スペンサー銃と会津


私にスピリチュアル的な思考を与えてくれた飯田史彦さんが、「すべてのことには意味がある」とよくおっしゃっており、またその著書にもそのことがよく書かれています。私もそう思っており、何かにつけことが起こると、これはどういう意味を持つのだろう、と考える癖がついてしまっています。

だとすると、この正月明け、先日からひいてしまっているこの風邪にはどんな意味があるのだろう、と考えたりもしていますが、まだその答えが見えません。

「休めということじゃないの?」とタエさんは簡単にのたまわってくれますが、どうもそうでもないような。だとすれば何ナノでしょう。

痛みをこらえて発奮せよ、という意味かな~とも思ったりもするので、ならば今日もサボらずにブログを続けていくことにしましょう。が、頭がぼーっとしているので、文章が散漫になるかもしれません。ご容赦ください。

さて、先日の日曜日から、今年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」がスタートしました。私は大河ドラマの中でもとくに幕末ものが大好きで、2010年の「竜馬伝」などは、録画しているにもかかわらず、毎回食い入るようにみておりました。

中高校生のころにも、年に似合わず「勝海舟」とか、「花神」とかをよく見ており、こうした幕末モノが大好きなジジくさい少年でしたが、このほかにも「国取物語」などが大のお気に入りで、大学に入るころまでには司馬遼太郎作品はことごとく読破しました。今思えば私の歴史好きは、司馬遼太郎作品とこのNHK大河ドラマが原点かもしれません。

今年の大河ドラマ「八重の桜」も幕末ものなのですが、NHK大河ドラマの中での幕末ものは非常に数が少なく、2010年から2年越しでこれが放送されるのは、極めて異例のことのようです。当初はまったく別のものを予定したといい、先日書いたとおり、東北の大災害の結果を受け、被災者の方々を慰労する内容にしたいとNHKが考えたためでもあります。

その予告編や、先日放送された初回の中で、しきりに主人公の新島八重が、「スペンサー銃」なるものを撃っているシーンが出てきました。後装式の連発銃だということくらいは私も知っていたのですが、実際にはどんな銃で、どういう使われ方をしたのかが気になったので、少し調べてみました。

この銃を開発したのは、アメリカ人のクリストファー・マイナー・スペンサーという人物です。1833年のコネチカット州マンチェスター生まれですから、これは日本でいうと、天保年間であり、同じ年に木戸孝允こと後年の桂小五郎が生まれており、これから幕末期に入ろうかという時期です。

この人は、非常に多才な発明家だったようで、1862年、29才のときには自分で蒸気車を製作したほか、織物機械にも多くの改良をほどこし、初期のころの「自動ねじ切り機」というねじを切る機械開発における先駆者としても知られています。

南北戦争の後、スペンサーはコルト兵器工場で働いていた老技師と知り合い、この人物と協力して、マサチューセッツのアーマストに「ビリングス・アンド・スペンサー会社」を設立しました。

そしてここでミシン用のスプールを旋削する特殊自動旋盤などの製作をはじめていますが、スペンサーライフルの開発はこの自動旋盤の開発よりも1~2年前の1960年ころのことのようです。

彼が開発した連発式ライフルである「スペンサーライフル」はアメリカの南北戦争において北軍に大量に供給され、結果的に南北戦争(1861~1865)の帰結に大きな役割を果たしました。

南北戦争は、奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退し、「アメリカ連合国」を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で内戦となったものですが、彼は当初、合衆国側の陸軍省に自分が開発したこのスペンサー銃導入を働きかけたようです。

しかし、合衆国陸軍はかなり保守的な体質だったらしく、こうした新しい銃を導入するよりも、従来からある先込式の「マスケットライフル」のほうが信頼できるとして、スペンサーの申し出を退けたため、南北戦争に先だってのスペンサー連発銃導入はかなり遅れることとなりました。

しかしスペンサーは自前の銃にかなりの自信があったとみえ、このころ北軍の最高司令官であったエイブラハム・リンカーン大統領に謁見する機会を得た際に、彼が主宰する射撃競技会と兵器の展示会に大統領を招待することに成功します。

そして、その競技会においてスペンサー銃の実射をみたリンカーンは、従来のマスケットライフルの性能を遥かに凌駕するこの銃の性能に驚き、ついにはこれを採用することを決め、軍にこれを製造するよう命じました。

こうしてスペンサー連発銃は、最初にアメリカ海軍、次にアメリカ陸軍によって採用され暫時南北戦争の緒戦において使用されていきましたが、導入が遅かったせいもあり、戦争の終るまでに、その当時の標準装備であった前装式ライフルマスケットと完全に置き換わるほど普及することはできませんでした。

その理由のひとつは、新式の銃にありがちな故障の多さのためだったようで、連発式で装填していると、連発の機構に故障を生じて発射不能になる場合が往々にしてあったといい、結局単発銃として使用されることも多かったためです。

南軍のアメリカ連合国も、この新式銃を導入しようとしましたが、銅の不足のために自前で弾丸を製造できなかったため、その普及は北軍以上に伸び悩みました。

とはいえ、戦争が進むにつれて、スペンサー銃は、多くの北軍騎兵と騎乗歩兵連隊によって運用され、その火力は南軍を圧倒するためには大いに役立ち、このスペンサー銃のおかげとばかりはいえませんが、この戦争は結局北軍の勝利に終わりました。

このスペンサー銃の構造ですが、弾丸は従来のような玉のような円形弾丸ではなく、近代的な椎実型であり、金属性の弾と火薬の入った薬莢を組み合わせて使用する、いわゆる「カートリッジ」型といわれる弾丸でした。

これにより、従来の「鉄砲」のように弾丸を撃つ際に、いちいち粉状の火薬を銃身内に棒で「詰め込む」といった面倒な手間がなくなり、かつ玉を銃身の前側から詰めるのではなく、引き金のある手元から詰め込むことができる分、素早い発射を可能としていました。

スペンサー銃は、この後込めの銃弾を単発で撃つこともできましたが、これに加え、銃床と呼ばれる銃を肩で支えるための木製部分の最後尾から、「リムファイアカートリッジ」という長い円筒状の「弾倉」を指し込むことができる構造になっており、この弾倉には7発のカートリッジが装填でき、このことから7連発の銃弾を次から次へと連射できました。

さらには、この円筒状の弾倉である、「リムファイアカートリッジ」を何本も納めた「ブレイクスリー・カートリッジボックス(blakeslee cartridge box)」と呼ばれる弾薬盒(だんやくごう)も用意されていました。

これは、ポシェットのような革製の弾薬盒であり、この中に6本、ないしは10本および13本の「リムファイアカートリッジ」が納められ、7発の弾丸を撃ち尽くすと、このカートリッジボックスから次のカートリッジを素早く取り出して銃に装填できるように工夫されたものでした。

つまり、一本の「リムファイアカートリッジ」で7発の弾丸を撃ち終えたあと、その動作を6回、10回、13回繰り返すことで、ほぼ連続して銃弾を撃ち続けることができるわけです。

前込め式で一発一発の弾丸を込める旧式ライフルに比べれば飛躍的な速度で連続発射を可能とでき、これ以降更なる改良がくわえられていく「自動装填式ライフル」の原型ともいえるものでした。

ちなみに、先日放送された「八重の桜」で主人公の八重がこの「リムファイアカートリッジ」を銃床の後ろから、銃を横にしたままで充填しているシーンが放映されていましたが、これは間違いです。

実際の装填を行うときには銃口を下にして銃尾よりカートリッジを落とし込むようにして装填したはずで、これにより弾丸の目詰まりを極力防ぐことができます。

こうした工夫により、スペンサー銃は、毎分20発以上の発射を可能とし、戦闘という状況下でも信頼できる銃であるということで高い評価を得ました。毎分2~3発の発射速度の標準的な前装銃と比べて、これは重要な戦術的な利点でした。

しかし、南北戦争においては、こうした高い速射性を十分に生かし切れるだけの戦略はまだ開発されておらず、また予備弾薬を前線に運ぶための供給システムもまた整備されていなかったことから、その性能を十分に生かしきれたとはいえませんでした。

またスペンサー銃のカートリッジで使われた火薬は「黒色火薬」といい、弾丸の発射とともにすさまじい黒煙を発したため、発生した煙で敵が見えにくくなるという欠点がありました。

火薬の問題はその後「無煙火薬」の開発によって解消され、また弾薬装填の速度もその後レボルバー式ライフルの開発やその他の自動装填システムの開発が行なわれ、これらの改良されたものが現在各国の軍隊が保有するライフルにも採用されています。

これらすべての原型ともいえるのがこのスペンサーライフルであったと言っても過言ではないでしょう。

こうした優れたライフルを開発したスペンサーですが、多くの他の発明家と同様に経営の才はなかったようで、このライフルを開発したあとに発明した自動ねじきり機の販売にあたって、自社で機械を工場生産するより、もっと生産性の高い他者に作らせたほうが儲かると考え、社外の人間に機械製作のライセンスを与えてしまいました。

結果としては、ライセンス譲渡による利益はいくらもなく、しかもその他の特許の保護にも失敗してしまい、たちまち多くの他者に同じものがコピーされてしまうという結果となりました。

こうして1869年にスペンサー社は倒産し、その権利は他社に売却され、最終的には西部開拓時代を切り開いたともいわれる銃器メーカーの「ウィンチェスター社」がこれを買い取りました。

スペンサーライフルはこのライフル形式の銃と、これを短くして携行性を良くしたカービン形式の銃の合わせて20万挺ほどが製造され、その後は他国にも輸出されました。南北戦争直後には多くのスペンサー騎兵銃が余剰品としてフランスに販売され、1870年の普仏戦争で使用されたほか、後述するようにその多くが日本へも流通しました。

