夢の途中 1 夢の中のはなし

夢の中のその場所は、雑然としている。

町の中心部のようだ。

なのに道行く人もまばらで閑散としている。

しかし、まるで活気がないか、というかとそうでもない。

すりガラスの向こう、時おりよぎる影。煙突から出ている煙が見えるほか、何かを煮ているような匂いがする。遠くから子供が泣いているような声も聞こえる。あちこちに生活の気配があるのだ。

すべてが計算されたものではないことは確かである。時間をかけて、自然にこののどかな環境はつくられてきたに違いない。

通りの向こう、交差点の左側にやや高い白っぽい建物が見える。病院のようだ。その上のほうの階に、明るい病室がある。広い部屋で、どうやら新生児室らしい。よく晴れていて、三方ある窓からは眩しいばかりの日差しが部屋に注ぎ込んでいる。

春の日の朝。桃の節句から何日か経ったころの光景─。

何人もの赤ん坊がいる。が、みんな静かに眠っている。その中、ひとりの若い女性が胸元に抱えこんだものを覗き込んでいる。微笑を浮かべて満足そうな顔。

小さなからだ。未熟児らしい。こんな貧相な子が、まともな人生を送れるのだろうか。

実際、その人生は波乱に満ちたものになるのだが、この人はそれをまだ知らない。齢はおよそ25か6。出産用の白い浴衣を着たその人こそが私の母だ。

時とところが変わって、また別の光景がみえる。

木造の官舎が軒を連ねている。さきほどの町から南へ数キロ先の山合の村にそれはある。退院した彼女は生まれたばかりの私を連れてその一角にある我が家に戻った。けっして広い家ではない。6畳間と4畳半の部屋がひとつずつ、小さな台所に風呂、トイレは共用だ。谷間にあるため、明るくもない。そこにこの夫婦が住むようになってもう3年になる。

私には姉がいる。5歳年上だが、このとき同じ長屋には住んでいない。母の実家に預けられており、のちに合流することになる。

父はいわゆるダム屋だ。といっても土木技術者ではなく、電気が専門である。満州で生まれ育ち、専門学校でその知識を得た。それがその後の彼の人生においてどれだけ役に立ったことか。本人が一番自覚しているだろう。

満州は言うまでもなく現在の中国である。広大なその大地の自然は島と山で構成される日本とはおよそ異なる。「大陸」というにふさわしく、どこまでも続く平坦で単調な環境はけっして人には優しくない。しかし、そこで生まれ育った、というのが彼にとってはその後の人生におけるひとつのステータスとなった。

と書くと、まるで満州生まれを自慢していたかのように聞こえるが、少し違うようだ。むしろそこに生まれたことに対して引け目のような気持ちを持っていたのではないか。

かつて清が領有していたこの地域を日本は侵略に近い形で手に入れた。しかし欧米に敗れてそれを失った。父の卑屈はそこに原因があるように思う。祖国が今は存在しない、というのは、何か自分の存在が否定されているように感じるものなのかもしれない。

国を失ったユダヤ人と同じだ。しかしユダヤ人はその後自分の国をもらった。そのため、今度はそこに住んでいたパレスチナの人々が居場所を失った。一度生まれ故郷を失った、という点で、両者と父は似ている。

自分の生まれた故郷に帰りたくても帰れない人々のことを難民という。同じく根無し草のように漂っているという感覚が父のその人生においても常にあったに違いない。

そのあたりの気分は人の生き方を窮屈にさせるものらしい。小学校しか出ていない、とよく自嘲気味に話していた。といっても、高等小学校と呼ばれるもので、今でいえば中学校だ。この当時は高等小学校を出ればもう働きに出るというのがあたりまえであり、商家であった父の実家ならなおさらのことである。

ともあれ、そうした出自のせいというべきか、彼の性格というべきなのか、その後の父の人生は実に控えめなものであった。出る釘は打たれる、と言わんばかりにおとなしく出しゃばらずに、ひたすらに自分の砦だけを守って生きていく、という生き方だった。

高等小学校卒業後の15~6歳のころ、満州電業という、日本の電力会社のような組織に入社した。会社組織ながら教育機関があり、そこで学ばせてもらってから職に就いた。いわゆる電気技師の卵だ。

数年現場でキャリアを積んだが、その前後で日中戦争が勃発。やがて太平洋戦争へと発展した。20歳になるかならないかの彼は、徴兵され満州北方へ送られる。

それまで一サラリーマンだった彼にとっての軍隊は厳しい世界だったに違いない。しごきの洗礼は当然あっただろうが、そこでの生活を、ときに面白おかしく話した。

「フケ飯」というものがある、とある日教えてくれた。これは、上官の白飯に自分のフケを入れ込む、というものだ。白いフケは、白飯の中ではほとんど見わけがつかない。しかしフケには下し作用があり、これを食した上司はたいてい、腹をこわす。

初年兵だった父を含めて下流の兵士たちは横暴な上司に反感を持っている。いつか仕返しをしてやりたいと日頃からうっぷんを溜めているが、さすがに刃傷沙汰はまずい。それなら、ばれない程度にお灸をすえてやろう、という仕返しのひとつがこれであり、当時の軍隊ではかなり横行していたらしい。

普段、下っ端の兵士は白飯など食えない。粟や稗、麦飯などが主食だ。兵隊は冷や飯、上官は据え膳、という世界であり、軍隊というものは階級社会の典型である。だが、強い者が弱いものをいじめる場合、たいていそこには大きな落とし穴がある。恨み嫉みの積み重ねがその穴を穿ち、仁徳のない人間はそこに落とされる。

安心して口にできるはずの食べ物に実は毒が盛られていた、といった類の話はクレオパトラの時代からある。かくして父の所属していた部隊でもそれが起きた。尻をかかえて厠に駆け込む上司を陰でみていた仕掛け人たちは、大笑いして溜飲を下げたという。

イジメに対する意趣返しのようなもので、ほほえましくもある。いたずら、というには少々度がすぎているが、日本人同士ならまだ許しあえる部分があるだろう。しかし、敵国人同士殺しあう戦争ともなるとそうもいかない。やがて父も悪夢のような争いに巻き込まれることになる。

初年兵としての父は、結局戦闘には参加しなかった。しかしこのころ、すでに本土は各地で空襲を受け、満州各地の拠点も連合国から攻撃を受けるようになっていた。そこへ新たに参入してきたのがソ連である。

満州北方各地から乱入してきたソ連軍は、父が所属していた部隊が展開する地域にも進出してきた。

ある日の朝、ついにソ連軍が父の起居する駐屯地を急襲した。のちの彼の手記によれば、部隊はそうした危険を感じ、列車に乗って移動しようとしていたようだ。このころすでに満州北部には十分な武器や物資は届かない。敵を迎え撃つ武器も少なく細長く伸びた無防備な車両の帯は、敵の恰好の餌食となった。

父はその列車の後方に乗っていたが、ソ連軍が襲ってきたとき、まず機銃の掃射を受けた。その車両には数人が乗っており、はっと気が付くと、すぐ隣に座っていた同僚が血しぶきをあげていた。銃撃によって眉間を撃ち抜かれ即死していたそうだ。

このままでは死ぬ、と咄嗟に判断した父は、すぐに列車を飛び下り脱出した。転がり落ちるようにして荒野を走り抜けた先で振り返ると、さっきまで乗っていた列車が側の砲撃を受けて粉みじんとなり、噴煙をあげていた。

命からがら脱出に成功した父だが次なる試練が待ち受けていた。やがて押し寄せてきたソ連軍に追いつかれ、捕虜となり、そのままシベリアへ送られた。いわゆるシベリア抑留で、彼はその酷寒の地で3年を過ごすことになる。

つらい3年だったに違いない。そのころのことを多くは語らなかったが、零下の日々が続く中での同僚の死や生活の厳しさを時に口にした。私が小学生の頃、時折当時のことを語ったが、息子に語って聞かせるというよりも、独り言のようにしか聞こえなかった。




そんな厳しい時期を経て、やがて春がやってくる。待ちに待った帰国だ。しかし舞鶴港に入った船から陸を見た彼は、「祖国」である満州とは全く違った光景を目にする。自然だけでない。道行く人々の風体や建物の形も彼が育った環境とは異なる。大陸育ちの彼にとっては異国そのものだ。

父の父─私の祖父は、もともと金沢の人である。若いころに満州で一旗揚げようと思い立って出国。彼の地でガラス屋を営んで成功した。父はその家の次男として生まれたが、幼いころ兄は亡くなり、そのあと生まれた彼が事実上の長男となった。

祖父の最初の妻、私の祖母は彼が10歳前後のころに亡くなった。が、その前に父のほかにもう一人男児を設けた。祖父にはこの弟のほか、その後再婚した相手との間にできた妹が一人おり、父の出征前の家族構成は三人兄妹と夫婦二人というものだ。

終戦の混乱が続く中、祖父一家は戦地に行ったままの長男の消息を知る由もない。自分たちにも危険が迫りつつあり、追われるようにして満州の地を後にする。苦労はしたようだが無事に満州を脱出。日本に着いてからは、郷里の金沢で親戚の家に寄宿するようになった。

一方の父は、シベリアで命を縮めたものの、なんとか五体満足で舞鶴まで帰還してきた。しかし行くべきところはない。本来帰るべき故郷はすでになく、初めて足を踏み入れることになる第二の故郷、金沢へと向かっていった。

舞鶴から金沢までは、その当時も北陸本線が通っている。しかし、戦後すぐの動乱期には鉄道のダイヤも乱れていたに違いない。帰国したばかりで十分な持ち合わせを持っていなかったであろう父は、もしかしたら徒歩で金沢まで向かったかもしれない。

地図で調べてみると舞鶴~金沢間はおよそ200kmもある。一日40km歩くとして5日はかかる工程だが、はたしてシベリアで体力を落とした父がそうした行為に出たかどうか。

復員兵にはいくばくかの手当が出た、という話も聞いたことがある。復員者用の無料乗車証となにがしかの現金を持って汽車に乗り、金沢へ向かったと考えるのが自然だろう。

とまれ、祖国を追われ、シベリア帰りの父は、ようやく先祖が代々住まう金沢にやってきた。奇跡的に空襲を免れ、今も江戸の面影を残す北陸屈指の都会だ。そこに江戸時代の末頃から「越中屋」の名で呉服商をしていた家がある。

明治の中ごろまではかなり裕福な商家だったようだ。戸籍に残っている住所から調べてみると往時は、かなり賑わった場所に店を開いていた。香林坊にも近く、現在もにぎわう町の中心部だ。曾祖父は市議会議員も務めており、調べたところかなり高額の税金を払っている。当時の金沢市への税金支払い額ランクでは上から2番目だ。

しかし、明治の末までには落ちぶれた。理由はよくわからないが、古い形に固執しすぎたに違いない。人絹などの新しい素材で作られた安価な衣服が流通していく中、昔ながらの木綿や絹などの品質にこだわったのだろう。それでは価格面で勝負にならない。

そのあげく大きな借金を抱えた。大きな屋敷は売り払われ、一家も奉公人も離散した。本家筋に近い親戚たちだけが、遠くへ行くでもなく、なんとなく、もとあった屋敷の界隈に安普請の家を借りて住まうようになった。

そのひとつの家に父も迎えられたが、親戚とはいえ、会ったこともない人々ばかり。一応表向きは歓迎されたものの、どことなくよそよそしい。

どの親戚の家に父が住むことになったのかははっきりしない。が、そんな没落一族の居住環境がかんばしくないものであったであろうことは容易に想像できる。狭いだけでなく、当然、何かと居心地は悪い。

居候でもあり、まだ若かった彼がぶらぶらしていいはずもない。職を求めて町に出るが、そこで復興したばかりの政府が新設した役所の存在を知る。

建設省だ。彼にとってラッキーだったのは、ちょうどそこで彼が学んできた電気関係の技術者の募集があったことである。応募して採用され、最初の赴任先となったのが、山口のダム現場だった。

佐波川ダムという。サバと読む。山口は読みにくい地名が多い。防府(ほうふ)という町があるが、ボウフと読む人がいる。ほかに岐波(きわ)、厚狭(あさ)、埴生(はぶ)… 誰も読めないのが兄弟(おとどい)という山で、このほか特牛という地名もある。これはなぜかコットイと読む。

佐波川ダムは、今の山口市内の南東、徳地町の山合にある。現在周辺は水域公園になっていて、キャンプ場や様々なレジャー施設がある。しかし、父が赴任してきたころは当然、何もない山中だ。

そこに何年か勤めたころに、地元の人の紹介でお見合いをした。その相手が、母である。若いころの写真をみると、わりと整った顔をしている。が、けっして美人ではない。利発そうだが、燗が強そうにも見える。

一見そうは見えないが、なかなかのスポーツマンで、国体に陸上の選手として出場したことがある。といっても、田舎の町のこと。ほかに大したランナーがいなかっただけで、全国区的にはさほど秀でていたわけではない。

とはいえ、運動神経がよかったのは確かで、その後私が入学した小学校ではママさんバレーチームの主将を務め、広島大会で優勝したこともある。

対する父は、というと、スポーツにはまるで縁がない。またたいした趣味もない。残っている写真からは風采があがらない、ひょろっとした小男という印象を受ける。ただいかにも人がよさそうな面立ちである。また、ちょいとした愛嬌がある。想像するにそれなりに女性受けはよかったのではなかろうか。

はるか60年以上前のことである。二人を実際に並べて見ることはできないが、気の強そうな女と軟派な男との組み合わせは、意外にお似合いだったかもしれない。

年齢差は7つあった。父が大正15年、母が昭和7年生まれで、大きく離れているわけではないが、多少の年代的ギャップはあっただろう。

生まれも育ちも当然違う。方や大陸生まれのボンボン、もう一方は田舎育ちの百姓娘ということで、話のかみ合いどころがどこにあるのか、想像もできない。

が、見合いの結果は上々だったようで、二人はその後、式をあげた。母の実家のあった、山口市郊外の仁保(にお)という場所でだ。写真が残っているが、昔ながらの文鎮高島田結いの母と紋付き袴の父、すぐ近くに住む叔父夫婦やその他の親戚が写っている。



私には姉がいる、と先に書いた。母が21歳の時の子である。父は28歳だったはずで、この結婚後にすぐ、身ごもったらしい。

佐波川ダムでの仕事はその後4~5年続いたようだが、やがてダムも完成に近づき、次の任地は愛媛の大洲と決まったころに、母は次の子を宿した。私である。

身重の体で、まだ小さかった姉を連れて大洲へ行くのはなかなかしんどかろう、という話になったのだろう。ちょうど幼稚園に入る年ごろになっていた姉は、そのまま山口の母の実家に預けていくことになった。

この姉について、少し書いておこう。

山口に残された姉は、そこで幼稚園に通うことになった。市の中心部にある亀山公園内に今もあり、「山口天使幼稚園」という。

そのすぐ側にある、「サビエル記念聖堂」とも関係があるので、まずそのことについて触れる。

江戸時代に入るよりも半世紀ほど前、スペイン人のフランシスコ・ザビエルは山口を訪れて布教を行おうとした。この地を治めていた大内義隆はザビエルの宣教を許可し、信仰の自由を認め、当時すでに廃寺となっていた大道寺という寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた。これは、日本最初の常設教会堂といわれている。

この寺は山口駅から4kmほど北に行ったところにある現在の自衛隊駐屯地の近くにあったようだが、今はなく、記念公園になっている。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったという。

こののち、ザビエルは豊後国(現大分県)でも布教を行っており、これは現在までも続く長崎をはじめとする九州各地での熱心なカトリック信者の活動につながっている。

しかし、その後徳川幕府の時代にはキリスト教が禁教となったことから、九州や中国地方でのその活動の系譜は途絶えた。山口においても大道寺をはじめ関連する伝道場所が閉じられた。が、維新後に許され、亀山公園内にザビエルの日本での布教を記念して建設されたのが、初代ザビエル記念聖堂である。

ザビエルの来日400年を記念として1952年(昭和27年)に建てられた。その厳かな雰囲気に惹かれ、私は子供のころここをよく訪れたものだ。時に入り口のドアが空いていると、こっそりとその中を覗き込んだりしていたが、その天井には、法衣を着たザビエルがちょんまげ姿で脇差を指した侍相手に布教をする姿が描かれていた。

残念ながら1991年(平成3年)に失火により全焼したが、サビエル記念聖堂の所有者であるイエズス会より多くの資金援助を受けるとともに、種々の教会関係機関、山口信徒、山口市民や全国から寄せられた募金により1998年(平成10年)に再建されている。

その運営は現在でもイエズス会が行っているが、姉が通うようになった山口天使幼稚園はその隣にあって、同じカトリック系の学園法人が運営している。おそらくイエズス会が保有する土地を融通してもらったのだろう。1957年に「サビエル児童会館」という児童福祉施設として建てられたが、ちょうど姉が入園したころに幼稚園に昇格した。

園内にはマリア像が置かれているなど、ある程度宗教色の強い幼稚園である。といっても、おおかたは普通の幼稚園と変わらない。園児に教義を押し付けるようなところはなく、姉はこの幼児園で伸び伸びと時を過ごした。

ちなみに姉の誕生日は12月25日のクリスマスで、イエス・キリストと同じだ。だが、いまだもって宗教などにはまるで興味はない。教会のミサなどには一度も行ったことがないだろう。

キリスト教どころか仏教などにもまるでご縁はなく、たまに神社にお参りに行くくらいだ。子供のころから現在に至るまで趣味もたいしてない。ただ、運動神経はよく、若いころはいわゆる体育会系だった。元国体選手の母のDNAを受け継いだからだろう。高校時代には新体操部のキャプテンを務めていた。

想像するに周囲の男子も騒いでいただろう。弟の自分から見てもなかなかチャーミングだった。しかし、だからといって異性と浮名をあげる、といったこともなく、割と真面目に高校生活を送った。卒業後は、大手の保険会社に入社し、まともな会社員となった。

その会社に勤めて4~5年後、同僚の男性と結婚し、男一人、女二人の子を設けた。40台まではその夫の転勤であちこちを転々としたが、その後広島に落ち着き、幸せそうな日々を送っていた。少なくとも弟の私の目からはそう見えた。

ところが50台になって、突然離婚を宣言。息子や娘たちはさかんに諫めたが聞かず、同年齢の男性と同棲するようになった。ちなみにこの男性と彼女は小・中学校の同窓生であり、そうしたことが縁で付き合うようになったらしい。

父もこの不倫のことは知っていたらしく、姉が離婚を両親に告げたときのその怒りようはすごかったらしい。後で母に聞いたところ、許さん、認めぬの一点張りだったようだ。

その後離婚届も出さないまま時が流れたが、この間父との和解はなく、二人の関係は急激に冷え込み、その冷戦は父が死ぬまで続いた。

もっとも父と姉の折り合いの悪いのはこの時が初めてではない。私はどちらかといえば子供のころから父にかわいがられていたほうだったが、姉のほうはというとしょっちゅう父に叱られていた。

その原因はよくわからないが、相性が悪かった、としか言いようがない。男女の差という以外にもまるで共通項がなく、食べ物やテレビの番組に関しても二人が同じものを好きだったという記憶がないし、そもそも互いにあまり話したがらなかったように思う。

姉が小さかったころはそうでもなかったのかもしれないが、小学校高学年になるころからそうした傾向が特に強まった。年頃の娘と父親というものは、そもそもそういうものだろうが、何かひとつくらいは話の合うネタがあってもよさそうなものだ。

父がそもそも無趣味であったこともある。またあまり社交的なタイプでもなかった。休日に同僚や誰かとゴルフに行ったりするようなこともなく、うちにいて、朝から晩まで家に引きこもっているような内向的なタイプだ。あえて趣味といえば庭いじり以外では読書だった。

一方の姉はといえば、家にいることはほとんどないという印象で、実際、学校から帰るとすぐに友達と外へ遊びに行っていたし、お泊りで友人宅にお世話になることもよくあった。社交的なタイプといえ、これはおそらく母に似たのだろう。内攻的な性格である父とは正反対だ。

その点、私とはウマが合った。私も内攻的なタイプと言え、子供のころから外に出るよりはうちの中で本を読むのが好きだった。小学校では図書館の虫だったが、中学生になるころからはとくに歴史本をよく読むようになった。

父も本が好きで、とくにノンフィクションが好きだった。よく戦争モノを読んでいたが、私の歴史好きはそこから来ている。父の蔵書のうち、最初に借りて読んだのは吉村昭で、それは「海の史劇」という日露戦争を題材にした小説だったが、これを面白いと思った。

やがて自分自身でそうしたものを探すようになり、その流れで戦国時代や幕末を舞台にした、いわゆる時代小説のジャンルにはまった。

私が歴史ものを読むようになってからは、逆に父がその影響を受けたようだ。戦争モノ以外にもそちらにも目がいくようになり、私が読む本にもお金を出してくれるようになった。中学生のころ、小遣いとして月に千円ももらっていただろうか、その数倍の額を手渡されて、よく近所の本屋に通ったものである。

私が買ってきた本を父もまた読み、お互いに書評で盛り上がる、ということも多く、その後私が長じてからも、あの本は面白かった、あれがいい、といった話をよくしたものだ。

ところが、姉はというと、こちらもまた趣味というものがほとんどない。その点が父との共通点といえば共通点なのだが、いかんせん趣味のない者同士の間では分かち合うものは何もない。姉はといえば、私や父のように小説の類などはあまり興味はなく、買ってくるのは漫画のほうが多かった。

父はそれを低俗な読み物、と決めつけていたようで、彼女の居室に少女漫画の本がうずたかく積み上げられていくのをいつも苦々しく見ていた。「マンガばかり読んで!」というのが父が姉を説教し始めたときに出る最初のことばだ。しかし、その怒りの矛先は実はマンガばかりではない。

彼女の長電話がそれだ。この当時は当然携帯電話などなく、どこの家庭にもダイヤル式の黒電話が一台だけ、というのが普通だった。

その電話を独り占めにしていたのが姉であり、母や私が聞いていようがいまいがおかまいなしに長話を続ける。なるべく父のいない頃を見計らって電話をしていたが、父が帰宅し、たまたま玄関口で姉が長話をしているのをみつかると、ひと嵐がくる。

父を観察していると、姉の電話を見かけたときからすでにもう不機嫌で、電話を切ったあと、姉が素知らぬ顔で居間に入ってくるのをみるとますます顔が険しくなる。

その後食事をする間にだんだんと機嫌は持ち直してくるのだが、ビールなどのアルコールが入り、何かの拍子にその怒りがぶり返してくると、いつもの「マンガばかり読んで!」が始まるのであった。

たいていは姉が自室にひっこんでこの嵐は静まるのだが、ほかに学校の成績のことなどが絡まると、治まるどころかさらに雨風が強くなる。よせばいいのに、そこに母も加わって、三つ巴の親子喧嘩になっていくのであった。

この父娘の対立を傍観しつつ、気分的に私はいつも父の肩を持っていた。男同士ということもあっただろうが、姉と話すくらいなら、という気分がいつもあった。父と姉があまり相性がよくなかったのと同じく、彼女とは折り合いが悪く、よく姉弟喧嘩をした。

何が原因かは問題ではない。何かを勝手に使っただの、父母に告げ口をしただの、つまらないことで言い争いになるのだが、要は相手の存在が気に入らないのだ。その背景には父が私の肩を持つことへの姉のジェラシーがあったかもしれない。

ときに大ゲンカとなるが、5つ年上の姉とは、体力的にも言葉の上でもとても勝負にならない。このため、いつもフラストレーションを溜めていたが、ときには陰湿であることは承知の上で巧妙な仕返しもよくやった。

そのひとつとしてよく覚えているのが、チャンネル争いの結末である。私が小学生の高学年のころ、すでに我が家にはカラーテレビがあった。父はこうした電気製品の購入には積極的であり、その理由は所属先が電気を扱っており、業者とのコネにはことかかなかったためだ。

しかし、当の本人はあまりテレビを見ることは少なく、夜帰ってきてから食事が終わり風呂に入ったあとは、自室に閉じこもって読書にいそしむ。残る私と姉、母がテレビを見ているのだが、8時台のバラエティーが終わると、争いが始まる。

私はどちらかといえば男の子らしく、科学ものやチャンバラが好きなのだが、女性陣はといえばやはりドラマである。このときも二人がタッグを組んでお気に入りの番組をせしめた。

どんな番組だったか忘れたが、このときはどうしてもある番組が見たく、学校から帰るとそれを見るのを楽しみにしていた。ところが、いつものように二人にテレビを占領されたことから、大ゲンカになった。しかし、二対一では勝負にならず、とうとう居間を締め出された。どうにも憤りの収まらない私は、大胆な行動に出る。

