私を高いところへ連れて行って ~富士山

昨日の伊豆地方は激しい雨と風で一日中天候は荒れまくり、先週までの好天はどこへ行ってしまったの?というかんじでした。

伊豆では雨で済みましたが、お昼すぎにテレビを見てびっくり!かつて住んだ都は一面の銀世界にあり、あちこちで車がスリップしたり鉄道や他の交通機関が止まったりで大騒ぎのようです。

ですが、白い雪に覆われた懐かしい町をみると、これはこれで妙にうらやましく、伊豆でも降らないかな~と窓を開けて空を眺めてみるのですが、どうやらここでは降るよしもなさそうです。

2階へあがり、北側の空を眺めてみると、いつもの青空は影をひそめ、空は厚い雲に覆われていますが、よくみるとその雲は均一ではなく、厚い雲と薄い雲がまだら模様になっていて、それらが東から西へと足早に動いていきます。

ふだんはそこに見える富士山の上の雲は西から東へと流れているのに、それらはいつもと逆の東から西へと流れており、これは名古屋沖を北上する発達した爆弾低気圧に向かって流れ込む東寄りの風によるものだとわかります。

全天が見えるというわけではないのですが、山の上のこの地から見える広い空とそこを流れていく雲をみあげていると、伊豆半島のど真ん中にいる自分の姿が想像でき、地球の上に立っているなという実感を味わうことができます。

東京でマンション住まいをしていたときにはこうした感覚はなく、広い関東平野の西のはじっこにあるその住宅街から見ていた空はひどく狭く、天候を気にするよりもまず、その環境の息苦しさに先に注意が行ってしまったものです。

これとは比較にならないほどの開放感のある広い空を手に入れた今は、より天上に近づいたような感がありますが、もし可能ならばさらにこれより高いところに住みたいとも思います。

今後さらにそうした場所に移住する可能性がないわけではありませんが、なかなかそうした場所に気に入った土地や家が手に入るとは限りません。なので当面は、山登りなどによって一時的にそうした高いところを訪問するだけということになりそうです。

日本一高い場所にある町

そこでふと思いついたのが、日本一高い場所にある町はどこかな、ということで、早速これを調べてみました。

「町」という定義からすると、何等かの「役場」が存在するところということになりますから、この線で調べてみると、どうやら日本一高い場所にある役場は、長野県の川上村の村役場のようで、その標高は1185mということがわかりました。

この川上村は、その西側に八ヶ岳を望む場所であり、八ヶ岳の広大な裾野である「野辺山高原」の一部のようです。この北側には奥秩父山塊の支脈があり、その隣には「南牧村」や「南相木村」といった同じく野辺山高原に属する村々があります。

川上村役場が高地にあるのと同様、この南牧村の役場も標高1030mの高地にあって、日本で三番目に高い場所にある役場です。こうした1000m近い場所にある日本の市町村役場をその標高順に並べてみると次のようになります。

長野県川上村 1185m
群馬県草津町約1180m
長野県南牧村約1030m
長野県原村約1000m
長野県南相木村約990m
長野県北相木村約970m
福島県檜枝岐村(ひのえまたむら)939m
長野県木祖村約925m

草津町をのぞけば、一位から六位までをすべてこの八ヶ岳東山麓の村々が占めていて、どうやらこれらの村々が属する野辺山高原一帯が、日本一天上に近い「居住」に適した場所ということになりそうです。

単に標高が高いだけでなく、年間を通して降雨量が少なく晴天の日に恵まれる日も多いということで、国立の野辺山天文台や、電波宇宙観測所といった施設もあり、鉄道ファンのみならず天文ファンも集う場所として有名です。

ちなみに、我々が一昨年前に移住先を探し始めたころ、一番最初に訪れたのがこのひとつの「原村」で、ここは東京にも比較的近い高原にあるリゾート地ということで近年人気を集め、多くの別荘が建てられています。

しかし、人気の場所であるだけになかなか売りに出されるような別荘地は少なく、いいなと思うところには既に家が建っていたり、農地のために住宅地が建てられないような場所も多く、こうした土地に家を建てるためには、宅地への転用許可申請などのために時間がかかります。

環境といい、眺めといい、大いに気に入った土地柄ではあったものの、結局良い物件をみつけられず、この地への移住はあきらめました。

日本一高い場所にある駅

上述の村々のうち、南牧村には、JR東日本の小海線(こうみせん)の野辺山駅(のべやまえき)という駅があって、これはJRの駅の中では最も標高の高い位置にある駅であり、その高さは1345.67mで、この駅で販売されている記念入場券には「空にいちばん近い駅」とあるそうです。

ちなみに、逆にJRの駅の中で一番標高が低いのは、東京の総武快速線、馬喰町駅(ばくろうちょうえき)のマイナス30.58mです。

また、世界で最も高い位置にある鉄道駅は中国チベット自治区にあるタングラ駅の標高5068.63mだそうです。これに比べれば八ヶ岳東麓のこれらの村々ははるかに低い場所になりますが、それでも東京スカイツリーの二倍以上の高さの1300mを超える場所に鉄道駅があること自体が不思議なかんじがします。

なお、鉄道の線路が敷かれている場所で最も高い位置は、野辺山駅のすぐ隣の駅の清里駅との間にある同じ小海線の中の地点で、ここの標高は1375mです。

さらに、JRの鉄道路線以外のトロリーバスのような路線も含めた中での日本の最高標高の駅は、立山黒部アルペンルートのトロリーバスのターミナル駅、室堂駅の2450mになり、ロープウェイまで含めるとなると、その最高峰は中央アルプス駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅であり、ここの標高は2611.5mです。

室堂駅は、ここから東側にある大観峰駅まで出ているトロリーバス路線の始点駅であり、この大観峰駅からはさらにロープウェイを乗り継いで、かの有名な黒部ダムサイトまで行くことができます。駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅のほうは終点であり、ここからは富士山はもちろん、雄大な南アルプスの山々を一望に見ることができます。

以上のことから、とにかく歩いて行くのはイヤ、動力でできるだけ高い場所に行きたいという人で、その中でも鉄道などの公共交通機関を使って日本で最も高い場所まで行きたいということになると、それは立山か駒ヶ岳ということになります。

日本一高い場所にある道路

ちなみに、乗用車で行ける場所は?ということになると、富士山には、「富士スカイライン」を使って、五合目の標高約2400m地点まで行けます。が、到達できる高さはこの駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅にわずかに及びません。

一般国道でもその最高地点は長野県と群馬県の境にある志賀草津道路の「渋峠」でその標高は2172mだそうです。

ただし、現在「一般車両全面通行禁止」となっている、岐阜県高山市丹生川町にある「乗鞍スカイライン」の最高標高は2702mということで、この高さは上述のいずれをも凌駕しています。

通行禁止になった理由は、この道路が、日本一の高度を走ることのできる「雲上のスカイライン」としてあまりにも有名になり、観光客のマイカーで溢れかえって渋滞が続くようになったため、著しい排気ガスによって自然破壊が進んだためのようです。

このため、乗鞍岳自体が中部山岳国立公園の特別保護区に指定されて規制が厳しくなるとともに、2003年(平成15年)からは通年マイカー規制となり、一般車両は走行する事ができなくなりました。

しかし、路線バスやタクシーによってここまで行くことは可能で、バスの場合、ふもとの「平湯温泉」から定期便が出ており、最高峰付近の「畳平」まで片道約1時間10分ほどで行けるようです。往復料金2200円かかりますが、楽して高所に行きたいという人にとってはそれほど惜しい出費ではないかもしれません。

日本一高い場所にあるホテル

さて、以上のように、鉄道や乗用車などを使えばそれなりに高所へ行けることはわかりました。がしかし、これらの場所へはその日に行って帰ってくるだけの、いわばタッチ&ダウン式の訪問であって、せっかくそこまで行っても、その場所の風景や環境を短時間しか味わうことができません。

いや、そうじゃないんだ、せっかく行くんだからその場所の雰囲気をじっくり味わいたい、できればそこに1~2日は滞在してみたい、という人にとっては、何等かの宿泊施設がある場所で一番高い場所はどこなの?ということになると思います。

