アポーツとオーパーツ

最近……というか、50代に入ってからでしょうか、物忘れが激しくなってきました。来たよきたきた、キターっ!というかんじなのですが、人間誰でも歳をとりますから、体のパーツのあらゆる部分が老化してきており、脳ミソの中の細胞もそれなりに劣化するのはしかたのないことです。

物忘れだけでなく、固有名詞もなかなか思い出せません。人の名前は無論のこと、単純なモノの名前、例えば台所で調理しているとき、隣にいるタエさんに「あれ取ってよ」、「あれって何」と聞かれ、とっさにその名前が出てこなくなってしまう……なんてことがあります。

「あれ」とは実は漏斗(じょうご)だったり、すりこぎのことだったりするのですが、いつも使い慣れない言葉であるとはいえ、咄嗟に出てこないときには、アレっこれってもしかしてアルツ君?……などと思ってしまったりします。

一応右脳も左脳も酷使する仕事をしている関係から、そうそうボケないだろうと思いつつも、テレビのニュース報道などでまだ若い有名人などがそうした病気にかかったという話などを聞くと、明日は我が身かも……と身につまされてしまいます。

そのほかの典型的な老齢化現象としては、普段使いしているモノがなかなか見つけられないこと。メガネを探していたら、自分の頭の上にかけてあったなんて話もありますが、笑い話ではなく、私もボールペンを探していたら耳に挟んでいたなんてことはしょっちゅうです。

しかし、ないないと長い間探していたものが、全く探してもみなかったようなところから出てきた、というような不思議体験は誰にでもひとつや二つはあるのではないでしょうか。必ずしも歳をとって物忘れが激しくなったから、というわけではなく、若いころにもそうしたことはあったような記憶があります。

探し物がある日突然、とんでもない、考えられないような場所から現れる、というのは意外と経験することが多いものですが、ただそうした場合にはたいがい、自分の勘違い、思い違いとして片づけてしまっています。

ところが、実はこれがぜんぜん思い違いではなく、実際にモノのほうが、瞬間移動していたとしていたらどうでしょう。いかにも不気味な話ではありますが、SFやオカルトの世界では、「アポーツ」とか「トランスポーテーション」とかいってよく取り上げられる現象です。

多少科学的なモノの言い方をすれば、「2点間の空間を飛び越えて瞬間的に物体が転送されたり、移動すること」であり、その特徴としては、間に壁などの障害物があった場合でも問題なく移動できる、通常では物理的に不可能だと思われる距離・位置関係の移動を行うことができる、というものです。

「瞬間移動」というと瞬時にモノが移動するというイメージであり、SFでの「転送装置」のように移動に時間がかからないものをすぐに思い浮かべますが、必ずしもそうしたものばかりではありません。移動に要する時間が一瞬かどうかは問題ではなく、多少時間がかかったとしても、気が付いたらモノが移動していたという場合も時にはあります。

作家の「佐藤愛子」さんが、北海道の沙流川に別荘を持ったときから、大変な心霊現象に巻き込まれた、という話があります。

まずは山荘の中で不思議な出来事が頻発するようになり、やがてそれは東京の自宅でも起こり始める、といった一連の現象について語った「私の遺言」という本の中では、その壮絶ともいえるような「ポルターガイスト現象」との戦いが描かれています。

この本の中に、佐藤さんが娘さんと「コードレス電話」が無くなったといって探し回るシーンがあるのですが、出てきたコードレス電話は、ソファーのクッションの下の木製土台の間の非常に狭い隙間から発見されたということです。

ソファーに座っているうちに、知らず知らずに押し込んでしまったんじゃぁないの?と誰しもが思うでしょうが、その場所は、コードレス電話を人為的に押し込むようなことはとうてい無理な場所であったそうです。このお話の結論は無論、「霊」の仕業ということで、この霊はこの地に知らずに別荘を建ててしまった佐藤さんに怒っていたというのが事の顛末です。

この場所は、その昔アイヌのお祭りごとをする重要な儀式場であったらしく、ここに別荘を建てたことにより、その地にいたアイヌの霊たちがさまざまな手を尽くして佐藤さんたちを追い出そうとした、ということのようです。

常識で考えれば、そんなことあるわけないよ~と思う人も多いのでしょうが、私自身はあぁ、そういうこともあるかーと妙に納得してこの本を読み終えました。この手の話は佐藤さんに限らず、古今東西いたるところにゴロゴロころがっていますから、別に驚くに値しない、と私は思っています。

佐藤愛子さんのような有名な小説家が書かれたものであるだけに、このお話は信憑性が高い、と考える人も多いようで、私もしかりです。

単に「オカルト」として片づけるのではなく、こうした心霊現象が実際にはありうる、ということを有名な人の口なり手記なりを借りて多くの人達が理解するような風潮がもう少しあってもいいのではないかと思うぐらいです。

ただ、こういう話が独り歩きし、単に面白おかしいオカルト話として片づけられるのはちょっと問題です。この佐藤さんの場合でも、なぜそうした現象が生じたか、ということを改めて考えると、知らなかったとはいえ、目に見えない「霊」という存在を無視しておきた事象であり、その存在への敬意を払わなかったことが原因です。

我々の日常で、ある日突然モノがなくなる、それはもしかしたら目に見えない霊からの何等かのメッセージかもしれません。すべてのことには意味がある……と考えるならば、単に物忘れとか勘違いとして片づけてしまうだけではなく、何かの警告かもしれない、そう考えてみると新たな気づきがあるかもしれません。

ところで、ちょっと前に「アンティキティラの機械」という話題を取り上げました。ギリシャのアンティキティラ島近海で発見された青銅製の歯車の組み合わせによる差動式の歯車器械のことです。

材質、機構ともに高精度な加工が施されており、発見当初はとてもこれがギリシャ時代に作られたものとは考えられず、すわ、宇宙人の遺物か!?と騒ぎ立てられました。

しかしその後の技術的な検証からは、これははるか古代ギリシャにおける「天文暦」を計算するための機械であることがわかり、最新の技術によって錆びついていた部品などを再現し、レプリカまで作られ、その動作確認もなされました。

結論としてこの「アンティキティラの機械」は宇宙人の遺物でもなんでもなかったわけですが、地球上にはこのほかにも、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品が発見されています。

これを「オーパーツ」といいます。英語では「OOPARTS」と略記され、「out-of-place artifacts」のことです。つまり「場違いな工芸品」という意味であり、「時代錯誤遺物」と意訳されることもあります。

長い年月を経ているのに、こんなところにこんなものがあるはずがない、といわれるようなものであり、さきほどまでの「アポーツ」と少々似てはいますが、こちらは瞬間とか数日、数か月単位ではなく、1000年、2000年、モノによっては数千年から数万年単位のものもあるようです。

オーパーツとは、考古学上の用語でもあり、その成立や製造法などが不明とされたり、当時の文明の加工技術や知見では製造が困難であるか、あるいは不可能と考えられる「出土品」を指します。ただし、正式な考古学用語ではなく、そういった出土品の存在を強調して考古学上の通説に疑義を唱える場合に使われることが多いようです。

なぜ存在するのか、どのようにして作ったのか、が未だに解明されていないものも多く、現代科学の水準を遥かに超えるような、超古代文明が存在していたのではないか、はたまた古代に宇宙人が地球にやってきた証拠である、と主張する人達の根拠とされることもしばしばです。

「アンティキティラの機械」のように、実際に調べてみたら、その時代の技術で作成可能なものもあり、全てが説明不可能なものばかりではないようですが、中にはさっぱりどうしてこんなものができたのか誰にも説明できないというものもあります。

その頃にはとてもその存在が想像できず、失われていた技術、「ロストテクノロジー」ではないか、というわけですが、これを創造したのが超古代文明だの宇宙文明だのといったSF的な話に仕立てあげたい人はゴマンといます。

しかし、火山活動や海水面の上昇といった地球規模の災害によってただ単に失われたものが再発見され、それがこれを発見した文明人よりもはるかに高度な文明人の手によって作られたものであったという例も多いようです。

また、発見されたものが形ある「モノ」ばかりでなく、長い年月の間に失われていた「情報」であったという場合もあります。

書物に記されていた事象や伝承などが何等かの要因によって散逸してしまっていたものが、たまたま書き写されていたコピーで発見されるということがあります。

その当時の文明の発展のためには非常に重要な情報であったにもかかわらず、これが失われることによって大きく文明が後退した、しかし逆に後年これが再発見されることによって、何千年分もの文明が取り戻せたということもあるようです。

「情報」が散逸してしまったことにより文明を大きく退化させてしまったひとつの例としては「アレクサンドリアの図書館」があります。

紀元前300年頃、エジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館であり、世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われています。

図書館には多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵してあったといい、綴じ本が一般的でなかった当時、所蔵文献はパピルスの巻物として保存され、蔵書は巻子本にしておよそ70万巻にものぼったといいます。

アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から優秀な学者が集まった一大学術機関としても知られていたようですが、その後、虫害や火災によって図書館の莫大な蔵書のほとんどが灰燼に帰しました。そして後世の略奪や侵略による度重なる破壊で、建物自体も失われたようです。

この図書館は、付近を訪れる旅人が本を持っていると、それを没収して写本を作成するというほどの徹底した資料収集方針を持っていたといい、さらには、薬草園が併設されており、今日の植物園のような遺伝資源の収集も行われていました。

つまり、今でいう図書館、公文書館、博物館に相当する機能を併せ持っており、古典古代における最高の学術の殿堂となっていました。これが失われたということは、その後の文明の進展における大きな「退化」であったといわれており、もしこれが残っていたら、今頃我々は自由自在に宇宙を飛び回れるほどの高度の文明技術を持っていたかもしれません。

ちなみに、このアレクサンドリアには、この大図書館のほかにも、「ムセイオン」と呼ばれる学術研究所もあったことがわかっており、かつては「世界の七不思議」にも選ばれていた「ファロス島の大灯台」も実際に建造されていたことが最近の考古学調査で実証されています。

先だってブラジル沖の海底で発見された遺物も「アトランティス大陸」であるかもしれないといわれており、最近こうした発見が相次いでいます。こうした大発見は続いて起こることが多いといいますから、もしかしたらそのうちさらに世界中がアッというようなオーパーツが見つかるかもしれません。

では、これ以外に、これまで実際にどんなオーパーツが見つかっているのでしょうか。

全部をここで取り上げることはできないほどたくさんあるのですが、私自身がこれは!?と思うものを以下に少しだけとりあげてみましょう。

○アフリカの金属球
南アフリカの鉱山で見つかった用途不明の金属球。複数発見されており、内部が空洞のものと繊維状のガラスのような物質が詰まったものの2種類あり、外側には中心に平行に走る3本の溝がある。

この金属球が展示されている博物館の館長によれば、ガラスケースの中にある金属球が、年に1、2回時計回りに自転するという。この球体は葉ろう石(カオリナイトやセリサイトといった雲母などが成分で、柔らかくて「ロウ」のような感触がある)の中から見つかったが、この葉ろう石が形成されたのは約28億年前とされている。

○カンブリア紀の金属ボルト
1997年、ロシアのブリャンスクで発見された、15億年以上前に生成された石の中に埋まっていたボルト。数トンの力を加えても変形せず、X線で石を見たところ、中に同様のボルトが10個ほどあるのが確認できている。

モスクワの航空大学の教授が、「15億年前に地球にやってきた宇宙船が何らかの原因で故障・爆発し、飛び散った部品の一部」であると主張している。

○更新世のスプリング
1991年頃、ウラル山脈東部の川で金採掘をしていた人々が発見したらせん状の極小部品で大きさは0.003ミリから3センチほど。ロシア科学アカデミーの分析によれば、これらの製造年代は推定2万~30万年前だという。

○秦の始皇帝の兵馬俑坑出土のクロムメッキの剣
西欧においてクロムメッキが開発されたのは近代であるが、それより遙か以前の古代中国においてどのような方法でメッキされたかは不明である。

○中国の衛星撮影地図
湖南省の湖南博物館に収蔵されている縮尺18万分の1の地図。2100年前の馬王堆漢墓から発見されたもので、長沙国南部を描いたものとされる。非常に精確な地図であり、遺物を管理する大学教授は、人工衛星が撮影した写真に基づくものだと主張している。

