やると、逆光越しに境内の緑が鮮やかなシルエットになって見え、ここもなんとも美しい風情です。

かなり大きなお寺のようであり、山門も相当立派なもので、これをくぐると古式ゆかしい境内が見えてきました。山門を入ってすぐのところには、両脇に池がしつらえてあり、その水も澄んでいて、鯉も数匹泳いでいます。

本堂はここから百メートルほど奥にあります。それほど古いものではなく、どうも昭和になって建て替えられたもののようですが、境内の敷石やあちこちにある地蔵や五輪塔といった寺物はほとんどすべてが苔むしていて、いかにも古そうです。

さきほど見た看板によれば、さらに奥のほうに墓地や別のお堂などもあるようですが、この日は時間が押していたので、とりあえず、境内の写真をパチパチと撮っただけで伊東へ向かいました。

しかし、ナントも気持ちの良い空間であり、大見城もさることながら、今度またじっくり時間を作って境内奥のほうなども散策してみたいと思いました。

この最勝院について、家に帰って調べたところ、その寺史によると、鎌倉管領で伊豆の国守護職であった上杉憲忠が、祖父憲実の菩提を弔うために室町時代の1443年(永享5)に草創したとなっているそうです。

が、歴史に詳しい方が書いていらっしゃるホームページがあり、これをみたところ、その創設は、同じ関東管領でも上杉憲実という人の手によるということで、その祖父の憲栄のために建てた寺というのが本当だということです。

本尊は体内釈迦牟尼仏、脇立は文殊菩薩・普賢菩薩。もともとこの地にあった真言宗のお寺の跡に堂宇を建て、寺領として七百貫匁が寄付され、現在の前身の本堂を建てました。

戦前までは三町歩(約3ヘクタール)の農地を所有した大寺だったといいますが、現在の敷地はかなり縮小されています。しかし、それでもかなり奥行の広い広大な敷地を持つお寺さんです。

知る人ぞ知る桜の名所でもあるようで、そういえば境内と山門の入口付近に大きな桜の樹がありました。今年はもう終わってしまいましたが、来年のサクラの季節にはぜひまた来てみたいと思います。

このお寺、古いだけに色々な伝説が残されているようで、そのひとつは天狗伝説です。初代の住職で、吾宝禅師という人の説法を聞きにきた天狗が、水源の乏しいこの地に水をもたらしたといいます。

それはこんな話のようです。

ある朝、禅師が村の人々を集めてお説法をしていたといいます。すると、数ある村人の中でも、とくに禅師の説教を熱心に聴いている老夫婦が目に留まりました。あまりにも熱心に聴いているので、説法が終わったあと、禅師は何かこの夫婦に声がかけたくなり、返ろうとしていた二人を呼び止めます。

そして、何か所望することはないか、と尋ねたところ、我々二人はもうかなりの高齢なので、この先もういつ死んでもおかしくない、もし死んでしまったとしても周囲の人に迷惑をかけたくないので、できれば生きているうちに血脈(戒名)を受けたいと答えたといいます。

それでは、戒名を与えてやる代わりに、しばらく私の説法を聞くためにここに通いなさいと禅師は二人に言いました。実は師は二人の信心ぶりを試すつもりだったようですが、その期待に答え、その後老夫婦は老師の話を聞きに毎日やってくるようになりました。

そして、ある日のこと、師はその日の説法が終わったあと、この熱心な老夫婦を呼び止め、戒名を与えることにしました。「周伯(しゅうはく)」「傳中(でんちゅう)」というのがそれでしたが、その折に禅師が二人に本当の名はなんというか、と聞きました。

すると、二人は顔を見合わせ、おそるおそる禅師に自分たちのことを語り始めました。その話を聞いた禅師は驚きました。なんとこの二人は、人ではなく、この寺の裏山に住む天狗だというのです。驚く禅師に対して、二人の天狗は戒名を与えてくれたお礼に、逆に何か願い事があればお返ししたいと禅師に言いました。

実はこの当時、最勝寺では、水が乏しく困っていました。このため、師が水がほしいと所望すると、天狗はたやすいことですといって帰っていきました。

……その夜のこと、寺の衆たちが寝静まり、禅師が静かに書物に目を通していました。……と、静かな寺の山側の墓地から、ちょろちょろ、ちょろちょろ、という水のような音が聞こえてくるではありませんか。

音はだんだんと大きくなり、ついには、さわさわと流れる沢水の音に変わっていきました。驚いた禅師が裏庭に出ると、その地面からは澄水がこんこんと湧きだしており、その水が枯れた沢に沿って、お寺の門のほうへ流れていたのでした。

こうして、最勝寺では、その後水に困ることはなくなり、この水は今も尽きることがなく、こんこんと湧き出している……とか。

現在でも最勝寺では、この時の天狗が指の爪で彫ったという「般若の宝札」と呼ばれるものが寺宝となっているそうです。どんなものかよくわかりませんが、お札の形をしたレリーフのようなものなのでしょう。

例大祭が年二度ほどあり、これは、火防尊大祭(4/24)、大施餓鬼(8/19)だそうです。火防尊大祭のほうは既に終わってしまっていますが、大施餓鬼のほうはどんなお祭りなのか、これもまた見てみたいものです。

この最勝寺、当初は西勝寺と称し真言宗の寺院だったようですが、いったんは廃れ、これを再興して開山したときに、最勝院と寺号を改称し曹洞宗に改宗しています。

この天狗のおかげなのか、その後寺運が隆盛し、江戸時代には伊豆国の曹洞宗僧録所にもなり最盛期には宝五派1400余ヶ寺を傘下に従える大寺となります。往時は七堂伽藍をもつ豪壮な寺であり、雲水真参弁道の道場として多くの修行僧を世に送りだしました。

1827年(文政10年)、1940年(昭和15年)と火災により多くの堂宇が焼失しましたがその都度再建されています。さきほどの、火防尊大祭は、そのためのお祭りなのでしょう。

昭和15年の消失後はしばらく放置されていましたが、昭和29年に本堂が再建され、その後祖堂、総門などの他の建物の再建も行われて今日に至っています。

本堂裏手には、室町時代の伊豆の守護職であり、最後の関東管領でもあった山内上杉氏の「上杉憲政」の嫡子「龍若丸」の墓所があり、人質として小田原北条氏に送られる途中に逃げ出し、追手により追い込まれて殺され、この地に葬られたと伝えられています。

この最勝寺の東10kmほどのところには「国士峠」という峠がありまますが、これは、龍若丸の亡きがらを湯ヶ島から最勝院まで輿に提げ運んだことから、「輿提げ峠=国士峠」と呼ばれるようになったということです。

最勝院の本堂堂裏手には、そのお墓として五輪塔が据えられており、ここが龍若丸の終焉の地であることの説明看板が立てられています。

古いお寺であるだけに、このほかにも、この大見の里に伝わる不思議な話が伝わっています。

最勝院からさらに東へ進み、国士峠に向って大見川の支流・地蔵堂川に沿いに遡ると貴僧坊という字があります。この地の伝承に拠れば、永享の頃(1429~1440)に天城湯ヶ島から国士峠を越え、ひとりの旅の修行僧が訪れ、ここにあったお堂に一泊しました。

ところが、その夜半に村人がこのお堂に女の死人を担ぎ込みます。このため、この僧が棺の前で大般若経を読んだところ、なんとこの女は突然生き返ったといいます。驚いた村人たちはその後この僧を崇め貴ぶようになり、僧は村人からの喜捨(進んで金品を寄付・施捨すること)を得てこの地に大久寺という寺を開きましいた。

今はもうこのお寺は廃されているようですが、このエピソードから、この字の名前「貴僧坊」がつけられたと伝わっているそうです。

そしてこの僧こそが、その後に最勝院を開いた名僧「吾宝禅師」ということです。名前を検索すると、結構出てくるので有名なお坊さんのようです。が、今日はこの方の話はやめておきましょう。

この最勝院にはさらに別のバージョンの「黄泉がえり」の伝承があります。

ある年の大晦日に、この大見にあった茶屋の老母が急死しました。しかし、年末であったために、葬儀ができず、このため三日ほどの間、大久寺に安置されたそうです。ところが、年が明けた正月に、近隣の村人が参賀のために詣ったところ、驚くなかれ、この死んだはずの老母がたすき掛けで茶の接待をしていたといいます。