スペンサー社は1869年に倒産していますが、その弾薬は1920年代頃まで合衆国で販売されていたそうで、その後も改良されたライフル銃とカービン銃が流通しているとのことで、弾丸も真鍮製に改良されたものがいまだ製造され、専門市場で入手できるといいます。私にはよくわかりませんが、マニアにとっては垂涎の的なのでしょう。

さて、南北戦争が終結した1865年がどういう年かというと、この年には長州において高杉晋作が俗論派とよばれた旧長州藩の主流派に反旗を翻し、下関の功山寺で挙兵をした年であり、長崎ではグラバーが日本で初めて蒸気機関車の試運転に成功した年であり、ひしひしと幕末への動乱の足音が聞こえてくるころのことでした。

南北戦争の終了により、アメリカで余剰となったスペンサー銃はちょうどこうした幕末の動乱の時期に徐々に輸入されるようになり、後年、大鳥圭介が率いる幕府歩兵隊が1000丁をアメリカから購入して装備しています。

しかし、後年幕府に反旗を翻すことになる佐賀藩は2000挺、薩摩藩にいたっては16000挺もの数を購入していますが、この銃は旧来の銃よりも高価なこともあって他の藩でスペンサーを購入できたのはごく少数藩にすぎませんでした。

この希少なスペンサー銃を会津藩がどうやって手に入れたかですが、その導入にあたっては、会津藩の藩主、松平容保公自らが動き、その配下の家老で梶原平馬(かじわらへいま)という人物が活躍することによって会津にももたらされたもののようです。

また、武器を提供したのはエドワルド・スネル(エドワード・スネル)という謎の武器商人だったようで、その兄のヘンリー・スネルという人物もこうした会津藩の武器導入に暗躍したとされます。

このヘンリー・スネルは、幕末の新政府軍との戦いにおいて会津藩の軍事顧問を務めており、藩主松平容保からは、その功により「平松武兵衛」の日本名を与えられ、屋敷まで提供されています。

これらのお話が今回の「八重の桜」に盛り込まれることになるのかどうかわかりませんが、歴史に埋もれた面白い史実でもあるため、このことについてはさらに書き進めてみたいと思います。

が、今日は風邪気味なのでこれくらいにさせていただきたいと思います。明日寝込んでいなければまたお会いしましょう。

昭和と平成のはざまにて


めずらしく風邪をひいてしまい、昨日あたりから不調です。正月に出かけた初詣の際にもらってきたのかもしれません。みなさんもお気をつけください。

さて、25年前の今日、昭和天皇が崩御され、時代は昭和から平成へとバトンタッチされました。私はこのときまだハワイ大学の学生で、その前年末の期末試験が終り、短い冬休みのひとときを過ごしていたころでした。

このころ私は、外国人のルームメイト3人とルームシェアの形で大学近くにアパートを借りており、年末年始のことだったため、英米三人の他のルームメイトは、それぞれ帰省中で、アパートには私一人でした。

ホノルルには、Honolulu AdvertiserとHonolulu Star-bulletinという二大紙があるのですが、このアパートではHonolulu Advertiserのほうをとっており、いつものようにアパートの入口のドアの外に放り出すように置いてあったのを、ドアを開け、開いた瞬間に目に入ってきたのは、あの懐かしい昭和天皇のお顔でした。

第一面ほぼすべてが昭和天皇の肖像画という大きな扱いで、demise の文字をみたとき、何が起こったのか瞬間的にわかりましたが、それにしても、日本から遠く離れたこの地で、これほど大々的に報道されるほど、アメリカ人にとっても大事件なのだな、と思ったものでした。

無論、ハワイという土地柄は良しにつけ悪しきにつけ、日本とは関わり深い場所であり、古くは多くの日本人移民たちがこの地で未開の地を切り開いた歴史があり、また太平洋戦争には日本軍の奇襲攻撃によって多くのアメリカ人の命が奪われるという事件もありました。

それがゆえの新聞報道だなとも思いましたが、部屋に戻ってテレビをつけると、アメリカの多くのテレビ局もまた、この天皇崩御のニュースを大々的に扱っており、びっくりしたのを覚えています。

しかし、戦後40年以上も経ったあとのことでもあり、とくにかつての敵国のエンペラーの死を中傷するような報道もなく、むしろ、「時代の証人」がついに逝ったことを悼むような内容の報道が多かったように思います。

このときはハワイにいたため、逆に日本国内の報道ぶりについては預かり知るところではありませんでしたが、後年日本に帰ってきてからその喧騒がかなり過熱気味だったらしいことを知ることになりました。

昭和天皇が亡くなる前には、CMでは華々しい言動や映像はスポンサー各社とも控えるようにしていたとか、公的なものだけでなく私的なものも含めて多くの催し物が中止されたとか、病気平癒を祈るための記帳所が日本のあちこちに設けられて大勢の人が訪れたとかいうようなお話も日本に帰ってから知りました。

日本でこの「世紀の事件」を見聞きしたみなさんにとっては、とくに目新しいことではないのかもしれませんが、昭和天皇が亡くなるまでの経緯の詳細を良く知らない私にとっては、これらのことは回顧して確認しておきたい気持ちもあるので、以下にそのことを少しまとめさせてもらおうと思います。

記録によれば、昭和天皇の不調が公になったのは、亡くなる1年と8ヶ月ほど前の1987年(昭和62年)4月29日の天皇誕生日の祝宴の際、体調不良からこれを中座されたのが最初のようです。以後、体調不良が顕著となったという報道があいつぎ、とくにこの年の9月以降、病状は急速に悪化したとの報道がなされました。

9月19日には吐血されたと報じられ、その3日後の9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けられ、この結果天皇のご病気は「慢性膵臓炎」と発表されました。

この天皇吐血の事実は、その直後にすべての放送局が報道特番を組んで放送。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることもありました。

このころから、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備しており、そのなかで、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになりました。

そんな中、一進一退を続ける天皇の病状や血圧・脈拍までもが定時にテロップ表示されたそうで、そこまでやる必要があったのか、と私的には驚くやらあきれるやらですが、そうまでして病状を知りたいと考えるほどこの天皇が愛されていたということなのでしょう。

9月時点ですでに「関係者の証言」として何等かの「癌」であることが一部の新聞などにリークされたりしていたようですが、後年の報道によれば、このとき、宮内庁・侍医団は天皇ご自身にはこの事実を告知していなかったといわれています。

このため、もし天皇がメディアに接するようなことが生じた場合を想定し、一般的なテレビ報道や全国紙では、具体的な病名を公表しないようにという「箝口令」が敷かれたようで、実際、この「癌報道」は崩御までほとんど報道されなかったそうです。

幸いにもこの最初の喀血のあとの手術の結果は良好だったようで、同年12月までにはかなり体力を回復され、このためその後一部の公務にも復帰されました。

しかし、術後から急激に体重が落ち、体力をなくされていったようで、そうした体調も時にニュースなどでとりざたされていましたが、しばらくの間はとくに緊迫した報道がなされることはなかったようです。

ところが、翌年の1988年(昭和63年)8月下旬以後、容態が再び悪化されたとの報道があいつぐようになります。おそらくは宮内庁関係者も今度はかなり厳しいぞと覚悟したためか、それまでの「箝口令」にもタガが緩んできたものと思われ、ひそかに天皇の「本当の御病状」についての報道も取りざたされるようになっていったようです。

天皇としての公務は、この年の8月15日に行われた、「全国戦没者追悼式」が最後の公式行事へのご出席となり、以後は御病状は悪化する一方であるとの報道があいつぎ、このため日本全国で「自粛」の動きが広がっていきます。

前述のように、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられ、多くの人がこの記帳所を訪れましたが、最初の手術直後の病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼったそうで、最終的な記帳者の総数は900万人に達したといいますから、驚くべき数字です。

伊豆大島にもこの記帳所が設けられましたが、伊豆大島はこの前年に三原山噴火して大きな被害が出た場所であり、こうした中でさえも島民による記帳が行われたということからみても、いかに国民の多くが天皇の御病状を杞憂していたかかがわかります。

このほか、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが中止またはその規模が縮小されましたが、中止や規模縮小を「余儀なくされた」という感覚ではなく、あくまでこれらは「自粛」であったことが、このときのフィーバーの特徴です。

こうした動きは公的なイベントだけではなく、時に結婚式や祝賀会などといった個人のイベントにもおよび、「自粛」は、1988年(昭和63年)の「世相語」としても取り上げられたほどでした。

大きなイベントの中には中止できないものもあり、1988年(昭和63年)の中日ドラゴンズのリーグ優勝においては、「祝勝会」が「慰労会」に名称変更されて実施されましたが、この時は予定されていたビールかけが中止になりました。

また、同年京都で行われた国体でも大会そのものは実施されましたが、花火の打ち上げなどの派手なイベントはやはり「自粛」されました。

このほか、実際に取りやめられたイベントとしては、「明治神宮野球大会」や「自衛隊観閲式」「自衛隊音楽祭」などの自衛隊行事などがあり、各国大使館・在日米軍基地などの諸外国機関でも、日本国民への心情へ配慮してイベントの自粛や規模縮小がなされたそうです。

これは、日本に帰ってきてからかなりあとに友人か誰かから聞いたのですが、日産自動車のセフィーロという車のCMでもこうしたことがあったそうです。

CMに起用された井上揚水さんが「みなさんお元気ですか~」という問いかけをにこやかにする、というシーンがあったのを、この「お元気ですか」の部分が失礼にあたるとされ、この部だけ「口パク」で流したというのですが、私はこれをビデオでもみていません。ご覧になった皆さんはどんな気分だったでしょうか。