○褐炭の頭蓋骨
19世紀初頭に発見された、褐炭、褐鉄鉱石、磁鉄鉱石で構成される頭蓋骨の工芸品。1500万年前に形成された中央ヨーロッパの褐鉄鉱石の地層から見つかった。当初、何度も分析が行われ、無名の一般人が作った贋作という見解が一般的であった。

しかし、1998年にこの頭蓋骨をCTスキャンで調査したところ、頭蓋骨内部が樹木の年輪のような層をなしていることが判明した。もし人為的に造られた贋作だとすれば、褐炭の融点は110度~360度であるため、こうして精製された褐炭の薄膜を一枚ずつ重ねて作り上げたことになる。

1500万年も前にこのような方法で制作された工芸品は存在しないことから、贋造ではなく本物であるとする主張がある。

○弾丸のようなものが貫通した頭蓋骨
1921年にザンビアで発見された化石。かつてはネアンデルタール人のものだとみられていたが、現在はローデシア人のものだという見方が強い。頭蓋骨の左側に小さな穴が開いており、ベルリンの法医学者が調査したところ、「高速で発射された物体が貫通した痕」だという結論を出した(が、弾丸とまでは言っていない)。

この頭がい骨には問題の穴以外にもいくつか穴があり、穴には治癒した痕がある。穴が開いた原因については不明だが、治癒したということは、弾丸のようなものによる外傷性のものではない、とする意見もある。

○モヘンジョダロ近くのガラスになった町
モヘンジョダロ遺跡の近くで古代史研究家が発見した区域で、辺りにガラス化した石が散乱している。ローマ学科大学の分析では極めて短い時間に高熱で加熱された結果出来たものとされる。また核爆発の痕跡らしき場所が存在し、その場所では今もなおガイガーカウンターが反応するとの主張もある。古代核戦争説の根拠のひとつ。

以上の中には、ネットで検索すると実際の写真映像を見ることができるものもあります。えーっ本物かな~と思わせるものも多く、私が選んだ理由もわかると思うので、ご興味のある方は検索してみてください。

このほかのオーパーツとしては、宇宙船や宇宙人に似ているとされる絵や器物、ロケットの「彫像」、古代エジプトのグライダー人間が恐竜と戦っている壁画や恐竜の土偶、フィラメントの入った電球らしき絵、といった類のものが圧倒的に多いのですが、これらは見る人の主観によってそう見えるだけ、という気がします。

人間の想像力というのは逞しいものであり、毎夜見る「夢」に着想を得たものを絵や像にしたからといって、それを即、宇宙人が造ったものだ、やれその当時はまだ恐竜は生きていた、という結論には直結しないように思います。

上述したもの以外にも、アステカの遺跡で発見されたとされる精巧な水晶の髑髏とか、コスタリカで複数個発見された限りなく真球に近い花崗閃緑岩の石球、神殿の土台としては人力ではとても動かすことができないと考えられる巨石……といった、出土した時代での製造が極めて困難かあるいは製造不能と思われるものがたくさん発見されています。

これらの中にはピラミッドのように、現在の感覚では想像がつかないほどの膨大な時間、人的資源などを費やして造られたものもあり、古い時代に出土したときにはオーパーツとして考えられたものの、近代の科学技術の発展により製造可能と判断されたものも多いようです。

出土の際に、現代人が間違って出土品に混入させてしまった結果、オーパーツとしてみなされるようになったものもあるようであり、オーパーツが一種の見世物としてや好事家の関心を惹く対象でもあるため、売名や詐欺的な動機に絡んで捏造された贋作だったというケースも後を絶ちません。

従って、オーパーツとされる遺物のうち、真に学術的にその価値を認められるものはごく僅かであり、将来的にはアンティキティラの機械のように技術の発達によりその製造過程が明らかにされるものも出てくるのかもしれません。

しかし、いかんせん、この世には不思議なことがたくさんあるもの。人類は宇宙の秘密の数パーセントしか解き明かしていないともいわれ、それは宇宙だけでなく、人間の頭の中もしかりです。脳ミソの9割近くは有効活用されていない、といった医学的な話もあり、そう考えていくと、我々が「実は知らない」ことはいっぱいあると思うのです。

だからといって根拠のない、言いふらしをこのブログで書いていこうとは思いません。出来うる限り、科学的な視点でモノを考え、どうしても説明できないことは、その通りそう書いていく、というのを基本的なスタンスとすべきでしょう。

……とはいえ、人の一生は「説明できないことばかり」のような気もします。今こうして伊豆に住んでいることすら不思議といえば不思議。

そのうち、「不思議の国のオヤジ」なる本でも書いてみましょうか。誰も読んでくれるとは思いませんが……

ラジオな時間


5月の後半に入ってあまりくっきり姿を見せることがなかった富士山が、昨日からその雄姿を堂々見せています。

それにしても、ついこの間まで山頂は真っ白だったものが、今や残雪は3割ほどに減っており、夏の近さを物語っています。

世界遺産に登録が決まった今、再び富士山ブームが過熱しようとしており、この夏はきっと多くの登山者でにぎわうことでしょう。私もそのひとりになりたいところですが、果たして実現するのでしょうか。

さて、もうなんと6月です。昨日はちょっと忙しくてブログを書きかけてはいたものの、アップできず今日になってしまいました。6月1日を何等かの記念日としているものがものすごく多いことに気付き、これについて書きかけていたのですが、改めてこれを以下に列記してみました。

気象記念日(気象庁)
電波の日(郵政省1951)
人権擁護委員の日(法務省他1981)
写真の日(日本写真協会1951)
国際放送記念日
真珠の日(日本真珠振興会)
万国郵便連合加盟記念日
麦茶の日(全国麦茶工業協 同組合1986)
ねじの日(日本ねじ工業協会1976)
梅の日(梅研究会1987)
ガムの日(日本チューインガム協会1994)
生糸年度始め
氷の日(日本冷凍事業協会)
バッジの日(徽章工学協会1993)

これだけ6月1日を記念日とする日が多いのは、季節が変わるころ、年度末の狂騒が終って落ち着いたころ、といろいろな理由があるのでしょうが、いったい何が原因なのでしょうか。

よくわかりませんが、とかく6月といえば何かを始めるのには適した頃、というイメージがあるのは確かであり、そういえば、6月はジューン・ブライド、そうこの月に結婚すると幸せになるといわれています。

かくいう我々も6月20日が結婚記念日であり、この月から5年前に結婚生活をスタートしています。あれから5年……早いものですが、この間の述懐などについてはまた日を改めて書いてみたいと思います。

ほかにも、「あゆ解禁」が6月1日である地域も多いようです。が、5月中に解禁している場所も多く、必ずしも今日がその日ということでもないようです。

「生糸年初め」というのもありますが、生糸というのは絹のことであり、その昔は6月をメドとしてその年の生産を始めたことに由来しているようです。

年度というのは、官公庁の年度や学校年度のように4月開始、と思っている人も多いようですが、農産物や加工品にはそれぞれ年度があって、生糸以外にも、いも年度(9月開始)、砂糖年度(10月)、米穀年度(11月)、醸造年度( 酒造業界用の年度。7月)、などなどがあります。

同じく、農薬年度というのもあって、10月開始。さらには肥料年度、6月などもあり、こうしてみると日本という国はもともと農業のさかんな国だったのだなと、改めて実感されます。

電磁波?電波??

ところで、上述の記念日の中には、「電波の日」というのがあります。調べてみると別にこの日に日本の上空で初めて電波が飛び交ったとかいうような話ではなく、1950年(昭和25年)に、郵政省(現総務省)が電波三法(電波法・放送法・電波監理委員会設置法)を施行し、電波が一般に開放されたことにちなんでいるようです。

それにしても、我々が普通、ごく当たり前のように使っているこの電波とはいったい何ナノでしょうか。

調べてみると、その基本定義は、「電磁波のうち光より周波数が低いもの」ということになっているようです。「周波数が低い」というのは言い換えれば波長の長いということであり(λ= 300 /波長 λ:周波数)、じゃぁ、波長の長い云々は別として、電磁波ってのはそもそも何なの?ということにもなります。

で、あらためて調べてみたところ、電磁波の定義は、「空間の電場と磁場の変化によって形成される波(波動)」ということになります。

さらに、電場は?磁場は?ということなのですが、電気の根本は+と-性質を持つ電子であり、「電気が発生している」というのは、原子を構成している電子が、何等かの外部からの力を受けて原子から飛び出して自由に移動している状態です。

一方の磁場、つまり磁力が働いている場というのは、「磁石」を例にあげて考えると、その根本的性質はNとSで構成されている場です。そして磁石のN極とS極を生み出すためには、最小構成単位である電子が常に自転(スピン)を繰り返していなければならないということがわかっています。

電子が自由に飛び回ってできるのが電場、電子の回転運動によって規定される環境が磁場です。「電場」は、単に電子が+と-の性質を持ち、自由に飛び回って+-の世界を形成している場であり、磁場はこの電子が自ら回転することによって、その周辺に生み出されるNSの世界(場)ということになります。

いずれも電子によって形成される場であり、何もない穏やかな環境であるわけがありません。当然何等かのかく乱があるはずであり、電場と磁場の両方の作用を受けて発生する物理現象が「波」です。海岸に押し寄せるのも波ですが、この場合の波は空中ですから、びよびよびよーんと空間が伸び縮みするようなものです。無論、目には見えません。

電気と磁力の両方の作用で発生する場なので、「電」と「磁」をくっつけて「電磁場」と呼び、さらにこれによって生み出される「波」のことを「電磁波」と呼ぶわけです。

分かります?

さて、電磁波は「波動」ですから、自由に空中を伝わります。しかも同じ波動であっても「音波」つまり、音のように、その伝播に何らかの媒体(例えば空気とか水とか)が必要ありません。

音は、これを仲介する空気などの圧力の周期的な変化が波動として伝播するものであり、電磁波ではありません。「ゆれ」といったほうがわかりやすいかもしれません。

ゆれがいろいろなものを介して伝わり、耳に届くわけです。従って真空では音は伝わりません。媒体として空気や水、金属など、とにかくこの伝播を介するなにかあれば「ゆれ」は伝わり、よって音も伝わります。しかしいかんせん、媒介物が必要なの遠くまでは伝わりません。無論、空気のない真空の世界である宇宙では音を聞くことはできません。

ところが、電磁波のひとつである光が伝播するためにはこうした媒介物は必要なく、空気のない宇宙空間でも自由に飛んでいくことができます。逆に、宇宙空間から地球にも届くことができ、我々がいつも夜空で見ている星もこのために遠い宇宙のかなたから届いている光です。

音に比べて非常に遠いところまで波動を伝えることができ、遥か彼方のビックバンの昔の光が地球にまで届いているわけです。

光が電磁波のひとつだと書きましたが、光も波動のひとつです。ただし周波数はむちゃくちゃ高い波動です。当然低い周波数の波動もあり、電磁波である光のうち最も周波数の低いものを赤外線(又は遠赤外線)と呼びます。そしてさらにそれよりも周波数の低い電磁波が、「電波」ということになります。

「電波法」という日本の法律によれば、電波は「三百万メガヘルツ以下の周波数の電磁波」と定義しており、数字表記すると、3,000,000MHz =3,000GHz =3THz 以下ということになります。

もっともこれは日本の法律でこう決めているだけで、他国では違った定義をしている国もあります。そもそも電波を周波数の違いだけで、他の電磁波から区別すること自体が自然の理にかなっていない話であり、物理的には光も電波も電磁波のある一定の帯域を指している用語にすぎずません。

その証拠に、「電波天文学」という学問などでは測定方法によっては、電波としても光として扱える周波数帯があり、これらを区別して扱えない電磁波があるといいます。

とはいえ、いずれも電磁波としての性質(粒子性)と波としての性質(波動性)を持っており、このどちらかを技術的に利用しているかを区別するため、便宜上「光」または「電波」と呼んでいるのです。つまり、我々が普段使っている電波は電磁波の持つ性質のうち、とくに「波動」の部分をうまく使っているということになります。

一方、この電磁波を人類が利用する上において、「光」に国境はありませんが、「電波」は公共の財産として扱われます。日本では総務省が利用者に割り当てており、他の先進国でも政府機関が周波数帯の割当を行なって管理しています。

諸外国では、オークションを行うまでして割り当てる場合もあり、電波利用料には大きな差がみられますが、わが国では一応、総務省がこれをうまくコントロールしており、これまでも大きな混乱はありません。が、携帯電話での電波の割り当てなどを巡って、大手の電話会社がしのぎを削っているという話はよくニュースで耳にします。

ラジオ???

