アポロ月面着陸船と神


今日は何の日?を見ると、今日2月5日は1971年(昭和46年)にアポロ14号が月面に軟着陸を成功させた日ということのようです。

ところで、軟着陸ってそもそも何だ?と少々疑問になったので調べてみると、これはソフトランディング(Soft Landhing)の邦訳のようで、飛行機などが、緩やかに降下して安全に地面に着陸をすることをさしているようです。

反対語はハードランディング(Hard Landing)で、これは「硬着陸」ということで、こちらは飛行機などが急激に降下し地面に叩き付けられる形で着陸をすることをさすということなので、あまり使うことはない言葉かもしれません。航空機事故などで、車輪が出なくて「不時着」しました、などというような状態をさすのでしょう。

宇宙開発においてもこれと同等の意味で使われるようで、軟着陸は、月や火星などの衛星・惑星に探査機や着陸船を衝撃を和らげて着陸させること、硬着陸は逆に衝突させるほどではないにせよ、なんとか無事に着陸できる状態のことをさすようです。

アポロ14号そのミッション

ということで、アポロ14号は無事に着陸したので軟着陸ということなのですが、よくよく調べてみると、かなり深刻なトラブルがあった末の着陸だったらしく、物理的にはソフトランディングであったとしても、宇宙飛行士たちの心理的にはかなりハードなランディングだったようです。

1960年代から始まったアポロ計画では、1969年のアポロ11号で初めて月面着陸に成功し、その二年後の1971年には、三度目の月着陸を目指すアポロ14号が打ち上げられ、月着陸船アンタレス(Antares)に乗った、アラン・シェパード Alan Shepard、スチュアート・ルーザ Stuart Roosa 及びエドガー・ミッチェル Edgar Mitchell の三人の宇宙飛行士が月面の周回軌道に入りました。

そして目標降下地点をみつけ、まさに月面に向かって降下中、突然月着陸船の中にあるコンピュータが着陸中止の信号を受け取りました。地球上のNASA が調べたところ、そんな指令は出でいないことがすぐにわかり、その原因を急遽調べると、それはどうやら着陸船内の着陸中止スイッチの回路から出されたものであることが判明。

しかし、宇宙飛行士の誰もが着陸中止スイッチには触れていないこともわかり、このことから、NASAのオペレーターは、着陸船の振動が回路のハンダ(半田)を剥がし、その小さなかけらなどが着陸スイッチの機械回路の中を動き回って接点をショートしたため回路が閉じたのではないか、と推論します。

そこで、オペレーターは、「スイッチの操作パネルを叩いてみろ」と着陸船に指示し、いちばん近くにいる乗員の誰かが、実際にパネルを叩いてみたところ、半田の欠けらは接点を離れたらしく、この着陸中止信号はすぐに消えたということです。

しかし仮に、この半田のかけらの問題が降下エンジンの始動後に再発すれば、コンピュータはこの信号を正しいものと判断して月着陸船の上昇ステージのエンジンを噴射し、月周回軌道に戻すシークエンスが動きかねません。

NASAのエンジニアと、このころアポロ計画のソフトウェア開発を全面的に支援していたマサチューセッツ工科大学(MIT)のメンバーなどのソフトウェア担当チームは、着陸までのごくごく限られた短い時間内でこの問題の一番確実な解決策を導くことに迫られます。

そして、コンピュータのプログラムを修正して信号を無視することを思いつき、これを着陸船に指示したため、飛行士たちはぎりぎりのところでこの修正を完了でき、なんとか無事に着陸船のエンジンを月への降下に向けて作動させることに成功しました。

このトラブルの原因は極めて低い次元のもので、対策も「パネルを叩く」というローテクで対処し、しかも頼りにしていたコンピュータプログラムを無視せざるを得なかったというこの教訓は、その後のNASAにおけるハードウェアとソフトウェア開発の両面においてかなりの影響を与えたといわれています。

ところが、アポロ14号アンタレス着陸のトラブルはこれだけではありませんでした。

エンジンを逆噴射して月面への着陸のための降下を続ける中、今度は月面に照射して照準を定めるためのレーダーが故障したのです。レーダーが正常に作動しない場合、着陸船は極端な場合大きな岩石の上に降りてしまい、機体が横転するなどの事故が起こりかねません。

このトラブルにあたってもNASAとMITの面々が地球から遠隔操作でいろんな対策を講じた結果、なんとかギリギリ着陸の直前になってレーダーは無事作動させることができ、こうしてアンタレスは無事に月に着陸することに成功しました。

アンタレスは、同じくトラブル続きで結局月面着陸を果たせなかったアポロ13号の着陸予定地だったフラ・マウロ高地に着陸し、乗組員のシェパードとミッチェルは2回の月面歩行を行い、地震計を月面に設置するなどの作業を行いました。

この装置を運ぶ際には初めて、手押し車が使用されました。これは 実験用具や標本などを持ち運ぶ手押し式のカート (Mobile Equipment Transporter, MET)であり、その後のアポロ15号の月面着陸では初めて動力で動く月面車が用いられましたが、動力はなかったとはいえ、月面を初めて「走った」車輪付きの車であり、”Rickshaw”(人力車)の愛称で呼ばれました。

2回目の船外活動では、直径300mのコーン・クレーターと命名されたクレーターの縁まで到達することを目指しましたが、二人の飛行士はクレーターの斜面の地形が起伏に富んでいたためにクレーターの縁を見つけることができませんでした。

しかも酸素が無くなりそうになったため結局引き返さざるを得ませんでしたが、その後2009年に月面探査衛星のルナー・リコネサンス・オービターが撮影した画像によれば、彼らが実際に到達していたのはクレーターの縁から約30メートルの地点だったことが明らかになったそうです。

このミッションにおいてシェパードとミッチェルは月面で様々な科学分析装置や実験装置を展開・作動させ、約45kgの月の標本を地球に持ち帰り、一方もう一人のルーザは月面に降り立つことはありませでしたが、月軌道上の司令船キティホークから写真撮影を行い多くの写真を地球に持ち帰りました。

こうした正規の任務とは別に、この辺がユーモアにあふれたアメリカ人だなと思わせるエピソードなのですが、シェパードはこの日のために特注した、折りたたみ式の特製の6番アイアンのゴルフクラブとゴルフボール2個を着陸船に持ち込んでおり、これを月面で打っています。

2つ目のボールを打った時に「何マイルも何マイルも飛んで行ったぞ」と叫んだといいますが、後の計算では実際の飛距離は200~400ヤード(約180~360m)と見積もられています。

また、ミッチェル飛行士は月面で使うスコップを使って「やり投」を行ったといい、本人曰くこれが、人類史上初の「月面オリンピック」となりました。

神との出会い?

ところで、このミッチェル飛行士なのですが、その後地球に戻る乗員との間での超能力 (ESP) 実験を独自に行うなどの奇妙な行動をとったという記録が残っており、地球に帰還後の1972年10月には、NASAと海軍を辞め、ESP(超能力)研究所を設立し、自ら所長となっています。

その後、イギリスの音楽専門ラジオ局のインタビューに答え、「アメリカ政府は、過去60年近くにわたり宇宙人の存在を隠ぺいしている。また、宇宙人は奇妙で小さな人々と呼ばれており、われわれ(宇宙飛行士)の内の何人かは一部の宇宙人情報について説明を受ける幸運に浴した」と語り、この発言にUFOマニアやゴシップ好きのテレビ局が飛びつき、一時期かなり話題になりました。

この、エドガー・D・ミッチェル(Edgar D Mitchell)という人は、1930年のテキサス州ハーフォード生まれといいますから、今年でもう83歳になられます。

カーネギー工科大学を卒業後、マサチューセッツ工科大学で航空航法学と宇宙航法学の博士号を修得しており、経歴を見る限りは立派な人であることから、いかがわしげな研究所の設立やいろいろと物議を醸し出す発言を繰り返したりしているとはいえ、UFOや宇宙人の存在を信じているという人達がこの人を持ちあげたがるのは分かる気がします。

とはいえ、ほかにも「月面で神に触れた」とか、月へのミッションにおいて「テレパシー能力が増幅されることも発見した」といった不可思議な発言も繰り返しており、アポロ14号の同僚飛行士、ミッチェルとシェパードとの間では、「何も言葉を交わさないのに、彼の考えていることが直接わかった」などと語っています。

どうやらアポロ14号による宇宙飛行がその後の彼を「狂わせてしまった」と思わせるようなふしがあり、このほかにも、「神とは、宇宙霊魂あるいはコスミック・スピリット(宇宙精神)である」とか、「宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)」なるものが存在するなどの発言を繰り返しています。

この人の頭はおかしいとか、狂っているとかいうのは簡単なのですが、調べてみると、アポロ計画によって月面に降り立ち、地球に無事に帰ってきた宇宙飛行士の中には、帰還後急に宗教にめざめたり、あるいはかなり奇矯な行動に出たり奇妙な発言をする人も多く、また精神に支障をきたした人もいるようです。

最初に月に降り立ったアポロ11号以降、そうした人を順番にピックアップしてみましょう。

アポロ11号

エドウィン・ユージン・オルドリン(Edwin Eugene “Buzz” Aldrin Jr.)空軍軍人。ニュージャージー州モントクレア出身。

月面への第一歩を船長のニール・アームストロングとオルドリンと果たした人物です。どちらが踏み出すかについてオルドリン自身に相当な葛藤があったらしく、最終的にはアームストロングの経歴がオルドリンより上であったことなどから、アームストロングが月面の第一歩を踏み出すことになりました。

あまり知られてはいないことのようですが、オルドリンはイギリスの秘密結社「フリーメイソン」のメンバーであり、月面ではこの会に由来する聖餐式(せいさんしき)を行っています。フリーメイソンは、その歴史が古代エジプトまで遡るといわれ、これも古代エジプトの神、オシリスとイシスに供物を捧げる儀式だそうです。

オルドリンは「月面に降り立った二人目の人類」という名誉を「自身の敗北」と感じたらしく、地球帰還後、うつ病を患ったといい、薬物中毒にもなり、入院を繰り返したといいます。