二人が続いてのドラマ番組をみるまで、トイレや皿洗いに立ったときのことである。おもむろに、私は押入れからカッターナイフを取り出した。

そして二人に見られないようにコンセントからテレビへと延びる線の半分に切れ込みを入れた。電源はプラスかマイナスかどちらかをカットすれば絶たれる。両方に刃を当てれば、ショートしてしまう可能性があるが、気を付けて片方だけを断線すれば、大事には至らない。

学校の技術家庭の時間に知った知識を応用した犯行だったが、二人はそんなことは露とも知らない。茶の間に帰っていざお気に入りのドラマを見ようとするが、いくらスイッチを入れても映らない。やがてテレビが壊れた、と大騒ぎになった。

それを陰で見てほくそ笑む私。その日、父は残業で帰りが遅かったが、帰ってきてそうそう騒ぎ立てる二人に促されてテレビのチェックに入った。

チャンネルやらスイッチを次々にチェックしていったが、最後に私のいたずらに気が付き、つぶやいた。「あーこりゃ、電源がはいらないはずだわ」。

それをふすまの陰で聞いていた私は、すぐに怒られると覚悟した。が、1分経っても2分たっても何も起こらない。やがて母から「風呂にはいりなさいよー」の声が聞こえたが、不思議なことに結局その夜は、その後何のお咎めもなかった。あとでそっと断線したテレビのコードをみると、きれいにビニールテープで補修がしてあった。

翌朝も何事もないように学校へ行き、その後、この話が蒸し返されることは二度となかった。しかし、なぜ父は怒らなかったのだろう、という疑問が残った。

のちのち考えて私が出した答えはこうだ。まず、このとき私が取った行動は許されるものではなかったが、二人して一人を占め出すのはよくない、と父は思ったのだろう。また、そもそも父は、マンガばかりではなくドラマ三昧の姉を苦々しく思っていたようだ。そしてそれに加担する母にも批判的な気持ちを持っていたに違いない。

あるいは息子がとったその行動を、子供ながらに頭脳的でなかなかやるな、と思ってくれたのかもしれない。その後、父が亡くなるまで、あのとき何故私を叱らなかったのかその理由を聞くことはなかった。しかしその後、いつもそういう形で何も言わず、私のやることにエールを送っていてくれたような気がする。




さて、余談が過ぎた。姉のことはまた書くことにしよう。

こうして山口に姉一人を残して父と母は新しい赴任地である愛媛県の大洲へと移っていった。

大洲市は、「伊予の小京都」と呼ばれ、肱川の流域にある大洲城を中心に発展した旧城下町である。

伊予の地を南北につなぐ大洲街道と東西に結ぶ宇和島街道の結節点にある。また東には四国山脈を抜けて土佐国(現在の高知県)に出る街道もあり、さらに、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現・八幡浜市)があった。地理的には四国の中にあって一番西方に位置するが、交通の要衝と言える場所であり、軍事的にも古くから要所であった。

最初にここに城を造ったのは、伊予宇都宮氏である。豊前宇都宮市の流れを汲む豪族であり、もともとは豊前(現大分県)を拠点にしていたが、14世紀ころから海を隔ててすぐのこの地に入り、先住民を鎮撫してここを所領とするようになった。

14世紀末、伊予宇都宮氏初代の豊房は、肱川と久米川の合流点にあたるこの地に城を創った。当時地蔵ヶ岳と呼ばれていたこの高台から名を取り、城は「地蔵ヶ岳城」と呼ばれていた。その後、江戸時代初期になってからは、藤堂高虎が徳川からここを下賜され、大洲藩と呼ばれるようになってから大洲城の名が定着した。

高虎はさらにこれを大規模に修築し、近世城郭としての体裁を整えた。こうして、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として大洲の城下町は繁栄していった。

現在でも江戸時代の当時の風景が余さず残っている。なまこ壁の家や腰板張りの土蔵群などが並ぶ場所は、「おはなはん通り」と呼ばれ、1966年から翌年に放送されたNHK連続テレビ小説「おはなはん」のロケ地にもなっている。

冒頭で描写した私が生まれた病院は、そこからもほど近い。市役所の近くにあったようだが、今は既になく、消防署になっている。街の中心部だけに、ビルが立ち並んでいるが、半世紀以上も前のこのころは、ひなびた商店街があるだけだった。

父が建設省に入って二番目の仕事として関わったのは、市内を流れる肘川の上流にある鹿野川ダムという多目的ダムの建設だった。肱川は、その総延長が約100キロメートルにわたり、数百本もの支流を持つ愛媛県内最大の河川である。

その下流に大洲市街が位置するが、上流では川幅の狭い区間が多数存在するため、過去に市民は再三水害に悩まされてきた。建設省は1953年(昭和28年)10月、肱川の治水・利水を目的とした「肱川総合開発事業」の一環として鹿野川ダムの建設に着手した。

河口から約35キロメートル上流にさかのぼった場所がその建設地として選ばれた。ダムに堰き止めた水で洪水調節するとともに。ダム式水力発電所を併設し、最大1万400キロワットの電力を発生させて、大洲市内へ供給する。

工事は1956年(昭和31年)6月に始まったが、地質不良により基礎掘削量の増加を余儀なくされ、さらに1958年(昭和33年)12月に、試験的に湛水した際には、湖畔の3地区で地すべりの発生が確認された。このため、土壌改良や数々の地滑り防止策がとられたが、これが功を奏し、ダムは1959年(昭和34年)3月に無事完成した。

父と母はダムの建設が始まった当初から、ダムが完成してその管理権が愛媛県に移譲されるまでここにいたようだ。移管されたのは1960年であるから、ほぼ足掛け4年ここで暮らしたことになる。

その間、私が生まれ、狭い長屋はがぜん賑やかになった。母は今回の出産では産後の肥立ちが悪かった。母乳があまり出なかったようで、生まれて何カ月も経たないうちに私に与えられる乳はミルクに切り替えられた。

のちに母によく聞かされた話では、私は温かいミルクが嫌いで、与えられるといつも吐き出していたという。冷たいミルクを与えると、ゴクゴクと喜んで飲んでいたというから、よほど変わっている。

無論、自分ではそんなことはまるで覚えていない。ミルクだけでなく、その前後の記憶についてもまるでないが、これは誰しもが同じだろう。羊水の中のことや生まれてすぐのことを覚えている、という人がにいるようだが、そうしたケースは稀である。私もまた生まれたころのことは無論のこと、2歳になってからのことすら記憶にない。

余談になる。私は、幼いころばかりではなく、大人になってからも記憶がほとんどない、といったことがある。その時私は何をしていたのだろう。何を考えていたのだろう。どこへ行っていたのだろう、どうしても思い出せない時間があるのだが、そうした経験は誰にでもあるのではなかろうか。

また、もしかしたら、あれは夢だったのかもしれない、ということもある。現実には違いないのだが、その移り行く状況の中に身を置いていること自体、実態のないことのように思える。これまで歩んできた長い人生の間において、そうした時間は確かに存在する。とくに、大きな失意や大きな喜びの中にあったとき、そうしたことが多かったように思う。

ここに書きたいと思っていることは、まさにそうしたことである。忘れてしまっている話や夢のように思えたことを書き出していくのは面白いに違いない。少なくとも、明瞭に記憶に残っていることを書き留めるだけの話よりは人に読んでもらえそうだ。

また、記憶の欠落を埋め、自分史を完成させる、といったことには意味がある。なぜなら、自分がなぜこの世に生まれてきたのか、という疑問の解消につながっていく可能性があるからだ。

とはいえ、ここでは、まがりなりにも自伝らしきものを書こうとしている。夢物語ばかりでは人様に納得して読んではもらえないだろう。そこで、やはり現実にあった具体的な話を骨格に置いて書いていこう、ということになる。

そしてそれを書き出す場合、一番手がかりとなるのはやはり記憶しかない。それは古いものから順番に積みあがっていくものらしい。

しかし、時代が遡ればさかのぼるほど下のほうにあるから引っ張り出しにくい。また、前後がわからなくなっているものも多い。さらに言語能力が発達する前の記憶ほど、情報量は少ないから、これは丹念に掘り起こさなければ物語にならない。

この点、前世の記憶と同じである。断片的な情報はあるものの、顕在意識の中で思い出そうとするともうろうとしたものしか出てこない。本来なら、今生だけではなく、こうした過去生に遡っての自分史が書ければもっと面白いだろうなと思う。ただ、断片的なものであるからリニアにはつながりにくい。

さらに、それぞれが独立した人生だから、繋げたとしても物語にはならない。何千年前、もしかしたら何万年も前から続く自分の人生をすべて思い出したとして、それをつづるのには、おそらく何十年、あるいはもっと時間がかかるだろう。

残念ながら、本稿に使える時間はそれほど長くはない。なので、限られた時間の中で限られた情報しか導き出せないだろう。それならば、ここでは自分が今生で最も重要だったと考える経験を中心に書いていきたい。神経を研ぎ澄まし、できるだけ多くの記憶呼び覚ました上で、さらに欠落している部分があるなら、それを夢の話や想像で補っていくことにする。

人の齢は短い。たかだか80年、長く生きても100年だ。長い転生の歴史を思えばほんの短い午睡の中の夢のようなものだ。ゆえに、この稿でこれから書いていくことも、また夢の途中の話である。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 2 堀越

さて。

子供のころの最も古い記憶、ということになると、それは両親が私を連れて愛媛から広島に移ってからのこととなる。幼稚園に入る前の記憶のようだから、おそらくは4歳のころのことである。

大洲での長年の勤務のあと、父の次の赴任地となったのが広島だ。そこでの記憶のひとつに、父がどこかへ出張するときの朝のことがある。玄関先で母に抱きかかえられて見送る父を見て、私は大泣きしている。悲しくて悲しくて、という強い感情がこの記憶を頭の中にとどめていたのだろう。

過去生を思い出すときに最も鮮明に出てくるものはやはり感情だという。物理的なものや論理は記憶にはとどまりにくい。そのとき強く魂に刻まれた感情が最も鮮明な記憶として残る。

このときの私は、父と別れるのがよほど悲しかったのだろう。幼いころほかにも悲しいことが何度もあっただろうが、古い記憶というと、必ずこれが真っ先によみがえってくる。

その場所というのは、広島市の東部、「堀越」というところだ。広島駅からは山陽本線で東へ二つ目に「向洋(むかいなだ)」という駅があるが、そこが最寄り駅になる。周囲には工場が多く、その中でも日本製鋼所という大きなものがあって、今も稼働している。戦前は大砲などを製造しており、軍都であった広島を象徴する企業のひとつであった。

その工場の敷地の周りに張り巡らされた塀の外側に、我々一家四人が住んでいた官舎や他の官舎があった。20年くらいまでにはまだその一つがボロボロになりながらもまだ残っていた。今は取り壊されて付近一帯は駐車場となり、中心にはマンションが建っている。

長屋は二世帯が繋がってワンセットになったもので、これが5~6軒ほどもあったかと思うが、もしかしたらもっとあったかもしれない。日本製鋼の塀に沿って細い生活道路があり、これをたどって15分ほども歩いて国道に出れば、広島の中心部に向かうバスに乗ることができる。

長屋群のなかでも、その道路に一番近い側にあったのが我々の住処だ。そのすぐ隣、道路から入ってすぐのところにやや広い緩衝地帯があり、砂地になっていた。

二つ目の古い記憶は、そこで、ひとりの女の子と遊んでいるときのものである。

ケイ子ちゃんといった。恵子なのか啓子だったのかよく覚えていないが、もしかしたら圭子ちゃんだったかもしれない。

二軒ほど先にある同じ長屋の住人の娘だったが、同じ年ごろだったろう。よく遊んだ。それは二人で官舎入り口の砂地にいて、砂遊びをしているときのことだ。

最初はふつうに砂の山を築き、それを削ったり、水を流して川を作ったり、という遊びに二人で興じていた。だんだんとそれに飽きたころ、すぐそばに小さな蜘蛛がいるのを私がみつけた。

それに軽く砂をかけて埋めてしまうと、しばらくすると自力で穴をあけて表に出てくる。それならもう少し多めに砂をかけて、と延々とその小さな生き物相手のお遊びが続く。「クモ子ちゃん、クモ子ちゃん」と呼び、二人でその遊びに興じるのだが、その日だけでなく、また別の日にも別のクモを探してきては二人で砂遊びをする、ということが続いた。

その子とはたぶん他の遊びもしたと思うが、もっとも記憶に残っているのはその遊びのことだ。

強い感情を伴うものほど記憶に残りやすい、と先に書いた。その理論が正しいとしたら、もしかしたら私はこの子に淡い恋心のようなものを抱いていたのかもしれない。恋愛感情というものは他の感情以上に強いものだ。

顔はよく覚えていない。髪型もおかっぱだったようなおさげだったような、はっきりしない。だがいつも小ぎれいな洋服を着ていて、小柄な彼女によく似合っていた。おとなしい子で、大きな声を上げたりするようなこともなくシャイ、つまり、私とよく似ていた。

人は人を好きになるとき、やはり自分と似たようなタイプを選ぶという。理由はよくわからないが、自己愛に通じるものがあるのかもしれない。あるいは「自分探し」の側面もあるのだろう。自分に少し似た異性から、自分のルーツのような何かを見出そうとするのかもしれない。

しかし、恋路にはいつも邪魔が入るものだ。この子には二つか三つ年上の兄がいて、かなりのきかん坊だった。その子がことあるごとに二人の邪魔をし、「ケイ子、そんな奴と遊ぶな」と二人を引き裂くのである。最初は聞かぬふりをしていた彼女だったが、だんだんと距離を置くようになり、しばらくするうちに私とは遊ばなくなった。

その後何年すぎたかは覚えていないが、おそらく幼稚園に入るか否かのころだったろう、母から「ケイコちゃんちは、引っ越していったようよ」と聞かされた。

その事実を知り、何やら淡い寂しい思いがしたのを覚えている。このころのことで覚えていることはほかにもいくつかあるが、異性のことで記憶に残るのはこれだけである。強い感情が心に刻まれやすいという理論はやはり正しいに違いない。あれはつまり初恋だったのだろう。

その後私にとっての「女性遍歴」はしばらくない。ケイ子ちゃんがいなくなったのと同じころだと思うが、幼稚園に入ることになった。5歳のころのはずだ。

このころまでになるとさらに記憶は鮮明となり、多くのことを覚えている。当時の写真が多く残っていることも関係しているだろう。目視情報は記憶を呼び起こすし、ときに感情をも呼び起こす。

しかし写真もないのに、よく思い出すのは、この当時の官舎の周りの世界である。小さな子供の周囲のことだ。せいぜい500m程度の範囲にすぎないが、かなり細かく覚えている。

家の前の道路わきに小さなドブがあったこと。隣の工場との境の塀はコンクリート製であったこと、といった些細なことから、裏山の上には神社があったことや、すぐ近くに小さな川が流れていたことなども鮮明な記憶だ。

その川は、家から100メートルほど離れたところにあった。日本製鋼の塀と裏山に囲まれた狭い場所を流れていて、周りにはうっそうと木が茂っている。ドブ川というほど汚くはないが、清流というほどきれいなものでもない。おそらく背後の山から染み出てくる地下水を水源とするものだっただろう。その先には大きな川があってそこに流れ込んでいた。

長さは200mほどもあっただろうか。意外にも自然豊かで、多くの昆虫が棲んでいたが、ザリガニやオタマジャクシといった水棲生物もたくさんいて、それをよく取りに行ったものだ。薄暗い場所だったが、家に近いということもあって、冬場を除いてほぼ毎日そこにいたような気がする。

好きな場所というよりも、そこが一番遊びやすかったのだろう。今もときおり心象風景として思い出すが、なかなか幻想的な場所だった。ファンタジー映画のようだ、というのは少々言い過ぎかもしれないが、そうした映画の世界に迷い込んだような感覚があった。私の原点といえる場所かもしれない。

一方、もっと好きだった場所がある。自宅の官舎を出て表通り(といっても細い生活道路にすぎないが)を右に曲がると、延々と山手のほうへ向かっていく道がある。我々が引っ越してきた当時は何もない山野だったが、いまそこには、国道2号のバイパスが出来上がっていて、万の車が通る。この当時はまだ建設中だった。

その工事現場を横切ってさらに坂を上っていくと、ついに頂上に出る。といっても山というほどではなく、丘ほどの高さだ。おそらく標高は100mくらいだろう。そこから南にはなだらかな斜面で下っており、その先に広島湾が見え、湾岸には石油精製施設や工場群がある。

その丘には、戦時中に米軍を迎え撃つための高射砲が据えてあった場所があり、この丘はいわゆる高射砲陣地と呼ばれるものだ。直径10mほどだったろうか。塹壕が掘ってあって、周囲の壁はコンクリートで張り巡らされている。

このとき、もうすでに戦後20年近く経っている時期だから、高射砲が使用されていたころの機材などは何もない。ただ単にコンクリートで固められた塹壕、そして高射砲が据えてあったと思われる同じくコンクリート製の土台が残っているだけ。しかし、子供の遊び場としては格好の場所で、頻繁にここへ来ていた。

ひとりで来たという記憶があるということは、幼稚園くらいか、それに入る直前くらいのことだろう。外へ遊びにいくことを許される年齢といえば、それくらいだからだ。だが実は、それより以前からここへはよく来ていた。

というのも、我が家では、週末になり、父が家にいるときには決まって、お昼のランチを外で食べる、という習慣があった。子供の足を考え、家からそれほど遠くもない場所が多かったが、とくにこの丘の上は家からも近い。眺めもいいことからランチをするには格好の場所であり、家族連れで何度もここへ来ていた。

ランチの中身は決まってサンドイッチであり、マスタードが薄く塗られ、耳を落とした食パンにたまごサラダやハムが挟まれていた。これはまだ貧しかった我が家においては最高のごちそうだった。

姉や父母とそれを頬ばったあとは、塹壕の周りで遊びまわるのがおきまりだ。遠く眺める広島湾の風景もまた「休日のひととき」を感じさせる穏やかな材料で、両親もここが好きだったようだ。

その高射砲陣地に行く途中には竹藪があり、春にはそこで筍狩りをやった記憶がある。高圧線の鉄塔があり、その周りが広く伐採されている場所もあって、山野の眺めがよく、そこでいつもの弁当を広げるということもあった。

おやつにキャラメルやチョコレートを食べるというのも楽しみのひとつで、姉と奪い合って食べていたことを覚えている。このころには、そうした菓子に「おまけ」がついているものがあり、そのおまけ欲しさによく買ったものだ。「日光写真」というのがあり、これはキャラメルのおまけとしてついていた。

キャラメルの箱と同じ大きさの感光紙何枚かと薄くて黒いフィルムが入っていて、その二つを重ねて太陽光のもとにさらすと、フィルムに描かれたものが感光紙に焼き付けられる。

「写真」とはいうものの人や風景が映し出されるわけではなく、ただ単にフィルムに描かれたものが反転して焼き付けられるだけだ。たわいないおもちゃにすぎないのだが、私にとってはまるで魔法のように思えた。

いつのことだかその魔法の日光写真のセットを鉄塔の周りに置き忘れて自宅に帰り、大泣きしたことなども覚えている。このころから写真というものに執着があったのかもしれない。

小学校へ入るまえの4歳から5歳くらいまでのこの時期、ほかにも覚えていることは多い。どれが先で後なのかは判別がつきにくいが、両親の目の届かないところへひとりで出かけるようになったのはこのころのことだ。ただ、自力で行ける場所というのは、自宅周辺に限られていたに違いない。




ところが、幼稚園に通うようになってから、その生活範囲は飛躍的に広まった。

私が通うようになったのは青葉幼稚園といい、現在もある。自宅を出てから、先の丘へ行く方向とは真逆の方向へ進むと、住宅街が密集する別の小高い丘があり、そこを越えて、下ったところにそれはあった。園地自体もその丘の斜面の端にあり、その起伏を利用して整えられているが、けっして大きな施設ではない。

ニワトリだかウサギだったか何やら小動物を飼っている檻があり、幼児向けのやや大型の遊具などが据えてあった。遊びまわるにしてはそれほど広くない広場があり、園児たちはそこでひしめき合って遊んでいた。

二階に南に面した明るい教室があり、私的には外で遊ぶよりもそこが一番居心地がよかった。その部屋でお絵かきをしたり、切り紙、楽器の演奏、といった小学校入学前の一連の幼児教育を受けるわけだが、その中でも一番印象に残っていることがある。

それは、ミノムシを使った工作という不思議なものであった。ある日のこと、先生から今日は少し面白いことをやります、といったアナウンスがあったと思う。その先生が紙の箱を開けると、中から茶色の木の葉を身にまとった大量のミノムシが出てきた。

その工作というのはあろうことかそのミノムシの木の葉の「衣」を剥き、中身を取り出すということから始まる。おそるおそる皮を剥いていくと、なかからは小さな蛾の幼虫が出てくる。ミノガという虫だと後に知った。私を含め、自然豊かな地に育った園児たちはそれを怖がるでもなく、むしろ喜々としながら作業を進めていった。

次に用意するのは、色とりどりの毛糸の屑である。これをハサミで切って山を作る。押しなべて広げ、そこに先ほどまでに皮を剥いたミノガの幼虫を放り込み、再び紙の箱を閉める…

と、その日の工作はそれまでなのだが、それから数日たった後、再び紙の箱を開けると、あら不思議、カラフルな衣装をまとったミノムシたちが、大量に転がっているではないか。

無論、園児たちは大喜びで、かくいう私も色とりどりのミノムシを手に取ってはしゃいだものだ。そのあと、ふたたびその衣を剥くと、色鮮やかなパッチができる。哀れ、ふたたび裸にされたミノムシはまた毛糸の山の中に放り込まれ、再び服を再生する羽目になる。

その出来上がったパッチは、しばらくの間、その教室の窓枠に貼られた糸にぶら下げられ、飾られていた。秋の木漏れ日の中、ゆらゆらとゆれるその色とりどりのパッチたちを、ぼんやりと眺めながら、きれいだなーと思っていたことを覚えている。

数ある幼稚園の記憶の中でも、このことを一番よく覚えているのは、よほどこの遊びがエキサイティングだったのだろう。

衣替えをした色鮮やかな彼らがその後無事に一生を終えたかどうかは定かではない。しかし、都会の幼稚園ではおそらくやらないような野性味あふれた授業であったことは間違いない。

幼稚園時代の記憶はさらに続くが、書きだすほどにキリがない。園内のことだけでなく、朝夕の通園、家の周辺でのできごとなど、このころに経験したことなどを山のように思い出す。

裏山の赤土の中から石英が出てきたのをみてにわか探検家の気分になったこと、枯草に囲まれた自分だけの基地、手に取り集めた数々の昆虫や草花たち、カキ筏が並ぶ海からの濃厚な潮の匂い、遠足や家族連れで行ったあちこちの公園や山河…

そうした記憶をとりまとめていくと、この堀越という土地で幼少期を過ごした時期ほど心豊かな時期はなかったなと思う。6~7年ほどの期間だが、人生において最もストレスなく過ごせた時間であり、その後の私の人格形成においても間違いなくプラスになったと思う。

ところが、このころの我が家の家庭事情は必ずしも豊かではなかった。父の給料は少なく、すぐ近くにあった雑貨店でしばしば借金をしていた、とかなり後になって聞いた。ちなみにその店の女店主は不愛想なひとで、そこから金を借りていたくせに、我が家ではその店のことを「好かん店」と呼んでいた。

わが家に金がなかったのは母が働いていなかったせいもある。まだ私が幼かったためで、職を持たず、専業主婦をしていた。が、見方をかえれば、主婦をやっていられるほど生活はひっ迫していなかったということにもなる。私自身も食事でひもじい思いをしたような記憶はなく、三食普通にいただけていたように記憶している。

職はもっていなかったが、母は何かとじっとしていられないタイプの人で、私が通っていた幼稚園のPTAの副会長を引き受けていた。小学校でも同様の役回りを引き受け、のちにはママさんバレーチームを率いて地区優勝したことは前段でも書いた。

貧しいといいながらもそういうことができるということは、生活は豊かでなくてもそれなりに暮らせていた、ということである。経済的に潤っていなくても毎日を明るく過ごせる、というのがそのころの我が家の状況といっていいだろう。この時代の私がのびのびとしていられたのは、そうした恵まれた環境にあったことと無関係ではない。



そしてやがて入学。私は通っていた幼稚園から5分ほど歩いた先にある小学校に入った。

青崎小学校という。青葉幼稚園、青崎小学校ともに青がつく。青崎はこの地の字名であり、小学校の名はそれを取ったものだが、幼稚園のほうもあるいはその地名にあやかったのかもしれない。

その名が示す通り、この地はその昔はかなり海が迫っていたようだ。そういう名前の岬を中心に埋め立てが進み、住宅の進出が進んだのだろうが、それはこの地が自動車メーカーのマツダの本拠地になったことに起因する。

マツダはいまや世界的な自動車メーカーであるが、もともとは「東洋コルク工業」というコルク栓を製造する会社だった。1920年(大正9年)に創業した会社はその後「東洋工業」と名前を変え、「軍都」だった土地柄も手伝い、軍需産業に着手するようになる。