そういう場所というのはおそらく、高所にあるリゾートホテルか、もしくは山小屋のようになると思うのですが、まず、ホテルとして一番高いものはどこかを調べてみました。

すると、これは前述の木曽駒ヶ岳ロープウェイの千畳敷駅、2611.5mに併設して建てられている「ホテル千畳敷」のようです。

この千畳敷駅に至るロープウェイの始点は、ふもとの標高1661.5mにある「しらび平駅」であり、ここと千畳敷駅との高低差は950m。終点の千畳敷駅は「千畳敷カール」と呼ばれる雪渓の中にあり、ここにはスキー場もあって、かつ木曽駒ヶ岳の登山口ともなっています。

ホテル千畳敷はこの駅舎に併設されており、客室は全室和室で、16部屋。食堂、お風呂なども備えている鉄筋コンクリート造り3階建てのホテルです。

客室数が少ないことから万人向けとはいえませんが、このロープウェイは冬季も含めて通年営業されており、またふもとの駒ヶ根市街にはたくさんの別のホテルもあることから、必ずしもこのホテルに泊まらないと駒ヶ岳観光ができない、というわけでもありません。

千畳敷駅のある2611m地点からは南アルプスの眺めが雄大に見えるそうで、またやや北よりには富士山も望むことができ、ここからのご来光が美しいと評判のようです。

一昨年前に移住先探しをしていたころには、この麓の駒ヶ根や伊那などの土地を見て回り、このころには、ここに住むようになったらぜひ一度登ってみたいと思っていましたが、結局移住先が伊豆になったために、ここへの訪問はいまだに果たせていません。なので、私としても一度は行ってみたい場所でもあります。

このほか、前述の鉄道(トロリーバス)駅としての最高地点駅である、立山の「室堂駅」2450mにもホテルが併設されていて、こちらは「ホテル立山」といいます。

ホテル千畳敷のほうは通年営業していますが、こちらは冬季には、積雪20メートル、最低気温摂氏マイナス24度におよぶ酷寒の地にあることもあり、冬期はふもとからのバスなどの交通が遮断されるため休業となります。

が、6階建ての鉄筋コンクリート造りであり、客室数は和室、洋室を合わせて85室もあるほか、入浴施設もあります。

ちなみに、私はこのホテルにタエさんと結婚前に行ったことがあり、宿泊こそしませんでしたが、お食事もできる立派なレストランもあって、高所にあるホテルとしてはなかなか良い設備だなと思いました。

ここを訪れたのは、10月のおわりだったと思いますが、すでに積雪は3m近くあり、ホテルの周囲は一面の銀世界で、その雪で覆われた見渡す限り広い平原地帯のまわりには、立山、剱岳、室堂といった神々しい山々がそびえていて、ここが天上の世界か、と思えるほど美しい場所でした。

その見事な景観から通年を通じて多くの観光客が訪れ、厳冬期でも山岳スキーの愛好家には人気のスポットのようです。が、一般人が冬季にここを訪れるのはまれで、スキーなら11月初旬までか、4月以降の春スキーがシーズンのようです。

秋季の紅葉も素晴らしいとの評判で、夏でも涼しく星空がきれいなことから、天文ファンならずともその美しい星々を見たいがために行く人も多いと聞きます。

その気になれば「ライチョウ」の観察などの自然観察や、周囲の美しい景色をみながらトレッキングできるコースも整備されているようなので、今度は寒い時期ではなく、温かい時期を選んでまたぜひ一度行ってみたいと思います。

日本一高い場所にある山小屋

これらの二つのホテルのある標高はいずれも3000m未満です。これよりさらに高い場所に宿泊したい、ということになるとあとはもう、山小屋しかありません。

以下が、日本にある高所の山小屋のベストテンになります。

1位 赤石避難小屋 3,120m 南アルプス(赤石岳)
2位 北穂高小屋 3,100m 北アルプス(北穂高岳)
3位 荒川中岳小屋 3,080m 南アルプス(荒川岳)
4位 槍ヶ岳山荘 3,060m 北アルプス(槍ヶ岳)
5位 南岳小屋 3,000m 北アルプス(南岳)
5位 北岳肩ノ小屋 3,000m 南アルプス(北岳)
5位 大汝休憩所 3,000m 北アルプス(立山)
8位 穂高岳山荘 2,996m 北アルプス(奥穂高岳)
9位 剣ヶ峰旭館 2,980m 木曽御嶽山
10位 御岳頂上山荘 2,950m 木曽御嶽山

1位の赤石避難小屋は無人の小屋になり、その名の通り赤石岳などに登頂する人のための緊急の小屋です。ですから仮に「宿泊」を目的に行くとすれば、最も高所にあるのは2番目の北穂高小屋からになります。ただし、こうした山小屋は厳冬期には閉鎖されてしまうものが多く、この北穂高小屋も営業は、4月から10月の終わりまでです。

もっとも、こうした山小屋に宿泊だけを目的で行く人は少ないと思いますし、またこれらの山小屋はあくまで登山客が山に登るための一時通過のための宿泊施設ですから、温泉や豪華な夕食を期待する人向きではありません。

が、メシはともかく、温泉だけでもという人は、以下の山小屋では温泉にも入れるようですから検討してみると良いかもしれません。

温泉のある山小屋(高所順)

1位 みくりが池温泉 2,430m 北アルプス(立山室堂)
2位 高天原山荘 2,285m 北アルプス(高天原)
3位 湯元本沢温泉 2,150m 八ヶ岳(夏沢峠)
4位 鑓温泉小屋 2,100m 北アルプス(白馬鑓ヶ岳)
5位 白馬岳蓮華温泉ロッジ 1,475m 北アルプス(白馬岳)
6位 三斗小屋温泉 1,470m 那須(茶臼山)
7位 県営くろがね小屋 1,346m 東北(安達太良山)
8位 法華院温泉山荘 1,303m 九重山(坊ガツル)
9位 三条ノ湯 1,103m 奥秩父(雲取山)
10位 赤湯温泉山口館 1,050m 上信越(苗場山)

ちなみに、富士山の山小屋は、これらよりも高い標高にあるものも多く、最高地点にあるのは、「御来光館」でその標高は、ナンと3450mだそうです。150名もの宿泊キャパがあるようですが、一番高いところにあるということもあって、夏季にはかなり混雑しているようです。

予約もできるようですが、場所が場所だけに、予約したからといって必ずしもここまで辿り着ける人ばかりではありません。このためこうした富士山の山小屋では、飛び込み客も受け入れてくれる場合も多いようです。

が、それにしてもこうした富士の山小屋はそれでなくても近年の富士登山ブームでどこも混雑しているようですから、一応の予約はしていったほうが安全でしょう。

さて、以上、長々と高いところに行きたい!人向けの情報をかき集めてみましたが、ご参考になったでしょうか。

私自身は、やはり今年はぜひ富士登山を目指したいと思います。できれば宿泊施設に頼らず、夜登ってその日の日中に下ってくる「直行直帰」をひとりで実現したいと考えているのですが、そうしたいと言うとタエさんが横目でにらむので、山小屋もしかたないかな~と考え始めているところです。

季節はまだ冬であり、その日が来るまでにはまだまだ時間がありそうなので、どうやって富士山を攻略するかについては、またおいおいじっくり考えることにしましょう。

今もこの部屋の窓から見える富士山は手に取るように近くに見えます。あそこまで修善寺から誰かロープウェイでも引いてくれればいいのに……と思うのですが、そんなわけにはいきません。

やはり歩いて登るしか今は方法はなさそうです。今からしっかり体を鍛えて来たるべき日に備えることにしましょう。みなさんも今年はぜひ体を鍛え、富士山にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

コクリコの花


先日からひいている風邪はかなりよくなったものの、のどをやられていて、声が魔法使いのジイさんのようです。もとからあやしいジジイなのですが、これが魔法使いのような声になるといかなるキッカイな人物になっているだろうかはご想像にお任せします。