ところが、正月の三が日が過ぎた夜になると、この老婆は棺に戻っていたといい、その葬儀は四日目に営まれたとか。

古いお寺ともなると、ちょっとした里の噂話に尾ひれがついて、長い間にこうした伝承になって伝えられることが多いようですが、室町時代以降、ほとんど変わっていないと思われる風景が残るこの大見の里には、ほかにも面白い話が残っているかもしれません。

また、調べて面白いことがあったら、アップしてみましょう。

前述した、大見城のことや、関東管領大内上杉家のこと、龍若丸のこと、などなどもまた書いてみたいと思います。とりあえず、今日のところはここまで。

オリハルコン


日々の気温がだんだんと高くなっていく中、昨日庭いじりをしていたら、今年になって初めて藪蚊にほっぺたを刺されました。

あぁそうか、今年もとうとうそんな季節になったかと、季節の移ろいの速さを思う反面、これから訪れる雨の季節とその後の暑い日々のことが頭に浮かび、少々気が重くもなったりします。

いっそのこと、夏のないところへ引っ越せばよかったなどとも思い、北海道という手もあったなとは思うのですが、さすがに北のはてまで行って住もうという気になれず、関東地方から近い利便さの魅力にも負け、ここ静岡へやってきたわけです。

ただ、これから残りの人生をすべてここで過ごすのかな、と考えてみると、どうもここが終の住処というかんじはなく、この点、タエさんも同じらしく、どうもまた別のところへ移り住むような気がする……とよく言います。

じゃぁそれがどこか、ということは今はさっぱり見当もつきませんが、二人にとっては郷里である地である広島や山口という可能性もなくはない。

郷里に近い場所というのは、親戚やかつての友人たちも多いわけでもあり、老後を過ごす場合、そうした知人が多いというのはやはり心強いもの。そうした人達に囲まれて過ごす残りの人生を考えると安心感がある……

……というようなことを最近よく思ったりするのは、やはり歳をとったからかな~と思ったりもします。

5×才はまだまだ若く、そこいらの運動不足のお兄ちゃんたちとは比べものものもないほど体力はあると思っているのですが、いかんせん、早晩老いさらばえていくことだけは確かなこと。魂は永遠ですが、いつかはこの肉体も滅びていくわけです。

ところで、「永遠」と書いていて、先日書いたブログ「アトランティス」との関連から、その昔読んだ手塚治虫さんの漫画、「青いトリトン」という作品を思い出しました。

主人公のトリトンは、「人魚族」の最後の生き残りであるという設定で、その一族を滅ぼそうとしている海の支配者ポセイドン一族と闘うという、海洋冒険SFマンガです。

トリトンは、最後の人魚族の子供でしたが、その父母もまたポセイドン族の一族の迫害に遭います。そして追い詰められて死に瀕したところで、トリトンをある人間(漁師だったかな?)に託します。人間に育てられて逞しく育ったトリトンはやがて海へ帰りますが、そこで、もう一人の生き残りの女の子「ピピ」と出会います。しかし、ポセイドンのワナにはめられ、二人は人間の敵に仕立てられてしまいます。

そして、ついにトリトンとピピは立ち上がり、人魚族の仇を打つためにポセイドンとの決戦を決意する……という話だったと思うのですが、なぜこれが「永遠」と関係があるのかというと、このトリトンの大敵である、ポセイドン一族の親分、王様が永遠の命を持っていたからです。

ポセイドン王は代々不死身の体を持っており、歴代の149人のポセイドン王が砦に眠っていて、一人がその「一生」を終えると、それで死ぬわけではなく、別の眠っていたポセイドン王に政権をバトンタッチ。自らはまた眠りに入ることでパワーを蓄える……みたいな荒唐無稽な話でした。

手塚治虫さんの原作も結構破天荒なストーリーでしたが、これがアニメ化されてテレビ放送になったほうもまた、かなり跳躍したお話であり、これが「海洋冒険SF活劇」と呼ばれる所以なわけでもあるのですが、実はこのテレビアニメを私は大好きで、毎回のように欠かさずみておりました。

手塚さんの漫画のほうは、「サンケイ新聞(現産経新聞)」に1969年から二年に渡って連載されたものでしたが、アニメのほうは、その連載が終わった翌年の1972年4月から9月末まで放送されたものです。

テレビアニメのほうのタイトルは「海のトリトン」に改題されていますが、手塚版のほうもアニメ版のほうにも使われている「トリトン」とは、ギリシャ神話に出てくる海の神様の一人の名前です。

が、いずれも内容そのものはギリシャ神話とは何ら関連を持っておらず、強いて関連といえばポセイドンもトリトンも海にまつわる神様の名前であり、漫画アニメのほうも海をテーマにしているという点でしょうか。

ちなみに、ギリシャ神話のほうでは、トリトンとポセイドンは親子ということになっています。トリトンは、父親のポセイドンと同じく、三叉の矛(トライデント)を持っており、波を立てたり鎮めたりするためにラッパのように吹く法螺貝もまた、彼のシンボルです。

高らかにこのほら貝を吹き鳴らすその音たるや、「強健な野獣のうなり声」のようだったといい、ギリシャ神話に居並ぶ巨人たちが、猛獣と勘違いして逃げ出すほど恐ろしいものであったそうです。

現代版のギリシャ神話、アニメ漫画のほうではその放映当初、トリトン族の赤ん坊をたまたま拾ってしまったある漁村の人間の少年を主人公とし、この少年が、ポセイドン族とトリトン族との抗争に巻き込まれるという、ど根性ものとして展開していく予定だったそうです。

ところが、プロデューサーさんがその途中で、純然たる冒険活劇とした方が作品として面白くなると考え直し、人間の子供を主人公にするのをやめ、海人の子、トリトンにこれを交代させたそうです。

我々と同世代の人の中には、このアニメをご覧になり、私同様にファンになった方も多いと思います。が、ご存知のない世代の方も多いであろうことから、そのストーリーの最後のほうをざっと、書いておきましょう。

トリトンは、失われたアトランティス大陸の遺跡の中、そこはポセイドン一族のアジトでしたが、ここに入ってポセイドン族と最後の対決をします。

ここで、トリトンは、父母の形見としてそれまでの戦いの中でも使ってきた「オリハルコンの短剣」の秘密を知ることになります。ポセイドン族が一族の守り神、象徴であり、かつパワーの源である「ポセイドン像」というものがあるのですが、これは「プラスエネルギー」を持つオリハルコンでできていました。

一方、トリトンが持つ短剣のほうは、マイナスエネルギーのオリハルコンで作られており、実はこの短剣は、ポセイドン族によって滅ぼされた古代のアトランティス人から受け継がれてきたものでした。

マイナスエネルギーのオリハルコンの短剣をもってポセイドン族を滅ぼすようにという願いを込めてトリトン族に託されたものであり、この短剣には、ポセイドン族の生命の源であるポセイドン像を破壊してしまうだけの力がありました。

このため、ポセイドン族は自らの安泰のためにも、トリトンを捕まえ、オリハルコンの短剣を始末しなければならなかったわけです。

そして、この海の中の古代アトランティス大陸のポセイドン宮殿の中で、ポセイドン一族とトリトン族の末裔である海のトリトンとの最終決戦が行われます。

最終的にはトリトンが勝ち、ポセイドン像を破壊、その爆発のためポセイドンの基地も宮殿とともに破壊されます。その後トリトンとピピは、イルカたちと共にいずこかへ立ち去っていくのであった……めでたしめでたし。

原作の手塚治虫さんの漫画のほうは、トリトンが不死身のポセイドンを追放するため、その歴代の王たちを全員引き連れて宇宙へ飛び立ちます。その後、ピピとの間に生まれた7つ子の息子のひとりが、地球に帰ってくる……という結末だったと思いますが、ストーリー的には断然アニメ版のほうが面白かったように記憶しています。

このため、これが放送されたころに小中高生だった子供たちには結構人気があり、この作品のために、テレビアニメとしては日本で初めてファンクラブが作られたそうで、中でもとりわけ女性ファンの人気が高かったといいます。