軍の施設を作るための土木工事で必要となる削岩機を生産して業績を伸ばしたが、昭和20年の原爆の投下によって壊滅した。しかし、戦後復活し、以後は自動車を生産するようになった。1957年にオート三輪のTシリーズを発売、これがヒットし、さらに1960年には初の乗用車R360を発売してこちらも爆発的に売れた。

以後も着実に業績を伸ばし、トヨタや日産、本田に肩を並べるほどの大会社になった。現在、その本社周りには数多くの子会社、関係会社が軒を連ねるが、青崎の西に位置する向洋という場所に本社があり、ここがその中心だ。正確には、広島県安芸郡府中町になる。

そのさらに西には旧広島市街が広がるが、町の中心部であるその方向に向かって施設を増やしていくことは難しい。このため、自然と東側の山の手や海のほうへと手を伸ばし、そこへ社員や関連会社の人々が流入し始める。やがて現在に至るまでには青崎のようなベッドタウンが出来上がった。

この地には、マツダ以外にも先の日本製鋼のようなメーカーの本社が多かった。このため、私が入学した先の生徒たちの多くもそうした企業の子息たちであり、サラリーマン家庭の子供たちが大半を占める小学校だった。

クラスも多く、一クラス50人くらいで6クラス。一学年300人×6学年で、1800人という勘定になる。少子高齢化が進む現在は無論のこと、この当時でもわりと大きな学校だ。

自宅からはさほど遠くはない。通っていた幼稚園からも5分ほどであり、家を出てゆっくり歩いていっても20分ほどでたどり着けた。

すぐ近くに広島中心部に向かう主要道があり、その道路を挟んで西側はマツダの本社工場、東側にはこの学校と企業城下町ともいえる青崎の住宅街が広がる。

北に正門があるが、南に面した側がに裏門があり、我が家から通学するうえにおいては、こちらの門のほうが近い。そのためにいつもここを通っていた。入ってすぐのところに、1本の柳の古木があり、人々はこれを「赤チンくれー幽霊の木」と呼んでいた。

学校前を通る道路からもよく見え、門番のようにも見える。ある種この学校の看板のような存在でもあった。それにしても、学校の入り口のど真ん中にぽつんと一本の柳の木が立っているのも不思議といえば不思議である。思うにそれを取り除くこと自体がタブーとされてきたのかもしれない。

噂によれば、原爆が投下されたあとのこと、この柳の木の太枝に白装束の女性が腰掛け、下を通る人に「赤チンくれ~ 赤チンくれー」と呼び掛けていたという。

柳の下の幽霊、というのはよくある話だ。柳の木というのは風が吹くとゆらゆらとゆれ、ときに不気味に見える。それと掛け合わせて幽霊といえば柳、ということになったのだろう。この場所の幽霊も同じような理由で語られるようになったらしい。真偽ははっきりしないが、その幽霊の正体は、広島に投下された原子爆弾による被災者のことだといわれる。

在学中によく聞かされた話によれば、その当時、原爆によって市内各地で命を落とした人々の多くはこの地に運ばれてきた。まだ、小学校ができる前はここは空き地であり、そこを掘り、彼ら被災者が埋葬されたという。

広島東部の多くは、原爆の直撃を免れていたから、多くの被災者が避難してきた場所であることは間違いない。だが、本当に校庭の下に多くの遺骨が眠っているかどうかは定かではない。

被爆直後の混乱期のことでもあり、写真も何も残っておらず、人々の伝承の中での話にすぎない。とはいえ、それを事実と思わせるような不思議な話が、学校周辺のほかの場所でもいろいろあった。どこそこの交差点に血まみれの人が立っていたとか、暗がりで振り返ると白装束の人が立っていた、といった類の話だ。

もっともどこの町でもその程度の幽霊話はたくさんある。それらがすべて原爆の被災者絡みだとは言いきれない。

南門を入ってからすぐ右手には体育館があるのだが、その裏手で首つり自殺をした人がいる、とも言われていた。こちらも原爆とはなんの関係もない話なのだが、事実関係も根拠も何もはっきりしないままに、今も生徒から生徒に伝承されているようだ。

確かにその場所は、学校にいろいろある場所の中でも最も陰気で、しかも体育館の裏ときている。じめじめしており、学校中で不要になった器物などもそこへゴミとして放置されていたりして、雑然としている。

そこへ来てその噂だ。実際にあった話かどうかは別として、私自身もそれを聞いて以来、そこへ行くのがなんとなくいやになった。

また少し本題からはずれる。私はどうも他人よりも霊感が強いらしい。いわゆる霊能者といわれる人からもそう言われたことがある。霊的な存在には過敏に反応するたちらしく、かといって霊が見える、というほどに敏感ではない。ただ、そういう雰囲気のある場所、そういうモノがいるらしいところでは妙にゾワゾワする。

なぜ感じるのか。わりと冷静かつ理性的に考察してみるのだが、その結論としては、それは自分もまた霊だからだ、というところに行きつく。

人というものは霊が人間という生物の体に宿ったものだと信じている。霊そのものは、肉体的な感覚は持たないが、それが宿る体はそれそのものがセンサーのかたまりのようなものだ。

味覚、触覚、視覚、聴覚、嗅覚などの五感がそれで、自分の体以外の物理的ものを自覚するためには不可欠な機能である。感じやすい、とよく言うが、それはそのセンサーがとりわけ敏感なことを意味する。

一方、中身の霊のほうはそうした感覚は持たない。感じる(といえるのかどうか)のはそれ以外の実態のないものである。第六感ということばがあり、これは直感とか予知能力とかいう意味で使われることが多い。しかし、私はこれは霊が持つコミュニケーション能力、すなわち霊能力の総称だと思っている。

霊そのものは肉体を持たず、時空を超えた存在であるから、これから起こることもある程度予測できる。それを何等かの形で私たちの中にある霊に「通信」し、霊はこれをまた肉体が持つ脳の中にそれを一生懸命伝えようとする。

あるいは、別の霊から教えられてわかることもあり、それを伝えようとしている場合もある。こうしたものこそが、予知であり、第六感である。

そしてそれら教えられる情報の中でもとりわけ重要なものを伝えようとしてくれている外部の霊こそが、守護霊とか指導霊とか呼ばれるような霊たちなのではなかろうか。

もちろんそうしたメッセージをくれるのは守護霊ばかりとは限らない。ときには自分とは普段つながりのない、無関係の霊が何かを伝えようとしている場合もある。嫌な感じがするところに行ってゾワゾワするのも、別の霊が何かのメッセージを伝え、それを自分の中の霊が翻訳して伝えようとしているに違いない。おそらく私の場合、その翻訳に敏感なのだろう。

いずれにせよ、この世に形のない霊による、いわば「霊界通信」的なものが我々の中にある霊性に伝えられている、というのが私の考えだ。

小学校のころ、体育館裏で感じた怖いという感覚というのも、ある種そういった霊界からのメッセージだったかもしれない。しかしこの当時まだ小さかったころの私は、あまたある幽霊話を信じ、怖いものは怖い、幽霊はみたくない、というあたりまえの少年だった。

ただ、人よりその部分はやはり敏感だったと思う。その敏感だった、という部分が自分にとってプラスになっていたかのかどうかはよくわからないが、妙に人の心が読める少年だった。

「オヤジ殺し」という言葉があるが、どうも大人の心を先読みできるようなところがあった。相手がこれを言ったり、やったりすると喜ぶだろう、というツボの部分がなぜかわかるのである。

自分では意識していなくても、自然とそういうふうに振る舞うことができるらしく、周囲の大人たちからはよく気が利く少年と思われていた。単に話を合わせるのがうまい、ということだけでもないらしく、どうやったら気に入られるかを無意識に想像しながら行動したり、しゃべっているようだ。

そうした能力は小学校に上がって、高学年になるに従ってさらにはっきりとしてくるが、そのことはさておき、その小学校時代のことを少しずつ書いていこう。




学校に上がってすぐ、友人ができた。同じ長屋のすぐ隣に住む、隆君という名の少年で苗字は斎藤だ。同じ一年生で通学路も一緒ということで、すぐに仲良くなった。クラスは違えども、いつも一緒で、うちに帰ってからもよく遊んだ。

遊ぶ場所は、幼稚園のころはせいぜい500m範囲だったものが、通っていた学校周辺も含めて半径1キロぐらいには広がった。ただしかし、工業地帯の中にある町なので、子供の遊べる場所は限定される。あいかわらず自宅を中心として、高射砲のある例の高台方面でたむろすることが多かった。

そうしたなかでもうひとつお気に入りの場所ができた。

学校へ行くには二つのルートがある。ひとつは自分が住む官舎のすぐ裏山を直登して細い小道を下り、住宅街の間を抜けて行くルート。もうひとつは、北へいったん迂回して、山合にある別の住宅街の間を抜けて学校まで下るルートで、後者のほうがどちらかといえば正規ルートだった。

その両方を使い分けていて、普段、登校時には山合住宅ルート、帰りは裏山ルートで帰ってくるというのがお決まりだったが、雨や雪の日は行きも帰りも足元の悪い山登りルートは使わなかった。

帰り道が同じ友達と遊びながら帰るときなどは、住宅ルートを通ることが多く、それはその友達たちがそれらの住宅の住民だったせいもあるが、そこにはいくつかの遊び場があったためだ。

その遊び場所のひとつに、ある古い神社がある。住宅ルートの途中にあり、道を脇に逸れて、長い石段の階段を上って行ったところにあった。

今宮神社という。石段を昇り詰めると小高い丘の上に出る。そこには平坦な参道がある。両側をうっそうとした木々に囲まれていて、雨や曇りの日には薄暗い陰気な印象となるが、晴れた日は木漏れ日が参道に入り込み、独特の風情がある。

ここが小学校の低学年時代を通じて一番よく遊んだ場である。緑豊かな場所であることから昆虫採集もできる。境内はわりと広くて、そこでチャンバラをやったり、缶蹴りをやったりと、いろいろな遊びをした。学校の近くということもあり、我々男子だけでなく、女子たちにも人気のスポットであって彼女たちはそこでゴム飛びなどの遊びに興じていた。

ときに男女一緒になって遊ぶこともあり、いわゆる「だるまさんが転んだ」といったものや鬼ごっこが多かった。ちなみに、だるまさん…は、この地方では「見た見た人形」という変わった名前だった。「みたみたにーんぎょ」と言いながら数を数えて振り返る。

無論、放課後の校庭でも遊ぶことができるのだが、子供たち全員がなぜかその場所が好きで、私も友達とだけでなく、ひとりでもよく遊びに行っていた。

神社のすぐ裏手は切り立った崖になっていて、木々の間からは東の海田方面が見え、海があるその南の方角には広島湾の一角も垣間見ることができる。夕刻、大人がここへやってくることはまずなく、子供たちの聖地でもあった。

神社の由緒については何か立て看板があったように思う。その内容は覚えていないが、地元の鎮守の神様的な存在として古くからあるらしい。ただ、ここで遊ぶ子供たちに信仰心などあろうはずもなく、私もただの一度も手を合わせて拝んだような記憶はない。が、神様はきっと子供たちがそばで遊んでいるのを微笑んで見守っていたことだろう。

ちなみに、この神社へ上る石段の入り口のすぐ近くには、一本の大イチョウがあり、そのそばにはこちらもかなり古い井戸がある。平清盛の弟か誰か身内の娘が疱瘡にかかり、その治癒のための清水を汲み取るために掘られた、といった伝承がある。後年ここを訪れた際にそばの立て看板にそう書かれていた。

その説明書きによれば、その当時この一帯は海で、今宮神社も含め、我々の住まう住宅の裏山の一帯は、半島か島だったようだ。

工業地帯のベッドタウンとなっている現在からは想像もできないが、青崎の地名からも想像されるように、ここはまぎれもなく海岸地帯であった。

ちなみにこの神社の秋祭りはかなり盛大なもので、青崎一帯がその一事で盛り上がる。町中に注連縄が張り巡らされて、神輿が界隈を回る、というのは他地域のお祭りと同じだが、余興として鬼が出る。

といっても、町の青年会の面々の扮装である。彼らに青鬼や赤鬼の面をかぶせて蓑を着せ、鬼の恰好をさせたうえで酒を飲ませる。そのうえで、先を叩き割ってバラけさせた青竹を持たせる。古くから今宮神社に伝わる伝承行事で、その青竹に打たれると一年中無病でいられる、という。

かくしてしこたま酒を食らった鬼たちは狂暴化して町に繰り出し、青竹を引きずりながら人々を追い掛け回す。しかし大人にはあまり手を出さず、主に子供たちを追いかける。

子供たちは鬼をはやし立て、わざと怒らせたうえで逃げ回るのだが、鬼に捕まると思い切り青竹でぶたれるので、その逃げざまも真剣勝負そのものだ。鬼のほうも酒に酔っているものだからかなりの本気モードとなる。時に全速力で追いかけ、捕まえた相手を力いっぱいぶちのめすのでたまったものではない。

青あざになるほどぶたれることもあり、現在なら傷害で訴えられてもおかしくない。しかし、子供たちも心得たもので、そうそう簡単に捕まったりはしない。時に鬼の背後に回り、ときには物陰に隠れて飛び出し、ふいうちで鬼を脅かす。一方の鬼はそれに逆切れしてさらに相手を執拗に追い回す…という、まさに「鬼ごっこ」が一日中繰り返されるのである。

小学校に入ってからはこの行事に自ら参加することも多く、友達と一緒に町中を鬼を探して歩き回り、みつけると囃し立てて逆に追いかけられる、ということをよくやっていた。秋の好天に恵まれることも多く、神社の入口にある銀杏の木が黄色く染まり、積もった落ち葉がその好日をさらに印象的なものにしていた。

毎日がそうした楽しい日々ばかりではなかったが、小学校2年生の終わりまではおおむね穏やかな日々が続いた。楽しく学校に通い、充実した感覚があった。小学校なんて幼稚園の延長にすぎないと、こども心にそのころは思っていたし、成績もさほど悪くはなかった。

ところが、ちょうど三年生に上がる前に大きな変事が起こった。

そのころ父の職場は、日本製鋼所の敷地内に間借りしていた土地に建てられた広島国道工事事務所というものだった。我々が住まう官舎に面した塀の裏側にあり、通勤には10分もかからなかっただろう。

その事務所が突然移転することになった。それまでは民間の敷地内にあったが、公的機関が借地、しかも民地にあるのはまずかろう、ということになったのだろう。移転先は、現在ある場所から2キロほど離れ、広島のより中心部に近い場所に決まった。

「東雲(しののめ)」といい、東の明けの空の意味だが、おそらくそれを歌った古歌からとったものだろう。広島はそのデルタ地帯に7本の川が流れているが、そのうちの一番東側にある川で、猿猴(えんこう)川という川の西側の一帯となる。猿猴とは河童のことだ。

その地に新たに土地を購入して新庁舎を建て、広島市内全域の国道の新設・維持管理を行うという計画だった。合わせて事務所に通う職員の官舎も建設される。

やや離れた場所にも単身赴任者用の宿舎などが建設されたようだが、その官舎は新事務所のすぐ隣にあり、家族向けに設定されたものだ。

二軒長屋が3棟、合計6世帯しか入居できなかったが、そこに我が家が優先しては入れたのは父の勤続がもうすでにかなり長くなっていたためだ。そろそろ古株といってよく、山口時代から数えて10年近くになっていたはずだ。

民間のアパートを借りるよりもかなり安上がり、ということで、貸してやる、という事務所の申し出を父は二つ返事で受け入れた。

ところが問題があった。子供たちの通学である。このころ5つ上の姉は、川向うの中学校に入っていたが、引越しをしてもそこまではバス通学が可能だった。しかし、私の場合は元いた青崎小学校に通うための路線がなく、通う方法はただひとつ、歩くことであった。

新居のそばには別の小学校もあったが、途中から転校して学習環境を変えるのはよくない、という意見が、父だったか母だったかから出たらしい。二人とも決めかねていたが、結局のところ、本人に聞いてみようということになった。

これに対して、私は元の学校に通う選択肢を選んだ。見知らぬ学校に入りなおして新しい友達を作るということに対して抵抗があったことが一番大きかったが、子供のころから慣れ親しんだ青崎や堀越の町から離れたくない、という思いがあった。

結局、それまで通っていた小学校まで、2キロの道のりを毎朝夕歩いて通うことになったのだが、のちにこれが大きな試練を招くことになろうとは、このときは思いもよらなかった。

三年生になってからの担任は遠藤先生という女性だった。音楽の先生で若く、まだ30代なかばか40になるかならないかぐらいだったと思う。

その後私が抱えることになる苦悩はまずこの先生から始まった。何かにつけ思ったことを口に出し、ときにはきつい言葉で生徒を叱る。メリハリのはっきりした性格だといえば良く聞こえるが、音楽の先生のくせに体育が専門であるかのようで、スパルタ教育をモットーと考えているに違いない。

私はといえばシャイで引っ込み思案なところがあり、面と向って何かをはっきりと言われるとドキマギして口ごもってしまう。そういうところがお気に召さなかったのか、もっとはきはきしなさい、とよく叱られた。それ以外にもいろいろお叱りを受けたが、それほど悪いことをした覚えはない。

何回か遅刻をして廊下でバケツを持たされたこともある。遅刻は悪いことには違いないが、私にすれば遠路を歩いて通っているのだから仕方がない、という思いがあった。そうしたことを知ってか知らずしてか、あまりにも体罰的なことが多く、いやな先生だな、と感じるようになった。かくしてかつての穏やかな生活は嵐のような生活に一変する。

そのころ同じクラスに荒井君という同級生がいた。

素行の悪いことで有名で、女の子をいじめる、男子に対しても平気で喧嘩をふっかける、からかう、というたちの悪さで、かといってガキ大将というほどの信望もなく、ようするに問題児だった。

「マーチン・ジェリー」というのがあだ名で、だれがつけたのか自分で言い出したのかわからない。本当にそういう俳優がいたのかどうかも知らないが、要は「あちらの不良風」というネーミングだったようだ。

私はというと弱虫でいつも人陰に隠れているような性格だったから、こうした押しの強い人間とは相性が良いわけはなく、相手もこちらの弱さを見抜いてか、やたらにモーションをかけてくる。

あるとき、何かがきっかけで大ゲンカとなり、取っ組み合いになったが、その前後のことはよく覚えていない。ただ、うちに帰って気が付くと、左の耳に紙屑のようなものが突っ込まれており、これがこの喧嘩相手からの仕打ちであることは明らかであった。

その詰め物のおかげで耳が少し腫れていたようであり、病院に行くほどではなかったが、その痛みを母親に訴えた。ところが、これが大きな間違いだった。前述のように母は幼稚園ではPTAの副会長を務めるほど活発な女性であり、この小学校でも親同士の集まりで何かと学校の運営などに口出しをすることが多かった。

さっそく翌日学校へ行って、そのイジメについてくだんの担任に文句を言ったらしく、そこからは単なる子供の問題が大人の問題になっていく。

学校側としては、公明正大な裁判よろしく両方の側から事情を聴く、ということになり、相手の母親も呼ばれて事情聴取、という事態にまで発展した。しかし、たかが子供同士の喧嘩である、母親を呼びつけたところで何がわかるはずもない。結局は当人たちから聞くしかしょうがない、という結論になった。

放課後、遠藤先生に呼ばれ、本当に耳にモノを入れられたのか、と詰問されたが、その聞き方があまりにも厳しかったので、ついつい曖昧な答え方をした。それに対して「そんないい加減なことを言いんさんな!」とまた叱られ、結局私の申告は間違いだったという雰囲気になっていった。

喧嘩をふっかけてきた相手は、といえば私の耳に異物を入れたことなどはとっくに忘れ果てていたらしい。後日話しかけてきて、俺はそんなことはやっていないぞ、とうそぶく始末だ。気の弱い私はそのときも黙ってうつむいているだけだった。

その後、学校側が下した結論がどういうものだったのかは母から聞かされていない。が、上訴したにもかかわらず、息子の曖昧さ加減によって逆に悪者になってしまった、という感じで終わったらしい。母もその後この件に関して何も言わなくなったが、同じPTA仲間の間では、相手の悪口をさかんに言っていたようだ。

こうした一件もあり、私はクラスメートからもいじめられっ子、というイメージで見られることが多くなった。露骨にいじめられることは少なかったが、親しい友達もおらず、何をやってもつまらない。自信が持てず、成績はどんどん下がっていった。

もともと運動神経はあまりよくなかったほうなので、体育の時間も大嫌いで、苦痛そのものだった。とくに水泳の時間は最悪で、何かといえば仮病を使って休んでいた。

このころの私は呼吸器があまり強くなかったこともある。喘息の持病があり、水泳の時間がある日は仮病を使って一日休む、ということもあったが、風邪などをこじらせて本当に休むことも多かった。

子供心ながらこのころが人生の最悪の時期だと思っていた。親しい友達もできず、先生とは折り合いが悪い。しかも学校と家が遠いので、放課後に友達と遊ぶ、ということも極端に減った。結果として、うちに帰り一人遊びをする時間ががぜん増えた。

今の私が人と交わるのをあまり好まないのは、この当時の経験によるところが大きいだろう。常に一人でいることを好み、一人で遊んだ。自己完結がテーマであるかのようであり、そこに他人が入り込む余地はなかった。

一方ではその孤独の時間は別の形の自分を形成した。豊か、といえるほどのものではないかもしれないが、想像力が培われた。学校が終わると逃げるように家に帰り、父の工具箱を取り出す。手先が器用だったので、その中にある道具を使っては、近所の建築現場から出る端木などの材料を加工していろいろなものを作って遊んだ。

この当時はプラモデルの全盛期で、比較的子供にも求めやすい価格で販売されていた。そうしたキットの虜にもなり、船や飛行機、戦車などをせっせと組み立てた。自宅の庭で虫を相手に遊ぶことも多く、そこは私にとっては小さな宇宙だった。

また、このころから、家と学校を往復する通学路の中で、歩き歩きよく空想をするようになった。テーマはいろいろある。自分自身が探検家や冒険家になることもあったが、たいていヒーローかヒロインがいて、地上や空中、水中だけでなく、宇宙を駆け巡るのである。

テレビで見聞きした歴史的なものや考古的なものもあったりして、それこそ自分が想像できるだけのありとあらゆる世界をその中で創り出していった。

もっとも白昼夢というような病的なものではなく、単調な通学時間の暇つぶしのようなものである。その通学路というのは、学校を出てからマツダの工場群を抜け、猿猴川にかかった橋を渡ってからは川沿いの堤防を北上する、というルートにあった。

このあたりは海にもほど近く、感潮河川であるから、時間によって澪筋の半分ほどが干上がって干潟となり、そこにあるカキ筏などもあらわになる。広島はカキの一大産地だが、海だけでなく、知る人ぞ知る、こうした川の中にまでカキ筏があることを他県の人は知らないだろう。

少し濁った水面下にはいろいろな魚も垣間見えるし、潮が引いたあとの潟にはカニなどの甲殻類もたくさんいた。そうした水辺の風景に加え、堤防下の街並みは歩くほどに変化するし、空の模様も季節によってさまざまに変わる。想像力を働かせばいくらでもいろいろな世界が形成できるのである。

学校であったいろいろないやなことを忘れられるひとときであり、家に帰れば好きな工作もできる、ということで、少しずつではあるが、私の萎れた心は潤いを取り戻していった。



小学校の5年になったころ、その通学にひとつの変化が起こった。ある朝のこと、いつものように堤防沿いの道を歩いて学校に向かう私のそばに一台の乗用車が止まった。運転席から顔を出した男性は初老で小太り。おだやかそうな表情でニコニコと話しかけてきて、よかったら乗っていかないか、という。

小さなころから、知らない人の車に乗ってはダメ、と親や学校からも言われていたため、当然固辞したが、あまりにも勧めるのでつい乗ってしまった。しかし何事もなく、橋を渡ったあたりでおろしてくれ、明日もよかったら乗っていきなよ、といったことを言う。

翌日も同じように乗せてもらうことができたが、さすがに親に黙っているとまずいと思い、そのことを話すと、母がその人と直に話をして問いただしてみるという。

翌朝、その前日と同じ時間に母と私が待っているといつものようにその車がやってきた。母はその人としばらく話をしていたが、やがて笑顔で戻ってくると、今日も乗っていきなさい、と言った。

あとで聞いた話によれば、その人は我が家のすぐそばにある鉄工所の社長さんだった。私と同じく堤防沿いの道を通り、学校の近くに住んでいる工員を毎朝車で迎えにいくのが習慣だという。

その工員さんは私が5年生になったのと同じ時期からの雇いのようで、その迎えの途中、とぼとぼと同じ方向を歩いていく子供の姿をみて、遠路はるばる学校まで歩いていかせるはかわいそう、と思ってくれたらしい。