あいかわらず外へ出る元気もまだないので、水仙やアロエ見物のための下田行きは今週末考えていましたが、来週にしたほうがいいかな~とおもったりしています。なので、この週末はコタツに入って、正月に録り溜めてあった映画などをみて過ごすことにしましょう。

昨夜のテレビでも、一昨年前に話題になったジブリ映画の「コクリコ坂から」を放映していました。前から気になっていた話題作でしたが、東京ではついに見に行く機会もなく、伊豆へ来てからはビデオでも借りに行こうと思っていましたが、思いがけなく放映されるということで、ここぞとばかりに録画してじっくり鑑賞させていただきました。

感想としては、とくに派手な描写のある映画ではないものの、全般を通して爽やかな空気が流れているような内容であり、雰囲気づくりといい、絵もきれいでなかなかよかったと思います。誰しもが見たあとにホッとするといったストーリーも単純ながらよかったのではないでしょうか。

この映画、1964年に開催された東京オリンピック前年の1963年5~6月に時代を設定し、その舞台を横浜近くの町にしたということですが、登場する学校や病院などはすべて架空であり、背景画などもこの当時の横浜の風景を想像して描かれたようです。

が、いつかどこかで見たことのあるような風景ばかりだったような気がするのは、私が昔育った広島や山口でも同じように坂を下った先に海が見える風景があり、これと重ね合わせてみていたためでしょう。

映画の主題歌は、1976年に放映されたテレビドラマに使われていたもののリバイバルで、これを唄っていたのは森山良子さんです。「さよならの夏」というタイトルで、この当時高校生だった私は森山さんの声が大好きで、たしかLPも持っていたと思います。

そしてこの曲もその中に入っていたはずであり、どうりでこの映画のプロモーションが一昨年全国で大々的に繰り広げられていたとき、どこかで聞いた曲だよな~と思ったわけです。

作曲は数々の昭和歌謡を手掛けてヒットを飛ばした「坂田晃一」さんで、有名なヒット曲としては、ビリーバンバンの「さよならをするために」とか、西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」などがあり、これらは今すぐにでも歌えそうです。

作詞のほうは、「万里村ゆき子」さんとうことですが、失礼ながらあまりヒット曲はなく、この「さよならの夏」が最たるものかもしれません。ただ、ほかに岩崎宏美さんが歌った「すみれ色の涙」もこの人の作詞であり、これもそこそこヒットしましたね。

妙に懐かしいような哀愁を感じさせる名曲で、この曲をバックにアニメながらも昔ながらの横浜の風景が流されるこの映画をみて、昔見たふるさとの海辺の風景などを思い出されたのは私だけではないと思います。

光る海に かすむ船は
さよならの汽笛 のこします
ゆるい坂を おりてゆけば
夏色の風に あえるかしら
わたしの愛 それはメロディー
たかく ひくく 歌うの
わたしの愛 それはカモメ
たかく ひくく 飛ぶの
夕陽のなか 呼んでみたら
やさしいあなたに 逢えるかしら

こうした曲を聞くと、広島の港の高台から海を眺めて過ごした少年時代を思い出します。太陽の光できらきら反射している海を行きかう船を見ながら、かつての高射砲陣地の跡が残るその高台の草原に寝っころがっていると、ときおり本当に汽笛が聞こえてきて、ああいい気持ちだな~と子供心に感じたことなどが昨日のことのように思い出されます。

今、日本国内においてこうしたのんびりした港風景が見れる場所というのがどのくらい残っているのでしょうか。少なくとも広島港の湾岸はほとんど宅地開発されていて、こうした場所は残っていないでしょう。

この映画の舞台となった横浜もまたしかりであり、へたに横になって海など眺めていようものなら、浮浪者と間違われてしまうに違いありません。

ただ、ここ伊豆ではこうした海の見える高台に草原が残っているような場所も多いと思いますので、これからもう少し暖かくなったら、そういう「特等席」を探して山々を行脚してみるもの良いかもしれません。これはこれで楽しみです。

ところで、「コクリコ坂から」という題名は、1980年代の少女漫画雑誌に掲載されていた同名の漫画のタイトルそのままということで、この「コクリコ」というのはフランス語で「ひなげし=ポピー」のことだそうです。

ヒナゲシは、漢字では「雛芥子」と書きますが、このフランス語のコクリコにも当て字があり、「雛罌粟」と書くようです。ヨーロッパ原産のケシ科の一年草で、あのアヘンなどを作る芥子(けし)の一種ですが、園芸品種として改良されたものであり、アヘンのような薬効はほとんどないようです。

ひなげしは、別名虞美人草(グビジンソウ)ともいわれます。そのいわれは、中国の伝説に由来していて、秦の時代の終わりごろの武将の「項羽」の虞(ぐ)という愛人、つまり「虞美人」にまつわるものです。

三国志の世界のお話ですが、項羽はその領地である中国の大地をめぐって仇敵の劉邦と長年戦ってきましたが、あるときついに劉邦に敗れ、垓下(がいか)という場所に追い詰められます。

項羽軍を完全包囲した劉邦は勝ち誇り、ここで自国の楚の国の歌を配下の兵士たちに歌わせたため、これを聞いた項羽側は大いに嘆き、このことから「四面楚歌」という言葉が生まれました。

このあと項羽は虞美人という愛人と別れ、死を覚悟して敵中を突破してついには果てます。その敵中突破の前に項羽が詠った歌が「垓下の歌」といい、虞美人はこの歌に合わせて舞いを舞ったといいます。その内容は、

力拔山兮氣蓋世 (力は山を抜き、気は世を覆う)
時不利兮騅不逝 (時利あらずして騅逝かず)
騅不逝兮可奈何 (騅逝かざるを如何せん)
虞兮虞兮奈若何 (虞や虞や汝を如何せん)

という、自分が死したあとの虞美人の行く末を案ずる歌でしたが、当の本人の虞美人はこの歌を聞きながら舞ったあとに自害してしまいます。彼女を葬った墓の前には、次の年の夏に赤色のヒナゲシの花が咲き、それからは毎年のように咲くようになったといい、こうした伝説から、ヒナゲシのことを虞美人草と呼ぶようになりました。

同名で夏目漱石が明治40年に小説を書いていますが、その内容は、許婚(いいなづけ)の関係にあった二組の男女の話が絡まって展開していく中で、そのうちの一人の女性の利己と道義の相克心理を描いたものです。

漱石の小説の中ではもっとも地味なもののひとつであり、男女関係の内面をえぐろうとした意欲作であったものの、登場人物にもあまり魅力のない社会小説のような内容であり、虞美人草やコクリコ坂の物語のような悲しい、あるいは哀愁を帯びたラブストーリーが大好きな日本人にはあまり受けませんでした。

このヒナゲシことポピーは、耐寒性の一年草で、初夏に直径5~10cmの赤・白・ピンク・黄・オレンジなどの様々な色の花を咲かせ群生するため、日本各地の庭園で植えられて、「ポピー祭り」なるものがよく開催されているのを目にします。

改良されて八重咲きの品種が多いようで、八重というと豪華に聞こえますが、アヘンがとれるケシやオニゲシに比べるとずっと華奢なかんじで、薄い紙で作った造花のようにも見えます。いかにも弱々しく、すぐに折れてしまいそうな風情があることから、こういう悲恋の物語における象徴花としても使われることが多いのでしょう。

花言葉も、恋の予感、いたわり、思いやり、陽気で優しい、忍耐、豊饒などなどであり、やさしくて芯の強い女性を想像させるようなものが多く、およそ私のような50過ぎのオヤジには似つかわしくない花です。

もっとも、ヒナゲシの花言葉には「妄想」というのもあり、こちらは私にぴったりですが……

この花は、このようにひ弱なイメージがあることから、ヨーロッパでは葬儀の際などに良く使われるようで、この花に対するイメージは日本で言えば「菊」のような印象があちらの人にはあるようです。

とくに第一次世界大戦においてイギリスとその同盟国であった諸国では、赤いポピーがこの戦争における犠牲の象徴とされていて、フランスでもその国旗にある赤色はこの花の色を表しているそうです。