このほかにも、トヨタがその乗用車販売で作ったポスターに「生きる歓び」というキャッチコピーがあったことから、このポスターを撤去したとか、派手なバラエティ番組を、映画や旅行番組に差し替えたり、百貨店でのディスプレイを地味なものに変更したとか、コマーシャルにおける「自粛」は枚挙のいとまもないほどだったようです。

地方における小イベントも自粛され、神社の「お祭り」が各地でみられなくなっただけでなく、このほかの伝統行事の中止や規模縮小が行われ、およそ「○○フェスティバル」「○○まつり」的なものはほとんどこの間自粛されたり、もしくは名称が変更されたりしました。

学校での学園祭や大学祭や、小・中学校における運動会、体育祭まで取りやめるところまであったそうで、今振り返ってみると、ここまでやる国民性というのはちょっと「異常」のようにも思えます。外国人の目にはどう映ったことでしょう。

確かに、アメリカのメディアも日本人のこの「異常さ」を新聞やテレビのニュースで時折流していたのを今思い出しましたが、もし私もこのとき日本国内にいれば、きっとその異常な空気に飲まれていたに違いありません。

そうした意味では、たまたまとはいえ、この時期の日本を客観的に見ることができる体験をしていたわけであり、今思えばこの体験は貴重なものであったといえます。

こうした自粛ムードは、天皇が亡くなる直前まで続いており、新年に配られる年賀状からは「賀」「寿」「おめでとう」の文字が消え、新年会ですら自粛されていたようですが、そうした状況がピークにも達したと思われる年明け7日になって、ついに昭和天皇が崩御されました。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分のことであり、のちに公表された正式な死因は、「十二指腸乳頭周囲腫瘍」であり、一般には「腺癌」と呼ばれるものでした。その享年87歳は、古き神代を除いては、歴代の天皇で最も長寿だったそうです。

崩御後、政府の藤森昭一宮内庁長官が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。」と発表を行い、その月末の1月31日に、現在の今上天皇が、在位中の元号からとって亡くなった天皇を正式に「昭和天皇」と追号されました。

昭和天皇のご葬儀は、2月24日、新宿御苑において「大喪の礼」として行われたあと、八王子の武蔵野陵に埋葬され、このとき同時に愛用の品100点余りが副葬品として共に納められたといいます。

この昭和天皇の崩御にあたっては、1月7日未明の午前6時35分に「危篤発表」がなされましたが、実際にはこの発表の2分ほど前に天皇は逝去されていたことになります。

実際の「崩御」の発表があったのは、この1時間以上あとの午前7時55分であり、このときから翌1月8日終日までは、NHKの総合放送および民放各局すべてが特別報道体制に入りました。そして、崩御報道を受けてのニュースやあらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の業績を偲ぶ番組などが繰り返し放送されました。

この2日間はまったくCMは放送されなかったといいます。当然のことながら7日の新聞朝刊にはこの事件は間に合わず、通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていましたが、同日昼過ぎまでには、各社とも号外を発刊し、また夕刊では各新聞ほとんどが最大級の活字で「天皇陛下崩御」の文字を掲載しました。

この夕刊では、天皇崩御が報じられたあとも通常放送を行っていたNHK教育放送のテレビ番組欄以外はほとんど「真っ白」状態だったそうで、この局以外のすべてのテレビ局が特別報道を行ったため、この間、多くの人々がレンタルビデオ店などに押しかけたそうです。

特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が銀座和光の時計塔などの前で記念写真を撮ったり、皇居真の二重橋の前で日付変更の瞬間を待つ人々の姿などが報道されました。

1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の「ワイドニュース」の平均視聴率は32.6%にも達したそうで、続いての2月24日の「大喪の礼」のNHK「ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日」の平均視聴率に至っては44.5%を記録したそうです。ちなみに、この日は土曜日であり、翌8日は日曜日であったことも視聴率を押し上げた要因だったようです。

昭和天皇が亡くなった直後にもまだ「自粛」ムードは当然あったようですが、この瞬間からむしろ人々の関心は、次の元号は何?という興味に早くも移りはじめ、時代が変わることに対する希望やら期待やらが渦巻いていきました。

昭和天皇の崩御当日には、現在の明仁天皇が即位されましたが、この当日にはまだ新しい元号は公表されませんでした。新しい元号は、「元号法」に基づき、その翌日の1月8日に公表されましたが、この新元号は元号法によって改元された最初の元号だそうです。

実はこの新元号である「平成」は、改元時に内閣総理大臣であった竹下登首相やそのとりまきの政府首脳が、その決定前から執心していたということを、現民主党最高顧問で、この当時自民党の国会対策委員長であった「渡部恒三」氏がのちに暴露しています。

こうした「噂」はこの当時の閣僚などを通じて結構外部に漏れていたようで、「平成」以外にも「修文」などの候補があることが外部に漏れ、三流紙や雑誌報道でそのことを知り、予想していた人たちもいたようです。

しかし、この当時内閣内政審議官で、現阿部内閣の内閣官房副長官に就任した「的場順三」氏が「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と発言したことなどから、平成が本当に新しい元号になるかについては疑問視する向きもあったようです。

この新元号の決定にあたっては、東京大学名誉教授で国文学者だった「宇野精一」氏、九州大学名誉教授で古典中国文学史が専門の「目加田誠」氏、ならびに東京大学名誉教授で東洋史学者の「山本達郎」氏などに政府から新元号提案の委嘱があったといわれ、このうちの目加田氏が「修文」を、宇野氏が「正化」を提案したようです。

そして、ノンフィクション作家の佐野一郎氏が「文芸春秋」における記事のためにその後山本氏へ行ったインタビューの中で、山本氏はこのことについては「ノーコメント」と答えており、この結果から佐野氏はどうやら「平成」の提案者はこの山本氏に間違いないだろうと述べています。

しかし、一方では非公式ながら、翌年の1990年(平成2年)1月に竹下登首相が講演を行った際、「平成」は陽明学者で、思想家であった「安岡正篤(まさひろ)」の案であったと述べています。

この安岡正篤という人は、戊辰戦争の際、新撰組の近藤勇を捕縛し斬首したことで知られる土佐藩士の「安岡良亮」の曾孫にあたるそうで、終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことでも知られ、皇室からも厚い信頼を受けていた人物です。

2.26事件の首謀者だった西田税らに影響を与えた一人ともいわれ、元海軍大将の八代六郎や山本五十六、中華民国総統の蒋介石などとも親交があり、第二次世界大戦中には大東亜省顧問として外交政策などに関わりました。

数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたといわれることから「昭和最大の黒幕」と評され、戦後の歴代総理に「日本の黒幕はだれか?」と聞けばほとんどの首相が安岡正篤の名前を挙げたといいます。

しかし、安岡正篤は、昭和天皇崩御前の昭和58年に亡くなっており、竹下首相の発言とはいえ、彼の発案ということはあり得ない、という意見もあります。

ただ、歴代の首相が大きな影響を受けるほどの人物であったならば、生前から竹下首相がこの安岡氏に、次の元号は平成にせよと言い含められていたと考えることもできます。しかし、竹下氏をはじめとする関係者の多くが亡くなっており、事実はここでもまた歴史の闇の中の話となりそうです。

こうした事実があったかどうかは別とし、表向きには、政府は昭和天皇崩御を受け、その当日の1989年(昭和64年)1月7日の午後、8人の有識者で構成される「元号に関する懇談会」が開かれ、その結果として衆参両院正副議長に「平成」「修文」「正化」の3つの候補が示され、各委員にこれに対して意見が求められました。

その際、委員のひとりから「修文(しゅうぶん)」「正化(せいか)」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという意見が出たため、この結果全員一致で「平成」に決まったと伝えられています。

頭文字のアルファベットが決め手となったというこの話は結構説得力のある話であり、国際社会の一員として名乗りを上げている日本としては当然の配慮でもあります。が、前述したようにこの会議に先立って既に裏側では「平成」にしようと決められていたとすれば、この表向きの会議はとんだ茶番劇だったということになります。

いずれにせよ、同日14時10分から開かれた臨時閣議に於いて新元号を「平成」にすることが正式に決定。14時36分、内閣官房長官・小渕恵三が記者会見で発表されました。

のちに「平成のおじさん」とあだ名され、この10年後に総理大臣となり、その就任からわずか2年後に脳こうそくで亡くなる小渕恵三氏が、「新しい元号は「平成」であります」と言いながら新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿はその後何度もテレビ放映されたため、私もみたことがあります。

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)が、新天皇の允裁(いんさい)を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行されました。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示されました。

大正と昭和の際には、元号の改正の発表が行われた当日に「改元」が行なわれましたが、平成の改元では発表の翌日に施行された背景としては、平成の場合、大正や昭和の際に比べると文書事務がかなり煩雑化しており、ワードプロセッッシングをはじめとする政府OAシステムへの入力やプログラム等の変更を行うためなどの事情があったようです。

従って、昭和の時代は、平成の元号発表のあった昭和64年1月7日までであり、平成のスタートは平成元年1月8日となり、明日、2013年1月8日が、その「25周年目」にあたるということになります。

この「平成」の名前の由来については、後日詳しいことが報道などから伝えられました。そもそもは、中国の歴史書の「史記」に「内平外成(内平かに外成る)」ということばがあり、また「書経」にも「地平天成(地平かに天成る)」ということばがあるそうで、その意味は、「内外、天地とも平和が達成される」です。

日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてだそうで、「大成」(北周)や「成化」(明)など、中国の年号や13代天皇の「成務天皇」の諡号(しごう)にも使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号といえるのだそうです。

江戸時代最末期、「慶応」と改元された際にも別案に「平成」があったそうで、出典も同じ「史記」「書経」であったことが記録されています。

ただ、これを元号として使うことに反対する向きもあったそうで、その根拠は、「保元・平治の乱」のあった「平治」以来、「平」で始まる元号がないのは、平治がこの戦役によって混乱した時代であったためであるというものです。