こうして、帰りはともかく、行きはまるで裕福な家庭の御曹司のように、車で学校に送ってもらう、というラッキーな日々が始まることになった。

その社長さんとも日に日に打ち解けて、いろいろな話をするようになったが、話の内容は高度なことや難しいことではない。天気のことや、どこそこに何ができたとかいった広島の街のこと、テレビの話とかで、そのほか、たまに自分の学校での出来事なども話したかと思う。ただ、今の学校がつまらない、といったことは一切しゃべらなかった。

一方の社長さんも、自分からはあまり家庭のことや会社のことを話す人ではなかったが、断片的には奥さんや息子さんの話も出てきた。その息子に会社を継いでもらうつもりだ、といったことも聞いたが、それ以上の突っ込んだことはこちらからもあえて聞かなかった。

それにしても両親以外の大人と、これほど密接な時間をすごしつつも、それほどストレスなく過ごすことができる、ということが不思議だった。社長さんの性格もあっただろうが、子供なりにそうした話の「間」を取ることができたのだ。自分にそうした会話能力があると気が付いたのはこのときが初めてだったかもしれない。

あたりさわりのない話題で場をつないでいく、というのは大人でもなかなかできることではない。ときに寡黙になりがちな二人きりの車内で、相手のご機嫌をそこねず、逆に楽しくさせる、というテクニックがその後の二年間でさらに磨かれたように思う。

そうした出来事もあり、私の小学校生活は徐々に明るさを増してきた。3・4年の担当だった遠藤先生に代わり、5年生から担任になった上杉先生は、やや年配で50前後だったろうか。優しい先生で、というか慈愛に満ちた、ということばがぴったりの人だった。言葉の端々で子供が大好き、という気持ちが伝わってくる。

ほとんど怒ったことがない。とはいえ生徒たちがなにかやらかしたときには彼女なりのお仕置きをした。相手の頬に手をあて、「いいか!」といいながら、ぴしゃりと叩くのである。

無論ビンタのような激しいものではない。軽いしっぺのようなものなのだが、みんなが見ている前でのこの行為は、自分がやったことが悪いことであったことを自覚させるには十分な効果がある。

自分の怒りをただ単に生徒にぶつけ、体罰を与えるだけだった前の担任とは大きな違いだ、と思った。あーこういうやり方もあるんだ、とその後の人生においてもこの先生のやり方は大いに勉強になった。

上杉先生はまた、人の長所を褒めてその能力を伸ばすのが上手だった。私の才能にも理解を示してくれ、図画の時間に描いた絵が上手だというので、教室の前の壁に長い間飾ってくれていたりした。最初のものはメロンか何かの絵だったと思うが、のちにそれ以外の風景画なども掲げられるようになった。

学校から自宅のある東雲に帰る途中に比較的大きな運動公園がある。そこへクラス全員で出かけて行って野外スケッチをする、という授業が一度あった。すぐそばには猿猴川が流れ、公園であるから緑陰も多い。周囲はマツダの工場群だが、見通しがよく、広場からは黄金山という山が見える。

地元の人ならだれでも知っているが、円錐形の姿の良い山で、広島中から見えることから、その頂上にはテレビ塔が乱立している。ここも子供のころからよく遊びにいったところで、眺めはすばらしい。360度の眺望があり、広島市街はもとより瀬戸内海が一望できるのだ。

その図画の授業があったのは秋のことで、その黄金山の紅葉が遠目にもくっきりと見え、広場にあった銀杏の木も黄金色に染まって実に美しかった。私はその光景を絵の具を使って写し取り、できるだけたくさんの色をパレットに作っては、何度も筆につけては絵に落としていった。

いわゆる点描画であり、誰からその手法を教わったことはなかったが、このときはそれが一番その景色を写し取るには最適だと考えた。自分で言うのもなんだが、その出来栄えはすばらしく、学校に持ち帰ったあとも、上杉先生に絶賛された。その後学内のコンクールも出され、金賞をもらった。

この絵もしばらくの間、教室の一番目立つところに張り出された。ほかの先生やクラスメートからもお褒めの言葉をもらい、金色のステッカーが貼られたその絵を毎日眺めながら、鼻高々だったことを覚えている。

こうしたこともあって、さらに私の心の中は明るくなっていった。少し自分に自信が持てるようになると、人は何かにチャレンジしたくなるらしい。

このころ母の勧めではあったが、そろばんを習う気になり、放課後になると毎日近所にあったそろばん塾に通うようになった。6級ぐらいからスタートしたと思うが、すぐに上達し、半年もたたないうちに3級の試験に合格した。

2級の試験にも受かる、と塾の先生には言われたが、2級になると暗算が出てくる。これを苦手とする私は結局卒業まで2級試験には通らなかった。しかし、このそろばん塾通いによって、自分にはまた別の能力があることを知った。

算盤の効能については諸説があるようだが、私が思うに、頭の回転を速くすることだと思う。指先と頭の回転は連動しており、いかに指先を素早く先が動かせるかは、とっさの判断力に左右される。上級試験には受からなかったが、その後身に着けた物事の判断能力や処理能力はこのときの鍛錬によるところが大きいと考えている。

そろばん塾に通いはじめたのは5年生の半ばくらいからだったろう。2級の試験に落ちたのは6年生になってからだが、暗算の練習があまりにもめんどうくさくなってきたので、そのうち通うのをやめてしまった。続けていればもう少しその方面の能力を伸ばせたかもしれない。

そろばんには挫折したが、自分には意外にも文章力がある、ということを発見する、といったこともあった。それはある日の国語の時間のことだ。校内の水泳大会ことを書いた作文を書け、といわれたのだが、その大会の日、私はいつものように仮病を使ってそれをさぼっていた。

なので、書けといわれても何も書くことがない。しかたなく、プール脇に座ってみていたみんなの泳ぎについて、かなり誇張を加えて書いてみた。

自分が泳いでいたわけではないから主観的なことは書けない。見たままをスケッチするつもりで書いたが、たいして想像力を働かせて書いたつもりもない。自己評価では出来は30点ぐらいで、満足感はほとんどゼロだった。

ところが後日、その作品に返ってきた評価は満点に近かった。しかも、副校長だか教頭先生だかが、それを市の作文コンクールに出してみたいがどうか、とその国語教師を通じて打診してきた。

どうせそんなもの通るわけないよ、と思っていた。校内の評価で金賞をとった絵のようにはいかない。市が主催するれっきとしたコンクールであり、たかが国語の時間にちょいと書いただけの作文が評価されるはずもない。

学校の恥になるだけなのに、と思ったが、可否を問われるままに、二つ返事でOKです、と答えた。しかし、そのあと、すっかりそのことは忘れていた。

ところが、数か月絶ち、秋も深まったころ、なんとその作品が入賞した、との知らせが届いた。しかもなんと金賞であり、賞状のほか副賞として商品までもらった。ノートとか鉛筆とかたわいないものだったと思うが、それよりも、あの程度の文章でこんな賞がもらえるものなのか、と内心驚いた。

無論、国語教師や上杉先生、両親も喜んでくれたが、当の本人はなんであれが…とまるでピンとこない。審査委員のレベルがよほど低かったのか、あるいは本当に自分にはそんな才能があったのだろうか、今でも不思議に思う。

もっとも、このころから文章をつづって人を楽しませる、ということは好きだった。後年、中学校や高校で授業以外で書く〇〇通信、といった文章を書くのは得意で、皆を楽しませるツボのようなものを心得ていた。

いまここで書いている文章も良いものかどうかはわからないが、読み手を楽しませている、と願いたい。もっとも、自分自身が楽しんでいることは間違いなく、それだけでいいのではなかろうか。

ところで、このころの私は肥満児だった。小学校4年生くらいから太り始め、5年生になったころには60キロほどもあった。原因はやはり例のイジメ問題に発する学校生活でのストレスだったと思うが、このころから少しそのことを気にし始めていた。

このため、意図的に、少しずつ体重を減らす努力をしていった。もともと歩くのは好きだったので、できるだけ歩きを中心とした運動をするようにし、朝夕の食事を制限した。おかげで中学校に入るころまでにはかなり普通の体形に戻っていた。




ひとつ良いことがあるとまたひとつ、またひとつと同じように良いことが増えていく。好事の連鎖とでもいうのだろうか、このころから少しずつ人生が変わっていくのを自分でも感じていた。

気持ちを明るくする材料はほかにもあった。このころ、我が家に一匹のペットがやってきた。5年生の春の誕生日か何かだったと思う。何が欲しいかと問われ、思い当たったのがそのころ興味のあった小鳥の飼育である。

我が家は官舎なので、犬や猫は飼えない。しかし小動物なら、ということでそれまでも亀や鈴虫などを飼ったりしていたがいまひとつ愛情を持てない。十姉妹(じゅうしまつ)を飼ったこともあるが、生まれたばかりの雛を親が落として殺してしまう、という残酷なシーンも見せられたこともあって、鳥はもういいや、と思い始めていた。

ところが、何かの雑誌をみて文鳥という鳥がいることを知った。神社の形をした箱の中からおみくじを嘴で咥えて出てくる鳥の紹介、といった記事だったと思う。そんなに慣れるのなら自分も飼ってみたいと思い、母にそのことを話した。

母の山口の実家は、農家だったので牛豚や鶏を飼っており、犬もいた。そのため母も動物に慣れており、というか動物好きなところがあり、私の話を聞いて探してみよう、という気になったらしい。

さっそく、町内から少し離れた国道沿いにあったペットショップにお目当てのものがいる、と誰からか聞きこんできた。

ちょうど11歳の誕生日の日曜の朝だったと思う。なぜかよく覚えている。新たに買い求めた竹籠を持って、その鳥を店にもらい受けにいった。文鳥には羽がグレーと白のツートンからなる普通の文鳥と、全身が真っ白な白文鳥がいるが、我が家にやってきたのは後者だった。

まだ目が開いたばかりの幼鳥で、羽はまだ白くなくグレーだった。このころから仕込むと手乗りになるという。本当は目が見えないころからの飼育が良い、と本に書いてあったため心配したが、藁で作った小さな巣箱に入れて毎日手で餌をやっていたら、そのうち見事に慣れた。

籠から出して手から手へと誘導する、という訓練を続けていたところ、ある日のことである。突然飛べるようになったその子は、母の手を飛び立ち、真っ白な小さな羽を広げて飛翔し、私の肩にとまった。日毎にその飛距離は伸び、ついには部屋の隅から隅まで飛べるようになったころには、もうすっかり家族の人気者になっていた。

うちへ来てから間もないころ、「チー、チー」と鳴いていたので、「チー子」と名付けた。オスらしかったが、そんなことはどうでもよい。チー子チー子とかわいがり、朝夕の糞の片付けやら餌や水の補給などすべてを私が世話するようになった。

毎日学校から帰ってきてからチー子と遊ぶのが楽しみで、たった一匹の小さな命がこれほどに日々を明るくしてくれるのか、と私自身も喜んだが、家族全員そう思っていただろう。

ちなみに、こうした小鳥の寿命はせいぜい5年、長くて7~8年といわれる。しかし、この子はなんと、私が大学3年のころまで生きた。10年以上の寿命があったことになる。

大学3年のころ、住んでいたアパートには電話がなく、友達の電話をよく借りていた。その友人からめずらしく母から電話が入っていると連絡が入った。出てみると、母の重い口から出たのがチー子の死だった。

思わず涙がこぼれ出たが、それからしばらくは悲しくて悲しくて学業が手につかなかったのをよく覚えている。

愛鳥との出会いも含め、私の小学校生活は、後段になるほど明るくなっていった。尻上がりに運気が向上していく、という実感がわいてきたが、そんな中、そろそろ卒業が近づいてきた。

2月ころには既に卒業式の準備が始まり、いろいろなイベントが検討され始めた。卒業式準備委員会、的なものが先生・生徒混交で開催されたかと思う。その中で、楽器の演奏や先生への感謝のことばといったありきたりのメニューが並べられた。

しかしそれではつまらない、ということで、ある先生が、式の最後にある式辞は一人ではなく、生徒代表の10人くらいでやろう、と言い出した。

その10人が6年間の思い出を大声で語っていく、というもので、その代表団の後ろで卒業生全員が歌ったり踊ったり、楽器を演奏したりする、という演出だった。しかし、かつての担任の遠藤先生が音楽の先生だったこともあり、このころの私はすっかり音楽アレルギーになっていた。どう考えても私とは無縁の催しだ。

それを受けて、各クラスでも誰が何を担当するかを決めろ、ということになった。そのセレモニーは基本的には何等かの形で全員参加する、という決まりになっていたが、私的には、どうでもいいや、と思っていた。そうしたところ、卒業式担当委員が私にあてがったのは、なんとエレクトーンを弾く担当だった。

無論そんなものが弾けるわけがない。戸惑いながらその委員の話をよく聞くと、なんのことはない、私がやることといえば、ただ単に鍵盤の一つを断続的に鳴らすだけ。自由意志はなく、シンバルを両手で叩き続ける猿のおもちゃと同じだった。

そんな犬でもネコでもできるような役割をあてがう奴も奴だが、私という人間はその程度にしかみられていないんだろうな、と思った。ほかにも歌を歌うとか、ダンスをやるとかいろんな役割があったはずだが、それすらも与えられなかった。

絵や作文はうまくても、そのころの私はクラスの誰ともなじまず、デブで運動音痴であったこともあり、孤立していた。仕方がないことではあったが、我ながら情けなかった。

かくして参加したくもない練習が始まった。徐々に習熟が進む中、あるとき、卒業生全員参加の全体練習も行われた。そのとき、ある先生が突然、全体的に構成を見直そう、と言い出した。

何か単調でつまらない、といったことだったと思う。ところが、驚いたのは、その変更の中で、なんと式辞のひとりを私に変更しよう、と言い出したのだ。

その先生は村田先生といい、学年主任だった。そのせいもあるが張りのある声といかついルックスからか、ほかの先生からは一目置かれていた。卒業式セレモニーを選出した代表者中心に行おうと企画したのもこの先生であり、この動議に対しても、彼が言うのなら、と他の先生も誰もが反対しなかった。

この式辞セレモニーは、卒業式の最後に行われるもので一番重要なものだ。その中心となる10人の代表の一人になったということは、雑用係から一気に主役に抜擢されたようなものだった。なにがなんだかよくわからなかったが、不服をとなえるような雰囲気でもなく、戸惑いながらもその新役を引き受けることにした。

こうして役回りが変更されてからも練習は続き、私の番のメッセージが滞りなく言えるようになったころ、卒業式を迎えた。

左胸に白い造花をつけ、卒業生全員が次々と会場に向かう。その向かう先の廊下で、あれっと思ったのは、例の村田先生見つけたことだった。

実は村田先生、私の役割変更を言い渡したあと、腰を痛めて長い間学校を休んでいた。いわゆるぎっくり腰というやつで、卒業式には間に合わないのでは、と皆が思っていた。声が大きいこともあってか、生徒からは怖い先生、というイメージでみられていたので、この日も来ないならそれで平安、という雰囲気が生徒たちのあいだにあった。

そのときすでに腰が治っていたのかどうかはわからないが、卒業式セレモニーの責任者でもあったわけだから、式に出なければならない。そんな義務感を持っていたのだろう。校内に突然現れ、いつものように大きな声で同僚の先生や、生徒たちに声をかけていくではないか。

私にも声をかけられるのではないかとドキドキしたが、結局は、何事もなく式が始まった。

その卒業式の日は、良い天気だった。もしかしたら桜が咲いていたかもしれないが、緊張していたのかよく覚えていない。式次第は次々と消化されていき、クライマックスに用意されていたセレモニーが始まった。歌えや踊れの催しの中、いよいよ最後の式辞になった。

ひとりひとりが小学生時代の思い出を語っていく。私の番になったときさすがに足が震えたが、つっかえることもなく無事にこなすことができ、最後の生徒の語りが終わると拍手がわき起った。

やがて校長先生の送辞や生徒代表の答辞が終わると、ついに卒業生退場である。みんなに続いて体育館出口に向かうのだが、このとき思わず涙がこぼれ出た。

その涙の意味は、大役を無事に務めたという安堵感よりも、楽しいことよりも悲しいことのほうが多かった学校生活がようやく終わりを告げたという脱力感から来たものだった。

驚いたのは、そのあと、くだんの村田先生が声をかけてきたことだ。突然だったので何を言われたかはよく覚えていないが、内容は「よくやったな、うまかったよ」的なお褒めの言葉だった。

これはあとで母から知らされたことだが、私の役割を変更したこの先生は、母が率いていたPTAのバレーボールチームの顧問もしていたという。リーダーである母とは当然互いをよく知る間柄であり、おそらくは頑張った母への遠慮もあって、私を抜擢したのではないだろうか。

多少事実と違えどもおそらくはそんなところだろう。親の七光りでひいきにされた、と考えるといい気持ちはしなかったが、ようやく私にも日の目を見る時期がきたのだ、そのための大役だったのだ、と思いたい気持ちもどこかにあり、後ろめたくはなかった。

こうして私の小学校生活は終わったが、その幕切れはそれまでの自分からの卒業をも意味していた。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 3 東雲

小学校からの卒業は、幼少期を過ごした地域との縁切れも意味していた。

毎日、猿猴川沿いの道を通り、川を渡って通っていた場所へは、何かの用事がなければ行かなくなった。用というのもとりわけ何もない。親しい友達がいるわけでもなく、訪れる必要のある場所もない。

それまで、東雲の自宅はその中だけが自分の世界を構築するための場所だったが、家の中だけでなくその周辺もが、にわかに自分の世界の中心になりつつあった。

とはいえ、堀越のような野趣あふれる環境ではない。住宅、店舗、工場が混在するようなところで、緑はほとんどない。自然といえば、すぐそばにある猿猴川があるだけで、あとは歩いて10分ほどのところに公園がある程度である。公園といってもサッカー場半分ほどの広場の周りにポツポツと樹木が植えてあるだけで、およそ緑地とはいえない。

地域のイベントはたいていそこであり、夏のラジオ体操に秋祭り、運動会や防災訓練といった行事はすべてそこで行われていた。しかし住んでいる住民数に比べて明らかに容量オーバーだ。大した遊具があるわけでもなく、子供にとっても遊びにくい場所で、私もここで過ごした思い出はほとんどない。

もっとも中学生になってからも遊びに行くような時間はなく、その理由は、通い始めた学校が遠かったからでもある。

私が入学した学校は大洲中学校といい、青崎小学校を卒業した生徒たちはほとんどがここに入る。小学校も越境入学だったが、その延長で中学校もまた同じ手続きで入った。「寄留」といい、その学校の学区の住民の家に「寄宿」しているという証明書があれば許される。

私の場合、昔住んでいた堀越の官舎のすぐ隣に親しくしていた夫婦が住んでおり、そこの家の住民ということで登録していて、この家には小中学校を通じてお世話になった。

ちなみに、阪神タイガースの金本元監督は、この青崎小学校、大洲中学校の卒業生で、私の後輩になる。私と違って生粋の広島生まれで、青崎町内会のソフトボールや大州中学校の軟式野球部でプレーをしていたそうだ。

実は、その中学校は自宅の目の前にある。家のすぐそばにある堤防に上がれば、猿猴川を隔ててそこから300mほど先に校舎が見えるのだ。ところがそこに行くための橋が目の前にはなく、かなり上流にまで迂回しなければならない。

かくして小学校の時と同様、毎日せっせと遠路はるばる学校まで歩いて通う毎日がまた始まった。かつてと同じように、堤防沿いの道を橋がある上流まで遡り、ふたたび下って校門まで辿り着く。片道40分はかかるから、なかなか良い運動になる。

このころまでに私の体重はほぼ標準にまで落ちていて、この通学のおかげで体も随分と丈夫になった。しかし、放課後にさらに体育系の部活をする元気はなく、入ったのは美術部だった。

顧問の先生の名は前川といい、自分のことを「おとこまえかわ」と言っていたが、美男子には程遠い。縦長の顔でひょうひょうとしており、あだ名は「馬」だった。冗談を言って生徒を笑わせるのが好きで、みんなに好かれていた。教員仲間の中でも評価は上々らしかった。

振り分けられて入ったクラスの担任の先生でもあったが、姉がこの学校に通っていたころの担任でもある。そのころ、前川先生が姉につけたあだ名が、苗字の「瑛江」にちなんで「おはなはん」だったこともあり、入学してきてから私の担任になると早速同じあだ名で私を呼ぶようになった。

姉はこの学校を2年ほど前に卒業していて、市北部の市立商業学校に通っており、そこにはバスで通っていた。私と違って、小中学高を通じて遠路を歩いて学校に通った経験はなく、すべてをバス通学で済ませていた。

私も希望すれば親は定期代くらいは出してくれただろう。しかし、小学校のころの苦行?の名残か、このころからわざと棘の道を進もうとする傾向が出てきていた。修行僧のような高い志を持つものではないが、自分を追い込むことで快感が得られる、という現在まで続くサド的な性格だ。自虐的ということばがぴったりの変人である。

小学校卒業前から自分もそろそろ変わりたい、と感じていたこともあったが、中学に入ってからは、そうした自虐的な性格の方向がなぜか勉学に向かうようになった。貪欲に勉強に励むようになり、学校の授業だけでは飽き足らず、両親に頼み込んで、近くの塾にも通い始めた。

「英数教室」といい英語と数学だけを集中的に授業してくれる。この二科目を制すれば高校受験も優位に進められる、といわれていた。このころすでに高校受験を意識していたわけではなかったが、とりわけ英語を学びたい、という気持ちが強く、数学のほうはこの塾でたまたま教えていたからついでに学んだ、という恰好だった。

ところがその数学の先生の教え方が上手だったせいもあり、すぐにそのレベルは塾生の中でもトップクラスになった。若い先生で意欲もあったのだろう、とりわけ私には懇切丁寧に指導をしてくれた。

英語のほうの先生は少し年配で山川先生といった。こちらも教え方がうまく、文法などはすぐに習得した。私の現在の英語能力の基礎はすべてここでこのころに培われたといっていい。

英語については、この塾通いとは別にNHKのラジオ放送で、「基礎英語」といいう番組を毎日欠かさず聞いていた。これもこの語学の理解を深めるのに大いに役立った。

英語を学びたい、と考えたのは将来海外に行きたい、とこのころから思うようになったからだ。このころ「兼高かおる世界の旅」という人気テレビ番組があり、これを見ては、いつかはあんなふうにいろんな国を旅してみたい、と漠然と思っていた。世界中を旅する、というふうにはならなかったが、海外へ行くというその夢はその後実現することになる。

この塾通いの成果は上々で、やがて学校での英語と数学の点数は毎回ほぼ満点で、ほかに敵なし、といったレベルになった。こうなると不思議なもので他の教科の制覇にもがぜん、意欲がわいてくる。理科、社会、国語、といずれもトップレベルを目指したが、国語については、いつも大した勉強もせずによい点がとれた。

理科については数学の延長のようなところがあり、コツをつかめば同様の要領で習得できる。好きな科目でもあったことから、こちらの成績もいつもよかった。問題は社会である。基本は国内外の歴史なのであるが、その試験問題には記憶力が試される。小学生のころ暗算で挫折したそろばんのことをつい思い出した。

新井君というクラスメートがいた。小学校のころにいじめられた荒井とは読みは同じだが別人だ。どうもこの名前に縁があるらしい。だが、小学校時代のアライとは違い、すこぶる仲がよく、一緒によく遊んでいたし、ふざけあえる一番の親友になった。

この新井君、他の教科の成績はからっきしダメなのに、社会科の成績だけはいつもよい、というへんな奴だった。どうも自分の記憶力を誇っているようなところがあり、社会科だけは私に負けたくない、といつも言っていた。

いわばライバル視していたわけだが、「全科目完全制覇」を目指していた私としては、親友だといっても負けるわけにはいかない。それまで以上に社会科にも力を注ぐようになり、彼の成績を凌駕した。ついにこの教科を含め、ほぼ全部の教科でトップの座をキープするようになった。

しかし体育だけは、あいかわらずの成績で、小学校以来、満点を取ったことは一度たりともない。いつも平凡な成績、いや平均点以下だった。母の運動神経のDNAはどうも私には遺伝しなかったらしい。

課外活動としていた美術のほうもパッとしなかった。うまくなるためにはまずデッサンをしろ、と前川先生に言われ、アポロンだかビーナスだかの石膏をせっせとスケッチしたが、どうにもコツがつかめず、まったく似てこない。

もっと自由に何か書かせてくれればいいのに、といつも思っていたが、そのうち塾通いで勉強するほうに力を注ぐようになってからは、美術教室からは自然と足が遠のいた。




中学校に入ってすぐだったろうか、好きになった女の子がいた。

背丈はクラスでも一番小さいほうだったが、目鼻立ちのすっきりした京風美人でポニーテールがお似合いだ。中学に入ってすぐ仲良くなったが、1年生のころはいわば小学校の延長のようなもので、冗談を気軽に言い合える友達程度だった。