その後も「科学と宗教はそもそも対立するものではない」とか、「科学は神の手がいかに働いているかを、少しずつ見つけだしていく過程である」といった哲学的な発言をしており、月面に降り立つという特異な経験がその思考に何等かの影響を与えたことをうかがわせます。

アポロ14号

前述のエドガー・ミッチェル Edgar Mitchell参照。

アポロ15号

ジェームス・アーウィンジェームズ・アーウィン(James Benson Irwin)空軍軍人、牧師。
ペンシルベニア州ピッツバーグ出身。最終階級は空軍大佐。

1971年7月26日アポロ15号で月面着陸。退役後、ハイフライト基金キリスト福音教会所属牧師として世界中を歩いて布教を行ないました。

その後、第2の人生をノアの箱舟探索に捧げようと考え、トルコのアララト山標高5165mにまで出かけ、旧約聖書に記述されているノアの箱舟を探しだそうとしているといいます。

月では、「臨神体験」をしたと語っており、この人も月で「不思議体験」をしたのではと思わせますが、「神は超自然的にあまねく偏在しているのだということが実感としてわかる」といった発言には多少不自然さもありますが、ごくまっとうな人のようにも思えます。

が、キリスト教に帰依する聖職者とはいえ、ノアの箱舟探しは少し突拍子もない感じもします。

アポロ16号

チャールズ・デューク(Charles Moss Duke, Jr.)は、アメリカ空軍の准将。月面を歩いた12人の宇宙飛行士の中では最年少。

デュークは、1972年にアポロ16号の月着陸船パイロットとなり、この飛行で、彼と同僚飛行士のジョン・ヤングは3回の船外活動を行い、デュークは月面を歩いた10人目の人物となりました。アポロ17号でも月着陸船の予備乗員を務め、累計265日間もの間、宇宙に滞在し、合計で21時間28分の船外活動を行っています。

この人も宇宙からの帰還後、熱心なキリスト教徒になり、刑務所内の教会で布教を行うなど活発な活動をしています。「科学的真理と宗教的真理という二つの相克をかかえたまま宇宙に行ったが、宇宙ではこの長年悩み続けた問題を一瞬で解決することができた」と述べており、宇宙の体験と「神の存在の認識」をダブらせるような発言をしています。

…… 以上のように、月を歩いて帰ってきた彼らは不思議と「神の存在」を異口同音にとなえるようになり、これは同じNASAに属した宇宙飛行士であることから、もしかしたらNASAそのものがそうした精神世界に関する教育を彼らに施していたのではないのかと疑ってしまいます。

がしかし、無論そんなことはあろうはずもなく、だとすれば最初に「臨神体験」をしたというオルドリンが後輩飛行士たちに何等かのレクチャーでもしたか、とも考えられなくもありませんが、どうやらそういう事実もなさそうです。

月を歩くという特殊な宇宙体験が何を彼らにもたらしたのか?先端科学の諸分野の最高峰的な人材だった彼等が、何故にこれほどまでに神を語るのかについては科学的にいろいろ類推することはできます。

極度の精神的ストレスによる重圧、あるいは耐えられない精神的抑圧への自己防御としての精神的逃亡、はたまた宇宙旅行による酸欠、または酸素濃度の変化などから来る物理的な脳細胞の損傷、幻視体験といった後遺症、興奮状態からくる精神の変容といったことも考えられるでしょう。

が、科学を逸脱した考え方をするならば、彼らが月に降り立ったとき、科学を超越した何かが存在し、それを感じることで彼らの精神が変容していったということもまたありえるように思います。とはいえ、その何かについてこの項で結論づけるつもりもありませんし、また月面にも行ったことのない我々にはそれを想像することさえできません。

リーディングによって20世紀最大の預言者といわれたエドガー・ケイシーは、月は地球の水域と人体内の水との両方の活動を司っているといった意味の霊的な啓示を残しているそうです。

だとすれば、月の地面に降り立ち地面に直接触るという行為は、きっとその何等かの不思議な力を人体に及ぼすに違いありません。それによってこれら宇宙飛行士たちの精神構造に何等かの変化が起きたと考えれば、その後の彼らの数奇な人生航路の変更もわかるような気がします。

そう考えると、私自身も月へ行ったらどう変わるのかがどうしても知りたくなります。が、残念ながら生きているうちには月には行けそうもありません。月に近づく、あるいはもっと身近に感じるのは夜空のそれを眺めることしかないようです。

なので、次の良く晴れた夜を選び、月が出ていれば月光浴をしてみることにしましょう。案外と宇宙飛行士が感じたような何等かの神性を感じることができるかもしれません。

次の満月が待ち遠しくなりました。

香取の海と坂東太郎


先週末、つくば市で居酒屋を営む高校時代の同級生のところで同窓会があり、伊豆からはるばる車を飛ばして、行ってきました。さすがに道のりは遠かったのですが、久々に会った友人たちはみんな元気そうで、楽しい時間を過ごすことができました。

しかし、そこに来るはずだった友人の一人が、昨年10月に突然亡くなり、来れなかったのが残念でした。接待ゴルフで前日に酒をかなり飲み、翌日のゴルフのあと、ひとりでサウナ風呂に入ったところ、熱中症を発したらしく、あっさりと逝ってしまったのです。

同じクラスの同級生としては初めてのことだったので、結構ショックで、そのあとかなり引きずりましたが、この日集まった他の連中の明るい顔をみているとそうした悲しい気持ちも薄れてきました。

酒好きの人だったので、きっとあの世からこの同窓会にも遊びに来ていたのではないかと思います。気のせいか、この日別の友人がくゆらせていたタバコの煙の影の中に、彼の顔が見えたような気がします。

多少逝くのが早かったけれども、その死自体も彼自身がスケジュールして生まれてきたこととすれば、きっと何等かの意味を持っていたのでしょう。

それが何であるか、といったスピリチュアル的な話ができる面々ばかりでもなかったので、同窓会でそんな話もあまりしませんでしたが、帰りの車の中ではタエさんとは自然とそんな話になりました。

この友人には奥さんと大学生と社会人の二人の子供がいたのですが、かなり不和のあるご家庭であり、以前飲んだときから、さかんにそのことをぼやいておりました。

おそらくはその死をもって、その遺族たちに何かを知らしめんとしようとしたのでは云々という話が夫婦二人の車の中での結論でしたが、では我々友人たちにも何かを伝えたかったとしたら何か?を考えたとき、いろいろ思い当たることなどもあり、そうしたことをいろいろ考えながらハンドルを握っていた帰りの道でした。

さて、この帰路の行程なのですが、行きは修善寺から沼津へ出て、ここから東名高速道路を通り、都内を通過後、常磐道を北上してつくばへ到達するというルートを通ったのですが、帰りには千葉方面へ出て、東京湾アクアラインを通って帰ろう、ということになりました。

つくばからは、未完成の「圏央道」が牛久(うしく)まで通っているため、ここを通り、さらに一般道および南関東道で千葉まで出たあと、館山自動車道で木更津へ行きました。

アクアラインはここから川崎までの約15kmの大部分が海底を通る「海底トンネル」路線です。私は、これが開通した翌年の1998年(平成8年)に初めてここを通り、途中のパーキングエリア(PA)である、通称「海ほたる」に行ったことがあったのですが、タエさんにとっては初めての体験。

この日は天気もよく、残念ながら富士山は見えなかったのですが、海ほたるからは東京スカイツリーや、東京タワーほか横浜のランドマークタワーほか東京の町も良く見え、非常に気持ちのよいひとときを過ごすことができました。

羽田空港を利発着する飛行機の飛び交うなか、海鳥たちや行きかう船などを時間も気にせず、飽きずに眺めていられるというのは幸せなもので、普段あまり経験することのない「非日常」をすっかり堪能して帰ってきました。

ところで、このアクアラインの入口のある木更津から北の房総半島の大部分はその昔、海だったというのはご存知でしょうか。私もよくは知らなかったのですが、今朝そのことについていろいろ調べてみている中、そうだと知りました。

つくばから成田を通り、千葉へ抜ける間の道路の周辺は、見渡す限りの広々とした田園地帯がひろがり、はるか向こうまで遮るものが何一つない大地が広がっている場所というのも多く、そのほとんどすべてが昔は海だったというのは少々驚きです。

古くは、この一帯は「香取海(かとりのうみ)」と呼ばれていたということで、それがいつの時代かというと、1000年以上昔のことだそうです。その当時、霞ヶ浦や印旛沼・手賀沼といった水域はすべてひと続きになった広大な規模の内海だったそうで、また様々な河川が流れ込み、面積は東京湾に匹敵するほどだったといいます。

縄文時代以前のこの地には、「海面後退」が起き、ここには「侵食低地」が作られていましたが、縄文時代になってからは逆に「海進」が進み、大量の海水が流入することで海になりました。ただし、海とはいいながら鹿島灘に湾口を開く「湾」のような状態であり、ここに鬼怒川などの河川が流れ込んでいたことから、これを「古鬼怒湾」とも呼ぶようです。

縄文時代の人たちは、この香取海の周囲のいたるところに集落を造って住んでいたようで、、そうした場所の多くには貝塚が分布しており、また房総半島北東部を今も流れる「栗山川」などの水系の各所では、実に日本全体で出土したうちの約40パーセントに相当する、80例もの丸木舟の出土があるそうです。

このほか、近隣の埼玉県や茨城県でも多くの丸木舟の出土例があり、古くから水上交通を通した独自の文化圏が形成されていたのではないかと考えられています。

これより少し時代が下った古墳時代になると、多くの古墳が造られるようになりますが、これらの中にはその後水害によって消滅したものも多いものの、今なお形をとどめているものも現存しており、これらの発掘調査などから、香取海は近畿地方から東北や北海道へ向かうための中継地としての要衝の地でもあったことがわかっているようです。

「日本書紀」には、「日本武尊、即ち上総より転じて陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至る」とあるそうで、日本武尊(やまとたけるのみこと)というのは神様ではなく、天皇のような人のことをさしていると思われますが、そういった権力者がこの時代既に香取海を経由して北海道にまで渡っていることがわかります。

その後さらに奈良時代ころになると、今も下総国で第一の神社といわれる香取神社が創建されており、この香取神社の神主(大宮司職)は、中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫の大中臣(おおなかとみ)氏が務めており、平城京の摂関家藤原氏との関係も深かったようです。