これ以降、「平」で始まる元号はこれを避けることが慣例になっていたとされ、また、「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」にも通じるということを指摘する古人もいたということです。

八世紀には「平城天皇」という人がおり、この人は「薬子の変」という政争の末敗れて失脚しており、この「平城」と「平成」は一文字違いである点を懸念する学者などもいたようです。

昨今、新政権の阿部内閣は右寄りの傾向の強い内閣であると取沙汰される向きもあり、この後もしばらくは続くであろうこの平成の時代に、こうした懸念が現実にならないことを祈りたいものです。

なお最終案まで残ったという「平成」「修文」「正化」の他にも、「文思」「天章」「光昭」などの案も存在したと言われ、もしこれらが採用されていたら、その元号のイニシャルはそれぞれB.T.Kとなります。

明治大正昭和のM.T.S.と重ならないのは、このうちの「文思」のBと「光昭」のKであり、もし平成が採用されなかったらこれらが今の元号として採用されていたかもしれません。

少々不埒かもしれませんが、今上天皇もかなりご高齢になっていることですから、もしかしたら関係者の中では、こうした新元号が既に取りざたされ始めているのかもしれません。

さて、年改まって平成25年となった今年はどんな年になるでしょうか。

天皇の在位中、これまでのところ日本が戦争に巻き込まれることなく経過してきた時代は、近代においては今回が初めてのこととなりますが、その平和がいつまでも長く続いていくことを願ってやみません。

今年も今上天皇のご健勝をお祈りしたいと思います。

会津のこと


今年のNHK大河ドラマは、「八重の桜」ということで、津波大震災や原発事故で大きな被害を受けた福島県がその前半の舞台となります。

NHKとしては、当初はまったく別の作品を計画していたものの、2011年(平成23年)3月11日に東日本大震災が発生したことを受け、内部で東北復興を支援する内容にすべきだとの意見が上がり方針を転換したということで、その英断にはエールを送りたいところです。

歴史好きな私としても今年は、この物語にまつわる話を時々取り上げていこうと思っていますが、そもそもこの物語の舞台となる「会津」という土地がどういう歴史を持っているのかよくわかっていなかったので、今日はそのことをまとめておこうと思います。

まず、会津と呼ばれる地方の場所ですが、これは福島県の西部に当たる地域のことをさします。福島県には、「奥羽山脈」と「阿武隈高地」の2つの尾根線が南北に走っていますが、この二つの山塊のおおむね真ん中は「中通り」と呼ばれ、奥羽山脈の西側の地帯は「会津」、そして阿武隈高地の東側の海側地方は「浜通り」とそれぞれ呼ばれています。

一番山側にある「会津」の東は奥羽山脈ですが、その西側にも「越後山脈」があり、さらにその南は「下野山地」、北には「飯豊山地」と四方は山に囲まれており、これらの山々に囲まれた低い地形は「会津盆地」と呼ばれています。

この地方の中心地は会津若松市であり、後年、会津城が設けられ、討幕軍との激しい戦いの末、有名な白虎隊などが全滅する幕末の争乱の激戦地にもなりました。

「古事記」によれば、この「会津」は古くは「相津」と呼ばれていたようで、崇神天皇の時代、天皇直属の将軍である、大毘古命(おおびこのみこと)と建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)という親子が東北諸国平定の任務を受け、この地で「合流」したため、「相津」と呼ばれるようになったといいます。

その後、7世紀半ばころの律令制度下で東北に「陸奥国」が設置され、この地方は、その中の郡の一つとして「会津郡」と称されるようになりました。8世紀にこの陸奥国が3分割されると、会津郡はこのうちの一つの「石背国」に属しましたが、わずか数年で陸奥国に再統合され、その後明治初年まで陸奥国に属することになります。

平安時代には会津郡はさらに会津郡、耶麻郡、大沼郡、河沼郡の四つの郡に分かれましたが、後々までこれらの郡を合わせて「会津四郡」と呼ばれました。

現在のこの地方は、南会津郡および会津若松市の大部分に相当しますが、「会津」という地名が行政区画として画定されているわけではなく、このため「会津」という呼称はこの古き会津四郡一帯をさす古いネーミングにすぎず、近年この地方をさすときは「会津地方」というようなあいまいな表現で呼ばれることが多いようです。

戦国時代

戦国時代、会津地方は後の会津若松である「黒川」を本拠とする戦国大名の蘆名(あしな)家の領国でしたが、この蘆名家では後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛が絶えませんでした。そうした状況につけこまれ、隣国の出羽国(現秋田・山形県)の伊達政宗に攻め込まれ敗れ、16世紀後半に蘆名家は滅亡して、会津は政宗の支配下に入りました。

1590年(天正18年)に小田原征伐で北条家を滅ぼした豊臣秀吉は、同年会津に入り、東北の諸国を討伐するいわゆる「奥州仕置」を始めようとしていました。このころ、政宗は秀吉と戦うかどうかを決めかねていましたが、結局のところ秀吉に恭順を示すことに決めてその配下に入りました。

そして小田原征伐にも参陣していましたが、その戦で不備があったという難癖を秀吉につけられ、政宗の配下にあった会津地方やその周辺地域は没収されてしまいます。

秀吉はこの奥州仕置において検地や刀狩、寺社政策など諸事を定めて京都に帰りますが、その際、政宗に変わる会津の名代として、かわいがっていた部下の一人、「蒲生氏郷」を42万石で入封させることにします。氏郷はその後、検地と加増で92万石を領有する大大名となりますが、のちの幕府きっての強国といわれた会津の基礎を作ったのは、この蒲生氏郷です。

この蒲生家はその後徳川家とも縁戚を結び、江戸時代まで存続していきますが、後年、数ある幕府譜代の大名家の中にあって、最強の佐幕藩と呼ばれた会津藩の運命はこの蒲生氏郷の入封のときに定まったといってもまちがいではないでしょう。

氏郷は秀吉に仕える前には織田信長にもかわいがられており、その非凡な才能を評価された信長の次女で、美人で有名だった「冬姫」を正室に迎える事を許されています。信長没後は秀吉に従い、伊勢松坂に12万石の所領を得ており、秀吉も氏郷の才能を認め、東北の伊達政宗や関東の徳川家康を抑える枢要の地に大領を与えて入封させることにしたのです。

会津に入封ののち、氏郷はそのむかし「黒川」と呼んでいた地を「若松」と改め、故郷の近江から商人や職人を呼び寄せ、城下町の建設にとりかかりました。そして武家屋敷を分離させた町割やそこに古くからあった黒川城を改築し、新たに7層の天守閣を持つ「会津若松城」を建造し、その後の会津藩の基礎となる基盤づくりに取り掛かりはじめました。

しかし、氏郷は小田原征伐からわずか5年後の1595年(文禄4年)に没し、これに代わって冬姫との間に設けられていた嫡男の「蒲生秀行」がわずか13歳で跡を継ぐことになります。

蒲生家を東北の要諦に据えようと考えていた秀吉は、この跡継ぎがあまりにも若く不安になったため、このころはまだ秀吉の配下にあった徳川家康の娘、振姫(のちの正清院)をこの秀行の正室に嫁がせ、その基盤の維持を図ろうとします。

しかし、秀吉の不安は的中し、主が若かったことが祟ってその後蒲生家中では内紛が絶えず、重臣間のいさかいが頻繁に起こるようになりました。このため、1598年(慶長3年)、ついに秀吉は蒲生家を見限り、家中騒動を理由にして秀行を宇都宮12万石へ減封し、会津から追い出してしまいました。

しかも秀行の母、すなわち織田信長の娘の冬姫はその美貌が天下に鳴り響くほどの美人たったため、スケベで有名だった秀吉はこれを自分の側室にしようとします。ところが、冬姫は貞操の固い人物で、これを拒み、尼になって貞節を守ったといわれています。

秀行が減封の上放逐されたのは、冬姫が秀吉のことを拒んだためとも言われていますが、蒲生秀行が家康の娘である振姫をめとっていたため、家康のライバルで秀吉の名代だった石田三成は蒲生家を家康のシンパと考え、重臣間の諍いを口実に蒲生家の減封を秀吉に進言した結果であるとする説もあるようです。

上杉家の時代

こうして、蒲生家は会津から追い出されてしまいましたが、これに代わって会津に入封したのは、越後春日山を領国とする「上杉景勝」でした。

上杉景勝といえば、2009年の大河ドラマ「天地人」の主要登場人物のひとりで、戦国時代に「軍神」とまで言われた上杉謙信を家祖とする上杉家に養子として入った後、当主にまで上りつめ、後年高名を馳せた家老の直江兼続(なおえかねつぐ)とともに越後に強国を作り上げたことで有名な人物です。

上杉家に与えられた領地は、蒲生家の旧領である会津郡と出羽庄内に佐渡を加えた120万石という広い土地でしたが、この転地は上杉家にとって必ずしも喜ばしいものではありませんでした。

各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであり、常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、さらに蒲生氏に代わって東北諸大名と関東を治める家康の監視と牽制という重大な使命が科せられたのです。そして結果的にはこれが原因で後年上杉家は家康と対立するようになります。

その後の混乱を予測させるように、上杉家が会津へ入封してから間もなく秀吉が死去します。そして次の覇権を狙って徳川家康が動き始めましたが、豊臣家五奉行の石田三成はこれに対抗しようと上杉家の家老である直江兼続に接近します。

その結果、直江兼続と景勝は光成と盟約を結んで家康に対抗することを決め、1599年(慶長4年)には、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強をはじめました。そしてその翌年には若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点の神指村に神指城(こうざしじょう)の築城を開始しました。