番組制作の録音スタジオには、トリトン役の声優さんを目当てに女子中学生や女子高校生が殺到するという、後のアニメ声優ブームの先駆けとなる現象も見られたといいます。

このアニメは、後年の「宇宙戦艦ヤマト」を生むきっかけにもなったといい、アニメブームの先駆としてその筋の方々からは重要なものであると位置づけられているとか。

そのプロデューサーは、手塚治虫の「虫プロ」のマネージャーであった「西崎義展」という人で、手塚から自らその放映権を取得。テレビ局へ売り込んだところ採用され、テレビアニメ初プロデュース作品となったものであり、この成功がこの人の後の大ヒット作品「宇宙戦艦ヤマト」にもつながりました。

ほかにも「ワンサくん」「宇宙空母ブルーノア」などの作品があるようですが、やはり「宇宙戦艦ヤマト」の評価が最も高く、その後の活動も、一連の「宇宙戦艦ヤマト」の姉妹作品を中心としたものであり、現在も「YAMATO2520(ヤマトニーゴーニーゼロ)」といった関連作品手がけられているようです。

ちなみに、この海のトリトンには、テレビ版を再編集した劇場版があるそうですが、私は見ていません。日本コロムビアのコロムビアビデオと、パイオニアLDC(現・ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン)などからその前後編を合わせて収録したDVDも発売されているそうなので、この作品をもう一度見たい方は、探してみてください。

ところで、この海のトリトンに出てくる「オリハルコン」とはいったい何ナノでしょうか。実は先日のブログ、「アトランティス」にも出てきたのですが、紙面の関係から説明を割愛しました。

プラトン が「クリティアス」の中で記述した、アトランティスに存在したという幻の金属のことであり、語源は「山の銅」という意味で、プラトンの著述作品以外にも、古代ギリシャの色々な詩作品に登場します(「へラクレスの盾」や「ホメロス賛歌」など)。

これらの作品からは、オリハルコンとは、真鍮(黄銅、銅と亜鉛の合金)、青銅(銅と錫の合金)、赤銅(銅と金の合金)、天然に産出する黄銅鉱(銅と鉄の混合硫化物)や青銅鉱、あるいは銅そのものと解釈されるようです。またラテン語では「金の銅」を意味するといいます。

これに対してプラトンの「クリティアス」は、その性質は明らかにされておらず、名前のみが伝わっていた幻の金属として登場してきます。その作中4箇所5度にもわたってオリハルコンを意味する「オレイカルコス」という単語が登場するとのことで、例えば、

「アトランティス島ではありとあらゆる必需品が産出し、今では名前を残すのみだが、当時は名前以上の存在であったものが、島のいたるところで採掘することができた。即ちオレイカルコスで、その頃知られていた金属の中では、金を除けば最も価値のあるものであった」

とか、

「アトランティス島の)一番外側の環状帯を囲んでいる城壁は、まるで塗りつぶしたかのように銅(カルコス)で覆われており、城壁の内側は錫で、アクロポリスを直接取り囲む城壁は炎のように輝くオレイカルコスで覆われていた」

などの具体的な記述がみられます。このほかにも、ポセイドン神殿の天上や壁、柱、床などにオレイカルコスが使われていたこと、アトランティスを支配する10人の王たちの戒律がオレイカルコスの柱に刻まれいたことなどが、記されています。

このようにプラトンのアトランティス伝説におけるオリハルコンは、武器としては使われていたのではなく、硬さ・丈夫さよりも、その希少価値が謳われていたようです。

このため、オリハルコンは、真鍮、青銅、赤銅などの銅系合金、黄銅鉱や青銅鉱などの天然の鉱石、あるいは銅そのものと解釈する説を支持する学者が多いようですが、このほかにも鉄、琥珀、石英、ダイヤモンド、白金、フレスコ画用の顔料、アルミニウム、絹など、種々の解釈があります。

現代人ばかりかと思ったら、プラトンの生きたギリシア時代よりも少し下がった時代の学者たちの間でもこのオリハルコンが何であったかという議論がなされたようで、BC350年頃に、アリストテレス (BC384–322)が、このオリハルコンの定義について議論しているといいます。

以後、この議論は近代まで続けられており、シアン色の青銅であるという解釈や、王金(亜鉛25%含有の黄銅)、亜鉛の化合物、銅系鉱石や真鍮の一種、透明な銅のようなもの、などなど様々な解釈がなされてきています。

比較的最近では、英国の神智学者ウィリアム・スコットという人が、「アトランティス物語」という本を1896年(明治29年)に書いており、この中で、アトランティスには「二種の白色の金属と一種の赤色の金属からなる、アルミニウムよりも軽い合金」で作られた戦闘用飛行船が存在する」と書いています。

これがオリハルコンであるとははっきり書かれていないようですが、アトランティスで使われていた軽合金といえば誰でもこれを思い浮かべます。その動力源には、「ヴリル」と呼ばれるSF小説にも出てくるようなものが使われていたとまで書かれています。

ここで、「神智学」というのは、現在世界中にあるいろんな宗教や神秘思想、オカルトを1つの真理の下で統合することを目指している学問というか、一種の「思想」です。

神智学の主張によると、宗教、神秘主義、オカルトの奥義は、それが支配する力の大きさや危険性から、どの時代においても一部の選ばれた少数の人間にのみ伝授され守られてきたとしています。

オカルトをも統合するといいますが、「一部の選ばれた少数の人間にのみ」といった考え方自体がオカルト的な雰囲気であるため、現在ではやはり異端の学問とみなす人も多いようです。

神智学では、宗教、神秘主義、オカルトに関する知識は、自分自身の内的な認識、超能力、神秘体験、霊覚、直接的な観察などによって得られるとされています。

このため、宗教、神秘主義、オカルトなどそれぞれの分野でかつて活躍してきた思想家たちは、古代のエジプトやインドの賢者たちも含め、客観性や合理性を重視する実証主義的な現代の科学者達よりも、ある意味では優れた認識や理解を持っていると神智学の学者たちは考えています。

そうした宗教、神秘主義、オカルトの教義に精通し、神秘の奥義を伝授されている人間を「秘教の秘伝への参入者」と呼び、その中でも特に奥義を体得している者達は、様々な超常的な力(物質化、テレパシーなど)を持っていたり、肉体を通常よりもかなり長い期間に渡って維持することができると主張しています。

さらには、こうした人達は宇宙の諸現象を理解する能力を持ち、人類への愛の面で卓越しているとも考えており、これらのことが、神智学が学問ではなく、どちらかといえば「思想」に近いものであると人々が異端視するゆえんでもあります。

しかし、「神智学協会」という非常にまじめな団体もあり、具体的な思想として、万物の一元性、宇宙や文明や人種の周期的な発生と衰退、三位一体の顕現、太陽系や人間の七重構造、厳正な因果律、輪廻転生、太古の文明、超能力、高次の意識、原子や鉱物や惑星の進化、生命体の進化に伴う天体間の移動、などなどについて研究しています。

イギリスの神智学者ウィリアム・スコットが、「アトランティス物語」の中で披露したる飛行体の記述も、こうした神智学的な見地によって「秘教の秘伝への参入者」から得た情報ということのようです。

スコットはこの飛行隊体や動力源をオリハルコンと特に結び付けた言及はしていませんが、 アトランティス人の生まれ変わりを称するかの有名な予言者「エドガー・ケイシー」は、そのリーディングでオリハルコンが未知の新素材や動力源と関連付けられると語ったということです。

無論、現代の科学では何の証明もされていないどころか、存在すらもしていない物質ですが、昨年の「ヒッグス素粒子発見!」以降、これまで幻であった物質の実在が次々と証明されようとしており、オリハルコンもまたいつかは、実際に存在する物質であった!という報道が突然なされる日がくるのかもしれません。

とはいえ、「永遠の肉体」を持たないわが身はその発見の報に接する可能性は少なそうです。が、現世では無理としても、来世では可能かも。その来世があれば……のはなしですが……

せいぜい生きている間できるだけ精進し、「秘教の秘伝への参入者」となれるように努力しましょう。それがオリハルコンや素粒子の秘密を知る最も近道のようですから……

アトランティス


日に日に緑が深まっていきます。去年、ここへ引っ越してきたあと、荒れ果てていた庭をあらためて整備し、きれいに仕上がったのは、5月の終わりごろのこと。

それから花づくりをするのは少々遅いとは思ったものの、ケイトウやらオシロイバナ、アサガオといった色々の花の種を撒きましたが、時期が遅かったのにも関わらず、みんな立派に育って、きれいな花を咲かせてくれました。