ところが年齢は15~16でそろそろ色気づくころである。2年生になってからは妙に意識し始め、だんだんと気になる存在になっていく。向こうもそうなのか、それまで普通に話しをしていたのが、だんだんと口数がすくなくなっていった。

2年に上がってクラス替えがあったが、この子とはまた同じクラスだった。毎日顔を合わせていたが、目と目が合うと、お互いにそらす。廊下ですれ違う時も無言のままだ。

あちらがこちらを好きかどうかを確かめたい、と思うようになればそれはもう恋である。幼いころに淡い恋心を抱いたケイ子ちゃんのときのような軽い気持ちではなく、想いは日に日に深まっていった。

しかし、もともと奥手でシャイな性格が災いし、想いを相手に伝える方法がみつからない。嫌われたらどうなる、どうしようという自己保全の気持ちのほうが強く、とうとう自分の殻を破ることができなかった。

その点、後年女性への接し方は多少ましになり、進歩したかもしれない。しかし、このときはうまく相手に気持ちを伝えるテクニックはなく、またその機会も得られず、結局そのまま中学生活を終えた。

当然この恋は終わり、と思っていたが、ところがなんとその後彼女は私が進学したのと同じ高校に入学してきた。中学時代のもやもやした気持ちはその後高校時代にまで持ち越され、やがては破綻を迎えることになるのだが、そのことはまた後で書こう。



恋の話はさておき、一に勉強二に勉強ということで、勉学に励んで過ごした3年間は瞬く間に終わった。何かに打ち込み充実しているときというのは、時間が早く過ぎていくものらしい。

一方で、何か楽しかったり嬉しかったりするイベント、あるいは事件はなかったか、と思い起こすのだが、印象に残っているのはほとんどない。初めて行った九州をめぐる修学旅行ぐらいのもので、たいした出来事はない。

このころの自分は内へ内へと向かっていた気がする。あいかわらず父に金を出してもらっては歴史小説を買い漁っており、週末になると本の虫になっていた。ちょうどそのころ司馬遼太郎さんの「国盗り物語」がNHKの大河ドラマで日曜日に放映されていてこれに夢中になった。

その原作を何度も読み返すこことはもちろん、毎週土曜日午後の再放送は一話も欠かさず見通したものだ。司馬さんの作品はその後ほとんどのものを読んだが、その後再び大河ドラマにとりあげられた、坂の上の雲、花神、といった司馬作品は大のお気に入りであった。

この人の作品といえば、とくに維新ものが多く、幕末ころの舞台は、京、江戸、薩摩、そして長州、これは今の山口県である。

私の母は山口生まれであることは先に書いた。それに関連したことをもう少し詳しく付け加えてみたい。

当初、母の実家は市のはずれの仁保というところにあった。「にほ」と読むが、地元の人の多くは「にお」と発音する。山口駅からは10kmほど東にある山間にある地域で、仁保川という小さな川の右岸側を中心に、東西4~5キロにわたって集落が広がる。

集落といっても、田んぼや畑のなかにぽつぽつと民家が散らばる程度のものだ。母の実家は、その一番東の奥まったところにあったが、切り立った山のある麓にあって北向きの土地であり、お世辞も地味がいいとは言えない。

母の一族は、ここで何代にもわたって農家として暮らしてきた。私がまだ幼いころの記憶では、まだ藁ぶき屋根の母屋があった。またこれに隣接して鶏小屋や牛小屋があり、牛にやる干し草を蓄えるための地下サイロなどがしつらえてあった。

目の前に一反ほどの田んぼがあった。少し離れたところにも畑を持っていたが、これらがこの一家の財産すべてであり、それだけで何代も食いつないできた。

私が小学校の低学年のころ、すぐ近くに、山口衛星通信所という施設ができた。旧国際電信電話(KDD)が1969年(昭和44年)に開設したもので、巨大なパラボラアンテナが20基ほども居並び、なかなか壮観だ。最大のものは直径34mで、これは衛星通信用パラボラアンテナとしては日本一の大きさだという。

こんな田舎にこうした近代的な施設が建設されたのは、本州でインド洋上の衛星との交信ができる唯一の場所、ということが理由であったようだ。が、そのほかにも、台風の来襲が少なく、地震が少ない土地だからでもある。田んぼや畑以外には何もない場所ではあるが、災害にだけは強いというところが、とりえといえばとりえといえる。

しかし、災害がないということと食えるということはあまり関係がない。災害がなければ田畑が失われることはないが、だからといって極端に生産性が上がるわけでもない。代々に渡って細々と農業を続けていたが、やはり外へ出て働いたほうが金になるのでは、ということになったのだろう。母の父─ 祖父は、こうして軍隊へ出仕するようになった。

勤め始めたのは海軍で、当初大小の軍艦に乗っていたようだが、その後、呉にあった「海軍潜水学校」というものに軍から金を出してもらって入校した。砲術学校や水雷学校などの術科学校を卒業したあと、水上艦や潜水艦で実務経験を積んだ士官・下士官・兵が入校する学校である。

いわば海軍のエリートが学ぶ学校であるが、祖父は砲術学校も水雷学校も出ていなかったはずである。にもかかわらず入校できたのは、よほど出来が良かったのか、あるいは目端が利くタイプだったのだろう。射撃がうまかったらしく、何かの大会で入賞し、賞をもらったこともある。そうした技量が認められたのかもしれない。

潜水学校では、潜水艦の運用に必要な知識と技能を修得した。そのあと、実践部隊に配属されたようで、おそらくはイ号とよばれる大型潜水艦の勤務なども経験したはずである。

それを証明する写真でも残っていそうなものだが、残っているのは潜水学校時代のものばかりである。おそらく、この当時の潜水艦は国家の最高機密であったため、写真の撮影は許されなかったのだろう。

何年かの間、潜水艦乗りとして勤務したが、その後太平洋戦争が始まったころには予備役に入る年齢に達した。このため、結局戦闘に駆り出されることはなく、無事に終戦を迎えた。

仁保の家に帰り、しばらくは農業を続けていたが、やがて住み慣れた仁保を離れ、町の中心に引っ越すことを決めた。無論、一家総出での引っ越しであり、このときはまだ健在だった曾祖母と祖母、母と妹の4人を連れて仁保を後にした。長年住んだ土地、仁保とはこうして縁が切れることとなった。

引っ越し先は山口駅のすぐ裏である。民家が密集するあまりいい立地ではなかったが、そこで小さな宿を営みなじめた。退役の前に軍からある程度まとまった金を退職金としてもらっていたらしく、それを元手に始めたのがこの宿だ。

米殿荘という名で、1~2階合わせて5部屋ほどしかない小さな宿だった。私が幼いころは夏休みや冬休みになると、母に連れられてその家へよく遊びに行っていたものだ。しかしあまりにも小さいため利益が出ず、このため大借金をして、新たにもう少しましな“ホテル”といえるレベルのものをその近くに建てた。

祖父の性は中村で、名は六蔵とだったから、そこから一文字づつ取り、「中六ホテル」と命名した。場所は「ちまきや」という市内唯一のデパートのすぐ近くで、山口一番の目抜き通り、“道場門前”から歩いて数分のところにある。前の宿に比べれば格段に立地はよく、より大きな収入が得られる、という算段だったろう。

ところが、私が小学校5年のときに、祖父はあえなく脳溢血で亡くなった。63歳だったから、かなりの早死にだ。もとから大酒のみで、休みの日には朝から食らっていたと聞く。その死因も酒と無関係ではなかったろう。とはいえ、酔って家人に暴力をふるうといったことはなく、陽気で明るい酒だったように記憶している。

主人を亡くした祖母は途方にくれた。というのも、息子を交通事故で亡くしていて、その遺児を引き取って育てていたためである。亡くなったのは母の弟にあたり、私からみると叔父になる。まったく覚えていないが、私が幼いころにはよく遊んでくれたらしい。

20代半ばで結婚し、相手との間に男の子を一人も受けた。ところがその子は幼いころにポリオにかかり手足が不自由となった。それが理由だったのか、夫を亡くしたあと母親は育児を放棄し、別の男性と結婚、東京へ出て帰ってこなくなった。

小児麻痺だったその男の子は、私との関係でいうと従弟ということになる。この子を育てながらホテルの経営もしなければならない、またそれを建てたときの借金もある、ということで経済的に追い詰められた祖母は、あろうことかさらに知人から借金をした。

ところがその知人というのがヤクザまがいの人物だったらしく、借りた金の倍額に近い金を返せ、と言ってきた。このあたり、子供のころに聞いた話なので、事実と多少異なるところもあるかもしれないが、ともかく騙されて大金を払う羽目になったことは確かである。

返す金のめどなど立つはずもなかった祖母は、娘二人にすがった。母にはもうひとり妹がおり、これが同じ市内に住む叔母である。亡くなった弟と含めて三人姉弟だった。その妹と合わせてその借金を肩代わりすることになり、叔母の家だけでなく我が家にも大きな負担がのしかかることになった。

一方、父には松江在住の叔母がいた。戦後すぐに日本に帰国した際にもかなり世話になったらしく親しかった。その彼女の夫が検事をしており、この件についてもその義理の叔父に相談したようだ。

その結果裁判にまで持ち込むことになった。その叔父の力がどの程度及んだのかはよくわらかないが、結果として勝訴とまではいかないまでも、かなりの借財を減らすことに成功する。

しかし借金がまったくなくなったわけでもなく、その後祖母はかなり長い間貧窮生活を余儀なくされ、叔母と我が家からの援助でなんとかしのいでいた。

その後、叔父の遺児である従弟は、広島にある養護施設に入ることになった。保養の義務はなくなったわけであり、晩年の祖母の暮らしにはようやく明るさが戻ってきた。俳句が好きで、町内の俳句の会によく出かけ、友達も多かったようだ。しかし、私が30過ぎのころ、子宮がんで亡くなった。83だった。

実は私は祖母が育てていたこの従弟が大の苦手だった。それは健常者ではないからという理由ではなく、性格的な不一致があったところが大きい。

一方、叔母には息子が二人いて、そのうちの一人が私と仲が良かった。その叔母の息子と祖母の育てていた子は同い年、私がひとつ上だからほぼ同学年である。3人で遊ぶこともあったが、家でゲームをするくらいならよしとしても、外へ出て遊ぶとなると、どうしても障害のある彼と同じ行動というわけにはいかない。

いつも置いてけぼりにされる、というひがみもあっただろう。ときにありもしない嘘をついて、何事かのトラブルを私やもう一人の従弟のせいにする。体が不自由なのでいたわってやりたいという気持ちがある反面、そういう態度をみせつけられるといい気持ちはしない。

詳細は記憶していないが、あるとき、洗濯場のもの干し竿が何かの拍子にが落ちて、彼が腕に軽いケガをした。そのときもそれをすぐそばにいた私のせいにし、祖母と母に告げ口された。無論、私は何もやっていない。はっきりとそう明言し、認められたが、嘘までつかれて悪者にされかけたことで不信感がいよいよ強まった。

そしてそれがきっかけとなり、それ以後、彼とは距離を置くようになっていった。現在彼は、養護施設を出て一人暮らしをしているが、最後に会ったのは、何十年も前のことになる。
子供のころのそんなことを根に持っているわけではないが、あえてこちらから会いにいこうとしないのは、そうした事件があったことと無関係とはいえない。

とはいえ、お互い余生はそれほど長くない。そろそろ昔のことは水に流し、ふたたび手を取り合える時がくればいいな、と今は考えている。

話は戻るが、その従弟が養護施設に入る前から私は、夏休みや冬休みになると、たいていこの家に遊びに来ていた。相変わらず苦手な彼はいたが、両親や姉の束縛から逃れられる、ということは大きかった。家族と一緒にいるということは安心感がある反面、毎日顔を突き合わせていればいやにもなることもある。

その点ここは自由だし、何よりもホテルだけに家が大きかった。昼間はほぼ客はいないから、好きな場所を自分で選んで、苦手な彼と顔を突き合わせないことも可能だ。食事は別に一緒に取る必要はなく、場合によっては外に食べに出ればいい。

ただ、そんなことよりも、山口という場所が好きだった。歴史に興味のあった私は、かつて長州と呼ばれていたこの地の史跡を見るのが楽しみだったし、風情のある街並みを歩き回ると心が安らんだ。山口以外の史跡もバスや電車を乗り継いで簡単に行ける。維新の舞台となった萩は頻繁に訪れたし、長府、下関といった場所にも偉人達の数々の足跡がある。

市内に限って言えば、幕末だけでなく、戦国の時代からの史跡も多く、滅亡した大内氏やそれを打ち滅ぼした毛利氏ゆかりの地も多数ある。本を読むばかりではなく、実際に目と足で歩いてそれを確認し、空想でその時代に遡ってみるのもまた楽しい。

姉が通っていた幼稚園のあるザビエル記念聖堂のことは前に書いた。この聖堂のある公園は、長崎を思わせるようなエキゾチックな雰囲気があり、「亀山」とも呼ばれるその丘からは山口の黒瓦に覆われた古い町並みを見通すこともできる。キリスト教徒迫害の歴史もここにくれば学ぶことができ、往時を偲ばせる。

山口は先の大戦で戦禍を受けていない。このため平安時代にその基礎が形成されたとう昔の街並みが、あちこちにそのまま残っている。古道も多い。それらの道を通るたびに、いつも違う表情を見せてくれる。

一番のお気に入りは、香山公園というところで、「西の京・山口」を代表する名所となっている。園内には数々の史跡があるが、その中心にある瑠璃光寺は大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、梅の名所でもある。

その梅林の中に国宝の五重塔がある。室町時代、大内氏25代の大内義弘がこの場所に「香積寺」という寺を建立したが、その跡地に後年建てられたものである。

この大内義弘という人は、大内家最初の全盛期を築いたことで知られ、大内氏の中では最も偉大な武将とされる。

室町幕府の命で多くの功績を立てた名将であったが、しかし能力があるということは目立つ存在でもあるということである。守護領国を6か国にまで増加させるほどにもなると、誰の目にも幕府を脅かす存在に映る。ついには将軍足利義満に目をつけられるようになった。

義満が自分を排除しようとしていることに気づいた義弘は、逆に幕府を倒そうと仲間を募り、応永6年(1399年)に和泉国の堺に大軍を率いて赴き、応永の乱を起こした。しかしこれを上回る3万余騎といわれる幕府軍に包囲され、奮戦するも敗れて戦死した。

戦死した義弘の後継はなかなか決まらず内紛が起こったが、最終的には弟である盛見(もりはる)が大内氏を継いだ。このとき、兄を弔うため香積寺の敷地内に、五重塔の建設を開始した。しかし、盛見自身も九州の大友氏らとの戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔はその後、盛見の子、大内教弘の代に完成した。嘉吉2年(1442年)頃といわれる。

大内義弘の亡骸は一旦堺で葬られた後、山口に戻され、香積寺に改葬されたが、その墓こそがこの五重塔といわれている。通常なら仏舎利が納められている五重塔の下奥深くに大内義弘の柩があるとの伝承がある。

この瑠璃光寺の隣には、香山墓所と呼ばれる墓所があり、こちらは大内氏のあと長州を治めた毛利氏の墓所となっている。もっとも歴代のものすべてがあるのではなく、明治維新当時の当主、13代毛利敬親やその奥方の墓などである。天皇陵ほどの規模はないが、同じ円墳であって、国の史跡に指定されている。

周囲の敷地より一段と高いところに造成された墓地で、ここに上がる石段の前にある石畳は、「うぐいす張の石畳」として知られる。石畳の上に立って強く柏手打つと、「チュンチュン」と雀が鳴いたような音が返ってくる。意図してそのように作られたものではなく、周囲の地形と石段による音響効果のためと考えられているが、なかなか風情がある。

周囲はうっそうとした木々に囲まれていて、いつ行っても静かな環境なのだが、それだけに、手を打って跳ね返ってくるその音は凛としたもので心地よい。朝早くここを訪れ、誰もいないのを確認してからこれをやるのが好きで、山口に帰ると必ず訪れる場所でもある。

この公園の周辺にはそのほかにも数多くの史跡があり、例えばすぐ近くの「天花(てんげ)」というところには、その昔雪舟のアトリエがあったとされる場所がある。雪舟は大内氏の招きにより40歳頃に山口に来ており、このときここに「雲谷庵」という小屋を建て、捜索活動に励んだ。

50歳前までここにいたらしく、その後応仁元年(1467)に遣明船に乗り、いったん中国に渡った。帰国後もここに住み、作画活動と弟子の養成に努めたとされるから、よほどこの地が気に入っていたのだろう。永正3年(1506)87歳のとき没したが、それもこの地であったと言われている。

その当時住んでいたとされる雲谷庵がここに再建されているが、これは明治17年に建てられたものである。下にある道路から10mほど上の高台に建てられていて、敷地の南側に立つと、山口市街が一望できる。

おそらく雪舟の時代にはのどかな田園風景が広がっていたと思われ、500年も前のそうした風景を想像しながら思索にふけっていると、時間はあっという間に過ぎていく。

瑠璃光寺、毛利氏墓所、そして雲谷庵と、順番にこうした史跡を訪れたあとは、一の坂川、という川沿いを歩く、というのが、私の散策のお決まりコースである。室町時代に大内氏が一の坂川を京の鴨川に見立てて街割りをしたといわれており、左岸の竪小路エリアは現在も当時の町並みが多く残る。

川沿いには桜並木が植えられ、市内でも一番と言われるほどの桜の名所である。この川の護岸は、「ホタル護岸」と呼ばれるもので、昭和46年8月の台風19号で、旧一の坂川が流失したのち、翌年から改修作業が開始され、2年越しで完工した。

護岸には全国初といわれる工夫がされており、多孔質な形状が導入されて水生植物が生えやすくなっている。また、地元の小学校の生徒や先生、有志などが、ホタルの餌となるカワニナなどを増やす努力をしており、幼虫の放流なども行っている。こうした努力の結果、毎年6月には多くのホタルが孵化し、その乱舞を楽しむことができる。

このほか、市の中心部にある山口県庁のすぐ西側にある鴻ノ峰という山も見どころである。子供のころからよく上った山で、大人になった最近でも好んで訪れる場所だ。

標高338mの山頂には、大内氏が築城した山城の跡があり、近年設えられた展望台からは市内が一望できる。東側の山麓にある山口大神宮の神域にもなっていて、ここから山頂に行く登山道がある。

また、西側にも登山起点があって、その昔は糸米村と呼ばれ、維新の立役者、木戸孝允の旧家があった場所である。孝允はその死に臨んで「糸米村にある木戸家の旧宅・山林を糸米村へ寄付し、村民の学資に充当してほしい」という遺言を残した。遺言は実行され、村民はこれを公債証書へ転換し、その利子をもって村民子弟の学費に充てた。

このとき、孝允の遺徳を讃えるため、明治19年(1886年)に「木戸公恩徳碑」を建てるとともに、孝允を祭神としてこの地に「木戸神社」を創建した。

うっそうとした森の中にあるような神社で、境内も広いことから、子供が遊ぶには恰好の場所である。神社の脇から鴻ノ峰に登る登山道が整備されており、40分ほども登れば頂上まで行ける。麓に近い登山道脇には自然豊かな小川もあって、子供のころからここでもよく遊んだものだ。

山口は、こうした街歩き、山歩きができるという点が魅力だが、さらに、意外にも海が近い。30分もクルマを走らせれば、秋穂という浜辺の町に行くことができる。観光客もおらず、また地元の人もほとんどいない静かなここの海辺でのんびりするのが好きだったし、ときには魚釣りもやった。

というわけで、後年、大学に入ってからや卒業後に就職してからも山口には頻繁に帰り、結婚して息子が生まれてからもこの山口行脚は続いた。今や第二の心のふるさとといってよい。




中学時代の私は、歴史小説を読み、こうした山口のような古い街の史跡を歩き回ることが好きな歴女ならぬ歴男だった。それ以外にはほかに趣味らしいものはたいしてなく、ひたすらに勉強していたような気がする。先生たちからも一目置かれ、3年生になってからは英語の先生に頼まれ、クラスメートのために宿題のプリントまで作っていた。

そのころ私は学級委員長に任命されていた。その責務の一端ということで任されたわけだが、同級生に宿題を出されるというのは、クラスメートからすれば大きなお世話だったろう。さぞかし嫌な奴だと思われていたかもしれないが、先生サイドからは重宝がられた。

当然、悪い気はしなかった。小学校時代には落ちこぼれになりかけていた自分がここまで持ち上げられるようになったのは、自分を励まし切磋琢磨してきたからだ、という自負があった。

しかしそうした豊かな時間は瞬く間に去っていった。3年生の夏ぐらいからはそろそろ次のステップへの秒読みが始まる。受験という一大イベントだ。成績の良かった私は、市内でも難関校といわれていた高校への進学を視野に入れ始めた。

この当時、広島市内の公立校で最もレベルが高いといわれていたものが五つあり、それは、舟入、観音、基町、皆実、国泰寺で、合わせて「公立五校」と呼ばれていた。ほかに、私立では修道高校などが高いレベルにあったが、私学だけに当然高い学費がかかる。公務員の親を持つ身としては高望みはできない。

もっとも、修道などという新興宗教のような名前の学校に行きたくはなかったし、同じく宗教染みた名であるとはいえ、国泰寺高校のほうには興味があった。

戦前は広島一中とよばれた名門校で明治に開校されて以来、広島の経済界に多数の人材を輩出してきた。東大や京大に多数の入学者を出すほどレベルは高くはないが、広島では一流の学校と目されている。

当然、競争倍率は高く、同じ公立五校の中でも一番入るのが難しいといわれていた。ちなみにこの五校の入試は共通で、受験前にどの高校に入りたいかの希望が聞かれ、試験の成績に応じてその希望校に入れるか否かが決まる、というシステムになっていた。

私は当然のことながら、第一希望に国泰寺を選び、二番目に皆実、三番目に基町を選んだ。あとの二つを選んだ理由は、自宅から比較的近い、という理由だ。

それまでの成績からみても合格間違いなし、と先生からは言われたが、それでも滑り止めのため、ほかに城北高校という私立高を受験した。その当時できたばかりの高校でレベルはたいして高くなかったが、現在はかなりの入学難関校になっている、と聞く。

中学三年間を通じて通っていた英数教室でも受験対策の勉強が始まった。塾の先生もまた私の合格は間違いないよ、と言ってくれたが、何事も実際の蓋を開けてみなければわからない。手綱を引き締めて最後の追い込みも頑張った。

2月。受験の日を迎えた。試験は確か最寄りの皆実高校であったように記憶している。試験問題は難しいとは思わなかったが、確実に合格したかどうかは自信がなかった。

その2~3週間後だったと思う。第一志望の国泰寺高校から一通の手紙が届いた。どきどきしながら封を切り、中にある紙を開いた。

そしてそこに「合格」の文字をみたとき、やった!と思わず声を上げた。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 4 国泰寺

入学が決まった国泰寺高校は、かなりの街中にある。というか、その場所には隣接して南には市役所、西側には中央郵便局がある、という立地で、ほぼ広島の町の中心部に位置する。

北へ歩いて5分ほども行けば広島一の繁華街八丁堀があり、さらにその隣には流川(ながれかわ)という全国的にも有名な夜の街がある。直線距離で1キロほど離れた場所は、8月6日に投下された原爆が炸裂した中心であり、現在そこは世界の人々が集まる巡礼地、平和記念公園だ。

北には広島城、その周りには県庁のほかありとあらゆる官公庁も軒を並べていて、いわば広島文化の中心に位置する学校なのであった。広島の東端の僻地で育った我が身としては何か急に華やかな舞台に飛び出た感じがした。

ちなみに、国泰寺高校は通称、鯉城高といい、鯉城とは広島城のことを指す。語り継がれる伝統的応援歌の「鯉城の夕べ」は、この城の下で育つ若者にエールを贈る内容だ。

鯉城と呼ばれる所以は諸説があり、その昔鯉の産地だったから、といったことや、城のお堀に鯉がたくさん泳いでいたから、といったことが言われている。しかし、城の一帯はその昔、海に近く、そこが己斐浦(こいのうら)と呼ばれていたから、とする説が有力のようだ。それにちなんでか、市の西部には「己斐」という町と駅がある。

それにしてもなぜ、学校の名前は己斐ではなく、国泰寺なのか。その近くには同名の寺はない。なぜなのだろう、という疑問は入学してすぐのころのガイダンスで説明された。

戦前、そういう名前の大きな寺があって、この地域一帯がその名をとってそう呼ばれていたそうだ。原爆投下によってそうした歴史的な建物はすべて破壊されたから、せめて新しく建てる学校施設にそうした名残を残そう、ということだったらしい。