この軍備増強は、隣国越後の堀秀治や出羽の最上義光らの耳目に入ることになり、彼らと同盟を結んでいた家康に報告され、これを受けてやがて家康は諸大名を集めて会津征伐を開始しました。

上杉家の移封

景勝らは、神指城の新築や古い白河城の修築などを急いでいましたが、それらの完成を待たずして、下野国の小山(現栃木県小山市)で、石田三成の配下の武将たちが反家康の反旗を翻し挙兵をはかりました。これを知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残しつつ、ただちに会津に向かっての進軍を開始しました。

これに対して直江兼続の率いる上杉軍は、回り込んで家康を遊撃しようとしましたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らが家康に味方することに決め、戦闘を挑んできたため、これを断念せざるをえなくなります。そして、身動きがとれないでいる状況が続いているうちに、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅してしまいます。

家康ら率いる東軍の圧勝に終わった関ヶ原の戦い以降、景勝は家康と和睦するために重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させ、自らも1601年(慶長6年)に家康の息子の結城秀康に伴われて伏見城に伺候。

家康に恭順を示して謝罪した結果、家康は上杉家の存続を許しましたが、会津など90万石の所領は没収され、こうして上杉家は出羽米沢30万石へ減封されてしまいました。こうして会津はふたたびその主が変わることになりました。

蒲生家の再来

1601年(慶長6年)、上杉景勝に代わり、関ヶ原の戦いで東軍に与した元会津領主の蒲生秀行が再びこの地に60万石の上で入封しました。この加増は東軍の中ではトップクラスであり、このことは関ヶ原での戦功というよりも、秀行の正室振姫が家康の娘であったことが大きかったのではないかといわれています。

こうして会津は再び蒲生家が治める土地となりましたが、かつて宇都宮に移封された原因が家臣による内紛であったように、その体質は変わっておらず、秀行が執政をとるようになったあとも、重臣であった岡重政とその他の家臣との間で内紛が再燃するようになります。

1611年(慶長16年)、マグニチュード7ともいわれる激しい地震が会津を襲いました。若松城天守閣の石垣が崩れ、天守閣は傾き、城下町では2万戸余が倒壊、山崩れのために23の村が没するなど、死者は3700名にものぼる大災害となりました。

こうした中、領主の秀行はそれまでの家中内紛のための心労に加え、この地震のダメージが重なったためか、この地震の翌年に30歳の若さで死んでしまいます。跡を継いだのは秀行と振姫の間に生まれた長男の「蒲生忠郷」でした。

忠郷はわずか10才だったため、その家臣が執政を行うようになり、お家取り潰しを避けるために徳川幕府とのパイプを強くしようと画策をはじめます。そうした一環で1624年(寛永元年)には、忠郷にとっては従弟にあたる将軍家光や、隠居後、大御所」となった秀忠を江戸屋敷に招きもてなしをおこなったりしています。

このように、会津蒲生家は内政に不安をかかえつつも、徳川幕府との良好な関係を保つ努力を続けながら戦国時代に疲弊した領土の復興を図り、なおかつ会津領内の各所にあった金山開発を行った結果、次第に蒲生家の財政は上向くようになりました。

この当時金山から採掘された金は280万両にも相当するといわれ、この豊かな資金によって支えられた財政によって蒲生家はその全盛期を迎えました。

しかし蒲生忠郷もまた、1627年(寛永4年)に25歳で若くして急死し、忠郷には子がいなかったことから、またしても会津蒲生家は改易の憂き目を見ることになります。忠郷の母は徳川家康の娘であっため、お取り潰しにこそなりませんでしたが、忠郷の弟で出羽上山藩主だった「忠知」を当主として、蒲生家は再び移封されることになりました。

移封先は、東北から遥かに遠い伊予松山で、石高は24万石となり、大幅な減封を伴う移封でした。しかもこの忠知もこの7年後には子が無いまま30歳で急死しており、その後伊予松山藩は、徳川家直系の松平家によって治められるようになり、その後の会津藩の礎を築いた蒲生家はここに事実上断絶しました。

加藤家の時代

1627年(寛永4年)、蒲生忠知と入れ替わりで伊予松山を治めていた「加藤嘉明(よしあき)」が倍に加増されて40万石で入封してきました。加藤嘉明は豊臣秀吉の下では、賤ヶ岳七本槍の1人に数えられほどの猛者であり、朝鮮出兵でも水軍の将として活躍し、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てた勇将でした。

徳川幕府の大御所秀忠は、加藤嘉明同様、秀吉時代からの勇将で秀忠の信頼も篤かった「藤堂高虎」を蒲生忠知の後釜として選ぼうと考えていましたが、高虎は老齢であることを理由にこれを辞退し、嘉明を推挙したため、秀忠は嘉明を会津に加増して入れたようです。

この話にはひとつ逸話があります。実は加藤嘉明と藤堂高虎は、若いころから功を競って仲が悪く、戦場でもいつも一番槍を競うライバル同士でした。加藤嘉明は、もし国変えがなければ伊予20万石の領主のままで終わるはずで、これは30万石の領主であった藤堂高虎よりも低い石高であり、世間体でいえば「格下」でした。

出世競争では、高虎の後塵を拝した格好となっていたわけであり、嘉明としてはじくじたる思いを持っていたに違いありません。それが思いがけなく、40万石の太守になったわけであり、これで長年のライバルの高虎よりも首ひとつ抜きん出たと喜んだのは言うまでもありません。

しかし、ライバルである加藤嘉明をなぜ高虎は推挙したのでしょうか。その理由を秀忠に質された高虎は「過去の遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」答えたといいます。

のちにこれを聞いた嘉明は、自分の小ささを嘆き、そして高虎に感謝を述べる場をしつらえて長年の無礼を詫びて和解したといいい、この話はその後も美談として語り継がれたということです。

実際のところの高虎の心境はどういうものだったのか推しはかることはできませんが、このころには信長や秀吉時代の友人は既にみな戦死しており、老いさらばえた身には昔ながらのライバルもまた古い友人に映ったのかもしれず、その散り花として恩を贈るのもよし、と考えたのかもしれません。

ただし、所領が倍増されたとはいえ、嘉明もまた65歳の高齢だったそうで、伊予松山で藩政の基礎を固めていたことに加えて、温暖な瀬戸内から寒冷の会津盆地への移封はうれしいことではなかったといわれています。悪意を持ってみるならば、永遠のライバルに最後の一矢を報いたと考えることもできますが、事実は永遠に歴史の闇の中です。

こうして思いもかけず、会津藩の領主となった嘉明は、その後積極的に藩内の整備を行ないはじめ、陸奥の国と会津若松を結ぶ「白河街道」などもこのときに整備されました。

蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村は、「火」を連想させることから甲賀町、福永村と改名するなど、かつての蒲生色を払拭する改革に励みましたが、その整備の道半ばで1631年(寛永8年)に68才で死去しました。

第2代藩主はこのとき39才になっていた嫡子の「明成」が継ぎました。しかしこの二代藩主の時代には、江戸城の堀の開削を幕府から命ぜられ、このための普請費用が嵩み、また蒲生秀行時代に起こった大地震で傾いていたままであった若松城の天守閣を5層へ改める工事などのため、多額の出費が相次ぎました。

このため、加藤家の財政は逼迫し、その穴を埋めるべく領民にかける年貢を厳しく取り立てたため、1642年(寛永19年)から翌年にかけて藩内を激しい飢饉が襲った際、農民2000人が土地を捨てて他藩に逃げる騒動がおきました。

また明成は、その激しい気性から嘉明の時代からの家老との対立をしばしば引き起こしていました。1639年(寛永16年)、反対派の旗手で家老であった「堀主水」が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲し、橋を焼いたうえ、関所を突破して領外へ出奔するという大事件が勃発しました。

このとき、激怒した明成は血眼になって主水を追ったといい、この御家騒動は、のちに「会津騒動」と呼ばれるようになりました。

藩主の顔に泥を塗った格好で会津から逃げ出した堀主水は、その後高野山に逃げ込んだため、明成は幕府に主水の身柄引き渡しを求めました。一方の主水はやがて高野山を下り江戸に出て、領主の明成が城の無断改築や関所の勝手な新設などを行ったとして逆にその悪行を幕府に訴え出ました。

この事件に対し、将軍家光は自らが裁断を行い、結論として領主である明成にも非があることを認めましたが、それを諌めなかった主水にも非があり、自らの生命をもって主を諌める「諫死」すらせず、主家に叛いて訴え出るのは義に外れている、としました。

この結果、主水の身柄は明成に引き渡されることになり、会津に引き戻された末、激しい拷問が加えられたあげく殺害されてしまいました。

1643年(寛永20年、)加藤明成は、この騒動を引き起こした責任は領主の自分にあるとして幕府に会津40万石を返上し、幕府はこれを受けて加藤家から所領を没収して改易としました。しかし、明成が自ら改易を申し出たことなどを評価し、その嫡子である明友に石見吉永藩(現島根県太田市)の1万石を与えて家の存続は許されました。

会津松平家の時代

こうして1643年(寛永20年)、加藤家が改易されたあとの会津には、出羽山形藩より3万石加増の23万石で「保科正之」が入封しました。保科正之は、第3代将軍家光の異母弟にあたり、いわば徳川家の嫡流筋にあたる人物です。

母は第2代将軍秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣の娘であり、秀忠の4男として生まれ、養母はは武田信玄の次女だったそうです。6才のとき、この養母の縁で、旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育されるようになったため、その後死ぬまでこの保科姓を名乗るようになりました。

2代将軍秀忠の死後、第3代将軍となった家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がり、1636年(寛永13年)に出羽山形藩20万石を与えました。