毎年11月11日が「リメンブランス・デー(Remembrance Day)」とされていて、これは1918年の11月11日に第一次世界大戦の講和条約が締結されたことからこの日を記念日としたものであり、イギリス中心としたヨーロッパ各地ではこの日に追悼記念式典が行われます。

イギリスでは、「ホワイトホール」とよばれる中央省庁や政府機関が数多く連立する地区の戦没者記念碑前に女王陛下をはじめ首相や官僚が集まり、戦没者を偲んで毎年この日の午前11時に2分間の黙祷が行われ、ヒナゲシ(ポピー)の花輪が捧げられます。

何故ポピーの花かというと、第一次世界大戦中に、ヨーロッパで戦場になったベルギーやフランスの野では、この当時ポピーの花がたくさん咲いていたそうで、数あるポピーの花の中でもとくに赤い色が戦死者の血の色を思わせることから、赤い色のポピーの花が戦死者のシンボルになったということです。

1915年に、カナダ軍医であり、兵士としてフランスのフランドル戦線で戦ったジョン・マックレア(John McCrae)という人が書いた、戦争の犠牲者を悼む詩も大きく影響しているといわれ、この詞は「In Flanders fields(フランダースの野にて)」という題名でヨーロッパ中で広く知られ、有名です。そのまま引用すると、

“ In Flanders fields “

In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

フランダースの野にポビーがなびく
十字架の間に、漕ぐように、
これが私たちの場所、そして空には
ひばりが、雄々しく歌って、飛んでいる
銃の下ではほとんど何も聞こえない 。

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

私たちは死んだ。数日前に
私たちは生きた、夜明けを感じ、輝く夕日を見た、
愛し愛された、そして横たわる
フランダースの野に。

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.

敵との戦い、
失った手からあなたたちに投げかける
光を、あなたたちのために高くかざし、
もしあなたたちが私たち死者の信頼を裏切れば
私たちは眠れないだろう、ポピーが咲く
フランダースの野で。

という内容であり、ヨーロッパの荒れ果てた荒野に累々と横たわる死者のそばのあちこちで咲くポピーの様子が想像され、いかにももの悲しく悲壮なかんじがします。

ヨーロッパ、とくにイギリスでは11月になると真っ赤なポピーの花を胸につけている人をよく見かけるようで、これは、1921年にイギリス王室関係のセクションが、戦没者への募金を集めるために赤いポピーが売りはじめたところ、この運動が年々盛んになっていったためのようです。

現在ではこの日が近づくと店のレジ横などに赤いポピーが置かれていて、毎年多くの人々が募金活動に参加しているということであり、第一次世界大戦からはもうすでに100年近い年月が経っているというのにヨーロッパの人々はまだこのときの痛ましい記憶が忘れられないのでしょう。

日本でも第二次世界大戦後で多くの方が亡くなりましたが、第一次対戦中のヨーロッパと異なり、その国内の戦場の多くは焼け野原となり、ヒナゲシの花の咲くような風情どころではありませんでした。

が、終戦を迎えた夏におもに咲く「野菊」がみられる地方も多く、戦争を主導したとされる皇室の紋章も「菊」であることから、敗戦というと「菊」をイメージする人も多いことと思います。

死者に花をたむけるという風習の起源は、死臭を花の香りで消すためであったというのが定説のようですが、ヒナゲシも菊もどちらかというと芳香漂うという花ではありません。

なのに、これらが死者の花として使われるのは、その花弁の美しさには、この世にあって最高の芸術作品であると感じさせるような何かがあり、その何かがこの世の生命の営みを感じさせるためでしょう。

この世の役目を終えて逝く人には、そうしたこの世の最高のものを持たせたいと古人は考えたに相違なく、時に香り発ち乱れ咲く花は、いつかは一生を終える人間にとっては生命への惜別の象徴でもあります。

花の種類こそ違え、洋も和も問わず人々が死者に花を手向けるのは、花には何かそういう役割というか、深い意味が持たされているような気がします。

ただ、「人はなぜ、死者に花を手向けるか」を論じ始めると、これはかなり奥の深い文化論になっていきそうなので、今日のところはこれ以上この問題について語るのはやめておきましょう。

そういう難しい問題は棚上げにするとして、今はこの風邪をいかになおし、下田へ花を見に行く体力を回復することに執念を燃やすことにします。

まだまだ寒波の襲来が続くようです。みなさんも暖かくて栄養のあるものを食べて体力を温存し、来たるべき「花見の季節」に備えましょう。

軽より高性能の小型モビリティを


最近、日本航空やANAが導入した最新型機、ボーイング787の不具合が続けざまにおこり、話題になっています。

新型の飛行機に限らず、我々が普段乗っている乗用車も、新型が出てすぐにリコールの対象になったりします。リコールなどによる不具合は、それにかかる費用もばかにならないばかりか、信用不安にもつながりかねないため、各メーカーにともそれなりの時間とお金をかけて、新車開発を行っているようです。

しかし、実際に走らせてからでないと出てこない不具合もあって、世界一優秀で故障が少ないと評判の高い日本車であっても、毎年のように何等かのリコール対象になる車が出てくるのはしかたのないことのようにも思えます。

私も若いころには何台かの新型車を買いましたが、思いもかけないところに不具合が出ることがあって、それ以降は新しい車にすぐ飛びつくということはしなくなりました。

現在乗っているホンダ車も、5~6年前に新型車として出たものですが、その後マイナーチェンジを何度か重ねたあとのモデルであり、およそ不具合らしいものはほとんどないだろう、と判断したため一昨年に購入しました。

おそらくは開発段階までさかのぼると、10年一昔前の設計によるものだろうと思いますが、現在の最新型車と比べてとくに燃費が悪いわけではなく、装備や機能としてもとくに不満もなく満足して乗っています。

車に乗っていて一番怖いと思うのは、高速道路などで違法なスピードを出し、いわゆる「あおる」という行為をする車に後ろにつかれたときとか、前後左右を大型のトレーラーなどに囲まれる状況に陥ったときなどであり、こうした際にも十分にその場を「脱出」できるような、最低限の加速とパワーを持った車を買うようにしています。

また、これ以上に怖いと思うのは悪天候のときであり、雨や風はもちろんのことですが、はげしい降雪があったり道路が凍結している場合というのは、運転者にとっては最悪の状況です。こうした天候の悪化にも対応できるようにということで、ここ10年ほどは乗った車はすべて4WD(四輪駆動)にしてきました。

普段は使いもしない重量の重いプロペラシャフトを積んで走っているわけであり、市街地を走る際などにはこれがあだになって燃費も当然落ちますが、いざ天候が悪化した場合の安心感に代えられるものはなく、とくに大雨で前方がほとんど見えず、道路上は水浸しと言った場合や、吹雪の高速道路を走るようなハメになった場合でも、あわてることなくハンドルを握っていられます。

無論、こうした機能に頼っていてばかりではいけませんが、いざ道路へ出れば好むと好まざるとに関わらずこうした急な天候の変化に出くわすことはままあり、また他者が運転する車はいつでも自車への凶器にもなりうるものであり、安全に関する機能はつけられるものであればできるだけつけておく、というのが私の考え方です。

一瞬の事故で車ばかりでなく、自分や同乗者の命を失ってしまうことも考えればそのための出費は安いものです。

経済的な問題もあるでしょうから、全ての方にこうした考え方を押し付けるつもりは毛頭ありませんが、たとえ軽自動車を買うとしても、快適性能はさておき、こうした安全性能を最優先したオプションチョイスをすべきだと考えています。

もっとも、私は軽自動車は買おうとは思いません。多くの人がこれを選ぶ理由は無論車両価格が安いから、燃費が良いから、税金が安いからでしょうが、あんな不安定な「箱」に乗って、これよりもっと大きな凶器が往来する公道を走るのはゴメンです。

統計的にみても、車両相互での死亡率は普通車に比べて軽自動車では間違いなく高く、1000台あたりの死亡率は1000~2000ccクラスの普通乗用車が1台程度なのに対して、軽自動車はなんとその2倍以上の2.5台です。

