長州閥はいま……

旧山口県庁議事堂

修善寺は、一昨日あたりからすごい風です。空はピーカンに晴れているのですが、その吹きすさびようはすさまじく、とても洗濯物を干してなどいられません。

昔、学生だったころに沼津に住んでいたころから、伊豆は風の強いところだなと思っていましたが、あれから35年以上経ってもこの気候は変わりません。あたりまえですが……

安倍総理のこと

さて、最近、景気対策やアルジェリアのテロ事件のこともあり、その対応をめぐって、安倍総理のお顔を頻繁にテレビで見ることが多くなったように思います。

前回総理大臣をおやりになったときは、体調不良もあり、何か顔色が悪いな~と思っていましたが、現職ではかなりお元気そうにみえ、溌剌とした感があります。

前のご病気は、「潰瘍性大腸炎」というものだそうで、慢性の下痢と血便をずっと繰り返す結構大変な病気だったようですが、現在ではこれも完治されたたようで、体調も万全のようです。

58才という年齢での総理就任は、歴代をみてもかなり若く、全96代の総理大臣就任の年齢でみると、18番目ということで、この年齢で総理大臣になったのは、ほかに廣田弘毅、海部俊樹、羽田孜、橋本龍太郎などの各氏がいます。

この安倍総理のご実家は、山口県北部の長門市のやや西側にある「日置(へき)」というところで、ここを知っている、行ったことがある、という方は結構な「山口通」だと思います。

ここに、油谷湾という内湾がありますが、その北側の油谷半島と南側の本土との間に囲まれたこの湾は、通年を通して穏やかな海域であり、油谷半島のなだらかな丘の斜面沿いには田んぼや畑が広がるのどかな田園地帯となっていて、海山の取り合わせからなるその風情は、まごうことなく他地域ではほとんど失われてしまった「古く良き日本」の景観です。

油谷半島の最上部付近には「千畳敷」とよばれる高原があり、ここから北側にみる日本海、南側になだらかに連なる中国山地、東側にみる長門海岸、そして西側の油谷湾の眺めは素晴らしく、とくに、油谷湾越しに西側に沈む夕日は絶景です。

この油谷半島の北側の日本海に面した斜面には一面の「棚田」が連なっていて、ここは、東後畑地区(ひがしうしろばたちく)と呼ばれ、日本の「棚田百選」にも選ばれており、こちらも必見の景色です。

かつての山口県大津郡日置村は、この棚田のある油谷半島の根元付近、油谷湾のすぐ東側に広がっており、平成の大合併後に現在では、「長門市」に編入されています。

安倍家はこの地において、江戸時代に大庄屋を務め、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての名家と知られるようになった商家であり、祖父の「安倍寛」が日置村村長、山口県議会議員などを経て、1937年、衆議院議員に当選したのち、多くの政治家を生む「政治一家」となりました。

安倍総理ご自身は、ご自分のルーツは岩手県、かつての奥州にあった「安倍宗任」という武将の末裔だと言っているようで、この安倍宗任という人物は、1051年( 永承6年)の東北の武将同士の戦いである「前九年の役」において、敵方の「清原氏」の武将であった、源頼義、源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流されています。

その後、この宗任の流れをくむ者たちが油谷町に流れてきて住み着いたということであり、青森県の五所川原にある、石搭山・荒覇吐(あらはがき)神社というお社にこの安倍家の始祖である宗任が眠っているということです。

これを知った安倍晋三さんのお父さんで、外務大臣を務めた安倍晋太郎さんは、昭和62年(1987年)にこの神社を奥さんと一緒にお参りし、先祖供養を果たしたそうです。

このとき、「芸術は爆発だ~」で有名な、あの画家の岡本太郎も同行したということです。

岡本太郎自身は、神奈川県の川崎市出身の関東人であって、とくに東北人というわけではないようですが、彼もまた安倍一族の流れをくむ一人として自らのルーツに関心を持って調べていたという経緯があるようです。

そして、安倍氏のルーツも同じ人物であるということをどこからか聞きつけたのでしょう、この参拝に同行し、その際は道案内役まで果たしたということで、芸術家と政治家というあまり接点のなさそうな二人のルーツが同じというのもまた不思議なご縁ではあります。

平成元年(1989年)に発刊された「安倍一族」という盛岡の地方新聞社が編纂した本に、安倍晋太郎氏は「わが祖は宗任」と題する序文を寄せており、これには「宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら、華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです」と書かれているそうです。

ただし、この安倍宗任は、安倍晋三さんにとっては、女系の祖先にあたり、父系は平氏であったようで、それなのになぜ「安倍」姓なのかというと、平家滅亡の際に子孫を源氏の迫害から守るため、母方のほうのルーツである安倍姓を称した、ということだったようです。



戦前の長州閥

この安倍晋三さんの母方の祖父は、先輩総理大臣である、「岸信介」であることは有名です。

この岸信介氏の弟もまた総理大臣を務めた「佐藤栄作」であることは周知のとおりであり、岸信介は養子に入ったため岸姓を名乗りましたが、元の名は「佐藤信介」であり、この佐藤家の先祖は、源義経の郎党であった「佐藤忠信」という人物だそうです。

岸家の先祖のほうの出自ははっきりわかっていないようです。真偽のほどはわかりませんが一説では満州にいた海賊だったという話もあり、岸信介の曽祖父の代には、長州藩の代官をやっていたようです。

が、いずれにせよ、この岸家、佐藤家、安倍家のいずれをとっても、もともとは長州に芽生えた一族ということではないようで、その三家が山口県という地に集まり、ここを基盤として三人の総理大臣を輩出したというのは、何か不思議なかんじがします。

スピリチュアル的な観点からみると、この三家にまつわる霊たちは、それぞれ「ソウルメイト」ということなのかもしれません。

戦後、このうちの岸家を継いだ岸信介氏が総理大臣に就任したことで、その前の田中義一で途切れるはずであった、いわゆる「長州閥」による総理輩出の伝統は継承されることになったわけですが、その理由などについて検証していく前に、この「閥(ばつ)」という用語がそもそもどういう意味なのか調べてみました。

すると、「世界大百科」の第二版によると、次のように定義されているようです。

「なんらかの既得の属性によって結合し、相互に保護・援助しあう集団。閥は公的な主義・主張、あるいは目的をもって結合した集団ではなく、私的な利益を優先させるために結ばれた集団である。

したがって、閥は外部に対しては閉鎖的・排他的であり、内部的には強固な結合を求められ、親分子分関係的な位階秩序を形成しがちである。また閥は、私的集団にもかかわらず、公的な場においてその利益を優先的に拡張しようとして、社会的には弊害を引き起こす。」

「社会的には弊害を引き起こす」というのは穏やかではありませんが、弊害を起こしたかどうかは別として、少なくとも戦前までに山口県から排出された5人は、いわゆる「長州閥」のおかげで総理大臣になれた、とはよく言われることです。

明治時代以降のこれらの総理大臣は、長州藩による「藩閥」の「もちまわり」によって決めてこられた、とまでいうのは少々言い過ぎのような気もしますが、初代の伊藤博文以降、3代目の総理に主任した山縣有朋、11代桂太郎、18代寺内正毅、26代田中義一までの明治・大正時代の5人が、それほど間をあけずに次々と総理になったのは確かです。

山縣有朋から桂太郎までの間がかなり開いているようにみえますが、この間、伊藤博文が5代目と7代目の総理大臣に再任されており、また山縣有朋も9代目の総理として二回目の当選を果たしています。

桂太郎も、15代総理に再任されていますから、明治時代にはほとんど途切れることなく、これら長州出身者によって総理のポストが占められていたという印象です。

同じく藩閥政治を敷いたとされる薩摩藩でも、黒田清隆、松方正義(2回歴任)などの総理を輩出していますが、この薩摩藩の藩閥による総理大臣の系譜は、大正12年(1922年)に第二次内閣を築いた「山本権兵衛」で途絶え、その後鹿児島県からは総理大臣はひとりも輩出されていません。

これら両藩から多くの総理大臣が出た理由は、県民性うんぬんというよりも、明治維新で勝者側になり、明治政府を主導する絶大なる権力を握ったことが要因であり、これが藩閥政治であるといわれても仕方がないことでしょう。

当然、その配下も同じ藩の出身者で占められており、そうした同郷の人材が多ければ多いほど、その中から総理大臣が出てくる確率が高くなるのは当たり前です。

ただ、長州の田中義一に関しては、寺内正毅が退任してから8年もたったあとに総理大臣になっており、この間がやや空白気味ではあります。

しかし、田中義一は、伊藤博文が自らの「与党」として組織した、「立憲政友会」に所属しており、長州人が数多く含まれていたこの党から代議士に出馬して総理大臣になったというのは、やはり「長州閥」の恩恵を受けたためと考えて良いでしょう。

元陸軍大将などを務め軍人であった田中義一は、日露戦争では満州軍参謀として、同じ長州出身の総参謀長の児玉源太郎のスタッフを務めており、また日本陸軍の父ともいわれる山縣有朋にもかわいがられていたという経緯もあり、これらの経歴が総理大臣への昇格につながったことは間違いないと思われます。

岸・佐藤・安倍ファミリー

しかし、以後、田中義一と同じく立憲政友会に所属していた、濱口雄幸(高知県出身)や犬養毅(岡山縣出身)らが首相となり、彼らが退任して以後は、こうした藩閥政治による総理大臣就任はみられなくなり、以後太平洋戦争が終結するまでは、いわゆる薩長土肥と呼ばれた幕末の雄藩からは総理大臣は一人も出ていません。

土佐の高知県出身の濱口雄幸首相が1931年(昭和6年)に退任してから、1957年(昭和32年)に山口県出身の岸信介が総理大臣になるまで、実に26年間ものあいだ、長州や薩摩、土佐、肥後出身で総理大臣になった者はなく、この間に藩閥政治はすっかりなりをひそめたと思われていました。

ところが、そこへ来ての戦後の岸総理の就任です。またぞや藩閥政治の再来か、と当時の人たちは思ったでしょう。

他藩の閥は消滅してしまったけれども、この間に長州閥が廃れてしまったわけではなく、この間も長州人の政治家は脈々と地下活動を続け、戦後再びその猛威をふるうようになったのではないか、という印象を与えたのは確かです。

だがしかし、本当に「閥」といわれるような「閉鎖的かつ排他的な集団」が残っていたのか、というと私は、これはちょっと違うように思います。

戦前の5人の長州出身の総理は、いずれも同じ県内でも出身地が異なります。

ましてや親戚や縁戚関係はないにも関わらず彼らが「閥」と呼ばれ、ひとくくりにされたのは、彼らとその取り巻きが、幕末に勤皇の志士として幕府軍と命をかけて戦い、親兄弟以上に「血」の濃い師弟関係や主従関係がこの過程において結ばれ、これが明治時代にまで持ち越されたためです。

ところが、戦後に出てきた3人の総理は、無論こうした幕末の動乱を経験しておらず、そうした動乱にちなんだ同盟関係はありません。岸信介、佐藤栄作の二人が兄弟であり、また安倍氏は岸信介の孫にあたるなど、彼らの関係は、閥とは明らかに異なる縁戚関係をベースとしたものです。

なお、岸・佐藤家は山陽側の田布施町が地元であるのに対し、安倍家は県北の日置に家がありますが、こうした地理的違いが、この三家が親戚関係であるということの絆をなんら疎外するものではありません、

佐藤兄弟はとびきりの秀才兄弟として有名でしたから、この二人が総理大臣になれたのは、藩閥とは関係なく、安倍晋三もまたこの佐藤家の流れを汲む優秀な血の一族の生まれであり、彼らそれぞれが政治という世界において秀れた才能を持っていたということだと思います。

いわば、アメリカのケネディ家の一家のような関係であり、著名な政治家や実業家を輩出しているこの名門一族と日本のこの「岸・佐藤・安倍ファミリー」はどこか似ています。

第一世代のパトリック・J・ケネディは、実業家として成功し、マサチューセッツ州上院・下院議員に当選、その息子のジョセフ・P・ケネディも、ケネディ家の第二世代として実業家として名を馳せ、証券取引委員会委員長、駐英アメリカ大使を務めました。