そしてそれよりもさらに大身の会津藩23万石を与えられた理由は、過去に度重なる不祥事による改易が相次いだこの藩を安定させるためには、その領主として「身内」を派遣し、ほぼ直轄領ともいえるような処遇を施すしかないと家光が判断したためでしょう。

こうして、以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めることになっていきます。この後年の1651年(慶安4年)、将軍家光は死に臨んでの枕頭に、この松平会津藩、初代藩主の正之を呼び寄せ、「肥後(正之の拝領名)よ、宗家(徳川家のこと)を頼みおく」と言い残して死んだと伝えられています。

これに感銘した正之は1668年(寛文8年)に「会津家訓十五箇条」を定め、この第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、万一藩主が裏切るようなことがあっても家臣はこれに従ってはならない」とまで記し、以降、歴代の藩主と藩士は共にこれを忠実に守っていきます。

幕末の藩主となった松平容保(かたもり)もこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦うことになりました。

以後会津藩は、後年「保科家」が「松平家」に改姓されるまで、「会津保科家」として支配されるようになります。当初23万石だった石高も、その後保科正之らが善政を敷き殖産に励んだため、後年会津松平家になったあとは隆盛を極め、幕末までに内高は40万石を突破したといいます。

この石高は表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多かったといわれ、この財政を背景として軍備も増強され、幕府諸般きっての軍事力を持つようになりました。

保科正之が会津藩主となったあとまもなく将軍家光は没しますが、その嫡子で11歳であった「家綱」が第4代将軍になると、正之は将軍の「叔父」として後見役を務めるようになりました。

そして、幕府の大老としての役目を果たすため江戸に赴いて幕政を統括したため、会津藩主になったとはいえ、その領国に帰国したのは1647年(正保4年)と晩年の数年間のみであったといいます。

この間、正之は幕政において明暦の大火における対策で敏腕を発揮していますが、藩政でもその辣腕をふるい、正之の時代だけで、後年譜代藩切っての強国といわれるようになった会津藩の藩政はほぼ確立されました。

なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く保科正貞に譲っており、この時点で「徳川一門」として認められており、幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていました。

しかし、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやってこれを辞退したといい、こうした事実からも徳のある人物であったことがうかがわれます。

正之は、その藩政において、漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の八品目の藩外持ち出しを制限し、とくに漆木を許可なくしては伐採できない樹木としてその付加価値性を高めるなど、産業の育成と振興に勤めました。

また、1655年(明暦元年)には、飢饉のときに貧農・窮民を救済するための仕組みをつくり、1660年(万治3年)には、百姓の地位を確約する政策なども打ち出しました。また90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給しており、これは日本の年金制度の始まりとされています。

もっとも、この時代、90年以上生きる人はほとんどいなかったと思われますから、こうした制度を定めたのは、多分に「人気取り」の気分があったためかもしれません。

とはいえ、経済対策としても、相場による米買上制を始め、升と秤などの計量法の統一を行うなどの斬新な改革を進め、また、藩士に対しては殉死を禁じ、朱子学を藩学として奨励し、「好学尚武」の藩風を作り上げました。

こうした数々の業績を上げた保科正之は、同時代の水戸藩主「徳川光圀」、岡山藩主「池田光政」と並び江戸初期の三名君と賞されており、今もなお高い評価を得て賞賛されています。

そんな正之も1669年(寛文9年)には、嫡男の正経に家督を譲って隠居し、それから3年後の1672年(寛文12年)、江戸三田の藩邸で死去しました。享年61歳でした。

正之の没後、藩主の座は子の正経、そしてその次は弟の正容が継ぎました。正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生しました。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになり、家格は親藩・御家門で、家紋は会津葵を用いました。

こうしてその後の江戸年間において会津藩は時に財政危機などにも瀕しながらも、その都度名君、名宰相が登場して藩政を立て直し、幕末に続いていきました。

こららの会津藩の江戸時代の藩政の状況や、幕末最後の藩主となった松平容保のことなどについては、また次の機会に書いていこうと思います。

さて、明日日曜からは、いよいよ「八重の桜」の放映が始まります。低視聴率だった「平清盛」のあとを受け、どんな評価を得ることになるかも楽しみです。

私は別にNHKの回し者ではありませんが、東北を応援するためにこの番組を制作したというNHKに敬意を表し、応援したいと思います。みなさんも歴史好きであるなしはともかく、ぜひご覧になってください。このブログでもできるだけその背景フォローをしていきたいと思います。

初夢は見ましたか?

みなさんは、初夢をもうご覧になったでしょうか。

ご存知のとおり、初夢とは、新しく年が改めってから見る夢ですが、日本にはこの夢の内容でその一年の吉凶を占う風習があります。

とはいえ、その初めての夢は、大みそかから元日にかけての朝方に見た夢なのか、それとも1日から2日目にかけての夜なのか、はたまた2日から3日にかけての夜にみた夢のことをさすのか、気になるところです。

調べてみると、日本ではじめて「初夢」ということばが出てくるのは、鎌倉時代の僧侶、西行法師の歌集「山家集」だそうです。ただし、このころの新年は現在の暦上の新年とは異なり、節分のころのことだったそうで、立春の夜に見る夢を「初夢」としていたようです。

その後、時代が下って暦上の元日が新年の始まりと考えるようになってからは、新年を迎えてから見る夢が初夢ということになったようです。が、やはり私と同じように、いつ見る夢が初夢か、を疑問に持つ人も多かったようで、江戸時代には「大晦日から元日にかけての夜」「元日から2日」「2日から3日」の3つの説が現れたといいます。

この論争は、江戸時代に入ってからは大晦日から元日にかけての夜は眠らずに初詣に出かけるという風習がでてきたことから、江戸中期ころまでには元日から2日にかけての夜に見る夢が初夢だとする意見に次第に集約されていったようです。このため、現代でも元日から2日にかけてみる夢が初夢と考える人が多いようです。

一方、「2日から3日」という説を唱える人の中には、商売人が多かったようです。商売をやっている人たちにとっては、初商いは2日に行われることが多く、このほかにも書初めなどの新年の行事は2日に行われる風習でした。

このことから経済が上向き、商売がさかんになった江戸時代後期には江戸の庶民を中心として「2日から3日」が全国的に主流となったそうです。

しかし、明治に入って改暦が行われ、交通網も発展して商売は必ずしも江戸でやるものではなくなり畿内やその他の都市でも大きな商業都市が形成されるようになったことから、こうした江戸の商売人たちの風習は次第にすたれ、もとの「元日から2日」とする人が多くなったようです。

私は、ここ数年は毎年のように元日から2日にかけての朝方に夢を見るのが常で、昨年も一昨年もすべてオールカラーの生々しい夢を見ました。あまりにもリアリスティックな夢なので、翌日起きたあとに、メモとして残しておいたくらいです。

しかし、今年の2日の朝にも夢を見るのは見たのですが、あまり具体的な夢ではなく、より具体的なものを見たのは2日から3日にかけてでした。なので、上述のようにこの日に見る夢はいわば「商売人の夢」ですから、今年の夢に限っては商売に関することへのメッセージなのかな、と思ったりしています。

この「夢」についての解釈については、最近めっきりテレビへの出演が減った江原啓之さんが、かつてはいろんな本に書かれたり、出演されたテレビ番組でも語っていらっしゃいました。それらの中には、夢とは我々が寝ている間に霊界に戻り、そこで「滋養を養」っている間にもらてくるメッセージであると、いうものもありました。

江原さんによれば、霊界にもいろいろ次元があって、次元の高いところへ行っている間の夢は、カラーの夢であることが多く、朝目覚めて「この世」に戻ってきたときに記憶に残っているメッセージも、霊界の高い部分で貰ってきた夢であることが多く、大事なメッセージの場合もあるそうです。

こうしたお話を見聞きし、私自身もみた夢を意識するようになり、とくに正月の初夢として見る夢にはきっと意味があるに違いないと思うようになりました。今年もはたしてそうした夢を見、その内容はここでは書きませんが、これをメモとして残してあります。

ただ、自分でも不思議なのですが、私のように毎年正月に夢を見るという人はあまりいないようで、とりわけここ3~4年もの間、まるで恒例行事のように続いているのはさすがに不思議。

普段はあまり夢を見ない私ですが、そうしたことにはきっと「意味がある」と信じているところがあって、このため、正月だけでなく、とくにカラーでみたリアルな夢などは、必ず「夢日記」と称するノートを用意していて、ここに書き込むようにしています。

無論、夢でみたことが現実の世界でそのとおり再現されるということはあまりありませんが、そうした夢をみて何か月も経ち、自分自身にとってかなり大きな出来事があったあとに、その夢日記を読み返してみて、ああ、あの夢はこういう意味だったのか、と分かるときが時々あります。

具体例をあげると、ある時期かなりきつい仕事を請け負って毎日辛い思いをしていていましたことがあり、夜もぐっすり眠れない日が続いていました。そんな中のある夜、海だか川だかよく覚えていないのですが、その上にある数々の障害物を避けて目的地に行こうとする夢を見たのです。

どこへ行こうとしていたのかもはっきりせず、そのあたりはやはり夢そのものなのですが、結局その夢では最初にとろうとしていた手段で目的地に行くことができず、引き返すことに決め、別の交通手段で目的地に行くことができました。

その後、現実の世界では、その仕事は結構苦労しながらもなんとか仕上げることができ、ホッと安堵で胸をなでおろしたものです。が、実はその仕事を完遂するにあたっては、最初に考えていた通りの方法では仕上げることができず、結局途中から全く別の方法を変え、それまでとは異なるアプローチから試みて仕上げることができたということがありました。

後から考えてみると、あの夜にみた夢は、別のアプローチで臨めばスムースに仕事が進むのに、というメッセージドリームだったかな、と気付いたのでしたが、私の場合、こういう例は結構あります。