なお、このころに書かれた「常陸国風土記」という歴史書には、「四面絶海にして、山と野交錯れり。居める百姓、塩を火きて業と為す」云々という記述があり、これから、この当時この地一帯の内水はすべて海水であったこともわかっています。

その後、平安時代の後半になって武士が台頭してくると、香取海は陸奥国を経て蝦夷までの北の地方を平定しようとする大和朝廷の重要軍事拠点となり、坂上田村麻呂や文室綿麻呂による蝦夷征討後は、ここを根拠地とした物部匝瑳(もののべそうさ)氏が3代に亘ってこの地の鎮守将軍に任ぜられました。

その後、この地は、「坂東武士」の始祖、平将門などの坂東平氏の根拠地となるなど歴史上の重要な舞台となりました。とくに将門は香取海を基盤に独立国家を作ろうとし、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、朝敵となりましたが、即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました(承平天慶の乱)。

その後、平安時代末期になると、前述の「香取神宮」がこの地における権益を手中にするようになり、その社領は、香取海の周辺にまで広がっていきました。

ついには国衙が持っていた権力までも香取神宮が所有するようになり、本来は神社であるがゆえに供祭料・神役の徴収するだけだったものが、これを遥かに超える「浦・海夫・関」などの権益を手にいれるようになります。つまり、香取海の港や漁民を支配し、漁撈や船の航行の権利を保障するとともに、東京湾に通じる古利根川水系に河関を設けて、通行料を徴収するようになりました。

その後の鎌倉時代には、水上交通は更に活発となり、沿岸には多くの港が作られた。香取神宮の権力はあいかわらず絶大で、常陸太平洋側から、利根川・鬼怒川・小貝川・霞ヶ浦・北浦などの内陸部、北総及び両総の太平洋側にかけてのほとんどの港は香取神宮が支配していたといいます。

香取海に流れ込む河川を通じて北関東や東京湾とも活発な交流も行い、房総沖の太平洋にまで出て海運を行っていたのではないかという説もあるようです。

続く南北朝時代には、下総津国宮津以下24津(港)、常陸国大枝津・高津津以下53津の計77の津を香取神宮が支配していたという記録もあり、河関もさらに広範囲に設けられ、これらの河関は現在の東京都内にまで及び、江戸川区東葛西や市川市の行徳など東京湾の沿岸にも河関があったといいます。

しかし、このように長く栄華を誇った香取神宮によるこの地域一帯の支配も、江戸時代になり、徳川幕府がこの世を支配するようになると、次第にその権益を失っていきました。

香取海を通じての貿易などの収入のほとんどは幕府にはいるようになり、こうしてできた金で幕府は、それまで、江戸に流れ込み、毎年のように氾濫を招いていた利根川の流路を東に向けるためのいわゆる「利根川東遷事業」を開始します。

これによりを江戸を水害から守り、流域の沼や湿地帯から新田を新たに創出し、水上交通網の確立、利根川を北関東の外堀とし、東北諸藩に対する備えとすることにしたのです。

江戸時代以前の利根川は、下総国の栗橋(現・茨城県最西部の猿島郡(さしまぐん)付近)より下流は、埼玉県内を通って、葛飾から両国あたりを流れており、途中で現在の綾瀬川流路を流れていた荒川や入間川(現在の荒川流路)と合流して江戸の内海(東京湾)へと注いでいました。

このため、江戸市中には度重なる利根川の氾濫が起こっていましたが、幕府はこの利根川を途中からその東に流れる鬼怒川方向に転じてこれに合流させ、現在の千葉県銚子市より太平洋へと流れる川とするための工事に着手しました。

この結果として、それまでの香取海の水もこの利根川に流せるようになり、このため海が干上がってこれが手賀沼や印旛沼、牛久沼となり、江戸への利根川の水の流入を少なくすることに成功しました。

また、これにより香取海と呼ばれていた一帯の淡水化が進み、当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって、干拓と新田開発が盛んになりました。また、銚子・香取海から関宿・江戸川を経由し、江戸へといたる水運の大動脈が完成しました1665年(寛文5年)。

ところが、この付け替え工事により、逆に利根川中流部の集落はひん水害に襲われるようになり、1783年(天明3年)には浅間山が噴火し、利根川を通じて火山灰が中流域に大量に流入、河水があふれ出て、周辺地域の更なる水害の激化を招く事となりました

当時の土木技術では大規模な浚渫などの抜本的な対策を取ることはできず、浅瀬の被害も深刻化し、前述の艀下船を用いても通行が困難になる場合もありました。パナマ運河工事の土量を越える大規模な浚渫が実施されましたが、結局、この浅間山噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは明治後期になってのことでした。

1899年(明治32年(1899年)になり、ようやく国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討されることとなり、こうして実施された大規模な利根川改修工事により、ようやく現在のような利根川の形がほぼ確定していくこととなります。

これらの一連の河川改修により、東北から江戸への水運には、利根川を使うことで危険な犬吠埼沖の通過や房総半島の迂回をする必要が無くなり、利根川は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展していきました。この水運路は鉄道網が整備される明治前半までは流通幹線として機能していきます。

また、この河川改修によって江戸周辺や武蔵国、常陸国、下総国などを中心として新田開発が進み、耕地面積が大幅に増加しました。こうして、かつてここにあった広大な香取海は次第に姿を消していき、今回我々が目にしたような広大な田園地帯が誕生したわけです。

今ではそこがかつては海であったとは思えないほどの広々とした大地が広がっていますが、これが人為によって造られた風景だとわかると、人間の力というのはすごい物だと改めて感じさせられます。

ところで、昨日の朝、この大地を車で通過して木更津へ向かうとき、この途中に通った圏央道からは巨大な仏像が見えました。牛久の大仏です。

ブロンズ製の大仏立像で、全高120mもあり、立像の高さは世界で3番目ですが、ブロンズ立像としては世界最大だそうで、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺によって造られました。

1989年に着工し、あしかけ4年もかかって1993年に完成しました。霊園である牛久浄苑のエリア内に造られたもので、その姿は同派の本尊である阿弥陀如来像の形状を拡大したものだそうです。

高さやく15mの奈良の大仏が掌に乗り、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある自由の女神像の3倍近くの大きさがある、地上高世界最大のブロンズ製人型建造物であり、ギネスブックにも「世界一の大きさのブロンズ製仏像」として登録されています。

残念ながら、我々はそばを通過しただけで、その足元まで行くことはできませんでした。が、ここへもし行けたら、大仏の胸部にあたる地上85mまではエレベーターでのぼる事ができるそうで、ここから周囲の景色を展望することができるようです。

おそらくここへ登れば、かつて香取海と呼ばれた地域一帯と、坂東太郎と呼ばれここを流れる雄大な利根川の姿を一望のもとにみることができたでしょうが、その景色をみることができなかったのは少々残念です。

かつて東京湾アクアラインを初めて通ったのは15年前。すると、この次にここを訪れることになるのは、2031年か…… と、そうはならないかもしれませんが、いずれにせよ、伊豆から房総半島まで行く機会もなかなかありませんから、案外とそうなのかもしれません。

さて、今日はもう立春です。2月になったことでもあり、そろそろ梅のつぼみも膨らんできました。あまり遠出ばかりせず、近場の名所も訪れてみましょう。修善寺梅林の梅が気になります。明日はお天気がよさそうなので、開花状況をちょっと見てきましょう。みなさんの町の梅はもう咲いたでしょうか

爪木崎にて ~下田市


先週、お天気が良い日を選んで、下田の「爪木崎」へ、今まっさかりという水仙を見に行ってきました。

場所は、下田の市街地から東南東へ5kmほど離れたところで、修善寺からは国道414号を通って天城峠越えで行くのが一番近いようなので、我々もこのルートで行きました。が、熱海や伊東方面からアクセスする場合には、国道135号のほうが便利です。

414号から来るルートも最終的には河津町でこの国道135号と合流し、ここから少し南下したところにある「須崎」「爪木崎」の道路標識を左折。1つ目の信号を左折し、その後、周囲を低いブッシュに囲まれた道がだらだらと続きます。

しばらく眺めはよくありませんが、これを我慢して運転しているとやがて視界が開け、駐車場とゲストハウスが見えてきます。駐車場に乗り入れると、係の人が近づいてきますので、ここで駐車料金500円を払います。終日止めていても同じ料金なので、ほかに爪木崎周辺のハイキングコースに向かう人もここにクルマを止めると便利でしょう。

ちなみに、伊豆急下田駅からはバスも出ていて、乗り場は10番、「爪木崎行き」だそうです。所要約15分で着くようですので、この週末ちょっと行ってみようかなという人で車をお持ちでない方は伊豆急+バスのコースにぜひチャレンジしてみてください。

昨年、我々も初めてここに行ったのですが、このときは少し天気が悪く曇りがちで、海もどんよりしていました。が、この日は上天気で視界もよく、陽射しがあったせいもあるのですが、さすがに下田!と思えるほどの陽気で、海岸を散歩しながら満開の水仙を鑑賞するには絶好の日よりでした。

海岸沿いの遊歩道沿いには180度の大海原が臨め、北側を見ると伊豆半島の東海岸の入り組んだ雄大な海岸線が、南に目を転じると、そこには太平洋の青い青い海原と、そこにポツポツと見えるのは、利島や新島、式根島といった伊豆七島です。

これらの島々よりもひときわ目を引くのが、神子元島(みこもとじま)という無人島で、ここ、爪木崎からは、さんさんと降り注ぐ太陽のもと、逆光になってシルエットでうかびあがっています。ほぼ中央に灯台らしいものがそびえ立っていて、これが目を引く理由のひとつでもあります。

この神子元島は、ここ爪木崎から西南西約9kmの位置に浮かぶ小島で、「静岡県」に所属する島としては、最南端の島だそうです。

ちなみに伊豆七島も静岡県に所属していると思っている人が多いようですが、その最大の島である大島も含め、すべてが東京都に属しています。

このため、言葉も静岡というよりも東京なまりでしゃべる人が多く、その風習も古き良き時代の東京のものが受け継がれているという話も聞いたことがあります。地理的には静岡のほうが断然近いのに不思議なことですが、このあたりの歴史談義はまたいずれ別の機会にしましょう。