最近の軽自動車はその大きさが小さいために、内部容量を大きくするため思い切り背を高くしており、そのために重量が増したため、容易に転倒したり、ブレーキが効かずに追突したりしてしまう可能性が高くなります。

しかも、大きさに制限がありながら、660ccという普通車並みのパワーが与えられ、さらに最近はエンジンの製造技術が進み、一部のスポーツ車ではその排気量には見合わないほどの高出力を出しますが、構造的にはペラペラのこうした軽自動車が、高速道路などで他の普通車に混じって120km以上のスピードで走っているのをみるとぞっとします。

一方では660ccといいますが、これは人一人、ないしは二人分を運ぶのには十分かもしれませんが、多くの軽自動車は4人乗りであり、それを考えるとこんなパワー不足の車に大人4人も乗ることを許可していること自体が国土交通省の認識不足だと私は思います。

私は軽自動車に乗るくらいなら、多少もう少しお金はかかっても普通乗用車に乗ります。たとえ1000ccの普通乗用車であっても、海外へ輸出されているような車種であればそれなりのグローバルセイフティに対応しているはずだからです。

軽自動車は日本国内だけの規格です。海外へ持っていったらこうした危険な乗り物は使いものにはなりません。実際、日本以外でこうした小さい規格の車を造っているのは韓国と中国、そしてフランスだけです。

ただ、フランスのは「フランス・クワドリシクル」といって運転免許がなくても運転できます。が、高速道路も走れず、しかも出力も20馬力以下に限定されています。フランスの法律ではこれは乗用車とは認めておらず、「四輪原付」と呼んでいるようです。

規格からみてこれと日本の軽自動車を同じとみることはできませんから、そうすると軽自動車のようなヘンは車を造っているのは先進国の中では日本だけです。そもそも軽自動車というのがいかに特殊な規格であるのかを理解している日本人自体が少ないのではないでしょうか。

とはいえ、日本のこの軽自動車の歴史もそろそろ半世紀以上になるようで、軽自動車の規格が550cc(現660cc)に設定された1976年からはもう40年近くが経っています。この間、当初のものに比べればそれなりの安全性能も高められた結果、最近ではさらに小型の自動車規格の導入まで取沙汰されています。

「超小型モビリティー」というそうで、排気量125cc以下の超小型車の規格化を日産やトヨタをはじめとする大手メーカーが目指しているようです。

すでに日産自動車は2010年に2人乗りの超小型電気自動車を開発し、横浜市などで公道走行を含む実証実験を進めています。日産を傘下におくルノーもこの姉妹車を開発し、上述の「フランス・クワドリシクル」として、フランス国内をはじめ欧州で販売を開始しています。

トヨタ車体も1人乗りの超小型EV車を開発し、福岡県で実証実験が進められており、この車は既に販売が開始されたといいます。他にもダイハツやホンダ、スズキなどの各社も2011年の東京モーターショーなどでこうしたコンセプトの車を発表しました。

こうした動きを受け、国土交通省も2012年の6月にこうした超小型モビリティについてのガイドラインを出しており、その直後には、これら自動車メーカー各社の開発車両が国土交通省内駐車場に集められ、一部車両の試乗会も行われたそうです。

まだこの超小型モビリティの規格は確定していないようですが、排気量としては125cc程度とし、乗員は二人まで。ただし、重量や大きさはまだ検討中のようです。

主として地域内の手軽な移動・運送を目的とし、従来の「ミニカー」(50cc以下で免許不要)とは異なり、「ある程度の衝突安全性能」を求める、というところまでは決まっているようです。

ここまで小さくなるとさすがに「乗用車」」と呼ぶのさえはばかりがあり、近場の買い物や散のために乗り回す「足」という感覚でしょう。このため、高速道路や自動車専用道は想定されていないようで、この意味では原付と同じです。

ただ、周囲を外板に囲まれていない原付よりも安全、ということで、ひとりまたは二人乗りに限定し、これにかなりの安全性とそれなりのパワーを付加した上で公道を走らせるなら私も賛同できます。

ヘたに原付バイクに道路脇をちょろちょろ走られるより、こうした安定性の高い車が道路の中央をデンと走ってくれるほうがよっぽど安全だと思うからです。が、導入にあたっては、安全性の確保と何よりもほかの乗用車の走行を妨げるようなノロノロ運転をしないように、それなりのパワーとそれに見合った安全性能を与えて欲しいのです。

ちいさな車にパワーを与えた方が良いというと、前述までに書いたことと矛盾するようですが、適正な重量で適格な形状の乗用車にそれに見合った適正なパワーを与えることはむしろ安全性の向上につながります。

ダイハツの軽自動車で、前席2座だけの軽スポーツ車の「コペン」という車がありますが、車重も軽いわりにタイヤサイズも大きく、動力性能も豊かで、とっさの急ブレーキでも高い制動性能を誇るそうです。

私自身は乗ったことがありませんが、軽くて軽快でそのレスポンスの良さによって危険回避をしやすいということを、その多数のオーナーさんが証言しています。

軽自動車の中では車高が低くてこうした安定性のある車は別格といえますが、多くの軽自動車は欲張らずにこうした2座などにして軽量なものを作れば、もう少し積極的に安全性が確保できるのにと思うのです。

従って、「超小型モビリティー」のような新しい規格を考えるのであれば、従来の660ccの軽自動車と統合してその規格を一から見直し、軽量かつ的確なパワーを与え、それに見合った安全性能を確保した車をつくるべきなのです。

ついでに税制を見直し、ばか高い税金が課せられている普通乗用車も、排気量の少ないものに限っては軽自動車同様にすれば、現在軽に乗っている人の普通乗用車へのシフトもしやすくなります。

そして、その下に軽と新しいモビリティを合体させたような規格をつくれば、こうした新しい規格は、現在の軽自動車なんかよりははるかに日本に適した規格になる可能性を秘めているように思います。

ぜひともこういう方向で導入を進めてもらいと思いますが、その前段階として現況のあぶない軽自動車や原付の規格の見直しも行い、これらの車の運行規制も考慮に入れて日本の道路事情の改善をすこしづつ図っていって欲しいものです。

アロエをとるか休みをとるか ~下田市


今年のお正月はゆっくり家でテレビでも見る寝正月にしようかと思いましたが、結局元旦から近くの神社に初詣に出かけ、二日目も三島大社まで出向いてお詣りをしてきました。

人ごみの中を歩きまわるのはあまり好きなほうではなく、これはどうも人の「気」に敏感な体質のためのようですが、案の定、この外出のためか、先週末から風邪をひいてしまって、今も体調不良のままです。

天気が良いのに、体を動かそうとすると筋肉痛やらだるいやらで、外へ出ようという気にならず、このため庭のバラに寒肥をやったりといった手入れなどもしなければな~と思いつつ、まだ果たせないでいます。

もうそろそろ、下田の爪木崎の水仙が咲くころなので、元気になったらこちらにも行ってみたいのですが、タエさんが開花状況をネットで調べたところ、今年は寒波のせいで少し遅れているようで、みごろは1月中旬以降ということでした。

昨年は2月ころにここを訪れましたが、逆に少し遅かったためか、一部枯れ始めているところもありましたが、まだまだたくさんの水仙が咲き乱れ、なかなかの壮観でした。

が、昨年の訪問の際には天気がいまひとつの曇天だったため、今年はぜひ天気の良い、好天を狙って行きたいと思います。おそらく来週にはこの風邪も治まるでしょうから、この連休明けあたりがひとつの狙いめかもしれません。

伊豆は暖かいためか、一年中あちこちで花が咲いているようで、この1月から3月までの主要な花の名所を東海バスさんのHP情報から借用すると、以下のようになります。

1月
梅~ 熱海梅園
水仙~ 爪木崎

2月
梅~ 修善寺梅林
桜と菜の花~ 青野川沿い(南伊豆町)
河津桜~ 河津町
つばき~ 小室山つばき園
梅~ 伊豆アニマルキングダム(伊東)