ヘンな夢だなとは思いつつ、あとで何かの役にたつかもしれないと書きとめたメモがもう3年分ほども溜まっていますが、ただ、必ずしも上の例のようにそのメッセージ性が確認できるものばかりではなく、わけのわからぬ世界がつづってあるものも数多くあります。

覚醒時に考えていたり、悩んでいたりしたことを夢にみて、そのテーマにおける新しい着想を睡眠中に得、実際の世界で思い出して無意識にその通りに行動していた、なんてこともあるかもしれません。夢を心理学的なアプローチや神経生理学的な見解からみると、結局はただの潜在意識の表れという意見も多いのは確かです。

普段は抑圧されて意識していない願望などが夢の中で現れるのだという人も多く、理性的に考えればやはり人間の精神活動の一環なのかな~とも思います。しかしそれにしても夢というものはあまりにも誇張され、不可解な現象で表現されることの多いものです。

夢とはいったい何なのか?ということについては、人類の永遠のテーマであって、なかなか結論づけられるものでもありませんが、私的にはやはりスピリチュアル的な解釈からこれを考えてみるようにしています。

前述の江原さんは、夢には大きく分けて、3つあると、言っています。実際には、もっと複雑で、いろいろと、絡み合っているらしいのですが、大きく分けると、「3つくらい」ということのようですが、その3つとは、

肉体の夢
願望が夢に現れる夢
霊界や幽界からのメッセージ

だそうです。「肉体の夢」とは、例えば、水をたくさん飲んで眠り、尿意がある場合に、湖や海、川などの水場でびしょびしょになっている夢をみたり、ベッドから足が飛び出そうになった状態で眠っているときに、片足が突然カックンと落ち、そのとき「ウワーッ」と、崖から落ちていく夢を見る、といったぐあいです。

つまり、肉体の状態が夢の内容に影響を与えている場合であり、このほかにも炬燵の中に潜り込んでいて知らず知らずにその中の温度が上がっており、こうしたときには夢の中では汗まみれになってジャングルを彷徨していたりします。

二つ目の「願望が夢に現れる夢」もわかりやすいですね。キムタクとデートしたり、抱っこされたり、という夢をウチのタエさんがよくみるようですが、ほかにも仕事がうまくいかなくて困っていたら、すごい仕事ができるロボットが登場してきて一度に仕事が片付いてしまう、などなどです。

問題は、この3つ目で、いわゆる「メッセージドリーム」というものです。夢の世界の中で、霊界や幽界へ行き、その世界から、啓示として何等かのメッセージをもらう、あるいはメッセージを貰わないまでも、その現場の状況を夢から覚めても覚えているというものです。

江原さんだけではなく、多くの霊能者、スピリチュアル的なことの研究家さんたちがおっしゃっていますが、人間が眠るのは、ただ単に疲労を回復させるためだけではなく、肉体に宿っている霊体が眠っている間に、その体を抜け出して、霊界や幽界に戻り、そこでエネルギーの補給をしてくるためだといいます。

睡眠は肉体の疲労をも回復させてくれますが、と同時に霊界で新たなパワーやメッセージを貰って帰り、目覚めてからそれを使って新たなことを行うためのエネルギーとして使うのだというのです。

我々が住むこの「現世」は魂の修業の場であり、このため誰しもが何等かの「カルマ」をしょって生まれてきますが、そのカルマを解消するためには、長い長い人生を送らねばならず、それは本当にしんどくて疲れる作業です。

なので、ほとんどの人は、一日に最低一回は霊界や幽界に戻ってエネルギーを補給するよう「設計」されているということで、これを行わないと肉体がもたないそうです。

ただ、毎回毎回の睡眠で必ずしも霊界まで行く人は少なく、実際にはほとんどの人が睡眠中、霊界の手前の幽界あたりまで行って、帰ってくるだけということです。

霊界の下には幽界という次元のやや低い世界があり、霊界もさらに細かい次元に分けられているのですが、この幽界も細かく分けられていて、便宜上は下層、中層、上層くらいのおおまかに三層程度に分類できます。

そしてこの最下層が一般には「地獄」という表現をされています。ただ、「地獄」というのがこの世界を正しく表しているかどうかというといろいろ議論があるようで、一般的な宗教でいうところの鬼がうじゃうじゃいるような「地獄」とは少々違うところのようです。この「地獄論」は書いていると長くなるのでいまはやめておきます。

江原さんによるわかりやすい解説では、幽界のうちの中層は、現生でいえば、「普通の生活」者が住んでいるようなところを指し、さらにその上の「上層」は別名「サマーランド」とも呼ばれ、これがいわゆる「天国」と解釈されているところです。

よく死にかけた人が、幽体離脱をしてこの世界を訪れ、きれいな花が、咲き乱れる美しい世界をみたという話を聞きますが、これは現生でその人がどう生きたかによって見え方は様々だそうで、お花畑に見える人もいれば、見渡す限りの美しい山々に見える人もあり、千差万別なのだとか。この話も地獄同様、長くなりそうなので、この辺でやめておきます。

さて、この2番目の「願望が現れる夢」と3番目の「霊界や幽界からのメッセージドリーム」には物理的な違いがあり、2番目の夢は般に白黒であり、画像が現われたり、夢から覚めたときに、色の記憶が、ほとんど残っていないことが多いようです。

これに対して、3番目の夢は、一般にフルカラーのきれいな色夢である場合多く、前述のように「あの世からのメッセージ」であることも多いようです。私が夢日記に記しているのはこの夢になります。

私の場合、はっきり覚えていて、内容ははちゃめちゃながらも、なんとか記録できるようなものは、昨年の記録では10ほどです。多いときには年間15も20も見ることがありますが、私の場合、例年では少ないのが特徴です。

人によってはほとんど毎日のようにこうした夢を見るようですが、そうした人はあちらの世界の人たちからいろいろ助けてもらっている恵まれた方なのかもしれません。が、逆に考えるとあまりにも頼りないので、あちらの世界に呼び出され、いろいろ叱咤激励されたあとにこの世に戻ってきているのかも。

ただ、同じ3番目の夢でも、下層の「地獄」と俗によばれている世界に行った時や、そこからのメッセージの場合は、白黒であったり、色が付いていても、セピア色だったり、薄暗い色が、多いということです。

地獄で見た夢だから悪い、ということではなく、自分の現状の魂がそういう次元の低いところを漂いやすい、ということだそうで、そうした時には自分の魂レベルが低下している、つまり、悪い人やモノに感化されそうになっていたり、あるいは悪い環境にはまり込んで四苦八苦している状況にあったりするわけです。

なので、それを悪い夢ととらえるのではなく、現実の生活に何等かの問題がある、例えば毎日仕事ばかり残業ばかりで精神的に参っていて、平常心を保てなくなっていたり、恋人にふられるかもしれないと考えて不安になっている、といったあまりよくない状態にあることをまず理解するべきです。

こうしたときには、その悪い状況をなんとか立て直し、心を開いて前向きな姿勢で毎日を歩むようにすればそういう夢はみなくなるといいます。悪い夢は、その言葉通り「悪い」のではなく、現状があまり良くないのでなんとか立て直しなさいよ、と教えてくれているありがたいメッセージドリームと考えればよいのです。

「地獄」は誰かから落としめられてそこへ行ったのではなく、学びや修行のため、自分を成長させるために、「自分から望んで」行った世界なのです。

このほか、人を殺したり、殺されたりといったいわゆる「悪夢」を見る場合がありますが、この場合も幽界の下層である「地獄」と繋がった状況であることが多く、これも自分で望んでこの世界へ行き、メッセージをもらっている場合があります。

こうした悪夢を見たあとには、後味が非常に悪いものですが、反面、こうした夢を見たあとは、心身ともに非常にすっきりした状態になることも多いといいます。

この状況は、遊園地のジェットコースターに乗ったのと似ています。ジェットコースターには、自分から進んで乗ったのであり、実は恐怖を感じるために乗るわけではなく、これに乗っている途中のスリルを楽しむために乗ります。

つまり、これに乗る目的はスリルを味わい、降りてきてからその爽快感を味わうために乗るのであり、こう考えてみると、悪夢も苦しむために見るわけではなく、目覚めた後に、その事後のさわやかさを味わうために見るのだと気付くことができます。

地獄も、苦しむためだけに行くのではなく、そこから這い上がってきて、そうした世界に二度と行かないように戒めるために存在している世界なのです。

こうした「あちらの世界」のお話は、信じていない人にとってはなかなか受け入れられないお話でしょうから、ここまでのお話は「よもやま話」としてとらえていただいても結構です。

死後の世界のお話や輪廻のことなどすべてを万人に理解せよというのはどだい難しいお話であり、また「死後」とか「輪廻」とか言う言葉自体の理解についても、これをわかっているという人たちの間でも解釈が異なる場合も多く、すべての人に完全に当てはまる真実というものはなかなかみつけにくいようです。

が、信じる信じないは別として、この世界を生きている人たちにとっては生きていること自体が「学びの世界」であることは確かであり、日々の生活が大切な学びの場です。

聖書や仏典などの他の宗教書、哲学書、思想書だけでなく、精神世界の本や今日のブログのような内容についてもすべて学びの世界の中の一つであると考えれば、あと大切なことは、これらのメッツセージをどう使って、どう日常生活に、生かしていくか、であり、それはあなた次第ということです。

どんなにすばらしいメッセージでも、時と場合によっては、自分に合わないメッセージはたくさんあります。夢もそのメッセージのひとつと考え、そのメッセージが自分にどんな意味があるのかをあらためて考え、「使いこなす」ことがこの世界で、幸せになる秘訣のひとつのような気がしています。