爪木崎から南に広がる太平洋は、見るからに黒々としていて、これはいわゆる「黒潮」によるものです。ふだんは駿河湾や相模湾の比較的青々とした海の色に見慣れているので、ここにくるとその色は本当に黒く見えます。

この黒潮に洗われている神子元島には、遠目では良く確認できませんが、樹木はまったく無いそうで、その中央の岩山の頂上に立っている灯台も、白黒ストライプに着色されているのだそうです。

この灯台は、イギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントンという人の設計によるもので、この人は明治時代に政府が招いて来日したいわゆる「お雇い外国人」のひとりです。母国のイギリス(生まれはスコットランド)では「工兵技監」というお役人であり、建築家でした。

日本に来てからは、数多くの灯台設置を手がけ、技師として勤務していた7年6ヶ月の間に灯台26と、灯竿(航路標識のようなもの)を5、灯船2(横浜港、函館港)などを設計しており、これらの功績により「日本の灯台の父」とまで言われています。

その灯台26をリストアップしてみました。以下のとおりです。

納沙布岬灯台(北海道根室市)当初は木造、1872年8月15日
尻屋埼灯台(青森県下北郡東通村)煉瓦造、1876年10月20日
金華山灯台(宮城県石巻市)石造、1876年11月1日
犬吠埼燈台(千葉県銚子市)煉瓦造、1874年11月15日
羽田灯台(東京都大田区)鉄造、1875年3月15日、現在は廃灯
剱埼灯台(神奈川県三浦市)当初は石造、1871年3月1日
神子元島灯台(静岡県下田市)石造、1871年1月1日
石廊埼灯台(静岡県賀茂郡南伊豆町)当初は木造、1871年10月5日
御前埼灯台(静岡県御前崎市)煉瓦造、1874年5月1日
菅島灯台(三重県鳥羽市)1873年7月1日、煉瓦造灯台としては現役では最古
安乗埼灯台(三重県志摩市)当初は木造、1873年4月1日
天保山灯台(大阪市港区)木造、1872年10月1日、現在は廃灯
和田岬灯台(神戸市須磨区)鉄造、初点灯は1872年10月1日、1963年に廃灯。須磨海浜公園に移設保存(登録有形文化財)。
江埼燈台(兵庫県淡路市)石造、1871年6月14日、退息所は四国村に移築
樫野埼灯台(和歌山県東牟婁郡串本町)1870年7月8日、ブラントンの日本での初設計。日本最古。
潮岬灯台(和歌山県東牟婁郡串本町)木造、1870年7月8日 仮点灯、1873年9月15日 初点灯
友ヶ島灯台(和歌山県和歌山市)石造、1872年8月1日
六連島灯台(山口県下関市)石造、1872年1月1日
角島灯台(山口県下関市)石造、1876年3月1日、日本での最後の仕事
釣島灯台(愛媛県松山市)石造、1873年6月15日
鍋島灯台(香川県坂出市)石造、1872年12月15日、退息所は四国村に移築
部埼灯台(福岡県北九州市)石造、1872年3月1日
白州灯台(福岡県北九州市)当初は石造、1873年9月1日
烏帽子島灯台(福岡県糸島市)鉄造、1875年8月1日
伊王島灯台(長崎県長崎市伊王島)当初は鉄造、1871年9月14日
佐多岬灯台(鹿児島県肝属郡南大隅町)鉄造、1871年11月30日

どうでしょうか。ご存知の灯台も多いのではないでしょうか。私もこのうちのいくつかに実際に行ったことがあり、とくにブラントンの日本での最後の最後の作品である、山口県の角島灯台には、海水浴ついでに3回ほど行ったでしょうか。

しっかりとした石造りで、西洋の砦を思わせるような重厚なその姿は130年以上も経った古い灯台とは思えないほどのものす。

水仙の話から少し逸れてしまうのですが、このブラントンという人の経歴について少し書いておきましょう。

この人は、1841年のスコットランド生まれで、この年は日本では天保12年にあたり、同じ年に伊藤博文が生まれています。英国海軍の艦長の息子としてアバディーンシャー州キンカーデン郡に生を受け、当初は鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に関わっていました。

このころ日本では幕末から明治を迎える時代であり、富国強兵のためのさまざまなインフラ整備が必要となったため、諸外国からお雇い外国人を招き、先進国の技術の導入を図ろうとしていました。

陸海の交通網の整備もその重要分野のひとつであり、とくに海路の拡充は外国との貿易を勧める上においては最重要課題でした。

しかし、諸外国から来日する船の多くは、満足な測量も行われていない日本の港湾に入港することを不安に感じており、また、沿岸に近づく際に浅瀬に乗り上げて座礁する船も相次いだことから、日本の各地の沿岸に灯台を設置することをそのころの江戸幕府に強く求めました。

このころの日本には、まだ光達距離の短い灯明台や常夜灯ぐらいしか設置されておらず、しかも航路標識の体系的な整備が行われていなかったため、諸外国から「ダークシー」と呼ばれて恐れられていました。

このため、1866年(慶応元年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ改税約書、いわゆる「江戸条約」では8ヶ所、その翌年の1867年(慶応2年)にイギリスと結んだ「大坂条約」で5ヶ所の灯台を整備することが定められ、これら13の灯台は「条約灯台」とも呼ばれており、現存するものも多くあります。

この条約は維新後にも受け継がれ、明治政府はこのため、この分野を得意とする技術者の紹介をイギリスに打診したところ、スコットランド地方に灯台の設計では有名なスティーブンソン社という会社を経営している兄弟がおり、イギリス政府は彼らが灯台の設計を請け負っているという回答を送ってきました。

この兄弟は多忙だったためか、結局その来日は実現しませんでしたが、このスティーブン兄弟を介し、日本の明治政府への派遣が推薦され、灯台技師として採用されたのが、チャールズ・ブラントンでした。

1868年(明治元年、慶応4年)2月、正式に明治政府から採用されたブラントンは、お雇い外国人としては第1号でした。そもそもは鉄道技師であったため、訪日にあたって灯台建設や光学、その他機械技術を、短期間の内に英国内で実地に体得したといいます。

妻子及び助手2人を伴って来日したのはブラントがまだ26歳のときであり、戊辰戦争が終わった直後のことであり、江戸はまだまだ混乱の最中にあったであろうと想像されます。

しかし、ブラントンはこの時から1876年(明治9年)までの8年間の日本滞在中、明治政府の期待に答えて精力的にその任務をこなしつづけ、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに上述の多くの灯台や灯竿、灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げました。

さらには、灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだといい、灯台以外でも、ブラントンは多くの功績を草創期の近代日本にもたらしました。

その中には、日本初の電信架設(1869年(明治2年)、東京・築地~横浜間)のほか、幕府が設計した横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し、街路を整備したのも彼でした。

また、ブラントン自身がもともとは鉄道技師であったことから、日本最初の鉄道建設についての意見書も提出しており、同じくお雇い外国人だったオランダの土木技師のローウェンホルスト・ムルデルらとともに大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を出しています。

このほか、現在の横浜スタジアムのある横浜公園もブラントンが設計したものだそうで、この公園の中の日本大通に続く入口近くには、台座に「リチャード・ヘンリー・ブラントン Richard Henry Brunton 1841-1901」の銘板のある胸像も置かれており、横浜市民に親しまれています。

ブラントンは1876年(明治9年)、35歳のとき、明治政府から任を解かれ帰国しましたが、英国で彼は、論文「日本の灯台 (Japan Lights) 」を英国土木学会に発表、賞賛を受けています。

その後は建築家として、建物の設計及び建築に携わり、その晩年には、「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」を記しておおり、これは仕事の合間に書きためた原稿だそうで、これをまとめ終えて程なく世を去っています。1901年(明治34年)、59歳没。

10年に渡る日本の状況や日本人の生活がどんなものだったかはこれを読むと詳しくわかるのでしょうが、それを転載する暇も元気も今日はないのでブラントンに関する記述はこれくらいにしておきましょう。

そのブラントンが造った神子元島灯台は、1871年1月の初点灯以来、伊豆半島沖を往来する船舶に光を放ち続け、今なお当時の姿を残す石造り様式灯台として国の史跡に指定されています。

その着工は1869(明治2)年のことであり、それから1年9ヶ月の歳月と多額の経費がかけられて掛けられて1871年(明治4年)の1月1日完成。今年でなんと142歳のおじいちゃん(おばあちゃん?)灯台になります。

点灯式には当時の太政大臣三条実美をはじめ、大隈重信、大久保利通などの顔ぶれが並んだといい、神子元島は現在人も住めないような岩島ですが、灯台が出来てからは昭和7年までは灯台守が常駐していたそうです。

歌人・若山牧水は大正2年にこの島で灯台守をする友人を訪ね、その時のことを歌集「秋風の歌」に収めているといい、現在もそうですがこの当時からその姿は下田を訪れる人々にとっては耳目を集めるものだったに違いありません。

その後灯台守は10日交替制になり、昭和51年からは巡回保守の無人島となっているということですが、下田の沿岸から近いこともあり、島の周辺は磯釣りやダイビングのスポットになっていて、島に上陸する人も割と多いようです。

灯台の近くには官舎や倉庫が残されているそうで、ここへ行けばこの島で生活をしていた灯台守の生活を垣間見ることができるかもしれません。

そんな神子元島を遠目に眺めつつ、潮風を感じて歩いた爪木崎でしたが、その大自然を感じさせる景色はやはり素晴らしいものでした。

ここの水仙は、実は昨年の暮れからもう咲き始めているそうで、昨年の12月20日から、昨日の1月31日までが「爪木崎水仙祭り」の期間だったようです。

期間中、爪木崎名物の鍋「いけんだ煮みそ鍋」を無料で振る舞うサービスや、下田海中水族館からやってきたペンギンのパレード、地元の有志による演舞、下田太鼓の実演などの催しもあったようですが、それも昨日で終わってしまったようです。

しかし、今年は例年よりも約2週間も開花が遅れているそうで、むしろ今のほうが見頃のようです。下田市の観光協会さんのホムペにも2月上旬まで十分楽しめるのではないかと書いてありました。なので、この週末でもまだ間に合うと思います。少し早い春を感じたい方、梅はまだまだこれからのようですから、伊豆まで行ってみましょう。

ちょっと前にアナウンスした、この付近一帯のあちこち咲く「アロエ」の花も今年はやはり遅れているようで、この爪木崎公園にたくさんの植えてあるアロエの花壇にもまだ多くの花が残っていました。

そのアロエの花には甘い蜜が出るようで、これを目当てにしたメジロやヒヨドリがその花々の間を飛び交っていましたが、これをまた写真に収めようとする観光客がメジロの周りを飛び回っていました。

私もその一人となり、パチリと撮ったものを最後にひとつ添えましょう。園内を歩くとほのかに水仙の甘い香りが楽しめ、飛び交うメジロの姿を見ているとまるで春が来たかのような気分になれます。

水仙やアロエ、メジロだけでなく、暖かく風もない日を選んで、のんびりと静かな下田の海を眺めるのもまた良いものです。明日土曜日は少し天気が崩れるようですが、日曜日には回復するようです。みなさん、ぜひ下田へいきましょう!