その花が終り、秋になってから取り置いておいていた種を先日までに撒いておいたら、先週くらいから、その芽がたくさん出ました。今年もまたきれいな花を咲かせてくれることでしょう。これから梅雨にかけての成長が楽しみです。

さて、今月の初めのこと、ブラジルの東方沖で、伝説のアトランティス大陸ではないかといわれる発見があったとの報道がありましたが、これを覚えている方も多いのではないでしょうか。

ブラジルのリオデジャネイロの南東1500キロメートル沖にある海面下1キロメートルの海底台地調査において陸地でしか形成されない花崗岩が大量に見つかったというものであり、
「この海底台地はかつて大西洋上に浮かぶ最大幅1000キロメートルの小大陸であったことが判明した」と、日本の海洋研究開発機構とブラジル政府が共同発表しました。

ブラジル政府は今回の調査結果について「伝説のアトランティス大陸かもしれない陸地がブラジル沖に存在していた重要な証拠」と強調しており、今後とも日本とブラジルは、この海底台地の調査を継続していくようです。

このアトランティス大陸ですが、古代ギリシアの哲学者プラトンが書き残した書物に出てくる記述がそもそもの出所のようです。

プラトンは、紀元前427年から紀元前347年に生きていた人ですから、それよりもさらに古い時代にこの大陸はあったことになり、日本では無論有史以前のお話であり、はるか遥か遠い昔のお話です。

プラトンの叙述をそのまま適用すると、このアトランティス大陸は大西洋にあることになるという解釈になるようです。

しかし実際には、大陸と呼べるような巨大な島が存在した証拠はこれまでには発見されておらず、南米沖のアゾレス諸島やカナリア諸島などの実在する島や、氷河期の終了に伴う海水面の上昇によって消えた陸地部分がアトランティスではなかったかと推定されてきました。

この「アトランティス」という言葉ですが、プラトンが生きていた時代のギリシア神話に出てくる「ティーターン族」の神である「アトラス」の女性形が「アトランティス」であり、このため、そのもともとの意味としては、「アトラスの娘」ということになるようです。

また、古代ギリシアではこの失われた大陸のことと、「アトラスの海」、「アトラスの島」という言い方もしていたそうで、古代ギリシア語の「海」を表す「タラッサ」や「島」=「ネーソス」もまた女性名詞だということなので、いずれにせよ、このアトランティス大陸は「女性の象徴」ということになるようです。

古代ギリシア人は、この大陸こそが自分たちの発祥の地だと考え、これを母になぞらえ、母なる海、母なる大地、といった印象を持っていたのでしょう。

プラトンがこのアトランティスに言及したのは、その著著である、「ティマイオス」と「クリティアス」という二冊の本です。この中に、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことを書いており、強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、最終的にはゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとも綴っています。

近年では、1882年(明治15年)、アメリカの政治家で、イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリーという人が、このプラトンの記述を引用し、「アトランティス―大洪水前の世界(Atlantis, the Antediluvian World)」という本を発表したことにより、その当時の欧米では謎の大陸伝説として一大ブームが巻き起こったといいます。

その後、この大陸が本当にあったかどうかについては、100年以上にもわたって論争が続けられてきましたが、近年の研究の中で、地中海にあるサントリーニ島という火山噴火によって、紀元前1400年ごろに突然滅んだミノア王国がアトランティス伝説のもとになったのではないかという説が浮上し、一躍脚光を浴びました。

また、地中海東部のエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡、ダーダネルス海峡にあったのではないかという説もあり、この地に昔繁栄したトロイア文明と重ねる人も出るなど、実はアトランティスは大西洋にはなく、地中海のどこかに存在した島なのではないか、という説も有力視されてきています。

しかし、プラトンの記述を信じ、大西洋のどこかにアトランティスがあるのではないかといまだに信じる研究者もたくさんいます。しかし構造地質学的にみると、大陸規模の土地が短時間で消失することはあり得ないため、実在したとしても、それは「島」の域を出ない規模のものではなかったか、というのが定説になっていました。

その「大陸」が果たして「島」程度のものであったのか、などの規模の問題はともかく、どんなところであったのかについては、プラトンの著述以外にはあまり詳しく書かれた書物はなく、このことがアトランティスの存在を疑問視する人の根拠になっています。

このプラトンがアトランティス大陸のことを書いた「ティマイオス」「クリティアス」は、プラトンがその晩年にアテナイ、すなわち、現在のギリシャ共和国の首都アテネで執筆した作品と考えられています。

この二つの書物は、プラトンの師匠である哲学者「ソクラテス」、プラトンの数学の教師とも伝えられている政治家で哲学者の「ティマイオス」、プラトンの曾祖父である「クリティアス」、そして、政治家で軍人の「ヘルモクラテス」の4人とプラトンとの対談の形式で執筆されているそうです。

「ティマイオス」は主にティマイオスが考えていた「宇宙論」について語られた本ということですが、ほかにもソクラテスが考えていた「理想的な国家」論が要約されて書かれています。

そして、そのような理想国家がかつてアテナイ(アテネ)に存在し、その敵対国家としてアトランティス大陸にあった国についての記述がプラトン自らが知り得た「伝説」として語られています。

一方、二冊目の「クリティアス」のほうも、クリティアスが実家に「伝わった」とされているアトランティス伝説についての詳しくが語られているといいますが、こちらはプラトン自らが知り得た伝説ではないため、「又聞き」という形式がとられているようです。

「ティマイオス」と「クリティアス」に書かれているアトランティスの物語を要約ると次のようになります(以下、ウィキペディアからの引用(一部読みやすいよう改編))。

概要

その昔、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡?後述)の入り口の手前の外洋であるアトラスの海(大西洋)にリビアとアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在していた。

この島の存在により、大洋を取り巻く彼方の大陸(ヨーロッパやアフリカ)との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。

アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内(地中海世界)を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。

その中でギリシア人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。

アトランティスの建国神話

アトランティス島の南の海岸線から50スタディオン (約9.25 km)の位置に小高い山があり、アトランティスという国はここから発祥した。

ここで大地から生まれた原住民「エウエノル」と妻「レウキッペ」の間にはクレイトという娘ができた。このころ、アトランティスの支配権を得ていた海神「ポセイドーン」はこのクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。

ポセイドーンは、アトランティス島をに10の地域に分割し、これをこの我が子10人を支配させるようにしたため、この子らが各10の地域の家の先祖となった。そして何代にも渡り長子相続により王権が維持された。

ポセイドーンは人間からこの島を隔離するため、妻のクレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリス(「高いところ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘。神殿や砦が築かれる)とするアトランティスの都、「メトロポリス」が人間の手で形作られていった。

メトロポリス

アクロポリスのあったのは、アトランティス中央に位置する島であった(この記述からアトランティスはいくつかの島からなる大陸だったと推定される)。

この島は直径5スタディオン(約925m)で、その外側を幅1スタディオン(約185m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2スタディオン(約370m)の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3スタディオン(約555m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。

一番外側の海水路と外海は、幅3プレトロン(約92.5m)、深さ100プース(約30.8m)、長さ50スタディオン(約9.25km)の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。

3つの環状水路には幅1プレトロン(約30.8 m)の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船が一艘航行できるほどのトンネル状の水路によって互いに連結していた。

環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン)、錫、銅の板で飾られた。

内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドックが作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。

中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドーン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン(約185m)、横3プレトロン(約92.5m)の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドーンに貢物が捧げられていた。

ポセイドーンの神殿は金、銀、オレイカルコス、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがったポセイドーンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨った100体のネレイデス像や、奉納された神像が配置されていた。

更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドーンの戒律を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛が放牧されていた。

5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事を執り行った。

即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル(葡萄酒を薄めるための甕)に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドーンに献じた。

この儀式では、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きが行われ、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものであり、裁判所の役割も担っていた。

また、アクロポリスにはポセイドーンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに「ポセイドーンの果樹園」とよばれる庭園、屋外プールや屋内浴場が作られていた。

また、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン(約185m)の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居が建てられた。

より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。 内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。

更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン(約9.25km)の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。

アクロポリスの周辺と軍制について

アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。

島の南側の中央には一辺が3000スタディオン(約555km)、中央において海側からの幅が2000スタディオン(約370km)の広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。