新年あけましておめでとうございます ~修善寺温泉(伊豆市)

 2013年1月1日 AM8:00 修善寺から見える富士山

あけましておめでとうございます。

今年もこのブログを通じて、自分なりにいろんなことを学んでいきたいと考えています。また、そのおすそ分けを少しでも皆さんにできればと思ってもおります。引き続きご愛顧ください。

さて、年越しから新年を生まれてはじめて伊豆で過ごした我々二人と猫一匹ですが、年末は、それまでのモノグサが祟って、夕方近くまで大掃除をする始末。それでもなんとか7時すぎには年越しそばにありつくことができました。

NHKの行く年くる年を見る前まで不覚にも眠ってしまいましたが、幸い新年のカウントダウン直前に目が覚め、なんとか正気のまま新年を迎えました。ふもとの修善寺温泉にある日枝神社にでも初詣に行こうかという話もありましたが、大掃除で疲れていたので断念。

そして、翌元旦のお昼から仕切り直しで、初詣に出かけることにしました。日枝神社に最初に行こうかとも思ったのですが、先日温泉街の喫茶店でお茶を飲んでいたところ、お店の方から我々の別荘地のすぐ麓に「熊野神社」なる神社があると教えていただいたので、こちらに最初に行くことにしました。

この神社、全国の神社を探訪されている「神社フェチ」の方のブログによれば、もともとは和歌山の熊野に鎮座されていたのを1667年(寛文七年)に現在地に遷座したものだとか。1667年といえば、江戸初期のころで、将軍は家綱の時代。江戸幕府の統治になってようやくこの世が落ち着いてきたころのことです。

熊野から遷座すると同時に、周囲にあった6つほどのちいさな神社を合祀して、「熊野権現」と称していたものを明治初年に発せされた神社合祀令により、「熊野神社」に改めたようです。

前から気になっていたので、ちょっと調べてみたのですが、この「神社合祀(じんじゃごうし)」とは、複数の神社の祭神を一つの神社に合祀する、つまりひとつの神様にしてしまうか、あるいは、一つの神社の境内社に他の神社も移動させてしまうかして、その他の神社を廃ししてしまうことです。

これによって、神社の数を減らしたわけですが、その目的は神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることによって、一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせることだったようです。

江戸時代までは、小さくて貧相な神社が乱立していて、結構ぼろぼろになっている神社も多く、これをそのままにしておくということは、天皇を頂点とする「神の国日本」を唱導したい新政府にとっては、不都合なことだったようです。このため、明治政府は、神社を統合することによって、各神社の安定した継続的経営を確立させることをめざします。

そして、明治期に入ると、それぞれの神社は「国家の宗祀」であるという国家原則を打ち立て、地方公共団体から府県社以下神社に公費の供進を実現させようとし、このために、各自治体の財政が負担できるまでに神社の数を減らさせるという政策をとりはじめました。

ところが、合祀して神社を減らすということは、一方では遷座や新しい神社などの建設などに新たな金がかかるため、各地方自治体とも消極的だったようです。しかし、地方自治体のさらに上位機関の「地方局」にとっては、合祀政策を勧めることで、例えば「一町村一神社」などの基準を住民に押しつけるようなことができるようになります。

これにより、それまでは、たくさん乱立していた神社をひとつの神社にまとめることができるようになり、ばらばらだった神社や毎の氏子たちをひとまとめにでき、これはすなわちまた彼らが住んでいた区域と行政区画を一致させる効果にもつながります。

かつ、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせることができ、それまでは氏子から各神社へ流れていた金の流れも、この地域に一つの神社に集約できるようになり、さらにその金はその行政区画の社務部門へ税金として一元化して治めさせるなど、行政側にとってはこの合祀令には数々のメリットがありました。

こうして、明治の初めから手をつけられ始めた神社合祀政策は、まず明治初年に最初の勅令が発せられましたが、江戸幕府から明治政府への移管の混乱期であったため、全国的には浸透しませんでした。

しかし、新政府は粘り強くこの政策を続け、1906年(明治39年)には再度勅令を発し、これによって以後、1914年(大正3年)までには、全国で約20万社あった神社の7万社が取り壊されたといいます。

これらの一連の合祀政策の実施による神社統合が最も激しかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることになりました。和歌山県や愛媛県もそれについで神社の合祀統合が進められたといいますが、我らの氏神様の熊野神社は、それ以前の江戸時代にすでに周囲の神社と統合されておりこの合祀政策の実施のときには名前が変わっただけです。

ところが、この政策の推進は知事の裁量に任されたため、その実行の程度には地域差が出、このため京都府などでは神社の統廃合は1割程度で済んだといい、これが、現在までも光都では神社仏閣の数が多い理由のひとつです。

また、この神社合祀政策は、いわば官僚の「合理主義」に基づいた実施された政策であり、必ずしも地方の氏子などの崇敬者の意に即していませんでした。

新しく神社が作られた場所を中心とする行政区画は、住民の生活集落とは必ずしも一致するとは限らず、ところによっては合祀によってそれまで崇拝していた氏神が居住地から遥かに遠い場所に移されるという例も相次ぎました。

こうしたことから、合祀を拒んだ神社もありましたが、こうした神社に対してはなかば強制的に合祀が行なわれたそうで、これに対して当然ながら氏子・崇敬者の側は猛反発しました。

そして反対集会などが各地で開かれることもあったようですが、そもそもこの政策は、統合とはいえ神社をすべてなくしてしまう、というほど過激な政令でもなかったことから、あまり大きな運動にも発展せず、合祀は次々と実施されてきました。

ところが、明治も終わりのころになって、合祀の実施がとくに激しかった和歌山県などでは、博物学者で民俗学などで有名な「南方熊楠」らの知識人が強い反対を示すようになります。

あいかわらず地方では合祀に対する根強い反対論も多かったことから、政府のほうもこれらの意見に耳を傾けるようになり、帝国議会などでも答弁が繰り返されるようになった結果、1910年(明治44年)ころまでには強制的な合祀の実施はかなり収まったといいます。

しかし、この合祀政策によって消えてしまった神社は数多く、また多数の祭礼習俗が消えてしまったといい、このことは、その後の人々の宗教的信仰心にも多大な影響を与えたようです。

ただ、一度合祀されたもののちに復祀された神社も少なくなかったそうで、合祀令により名目上の合祀がなされた後も、社殿などの設備を残したところもあって、そういったところでは「復祀」が行なわれました。

合祀以前の崇敬基盤が破壊されずに、その後も維持されたところでは復祀が行なわれたようですが、行政区画の変化により崇敬基盤であったとなった共同体そのものが消滅してしまったケースも多く、そうした場合には復祀されないことも多かったということです……

…… 合祀の話で深みに入ってしまい、話がそれました。今年もこの性癖は治りそうもありません。ご覧になっていただいている方々には我慢していただくしかありませんが、その脱線路線がいいんだよ~と言ってくださる奇特な方もいるかと思うので、引き続きこのパターンで行きたいと思います。

さて、わがまちの熊野神社さんは、こうして明治期の合祀を経て、大正13年に現在の本殿や拝殿が新造され、以後現在まで続いているようです。

実はこの神社から歩いて15分ほどのすぐ近くに「瓜生野」という地区があるのですが、こちらにももうひとつ、「熊野神社」があります。

こちらも周囲の7社ほどを明治2年に合祀してできた神社だそうで、こちらも明治政府による神社統合の爪痕になります。が、こちらはもともとこの地にあったお社の数々を統合したもので、本神は和歌山からのものではないようです。

どちらも、「熊野神社」なのは、この瓜生野と熊坂というふたつの行政区画内にそれぞれの「代表神社」を造ろうとしたためではないかと推定されます。

それにしても、同じ名前にせずに、別の名前にしてほしかったなあと思うのですが、これはおそらく、新しい行政区画の施行に伴って新しい神社が作られる際、熊坂の熊野神社を崇拝していた瓜生野の氏子が、もう昔の熊野神社にはお詣りに行けないのだから、せめて神社名だけは前のと同じにしてほしい、という要望が出たからではないでしょうか。

聞くとどちらも合祀の際に「熊野権現」を称し、その後新しい社殿の造成にともなって新名称をつける際にもどちらも「熊野神社」に改名しており、このことから、となりあうどちらの住民それぞれが、自分の地区の「熊野様」が欲しかったのではなかろうかと推察できます。

地元の方に言われを聞いたわけでもなく、勝手な推論なのですが、あながち違ってはいないように思います。いずれ真偽のほどは、また地元の方などにも聞いて確認してみましょう。

さて、ともあれ、この日は、この熊野神社に詣でたあと、日枝神社に詣でてその日を終わりました。熊野神社のほうは、地元の氏神様ということもあり、参拝したときには、我々以外には誰も参拝客はありませんでしたが、これと対照的に修善寺温泉街にある日枝神社は観光客であふれかえっていました。

ひとつ山を隔てて表と裏にある神社でこれほどの違いがあるのかと驚きましたが、これはこれでまた新鮮なものはがありました。新しい地で、それぞれの神社にお参りでき、気持ちの良い正月のはじめの日を終えたことは言うまでもありません。

翌日の2日には三島大社にも行ってきました。こちらは日枝神社以上の大混雑でしたが、こうしていままで初詣になど来たこともなかった神社でのお詣りを続けるにつけ、ああやっと伊豆の住人になれたな、と実感できる今日このごろです。

今日で正月三が日も終わり。明日から仕事はじめという方も多いことでしょうが、私もしかりです。今年はさらに昨年以上の飛躍をそれぞれの神様に願ってきましたが、それが実現できるよう、努力していきたいと思います。

このブログも引き続き、皆さんにお楽しみいただけるよう、できるだけ充実させていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。