南極より愛をこめて


今から56年ほど前のちょうどいまごろ、日本で初めての南極観測隊が、南極の東北沿岸に到着、のちに「昭和基地」となる場所に設営を始めました。

正確には、1957年1月29日、東京大学の教授で地球科学が専門の永田武を隊長とする53名の第一次南極隊が、観測船「宗谷」で南極の東北沿岸、大陸から約4キロメートル離れた「東オングル島」付近に上陸。ここを、「昭和基地」と命名し、この年の冬からの越冬に備え、基地の建設を開始しました。

この「昭和基地」という名称は、29日のその日に宗谷から無線によって日本に打診され、1月31日には政府でこれを正式名称とすることが決定され、その翌日の2月1日から本格的に建設が始まりました。

現在に至るまでこの基地は拡張を続けながら存続しつづけており、昨年の11月には、第54次南極観測隊が日本を出発し、12月20日に南極大陸の昭和基地に到着しました。

第54次南極観測隊は、今年3月下旬に帰国するまで約3ヶ月にわたって南極に滞在し、従来からの観測を踏襲し、昭和基地とその周辺の大陸沿岸部での気象観測や電離層観測のほか、海洋物理・化学観測、測地観測など多くの研究観測を行なう予定です。

白瀬中尉による南極探検

この昭和基地の歴史は、ほぼそのまま日本の南極観測の歴史でもあります。

が、これに先立つほぼ半世紀ほど前の1910年にも、日本の陸軍軍人で南極探検家の白瀬矗が開南丸で東京から出航し南極探検をおこなっています。

白瀬隊は、日本が明治時代として近代国家になって初めて南極に派遣された「探検隊」で、白瀬自身は、「陸軍中尉」の肩書を持つ軍人ではありましたが、隊員28名は、朝日新聞上で「身体強健にして係累なきもの」を資格として募集された者たちであり、300人もの応募者の中から決定された民間人でした。

この探検は、1910年(明治43年)に、白瀬らの有志が「南極探検に関する請願書を帝国議会へ提出して派遣を請願したものですが、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出しませんでした。

このように政府の対応は冷淡でしたが、白瀬隊の雄図に国民は熱狂し、渡航に必要とされた費用14万円(色々な価値換算基準があるが、一説では現在の3800倍として約5億円)は国民の義援金によってまかなうことができました。

しかし、船の調達も難航し、そのための予算も2万5千円程度(同約1億円)にすぎなかったため、積載量が僅かに204トンという木造の帆走サケ漁船にわずか18馬力の蒸気機関を取り付けるなどの改造したものが探検船として使われることになり、この船は、東郷平八郎によって「開南丸」と命名されました。

極地での輸送力は、雪上車のようなものがある時代であるわけではなく、29頭の犬だけであり、探検隊の装備も、極寒に耐えるために毛皮中心であるなど、現在のものとは比較にならいないほど貧相なものだったということです。

1910年7月には、大隈重信伯爵を会長とする南極探検後援会が発足。こうして、日本初の南極探検船は、翌年の2月26日に南極大陸西南部(注:南極大陸の「北」は南アメリカ大陸南部方向。南はオーストラリア方向)にある、ロス海へと到達し船を進めましたが、すでに南極では夏が終わろうとしていたため途中から引き返し、越冬のためオーストラリアのシドニーへ寄港します。

11月中旬にシドニーを出航し、翌年の1911年1月16日、ついに大陸最南部付近のエドワード7世半島を経由して南極到達に成功します。このとき、「開南丸」はクジラ湾のロス棚氷でロアール・アムンセンを中心とする南極探検隊の南極点到達からの帰還を待つ「フラム号」と遭遇しています。

開南丸から7名から成る「突進隊」をロス棚氷へと上陸させましたが、貧弱な装備のために探検隊の前進は困難を極め、28日に帰路の食料を考え、南極点まで行くことは断念。そして、南緯80度5分・西経165度37分の地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、隊員全員で万歳三唱したといいます。

同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋め、日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言しました。その後、第二次世界大戦の敗戦時に、日本はこの地の領有主張を放棄してしまっていますが、この地点は棚氷であり、領有可能な陸地ではないことが後に判明しています。

この突進隊の探検が続いている間、開南丸はエドワード7世半島付近を探索しており、この結果新たに発見された湾に、「大隈湾」や「開南湾」という名前を命名しています。

白瀬隊が名付けたこの「開南湾」や「大隈湾」などの地名は、現在でも南極条約のもとに公式なものとして採用されており、「大和雪原」も公式に認められているようですが、なぜか各国が出版している地図からはこの名称は消えているそうです。

これは、白瀬隊の探検の後、アメリカなどの探検隊がこれらの場所に別の英語名を名付けたとき、日本政府が何の抗議もしなかったためのようです。結局のところ、アメリカの譲歩により元の日本名が正式名として認められたようですが、国際的な舞台ではいつも強い主張ができない日本の悪い面が出た一例といえるでしょう。

白瀬隊はその後、アレクサンドラ王妃山脈付近を探索した後、開南丸に乗って日本へ向けて出航しようとしましたが、いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなりました。

無論、その多くはかわいそうに死んでしまいましたが、このうちの6頭は「生還」という記録があるようです。これは別の国の探検隊がその後の探検の際に救出したのだと思われますが、この項を書くにあたっては、これに関する詳しい記事は見つけることができなかったのでよくわかりません。

が、いずれにせよ大多数の犬を失ったことで、隊員たちの落胆は相当なものだったようで、しかも参加していた樺太出身のアイヌの隊員2名は、犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に北海道で民族裁判にかけられ、有罪を宣告されたと伝えられています。

一行を乗せた開南丸は、ウェリントン経由で、無事日本に帰国していますが、そもそもこの遠征隊には内紛が絶えませんでした。シドニーに滞在して、南極を目指す準備をしていたころから、仲間同士でのいさかいがたびたび起こっており、隊員による白瀬中尉の毒殺未遂事件が起きたとさえいわれているようです。

帰国に際し、ウェリントンに戻るころには、白瀬隊の内紛は修復出来ないほど悪化しており、白瀬と彼に同調するもの数人は、開南丸ではなく汽船で日本に帰ってきたといいます。とはいえ、その他の白瀬隊の多くは、開南丸に乗って、1912年6月20日に無事に芝浦に帰還しました。

昭和基地の建設

その後、日本人による南極探検、もしくは南極観測は40年以上も行われませんでしたが、前述のとおり、第二次世界大戦後の1956年、長い空白を破って第1次南極地域観測隊が南極観測船の宗谷で南極へ向かい、昭和基地を開設しました。

日本が、南極観測を行うようになったきっかけは、1950年代、アメリカの地球物理学者で南極の電離層の研究をしていたロイド・バークナー(Lloyd Berkner)によって提案された、南半球の高緯度地域の高層気象データの蓄積を勧めるための「国際極年」でした。

国際学術連合(ICSU)は、これを極地以外の総合的な地球全体の物理学観測の計画にまで拡張し、これに答えるかたちで70を超える国立またはそれに相当する機関が協力し、「国際地球観測年委員会」が組織され、実行に移されました。

この「国際地球観測年」が提案された1951年(昭和26年)、日本はまだGHQの統制下にあり、独立を回復していなかったため、日本はこれに参加することで国際的地位を認めてもらおうと考え、参加を表明します。

当初、日本独自の技術で赤道観測を行う予定でしたが、日本が観測をしようとしていた土地(これがどこだったのか何を調べてもよくわかりませんが)の予定地の領有権を持っていたアメリカは、ここで自国で観測を行うという理由で、日本側に丁重とはいえこれを拒否する回答を送ってきました。

どこだかわかりませんが、おそらくは軍事的な要衝地か何かだったのでしょう。

このため、やむなく日本は、国際地球観測年で国威を発揚する場所を「南極」に変更することに決め、ちょうど1955年2月に組織された12か国による共同南極観測に参加させてもらうことにし、これに加わった結果として計画されたのが、この第1次南極地域観測でした。

本来は二ヶ年、2次の観測隊を送るだけで終了する予定でしたが、準備期間が短かすぎ、1955年に開始する予定だった観測は、観測船に予定されていた「宗谷」も旧船を急ぎ改造したものであり、このため十分な装備を整えることができずに断念しました。

さらにこの観測では当初、観測隊出発まで基地の場所さえは決まっておらず、その決定は隊長に一任される予定であったといい、今で考えると考えられないようなずさんな計画でした。

こうして、ともかくも一年をかけて準備をし直し、翌1956年末に出発した南極観測船「宗谷」に乗船した、前述の永田武隊長が率いる第1次南極観測隊53名は、翌年の1957年1月29日に東オングル島に到着。ここを「昭和基地」と命名します。