山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木工事により長方形に整形した。

平原は深さ1プレトロン(約31m)、幅1スタディオン(約185m)の総長10000スタディオン(約1850km)の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリスに集まり、そこから海へ注いだ。

大運河の中の平原は100スタディオン(約18.5km)の間隔で南北に100プース(約31m)の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。

平原は10スタディオン平方(約3.42km2)を単位とする6万の地区に分割されていた。

平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵18万人、投槍兵18万人、1200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。

山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。アトラス王の血統以外の他の9つの王家の支配する王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。

アトランティスの最後

アトランティスは、長きの間繁栄を続けていたが、あるときからアトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落するようになった。これを目にしたゼウスはアトランティスに天罰を下そうと考えた。

そしてゼウスは総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所(= オリュンポス山)に召集し、集まるとこう仰った……

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実は、プラトンのアトランティスに関する二冊目の著書である「クリティアス」の文章はここで終わってしまっているそうです。

以降では、ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移ってしまっていますが、しかし、この本の冒頭のほうでプラトンがその最後について触れており、そこにはこう書いてありました。

「やがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方(=アテナイ勢)の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている」

このプラトンの記述をもとに、「アトランティス―大洪水前の世界」を書いたのが、前述のアメリカの政治家ドネリーです。

ドネリーは、このプラトンの記述のほかにも、1869年、スペインの碑文学者の所有だった「トロアノ絵文書」という古代の文書を苦心して解読した結果、マヤ文明の絵文書と確認。

実は、これに先立つ、1862年頃、フランスの聖職者で考古学者のブラッスールという人が、「トロアノ絵文書」を解読していました。そして、そこに「ムー」(Mu)と呼ばれる王国が大災害によって陥没した伝説が描かれていることを知り、アトランティス伝説と類似性があると1863年の論文で発表しています。

従って、ドネリーの発表以前から既にこの論文により「ムー」という大陸のことが世間一般には取沙汰とされていたおうです。

ドネリーのトロノア文書の解読はこの内容裏付けるものでしたが、彼はそれだけにとどまらず、さらにこの「ムー」と呼ばれる大陸について2年半もの歳月をかけて詳しく分析を進めてその内容を公表しました。

そしてドネリーは、トロアノ絵文書に書かれていた「ムー」と呼ばれる大陸の文明が、メキシコ南東部のマヤ文明に受け継がれたと考え、この「ムー大陸」こそが、大洪水以前に大西洋に存在したアトランティス大陸であると主張したのが「アトランティス―大洪水前の世界」という本でした。

そして、この書によりアトランティス伝説の大衆化が欧米で進んだのは前述のとおりです。

またジャージー島(イギリス海峡のチャンネル諸島のひとつ)の出身の遺跡写真家であり考古学者としても知られるオーギュスト・ル・プロンジョン(1825-1908)もまた、ドネリーとは別のやり方でトロアノ絵文書を翻訳しました。

そして、プロンジョンは、アトランティス大陸崩壊後にムーの女王モーがエジプトに渡り、女神イシスとしてエジプト文明を作ったと解釈した内容を公表しました。

さらに、1930年代のアメリカ在住の英国人作家ジェームズ・チャーチワード(1852-1936)も太平洋に存在したというムー大陸についての主張を行っています。

このように、考古学者の発表以降、アトランティスの繁栄と滅亡について、それらの直接的なモデルが実在したとする考えを持つ作家や学者が多く現れ、以来プラトンの記述内容の解釈をめぐって多くの説が唱えられるようになりました。

その主たる論点は、「ヘラクレスの柱」解釈をめぐる位置問題であり、これが果たしてジブラルタル海峡であるかどうかという点と、アトランティスを滅ぼしたとされる「洪水」の年代問題の考証でした。

プラトンの著述以外にアトランティスについて書かれた学術的な書物はなく、このことがアトランティスについては多くの後世の学者が、直接的モデルとなった歴史的事実は存在するとは考えがたい、つまりは単なる伝承か、プラトンによる創作だと考えた理由です。

しかし、アトランティス大陸の存在を信じる学者も多く、これを信じる学者たちは、専門家であるだけに、その説にはなかなか説得力のあるものも多いのは確かです。

「プレートテクトニクス理論」に基づいて大西洋説を主張する学者がおり、彼らは、「大陸移動説」に従って、大西洋で隔てられたアフリカとアメリカの両大陸の両岸の海岸線をくっつけようとしても、キューバのあたりに大きな空白ができることを指摘しています。

これを「何かが沈んだ空白地帯」と主張するものであり、同説によれば、この「空白地帯」は大陸よりずっと小さいが日本列島ぐらいの規模はあり、ここにアトランティスがあったと考えてもおかしくはないといいます。

このほかには、紀元前9560年頃に氷河期の終焉による海面の上昇によってアトランティスが海中に沈んだとするの「大海進説」があり、ここまでは、大西洋にアトランティス大陸があったとする説です。

アトランティス大陸の正体はインド亜大陸ではなかったかという「インド説」もあります。

沈んだのではなくて、そこにあった運河が浚渫工事を行わなかったために放置され、このため運河が通航できなくなったがために通交が不能になったという説です。同様に、南極大陸こそがアトランティスであるとい「南極説」もあり、これらはいずれもが、アトランティスが大西洋に沈んだという説を否定するものです。

これらの説の特徴は「アトランティスは沈んでいない」ので構造地質学的な問題が全く発生しないとされている点です。

しかし、インドやエジプトで運河が作られたのはプラトンのギリシア時代以降の話であり、また、南極説も、そもそも大陸の気候帯が急激に変動するような自転軸移動自体が過去におこったとは考えにくく、現在では信憑性に乏しいとみなされています。

この他、イギリス説もしばしば指摘されており、ブリテン島やアイルランド、アイリッシュ海に沈んだ島など様々な候補があります。アイルランドにはケルト人の伝承として、イスの海没の伝説があることなどが根拠のようですが、インド説や南極説同様、地質学的な説明や考古学的な物象もないことから、否定する研究者も多いようです。

こうした中で浮上してきたのが、地中海説です。これは、1939年、ギリシアの考古学者マリナトスが、クレタ島の北岸に位置するアムニソスにある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波によるものであることを発見し、同時に火山灰が厚く堆積していることも確認したため、これがアトランティスではなかったかと主張したものです。

このほかにもアテネ大学の地震学者1956年に、ギリシャ南部のサントリーニ島を調査し、炭素14法で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることを発見し、時期的にもプラトン以前の時代であることから、アトランティスとの関連を主張しました。

サントリーニ島では、1967年、島の南端に位置するアクロテリで火山灰の中から宮殿が発見されており、クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったことを証明するものだとされるフレスコ画も発見されており、これらの発見はサントリーニ島こそがアトランティスだと主張する学者の意見を裏付ける証拠であると長い間考えられてきました。

しかし、大西洋沈没説も完全に否定されたわけではなく、スペイン南西部、アフリカ北西部に位置するカナリア諸島は、多くの古代史家の著作に記載され、グイマーのピラミッドなどの遺跡が発見されていることや、ここには「10人の王」の伝説があるといわれ、プラトンの記述とも一致することから支持されることも多いようです。

また、大西洋のど真ん中よりもややスペイン寄りには、「アゾレス海台」と呼ばれる海底台地があり、ここには「アゾレス諸島」と呼ばれる島々があり、これらはすべて火山島です。

このため、アゾレス海台自体がひとつの大きな陸地であったものが、火山の大噴火によって、火山内部に空洞が発生し、その後この空洞が陥没したために海底沈んだという説も出されており、アゾレス諸島は当時の陸地の高山部分であるという説も出されています。

一方では、アメリカ大陸がアトランティス島であるという説も根強い人気があり、マヤ文明や、近年ではアマゾン文明の発見がなされる中で、その文明がアトランティスに当たるのではないか、という説もあります。

しかし、いずれの説も長い間、その論戦に決着をつける証拠は出ず、長い時間が過ぎてきました。

そこへきて今年5月6日の日本の海洋研究開発機構とブラジル政府の発表です。

日本が誇る深海探査船「しんかい6500」がリオデジャネイロ沖の大西洋で、陸地でしか見られない花崗岩が大量に見つかったと発表したこの発表は世界中を驚かせました。ブラジル政府は、「伝説のアトランティス大陸のような陸地が存在した極めて強い証拠」とまで言っているそうで、今後継続されるであろう、調査の結果が待たれます。