そして、第三世代のジョン・F・ケネディは、ジョセフの次男として生まれ、第35代アメリカ合衆国大統領にまで上り詰めます。ケネディ家にとっては絶頂期だったでしょう。

ところが、ジョン・F・ケネディは暗殺されてしまいます。しかし、ジョセフの三男でジョンの弟のロバート・ケネディが第64代アメリカ合衆国司法長官に就任し、四男のエドワード・ケネディもアメリカ合衆国上院議員に就任するなど、ジョンの死によって凋落していくかと思われたケネディ家は、その後も脈々と政界に根を張り続けました。

その後の第四世代としても、ロバートの長男のジョセフ・パトリック・ケネディ二世がマサチューセッツ州選出の元下院議員となり、このほかにもエドワードの長男のエドワード・ケネディ・ジュニアも政治家となっており、この弟のパトリック・ケネディは連邦下院議員となるなど、現在でもケネディ家からは次々と政治家が創出されています。

佐藤家もその後、次男の佐藤信二氏が政治家となり、衆議院議員を8期、参議院議員を1期務める政治家となっています。このほか、安倍晋三の実兄の「岸信夫」氏は、岸信介の息子の岸信和が子供に恵まれなかったため、安倍家から養子として岸家に入った人であり、この人も衆議院議員を1期、参議院議員を2期務めています。

このように、戦前の田中義一総理の退任でいったん途切れたはずの長州出身の総理就任という「伝統」が復活したのは、岸信介氏の総理就任を皮切りに、岸家と縁戚関係のある佐藤家、安倍家を合わせた三家が、さながらケネディ家のように「ファミリー」として絡み合い、その中から多くの実業家や政治家を次々と輩出し続けているからだと思われます。

そして、この親戚縁戚による「共闘」こそが、戦後その先陣を切って総理大臣となった岸信介氏以降、三人かつ四代の総理大臣が出ている最大の理由のひとつと思われます。

木戸幸一と岸信介

がしかし、戦前に長州閥による総理輩出の流がいったん切れたのにもかかわらずこれが復活した背景には何があったのかを更に深く読み取っていこうとしたとき、そこにはこれらファミリーとは親戚でもなんでもなさそうな、にもかかわらず彼らと密接な関係にあった、二人の長州人の姿が浮かび上がってきます。

その一人は、木戸幸一氏です。

木戸幸一は、第二次世界大戦期の日本の政治家、そして最後の内大臣(戦前に存在した宮中で天皇を補佐する役職)であり、幸一の父・木戸孝正は明治の元勲「木戸孝允」の妹の治子と長州藩士「来原良蔵」の長男であり、生粋の長州人です。

木戸孝允と妻の松子の間には子がなく、孝允も早死したため、木戸家の家督を継いだのは、孝允の妹の治子と孝允の盟友で親友の来原良蔵との間に生まれた次男の木戸正二郎でした。

しかしこの正二郎もすぐに没したため、木戸家継承者がいなくなり、その兄である孝正が急きょ養子となって木戸家と侯爵を継承しました(1884年(明治17年)。

木戸孝正は、これに先立つ10年前の1874年(明治7年)にはアメリカに留学しており、帰国後、アメリカで知ったベースボールを持ち込み、日本最初のクラブチーム「新橋アスレチッククラブ」を作ったことなどで知られており、侯爵継承後、東宮侍従長となり、宮内顧問官などを歴任しました。

そして、その息子が木戸幸一ですが、実は孝正と妻の妙子の間の子ではなく、妙子が早逝したため、孝正の後妻に迎えたのが、同僚の宮内顧問官であった「山尾庸三」の長女、寿栄子であり、幸一は孝正と彼女との間に生まれた子供になります。

この山尾庸三は、いわゆる「長州ファイブ」の一人であり、伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共に密航でロンドン・グラスゴーに留学し、さまざまな工学を学んで帰国した人物です。帰国は伊藤らよりも大幅に遅れ、維新が実現した明治元年(1868年)であり、帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を任されました。

新たに創設された法制局の初代長官も務めており、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立した人物としても知られています。

つまり、木戸幸一は、こうした明治維新における重要人物の孫であり、またそれだけではなく、幸一の夫人は、陸軍大将の「児玉源太郎」の娘です。

しかも血はつながっていないとはいえ、明治の元勲木戸孝允の木戸家を継承しており、これらのことから、木戸幸一氏は、戦後の日本の政界においては、田中義一以降失われたと思われていた「長州閥」のサラブレットともいえる人物であることがわかります。

木戸幸一は、長じてからは、学習院高等科を経て京都帝国大学法学部に入学し同校卒業後は農商務省へ入省。工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任後、友人であった近衛文麿の抜擢により、内大臣府秘書官長に就任。

さらに1937年(昭和12年)の第1次近衛内閣で文部大臣と初代厚生大臣をやり、1939(昭和14年)年の平沼内閣では内務大臣になるなど、次々と要職に就任しています。

1940年(昭和15年)から終戦の1945年(昭和20年)まで内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードしました。

1944年(昭和19年)7月にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となったおり、宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がっていました。

このとき、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、戦争推進派の東條内閣の倒閣工作が密かに進められましたが、東條は難局打開のため内閣改造の意向を示し、木戸らのグループに抵抗しようという動きを見せました。

こうした中、岡田元海軍大将と気脈を通じていたのが、東條内閣に商工大臣として入閣しながら、このころ東條によって軍需次官に降格されていた岸信介であり、岸は東條総理の継続を阻止するため、彼の内閣改造を妨害し、内閣総辞職を要求しました。

これに対して、東條側近の四方諒二(しかたりょうじ)東京憲兵隊長が岸信介の自宅に押しかけ、恫喝したという話が残っており、このとき岸は、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返したそうです。

この動きと並行し、東條に内閣改造後の入閣を要請されていた他の重臣たちも木戸と申し合わせて内閣改造を拒否。東條はついに内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となり、これが戦争終結への大きな一手となりました。

こうした一連の終戦工作のなかで、同じ長州人である木戸幸一内大臣と岸信介の間に会談が行われたかどうか、どのような会話が行われたか、といった詳しい史料はほとんど何も残っていないようです。

しかし、同じく東條を打倒し戦争を終結させたいという思いは同じであり、その上で気脈・人脈を通じた同じ長州人ということで、二人にはかなりの接点があったのではないかと考えられます。

岸信介の曽祖父の佐藤信寛(さとうのぶひろ)は吉田松陰の松下村塾の出身であり、その同門であった伊藤博文も同塾で松陰から直接教えを受けており、伊藤の出身地である旧山口県熊毛郡の束荷村(現光市)と佐藤家の本籍の熊毛郡田布施町はほど近く、このことから佐藤家と伊藤家とは昔から深い親交があったようです。

従って、岸家に養子に入り、政界入りした岸信介に対して、元総理を生み出した伊藤家の人々はにくからぬ思いを持っていたはずです。

実際、岸が東京帝大法学部を卒業後に農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩の、「伊藤文吉」の元へまっ先に配属されていますが、この伊藤文吉は、伊藤博文元首相の養子として伊藤家に入った人物です。

また木戸も岸も同じ東京帝国大学法学部出身の先輩後輩どうしであり(木戸が5年先輩)、優等生であった岸が内務省ではなく、この当時二流官庁と思われていた農商務省に入省したのは、先輩の木戸が同じ農商務省に入省していたのと無関係ではないと考えられます。

さらに、木戸の実父の来原良蔵は、吉田松陰や桂小五郎らと深い交流を持っていた人物で、浦賀沖にペリー提督が黒船で来航した際には、藩命で江戸に上り、浦賀周辺の形勢を視察しており、このとき同行していた伊藤博文の才を見出して直々の部下としています。

博文が松下村塾に入塾したのも良蔵の薦めであったといい、その後良蔵が長崎の海軍伝習所に入ったときにもこれに付き従っています。博文は良蔵の死後、その遺志を継いで活動したとされており、彼を終生師匠として仰いでいたといいます。

このように、あまり知られていないことですが、岸信介と木戸幸一は、同じ政界にあってただ単に気脈を通じる同学の先輩、後輩という間柄だったというだけではなく、同郷の人脈という線でも、その共通の知人である「伊藤家」の人々を介してかなり太いパイプで結ばれていた可能性があることがうかがわれます。

その後、木戸は東京裁判で有罪とされ、終身禁固刑の判決を受け服役していましたが、
1955年(昭和30年)に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退します。

岸信介が、総理大臣に就任するのは、この二年後の1957年(昭和32年)であり、「長州出身」の総理大臣の復活の裏では、この木戸元内大臣がその背後での何らかの「操作」をしていたと考えるのが自然でしょう。

こうして、岸信介が首相になったあとの佐藤氏の総理就任、そして近年の安倍氏と次々と続く長州出身の総理誕生の裏には、やはり木戸幸一に連なるかつての長州閥の「なごり」があり、「岸後」も、「岸・佐藤・安倍ファミリー」に擁護された「安倍一族」が存続し続けることによって現在の安倍総理が誕生したのではないかと考えられます。

これを「長州閥」と呼ぶべきかどうかですが、前述のとおり、「閥」とは徒党を組んで政治を推し進めようとする輩の集団を意味すると考えれば、木戸幸一ひとりを「閥」と呼ぶのは言い過ぎでしょう。

木戸幸一を黒幕とした「岸・佐藤・安倍ファミリー」を閥と考える人もいるかもしれませんが、調べた限りではそういう構図も希薄であり、私自身は、このグループは閥というよりも、上述のケネディ家のような「ファミリー」であると考えています。

また、この当時の政界にはほかにも長州出身の政治家はたくさんいましたが、明治や大正のころのような実力者ばかりではなく、このころには長州人ばかりでグループを組んでその力を行使しようというようなめだった動きはありませんでした。

逆にそうしたグループができていたら、他の政治家や軍部から徹底的に敵対視され、排除されていたのではないでしょうか。

岸信介と松岡洋右

このように、木戸幸一は、戦後初の長州出身総理である岸信介首相の誕生においてかなり重要な関わりをもったのではないかと思われますが、このほかにももう一人の重要人物がおり、それは同じ長州人で、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に外務大臣として関与した「松岡洋右」です。

岸信介は、戦前の1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長などを歴任し、この間、満州国の計画経済・統制経済に積極的にとりくみ、満州経営に辣腕を振るいました。

このころ、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二などなどの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の実力者「弐キ参スケ」の1人に数えられました。

この「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられたもので、その5人とは、

東條英機 関東軍参謀長
星野直樹 国務院総務長官
鮎川義介 満業(満州重工業開発株式会社)社長
岸信介 総務庁次長
松岡洋右 満鉄総裁

です。このうちの、松岡洋右と鮎川義介は、同じ長州出身の同郷人であり、この三人の長州人はのちに協力して満州経営にあたり、「満州三角同盟」とも呼ばれました。

岸信介は1896年(明治29年)生まれ、かたや松岡洋右は1880年(明治13年)生まれで、その年の差は16歳もありますが、岸の叔父の「佐藤松介」という人が、松岡洋右の妹の旦那さんであり、血はつながってはいませんが、親戚関係にあります。

しかも、この佐藤松介は松岡の姉である松岡藤枝と結婚しており、この二人の間に生まれた寛子が、後年佐藤栄作の妻になります。従って、血縁関係は薄いものの、松岡家もまた、「岸・佐藤・安倍ファミリー」に連なる一族ということになります。

ちなみに、この佐藤松介には、「さわ」という妹がおり、この人は岸信介のお母さんの「茂世」の妹でもあるわけですが、この人は吉田祥朔という人物と結婚しており、このためこの吉田祥朔は岸信介の義理の叔父ということになります。

そしてこの二人の子の吉田寛という人が、後年、吉田茂の長女の桜子と結婚しており(この二つの吉田家は別の家系らしい)、これらの話は松岡洋右が生きていたころよりは、ずっと後年の話ではありますが、吉田茂の吉田家もまた後年、岸・佐藤・安倍ファミリーに連なる系譜に取り込まれたということになります。