2月1日から建設が始まり、隊長の永田以下の大部分の隊員が宗谷に乗って離岸する15日までには、「観測棟」が4つ完成しました(うち1つは発電棟)。

南極に残ることになったのは、西堀栄三郎副隊長兼越冬隊長以下であり、この11名が日本人としては初めて南極で6月以降の「越冬」をすることになりました。

樺太犬

ちなみに、日本の夏は、あちら南極では対極の真冬となり、最も寒い8月では、平均気温が-19.4度、最高平均気温でも-15.8度であり、最低平均気温にいたっては-23.3度、過去における最低気温の記録は-42.2度という極寒の世界です。

日照時間は、6月にはゼロとなりますが、7月には4.8時間、8月でも64.1時間であり、このような寒いよ~、暗いよ~、怖いよ~?という場所は、世界でも最も過酷な生活環境といえます。

案の定、この1次隊は、観測器具が凍りつくなどの極度の困難が続いて観測どころではなかったといい、このときに輸送などで活躍し、隊員の大きな励ましにもなったのが犬橇などの荷益のために一緒に連れて行った樺太犬だったといいます。

このとき、11名を残して離岸し、無事日本へ向けて帰港したはずだった「宗谷」も、その後分厚い氷に完全に閉じ込められ、当時の最新鋭艦だった旧ソ連の「オビ」号に救出されています。

第一次隊が南極で越冬後、その翌年の1958年には、1次隊でも隊長であった永田武が再び第2次観測隊を率い、第一次越冬隊員の帰還と、第二次越冬隊員の派遣を実現すべく、前回と同じく「宗谷」によって昭和基地をめざしました。

しかし、このときは、深い岩氷に挟まれたため、宗谷は昭和基地近くの沿岸への接岸を一旦断念。遠く離れた場所に接岸し、ここから第二次越冬予定隊員たちが陸路(氷上)で昭和基地をめざしました。

しかし、宗谷の接岸がなければ一冬を越せるだけの十分な物資の補給もままならないため、天候の悪化もあいまって、第一次越冬隊と第二次越冬隊の全隊員が、いったん、飛行機とヘリコプターで昭和基地から脱出しました。

このとき、第一次越冬隊員と一緒に昭和基地入りした犬のうち15頭はその後の越冬活動のためとして残されてしまいます。越冬隊員らは犬たちの救出のため、昭和基地への帰還を希望しましたが、天候はその後も回復せず、永田は越冬不成立を宣言。結局犬たちは、置き去りにされることに決まりました。

このあたりの逸話を映画化したのが、1983年(昭和58年)夏に公開された「南極物語」であり、南極大陸に残された兄弟犬タロとジロと越冬隊員が1年後に再会する実話を元にドラマチックに描いたフィクションとして描かれ、大ヒットしました。

この映画は、フジテレビが企画製作、学習研究社が半分の製作費を出資して共同製作したもので、日本ヘラルド映画と東宝が配給。北極ロケを中心に少人数での南極ロケも実施し、撮影期間3年余をかけ描いた大作映画でした。

フジサンケイグループの大々的な宣伝が効を奏し、少年、青年、成人、家庭向けの計4部門の文部省特選作品となり、映画館のない地域でもPTAや教育委員会がホール上映を行い、当時の日本映画の興行成績新記録となる空前の大ヒット作品となりました。

その後何度もテレビ放送され、一昨年にもキムタクこと、木村拓哉さんが主演で「南極大陸」としてリメイクされたのを見た方も多いでしょう。

ちなみに、この1958年公開の南極物語のキャッチコピーは、「どうして見捨てたのですか なぜ犬たちを連れて帰ってくれなかったのですか」だそうで、物語の哀感を訴えたいという気持ちはわかるものの、キャッチコピーとしてはちょっと……というかんじですね。時代を感じさせます。

さて、このように1次、2次と多くのトラブルを伴った日本の南極観測隊ですが、当初2次で終了する予定であったものが、2次観測がこうして悪天候により不成立になってしまったため、3次まで延長され、1年後に第3次越冬隊がふたたび昭和基地に到着します。

このときタロジロが発見されて話題になったわけですが、このときに派遣された宗谷には、第三次観測隊のための大幅な改装が施され、大型ヘリコプターによる航空輸送力の強化に力が注がれており、気象状況の悪化により宗谷が基地に接近できない場合でも人や物資の充分な輸送が可能となりました。

3次観測隊が派遣された1959年1月から3月までの間には、観測隊を運んだ宗谷内には、はじめて「宗谷船内郵便局昭和基地分室」も置かれたそうです。

当初、二次だけで終わる予定であった南極観測は、3次観測隊が送られた結果、結局その後も観測は続けられることが決まり、1960年には、第4次観測も実現、越冬が実施されました。

福島ケルン

ところが、この年の10月、この第4次越冬隊員の一人の福島紳氏(当時30才)が遭難し、日本の観測隊における初めての死亡者となりました。その経緯は次のとおりです。

第4次越冬隊の犬係の吉田栄夫は、オーロラ観測係の福島の協力を得て、ロープで係留していた樺太犬にエサを与え、その後二人は、海岸にある橇を固定するため、昭和基地を離れました。

このとき、天候が悪化し、ブリザードが正面から吹き付けるような状態となり、視界はゼロに等しく、結局二人は橇に到着することができず、方向を誤ったと判断した福島は、橇の点検をあきらめて、昭和基地へ戻ろうとしますが、方向を見失ってしまいます。

吉田は、なんとか昭和基地近くの岩まで到達しますが、このとき福島とはぐれたことに気付き、必死で昭和基地にたどり着くと、すぐに仲間とともに福島の捜索に向かおうとしました。

ところがこのとき、不運にももうひとつの遭難が起きており、その遭難救出のために他の隊員が出払っていたため、昭和基地には村石幸彦という隊員一人しかいませんでした。

福島が遭難する3日前、ベルギー隊の6名がセスナ機で昭和基地近くまでやってきたのち、天候が悪化し、ブリザードのためにセスナ機を飛ばせず、ベルギー隊は昭和基地からやや離れた場所にテントを張って宿営していました。

このベルギー隊のうち二名は、激しいブリザードが吹き荒れる中、昭和基地へ助けを求めるためにテントを出ますが、途中で遭難してしまいます。テントに残ったベルギー隊から無線による救援要請を受けた第4次越冬隊は、捜索隊3班を編成し、行方不明になった二人の捜索へ出ました。

ベルギー隊の遭難は福島らの遭難とほぼ同時に起きており、吉田が昭和基地になんとか辿り着いたとき、村石隊員以外全員の隊員がベルギー隊の捜索のために出払っていたのです。

ベルギー隊を捜索中の越冬隊員たちは、福島が遭難したことを知ると、ベルギー隊を支援しつつも福島の捜索も開始。一方、福島の捜索に出た吉田と村石の二人は、再び激しいブリザードのため再び方向を失い、ふたりは二次遭難を避けるために雪原に穴を掘ってビバークして夜をすごしました。

ところが、遭難していたベルギー隊の二人は、その夜自力で昭和基地へ到着していました。翌日、午後三時にはブリザードがおさまったため、吉田と村石も基地へ帰還。第四次越冬隊は、ベルギー隊のセスナ機で、上空から福島を探しましたが、発見できず、日本の南極地域観測統合推進本部は、1960年10月17日に福島新の死亡を決定しました。

福島隊員の遺体は、この8年後の1968年に、基地より約4 km離れた西オングル島で発見されています。

遭難地点には、このときの越冬隊によってケルンが建てられ、このケルンは「福島ケルン」と呼ばれ、1972年に締結された、「環境保護に関する南極条約議定書」では、「南極の史跡遺産」に指定されたそうで、日本としても、「南極史跡記念物」に指定され、今も大事に守られているそうです。

日本の南極観測の長い歴史において、死亡したのはこの福島隊員ひとりであり、その死は悼まれましたが、以後、死亡事故が起こっていないのは、このときのことを教訓として万全の安全体制がとられているからであり、このほかにも連れて行った犬たちが不慮の事故で死ぬといった痛ましい事故は起こっていないようです。

その後、当初2次で終了するはずだった南極観測隊は、結局5次まで延長され、さらに再延長を求める声が高まりました、「宗谷」の老朽化により、1961年出発、1962年帰還の第6次観測隊からは日本の南極観測は中断。この第6次観測では越冬も行われず、その後昭和基地は再び閉鎖されてしまいました。

しかし、その4年後、1965年に最新鋭の南極観測船「ふじ」が竣工し、同時に第7次観測隊が編成され、この年から越冬が再開。その後、1983年(昭和58年)の第25次観測隊および越冬隊の編成時に、観測船はさらに初代の「しらせ」に変わりました

この「しらせ」のネーミングは、言うまでもなく、日本人として初めて南極大陸の探検を行った白瀬中尉にちなんでいます。

1973年(昭和48年)9月日には、昭和基地は国立極地研究所の観測施設となり、以後、国立極地研究所が独立行政法人となった現在まで毎年観測隊が編成され、観測が続けられています。

その後、砕氷艦「しらせ」の老朽化により、観測活動の継続に支障が懸念されましたが、2006年に舞鶴で後継艦の二代目「しらせ」が建造され(2009年(平成21年)5月完成)、同年の第51次南極観測隊および越冬隊からその運用が開始されています。

現在の昭和基地

昭和基地は現在、天体・気象・地球科学・生物学などの天文学、地球物理を総合的に観測するための施設として、大小60以上の棟から成る一大基地になっています。

この中には3階建ての管理棟が含まれるほか、居住棟、発電棟、汚水処理棟、環境科学棟、観測棟、情報処理棟、衛星受信棟、焼却炉棟、電離層棟、地学棟などなどの最新鋭の患側装置を備えた観測棟が連なり、このほかにも、ラジオゾンデを打ち上げる放球棟があります。

荒天時は使用しない特殊な棟を除き、各棟は渡り廊下で接続されており、れは、他国の南極基地で3 m離れた別棟のトイレに向かった隊員が悪天候で遭難死する事故があり、このような事故を防ぐためだといいます。

多くの建物は木造プレハブ構造で、大手住宅メーカーのミサワホームが製造したものが使用されているということで、およそ生活する上においては日本で居住しているのと変わらないほどの設備がそろっており、大型受信アンテナ、燃料タンク、ヘリポート、太陽電池パネルが装備されているほか、貯水用(貯氷用)のダムまであるそうです。