もしもこれが謎のアトランティス大陸であると確認されたならば、これこそは世紀の大発見であり、紀元前の歴史を塗り替えるような一大事件になることは間違いありません。

先史時代に存在したとされる、「超古代文明」と呼ばれる高度に発達した文明のことが解明されるに違いないと、早くもオカルト好きの人達の間では情報が飛び交っているようです。

ムーやアトランティスでかつて形成された文明は、現代文明をしのぐほど卓越した技術によって繁栄し、それはもしかしたら宇宙人によって作られたものであったかもしれない、と本気で考えている人も多いようです。

これらの話には、それらの文明が滅亡したのは、自らの超技術に溺れて自滅したり、驚異的な天変地異によって消滅したというロマンチックな物語がたいてい付随してついてきます。これらはしばしばファンタジーや創作の世界におけるテーマとされ、その根源を現代の人智を超越する心霊や宇宙人に基づく神秘主義に求めることもあるようです。

これらを裏付けるように、いわゆる「オーパーツ」と呼ばれる、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品が世界中で発見されていますが、もしかしたら、そうしたものが、今後のブラジル沖の調査で出てくるようなことがあれば、これはこれで面白いことになりそうです。

これまではこうした遺物は、科学的に論証する事象や物的遺物であると認められず、そのほとんどが論拠が無かったり信憑性の浅薄であったり捏造であったりして検証の対象にさえなり得てきませんでした。オカルトの類と認識されていたものも多く、これらが改めて脚光を浴びるようになる可能性もあるからです。

さらには、かつてアトランティス大陸に存在し、その水没によって失われた超技術が今後の調査で復活する、なんてことももしかしたらあったりもして、そういうふうに考えていくと夢は膨らむばかりです。

……とバカなことを書いているうちに、かなりの量を書いてしまっているようなので、そろそろ終わりにしましょう。

ところで、このブラジル沖の今後の調査、日本政府からお金が出ているのでしょうか。政府機関が行っているということは、税金が投入されている調査ということになります。

ならばぜひ、大きな成果をあげ、ぜひともそれで発見された超古代文明技術でもってこれからの日本を繁栄させて欲しいもの。今後の調査結果に大いに期待しましょう。

空海のいない風景 ~修善寺温泉(伊豆市)


沖縄が梅雨に入ったそうです。関東甲信越地方が梅雨に入るのはだいたい毎年約一カ月後。もうすぐまたあの雨の季節か~とも思いますが、この自然豊かな修善寺にいれば、雨音を聞いて過ごす日々もまた楽しかな……です。去年の今ごろにも同じことを書いたような気がします。

さて、先日、奥の院へ行こうとタエさんと散歩がてら出かけたものの、その道のりのあまりの遠さに断念したことを書きました。悔しかったので、そのリベンジにと今度はクルマで出かけてきました。

修禅寺の奥の院(正覚院)は、791年(延暦10年)に弘法大師こと空海が修行をしたという山奥にあるお寺で、「奥の院」の名の通り、ふもとの修禅寺からは5kmほど東へ離れた山の中にあります。

修禅寺の温泉街からのその導路は、湯船川沿いにあって別名「いろは道」といい、周囲をひなびた田園風景が広がる小道を春ならば新緑、秋ならば彼岸花やコスモスを眺めながら歩くことができます。

先日は、これをタエさんと途中までのんびりと40分以上もかけて歩きましたが、今回はクルマなので、温泉街から10分ほどで「奥の院」の看板を見つけることができました。

入口には山門などは特になく、お寺なのに、なぜか石鳥居があります。ただ、通常の鳥居ではなく、一番上の梁がない独特のものです。その昔の修禅寺の宗派は真言宗(現在は曹洞宗)なので、密教ではこうした聖地で普通に架ける形式なのかもしれません。

鳥居越しには、その向こうにかなり急な石段見えます。50段ほど登ると、そこには真正面に小さな滝のある広場があり、右手には、大師が修行したといわれる修行石があります。傍らに「弘法大師降魔壇」(こうまだん)という石標とたくさんの石仏が建てられています。

この滝を囲む岩壁の辺り一帯が「奥の院」と呼ばれている場所であり、「奥の院」とは、そもそも寺社の本殿より奥にあって、開山祖師の霊像や神霊などを祭られている場所です。その通り、その昔この場所には、江戸末期に建てられた護摩堂があったとうことですが、昭和36年に台風で倒壊し今では礎石のみになっています。

空海がここで修業をしたときには、まだ18歳だったといい、ここには「馳籠の窟(かりごめのいわや)」という岩洞があったそうです。今はもう岩孔は埋まってしまっているようです。

この洞窟があったとされる岩壁に上から流れ落ちる滝は「阿吽の滝」と呼ばれています。現在は滝に打たれて修業をする、というほどの水量はありませんが、空海が修業したという1300年ほど昔はもっと水量があったのかもしれません。

水の量が今よりも多かったころにはおそらく、修験道の場所としてにぎわったのでしょうが、現在は修験者もあまり入っていないようで、観光客もあまり訪れるところではありません。我々が行ったときにも、老夫婦が二人とハイカーらしい年配の女性が一人いらっしゃるだけでした。

さらにこの場所から、山奥へ分け入ったところには、空海が別の修験場所として良く使っていたという場所があり、空海がこの土地を去るときに「手植え」したという桂の大木があるそうです。

事実だとすると、空海の時代より既に1000年以上経っていることから、それだけの樹齢になるはずで、実際にもかなり大きな木のようです。が、この日の気分は「楽して見物」だったので、我々二人は無論、ここまでは行っていません。また、お天気の良い日に、ハイキングがてら行ってみたいと思います。

空海はこの山奥に分け入った奥の院を気に入り、修行の適地と考えて選んだということですが、実際に座禅を組んでみると、この地にあったたくさんの天魔やら地の妖怪が現れ、修行の邪魔をしたそうです。また、この妖怪たちは、空海だけでなく、地元の住民の前にもたびたび現れて悪さをしたということです。

このため、これを退治しようと空海が「大般若波羅蜜多経」という仏教の基礎的教義が書かれている経典を空中に向かって指でシャシャシャーッと書いたところ、金色の経文が突如中空に現れ、そこら中にいた魔物たちは、たちまちその功徳に魔力を押し込められ、馳籠の窟に向かって吸い込まれていったとか……。

……無論言い伝えにすぎず、本当にそんなことがあったのかどうかはわかりません。ただ、私は霊感のあるほうなので、タエさんに聞かれるまま、周囲の「気」をそれとなく感じてみました。

すると……とくに悪い気はないようであり、とはいえ、特段良い気が流れているわけでもなく、むしろまるで「気が感じられない」という不思議な空間でした。

普通は森のにおいやら水の臭いなどのその場特有の環境がその空間を形造っているものなのですが、まるでそういう五感を刺激するようなものがなく、ただ単に景色が見えるだけ……というのでしょうか、今まで経験のしたことのないかんじです。

以前、京都の鞍馬寺に行ったときには、境内一帯に紛れもないパワーを感じたのですが、ここはそういうかんじでもなく、なにやら異次元空間のようなかんじ。これをパワーというのかどうか、また空海が実際にここで修業したためにそういう気ができたのかどうかはわかりませんが、何等かの不思議な力を持っている場所のようです。

ただ、史料によれば791年(延暦10年)にこの地で修業を始めたという18歳の空海(この当時の幼名は佐伯真魚(まな)でしたが)は、実際にはその2年ほど前から3年間にわたって、空海の母方のおじにあたる阿刀大足(あとのおおたり)の弟子として京で学んでいるはずです。そして、この年には官僚候補生を育成する大学寮に入っています。

この大学寮では勉学に限界を感じ、その後、吉野の金峯山や郷里の四国の石鎚山など修験道の聖地で修行をするなどしていますが、それ以外に畿内を離れてどこかにいたという記録はなく、従って18歳のときに、京都からも遠く離れた伊豆で修行をしているというのは、いかにも無理があります。