この松岡洋右は、戦前の長州出身総理のうちでもとくに閥意識が強かったといわれる山縣有朋の最後の門下生ともいわれる人物であり、松岡が結婚した際の仲人は山縣の懐刀でもあった田中義一元首相です。

松岡洋右は、戦前の日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結などに関与し、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面における代表的な外交官でしたが、このため敗戦後は米軍ににらまれ、極東国際軍事裁判の公判中に病死しています(1946年(昭和21年)6月)。

山縣有朋との密接な関係をうかがわせる発言として、「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っている中で、「例外は山本権兵衛と山縣有朋ぐらいであった」とも述べており、山縣にはそれなりの敬意を払っていたことがうかがわれます。

このほか、松岡は伊藤博文にも大きな影響を受けていたようであり、伊藤博文が親ロシア派であったことから、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていたといいます。

ところが、岸や木戸が終戦工作を積極的であったのに対し、松岡は何を思ったのか、自分が主導して締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で強く主張。南部仏印進駐(フランス領インドシナ侵攻)に反対し、終戦間際になって、いわゆる北進論を主張するなどのどちらかといえば好戦派に転じました。

松岡は、その後の日本と同盟関係にあったドイツとソビエトの開戦が間近なことを認識していたようで、それなのになぜ日ソ中立条約を締結したかについてはさまざまな説があるようですが、このようにコロコロと主張を変え、政府内でも独断専行が強かったことから、昭和天皇は徹底的に松岡を嫌っていたといわれます。

このように同じ長州出身でありながら、木戸や岸とは一線を画していたような印象のある人物ですが、満州運営において岸と共同してその任にあたっていた経緯などもあり、総理経験者である山縣有朋や伊藤博文といった大物(言い換えれば長州閥のドン)と深い関わりのあったこの松岡洋右と親交があったということも、その後岸信介が総理大臣になるにあたってはプラスに働いたと考えられます。

さらに松岡洋右は、満鉄総裁から代議士に転向する際には、前述の「立憲政友会」をベースとして立候補しており、当然のことながら他の長州の政治家とも親密でした。

その最たる人物としては、前述の満州重工社長で戦前には内閣顧問なども務めた鮎川義介(山口市大内村出身)や、立憲政友会の中心的存在であり、総裁も勤めた萩市出身の久原房之介などがいます。

鮎川も久原も戦後は戦犯として逮捕されていますが、とくに久原は右翼に資金を提供したり、2.26事件などに深く関与したなどとして、松岡と同じく、終戦後にA級戦犯になりました。

松岡が代議士になるころには山縣有朋は既に没していましたが、長州人としてこうした明治の宰相の薫陶を直に受けた経験を持つ大物政治家は、当時としては木戸幸一をのぞけばこの松岡ぐらいです。

松岡は、戦後、岸信介に先んじて総理大臣になった吉田茂とも親しい友人関係にあったといい、のちの「自由民主党」の基礎を造った吉田に対して、「君の跡を継ぐのは岸のような若くて優秀なやつだよ」、と勧めていたような気がするのです。

木戸幸一をのぞけば、戦後初の長州人総理となった岸信介を後押しできるキングメーカーはこの人しかおらず、生前に岸氏の総理就任を目の当たりにすることこそできませんでしたが、その実現を切に願っていたのではないでしょうか。

以上、戦後も四代にわたって山口県から総理大臣が出たのは、岸信介という優れた長州出身のリーダーが「岸・佐藤・安倍ファミリー」を形成し、その最初の総理就任をこの木戸幸一と松岡洋右の二人が支えたからこそではないか、と私は思うのです。

さて、長々と書いてきてしまいましたが、山口県出身の総理大臣が多いというその理由はざっとこんなところでしょうか。

他のブログもいろいろ拝見させていただいた上でこの項を書きはじめたのですが、一律に明治以降延々と続いている「長州閥」によるものだ、と一行で切り捨てておられる方も多いので、そのあたりの事情は少々複雑で違う、ということを書きたくてここまで引っ張ってしまいました。

かつて司馬遼太郎さんは、「革命というものは三世代に渡ってなされる。まず第一に思想家が出てくるが、多くは非業の死を遂げる。第二にその後を受け、革命家が出てくる。そして、これも多くは、事半ばにして死ぬ。そして最後に出てくるのが政治家である。」と書かれています。

かくして、伊藤、山縣、桂らの明治に君臨した「長州の政治家」の流れは、いまもまだその流れを維持したまま、存在しているように思えます。

が、それはけっして「閥」と呼ばれるような閉鎖的な形のまま継続しているのではなく、時代が変わり、その時代に適応した形で続いているように思われ、その意味では長州人こと、山口県民こそがそうした時代の変化に適応できる優れた県民性を持っている証拠だというふうにも思われます。

とかく「二世議員」が批判されがちな昨今ですが、私にはそれが悪いという感覚はなく、先代の優れたDNAを受け継いでいるのならば、血がつながっていようがいまいが関係はなく、そのDNAを大事にしていくことのほうが、この国の永続をはかる上においては大事なような気さえします。

極論すれば長州人でなくてもいい、優れた資質をもってDNAが受け継がれるなら、それは会津であっても遠州であっても構わないように思います。

いつか医学がもっと発達したら、そうしたDNAを保存する政府機関なんてものもできるかもしれません。そのDNAを使って作られた「ロボット宰相」なるものが案外とこの国を導いていくのかもしれません。期待しましょう。

静岡 vs 山口 

旧長州藩庁門

最近、税制の地方化の議論が活発になっているのと関係があるのか、「県民性」を話題にしたバラエティー番組を良くテレビでみるようになりました。

新聞や雑誌でも「県民性」を扱った記事をよくみかけるようになったような気もします。本屋さんなどへ行くと、その地方の「県民性読本」的なものが山積みになっていることもよくあるようです。

静岡もそうで、先日本屋に行くと、静岡県の歴史本の特集コーナーの中に、そうした類の本がいろいろ積まれていました。

その一冊にざっと目を通してみたのですが、これらやネットの情報などを総括すると、静岡県民の県民性というのは、だいたい次のように言われているようです。

○男性

静岡市以東の県東部の人はおっとりしているというか、マイペース。協調性があり、誰からも好感が持たれるが、逆に言えば優柔不断なところも。浜松など県西部は明るく、行動力もあるし、根性もある人が多い。ギャンブル好きだが、のめり込むことはない。

○女性

男性がのんびりしているだけに活動的。性格もさっぱりしていて、どちらかというと男性的。じっと耐えるタイプではないし、腹にためるタイプでもない。好き嫌いもはっきりしている

また、静岡県民は、西部では「遠州泥棒(強盗)」、中部は「駿河乞食」、東部は「伊豆餓死」といわれるような性格を持っているともいわれます。

静岡市など中部の人はおっとりしていて人が良いので、「やめまいか」と面倒なことを嫌がるので、どうしても食えなくなったら「物乞い」をするのだそうで、これに対して浜松など西部は行動力もあるし根性もあるので、困ったら泥棒に走るのだそうです。

この静岡中部人の評価はともかく、西部の人の「泥棒」はあまりにもひどい言われようですが、これは、江戸時代の「遠州商人」が、「やらまいか」というチャレンジ精神を発揮して成功したことを、他国民がやっかみ、嫉んだために生まれた言葉のようです。

我らが伊豆の、「伊豆餓死」は、「伊豆詐欺」とも言われるそうで、困ったときやお金に窮した時には、餓死するか、あるいは詐欺をしてなんとかその場をしのぐ人が多いと評されたためのようです。浜松などの西部の「泥棒」まではひどくないにせよ、あんまりよい評価ではないですね。

餓死と詐欺の二通りの評価があるということは、伊豆ではまた二タイプの住民特性を持った地域があるのでしょう。「餓死」のほうのそれは、想像するに、伊豆中部以南の地方ではその昔流人が多く、貧乏であったがゆえに窮すると餓死するしかなかったことに由来するのかもしれません。

また、「詐欺」のほうは、鎌倉や駿府などの中央により近く、権謀術数をはかってのしあがった北条氏一族やその後の時代を担った北条早雲の後北条氏に代表される性格なのでしょう。

それでは、私の故郷の山口はどうなのかな、と調べてみると、だいたい次のように言われているようです。

○男性
一言で言えば、保守的。「年上に従う」「男尊女卑」といったものがいまだに残っている。お金におおまかで、体裁を気にするが、目立ちたがり屋の一面もある。総理を多数出しているだけに、政治好き。郷土意識も強い。

○女性
情に厚く、心優しい。明るく社交的で行動力もある。お金には鷹揚で流行にも関心が強いため、ミーハーに見られやすいが、考え方はとても堅実。

山口県全体でみると、ここは、「米」、「塩」、「紙」のいわゆる「三白」で豊かな地であったこともあり、やはり「保守的」というのがその代表的な性格のようです。

「クルマは4ドアセダン」で「政治は自民党」、そして昔ほどではないにせよ、「男尊女卑」や「目上の人には従う」といった古い時代の風習が根強く残っている、とよくいわれるようですが、あたっているかもしれません。

このほか、金にはおおまかで体裁を気にする人が多いともいわれますが、確かに、山口県民は「おしゃれ」とまではいいませんが、多くの人が集まるところへ行くときには、わりときちんとした格好で行く人が多いように思います。

いまや過疎県になりつつあるので、お年寄りも多いのもたしかなのですが、お年寄りだからといって汚い恰好をしている人も少なく、おっダンディだな、このおっさん、というかんじの人がわりと多いようです。

「気が合えば、人間関係を大事にするだけに、終生の友にもなる」という評価もあるようですが、これもあたっているように思います。幕末には長州藩の藩士の多くが藩外へ出て活動していきましたが、その時に諸国の藩に多くの友人を作ることのできたことが、この藩を維新の成功に導いた要因のように思います。

一方では、プライドも高く頑固で負けず嫌いで、好き嫌いがはっきりしているといい、目立ちたがり屋であるということもよくいわれます。

昔読んだ司馬遼太郎さんの本に、長州藩と薩摩藩の軍勢が江戸入りした際、それが夜であったがゆえに、それぞれが提灯を手にもって行進してやってきたという話が書いてありました。

そのとき、薩摩藩の軍勢は、それぞれの兵士が様々な色形の提灯をぶらさげており、提灯を持っている兵士も持っていない兵士もいたりのバラバラで、「どやどや」とやってきたという印象であったのに対し、長州藩は、ひとりひとりが同じ提灯を持ち、「一列縦隊」で整然と江戸入りをしてきたそうです。

兵士全員に同じ提灯を持たせるなどの周到な準備をし、軍の統制もとれていたということなのでしょうが、司馬さんはこれはそうではなく、一人一人に同じ提灯を持たせて行進させないと、「俺が俺が」といってそれぞれが勝手に行動をしはじめ、たちまち統制がとれなくなってしまうからだ、と書かれていました。

なるほどな~、さすがに司馬さんだな~よく見ているわ、とこれを読んだ私も思ったものです。確かに長州人は我が強い人が多く、全体で行動するというよりも個々で行動したがる人が多いのは確かです。

別の言い方をすれば「個性的」な人が多いわけですが、そういう個人主義のやからをうまくまとめることのできるリーダーが幕末にはたくさん輩出され、そうした個々の力を結集させることができたらこそ、この藩が幕末に力を発揮できたのでしょう。

そのリーダーとしては、吉田松陰や高杉晋作などが代表的ですが、このほかにも久坂玄瑞や山県有朋、木戸孝允などなど枚挙のいとまがありません。

山口県民は、このように幕末に結集して歴史の変革にあたった経験から、明治以降の時代になっても郷土意識が非常に強く、「政治好き」で有名です。

その郷土意識の強烈さは、維新の動乱後は、何が何でも「わがお国」のリーダーを中央に送り込むのだ、という意識に転化されていき、その結果として数多くの代議士や政治家が生まれ、その中から総理大臣が8人も出たというのは多くの人が知るところでしょう。