3月
マーガレット~ 南伊豆町
わさびの花~ 河津町

3月のマーガレットとわさびの花は、いずれも白い花のようで、花自体が地味なのであまり知られていないようです。が、南伊豆町の海岸線沿いを走る136号線沿いは、通称「マーガレットライン」と呼ばれているようで、花卉栽培としてのマーガレットの出荷量は日本一とのことで、とくに町営ガーデン内のマーガレットはなかなかみごとということです。

わさびのほうは、河津町の山沿いの各所にあるワサビ田でみれるようですが、その花というのは私も見たことがないので、これも一度見てみたいものです。3月というと河津桜はそろそろ終わりごろかもしれませんが、河津には通常のソメイヨシノなども植えられているでしょうから、桜の見物と一緒にワサビのほうも見物に行くとよいかもしれません。

その他の梅やつばきといった花は、我々が住んでいる伊豆市近隣の町ばかりなので、これは今すぐにでも行けます。昨年は引越し前でどたばたしていてじっくり味わうこともできませんでしたから、ぜひ今年は堪能したいと思います。

なお、もう終わりかと思っていたのですが、南伊豆町や下田ではまだまだアロエの花が楽しめるようです。とくに、下田の爪木崎のやや北側にある「白浜アロエの里」のアロエは、昨日9日がほぼ満開だったようで、この週末の連休の最終日の14日まで「アロエ祭り」が開催されているとのこと。

今日はまだ風邪気味ですが、少しよくなったら週末に出かけてみるのもよいかもしれません。

この伊豆白浜には、その昔からアロエが多く自生していて、民家の軒先などにも必ずといっていいほど植えられているとのことです。

アロエといえば、外来種として知られる熱帯植物ですが、伊豆では1300年も前から栽培されているそうで、石廊崎にある石室権現という神社にある碑文には、この当時既に飢饉や疫病に苦しむ村人を役の行者がアロエをもって救った、という記録が記してあるということです。

1300年前というと8世紀初頭の飛鳥時代のことですから、このころ既に伊豆に海外からこうした植物を持ち込んできた便船があったということなのでしょうか。あるいは、畿内や九州あたりに伝わったものが陸路でここまでもたらされたのかもしれません。

「アロエ」というと何やら外来植物のような響きがありますが、ここまで古い歴史があるとするともう立派な「日本産植物」といってもよさそうです。

とはいえ、その原産地はアフリカ大陸南部で、とくにマダガスカル島に集中して生育する植物なのだそうで、古い時代に中国に入ってきたときは、そのもともとの呼称である「Aloe」の「ロエ」を漢字で音訳して「蘆薈」という字を当て、「ろかい」と称したそうです。

このため、8世紀以降の日本でもアロエをさす漢字はこれがそのまま使われて定着したようですが、その読みの「あろえ」は原語のまま伝承されたようです。ただし、沖縄ではこの漢字の中国風の発音がそのままなまり、「るふぇー」と発音するようです。

日本への伝来が中国を介してなのか、海外から海を渡ってそのまま直接入ってきたのかはわかりませんが、現在は九州、瀬戸内海、伊豆、千葉と主に太平洋側に多く自生しているそうで、もともとがアフリカのような温暖な地方で生育する植物ですからこうした温かい地方ばかりで生育しているのは当然といえば当然です。

その種類は、300種類以上もあるそうですが、日本では「キダチアロエ」と「アロエベラ」という種類が多く、そのほかアロエ栽培が趣味の人々の間では「サポナリア」とか、「不夜城」とかいった品種のアロエが観賞用によく栽培されているということです。

ちなみに、このほとんどがオレンジ色の花を咲かせますが、アロエベラの花は黄色だそうで、伊豆白浜に数多く自生するキダチアロエは、少し赤みがかったオレンジ色の花が咲きます。

自生のものはもとから町のあちこちで見られていましたが、20数年前にこのアロエを使って村興しをしようと、伊豆白浜でも特にアロエがたくさん自生していた場所を「白浜アロエの里」と名づけて村人が手入れを始め、いまでは結構な観光名所に成長しました。

村全体でいったいどれくらいの本数があるのかは明らかにされていないようですが、海岸線沿いだけでなく、各家々の庭先にまでアロエが植えられていて、この季節は町中がオレンジ色になるということです。

昨年爪木崎の水仙をみるためにこの近隣を通ったのですが、このときは花の盛りは終わっていたものの、確かに至るところにアロエが咲いており、細い石垣の間の道は右も左もアロエで埋め尽くされており、これが満開だったらきれいだろうな~と思ったものです。

この「キダチアロエ」という名称は、「木のように立つアロエ」という表現から名付けられたようです。この「白浜アロエの里」があるのは、下田市白浜の「板戸一色(いたどいちき)」という小さな漁村であり、この「一色」ももしかしたら、木立アロエの赤い色のことをさすのかもしれません。

ここで見られるアロエは、数十年経過している株も多く、樹木のように太く成長した幹となっているものも多く見られるそうで、露地でキダチアロエが育つ環境は全国的にも無雪、無霜のこうした場所に限られ、このように群生出来ること自体が稀といいます。

なぜこのキダチアロエがここまでたくさん植えられたかというと、これはやはり飢饉のときなどのための食用にするためだったようです。花は無臭ですが蜜はあり、これはそのまま天ぷらにして食べれるそうです。また葉っぱのほうも食材として加工して食されたり、染料や調味料、化粧水にも使われ、広い用途があります。

地元の女性はアロエの焼酎漬けを寝酒にしたり、化粧水に加工したりして楽しんでいるそうで、こうした利用にあたっては、基本的に皮付きのままそのすべてが用いられます。が、外皮を剥くとゼリー状の「肉」が出てきて、これはそのまま食しても苦味が少ないため、そのまま湯通しして「アロエ刺身」としても食べれるそうです。

いろいろあるアロエの中でもこのキダチアロエは、昔から「医者いらず」といわれ「薬」としてもよく服用されてきており、とくに葉肉を食べると胃が丈夫になるといわれています。一方ではこの葉っぱには「バルバロイン」という物質が含まれていて、これは下剤効果があるそうなので、便秘の人にも効果がある一方で、食べ過ぎると下痢になります。

また、体質によっては胃炎を起こす場合があり、継続して摂取しすぎると、大腸の色素沈着を起こすそうです。色素沈着とはシミやソバカスのことですが、ふだんは目にみえない大腸ですから、別にシミソバカスができてもいいじゃん、と思うかもしれませんが、外から見えないとはいえ、斑模様の大腸になるのって、やっぱいやですよね。

このほかにもこのキダチアロエが、外用薬として傷や火傷に用いられる場合もあるようですが、逆に悪化させた例も報告されているそうで、どんな場合にもOKというわけではなさそうです。

ただ、ドイツの薬用植物の評価コミッションによれば、キダチアロエの葉の中央の柔組織に存在するゲル状物質に関してだけは、痛みや火傷の回復に対して有効性が示唆されているということです。キダチアロエの葉っぱのすべてが薬用になるのではなく、その一部だけがやけどなどに効くということのようです。

実際、このキダチアロエを家に常備しておいて、やけどに塗る薬がない場合にはとっさに利用する家庭も多いようです。事実私も子供のころにやけどをした際、このアロエの葉っぱを折って、その汁を塗りつけたものです。効いたかどうかはよく覚えていませんが……

このほか、専門機関の研究によれば、長期間の多量摂取や12歳以下の小児の摂取には注意が必要だそうで、また、キダチアロエには子宮収縮作用が有るため、妊娠中の使用は避けるべきとされているそうです。

妊娠中・授乳中だけでなく、月経時や腸の病気の場合にはとくに注意が必要だそうで、やけどなどの外用薬として使う以外でこれを食べる場合には、女性や子供さんは気をつけたほうがよさそうです。

なお、キダチアロエは、「日本薬局方」に基原植物として収載されており、その「薬用」効果が認められていますが、これ以外の観葉植物として出回っているほとんどのアロエには、薬効となる成分はほとんど含まれていないそうです。

なので、やみくもにキダチアロエ以外のアロエに薬用効果を期待して皮膚に塗ったり、食べたりするのは意味がないし、場合によっては副作用もあるかもしれないのでやめたほうがよいと思います。