この電波に「音響情報」を乗せて送る技術がいわゆる「ラジオ放送」です。電波は光と同じ電磁波ですから、周波数の高い光と同じように、というわけにはいきませんが、それなりに遠くまで届きます。

よく、惑星探査衛星から発せられた電波が地球に届くのに何日もかかる、といったニュースが流れているのを耳にしますが、電波は光ほど周波数が高くないために、その伝播に時間がかかるためです。

一方、「音」というのは、前述のようにそもそも電磁波ではありません。しかもその伝播のためには仲介する媒体が必要ですから、あまり遠くまで届きません。しかし、もしもこの「音波」を遠くまで届く電波に「含ませる」ことができれば、より遠くまで音を伝えることができるはずです。

しかしそのためには、電波と音をうまく「ミックス」してやらなければなりません。そしてより高周波の電波を、より低い音とをうまく絡み合わせる技術を「変調 (modulation)」といいます。

この変調については、説明しだすとまたややこしいので、詳しくは書きませんが、簡単にいうと、電波と音波という二つの波を「重ね合わせる」ことによって変調が可能になります。

重ね合わせ方もいろいろあって、一般に良く使われているのが、音の「振幅」を基準として重ね合わせる方法であり、これを「振幅変調」といい、また音の「周波数」を基準にして合わせる方法を「周波数変調」といいます。

変調によって電磁波としての性質がなくなるわけではなく、空気のないところへも届くという電磁波ならではの特徴はそのままです。従って、「音」を遠くまで届けることができるわけであり、この変調を受けた電波のことを搬送波(キャリア)といいます。

電波以外にも音を伝える媒体としては電話線や光ケーブルがありますが、光通信においては搬送波は電気信号でなく光になります。が、考え方は基本的には同様です。ただし、ひとつの周波数で限られた情報しか伝えられない電波に比べ、光通信の場合は一本の伝送路で数多くの情報を伝えることができるため、この点では電波よりもかなり便利です。

ただし、光ファイーバーの敷設といった制約があり、電波のように空中へ自由自在に情報を飛ばすといった芸当はできません。

ただ、光ファイバーにしても電波にしても、変調などによって「含ませて」遠くへ届いた音は、そのままでは聞くことができません。届いた電波から切り離して、元の音の情報を復元しなければ我々の耳には音として聞こえません。電波から音を分離して元の音波を取り出す作業、これを「復調(Demodulation)」といいます。

そして、この復調によってラジオ放送局から出た電波から音を取り出す装置こそが、ラジオであり、正式には「ラジオ受信機」ということになります。この復調のシステムもややこしいので説明しません。が、電波と音の絡まった搬送波をうまく「ほぐして」、音だけを抽出する、といった感覚です。

色々な電波

さて、前述までのように、電波とは、電磁波のうちの周波数の低いもの(波長の長いもの)、という説明でしたが、この電波はさらに波長の長短による分類ができ、波長が一番短いものは極超短波、次いで、超短波、短波、中波、長波となります。

このうち、一番我々に馴染みの深いものが中波放送や超短波放送であり、一般にはAM放送、FM放送と呼ばれています。

本来は、FMのほうが周波数が高く、波長も短いために遠くまで届きそうなものですが、AM放送では、変調に前述の「振幅変調」という単純な変調方式を使っています。これに対し、FMではより複雑な、というか、より広い周波数帯を必要とする「周波数変調」を用いています。

広い周波数帯を必要とするためにこの「周波数変調」によるFM波は、あまり良い表現ではありませんが、感覚的には「重くなる」ために、本来遠くへ飛ばせるはずのものが、あまり遠くまで電波を飛ばせなくなります。また、電離層では普通反射せず、地表を渡っていくときにもその波は減衰が大きくなります。

しかし、その反面、幅広い周波数の電波を用いる、つまりたくさんの情報を載せることができ、このため、AM放送では難しいステレオ放送などが可能になります。また、情報量が多い分、音質も良くなります。

遠くへ飛ばせないということは、その使用範囲も限定されます。東京や大阪で流れているFM放送が東北や九州では聞けないのはこのためです。

一方のAM放送の電波はFM放送よりも単純な方式で変調するので、より遠くに届きます。従って、FM放送のように地域限定でしか聞けない、というようなこともなく、大気の状態さえよければ、中国地方のラジオ放送を東京で聞くこともできます。

ちなみに私は、高校を卒業後に静岡へ来たあと、よく広島のRCCラジオの電波を受信して、広島カープの試合の放送を良く聞いていました。ときおり電波状態が悪くなり、途中で結果がわからなくなってしまうこともしばしばでしたが……

この中波放送の中でもより周波数が高いものは広域の国内ラジオ放送で使用されることもあります。が、一般に中波放送よりも遠く飛び、国際放送に使われるのが、「短波放送」です。

中波と同じく振幅変調で飛ばす方式であり、中波より周波数が高い分遠くまで飛ばしやすいのに加え、短波は電離層(F層)で反射しながら伝わっていくという性質も持っています。このため地球の裏側まで短波を届けるということも原理的には不可能ではないようです。

ただし、長距離まで届くという長所はあるのですが、季節や時間帯によって受信状態が変動しやすいという欠点があります。冬場・夜間は低い周波数が良好に届き、逆に夏場・昼間は高い周波数が良好になりますし、また太陽活動が活発になるとさらにこの傾向が強まります。

このため、季節や時間帯によって、目的とする場所で放送が聞こえるように、放送に使う周波数を変える必要があります。NHKは、日本国外在住の日本人向けにNHKワールド・ラジオ日本を運営していますが、世界中で聞こえるように、他の国の放送局で中継してもらったり、逆に他の国の放送を中継したりしているそうです。

とはいえ、日本全土をカバーできるほどの伝播力を持っているだけでなく、日本以外のアジア諸国だけでなく、全世界で聞くこともできるため、海外の情報をいち早く入手することができる手段としては重宝されています。短波を発する国の言葉を習得して理解する必要性はありますが……

日本での広域短波放送としては現在、ラジオNIKKEIがあり、国際放送はNHKワールド・ラジオ日本があります。ラジオNIKKEIの場合は、日本全国で聞こえるようにするため、複数の周波数を複数の場所を用いて放送するなどしているということです。

1970年代には、こうした短波放送受信するBCLブーム(Broadcasting Listeningの略。短波国際放送を聴取して楽しむ)が中学生・高校生を中心に流行しました。私もそのブームに乗っかり、親に頼んで短波放送が聞けるラジオを買ってもらいましたが、その当時は英語があまり得意でもなかったため、そのうちこのラジオもゴミになってしまいました。

現在ではそのBCLブームもとうに終わってしまっており、国内メーカーで短波ラジオを販売しているところは極端に少なくなっているようです。ただ、この通信用受信機をいまだにどこかで手に入れて海外放送を聞くのを趣味にしている愛好家もいるとこのことで、アマチュア無線を趣味としている愛好家とどこか相通じるものがあります。

なお、この短波放送以上の「極超短波」を用いるラジオ放送は、世界のどこの国でも行われていません。電波の性質上、これを扱う機材が高くなるとかいった不具合あるためのようですが、一部では軍事的に使われている、という話もあるようです。詳しいことはよくわかりませんが。

ラジオの歴史

さて、このラジオ、すなわち「無線での音声放送」を世界で初めて実現したのは元エジソンの会社の技師だったカナダ生まれの電気技術者レジナルド・フェッセンデンという人です。1900年(M33)のことであり、最初は音の歪みがひどく、ほとんど聞き取れないようなものだったようですが、ともかく最初の通信テストに成功しました。

彼は引き続き、ラジオの改良に取り組み、1906年(M39)の12月24日には、アメリカ・マサチューセッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送しました。これが、世界最初のラジオ放送とされるものです。

フェッセンデンはこの日、レコードでヘンデル作曲の「クセルクセスのラルゴ」を、そして自身のバイオリンと歌で“O Holy Night”をそれぞれ流し、聖書を朗読したといいます。この放送はあらかじめ無線電信によって予告されたもので「世界初のラジオ放送」だっただけでなく「最初のクリスマス特別番組」とも呼ばれています。

フェッセンデン以後、実験・試験的なラジオ放送が世界各地で行われるようになりますが、正式な公共放送ははるかに下って、1920年(大正9年)であり、これは11月2日にアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグで放送開始されたKDKA局と言われます。

AM方式の放送で、最初の放送内容はニュースであり、大統領選挙でハーディング大統領が当選を伝えたものだったそうです。

FM方式によるラジオ放送は、同じくフェッセンデンによって1902年(M35)に考案されていましたが、実用化されたのは1933年になってからで、アメリカのエドウィン・H・アームストロングの手によります。そしてFM方式による公共放送はアメリカで1938年(昭和13年)から試験的に開始されたものが初めてです。

こうしたアメリカでのラジオ放送開始は、即座に日本にも伝わり、1924年(大正13年)には、大阪朝日新聞による皇太子(昭和天皇)御成婚奉祝式典や大阪毎日新聞による第15回衆議院選挙開票の中継をはじめ、数多くの中継が行われました。

ただし、これらは実験的要素の強いものでした。公共放送の実施は、1923年12月、逓信省は放送用私設無線電話規則を制したのちのことになります。この翌年、当面東京、名古屋、大阪の3地域で、公益法人として各1事業者ずつ、ラジオ放送事業を許可する方針が打ち出され、これでようやくラジオ放送が開始される下地ができました。

日本初の公共放送とされるのは、1925年(大正14年)3月22日9時30分、社団法人東京放送局(JOAK:現在のNHK放送センター)が東京・芝浦の東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)内に設けた仮送信所から発したものでした。

京田武男アナウンサーによるその第一声は、

(問)アーアー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します

というものだったそうで、当時使われていたラジオは「探り式鉱石受信機」という原始的なものであり、方鉛鉱、黄銅鉱などの「鉱石」を「猫のひげ」と呼ばれる細い金属線に接触させることで、電波から音を取り出す「整流作用」というプロセスを得るものでした。

この鉱石へ接触させるネコのひげの接触位置によって整流の状態が大きく変わるため微妙な調整が必要であり、この第一声の「アーアー」は、聴取者が聞き取りやすいように鉱石の針先を一番感度の良い部分に調節できるようにするための配慮と言われています。

波長は375m(周波数800kHz)、空中線電力からの出力はたったの約220Wだったそうで、現在のNHK東京第1放送の出力が300kWですから、その十分の一にも満たない出力であり、東京市内でないとよく聴こえなかったといいます。

しかし、その年の7月12日に東京府東京市芝区(現在の東京都港区)の愛宕山からの本放送が開始されたときまでには、改めて購入した出力1kWのウェスタン・エレクトリック(WE)社製の放送用送信機が使用され、東京市内であれば問題なく聞き取れるようになりました。

大阪放送局もまたその年の6月1日から仮放送を出力500Wで開始。さらに、名古屋放送局も同年7月15日に、出力1kWのマルコーニ社製送信機を使用して放送を開始し、社団法人東京・大阪・名古屋放送局は翌年の1926年(昭和元年)に「社団法人日本放送協会」として統合されました。これがのちのNHKの母体になります。

この日本放送協会は、「社団法人」とはいいながら、実質的には政府機関的な性格を持っており、日本全国のどこでも「鉱石受信機」によるラジオ聴取を可能とするインフラの整備を目標に日本各地に放送局を開設していきました。

これがいわゆる「全国鉱石化」と呼ばれる活動であり、日本国内だけでなく、やがてはこの当時日本領だった南樺太や南洋群島にも放送局が置かれるようになり、これはのちに「豊原放送局」「パラオ放送局」と呼ばれるようになりました。さらに、朝鮮には朝鮮放送協会、台湾には台湾放送協会が設立され、日本放送協会の番組を多く中継しました。

このころまでには受信機もかなり発達して、交流商用電源や大容量電池によって作動する真空管を使ったものが登場し、鉱石式のイヤホンに代わって、スピーカーで大きな音量の放送が聞けるようになりました。

ラジオ受信機自体も国内メーカーによって生産が可能となっており、アマチュアによる受信機自作も当時から趣味の一ジャンルとして流行するようになり、こうしてラジオ受信機の普及が進んだことから、放送する側からも音楽、演芸、スポーツ中継、ラジオドラマなどの多彩なプログラムが提供されるようになりました。