そのトップバッターは、あの伊藤博文ですが、これ以下の山口県出身の総理8人について、ざっと、まとめてみましょう。このうち5人は戦前の総理です。

伊藤博文(1841~1909) 光市出身

吉田松陰の松下村塾の門下生であり、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎らと尊王攘夷・倒幕運動に参加。明治維新後は初代内閣総理大臣を務め、第5代・7代・10代と通算4度も総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の草起・制定の中心的役割を果たしました。

1863年に長州ファイブとして英国留学をした際に英語を覚えており、あまり上手だったという話は聞きませんが、この「英語力」が総理大臣就任への決定的な要因でした。

なお、初代総理大臣就任時は44才という若さであり、これまでの歴代総理大臣の中で最も若くして就任した人物です。在職通算日数は2720日でした。

山県有朋(1838~1922) 萩市出身

伊藤博文と同じく松下村塾門下生の一人で、文久3年(1863年)に高杉晋作が創設した奇兵隊に参加。その後頭角を現し、奇兵隊の軍監となります。明治新政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて軍国の父とも称されるようになりました。第3・9代の二回、内閣総理大臣に就任しています。在職通算日数は1210日でした。

桂太郎(1847~1914) 萩市出身

2013年現在の歴代総理大臣の中で、通算在職日数が最も長いのが桂太郎です。しかも、第11・13・15代と三回も総理大臣を務めました。在任中には日英同盟を締結し、日露戦争にも勝利したことで、長州人の中では最も大きな実績を残した総理という評価もあります。

たえず惜しみなく笑顔を作りながら相手の肩を叩いて好感度を演出することから、「ニコポン首相」のニックネームもつけられました。在職通算日数は2886日でした。

寺内正毅(1852~1919) 山口市出身

第3代韓国統監を務めた後に初代朝鮮総督に就任し、総督としての功績が認められ、第18代内閣総理大臣に就任。頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、独自の立場を貫く主義を掲げていたため、「超然内閣」と呼ばれました。

また「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれました(注:「立憲」とは、権力者が憲法の枠内で政治を行い、権力は憲法に制限される。「非立憲」では、権力者のやりたい放題で、権力者を抑えることができない。)

時は第一次世界大戦の最中であり、シベリア出兵などを宣言しましたが、大きな業績を上げることもなく辞職。在籍通算日数は721日でした。

田中義一(1863~1929) 萩市出身

昭和2年に第26代内閣総理大臣に就任。翌年2月に普通選挙による初めての総選挙を実施しました。在任中に、当時の軍部が主導したとされる「張作霖爆殺事件」、「尼港事件」、「済南事件」、「満洲事件」などなどの数々の中国がらみの事件が起こり、その収拾をめぐって昭和天皇から叱責されたことから、在任わずか2年少しで総辞職しました。在職通算日数805日。

岸信介(1896~1987)  田布施町出身山口市

戦後はじめての長州出身の総理大臣として就任し、第57・58代の二期の首相を勤めました。太平洋戦争開戦時には商工大臣を務め、革新官僚の代表格といわれました。戦後A級戦犯容疑を受け、巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に拘留されており、総理就任はその釈放後のことになります。

在任中26ヶ国を訪問するなど積極的に首脳外交を行い、1960年日米安全保障条約(安保条約)改正も実現しましたが、これが逆に国内の騒乱を呼び、その責任をとって辞任。

その後、弟の佐藤栄作、甥の佐藤信二、娘婿の安倍晋太郎、孫の安倍晋三・岸信夫兄弟が政界入りしています。在職通算日数は1241日でした。

佐藤栄作(1901~1975) 田布施町出身

岸信介の弟で、第61・62・63代の三期、内閣総理大臣に就任。岸信介が実兄であり、日本で唯一の兄弟首相の誕生となりました。在任中にアメリカに占領されていた沖縄返還の実現や、非核三原則の制定など多くの実績を残しました。昭和49年には、日本人初となるノーベル平和賞を受賞。

通算在職日数は桂太郎に譲るものの、連続在職日数は佐藤栄作が歴代1位です。通算在職日数は2793日でした。

安倍晋三(1954~) 長門市

戦後最年少で戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣(第90代)に就任したのが安倍晋三です。在任中は「美しい国づくり」プロジェクトに力を注ぎました。父は政治家の安倍晋太郎であり、祖父には岸信介、大叔父には佐藤栄作がいる政治家一族としても知られています。出生地は東京ですが、本籍・選挙区は長門市です。通算在職日数は、366日でした。

菅直人(1946~) 宇部市出身

菅氏は長州出身の総理かどうか、ということでよく取りざたされますが、一応、出生地は山口県宇部市であり、高校2年生まで宇部で過ごしました。しかし、本籍は岡山市であり、選挙区は東京であり、民主党政権時代の評判もかんばしくなかったことなどから、地元山口では、「長州出身の総理大臣」としてカウントすることを否定する人も多いのは確かです。

第94代内閣総理大臣として就任。在任中は東日本大震災の陣頭指揮に当たりました。通算在職日数は499日でした。

これらの8人の総理大臣(菅氏も入れれば9人)のうち、5人は戦前の総理、残るは戦後の総理です。

そこで、よく話題になるのが、なぜ、山口県はこれほど多くの総理大臣を輩出することができたのかということです。

山口県民の県民性が政治に反映された結果であるという、いわゆる「長州閥」のおかげであるというのは、これまでもよく取沙汰されてきていることですが、その真偽のほどを検証してみたいと思います。

が、最近多忙につき、ブログにあまり時間を割くことができません。力尽きたので今日はこれまでにさせていただきます。

787

先日修善寺に降った雪は、ふもとの温泉街ではその日のうちに消えてしまいましたが、山の上にあり、北側斜面に建つ我が家では、寝雪になって残っていました。

その雪も、昨夜から降り始めた比較的暖かい雨で融け出し、家の前の公園に植えてある桜の木々がその雨に濡れています。ほんのりとピンク色に見えるのは、早くもつぼみを蓄えているからでしょう。伊豆に春がやってくるのもそう遠くなさそうです。

さて、最近テレビ等で、ボーイング社の最新型旅客機が頻繁に事故を起こしたことに関するニュースが頻繁に流れていますが、このボーイング787という飛行機については薄々は知っていたものの、実際にはどんな飛行機なのか詳しく知りたくなり、調べてみました。

まず、従来機との比較ですが、従来型の中型機のボーイング757や767比べると、その機体幅をかなり広げたワイドボディ機で、特に改良の第一目標となった767より、航続距離や巡航速度は大幅に上回るとともに、燃費も向上しています。

ちなみに、787のひとつ前に開発されたボーイング777は、翼幅、胴体長ともジャンボジェットと呼ばれた747よりも大きく、双発機としては世界最大であり、787はこれよりも一回り小さくなります。

しかし、787では、航続距離や巡航速度の大幅な改善をめざして開発が進められ、中型機としては従来のものよりもはるかに長い航続距離を得ることとなり、今までは747や777などの大型機でないと飛行できなかった距離もこの機を使うことにより直行が可能になりました。

より具体的には、従来の中型機ではアメリカ西海岸あたりまでしか行けなかったものが、この飛行機では東海岸のボストンあたりまで飛んで行けるようになります。

中型機ながら乗客数も大型機並みになり、飛行距離も伸びたことから、従来では飛行距離の大きい大型機しか飛ばせなかった場所へより小さい容量の飛行機を飛ばせることができるようになったことは画期的です。

なぜなら、従来は高い乗客率がのぞめない遠くの場所には、燃料がたくさん積める大型機しか飛ばせなかったものが、今後は思うように客を集められない場合でも、より燃料消費量の少ない中型機ならこうした遠地へ飛ばすことができるようになります。

これにより乗客が多いときには大型機を、少ないときには中型機をと言った具合に、手持ちの飛行機の効率的な運用ができるようになるためです。

これにより、これまでは需要があまり多くなく大型機では採算ベースに乗りにくかった長距離航空路線の開設も容易となりました。

燃料の消費率も少ないというメリットも含めると、この機は従来型よりもはるかにコストパフォーマンスが高く、日本ではANAやJALが新たな国際線への参入を予定しているほか、他国でもこの機の購入を予定している航空会社が多く、これらによる新たなる国際線の開発に向けて大きな期待が寄せられています。

この787は従来型に比べて大きく軽量化を図ることに成功しており、これは炭素繊維を使用した強化プラスチックカーボンなどの複合材料を多用しているためです。

その使用比率は全体の約50%にもおよび、残り半分は、複合材料にすることのできないエンジン等の金属部品なので、実質、機体のほぼ100パーセントは複合材料化されているといえるようです。

ワイドボディとしたため、客室の座席配列は、767やまたヨーロッパ製のエアバスA300クラスよりも広くなり、従来型ではエコノミークラスで2-4-2の8座席が多いのに対し、3-3-3の9座席も可能となり、ジャンボジェットの747のエコノミークラスとほぼ同等の座席幅を確保できるようです。

また、この太い胴体のため、床下貨物大き目のコンテナを2個並列に搭載可能であるといい、客室も従来より天井が20cm高くなりました。従来比1.6倍の大型の窓が採用され、窓側でなくとも外の景色を見ることができるそうです。

窓にはシェードがなく、代わりにエレクトロクロミズムを使った電子カーテンを使用し、乗客各自が窓の透過光量を調節することができる!とか、従来機のボーイング777ではコックピットのみへのオプション装備だった加湿器が、初めてキャビンに標準搭載されており、最新技術を使った空気清浄器も搭載されています。

またトイレには、TOTOと共同開発した、世界初の航空機用の温水洗浄便座がオプション採用されており、ANAでは国際線に導入されているということです。

確かに、高い航空運賃を払わされているのに、トイレだけは旧来のままだよなーと私もかねがね思っていましたので、これを機会に他の航空機における機内環境においても、大いなる変革をはかっていってほしいものです。

ちなみに、新幹線も2014年開業予定の北陸新幹線からは温水洗浄便座が入れられる予定ということで、空のみならず、地上の交通手段におけるアメニティーの向上にも期待したいところです。

このほか、我々が見る機会はまずないといってよいでしょうが、コックピットにも最新技術が導入されていて、777でも採用されていたLCDを多用したグラスコックピットをさらに進化させ、ヘッドアップディスプレイ(HUD)もついているほか、エレクトロニック・フライトバッグ(EFB)と呼ばれる装備も標準装備となりました。

これは、従来操縦士が持ち込んでいた紙に書かれたマニュアル類やチャートなどを電子化し、画面上に表示するものであり、離着陸性能の計算をしたり、地上では空港の地図と自機の位置を表示することもできる最新鋭の装備だそうです。

この787の機体性能ですが、巡航速度はマッハ0.85となり、767のマッハ0.80、やA330、A340のマッハ0.83を上回り、長距離路線では、より所要時間の短縮が可能になりました。

航続距離は最大で8500海里(15,700km)であり、これは前述のように、アメリカ東部のボストンやニューヨークからの東京路線をカバーするのに十分であり、このほかロサンゼルスからロンドン、あるいは、東京からヨハネスブルグへノンストップで飛ぶことも可能だといいます。

炭素性素材を多用するなどして軽量化を図った結果、ボーイング767と比較すると燃費は20%も向上したそうで、これは空力性能の改善にも寄るところが大きいようで、またエンジンも最新の技術が導入されて燃費効率も高まっており、これらの相乗効果によるものです。さらには、軽量化できることによって最大旅客数も若干増加したといいます。

このエンジンは、ロールス・ロイス社製のものとゼネラル・エレクトリックのものの二種類が用意されているそうで、電気接続のインターフェースを標準化したため、これら2種類のエンジンの交換が可能とされており、将来の技術進歩によりさらに高性能エンジンが開発されたときには、異なるメーカーのエンジンと取り替えることが可能になりました。

残念ながらこのエンジンの開発に日本は加わることができなかったようですが、実際のエンジンの製造では、ロールスロイス製のほうに三菱重工と川崎重工が、ゼネラル・エレクトリック製の製造にはIHI(石川島播磨重工)が参加しています。