ただ、「アロエベラ」は、「食用」としてはよく使われるようで、テレビCMなどでもアロエ入りのヨーグルトや、化粧品の宣伝を見たことがある人は多いと思います。キダチアロエと同様、「刺身」にしてもいけるそうです。

さて、ここまで書いてきたら、いやがおうでもアロエを見に行きたくなってしまいました。問題はこの風邪をどうするかです。今日明日と少し養生して、元気になったら週末に行ってみようかなと思ったりしています。

が、その週末にはきっと人が多いんだろうな…… アロエをとるか、人ごみを避けて静かに過ごすか、究極の選択が迫られる週末になりそうです……

スペンサー銃と会津 2


今日は、なぜか「風邪の日」となっているようです。その理由は江戸時代の力士で、この当時としては破竹の63連勝の記録を誇った、第四代横綱の「谷風梶之助」というお相撲さんがで1795年(寛政7年)のこの日に、流感で亡くなったからだそうです。

ただし、この谷風関が実際に亡くなったのは旧暦の1月9日だったようで、西暦では2月27日だったということなのですが、思うに、「○○の日」と呼ぶときは、現在の暦に合わせて決めるべきではないでしょうか。特に季節の移ろいに関係がある記念日のときには、ひと月以上も違っているとまったく無意味になってしまいます。

もっとも「風邪の日」などというありがたくもない日は、誰も気にしていないでしょうから、私としてもそれが1月だろうが2月だろうが一向にかまわないのですが、それにしても、そもそも何のためにこの日を制定したのかという説明自体、何を調べても出てきません。

なのでこれはおそらく、その昔に、厚生省のお役人か医師会か何かが、この日は風邪の日です、ウチへ帰ったら必ず手を洗ってうがいをしましょう、でないと強いお相撲さんでも死んでしまうんですよ~ とかいったキャンペーンを打つためにこの日を制定したのではないかと勝手に邪推してみたりしています。違っているでしょうか。

ま、風邪に気をつけるにこしたことはなく、こういう日を便宜的に設けて、みんなで手を洗ってうがいをしましょう、という呼びかけを小中学校などで広めるのも良いことかもしれません。風邪とはちと違うようですが、ノロウィルスのように伝染性の病気も流行っているようですし……

ちなみに、この「谷風梶之助」さんの63連勝という記録は、1778年の3月場所から1782年2月場所までの足かけ4年で達成されたそうです。が、これは江戸本場所だけの連勝記録であり、谷風関はさらにこのあと行われた京都本場所・大坂本場所でも連勝をしており、1786年までの記録も合わせると、連勝記録は98連勝にもなるそうです。

この当時は一般的に「連勝記録」といえば「江戸本場所」の連勝をさしていたということなので、このため各地を転戦しての98連勝は過去における最多連勝記録となり、地方場所での連勝も含めて「連勝記録」としている現在の大相撲の基準で考えても、この記録はすばらしく、2013年現在でも未だに破られていない「大々記録」ということになるようです。

この谷風関は生前、「土俵上でワシを倒すことは出来ない。倒れているところを見たいのなら、ワシが風邪にかかった時に来い」と豪語していたそうですが、そのとおりその後、江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、44歳であっけなく死んでしまいました。

この谷風関が亡くなったころに江戸で大流行したインフルエンザは、我々が現在「スペイン風邪」と呼んでいるごとく、江戸の町では「御猪狩風」と呼ばれていましたが、谷風関が死んだときからこうした流行性感冒のことを「タニカゼ」と呼ぶようになったといい、その後も江戸で風邪が流行るたびに、これを「谷風」と呼ぶようになったということです。

もっとも現代ではまったく死語になっていますが、万が一今日、白鳳関がインフルエンザで亡くなったら、風邪のことは今後「白鳳風邪」と呼ぶのかもしれません。もっともそれが把瑠都関ならば、「バルト風邪」、琴欧洲なら、「欧州風邪」になり、まるで日本の風邪ではないように聞こえるのですが……

正月早々、縁起の悪いお話はこれくらいにしておきましょう。

さて、昨日、会津藩にスペンサー銃がどうやって流通したかについて書きかけましたが、その補足をしておきましょう。

会津藩への西洋銃の導入にあたっては、会津藩の藩主、松平容保公自らが動き、その配下の家老で梶原平馬(かじわらへいま)という人物が活躍し、その背後にはエドワルド・スネル(エドワード・シュネル)という武器商人がいたと書きました。

松平容保は16才で美濃国高須藩の「松平家」から、会津藩の同名の「松平家」へ養子として入って家督を継ぎますが、その後10年間に時代は大きく動き、容保が26才になった1862年(文久2年)には幕府からの強い要請で「京都守護職」に就任しています。

本人もしかりですが、当初、家老の西郷頼母(たのも)ら家臣は、会津藩が幕末の動乱に巻き込まれていくことをおそれ、この京都守護職就任を断わる姿勢を取りました。

が、この当時の政事総裁職・松平春嶽に、会津藩の藩祖・保科正之が残した家訓「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出されると、容保はこれを断れなくなってしまいます。

そして押し切られる形で就任を決意し、この藩祖の遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、その後幕府滅亡まで運命を共にしました。

京都守護職に就任した容保は、会津藩兵を率いて上洛し朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたり、幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕派の尊王攘夷と敵対していきます。

しかし、1867年(慶応3年)に病没した家茂に代わって15代将軍の座についた徳川慶喜が大政奉還を行うと、江戸幕府は消滅すると同時に、京都守護職そのものも廃止になります。

この直後に、鳥羽・伏見の戦いが勃発しましたが、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は、大政奉還を宣言したその夜、わずかな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、桑名藩主松平定敬、そして会津藩主松平容保と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却しました。

その後会津藩に戻った容保は、今後生じるであろう新政府軍との戦いに備え、京都守護職時代から信頼していた側近で家老の「梶原平馬」に江戸でそのための資金と軍備の調達を命じます。

梶原平馬 (かじわらへいま1842年(天保13年)生)は、会津藩の名家、内藤家に生まれましたが、長じてから、遠祖が源頼朝の側近であった「梶原景時」といわれる同じく会津藩の名家の梶原家に養子入りし、その家督を継ぎます。そして、藩主松平容保に請われ、容保が京都守護職に任ぜられた後はその側近として仕えました。

大政奉還とともに主の容保とともに会津へ帰還する直前の1866年(慶応元年)には若干22才で若き家老となり、その後は会津藩をはじめとする奥羽越列藩同盟の結成を主導するなど、幕末期の会津藩の方向を定めるための中心的な役割を担いました。

幕府が鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、前述のとおり江戸へ下り、容保の命により資金と軍備の調達をはじめましたが、そのときに出会ったのが横浜を根拠地としていたスネル兄弟です。

このスネル兄弟は、ドイツ人、オランダ人、あるいはトルコ系ともいわれていますが、出自についての史料はほとんど残っていません。兄はジョン・ヘンリー・スネル(またはシュネル、John Henry Schnell)で、生年は1843年ころではないかと推定されており、だとするとこのころはまだ24~25才の青年です。

一方の弟のエドワルド・スネル(Edward Schnell)は、兄より一つ年下で23才くらいだったようで、こちらは生まれがオランダであったということはわかっているようです。

大政奉還に先立つこと7年前の1860年(万延元年)に幕府がプロシアと通商条約を結ぶと、初代領事としてマックス・フォン・ブラントが日本に赴任してきましたが、兄のヘンリーはその下で書記官を務めるために来日しました。

弟のエドワルドのほうは、スイスの総領事の書記官として来日したという記録があり、来日後の動向には残っている記録が比較的多いようです。

スネル兄弟は、二人というのが一般的な説のようですが、別のある史料ではこの兄弟にはさらに兄か弟がおり、この人物は「コンアート・ガルトネル」と称し、箱館で商人をやっていたのではないかという話もあります。

函館におけるプロシアの領事であったという記録が残っているようで、この人物がスネル兄弟の本当の兄弟かどうかはよくわかりませんが、いずれにせよ、この兄弟?は、その出自といい、人物像がはっきりしません。