しかし、この日本放送協会は1941年の太平洋戦争開戦とその後の戦局の進行と共に大本営発表を行なうための機関と化し、これによりその放送内容としてもプロパガンダ的な番組が増え、その傾向は終戦まで続きました。

1945年8月15日に終戦。この日、終戦ノ詔勅、いわゆる玉音放送が放送され、「社団法人日本放送協会」は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理・監督下に置かれ、以後言論統制が行われるようになります。

アメリカ軍とイギリス軍を中心とした進駐軍向け放送局が主要都市に置かれ、アメリカ軍向けは後にFENと呼ばれる放送局が設置。これは現在AFNと呼ばれています。

その後、1950年になって「社団法人日本放送協会」はようやく、公共企業体としての「特殊法人日本放送協会」に改組されGHQの管理下を脱しました。

翌1951年には中部日本放送(現・CBCラジオ)、同日昼に新日本放送(現・毎日放送(MBS))が、さらにラジオ東京(現・TBSラジオ)と、民間放送も相次いで開始されました。

1953年にはテレビ放送も開始されるようになりましたが、白米10kg680円、銭湯の入浴料15円程度だった時代にテレビ受像機の価格は20~30万円程度と超高価で一般の人が買えるようなものではなく、ラジオが一家の主役であり続けました。

ラジオ受信機にしても当時は物品税が高価で、メーカー製完成品を購入するよりは秋葉原などから真空管などの部品を買い集めて自作したほうが安かったために、受信機を製作する人が多かったといいます。彼らは「少年技師(後のラジオ少年)」とも呼ばれ、高度成長期の日本のエレクトロニクス産業の発展の基礎を作る要因の一つともなっていきました。

しかし、1959年の皇太子明仁親王(今上天皇)成婚をきっかけにテレビ受像機が普及し始め、ラジオは斜陽化の時代を迎えます。

一方、超短波を使用したFMラジオ放送が、1957年(昭和32年)12月にNHK-FM放送が東京で試験放送を開始し、翌1958年(昭和33年)12月には学校法人東海大学により、放送教育を目的とした「東海大学超短波放送実験局」が放送を開始しました。

この実験局は、1960年には日本最初の民放FM局であるFM東海となり、1970年には同局を引き継ぐ形でFM東京が開局しています。東京FMが実は静岡の放送局だったなんて、どれだけの人が知っているでしょうか。

以後、1960年代から70年代にかけては、部品のトランジスタの普及が進み、これを使ったトランジスタラジオの商品化や、さらにモータリゼーションが始まって、ラジオは一家に一台から一人に一台というパーソナル化の方向へ向かいます。

ラジオ放送は家族をターゲットにした編成から、個人をターゲットにした編成へと転換していきます。情報トーク番組や音楽番組が増えた他、ターゲットを絞った深夜放送も盛んになっていきました。

1950年代後半から試験放送を続けていたFMラジオ放送は、1969年にNHK-FM放送の本放送が開始され、同年にはFM愛知が開局しました。1970年から71年にかけては、FM大阪、FM東京、FM福岡の3局が相次いで開局し、いずれも音楽を中心とした編成で、高音質のステレオ放送により、レコードに次ぐHi-Fi音源として人気を集めることになります。

放送される楽曲を、オープンリールテープやカセットテープで録音する「エアチェック」も流行し、エアチェックを目的として放送される楽曲が載ったFM情報誌も創刊されました。

私はこの当時に大学生であり、やはり毎週のようにFM雑誌を買ってはエアチェックを行い、これを大学から帰ってきたら聞きながら勉強する、というスタイルでした。ほとんどの時間、音楽ばかり流れていたので、エアチェックをしなくても、聞き流しする、ということも良くやっていました。

ところが私が大学を卒業するころから、民放局を中心に「楽曲そのものを楽しむ」から「トークの合間に楽曲が流れる」など番組スタイルの変化していき、このことから次第にエアチェックという言葉自体が廃れていくようになります。

しかし、1980年代に入るとFM放送はさらに広がっていきました。民法FM放送局の開設ラッシュが続くようになり、1982年のFM愛媛をはじめに全国に民放FM放送局が相次いで開局しています。

1988年には東京で2番目となるエフエムジャパン(現:J-WAVE)が開局、大都市圏では複数の民放FM局が開設されるようになり、対象セグメントの多様化が進んでいきました。

1992年にはコミュニティ放送が制度化され、都道府県単位よりもかなり狭い地域を対象としたラジオ放送が行われるようになり、この年、AMステレオ放送が開始されます。1995年にはFM文字多重放送もスタートし、多くの通勤客が手のひらサイズのラジオで多重放送を受信して楽しむ姿が見受けられるようになりました。

1995年の阪神・淡路大震災では、災害時における情報伝達メディアとしてのラジオの重要性がクローズアップされる結果となり、以後、各局とも災害への対応を重点に置くようになります。コミュニティFMという小FM局が各都市に出現しはじめ、地方行政がその運営に関わり始めたのもこのころからです。

2000年以降、インターネットラジオが登場し、さらに衛星や地上デジタルラジオも加わり、従来のアナログラジオ放送とともに、ラジオの多様化が進むようになります。

一方、メディアの多様化が起因となりラジオ離れの動きが顕著化しはじめ、それに伴い広告費も減少し続けていることから、ラジオ局は厳しい運営状況を強いられるようになります。

AMステレオ放送を実施していた放送局も会社の合理化に加え、送信機更新の際に必要な装置が2000年半ばまでに生産中止になったのに伴い、AMステレオ放送を終了して元のモノラル放送に戻す放送事業者も2000年代後半に九州地区で出てきました。

現在そして未来のラジオ?

そして、現在、2010年までにはAMステレオ放送を終了する局が次々と姿を消していきました。その中にはABCラジオやTBSラジオといった老舗の放送局も含まれており、AM放送については今後ともこの縮小傾向が続いていきそうです。

一方では、2010年3月からは、地上波のラジオ放送と同内容をインターネットを利用してサイマル配信するIPサイマルラジオ「radiko」の実証実験が開始され、現在までに通常放送に踏み切っています。

また2006年4月1日に正式運用を開始したSimulRadio(サイマルラジオ)は、コミュニティFM局による配信サービスで地域に関係なく利用可能なものであり、コミュニティFMの自主制作番組をネット配信するしくみです。

Simulは英語の同時を意味する「Simultaneous」の略であり、各局が電波で放送するものと同じコンテンツまたは放送内容をインターネットのストリーミングで同時に配信し、誰でも居ながらにして日本全国各地のコミュニティFM局の放送をインターネットを介して聴取できます。

コミュニティFMは送信出力が弱いため(原則、最大20W)、聴取可能地域においても、住居の高層化や市町村合併等の理由で場所によっては聴取できない場合があります。このため災害時、情報格差が生じるため地域に密着した情報を放送することができるというこのしくみには、多くの地方行政が興味を持ち、その運営に参画するようになってきています。

静岡においても、熱海市に、Ciao!というコミュニティFM局があり(79.6MHz)、正式会社名は株式会社エフエム熱海湯河原といいます。その名の通り、熱海と湯河原の地域情報を音楽などとともに発信していますが、聞いてみると熱海市の市役所職員などによる放送などもあり、市の広報FM局としての役割を担っていることがわかります。

わが伊豆市においても、その準備が進められているということで、「FM Is(伊豆)」の名称で、どうやら年内中に運営が開始されるようです。

ただし、こうしたコミュニティFM局は、規模も小さいことから、他の大手のFM局のように24時間毎日放送をやっているというわけでもないようです。サイマルラジオのホームーページをみても、その大部分が隔日おきとか、平日でも時間を限るなどしてその運営負担を和らげているようです。

が、無論スタッフさえいれば24時間運営は可能なわけであり、災害時などには大いに役立ちそうです。

こうしたインターネットラジオの視聴は簡単です。基本的にはパソコンでインターネットを立ち上げ、専用サイトを開き、聴取したい局をクリックするだけです。ただ、局によっては、iPhoneなどで公式の専用アプリをダウンロードする場合もあるようで、この辺のしくみはまだ「発展途上」のようです。

とはいえ、都道府県域の民放ラジオ局で実施されている一般の電波放送とは異なり、聴取エリアの制限はなく、日本全国どこでも、また全世界で利用できる点は斬新です。

なお、NHKでも、受信障害の改善を図る理由から、2011年9月よりインターネットによるラジオ3チャンネルの同時配信「NHKネットラジオ らじる★らじる」を開始していて、こちらも日本国内であれば利用可能ということです……

さて、かなり長くなったのでそろそろやめにしたいと思うのですが、なかなかやめるきっかけがつかめません。が、もう少しだけ続けましょう。

ほんのちょっとまでは身近だった、電波によるラジオ放送を受信するという形態は、2000年代以降、テレビのパーソナル化や衛星放送の普及、パソコン、携帯電話等の普及に伴うインターネット接続の定着化といったメディアの多様性によって大きく変わろうとしています。

多くのラジオ局が赤字決算に転落しており、将来的には現在以上に酷い状態になると推測されています。ラジオが苦戦を強いられているのは日本国内だけでなく日本国外も同様であり、アメリカ合衆国では放送会社が所有するラジオ局の売却が相次いでいるといいます。

日本においては、ラジオ局同士の実質的な経営統合が進み始めており、総務省でも2011年(平成23年)以降、こうしたラジオ局同士の合併を認め、規制の大幅緩和を行う方針を明らかにしています。

ラジオのほうもテレビと同じく、新しい技術革新が必要だ、ということで地上デジタル音声放送への移行の計画があり、これは現在の地上波放送局の放送をすべてデジタル化し、テレビと同様に全く新しいデジタル放送サービスを始めようという計画のようです。

従来の地上波ラジオの特徴に加え、ノイズのない高音質な音声・多チャンネル放送や文字・静止画・簡易動画を含むデータ放送、リアルタイム投票などの双方向性機能が特徴であり、移動体・携帯型端末での受信時にもノイズの少ないクリアな音声で受信できるといいます。

しかし、地上デジタル音声放送は、2003年10月10日に実用化試験放送を開始して2011年7月以降の本放送開始を目指していましたが、2011年3月をもって放送終了しています。試験に利用されていた周波数帯(VHF 7ch付近)が、既に停波した地上アナログテレビ放送の周波数帯を無線通信に使っていた警察や消防に主に割り当てられたためです。

試験放送が行われていた周波数帯に代わって、現在も地上デジタル音声放送にはVHF 1~3ch相当の周波数帯が確保されているそうですが、ほかにも携帯電話会社などの空き周波数帯利用希望者が殺到しているなどの理由もあり、今後のデジタル化の実現はかなり厳しそうです。

このように、どうやらラジオにとってはあまり明るくない未来が待っていそうですが、あなたにとってのラジオはどんな存在でしょうか。

私としては……うーん、あってもなくても良いけれども、なくてもまぁなとかなるかな、という程度。インターネットがあれば、不自由ではありませんし、お仕着せのコンテンツではなく、音楽が聞きたければ好きな曲をダウンロードできる、そういう時代です。私と同じという人は多いでしょう。

かつてはラジオをいつもそばに置いていた私ですらこれですから、我々の世代以下の人が担うこれからの時代ではもう、ラジオは必要ではないものになっていくのかもしれません。

「ラジヲ」を聞いて育った我々以上の世代としては、これが無くなるというのは少しく衝撃的なことでしょう。しかし、この世からラジオが消えてなくなる日……そういう日が来るのを覚悟だけはしておきましょう。

いざ生きめやも


関東甲信越は一昨日から梅雨に入りました。ブログの履歴を見ると、去年は6月8日に梅雨入りしたようなので、10日以上早いことになります。

梅雨入りが早ければ、梅雨明けもおそらく早いだろうということで、今年の夏はまた長く暑くなるのではと懸念されているようですが、果たしてどうでしょう。

伊豆での夏は既に去年経験しています。しかも猛暑といわれるほど暑かったようですから、それを難なく過ごせたのならば、今年の夏は楽勝さ、と思っているのですが、そうした目論見どおりになるかどうか。

さて、その一昨日、ちょうど60年前の5月28日といえば、堀辰雄の命日だったようです。1904年(明治37年)明治の東京生まれで、昭和初期に活躍した日本の作家です。