一方、機体のほうも、その70%近くを日本を含めた海外メーカー、約70社で国際共同開発され、これによって開発費を分散して負担できるとともに、世界中の最高技術を結集した機体にすることが可能となりました。

参加企業は下請けを含めると世界で900社に及ぶそうで、イタリア、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリア、韓国、中国といった国々が分担生産に参加しており、日本からも前述の三菱重工業などの重工各社をはじめとして数十社が参加しています。

日本企業の担当比率は合計で35%と過去最大であり、これは767のときの15%、777のときの20%を上回っており、この35%という数字はボーイング社自身の担当割合と同じということです。日本の航空機産業への参入もついにここまできたかというかんじです。

ただ、先日のあるニュース番組で、コメンテーターのひとりが指摘されていましたが、これら参加企業が持ち寄った技術は各国の最先端技術であり、それらの部品の中にはある部分がブラックボックスになっているものもあるということで、これらを統合した787を「システム」として運用する場合には、そのブラックボックス部分が大いに問題になります。

システムを統合する側のボーイング社自身がシステムの個々の部分のすべて把握できなくなる可能性があるからです。

787はANAを初めとする導入に手をあげた航空会社への導入が、3年以上も遅れました。このため、ボーイング社としては納入を焦っていたようであり、こうしたシステムとしての統合性の確認をどこか怠っていたのではないかと、このコメンテーターさんは指摘されていました。

また、飛行機のフラップなどを動かす動力系統を、従来機では「油圧」などを用いた機械制御にしていたものを、787からはこれらの動力をすべて「電気」にしたということであり、このため蓄電容量の大きく性能の高いことで定評のあった日本製のユアサのバッテリーを使ったということですが、そのあたりに今回の事故の原因はあるのかもしれません。

このほかにも国産の部品が多数使われているということもあり、国内メーカーはそれぞれ気が気ではないでしょう。

このようにボーイング社外の各国メーカーに部品の提供を依頼している関係から、アメリカ以外の国で製造された部品やエンジン等を最終組立工場に搬送するためには、ボーイング社の専用の輸送機が用いられているということです。

日本で787の製造に参加したメーカーの部品は、その多くの生産工場が名古屋近郊にある関係から、中部国際空港を拠点としてこの輸送機が定期的に飛来しているそうです。

787の製造に参画している重工各社のうち、三菱重工業はジャンボジェットの747が計画された2000年5月にボーイングとの包括提携を実現しており、他社よりも機体製造における優位性を持っているようで、この787の開発においてもすでに1994年には重要部分を三菱が担当することが決定しており、海外企業としてボーイングの主翼を担当するのはこの三菱が初めてでした。

ちなみに、三菱が開発した炭素繊維複合材料は、国産の支援戦闘機である、F-2戦闘機の開発をアメリカと一緒におこなっていたときに開発されたもので、これが炭素繊維複合材料が航空機に初めて採用されたケースだということです。

炭素繊維複合材料の研究開発は、アメリカ側でも従来から行って来ていましたが、F-2の開発の最終段階では、三菱側が開発した複合材の方が優秀であるとアメリカ側が評価し、結果的に三菱が主翼の製造の権利を勝ち取りました。

従って、787の主翼の開発においても、この三菱の世界最先端の戦闘機開発で培われた技術が使われており、いまやこうした国産の最先端技術が、世界を飛ぶ航空機にまで応用される時代になったといえます。

一方、胴体の製造では、川崎重工業が前方胴体・主翼固定後縁・主脚格納庫を担当し、富士重工業が中央翼・主脚格納庫の組立てと中央翼との結合を担当しており、三菱が担当する主翼も含めると、機体重量比の半分以上にこれら各社が得意分野とする炭素繊維複合材料が使用されています。

1機あたり炭素繊維複合材料で35t以上、炭素繊維で23t以上も採用されているそうで、世界最大の炭素繊維材の製造メーカーである東レは、ボーイングと一次構造材料向けに2006年から2021年までの16年間の長期供給契約に調印し、使用される炭素繊維材料の全量を供給する予定ということです。

長く経済の不況にあえぐ日本ですが、日本を代表する重工業各社やエレクトロニクス関連企業がこうしたボーイング社の世界最先端の航空機製造技術を持つメーカーの生産に携わるようになっただけではなく、今年はMRJのような我が国独自の技術を投入した「純国産機」も空を飛ぶ予定であり、JAXAの宇宙ロケットのほうも、今後本格的に民用移管が進むようです。

2010年代は、日本では航空・宇宙産業の花開く時代になることはまちがいなく、他の産業のけん引役となっていってほしいものですが、その矢先に起こった今回の事故だけに、一日も早い原因究明が待たれます。

銀色夜叉 ? ~旧修善寺町(伊豆市)

昨日は少々多忙だったため、めずらしくブログをお休みしてしまいました。

1月17日ということで、阪神淡路大震災のことでも書こうかと思っていましたが、あまり明るい話題でもないのでいろいろ調べていたら、この日は、「今月今夜の月の日」でもあるということがわかりました。

ここ二十年近く、神戸の震災の陰に隠れてめっきり話題にされなくなってしまいましたが、これは、ご存じ、尾崎紅葉の「金色夜叉」のお話です。

主人公の貫一が熱海の海岸で、貫一を裏切った恋人のお宮に「いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せる」からと言い放ったというあの有名な物語です。

その十七日の昨夜ですが、曇りどころかナンと夕方から修善寺は雪模様となり、今朝起きてみると、真っ白な世界がそこにあり、ここが本当に伊豆かいな、というような景色が目の前に広がっていました。

山の上ということで、3cmほども積もっており、滑っては困るということで、寝癖のついた白髪頭も気にかけず、階段回りの雪かきをしてみましたが、その様子をまわりからみると、「金色夜叉」ならぬ「銀色夜叉」さながらだったに違いありません。

…… それが書きたかったので、この話題にしたんかい、と突っ込まれそうですが、そんなことはありません。たまたま思いついただけです。

が、どうも最近飛ばすジョークがみんな、おやじギャグめいてしまっていけません。気をつけねば。

…… さて、この「金色夜叉」ですが、尾崎徳太郎こと、尾崎紅葉がこの小説を読売新聞に連載したのは明治30年の元旦からのことです。紅葉が30歳のときのことで、この小説はたちまち大評判となり、翌年4月まで連載が続けられたあと、すぐに日本橋にあった歌舞伎の市村座で舞台になりました。

この舞台での、貫一がお宮を蹴り飛ばす場面は異常なほど話題になり、このあとの二人の運命についての民衆の興味をめぐってその熱狂ぶりは収まらず、その後いったん連載が終わったはずのこの物語の再開を要望する手紙が読売新聞社あてに殺到したといいます。

そのファンのひとりで、ある重病にかかっていた名家の令嬢は、「自分の命はこのままもちそうもない。けれどお宮の運命のほうが気がかりなので、自分が死んだらお花や線香を手向けなくてよいから、「金色夜叉」の連載新聞を毎日墓前に供えてほしい」と言ったといい、これほどまでに熱烈に民衆にその継続が請われた小説は古今そうそうないでしょう。

こうした声に応え、紅葉は明治32年、その連載を再開しましたが、このころからすでに体調がおもわしくなく、これをときどき中断。その後3年にわたって連載を続けましたが、ついに病魔に耐えられず、35歳でついに紅葉自身が死んでしまいました。胃癌だったそうです。

こうして、「金色夜叉」は未完のまま終わり、かつ紅葉の遺作となった作品となりましたが、その評判はその死後のあいだしばらくは衰えず、その後も新派の名作舞台となり、貫一お宮の熱海の場面は映画にもなり、また歌謡曲にも歌われ、さらには上方では芸人のコントとしても扱われ、舞台となった熱海には記念像までも造られました。

ところが、紅葉死後のこのフィーバーぶりとは裏腹に、その後、大正、昭和と時代を経たあとも、貫一お宮の名シーンこそは語り継がれていくものの、肝心の「金色夜叉」の原作を実際に読む人がだんだんといなくなり、平成の今に至っては、「金色夜叉」を手にとる者さえほとんどいないといいます。

その最大の理由は無論、未完のまま作者が亡くなり、その主人公たちの行く末を読者の想像でしかたどることができなかったことにあります。

紅葉は、読者の熱望に応えるまま、「続金色夜叉」、「続続金色夜叉」、「新続金色夜叉」と書き続けましたが、結局この長編は未完に終わりました。

明治の小説でもっとも大衆に愛読されたと言われる「金色夜叉」ですが、もっと早く終わりたくても終わらせてもらえなかったのは、「人気連載小説」というその悲しき宿命でもありました。

作品の緊張感を保ったまま、きちんと生前に完結できていれば、現在も読み継がれていたかもしれないのに、この点は非常に残念です。

しかし、この一方で、「金色夜叉」をはじとする晩年の紅葉の作品は、かの三島由紀夫をして、「浄瑠璃や能の道行の部分であり、道行という伝統的技法に寄せた日本文学の心象表現の微妙さ・時間性・流動性が活きている」と言わしめるほど華麗な文章であり、三島以外の文学者の多くからも賞賛されました。

ただこの文体は、後年、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われるようになり、大正、昭和と時代が下るにつれ、人々から忘れられていきました。

他の明治文学作品は、森鴎外や夏目漱石のものなどのように近代訳されており、紅葉の作品もこの古い文体をわかりやすい現代語に「翻訳」して出版されていますが、なぜか近代的な言い回しにすると逆にそのストーリー性が古臭くみえるらしく、現代に至ってもやはり手にとって見る若い世代は少ないようです。

その代表作ともいえる「金色夜叉」も、かつてはそれほど民衆に愛された小説でしたが、現代の人からみればこれは、男性による女性に対する「復讐劇」ということであり、その後、次第に女性の地位が高まっていった、80年代以降の現代社会の実情にそぐわない内容ということもあったでしょう。

また「高利貸し」という職業に代表されるように明治という時代を舞台とするこの時代の背景描写も現代人には理解しがたい面があり、後世になればなるほど、こうした紅葉作品のストーリーの展開の通俗性が強調されるようになり、これを「文学作品」として真剣に検討されることは少なくなっていきました。

この時代の「風俗」を書いた内容でもあるため、当然、小学校や中学校の教科書に掲載されるようなこともなく、こうして世俗社会でも公的社会でも読まれなくなった尾崎紅葉は、その著者名と、有名になった熱海での寛一お宮のシーンだけが、時代の中に取り残されていきました。

とはいえ、読まれなくなったのは尾崎紅葉だけでなく、そもそも「明治文学」といわれるものは全般的に人気がありません。

明治時代のほとんどの作品が旧かなづかいで書かれているためであり、そうでなくても字離れが進んでいるといわれる現代にあっては、読むのがどうしても億劫になりがちなためでしょう。

かくいう私もあまり読んだことがなく、読もうという気にもなかなかならないのですが、この明治文学と呼ばれるものをリストアップしてみると、とくに明治半ばごろからは飛躍的にその内容が充実してくるのがわかり、我々の良く知る有名作家の数々が登場してきてなかなか壮観です。時代を追って有名なところをあげてみましょう(選:筆者)。