それにしても、もっと別のネーミングでもよかったのではないか、と思ったりもする。国泰寺の名を拝する前は「広島一中」の名で親しまれ、この地を代表する学舎だったようだから、せめて広島一高とか、己斐のような地域を代表するような名称を与えてほしかった。そう思うのは私だけだろうか。

住んでいる東雲からこの国泰寺高校までは約4キロあった。バスで行けば15分ほどで着く距離であり、自転車通学も許されていたから30分もあれば登校できる。しかし小学校、中学校と学校へは歩いて通っていた私は、ここでも歩いて行くことを決め、毎朝やや早めに家を出ることにした。徒歩だと、約45分ほどもかかる。

歩いて登校することについては、実はこだわりがあった。ただ単に小中学校からの名残り、あるいは惰性といった面もあったが、そのころ読んだ新田次郎の小説に影響されてのことだ。

「孤高の人」という小説で、主人公は加藤文太郎という。昭和の初め頃に現れ、不世出といわれた登山家で、「地下足袋の文太郎」と呼ばれていた。なんでも登山靴を買うこともできないほど貧乏だったので地下足袋で山登りをしていたが、その姿が他の登山者の間で評判となり、そのうちにその呼び名が定着したらしい。

歩くのが早い人で、平坦地もさることながら、山登りのスピードは驚異的だったといわれている。新田さんの小説のストーリーは、当時の登山界に彗星のごとく現れて消えていったこの偉人の生涯を追ったものだった。

実在する人物で、現在の三菱重工の技師である。当時は三菱内燃機製作所と言っていた。仕事の合間に行う登山活動がやがて本業のようになり、最後は北アルプスで遭難死するのだが、登山にあたっては徒党を組まず、必ず「単独行」で臨んだ。

すべての責任は自分ひとりで背負い人に迷惑はけっしてかけない、あらゆることを自分の中だけで完結させる、という人だった。その生きざまは強烈であり、そのキャラクターに魅せられた。何よりも「孤高」ということばが気に入り、その後の私の人生のある時期までにおいては、ひとつの座右の銘のようになっていった。

もとより一人で過ごすほうが好きであり、歩くことを好んだ自分をこのヒーローに重ね合わせ、かくありたい、と願ったものである。

かくして、この高校時代にも4キロ先の学校までせっせと歩く毎日が始まった。雨の日も風の日にもである。小中高とこれほどまでに歩いて学校に通った学生は、広島中探してもほかにいなかったのではなかろうか。

私が入学したころの国泰寺高校には、入ってすぐのところに二棟の木造校舎とこれに付随する木造家屋があった。校門から入ってすぐにあるこれらの家屋群は古き時代の風情を残すものであり、この学校の歴史の長さを思わせた。

といっても、広島の町は原子爆弾によって破壊されており、戦前の建物はほとんど残っていない。この校舎も戦後すぐの創建だろうから築30年ほどのはずだった。細部をみると確かにそれほど古くない。ただ、デザイン自体が明治大正を想わせるものであり、造りもがっしりとしていた。

入学してすぐの1年生の時は、このレトロな校舎で学んだ。もっとも、学内にはもうひとつ近年建てられた鉄筋コンクリートの校舎もあり、高学年になるとこちらに移った。新参者にはお古を、経験を積んだら新しい校舎を与えてやる、という見え透いた学校の指導方針のように思えた。

一年生の担任は江上先生といった。やせ形でひょろりとしており、つかみどころのない感じの先生だったが、穏やかな性格でこの学校のルールについては、ひととおりの行き届いた説明をしてくれた。右も左もわからない新入生にとってはありがたい配役だったかもしれない。

クラスには50人ほどいた。そのうち、何人かは卒業まで一緒に過ごすことになったが、その中の二人とは今でも親しい付き合いがある。一人は藤井君といい、こちらはなんと、小中学と同じで、この高校までもが一緒だった。

幼馴染といっていいが、それほど仲が良かった、というほどでもない。それが現在までもつきあいが続いているというのは、腐れ縁というかんじがしないでもない。もしかしたら前世でも何かご縁のあった人物なのかもしれない。

出来のいい子で、その後、難関の大阪大学工学部に入学、卒業後は同じく大阪に本社があり、世界的な企業として知られる大手の電機メーカーに入った。同級生の中ではエリート中のエリートといえる。

もう一人は高橋君といった。中学時代は柔道をやっていたそうだ。この学校では体操部に入り、器械体操をやりはじめたが、そのずんぐりとした体形からは体操をやっている、というのは想像できない。後年、大学に入ったあとは、弓道をやるようになったというから、体型とそれに合ったスポーツというのは必ずしも合致しないものらしい。

こちらは、妙にウマがあい、同じクラスだったのは一年のときだけだったが、三年間を通じよく行動を共にした。親友と言ってよく、その後の大学時代も、就職したあとも、何かと機会があれば会い、近況を報告しあっていた。広島に帰ることがあれば、時間を作って飲みにも行ったりもした。

ちなみに、彼は大学では鉱山科に入り、卒業後は通産官僚となった。現在も経済産業省となった同じ省庁で、あちこちの鉱山の管理をする仕事をしているようだ。

普通、高校の同級生というのは、卒業後は縁が遠くなる。ところがこのふたりは、その後の人生においても節目節目に出会うという、不思議な人たちである。

もっとも、現在の私の妻も同その一人であるのだが、そのことはいずれこのあと書いていこう。ちなみに、家内との人生二度目の結婚式のときにはこの友人二人を、高校時代の代表ということで招待している。

ほかの高校時代の友達にも後年かなりの時間を経て再会し、また新たな親交を深めていくことになるのだが、紙面と時間のこともあるので、とりあえずは自分のことをさらに書いていこう。




高校に入学したそのころ、私はもうすでに次の目標を見失っていた。難関校に入学したことで安心してしまった、というところはあるだろう。さらにその3年後に迎えることになる大学受験についてはまるで視野になかった。

ただ、それ以前の問題として、将来いったい何をやりたいか、何になりたいか、といったことについてもほとんど何も考えていなかった。高校を卒業したあとのビジョンについてはまるで白紙に近い状態だ。

ただ、頭の片隅になんとなく、ひっかかっていたことがある。小学校の卒業文集に、自分は何になりたいか、を書くコーナーがあり、そこには「エンジニア」と書いていた。その当時エンジニア、などという言葉はまだまだ新しい響きがあり、それをあえて使っていた、というあたり、大人びている。

しかし、その意味を果たしてはっきりわかっていたのかどうか。父親が電気技師であったことから、漠然とそういう仕事をする人たちだろう、というくらいの知識しかなかった。自分も手先が器用だし、大人になったら父と同じような仕事をやるのもいいな、程度に思っていた。

それを思い出し、将来、エンジニアとやらになるももいいな、と考え始めた。ただエンジニアといってもその幅は広い。いったい何の分野の技術者なのかについては、あいかわらず明確なイメージは持てないままにいた。

配電工などの職人から博士級の研究者まで数多くの種類のエンジニアは存在する。その中から、自分がなりたいものを選ぶというのは、高校に入ったばかりの小僧には少々難題だ。

とはいえ難しく考える必要もない。なりゆきに任せる、ということもできたはずだが、私はことあるごとに何か目標を作らないと走れないタイプだ。目の前に人参をぶらさげた馬よろしく、何かご褒美、何か目的がないと、次の行動に移れないのである。

そこで、自分はいったい何が好きか、と自問してみた。すると、あえていえば子供のころからなぜか海が好きだったということを思い出した。

幼少時代を過ごした堀越や青崎が海に近かったこともあり、いつも潮の香を感じつつ育った。また小学校のころはいつも夏休みになると山口を訪れ、そこにある海で遊んだ。子供のころから海がいつもそばにあり、傷つきやすい幼ない心を癒してくれた。

が、海が好きだということは、そうした育った環境のせいばかりではなく、そもそもは何か生まれつきの性質とも関係があるようにも思える。

のちに二度目の結婚をした後、相方の知り合いの紹介で、いわゆる霊能者と言われる人に自身を霊視してもらったことがある。彼女の母親はいわゆるスピリチュアルの分野に傾倒していた人で、知り合いにはそうした霊能者がたくさんいた。

娘の彼女も霊視してみてもらっており、私と結婚してからは私のこともみてもらいたくなったようだ。あるとき連絡し、二人してその人に会いに行った。

その霊視の結果、私の背後にはでっぷりと太った船問屋の主人がいるという。そしてその人こそが守護霊の代表格だということだった。さらに私自身も前世では海関係の商売をやっていたらしく、船の積み荷の前で算盤をはじいていたその当時の姿も見えるという。

この世に生まれ変わる前の人生で何か海の関係の仕事をしていた、という記憶はまるでないのだが、そういわれてみればそんな気もする。思い当たる節はいくつかあった。

そのひとつとして、私はほとんど船酔いというものをしたことがない。普通、船に強い、と自称する人であっても、小舟であればあるほど揺れはひどくなり、ときに気分が悪くなることがある。しかし、私の場合それをむしろ快感のように感じる。

子供のころ、山口に帰るたびに母方の従弟とあちこち遊びに行ったが、遊覧船などに乗る機会があるとき、決まって船酔いするのはこの従弟で、私はケロッとしていた。

後年、大学や仕事でいろいろな船にのったものだが、ほとんど船酔いをした、という記憶がない。留学していたころ、研究所の調査船で時化気味の海に出ることがあったが、同僚のインド人はゲーゲーやっていたにも関わらず私は平気だった。

さらに私は車酔いをしない。バスなどで長距離を移動すると気分が悪くなるという人も多いようだが、これまでの人生でただ一度ですら陸上の乗り物で酔ったことはない。

船や車に酔わないというのは自慢ですらあり、「揺れ」というものに対する耐性のようなものがあるようだ。これは明らかに今生で経験的に得られた能力ではない。

それに加えて、海に出るとやけに高揚とした気分になる。普段の生活のほとんどは陸上で過ごしているわけだが、時々妙に海のあるところに行きたくなるし、船にも乗りたくなる。

船の上で過ごすことを職業にしているわけではないので、その機会はそれほど多くはないが、たまにそうしたチャンスがあると、うれしくてうれしくてしょうがない。

こうしたことは、前世で何等かの海の仕事をしていたという傍証になるかもしれない。何か船に乗る職業についていた、あるいは何等かの形で海とか関わっていた、ということは確かなことのように思えてくる。

そのくせ水泳は苦手で、水の中に入る、というのはどうも子供のころから嫌いだった。まったくの金槌ではないが、どうも水の中に浸かっているというのが好きではないのだ。小学校時代に体育で水泳の時間があると、たいてい仮病を使って休んでいた、ということは先にも書いた。

さらに想像をふくらませてみると、もしかしたら、船乗りだった最後、乗っていた船が難破したか何かで、死んだのかもしれない。前世でそうした苦しかったことなどの記憶は現在までも持ち越されるという。今生でも何等かの障害を引き起こしたり、そうでなくても苦手とすることとして現れたりするらしい。

と、こうしたことを書いても、輪廻転生を信じていない人にはピンとこないだろう。論議があることは承知しているから、それが自分の進路を決めるためにまで影響していた、と断定するのはやめておこう。ただ、将来の進路を考えるにあたり、漠然としたイメージとして「海」を思い浮かべたのは、そうした過去生の経験と無関係ではないのかもしれない。

一方で、このころ海という分野で何かをやっていきたい、という気持ちが高まっていったのは、時代変化とも関係がある。

高校に入学してしばらしくてからのこのころ、ちょうど日本は高度成長期をそろそろ終え、次の開拓期に入ろうとしていた。その中で「海洋開発」という言葉がさかんに使われるようになっていく。

海洋開発といっても、いろいろあり、一般的には海底に眠る石炭石油などの化石燃料を開発することを指す。しかし、それ以外にも波や潮流を利用した発電、魚介類の増養殖、海洋水そのものの利用などがある。利用方法としては塩の抽出だけでなく、その他のミネラルや鉱物などの取り出しもあり、数多くの利用の可能性が取り沙汰されていた。

加えて深海の開発、という分野があり、水深が1000mをも超えるような海底には数々の未発掘の豊富な資源ある可能性が示唆されている。現在、深海底のシェールガスの開発などが話題になっているが、私の高校時代にも既にマンガン団塊や熱水鉱床、ガス田といった言葉が日々のニュースにも取り上げられるようになっていた。

アメリカはそうした分野のパイオニアで、アポロ計画における月面探査の成功のあと、海という新たな分野への取り組みに熱心であった。そうした情報がさかんに日本にも入って来るようになっていた。

日本は周囲を海に囲まれており、そこにある大陸棚の開発は大きな国益にもなる、ということで毎年、政府が積み上げる予算の中で、科学技術分野のその部分にもかなりのウェイトが置かれるようになっていた。

しかしこのとき私はまだ16~7歳だ。そんな国家的なプロジェクトに関われるとは思ってもいなかったし、何の能力があるわけでもない。ただ単に海に関わる仕事がしたい、と感覚的に思っていただけである。



もっとも、海を意識し、より具体的な進路─進学先を探り始めたのは、高校生活も2年を終えようとするころのことである。高校に入ってすぐのころはまだ遊びたい気分も強く、そこである部活動をやることにした。

写真である。

もともと興味があった。幼かったころ、「日光写真」というキャラメルのおまけに熱中したことは前にも書いた。それ以後、小学生時代には子供向け雑誌の付録についている「幻灯機」などにも興味を示した。

原理は簡単だ。いろいろな映像が刷り込んであるセロファン製の「ネガ」に後ろから豆電球で光を当てる。そのままだと大きく映らないので、フィルムの前にはプラスチック製のレンズが取付られるようになっていて、そのレンズで拡大された映像を壁に映して楽しむ。

ふすまなどの白い壁に映写するのだが、連続した映像を見るためにセロファンのネガは帯状になっていた。違う映像が何枚も印刷されており、帯を引っ張れば次々と映像が変わる、という仕組みだ。

日光写真をもう少し複雑にしただけのものだが、そのわくわく感は数段違った。小さな感光紙に白黒の映像が出てくるだけの玩具とは違い、より大きな画像が楽しめ、しかもカラーときた。その映像を見るために夜になるのが楽しみにしていたが、そのうち昼間でも押入れの中なら使えることを悟り、さらに熱中していった。

ちょうどこのころ、高度成長期にあった日本はそんなおもちゃではなく、本格的なカメラの開発に取り組むようになっていた。そうした中、のちに世界に冠たる有名カメラメーカーや電子機器メーカーになる会社が次々と生み出されていく。

オリンパスもその一つである。もともとは内視鏡などの医療器具を作っていた会社だったが、そうしたトレンドに乗ろうということで、カメラ開発にも力を注ぐようになっていた。

この時代、フィルムカメラの主流は、ブローニー判と呼ばれる大判フィルムカメラの時代から、35ミリ判と呼ばれる現在まで引き継がれる小型サイズのフィルムカメラへと移り、その全盛時代を迎えようとしていた。

そうした小型のフィルムカメラが普及した理由は、フィルムの製造コストが安くなったことと、小さなサイズでも高精度の映像が撮影できるようになったことである。

35ミリカメラで撮影した映像は、障子半分ほどの大きさの印画紙に印刷しても十分に鑑賞できるほど解像度が高い。またコンパクトサイズであることから、それまで大きいものではバケツほどのサイズであったカメラの大きさを弁当箱程度のサイズにまで小さくすることに貢献した。これは200年近くある写真の歴史を塗り替えるほどの画期的な技術であった。

一方、一般家庭で見る写真はそれほど大きくなくてもいい。せいぜい手札程度の大きさで十分であり、35ミリ版フィルムほどの解像度はむしろ過剰すぎる。

そうしたことから生まれたのが、ハーフサイズのカメラである。35ミリのフィルム一枚に、その半分の大きさの映像が2枚撮影できるというもので、24枚撮りのフィルムなら48枚、36枚撮りなら72枚も撮影できる。

カメラ自体がまだ比較的高価だったこの時代、このアイデアは庶民の多くに受け入れられ、ハーフサイズカメラは爆発的に普及した。

そのひとつが、「ペン」の名前で親しまれたオリンパスのカメラである。私が小学生の高学年になったころ、我が家でも父親が早速この「オリンパスペン」を購入した。

このころ、父の役職は主任クラスになっており、給料もそこそこよかったようだ。近くの雑貨屋で借金をしていた堀越時代に比べれば、裕福とはいえないまでもそうした贅沢品を購入できるほどになっていた。

ところが、このカメラ、所有者は父親なので自由には使わせてもらえない。ただ、購入当時は父が独占していたが、そのうち家族全員のもの、ということで、それぞれが必要なときに使う、ということになった。

しかし、それでも自分の好きなものを撮影することはできない。べつに共有カメラでも写真は撮影できなくはない。しかし、自分だけのマシンで世界を創造したい、というそこだけは妙なへ理屈を自分で作り、家是を捻じ曲げて、贅沢にもマイカメラが欲しい、と願った。

このころ、小学校高学年だった私の小遣いは月千円程度であり、それで買えるわけがない。そこで、息子にはいつも甘い父にねだったところ、思いがけなくOKが出た。

こうして生まれて初めて買ってもらったカメラはコニカ製だったと思う。プラスチックでできたボディーに、カートリッジ式のフィルムが付いている。カートリッジには12枚、24枚、36枚撮りの3種があったが、価格設定が高かったため、私の少ない小遣いでは12枚撮りぐらいしか買えなかった。

このため、一枚一枚を大切に撮ったが、もともとはフィルムカートリッジを売りたい商品であったため、カメラ本体の機能は大したことはない。レンズも単焦点で品質もよくなく、映りもたいしたことはなかった。それでも初めて自分だけのカメラを持ったうれしさで、肌身離さず毎日そのカメラを持ち歩いたものである。

最初は庭の花とかが多かったが、そのうち風景写真も撮るようになっていった。家族で出かけるときなどはフィルム代を親が出してくれるので、家族写真をサービスで撮ることも多かった。無論、余ったフィルムで自分の好きなものを撮影するのである。

このカメラにはキュービック状のストロボが付いていたため、雨の日や夜にも実験的に撮影を行うようになり、徐々に自分の写真のレパートリーを広げていった。




その後、家族用と位置付けられていたオリンパスペンも飽きたのか誰も使わなくなり、中学生のころ、ついには私が自由に使うカメラとなった。映りのイマイチなコニカ製カメラは次第に日の目をみなくなり、いつのまにか引き出しにしまいっぱなしになっていった。

もっとも中学時代の私は趣味が勉強のようなものだったので、あまり写真には熱中しなかった。ところが、高校に入学し、多少心に余裕ができたこともあり、もともと興味のあった写真に本格的に取り組むようになっていく。

中学校ではあまり本腰を入れなかったものの元美術部の私は、作画をする、ということに対しては依然強い興味を持っていた。絵を描くということに関しては挫折したが、写真という新たな分野ならもしかしたらモノになるかもしれない、などという恐れ多い野望を抱いた。

そこでまずはどんなカメラがあるのかを写真雑誌で調べはじめた。次にはそうしたカメラのスペックばかりを特集した番外編を購入して、徹底的に研究した。難しい用語はそうした雑誌についている用語集で勉強し、わからないことは本屋で立ち読みして理解に努める、という念の入れようだ。

もともと学習意欲がたかまると集中的にそれを勉強する、という性癖を持っていた私は、たちまちのうちに「カメラ博士」となっていく。

ところが手元にあるのは、ハーフサイズのカメラにすぎない。本格的なフルサイズの35ミリカメラ、しかもレンズ交換が可能な一眼レフカメラが欲しい。

この時代、日本のカメラメーカーが製造するカメラは世界的にみても最高水準のものになりつつあり、外貨を稼ぐ重要な輸出品となっていた。

それまでのカメラは、ライツに代表されるドイツメーカーのものが主流であったが、一般には被写体をとらえるファインダーと、実際の映像を取り込む光学系が二つある、いわゆる二眼レフやレンジファインダーといわれるカメラだった。

被写体を目で見て確認する光学系と、被写体からの光を取り込み、フィルムに落とす光学系のふたつがあるため、二眼などと呼ばれる。この方式のカメラの欠点はファインダーで見ているものと実際に撮影されたもの間に細かな差異が出てくるという点である。

「二つの眼」で被写体の方向を見ているわけであるから、眼で見てシャッターを押すまでには非常に短い時間であってもタイムラグが生じる。また、「眼と眼」の間にも僅かな距離差があるわけであり、ファインダー画像と撮影画像の間には小さなズレが生じることになる。

つまりはリアルタイムで撮影した画像が撮れないという点が最大の欠点であったが、これを解決したのが日本のメーカーが開発した一眼レフである。

今でこそ普通の技術になってしまったが、この当時は画期的なものであった。原理としては、ひとつのレンズで取り込んだ映像を、カメラ内部にある「鏡」で反射させてファインダーに取り込む。このことで実際の被写体を目で確認しながらシャッターを押すことが可能になる。

シャッターを押すと同時に、その鏡が跳ね上がり、その後ろにあるフィルムに映像が焼き付けられる、というものなのだが、書けば簡単に聞こえる。しかし、その鏡を瞬時に跳ね上げるためには高度な技術が必要であり、また鏡で反射させてファインダーで確認するためには「ペンタプリズム」という特殊なレンズが必要になる。

このレンズを世界に先駆けて開発し、それまでの主流だった二眼レフから一眼レフの時代を作るきっかけを作ったのが、旭光学工業という会社である。

のちにペンタックスと名前を変え、現在はコピー機などを製造するリコーグループに取り込まれているが、この当時は一眼レフといえばペンタックスといわれるほどに、その名をとどろかせていた。

ペンタックスのペンタは、言うまでもなくペンタプリズムからとったものである。五角形のことをペンタゴンといい、その形のプリズムだからペンタプリズムである。

のちにその特殊プリズムや跳ね上げ式ミラーの特許期間が切れ、国内メーカー各社がこぞってこの技術を使って一眼レフカメラを作るようになっていった。その中には戦前から軍需用の光学機器を製造していた日本光学工業(現ニコン)があり、ほかにはキャノン、ミノルタ、オリンパスといった現在までも続くほぼすべてのカメラメーカーが含まれている。

ちなみに、今はもうなくなってしまったヤシカやトプコン(東京光学)といったメーカーも一眼レフを作っていた。

とまあ、こうしたうんちくがスラスラ書けるほどに高校一年生のころにはもうすでに、どっぷりとカメラお宅になっていた私だが、いかんせん、現物がない。

そこで、それとなく父親にモーションをかけると、いつものように息子に甘い父が、それなら志望校に受かったお祝いに、と言ってくれた。もっともいますぐに、とういわけではなく、クリスマスあたり、と言われた。年末にはボーナスが出るのでそれを当て込んでの約束であり、とはいえ、それを聞いて飛び上がるほどうれしかったのを覚えている。

一方では、カメラを買ってやるという父の確約を取ったものの、ではどのカメラを買うかについては、かなり悩んだ。どこのメーカーのものも優れた製品ばかりだったが、最終的にはミノルタSRT101とアサヒペンタックスSPFという二機種に絞り込んだ。

両者の大きな違いはフィルムに露出を与えるための測光方式だったが、そのころ主流になりつつあった中央部重点測光方式のペンタックスを最終的には選んだ。これはファインダーの中央部に位置する被写体を重視し、ここの明るさを計測することに重きを置く、という方式だ。片やミノルタのほうは全フィルム面を平均的に測光するというものだった。

前者はとくに動きの速いものには有効であり、後者はどちらかといえば風景や人などの動きの少ないものの露出に向いているといわれていた。一眼カメラをまだ一度も使ったことがない人間がそんな聞きかじりの知識だけで機種をえらぶなど笑止だったが、スペックを見比べ、ああでもないこうでもないと悩んでいる時間は実に幸せだった。

こうして念願の一眼レフを手に入れるときがきた。白黒のデザインに赤字でPENTAXと書かれた化粧箱を手にしたときは天にも昇るような気持ちになった。

前述のとおり、一眼レフカメラの最大の特徴はファイダーとレンズという二つの光学系を一つにまとめることが可能になったという点であるが、これによりもう一つ大きな利点が生まれた。

それはレンズ交換が容易にできる、という点である。それまでの二眼レフなどでも交換レンズ式のものはあったが、レンズだけでなく、ファインダーもまたレンズに合わせて交換するか、何等かの方法でファインダー倍率を変える必要がある。

一眼レフの場合は、ファインダーで覗いている画像はレンズを通して直接入って来ているものであるから、レンズを交換すれば自動的にファインダーで見ている映像も変わる。使っているレンズを通してありのままの被写体を見ることが可能なのである。

レンズは撮影したい被写体に応じて自由に焦点距離が違うものを使うことができる。遠くのものを写したければ望遠レンズを、狭い場所で広い範囲を撮影したければ広角レンズを用意すればいい。つまり、交換レンズがあれば、飛躍的に被写体の対象が広がるのであり、一方、交換レンズがなければその最大の特徴を生かせないということになる。