麓にある、修禅寺もまた、空海が2年間の唐での留学を終えて帰国したとされる806年(大同元年)の翌年にあたる807年(大同2年)に創建したと伝えられています。

しかし、福岡の大宰府に帰着した空海は、20年の予定留学期間をたった2年で切り上げ帰国したため、当時の規定により闕期(けつご)という罪を与えられています。

「闕」とは「欠ける」という意味であり、朝廷の命をもって20年間の勉学機関を与えたのに、勝手にそれを破って帰国したのは許しがたい、というわけですが、重罪というわけではなく、単に謹慎という程度の罪だったでしょう。

とはいえ、帰国した空海にはすぐには入京の許しが出ず、このため数年間大宰府に滞在することを余儀なくされたといい、大同2年より2年ほどの間、つまり809年までは大宰府にある観世音寺に止住させられています。

この間、空海は唐から持ち帰った経典や曼荼羅などの整理に追われていたはずであり、また個人の法要も引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていたといいますから、そんな多忙な合間を縫って、伊豆くんだりまでやってきてお寺を創建できるはずがありません。

ここ修善寺にはこのほかにも空海ゆかりとされるお寺があります。修禅寺から5kmほど行った発端丈山という山の中腹にある、高野山真言宗の「益山寺(ますやまでら)」というのがそれです。このお寺もまた、806年(延暦25年)の創建とされ、空海が創建し、本尊の千手千眼観音菩薩を刻んだとされています。

しかし、806年は空海が唐から帰って大宰府に帰着した年であり、これもまたありえない話です。ただ、益山寺にも伊豆でも屈指の巨樹(樹齢約860年の楓と400年の銀杏)があるということであり、修善寺同様、この地に古くからある由緒正しい?お寺であることには間違いありません。

空海はその後許され、809年(大同4年)に入京。京都市右京区にあった高雄山寺(後の神護寺)に入りました。その後、嵯峨天皇の命などにより鎮護国家のための大祈祷などを行い、現長岡京市にある乙訓寺の別当などを務めながら、新教団設立の準備を進め、812年(弘仁3年)、高雄山寺にて「金剛界結縁灌頂」を開壇。

この儀式は仏の世界を表す曼荼羅に向かってお経をあげるものだそうで、仏と縁を結ぶ、すなわち「結縁」することで信者の心の中の仏心と智慧を導き開くというものらしいです。

このときの入壇者には、空海と並ぶ高僧として名高い最澄も含まれており、その弟子の円澄、光定、泰範のほか190名にものぼったといい、この時点で空海は日本の仏教界の頂点に上り詰めまたといってよいでしょう。

その6年後の、815年(弘仁6年)には、現福島県の会津や現栃木県の下野(しもつけ)などに在住の東国の有力僧侶の元へ弟子を派遣し、密教経典の書写を依頼したという記録が残っており、もしかするとこのころ、伊豆などの東方在住の僧侶などにも写経依頼を行っていたかもしれません。

ただ、いずれにせよ、修善寺や奥の院、益山寺の創建年とはかなりのずれがあり、しかも空海自らがこの地に足を運んだという記録はありません。

その後、空海は816年(弘仁7年)に、現在までの高野山真言宗のメッカとなっている高野山を修禅の道場として下賜してもらうことを朝廷に依頼し、同年この下賜の旨の勅許をえています。翌817年、弟子の泰範や実恵らを派遣して高野山の開創に着手し、818年(弘仁9年)には、空海自らが勅許後はじめて高野山に登りました。

819年(弘仁10年)には七里四方に結界を結び、この高野山の地に伽藍建立に着手。完成した伽藍の中で、その後の日本における仏教界のバイブルともいうべき「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「文鏡秘府論」「篆隷万象名義」などの有名仏典を立て続けに執筆しています。

その二年後の821年(弘仁12年)ころには生国である讃岐の国(現香川県)に帰り、かの有名な、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮しています。空海の日本国内での修業地は畿内のほかには、四国内が多かったようであり、とくに生地の讃岐には頻繁に帰っており、「地元」の名士として人々のために色々尽したようです。

この満濃池の堤防も、水不足に悩む地元の農民のために空海が指導して造られたものといわれています。アーチ型の堤防はこの当時の最新工法であり、現在でも通用する技術です。

日本最大の農業用ため池であり、今でも現役の農業用灌漑池として使われています。周囲約20km、貯水量1,540万tを誇り、2000年(平成12年)にはその一部構造の「満濃池樋門」が国の登録有形文化財(建造物)に登録され、2005年には、ダム湖百選にも選定されています。

823年(弘仁14年)に空海は朝廷から東寺を賜って真言密教の道場とし、ここに現在に至るまでの真言宗の系譜の礎がほぼ確立されました。そしてこれよりのちは、それまでにあった天台宗の密教を「台密」、対してこの新しい東寺の密教を「東密」と呼ぶようになりました。

「密教」というのは、その名の通り、もともとは「秘密の教え」を意味する用語です。インドを発祥の地とし、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部の中国などにかけて信仰されてきた仏教の分派、これを「大乗仏教」といいますが、その中の「秘密教」のひとつとして布教されてきました。

現在、日本の伝統的な密教の宗派としては、空海が唐で学んで持ち帰り、「真言密教」として体系付けた「真言宗」と、同じく唐で学んで帰ってきた最澄によって創始され、その弟子の円仁、円珍、安然らによって完成された「日本密教(日本天台宗)」のふたつがあります。

真言宗のほうは、即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしており、「密教専修」つまり、唐から持ち帰ったオリジナルの秘密教に忠実であるのに対し、天台宗ではこれに日本の古来からの仏教テーマを加えた、天台・密教・戒律・禅の四つのテーマを根本としている点などが異なっています。

この密教を日本の公の場において初めて紹介したのは、空海よりも先に唐へ留学して帰国した最澄でした。

しかし、最澄は、密教についてはあまり深い勉強を積むことができず、このため、唐から持ち帰った密教を天台教学とうまく融合させて完成度の高いものにすることができませんでした。これがこうした教義には目の肥えていたこの当時の皇族や貴族の興味を惹きつけることができなかった理由のひとつです。

彼らはあの世での浄化を説く天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教や、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せており、こうしたところに、唐における密教の拠点であった青龍寺で本格的に密教を修業した空海が帰国したのです。

前述のとおり、空海は20年の留学の予定をかなり早めて帰国したため朝廷の不興を買って大宰府に留め置かれました。ところが、その後入京が実現したのは、空海が登場するまでは仏教界における最大の実力者であったこの最澄の尽力や支援があったからだといわれています。

その後、2人は10年程交流関係を持ち、密教の分野に限っては、その最新かつ深い知識を持ち帰った空海のほうを最澄が敬い、本来は自らが先輩ながら空海に対しては弟子としての礼を取っていました。

しかし、やがてその教義の違いもあり、その仲は壊れていきました。

本場中国の密教を持ち帰り、そのきらびやかな世界に魅了された皇族や貴族の人気は空海に集中したため、これを最澄が嫉妬したともいわれ、また、最澄の愛弟子の泰範が師匠を捨てて空海の下へ走ったことなどから、二人は徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には完全に訣別しています。

この訣別に関しては、空海が唐から持ち帰って経典を借覧させてくれと要請したのに対し、空海が秘密だからと、これを拒絶した、というまことしやかな話も残っているようです。

空海が朝廷から東寺を下賜され、ここを真言密教の道場として真言宗が確立されたのちは、最澄の主唱する天台密教を台密、空海の東寺の密教を東密と呼ぶようになったのは前述のとおりです。

これらの日本の密教は、その後霊山を神として神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなりました。現在神の山として崇められている富士山もその昔は仏の山であったことを以前このブログでも書きましたが、これもまた空海らが持ち込んだ密教の影響といえます。

現在でも富士山周辺にある寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には、この台密と東密の両方の要素や浄土信仰の影響が認められるということです。

真言密教を確立した空海は、その後、828年(天長5年)には、東寺の東にあった藤原三守(ただのり)というお公家さんの私邸を譲り受け、私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設しています。

この当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったにも関わらず、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であったといい、空海という人は教育の分野においても開明的な人だったことがわかります。

しかし、831年(天長8年)には、病(悪瘡)を得たといわれ、その後は一線から退いて高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。が、ときおり宮中の重要な儀式には参加していました。

そのひとつに、後七日御修法(ごしちにちみしほ)と呼ばれるものがあり、これは国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)などを祈る行事です。

835年(承和2年)に空海がこの行事を行って以降、毎年宮中の恒例行事として正月に行われるようになり、この御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、場所を宮中から東寺に移して、現在でも毎年行われているということです。