明治17年(1884年) 「怪談牡丹燈籠」(三遊亭円朝)
明治18年(1885年)「当世書生気質」「小説神髄」(坪内逍遙)
明治19年(1886年)
明治20年(1887年)「浮雲」(二葉亭四迷)  「三酔人経綸問答」(中江兆民)「武蔵野」(山田美妙)
明治21年(1888年) 「あひびき」「めぐりあひ」(二葉亭四迷訳)「夏木立」(山田美妙)
明治22年(1889年)「二人比丘尼色懺悔」(尾崎紅葉) 「露団々」「風流仏」(幸田露伴)楚囚之詩」(北村透谷)「於母影」(森鴎外等訳)「胡蝶」(山田美妙)
明治23年(1890年)「伽羅枕」(尾崎紅葉) 「舞姫」「うたかたの記」(森鴎外)「対髑髏」「一口剣」(幸田露伴)
明治24年(1891年)「五重塔」「風流艶魔伝」(幸田露伴)「二人女房」(尾崎紅葉)「文づかひ」(森鴎外)
明治25年(1892年) 「即興詩人」(森鴎外訳) 「三人妻」(尾崎紅葉)
明治26年(1893年)「人生に相渉るとは何の謂いぞ」 「内部生命論」(北村透谷)
明治27年(1894年)「滝口入道」(高山樗牛) 「桐一葉」(坪内逍遙)「亡国の音」(与謝野鉄幹)  「大つごもり」(樋口一葉)
明治28年(1895年)「夜行巡査」「外科室」(泉鏡花)「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」(樋口一葉)
明治29年(1896年)「多情多恨」(尾崎紅葉)「三人冗語」(森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨)「東西南北」(与謝野鉄幹)「照葉狂言」(泉鏡花)
明治30年(1897年)「源叔父」(国木田独歩)「金色夜叉」(尾崎紅葉)
明治31年(1898年)「忘れえぬ人々」(国木田独歩)
明治32年(1899年)「天地有情」(土井晩翠)
明治33年(1900年)「高野聖」(泉鏡花)
明治34年(1901年)「牛肉と馬鈴薯」(国木田独歩)
明治35年(1902年)「地獄の花」(永井荷風) 「重右衛門の最後」(田山花袋)「病牀六尺」(正岡子規) 「旧主人」(島崎藤村)
明治36年(1903年)「「天うつ浪」(幸田露伴)
明治38年(1905年)「倫敦塔」(夏目漱石)
明治39年(1906年)「坊っちゃん」「草枕」(夏目漱石)「野菊の墓」(伊藤左千夫) 「破戒」(島崎藤村)
明治40年(1907年)「蒲団」「少女病」(田山花袋) 「虞美人草」(夏目漱石) 「平凡」(二葉亭四迷)
明治41年(1908年)「夢十夜」(夏目漱石) 「何処へ」(正宗白鳥)「竹の木戸」(国木田独歩)
明治42年(1909年「半日」「金貨」(森鴎外)
明治43年(1910年)「刺青」(谷崎潤一郎) 「網走まで」(志賀直哉) 「青年」(森鴎外)「「麒麟」(谷崎潤一郎)
明治44年(1911年)「泥人形」(正宗白鳥) 「濁った頭」(志賀直哉)
明治45年(1912年)「悲しき玩具」(石川啄木)  「彼岸過迄」(夏目漱石)

ここに出てこない有名作家さんもたくさんいますが、江戸時代から下ってわずか50年にも満たないこの時代に、我々の世代にも馴染みのある作家さんがこんなにもたくさんの小説を書いていたのかと驚かされますし、こうしたリストを見るだけでもこの時代の文芸作家のパワーを感じます。

しかし、どうしても「明治期の作品=教科書に載っている作品」というイメージが強いのでなかなかこれを読破しようという気にならないのは私だけではないと思います。

が、その昔、本を一般市民にも普及すべく、必死になって文芸運動を繰り広げたのが、こうした明治期の文芸作家さんたちだったわけであり、肩の力を抜いて、現代の小説と同様の単なる日本文学作品のひとつというスタンスでもう一度読み返していくと、新たな発見があるのかもしれません。

このリストをみてわかるように、この中には、尾崎紅葉とその仲間たちの名前もかなり頻繁に出てきます。

なぜ現代ではそれほど人気がないのに、この時代にはこれほど多くの文学を発信できたのか、その出自を知ることは、こうした明治文学の全部の出発点を知ることにもなると思われるので、それについてごく簡単にまとめておこうと思います。

尾崎徳太郎は、1868年(慶応3年)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の浜松町)に生れました。父は、いわゆる幇間(ほうかん)で、根付を彫る仕事もしており、職人としてはそれなりの腕を持っていると評判であった「尾崎惣蔵」という人物です。

幇間は、「太鼓持ち(たいこもち)」ともいい、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業であり、現代の「ホスト」のようなイメージもあり、あまり世間体のよくない職業でした。

もともとの尾崎家は商家だったようですが、紅葉の父の惣蔵代には既に廃業しており、徳太郎こと紅葉はこうした父の職業を恥じ、親しい友人にもその職業を隠していたといいます。

1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母のもとで育てられ、寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。

このときの同級生に「幸田露伴」や他にも大正自由主義教育運動で有名になる「沢柳政太郎」や京都帝国大学初代校長になる「狩野亨吉」らの有名人がいました。

しかし、府第二中学はその校風にそりが合わなかったのかすぐに中退してしまい、愛宕の漢学者の「岡千仭」という人物の「岡鹿門塾」で漢学などを学び、その後三田の英学校で英語も学びはじめ、大学予備門入学を目指し始めました。

そして19歳で東京大学予備門に入学し、このとき1級下には紅葉の幼なじみの山田美妙がおり、また野球と器械体操好きの夏目漱石、俳句好きの正岡子規がおり、彼らとも親交を深めるようになりました。

紅葉はこれらの仲間とともに既に文学活動を始めていたようですが、なかで一番の交際上手は紅葉だったということで、人好きがして、みんなから慕われていたようです。

そんなころ、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきといい、世態風俗などの心理的写実主義を主張した「坪内逍遥」が、その理論を実践すべく執筆した「当世書生気質」が世に出、これがなかなかシャレているということで、紅葉の仲間全員がこれに強い刺激をうけます。

とくに紅葉は発奮してこの逍遥の筆致に似た文章を集めはじめ、これを編集して半紙半切32葉の回覧雑誌「我楽多文庫」をつくりました。これが後年紅葉が主宰する「硯友社(けんゆうしゃ)」のスタートであり、これによってもともと広がりのあった紅葉の交流範囲はまたさらに大きく広がりました。

とくに紅葉が影響をうけたのが江戸文芸に造詣の深かった淡島寒月という人物で、紅葉は寒月に言われて初めて「井原西鶴」を読みました。

紅葉は「黄表紙」などの戯作には通じていましたが、それ以前の江戸文学は初めてだったようで、なかでも「好色一代女」にはたいそう驚き、これをどうしたら逍遥のシャレた近代感覚と合わせられるのか、と思ったようです。

また、ちょうどこのころ幸田露伴が出した処女作「禅天魔」が人気になっており、これを読んだ紅葉はこれにも奇妙で斬新な味があると感じます。

こうして、明治21年に「我楽多文庫」が公売されるようになると、紅葉も自分で新しい小説を書くようになり、とくにこの露伴の作品に強い影響を受けた紅葉は、最初の作品「二人比丘尼色懴悔」を発表します。

これは、許婚の愛人を失った「芳野」という女性が仏道に入って供養のために諸国をめぐるというお話です。諸国めぐりをするうちに行き暮れて山間の草庵をたずねると、そこに若い尼がおり、この尼と夜話をしているとその尼も夫を失っていて、それは実は芳野の許婚の夫だったという話でした。

素材と文体は西鶴の「好色一代女」などを参考とし、とくに露伴の文章を強く意識して何度も練りなおし、かなり凝った文体であったこの作品は、彼のもくろみどおり、大当たりします。

そして、その印税はかなりの額になり、大きな収入を得るようになった紅葉は、このころまだ23才にすぎませんでしたが、喜び勇んで同じ文学仲間たちと頻繁に熱海に遊びに行くようになりました。

このころの熱海には既にいくつかの旅館がありましたが、まだ観光地になる前のことであり、浜辺には多くの自然が残っていたといいます。そしてこの訪れた熱海を舞台として生まれたのが、のちの「金色夜叉」です。

この後紅葉は、幸田露伴とともに大学在学中ながら読売新聞に迎えられ、ここで文学欄の充実のために働くようになり、ここでも才能を発揮しはじめます。やがて牛込横寺町(現飯田橋、神楽坂近辺)に引っ越して結婚もし、ここからの紅葉は若いながらも文壇の一大センターの中心のような存在となっていきます。

かつて自分が創立した「我楽多文庫」は、「硯友社」と名前を変え、このころには文芸の梁山泊の趣きを呈しており、人好きで有名だった紅葉のもとへは、文士の卵が次々に集まり育てられ、ここから「泉鏡花」や「徳田秋風」、「小栗風葉」といった英才が輩出されていきました。

とくに、これらの「弟子」のひとり、「泉鏡花」の師の紅葉への奉仕的ともいえる敬愛は、異常なほどだったといいます。

こうした紅葉の絶頂期に書かれたのが「金色夜叉」です。

実は、この「紅葉」という名前には、その由来となったある料亭があります。そのころ芝にあった「紅葉館」というのがそれで、ここは、この当時、鹿鳴館とも並び称されたほどの名士交流の場であり、尾崎徳太郎だった紅葉は、この旅館の名前を自分のペンネームにしました。

紅葉自身も芝の生まれであり、このころ文壇においては右に出るものはないといわれるほどの栄華を誇った彼にとって、おそらくその誉の象徴というつもりのネーミングだったでしょう。

この旅館にとびきり美人の「中村須磨子」という女給がいて、紅葉がいろいろ面倒をみていた学生のひとりが、ぞっこん惚れこんでいました。このころ一世風靡した巌谷大四という資産家の息子だったそうです。

ところが、この須磨子は、このころ既に大手の出版社になっていた「博文館」の社長の息子に見初められ、結局はそこへ嫁いでしまいます。これを知った紅葉は須磨子に「なぜ巌谷君のところに行ってやらないのか」と迫りましたが、須磨子は美貌を曇らせて泣くばかりだったといいます。

これをみた紅葉が、この「恋の社会」の理不尽に深く心を動かされて創作のヒントを得たといわれるのが「金色夜叉」です。

このころにはちょうど日本にも近代資本主義が萌芽しはじめ、「金持ちと貧乏書生」の愛という構図や「資本家と女工」の哀史というような構図が新聞などではゴシップ記事として取り上げられ始めた時期です。

紅葉もまた「金色夜叉」の中で、須磨子を「鴫沢宮」に、巌谷を一高生の「間貫一」に置き換え、博文館社長の息子を金貸しの「富山唯継」に仕立て、それぞれをモデルに借りて新たな長編作品を構想しました。

題名も凝りに凝って「金色夜叉」とし、そのストーリーは、今ここで改めて書く必要もないほど有名になっていますので割愛しますが、圧巻はなんといってもその「雅俗混淆」ともいえるその文体でした。

その絢爛な文章は目にして心地良いだけではなく、読みあげてみてもすばらしく、その音と律動にこの明治という時代の人々は酔いしれていきました。

たとえば例の熱海の海岸の場面では、

「宮は見るより驚く逞(いとま)もあらず、諸共(もろとも)に砂に塗(まみ)れて掻抱(かきいだ)けば、閉ぢたる眼(まなこ)より乱落(はふりお)つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨(さまよ)ひて、迫れる息は凄(すさまじ)く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後(うしろ)より取縋(とりすが)り、抱緊(いだきし)め、揺動(ゆれうごか)して、戦(をのの)く声を励せば、励す声は更に戦きぬ」。

といったかんじで、このあと、「どうして、貫一さん、どうしたのよう」というセリフが入ります。

そしてかの有名な「僕がお前に物を言ふのも今夜かぎりだ。一月の十七日、宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか。再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、一生を通して僕は今月今夜を忘れない」云々が続き、ついにはお宮を下駄で蹴り飛ばす、というあの名シーンに入っていくのです。

この金色夜叉はそのストーリー展開の巧みさや創作性の高さから、紅葉のオリジナル作品と思われていました。

ところが、後年、1980年代になって、紅葉が興した硯友社文学を全体的に再評価しようとする人たちがあらわれ、その典拠や構想についての研究が進んだところ、この金色夜叉は、アメリカの小説にヒントを得て構想されたものではないかという説が出てきました。

2000年(平成12年)、北里大学の講師であった、「堀啓子」氏は、ミネソタ大学の図書館に所蔵されているバーサ・M・クレー (Bertha M.Clay) という無名作家が書いた「Weaker than a Woman (女より弱きもの)」がその種本であるという論文を公表し、このことは、金色夜叉は彼のオリジナル作品だと考えていた研究者たちにとっては大きな衝撃を与えました。