お父さんの堀浜之助は、広島藩の士族で裁判所勤め。母・西村志気は、東京の町家の娘でしたが、関東大震災の際に亡くなっており、このことはその後の彼の作品に大きな影響を与えたといいます。

府立三中から第一高等学校へ入学。ここでの同窓生には室生犀星や芥川龍之介がおり、彼らとはこのころから親友ともいえる関係を築くようになります。

その後、東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎など、これもまた後年有名となる文芸家達と知り合っており、小林秀雄や永井龍男らの同人誌「山繭」にも関係。このころの前衛文学であり、昭和文学を代表するプロレタリア文学派と芸術派という、二者の流れとのつながりをもちました。

堀辰雄の作品の独特の雰囲気は、この両者からの影響をうけたことともつながっているようです。

1927年、23歳のとき、芥川龍之介が自殺。その報に接し、大きなショックを受けます。この頃の自身の周辺を書いた「聖家族」で1930年文壇デビュー。 しかし、肺結核を病み、軽井沢に療養することも多くなり、これが後年、ここを舞台にした作品を多く残すことにつながっていきました。

また、病臥中にマルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスなどの当時のヨーロッパの先端的な文学に触れていったことも、堀の作品を深めていくのに役立ったようです。後年の作品「幼年時代」(1938年-1939年)にみられる過去の回想には、プルーストの影響が強くみられるといいます。

マルセル・プルーストというのは、フランスの作家で、パリで医者の息子として裕福な家に生まれました。パリ大学で法律、哲学を学びましたが、このあとはほとんど職に就かず遊んで暮らしていたといいます。このためあまり作品を残していませんが、30代から死の直前までに完成させた大作「失われた時を求めて」は名作といわれています。

プルースト自身の分身である「語り手」を作品に登場させ、そのの精神史に重ね合わせながらこの時代のフランスの世相「ベル・エポック」を描いた大作であり、複雑かつ重層な叙述と物語構成はその後のフランス文学の流れに決定的な影響を与えたといいます。

「ベル・エポック」というのは、19世紀中頃にフランスで栄えた「消費文化」です。プロイセン(ドイツ)との戦争に敗れたフランスでは、パリ・コミューン成立などの混乱が続き、不安定な政治体制下にありました。

が、19世紀末までには産業革命も進み、プルーストが生きた時代には、ボン・マルシェ百貨店(世界最初の百貨店と言われている)などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになっていきました。

1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点であり、いわばバブル期のような豪奢な時代です。単にフランス国内の現象としてではなく、この時代のヨーロッパ文化の総体とされることも多いようです。

19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリは、その歴史において最も華やかなりしころといえ、「ベル・エポック」とはその当時の文化を懐かしんで回顧して用いられる言葉でもあります。日本でいえば、大正時代の「大正ロマン(大正モダン)」に近い感覚でしょう。

そしてこのフランスの「良き時代」を描いた「失われた時を求めて」は、プルーストの代表作となり、ジョイス、カフカとともに20世紀を代表する作家として位置づけられているようになっています。

昭和初期に活躍した堀辰雄もまた、プルーストが憧れたベル・エポックと大正ロマンを重ね合わせていたかもしれず、自らをまた日本のプルーストになぞらえていたのかもしれません。

1933年(昭和8年)、軽井沢で療養していた辰雄は、この頃の軽井沢での体験を書いた「美しい村」を発表。ちょうどそのころ矢野綾子という女性と知り合います。その翌年、矢野綾子と婚約しますが、彼女も肺を病んでいたために、1934年(昭和10年)、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院することになります。

しかし、綾子のほうはすぐに結核が悪化し、その冬には亡くなっています。そしてごく短い間にこの婚約者と軽井沢で過ごした美しい体験が、のちの堀の代表作として知られる「風立ちぬ」の題材となりました。

辰雄はこのころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受けるようになります。折口は、民俗学者、国文学者、国語学者として知られ、釈迢空と号した詩人・歌人でもありました。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた人でもあり、彼が完成させた研究は「折口学」とまで呼ばれています。

この折口から古典を習得した辰雄は、このころから王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」のような作品や、「大和路・信濃路」(1943年(昭和18年))のような随想的文章を書き始めます。また、現代的な女性の姿を描くことにも挑戦し、「菜穂子」(1941年(昭和16年))のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも挑戦しています。

ちなみに私は、高校時代に「風立ちぬ」を読んでから堀辰雄のファンになり、その後、こうした一連の作品にほとんど目を通しました。が、風立ちぬがみずみずしい風景描写や男女の心理描写に主点を置いていたのに対し、「大和路・信濃路」などは妙にジジくさい作品だな、という印象しか残っていません。

古典文学を学び、これを自らの作品に生かそうとしたことにより、それほどまでに作風がガラリと変わったということだと思います。

これら一連の「古典」を書くようになる少し前の1937年(昭和13年)、辰雄は加藤多恵(1913~2010、筆名として多恵子を使用した)と知り合い、1938年、室生犀星夫妻の媒酌でこの人と結婚しています。

加藤多恵と出逢ったのは、その前年の昭和12年(1937)の夏のこと。その出逢いは軽井沢の西方にある「追分」でした。辰雄はこの頃、軽井沢にもほど近く、江戸時代の宿場町の面影を残すこの追分の地を深く愛するようになっており、頻繁にこの地を訪れていました。

そして定宿の「油屋旅館」に滞在中、堀は避暑に来ていた多恵とめぐり合ったのです。辰雄は1904年生まれですから、11歳も離れており、かなりの歳の差婚です。しかし、彼女と堀との結婚を勧めたのは、矢野綾子の妹の良子とその父だったといい、二人は病弱ながらも情の深い辰雄に好意を持ったのでしょう。

こうして、ようやく多恵との落ち着いた生活に入った辰雄でしたが、相変わらず体は弱く、いまだ肺結核は治りきっていませんでした。

しかし、戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は徐々に世間にも認められるようになり、同じ文学を目指す多くの後輩の支持をも得るようになってきました。

堀自身もこうした後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られています。とくに、辰雄は、詩人で建築家でもあった「立原道造」を弟のように思っており、道造も彼を兄のように思い、慕っていたといいます。

しかし、その立原は、1939年(昭和15年)、辰雄が結婚して2年目の春に24歳で急逝しています。友人の芥川、数年前には婚約者の綾子を亡くし、また弟のように接していた立原を失うなど身近な人を次々と亡くした辰雄はかなり落ち込んでいたようです。

しかし、そんな辰雄に尽し続けたのが多恵夫人であり、自身も肺結核と闘病する辰雄を励まし、その残る短い人生での執筆作業を見守り続けました。

「菜穂子」は、そんな中、1941年(昭和17年)に書かれました。この小説の登場人物「都築明」のモデルは立原道造であるともいわれており、この登場人物も建築学科出身で建築事務所に勤めているという設定であるなど、いくつか共通点が見受けられます。作品としての「菜穂子」こそが、亡くなった立原へのレクイエムと考えたのかもしれません。

その後も辰雄の症状はあまりかんばしいものではありませんでしたが、なんとか戦争中を生き延びました。しかし、戦争末期のころからは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送りました。

しかし、多恵夫人の看病もむなしく1953年5月28日、夫人にみとられながら没しました。享年48歳。

その後、多恵夫人は「堀多恵子」の名で堀辰雄に関する随筆を多く書き遺しています。死後もこうして辰雄に尽くし続けた多恵夫人でしたが、こちらも2010年4月16日、96歳で没しています。かなり長生きといえ、辰雄のほぼ倍の人生を生きたといえます。

その後、堀辰雄の作品群はしばらく戦後の混乱の中にあって埋もれていましたが、昭和30年代ぐらいからまた脚光を浴びるようになり、「堀辰雄全集」の刊行が目指されるようになりました。そして、書簡資料を発掘し厳密な校訂を加えた稿が出され、1980年に完結。1997年にはその新版も刊行されています。

しかし、中でも堀辰雄の代表作は「風立ちぬ」だと言われ、不朽の名作という評価を得ています。

そもそも風立ちぬは、1936年(昭和11年)、雑誌「改造」の12月号に、まずその「序曲」が掲載されました。翌年には、雑誌「文藝春秋」に「冬」の章、雑誌「新女苑に「婚約」(のち「春」の章)が掲載。

1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」に終章の「死のかげの谷」を掲載ののち、同年4月、以上を纏めた単行本「風立ちぬ」が野田書房より刊行され、ようやく一冊の本としてまとめられました。

その後も戦中戦後を問わず新潮、岩波文庫などから重版され続けており、現在でも「昭和文学作品フェアー」なるものが書店の主宰などで開かれているときには、たいがい他の有名作家の作品とともに書店の軒先に並んでいます。

その内容をここで詳しく書くよりも、ぜひ読んで欲しいと思いますが、簡単にいうと、美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病(結核)に冒されている婚約者に付き添う「私」が彼女の死の影におびえながらも、2人で残された時間を支え合いながら共に生きる、といった物語です。

ある書評によれば、

「時間を超越した生の意味と幸福感が確立してゆく過程が描かれ、風のように去ってゆく時の流れの裡に人間の実体を捉え、生きることよりは死ぬことの意味を問うと同時に、死を越えて生きることの意味をも問うた作品である」

だそうですが、私はそこまで重い作品だとは思いません。メルヘンチックなメロドラマと受け取る人もいるかもしれませんが、そこまで軽くもない。じゃぁどんなの?ということになりますが、これはやはり実際に読んで味わっていただくしかないでしょう。

作中には「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句が出てきます。これは、ポール・ヴァレリーという詩人の詩「海辺の墓地」の一節であり、原作では“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”だそうですが、これを、堀辰雄自身が訳したものです。

ポール・ヴァレリーはフランスの作家、詩人、小説家、評論家です。先述した「ベル・エポック」などの華やかな文化を生み出したフランス第三共和政(1940年のナチス侵攻まで存続したフランスの共和政体)の時代において、多岐に渡る旺盛な著作活動を行い、フランスを代表する「知性」と称される人です。

日本の終戦の年、1945年に亡くなっていますが、その死はこの当時の大統領ドゴールの命によりフランス第一号の国葬をもって遇せられたといいます。1930年から、亡くなった1945年までの間、ほぼ断続的に毎年ノーベル文学賞候補としてノミネートされたと言いますが、結局受賞はかないませんでした。

この「風立ちぬ」の「ぬ」は言うまでもなく過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意です。

「いざ生きめやも」の「生きめやも」「は、ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的な表現を堀辰雄が意訳したものです。生きなければならない、しかし……と、その後に襲ってくる不安な状況の予見と一体となった表現であり、なかなか絶妙な言い回しです。

またこれを、「過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている」とまで言う人もおり、うーむそこまで言うか~というかんじですが、何かと意味深なことばではあります。

この「風立ちぬ」の主人公の一人、作中の「私」の婚約者である「節子」のモデルは、無論、堀辰雄と死別した実在の婚約者矢野綾子です。

愛する人との離別を書き、文学として昇華させたものとしては、ほかにも高村光太郎の「智恵子抄」があります。私も先妻を亡くしており、先日も「智恵子抄」を読み返す機会があったのですが、こうした作品を読むと当事者のその悲しみがよくわかります。

なので、「風立ちぬ」も読みかえせばまた学生時代とは違った解釈が今はできると思うのですが、また暗い気分になりかねないので、当面はやめておこうかと思います。

「風立ちぬ」のあらすじは、だいたい諳んじてはいるのですが、ここで書いてしまうと元も子もないのでやめておきましょう。が、少しだけ触れておくと、その最後のほうでは、ある日の夕暮れに療養所で二人が、その最後ともとれる会話を交わすシーンが出てきます。

主人公は、病室の窓から見えるその素晴らしい景色を見ながら、「風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。」

というようなセリフを吐くのですが、これだけでもう泣けてしまいそうです。

この作品の最終章の「死のかげの谷」では、3年ぶりの冬、亡くなった婚約者(節子)と出会ったK村(軽井沢町)にやってきたは主人公が、雪が降る山小屋で亡きフィアンセのことを追想するシーンがあります。

ここの描写もまた美しくかつもの悲しいものがあり、まだ10代で恋愛経験も少なかった私もいたく感動したのを覚えています。

ここのところ、戦前に奥さんの智恵子を亡くし、戦後まもなく、岩手の花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住んで晩年を送った高村光太郎とどこか似ています。彼はここで7年間独居自炊の生活を送っていますが、この間に亡くした妻を述懐する詩をいくつか残しています。