私が買ってもらったペンタックスには「標準レンズ」というものが付いていたが、これは被写体が普通の大きさ、等倍に見えるだけのものである。対象とする被写体の幅を広げ、より作品のレパートリーを増やしたいならば、さらに視野を広げる広角レンズや、逆に部分を拡大して見ることのできる望遠レンズがあったほうがいいに決まっている。

現在ならば広角から望遠までの広い範囲をカバーするズーム式の交換レンズがかなり安価に入手できるが、この当時はまだ高価で、単体レンズを買うほうが安上がりであった。このため少ない小遣いを貯めて、最初に比較的安価な望遠レンズを買ったが、光学系が複雑になるため高価な広角レンズのほうまで手が出ず、こちらは少し父に援助してもらって買った。

こうしてカメラ本体に加え、望遠レンズ、広角レンズの三種の神器を手に入れた私は、意気揚々と写真部に入部した。二年生の初め頃だったと記憶している。

その部室というのが変わった場所にあった。一年生のときに入っていた木造の古い校舎の階段裏にあり、入り口は極端に狭くしかもドアの高さも背丈ほどしかない。階段下の空きスペースを使って無理やり作った部屋であるためと思われるが、そのために室内も狭く、4~5人も入るといっぱいになる。

それに加えて一人がやっと入れるほどの暗室がしつらえられており、それがまた部室を狭くしている要因だった。

北向きで薄暗く、窓も小さい。そうした環境の悪さもあったためか、部員数は少なく、同じ二年生が私を含めて3人、先輩が2~3人ほどしかおらず、一年生はいなかった。

私以外の二年生の名は今井君と小林君といい、のちに三年生が卒業した後は今井が部長に、小林が副部長になった。おまえが部長をやれ、という話も出たが断った。私自身はリーダーになりたいという気分はなく、むしろ自由に一人で好きな写真を撮りたい、というふうに思っていたのでその人事には何の不満もなかった。

一応、顧問の先生がいたと思うが、名前や顔も全く覚えていない。ほとんど部室に顔を出したことはなく、部員のやりたいようにやればいい、という考えだったようだ。

写真部に入って以降というもの、私の写真熱は日増しに高まっていった。そのころ撮影に最もよく使ったのは、フジフィルム製のネオパンSSSという感度400のフィルムで、駅前の写真材料専門店でまとめて買うと、かなり安くなる。

ほかにコダックのTRY-Xという同感度のフィルムがあり、はっきりとした輪郭の出るフィルムだったことから気に入り、その後常用フィルムとなった。

フィルムや印画紙などの購入費の一部は学校側から出るし、また現像液や定着液といったものの値段はそれほど高くはなかった。従って、少ない小遣いを圧迫するといったこともない。

かくして今考えると「愚作」といえるような作品の量産化が始まった。部長だった今井君がありとあらゆる分野にチャレンジしていたのに対し、私はどちらかといえば風景写真専門で、いかに景色をきれいに撮るか、に重きを置いていた。

この点、絵と同じであり、その作風には性格が出る。他の人が動きのあるものや人物を対象として選ぶ一方で、私はというと一人で対象とじっくり向き合える形を好んだのはそうした性格としかいいようがない。

もっとも風景写真だけでなく、学校の行事についてもよく撮影した。バレーボール大会や体育祭といったスポーツ系の行事だけでなく、文化祭や修学旅行といった行事でも必ずといっていいほどカメラをぶら下げていた。また日常的にカメラを教室に持ち込むことが許されていたことから、ことあるごとにクラスメートを撮影するようになった。

その中には今の奥様も含まれている。のちに結婚をすることになるわけだが、ただ、このころはまるでその人には関心はなかった。従って彼女だけを選んで写真を撮るといったことは全くなく、この当時の彼女が写っている写真は数枚残っているにすぎない。

興味はなかったが、ただ面白い子だな、という印象だけは持っていた。この高校では「班」を編成し、そのグループ毎に課外活動をする、ということを奨励していた。それが何の意味があるのかは考えたこともなかったが、今思うに、おそらくその後社会に出たあとのコミュニケーション能力を養わせるという意図があったのだろう。

それはともかく、いわば「合法的」に異性と話ができる、というわけでこの班活動はわりと人気があった。何をやるかについては特に決められているわけではなく、グループディスカッションをしたり、共有日誌を書く、といったことをみんなやっていた。

班は二年間ずっと同じというわけではなく、一学期が終わる毎に総入れ替えする、というきまりだった。あるときこの未来の奥様と同じ班になることがあり、それをきっかけに会話をする機会が増えた。

といっても、何を話すでもなく、共通の話題といえば、お互い本が好きだったので、今何を読んでいるか、どんな小説がおもしろいか、といった話だったと思う。先方もそうだったようだが、こちらも異性としての魅力はとくに感ぜず、ただ背の高い子だなと思った程度だ。話の内容もまるで覚えていないことから、相手に合わせるほどのものだっただろう。

二年生の最後の学期前のことだったと記憶しているが、一度だけ彼女が年賀状をくれたことがある。そこには、次の学期になって班が変わっても、お互い無視などはしないようにしましょう、といった優等生的なことが書いてあった。

わざわざ年賀状にそんなことを書いてこなくても、と思ったが、年賀状をくれたこと自体がうれしく、またその親しげな文面に好感を持った。ただ、それ以上何も期待しなかったし、ましてや恋愛感情などはこれっぽっちも持たなかった。彼女と浅からぬ縁ができるようになるのは、その後高校を卒業してからのことになる。

二年生になってからの担任は岸本先生といった。名前を千紘といい、これは「ちひろ」と読むらしかったが、われわれは陰でセンコー、と呼び捨てにしていた。口の悪い友達は、それを「先公」と同じ意味で使っている風でもあった。

ちょっと変わった先生で、授業の合間に自分が学生のころにいかにバンカラだったか、という話をよくしてくれた。

そのひとつに、喫茶店に入って、誰が一番大きなものを持ち出してくるか、という遊びをやった、というものがある。友達とみんなで入り、お茶を飲んで店を出るとき、たいていはスプーンだのカップだの小さなものを持って出るのに対し、彼はトイレに入って便器を取り外しマントにくるんで持ち出してきた、という。

嘘かまことかわからないような話だったが、繰り返し聞かされるその話は皆の笑いを誘った。別のときには、映画館に入るときの話もあった。学生でお金がなかった彼は、入り口の発券売り場のおばさんの前に立ち、いきなり、うしろ!と叫ぶ。

驚いたおばさんが、後ろを振り向いている間に、さっと中に駆け込み、タダで映画をみることができた、という。しかし、同じことを何回も繰り返しているうちに、そのおばさんも呆れ、もう「うしろ」はいいからさっさと入りなさい、とタダで映画を見せてくれるようになったそうだ。

そういった過去の自分の蛮勇を、いかにも楽しそうに話す。同じ話を何度も何度も聞かされたが、聞かされるほうもあーまた始まったよ、と思いつつも、それを話しているときのセンコーの楽しそうな様子に釣り込まれて、ついつい笑ってしまうのであった。

専門は国語と古文で、とくに漢字について詳しく、国文学の知識があるらしかった。たくさんいる先生の中でもリーダー格で、たしか進学相談の責任者だった。そのためか、9つある学級の中で私たちのクラスはいの一番の1組を拝領した。のちに3年1組センコーズと仲間内で呼ぶようになる面々との出会いがそこにあった。



恋の話を少ししよう。

中学校の頃に好きになった彼女が同じ高校に入学してきた、と前に書いたが、その彼女とは、3年間を通じてついに同じクラスになることはなかった。入学後もその恋心を持ち続けたが、シャイな性格はあいかわらずで告白などできようはずもなく、瞬く間に時間が過ぎた。

時折校内で見かけるときにはドギマギしたが、何か行動に出るわけでもなく思いを募らせるだけだった。このあたり、後年結構大胆な行動をとるようになったのとは大違いで、初心(うぶ)そのものだ。

この点、ほかの同級生は大人びていた。ジャズやロックといった洋楽を聞き、うわさによれば酒もたばこも経験済みだという。さすがにSEXの話は聞かなかったが、あるいは私のような遅れている奴にそうした話は伝えられなかっただけかもしれない。

このころの私といえば、無論、酒やたばこなど口にしたこともない。洋楽などにはまるで興味がなく、強いて言えばフォークソングが好きで、ラジオから流れるそれを好んで聞いていた。楽器メーカーのヤマハが後押しするコッキーポップという番組があり、お気に入りだった。

この点、「先進派」の面々からみれば、素人臭いものばかりを聞いている、うざったいおぼっちゃんだったろう。やや小太りの体形で髪は七三分け。ニキビ面で、しかもいつもカメラをぶら下げているという風体は、まさに今で言うオタクである。後年、わが奥様から聞いた話からも、このころの私は男性としての魅力はゼロに等しかった。

ひと様に恋をして受け入れられるということ自体が不可能であることは明らかだったが、それを自覚するでもなく、ただひたすらに自分だけで作り上げた恋愛モードのラビリンスの中にいた。そこから抜け出せなくなり、もがき苦しむ姿は我ながらなさけなかった。

高校2年の秋のこと、受験の準備をそろそろ始めなければいけない段階になり、ようやくこの恋を終わらせよう、という気になった。もやもやとした気分では次のステップに向かえない、と自分に言い聞かせようとした。かといって直接話すことなどできようはずもなく、手紙を書いた。

中学時代からの同窓生だから住所は知っている。震える思いで彼女への気持ちを書き、ポストへ投函したが、そこには自分の気持ちに答えてくれるなら、来る彼女の誕生日に平和公園に来てほしい、と書いてあった。

彼女の誕生日は、10月15日だった。手紙を投函したその日からこの日までの長い長い時間が過ぎていき、ついにはその日を迎えた。

指定した時間は放課後の3時か4時ころだったと思う。早めにその場所に行き、5分待ち、10分待つ頃からもうあきらめムードが漂っていた。結局1時間ほど待ったが、彼女が現れることはついになかった。

奇しくもその日は、広島東洋カープが、球団創設以来の初優勝を飾った日だった。公園を後にして、八丁堀の繁華街を通ったときには、町中がお祭り騒ぎだったが、傷心の私にはそんな光景も目に入らず、ひたすらに肩を落として自宅へと帰っていった。

この時期、長い間の悩みに結論が出た、ということはむしろよかったのかもしれない。ようやく次の難関である大学受験へ目が行くようになり、このころから真剣に進路について考えるようになっていった。

しかし時すでに遅しである。

この学校はいわゆる進学校であった。このため、大学受験に備えるためにはできるだけ環境を変えないほうがいい、ということで2年次のクラスがそのまま3年次に持ち越されたほどだ。

2年に上がってすぐのころから、来たる受験に備えよ的な指導などもあったが、秋といえばそろそろ追い込みに入る時期であり、本格的受験勉強を始めるには遅すぎる。

しかも写真や恋にうつつを抜かしていたこともあり、このころの私の成績はといえばまるでぱっとしないものだった。理科系を志望していたくせに、国語や社会などの文科系のほうの成績がむしろよく、数学や物理化学の成績は低迷していた。

慌てて中学時代に通っていた塾の英語の先生、山川先生に電話をかけて数学の塾を紹介してもらい、通うにようになったが、前からこの塾に通っていた他校の学生のレベルに追いつくことができず、これも焼け石に水だった。

やがて3年生になると、受験までの時間は早回しとなり、あれよあれよという間に卒業が近くなっていった。無論この間、体育祭や文化祭、修学旅行といった大イベントはあり、あいかわらずカメラをぶらさげてそれらの活動に参加してはいたが、こと勉強に関してはどうしても集中できなかった。

親に頼み込んでお金を出しもらい、通信教育も受け始めたが、意思の弱さが露呈し、埋めて返すべき答案用紙は空白のままうず高く積み上げられていった。

このころ、妙に熱っぽく、体がだるい、ということが続いた。あいかわらず学校までは歩いていく、という生活を続けていたが学校から帰ったあとも疲れがとれず、勉強もせずに寝込んでしまう、ということがままあった。

のちに分かったことだが、このころ私はどうも軽い結核にかかっていたらしい。のちに20代になって会社の健康診断を受けた際に撮影されたレントゲン写真には、肺にその名残らしい影が映っていると言われた。

就職後は体調もよく、その前の大学時代にも特段体に問題はなかった。調子が悪かったのはその高校時代の一時期だけであり、今思えばそのころ最悪の条件で受験シーズンを迎えていた、ということになる。

失恋をし体調もぱっとしない、という最悪のコンディションの中で受験への準備が始まった。それよりも、まずはともかく、進学する先を決めなければならない。

そこで、私が選んだ受験校には二つのタイプがあった。ひとつはもともとの目標である、海洋関係の学科がある大学で、もうひとつはカメラに関係し、精密機械工学の科目がある大学だった。

この時期この段階で一つの分野を選ぶことができず、分散してしまったという点、すでにもうかなりの混乱が見て取れる。しかも受験予定の学校は数校ではなく、6つも選んでいた。

海洋系が3つ、精密機械工学が3つであり、いずれもそのころの私の成績ではかろうじて受かるかもしれない、と目される大学だった。ただ、このうちのひとつ、東京の国立大学だけは受験倍率が30倍を超えており、受験する前から自分でもほぼ絶望的と分かっていた。

受かるはずもない大学を選ぶこと自体、計画性のなさがもう明らかなのであるが、もしかしたら…という一縷の望みに託したい気持ちがどこかあった。

受験予定の大学のうち、地方の国立大学以外は東京でまとめて受験することが可能だったので、これらの大学の受験日が近づくと、東京に宿を取って試験に望むことになった。

ただ、ホテルに泊まると高くつくため、父の東京のつてに頼み込んで下宿屋を見つけてもらい、短期間だけ滞在させてもらうことにした。

山手線のどこかの駅近くだったと思うが、薄暗くて陰気な下宿で、そこにはもう長い間受験のために下宿している同年代の若者、数人がいた。結局それら先住民とはほとんど接触をもたず、ほぼ引きこもり状態で受験を迎えた。

当然、この間も勉強もしなければならなかっただろうが、なぜかやる気にならない。今更じたばたしても同じさ、と開き直り、広島から持ってきていた小説を読みふける始末だ。

そんないい加減な受験体制で志望校に受かるわけはない。

結局、国立校であった2大学は予想通り落ち、かすかに希望をつないでいた精密機械工学系の3つもダメだった。




唯一合格通知が来たのが、一番行く気のなかった南海大学だった。

選んだ6校の中では一番レベルが低く、「万が一」ほかの志望校に全部落ちたら、というときのための「滑り止め」だった。しかしその万分の一の確率のくじが当たるとは思っていなかった。

このとき、失敗したな、と思った。もしこの大学を選んでいなければ、今年の受験は全滅であり、だとすれば、一年間浪人させてもらえるかもしれない、という期待があったからである。

ところが受かってしまったために、両親にしてみれば、そこへ行かないなら何のために受験したのよ、ということになる。

とはいえ、私立校だったため二人にとっては大きな負担にもなることから、まさか進学はないよな、と高をくくっていた。ところが、のちに聞いた話では、両親は私に黙ってくだんのセンコー先生にアドバイスをもらいに行っていた。

高校二年の失恋後、私は次第に気難しくなり、自分自身の世界に閉じこもるようになっていた。両親ともほとんど話さず、この受験にあたってもそれらの志望校を選んだ詳しい理由も伝えていなかった。

そのほとんどに落ち、困った両親は、最後の砦となったその大学に息子を通わせるかどうかの判断が得たかったようだ。気難しくなっている本人には確認もせず、担当教員に相談に行ったのはそのためだ。もっともその前に、私からも浪人させてくれ、と頼んではいた。しかし、あまりいい顔はされず、結論は先送りになっていた。

このとき、両親からの相談を受けたセンコーの答えは浪人はさせず、進学させなさい、だったようだ。だが、どういう論理でそう決めたのかについては、何も伝えられず、学校から帰った私に対して父はただ、進学しろ、と迫った。

一方、浪人をしてよりランクの高い志望校への入学を模索していた私は反発した。無論、センコー先生のアドバイスがあったことなどはまるで知らされていない。が、なぜか強気に進学を宣言する両親をみて、これはあきらめるしかないな、と次第に思うようになっていった。

このころの私は疲れ切っていた。失恋問題に加えて受験の失敗、そしてまだこのころ尾をひいていた体の不調…

結局はもうどうとでもなれ、という気分で、いやいやながら進学することに決めた。

その進学先は広島でもなく東京でもない。これまで一度も行ったことのない、縁もゆかりもない土地、静岡であった。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 5 焼津

進学先を決めたあと、卒業までの日にちはほとんどなかった。

3月になると、クラスメートがそれぞれどこの大学に合格したか、といった情報がぽつぽつと流れてくる。あいつはどこに受かった、あそこを落ちた、といった話が授業の合間にささやかれていたが、私は自分がどこに進学するかはあまり人に話さなかった。

「三流校」という言葉がいつも頭に浮かんでいた。自分の進学先のことを話す友達たちの間をすり抜け、足早に家に帰る日が続いた。

正直なところ、この時期、何をやっていたのかはほとんど覚えていない。好きな写真を撮る元気もなく、うつろな時間だけが流れていた。起きている時間よりも寝ている時間のほうが長かった。病んだ体を、知らず知らず治そうとしていたのかもしれない。

やがて時は確実に流れ、卒業の時を迎えた。この卒業式も何があったのか全く覚えていない。体育館で卒業生全員が並んでいたことぐらいは覚えている。しかし両親が来ていたかどうか、自分がどんなふうに卒業証書を受け取ったかといったことはまるで記憶にない。ほとんど心身喪失状態だったといっていい。

その日もなんとなくクラスメートとも別れを告げ、3年間通い続けた学校を後にした。去り際に卒業出来てよかったとか、楽しい、あるいは苦しい3年間だったとかといった感慨はまるでなく、ただ単に、あぁ終わったんだ、という脱力感しかなかった。

卒業式が終わるとあわただしく広島を出る準備が始まった。母がいろいろ生活用品を揃えてくれるのをぼんやり見つめ、あれこれ説明してくれるのを半ば上の空で聞いていた。洗濯の仕方、料理の方法、といったことだったと思うが、どうでもよかった。

このころ、実際に入学する前、下宿先を見に行こう、と突然父が言い出した。なんでも満州時代の父の友人が大学の近くの町に住んでいるらしい。そこに泊めてもらって旧交を温めると同時に、お前の行く学校周辺の様子を見てこよう、息抜きにもなるし、というふうなことを言う。

父にすれば息子の進学先を無理やり決めた、といううしろめたさがあったのだろう。私はといえば、進学先についてはすっかりあきらめモードとなっており、まったく父に反応しなくなっていたから、そのことを気に病んでいたたに違いない。

私自身は別にそんな下見をしなくても、ぶっつけ本番でいいや、と思っていたから、少々ありがた迷惑に思った。が、父にすれば、最近落ち込み気味の息子を少しでも前向きにさせよう、という気持ちがあったのだろう。そう思い当たったら断れなくなった。

このとき新幹線で行ったのだと思うがそれすらも記憶にない。たぶん静岡駅で降りたのだろう、東海道線に乗り換えて父の友人宅からの最寄駅に着いたころには夕方になっていた。

ところがこのところ心身不調だった私は、この日はさらに体調を崩していた。二人でタクシーに乗り、そのお宅に辿り着いたころには、高熱を発し、下痢気味のままそのお宅にお世話になる羽目になった。親切な一家で、年ごろの娘さんがいたと思う。お母さんと一緒に薬の手配や食事の面倒をみてくれ、ありがたく思ったことなどを覚えている。

大学のあった焼津は、その家から目と鼻の先であった。手厚い看護で体力を取り戻した私は翌朝、父とともにバスを乗り継いで現地に赴き、大学とその周辺を視察した。

第一印象は、とんでもないところへ来てしまったな、というものだった。下宿のある周辺は田んぼと畑ばかりで、そのまわりに民家がぽつぽつ。店らしいものは何もなく、そのかわりにあちこちあるのは町工場と製材所の類だ。

あとで知ったのは、そこは石脇という集落で、昔、そこに北条早雲が起居していた城があったらしい。ここから、バスに乗れば10分ほどで焼津の中心部に出ることができる。

この集落から北は、なだらかな丘になっており、「高草山」という領域になる。石脇はその山のふもとにあたり、山のほうへ向かって緑の茶畑が広がる。大学はその茶畑のさらに上のほうにあり、バスで曲がりくねった坂道を登って行った終点にあるらしい。

父と二人、その連絡バスに乗ると、最初は茶畑の中を走っていたが、そのうち、うっそうと茂った雑木に左右を囲まれた道を分け入って進んでゆく。こんなに山奥か、とだんだんと不安になっていったが、そうこうするうちに目の目が開けてふたたび茶畑が広がり、バスが止まった。

バスを降り、そこから校舎らしい建物のほうへ歩いて行き、振り向いたが、その瞬間驚いた。目の前にはたおやかな斜面を利用した茶畑やミカン畑が広がり、その先には茫洋とした駿河湾が広がっていた。はるかかなたには三保半島らしきものが見える。キラキラと輝く駿河湾は織り上げたばかりの絹のようで、その美しさに思わず息をのんだ。

この大学が高台にあることは知っていたが、まさかこれほどの景色を持っているとは知らなかった。これ以降の2年間、その景色を日々堪能しながらの学生生活が始まることになるのだが、そのときの駿河湾の美しさはその後の生涯でも忘れることのできないものとなった。

ところが、である。キャンパスを後にし、ふもとにある下宿先を見学した時には正直唖然とした。

その下宿は三洋荘といった。40人ばかりが入居できるアパート二棟からなり、大学までは目の前のバス停から毎朝定時に便が出ている。入居者には個室が与えられるが、広さは3畳ほどしかなく、収納スペースはほとんどない。風呂とトイレは共用で、とくに風呂は大浴場といった趣で、大きなバスタブに皆が共同で入る、といったものだった。

食事は朝夕まかないが出るが、昼は自分で用意することになっており、そのための自炊スペースがあった。既に先輩の学生たちが暮らしており、その生活ぶりを垣間見ることができたが、なんというか貧乏くさかった。これまで家族以外の人間と暮らしたことのない私が、はたしてこんな世界に溶け込めるだろうかと一抹の不安を覚えざるを得なかった。

父もそんな私の様子をみて心配になったのだろう。大丈夫か、と声をかけてきたが、即答でなかなか気に入った、と嘘を言った。わざわざ休みを取り、息子のためにとここへ連れてきてくれたことへの感謝の思いからだったが、内心は泣きたい気持ちでいっぱいだった。

その後広島へ帰り半月ほどが経ち、再び広島を離れる日を迎えた。だが今度の旅は短期間ではなく、かなりの長期間になるはずだった。15年超住んだその町は、その日やけにもやっていた。晴れてはいるのだが空気がよどんでいる感じがしたのは、あるいは私の心象風景だったかもしれない。

既に荷物は静岡に送ってしまっていたから手荷物はわずかだった。駅までは母が見送りに来た。平日で父は仕事に行っていたと思う。

新幹線ホームでしばらく待っていると、私が乗る列車が来た。母を見るともうすでに泣き出しそうな顔をしている。私は悲しくなんかないぞとばかりに笑顔でこれまでのことの礼を言おうとしたが、うまく言葉にならない。車両に乗り込み、窓越しに母を見るともう泣いている。

私はもう一度精いっぱいの笑顔で手を振った。やがて発車し、ホームに立ち尽くす母が遠ざかっていく。と、思わず大粒の涙が出て、そのあとしばらく泣いた。平日のその時間、車内はまばらだったから、号泣するその声はおそらく誰にも聞かれなかっただろう。




こうして私の大学生活が始まった。

といっても、町中にある大学のようにはいかない。ちょっとしゃれた服を着て、小ぎれいな靴を履いて出かける、などということはありえない。夏ならほぼ全員がサンダルを履き、上はTシャツで下はGパン、時には半ズボンを履いて通学、というのが標準だった。

もう少し身なりに気を付ければいいのに、といわれそうだが、どうせ通学路は農道である。下宿そのものが畑のど真ん中にあり、そこを出ると一面の茶畑が広がる。その間を縫うようにして農作業用の道が山の上のほうに伸びており、これをせっせと登攀するとキャンパスに行きつく。上りは片道30分ほどだったろうか。下りは逆にその半分程度で済んだ。

親からはバス通学できるほどの十分な金はもらっていたが、節約して別のものに使うことにした。奇しくも小中高で貫いた、歩いて学校へ通うという習慣がここでも続くことになった。

下宿であてがわれた部屋は、一階の真ん中ほどにあり、窓を開けるとそこは生活道路を挟んで一面の畑であり、眺めはさほど悪くはなかった。寮母一家がともに住んでいたが、優しい家族で、食事もおいしく、気配りができる人たちだった。心配した風呂も最初はとまどったが、他の寮生と同じバスタブに入ることにもそのうち慣れた。