実は、あまり知られていないことですが、紅葉はかなり英語力に優れた人だったようで、イギリスの百科事典「ブリタニカ」が日本ではじめて丸善で売りに出されたとき、最初に売れた3部のうちのひとつは紅葉が買ったものだったといわれています。

ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にしたという説もあるようですが、いずれにせよ、このころ、胃癌をかこい、死期が近いことを知っていたと思われる紅葉にとっては、その入荷待ちの時間が惜しかったようで、この百科事典の購入は紙幣で即決しており、このことを同じ作家仲間の「内田魯庵」は、

「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」

と評しています。

こうしたことから、尾崎紅葉はその英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを巧みに翻案して自作の骨子としてとりいれたものと考えられ、そう考えると、彼の元から多くの明治文学作家が巣立って行ったその素地には、英米の大衆小説文化の流れがあったことがわかります。

この金色夜叉の種本が存在すると公表した「堀啓子」氏はその論文の中で次のように述べています。

「多くの大衆読者にわかりやすく、一時的な楽しみを与えるストーリーテリングは、読後に響く「謎」を残してはならない。いかなる場合であっても、作中の登場人物の一連の動きには決着はつけられ、そうした意味での整合性が成り立つように著される。

こうした作品を読む読者は、「娯楽」として切り取られた時間の、独立した楽しみを求めるのであり、それを日常に持ち帰ろうとはしないからだ。この種の小説の多くが「鉄道小説」と称され、列車の中、という時間的空間的に外界と遮断された箇所に持ちこまれるのはそうした理由からだ。」

結局「金色夜叉」は、尾崎紅葉が存命中には完成せず、そのストーリーもまた多くの「謎」を残したまま、その結末は彼の死とともに迷宮入りし、その華麗なる文章もその後の時代の変遷の中に埋もれ、現代人が電車の中に持ち込む「秘密の一冊」になりうることはできませんでした。

この「失われたストーリー」ですが、しかし、1940年頃に企画された中央公論社版の「尾崎紅葉全集」の編集過程で、創作メモが発見され、貫一が高利貸しによって貯めた金を義のために使い切ること、宮が富山に嫁いだのには、意図があってのことだったという構想の一端が明らかにされたそうです。

遺稿の断片が整理された「金色夜叉腹案覚書」というものが後年作られ、これによると、最後に寛一は高利貸しを廃業し、宮のことを許すという内容になる予定だったようです。

こうした話をもとに、金色夜叉の続編を勝手に創作する人などもいるようですが、いまだにそういった類がベストセラーになったというお話は聞きません。

かつて尾崎紅葉が「金色夜叉」で仕組んだ華麗なる文章は、彼の稀代の「大実験」であったわけですが、当時の文学としても大実験だったがゆえ、その創作にはかなり苦しみぬいたようです。

古い文体から脱出するために紅葉はあえて卑俗な設定を試み、華麗な擬古文体で織り成すことにしたわけですが、こうした文章はたった一行でも手を抜けば、たちまち物語は卑俗なものになりがちです。

そしてこれだけ苦しみぬいた上で創作された美文も、後年の口語文で書かれた小説が一般的になると、古めかしい文章として嫌われ、もともとが俗なストーリーであるがゆえに他の明治文学作品のように翻訳されることもなく、時代が下るにつれ、人々から忘れられていきました。

しかし、紅葉が創作したその芸術的ともいえる文体で彫りこまれた「金色夜叉」は、その後の昭和の時代に新たな文体にチャレンジした三島由紀夫や野坂昭如の作風にも大きく影響を与えたといわれており、彼らの作品もまた、その後の文学作品に影響を与えていきました。

かつて国木田独歩は、紅葉の作品を評して「洋装せる元禄文学」であったと語ったそうです。

古きは江戸に確立された元禄文学を、近代文学に昇華させたその功績は、間違いなく日本文学における大きな金字塔だったといえるでしょう。

ありし日の紅葉は、江戸っ子気質そのままの性格で、弟子たちにはやさしい半面、短気な面もありよく小言を言っていたといい、しかしその叱り方は口の悪さと諧謔さがまざりあった独自のものだったらしく、泉鏡花ら弟子たちは叱られるたびに師の小言のうまさに感心したそうです。

紅葉の最期の言葉は、見舞いに来た人々の泣いているのを見て言った、「どいつもまずい面だ」だったそうです。

いつの時代にも傑出した人物は周囲の人々を惹きつける何かを持っています。かくある私も紅葉にあやかり、人気者でその一生を終えたいものです。

ぶきみの谷のアシモ

毎年お正月になると、日本の今後の技術開発はどうなるか、といった経済モノの特集番組が組まれます。そのひとつに、「ロボット」を特集したものがあり、新しいものとラーメンが大好きな私としては、ぜひ見ておきたいと思い、録画しておきました。

今朝、すこし早起きしたのでそれを思い出し、見てみたのですが、この特集番組のトップバッターは、本田技研工業が開発した二足歩行ロボット“ASIMO”でした。

予測運動制御によって重心を制御して自在に歩くことができ、階段の上り下りや駆け足し、ダンスまでできるロボットで、そのコミカルな動きをみたことのある人も多いことでしょう。

ASIMOの開発

「ASIMO」という名称はAdvanced Step in Innovative Mobility 略ということで、意訳すると「革新的モビリティ開発の旗手」ということになりますでしょうか。

その開発は1986年以前より秘密裏に行われていたそうで、最初のモデルは、「Eシリーズ」と呼ばれる下半身だけの実験型であり、その後、「Pシリーズ」と呼ばれる人型をした試作型を経て、「人型」にかなり近いモデルである「P2」が正式に発表されたのは、17年前の1996年のことです。

その開発の動機には、手塚治虫の鉄腕アトムがあったとされており、経営難に陥った時にマン島TTレースやF1レースなどの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直したことでも知られる、創業者の本田総一郎さんの「遊び心」によりその開発にゴーサインが出たと伝えられています。

このP2が公表された当時、二足歩行ロボットは早稲田大学での研究開発が最先端と公表されていました、ホンダから発表されてそのベールを脱いだ時点で、ASIMOはこうした大学研究室の水準を遙かに凌ぐ人間型自律二足歩行ロボットであったことがわかり、世界中のロボット研究者がその水準の高さに仰天したといいます。

ASIMOの研究は、その後、さらに形状を人型に近づけたP3の発表を経由して、2000年以降、現行の形状に限りなく近い改良型モデルが次々と発表されました。

発表されたモデルは、見た目にはその形状はほとんど変わらないように見えましたが、それぞれ費用の軽減や軽量化がより進められており、2005年の「ASIMO 2005」では、旧型よりもさらにバランス能力の向上が図られ、従来モデルの歩行速度が、1.6km程度だったものを、このモデルでは歩行速度、2.7km/hにまで引き上げました。

またこのモデルからは、時速6kmで「走る」ことができるようになり、自動で受付案内やワゴンを使ったデリバリー作業等を行なえるようになるなど、単に二足歩行する「人形」からさらに「知恵」を身につけた知能型二足歩行ロボットへと変身しました。

2011年11月8日に発表された最新モデルでは、これよりもさらに重量が6kgも軽減され、最高速度も2005年モデルよりも3倍も速い、時速9kmに向上したほか、知能のほうも更なる進化を遂げています。

この最新型のASIMOの身長は130cm、重量は48kgであり、重量の対身長比をみると少々人間より重めですが、その動作は限りなく人間の生活に近くなるよう作られていて、人の動きを感知し、自律的に行動することが可能です。

例えば人を追従して歩行、手を出すと握手する、障害物を回避する、音源が何であるかを認識する、階段歩行などが行える、などなどであり、あらかじめ設定することにより音声認識と発音も可能だそうです。

また、3人が同時に発する言葉を認識することができるようになり、予め設置された空間センサーの情報を基に人の歩く方向を予測し、衝突を避けることが可能となったほか、手話をこなすこともでき、身体能力の向上により片足けんけんや両足ジャンプなどが連続して実行することまでできるようになりました。

私が見たこの番組では、このほか、ステンレス製の水筒のふたを器用に開けて紙コップ!に飲み物を注ぐ様子も放映されていて、とくに指先の柔軟性が向上し、「感触」を覚えることが可能となる圧力センサーなどの大幅な改良がはかられたことがわかります。

このASIMO、現状では販売の予定などはない「試作品」だそうですが、今後ともさらに改良を重ねて開発を続けていくとして、いったいどのあたりで「完成形」として発売することになるのでしょうか。

これについてのインタビューアーの質問に対するホンダ技研の開発担当者の答えとしては、「こうしたロボットは、人間をアシストする、ということを目的として開発されている以上、何等かの形で十分に人間の「代用」が務まるようになるほどの実用化がはかられてから」というものでした。

この答に対して、インタビューアーの「知花くらら」さんが、現状でも「ASIMOカフェ」なんてものに十分に使えるのではないか、と突っ込んでいましたが、紅茶やコーヒーの運搬をしながら客にお愛想ぐらいを言うことぐらいは現状のモデルでも朝飯前にできそうであり、私からみてもモデルの完成度はかなり高まっているようにみえました。

現状では販売はしていないものの、問い合わせに応じていろいろなイベントなどに貸し出されていて、2002年には、ニューヨーク証券取引所の始業ベルを人間以外で初めて鳴らしたこともあるそうです。

本田技研としては、今後はASIMOの技術を応用し、福島原発のような危険な現場で活用するアーム型ロボットも開発する予定だといい、また現状でも、ASIMOの技術を応用した一人乗りの小型ビークル、”UNI CAB” などの応用製品が試作されています。

このUNI CABは、ひょうたんのような外見を持つ、高さ60cmほどの電動乗用一輪車であり、東京モーターショーを一月後に控えた2009年9月24日に本田技研工業本社で初公開されました。

操縦桿などの操作装置は一切なく、その移動は、これに乗った人が「体重移動」をすることでコントロールでき、自動的にバランスを取るので静止したままでも倒れません。車輪のタイヤ部分は横向きに並べた複数の小径車輪で構成されているということで、小径車輪の回転で真横へも移動することができます。

バランス制御には二足歩行ロボットASIMO(アシモ)の技術を応用しているといい、テレビでも知花さんが試乗していましたが、ほんのちょっとの試し運転ですぐに運転できるようになり、室内をスイスイと乗り歩いていました。現状でも、足腰が不自由な人が室内の移動に使うのにも使えそうで、その実用化もそれほど遠くないようにみえました。

しかし、ASIMOのように車輪を持たず、二足歩行型で移動するロボットでは、まだ仰向けやうつ伏せに転倒した場合に起き上がることができないなどの問題もあるそうで、人間の生活環境に置くにはまだ多くの課題をクリアーする必要があり、実際にこうした人型ロボットを我々が身近で見ることができるようになるのはまだ少々先の話のようです。

なお、本田技研は、ASIMOの開発途中の段階で、ローマ教皇庁に人間型ロボットを作ることの是非について意見を求めたそうで、その結果として問題がないことを承認してもらったといい、今後のロボットの人間との共存における倫理性の問題までも視野に入れて今後の開発を行っていこうとしているようです。

アンドロイドサイエンス

こうしたASIMOのような「ロボット」と呼ばれるものにもいろいろなものがあり、その一般的な定義としては、「人の代わりに何等かの作業を行う装置」、もしくは、「人や動物のような機械」であり、これをもう少し詳しく書くと以下のようになると考えられます。

1. ある程度自律的に連続、或いはランダムな自動作業を行う機械。例・産業用ロボット、軍事用ロボット、掃除用ロボット、搾乳ロボットなど。

2. 人や動物に近い形および機能を持つ機械。「鉄腕アトム」や「機動戦士ガンダム」等のSF作品に登場するようなもの。いわゆる「人造人間」や「アンドロイド」と称されるものであり、広義には「パワードスーツ」なども含まれる。