もしかしたら、光太郎も堀辰雄の「風立ちぬ」を読んで、これを意識していたかもしれません。風立ちぬは昭和初期に書かれていますから、戦後に智恵子抄を出している光太郎が目を通していたとしても不思議はないでしょう。

さて、智恵子抄との類似点はともかく、この死別した男女の悲しい物語は、高村作品と同様に多くの人の共感を得るようになり、本としての出版はもとより、映画やテレビでも数多く作品化されていきました。

最初の映画化は、1954年の東宝作品で、監督は島耕二、主演は久我美子、石浜朗だったそうです。我々の世代では、同じ東宝から1976年に出されたもののほうが馴染み深く、このときの主演は、誰あろう、山口百恵と三浦友和でした。

このほか、 1954年(昭和29年)~1962年(昭和37年)までに4度もテレビドラマ化され、一番新しいところでは、短編の青春アニが日本テレビによって作られ、 1986年(昭和61年)に放映されています。

しかしこれ以後、映画やテレビで「風立ちぬ」は制作されていません。

ところが、今年、アニメ映画の大家、宮崎駿がリリースする同名の映画が放映される予定だといいます。彼がかつて「モデルグラフィックス」というアニメ専門誌上で発表した連載漫画であり、その直後からスタジオジブリによりアニメーション映画化されることが決まっていたようです。

今年の夏に劇場公開される予定だそうです。宮崎駿さんが長編アニメーション映画の監督を務めるのは、2008年の「崖の上のポニョ」以来となるということで、話題を集めており、また、宮崎監督が「モデルグラフィックス」で発表した漫画がアニメ化されるのは、1992年の「紅の豚」以来2作目となるということです。

ところが、話の中身は、堀辰雄の風立ちぬとは少し違ったものになるようです。主人公は、実在の人物である「堀越二郎」という航空機の技術者をモデルにしたもので、その半生を描いた作品であり、舞台となるのも軽井沢ではないらしい(原作の「モデルグラフィックス」編を読んでいないのでなんともいえません)。

堀越二郎は1903年(M36)生まれの航空技術者であり、戦後は東京大学をはじめとする大学機関での教授などを歴任した学者です。

群馬県藤岡市に生まれ、東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業し、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。三菱九六式といわれる艦上戦闘機の設計において革新的な設計を行ったことで有名ですが、零式艦上戦闘機、つまりゼロ戦の設計主任としてのほうがより知られています。

ゼロ戦のほかにも七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機、雷電、烈風といった、後世に語り伝えられる数々の名機の設計を手掛けたことで知られ、戦後は三菱重工業の技術者としてYS-11の設計にも参加しています。

三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関でも活躍し、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めたほか、防衛大学校の教授、日本大学の生産工学部の教授も務めました。1982年死去。享年78。

宮崎監督は、その作品のほとんどにかならず何等かの飛行物体を登場させるほどの飛行機好きであり、このゼロ戦の設計者としても著名な堀越二郎についてもいつかアニメ化したいと考えていたようです。

このため、これから用意されるであろう映画のポスターにも、堀越二郎の名と堀辰雄の二名の名をあげ、「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」と記されているといいます。

しかし、これまで得た情報では、堀越二郎のほうの実際のエピソードを下敷きにしつつも全く別の宮崎監督オリジナルのストーリーが展開されるといい、このことについて堀越二郎の遺族に対しては事前に相談し了解を得ているようです。

が、堀辰雄のほうには言及されていないため、おそらくはオリジナルの「風立ちぬ」のストーリーとはかなり違った展開が予想されます。

配役(声優)などもまだ完全に決まり切っていないようですが、主人公の堀越二郎だけは既に決まっています。

庵野 秀明(あんのひであき)という人で、1960年(昭和35年)生まれといいますから、我々と同世代。どういう人なのかなと思って調べてみたら、なんと私と同郷の山口県の人で、宇部市出身です。

映画監督、アニメーターであり、自ら設立したアニメスタジオ「株式会社カラー」の代表取締役を務めています。代表作に「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」などがありますが、なんといっても「新世紀エヴァンゲリオン」は一番有名です。この「新世紀エヴァンゲリオン」では、第18回日本SF大賞を受賞しています。

その作品では戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、手当たり次第に軍事関係の資料に目を通し、自衛隊にも体験入隊しているほどの軍事オタクといわれます。この風立ちぬの企画が持ち上がった時にも、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(兼社長)に対して、「零戦が飛ぶシーンがあるなら描かせてほしいと申し入れていたそうです。

ジブリとは、「風の谷のナウシカ」の時代からの付き合いだそうで、「風の谷のナウシカ」における作画スタッフの募集告知を見て初めて上京し、その作品が原画として採用されたとか。

ジブリ作品での採用の決め手は、持参した大量の原画を宮崎監督に高く評価されたからで、「風の谷のナウシカ」では最も難しいといわれたクライマックスの巨神兵登場のシーンを任されています。

なんでそんな元アニメーターさんを声優に?という疑問なのですが、宮崎監督は、この庵野さんの声が本作の主人公としてぴったりだと思い、ひそかにその出演を希望していたそうです。

しかし、表だっては、主な声優さんをオーディションで募集することになっていたため、宮崎監督は庵野にもこれを受けることを依頼し、彼もこれには困惑しつつもオーディションを受け、その直後に宮崎から改めて出演を依頼されたといいます。

無論、庵野も出演を受諾。しかし、今のところ、配役が決まっているのは彼だけのようであり、このあとどんな人が配されるのかは、これからのお楽しみといったところです。

気になるあらすじのほうは、東京、名古屋、ドイツを舞台に、航空技術者として活躍した堀越二郎の10代から30代までを中心とした物語が展開されるということです。航空技術者としての活動とともに、「風立ちぬ」のようなヒロインとの恋愛シーンも盛り込まれているとのことですが、詳細はまだわかりません。

ちなみに、このヒロインの名前だけは決まっており、「菜穂子」だそうです。無論、由来は堀辰雄の小説「菜穂子」にちなんでいるのでしょう。

小説のほうの「菜穂子」では、ある小説家との恋を通じて「ロマネスク」を満喫しつつも、その後の結婚においてはその生まれ持った情熱的な性格を封じ込め、つつましく生きようとした一人の女性が描かれています。菜穂子はこの女性の娘であり、彼女を主人公として、その成長の過程で次第に母に反発していく姿が描かれていきます。

母の生き方に疑問を持ちつつも、その母と同じ素質を持っていることにある日気付いた少女が、自分の将来に破滅的な傾向を予感し、結局は心の平和を求め愛のない結婚へ逃避しつつ自己を見つめ直してゆく、という話で、私も確か高校時代に読んでいます。

女性の複雑な心理描写が書かれていて面白い、と思ったかどうかまでは良く覚えていませんが、ふーん、女性ってこんなふうに思考するのか~と、異性を知るという意味ではなかなか興味深い内容、というふうに捉えたような記憶があります。

物語の最後のほうは、不幸な結婚生活に陥ったヒロインと幼馴染の青年との再会が描かれており、彼女を想う青年の孤独な喪失感と、夫を持つ身であるヒロインの不倫感覚との対比が信州の自然を背景に美しく描かれていく……というのですが、無論細かいことは私もよく覚えていません。

ところで、この「菜穂子」の母である女性のモデルになったのは、片山広子という実在の女性作家さんです(筆名:松村みね子)。また、菜穂子の恋人の青年のモデルは、かつての堀辰雄の学友であった芥川龍之介であると言われています。

片山広子は、1878年(明治11年)生まれの歌人、翻訳家であり、芥川龍之介晩年の作品「或阿呆の一生」にも登場しています。「才力の上にも格闘できる女性」という力強く生きる女性としてして描かれ、このほかにも芥川の「相聞」という作品にも出てきます。

芥川龍之介の愛人であった?というわけですが、堀辰雄もこの友人の恋人を良く知っていたと思われ、このためその作品の「菜穂子」にも登場したわけであり、このほかの堀作品である「聖家族」に出てくる「細木夫人」というのもこの片山広子といわれています。

写真をみるとなるほどな、と思わせるような別嬪さんであり、何か知性を感じさせます。晩年の自身の随筆集「燈火節」は、1954年度日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しており、文学者としての実力もかなりのものだったようです。

しかし、この「菜緒子」の主人公のヒロインの心は、実は堀自身であるとも言われています。また、菜穂子の結婚後の不倫相手、幼馴染の青年・都築明にもまた、作者自身が投影されているといいます。

一方では前述のとおり、都築明は堀の愛弟子であった立原道造もモデルではなかったかといわれており、立原の急死によってストーリーが書き換えられた可能性もあるということです。

このように、堀辰雄の作品には、亡くなった多くの人の魂が込められているようです。いつの世も、人の死は新たな芸術作品を生んでいく礎となりき……かくいう自らもまたこれなんかな……

おいおい、ところでアニメのほうの「風立ちぬ」の話はどうなったんじゃい、ということなのですが、まだ話題作として登場したばかりなので、私もこれ以上書きようがありません。

ただ、主題歌は、「ひこうき雲」というのだそうで、作詞・作曲・歌とも、あのニューミュージックの女王、荒井由実さんに決定しているとのこと。プロデューサーの鈴木敏夫が主題歌として使用したい意向を打診し、本人から了承を得たとのことですが、どんな歌なのでしょう。こちらも楽しみです。

7月20日封切りの「風立ちぬ」をよろしく。私も見たいと思いますが、みなさんもぜひ見に行きましょう。

ケイリン ~旧中伊豆町(伊豆市)


先週末の土曜日のこと、修善寺から10kmほど北東に行った山奥にある、「サイクルスポーツセンター」へ行ってきました。

私はかつてここへ二回行ったことがあります。一度目は、日本橋で勤めていた会社の社員旅行でのことであり、20年ほど前のこと。二度目はそれから数年後のことで、このときは先妻と一人息子との家族旅行でのことでした。

昔のことを思い出して少しセンチになるのも嫌だな、とは思ったものの、その後ここがどんなふうに変わっているかを知りたく、またタエさんは一度も行ったことがないわけだし、まぁ行ってみるか、ということになりました。

あまり気乗りのしない再訪問だったわけですが、後を押したのは、この日がこのサイクルスポーツセンターで一年に一回、入場料がタダになる日だったということ。

もともと高い入場料ではないのですが(800円)、それでもラーメン一杯食えるじゃないか(しかもチャーシューメンクラスが)、という意地汚さも手伝い、重い腰を上げることにしたのです。

サイクルスポーツセンターは、伊豆市の旧中伊豆町に位置する施設で、開設は1965年6月といいますから、開園からもうかれこれ半世紀にもなります。競技用自転車に関する調査研究等を通じ、サイクルスポーツの普及を促進する、ということをお題目にした競輪関連の財団が建設したらしい。

現在も、入園料や施設の利用料などの収入のほか、JKA(旧日本自転車振興会)などの競輪運営団体の寄付金や補助などで維持補修費や運営費がまかなわれています。

もともとは、自転車競技を行うことを目的にした施設だったため、場内にはロード競技用5kmサーキット・トラックレース用400mピスト(走路)・MTB(マウンテンバイク)コースなどがあり、有料で一般開放しています。東京から近いこともあり、現在でもここでレース気分を味わうマニアも多いようです。

ただしピストなどの競走路を一般利用者が利用する際には基礎脚力検査が行われるそうで、基準を満たさない未熟者は落車などの危険が生じるため、利用が認められないこともあるとか。

日本の競輪界では、ここに隣接している日本競輪学校の卒業生も多いとのことで、こうした素人さんに使わせる場合でも審査基準があるとは、さすが名だたる日本競輪界のメッカだなぁと感心至極。

現在でも、現役の競輪選手などが走行訓練を行うこともあるそうですが、我々が行ったこの日も現役選手をゲストに招いたアマチュアの大会が行われていたようです。訪問時間が遅く、それらのレースは終了したあとであり、見ることはできませんでしたが……

また、ロード用コースは自転車による一般的なレースだけでなく、自動車・オートバイなどの試乗会会場として使われることもあり、「カーグラフィックTV」というBS朝日のテレビ番組などでは、撮影にも使われるということです。