医務室、管理棟、厨房、食堂、通信室、公衆電話室、図書室、娯楽室などの中枢施設は、このうちの管理棟内にあり、医務室には手術が行える設備がありますが、実際は非常時用で手術例はほとんどないといい、重要な手術は「しらせ」などの観測船の船内で行われるようです。

南極観測隊の発足の当時に資材の運搬用に導入された樺太犬など犬ぞり用の犬は、その後環境保護に関する南極条約議定書により生きた動物や植物等の南極への持ち込みが禁止されたため、現在はいないそうです。

かわりに、全天候型の雪上車が導入され、現在南極観測隊で使用されている「SM100S」シリーズは、車両重量は11トン、稼動時マイナス60℃、未稼動時マイナス90℃の耐寒性能を持ち、3800mの高地で使用可能といい、最大牽引は約21トンと世界的にも特筆される性能を持っているそうです。

現在、南極地域観測隊員は約60名で、そのうち約40名が越冬します。翌年度の隊が来た観測船で前年の越冬隊が帰国するため、基地には常に人がいることになり、越冬交代式は近年通常2月1日に行われるそうです。隊員の多くは国家公務員の男性ですが、専門技能を持った民間企業の社員や、「みなし隊員」として民間企業出向の女性も派遣されています。

ちなみに、昭和基地を含め、南極大陸には現在永住している人はいないそうです。しかし多くの国が恒常的な基地を大陸上に設置しており、多くの研究者が科学的研究関連の業務に従事しています。

その数は、周辺諸島を加えると冬には約1000人、夏には約5000人程が常駐しているとのことで、多くの基地には1年を通じて滞在し越冬する研究者もいるということです。ロシアのベリングスハウゼン基地には、2004年に正教会系の至聖三者聖堂が置かれ、年度交替で1-2人の聖職者が常駐しているといいます。

これらの多くの「南極の住人」は、「南極光」とも呼ばれるオーロラを常に目にしていることでしょう。太陽風のプラズマが地球の大気を通過することで発生する光学現象であり、このほかにも、太陽光の異常屈折がもたらすグリーンフラッシュといわれる現象や、細氷(ダイヤモンドダスト)といった、極寒の地ならではの現象もみることができるといいます。

ダイヤモンドダストは、晴天か晴天に近い時に発生するため、「天気雨」の一種と考えられているそうで、これに伴って「サンピラー(sun pillar)」という現象がおこることもあるとか。

これは大気光学現象の一種であり、日出または日没時に太陽から地平線に対して垂直方向へ炎のような形の光芒が見られる現象だそうで、実物はもっとすごいのでしょうが、写真で見ただけでもすごい現象のようです。

最近は、こうした研究者のみならず、一般人も南極に行くことのできるツアーもあるようで、それなりの旅行料金は取られるのでしょうが、こうした誰でもみることができるわけではない現象を見ることができるのなら、ちょっと行ってみたい気はします。

とはいえ、おそらく一生、南極など行く機会はないでしょうが、それでも生きているうちに月や火星に行くことができる確率よりははるかに高い確率でそのチャンスはめぐってくる可能性は残されています。私が大金持ちになる確率のほうが高いでしょうが……

さて、今日は、まだまだ、寒い中、何を思ったかこれより寒い南極についての話題を書いてきましたが、いかがだったでしょうか。

暑いときには逆に暑いものを食べるとバテないといいますが、寒いときには寒いなりに温かいものを食べたほうがよさそうです。

先日から私の風邪をもらってしまい、寝込んでしまったタエさんのため、今日は(も)鍋にすることにしましょう。鍋ときどきカレー、ところによりおでん……です。ちなみに昨夜の我が家はカレーでした。みなさんの今夜の御献立はなんでしょうか。

ボーイング 929 ~伊東市

先日、伊豆にも雪が降りましたが、それ以降は安定した天気が続き、ここのところほとんど毎日、富士山がよく見えます。

まだまだ1月なので、雪が降るとしてもまだまだこれからだな、と思ってカレンダーを見ると、なんともうすぐ1月も終わり、2月です。

冬季の降雪量は、関東甲信越、東海地方とも、1月よりも2月のほうが多いのが通例のようですから、これから2月に入ってもまだまだ雪が降るかもしれません。

雪の多い地方の人や東京の人たちにとっては、あまりありがたくないかもしれませんが、ここ伊豆では雪が降ることのほうが珍しいので、私としてはむしろ望むところです。

先日伊豆にもたらされた雪でも、かなり綺麗な雪景色が見られ、このときには達磨山に登ってきたのですが、絶景でした。まだ、そうした写真は整理していませんが、また良い写真ができたら、またこのブログでもアップしましょう。

さて、先日、ボーイング787についての記事を書きましたが、その後、事故原因の究明についてはさっぱり報道されなくなりました。787が乗り入れている路線を利用している人たちにとってはやきもきするばかりの状況が続いていると思いますので、一日も早い解決を期待したいところです。

ところで、こうした航空機の製造で世界最大のメーカーであるボーイング社ですが、飛行機ばかりではなく、船舶の製造開発もしているというのをご存知だったでしょうか。

「ボーイング929」というのがそれで、まるで航空機の名前のようですが、これは水上を高速で走るいわゆる「水中翼船」と呼ばれる船です。

旅客用はジェットフォイル (Jetfoil) という愛称で呼ばれることが多いようですが、軍用のものもあり、こちらも同じくジェットフォイル、またはその用途のためにミサイル艇などと呼ばれています。

水中翼船全体の総称は、ハイドロフォイル(Hydrofoil) といい、これは推進時に発生する水の抵抗を減らす目的のため、船腹より下に「水中翼」(すいちゅうよく)と呼ばれる構造物を持った船のことをさします。

それではここで、ざっと水中翼船についてざっと述べておきましょう。

全没翼型と半没翼型

いわゆる「排水型」と呼ばれる、喫水線以下の船体が水中に沈み込む一般の船では、速度に関係なく浮力を得ることができますがが、水による大きな抗力から逃れることはできません。

船が進むときに水から受ける「抗力」は速度の二乗倍で増加するため、スクリューで船を推進させる場合には、機関の出力を大きくしても40ノット(時速約74km)あたりで頭打ちとなります。また、全長に対し全幅を極端に狭くする必要もあり、船の最大の利点でもある積載性をも殺ぐ結果となります。

そこで、従来の船よりもさらなる高速な船ができないかと研究が始められた結果、水との接触面を極端に少なくでき、抵抗を揚力に結びつける効果の高い水中翼船が開発されました。

この水中翼船は、低速で水上を航行する際には船体を水面下に浸けて航行しますが、高速航行をする際には、水中に設けられた「水中翼」の角度を上向きにすることで、この水中翼から「揚力」を得、これによって船体を海面上に持ち上げ、水中翼のみが水中に浸っている状態にします。そしてこれにより、水による抗力を大幅に小さくできます。

水中翼船には構造や推進方式が様々あり、構造上の分類では、高速航行時に水中翼の一部が水面上に出る「半没翼型水中翼船」と、水中翼の全てが水面下にある「全没翼型水中翼船」とに大まかに分けられます。そして、前述のボーイング929はこの「全没翼型水中翼船」になります。

さらに全没翼型水中翼船には、単胴型と双胴型がありますが、単胴型の全没翼型水中翼船がこのボーイング929であり、日本では川崎重工業の子会社・川重ジェイ・ピイ・エスがボーイング社のライセンスを取得して製造をしており、また、双胴型の全没翼型水中翼船には、三菱重工が開発した「スーパーシャトル400」などがあります。

全没翼型は半没翼型と比較して安定性に劣るとされており、これは、半没翼型の場合は、多少震動が多いものの、特に水上に出た水中翼の制御をしなくても安定した浮上がなされるのに対し、全没翼型では、翼が水中に没する翼部分が多くて水の抵抗が強いため、そのような自律性があまり期待できないためです。

また、半没翼型の水中翼には大きく上横に反り上がるような補助翼を設けることができ、これによって荒天時などには横揺れに対する復元力が確保できるのに対し、全没翼型は翼が水中に没しているのでこうした小細工ができません。

さらに、半没翼型は水の抵抗が少ないため、低燃費での高速航行が可能であり、こうした全没翼型よりも数々の優れた面が評価され、水中翼船の開発当初は、半没翼型のほうが主流でした。

しかし一方では、波の影響を受けやすい半没翼型は、乗り心地という点に関しては全没翼型に劣ります。また、少々複雑な水中翼であることからそのメンテナンスなどのための維持コストが高いのが難点です。

主流となった全没翼型929

このように欠点はあるものの、特に水中翼に関しては特別な制御をしなくても安定した浮上がなされ、燃費も比較的良いなどの長所多いことから、水中翼船が我が国に導入された当時は、半没翼型が主流でした。

しかし、その後、全没翼型では、コンピュータによる水中翼の細かな制御技術が確立され、とくにボーイング社の全没翼型水中翼船では抜群の安定性が確保できるようになり、他の船でも次第にこの技術が流用されていきました。

全没翼型の安定性が確保されると、逆に上述のような半没翼型のデメリットが浮き彫りになってきました。とくに、その乗り心地を考えると、上下に大きく揺れる半没翼型水中翼船では船酔いをする人があいつぎ、また燃費は良いとはいえません。

船の状態を常に良好なコンディションに保っておくためには水中翼のメンテナンスが欠かせず、この費用が思ったより嵩むことなどが浮き彫りになってきました。

さらに、半没翼型は、水中翼が船底から横にはみ出すように取り付けられているものが多く、こうした水中翼の接触を防ぐ専用の接岸施設のない港には、入港することができない等の欠点もあります。

こうしたことから、半没翼型を選択するユーザーはだんだんと姿を消していき、結果として、現在では全没翼型のほうが主流となりました。

日本では1960年代に商業用半没型水中翼船が相次いで登場し、新明和工業の15人乗りの小型船や、三菱造船下関の小型・中型船(80人乗)、日立造船神奈川の小型~大型船(130人乗)などが相次いで世に出ました。

その後、日立造船神奈川は、ドイツのシュプラマル社の半没翼型水中翼船のライセンス契約を取得して水中翼船を建造しはじめ、型式PT20(70人乗)やPT50(130人乗)を中心に50隻ほどの水中翼船を生産し、これらが瀬戸内海を中心に運航されはじめました。