1864年(元治元年)にエドワルドは横浜でフランソワ・ペルゴという商人と共にスイス時計の「シュネル&ペルゴ」という輸入商社を設立しますが、エドワルドが武器販売を優先しようとしたことからペルゴと対立してこの商会は解散しました。

その後、大政奉還が行われた1867年(慶応3年)には、このスネル兄弟がそろって馬車乗車中に、沼田藩(現群馬県沼田市)の藩士に襲撃されたという記録があります。

このころ多発していた攘夷主義者による無差別外国人殺戮事件のひとつですが、このとき襲撃者は抜いた刀でエドワルドに斬りかかろうとしましたが、その寸前、兄ヘンリーが拳銃で反撃したため、エドワルドは九死に一生を得ました。

このことが原因かどうかはわかりませんが、おそらく兄弟は江戸にいては命がない、と思ったのでしょう。それぞれの国の書記官としての職を辞し、新潟に移り、ここで弟・エドワルドは「エドワルド・スネル」商会を設立します。

梶原平馬は、藩主の容保に命じられて江戸入りしていたころに、幕府親藩の越後長岡藩家老、河井継之助を仲介としてこのエドワルドと知り合ったようで、これが縁となり、新潟で設立されたスネル商会から、エドワルド・スネル商会からアメリカ製のライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬の購入の約束をとりつけます。

そして、アメリカ国籍船をチャーターし、同年に新潟港からこれらの荷を陸揚げし、会津に運び込んでいます。

実は、会津藩ではこれよりも前に、平馬よりも20才以上も年長の家老「田中土佐」が山本八重(新島八重)の兄、山本覚馬らに外国製の武器の入手を命じています。

これを受けて山本覚馬らは、プロシアの商人「カール・レイマン」に、神戸で元込銃千挺を注文しています。この銃はゲベール銃という旧式銃で、しかも鳥羽・伏見の戦いには納入が間に合わず、さらにはこの銃は戦争のさなか、新政府軍に押収されてしまっていました。

梶原平馬がスネル商会から購入した銃はこれよりも新式のものだったようですが、調べてみたところ、この銃の中に後年山本八重が手にすることになるスペンサー銃が含まれていたかどうかは不確かであり、それ以前の問題としてこの780挺すべてがスペンサー銃のような新式銃だったとは考えにくいようです。

アメリカから輸入されたということから、おそらくは、南北戦争時代に最も多く使用された、エンフィールド銃がほとんどではなかったか思われます。

エンフィールド銃とは、フランスで開発されたといわれる前装式銃のマスケット銃の銃身内に螺旋状の刻み、つまりライフリング(施条)を加えて命中精度を高めた「ミニエー銃」の派生系です。

フランスで改良されたミニエー銃にイギリス人が手を加えて完成度をさらに高めたもので、いずれも前装式であることから、これらの元祖マスケット銃、ミニエー銃、エンフィールド銃を総称して「マスケット銃」ということもあります。

幕末の動乱で使われた銃としては、

前装施条銃としてはミニエー銃(仏)・エンフィールド銃(英)
後装施条銃としては、シャスポー銃(仏)・スナイドル銃(英)・スペンサー銃(米)

などが主なものですが、後装施条銃は前装施条銃よりも高価であったため、大量に装備するためには、どうしても安価なエンフィールド銃のほうに食指が動きがちです。

大政奉還のあと、容保は軍備の増強についてはそのすべてをこの平馬に任せていたようです。本来は山本八重の兄で、江戸留学の際に佐久間象山のもとで学び、豊富な西洋知識を持った「山本覚馬」がこの任を担うべきところですが、山本覚馬は鳥羽伏見の戦いのとき、反政府軍の薩摩藩に捕えられ、その後幕府崩壊まで幽閉されてしまっています。

このために山本覚馬に代わって抜擢されたのが梶原平馬と考えられますが、梶原平馬はもともとこうした軍事面での知識には乏しく、西洋式銃器の購入に関しても十分な知識は持ち合わせていなかったと思われます。

梶原平馬は会津軍装備のため、幕府から軍資金のほかに、幕府軍が持っていた大砲や小銃、弾薬をも借りていますが、幕府から借りた軍備の中には、銃と弾が合わず使えないものも多かったといい、これは平馬自身の知識不足もあるでしょうが、幕府軍のほうもそうした知識に疎い人物がこれらの装備を整えたためでしょう。

このスネル商会からは、越後長岡藩の河井継之助も多くの武器を購入しており、こうした装備の中にはスナイドル銃やスペンサー銃などの数百挺の元込め銃と、この当時世界最新鋭の武器であった機関銃である、「ガトリング砲」を2挺などが含まれています。

河井継之助はこうした軍備だけでなく経済的な面での藩運営に関しても抜群の才能があり、長岡藩はわずか14万石という小藩ながら、富国強兵を実現し、その後の新政府軍との戦いにおいてはこうした最新鋭の武器を巧みに駆使して新政府軍の大軍と互角に戦いました。

これに対して幕末の会津藩には残念ながら逸材がおらず、このため、スネル商会に騙された、のかどうかはわかりませんが、少なくとも梶原平馬らが購入した銃のほとんど、もしくはすべてがエンフィールド銃などの旧式銃だったと思われます。おそらくは、スペンサー銃も含まれていなかったのではないでしょうか。

そうすると、このスペンサー銃はどこから出てきたということになるのですが、これについては、うそかまことかわかりませんが、もっともらしい話がひとつあります。

大政奉還に先立つ三年ほどまえに勃発した1864年(元治元年)のいわゆる「蛤御門の変」の際、京都を追放されていた長州藩勢力は、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げました。

このとき、長州藩は最新式の銃を持って会津藩に対峙したため、会津藩はこの鎮圧に苦労しつつも、薩摩藩の助けを得てようやく長州藩の駆逐を果たしました。この戦いをみた容保は、長州藩や薩摩藩が持つ最新式の銃に比べ、貧相な旧式銃しか持たない自藩の装備に愕然としたようです。

ただ、この蛤御門の変の際、山本八重の兄、山本覚馬は自分が藩内で育てた砲兵隊を率いてこれに参戦し、それなりに奮戦したのが容保の目にとまり、これを機に公用人に任ぜられるようになりました。

これにより覚馬は、幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え、活動範囲を広げるようになりましたが、この事変により洋式銃の重要さに気づいた松平容保によって最新式銃の調査を命じられ、長崎へも派遣されました。

この調査の際、覚馬は7連発スペンサー銃を入手し、このうちの一挺を会津にいる妹の八重へ送ったのではないかといわれています。実はちょうどこのころ、八重は最初の夫の川崎尚之助と結婚しており、この銃はその結婚祝いの意味もあったとも伝えられています。

しかし、このスペンサー銃は最新式でしたが、このとき入手した弾丸は限られていました。この時期国内ではまだそうした最新銃の弾丸の製造は行われておらず、無論、会津国内でもそうした最新技術が導入されていようはずもありません。

覚馬が八重に多量の弾丸を送ったという記録もないようですから、おそらくは会津戦争の
さなか、持ち弾を打ち尽くした八重は、このころは既に国内生産されていたとみられる旧式のゲベール銃やエンフィールド銃の弾などを流用したのではないかと思われます。

無論、旧式銃の弾は「リムファイアカートリッジ」などの専用弾倉には収まりませんから、単発でこれらの弾を発射したことでしょう。

このように、NHKの番宣を見ていると、山本八重がスペンサー銃を撃った、という事実だけが妙に誇大に放映されていますが、会津藩の実情としての軍備は新政府軍に比べればかなりお寂しいものだったようです。

スペンサー銃を持っていたのはもしかしたら八重一人だったかもしれず、番組を見る側からすれば会津藩兵も最新式銃で新政府軍を苦しめた、という話ならば面白いのですが、現実はそう単純ではありません。

ただ、八重はこの希少な最新銃を使って、幕府軍に夜襲をかけた、というお話もあるようなので、このあたりの事実関係は、また調べてこのブログでもご紹介しましょう。

今日はまだ、風邪も完全に癒えていないのでこれくらいにしたいと思います。スネル兄弟のその後についての記述もまた、次回以降にさせてください。