もっとも、こうしたマニア向けの施設ばかりでなく、ファミリー向けの施設もあり、3~4m上の軌道上を走るサイクルアトラクション、変わり種自転車、水上自転車などなどの各種の遊具施設もあって、これらのはこの施設の方針として、基本的には「人力で動かす」ものばかりです。

しかし、サイクルコースターという子供向けのジェットコースターやメリーゴーランド、迷路といった遊園地施設も併設してあって、小さな子供でも楽しめるようになっており、我々が行ったこの日も、利用者のほぼ9割は家族連れでした。

施設内にはこのほかにも、レストハウス、体育館、多目的ホール、 流水プール、キャンプ場、パターゴルフ場、宿泊施設などがあり、さらには温泉入浴施設(露天風呂あり)まであって、「一日中楽しめる」が謳い文句になっています。

しかし、いかんせん古い! 遊具施設は20年前に私が来たときのものとほぼ変わっておらず、また建物群もかなり老朽化しています。

入場してすぐのところにあるメインエリアには、5kmサーキットを見下ろす、これはなんと呼ぶのでしょうか、展望デッキ?観戦デッキのような鉄骨で作られたかなり大規模な構造物があるのですが、これがもうボロボロに錆びていて、あちこちに鉄骨から剥離した錆びた部材が落ちています。

さすがに施設管理者も危ないと思っているのか、一応立ち入り禁止のロープが張られているのですが、全く近づけないわけでもなく、近寄ったところへ上から錆びた鉄骨が……なんて事故が起きなければいいが……と余計な心配までしてしまいました。

このサイクルスポーツセンター、実は当初、サーキットとして計画されていたそうで、その後紆余曲折を経て、日本競輪学校と同所の敷地となったという経緯があるそうです。同じ県内では、駿東郡小山町に「富士スピードウェイ」が1966年に開設しており、もしこちらが先行していなければ、伊豆にサーキットができていた可能性もあるわけです。

結局のところ、サーキット計画は見送られ、そのかわりに「競輪のメッカ」とすることで決着したようで、このため競輪の競技コースに加え、競輪選手を養成する「日本競輪学校」が建設されました。

ちなみに、私の広島の高校時代の同級生の一人(タエさんの同級生でもある)が、母校を卒業後にこの競輪学校に入ってその後プロデビューしており、一時は1000万円プレーヤーとして活躍しています。

その彼が卒業した学校のすぐ近くに居を構えるようになるとは想像だにしませんでしたが、何かとご縁を感じてしまいます。

自転車関係者の間で「修善寺」といえば、この日本サイクルスポーツセンターか日本競輪学校のどちらかを指す代名詞となっているほど有名な場所なのだそうで、また別の意味で誇らしく思えたりするから不思議です……

しかし、施設全体は半世紀も経っているせいもあり老朽化は否めず、遊園地としての利用者もあまり多くないようです。また最近では日本のあちこちで競輪場の閉鎖が続いており、競馬や競艇といったギャンブルに押され、近年の競輪そのものも衰退傾向にあるようです。

しかし、最近はダイエットや健康志向がもてはやされる中、サイクリング・ブームなのだそうです。サイクリングロードとの連携を企業活動や観光に利用する場合も増えており、日本中のあちこちに立派なサイクリングロードが作られるようになりました。

「サイクリング」の名を冠して行われるイベントも増えており、初心者からベテランの愛好家まで多様な参加者が集まるレースも頻繁に行われるようになっています。

そのほとんどが総走行距離50キロメートルを下回り、ヨーロッパで行われているもののような長距離レースではありませんが、初心者でも参加しやすいため、こうしたレースは都市部でも行われています。

例えば首都圏最大の大会である「東京シティサイクリング」はエクステンションを含めて35キロメートルのコースであり、手軽さも受けていつも参加希望者が募集数を大幅に上回ると聞いています。

こうしたサイクリングブームの背景には、「ケイリン」がオリンピック競技として正式採用されたことも無関係ではないでしょう。

「ケイリン」とは、言うまでもなく日本発祥の公営競技である「競輪」を元に作られた競技です。が、それと区別するため「ケイリン」と表記されるようになりました。

現在では国際自転車競技連合(UCI) によって”KEIRIN”の名で正式種目と認定されており、オリンピックだけでなく、このほかの世界選手権や国際大会でも競技が行われています。

2000年に行われたシドニーオリンピックから正式採用されました。

1996年のアトランタオリンピックにおいて、自転車競技もプロ・アマオープン化されることに伴い、日本車連はオリンピックにおいても、ケイリンの採用を打診。しかし、既にアトランタでの実施種目は決まっていたため、この大会では採用されませんでした。

が、既に1980年より世界自転車選手権のほうでは採用されていたため、その後も世界各国へ技術指導等を含め、ケイリンの普及活動を行ったことなどを日本オリンピック委員会(JOC)を通じ、国際オリンピック委員会(IOC)にPR。

その結果、1996年のIOC総会において、ケイリンは正式種目として、4年後のシドニーオリンピックでの採用が決まり、ケイリンは日本生まれの五輪種目としては柔道(1964年の東京オリンピックより正式採用)に続いて史上2例目となりました。

シドニーでの初代優勝者はフランスのフロリアン・ルソーであり、日本からはメダリストは出ませんでしたが、2008年の北京オリンピックでは永井清史が日本人初となる銅メダルを獲得しています。

さらに、2009年12月に行われたIOC理事会においては、オリンピック男女平等種目数の方針が確認され、これに基づき、UCI(国際自転車競技連合)が「ケイリン女子」を提案して了承を受けたことから、2012年のロンドンオリンピックでも正式種目として採用することが承認されました。

残念ながら、ロンドンオリンピックには、日本の女子ケイリン選手の養成は間に合わず、日本はエントリーさえしませんでしたが、このオリンピックでの正式種目への採用をきっかけに、日本でも「ガールズケイリン」が復活することになりました。

「復活」と書いたのは、1949年から1964年まで女性の競輪選手による競走として「女子競輪」が存在したためです。人気面の低落から廃止となりましたが、その後幾度となく復活の話が持ち上がるたびに議論されていました。

しかし、2008年からで各地の競輪場に日本の女性自転車競技選手を集結させてケイリンのエキシビションとして実施させていたところに、オリンピックでの正式種目になったとの発表があり、このことが追い風となって、女性自転車競技選手の育成を目的する「ガールズケイリン」として正式に復活させることになったのです。

2010年5月には女子第1回生となる日本競輪学校入学者(定員35名)を募集し、2012年3月に卒業。同年7月に平塚競輪場で48年ぶりの女性競輪が開催されました。

以後も毎年の募集が行われて、選手の養成が行われ、以来、日本各地の競輪場で女子競輪選手が活躍するようになりました。復活する女子競輪の愛称は公募されたものの、結局はエキシビジョンで行われたレースと同称の「GIRL’S KEIRIN(ガールズケイリン)」とすることも発表され、ファンからはこの名で親しまれつつあります。

日本のケイリン技術は世界に冠たるものであり、おそらくは、2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、このガールズケイリン選手の中から、ケイリン種目としては日本初の女性メダリストが出るに違いありません。期待しましょう。

このように純粋なスポーツ競技としてのケイリンは、ギャンブル競技としての競輪そのものは衰退傾向にあるものの、最近のサイクリングブームとも相まって、むしろその裾野を広げようとしています。

老朽化しつつある、修善寺のサイクルスポーツセンターのもその新しい流れがやってきており、我々がここを訪れたときにも、目新しい大きな自転車競技場ができていました。

「伊豆ベロドローム」は、この日本サイクルスポーツセンター内に、日本初の木製走路競技場として建設されたケイリン競技場です。

現在日本の各地にある自転車競技場(競輪場)の走路はほとんどがアスファルト仕様ですが、2000年のシドニーオリンピック以降、トラックレースの国際大会は概ね、室内競技場、1周 250メートル、木製仕様の走路、で行われることが常となっています。

この観点を踏まえ、当場の開設が検討されることになったわけであり、昭和46年の発足以来、日本の自転車の中心ともいえ、自転車競技の発展に寄与してきたサイクルスポーツセンターに、今後のわが国の自転車競技の振興に資することを期待して建設が行われることになりました。

この日本初となる屋内型板張り250mトラック「伊豆ベロドローム」は、財団法人JKAの後押しを受け、公営競輪競技からの利益金を用いた競輪補助事業として2009年から建設が始まり、3年を経て2011年10月に完成しました。

ベロドローム(Velodrome)はラテン語で自転車競技場を意味します。走路が木製仕様の自転車競技場は、日本では西宮競輪場(1949年〜1965年)以来となりますが、常設および室内の木製走路の自転車競技場としては、無論、日本初です。

走路にはシベリア松を使用。北京オリンピックでトラックレースの会場となった老山自転車館を設計したドイツ人のラルフ・シューマンが設計を担当したそうです。

周長250m 木製走路は前述のとおり、最大カントはなんと45度もあるそうです。観客席数 常設1800席、仮設1200席。長軸方向119m、短軸方向93m、高さ27mという規模は、室内競技場としては国内で最大規模です。

日本自転車競技連盟はかねて、トラックレースのみならず、ロードレース、マウンテンバイクレース、BMXについても1箇所で強化できる拠点作りに着手しており、ここサイクルスポーツセンターには長年のその下地があり、ここに建設すれば相乗効果が狙える、と考えたようです。

22011年9月には、かつて世界選手権の「スプリント」で10連覇(1977~1986年)を達成した中野浩一らを招いての竣工式が行われ、同年10月1日に開場。同年同月14日〜16日まで開催された全日本自転車競技選手権大会のトラックレースが杮(こけら)落しの開催となりました。

以後、かつての競輪ブームの再来を思わせるような数々の熱血レースがここで行われてきており、我々が訪れたこの日も大きな大会があったようです。やがてここで活躍した選手の中から、オリンピックで活躍する選手が出てくるに違いありません。

また、2020年にもし東京オリンピックが実現するようであれば、ここがその競技場のひとつとして採用されるのはほぼ間違いないのではないでしょうか。東京からの距離は多少あるとはいえ、これだけの競技場は関東地方にはおそらくないでしょうから。

ところで、ケイリンの競技というのはどんなふうに行われるのか興味があったので調べてみました。

オリンピック競技種目としての「ケイリン」は、主に6名以上の選手で争われますが、基本的なルールは競輪の「先頭固定競走」とほぼ同じだそうです。選手とは別に先頭誘導員が1人いて、電動アシスト自転車、またはデルニー(モペッド)を使い、決められた周回を先頭で空気抵抗を減らしながら走ります。

モペッドというのは、ペダル付きのオートバイで、エンジンや電気モーターなどの原動機だけで走行することも、ペダルをこいで人力だけで走行することも可能な車両です。その昔、大正や昭和の初めには原動機付きの足こぎ自転車があったようですから、あれと同じようなものと考えればよいでしょう。

先頭誘導員がいるのは、一番前にいる選手が風の抵抗を受けて不利になるのを避けるためです。ギャンブル営競技としての競輪では、誘導員は自力で自転車を動かしますが、国際競技のケイリンではこれを動力としたのは、この誘導員の力量によって競技結果が左右されることを憂慮したためでしょう。

そしてレースが始まってしばらくすると、誘導員が審判の合図により先頭を外れ、圏内線の中へ退避します。このあたりから本格的に競走が始まり、各々1着でゴールできると思った位置からダッシュをかけ、しのぎあいが始まります。

各組2人から4人が先着トーナメント方式で勝ち上がる形式であり、また敗者復活戦もあります。その勝者は準々決勝あたりで合流することから、大逆転もあり、このあたりの勝敗の行方は混とんとすることも多く、非常に面白いといいます。

選手同士の連携はギャンブル競技の競輪とは異なりそれほど重視されません。このため、競輪とは異なる戦術・技術を必要とする場合も多く、日本のトップ競輪選手といえども国際大会のケイリンにおいて強さを発揮できるとは限りません。

事実、先般の北京オリンピックで日本は「ケイリン」競技で銅メダル、またその前のアテネオリンピックでは「チームスプリント」で銀メダルと、4年に1度のオリンピックでは2大会連続でメダルは獲得したものの、世界との差は広がったままであるのが実態です。

これについては、いろんなことがいわれているようですが、1996年以降、オリンピック及び世界選手権が行われる競技場が、屋内型板張り250mトラックが主流となってきたことがそのひとつの理由と考えられています。

1993年に吉岡稔真選手がケイリン種目で獲得した銅メダルを最後に世界選手権においては表彰台に上がる日本人選手が出ておらず、このことはほぼ年代的にも符合しています。

日本における自転車競技場は、その大半が従来の競輪場で行われており、これらの競技場の周長は400mを中心に、333.3m、500mの3種類、表面はアスファルト製の走路であり、いわゆる現在の世界標準である屋内型板張り250mトラックはありません。

従って、海外遠征を行わない限り、本番と同じ環境、つまりは屋内型板張り250mトラックでの練習・訓練が出来ない中で戦っているわけです。

これは、他国と比べて明らかなハンディ・キャップであり、この状況が続く限りはこれ以上の競技力の向上を望むのは困難であることは明らかです。

伊豆ベロドロームは、こうした背景から作られた、いわば明日の日本の「ケイリン」界をしょって立つホープ選手養成のための重要な練習場というわけです。

ところでオリンピックといえば、その開催と同時に行われるのがパラリンピックです。実は、我々がここを訪れたとき、その日のレースは終わっていたのですが、時期リオデジャネイロパラリンピックへ出場予定の選手の「壮行会」と称するイベントが行われていました。

我々が場内を見学していたところ、ちょうどその出場選手の一人らしい方が、デモンストレーション走行を始められました。みると、なんとその方は左の足がなく、義足もされておらず、全くの片足(右足だけ)で、自転車を漕いでおられたのです!