代表的な運航会社として、瀬戸内海汽船、石崎汽船、阪急汽船、名鉄海上観光船等があり、
また東海汽船が東京湾横断航路でこのシュプラマル社の半没翼型水中翼船を使っていました。

しかし、前述のように半没翼型水中翼船の欠点が目立つようになっていった結果、次第に他の高速船やジェットフォイル(929)にシェアを奪われていき、1999年の石崎汽船の松山~尾道航路の最終運航を以って、半没型水中翼船は国内定期航路から姿を完全に消してしまいました。

こうして、1990年代に入ってから半没型水中翼船よりも全没型水中翼式のほうが主流となりましたが、その高速安定性に軍部が目をつけました。

海上自衛隊は1993年から95年にかけて、全没型水中翼式の1号型ミサイル艇(PG)3隻を建造していますが、これもジェットフォイル(929)をベースとしたイタリア海軍のスパルヴィエロ級ミサイル艇をタイプシップとしたものです。

これはボーイングのライセンスを基にイタリアのフィンカンティエーリ社が1983年に収益させたものであり、これが、ちょうどこのころ中国や韓国からの領海侵犯に悩まされ、沿岸を高速で運行できるミサイル艇を探していた海上自衛隊の目を引き、住友重機械工業がライセンスを受けて1993年-1995年に1号型ミサイル艇を3隻建造しました。

そもそも、929のような水中翼船は、航空機メーカーであるボーイング社が当初は軍事目的で開発を始めたものです。その技術を水上に対して適用する研究を始めたのは1962年頃で、1967年にパトロール用の小型艇が実用化されました。

これがベトナム戦争で有用であったため、その後NATOの依頼によりミサイル艇が開発され、このときに「929」の型番が与えられました。

従って、929は旅客用から軍用へ転用されたのではなく、もともとは軍用だったものが、民間で使われるようになったものです。

現在でもその抜群の安定性能と高速性のために各国で軍用に採用されているようですが、船体がすべてアルミニウム合金で作られているため高価であり、また高速が出る分、それなりに「燃料食い」であり、あまり軍部の拡張に余裕のない国では敬遠されているようです。

もともとが地中海を活躍の場とするイタリア海軍向けの設計であり、日本においては、日本海などの荒波で運用するには船型が小型過ぎたようです。当初は18隻を建造する計画であったようですが、冷戦終結という状況の変化もあって結局3隻で建造は打ち切られ、この3隻も、1995年までに順次廃役になりました。

現在では、より大型でステルス性にも優れる「はやぶさ型」というに移行しており、2004年までに6隻が就航し、こちらが現在の自衛隊の主力ミサイル艇になっています。

929の構造・性能

さて、この929の構造ですが、前述までのとおり、水中翼船としては全没翼型に属し、翼が全て水中にあります。

ガスタービンを動力としたウォータージェット推進であり、停止時および低速では通常の船と同様、船体の浮力で浮いて航行し、「艇走」と呼ばれます。速度が上がると翼に揚力が発生し、しだいに船体が浮上し離水、最終的には翼だけで航行する、「翼走」という状態になります。

船体の安定は Automatic Control System(ACS、自動姿勢制御装置)により制御された翼のフラップにより行われ、進行方向を変える場合もフラップを使うため航空機さながらに船体を傾けながら旋回できます。翼走状態では、水面の波の影響を受けにくく高速でも半没翼式水中翼船に比べ乗り心地がよいようです。

翼は跳ね上げ式になっており、停止・低速時の吃水を抑えることができます。また半没翼型と異なり翼の左右への張り出しもないため港に特別の設備なしに着岸できます。さらに翼にはショックアブソーバーが付いており、材木など多少の障害物への衝突に耐えることができます。

姿勢制御はACSと油圧のアクチュエータ(駆動装置)に依存するので、推進用のタービンの整備ともあわせ、航空機なみのメンテナンスが必要な点が難点です。

主要な諸元・性能は以下のとおりです

諸元(旅客用・ジェットフォイル)
速度: 約45ノット(時速約83km)
航続距離: 約450km
船体材料: アルミニウム合金
全長: 27.4m
水線長: 23.93m
全幅: 8.53m
吃水: 5.40m(艇走状態でストラットを完全に下げた時)
吃水: 1.83m(艇走状態でストラットを完全に上げた時)
型深さ: 2.59m
総トン数: 267トン
純トン数: 97-98トン
旅客定員: 約260名
機関: アリソン501-KF ガスタービン×2基(2767kW×2)
推進器: ロックウェルR10-0002-501 ウォータージェット×2基

ライセンス製造メーカー

前述のとおり、ボーイング社がNATOの依頼によりミサイル艇として開発したのが「929」であり、これを基に旅客用が開発されたのは1974年でしたが、その型番は929に続き番号を加えるというもので、これは929-100型となり、「ジェットフォイル」の愛称もこのとき付けられたものです。

ボーイング社としては初期型929-100型を10隻、前方フォイル及び乗船口付近の改良を施した929-115/117型を13隻、軍用の929-320、929-119、929-120型5隻の合計28隻をアメリカで製造した後、そのライセンスを川崎重工業に提供し、1989年に日本製1号艇が就航しました。

現在、そのライセンスは川崎重工(神戸工場)に全面的に移管されており、現在運航されているものの多くは、川崎ジェットフォイル929-117として製造されたものです。

川崎重工では1989年から1995年までに15隻を製造しており、日本国内において、この川崎重工で作られたものと、元祖のボーイング社で建造された旅客型ジェットフォイルは29隻にのぼります(ただし、軍用-320型からの改造1隻含む)。

なお、この929が日本国内の定期航路に本格的に投入されたのは佐渡汽船の新潟港~両津港間航路で、1977年のことです。当時国内ではメンテナンスが困難だったことから、佐渡汽船の整備担当者はボーイングで長期研修を受けてメンテナンスのノウハウを学んだといいます。

その後川崎重工がジェットフォイルのライセンスを得た際、その実績が豊富な佐渡汽船から運行のための多くのノウハウの提供を受け、その後の製造や販売に生かしているということです。

事故対策

929の新潟港での運航開始当初、この港が河口部にあるという構造上、水と共にゴミなどの異物・浮遊物を吸入して運航不能となるトラブルが頻発しました。このことから、ボーイング社では急遽社内に対策チームを設け、吸入口に特殊な構造のグリルを設置する対策を講じています。

これが奏功して異物吸入のトラブルは減少し、その後製造されたジェットフォイルの設計にも反映されたといいます。

929の水中翼は最新鋭の技術を投入されており、流力性能だけでなく、その強度もかなり頑丈に造られてはいますが、2002年1月に神戸港-関西国際空港間航路(神戸マリンルート)での復路出発後に船底に穴が開き、沈没寸前に至る事故が発生しています。

その事故原因は公表されていませんが、当時は空港連絡橋が閉鎖される程の悪天候であったといい、この事故ばかりが直接の原因ではないようですが、その後同航路は慢性的な乗客低迷に伴い同年休止・廃業されました。

ただ、2006年には、神戸-関空ベイ・シャトルとしてこの航路は復活しましたが、用いられているのは929ではなく、別の高速双胴船です。

このほかにも衝突事故が数回起きています。その運用においては、厳重な海上浮遊物への対策が採られているものの、1992年と1995年には新潟-佐渡間航路で、2004年末ごろからは、福岡-釜山間航路(対馬海峡)においてクジラと見られる生物にたびたび衝突し、前部水中翼が破損して高速航行が不能になるなどの事故が数回発生しています。

2006年4月9日には、屋久島-鹿児島間航路の佐多岬沖合で流木に衝突、100名以上の重軽傷者を出す事故が起きています。このような事故後は運航会社ではシートベルトを着用するよう乗客に促しており、特に佐多岬沖の事故後は、国土交通省から事業者に対して見張りの強化やシートベルトの着用を徹底するよう指導されているといいます。

現況航路

とはいえ、高速で多くの乗客を移送できる929は、とくに短距離航路において人気があり、現在、日本国内を結ぶ航路に投入されている929は以下のとおりであり、こんなにもあるのかと驚かされてしまいます。

●国内航路

○新潟~両津、船名:ぎんが、つばさ、すいせい、佐渡汽船
○東京(竹芝旅客ターミナル)~久里浜/館山~伊豆大島~利島~新島~式根島~神津島、
船名:セブンアイランド、 東海汽船
○熱海~伊豆大島、船名:セブンアイランド、東海汽船
○博多(博多ふ頭)~壱岐(郷ノ浦/芦辺)~対馬(厳原)~対馬(比田勝)、船名:ヴィーナス、ヴィーナス2、 九州郵船
○長崎~中通島(奈良尾)~福江島(福江)、船名:ぺがさす、ぺがさす2、九州商船
○鹿児島(本港区南埠頭)~指宿~種子島(西之表)・屋久島(宮之浦/安房)、船名:トッピー、ロケット、種子屋久高速船

●国内外および日本に近い外国航路
○博多(中央ふ頭)~釜山(国際旅客ターミナル)、船名:ビートル(JR九州高速船)、コビー(未来高速)、 JR九州高速船、未来高速
○香港~マカオ、船名 : 水星、木星、土星、金星、銀星、鐵星、東星、錫星 、天皇星、帝皇星、海皇星、幸運星、帝后星(これら高速旅客船網は総称「TurboJET」(噴射飛航)と呼ばれている)、信徳中旅船務管理

どうでしょうか。お住まいの地域に近いところにも929があるのではないでしょうか。

飛行機の旅も良いですが、お天気の良い日には、ちょっと水中翼船を使って近くの島々を巡るショートトリップに出るのも良いかもしれません。

ここ伊豆でも、熱海から伊豆大島への便があるようです。その高速性を生かして、熱海からわずか45分で着くようです。また、熱海から伊東港経由で行く便も土日限定であるようで、伊東からだとわずか25分!です。

料金は、熱海~大島が大人片道¥4600、伊東~大島が同¥3780です。ちょっといい値段ですが、これはぜひ、行ってみるしかないでしょう!