日本では従来、ロボットというとASIMOにも代表されるような「2」を指す事が多かったようですが、近年では実用性の高い「1」のロボットのほうの研究が先行しており、日本の技術力は世界でもトップクラスといわれています。

しかし、「2」に関する研究も進んでおり、こうした研究では、単にロボットを機械と考えるだけでなく、「人間との共通点」あるいは「人間との相違点」について研究する「アンドロイドサイエンス」と呼ばれる学究分野の確立が進んでいます。

あまり聞き慣れない用語かもしれませんが、「アンドロイドサイエンス  (Android science)」
とは、生身の人間と、アンドロイドのような「人造人間」のような機械との相互作用やお互いの「認知」を調査、研究する学問です。

将来にわたって、もし見た目も動きも人間とほとんど寸分も違わないようなアンドロイドが開発されたとして、その内面的な面においても、社会的、心理的、認知的、神経科学的などのあらゆる面において優れたパフォーマンスを持っていると仮定しましょう。

そうしたアンドロイドが仮にできた場合、研究者はこうした優れたロボットを使って、生身の人間の被験者とこのアンドロイドの比較研究をすることが可能になります。

そして、その研究の過程では、人間とアンドロイドのどこが違っていて、どの分野においてどちらが優れているか、その違いを近づけていくためには何が必要かを研究していくことができ、その研究結果に基づいてよりそのアンドロイドに人間に近い生態学的な機能を与えていくことができます。

また、この研究の過程では、人間とアンドロイドとがお互いに共存していく上において、お互いにどのように認知しあっているか、例えばアンドロイドの行動が人間の精神面にどのように影響するのか、あるいはその逆で、人間の行動がアンドロイドの「精神回路」にどのような影響を与えるかがわかります。

アンドロイドと人間の被験者との相互作用をテストすることができるようになり、現在の認知科学と工学がより発達した将来では、アンドロイドと人間との関係だけでなく、その結果から人間同士の関係についても研究が進み、このことによってますます人間に酷似したアンドロイドの開発が進むと考えられています。

現状では、人間に限りなく近いアンドロイド、なるものは存在しませんが、今でこそそのギャップは大きいものの、将来にわたって人間と機械の差が縮まっていくとそれを比較研究できるようになると期待されており、ある段階からはその差はさらに飛躍的に縮めることができるのではないかといわれています。

過去の人間の技術力の発展と同様、将来のロボット技術においては、こうした比較→差の修正→進化→比較→修正→更なる進化、といった過程がだんだんと加速していくと考えられているわけであり、その結果としての「Xデー」にはついに、人間とアンドロイドはほぼ同じものになる、というわけです。

こうしたアンドロイドサイエンスという考え方はまだ確立されているわけではありませんが、ASIMOの開発においても似たようなプロセスが既に実践されています。

例えば人間が歩行するときの機能とASIMOの歩行の違いを研究した結果、その違いは「足」の構造にだけあるのではなく、上半身のバランスがその歩行に大きな影響があることがわかったといいます。

同様に、例えばロボットの「精神」について人間との違いを考えていく場合、それがシナプスなどの精神伝達機能だけによるものだけではなく、「脳」における機能をも考慮しなければ解決できない問題であることは誰しもがわかっています。

であるならばその違いを解消していくためには、脳の機能の解明がロボットに「精神性」を持たせるための最短の道であり、脳と同じ機能を持つコンピュータの開発においてこれに「思考」する能力を持たせ、これと人間の思考を比較するということもアンドロイドサイエンスの一環というわけです。

不気味の谷現象

ただ、こうしたアンドロイドサイエンスの確立が更に進み、「人間に酷似したロボット」が完成されるまでには、こうした人間の機能を「疑似的」に真似る装置の研究開発を進めるだけでは不十分であり、まだまだ現状の科学でも解明されていない問題や課題も多く、そこまでに至るには遠く険しい道のりが予想されます。

その道のりの険しさを予想させるもののひとつとして、「不気味の谷現象」というものがあります。

これは、ロボット工学者の森政弘・東京工業大学名誉教授が1970年に提唱した理論であり、人間のロボットに対する感情的反応についての現象です。

近年、とくに二足歩行ロボットの開発が進み、ロボットがその外観や動作において、より人間らしく作られるようになってきていますが、こうしたロボットに対して我々は、例えばASIMOのようなロボットに対しては、そのひょうきんな動き方などに「なんとなく」好感を覚え、ときには共感を持ってみることができます。

しかし、ロボットによっては、とりわけ人間にきわめて近いような形をしたものについては、「ぶきみ」にみえることがあります。

人間が話かけるとこちらを向いてにっこりと笑いながら、擬声によって「コンニチハ、ご機嫌いかが」とかしゃべってくれる「受付ロボット」などが開発され、テレビなどで公開されているのをご覧になったことがあるかと思います。

こうしたロボットは、合成樹脂などで人間の肌に限りなく近いような顔を作り、髪の毛などもできるだけ人に近づけた上で、顔の表情や口の動きなどを内蔵されたモーターで「自動制御」してできるだけ自然に見えるようにしたものです。

こうしたロボットは、ぱっと見た目には、まるで人間と寸分違わないようにみえるのですが、ひょんな拍子でこちらを向いたときに、「ギロッ」とこちらを見て「睨まれた」ように感じられることがあり、こうしたときには、それまで好意をもって見ていた見方が一瞬にして変わり、突然強い嫌悪感に変わる、といったことがあります。

このように、ロボットにはその外観や動作において、より人間らしく作られるようになるにつれ、より好感度があがり、共感を持てるようになっていきますが、その類似度がある一定の限度を超えると、突然、強い嫌悪感情がわいてきます。

このため、これよりもさらに人間に近づけようと更にその外観や動作に手を加え、見分けがつかなくなるほどに似せて作り込んでいくと、再びより強い好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるようになるといいます。

このロボットを人間に似せていく過程において、最初は外見と動作が「人間にきわめて近い」ために好感が持てるロボットが、ある時点で「人間と全く同じ」であるがゆえに、急激に嫌悪を感じるようになるといった人間の著しい感情の差異を森教授は、「不気味の谷」現象と呼びました。

今後「人間型ロボット」を開発していく上において、人間とロボットが生産的に共同作業を行うためには、人間がロボットに対して親近感を持ちうることが不可欠ですが、「人間に近い」ロボットは、逆に人間にとってひどく「奇妙」に感じられる場合があり、親近感を持てないほど「不気味」に映るものもあることからこうしたネーミングがなされました。

この現象は次のように説明できます。

まず、対象とするロボットが実際の人間とかなりかけ離れたルックスである場合、人間的特徴の方が目立ち認識しやすいため、親近感を得やすいものです。

SF映画がこの世に初めて出てきたころ、いろんな人間型のロボットが登場してきましたが、これらの多くは二足歩行するなど人間の形状は真似てはいるものの、表情などはなくその形はデフォルメされていて、その多くは「雪だるま」のような剽軽さを覚えます。

ところが、近年のSF映画に登場するロボットでは、その形状をかなり「人間に近い」ものに近づけているものも多くなり、こうしたロボット中には「非人間的特徴」の方が目立ってしまい、観察者に「奇妙」な感覚をいだかせるものがあります。

ちょっとSF古い映画で、「メトロポリス」という映画がありましたが、これに登場するロボットがまさにそれで、かなり人間に近い形状をしている分、その動きや「表情」などをみると、かなりの違和感を覚えます。

よりわかりやすい例えでは、こうした人間型ロボットが不自然に見えるのは、「病人」や「死体」と良く似ているからだといいます。

ただ、死体の場合、その気持ち悪さはわかりやすいのですが、ロボットに対して同じような警戒感や、嫌悪感を抱くのはなぜか、なぜそれが気持ち悪いのか、明確な理由がわからないために、実際には死体よりも不気味に感じるといったことさえあるようです。

これについては、動作の不自然さもまた、病気や神経症、精神障害などを思い起こさせ、否定的な印象を与えるからだろうという説もありますが、実のところよくわかっていないというのが実情のようです。

こうしたロボットを作りこんでいき、さらに人間に似せていくとその嫌悪感はなくなるというのですが、これもケースバイケースのようで、むしろ悪化するのではという意見もあります。

何故この「不気味の谷」の問題がロボット開発において問題かというと、こうした人間のロボットに対する感情が、ロボットを似せていくと、本当に言われているようにV字曲線のように肯定に向けて回復するのかが、実のところまだ誰にもわかっていないという点です。

本当に完全な人間に近づけば好感度が増すのか、そして「人間と全く同じ」になれば好感を持つのかに疑問が残るわけで、いまだかつて「人間と全く同じ」ロボットが作られたことはないため、これについては誰もまだ答えを持っていないというわけです。

また仮に「人間と全く同じ」ロボットができたとしても、ロボットだと聞けば不快感を持つかもしれませんし、ロボットが完璧すぎると逆に気味が悪くなる人もいるかもしれません。こればかりは、本物のロボットが登場してみないことには解決できない問題である、というのがそもそも問題なのです。

つまりは、そんな不気味なものを作って本当に人類のためになるのか、というわけです。

この「不気味の谷」の原理は、実はアメリカ映画のコンピュータ動画のキャラクターなどには既に適用されるようになっていて、映画を見るひとに良い感情を抱かせるためには、不気味の谷に落ちないように、登場人物には人間的な特徴をより少なくする、という技法が用いられたことがあるといいます。

例えば「トイ・ストーリー」における登場人物である人形は、かなり実際の人間よりもデフォルメされており、これがゆえに、たいていの子供はキュートな外見のエイリアンやウッディーが大好きなのだといいます。

これとは逆に、「ロード・オブ・ザ・リング」という映画に、「ゴラム」というキャラクターが登場しましたが、ゴラムの皮膚のきめと唇の周りに唾液のような不気味なものがまとわりついているような外観は、不気味の谷を意識した先進的なモデリングによって完成されたといいます。

このほかにも、「A.I.」というSF映画がありましたが、この映画では新型のアンドロイドがリアルに作られていることに多くの人々が不安を感じている、という設定の未来世界を描いていて、このため映画の中で「肉体祭り」と呼ばれる「ロボット破壊競技」を観衆が見て大喜びするというシーンがあります。

ところが、この引き裂かれる対象が大人のロボットではなく、リアルな少年のロボットになると、観衆はこのロボットが急に愛らしい人間のように思われ、これが破壊されると聞いてみんな静まり返る、というふうに描かれていて、これも「不気味の谷」の理論を応用した作品だといわれています。

こうした映画の世界の話だけでなく、アメリカのプリンストン大学では、猿を使った実証実験が行われ、この実験においては、5匹のカニクイザルに対し、猿の顔のデフォルメ画像と、実物に近いCG画像、実物写真のそれぞれを見せたそうです。

この実験では、猿たちがより多くみたのはデフォルメ画像や実物写真だったということで、実物に近いCG画像を凝視する回数は有意に少ないという結果が得られ、人間だけでなく、猿のような動物にも「不気味の谷」のような現象があるらしいことがわかってきています。

このように、不気味の谷現象だけでなく、人間に限りなく近づくロボットを実現しようとする過程ではまだまだ多くの課題がありそうですが、その開発の過程において、これまでは明らかになってこなかったまた別の新たな分野の問題が出てくることも十分に予想されます。

いつかこうした問題がすべてクリアーになった時代には、かつてのSF映画に登場したような人間とは全く区別がつかないようなロボットも存在していることでしょう。

そのころにはこうした精神的な問題や倫理上の問題もクリアーになっており、ロボットとの結婚なんてのも、普通に行われているのかもしれません。機械と人間が融合する、というのは現状では想像もできませんが、我々の孫や曾孫の世代ではそうした世界の実現も、もしかしたら、もしかして、です。

ただ、そのころにはもう人間はこれまでのような肉体を地上に持つことはやめていて、精神世界だけで生きる存在になっているかもしれません。そして地上のことはロボットにまかせ、じぶんたちは宇宙のはるかかなたまで飛んでいき、その世界の住人には現在の我々が「宇宙人」と呼んでいる存在のように見えるようになっているかも……

妄想は膨らみます。されど、されど……です。