しかし、この行事が正月に行われたあとおよそ二か月後の3月には高野山で弟子達に遺告を与えており、そしてこの月21日に入滅。享年は60歳だったと記録されています。

空海の十大弟子の一人だった真済(しんぜい)が書き記した「空海僧都伝」によると、死因は「病死」とだけ書かれており、「続日本後紀」によれば遺体は火葬された(荼毘に付された)と書かれています。

その死の4年前には既に病を得ていた空海ですが、その晩年は文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化することに傾力していたようです。

とくに834年(承和元年)の12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法の準備に心血を注ぎ、その修法を書き残すとともに、また自らが開いた金剛峯寺を定額寺(官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)にするための運動も行うなどの密度の濃い活動を行っていました。

死後、荼毘に付されたということなのですが、すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入り、即身仏になったという話もあり、その死のあたりから、色々な伝説が残されるようになります。

修禅寺のような古寺の開基や、奥の院での若きころの修業といった伝承などもそのひとつですが、このほかにも、その修業の際にいろんな「奇跡」を各地で起こしたことになっていき、手にもった鉾で地面を叩いたところ湯が湧き出したという類のいわゆる、「開湯伝説」などもそうしたものです。

その内容は温泉地により異なり、また温泉によっては複数の伝説が存在する温泉もあり、歴史が古い温泉では、必ずしも空海がその開祖というわけではありませんが、たいていは、こうした開湯伝説が存在します。

修禅寺温泉も空海が開祖となっている温泉のひとつなのですが、これ以外にも「弘法大師作」なる温泉は日本各地にあり、最北の山形県のあつみ温泉から一番南では熊本県に杖立温泉があり、その総数は二十有余にもなります。

空海と同じように温泉を発見したとされる数で多いのが「行基」です。空海よりも85年ほども前の749年(天平21年)に亡くなっており、彼が活躍した時代はまだ奈良時代といわれる時代です。

このころはまだ僧侶は国家機関のエージェントであると朝廷が定め、仏教の民衆への布教活動を禁じた時代であり、この禁を破って畿内を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き、このことにより人々より篤く崇敬されました。

また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等を設立したといわれ、数々の社会事業を各地で成し遂げています。

この点、満濃池などを民衆のために造り、教育機関や多くの寺を建立するなどの数多くの公共事業を手掛け、その徳によって民衆に愛された空海とよく似ています。

東大寺大仏造立にも関わったともいわれ、この他、行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされており、その作成のために日本全国を歩き回り、その際に橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったようです。全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在しており、彼によって開かれたとされる温泉が多いのもうなずけます。

空海が開祖であるとされるものほど多くはありませんが、それでも全国で18ほど行基が見つけたとされる温泉場があり、その中にはかの有名な草津温泉(群馬県)や、石川県の山代温泉、山中温泉なども含まれます。

おそらくは生涯、畿内から東へはほとんど行ったことがないと考えられる空海に比べると、全国を歩き回っているだけにずっと信憑性が高く、だからといってその価値がより高いというわけでもないのですが、我が修善寺温泉のように、「ありっこない」伝承をもとに弘法大師が見つけた、と開き直っているよりは少しマシな感じがします。

ただ、空海(弘法大師)による開湯伝説の場合、彼が開いた高野山からやがて「高野聖」と呼ばれた修行僧が諸地方に出向いており、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行ったこれらの僧侶たちが、それぞれの地で温泉を開いたのではないかとも考えられています。

僧侶とはいいながら、いわゆる山師的な坊主たちが、温泉を探り当てて儲けようとした際に教祖たる空海の名を借用したと思われ、このため、まるっきり空海とは関係ないとばかりもいえません。

また、仏教の教えの中には人身の健康にも通じている部分もあり、このため高野聖などの僧侶の中には、医薬にも精通していた者が多く、湯治の場として温泉を勧めた僧もいたといいます。

そして、温泉により傷や病が癒えたことで、御利益があったとみなされるようになり、温泉信仰と仏教信仰が直結するようになった、つまりは信仰色が強い湯治場などでは、これをみつけた僧侶がここでその効用を勧めて檀家を多く持つようになり、彼らによってお寺が勧進されたところも多かったのだと思われます。

修善寺温泉にも修禅寺があり、温泉とこのお寺さんの関係が密接であることからその典型例といっても良いでしょう。

温泉の効能や効果を世に広く謳うためには、温泉療養に関連性の強い、著名な僧侶を引き合いに出すと良い宣伝になります。とりわけその中でも高名な空海や行基のような庶民に人気のあった人物を引き合いに出せば、その宣伝効果もより高くなるというわけです。

僧侶ばかりではなく、ほかにも平安時代の武将、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が発見したという温泉も多く、これも全国に10湯ほどのものがあります。

さらには、鳥や獣によって温泉が見つかったというのも多いようです。調べてみると、下呂温泉や、山中温泉、道後温泉などのシラサギ、城崎温泉(きのさきおんせん)のコウノトリや、山口の湯田温泉の白キツネなどがあります。

このほかにも、三朝温泉(みささおんせん)の白狼などといったものもあり、鹿(山鹿温泉など)と猿(俵山温泉など)は全国どこにもいる動物のためか、至るところにこれらの動物がみつけたという温泉があります。

動物が湯に浸かっているのを見た古人が温泉であることを発見したものとしては、「白い」動物にちなむものが多いようで、中には、「お告げ」に近い伝説もあり、白い動物が多いのも温泉信仰と直結させやすいためである場合が多いようです。

しかし、動物が発見したという部分自体がまったくのフィクションの場合も数多くあるようで、実際は鳥獣たちが発見したのではなく、それが温泉だと発見したのはそれを目撃した猟師や樵夫(きこり)などである場合のほうが多いのではないでしょうか。

ただ、こうした動物の中には、本能的に水浴びなどをすることで、体の汚れを落とし、疲れを癒す習性をもつものがあり、鳥などはその代表例です。自然に湧出したいで湯もまた、その一環として利用されていたに過ぎず、実際に浸かってみて、あぁ~いい塩梅だ~と鳥が思うわけはありません。

が、あえてシラサギが入っていたよ!きっと効能があるに違いないよ!とそれを敢えて喧伝することで、温泉の効能は説得しやすくなり、また親しみやすさもより増していきます。

その証拠に、こうした鳥や獣が発見したという伝説では、決まって「外傷を癒した」という文句だけが印象づけられています。

鹿や猿が胃腸病や関節痛を治した、なんてのは、目で見て実際に確認できるわけはなく、本当に動物がそれを癒しているかも分かりませんが、外傷が治ったというのであれば、これはもしかしたらホントかもしれない、と誰もが思い、治療に効くと説得しやすいというわけです。

もしも本当に鳥や獣がいで湯に浸かっていたとしても、それは必ずしも外傷の治療とは限らず、前述のように単に体の汚れを落としたいという本能だったのかもしれません。たまたま水場としていたのが温泉水だったにすぎないなどというのも多いと考えられます……

……さてさて、何を書いているのかよくわからなくなってきました。「開湯伝説」というものには根拠がないものが多い、ということを書きたかったのかもしれませんが、それを否定したところで、私には一文の得にもなりませんので、奥の院や修禅寺温泉を空海が開いたかどうかについての議論はここらでやめるとしましょう。

ただ、最後に一つだけ観光情報を付け加えておきましょう。

この奥の院では毎年12月の冬至のころ、22日前後に、一年の厄を払い新年の幸せを祈る「星まつり」が行われるそうです。

修禅寺からお坊さんがやってきて、護摩を焚き、この煙に当ると家内安全の願いが叶うとされており、この「星まつり」もまた、本来は真言密教に伝わる行事だそうです。奥の院、すなわち正覚院は500年前に修禅寺とともに曹洞宗に改宗されていますが、弘法大師の偉業を伝える儀式として宗派を越え、現在に受け継がれているということです。

ちなみに益山寺では修善寺奥の院より少し遅れて1月の第3土・日曜に「星祭」と名前は少し違いますが、やはり星のお祭りをやるようです。

弘法大師が開祖したかどうかはどうでもよいこと。家内安全の願いがかなうなら、こうしたお祭りにもまた出かけてみようかという気にもなります。年末年始のころ、また奥の院に行くことがあれば、またその様子をレポートしてみましょう。