友達も次から次へとできた。一番最初に声をかけてきたのは、隣の部屋の住人で菊池君という。岩手の一関出身で、東北なまりがあったが、すぐに打ち解けていろいろお互いの境遇を話すようになった。

自転車とジャズが好き、ということで、自転車のほうはとくに影響は受けなかったが、後者のほうには興味がわいた。言われるままに彼のお気に入りを聞いているうちにいいなと思うようになった。

ほかにも、友人がたくさんできたが、その後長い付き合いとなった者も多い。出身地はというと、東京、千葉などの関東圏がやはり一番多かった。

しかし、北海道や鹿児島、新潟や岐阜といった地方からやってきた連中もおり、日々いろんな方言が飛び交う。私の出身である広島や山口の人間はいないのが残念だったが、逆に同郷者がいれば、小さな閥ができてしまった可能性もあるわけで、それはそれでよかったと思う。

父と最初にここを見たとき、大丈夫かなと心配したものだが、そんなことがあったかな、と思うほどにすぐにこの寮生活には慣れた。というか、毎日が楽しく、いろんな連中と色々な共通の楽しみができ、そのひとつのきっかけが、工藤君という一人の寮生だった。

現在もそうだが、この当時も未成年者の喫煙は禁じられている。ところが彼は、一目をはばかることもなく、おかまいなくタバコを吸っていた。しかも日に一箱は軽く開けてしまうほどのヘビースモーカーだったから、そのうちみんなから「ヤニ」と呼ばれるようになった。

いったいいくつの時から吸っているのか、ついぞ聞いたことはなかったが、北海道のかなり田舎のほうの出身だと教えてくれた。おそらくは育った場所柄、未成年者も喫煙しやすかったのだろう。地方のある地域では、子供のころからタバコに寛容な地域がある、と聞いたことがある。

道人らしくおおらかな性格で、来るものは拒まない、というところがあった。このため、彼の部屋にはなぜか人が集まることが多く、一種の社交場のようになっていた。

学校から帰ると真っ先にみんながそこに集まる。ヤニはそれを嫌がるでもなく、自ら入れたコーヒーを振る舞ったりするものだから、その評判を聞いた連中がまた集まる。一種のサロンのようなもので、学校から帰ってきたらまずみんながその部屋に来るようになった。

普通ならプライバシーの侵害の問題だ、と本人が拒否しそうなものだが、自分の部屋に大勢の連中を抱えていること自体が、この人物にとってはうれしいらしい。有志の巣窟、梁山泊が彼氏の理想のようだった。

ヤニの部屋に出入りするのは、毎日は来ない連中も含めて最初は7~8人程度だったろうか。
そのうち友達が友達を呼び、この寮に住んでいる以外の住人も遊びにくるようになり、多いときには狭い部屋に10数人もの人間がつめかけたこともある。

こうしてこの不思議なサロンに大勢の寮生が集まるようになり、最小はただ単にダベっているだけだったが、誰ともなしに暇だからトランプをやろう、ということになった。

はじめは、誰もがやったことがある、ババ抜きやざぶとん、七並べといったものだったが、やがて、ポーカーや大貧民などの複雑なものになり、これにみんな熱中した。我々のグループ─そのころはもうすでにそうした雰囲気があった、は麻雀などにはまるで興味を示さない面々ばかりで、ある意味同質の人間が集まっていた。

割とおとなしくまじめ。勉強もまあまあできて羽目をはずさない、といった連中で、無論、私もそのカテゴリーに入っていた。梁山泊のように、優れた人物が集まっていたかどうかははなはだ疑問だが、近い性質の人間が集まっていたことは確かであり、類が友を呼ぶ、というとはこのことだ。



一方、学校の授業はというと、つまらなかった。この学校は独特のカリキュラムを持っていて、1~2年生はこの山の上にある焼津校舎で「教養課程」を学ぶ。3年になると浜松に移り、専門課程を学ぶという決まりだった。

教養課程の教科の中には、測量や土木工学の基礎といった専門分野もあったが、基本的には基礎教養をつけさせる、という方針だった。このため、第二外国語や美術、体育などの授業もあり、私は第二外国語でフランス語を選択し、体育ではゴルフや柔道を習った。

フランス語はほとんどお遊びのようなもので、授業を受けた後も全く上達しなかった。体育の時間も同様だったが、初めてやるゴルフは新鮮で面白かった。

意外だったのは柔道で、担当の先生から、君は本格的にやればうまくなるよ、と言われた。南海大学は、オリンピックでメダリストを輩出するほど、柔道教育に熱心な大学である。こうした体育の授業にもかなり名うての先生が就任している。

その先生から、柔道がうまくなる、といわれて悪い気はしなかったが、体育会系のその方面へ行く気はさらさらなかったので、その助言は無視することにした。同じ寮に柔道部に属する友達がいて、入らないかと誘われたが丁重にお断りした。

一方、私がこの学校に来て、本当に学びたかったのは専門分野だ。かねてより海に関わる仕事のエキスパートになりたいと思っていた私は、もっと海洋に関する授業があると思っていた。しかし、焼津校舎ではそうした内容の授業は極端に少なく、しかも内容が薄い。

せっかく大学に学びに来たのに、この程度しか教えないのか、と不満でしかたがなかった。しかも、カリキュラムが極端に手抜きで、週間工程表をみると専門科目の授業はガラ空きだ。

受験して合格したのは土木工学科というコースだったが、ほかには海洋環境学科、養殖学科、資源学科、造船学科などがある。他の学科のカリキュラムの予定表をみると、一年次からもうすでに専門分野の授業がびっしりと組んであるではないか。

我々土木科には授業が全くない日もあるほどで、ほかの学科の生徒がせっせと授業を受けている間、あたかも遊んでいるかのように見られた。実際、他学科の学生からは「遊びの土木」と揶揄される始末だ。

数少ない専門学科の内容も、私からするとかなりレベルが低く、そんなことをここでわざわざ教えなくても、というものもあった。高校の地学程度の内容のものばかりで、大学という最高教育機関で教える内容ではない、と憤りもした。

一方、教養課程の内容も物足りなかった。そもそも第二外国語などは、卒業後に必ずしも必要なものではない。なぜ英語がないのだろう、と思った。また数学は、高校の授業で受けたものよりも程度が低く、同級生が首をかしげながら授業を受けているのを見て、なんでこれがわからないのだろう、といつも思っていた。

もともとは国立大学に入れるレベルにあった、と自負していた私にはすべてが物足りなく、ここに入学したのはやはり失敗だったと思いはじめた。入学を強要した父親の顔が改めて目に浮かんだが、こうした事態を招いたのも決断したのも自分である。父は責められない。ましてや高い学費を払ってくれているのである。

しかしそれにつけても大学の授業はつまらなく、レベルが低すぎる。もっと貪欲に学びたい、と思った。そんなふうな気分になったのは、中学校以来かもしれない。高校時代には勉学だけでなく恋愛にも挫折し、立ち直れないほど落ち込んでいた私の心の中にひさびさにムラムラと闘志がわいてきた。

いっそのこと別の大学に入り直してやろうかとも思ったが、新しくできた友達と過ごす今の寮生活もなかなか楽しい。こちらもなかなか捨てがたいな、と考えたあげく、そこでひそかにある目標を立てることにした。

それは、このままこの生活を続け、いっそのこと首席でこの学校を卒業してやろう、ということだった。

どうせ回りはバカばかりだ、ちょっと勉強すれば首席になんて簡単にとれる、と考えた。思い上がりもなはだしい、いやな奴だな、と自分でも思ったが、実際、それが可能と思えるほどに学科全体のレベルは低く思えた。

しかし、たとえレベルの低い学校でも、もしトップで卒業すれば、それに伴う代償がきっと得られるに違いない。その先のことはまたそのときに考えればいい、と考え直した。

こうして、新たなチャレンジが始まった。あいかわらず授業はつまらなかったが、それならそれでどんな内容でも吸収してやろうと燃え、前にも増して熱心に授業に対峙するようになった。大学の授業も高校と同じようにテストがあるものが多かったが、そうした機会にはできるだけ万全を尽くそうと、徹底的に研究して試験に臨んだ。

そのおかげもあり、大学一年を終わるころには、それまでに取得した単位のほぼすべてがAという成績を得た。

しかし一方では、周囲には自分がそれほどできる、ということも悟られないよう注意した。
私が所属していた学科はほとんどが男子学生で、こうした集団では、出来がいいやつはたいてい孤立する。中・高時代のように男女混交集団ならばそれも目立たないが、男ばかりとなると目の敵にされることも多くなるものだ。

実際、私以外にもできそうな奴はひとりふたりいたが、周りからはできのいいおぼっちゃん、といった目でみられ、孤立気味だった。周囲に溶け込み、周りと仲良くやっていくためには、「同胞」を装うのが一番いい。

そうした人間関係に割と敏感な私は、そうしたことにならないよう、適度にバカを装い、自分の成績はあまりひけらかさないようにした。しかしその一方で、学習が遅れている同級にはできるだけ手を差し伸べるようにした。それだけ余裕があり、自分の勉強時間はさほど必要としなかったためだ。

そのおかげもあり、クラスメートからは一目置かれるようになった。あいつ、バカなことを言っているけれど、なかなかできるみたいだぞ、みたいに思われていたと思う。

やがて、あいつに聞けば親切に教えてくれる、ということでほかの寮からも教えを乞う者が訪れるようになり、それに伴い別の学科からの訪問者も増えた。それまでは同質の人間とばかり遊んでいたが、そうした中から異種の友人がひとり、また一人増え、そのおかげもあってさらに新たな動きが生まれることになるのだが、それについては後述する。

首席で卒業する、という野望は結論から言うと結局達成できなかった。しかし、実際にはほぼそれに近い成績で卒業することができた。それに続く就職活動もその成績のおかげで順調だったが、そうしたことについても後で書こう。




話は変わる。

高校を卒業し、焼津で暮らすようになってから、最初の夏を迎えたころのことである。

大学の夏休みは長い。7月の半ばぐらいから始まって、9月の初頭あたりまで休校だからほぼ丸々二か月ほどもある。

おいおいこんなんでいいのかよ、とも思ったが、これほど自由で長い夏休みを過ごせるのは小学校以来のことである。せっかくだからゆっくり休もうかとも思ったが、何かアルバイトでもやったほうが、遊ぶ金にもできていい。そのころ、昔熱中した写真熱が復活しており、新しいカメラなども手に入れたかった。

焼津にもアルバイト先はたくさんあったが、休みのあいだ、静岡にいればそれだけ食費もかかる。それならいっそのこと広島へ帰れば食費も浮くし、両親も喜ぶだろうと思い、帰郷することにした。

久々に帰った広島の町は、それまでと違って見えた。かつて15年余り住んだ町と焼津の町を比べると、格段に広島のほうが都会だ。だがしかし、同じ学生でも高校生と大学生の視点の違い、とでもいうのだろうか、それまでわからなかった広島の欠点がわかるようになった。

第一に野暮ったい。当然ながら広島弁が飛び交っているわけであるが、この言葉は聞きようによっては下品に聞こえる。しかもその方言に比例して町もどこかバタ臭い感じがする。

八丁堀や流川あたりを歩いていると、街並みはきれいなのだが、ビルの陰などはゴミだらけで掃除が行き届いていない。ステテコを履いたおっちゃんや汚いなりをした子供が普通に歩いているし、気のせいか町ゆく人のセンスも遅れている。

タクシーだけでなく一般車両の運転も荒っぽいし、だいいち車が多すぎる。中国地方最大の町ということで隣県から多数の車が流入してくるためだが、街中を縦横に走る市電や、市内を流れる七つの川にかかる多くの橋がその交通を妨げている、ということもある。

加えて暑い。夏の間、日中の暑さは半端ではないが、それに加えて、夕方になると風がピタッと止まる。日中は街中のほうが海よりも気温が高いから陸から海に向かって吹く風が卓越している。

一方、夕方になって日が落ちると逆に陸上の気温が下がり海風のほうが強くなる。その両方が均衡する時間帯があり、その時間になると広島中の風が止まる。これが「凪」とよばれるものである。この風のない時間帯の広島の暑さは筆舌に尽くし難いものがある。

一般に広島の町は暑い、とよく言われる。もっともこれはこの凪のせいだけではなく、原爆が投下された町、ということでそのイメージが増幅されてきた、ということもあるだろう。実際には夏にもっと暑い町はたくさんあるわけだから、その分損をしているかもしれない。

とはいえ、戦後の復興期を経て広島の町はコンクリートジャングルになっている。加えて他県からの流入者の増加とそれに伴う車両の増加によって明らかにヒートアイランド化している。実際にも暑い町なのである。

その暑い夏の広島に帰ってきた私を無論、両親は歓待してくれた。久々に自宅で食べる母の手料理はどれもおいしく、帰ってきてよかったと思った。しかしその帰郷の目的は両親を喜ばせることだけではなく、アルバイト先を探すことである。

広島でのアルバイト先など一つも思い浮かばなかったが、父に相談すると、役所の取引先に聞いてみてくれる、という。

後日、紹介されたのは小さな測量会社で、仕事内容は測量補助ということだった。「補助」の内容は、測量士にくっついていって、見通しの確保のための藪漕ぎをしたり、スタッフ(測量用の棒)を立てたり、といった内容で、実際にやってみると思ったより重労働だった。

「補助」の意味は、測量機器を操る測量士のその先の見通しをよくする、ということであり、場所によっては川の中に入り込んだり急な山の斜面を登ったりで、山中を藪漕ぎしながら草刈りをしなくてはならない場合もある。それまであまり体を使うことに慣れていなかった私は、一日が終わると何もする気にならないほど疲れ切る、ということも多かった。

ただ、仕事はきつかったが、学ぶべきことも多かった。測量会社のアルバイトということで、現在自分が学校で学んでいることの延長戦にある実態を知ることができたのも大きい。

とはいえ、卒業後にこうした職に就くのかな、と思うと正直ピンとこなかった。測量屋になるために大学に入ったのではない。もっと大きな仕事をしたいためだ。アルバイトをしながら改めてそんなことを自分に言い聞かせた。

その後、大学が休みになると広島に帰省して、「外貨を稼ぐ」ことが習慣化した。大学の春休みは夏の次に長い。2年生の春にやったアルバイトは、芸北のかなり高い山の中にある林道でガードレールと作る、というものだった。作業内容はいわゆるドカチンと変わりなく、相当にきつかったが、体が鍛えられたし、仕事を通じて年配の土方達と仲良くなった。

いわゆるブルーカラーの人々が、いかに身を削って日銭を稼いでいるかを体験し、それまで机の上でしか知らなかった「土木」という世界の幅がいかに広いかを実感した。

その後も測量関連のバイトをいろいろ経験したが、3年生の夏くらいまでには、そうした仕事にも慣れ、いっぱしの測量助手になっていた。頼りにされ、広島を出て他県での仕事に駆り出されることもあり、一番遠くでは長野まで行ったこともある。



そうした中、2年生の夏のことだったと思う。ひさびさにセンコーズの面々で同窓会をやろう、という話になった。私はよく覚えていないのだが、卒業時に同窓会幹事、というのを決めたらしく、男女二人が任命されていた。

その二人のうちの一人が坂田君といい、もう一人がかの中山さんだった。かつて同じ班にいて、年賀状をくれた相手だ。ふたりがなぜそう決めたのかは知らないが、その同窓会は普通の飲み会ではなく、どこかで野外活動をやろう、ということになったらしい。

たぶん他の同級生の意見も聞いて決めたのが、「県民の森」というキャンプ場での同窓会で、これは市北部の山中にある。二人の呼びかけで、男女合わせて十数人が集まった。市内から電車で移動し、現地集合したが、高校卒業後1年以上たっての再会である。それぞれが大学生の板がつき、多少大人びたように見えた。

その中に幹事である中山女史も当然いたが、高校で毎日顔を突き合わせていたころと比べて、格段に変わったな、という印象を受けた。ベージュのトレーナーに黒いパンツといういでたちで、特段おしゃれな恰好をしているわけでもないのだが、妙に垢ぬけたかんじがした。とくに表情が変わって、きれいになったな、と思った。

高校時代には同じ班になっても特段意識もせず、親しくもなりたいとも思わなかったが、昔とは変わった雰囲気の彼女を見て、妙に心がざわめいた。

漫画チックに表現すると、キューピットの放った矢が、ズッキューンと心臓に突き刺さった、という構図だ。なんだこの気持ちは、と最初はとまどったが、それがしばらく忘れていた恋愛感情というものだと気づいたころにはもうすっかり彼女に夢中になっていた。

そのキャンプはたった一泊二日のものだったが、その間、それとなく彼女を観察しているうちに、さらに気持ちが高ぶってくる。しかし無常にも別れの時間は差し迫っていた。

みんなで楽しく過ごしたあとの最後、記念撮影をしようということになった。ただ、普通に撮ったのでは面白くない、ということで、人間ピラミッドを作って、それを撮ろうという話になった。

実は言い出しっぺは私だったのだが、それはもしかしたら間接的に彼女の手に触れられるかもしれない、という下心丸出しの発案だった。

無論、撮影者はこのクラス専属のカメラマンである私、撮影するカメラも自前のものである。三脚にカメラをセットして、セルフタイマーで撮ったが、その時の写真をみると、一枚目はシャッターがなぜか半切れで、私が左側下から二段目、そのすぐ上に大柄な彼女が崩れ落ちそうになりながら、かろうじて私の背中に手をついて乗っている。

ピラミッド崩壊寸前のタイミングで撮ったその写真はしかし、みんな笑顔で、いかにも楽しそうだ。青春してます、的ななかなかいい写真となった。ちなみにこの写真は、これよりはるか後の結婚式で使われることになった。

こうして大学二年の長い夏が終わろうとしていた。しかし、新たに火のついた恋の火種はそう簡単には消えない。

高校時代には引っ込み思案が災いとなり痛い目に遭っていた私は、ここでは大胆な行動に出ることにした。県民の森のキャンプの際、彼女から市内にある本屋でアルバイトをしている、と聞いていたので、そこに顔を出すことにしたのである。

彼女のバイト時間は昼間ではなく、夕方近くからで、これはこの時間帯のほうが時給がよかったためだろう。これを彼女から聞いて知っていた私は、あらかじめこの時間帯を選んでこの「犯行」に及んだ。

その本屋は八丁堀のアーケード街にあり、割と大きな店だった。最初、一階を探したが、ここにいないとわかると、二階にいるのだろうと見当をつけた。そこには学術図書などが置かれているコーナーがあり、ドキドキしながら階段の一段目に足をかけた。急いで上がってすぐのところにレジがあり、そこにいた彼女がこちらを見て、あらっ、と笑いかけた。

自分で仕掛けていたくせに、いきなりの再会なのでなんと答えていいか戸惑った。ぶっつけ本番でやればいいやと思ってはいたが、どう声をかけるかまるで何も考えていなかったのだ。咄嗟に、「ちょっと学校で使う専門書を買いに来てね」と嘘をついてその場を取り繕った。

そして彼女には関心がないようなふりをして、書棚を探り、海洋関係のかなり分厚い本を取り、レジへ持っていった。それを見た彼女が、「まあ、こんな高い本を」と言う。「学校でちょっと使うんだ。高いけれどしょうがないよ」と嘘八百の言い訳をしたあと、「ところで」と切り出した。

そして、「今回の帰省には車で帰ってきてるんで、もしもうすぐバイトが終わるなら、家まで送ろうか」と言った。

ついこの間、キャンプ場で親しく話をしたあとでもあり、流れ的には自然だったと思う。しかし、大胆にも車での初デートをこのとき自分の口から提案できるとは、思ってもみなかった。

これに対して彼女は、ちょっと考える風だったが、「じゃあ7時に終わるから、すぐ近くで待ってて」と答えた。

このとき、彼女の答えを聞いて、思わず、「しめた!」と思った。その時間までには30分ほどあっただろうか。夕方のことであり、また食事も取っていなかったが、腹が減ったのも忘れて、ひたすらに待った。

やがて車を止めた待ち合わせ場所に彼女は小走りでやってきた。緊張していたので彼女がどんな服装をしていたかはよく覚えていないが、ロングスカートをはいていたと思う。前回ハイキングスタイルで現れた彼女とはまた違う魅力があった。

このころの彼女の自宅は、市内北部の安古市というところにあった。彼女を乗せたあと、車を西に走らせ、市内で一番大きな川、太田川にぶつかると右に曲がって北を目指した。

正直なところ道順などはどうでもよく、いかに彼女とうまく会話ができるかに集中していたので、あちこちで道を間違えた。かなり遠回りをしたが、その分彼女と長い時間話ができてありがたかった。

もっとも、彼女は道を間違えたことなどまるで気づくそぶりもない。いつもはバスを使っているので、乗用車での移動はあまり経験したことがないのだろう。

車中、彼女との会話の内容は、お互いの学校のことや家族のことなど、当たり障りのないことばかりだったと思う。40分くらいだったろうか、その楽しい、というか妙に舞い上がった気分の時間はあっという間に過ぎた。

別れ際に手を振る彼女を笑顔で返しながら、自宅のある東部を目指して黙々と取って返したが、心の中は高揚していた。そしてこの恋、ぜったいうまくいく、大丈夫、と自分に言い聞かせた。

やがて夏が終わろうとするころ、私はひとり静岡に帰って行った。彼女を送っていった車は、そのころ中古で買ったもので、白いセダンのジェミニだ。車好きの私はその後何台も乗り継ぐことになるが、いすゞの車はこれが最初で最後だった。そして、彼女との恋もまたそうなる運命にあるはずだった。はるか遠い先の未来のことがなければ…。

恋をしている身には、一分一秒が長く感じるものだ。ましてや秋。静かに深まる季節の中、ふたたび彼女に会いたい、声が聞きたい、という思いも日に日に深くなっていく。しかし物理的な距離に加えて、彼女と新たな接点を持つ手立ては今のころなに一つない。

電話番号は教えてもらっており、同窓会の日時の確認などで以前一度電話をしたことがある。しかし、そのときは不在だった。今回も電話してみようかと思ったが、夏に会って以来、数か月が経っており、いきなりの電話は不自然だ。

どうしよう、こうしよう、と考えているうちに、また再び、高校時代と同じ迷宮に落ち込んでいった。もがいても逃げられない恋の罠というヤツだ。

そして考えあぐねた末に出した結論はやはり、手紙だった。

高校時代にあれほど痛い目にあった方法でしか思いを伝えられないのは、どれほど不器用なのだろう、とこのときも思った。しかし他に打つ手立てもなく、彼女宛ての手紙をせっせっとそれこそ徹夜で書き、翌日投函した。

しかし、一週間経っても二週間経っても返事はこない。その手紙には、またお会いしたいといったあたりさわりのないことを書いていたと思う。そのため返事の書きようがないのか、などと都合のよい解釈をし、さらに待つことにした。

それでも手紙は来ず、一ヵ月ほどが経った。さすがにしびれを切らした私は、第二弾の手紙を書くことにした。最初の手紙とは異なり、好きか嫌いかはっきりしろ、とまではいかないまでもそれに近いことを書いたと思う。

それに対して今度はわりとすんなりと手紙が帰ってきた。たぶん1週間かそこいらだっただろう。おそるおそるそれを開けると、そこには短い文章が書かれており、末尾にあったのは、予想通りの “No!” の文字だった。

それまでの相手の反応をみて、もしかしたら、とは思っていたが、案外とストレートなその返事に、正直なところ、やられた!ぐらいにしか思わなかった。失恋も二度目になるとだんだんとそのダメージが小さくなるものなのかもしれない。

このとき、何をとち狂ったのか、私はさらにそれに返事を書こうとした。しかし相手の強烈な否定の手紙に対して、書いて返す言葉は容易にはみつからない。半日考えた挙句、引き出しに入れてあった年賀状用のゴム版を持ち出し、そこに大きな文字を彫り始めた。

やがて出来上がると、赤い絵の具を筆につけて版に塗り、用意してあった便せんを重ねると馬連で伸ばして一枚の「手紙」を完成させた。この間、わずか30分ほどの作業だったと思う。息を切らすほどのスピードで刷り上げたその手紙を両手で持ち上げると、そこには、赤い「合格」の文字があった。

実はこの手紙、その後再び日の目を見ることになるのだが、このときはそんなことは思いもよらない。

現在の妻の引き出しの奥深くに30年間密かにしまってあったその手紙には、このほかに「人生二勝一敗」と書かれていた。

一敗は彼女に振られたことへの意趣返しのつもり、二勝はこのあとその倍ほどの恋を勝ち取ってみせるぞ、という意気込みを込めたつもりだったが、「合格」の印字と同じく、要は単なる照れ隠しにすぎない。

それをどう彼女が理解したかどうかは知る由もなかったが、出す必要もないこの手紙を出したことこそが、その後何十年も経ったあとに意味を持ってくるのだから人生とは不思議である。

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