この方とは別にもう一人ハンディキャップの方がいたのですが、こちらは左足に義足をはめておられました。その方が先導する形で、このベロドドーム内の周回コースを一周されたのですが、さすがに片足だけに、最後のほうはかなり失速し、しんどそうでした。

しかし、ゴールするやいなや、会場にいた十数人の観客からは暖かい拍手が贈られ、これに対して先導者の方からは大きな声で「ありがとうございました」の声が返ってきました。

思いがけなく出くわしたワンシーンだったのですが、思いがけない感動に、あとで家に帰ったあとも妙にこのシーンが脳裏に焼き付いて離れません。

伊豆ベロドロームは、健常者のメダリスト養成場としてだけではなく、こうしたハンディキャップを持った人達の修練の場でもあるわけです……

さて、今日も今日とて長くなりそうなので、この辺にしましょう。本当はギャンブル競技としての「競輪」のほうについても書きたかったのですが、これはまた後日にしましょう。

日本列島は、昨日中四国・九州地方が梅雨入りしたということで、早晩この伊豆の梅雨入りも免れません。少しでも陽があるうちに、と今日はコタツ布団と下敷きカーペットの洗濯をしました。

皆さんも冬物の洗濯を急ぎましょう。じめじめむしむしの日々はもうすぐそこにまで来ています。

バガテル公園アゲイン ~河津町

先週のこと、そろそろ河津のバガテル公園のバラが見ごろだということで、二人して行ってきました。

去年に次いで二回目のことであり、何時ごろいったかな、と昨年のブログを見てみると、6月の上旬になってから出かけています(6/8ブログアップ)。

なので、温暖な河津のような場所では、バラの時期としては少し最盛期を過ぎている、というかんじであり、たしかに終わってしまっていたバラも多かったように思います。

で、今年はどうなのよ、ということなのですが、さすがに「旬」ということで、ほとんどのバラが満開状態であり、いやはや堪能しました。お天気も昨年はぱっとしないものでしたがこの日は晴天であり、青い空と色鮮やかなバラとのコントラストが楽しめました。

園の入口付近に入っただけで、ウッというほどにバラの甘い香りがたちこめており、この匂いが大好きな私はそれだけで酔ってしまいそうです。

一本一本のバラの香りを嗅いで回れるほど、「かぶりつき」でバラが植えられているのもこの公園の良いところ。あぁこれは好きな匂いだ、これは少し甘すぎる、これは上品な匂い……と自分なりに評定を加えながら園内をじっくりと歩くのも楽しく、無論、香りだけではなく、その色鮮やかな花々も本当に素晴らしいものです。

たしか、開園以来10数年経っているはずですが、バラの苗も若いためか勢いがあるかんじがします。本当に今、若い盛りのプリプリといったかんじで、生きのいいここのバラはできるだけたくさんの人に見て欲しいと思います。



この河津バガテル公園は、伊豆急河津駅から車で10分ほどの高台にあります。山間の緩傾斜面の土地をうまく整地して作ってあり、その広さは約5ヘクタール。うちの2haあまりがバラ園(甲子園球場が、1.3ヘクタールのおよそ2倍)であり、ここに1100品種6000株のバラが植栽されています。

左右対称の幾何学模様が特徴のフランス庭園式であり、これはパリのブローニュの森にあるバガテル公園を模して作ったものです。本家の1100種9500本には及びませんが、このパリのほうからも「姉妹園」として認められているそうで、その植樹のノウハウなどもパリ市やバガテル公園協会から直接指導を受けているそうです。

バガテルとはフランス語で「小さくて愛らしいもの」という意味。去年のブログでも書きましたが、初期のパリ・バガテル公園は、18世紀にルイ16世の弟のアルトワ伯爵という人が命令して、建築家のブランジェとその助手に作らせたものです。

それまでのクラッシックなフランス風の庭園ではなく、フランスの田舎の風景を模したものを作りたかったようであり、とはいいながら最初のものの原型は残っておらず、1905年にパリ市が公園を買収したあとは、このころ人気のモネなどの印象派の画家達の影響を受け、初期のものよりもかなり華やかになっているようです。

河津町がなぜこんな山奥に公園を作ったのかはよくわかりませんが、もともと河津町にはたいした産業などもなく、町内を流れる川べりの河津桜に代表される観光産業などに注力してきたという経緯があります。

ほかにも、天城山に近い山奥に河津七滝(ななだる)とよばれる七つの滝があるほか、天城トンネル、河津温泉郷(湯ヶ野温泉、河津七滝温泉)といった温泉施設もあり、街中にはこのほか、間欠泉がある峰温泉という温泉があります。間欠泉のある場所は「大噴湯公園」として整備されており、人気があるようです。

最近では花卉栽培にも力を入れていて、「かわづカーネーション見本園」なるものが河津川沿いで開かれているほか、バガテル公園と同じく花を売りにした公園としては「かわづ花菖蒲園」も整備されていて、バガテル公園の観覧券とこの菖蒲園の観覧券を合わせて格安にセット販売していたりしています。

山だけでなく、今井浜海水浴場という海洋リゾートまであって、ここにも今井浜温泉という温泉施設があり、海あり山あり、川あり、花あり温泉ありで、ありありだらけです。なので、どちらかといえば地味な印象の河津なのですが、もう少し脚光を浴びてもいいのかな、という気がします。

ただ、さすがに花のないオフシーズンには人は少ないだろうなーと。ところが、このあたりは町の人達も考えているようで、バガテル公園の入口付近には最近大きな温室が作られていました。おそらくここで、花の少ない季節に地場産業として定着している花卉栽培技術を使ってカーネーションなどを見せようというのでしょう。

このほか、冬場だからこそ強みの出る温泉施設の充実も図ろうとしているみたいであり、この辺、いつも思うことですが、花と温泉で町の活性化を図ろうとしている修善寺とどこか似ています。もっとも、修善寺には海はなく、その代りにたくさんの歴史施設があるという違いはありますが……

それにしても、バガテル公園の園内各所は、いつもきれいに清掃されていて気持ちがよいことこの上ありません。もともとがフランスの庭園を意識して作られ、バラの栽培技術もあちらから導入しているだけあって、こういうのがフランス式の公園整備なんだろうな~と思わせるようなものがあります。

あちこちに、花を寄せ植えにしたワゴン車が置いてあって、これがまた公園の景観を形作る良いアクセントになっており、レストランやカフェやショップなどの合間あいまに植えてあるプラタナスやポプラの木の佇まいもまた魅力的です。

が、食事施設をもう少し充実させてほしい気がします。喫茶施設は十分だと思うのですが、ここのレストランのランチは2300円、入園料と合わせて2800円というのは、バラが一杯咲いている季節はともかくとして、花の季節が終わったらどうなのかな、という気がします。

もっとも他にもパスタやピザ、サンドといった単品もあるようですが、全体的にやや高め。メニュー自体も女性向を意識されているようにも思いますが、男性陣としてはもう少しボリュームのあるものが欲しいところ。まぁもっとも、こういうところですから、そばやラーメン、かつ丼といったメニューが並ぶのも考え物ですが……

これらカフェやレストランなどのお食事どころの横には、バラの苗を直売しているガーデニングショップもあります。一般のホームセンターや園芸店では置いていないような品種のバラも置いていて、買うとしたらどれかな~と見歩くのも結構楽しいもの。

新苗が1000円、大苗が3000円というのも、やはりホームセンターよりもやや高めですが、それでもこれだけの品種がそろうホームセンターはあまりないでしょう。

昨年は、この中から二株の新苗を買って持ち帰り、一年間鉢植えで養生し、つい先日庭に下したばかりです。そのうちの一つが、ついこの間大輪の花を咲かせ、フルーティな匂を周囲に振り撒いておりましたが、いやはやバラはやはり手間暇がかかります。

水やりや肥料、病虫害対策が結構大変であり、放っておいても花が咲くサツキやあじさいとは大違いです。それだけ手間暇かけたあとに咲いたものを見ると本当にうれしくなりますが、古今東西、そのバラづくりだけに生きがいを見出している人も多いようで、日本でも多くのコンテスト(品評会)があったりします。

この薔薇、ヨーロッパが原産かと思ったら、日本はバラの自生地として世界的にも知られているそうで、品種改良して近年流通するようになったバラの原種は、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシなどだそうで、いずれも日本を原産とするバラです。

古くバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ、「万葉集」にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があります。

ヨーロッパから入ってきたものは、江戸時代初期に、仙台藩の支倉常長が慶長遣欧使節として渡欧したときに持ち帰ったバラが最初のものとされています。このときのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある厨子にも描かれているそうで、このためこのお寺さんは現代でも「薔薇寺」と呼ばれて親しまれているとか。

その後、江戸時代には身分を問わずに流行しましたが、現代のようなも大輪のものではなく、「コウシンバラ」「モッコウバラ」などのツルバラが多かったようです。

明治期以降、第二次世界大戦前までは、バラはまだ「高嶺の花」であって、庶民が栽培するようなものではありませんでしたが、戦後すぐの1948年には銀座でバラの展示会が開かれ、さらには1949年には横浜でバラの展示会が開かれるようになります。

こうしたことから鳩山一郎や吉田茂といった有名人でバラの愛好する人も増え、戦後の高度成長の波に乗り、バラは嗜好品として庶民にも普及していくようになりました。

また、鉄道会社が沿線開発の一環として、バラ園の造営を行うようになり、各地にバラ園が開園されるようになりました。これを一番最初に始めたのが京阪電鉄であり、同社は「東洋一のバラ園」の造園計画をぶち上げ、「ひらかたばら園」という大きなバラ園を実際に開園しています。

ちなみに、この京阪電鉄が行ったバラ事業はその後、「京阪園芸株式会社」として発展し、現在でも多くのバラの苗を栽培して、各地のホームセンターに卸しています。お近くのお店などで、この会社の名前が入っているタグがついたバラ苗を見たことがある人が多いのではないでしょうか。

「ひらかたばら園」のほうも同社の運営により、現在は「ひらかたパーク」という遊園地として発展し、現在もバラの季節には多くの観光客で賑わっているそうです。

……とこの後もバラの話題を続けようかとも思ったのですが、バラについては昨年の7月に「バラ・薔薇」の題で結構書いているので(7/25)、もうこのくらいにしておきましょう。いろいろな有名人の名前にちなんだバラ品種が開発されている、との話題などでした。ご興味のある方はそちらもどうぞ。

さて、この上天気も明日一杯くらいのようです。来週からは梅雨の前哨戦なのか少し天気の悪い日が続いていくようなので、お出かけはできるだけ今日明日にしましょう。できれば、前回見損なった中伊豆の「大見城」を見に行こうかと思いますが、もしかしたら萬城の滝まで足を延ばすかもしれません。

そういえば、伊豆へ来てまだ「滝シリーズ」を制覇していないので、今年はぜひチャレンジしたいと思います。暑くなるこれからはぴったりのテーマです。乞うご期待。